“勝利”とは、何だ? “栄光”とは、何だ? それを得れば、何も失わずに済むのだろうか 救えるのか。守れるのか。本当に、幸せになれるのだろうか  問いは切実。なぜなら、勝利というものはとても恐ろしいものだから。それが輝きの内に秘めている毒牙を、俺は誰より痛感している。  身の丈を超えた栄誉、使い切れないほどの大金、人目に付かざるを得ない大成功……そういったものはどうしても過剰摂取してしまった〈途端〉《とたん》、逆に所有者を苦しめにかかる。  つまりは反作用。  分かりやすいところでは敗者からの妬みつらみに有名税、人物像の一人歩きに、あらぬ期待や噂話。過激なものでは殺害予告、崇拝脅迫などなどと……  悪意か、あるいは逆に暴走した善意ゆえか。どちらにしても恐ろしいことには変わりなく。  それは時として単純な敗北を上回る激痛と化し、更なる破滅の呼び水となる。  大きな事業が成功した代償に、愛する家族に累が及べば本末転倒。それと同じだ。  時としてここは負けておくだとか、少し遠慮をしてみせるとか、そういった配慮が必要な瞬間は間違いなく存在している。勝てば官軍とは早々いかない  無論、だからといって勝利するなと言っているわけでもないのだ。そんなことを真剣に語るやつは心底馬鹿だし、目が曇っていると言う他ない。  人ならば誰しも、いいやどんな生物であろうと例外なく勝利という結果を目指す。それが自然で、当たり前の行動原理だ。そもそも負けてばかりでは生きることさえ難しく、無制限に敗者を許してくれるほど世の中は甘い形に出来てはいない。  だからそいつの器に見合った勝利と、妥協できる程度の敗北。その〈一線〉《ライン》を見極めて行動するのが充実した人生を送るコツではなかろうかと、思わざるを得ないのだ。  大きな夢を目指すことで惨めに敗れるくらいなら、最初から挑戦せずにそこそこの勝負で済ませておくのが最も賢く、傷も浅い……と。  反吐の出そうな弱者の論理展開だがこれを口にしているやつは存外多く、かくいう俺もその一人。  卑小? 凡人? そうだな、指摘されてもその通り。自分自身でよく分かっているよ。予め負けた時のために予防線を張っているだけだろうと誹られても、まったく、ぐうの音も出ない  そうだとも、俺は小物だ。  人としても男としても、小さな器しか持っていない。  大した理想や信念もなくその日暮らしの金銭さえ手に入れられれば満足という、翻弄される風見鶏。  受動的、かつ厭世的。ただ一言、情けない。  けれど──  それでもただ一つ、言い訳をさせてもらうなら悟ったまでの〈人生〉《プロセス》について具申したい。  俺は何も負け続けたからこうなったわけではなく、求めてもいない〈勝〉《 、》〈利〉《 、》のせいでこうなってしまったのだから。  そう──勝てば〈碌〉《ろく》なことにはならない。  必ず、より強大な姿となって次の苦難が訪れる。  それは冗談みたいな言葉だが俺にとっては紛うことなく真実だった。  本当に、ああ本当に、いつもいつも、いつもいつもいつもいつも……  敵に、任務に、難問に、勝負に、勝ったところで状況が一向に改善されない。それどころか、難易度がアップした状態で似たような事態が連続するという始末。まったく訳が分からない。  身をすり減らして勝った〈途端〉《とたん》、より恐るべき難題が必ず目の前にふりかかる。  〈血反吐〉《ちへど》をはいて生き抜いた〈途端〉《とたん》、どこからか容易に超えざる大敵が次は俺の番だと出現してくる。  まるで運命という宝箱をぶちまけでもしたかのように。際限なく湧き出てくる次の問題、次の敵、次の次の次の次の──〈勝〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈負〉《 、》〈わ〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈義〉《 、》〈務〉《 、》。  おまえは見事に勝ったのだから、栄光を手にしたのだから、次のステージに進むのは当然でより〈相応〉《ふさわ》しい争いに身を投じなければならないとでも?  それが勝者の宿命だから? ふざけろよ、こんな馬鹿げた話があるか  誰しもみな現状をより良くしたいから勝利や栄光を願うのに、なぜか俺に限ってはそれが自らの首を絞めていくのだから、不条理という他ないだろう。  そして当然、凡人なのだから負けもする。いいやむしろ、何も出来ずに地を〈這〉《は》う方が多いくらいだ。  それが嫌だから〈研鑽〉《けんさん》を積み、慣れない努力に手を伸ばしたこともある。  けれど勝てば、決まって訪れる〈次〉《 、》の困難。永遠に脱出不能の蟻地獄。頭がどうにかなりそうだった。  そんな状態に置かれて尚不屈の意志を保てるほど、人の心は強くない。  だから、俺はもう十分だと疲れ果てて。  このまま、ただ流されて生きることを選択し。  自分が〈塵〉《ゴミ》だということを、嫌になるほど受け入れたのに。  けれど── それでも、守らなければならない子が出来たから。  彼女を救うために、このちっぽけな命を懸けると誓った。ゆえに後〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》と奮い立たせて、再起する。  一世一代、最後の博打。そして俺は何の因果か〈勝〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈い〉《 、》……  どうしようもなく“勝利”を手にしてしまったのだ。  それがすなわち、地獄への片道切符に変貌するということをついぞ甘くみたままに……  死神が呼び寄せられる。手に負えない艱難辛苦が訪れる。  守り抜くなど絶対不可能。勝者へは永遠に至れない。  なぜならそれこそ、彼に刻まれた宿命だから。  訪れる次の大敵──次の不幸。次の苦難。次の破滅。  掴み取ったはずの未来は暗黒に蝕まれたまま続行していく。  むしろ手にした奇跡を呼び水に、よりおぞましい新たな試練を組み込んで運命を駆動させるのだ。  それが“逆襲”と呼ばれるものの本質。  弱者が強者を滅ぼすからこそ成立する概念は、ゆえ逆説的に、勝利の栄華を手にしてしまえば執行資格を失ってしまう。  ……彼は永遠の負け犬、呪われた〈銀の人狼〉《リュカオン》。  常に敗亡の淵で嘆きながらあらゆる敵を巨大な〈咢門〉《あぎと》で噛み砕く、痩せさらばえた負の害獣。  次にやって来る狩人が更に凶悪な存在になると分かっていても、自分自身の宿命から逃れられずに〈足掻〉《あが》いている。  “勝利”からは逃げられない。  “勝利”からは逃げられない。  “勝利”からは逃げられない。 「ならば────」  ──さあ、どうするか? 「──────」  判定────、 不適格。  ゆえに、そのいずれも〈吟遊詩人〉《オルフェウス》には〈相応〉《ふさわ》しからず。  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》は目覚めぬまま、物語は未だに幕を落とせずにいる。  新西暦1027年、21:47──  軍事帝国アドラー、首都炎上。  後に〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺と名付けられる焔の底、ここに地獄が存在していた。 「──────」  火の粉が、世界を血で染め上げている。  それは悲鳴と、怒号と、恐怖と、絶望。  この世に存在するありとあらゆる阿鼻叫喚を詰め込んだような、魔女の釜。  むせ返るような肺を焼く熱波の臭いに、彼はようやく目の前の現実を理解し始めた。 「嘘、だろ…… なんで、こうなるんだよ……」  搾り出した〈呟〉《つぶや》きさえ倒壊する建造物に紛れて消えた。  燃えているのは瓦礫と、人であった死体が含む油分だろうか。悪魔の拍手みたいにぱちぱちと音を鳴らしながら、耐えがたい臭気を伴ってあたり一面に充満していく屍骸の臭気。  剥離した油が舌先にこびりつき、高熱が皮膚を炙るかのように今も身体を焼いていた。  ああ、生の息吹が、此処には〈微塵〉《みじん》も存在しない──  熱い、痛い、苦しい──〈殺して〉《タスケテ》。ここまで来ると願うはもはや、〈苦界〉《げんせ》からの解放だ。現在進行形で深度を増す〈火傷〉《やけど》は、膿んだように四肢を侵す。  だが、それすらも刻まれた数々の傷に比べれば微々たるものという事実が、より絶望を煽っていた。  創傷裂傷死傷擦傷、そこに紛れていかなる理屈か凍傷まで混じっているという始末。端的に言って満身創痍。紛れもなく瀕死の姿だ。内臓も壊滅的とあるならばいよいよもって致命的というものだろう。  意識を保つことさえ限界に近い。発狂寸前の激痛が身体を襲っているからか、今なら子犬にじゃれつかれた衝撃でさえ死亡する決定打と成りうるはず。  天空には、真円を描く満月に──爛と輝く〈第二太陽〉《アマテラス》。  まるでそれは巨人の瞳。  覗かれている。大いなる何者かが、彼の破滅を慈しんでいるように見え。  頭がやられてしまったのか、そうとしか思えないのは現実があまりに魔的なものだから。  ならばこそ〈こ〉《 、》〈う〉《 、》祈らずにはいられない。 「────頼む、この子は」  正気を失った人間らしく、天へ向かって懇願する。  抱きかかえている少女を指して、彼は震えながら虚空を仰いだ。  ただ一心に、哀切を籠めて慈悲を乞う。 「俺の命なんてどうでもいいから……頼むよ、〈大和様〉《カミサマ》。 救えよ、ミリィを! どんな苦痛をくれてもいいから、この子だけは、どうか……!」  命を懸けて救うと誓った。自分のすべてを投げ打ってでも構わないと信じているし、実際そうした。  〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》──こんな性根の腐りきった、どうしようもない負け犬が。  そしてそのために、あらゆる過去を犠牲にした。それが真実。ならば今更何を迷うことがあるだろうか。  彼は捧げた……文字通り、何もかもを。  それは自らの積み上げた功績であり、信頼であり、仲間に友に思い出……居場所や未来だってそう。  その一つ一つ、どれを取っても軽いはずなど断じてなく、本音を吐露してしまうなら今も女々しく取り戻したいと願う心が、心の縁にこびりついている。  平凡な感性ほど取捨選択は重くなるのだ。  どこまでも俗な男にとって、それは肉体を切削する作業に等しかったはずなのに──  何度も迷い、嘆き苦しみ〈煩悶〉《はんもん》して、それでも譲らず選択した必然は臆病な男だからこそ何より重くなっている。  つまり、これが最後の宝物。  腕の中で眠る少女──ミリアルテ・ブランシェ。  彼の罪。彼の導。小さな優しい女の子。  彼女の存在こそ今や人生最高の重量なのは間違いない。  この命を救ってくれるなら信じていない〈大和〉《カミ》にさえ、恥も外聞もなく懇願できる。心臓を〈抉〉《えぐ》り出しても構わないと、一心不乱に〈奇蹟〉《きせき》を乞う。  だってこのままだと、もう〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》だ。二人は共に死んでしまう。  根性や勇気でどうこうできる領域など、とうの昔に過ぎている。  悲劇の幕は上がったまま……  出てしまった結果を覆したいというなら、後は奇跡に頼るしかない。 「お願いします──〈大和様〉《カミサマ》」  ゆえに、光よ降り注げ。  千年前の滅んだ神国──頼む、どうか、救ってくれ。  神様、神様、神様と、自らの不甲斐なさに涙さえ浮かべながら──ゼファー・コールレインというちっぽけな〈星辰奏者〉《エスペラント》は天を〈睨〉《にら》んで叫ぶのだ。 「〈高天原〉《タカマガハラ》より天下りて、〈火之迦具土神〉《ヒノカグツチ》の星へと集わん」  よってそれは、純粋であるがゆえに〈惑星〉《ほし》の使徒を呼び寄せる。  すなわち、事態は一向に好転の兆しを見せず。  地獄を作り出した元凶の手で、ここからさらに破滅的な絶望を演じるのだった。  まず、訪れたのは焼き尽くす爆風と熱波。  積み木のように粉砕される半壊した建造物群。  二体の影を発生源に同心円状へ広がる衝撃、狂乱する死を引っさげて〈禍〉《わざわい》の到来を告げてくる。  渦巻く赫黒──掴んだ兵の骨肉が、角砂糖の如く崩れて消えた。  吹雪く氷嵐──ものみなすべて、極寒に咲く華と散る。  ばらばらと、バラバラと──降り注ぐのは死体の雨。  血と内臓と肉片の混合物を〈撒〉《ま》き散らしながら、悠々とそれを浴びて進撃する奇怪な影が炎に映る。  それは鋼鉄から生み出された二体の魔星。  ありったけの災禍を纏う怪物が、己が性能を見せつけながら〈再〉《 、》〈び〉《 、》姿を現した。 「ああ…………」  だから彼らを目にした〈途端〉《とたん》、ゼファーは希望を捨て去った。  もう終わりだ、逃げられない。至極自然な道理としてここで奴らに殺されるのだと理解する。  〈足掻〉《あが》こうとすら思わずに、訪れる死を受け入れた。  この異形は何なのか? なぜ、どうしてこんな所業を行うのか? 一兵卒である彼に詳細は分からない。  目的、正体、まるで不明。前触れなく帝国領土内に出現して、絶大な戦闘力を武器にこの〈区画〉《エリア》を獄炎と死で彩ったという結果だけが存在している。  どこか有機的なフォルムに、無骨な鋼の入り混じった外見を有する二体は、生命体と人造物の両特徴が混じり合い、独特の気配を有している。  “鬼”と“姫”。一見してまったく別物に見える怪物は、紛れもない同種であり、ならばこそ疑問を感じずにはいられなかった。  軍に仕官して以来、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈無〉《 、》〈い〉《 、》。  他国が建造した〈星辰奏者〉《エスペラント》を凌駕する新型の自立兵器だろうか。それとも何らかの理由で目覚めた〈極東の遺産〉《ロストテクノロジー》であるか? あるいは、しかし、いやそもそもと──思ったところで事態は変わらず。  ゼファーも含めた帝国の精鋭たちはこれに挑み、塵のように虐殺された。そう、みんな殺されたのだ。一人残らず死んでいく。  誰一人、死の運命から逃さない。  刹那、それをさせじと炎を突き破るようにして出現したのは帝国の誇る〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》の一角──第九部隊・〈魔弓人馬〉《サジタリウス》。  異形を止めるべく帝国の威信をかけて奴らを止めるつもりなのだろう。突き進む二十三輌の戦闘兵器、履帯の音を鳴り響かせ突撃する姿はまさに帝国を守る鋼の勇者。軍人ならば斯く在れという勇猛さに満ちている。  稲妻のような音と共に砲撃の矢を放ち、進撃、進撃、不退転。  恐怖など欠片も見せず、敵のみへ向け突き進む。  そして彼らを援護すべく包囲射撃を敢行する五十七名の歩兵群。砲筒を握り締め、戦友に続けと高らかに銃声を鳴らす。  これ以上我らの国をやらせはせんぞ、化物ども──と生身の身体に勇気を灯し、〈無辜〉《むこ》の民を守るべく異端の怪物へと立ち向かう。  魔星を潰すがために命を懸けるという気概に覚悟。ゼファーの視界に入る前から交戦状態だったはずなのだが、未だ屈さぬ意志力は帝国兵のまさに鏡だ。  我が身、砕けようと構わない。命に代えても課せられた職務を全うすべく、捨て身の特攻を繰り出していた。  二部隊が誇るその必殺陣形を前に、しかし。  しかし──いいや、当然の如く。 「田畑ヲ壊シテ、〈糞〉《くそ》ヲ撒キ、皮ヲ剥イデ、馬肉ヲ散ラセ。  オオ、沈ムガイイ光ノ姉君──遍ク〈常闇〉《マガツ》ヲ呼ビタマオウゾ!」  ──魔星が唸った。  何事か、訳の分からない〈呪詛〉《じゅそ》を漏らしたその瞬間、すべての有利が消失する。  鬼面の全身から揺らめくように噴き出したのは、正体不明の〈歪〉《いびつ》な瘴気。  奴が有する悪魔的な〈星辰光〉《アステリズム》が紡がれて、界そのものに独自法則が顕現していく。  紡がれるは、道理の異なる異星概念。  地球上では実現できない不条理が、刹那に世界を〈軋〉《きし》ませて──  着弾と同時──ふっと、消滅する十重二十重の〈砲撃弾幕〉《クロスファイア》。  それはいかなる魔法か。鬼の体躯へ触れた〈途端〉《とたん》、鋼の火矢は夢幻の如く消え失せた。  全弾命中。そのはずなのだが、しかしそれは──  砕かれたり弾かれたというならば理解が及ぶ。力で受け止められたのならばもっと分かる。空気の層を突き破った弾丸の衝撃は、確実にさっきまで数百発の砲撃が現実のものであったと証明しており、それが絶大の破壊力を有してたのは紛れもない真実だった。  けれど結果はこの様だ。鬼面の巨躯に触れた〈途端〉《とたん》、まるで消しゴムにでもかけられたかのように質量ごと〈掻〉《か》き消された。  撃ち出した弾の破片一つ、どこにも存在していない。  隣の女型に比べればそういう〈明〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》な外見をしている以上、ある種の偏見、もとい予測が働いたのは仕方のないことなのだろうが、こんな結果をいったい誰が事前に当たりをつければいいのか。  突貫する車輌の中で、戦車長は束の間自然と忘我に憑りつかれてしまう。それは仕方のないことで──ああ、ゆえに。 「天に坐します我らが〈大和〉《カミ》よ──  さあ〈迷子〉《まよいご》たち、大人しく主の御許へ逝こうや」  その〈僅〉《わず》かな間が、兵の命運を決定付けた。  嬉々としながら、されど〈憐〉《あわ》れむように、怪物が自ら攻めへ打って出る。  ──そして、〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。  戦車が、兵器が、瓦礫が、すべてが。  慈悲深さを感じさせる〈呟〉《つぶや》きを残し、鬼面は姿を空へと消した。動体視力を振り切るほどの高速移動を駆使しながら、巨体に似合わぬ俊敏さで装甲連隊を〈蹂躙〉《じゅうりん》する。  爪が振るわれるたび、戦車の装甲ごと帝国兵が裁断された。  巻き込まれた歩兵が、四人まとめて潰れたトマトに早変わり。  〈血飛沫〉《ちしぶき》を〈撒〉《ま》き散らしながら、大地への染みへと変えられていく。  のみならず、纏っていた謎の瘴気がその痕跡さえ消滅させるという悪夢。  血の雨が、死者の肉片が、触れる先からそれこそまさに淡雪が如く。  生者、死者。有機、無機──自然物に人造物、あるいは恐らく大気でさえもその〈範疇〉《はんちゅう》に捉えたまま消していく。  もはや森羅万象の区別はなかった。あらゆるものは例外なく、鬼を満足させる餌か生贄。魔星からすれば〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》ような所作だというのが分かっているのに、髪の毛一本残ることすら許されない。  亜音速に迫る高速移動に加えて、暗黒の瘴気による絶対防御。  完成された攻、防、速の三要素がどれも揃っているために、誰も奴には太刀打ちできない。仮にあと二百輌の戦車がいたとて、傷一つつけることすら不可能だろう。  それは、ゼファーを含んだ強化兵──〈星辰奏者〉《エスペラント》がどれだけいても同じことだ。そもそも人間が敵う敵わないと論ずる領域にいなかった。  星の性質が違う──出力が違う。  未だ目に見えない深淵が、存在の格を突きつけている。  抗うことさえ馬鹿馬鹿しくなるほどの隔絶性。そしてそれは、もう一体にも当て〈嵌〉《は》まる。  怪物に並び立てるものなど自明、同位の怪物を除き決して他にはいないのだ。 「────醜い」  ぽつりと、感情のない言霊が漏れた。〈演劇〉《オペラ》を見飽きた淑女のように、気品のある仕草で前に出るのは鋼の仮面を備えた鉄姫。  表情は隠されているものの、内面の変化は如実。  人型の姿を見せる口元が、彼女の感情を明確に伝えていた。すなわち身に余る不快感を。 「下がりなさいマルス。あなたは少々遊びが過ぎる。 悠長に、いつまで玩具と戯れているつもりかしら」  害虫の駆除など早いに越したことはない──そう言わんばかりの声色は、何一つ人類の命を認めていないことの証左。  無価値。無意味。ゆえ根絶する──死に絶えろ。  暴虐に何かを感じている鬼と違い、鉄姫の内に熱はなかった。  つまり遊びがないのだ。ある意味、より〈真摯〉《しんし》な殺意の発露といっていい。 「では──」  戦場を凛とした冷気が揺らす。  いや、それは、言葉の通り外気温へと干渉して── 「────、っ」  麗しく唇が弧を描いた瞬間、ゼファーは大きく飛び退いた。  大腿筋の繊維がぶち切れて苦痛が身体を襲うものの、知らない、逃げろ。〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈駄〉《 、》〈目〉《 、》〈だ〉《 、》。  すべてが終わると確信し──ゆえにやはり、次の刹那。 「色は要らない。ただ透明に。〈煌〉《きら》びやかな熱のない結晶として」  見せつけるように、片腕をかざし──照準完了。  音を奏でるように、指先を躍らせて──冷笑絢美。  この場で生き残る人類種の捕捉を完了。死を刻み付けろと言わんばかりに、まるで施しであるかの如く一方的な〈裁定〉《シ》が紡がれる。 「私が奏でる星の光に包まれて、絶頂しながら凍てつくがいい」  宣した瞬間、天空を覆う大気温が絶対零度へ墜落した。  そして凝結と共に生まれる無数の〈種子〉《くい》。百、千、万と、空が落涙したかの如く、氷杭が〈驟雨〉《しゅうう》となりて炎の海へと降り注ぐ。  放たれた死の〈棘〉《とげ》は全方位に万遍なく襲来し、〈贔屓〉《ひいき》も区別もすることなく兵を平等に〈鏖殺〉《おうさつ》した。  ある者は脳天から股下まで串刺しにされ、ある者は心臓を貫通して地に縫われ、ある者は操縦席ごと押し潰され、ある者は針鼠のように、またある者は、ある者はと……凄惨に、容赦なく。  立ち向かってきた兵のみならず、自己の周囲に転がっていた死体の山にも向けられた凍結の洗礼  自分以外はその〈骸〉《むくろ》さえ目障りだという対応は、そこに命の尊厳だとか、死者への弔意というものがごっそり根から欠け落ちている。  薄汚く汚らわしい。自分がそう思ったから消えろ邪魔だと〈傲慢〉《ごうまん》〈不遜〉《ふそん》。  魔の星光を見せつけながら口元に描くは〈愉悦〉《ゆえつ》の笑みで、陶酔したように漏れる吐息はぞっとするほどの美しさに満ちていた。そして。 「咲き誇れ」  〈仮面の令嬢〉《マスクレディ》の意を受けて萌芽していく氷の樹木。臓物を〈零〉《こぼ》す〈骸〉《むくろ》がグロテスクに砕かれたまま、永遠に保存されていく。  幹が生えた。枝が伸びた。領土を延ばす氷結の星。着弾点から結晶のように華が咲き──殺害した兵を内包しながら氷の花園を現出させる。  気づけばそこは、〈屍骸〉《けっしょう》の見本市だ。  戦車も人も例外なく、あらゆる者が死の瞬間で凍てついている。    ガラスより遥かに高い透明度を誇る氷は、溶ける兆候を一切見せない。それはこの〈氷塊〉《ひつぎ》が外気の影響を受けていないからであり、熱力学の法則を完全に無視していることの証明だった。  鬼面の瘴気とは違い、原理は確かに分かるだろう。しかし温度を下げたと理解できるからこそ、逆にその凄まじさが浮き彫りになっている。  いったいどれだけの星の力を高めて放てば、こんな芸当が可能となるのか。ゼファーは想像さえできないのだから。  そんな攻撃を避けることが出来たのは、直感というわけではなかった。  単に一度、そうつい先ほど、これに巻き込まれかけたからだ。予備知識の有無が、単純に生死を分けただけなのである。  そう、なぜならこの攻撃があったからこそ──  自分は部隊は、見捨てる猶予を得て──  彼女のために、もう二度と── 「ああ、幸せでしょう劣等種。これで貴様は見目麗しい氷結の華……老いせず、朽ちもしない、〈標本〉《えいえん》の一部となれたのだから」  生前の兵へ向けていた侮蔑が嘘のように、微笑みを浮かべて鉄姫は死の標本を愛でている。  その心理、人外の者が抱く情動がどういったものに関してかはまったく分からないものの、奴の〈能力傾向〉《コンセプト》がどういうものかは徐々に見当がついてきた。  こいつらは確かに隔絶しているものの、それは桁違いの〈出〉《 、》〈力〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》だ。極論、規模そのものが違っているから別物に見えるのだ。  その証拠に、星光に顕れる六つの特性に関しては、〈星辰奏者〉《エスペラント》の操る星と同じ区分が当てはまる。  たとえば──前者の鬼面が最も長けているのは、間違いなく“付属性”。  全身に異能を纏わせるにはまずその素養が不可欠であり、次にそれを長時間展開していることから恐らく、高い“維持性”をも有しているはず。  他の特性四つについては未だ確証がないものの、間違いなく“干渉性”は低いだろう。  あの黒い霧が自然界に存在しているとはどうしても想像できず、また離れた地点に生じさせてはいないことから、恐らく不得手と判断できる。  対して、後者の鉄姫は“拡散性”を主体にしながら、他も軒並み高い値を出しているのが見て取れた。  少なくとも鬼ほど尖った性質を有していないのは確実で、氷を固めて使ったこと。氷塊を苦もなく留めていることから“集束性”と維持性も高位だろう。上空の大気を凍て付かせたことから考えて干渉性も低いとは言えず、穴が一貫して見つからない。  これで“操縦性”まで高ければ、手が付けられなくなるのは言うまでもなく。  などと、まあ、何をこの期に及んで…… 「はは、は……どこまで馬鹿だよ」  考えたところで、ゼファーは自分を〈嘲笑〉《あざわら》った。  まったく、なんて無駄な職業癖か。事ここに至っていつものように相手の力を推し測ろうとした、愚挙愚考。  いやはやまったく、そんなことしてどうするという。  相手の力が本質的に自分と同じ……それを見抜いた、理解した。  だからいったい、ああそれで?  出力が違いすぎて別物に見えたのだと、感じたことこそ重要だろう。要するにこの時点で、〈彼我〉《ひが》の間が決定的だと認めてしまっているわけだ。  その時点で結果など、出ているようなものだろうに。  まさか、勝てるとでも……?  あんな怪物に、自分が……?  ほんのちょっぴり強化措置を施された程度の男が、骨の髄から位相の違う化物相手に、どうにかなるつもりだって? 「無茶を言え……」  戦車の数台にも勝てない自分に、対して相手は一騎当千。挑む気力すら湧いてこない。 「だというのに……」  それでも、〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈勝〉《 、》〈て〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。  〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈来〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈と〉《 、》〈同〉《 、》〈じ〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》、より強大な敵を呼ぶために勝利しろと?  ──冗談じゃない。  立ち上がれ、立ち上がれ。膝を屈するなとでもいうのなら、無茶を言うなよ勘弁してくれ。  誰が見ても不可能だろう。悲劇どころか舞台にすらなってない。  ほら、怪物はもうこちらに気づいた。  嗜虐的な笑みを浮かべて、〈憐〉《あわ》れな獲物を〈貪〉《むさぼ》るために近づきつつある。  なのに自分は立つだけで、足の骨に〈皹〉《ひび》が入るこの状況。結果なんて日の目を見るより明らかだ。  容赦も慈悲もしてくれないし、仮に手加減されたとしてもそれだけで死んでしまうだろうな。  見たか馬鹿、どうだ馬鹿が。  変な期待をするんじゃねえよ──馬鹿馬鹿馬鹿が。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈だ〉《 、》?  失血寸前。やる気はゼロ。策を練る頭もなければ、逆転できる才能もない。  自分というつまらない男は、こんな程度なんだよ。  だから──理解してくれ、■■■■。  怪物を〈斃〉《たお》せるものは、同じ怪物だけ。  人間でありながら怪物を〈斃〉《たお》すことができる奴は、その時点で異形なんだ。  少なくとも、ゼファー・コールレインには不可能で。まず第一に、そんなものにはなりたくない。  だからどう〈足掻〉《あが》いても無理なんだと、どうして分かってくれないのか。  そんな泣き言を、小さな女の子ごと巻き込んだ運命に向けて、胸中に吐き捨てる。 「それでも──」  勝たなければ。挑まなければ。 「ミリィを、守れないというのなら──」  結末が見えているとか、敵わないなどは関係なく。 「こんな、ちくしょう、怖えのに──」  〈勝〉《 、》〈利〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈逃〉《 、》〈げ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》──、ッ。  震える身体を抱きしめて、〈怯〉《おび》える魂を振り絞って、とっくの昔に〈頽〉《くずお》れた意志を必死に奮い立たせるしかなくなった。  すべては誓いを守るために。さあ、今こそと。  死に場所を定めた、その時。 「──そこまでだ」  鳴り響いた軍靴の音は、まさしく鋼鉄が奏でる響きだった。  ここに、ようやく〈奇跡〉《せいぎ》が舞い降りる。 「──ほう」 「…………」 「あなたは──」  軍事帝国アドラーに刻み付けられた数々の人的損失、痛み、そして絶望。  それらあまねく負の因子を一触で振り払う守護神。  物語にはつきものの逆転劇が、ついに災禍の渦へとその姿を現したのだった。  そう、もはや悲劇は幕を閉じた──〈涙〉《おまえ》の出番は二度とない。  さあ括目せよ、いざ讃えん。その姿に民は希望を見るがいい。  ここから始まるは、男の紡ぎ出す新たな〈英雄譚〉《サーガ》。  ただ姿を見せるだけで、〈戦場〉《ぶたい》を支配する主演が立つ。  男は運命へと挑むもの──覇者の冠を担う器。  そう、彼こそ── 「クリストファー・ヴァルゼライド、大佐……」  その名を口にするだけで舌が〈痺〉《しび》れ、熱い気概が呼び戻された。  高潔な強者を前にした時、人は自然と畏敬の念を抱く。  ゼファーは誰に命じられるでもなく、傷ついた身体で〈這〉《は》うように彼の背後へと下がる。  階級の差や戦闘力の有無などという理由では断じてない。そうすることが真理だと、無意識の内に強く感じ取ったがための行動だった。  軍属に身を置いてこの男を知らない者など、一人もいない。  帝国軍部改革派筆頭、始まりの〈星辰奏者〉《エスペラント》、法の守護者……  軍人の理想、鋼の化身、断頭台、閃剣、光刃、アドラー最強……  あらゆる呼び名で尊敬と畏怖を集めた男を前に、そう語られるようになった理由を一目で悟った──〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》。  自分のような塵屑とは、何もかもが隔絶していた。  そしてそう感じるのは、対峙する二体の異形も同じである。彼を前にして視線を逸らすなどという愚を起こさないし、できやしない。  つまりは対等、発する圧力がつりあっている。  通常なら信じ難いが、それも仕方のないことだろう。なぜなら彼はあらゆるものが輝いている、太陽のような男だから。  目に宿る光の密度、胸に秘めた情熱の多寡、どれもが桁を外れている。定められた限界をいったい幾つ乗り超えれば、こんな領域に至れるのか……  〈帝国民〉《ゼファー》を庇うように背を向けて立つその姿が、命に代えても皆を守ると何より雄弁に語っていた。  胸の高鳴りが止まらない。同時に、叫びたいほど恐ろしくなる。  彼と同じ軍服に袖を通していることさえ誰かに自慢したくなり、忌まわしい呪いのように感じる錯覚。  男が男に魅入られる瞬間とは、きっとこのようなことを言うのだろう。  だからこそ、別の理由で目が離せなくなった。  あいつよりも、〈怪物〉《あいつら》よりも、誰よりも──  この人はきっと〈そ〉《 、》〈う〉《 、》なのだと、強く感じ始めていて── 「おおォ、初めまして大佐殿。お噂はかねがね。 会えて光栄だよ。そしてなるほど、確かに確かに……これはまた凄まじい。  〈相方〉《ウラヌス》が〈滾〉《たぎ》るというのも納得だ。なあ、そうだろう? これで今度こそ、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈望〉《 、》〈み〉《 、》〈通〉《 、》〈り〉《 、》じゃないか」 「ええ、待ち焦がれたわ──この時を」  低いくぐもった笑みと共に殺意の奔流が乱気流のように解放された。  常人なら、この場にいるだけで精神に異常をきたしかねない悪意の嵐。ウラヌスと呼ばれた鉄姫から邪悪な意思が濁流のように溢れ出す。  その執念、純粋なる殺人願望はヴァルゼライドの覇気と比しても遜色なく、意志だけで相手を押し潰さんと猛り狂っていた。  憎悪と恨みを詰め込んだ時限爆弾。げに恐ろしきは女の情念ということか、恨むという一念にかけて実に〈容易〉《たやす》く女は男を凌駕する。 「貴様に与えられた数多の屈辱、忘れた時は一度もない。下賤の輩がやってくれたな。  昔日のようにはいかんぞ〈人類種〉《ヒューマー》。今度は貴様が私の星へと屈するがいい」 「そして、オレにはオレの理由がある」 「見極めなければならんだろう。あんたも、そしてオレたち自身をも。  天を仰ぐか、その手にするか。〈不遜〉《ふそん》か、不徳か、不実か、不義か……されど希望をそこに抱くか。  可能性に賭けたゆえの決断ならどうか納得させてくれよ。まさかここに来て、存在意義がどうだのと眠たい〈御託〉《ごたく》を語ったりはしねえよなぁ?  そうだろ、大将。オレを失望させないでくれ」 「結局、最後の頼りはどの局面でも地力になるのさ。あんたも立派な男なら、勝ち取ることで夢を語りな」  それが正統、世の習わし。  どれだけ理屈を並べようが、万人にも分かるようにねじ伏せなければ、誰も納得しないし魅了しない。  何より盛り上がりがない英雄譚など見世物としては三流以下で、誰も見向きしないだろうと、謎の鬼──マルスは静かに語っている。  〈静謐〉《せいひつ》な口調は憂いながらも切実で、不思議な期待が〈垣間〉《かいま》見えた。  告げる指導者の資質、それはあながち一面として間違っていないが、しかし。 「黙れ〈殺塵鬼〉《カーネイジ》──おまえに〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈語〉《 、》〈る〉《 、》〈資〉《 、》〈格〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  ヴァルゼライドは憤怒を返した。鞘に納めた鍔が鳴る。 「〈氷河姫〉《ピリオド》、貴様もだ。己を偽り続けた女がその意趣返しに俺を討つと?  ──笑止」  言葉少なく、荘厳に。激烈な闘志の強さが鼓動となって波を打つ。  洗練されたその美しさは正しく破格、並ぶもの無し。 「これだけの血を流し、命を〈貪〉《むさぼ》り喰らった後でまだ〈吼〉《ほ》えるか、魔星ども。なるほど、余程死にたいと見える。  忘れているなら今一度、思い出させてやろう」  内に秘めた光熱を解き放たんと刃を二振り、引き抜いた。  視線に籠もる決意の火は、強く尊く〈眩〉《まぶ》しく熱く── 「──〈貴〉《 、》〈様〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈役〉《 、》〈目〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》」  威風堂々と言い放った瞬間、ヴァルゼライドは一迅の影となる。  同時、動き出す鋼の魔星──英雄譚が始まった。  一合、彼らが激突する寸前にゼファーはまず、こう予測した。  大佐殿は敗北する──怪物に勝つことなど、人間では不可能なのだと。  ああ、確かに彼は破格の人物だろう。内に秘めた情熱ゆえか、〈佇〉《たたず》まい一つとっても〈眩〉《まばゆ》いほどに輝いており、あの偉丈夫が凡人と一線を画しているのは語るに及ばず理解している。  実力に至っても通常の強化兵を歯牙にもかけない域にあるのは、疑う方が馬鹿馬鹿しい。  なぜなら──彼こそ始まりの〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》。  帝国に黄金時代を到来させた生ける伝説そのものであり、奴らに勝るとも劣らない何かがあるのを確信できた。  そこに希望を見出しても仕方ないが……  しかし人間らしいその道理、果たして人外の魔物にまで通じるかと論ずるならば、やはりそれは否だろう。  鬼面の剛腕一振りで〈木端微塵〉《こっぱみじん》に砕ける大地。  〈抉〉《えぐ》れた岩盤を足場としてその中を縦横無尽に駆ける鉄姫は、まるで毒蛇を連想させるしなやかさで肉薄しつつ小屋ほどもある瓦礫の一つを手に取った。巨大な残骸を〈華奢〉《きゃしゃ》な腕で軽々持ち上げ、鈍器のように叩き付ける。  呆れるほどにアンバランスな光景は、どれだけ女性の姿をしていようとウラヌスが魔星である事実を一目の下に証明していた。  異形は生まれ持った超越性をこれでもかと見せつけながら、暴虐の限りを尽くす。  優れた種族に、むしろ小技など必要ないのだ。生まれ持った〈性能〉《スペック》を、捻りなく、在るがままに発揮するだけで十分。  己が己であるだけで如何な相手をも粉砕できる。  飛来する岩塊をヴァルゼライドは素早く〈躱〉《かわ》した──  理由は〈勿論〉《もちろん》、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈せ〉《 、》〈ざ〉《 、》〈る〉《 、》〈を〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  間髪入れず〈擱座〉《かくざ》した戦車を振るうマルスの追撃も当然〈躱〉《かわ》した──  これも無論、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈せ〉《 、》〈ざ〉《 、》〈る〉《 、》〈を〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  それはある意味当然の攻防劇だろう。ヴァルゼライドがどれだけ優れていたとしても、彼は所詮強化されただけの“人間”である。  殺し合いにおいて多勢を決する要素は常に出力、速度、防御力。  すなわち純然たる〈能力値〉《パラメータ》であり、大が小を圧倒するという子供でも分かる方程式が厳然と存在するのは、誰の目にも明らかだ。  ……鼠は猫に噛みつけたとして、獅子を前には死を悟る。  たとえ攻撃できたとしても、それは無駄な蛮勇だ。立ち向かったけど死にましたでは、それこそ無駄死にと変わらない。  弱者が強者に土を付ける展開は常に稀少。現実ではまず起こらないから誰もが夢見憧れて、そして当然、十中八九かなわない。  そもそも大穴に入れ込む感情自体が、人類特有の悪癖なのだろう。  〈判官贔屓〉《ほうがんびいき》、死の高尚さ──などというおかしな概念が働くのは人間だけだ。  自然界において小は小。弱者は餌。逆転などは起こらない。  優れた者が順当に勝つことこそが基本であり、逆は不出来で歪な〈齟齬〉《エラー》。そこに疑問は挟まれないし、闘争という極限状態でもその方程式は聖典として機能する。  ゼファーが上官の敗北を予見したのは、そういうこと。  そして実際、ヴァルゼライドは敗北必至と言っていい。  小手先の技術など絶対的な強さの前にすれば小賢しい児戯だ。さらに彼を圧倒する怪物を相手に一対二というこの状況、基礎能力の差を考慮すれば勝率など雲を掴むに等しいだろう。  どだい、気合や根性では出力の桁を誤魔化せるものか。  そう思っていた──ゆえに想像した未来図は、だが。  未だ訪れる気配はなく。 それどころか、何だこれは──どうなっている。  渡り合っていた。それも互角に、鮮烈に。  まるでこれこそ当たり前の〈展開〉《こたえ》だと言わんばかりに、彼はたった二本の刃で魔星と対等の戦いを演じている。 「ふッ───!」  鋭い剣閃が〈奔〉《はし》るたびに轟音を響かせて弾き合う鉄爪、鋼脚。火花がまるで華のように散っては咲き、咲いては散って彼らの舞踏を豪華〈絢爛〉《けんらん》に染め上げていた。  衝突するたびに大きく〈軋〉《きし》む刀身は〈星辰奏者専用特殊合金〉《アダマンタイト》の絶叫だ。〈僅〉《わず》か一度でも怪物の攻撃をまともに受ければ即座に折れてしまうのだと、持ち主へ切実に訴えている。  今にも砕けてしまいそうな負荷がかかっているものの、しかし武器破壊を避けられているのは、すべて担い手の技量がゆえ。  いいや、攻撃、回避、防御に反撃……あらゆるに場面において技量が生かされていない箇所など見当たらない。  余すことなく、すべてが絶技。  あらゆる不条理をねじ伏せる──  巧い──戦闘技能と判断速度が常軌を逸して凄まじすぎる。練達などという評価さえヴァルゼライドには侮辱にしかならないだろう、技の極みがそこはあった。  悪魔的に積み重ねた修練の量が一挙一動から〈伺〉《うかが》える。あまりの完成度は、よく出来た〈円舞〉《ワルツ》でも観劇している気分だった。  一眼、一足、一考、一刀に至るまで、〈悉〉《ことごと》くに意味があり、無駄な行動が〈微塵〉《みじん》もない。  歯車のような正確さで暴力の風雨を〈捌〉《さば》くその姿。どれほどの血と汗を流してこの領域まで至ったのかと、そう思わずには、とてもとてもいられないのだ。  かと思えば、時に息を呑むほどの博打に打って出る──その豪胆さはどういうことか。  勝利の流れを嗅ぎつけ、そこに〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく命を懸ける、不合理の中にて生きる理合。  一見して破綻にさえ見える勝利への執着は、されど強者には必須ともいえる行動だった。正着を打つだけの機械には決して持てない、飽くなき未来への闘争心。  それがまたとない力となって、ヴァルゼライドを近づける──格上殺しの勝利へと。  王道に、邪道。  正統に、我流。  機械の持つ合理性と、生物の持つ可能性。  矛盾を〈孕〉《はら》む対の要素が、理想形で融合していた。  完璧すぎて〈眩暈〉《めまい》がする。想像を絶するという言葉さえ、彼を現すには生温く…… 「この人は……」  だから思わず、呆然と救世主に向けて。 「頭おかしいんじゃねえのか」  そう〈呟〉《つぶや》かずにはいられなかった。  絶望の閉塞を打ち破ってくれた大佐に対し、正直な感想がこんなもの。  失礼だと分かっていても、だって仕方ないだろう。こんな光景はあり得ないんだから。  気合や根性で誤魔化せる出力差ではないというのに。  まさに、その〈気〉《 、》〈合〉《 、》〈と〉《 、》〈根〉《 、》〈性〉《 、》── 執念という意志力だけで、鋼の英雄は出力の桁をあっさりと覆している。  十が百を踏みにじる──猫が虎を噛み砕く。  奇跡という名の不整合、頭がおかしくなりそうだった。  だが、そんな驚嘆を抱いているのはゼファーだけ。  自らの性能が通じないことぐらい、〈魔星〉《かれら》は既に〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 「──〈流石〉《さすが》」 「それでこそ」  この男は先ほど〈蹂躙〉《じゅうりん》したような有象無象とはまったく違う。精神一つで人間を超えてしまったような男だと誰より熟知しているのだから、この程度では揺るがない。  殺す甲斐と、殺す意義と、殺すための目的がある。  そして滅殺する好機は、今を逃せば〈次〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈何〉《 、》〈時〉《 、》〈か〉《 、》。  そういう意味では彼ら魔星も不退転だ。負けられないのはどちらも同じ。  空気が変わる──ここで必ずヴァルゼライドを滅するために。 「せいぜい〈足掻〉《あが》け、余興は終わり」 「ここからは、〈人造惑星〉《プラネテス》としての闘争といこう」  ──〈ア〉《 、》〈レ〉《 、》〈が〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》。 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがため」  〈火星〉《マルス》、そして〈天王星〉《ウラヌス》。  古来より星座に紛れ、旅人を惑わせ続けた大天体がその名に恥じぬ星の光を再び地上へ解き放った。  瞬間、鬼面の纏った負の瘴気が森羅万物を消し去っていく。  そうだ、絶滅せよ。創成されたあらゆる生命。  我は〈赤星〉《マルス》。戦軍の〈星〉《カミ》、〈殺塵鬼〉《カーネイジ》──闘争の終点であり死出の暗黒そのものなり。  何人たりとも、如何なる者も、その〈星辰光〉《アステリズム》からは逃れられない。  ゆえにこそ、かの英傑を必滅しよう。美しい〈英雄譚〉《サーガ》は常に、主役と共に最後の幕を下ろすのだから。  瞬間、鉄姫を取り巻く大気の水が絶対零度の底へ落ちた。  凍て付け。咲き誇れ。発芽せよ、結晶の〈大輪華〉《はな》。  我は〈青星〉《ウラヌス》。氷天の〈星〉《カミ》、〈氷河姫〉《ピリオド》──避け得られぬ寒冷の冬と知るがいい。  何人たりとも、如何なる者も、その〈星辰光〉《アステリズム》からは逃れられない。  ゆえにこそ、かの逆賊を誅戮しよう。自然の摂理に逆らう輩へ、天意の裁きを下すのみ。  二体から放たれる密度と圧力はまさに暴星、超重量の星と呼ぶに相応しい理不尽さだった。  天井知らずに上昇していく危険度。歪み、〈蹂躙〉《じゅうりん》されていく景色。地球の法則そのものが異星の圧に軋んでいく。  猛る闇、紫煙と氷嵐、先ほど戦車部隊を壊滅させた際のものと比較にならない〈新星爆発〉《スーパーノヴァ》。  もはや個人に向けて用いるような代物では断じてなく、破滅のカウントダウンが無慈悲に頂点めがけて駆けあがった。  だから後はもう、希望的観測を抱く余地すらないはず、なのに。 「──────」  ──だからこそ、やはりこの人は〈勇者〉《きぐるい》だった。  受けて立つと、〈逡巡〉《しゅんじゅん》なく前に出る姿は恐怖という感情が欠落しているとしか思えない──いや。  本当に、現実が分かっているのか?  まさか理解した上でそうしているのなら、この男は── 「無茶です、大佐! いくらあなたでもアレは──」  もしや、〈勝〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》と、思うことを止められず。  想像して、恐るべき衝撃が脳から背筋を突き抜けた。  もしそんな展開になってしまえば、いったいどうなるのか。  これから自分は、見てはならないものを見てしまうのではと危惧してしまい、そして。 「さあ、見せてくれよ──あんたに宿る輝きをォ!」 「〈屑星〉《くずぼし》ならばこれで粉砕してくれるッ」  喝破と共に地を爆砕しながら迫る魔星。かつてない暴力を前にヴァルゼライドは一度だけ、築かれた屍の山を見た。  瞑目し、哀悼を捧げること一瞬。 「……すまん。そして誓おう、おまえ達の死は無駄にしない。  帝国の民を〈弄〉《もてあそ》んだその報い、魂魄まで刻んでくれる」  開眼した瞳の奥で揺れる炎。  誓言は、底冷えさせる嚇怒の念に燃えていた。 「創生せよ、天に描いた星辰を──我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」  紡がれる〈詠唱〉《ランゲージ》。  起動する〈星辰〉《アステリズム》。  覚醒の序説を唱えた瞬間、クリストファー・ヴァルゼライドに宿る星が爆光と共に〈煌〉《きら》めいた。  それは、まさしく光の〈波濤〉《はとう》。  世界を二分しかねない輝きの一閃は、冗談のようなエネルギーを伴い炸裂した。夜の闇を引き裂きながら、虚空へと直線的な軌跡を描いていく。  進行方向にあるものは、何一つ残らない。  無事で済むなど、絶対不可能。音速を凌駕して亜光速にまで達した爆光が、マルスの体躯を容赦なく飲み込んだ。  さらに……いや、あるいは必然としてか。  光が闇を打ち砕く。 「お、おおオオオオオォォ──ッ」  鬼面が纏っていた暗黒の瘴気を、光の刃はいとも〈容易〉《たやす》く貫通した。  悪への裁きであるかのように。〈星屑〉《ほしくず》の光が、鋼の悪魔に鉄槌を下す。  その間隙、攻撃と攻撃の合間を狙ってウラヌスが駆けた。放つ氷杭が怨敵滅ぼす暴風雨となりヴァルゼライドへ襲来する。  その規模、先の三倍相当──  戦車を串刺しにする破壊の〈雹〉《ひょう》は、仮に回避できたとしても凍結の〈庭園〉《フィールド》を生み出して空間そのものを支配下に置くという、二段構えの〈絨毯〉《じゅうたん》〈穿撃〉《せんげき》。  直撃せずとも以後の戦闘に大きな有利をもたらし、そもそも人に〈躱〉《かわ》せるような速度ではない。  そして当然、それら一刺しどれを取っても、受けることが出来るような軽い脅威では断じてなく。  ゆえに必殺、〈王手詰み〉《チェックメイト》。どんな超人相手でもこれで必ず〈縊〉《くび》り殺せる。  だが、だが、そう──〈だ〉《 、》〈が〉《 、》。 「──小賢しい」  ヴァルゼライドにそんな戦術は通用しない。逆側の腕に掴んだもう一刀が、再び超新星の輝きを〈煌〉《きら》びやかに顕現させた。 「ぐッ、────が、ぁ」  再び両断される世界。  〈鎧袖一触〉《がいしゅういっしょく》──地に降り注ぐ氷の雨を打ち砕き、光輝の刃が鉄姫の姿を呑みこみながら天昇していく。  刃に纏っていた淡い残光が、粒子となって力を彩る。  きらきらと、宇宙から舞う流れ星のように、強く優しく雄々しく熱く……  輝いて希望を照らす姿を前に、ああ、これ以外どんな感想を抱けという。 「────“英雄”だ」  怪物を〈斃〉《たお》せるものは、彼らと同じ怪物だけ。  そして人間でありながら怪物を〈斃〉《たお》すことができる者は、御伽噺の〈英雄〉《セイヴァー》のみ。  ゼファーは今、間違いなく、一人の男が伝説になる瞬間を目撃している。  だってほら、彼が携えるは光の剣。  何物にも屈さない〈不撓〉《ふとう》不屈の意志もある。  舞台は歴史に残る災禍の渦中。民間軍属を問わず出た数えきれないほどの死者を悼みながら、元凶たる怪物を討伐しているこの構図。  目にすれば誰もが納得するだろう。いや、疑いすらしないはず。  この瞬間は間違いなく後世に刻まれる。〈生存者〉《ゼファー》は今、その語り部として絵物語に巻き込まれていた。  加えて、ある一つの事実が恐ろしい。同じ〈星辰奏者〉《エスペラント》であるためか、見えてしまった事実がどうしようもなく彼の心を戦慄させた。  星を発動した〈途端〉《とたん》、急激に跳ね上がったヴァルゼライドの出力。  〈平均値〉《アベレージ》と〈発動値〉《ドライブ》、二つの差額が大きすぎるせいで起きるこの入れ替わったような不整合さ。  ……それを、ゼファーはよく熟知していた。  〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈と〉《 、》〈同〉《 、》〈等〉《 、》〈の〉《 、》〈上〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》〈幅〉《 、》。ゆえに怖い、恐い、〈強〉《こわ》い──何だよあれは、〈お〉《 、》〈ぞ〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。 「どうして、立っていられるんだよ。 平気な顔が出来るんだよ──」  相手の身になって分かるがゆえ、見惚れるどころか拒絶してしまう。  大佐はどうして、発狂せずに、ああして自我を保てているんだ? 分からない──  現在、ヴァルゼライドの身体は、凄まじい激痛に襲われているはずだ。  〈平均値〉《アベレージ》と〈発動値〉《ドライブ》が離れているほど、激しい反動が訪れるのは〈星辰奏者〉《エスペラント》の常識だ。あんな愚直で、力任せな超特化型の星光を用いていればどうなるか……  反動で〈喉〉《のど》を〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》りのた打ち回っているべきだ。少なくとも、戦闘行為を継続できるような状態では決してない。  同じ事情を抱えているからそれが理解できるのに、鋼の男は痛痒のそぶりすら見せず、不変。  立ち上がる悪鬼に向かい、悠然と歩みながら〈睥睨〉《へいげい》する。 「立て、この程度で終わりはしない。  この地で死者が抱いた恐怖、苦痛、そして絶望。俺たちはそれを受け止めながら地獄の炎に焼かれるべきだ。  そうでなければ帳尻が合わんだろう」 「ハハ、それこそお互い様だろうに」 「知ったことか。貴様は殺すッ──!」  ──三つの異星法則が混じり合い、弾け、現実世界を侵食する。  蒼い炎のような憤怒を宿し、更なる〈領域〉《ステージ》へとヴァルゼライドは異能のギアを引き上げた。  〈消滅〉《ほろべ》。〈凍結〉《こおれ》。〈両断〉《けしとべ》と──  大気を鳴動させながら激突する、瘴気と冷気と光気の嵐。  三者の中心を爆心地として、世界を削る、蹂躙していく。  膨れ上がり続ける破壊の規模は周囲一角を更地に変えたが、依然変わらず戦闘は続行中。このまま彼らの死闘が続けば文字通り、ここは生命の消え失せた不毛の大地に変わるだろう。  膨張を続けながら鎬を削る、三種の超新星爆発。  誰一人、何一つ、英雄と怪物を止められない。 「なんだその様は、まったくもって度し難い。  やはり貴様は矛盾だらけの畜生だよ。血が濁っている。守る守ると口にしながら蓋を開ければ御覧の通り、道化どころか愚図ではないか」  〈嬲〉《なぶ》るように、あるいは相〈憐〉《あわ》れむように。  火花を散らす剣戟ごしに天王星が吐き捨てた、何を高尚ぶるのかと。そして鉄鬼もそこに続く。 「乗っかるつもりはないが、そこに関しては同感だ。壊すことだけが巧いねえ。可哀想に、オレたちと何が違うのやら」 「どれだけお題目を並べようがあんたのやっていることは破壊、成敗、殺戮だよ。物理的に邪魔者を排除しようとしている限り、天を担う器にあらず。  賢者は常に語らない。〈眩〉《まぶ》しい〈生き様〉《せなか》で悪党さえ改心させると……要するに、そういうことさ。  真に高潔な存在は、姿だけで相手を魅了させちまう。武力なんざ要らねえんだよ」 「然り──貴様こそ所詮、ただの戦鬼だろう」 「己を偽り、正義であると〈僭称〉《せんしょう》しながら轟かせるのは破滅の〈星屑〉《ほしくず》。はッ、虚しいなヴァルゼライド。いつからそんなつまらん擬態に手を出した?  あの日のおまえを見せてみろ。私が呪い、焦がれ狂った、本性を……」 「まさか、雑兵が百や二百死んだ程度で〈腑抜〉《ふぬ》けたなどと言うまいな」  そう……この大虐殺も史実を紐解けば、よくある悲劇の一つに過ぎない。  大願成就の過程において自然に生じる副作用であり、むしろ男の背負う業を思えば、これでもまだ微々たる出血にあたるだろう。  ゆえにヴァルゼライドは、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》で立ち止まるべきではなく。  地獄に、災禍に、犠牲に、魔星に──〈微塵〉《みじん》も憂慮をしてはならない。  軽く凌駕してみせろ。それが出来ないというならば、〈英雄〉《にんげん》よ、おまえの星は分不相応。役者が不足しているぞ。 「なんて無様、ここで死ね」 「それがオレたちなりの慈悲ってもんさ」  では運命から救ってやろうと、〈迸〉《ほとばし》る異能の渦。  〈螺旋〉《らせん》を描きながら強襲する異形へ、ヴァルゼライドは〈静謐〉《せいひつ》に告げた。  それこそ──ああ、何を今更。 「知っているとも、俺に〈救済〉《そんなもの》は不可能だと。  むしろ貴様ら節穴か? いったい何時まで、こんな男を過大評価しているのだ」 「異論はない、俺は〈違〉《たが》わず塵屑だとも。己の咎を自覚しながら歪みを正しきれずにいる……そんなどうしようもない〈破綻者〉《ごみ》に過ぎん。  分不相応な夢を見て、幾度も地を〈這〉《は》わされてきた。己だけで血を流せばいいものを、共に歩んだ友や部下まで傷を負わせ、苦しめて。  それでもしかし、次こそはと諦めきれず……  他者の夢を〈轢殺〉《れきさつ》しながらここまで来た。  罪深いと知りつつもだ。そんな男を邪悪以外にどう表せという」  だから、何も間違っていない。すべて真っ向から受け止めよう。  ヴァルゼライドは、自分自身を傑物などと思っていない。  むしろその逆、罪人だ。何一つそこに反論をせず、認めた上で── 「だが──」  烈火のように激しく、水のように清廉な一撃を返しながら続けた。 「ならばこそ、立ち止まってはならんだろう。  何故ならここで足を止めれば、踏み〈躙〉《にじ》ってきた数多の祈りに背を向けてしまうことになる。  こんな俺のために尽力してきた者たちを、裏切ってしまうことになる。  それだけは、何があっても看過できるものではない」 「俺は奪い、勝ち取ってきた。敵を踏みつけてここまで来た。しかしそれら戦ってきた夢の数々、無価値であったわけではなく、劣っていると見下すなどいったいどうして出来ようか。  そんな資格は誰にもないのだ。結果的にその願いを砕くことになったとしても……」  理想と理想がぶつかった場合、どちらかが破れ、どちらかが生き残る。  ゆえに勝利とは、裏を返せば相手を壊す罪業だ。  その残酷さを重く受け止め、そして背負う。 「過ちは永劫、地獄で〈贖〉《あがな》おう。責も受ける、逃げもしなくば隠れもしない。しかし、その罪深さを前にして膝を屈し何になろう。  泣き叫びすまなかったと許しを請えと? 器がないから、誰かに託して諦めろ? 〈嗤〉《わら》わせる。  勝者の義務とは貫くこと──」  最後までやり通し、夢見た世界を形にするのが報いることだと、信じているから。 「涙を笑顔に変えんがため、男は大志を抱くのだ」 「〈宿業〉《みち》は重いが、しかしそれを誇りへ変えよう。俺は必ずこの選択が世界を〈拓〉《ひら》くと信じている」  ゆえに止まらず、重ねて不屈。  共に歩んだ仲間、家族、守り抜くべき〈無辜〉《むこ》の民。  そして相対してきた敵の存在……それさえ背にして、英雄は光の剣を振り抜き続ける。  ──そう、血を流すたびに、どこまでも強くなるのだ。 「人々の幸福を、希望を未来を輝きを──   守り抜かんと願う限り、俺は無敵だ。来るがいい! 明日の光は奪わせんッ!」  轟雷のような二連、流れるように続けて三連。光刃を放つたび七本の〈得物〉《かたな》を自由自在に持ち替えながら、ヴァルゼライドは闇を〈祓〉《はら》う。  一切の無駄を削ぎ落とした動きは冴えわたる一方で、まさに魔を成敗する武神の如く。彼が動くたびに閃光があらゆるものを貫通し鬼も鉄姫も例外なく、その輝きに削られるのみだった。  奇跡のような展開と物語のような美しさは、華々しく、幻想的で……  目が潰れそうなほど〈眩〉《まぶ》しく強く、格好いいものだったから……  だから、それが── それ、が。 「──〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》」  ……吐き出しそうなほど怖かった。  助けてくれ、誰か。どうしてこうなるんだよ。  命を懸けて、守ると誓って、あらゆるものを犠牲にしながらこの子を救った。勝ったんだ。それは嘘じゃないはずなのに……  〈ま〉《 、》〈た〉《 、》、いつものようにこうなった。手に負えない次の難題、絶対に敵わない恐るべき何者かが、こうして死闘を演じている。  何なのだ? 馬鹿じゃないのか? これが運命というのなら、そいつを定めたどこかの誰かは、いったいどうしろというのだろう。  あれに混ざれ? もしくは勝てと?  敵がどこにもいなくなるまで、どんな相手にも勝てるほど強い人間になるまで戦え、これはその試練なりって──それはつまり。 「あの人みたいに?」  最強の〈星辰奏者〉《エスペラント》。 ヴァルゼライド大佐。 帝国の忠実な守護星──新たなる伝説を築き上げている若き英雄、光の剣。  彼と双肩するほどになれば……なるほど、なるほど、確かに無敵だ。  誰も敵わないし、まず戦おうだなんて思わない。  そうなればどれだけ後で無茶や不条理が襲って来ようと、楽に解決できるはず。 そうなれば、気兼ねなく勝利できるだろう。  ──なんて、誰が思うか。 「無理だ。あんな風にはなれない、なりたくもない……ッ」  鍛えて鍛えて鍛えて鍛えて──戦って、鍛えて鍛えて鍛えて、戦って戦って、また鍛えて。  栄光を象徴する御旗として〈遍〉《あまね》く希望の拠り所と化す。  そんな生き方を〈羨〉《うらや》ましいと、思えるはずはないのだから。  ゼファー・コールレインは凡人だ。  日々の糧食さえ〈繋〉《つな》げればそれだけで十分な男なのだ。  大きな勝利なんて求めちゃいない。大佐の強さに敬服しても憧憬や尊敬なんて皆目持ち合わせておらず、それだけにどうすればいいかも見失って。  宝物にしがみつく幼児のように腕の中にある温もりを確かめるのが精一杯だった。ミリィの命を守ること、その成否さえ既に〈救世主〉《ヴァルゼライド》が担っているのを実感する。  ただの傍観者に堕ちていた。大切な誰か一人、守ることも尽くすこともできずにいる。  それの、なんと惨めなことだろうか。  だから、誰か教えてくれ──“勝利”から逃げる方法を。  勝たなければ人は生きていけないと、重々わかっているけれど。  敗けてもいいだなんて情けないこと、口が裂けても言えないけれど。  出口のない袋小路。重責にしかならない栄光、責任。より難易度を増して襲い掛かってくる終わらない試練の数々……  生きるという円環は終わりのない戦いで、息の詰まる〈煉獄〉《れんごく》に、もう付き合いたくはないんだよ。  ゆえに、勝利は無用。  敗北もまた、拒絶する。  〈永劫〉《えいごう》という〈常温〉《やすらぎ》を、〈無謬〉《むびゅう》の不変と保ちながら。  ありふれた幸福を、どうか、この手に。  そして──“勝利”から逃げさせてくれ。  その意味を知りたいだなんて、もう願ったりはしないから──  刹那、爆音が意識を引き戻して目の前に砕かれた氷塊が飛んでくる。  それは、奴らの物語に巻き込まれた〈憐〉《あわ》れな〈犠牲者〉《エキストラ》の残骸。死の瞬間、断末魔のまま固定された誰かの生首そのものだった。  ごろりと、無造作に転がったソレと目が合う。  結晶化して保存された生の感情は、そのまま永遠に固定されていて──  そこに自分の過去と未来を、見てしまったもの、だから── 「あぁ、ぁ…… う、あ、ぁぁぁ…………、っ」  怖い、怖い、おぞましい。何が怖いのかさえ、分からない。  見るなよ。見るな。 見るな、見るな見るな見るな、生きてて悪いかよ。情けないって〈嗤〉《わら》うなよ。 精一杯なんだ見逃してくれ。お願いします、だからどうかその目をやめて、ください、そんな。  〈螺子〉《すが》るような目で── タ、ス、ケ、テ、なんて。 「────、あ」  その幻聴を最後に、心の芯が、へし折れた。  何も、何も聞こえない── 「うあ、あ、あああぁァァアアアアアアアア──ッ!」  金切るような絶叫をほとばしらせて炎の中を駆け抜けていく。  止め処なく流れる涙はいったいどうして、どこから来るのか。  何を〈怖〉《かなし》いと感じたのかも覚束ぬまま、暴走する感情にひたすら身を任せて亡者のように疾走する。  脚の中で断線していく腱と靭帯。そのままぶち切れて二度と歩けなくなるかもしれない可能性は十二分にあったものの……  狂乱に支配された思考回路は、一顧だにすらしなかった。  頭にあるのはたった一つ……こんな地獄には居られない。 「〈英雄〉《ばけもの》め、バケモノどもめ! 勝手にやってろもうたくさんだ──!  未来のために、野望のために、誰かのために、勝利のためにと。御大層な上から目線で勝手な講釈垂れやがって。好きなだけやってりゃいいだろ、俺らの知らない何処かでよォォッ。  そのまま諸共死にやがれ。そして、二度と姿を現すな……ッ」  投げつけた決別の言葉は背後の轟音にかき消され、超人魔星のただ一人として、凡愚の悲鳴を耳にしてなどいなかった。  ──それでいい、だからこその英雄譚だ。  数多の命を生贄に物語を召還して、〈煌〉《きら》びやかに輝いていろ。  自分は二度と、そうもう二度と、〈立〉《 、》〈ち〉《 、》〈向〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》と決めたんだ。 「逃げよう、ミリィ。こんな場所から一刻も早く。 人間はあんなものに付き合っちゃいけない」  それは偽らざる本音で、これしかないと理解して……  けれどそれを口にしてしまうたびに、自分が〈屑〉《くず》なんだと、これでもかと自覚させられて……  それでも言わずにいられなかったものだから、せめてせめてとまた誤魔化した。きっとこれから、何度もこうして言い訳を重ねるのだろう。  どこまでもただ、負け犬らしく。  決意どころか、犯した罪さえ貫くことをできないままに。 「すまない。すまない。すまない。すまない……!」  本当に、すまないミリィ。  謝る資格がないことは自覚しているけれど、それでも目指す未来の形だけは同じなのだと信じたいんだ。  炎から庇うべく抱きしめた。敗残の涙が〈瞼〉《まぶた》を閉じた少女へ落ちる。 「俺たちは、当たり前に生きて死のう」  どこにでもいる人間として、健やかに、慎ましく。  勝たなければ傷つき、負ければ死ぬような厳しさとは無縁の、優しい世界へ、 ──さあ。  誓いながら、二人の男女は人知れず殺戮の焦土より姿を消した。  遠雷のように響く、戦場の不協和音。  苛烈さを今も増しながら、英雄は屍の山で命を賭して戦っている。  誰かの命を守るために。  民の平和を守るために。  ずっと、ずっと、“勝利”をその手に掴むまで……  ──古くから存在する概念の一つ。  “眠り”は死へ通じる、というものがある。  たとえば、〈地獄の底〉《タルタロス》に居を構える〈睡眠の神〉《ヒュプノス》。  たとえば、スフィンクスが問いかける一日を一生に当て〈嵌〉《は》めた有名な謎かけなど。  起床と共に生まれ、就寝と共に死ぬといったように、〈瞼〉《まぶた》を閉じて意識を落とすという行為は普遍的に死というものを想起させやすいのだろう。  人類は昔から睡眠と死を、密接な概念として扱ってきた。  なぜなら、ひとたび眠りに落ちてしまえば、人は何も〈現実〉《そと》を感じ取れなくなってしまうから。  夢という幻に包まれて生から一時的に切り離される生理現象は、どうしてもほんの〈僅〉《わず》かながら、不安を感じずにいられない。  重要なのは心臓が動いているかどうかではないのだ。まして血が正常に循環しているか、ということでもない。  見て、聞き、感じ取れた時に初めて、人は生を実感できるということ。ゆえに無感とならざるを得ない深い睡眠というものは、それだけで死や停滞の香りを放ち始める。  植物状態になった患者と同じ。生物学的には生きているはずが、何をしても目を開けないというだけで、命の息吹は〈途端〉《とたん》に感じとれなくなってしまう。  眠りとは一種の仮死と言っていい。  ああ、だから──そう結んだ上で、ゆえに強く感じるのだ。  つまりここは〈柩〉《ひつぎ》の内側なのだろうと。  鋼の棺桶、冥府の底、深海に等しい闇の虚……  〈俺〉《わたし》は今、〈眠り〉《やすらぎ》に包まれながら、ダレカの〈死骸〉《ゆめ》に揺蕩っている。 「可愛らしいわ、また来たのね」  手足は幼く、身体は丸ごと別人へ。  唇は薄く、血は冷たい。声は自分が発したものとは思えないほど柔らかく、真水のように透き通っている。  それは彫刻じみた美と完全さの織りなす響きで、つまり生者が口にできるものでは決してない。  濡れるような、耽美と妖しさ。吐き気さえ催す純粋さに満ちている。  それがたまらなく不快で、背筋を〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》りたくなってくるというのに身体は依然、動かせない。  四肢を強烈に固定されているのだろうか? それともこれが、夢だから?  あるいは他人になるという不可思議な事態のせいかはまったく見当つかないが、どうやら身じろぎすら出来ないらしい。  いや、それも道理か……  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈は〉《 、》〈既〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  体温は変温動物より低く、心臓は活動を止めていた。  神経伝達、血流、本能などなど。どれもまるで動く気配なし。  結果、爪先から体幹までどこにも熱が通っておらず、なのにこうして苦も無く意識を〈繋〉《つな》げているという、理解不能な矛盾があった。  呼吸を行うことすらせずに〈俺〉《わたし》は微笑む。言葉を紡ぐ。平然とまどろみながら何事かを〈囁〉《ささや》くのだ。  まったく訳が分からない。  というより、頼むから早く目覚めさせてくれ。  おまえ、なんだか気味が悪くて仕方ないんだよ。  ──胸が、むかむかする。 「〈酷〉《ひど》いわね、いつもそう。開口すれば罵詈雑言。 〈睨〉《にら》んで恨んで、寄って来るなとそればかり。  もう一度、抱いてくれてもいいでしょう?」  何事かを言っているが、何を指してかは分からなかった。いやむしろ、これはただの白昼夢。まとめていっそ戯言に等しい類で……  第一、こんな奴に今まで出会ったこともなかったはず。  それがどうだよ。毎回だって? 何だそれは、冗談なら今すぐやめてほしいところ。  〈死姦愛好者〉《ネクロフィリア》をご所望なら、スラムの屑に頼めばいい。  それとも── 〈糞〉《くそ》が、面倒くせえ。  聞こえなかったか、このド阿呆が。消えてくれと何度も言っているんだから、こっちは放っておいてくれ。  夢の中で死体相手に仲良くお喋りしているなんて、そんな奴は当然頭がおかしいだろう。客観的に見ても思うから、俺は異端になりたくないんだ。  養う家族が一人いる。不定期ながら稼ぎ口も確保している。  正直に言って今それなりに幸せだから、おかしな妄想を夢の中で繰り広げ、心のバランスを乱すなんてまっぴらなんだ。充実感はどこにもないけど、確かな安らぎはあるんだよ。 「それなら安心して。いつものようにあなたは私を忘れてしまう。 だって、夢を見ない〈性質〉《たち》なのでしょう? 目が覚めれば何も覚えていないわよ」  指摘された言葉を〈怪訝〉《けげん》に思い──その正しさを〈反芻〉《はんすう》して、反論の言葉に詰まった。  まあ、確かにその通り。  いつからか、自分は夢を見なくなった。  ならば何故、それを知っているのかということが、これまた何とも〈癇〉《かん》に障る。知った風な口を利きやがって。 「そう罵れることも、幸せだということでしょう?  私たちの間に未だ〈邂逅〉《かいこう》の兆しはなく、あなたがそれを選ばない限り二人の〈宿命〉《さだめ》はあの日からずっと始まらないまま。出会わなければそもそも終わりはしないのだから。  だから、ねえどうするの? みすぼらしい私の負け犬。 〈憐〉《あわ》れで愛しい比翼連理。  もう一度、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》があなたに訪れるというのなら。  “勝利”を求める? “敗北”を拒む? “逃亡”を選ぶ?」 「それとも──」  何を、どうしろというのか。言葉にされずとも理解が及んだ。  いま俺は〈彼女〉《わたし》であり、同時に〈彼女〉《わたし》は俺そのものだ。  自他の境が極めて薄くなっている。そのためか、あまさず真意は伝播し──  ゆえに恐怖した。魂が身震いする。  そっと伸ばされた優しい指先は冥府の蓋を開く死出の誘いに他ならず。  この手を引いて。そして行きましょう。死に満ちた死界の底から、私を〈地上〉《ひかり》へ引っ張り上げてはもらえないか、と。  語る姿は、〈儚〉《はかな》く可憐で。それがどれだけ身を切るような絶望なのかを、十分に思い知らされたから──、ッ。 「来るな、──ッ」  嫌だ、〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈に〉《 、》〈認〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  俺は■■なんてしたく、ない。  ゆえに強く拒絶して──瞬間、互いの意識が自然と個に断絶された。  すなわちそれは、夢の終焉を意味している。  自前の逃げ癖で必死に遠ざかろうとする一念が俺を現世に、そしてこいつを柩の中へと縛り付ける。  睡眠とは、仮死だ。眠りは死に通じる。  よってこの場合は〈封〉《 、》〈印〉《 、》という形になって死者を奈落へ沈め始めるのだろう。コレがいかに恐ろしい悪霊でも、あくまで決定権は常に〈生者〉《こちら》へあるのだから。  驚くほどスムーズに、眠りの中の眠りという二重の封が厳重に相手を縛る。  そしていつも、そういつも──この瞬間になって思い出すのだ。  俺の見ている夢は、毎夜変わらずこれ一つで。  同じような〈顛末〉《てんまつ》を経て。  最後に必ず例外なく、伸ばされた手を〈怯〉《おび》えながら振り払ってきたのだと。  そこに後悔は一切なく、これから先に〈頷〉《うなず》くこともないだろう。〈安堵〉《あんど》と共に、俺は光の世界へ帰っていく。  仮にこれから何千回、何万回繰り返されても答えは同じだ。  おまえは、決して目覚めさせない。  永遠に鉄の揺り籠で抱かれながら、叶わない問いを口ずさんでいるといい。  叩き付けた絶縁状を前に、しかしそいつは笑っていた。  いつか会える、必ず会える。その日がいずれ訪れるのを〈微塵〉《みじん》たりとも疑っていない。  親愛、友愛、情愛、慈愛。掛け値なく俺の〈幸福〉《はめつ》を願いながら、ただ愛しげに。  恋に恋する少女のように── 「待っているわ、ゼファー。 私には、あなただけだから」 「黙れ」  切なる告白を、切り捨てた。  冗談じゃない。冗談じゃない。冗談じゃない。冗談じゃない。  ──こんな真実、知りたくなかった。 「俺は、おまえが、大嫌いだ」  蓋を閉じる。厳重に、決して決して緩まぬよう絶対に。  死者を冥界に閉じ込めるという日課を終えて、朝日の〈眩〉《まぶ》しさに目覚めていく。  今日も、明日も明後日も、恐らくはきっと死ぬまで……  これを繰り返し続けながら、ゼファー・コールレインは生きるのだろう。  過去に心をへし折られた、みすぼらしい負け犬として。  そして、それで構わない。  それで十分なのだと、運命から背を向けて、静かに涙を流すのだ。 ──そして、俺は目を覚ます。 覚醒するに従って先ほどのやり取りは記憶から洗い流され…… と、確か…… ええと、ああいや、なんだっけ? とにかく、何か重たいことを脱ぎ去って、素晴らしい朝がやって来る。 それは要するにストレスフリー。気に病むことはなんもナシのさわやか気分で、今日もまた平和な一日が始まりを告げた。 俺は夢を見ない体質である。いい内容がゼロな分、悪夢を見る確率もこれまた同時にゼロという少し珍しい人間で。 必然、寝る前に何があったかという要素が、寝起きにおける快感指数を決定づけるとても大きな要因となる。 「──兄さん」 あとは、起こしてくれる相手がいるかだろう。我が自慢の妹は実に優しく、天使のように心地よい朝を提供してくれるのだが…… 「おおおぅ、おあああぁぁ……」 響いた声に思わず〈呻〉《うめ》いた。うおぉ、なにこれ?気のせいか、頭の中がやたらめったら痛えんですけど。 小人さんがマラカス片手にコサックダンスを踊ってるんだけど、これいかに。なんか脳みそ、ガチ痛え。 「兄さん、どうしたの? うなされてるみたいだけど」 心配そうな声がサラウンドで頭を揺らしにかかった。タンマ、ごめんねミリィさん、大変申し訳ないんだけど今はそれ、逆効果。 いかん、割れる。マジ割れる。〈喉〉《のど》もすげえ乾いているし、水くれ、水。 と、思わず手を伸ばしたところで浮遊感が訪れ── 「うぼぁッ!?」 「きゃっ」 床へと倒れたらしいところへ、空の瓶が頭頂部へ降って来た。ごちん、と目の奥で星が舞う。その衝撃でようやく就寝前の状況を思い出した。 確か、ルシードから余り物の酒をもらって、それがあまりに美味いものだから、度数も忘れてついがぶがぶと。 珍しく一本丸々飲み干してしまい……なるほどそれでか。OK、納得。 どうやら久々の二日酔いに陥ったらしいと、状況を把握したところで〈瞼〉《まぶた》を開けた。 「……おはよう、ミリィ」 「ふふ、おはようございます」 「はい、お水。少し冷たいから身体をびっくりさせないように、ゆっくり飲んでね」 「おぉ、女神よ」 受け取ったコップを思い切り傾ける。うん、アルコールの入っていない真水の〈喉〉《のど》ごし。寝起きの身体へ浸透していくこの感覚、堪らない。 補給されていく水分にようやく潤いが戻って来たと、ほっと一息。ぶっちゃけ酔っぱらいの末路というか、情けない大人そのままの態度だが、それを眺める愛しの家族はほんのり苦笑しているだけだ。 さすがは我が妹、ミリアルテ・ブランシェ。俺とは比べ物にならないほど人間ができている。 「ごめん。つい、こう、あと一杯、もう一杯と、やめ時を見失っててさ。いやホント」 「蓋開けたときは全然そんなつもりじゃなくて、野郎、また発注ミスの在庫処分を任せやがったなくらいに思ってたんだが、これが中々の大当たりで、まあ美味いのなんの堪んねえんだわ」 「しかもコレ、ただ酒だろ? 自分の懐痛まずにこんないい物味わってるかと思うとまた、それが最高のスパイスでなぁ」 「テンションも変な上がり方したせいか、いっそ存分に味わうのがこいつに対する礼儀だろうと、思い、まして……」 …………えっと、その。 「うん、俺って最低じゃね?」 「わたしからは何も言わないけど、ルシードさんには感謝した方がいいよね。人のご厚意にはしっかり応えないと駄目だよ、兄さん」 はい、おっしゃる通りでございます。にっこりとしたその笑顔が〈眩〉《まぶ》しすぎて、ダメ人間にはとてもとても直視することが出来なかった。 ていうか……いかん、マジで駄目人間だな、俺。これから少しは自省した方がいいのかもしれん。 「んー、でも、それなら朝は軽めの方がいい?ライスはもう炊けているからお粥にしよっか」 訂正、早急に心を入れ替えるべきだわこれ。罪悪感で押しつぶされそう。 「いーやいや、これ俺の自業自得だから。気を遣われずとも大丈夫だって!」 「わーい、今日はハムエッグかぁ。ボリュームたっぷりだなぁ。油分にタンパクたっぷりかぁ、よおし、兄さん〈貪〉《むさぼ》り食っちゃうぞぉ」 「顔、真っ青なんだけど?」 「血の気が足りないってことだな。こりゃますます栄養取らねえとッ」 「ベーコンの匂いだけで吐きそうなのに?」 「荒療治、メイビー、きっとなんとかなるはず、だって男の子だからこのぐらい……うぷ。うん、いけるいける」 「ほんと?」 「ほんとほんと」 「ほんとの本当に?」 「ほんとの本当に」 「………………」 「……………… うぉえっぷ」 「やっぱり……もう、大丈夫?」 いかん、急に立ったせいか胃液がえらいことになってやがる。本気でゲロ吐く、五秒前。 しかも虚勢を張りとおせなかったあげく、背中をあやすように撫でられるというこの惨めさはどういうことか。何これ泣きそう。 「はい……すいませんこの通りです。強がってましたごめんなさい」 「だよね、ずっと目が泳いでたもん。辛いなら辛いでそんな無理しなくていいのに」 「そこはほら、兄の威厳というか、たまには保護者らしくいこうというか……お、うぼぇ」 「それなら、なおさら大丈夫でしょ。兄さんはやる時やれる人なんだって、わたしが一番知ってるんだから」 「そりゃあ、ちょっと普段はだらしないところもあるけれど、無理に格好つけないの。自然体がいいの。ありのままがいいんですー。そういう兄さんがわたしは好き」 「このままゲロっちゃっても?」 「その時はちょっだけお叱りして、一緒に掃除したらいいだけじゃない。とにかくお粥は作っておきますからねっ」 「別にもう一品作るぐらい簡単だし、手間でも何でもないから気にしないで。おネギの余りも使い切りたかったからむしろちょうどよかったの」 「あ、でも深酒は避けてほしいかな。なるべく身体に気を遣った食事を作っているけれど、やっぱり夜遅くまで飲んでいるのは、わたしどうかと思うんだ」 「今みたいに後で辛い思いもするでしょ。分かった?」 「おっしゃる通りでございます」 「よろしい。はい、それじゃあトイレへごあんな~い」 諭され、安心され、柔らかく釘まで刺された。しかもよぼよぼジジイのように、付き添われて便所まで案内されるこの始末。 もはや犬っころのように頭を垂れるしかなく、兄のつまらないプライドはボロボロになったのでありましたとさ。 あ、いかん──もうダメ。 ……それから、色々と〈リ〉《 、》〈フ〉《 、》〈レ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈シ〉《 、》〈ュ〉《 、》を挟みつつ。 上と下の排出を完了、清々しい気分でトイレから帰還した。まともに動くようになった頭で先ほどの醜態を反省しつつ、自分の身体と、そのポンコツ具合に思いを馳せる。 「内臓機能とか、上がったはずなんだがなぁ」 なんというか、本来は〈酔〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈仕〉《 、》〈様〉《 、》になったはずが毎度こうとはどういうことか。元が凄まじいレベルの下戸だったせいか、ちょっとやそっと後天的に弄った程度じゃ酒への耐性は付かなかったらしいが、これはないだろ。 それでも嗜めるようになった分、実際かなり改善はしているとか。それでも一般的な同輩共と比べると、アルコールの分解速度がかなり劣っているのは間違いない。 「もっと色んな部分を強化しておけっての」 まったく、帝国最先端の技術も大したことねえな。アストラルだの星光だの言う前に、まず体内酵素をどうにかしてほしかったわ。 〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の〈科学者〉《ぼんくら》に悪態をつきつつ、椅子に腰かけてラジオを付けた。つまみを弄り軽くチューニングすると、小さな〈砂嵐音〉《ノイズ》からすぐにニュースキャスターの声が流れ出す。 朝食の用意をしているミリィの後姿を眺めながら、流れてくる内容に、ぼんやりと耳を傾けた。 「──では、本日の帝国日報をお伝えします」 「長らく地中海沿岸部に潜んでいた反帝国勢力“グラズロフ”ですが、つい先日行われた電撃作戦によりこれらの壊滅にめでたく成功しました。首謀者のアルザ・ベイエルも身柄の拘束に成功。首都へと搬送した後、その背後関係や罪状をより明らかにする見通しです」 「さすがは我らが〈帝国〉《アドラー》の誇る精鋭部隊・〈裁剣天秤〉《ライブラ》といったところでしょう。彼らの強さ、勇猛さの前には如何なる敵も敵わない」 「星の伝説は未だ破られず。帝国に不滅の栄光が在らんことを」 ……その明らかな〈国営放送〉《プロパガンダ》に多少思うところはあったが、元軍属として、まあ野暮なことはそう言うまい。 ちびちびとコップを傾け、胃液で焼けた〈喉〉《のど》を癒す。 「いつも思うけど天秤はすごいね」 「あそこは軍でも花形だったよ。やってることが物騒極まりなかったんで、俺としてはどうも納得いかんけど」 帝国に存在する十二の部隊中、優秀な〈星辰奏者〉《エスペラント》は天秤に召抱えられるというルールがある。ゆえに精鋭。おかげで民間人や若い衆から憧れの的になっているものの、俺は少なくともアレに入りたいとは思わない。 何せ圧倒的に危険が多い。花形ってことは、前線での戦果が要求される。今回のように南部征圧へ借り出されるくらい引っ張りだこで、つまりそれは死地に送り出されるということだ。 なら安全と給料のバランス面から考慮して、〈鋼盾金牛〉《タウラス》や〈堅爪巨蟹〉《キャンサー》あたりで上等だろう。西部と南部は比較的治安がいいから、昔の俺もあそこに行きたかったものであるが…… まあ、それはともあれ。 「不敗だ無敵だ〈謳〉《うた》っちゃいるが、どう取り繕っても〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》に一度潰れちまった部隊だからな。汚点は〈雪〉《そそ》ぐに限るだろ。再編した後でも変わらず、俺たち有能だって内外に向け宣伝しなきゃいかんのだろうぜ」 「人気取り、箔付け、後は帝国内部での〈権力闘争〉《ポジショニング》といったところかね。まあちょっと派手な点数稼ぎの一環だよ」 「エンタメ風の味付けして、国民から軍への志願者増やしたいっていうのもあるわけだ。うへ、ようやるわ」 「うわ、世知辛いこと聞いちゃったなぁ。わたしにはいいけど、軍人ごっこしてる子たちの前ではそういうの言っちゃだめだよ兄さん」 「えー、いいじゃんよー、生の体験談は必要だって絶対。ガキの頃から現実きっちり知るべきだって。これでも一応、現場を知った男の声だぞ」 「だからって、小さな子供の夢や希望を壊していい理由にはなりません。将来の夢はちゃんと輝いてなきゃダメなの」 おいおい、〈英雄〉《ヒーロー》願望とかねえ。お兄さん参ったよ、思わず愉快で腹がよじれてしまいそうだ。 「うははは、ないない。俺を見ろって。軍人だろうが強化兵様だろうが所詮根っこは人間だっつの!」 一皮剥けば、誰しもだいたいこんなもんだわ。飲むしゲロるし怠けるしってよ。 「つうか、妙な力が手に入ったぐらいでなんか変わると思ってんのかねえ……って、そういや俺もその手の大馬鹿だったっけか。こりゃ参った」 「ま、なんも変わらんよ。なーんもさ」 実際、俺はそうだった。今の身体になったところで、心は変わらず小市民。すぐにビビる逃げたがりで、勇ましく変化したとは思えない。 むしろ軍で得た教訓からして、まったく逆だ。出来る人間は元からできるし、放っといたら何が何でも出来るようになっちまうというもので、そこには夢だのロマンだの、甘い希望は欠片もない。 格の違い、器の違い……これらを痛感させられた。それこそ骨の髄から髄まで。 言うまでもなくその筆頭は光り輝く〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》だ。手に入れたのは、トラウマだけだよ。 「だから俺は帝国の将来が心配だね。夢は叶う、頑張れ頑張れ諦めんな、きっと総統みたいになれるぞ我が子よ、明日は君も強化兵! ……ねえよ。そこは現実教えろよ、親の欲目が過ぎると思うわ」 あの人は、〈英雄〉《モンスター》だ。普通の尺度じゃ測れない。 「んー、またそういうこと言う。わたし達だって助けてもらったはずなんでしょ?」 「ああまで凄いと、俺みたいなやつはドン引きすんの。ヴァルゼライド総統閣下は何から何まで違いすぎでございますわ」 そう、かつての大佐殿は今や帝国の最高権力者まで上り詰めていた。 クリストファー・ヴァルゼライド〈総〉《 、》〈統〉《 、》〈閣〉《 、》〈下〉《 、》。 〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺を収束へと導いた若き英雄。鋼の使徒。 あの日感じた予感の通り、彼は帝国を救った生ける伝説となっていた。 それは、災厄から五年たった今でも、〈煌〉《きら》めきながら続いている。 命の恩人というのなら、異論なく、ああ確かに。 俺たちはあの日、獅子奮迅の活躍を見せる英雄のおかげで生きのびた。けれどだからといって、素直によかったと言えるかはまた別問題というか、なんというか。 小者はどう〈足掻〉《あが》いても小者で、逆に英雄は元から英雄だと思うし。その資格はなかなか後天的に手に入るようなものじゃないのだと痛感して、自分は選ばれた人間でもなく、そんなものを目指そうとも思えずにというのがよく分かった。 ともかく、俺にとって英雄サマはご立派すぎる。あんな化け物同士の戦い、とてもついていけないのだから。 「〈集〉《つど》え、光り輝く若者たちよ。勇壮なりし〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》で我ら〈煌〉《きら》めく礎とならん……か」 出来上がった料理を受け取り、テーブルに並べながらラジオを端へと寄せておく。聞こえるニュースはいつも通り、あけっぴろげな〈謳〉《うた》い文句で締められていた。 その広告につられて得たメリットは、はたして如何ほどだろうか。あー、なんとも苦々しい思いが胸に広がるね。忌々しい、おお忌々しい。 あげく、いま手元に残っているものが少々頑丈になった身体一つだけときた。まったく割に合わない退職金。入隊する一日前に戻ることができたなら、絶対に軍へは行くなと熱く説教かますところだ。 けど、まあ…… 「給料だけはよかったんだよなー、ちくしょう」 「〈強化兵〉《エスペラント》はエリートだもんね」 思えば中々の給金だった。あれがいま継続して手元に入っていたならば、いったいどれだけ酒と美味いもの食えたんだろう、なんて。 もはや戻らない高給待遇を思い返しながら、黙々と俺は熱い雑炊を胃に染みこませるのだった。 ネギの風味がお腹に染みる。 うん、やっぱ二日酔いにはこれだよな。 慎ましい朝食を終え、肝臓がアルコールを分解し終えたのを見計らい、大きく伸びを一つする。 頭痛も消えて、体調は元通り。せっせと寝癖や身だしなみもミリィに直され、人目に出れるよう体裁も整え完了。 では、そろそろ。 「そんじゃ行くか」 「うん」 普段通りに、俺たちは揃って自宅を後にした。  新西暦1032年──軍事帝国アドラー。  進軍、占領、統治、繁栄を掲げた北欧圏最大勢力である大国家。  城塞都市を首都に構えた国の歴史は古く、その誕生は旧世界を一掃した大破壊の直後にまで〈遡〉《さかのぼ》る。  旧西暦2578年に勃発した第五次世界大戦。それはユーラシアの六割近くを消し飛ばし、大陸の形を大きく変貌させたと共に、世界法則さえも新しい形に塗り替えてしまったらしい。  どうもそれは、今まで通りの物理学だと文明を維持することさえ困難になるほどの変化だったようで……学のない自分にはよく分からない領分だが、とにかく人類はその変わり果てた世界に適応するのを余儀なくされた。  資源も、自然も、安寧さえ尽き果てた荒廃の大地。そこで人類が〈足掻〉《あが》くこと、費やして更に一世紀半。  やがて新世界でも通用する〈日本国の遺物〉《ロストテクノロジー》を中心に、人々は集落を築き始め、国家という社会形態を少しずつ取り戻していったのだとか。  その大きな一つが、この〈軍事帝国〉《アドラー》というわけだ。  かつてモン・サン=ミシェルと呼ばれた旧歴の建造物に、何の因果か世界が壊れた衝撃で旧日本軍の施設と一部融合してしまったのだとか。  そして内部解析から得られたテクノロジーは兵器であり、力であり、暴力に通じるものであるのは言わずもがな。  そしてこれも無論と言うか、一国が破壊の炎を手に入れたならば今度はいったいどうするか……  決まっている。侵略しかない。  持っていないのだから、奪え。強いのだから、勝て。  結果、論ずるまでもない道理としてアドラーは軍事帝国という形を成した。以来世界が変わり果ててから千年間、飽きず変わらず力という理念によりこれまで存続してきたのだった。  ゆえに争い、そして勝ち、領土は増えてと順風満帆だったらしいがしかし。  順調なその先行きも、やがて侵攻速度と共に滞っていくことになる。  理由はいくつかあるだろう。たとえば他国との距離的問題や、たとえば別の秩序が複数構築されたこと、国家間の関係が複雑化したことについても大きな理由として挙げられる。  けれど何より大きな要因は、やはり〈日本国の遺物〉《ロストテクノロジー》にあったと言っていい。  帝国に軍事技術的な遺産があるとはつまり、裏を返せば他国もそれを保有していて当然なのだ。むしろ国が存続する必須条件だから強力なカードを確保できていない地方は逆に、国家の体裁を保てない。  一度壊れた頼りない世界では、力なき集団なぞ草食として食われてしまう他ないのだから。  時が経過するたびに別勢力内でも独自の解析が進み、徐々に対等へと近づいていくパワーバランス。  〈政府中央棟〉《セントラル》に名を変えたモン・サン=ミシェル。そこから読み解かれるのは、やはり軍事に携わるものばかり。そして攻め込むのもタダではなく、人的資源に兵糧などが関わって来る以上、商業国家との間で物流も必要となってくる。  つまり“資源”という明らかな弱みが生まれてしまったのだ。ならば後はどうしようもなく、武力を背景にした圧力外交が容易ではなくなった瞬間を境として、帝国は長きに渡る停滞期へと突入した。  軽々と領土を奪えなくなったことで輸入業の必要性が高まり、そしてそうする限り〈紳〉《 、》〈士〉《 、》〈的〉《 、》な対応を必要とされ、他国への依存と需要は嵩を増す。  強引に侵略しようにも、敢行すれば待つのは自滅だ。  よって、数世紀にわたって繰り返されるのは国境間での小競り合い。  名ばかりの軍事的衝突と、緩やかな疲弊。  ゆっくりと色〈褪〉《あ》せていく帝国の未来はしかし、ある新技術の発見によって未曽有の黄金時代へと突入した。  それが、〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》。  通称、“強化兵”を生み出す人体改造技術。  地球上に満ちる不可視の粒子、〈星辰体〉《アストラル》との感応能力を獲得した新世代の人間兵器というわけだ。  一人一人が最新鋭の戦車すら凌駕するという、脅威の兵士が世に生まれてから、早十年。軍事帝国アドラーはまさに、破竹の快進撃を遂げている最中である。 「おかげで景気もいいこって」  大通りを行きかう人々の表情は明るく、買い手も売り手も関係もなく首都は活気に満ちた顔をしていた。  店先で並んでいる商品の多様さは、俺が子供の時分より遥かに豊富で、それを購入する人物もまた上流階級に留まっていない。  今まで手の届かなかった値段でも、少し貯金すれば手に入るようになったのだろう。国民全体の間で金回りがよくなっていることの証明だ。こういう光景を最近はそこら中でよく見かける。  笑顔で人波を駆けていく子供たちに、喫茶店で井戸端会議に〈勤〉《いそ》しむ主婦。帝国の変化を喜ぶ老人は総統閣下を讃えながら、駐在している軍人へ晴れ晴れとした顔で会釈をしていた。  それを見守る兵隊さんらも感謝を受けて物おじせず、〈且〉《か》つ居丈高にした気配もない。  なぜなら誇り高き帝国部隊は、そして彼らに敬意を示す市民たちは、若き英雄ヴァルゼライド総統閣下を心の底から拝しているから。彼に憧れて軍へ入った若い世代と、彼を崇拝している人々は同じ志で満たされている。  民衆の支持は絶大で、どこを向いてもこういう具合。  光と喜びに満ちている。ゆえに疑うべくもなく帝国は今、世界でもっとも幸福に統治された国なのだろう。  まあ、それは確かにいいことなのだが。  けれど、忘れてはいけなかった真実もある。  他国も必死であり、彼ら部外者から見れば帝国の繁栄が面白いはずもなく。  〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》が送り込まれたのは、つまりそういうわけなのだから。  五年前の惨劇、〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺と名付けられた、あの炎と敗亡の痛み。  死者、約七万三千人。負傷者と行方不明者も合わせれば十万を超える犠牲者を生んだ帝国史に残る大惨劇は、それこそ何の前触れもなく訪れて、天災のような唐突さにより帝都の一角を焦土に変えた。  主犯はかつて遭遇したマルス、ウラヌスと呼び合っていた異形ども。  軍の正式発表によればあれらはカンタベリー聖教国の生み出した最新鋭の人造兵器という話らしく、なんでも〈日本の遺産〉《ロストテクノロジー》を研究したことで〈星辰奏者〉《エスペラント》に通じるアストラルの軍事利用に成功した成果がアレらしい。  そんな代物を、なぜあの〈日本崇拝国〉《ジパングマニア》が造り出せたかは知らない。  たった二体をいきなり投入してどうするつもりだったのか、どうして総統閣下を意識しているような態度だったのかは、今でも見当つかないが、まったくどうでもいいのであれから何も考えていなかった。  悪夢は忘れるに限る。英雄は気の向くまま怪物と遊んでいればいいんだ。  皆の幸せのためにとか、未来を守るためにとか、好きに格好つけてくれ。  実際、それであの人は伝説を打ち立てた。英雄となった。  恐るべき他国の新兵器を打ち破った若き大佐は──ついに総統の座に至り、帝国を象徴する刃と化す。  〈ま〉《 、》〈さ〉《 、》〈か〉《 、》いうか、〈や〉《 、》〈は〉《 、》〈り〉《 、》というか、あの時予感した通り彼は奴らに打ち克ったのだ。大衆受けする展開を実現させ、見事に悲劇を洗い流した。  万の喝采を浴びながら王座へ座るその姿を、帝国民で誇りに思わぬ者はいないが、まあ。  その瞬間を直に見た者として、ひねた意見を一つ言わせてもらうなら。 「とても付き合いきれんわな……」  その言葉に尽きてしまう。  あの人は、〈遠〉《 、》〈く〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈眺〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》だ。直に会った上で近づこうとしていい人種じゃない。  だから、もうあんな展開とは縁を切ったということと、なんとか生き延びたという事実だけにほっとする。  こうして生きている現実には感謝しかない。  五体満足で、日々だらだらと。  気負いも責務も何もなく、ただ気ままに生きれば人間幸せになれるものだ。  そして、何より── 「あれって……ねえ兄さん、あの店ちょっとだけ見ていいかな」 「おう、好きなだけ見てくりゃいい」 失意の底に落ちたあの子が、成長して、笑顔でいる。 これだけで、俺には十分すぎるというものだろう。 ほら見てみろ、小走りでショーウインドウに駆けていく我が妹の可愛さよ。まったく世の中天国である。 「うわ、うわ、うわぁぁ──」 ガラス越しに目的のものを覗き込むミリィの口から、恍惚といわんばかりのため息が漏れた。目は金平糖のようにキラキラと輝きオモチャを前にした子供のように輝いている。 で、視線の先にあるのは何かというとだ。 「ジャカール社製の〈情報演算機〉《コンピュータ》用穿孔機。軍部からの型落ち入荷、それもチャーリー・ベインの手がけた完全オーダーメイドっ」 「いいなぁ、すごいなぁ、中も緻密な作りしてるんだってこれ。〈分解〉《バラ》して研究できたらいいんだけど……うぅ、値段が」 ドレスでも飾り物でも食べ物でもない。およそ女性の好むものとは圧倒的にかけ離れた、無骨な工業製品が鎮座していた。 「どれどれ……って、えげつないほど高いな」 「けどこれでもまだ格安かな。仮にも軍の研究機関で使われていたものだから、これが一昔前のものでも秘匿性の高い情報には変わりないもの」 「以前まで使われていた規格情報は下手をすると機密保護法にひっかかるかもしれないくらいだし。あ、そうなるともしかしてダミー? 最初から国外に流すのが目的で見やすいように置いてるとか」 「それならこの値段と箔付けの理由も分かるんだけど……んー、手に取らないと分かんないね」 ぶつぶつと思考に埋没しながらモノを観察する姿は、さすが機械類や鉄鋼類を手掛ける〈鉄機手芸技師〉《エンジニア》の端くれというべきか。多分に興味が入り混じっているものの、完全な職人の目になっている。 日々、あの偏屈爺の下でしごかれながら幾度となく鋼鉄に細工を施し、製品を錬成し続けているだけに、態度は真剣そのものだった。〈穀潰し〉《ヒモ》寸前の俺とは違い、職業意識の高さに関してはやはり比較にならないらしい。 なのでそういう立派なミリィに対し、ここは一応兄として買ってやるぜと言うべきなのだが…… 「120000ディナールって、おま」 あかん、無理だ。あんな高いのに手を出したら塩と砂糖で半年は生きなきゃいかん。しかし面と向かって駄目とも言えない心境に、嫌な汗をかきながらそっと目線を逸らすのみ。 「えっと、まあ、何だ、その」 すまないミリィ、駄目な兄貴を許してくれ。無理に働いて稼ぐのもひもじい思いするのも男の見栄を張ることも、俺にはちょっと向いてないんです、はい。 「ふふ。いいの、気にしないで」 「少し目に留まっただけだし、あんな高いの買えないし、第一わたしが師匠みたいにうまく見抜けないのが悪いんだから。むしろそんな顔された方がちょっと恐縮しちゃうよ」 「……甲斐性なしでガチすいません」 「そんなことない、わたしをここまで育ててくれたのは兄さんでしょ。あなたがいてこそのミリィなんだから、ここはドヤッて顔してればいいの。見たか、俺の教育はすごいだろって」 「いや、そりゃ口が裂けても言えんわ」 誰がどう見ても養われてるのこっちだからな。 「そうかもしれないけど……だからね、きっとそれがよかったの」 「兄さんのために家事をしたいと思ったのも、世話を焼くのが楽しいと思えたのもそのおかげ。だからきっと、ここまで成長できたのです」 「それどころかこんなことで見栄を張ったら怒るよ、わたし。家計簿を預かる身として余計な出費は許しませんっ」 「でもたまにはな、年長者のリーダーフラッグ的なうんたらかんたらで」 「それなら仕事や趣味の贈り物じゃなくていいから。むしろ、そっちの方がいいっていうか」 そう言いながら、少しだけ照れくさそうにはにかんで。 「わたしのことを想って選んでくれたら、なんでもいいの」 「兄さんのプレゼントは、それだけで一生の宝物だもん」 ──ええ子や。真っ直ぐな心に感動し過ぎて、兄さん思わず目から雫がキラリだよ。 ちょっと情けなさや恥ずかしさが配合されているものの、熱い瞳を拭いながらながら空を仰いだ。見てますかご両親、この子はとても立派な成長を遂げています。 「ぶぅ、なんか求めてたリアクションじゃない」 対してミリィは肩を落としながらぷくりと頬を膨らませてご不満らしい。子犬のように愛らしいが、はてご立腹のようである。 「そうか、逆に兄さんは大感激だぞ! ミリィ可愛い、ミリィ最高」 「ううん、嬉しいんだけど素直に喜べないこの感じ」 「……先は長いなぁ」 そっと〈呟〉《つぶや》いた言葉に胸の奥が〈微〉《かす》かに痛む。しっかりと耳に捉えていたことで罪悪感が募るが、まあそれは勘弁してほしい。 これ以上は、ちょっと壊れてしまうから。 「なんか、分かんないけどゴメン」 「もういいの、いつものことだよね」 なんて、ため息吐かれてつらつらと。 しっかり者の妹に諭されたり甘やかされたり、勝手に俺が凹んでみたりなどしつつ、じゃれ合いながら目的地へ歩を進めていく。 朝からどころか、五年前よりこの調子。それはきっと、これから先もこの関係は変わらないってことなんだろう。 それもまた悪くない。 〈星辰奏者〉《エリート》の肩書き? 何それ要らね。凡人上等。イエス、アイアム一般人。 気軽なこの〈現状〉《いま》こそが俺にとってパラダイスで、この何気ない時間もまたささやかな幸福の一幕だった。 「ちぃーっす。来たぞー、爺さん」 そして目的地に到着。家主に遠慮なく中に入ると、〈途端〉《とたん》に〈仄〉《ほの》かな刺激臭が鼻をついた。それは鉄と錆、火花の跡がもたらす独特の臭気だ。 いわゆる鉄鋼業特有の作業臭であり、この作業場に所狭しと置かれているよく分からん作業機械から〈鑢〉《やすり》に〈鋸〉《のこ》に〈窯〉《かま》に〈螺子〉《ねじ》と、あらゆる品から少しだけ醸し出されている。 とはいっても、決して汚れているわけではない。道具そのものはどれも入念に手入れが成されたものであり、持ち主のストイックさを反映してか状態については完璧である。 仕事第一、昔気質と言わんばかりの〈工房〉《アトリエ》は清々しいほど典型的で、まさに見たまま〈鉄機手芸技師〉《エンジニア》の工房ですという内装だった。 そう、ここがミリィの勤め先。 見習い技師である妹と、その師匠である頑固爺の住処であった。 「五月蠅いわ、この〈盆暗〉《ぼんくら》が。〈餓鬼〉《ガキ》の送迎一つこなした程度で、さも労働したような顔をするな〈鬱陶〉《うっとう》しい」 「そこの馬鹿弟子も突っ立ったまま無駄な時間を過ごすな、早くしろ」 「はい、師匠」 言ったきり、弟子の返事に耳すら貸さず黙々と己の仕事をこなしていく姿は偏屈の二文字そのままと言っていいだろう。 ちなみにこれで普段通りなのだから、なんというか、語る言葉が見つからない。ジン・ヘイゼルというこの爺様は、特に機嫌が悪いわけでも何でもなく、基本ずっとこうなのだ。 無口、辛辣、不愛想。ついでに客さえこき下ろす。 おまけに仕事の窓口さえ馬鹿の相手は疲れると言い、お抱え先のグランセニック商会に任せているという、あんた客商売どう思ってんのと感じる時は枚挙に暇がないのだが…… いかんせん腕が抜群に良いためか、今まで仕事が入っていない場面というのを知り合ってから見たことなかった。 まさに実力一本。人格に問題はあるが腕前は超一流。『〈鉄機手芸技師〉《エンジニア》の質と量が国力を決める』という言葉があるように、その技術だけを武器に口に糊をしていることには感服する。 だからこそ、これだけの技師が国家専属になっていないのかという点についてどうも〈腑〉《ふ》に落ちないのだが…… まあ、スカウトも蹴っているんだろう。少なくとも組織でやっていけるそうな人間じゃないのは一目で分かるし、他人の事情に首を突っ込む趣味はなくそれはあちらも同じだろうから。 興味がないのか、ジン爺さんは俺たちの事情に踏み入ろうとはしない。それはありがたいことだった。弟子であるミリィさえ、せいぜいそこそこ使える小娘といった評価だろうか。 たとえば、今のように。 「……よしっ。師匠、仕上がりましたのでチェックをお願いします」 「見せろ」 〈一瞥〉《いちべつ》し、差し出された懐中時計を淡々と〈検〉《あらた》める。 〈皺〉《しわ》の刻まれた眉間を微動だにせず、不機嫌そうな顔で文字盤と重さを確かめるような所作を数秒。採点し終わった〈途端〉《とたん》、ぞんざいな手つきで弟子の元へ投げ返した。 「削りが甘い。重心が0.2ミリ右へ余分だ。引き輪についても癖がある」 「取りまわしを考慮した結果だろうが、やるのなら耐久性を落とさずこなせ。鎖やぜんまいより〈脆〉《もろ》くなってどうするのだ」 「満足にこなせているのは〈依頼者〉《クライアント》の要望である無駄に凝った装飾だけか。どうでもいい部分が巧い」 「しかし、阿呆どもにはこれで十分なのも事実か。これ以上の良し悪しなど連中には理解できん領域だからな、腹立たしい」 「……まあいい、情けで及第点としてやろう。次にかかれ」 「ありがとうございます!」 舌打ちして不服そのものという態度だが……信じられないことにこれでも十分評価しているらしいのだから、もはや筋金入りというしかない。 「相変わらずきついな、あんた」 「抜かせ。実力のない技師など、見るに耐えん〈塵屑〉《ごみくず》だ。そこらの木端と同じ域で語るようなら、そもそも敷居を〈跨〉《また》がせとらんわ」 「看板を出して大成したつもりの凡愚が多すぎる。それに比べれば、〈弟子〉《あれ》は幾らか見れる方だと正当に評価しておるとも。儂には劣るが腕のある者に仕込まれたな」 「血と環境がよかったんだよ。俺と違って出来がいいのさ」 ミリィの両親は生前、軍の研究機関に勤めていた優秀な技師だった。そして彼女は幼いながらも親の仕事に興味を持ち、光る才能を秘めていて、父母もまたそれを喜ばしく思っていたから……後は当然の成り行きというやつだろう。 身に染み付いた技術は財産になり、家柄や家族を失った今でもあの子の支えになっている。 少なくとも優れた技師はどこに行こうと引く手数多だ。このまま順調に腕を磨けば、いずれ一角の人間として大成するのも夢じゃない。 ゆえに尚更、そこで褒めないのがこの爺だ。弟子の優秀さ、認めていないわけではないが〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》、くどくどと。 「ふん、芽があるのは認めよう。しかし執念の欠如が鼻につく。あれでは壁を越えられん」 「真っ当、〈無垢〉《むく》、純真清涼、正気の〈箍〉《たが》──つまらんつまらん狂が足らんわ。鋼の秘伝を〈渇〉《かつ》えん限り儂の影すら踏めぬだろうよ」 それが惜しいと、鋼で出来た己の〈義手〉《うで》をじっと見つめている姿が不気味でならない。 そういう物騒な師弟愛はまったく勘弁してほしいし、実際そうなったら止めるだけだ。 この爺様が何を犠牲にしてきたかなんて、こちらは知ったこっちゃないのだから。 「でだ、貴様いつまでここにいる? 目障りだ。〈疾〉《と》くと去ね」 そして、やはりあちらにとっても未練みたいなものだったのだろう。何事もなかったように、今度は俺を〈睥睨〉《へいげい》してきた。 「殊勝にも阿呆坊主から日銭を稼ぐつもりなら、〈餓鬼〉《ガキ》の絵空事を持ち込むなと奴に伝えておくがいい」 「机上の空論、話にならん」 言いながら、紙の束を乱雑に押し付けられた。持っていけ、あるいは捨てろということだろうが、どうして俺によこすのか。 まあ実際、あんたの言う〈阿呆坊主〉《ルシード》のところに足運ぼうとは思ってたし、手持ち無沙汰だから忙しいとは言えないけどさ。 で、書かれている内容に関して軽く目を通してみたが……うん、さっぱりまったく理解できない。専門用語ばっかりで頭痛くなるところへ、同じくこの紙面へ向けた爺の罵倒が追撃する。 「金属抵抗を発生させろ? それを儂に再び試せと?無知蒙昧な商国の〈戯〉《たわ》けどもが。このような手法で旧世界を再現できると思うてか」 「はぁ、何じゃそら」 おかしなことを言うなよ爺さん、明らかに変なこと口走りやがって。 さすがの俺も首〈傾〉《かし》げるわ。だってそうだろ。 「金属に抵抗って、そんなの普通あるわけねえじゃん」 〈抵〉《 、》〈抗〉《 、》〈値〉《 、》〈が〉《 、》〈無〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈金〉《 、》〈属〉《 、》〈の〉《 、》〈特〉《 、》〈徴〉《 、》だと、今日び子供でも知っている。 常識的に考えて鉄は、電気を素通りさせるもの。そうでないとラジオも戦車も機関車だって動かないと、俺でさえ知っている。 文字通り、当たり前のことだろう。 「ふん──訂正だ。〈餓鬼〉《ガキ》の妄想も無知よりはマシかもしれん」 なのに笑われた。おまえ、心底塵だなと。くそう、頭いいからって調子乗んなよ……この〈糞〉《くそ》ジジイめ。 ていうか、おかしいだろ。俺の言うことは全然間違った知識じゃない。なのになぜかミリィも、困ったように〈曖昧〉《あいまい》な顔をしているのはどうしてか。 「そうだね、兄さんの言うことは正しいよ。確かに〈新西暦〉《いま》ではそれが常識」 「けどね、〈旧西暦〉《むかし》はまったく違ったの」 「大破壊以前、千年前の世界だと金属には抵抗値が存在していて、それぞれまったく異なる値だったんだよ。それこそ千差万別という風に」 「金、銀、銅、鉄でも電流の通りにくさが違ったり、流すと熱が発生したり、元素や配合の差によってまた変化が起こったり……とにかく今より複雑なのは間違いないと言われているかな」 「兄さんは読んだことないかもだけど、前時代文明を題材にしたSF小説だとよく設定として使われているんだよ。大破壊を区切りにした変化の中でそれが一番大きな違いだったらしいから」 マジでか……にわかには信じられんが、ミリィが言うならそうなんだろう。 爺さんも当然のように聞き流しているところから、これが知識人にとって常識なのは恐らく間違いないことらしい。 「でね、そういった各種性質の異なる金属を掛け合わせることで、昔の人は、抵抗値の差を最大限に利用しようと試みたの」 「それは信号の多様化。変化する値は電気工学を複数の分野に発展させた。そして旧暦の20世紀後半、高度な演算処理装置が誕生することで技術の進化はより顕著なものになったんだよ」 「確かそれの名前が、なんとか……えっと、なんとかチップ──」 「ポテト?」 「黙れ〈盆暗〉《ぼんくら》、貴様の頭こそ芋か。〈集積回路〉《ICチップ》というのだ」 「主にトランジスタやダイオードに代表される〈半導体素子〉《ソリッドステート・デバイス》を組み合わせて造り出された、電子回路の一種でな。今の世界では淘汰された代物だが、かつて世界を支えた根幹技術の一つだった。要は主要部品だな」 「もっとも、今となっては〈骨董品〉《アンティーク》よ。旧世界を検証する歴史的な〈遺物〉《かせき》であったが……再利用も出来んだろうな」 「え、し、しし、師匠っ、もしかして実際に見たことが──!」 「〈戯〉《たわ》けが、色めき立つな。言ったであろう〈骨董品〉《アンティーク》だと」 「金属抵抗という値は存在せず、どれも変わらず一律〈零〉《ゼロ》……この儂らにとって常識である物理法則がある限り、電子回路は機能せんよ。先におまえが論じたものとまったく同じ理由によって」 「そ、そうなんですか……うう、でもでも、一度でいいから触ってみたいっ」 これこれミリィさんや、旧時代の技術を想像してか〈悶々〉《もんもん》と身体をよじらせているのはどうかと思うぞ。兄さん、そこはちょっぴりおまえの将来が心配だなあ。 しかし、聞けば聞くほどけったいな話だ。つまりあれか、こういうことだろ。 「なあ爺さん。さっきから聞いた感じだと、千年前の世界じゃあ金属はあんまり電気通さないってことだよな? なんせ抵抗するんだから」 「そうだな。少なくとも多大なロスが付き纏うのは間違いない」 「裕福な国ほど大掛かりな発電施設と送電システムを備えていたらしいが、それでも生じたエネルギーの大半は無駄に散乱したと聞く。電線を通る際、既に発生時の一厘を切るという話だ」 「〈蓄電機〉《バッテリー》という電流を溜める装置が存在していたものの、それでさえ一切の減退なく保存するのは不可能だ。こちらもまた滅んだ技術の一つだが……」 「ともあれ、旧暦の人間に語れば目を回すような燃料効率の中で、我々は日々の生活を送っているのは確かである」 はあ、そりゃまた。俺としては大昔の非効率っぷりに思わず頬が引きつるよ。 昔の人間に同情だ。なんて無駄の多い世界だったのやら。 「ゆえに、現状の発電効率こそかつてあらゆる科学者が追い求めた夢なのだ。これを常温超伝導と言う」 「あらゆる国家や科学者が実現を目指し、その生涯を捧げたようだ。無論、晩年においては語るに及ばず。資源枯渇問題に直面した人類は、よほど躍起に目指したらしい」 「もはや素のまま通電させれば、火力も水も風も光も、そして核さえ、残った資源は〈容易〉《たやす》く底を尽きかねん。それほど世界中が困窮していた瀬戸際、ついに極東の島国が次元間断層から〈と〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈粒〉《 、》〈子〉《 、》の抽出に成功する」 「それが〈星辰体〉《アストラル》──充満している環境において、通常のそれと異なる特殊な解を金属へと発生させる、三次元の外から生じた素粒子だ」 「恩恵を受けている身としてはどうだ。なあ、〈星辰奏者〉《ごくつぶし》」 「ノーコメントで」 便利ではあるし、万能感もあるが、今はご覧の通りなのだとお手上げのポーズを取った。あんまりほじくり返してほしくない部分なため、さっさと白旗を上げておく。 ただ、アストラルに関してはなるほど、そういう来歴で生み出されたわけか。知らんかった。 「貴様、強化措置を受けた際に講義を受けてはおらんのか?あれは確か義務だろう」 「聞き流すだろあんなん。まあ、基本的なとこは覚えてるけど」 旧世界において増えすぎた人類。燃料類の枯渇による資源争奪。そして、現状を打開するための開発競争が開始された……とかなんとか言ってた気がする 小難しい理屈は覚えていないが、要は『エネルギー問題を解決できた国が今後の世界のリーダーだぜ』という雰囲気から、民族だの威信だの〈沽券〉《こけん》だのと色々こじれて戦争に〈繋〉《つな》がったと聞いたのは覚えていた。 確か、日本がアストラルの抽出・制御技術を生んだ〈途端〉《とたん》、いきなり寄こせと西隣の大陸から喧嘩吹っかけてきた国があったとか。思い出そうとしている俺をミリィはすらすら補足した。 「戦争の口火となったのは、大中華連合の独断による〈大和〉《ヤマト》──日本国への侵攻だね」 「それに続く形でアストラルの技術を求めた主要国家が次々に参戦……全世界を巻き込んだ旧暦最大にして最後の戦争、第五次世界大戦が始まったの」 「そして最後は新型のアストラル兵器を日本が投入するも、あえなく暴走」 「結果、ユーラシア大陸の東半分が消滅。傷ついた地表を星ごとアストラルが覆い尽くし、旧西暦はその歴史に幕を閉じたというわけだ」 それが〈大破壊〉《カタストロフ》──大陸と共に物理法則ごとぶっ壊された、歴史の節目というやつか。 「物知りだよな、二人とも」 「浅学の輩が言うな。歴史書のいの一番に書いておるわ」 うるせえやい。元孤児が上等な教育なんぞ受けられるかよ。 仮に裕福な家柄でもきっと覚えてなかったんだろうな、とは〈勿論〉《もちろん》ここでは口にしないが。 しかし既存文明が変化を余儀なくされた一大変化ねえ。それについては多少理解できたけど、だからこそますます分かないことが一つ。 「話を戻すけど、てことはやっぱり昔は相当不便だったんだよな?」 「鉄に電気通り辛くて、燃料なくなって、結局大戦争まで起こしたんだろう? ならどうして今更そんな状態にしてみようとか、変な案が持ちこまれるんだよ」 だからそこが疑問だった。こうして聞く限り、金属抵抗なんて百害あって一利なしに聞こえている。 少なくとも俺はそんな旧時代の金属なんて欲しくないし必要だとも思わない。石油をバカスカ燃やしつつ、電気を常に溜めておかねば維持できない社会だなんて、今の方が誰に聞いても住みやすいと言うはずだろう。 なのでそんな理論そのものが存在するということ事態、どうにも俺は〈腑〉《ふ》に落ちなかった。机上の空論はいいとして、そもそも実利が見られない。 などと思ってみたのだが、目の前の師弟にとってはどうやら違うらしかった。妹にまで困ったような顔をされる。はいはーい、ごめんなさーいねー、頭悪くてすーいませーん。泣くぞコラ。 「小僧、貴様は三歩で忘れる鶏か? 話の頭がもう抜けたのか?救いがないわ。塵が。死ね」 「ほ、ほら兄さん。〈集積回路〉《ICチップ》だよ。それをもう一度作るのが抵抗値の有無に〈繋〉《つな》がるの」 「そうなれば電子回路を搭載した〈演算装置〉《コンピュータ》を、現代でも再現できる。旧暦の研究環境を新暦に復活しようとあの論文には書いてるわけなの」 ……ああ、そこで最初に戻るんだ。 「はあ、つっても計算なんてそろばんで十分だと思うんだがなぁ。もしくはほら、今あるパンチ穴あいた紙にガコガコいって通すやつとか、もうあるじゃん」 わざわざそんな、頭いい機械復活させても使い道とかあるのやら。などと思うが、頭のいい方々にはどうやらまったく違うようで。 「救いようのない能無しよな。真と違わぬ〈仮想実験〉《シミュレーション》、精度の高い〈大量生産〉《マスプロダクション》、色〈褪〉《あ》せぬ〈数値記録〉《デジタイズ》……適当に思いつく限りでこれよ。やれることなど無限にあるわ」 「そうっ、何より現在の生産業そのものの形態が大きく変わらざるを得ないんだよ!」 「わたし達の生活はあらゆる物が〈手工業〉《オーダーメイド》で成り立ってるでしょ? 複雑で精密な作業ほど長年積み重ねられた技術力が要求されるし、出来ないことは出来ないからやれる人間がやるしかない。それが今の職人ブランド信仰に〈繋〉《つな》がっていて技術職の優遇制度を支えているの」 「けれど人間である以上、体調や気分にはどうしても左右されるよね。それにどんな達人でも以前とまったく同じものを、それも大量に作ることは当たり前に難しい。さらに生産者が鬼籍に入ってしまった場合、優れた後継がいなければどれだけ素晴らしい〈技術〉《わざ》であってもぷっつり失伝してしまう」 「〈人の実力〉《マンパワー》に依存した社会の弱点だよね。もったいないね。悲しいね。でも傑作を生み出す機会が多い反面、安定した供給に不向きなのは生産業の宿命だから仕方のないことなんだよね。不慮の事故にもすごく弱いし」 「個人をどれだけ尊重しても無形財産そのものを長期に渡って記録することは誰にも出来ない。そして今の手回し式や歯車式だと、どうしてもミリ単位の作業では高確率で幾らか誤差が生じてしまう。不良品を廃した上で一定以上の高品質を求める限り人の手には絶対的に頼らざるをえないんだよ」 「しかし、しかしっ、それを何とかしてしまうのが旧暦の工業機械とそれを制御する演算機! 疲れ知らずで真面目に愚直、一度覚えた仕事に関して半永久的に忘れないというお利口さん! 皆に優しい庶民の味方、安い労力と対価で一定水準の物品を作り続けることが可能になるの。キャー、素敵!」 「ね、すごいでしょ兄さん!」 「──お、おう」 うん、すごいね……その勢いに兄さんたじたじだよ。 「けど、そうなると問題になってくるのが、昔と同じ費用対効果のバランスなんだよね。動力周りには今の法則を適用させておかないと、ものすごい燃費の悪さで高価な置物になっちゃうもの」 「あ、それとね、実は石油も昔の方が発生できる出力は抜群に大きかったんだよ! けどその分、燃焼も激しいせいか消費速度が桁違いに速いんだって。つまり私たちは旧暦と比較して、常に省エネしてるみたいな状態にあるの」 「燃料資源から一度に取り出せる火力量に比例して、文明は成長限界点を定めるからね」 「わー、すごいやー」 そして何だ、この子の言っている内容がまったく理解できていない。そこに懸ける情熱とか職人魂はもうこれでもかと伝わるのだが、内容に関してはちんぷんかんぷん、さっぱりである。 ていうか、ちょっと顔が近すぎませんかねえミリアルテさん。〈傍目〉《はため》から見ると押し倒さんばかりの勢いですけど。 なんか年頃のいい香りがやっべいかんいかんって感じでけしからんのだけど、タンマタンマッ。 ほらそこ、白けてないで助けてジン爺。俺もう馬鹿でいいからさ──! 「そこの阿呆ども、ここで盛るな。砕くぞ」 「──ふぇ? は、わわわっにに兄さん、ひゃぁぅっ」 瞬間、真後ろにスライドしたかのような俊敏さで俺の上から遠のくミリィ。顔は真っ赤でなにやらあわあわ言っているが、まあともあれ助かった。 押し付ける感じになっていた胸のふくらみに関しては、兄として喜ばしい成長の一つとしておこう。なのでちらちら、乙女っぽい雰囲気で見ないでほしい。煩悩よ去れ。 「頭は冷えたか、馬鹿弟子が。理想に〈入〉《 、》〈れ〉《 、》〈込〉《 、》〈む〉《 、》のは結構だがここではやるな。〈鬱陶〉《うっとう》しい」 「はい、申し訳ありません……」 「それに何やら熱を感じているようだが、儂は然りと断じたはずだぞ。所詮これら、〈餓鬼〉《ガキ》の妄想であると」 「そもそも前提からして現実を見ておらん。アストラルを完全に遮断できる環境なり技術なりが、この世のどこにあるという?」 まあ確かに。大破壊の前後における最大の違いはアストラルという粒子の有無で、単純な話それを空間から取り除くことに成功すれば理論上、確かにこの話は実現可能となる。 しかし爺さんの言葉通り、そんなことは不可能だ。なにせ原因は〈粒〉《 、》〈子〉《 、》である。小さすぎてまず見えないし、仮に確認できたとしても掴めないので取り除けない。 大気中に、物体の組成間に、そして人間の体内にと、地表上のあらゆる場所にアストラルは満ち溢れている。〈星辰奏者〉《おれら》に至ってはたぶん細胞の隙間にさえ浸透しているはずだから、極論、帝国軍が健在な内は絶対に不可能な話ということ。 そして仮に、大規模な珍事が起きて世界中からアストラルが一掃されても、すぐに無駄となるだろう。なぜなら── 「つまり、〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》が塞がらないと不可能か」 ──天に輝く、〈第二太陽〉《アマテラス》。 次元に穿たれた宇宙の〈孔〉《あな》は一時も休むことなく、地球へ向けて〈星辰体〉《アストラル》を吐き出しているのだから。 「ほう、〈流石〉《さすが》に知っておったか」 「経歴が経歴だからなぁ」 用いている〈星辰〉《チカラ》の根源が関わってくるせいか、それだけは耳にタコが出来るほど聞かされたし覚えていた。 第二太陽──アマテラスは一見して恒星のように見えるがその真実はまるで違う。 隊長〈曰〉《いわ》く、アレは次元に空いた〈孔〉《あな》らしい。別位相のドコカと〈繋〉《つな》がったまま、傷ついた地表にアストラルを供給し続けているのだとか。 なぜ空に〈孔〉《あな》が出来たまま固定されているのか。不思議に思って問いかければ、空間の自然補修能力や〈重力崩壊〉《ブラックホール》を例に出して説明されはしたものの……九割理解が及ばなかったが、しかし。 唯一読み取れたこともあった。どうもあれは、〈不〉《 、》〈安〉《 、》〈定〉《 、》〈な〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈完〉《 、》〈全〉《 、》〈な〉《 、》〈安〉《 、》〈定〉《 、》〈状〉《 、》〈態〉《 、》にあるらしい。 存在する次元の位階が違うせいか、それこそ本物の太陽をぶつけてもあのまま残り続ける可能性が大きいんだとか。最低でも超新星爆発を起こせる程度の恒星を用意し、事象の地平に干渉してうんたらしないと、どうたらこうたら……言っていた。 次元の位階って何それ、と思わなくもないのだが当時隊長の〈評価〉《ポイント》を気にしている俺はそういうものかと納得した。 ともあれ重要なのは、あそこからアストラルは垂れ流しにされており、〈且〉《か》つ発生源が不滅という点にある。さっきの空論が妄想扱いされているのも、説明されれば納得だった。 そして、ならばと詳しい調査をするのもまた不可能。 「確か近づくことも出来ないんだっけ」 「アストラルを含む大気は、その比率に応じて空気抵抗を増大させるから。〈旧暦〉《むかし》は機関車より飛行機類が主流でね、鳥より速く空を飛ぶんだって」 「ロケット、ミサイルといった超長距離を飛ぶ利器も真っ先に廃れたそうだ」 空飛ぶ機械たちねえ、想像して股間がキュッとなりそうだ。 千年前は大砲の弾も陽気に遠くへ飛ぶんだぜ、とは酔った同僚の言葉だがまさか真実だったとは。いつか地獄へ堕ちた日には、先に逝ったあいつへ馬鹿にして悪かったと謝らなければいかんだろう。 しかしまあ、なんだ。 「金属に干渉し、空気抵抗を増やして、燃料の効率まで変えたあげく、人間におかしな〈星辰光〉《チカラ》を後付けさせる……」 どれもこれもあいつの仕業。 「結局、アストラルって何なんだよ」 「さてな」 どこか捨て鉢に、珍しく〈微〉《かす》かな諦観を滲ませながら爺さんは〈呟〉《つぶや》いた。 「初めてそれを手にした〈日本〉《くに》は、虚しく滅んだ。それだけは紛れもない確かな真実なのだろうよ」 ……なるほど、君子危うきに近づかず。分不相応なものには手を出すな。 分からないものは分からないままで役立つのだから、変なところに踏み込まず、上手に使って生きていこうというわけだ。 人が存在する限り流通は必ず生まれる──社会を存続させる商業は軍事帝国においても変わらず、必然として他国との関係性を紡いでいた。 アドラーが国策として力を入れている分野は、銃器、兵器、鉄鋼業と共通して鉄や鋼に分類される。あとはアストラルの人体干渉技術が頭一つ秀でてはいるものの、当然そこから割り出されるのは長所に隠れた欠点だ。 すなわち、酪農に代表される第一次産業。とりわけ水産、畜産に関しては商国連合が大きく幅を利かせており、我が国はそこに後れを取っていると言わざるを得ない状況だった。 当たり前のことなのだが、どれだけ工業技術が優れていても腹が減っては生きていけんというわけで……必然として国と国と間では古くから輸入業が行われていた。 帝国のみならず他国もまた〈別〉《 、》〈ベ〉《 、》〈ク〉《 、》〈ト〉《 、》〈ル〉《 、》〈に〉《 、》〈先〉《 、》〈鋭〉《 、》〈化〉《 、》〈せ〉《 、》〈ざ〉《 、》〈る〉《 、》〈を〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》という背景がある以上、奇妙な形でそれぞれが相手国を必要とする関係性が構築されたのだろう。これもまた、〈日本の遺産〉《ロストテクノロジー》が生み出した因果の一つと言っていい。 日本の技術は荒廃した世界における命綱。それを頼りに発展してきた結果、獲得した技術の種類が国それぞれの特徴と〈方向性〉《つよみ》を大きく決定づけてしまったのだ。 ゆえに、〈自国〉《うち》はアレがあるけどソレが足らん。けれど〈他国〉《あちら》はその逆で、という風な関係から物流関係のインフラはどこにおいても厳重な検査機関の置かれた国家の〈最前線〉《ライフライン》となっていた。 まあなにせ、帝国のみならずどの国も相手の抱えた〈遺産〉《おたから》を虎視眈々と狙っているのだ。 荷物に紛れて〈間者〉《スパイ》が一人、身分偽装してまた一人、なんてこともよくあるのだからチェックは当然、厳選された両国の作業員が立会いの下で行う〈手筈〉《てはず》となっている。 特に帝都中心部を囲む壁……その向こうにいる選ばれた〈権力者〉《ノーブル》へ届くあらゆる物は、それこそ微に入り細に入りと一層の注意が払われているのだろう。 手落ちは決して許されない。ミスを犯せば物理的に首が飛ぶ。 帝国上層部のエリート様を守るために存在する最後の砦。そんな大仕事を担う貿易検査機関の長が、目の前にそびえ立つ豪奢で華美な建物に存在していた。 ──“グランセニック商会帝国支部” 質実剛健を国是とするアドラーとは異なる商売第一の輩が住むこの館は、商業連合国家側が務める貿易担当の一つであり…… 何の因果か、俺が金に困ると仕事をもらう臨時的な勤め先でもあるのだった。 いや、まことに遺憾なことなのだが。 今でも訪ねると金の臭いで足が自然と引けてしまう、小市民の〈性〉《さが》である。 正面から入ると空気が一層〈煌〉《きら》びやかさを増し、居心地の悪さが加速した。 顔パスで入っても誰一人〈咎〉《とが》めようとしないのは、VIP待遇を受けてるゆえ。本来は俺のようなぐうたら無職、見かけ次第すぐつまみだされてしまうだろうが、守衛もメイドも従業員も何も言わずに素通しだった。 かといって声をかけてくることや、丁重にもてなすことは決してしようとしない。まるで見えない幽霊を相手にしているかのように、いない者として扱われる中、館の中を〈訥々〉《とつとつ》と歩んでいく。 それは〈偏〉《ひとえ》に、俺がここの主にとって友人兼相互利用関係という、ややこしい間柄にあるからだった。 特別扱いが必要で、けれど公にはできないため世話もしないから、お好きにどうぞと。 無言で促されるまま歩を進め、〈責任者〉《トップ》の部屋へ到着した。 さあて、面倒くさくて〈憂鬱〉《ゆううつ》だけど仕事のお話しましょうかね。 そして、ドアを開けた〈途端〉《とたん》──つきつけられた指先と共に。 「しとどに濡れる青く可憐な一輪の薔薇──おお、それは貴女のこと」 「瑞々しい未熟な果実よ、その白桃が如き美の極限で今日も私を狂わせるのか。幼き魔性の〈艶〉《つや》を前にこの身はもはや愛の奴隷」 「ゆえにどうかそのおみ足で、〈憐〉《あわ》れな奴隷に甘美な罰をお与えください……」 「ふみふみ、と」 異次元へぶっ飛んだ愛の言葉が添えられた。 「……うわぁぁぁ」 性癖を暴露し終え、舞い降りる圧倒的静寂。とりあえず、あれだ、ひたすらに気持ち悪いぞこいつ。友達やーめよ。 互いに硬直して見つめ合うことしばし……助けてミリィ。ついにお兄ちゃん、変態から求婚されちゃったかもしれん。 「うん、 ──チェンジで! すまない親友、君の愛に僕は応えられないんだ」 「うん知ってる。俺も嫌だぜ。金積まれても断るわ」 「あぁ、まさかこんな冴えない貧乏人まで魅了していたなんて……まだ見ぬ僕の〈幼き女神〉《アリス》よ、信じておくれ。我が純潔はいつまでも君に取ってあるから!」 「聞けよ、つうか自分の尻押さえんな」 身を悶えさせる、ドMの〈幼女趣味〉《ロリコン》〈似非紳士〉《フェミニスト》。 きっと脳細胞がスポンジで構成されているんだろう。今日もいい感じに、頭の中がキマっている。 帝都に居を構えるグランセニック商会支部の若き才人、ルシード・グランセニックは、今日も見事に残念だった。 「ちなみにこれ、ついこの前のお見合いで見出した僕〈渾身〉《こんしん》の口説き文句ね。気に入ってるから使っちゃ駄目だよ。すでに特許も申請中、二次使用は要相談さ」 「ああもう、ツッコミどころありすぎてどれを尋ねるべきなのか……ともかくそれ、まさか本チャンで使ったのかよ」 「ふっ、馬鹿正直と罵られても女性に対して誠実に。それが流儀、それが誇りだ」 そこは社交辞令でいけよと思ったが、もはやすべては後の祭りだ。しみじみとドヤ顔しているルシードを見るたびに、お相手していたお嬢さんが気の毒に思えてならなかった。 商国に名だたる十氏族、名門グランセニック家に三男ながら名を連ねているこの男。見てくれ良く、女に優しく、家柄も完璧という一見して優良物件のはずなんだが……その出来栄えはご覧の通り。 どういう訳か非常に難儀な〈性癖〉《カルマ》を抱えており、そのせいで縁談のうまくいった例しがない。言うまでもなく病気である。 家の権威を保つためにと実家から話が舞い込んでくるたび、これだ。 常識的に考えたらより取り見取りであるはずだが……まあそこが、〈阿呆坊主〉《ルシード》の〈変態〉《ルシード》たる由縁というやつなのだろう。 「それにほら、僕ってその、実はこう見えてシャイじゃない?やっぱり家柄や打算ありきの婚姻より、純真〈無垢〉《むく》な愛情を最優先にしたいわけでね」 「俗世に〈穢〉《けが》れきってない、そりゃもう半端ない愛らしさというか、お赤飯来る前の完全性というか、青い果実的な何かを……つい妥協せず追い求めてしまうのは〈真実の愛〉《アガペー》の探究者として避けられない宿命だと思うんだ」 「はーいアウトー、ルシードくんの未来、没・収・でーす。とりあえず、金輪際うちのミリィに近づくなよコラ」 「ああ、安心したまえ。ミリィくんはストライクゾーンより若干上でね。B以上の膨らみにはあいにく、興味は、まったくないっ!」 「それにほら、〈未成熟〉《ミルク》の香りっていうの? 女性が選ばれた黄金期にだけ発する〈無垢〉《むく》なフェロモンっていうやつ? 僕はそこにも〈拘〉《こだわ》りたいのさ」 「体的には膝の上にちょこんと乗せつつ、キャンディぺろぺろちゅぱってる幼い女神を、んふ、ふ、ふふふふふ── ぶふぉォッ!? 」 「あ、ごめん。あまりに気持ち悪かったんでつい」 思わず〈顎〉《あご》に放っていた右ストレートだが、唾がかかってしまったので座った先のソファで拭う。ばっちい。 「ご、おぅふ、君も中々いい性格してるよね……」 「入室と同時におぞましいカミングアウトかます奴が何を言うか。つうか何だったんだよ、どういう精神状態ならああいう行動できるんだ?」 「おいおい、どうしたんだい。常識的に考えたまえ」 「アポイントメントもなく、多忙な最高責任者の部屋へ迷い込んできた何者か……これはもう、小さな迷い子以外の何者でもないじゃないか。むしろそれ以外は認めない」 そして開幕あの〈台詞〉《せりふ》とは、いよいよもって末期だな。それに小さな迷い子って…… 「その理屈だと二分の一で少年に告ってたな」 「────はっ!?」 何やら〈愕然〉《がくぜん》とするバカを無視しつつ、置かれていたティーポットから自分の分の茶を注いだ。これ以上下手に付き合うと不毛極まる気がしたので、適当にあしらいながらずうずうしくも客となる。 注いだ紅茶に口を付ければ、やはりいい葉を使っているせいか、俺の雑な〈淹〉《い》れ方でもそこそこの味になっていた。この部屋に来てからやっと一息つけた気がする。 本題については……とりあえず後でいいだろう。なんか疲れたので、備え付けの茶菓子を食べる間ぐらいまったりしてもいいと感じた。 「しかしまあ、縁談が潰れるのもこれでいったい何件だ?」 「八件かな。実家の〈伝手〉《つて》もこれでまた〈全滅〉《ふりだし》らしいよ」 「やれやれ、僕の女神はいったいどこにいるんだろうね。お馬さんごっこをする覚悟はとうに完了しているのに」 「すげえわ、おまえほんと無敵だよ」 「ふふふふふ、褒めないでくれ。照れるじゃないか」 「けどまあ、こうして笑えるのもあと何年かな。いつまでも身を固めないわけにはいかないし、あまりに長く放蕩息子をやっているのも問題なわけ。氏族間での世間体が急激に悪化するとも限らないんだ」 「僕一人がごねて家全体が取り潰されたりしてしまったら、そりゃあちょっと困るだろう」 「氏族間の椅子取りゲームねえ……〈日系の血筋〉《ブルーブラッド》の優遇もだが、金勘定の良し悪しで序列変わるのも恐ろしいな」 「まあね、単に物差しが変わるだけだよ。実力主義、血統主義、どちらにも問題はつきものさ。人類は自由を尊ぶくせに、すーぐ格付けしたがるんだもの」 「ただ、今のグランセニックはガタガタだからなぁ。叔父の長男が成人するまであと六年、そこまで耐え凌ぐのが割と大きな難題でねえ」 次の後継者が〈相応〉《ふさわ》しくなるまでの空白期。その間に起こる厄介ごとは、当然極力避けるべきで。 そうなると信じがたいことに、当面の間矢面に立つ人物として〈相応〉《ふさわ》しいのは目の前にいるこいつに絞り込まれるらしい。 縁談とやらも要は、ルシードにつける〈首輪〉《リード》という面もあるのだろう。そして当の本人は苦虫を一ダースほど噛み締めているかのような、何とも言えない顔をしている。 「はぁ、やりたくないなぁ、一族の顔なんて。あそこ息が詰まるんだもん……」 覇気なし。意気なし。やる気なし。一時といえ大国家を動かす十本指に入る名誉とか、個人としてのプライドなんて毛ほどもありませんという態度である。 どこの国もトップは揃って化物揃い、かつてルシードはしみじみとそう語った。 軍閥闘争だろうが氏族間闘争だろうがどっちも同じということらしい。一般人には理解できない多大な苦労に恐々とするね。支配者サマはお辛いこって。 「まったく父さんも嫌な置き土産を残してくれたよ。変な色気出して、ちょっかいかけたりしちゃってさ。だから〈病〉《 、》〈死〉《 、》してしまう」 「もっと賢い人だと思ってたけど……いや、それを言うなら僕もか」 この国は怖いね、と〈呟〉《つぶや》いた真意は、恐らく〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》なんだな。ああやだやだ、また一つ余計なことを知ってしまった。 これ以上は聞きたくもないので、手ごろな話題をこちらから振ってみる。 「そういや、今朝ミリィを送ったときだけど、爺さんかなりキレてたぞ。余計な手間かけさせんなとよ」 〈餓鬼〉《ガキ》の妄想ふざけるな。塵が〈屑〉《くず》がのた打ち回れと言わんばかりの悪態で、結局あの後レポート用紙はゴミ箱の肥やしと化した。 それを寄こした当人も、まあ慣れたものと苦笑い。 「〈酷〉《ひど》いなぁ、僕だってあれは馬鹿だと思ってたよ。利益にならない無価値なものを見抜けないほど節穴じゃない」 「けれど立場上、探りを入れなきゃいけないのが辛いところと思ってくれ」 「ま、これで一応の言い訳は立つだろうさ。ヘイゼル老は凄腕だ。彼が否というのならぐうの音も出ないほど反証は済んでるだろうし、マドロックのご老体も収まりがつくはずだろう」 「けどそうなると、ミツバの〈女狐〉《ヴィクセン》が試してこいとか人員出せとか言いそうで……うぁー、いい加減にしろよあのババア」 「というわけで、どうしよっかゼファー?僕ちゃんとっても困ってるんだけど」 「知らんがな。どうしてそこで俺に聞くのか──って」 おまえまさかと思った瞬間、狙ったようにルシードの口元が弧を描いた。 そのあからさまな〈ワ〉《 、》〈ル〉《 、》〈い〉《 、》笑顔で察せないほど鈍くはなく、一連の流れからうまく誘導されたのをようやくもって自覚する。 そう、本当にようやくの段階で。 「……今度は何させたいんだ」 「おやぁ、珍しく潔いね。殊勝じゃないか」 見越した上で言うことかね。はいはい、どうせ俺は行動パターン分かりやすいですよと、ふて腐れながら茶をすする。 「はは、そう落ち込むこともないさ。今日だと予測していたわけじゃない。近いうちに来るだろうとは〈流石〉《さすが》に思っていたけどね」 つまりそうなる様に仕掛けていたと白状しているこの時点で、俺はルシードの敷いていたレールにぴったり乗せられていたわけだ。 種明かしだと奴は戸棚を開いて瓶を出した。それはまさしく先日俺に在庫処分の余りだと譲ってくれた酒である。 「このウイスキー、美味しかったろう? 君の好みにピッタリだ。なのでついつい一本空けてしまったと思うんだが、ミリィくんに怒られたりはしなかったかい?」 「いやいや、むしろ彼女のことだ。そうなれば酔いつぶれた兄の身体を真っ先に心配したりするだろう。不定期な収入のくせに日々ぐーたらしている君だけど、さすがにそうして駄目な姿を見せたとあれば汚名返上に〈勤〉《いそ》しむはず」 「たとえば、たまには僕から率先して仕事をもらおうという具合にね」 「では、ビジネスの話といこうかゼファー。ドカンと一発儲けたいんだろ。そんな君に耳寄りな話があるんだ──どうする? 乗る?」 ……是非もないし、そのつもりで来たけど、なんだ。 「このロリコンめっちゃ怖い」 「はっはっは、こういう小細工できないようなら母国だとケツの毛まで〈毟〉《むし》られるさ」 ますます行きたくないな、商国。 「ただ、勘違いしないでくれ。回りくどく持ち掛けたのにも話があってね」 「これから頼むことは結構〈い〉《 、》〈わ〉《 、》〈く〉《 、》つきらしいのさ。適任が相当限られる。本国の要請だから断れないけど、真面目に取り組んでしまうと最後、今度は僕らが帝国軍部に消されかねない」 「〈僕〉《 、》〈ら〉《 、》って、複数形かよ」 「慎重になる理由がそれさ。だから理想としては、ある程度ことの次第に掠りつつ、けれど芯から外れた成果がベストなのさ」 「ちなみに報酬はこれだけ」 三本の指を立て150万と暗喩。準備費用を差っ引かれてそれなら、なるほど久々の大仕事だ。 その分、事前に言ってほしい。俺が降りたら困るんじゃねえのかと、思わず顔をしかめてしまった。 「いいんだよ、そんな顔しなくても。こんな馬鹿馬鹿しいこと、付き合わないならそれに越したことはない」 「要は〈十氏族〉《れんちゅう》、僕の動きを試してるんだよ。失敗したらグランセニックの〈利権〉《パイ》をムシャムシャ、成功したらよくやったと賞賛しつつうやむやにする常套手段だ。どう転ぼうが丸儲けってね」 「〈商国〉《うち》が真に欲しがっているもの、それは今も変わらない」 すなわち、〈星辰奏者〉《エスペラント》の製造技術──あらゆる諸外国が血眼になりながら、それを手に入れようと目論んでいる。 そして無論、その重要機密を手に入れようとした国は例外なく大〈火傷〉《やけど》を負い惨敗した。なのに諦め切れていないのは欲深さか、帝国に呑まれつつある恐怖ゆえか。 ただ、それが国家の方針として従順になるかどうかは別のこと。 ルシード・グランセニックもまた、それがいかに深い闇かを痛感している。 「お茶を濁して済むのなら、それに越したことはないだろう?」 おどけて肩をすくめる態度には隠せない恐怖が滲んでいた。あんなものに関わるべきじゃないのだと、誰かさんと同じように心がぽきりとへし折れたまま。 まったく見るに耐えなくて……なんともいえない、同属ゆえの安心感だ。 「たまに思うけど、ちょくちょく気が合うよな、俺たち」 「おっと、理由は語らせないでくれたまえよ。これでも僕は、意地を張りたい男の子なのだから」 そして思わず、二人揃って苦笑した。 どっちも負け犬、傷の舐め合いというならばきっと間違っていない。それが俺たちの友情だということも。 そのおかげで助かった過去がある。親を失い、立場を失い、何もかもから逃げてきた五年前の俺とミリィを同情心から匿ってくれた恩。忘れていないしできる限りは手を貸したい。 それにどこまで行こうと、世間的にゼファー・コールレインは脱走兵だ。 下手に表側の仕事をして素性を知られるわけにはいかない。よって適度に後ろ暗く、加えて俺の境遇に甘口で、金払いのいい〈雇用主〉《きょうはんしゃ》はどうしても必要だった。 あとはミリィのヒモ呼ばわりを避けるためにも、ここで断るつもりはない。 「内容は?」 「貨物列車の内偵調査を頼みたい。資料はここにあるから目を通してくれ。決行までの間、質問は随時受け付けるよ」 「念を押すけど、無いなら無いで構わないから無事に帰って来てね。友人を失うのは寝覚めが悪いし、陰謀論者が深読みできそうなネタがあれば十分なんだ」 「そうなると、警備部隊の特定に、強化兵の有無確認ってところが妥当か」 「十分だ。むしろどちらかで構わない」 ならば後は野となれ山となれ。もし実際に〈星辰奏者〉《エスペラント》の存在を確認すれば即逃げるようと結論づけて、手渡された指令書にも目を通した。 権力者の野望が〈迂遠〉《うえん》かつ〈曖昧〉《あいまい》な内容で書かれているが、現場を担う俺たちからすればズレているので、はいパスパス。 他の〈星辰奏者〉《エスペラント》と戦闘に入ってしまう可能性……こちらからすれば、危険性はそれ一点に絞られる。 同じ土俵に上がられなければ、戦車くらいしか怖いものは残っていないし。 「OK、なんとかなりそうだわ」 「じゃあ契約成立ということで」 「前金はいつものところに振り込んでおくよ。彼女に会うのなら、まあ、適当によろしく言っといてくれ」 軽く握手して商談は終わった。 さて、近いうちに一儲けだ。今日は少しだけ奮発してみようかね。 「つうわけで、得物のメンテ頼むよ爺さん」 「…………、──」 開幕一番の舌打ちをいただきつつもそこはやはり仕事人、俺の仕事道具である短刀を手に黙々とチェックし始める。作業をしていたはずのミリィも興味津々に参加していた。 「調律が不要といえば不要であり、かといって付き返すのも腹立たしい……大体は貴様のような状態か。気に障る」 「劣化が激しいのはやはりアストラル受容体ですね」 「干渉性特化型の宿命よ。アダマンタイトは〈星辰奏者〉《エスペラント》の半身だ、使い手の本質をこの世の何より雄弁に語る……分かるな」 「はい、勉強になります」 そう、それが〈星辰奏者専用特殊合金〉《アダマンタイト》の特性だ。 強化兵の専用武装を構成すべく生み出された超合金。これを触媒とすることでようやく、〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》はアストラルと感応して〈異能〉《ほし》の力を用いれる。 だから言い換えると、アダマンタイト製の武装を個人に合わせて調律できなくなった場合、アドラー脅威の人間兵器はすぐさま役立たずに成り下がってしまうという脆弱性を備えている。 〈星辰奏者〉《エスペラント》と、アダマンタイトを〈調律〉《チューン》できる環境は常にセット。手入れは必須、どちらが欠けても成り立たない。 そしてその特殊技術に精通した存在を── 「これが、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》の手がける技術……」 〈鉄機手芸技師〉《エンジニア》の中でも限られた超上級の存在、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》と呼称される。 当然ながら、それは通常の技師が行う鉄弄りとは別次元の難肯定を要求される職種だった。おまけに軍の秘匿技術と密接にかかわっている以上、厳選な試験を通過しなければ資格を得る権利さえ手に入らない。 つまり脱走兵など、その内星の力を発揮できず野垂れ死ぬが定めなのだ。俺もジン爺さんと出会わなければ一年、二年で本当の無能に落ちていたことだろう。 ゆえにアダマンタイトの精製・調律技術は本来、第一級の機密である。当然軍の独占状態にあるはずだが、この老人の手にとっては赤子の手をひねるような仕事らしい。 それどころか、俺が今まで見てきた中でも群を抜いて優秀な〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》だ。この爺さんに調律を施してもらって以後、以前より調子がいい事実に呆れたのを覚えている。 ……そして〈勿論〉《もちろん》、それをこなせる様になった背景など知らない。 他人の過去を詮索して、〈藪〉《やぶ》をつつくのは御免だから。 「ねえ兄さん。これが必要になるってことは、その……わぷっ」 今回の仕事は危ないのか、と。控えめに問うミリィの頭をわしわし撫でる。そんなことは〈勿論〉《もちろん》ないぞ。 「いんや輸入品の持ち運びにな。重いもの用にちょっと〈使〉《 、》〈う〉《 、》かもしれんから」 「えへへ……そっか、なら安心」 手の感触へ心地よさそうに甘えながら、ミリィは可愛くふにゃりと笑った。 そうとも、俺は臆病者なんだ。危ないことはするはずない。 やばそうなら泣き叫んで逃げ出すよ。そのためにも力の確保は必要だ。 「そうか、ならば丁度いい」 そんな兄妹のじゃれ合いを見てか、爺さんはそれを弟子に渡し── 「おまえがやれ。共に過ごしておるのなら時間もあろう」 などと言ったものだから、思わず呆気に取られてしまった。 硬直して、呆然して、ジン爺以外の時が止まる。 アダマンタイトを? ミリィに? いやいや待てよ、あんたいったい何考えてんだ。それはつまり……いいやそんなことをすれば。 「わたしが、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》に……?」 そのための一歩を踏み出せと、師から命じられたことをミリィはやっと飲み込めた。そして当然、混乱する。 「ふぇっ、えええぇぇっ──!?」 「どうし、あの、えっ、ここここれ師匠ッ!?」 「落ち着かんか、〈戯〉《たわ》け。相応の仕事だと言っている」 「そいつを調律させてみろ。ああ泣き言など聞く耳持たんぞ、おまえの過去など興味もないのだ」 突き放すような言葉にミリィの背が大きく震えた。しかしそれは悲しみでも萎縮したからでもなく、師に認めてもらったから。 曲がりなりにも軍事に通じる秘中の秘。それを手に触れる者は資格と共に、技術的にも大きく限れられる。〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》とはそれほど稀少で、ゆえに軍から囲われざるをえない者だ。 だから──なあ、爺さん、分かっているのかよ。 あんたはミリィの才が軍部研究機関にも通用するだろうと判断した。それがいったいどういう〈意味〉《リスク》に通じるのか、理解した上で言っているのか? 彼女の成長は嬉しいが、どうしても素直に喜べないのは俺の性根が卑小だからと思いたい。顔色一つ変えない爺さんの胆力が、今は無性に〈羨〉《うらや》ましかった。 「未熟なりに手を尽くせ」 「話は終わりだ。今日はもう帰れ」 「──っ、ありがとうございます! わたし、全身全霊で励みますから」 「これからもご教授のほど、よろしくお願いいたします!」 技術者として喜ぶミリィは何度も何度も頭を下げて、手の中にある〈俺の武装〉《アダマンタイト》を宝物のように抱えている。 軍属時代から血を吸ってきた無骨で、野蛮な、銀色の殺人兵器を大切に。 それが〈眩〉《まぶ》しい反面アンバンランスで、まともに見れやしないから……ちくしょう、くそ、何だこれ、なんか言えよ〈糞〉《くそ》師匠。 「……いいのか?」 「遅かれ早かれだ。どの道いずれ〈辿〉《たど》り着く」 それだけのセンスがあると、さりげなく告げられた内容に〈眩暈〉《めまい》がしそうだ。まったくこれだから天才ってやつは。 〈微〉《かす》かに記憶している親の仕事風景、そんなもの頼りに軍事機密の一端まで手が届いてしまいかねない〈稀有〉《けう》な〈天稟〉《てんぴん》。ミリィのそれが露見してしまえば軍はもちろん、あらゆる場所から目をつけられることになる。 それは俺も、当のミリィに爺さんも、歓迎すべき事態じゃないがしかし……そう、しかし。 才能を無くせなどということは誰にも出来ないことなのだ。ああ、どうしようもなくままならねえ。 複雑な感情を持て余しながら、それ以上の追及を止めて言葉を胸に沈ませた。どうしようもないならそれまでだろう。俺のやることは今も昔も変わらない、腹を括れよ〈根性無し〉《ゼファー》め。 あの子を守る。それだけだと気を引き締めて、そっと眉間の〈皺〉《しわ》を揉み解した。 そして── 何はともあれ、人間なのだ。時が経てば腹も空く。 おまけに仕事の予定も入ったことで、今日は外食しようと洒落込んだ。 「いらっしゃいませー」 カウベルの音に続き、よく通る声が左右からステレオで響いた。 理由の一つは発生した二人の元気がいいことで…… もう一つの理由は、ぶっちゃけこの店ガラガラだから。相変わらず今日も景気がよろしくないな。俺の言えた義理じゃねえけど。 「おう、なんだゼファーじゃねえか。ミリィちゃんもいるってことは、溜まったツケを今日こそ払ってくれるのかい?」 「つうか払え。絶対払え。今月売れ行きやばくてよ、このままじゃあ、二人に与える給金もえらいことになっちまう」 「そう、今日も家計は火の車!」 「もういっそゼファーさんに身請けでもしてもらうしか、よよ……」 「というわけで──本日のおすすめは、双子のご奉仕スペシャルコースでございまーす」 「オプションで生クリームの女体和えもいかがですか?かしこまりましたー、にしし」 「ふひゃっ──ダメダメッ、そんなふしだら許しませんからね兄さん!」 「待てい」 気づけばレストランが娼館になっていた件について。しかも押し売り営業かましてくるとか、なんだよこの店ブラックじゃねえか ティナとティセ、悪戯好きの双子は今日も絶好調で何よりだ。楽しそうなのは結構だがとりあえず〈無垢〉《むく》な妹を刺激しないでやってほしい。汚れはおまえらだけでやれい。 「はいはいそこまで。おまえたちは仕事にもどれ」 「今日のそいつは立派な客だ。こいつで遊ぶつもりなら、金もないのに口八丁でタカリに来たときやってやれ」 「……払うよな? そうだよな?妹連れで来るってことは、つまりそういうことなんだろ?」 「おまえのことを、俺は信じていいんだよな、な?」 「そんな真顔で聞かんでも……」 んで、店の良心からもこの評価。約二か月の無銭飲食が祟ってか、アルバートのおっちゃんは肩を掴みながらこちらの財布具合をこれでもかと疑っていた。 そこについては確かに悪いと感じちゃいるが、むしろ払いの悪い常連一人で傾くとか、そちらの方が大問題だと思っているのは俺だけだろうか。 そこそこの立地条件に、平均的な品揃えと味──などと様々な理由はあれど、人情味あふれすぎているせいで客に甘いのが稼ぎの少ない一番の原因だぞ。 仕方ねえな、でツケ容認してしまいがちでさ。オーナー兼シェフとかやってる場合じゃないと思うが。 ……まあ、〈俺〉《おまえ》が言うなってことについては甘んじて受け止めよう。 「ふふ、ふはははは。安心するがいい、今日の我輩は一味違う。大口のヤマが入ったことで明日の財力は〈滾〉《たぎ》っておるわッ」 「と、いうことは」 「今まで食らった料理に酒、泥酔してかけた手間、ぶちまけたゲロの侘びなどその他〈諸々〉《もろもろ》……ああいいぜ、やってやらぁ。ここで一発、まとめて清算してやるからよォ!」 「おお──よくやったじゃねえかこの野郎! まったくハラハラさせやがって」 「ゼファー、俺はずっと、おまえはやれば〈働ける〉《できる》〈無職〉《おとこ》と信じていたぞ!」 「ふ、どうだもっと褒めるがいい。たまに大きくいくのがマイトレンド、ちょっと普通と違うだけで気張ればざっとこんなもんよ」 「普段は本気出してないだけなんですぅ。ちょっと人より準備期間が長いだけなんですぅ。俺に見合う仕事と中々巡りあえないだけなんですぅ。そういうことなの、なあおっちゃん──!」 「あ、やっぱ駄目だわおまえ」 「やーい、この職なし文なし甲斐性なしー」 「ねえミリィちゃん、今からでも考え直そ?このままだと彼、あなたに甘えたまま立ち上がれなくなっちゃいますよ」 「大丈夫です。その時は二人三脚で歩きますから」 解せぬ──そして、ありがとねミリィ。君のために俺がんばるよ。 「どうしてそこで、優しいのは妹だけか、みたいな顔をするんだよ。こら、きょとんともすんな。普通の対応はこっちだこっち」 「それに聞いた感じ、まだ仕事が入っただけなんだろ。それを勘定に入れて行動するとか計画性ないのはやめとけ」 「うわ、なんというスパルタ。未来の儲けは儲けじゃないと申すとは」 「はいはーい、わたし知ってるー。そういうの、取らぬ狸のカワザンヨーって言うんでしょ」 「給料前借りしたあげく一夜で溶かして闇金に走るタイプですね。やっぱり乗り換えましょう、ミリィちゃん」 「あれで大事な時は格好よくなりますから。困っていたり、辛かったり、そんな時に兄さんを信じて裏切られたこと今まで一度もないんです」 ミリィ最高。マジ〈天使〉《エンジェル》。俺の命は君の物だ。 というか、場所が場所なのだからそろそろ俺への批判説教は置いとこうや。このままだとたった一人の信頼で、背中が〈痒〉《かゆ》くて仕方がないんだ。 「つうかおっちゃん、腹減った。とりあえずメニューちょうだい」 「あいよ。まあ予定があるだけ信じてやらあな」 「ミリィちゃんもいるし、サービスだ。今日は特別、腕によりをかけて作ってやるよ!」 「そんな気合入れんでも。安い、速い、でもどこかで食ったことある微妙さ──がここのウリだと知ってるからさ。見栄張るなって」 「……そうだな、うん」 「だ、大丈夫ですよ。兄はこんなこと言ってますけど、わたしは好きです、店長の料理」 「どこか懐かしい味がするんですよね。お母さんの料理を思い出して胸が暖かくなるような。素朴で家庭的なところや、後はお店の優しい雰囲気なんかもほっとします」 「そ、そうか!」 「けど、純粋な美味い不味いについては言及しないミリィちゃんであったとさ」 「つまり個人的な好みとしては、美味しくないってことですよね」 「はぅわ、ち、違うんです。そんな意図じゃなくて……!」 「ゼファー、敵が〈従業員〉《みうち》オンリーだ。俺はいったいどうすりゃいい?」 「マゾになればいいんじゃね?」 親指立ててサムズアップ。一言、慣れろ。こんなものは罵詈雑言にも入らんさ。 ダンディな風貌しているくせに打たれ弱いのか、軽く凹む中年親父。双子にちくちく明るい毒を浴びせられつつ、厨房へと引っ込んでいった。肩をしょぼんと落とした背中は実に哀愁が漂っておる。 「ティナさん達、もう少し店長に優しくしてあげないのかなぁ……」 しかし残念、これが平常運転です。 あのままだと出来上がりが遅くなるなと思いつつ、出された水にぼんやりと口をつけた。そんな俺の横顔を先ほどからミリィはチラチラ眺めている。 えっと、その、なんて指をもじもじさせながら顔を上げてはまた伏せて。 テーブルと正面を軽く五回は往復してから、ようよう意を決したように。 「……やっぱり、今でも反対してる?」 「何が?」 「わたしが兄さんの発動体を調律すること」 「ひいては、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》になることを、かな……」 「──────」 ……それは、仕事場を後にしてから意図して触れずにいた話題で。 遠慮がちに問いかけてきた彼女に、俺はどう答えればいいのかまったく思いつかずにいる。何を言えばいいのだろうか。 腹が鉛でも飲んだように重い。噛み殺した歯の隙間から苦々しさが緩やかに漏れ出てしまう。 「本当は止められるかもって思ったの。何があっても、あれだけは絶対に調べさせてはくれなくて」 「あまりに見せてほしかったから駄々こねて、怒られて、そこから初の兄妹喧嘩。わたし達が仲違いした経験は今のところあれが最初で最後だったよね」 「だから、今では軽率だったのを後悔してる。言葉では分かったつもりだったけど、心から痛感したのは師匠の下で働くようになってからだし」 「あの小さな刃が、兄さんの生命線なんだということ、当時は思いもよらなかったな」 「まあ、な」 それもあるけど、それだけじゃなくて。 ただ俺は、君に〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈触〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ほ〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 あの銀刃は〈穢〉《けが》れている。その小さな指が赤く染まってしまうようで、何より最低のことをしているんじゃないかと、自責せざるを得ないから。 「だからかな、さっきまでは浮かれてたけど今はちょっと冷静」 「兄さんの安全に関わることだし、やっぱり普段通り師匠に──」 「構わない──いや、違うんだ」 ミリィは何も、何も悪くない。馬鹿が勝手に過去の傷にビビっているだけなんだ。 ゆっくりと深呼吸。〈瞼〉《まぶた》を閉じて、3、2、1── はい──目を開ければご覧の通り、いつもの見慣れた〈大馬鹿野郎〉《にいさん》だ。適当に、お気楽に、行き当たりばったりに、さあへらへらと行こうじゃないか。 「あー、ごめんな驚かして。少しナイーブになってたわ」 「いやぁ昔からあれ使ってるじゃん? おまけにこれでも元エリートだから、嫌な仕事を次から次へこれでもかと積まれてよ……死にそうな目にも何度あったか」 「〈碌〉《ろく》な事なさすぎて今では立派なトラウマだ。あれ触ってると不幸になるんじゃねえかって、割と切実に思ってるしな」 「じゃあ、わたしに触らせたくなかったのも?」 「そういうこと」 と、いうことにしてしまうのだ。この嘘つきは。 「それに爺さんからもお墨付きをもらったろ? なら何も心配してねえよ。ミリィはとびきりすげえんだ。そこはもう神様より信じているし疑ってない」 「だから完璧に仕上げてくれな。期待して待ってるよ」 「了解! 任せて、最高の状態にしてみせるんだから」 むん、と可愛らしく力こぶを作ってみせるミリィに俺も笑う。頼もしいことだよまったく。 「おっ、言ったな。んー、こんな細腕で本当に大丈夫なのかねぇ……うりうりっと、おおやわこいやわこい」 「ひゃん! も、もう、こう見えてもミリィは力持ちなんですっ。エンジニアは体力勝負なんだからね」 「そ、それと……不用意に女の子の腕をつまんじゃいけません!デリカシーの不足です!そういうことやっていいのは、大切な相手だけなの!」 「だからこれは、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》だと、いいんだけどね。その……」 「いいじゃん、兄妹なんだし。固いこと抜きでいこうや」 「うーん、しかしこの肌触りともちもち感。〈贅肉〉《ぜいにく》的なまろやかさと健康的な筋肉の配合がやみつきになりますなぁ」 「んにゃっ!? んもぅ、もう、ううぅぅ──ッ、知らない知らない、兄さんのバカぁ!」 「うん、馬鹿だよ。学ないから」 「そういうことじゃないんだもん──っ!」 ぽこぽことお怒りの〈必殺技〉《ぐるぐるパンチ》をテーブル越しに受けながら、にこやかに遅まきの反抗期を受け止めておく。 しかしなんという威力であろうか。身体はともかく心の方はノックアウト寸前だ。今にも天国に召されかねないこの多幸感よ。 もしかして俺、ルシードを馬鹿にできないのかもと思ったが……ま、いっか。兄は妹を愛しながら弄るものだ。異論はそこそこ認めない。 「ほうほう、なるほど。こうして見るとこれはこれで」 「二人は案外、お似合いなのかもしれませんね」 「嬉しいんだけど、嬉しいんだけどでもっ──なんだか素直に喜べないよぉ!」 「うっしゃ、メシ出来たぞー……ってどうなってんだこりゃ?」 「あっはっはっはっは」 騒がしく、〈頓珍漢〉《とんちんかん》に、陽気な時間は過ぎていった。 頬を膨らませて拗ねるミリィを〈宥〉《なだ》めながら、許してもらって今度は自分がからかわれたりなどしつつ、庶民なりの〈裕福〉《チープ》なディナーを気ままに味わう。 帰路に着くまでの間、レストランには終始楽しそうな声が響いたのだった。 ──日が沈み、帝都に夜の〈帳〉《とばり》が訪れる。 家族が寝静まるのを待ってから、自室の窓から抜け出した。  女を抱きたい。酒を飲みたい。賭け事をしたい。〈愉〉《たの》しみたい。  そういう極々当たり前の欲望は誰しも一つや二つ心に備えているものであり、鉄の規律によって統制される軍人もまたそこは何ら例外ではない。  汝、誉れ高き帝国を守る盾。公私の別なく常在戦場の心構えを保つべし。おお万歳ッ── などという〈教科書〉《りそうろん》を馬鹿正直に体現できる兵なんてそうそういないし、そんなことを頭ごなしに強制してうまくいくはずもない。  人の欲望を完全に制御する社会法、なんてものはどこにもないのだ。高潔な思想や志を持っていたとて俗な願望からは逃れられない。  生殖器を切除して、脳を改造したとしても実現するかは怪しいもので。軍人ならぬ一般市民に関しては欲を律する術なんて知りもしなけば、やる義務もない。だから当然、〈タ〉《 、》〈マ〉《 、》〈る〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》は溜まってしまう。  勝利勝利と、喜ばしいニュースが連日耳に入ったところで、満たされるのは帝国民であるという安心感と自尊心。  別ベクトルのそれを“発散”する場はどうしても必要であり、ゆえに必然として厳格な傾向にあるアドラーにおいても、帝都の一角には夜の街が存在していた。  そこは、一夜の愛と〈爛〉《ただ》れた欲望が渦巻く〈区画〉《エリア》。決して眠らないとされる不夜の城。  立ち並ぶ酒場にカジノ、そして娼館。どれもみな〈絢爛〉《けんらん》に装飾を施された建物は、暗闇を明るく照らす光源として今日も一層輝いている。  ここ数年は景気好調のためか出入りする人数も多く、そして客の種類も様々だった。市民から低階級の軍人のみならず、お忍びだから分からぬものの軍部高官といった特権階級の輩まで数多く通いつめているだろう。  欲望の坩堝は身分を問わずあらゆる者を歓迎し、誘蛾灯のように人々をスリルと快楽へ誘っていた。  よって、この場所はひたすら〈危〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》。  退廃と一夜の夢は理性が蒸発されかねない底なし沼にも似た魔力がある。  情のもつれ、愛憎劇、博打と金利にまつわるトラブル、それらはこの場と共生関係であるかのように一度も絶えたことがなく、恐らく今この瞬間もあの場で生じ、こじれ〈捩〉《よじ》れて愛の花を狂い咲かせているはずだった。  人の真は、欲の真──欲するものこそ偽らざる本質なれば。  この歓楽街こそ、人の内面を〈曝〉《さら》け出させる開放の〈楽園〉《エデン》。人間を素直な〈畜生〉《ケモノ》にしてくれる一種の理想郷なのかもしれない。  そして、最も〈煌〉《きら》びやかな建造物。  帝都最大の娼館には、この営みを慈しむ愛欲の母がいた。 「……飲む?」 グラスの中で溶けた氷が小さく濡れた音を鳴らす。 美しい指で差し出された酒は非常に魅力的であったが、名残惜しさを感じつつも首を振った。 「いや、いい。しばらくアルコールは控えてるんだよ」 「あら残念ね。なら、これは次の機会に。気が向いたならその時一緒に嗜みましょう」 「それじゃあ、私を抱きに来たというのでいいのよね?」 そう〈嘯〉《うそぶ》きながらさりげなく隣に腰掛け、自然な動作で俺の方にそっと体重をかけてくるからどうしたものか。 鼻をくすぐる〈仄〉《ほの》かな香水の匂いと、柔らかな身体から伝わる体温。それが否応なく理性の蓋をぐらつかせる。 この部屋も元来、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈行〉《 、》〈為〉《 、》をするための場所であるせいか、〈淫蕩〉《いんとう》めいた空気がそこかしこに漂っていた。 家具やベッドに満遍なく蜂蜜でも塗りたくられているような。高純度の媚薬が湿気を帯びて〈揮発〉《きはつ》しても、恐らくこうはならないだろうと確信できる。息をしているだけで、どうしようもなく、情欲が鎌首をもたげてきそうだった。 当然、俺も男である。正直に言うならそりゃヤりたいが、そういうつもりが今はなく…… なのでさりげない抵抗として、身じろぎを装いつつ〈股〉《 、》〈間〉《 、》〈の〉《 、》〈ポ〉《 、》〈ジ〉《 、》〈シ〉《 、》〈ョ〉《 、》〈ン〉《 、》を調整したりしているのだが、なんせ相手は百戦錬磨。当たり前に見抜かれていた。 「あらあら……ふふ」 あふん──と、腕にふにょりと豊満なものが押し当てられる魅惑の感覚。思わずその気になりかけた。 ドレスからこぼれんばかりの巨乳が桃のようにその形を変え……いかん、落ち着け我が〈愚息〉《むすこ》よ。おまえの出番は今日ありません。 なのに相手は手を緩めず、ふうぅぅぅっと耳に息が吹きかけられてきてヤバイ。歓楽街の元締めにして象徴、イヴ・アガペーは今日も絶賛、雄を惑わす〈聖母〉《まじょ》だった。 「ゼファー君のこと、ずっと待っていたんだから」 「さあ、〈愉〉《たの》しみましょう。久しぶりの逢瀬だもの。遠慮なんてしなくていいし、やってほしいこと何でもいっぱいしてあげるわ……ね?」 ええい誘うな。耳たぶにキスを繰り返してチュッチュとするな。鼓膜から脳みそ犯されているようで、理性が溶けそうなんですイヴさん。 これを無自覚に、間違いなくスキンシップのノリでやってくるあたりまったく勘弁してほしい。ただでさえ俺、我慢の弱い子なんだから。 横に腰をずらし、なんとか愛の抱擁から離れることに成功する。ああこれだから、女は魔性で怖いんだ。 「どれだけ誘われても答えはNO。つうか貧乏人からむしるなっての、搾取するなら銭を持ったおっさんどもにやってくれ」 「馬鹿ね。それならお代なんて〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》でいいわよ」 「弱みに付け込む気なんてないし、私はただあなたのことを癒してあげたいだけだもの」 「ゼファー君が望むだけ、求めるだけ、凍えているだけ、震えているだけ、温もりを与えてあげたい。心と身体に一夜の暖を与えることが私の生きがいなんだから」 「そうやって、いったい何度〈無料〉《ロハ》で抱かれてきたのやら」 「逆よ、私が皆を抱いてきたの」 「人は一人じゃ生きていけないわ。だから教えてあげたいじゃない、孤独に落ちぶれたその後でもあなたは一人じゃないんだって」 「というわけで、はい。なでなで」 よしよしと、子供を褒めるように髪を指先が梳いていく。さっきまであった淫らさは綺麗さっぱりなくなって、母親のような仕草が胸をほんのり暖めた。 ぶっちゃけ、恥ずかしい。頬が自然と赤くなる 「ああもう、いいって、そういうのも」 「妹のために影で頑張っているお兄ちゃんへ、私からのご褒美よ。男の人は普段中々、女性には甘えられないものでしょう?」 どうだろ、と首をひねりかけたが寸前で止めておく。どうも俺の人脈は同性ほど対応がきつい気がしてならない。内心眉をひそめる俺にイヴは苦笑を漏らしたようで。 「納得できないなら、そうね。これは私の趣味ということにして」 さも自分につき合わせてるという体で、微笑む姿は純粋可憐。さっきとは一転、ただひたすらに清らかだった。 裏表のない愛情は偽りなくまさに聖女と呼ぶべき資質だろう。弱者にとってひたすら優しいその反面、逆説的に勘違いしてはいけないという面もあった。 こんな対応はなにも〈俺〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 イヴが俺を愛している。男女の熱を秘めている。だから特別扱いを受けているとかそんな理由はまったくない。ロマンチック? いやいや違うね。 たまたま俺の不幸な境遇がイヴの趣向に嵌っていたから、生まれた縁がこの今なのだ。〈穀潰し〉《ゼファー》が落ちぶれている男だからこそ、放っておけないわけである。 ボロボロの相手を抱いてやりたい、愛してやりたい。あなたが過去に血を流していればいるほど、ああ──と、そういう奴にどうも〈保護欲〉《オンナ》が堪らずきゅんきゅん〈疼〉《うず》くらしいのだ。 要はナイチンゲール症候群の一種なんだろうな。俺の言えた義理じゃないが、まったく難儀な業である。 〈悪友〉《ルシード》もそうだが、権力者って変わり者じゃなければいかんのだろうか? ともあれ── 「はい、おしまい。ありがとうね、ついつい堪能しちゃったわ」 「それじゃあ本題に入りましょうか。話はきっと、あなたの口座にあったルシード君からの入金でしょう?」 こういった勘がいいのも含めて、そんなこんな、世話になっているのも事実。あいつとは別の側面で、イヴとの個人的親交は値千金の価値があった。 しかしまあ、思わず深いため息が漏れた。知ってたのならまず最初に振ってくれよ…… 「寝物語でも伝えることはできるじゃない。だから後回しにして置いたけど」 「なんなら愛し合っている〈最〉《 、》〈中〉《 、》にでも構わないけど、どうかしら?」 マジすか。ならそれで──じゃねえ、なしなし、今のなし。嬉しそうにいそいそ脱ごうとしなくていいから、慌てて頭を左右に振った。 「とにかく、あいつから大きな仕事を請けたんだよ。そこについて、いつも通りの手続きなり確認なりをしに来たんだが」 「そうね、入金されていたのは二日前。預金に反映されるのは最低数日かかるから、時期を逆算してみると明らかにルシード君の手の上ね」 「何を頼まれたのかは知らないけれど、かなり前からこうなるように誘導されていたんじゃない?」 うわ凹む。俺、どんだけあいつの思い通りに動いてんだよ。 これだから人を動かす連中はと軽い頭痛を感じつつ、まあいいだろう。気を切り替える。前金は既にしっかり払われていた。ならば後は、残りの成功報酬を求めきっちりやることやるのみだ。 それに──今回は、どうも少々〈胡散臭〉《うさんくさ》い。 言ってしまえば商国側の犬みたいな仕事の上、気味の悪い胸騒ぎもする。 「最近、軍の主導で大掛かりに何かを搬送するらしくてな。なんでもそれは、今まで表に出ていない新型の秘密兵器だとか、あるいは新たに見つかった〈遺産〉《テクノロジー》の一端だとか」 「眉唾物の勝手な推論が添えられてはいたものの……ざっくばらんにそいつが何かを調べてこいとの依頼だな、当然そんなのガチでやらんつもりだけど」 「こらこら、不真面目なのはいけないわよ?」 苦笑しながら〈窘〉《なだ》められるが、知らねえよ。薮蛇どころか龍が出ても不思議じゃないんだ。それに…… 「何よりそっちも、俺が本気で他国についたら〈切〉《 、》〈る〉《 、》だろう?通い詰めている高官どもへ事の次第をタレこまなければならなくなる」 「そうね、さすがにこれでも帝国民の一員だから。あなた一人では釣り合わない」 「それに、私はみんなの母親だもの。この〈歓楽街区〉《いばしょ》を愛しているし、ここで働いている〈娼婦〉《こども》たちの幸せを願っているから、我が身に変えても守らなければと思っている」 「ゼファー君のことは好きだけど、ごめんね」 構わないと、軽く手を振った。むしろそういう考えは好ましい。何が大事かはっきりと優先順位をつけれる奴は付き合いやすくて気も楽だ。何もかも手当たり次第に救おうとするヒーローや、全部ぶっ壊すというイカレ野郎よりよほど人間的じゃないか。 それに、イヴも分かっているのだ。俺が仕事の守秘義務など一切守らず、内容を丸ごとここでぶちまけたのは事をバランス良く治める一線を問うているのと同じだと。 ルシードも語っていたように、俺が軍の隠しているものを完璧に暴いてしまえば当然まずいことになる。かといって何の成果も上げなければ、今度はあいつが本国から突き上げをくらってしまう。 そうなると最悪、交易の検査機関員が変わってしまいあの屋敷は別の商国人が常駐する羽目になるわけだ。穏健なルシードの首を切った反動で今度は十中八九、野心家が送られてくるのは目に見えていて…… 文字通り、火薬庫に火種を放り込んだような大騒動に発展する。そして俺やミリィの存在もどちらかの国に露見してしまうだろうから…… それは俺たちの誰一人、望んじゃいない〈顛末〉《てんまつ》だ。 「慎重にいこうぜ。そのためにバラしてんだ」 ルシードとイヴは共に帝都商業の〈二大頭〉《ツートップ》。立場や国の出自が違えど、平穏という志で〈繋〉《つな》がっている共犯者だった。 ゆえに言ってしまえば、これは壮大な茶番である。俺がどうとも取れる結果を手に、イヴが見て見ぬふりをして、ルシードが商国向けにアレンジしつついい塩梅にお茶を濁すと。 すべては居心地のいい現状維持がため。だから重要なのは軍を出し抜く秘訣ではなく、〈や〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈地〉《 、》〈雷〉《 、》〈を〉《 、》〈踏〉《 、》〈ま〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》避けるべき部分を聞いておかねばらないわけで。 そして事そういう分野において、〈上級娼婦〉《イヴ》の右に出る者はいない。妖艶にグラスを傾けながら伝える情報を吟味している。 「実は今回の話だけど、そう珍しいことではないのよ。不定期に、そして秘密裏に、通常の流通に紛れる形でとある物を搬送しているらしいわ」 「それが何を運んでいるのかは誰も聞いた覚えはなくて、佐官以上の〈情報開示権限〉《クリアランス》さえ質問の許可も受け付けられない。一般の兵隊さんは普段より密に警戒しろと言われるだけね。かなり徹底しているわ」 「たぶんだけど、〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》の隊長クラスでも中身を知る者は相当に限られているんじゃないかしら。〈歓楽街〉《ここ》の従業員、それも私を含めた極一部しか知らない噂という時点で相当なことだもの」 つまりは、総統直下のプロジェクト? ──冗談じゃない。 背筋が冷えた。変な汗があちこちから滲み出す。おいおいおいおい……想像以上にやばくないかこれ。 「つうか他国も、こんな厄ネタどうすりゃ嗅ぎつけられんだよ。俺たち国民だって聞いたことさえないはずだぞ」 「内偵、篭絡、探る手段は色々あるけど今の狙い目は退役者ね。それもできれば傷痍軍人」 「身体の一部を欠損するということは途轍もないストレスよ。総統閣下の政策で、彼らは以前より比べ物にならないほど手厚いケアがなされているわ。ただそれでも欠けた血肉は返ってこない」 「退役金で娼館に通い詰める人も多いのよ。減ると寂しい、当たり前ね」 「他でもない自分自身。それが無用のものになった。誰かに必要とされたくて、悲しいほど切なくなる。そこにはもう相手の出自なんて関係ない」 ま、名誉の負傷じゃ済まんわな。ゆえになるほど、〈諜報員〉《スパイ》にとってはいい鴨だ。 軍も当然そこを懸念してはいるんだろうが、どうしても穴が出てしまう問題なのだろう。障害を抱えるほど戦って、傷ついて、祖国に尽くしてくれた兵士たち。それを皆殺して口封じ……なんて外道は絶対取れない。やれば最後、求心力という面で帝国は完全に終わってしまう。 そうして機密の網目から〈零〉《こぼ》れた秘密が雫となり、巡り巡って俺の元まで垂れて来たというわけね。泣きそうだよ。 ただ、ともあれ。 「毎度ここに来るたび思うが、軍規とはいったいなんなのやら」 明らかに娼婦の知るべき情報を逸脱している。問いかけた俺に、イヴは蕩けるように艶やかな視線を返した。 「うふふ、エミリアちゃんには上客のお得意様が多くてね。ほんの少し念入りに〈咥〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈あ〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》と、聞いてもないのに相手は口を開いてくれるそうよ」 ──おい、機密ガバガバじゃねえか。こういう話は現役時代からよく聞いていたが、傍から見るとなんか頭を抱えたくなる。 いや分かるよ。そういう奴ら多いの。寝物語で〈つ〉《 、》〈い〉《 、》〈ポ〉《 、》〈ロ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈と〉《 、》秘密作戦の内容を語ってしまう将校とか、身分を隠して楽しみにきたはずが〈思〉《 、》〈わ〉《 、》〈ず〉《 、》自分の階級を自慢してしまう高官なんかね。 そりゃ俺も男だから入れ込む女に豪語したくなる気が分からないでもないのだが、二等兵じゃないんだからもう少し階級に見合った理性を身につけてもらいたいというか、云々。 まったく、〈甘い蜜〉《ハニートラップ》は人類が抱く永久不変の弱点である。しかし今や、俺はその恩恵を得ている側。ならば柔軟にやるとしよう。 「そこまで厳重に搬送してるってことは、中身は毎度同じなのか? たとえば何度か〈偽物〉《ダミー》と入れ替えられてたり、あるいは新型に更新されていたりとか」 「それも不明ね。開けてみなければ分からないわ」 「……ここのツテを使ってとかは?」 秘密裏に──という名の、半ば公然の秘密として歓楽街では違法な物流も生じていた。それで手に入らないかと提案してみる。 客があくまで〈私〉《 、》〈的〉《 、》〈な〉《 、》〈贈〉《 、》〈り〉《 、》〈物〉《 、》を装って持ち込めば商会の検査機関をある程度通さなくとも、壁内外で取引が可能となるのだ。おおっぴらには趣味のクラブやサークル間のオークションで。秘する際は、お気に入りの情婦へ送るプレゼントを装ってなど。 当然やってはならないことだが、取り締まる側の軍部高官にも入り浸っている人間が多いためか、愛と情の名の下に明文化されない独自の法が展開されて、文字通り白と黒の交じり合う〈灰色の領分〉《グレーゾーン》になっているからできる芸当。 しかし、それにも限度がある。往生際の悪い子供をあやすように、イヴは肩をすくめてみせた。 「もう、私たちだってそれほど万能じゃないのよ? 確かに〈お〉《 、》〈ね〉《 、》〈だ〉《 、》〈り〉《 、》の通じる人は多いけど、だからといって軍人さんは全員ここを利用しているわけじゃない」 「真面目な人もいるはずだし、愛妻家や、それに女性だって中々来たりはしないでしょう?」 「つまり?」 「ゼファー君の頑張り次第ということよ」 にこやかに鼻の頭をちょこんと押された。逃げ道、消滅。どうにも覚悟を決めるしかないようだ。 ああもういいや。やるよ、やる。 もし何も無かったら、〈星辰奏者〉《エスペラント》が厳重に配置されていましたーだとか、しかもそれが名高き〈天秤部隊〉《ライブラ》でしたーとか、なんか最新兵器っぽい感じだったりしなかったりーなんて、適当こいて終わりにしよう。そうしよう。 後はルシードが面白おかしく脚色してくれるはず。そうなればお役御免、これで八方丸く収まるというわけで。 ならば、後はこれだけ。 「とりあえず、〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈も〉《 、》の時は前に言った感じでよろしく」 「ミリィちゃんの後見人に私とルシード君が。そして私の第四口座、という形を取ったあなたの財産をそのまま妹の手に譲る。いつも通りね」 「今あるだけでも、三年は困らない額が溜まっているわよ。おめでとう」 そいつはよかった。これで仮に、万が一俺が消えてしまっても──ミリィの身柄は安全だろう。 いつもこれを問うときは肩の力が少し抜ける。こういう場合、男の性欲的な事情以外でもイヴと出会えたのは幸運だった。なんせややこしいが、そうしないと俺一人では銀行の口座さえ作ることは出来ないのだから。 軍の手で徹底的に管理・運用されていた人間兵器。〈作戦行動中行方不明〉《MIA》になっているとはいえ、堂々と姿をさらすことは自殺行為だ。隠れ〈蓑〉《みの》にもかなり上等な人脈がこうして要求されてしまった。 そうまでして隠れ資産やアフターケアを取り付けたのは、〈勿論〉《もちろん》すべてあの子のため。必要とあれば誰の靴であろうと舐めるし、自害したって構わない。〈屑〉《くず》みたいな人間が定めた唯一無二のルールだからこれだけは何が何でも守りぬく。 もしそんな瞬間が訪れたら、ミリィはきっと泣くのだろうけど。 〈贅沢〉《ぜいたく》なジレンマだ。〈勿体〉《もったい》無くて泣きたくなる。 「悩んでいるのね。あなたはたまに、そういう怖い顔をするから」 「ひっでえ、これでもたまに落ち込んだりするんだぜ?色んなことを失敗して間違えっぱなしだしさ……」 「間違え続けてばかりだと、思っているだけではなくて?」 「自分を責めるのはとても楽──ええ、間違ったことは楽なのよ。正しいことを成すべき時に成し遂げるのは、いつも辛く難しい。だから改めろなんて私は決して言えないわ」 グラスを傾ける色っぽい白磁の〈喉〉《のど》を見つめながら、内心とても同意した。確かに、余人から見れば言い訳と自虐を重ねて、馬鹿なことをやっている男と思われても仕方ない。 誓いがどうだと言ったところで自分一人で勝手に決めて、勝手にやっている手前、押し付けがましい自己満足だと罵倒されれば確かにそうだ。 だがそれで? わざわざ当人に全部明かして? 許しというお墨付きをいただいて? あなたのために生きます死にますそんな俺を許してください──なんてあの子に言ってどうなるという。 正しいな、ああ正しい。これが兄の本心だからおまえ受け入れろ、あるいは説教して正せ……なんていう風に強要しているのと何が違うのか。 正直にぺらぺら話して救われるのは、自分も他人も正論を素で受け止められる〈聖者〉《かいぶつ》であるパターンのみ。 “未来”のために? もしくは“過去”を無駄にするな?冗談、俺たちそこらの一般人は生ぬるい“今日”でいい。 そして── 「だから、やりたいことをやればいいのよ。無理をした成長や改善に何も意味はないと思うの」 そんなどうしようもない〈人間〉《イキモノ》でも構わないと、〈聖母〉《しょうふ》は語る。優艶に。 「選ばれた者だけの世界なんて私たちには縁遠い世界だしね。欲望ありき、怠惰ありき、迷って惑っていいじゃない。それはとても人間らしくて、これっぽっちもみっともなくなんかない」 「やりたいときに、やれるだけやりなさい。辛くなったら投げ出していい。すぐに癒してあげるから」 「そして、何もかも嫌になったその時は……二人でここに来るといいわ」 そう、イヴは見捨てない。決して見捨てない。そうやって路頭に迷いかけた人間を何人も救うことで居場所を作ってきた女だから。 捨てられた者、破滅した者、何もかも失ってしまった者を拾い上げ続けてきた。自分の身体たった一つを使うことで。 そしてそんな慈悲深い女だからこそ、欲望渦巻くこんな〈歓楽街〉《エリア》を治められるのだろう。近所で評判のおしどり夫婦が知らず両隣の部屋で互いの不倫相手と燃え上がっていた、なんてエピソードもここでは珍しいものじゃない。個人的な弱み、醜聞、脅迫する手段など見渡せばいくらでも手に入る。 だからそれを統括する人間は、個人的な野心を何があっても抱いてはならない。平等に、優しく愛しく慈しむ。成長せずともありのままで。 正しい方向性に変われと口にしないこと、それには深く感謝していた。その感情を見越した上で、イヴは少し寂しげだったが。 「けど、あなたはもう少し我慢する気なんでしょう? そういうところが男の人は可愛いのよねぇ」 「買いかぶりすぎだっつの。一人〈背負〉《しょ》うのでギリギリだから、必死に見えているだけだよ」 「俺は弱い。出来損ないだ。ああこれ、本気で言ってるからな」 「あらあら、天下無敵の〈星辰奏者〉《エスペラント》様とは思えない発言ね」 「〈ま〉《 、》〈さ〉《 、》〈か〉《 、》」  そのまさかだ──強化兵ゼファー・コールレインは〈弱〉《 、》〈い〉《 、》。  なぜなら、俺は特化型に分類される人間であり。  戦闘行為において、先鋭化した〈星辰奏者〉《エスペラント》は〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈大〉《 、》〈半〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈損〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  卑下しているわけではなく、それは純然たる事実である。より正確に言うならば〈一〉《 、》〈芸〉《 、》〈特〉《 、》〈化〉《 、》〈は〉《 、》〈弱〉《 、》〈点〉《 、》〈だ〉《 、》〈ら〉《 、》〈け〉《 、》というべきだろう。  何かに異常なほど偏重した能力ないし、異常性を携えた一本槍。  これだけは誰にも負けないという、限定された分野にのみ通用する毒蛇の牙とも呼ぶべき技。  これを放てば逆転勝利と──すなわち必殺と呼ばれる類。  あらゆる物語において脚光を浴びるそれらは、なるほど確かに一見とても強そうだ。聞き手にとって非常に分かりやすいのもポイントが高い。  あれやこれやと中途半端に手を伸ばして器用貧乏になるよりは、得手を極限まで伸ばした方がまだ可能性は生まれるという言葉にも、それはそれで一理ある。  しかし、そんなものはあくまで余人から見た感想に過ぎない。  とりわけ戦闘、殺し合いや戦争に身を投じる者からすれば冗談じゃないにも程があるのだ。  なぜならそれら瀬戸際の局面において、重要なのは〈ど〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈勝〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  理想は逆、〈ど〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。  すなわち生存能力こそ、あらゆる生物に求められる至高至上の命題だ。  どう〈足掻〉《あが》いても、どんな高階級や家柄を持っていても……  人は死ぬ時、死んでしまう。  そう、命は一つしかないんだよ。  特化型の〈星辰奏者〉《エスペラント》が弱いと断じた最大の理由がそこだった。つまりただの一度、想定外に遭遇しただけで何も出来ずアウトになる。  例えば、暗殺に特化した能力を持つ〈星辰奏者〉《エスペラント》がいたとしよう。  暗闇に紛れて気配を消すことにのみ異常な性能を発揮するそいつは、やはり限定条件の下では無敵を誇り、驚異的な成果を弾き出すに違いない。  作戦成功率99.9%、夜の闇がある限りは無類無敵。かつ最強。  残りの0.1%は予期せぬ事態に遭遇した場合のみ。ということはだ、つまり現実的に考えると──  それは千回の内、九百九十九回は絶対を約束するが。  千回に一度の確率に当たった〈途端〉《とたん》、成す術なく死んでしまうということになる。  ほんの少しの偶然で、ありえない展開がちょっぴり混ざれば。作戦前に予測できなかったというだけの、そんな小さい誤差によって。  たった一つしか極めていない〈特化型〉《できそこない》は、なんのリカバリーも取れずに生を閉じるのだ。  なぜならそいつは一本槍。尖った性能を持つがゆえに付け入る隙も多いから負けるときは負けてしまうし、そして命は一つきりだ。  怒られたり、責められるのとは訳が違う。  ──二度目はない。  そう、現実は理不尽の巣窟。まさかこんなことがという、考えもしなかった小説以上の奇奇怪怪が〈怒涛〉《どとう》のように押し寄せてくる。  最初に立てた計画通りに物事が進むことこそ〈稀〉《まれ》なのは、平和な生活を送っている人間だって何度も感じる体験だろう。そして単なる日常ですらそうなのだから、邪念と狂気に彩られた戦場では〈想定外〉《エラー》の回数は爆発的に跳ね上がる。  ほんの〈些細〉《ささい》な慮外を機として増殖する、不足の数々。  物語のように都合よく仲間は救援に訪れないし、待ってましたというように新しい力が目覚めたりはしない。  なのに一つしか武器を持っていない特化型は、一度リズムが崩れると切り抜けるなんて不可能となり……  ああ、考えるだけで嫌になるから、苦々しく思うのだ。  誰か、夢見る弱者どもにそろそろ言ってやれ。  特化型が強いなんてのは、馬鹿の夢見る〈幻想〉《ファンタジー》だと。  どんな異能を手に入れても、最終的に強者となるのは満遍なく全方位に優れている人間に限定される。  能力主義の環境であればあるほど、激しい戦場であればあるほどその傾向は強まって、一つしか持ち味を持たない者など活躍可能な〈作戦〉《ぶたい》がなければ単なる無駄なお荷物だ。  使い勝手の悪い産廃、何の役にも立ちはしない。  ゆえに理想はその逆となる。  先天的な才能を持ち、 幼い頃から大志を抱いて、 友や家族を愛し愛され、 切磋琢磨し後天的にも努力を欠かさず、 〈弛〉《たゆ》まず〈怯〉《ひる》まず驕らずに、 自分より大きな他人を尊敬しながら──希望と共に、明日を目指して突き進む。  軍や民間を問わず、常に求められるのはこういう人間だ。あらゆる仕事や環境でもそれは決して違わない。  全分野、他を圧倒して高水準。  人間も道具も、それに限るというものだろう?  理想系で物事を語りすぎ? 馬鹿を言え、俺というくだらない人間も含めて〈理〉《 、》〈想〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  出来ないことは、塵であり、〈屑〉《くず》であり、悪と呼ばれても仕方ない。  なぜなら、俺たち人間はよほど劣悪な家庭環境に生まれでもしない限り、一度は必ず親兄弟から〈こ〉《 、》〈う〉《 、》言われて育つはずだから。  『明日やらなければいけないことは、今日できるよう努力をしなさい』  『やる前から諦めたりしちゃいけません。やってるうちに出来るようになることだから、失敗を恐れないで試してみなさい』  『将来の夢は早めに決めて、それを叶えるために行動すること』  『信じていれば夢はかなうから』  『そのために精一杯を尽くせばいいよ』  うんざりする正論の数々。何度も耳にした事のある言葉は反吐が出るほど真っ当で、当たり前ゆえ難しく──だからこそはっきりと言うべきだ。  個人によって才能の差は確かにある。環境の差もあるだろう。だがしかし俺たちは、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈簡〉《 、》〈単〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》さえ出来れば最低限、あらゆる面で人並み以上になれる可能性はあったのだと。  そしてこれを出来なかった惨めな負け犬こそ、特化型だ。  自分にとって気持ちのいい一分野にしか打ち込めなかったことで、あらゆる面に弱点を抱えてしまったアンバランスな社会の落伍者。抱えてしまった欠落を代償だと誤魔化して〈哂〉《わら》う負け犬に他ならない。  前を向く。強くなる。諦めない──そう、つまるところ真に強者たりえる要素とはそういうこと。〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》〈を〉《 、》〈実〉《 、》〈行〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》奴こそ強い。  どんな局面でも優れた能力を示せるし、新たに着手した分野でも今までの経験を応用して一定の基準まで軽く到達できてしまう。  何度も聞いた当然の言葉、それこそ親が適当に子供へ聞かせた小言だとて忠実に守り抜ければ金言と化すように。  正道を往く者こそ至高。それは〈星辰奏者〉《エスペラント》の戦闘力としても変わらない。  発現する〈星辰光〉《アステリズム》の性質傾向は原則六つ──集束性、拡散性、操縦性、付属性、維持性、干渉性に分けられる。  この内、最低でも二つは優秀でなければ人間兵器としてはほぼ落第だ。作戦行動時における柔軟性が大幅に欠如してしまう。  そしてゼファー・コールレインは、この内たった一つしか得手とする性質を有していない。  先鋭化した能力は他の選択肢をあらゆる面で削ぎ落とし、そのせいで幾度となく死にかけた。あと一つでいいから幅が欲しいのだと、いったい何度思ったろうか。  まあ、それでも──〈例〉《 、》〈外〉《 、》はいたのだが。  他を圧倒する驚異的な地力を備えつつ、加えて内一つが飛びぬけて優秀というならば、まったく已む無し。  その瞬間、〈一芸特化〉《やくたたず》という性質は〈特化技能〉《きりふだ》へと進化を遂げる。  何せ元から強いのだ。そこに得意な分野が足されるとなれば、より完璧に近づくのは自明の理というものだろう。  かつて一人だけ、その馬鹿げた体現者をこの目で見た。  極限まで磨き抜かれた技巧、肉体、不屈の意思。そこに加えて強力無比な星の光……特化型の究極系とはああいうものだと思い知らされ、打ちのめされたのは懐かしく。  そしてあの人は英雄となり、歴史にその名を刻み込んだ。  世界に名を残す一芸に秀でた者とはおそらくああいう存在なんだ。何か一つだけ優れているのではなく、何でも出来る上に突き抜けているとあれば納得できる。  特化技能に見せかけた全能の亜種。洒落にならないデタラメども、あれは決して自分と同じなんかじゃない。  だからしっかり戒めておく。雑魚は所詮、雑魚なりにと。  自分が弱いということ。一つしか武器を持たない欠陥兵器であること。それらを強く、強く強く何度も何度も己自身に言い聞かせて。  王道を歩めなかった落伍者として、狡すっからくやるしかないのだ。  所詮、特化型という〈塵屑〉《ごみくず》などそんなものなのだから。  そうでなければ、ならないのだから── 軽やかに薄汚れた地面へと着地する。 ビルの壁面を蹴って予想より勢いがついていたせいか、砂塵が〈埃〉《ほこり》となって靴と膝を汚した。 月と第二太陽に照らされて今日の夜も薄明るいが、この一帯は街灯すらないためか帝都の中でも一層暗い。さっきまでいた不夜城たる歓楽街とは雲泥の差であり、あの場所とはまた異なる形で人の本性が浮き彫りになっていた。 一言でいえば陰鬱。〈且〉《か》つ排他的で、閉鎖的。 それはよそ者を拒み、理由なく他者を怨むという貧しさ由来の悪意だった。ここには裕福さが一切ない。ゆえに人として当然持つべき仁や愛も育たない。 耳を澄ませば曲がり角の奥から罵倒と物音が鳴り響いている。浮浪者同士の小競り合いだろうか、二十メートルは離れているこの位置でさえ肉を殴りつける生々しい音が叫びに混じって聞こえる始末。 死人が出てもおかしくない騒動だろうが、住人はそれを気にかけもしない。 日常茶飯事なのだ。人の死も、強奪に略奪も。何もここでは珍しいものじゃなかった。死者が出たならその遺品を狙う〈剥ぎ取り〉《ハイエナ》が〈集〉《つど》うだろうし、それ以外の者は縄張りの変動があるかどうかを気にしているだけだった。 旧暦から残る朽ち果てた〈廃墟〉《ビル》に立てこもり、獣性に従い生きるその姿……ここはまったく変わらない。 非の打ち所なき総統閣下の治世さえ、どうしようもないこの〈区画〉《エリア》は闇を〈貪〉《むさぼ》るがままだった。 〈最下層貧民区〉《スラム》は黄金時代の繁栄すら侮蔑して、混沌と荒廃を専売特許と謳歌している。 「そんなにいいものかね、こんな場所が……」 能力主義の志願制が徹底されたことで、今や軍はスラムの者にも平等に門徒を開いていた。 嘘か真か、ヴァルゼライド総統もここの出身者であるという噂がある。ゆえに出自はもはや問われず、真っ当な道を歩みたければいくらでも出て行くことはできるというのに…… 実際、何割かの住人はそれでスラムを後にしたものの、この場へ残った者は多い。 自由という名の暴力、抗争。貧困に喘いでいてもそれら悪徳に魅了されてしまったのだろう。今では流通経路の判然しない闇市さえ開催されているらしく、やれやれ、まったく。 ──救えねえ。 「気持ち悪い」 好き好んで地べたを選ぶその感性。吐き捨てて、場を後にした。 暗がりに潜んでいるここの住人と思わしき視線を避けて、周囲を見渡す。 よそ者を監視していたり、注目しているという気配はない。肌に刺す空気は無人ゆえに透明で、見ているのはどうやら星空だけらしい。 確認を済ませてから軽く深呼吸。調律の済んでいない〈発動体〉《アダマンタイト》を握り締め、精神統一。瞑目、開眼。 じゃあ、そろそろ久々に。 「やるかね。〈錆〉《さび》落とし」 〈星辰体〉《アストラル》に感応し、兵器として自己点検を開始した。 まず一動──軽いステップを刻み、建物の壁面へと足をかける。 そしてそのまま、反動を利用して〈垂〉《 、》〈直〉《 、》〈に〉《 、》〈駆〉《 、》〈け〉《 、》〈上〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。この際になるべく音を立ててはならず、存在の希薄さを保ちながら上空へ吹く風となる。 速度は時速に換算しておよそ100〈km〉《キロ》。息切れせず、疲れもせず、汗一滴さえ流さぬまま屋上へと跳躍した。 着地、してもそのまま緩まず疾走。 今度はさらにビルからビルへ、屋上から屋上へ。川に点在する石の足場を渡るように、時には壁をも足場にしながら縦横無尽にスラム上空を飛ぶ〈颶風〉《ぐふう》と化した。 無音を保っているものの着地の反動はそれなりにある。だが四肢は〈軋〉《きし》みもしない。 それは俺が巧いからというだけではなく、まして仕込まれた移動技術が優秀だからというわけでもない。むしろそういった複雑な理由はあくまで余技のようなものだ。まず第一に生物としての優秀さこそ、これらの動きを行うための必須事項となっている。 自然界の肉食獣にも匹敵する〈膂力〉《りょりょく》、速度、柔軟さ……それらが人型という万能性に押し上げられ驚異的な変革をもたらしているからだった。 アストラルという粒子により、頑強な生命体へ細胞単位で生まれ変わっているのが分かる。 溢れ出す万能感。〈漲〉《みなぎ》る力は凡人の域を大きく逸脱して、強靭に。 次元から漏れる見えない粒の加護を受け、俺は一時、帝国民憧れの超人へと姿を変えた。脅威の人間兵器は凄まじい能力を発揮して、戦車や大砲といった大掛かりな兵器さえ一部性能で上回る。 しかも人間大のサイズであるため、あらゆる場所に投入可能。 それもこれもアストラルと感応できる、たったそれだけの理由でだ。それは、なんて凄まじく──恐ろしいことなのだろうか。 「まったく、お手軽な兵器だよ」 体内で〈波濤〉《はとう》のようにうねる、のぼせ上がるような力の奔流。飛び上がり、宙を反転しながら余裕をもって地表を見下ろす。 地面までおよそ十階分の高さがあるものの、このまま墜落したところで俺は死んだりしないだろう。 打ち所が悪ければ複雑骨折ぐらいするが、それだけだ。上手に衝撃を逃せばせいぜい足が〈痺〉《しび》れる程度で済む。 手足が千切れても傷口の筋肉が収縮し余分な出血を防ぐだろうし、造血器官も最優先で補い始める。どんなに壊れかけでも正常に運用できるのが、優れた兵器の条件だから。 身体機能の向上だけでこれである。ここに〈奥〉《 、》〈の〉《 、》〈手〉《 、》まで付け足されるというのだから、いよいよもってヒトじゃない。 「────ふッ」 空中三回転半ひねり──からの着地と同時に、肘打ち、裏拳、回し蹴り。シャドーの要領で撃を放つ。 全盛期から五年。たまにこうして調子を取り戻してはいるものの、拳が奏でる風きり音は嫌味なほど昔のままだ。 鋭く、速く、的確に。かつて身体に叩き込まれ、任務で酷使されていたあの日のまま。鈍っていないことが逆に苛立ちを刺激する。能力値は風化せず厳然と維持されていた。 これも昔教えられたこと、〈星辰奏者〉《エスペラント》はアストラルと感応してあらゆる能力を向上させる。ゆえに物理的な筋肉量より、重要なのは感応時にどうやって高い出力を生み出せるかという点に尽きる。 身体の動かし方や慣れといった面を抜かせば、加齢以外の自然劣化は起こさないという仕様らしい。 ならば何故、わざわざ勘を取り戻そうとしているかというならば…… 理由は単純──怖いから。 「やれる。動ける。何とかなる──」 動きの型を繰り返しながら、不安を払う様に〈呟〉《つぶや》き続ける。それは臆病者の自己暗示。 スペックを抜かせば必要なのは経験だけと、分かっている。分かっているが、しかし、けど、〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》という感情が止められないのだ。万が一にも不測の事態に巻き込まれないかと思うだけで、芯が冷える。 自分の運は、〈微塵〉《みじん》も信じられない。 だから何度も、何度も、何度も何度も繰り返す。 大丈夫だ、おまえはやれると、自分で自分を誤魔化すために。 追い立てられるように、自らの性能を納得できるまで、ただ何度も── そして──機を見計らい地へ降り立つ。 壁を駆け下り、人気のない路地に着地した。勘を取り戻したからか、来た時より軽やかな足取りで動けたのは間違いない。 自信も多少はできたところで、ほっと一息、肩を鳴らす。 もはやこんな辛気臭い場所に用はなく、バレない内にさっさと〈踵〉《きびす》を返すことにした── 瞬間。 背後から飛来したのは、壊れた肉塊──いいや損壊した人体。 砲弾もかくやの速度で壁の赤い染みとなり、瀕死の姿で〈痙攣〉《けいれん》する姿はまさに死にかけの〈蟲〉《むし》そのものだ。 手足はどれも、巨大なペンチで捻じ曲げられたかのよう。赤黒い傷口の隙間から時折除く骨の白。なのにギリギリ全殺しの一歩手前に留められている様は、まるで趣味の悪い芸術品のようだった。 「──よう。悪いな、兄ちゃん。怪我なかったか」 そして、事の下手人らしき男がとても陽気に語り掛けてきた。 恐らくは無手、徒手空拳にて殺し合っていたからだろう。両腕から濃密な血の臭いを漂わせており、剣呑な獣じみた雰囲気がより好戦的に彩られている。 「それとも今度はあんたが来るか? おお、いいぞいいぞ大歓迎だ。どうにも今夜は喰いでがない」 「おまえさん、俺に劣らぬ〈万夫不当〉《ばんぷふとう》の雄と見た。どうする?」 「まっぴら御免だ」 手を上げて降参の白旗を上げる。頼むから、そんな興味津々に見ないでほしい。 いきなりやって来て、強引に巻き込んで、勝手気ままに喧嘩相手と認定される……いかにも〈底辺層〉《スラム》らしい行動原理だがそんなものは冗談じゃない。 あんたや、そこで転がっている半死半生になった誰かさんはそれでいいさ。縄張り争いや、くだらないはした金目的でどっちが上だの下だのとごちゃごちゃ言いつつ暴力的にやってれば。 俺は平和主義者だから、〈戦闘狂〉《バトルマニア》は必要ない。 勝敗どういう以前に、避けたいんだよこういうのは。 「頼むよ。ほらこの通り、見逃してくれって……な?」 「そうかい、乗り気じゃないなら仕方がねえわな」 腰の引けた態度を前に、苦笑しつつもあっさり男は気を鎮めた。 目測通り、純粋に荒事を求めている手合いだったらしい。それとも既に喰らい終えて満腹だったか。そのまま〈踵〉《きびす》を返しつつ首だけをこちらへ向けて。 「じゃあな兄ちゃん。縁があったらまた会おうや」 〈碌〉《ろく》でもない言葉を残して闇に消えた。 唐突にやって来て、適当に消えて、自分勝手にひたすら気まま。悪徳上等、退廃最高、そして暴力……ああやだやだ。 「いつまでたっても〈身勝手〉《じゆう》なことで」 力さえあればどんな無茶でも押し通るし、どう害しても許される。無責任ゆえのシンプルさは確かにさっきのような男にとって、堪らなく魅力的なんだろう。 〈全体〉《くに》がどれだけ豊かになろうと、こりゃ掃き溜めは無くならないか。〈微〉《かす》かな呆れを感じつつ、俺もその場を後にした。 あんな奴とは、今後二度と会いたくない。  二元、両極、天地に陰陽──  光があれば影があり、清が生まれば濁も生じる。  それは人の営みのみならず、自然界に〈遍〉《あまね》く敷かれた不変の摂理だ。  二つの顔は切り離せない。如何なるものにも浮き上がる。どちらか一方を躍起になって潰してしまえば、崩れた均衡はいともたやすくもう片方を道連れにして諸共消えてしまうだろう。  それは帝都も変わらない。景気向上に伴い、歓楽街の欲望が活性化したように。スラムの〈孕〉《はら》んでいた闇が、より狡猾な方向へと禍の深度を深めたように。  改善と改悪は常に見えない糸で〈繋〉《つな》がっておりどう〈足掻〉《あが》いても切り離せない。  ゆえに、臣民を統治する為政者たちはまずその理を深く受け止めなくてはならないのだ。  重要なのは、他方を壊滅させることではないのだと。  善悪聖邪を飲み下しつつ、合理性という縄で国家を縛る。その両面を理解した上で共に制御するという技術こそ、人心を掌握し長き治世をもたらす第一歩だということを。  戒め、胸に刻まねばならぬ常識は、しかし当たり前であるがゆえになんと難しい所業だろうか。  己の強権で目障りな法を抹消できる。うるさい民意を黙らせられる。税を〈貪〉《むさぼ》り欲を晴らし、邪魔な相手を正当な勅命により粛清できる──〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  それを自覚した瞬間、感じる恍惚と背徳はまさに悪魔の誘惑だろう。なにせもたらされる快感が容易に想像できてしまうのだから。  手にした権力が麻薬と化す。あればあるだけ所有者を幻惑にかかる毒林檎。  我欲と責務が胸の中で衝突し始め、果て無き戦いのスタートだ。そしてひとたび負けてしまえば二度と誇りは戻ってこない。賢君は輝きを失い、暴君へと向け一方通行で堕落する。  それら権力に憑かれた中毒患者は、もはや人類の〈お〉《 、》〈家〉《 、》〈芸〉《 、》である。  絶対王政、民主主義、貴族制、共和制、宗教国家、軍事政権。どのような形態を選択しようと無差別に、かつ平等に姿を現す転落劇。  帝国もその限りだ。どれだけ正しい法の下でも腐敗の発生は防げない。  現実として、この〈政府中央塔〉《セントラル》にも権力の奴隷が数多く存在していた時期があった。  それこそまさに雲霞の如く、大半が誅された今となっても原因は完全に取り除かれたわけではない。というより、改善できない領域でもある。  これはもはや人の本質、〈宿業〉《カルマ》とも呼ぶべきものが深く絡んでいる問題である。汚職、不正、欲に駆られた不義不徳。それは人類が在り続ける以上、決して無くならない現象なのだ。  逆にそれを捨てた者は、もはや人間という〈分類〉《カテゴリー》から外れていると言えるだろう。  聖者とは既に、人類種から逸脱している。  そう、だから──  断じよう、〈彼〉《 、》にだけはそれがないと。  何事にも例外は存在する。  正義の具現とは現象であり、平均値を大きく超えた存在はその時点で光り輝く〈英雄〉《モンスター》となるのだ。  我欲、獣欲、含有率は等しく零。  身に秘めるは武装した鋼の心、その一点。  己は民の盾であり、己は祖国の剣であり、己は運命を裁く者だと──不屈に〈煌〉《きら》めくその魂が宣している。  鋭い眼光は太陽より熱く、鋼鉄よりなお重めかしい。  軍事帝国アドラー第三十七代総統、クリストファー・ヴァルゼライド。  城壁に囲まれた鉄の摩天楼を統べる王が、深く、静かに、言霊を発した。 「────理を説け、ランスロー。 案ずることはない。おまえの願い、正当ならば無下にはさせん」  瞬間、帝国上層部の会議室から音が消えた。  会議は踊り、されど進まず──しかしそれが、いったいどうだ。  飛び交っていた論戦の中、〈僅〉《わず》か一声。紛糾する空気が水を打ったように冷静さを取り戻す。  決して声を荒げたわけではない。自然と滲み出た人間性の格が、知性の光をもたらした。愛すべき部下に告げる。 「各々、意見はあるだろうが今は口を〈噤〉《つぐ》むがいい。不用意だと、不敬だと、矢継ぎ早に囃し立てて黙殺するのが成すべきことか? 否だろう。  奴は勇ましくも俺を諌ようとしてくれた。別の視点から得た見解こそ必要だと判断したのだ。上官が違えたならば異を唱えてくれる部下こそ宝、その心意気を汲んでやれ」 「総統閣下……」  真の本音は万の説法より胸を打つ。  〈窘〉《なだ》められたはずの高官たちさえ……何故だろうか、去来したのは恥辱ではなく不思議な誇らしさが湧き上がる。  彼の部下であるという事実が重圧を伴い、同時に勲章として実感するのだ。 「追従するだけでは犬と変わらん。そうだろう、〈漣〉《さざなみ》」 「同感です」  しかし、と総統直属の副官──アオイ・漣・アマツはすぐさま続けて。 「されど閣下の決断に不足なし。私はそう信じております」  直立不動、主の背後に控える女軍人の横顔には絶対の忠誠が宿っていた。  聡明さの〈伺〉《うかが》える顔立ちは彫像のように揺るぎない。単一の意思で構築された精神は、ある種の完全性を有してヴァルゼライドを肯定している。  そして、こういった感情の持ち主は帝国内においてそう珍しいものではない。英雄を拝する者は多く、憧憬する者は後を絶たないのが帝国内部の現状だった。  程度の差、有能無能の区別はあれど、これが現在の軍人におけるスタンダートな反応と言っていい。  閣下を崇め、肯定する。ならばこそ── 「ゆえにだ、他者の視点こそ尊重せねばならん。 語れ、〈諜報双児〉《ジェミニ》隊長シン・ランスロー。今回の侵攻と領土拡大、何を懸念材料と感じたか。  貴官の〈諜報網〉《みみ》は何を捉えた。その優秀さを俺は聞きたい」  元々、この会議は先日行われた特務部隊による小国併合──それの処理に関するものが主題となるはずだった。  ラジオで大々的な戦果として報道した通り、投入した部隊は目覚しい活躍のもと損害らしい損害を出さず首都の制圧に成功した。  敵味方共に不要な血は一滴たりとも流れておらず、後に尾を引く禍根もない最高の結果に終わっている。  統治後にクーデターを起こされる可能性も低く、およそ考え付くかぎり最も理想的な結末だ。スムーズな形で国を肥やす領土なり資源が増えたと、そこは喜んでいいはずだったが……  勝利の高揚へ水を浴びせるように、一人浮かれずランスローは小さく語った。これは時期尚早であったのではと。  その瞬間、どういうことだ、貴官は何の世迷いごとをと、乱れ交った詰問の嵐。それを機に会議は一時空転したが、最高権力者が彼の意図を問いかけたこと、そこに理屈が通っていれば己は正しく深慮しようという発言によりこうして今に至っている。  無論、本来ならこれほど話が脱線することはないことなのだ。この場に在席している者らは、大虐殺後に一新された選り抜きの帝国軍高官。総統を拝しているゆえ緩みはない。  それだけの地位と実力を宿した精鋭がこれほど大きく反応したのは、ひとえに発言者がランスローであったからだった。  彼の所属し、とりまとめる部隊の役割。それを考慮に入れれば、安易に聞き逃していいものではない。  〈宇宙〉《そら》に描かれる星座になぞらえた十二の部隊。その方向性は以下に分かれる。  第一近衛部隊──〈近衛白羊〉《アリエス》。  第二西部駐屯部隊──〈鋼盾金牛〉《タウラス》。  第三諜報部隊──〈深謀双児〉《ジェミニ》。  第四南部駐屯部隊──〈堅爪巨蟹〉《キャンサー》。  第五南部征圧部隊──〈灼焔獅子〉《レオ》。  第六東部征圧部隊──〈血染処女〉《バルゴ》。  第七特務部隊──〈裁剣天秤〉《ライブラ》。  第八東部駐屯部隊──〈猟追地蠍〉《スコルピオ》。  第九北部征圧部隊──〈魔弓人馬〉《サジタリウス》。  第十北部駐屯部隊──〈瞬圧山羊〉《カプリコーン》。  第十一研究部隊──〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》。  第十二西部征圧部隊──〈潜咬双魚〉《ピスケス》。  そして、彼──ランスローが在籍するのは第三諜報部隊〈深謀双児〉《ジェミニ》。  主な任務は内部調査、各部隊からもたらされる諜報資料の統括など──つまり国家間情勢に探りを入れる〈諜報部員〉《エージェント》の頂点であり、そこを治める長こそ彼だ。  そんな男がこの場で唯一、総統の推し進めた〈侵攻〉《プラン》とその成果に苦言を呈したのだから、平静を乱されるのも当然というものだろう。  それら事実がどれほど重いか、国政に携わるもので分からぬ者は一人もいない。  ゆえに彼は非難の的となっていた。見逃せないデメリットがあったなら、なぜ出兵前にそれを進言しなかったのだ。気づいていなかった? ふざけるな、貴君の立場でそんな戯言を口にしていい権利はない、と──  どれも的を外れているわけではなく、まったく当然。この部屋にいる人間の中、帝国の平和を担っていない者など誰もいないから、その一員たる栄誉と責務をランスローは果たしていないと言われればその通りである。  そこには能力不足以前に、運の要素があったとしても弁解することは許されない。  しかし、他ならぬヴァルゼライドはそれを許せと言っている。  自分に免じて、そして聞かせよ。すべてはまずそこからだと、部下の言葉を待っていた。 「寛大な処置に心からの感謝を」  噛み締めるように一礼してから、糸のような目をさらに細める。  瞬間、今まで昼行灯のように気弱だった男の中でいったい何が変わったのか。揺るぎない賢者のような〈佇〉《たたず》まいで、独自の見地が放たれた。 「今回の件で私が危惧しているのは、今後の情勢変化において起こりうる一つの懸念についてです。  大勢に関しては先ほど〈漣〉《さざなみ》殿が語った通り。総統閣下の判断に〈陥穽〉《かんせい》はございませんでした。今回の遠征に踏み切った判断力、そして胆力、まったく見事と言えるでしょう」 「少数精鋭によるアルプス山脈の越境……自然の生んだ天然の要塞は本来難攻不落でしたが、〈星辰奏者〉《エスペラント》に限れば超えられないわけではない。そして後は、皆さんも周知の通り。   セント・ローマの上半分を落とすのは実に〈容易〉《たやす》く、上層部の首を速やかに挿げ変えることへ成功しました」 「〈流石〉《さすが》は我らが〈正義の女神〉《アストレア》。完璧で、かつ無駄がない手腕ですね」  侵略行為と呼ばれるものは武力を背景に行うがため、当然ながら先住民の反発を招きやすい。  田畑を焼かれ、家族が血を流したとあれば、損得を抜きに恨み返しが発生する。そういう点から見ても今回の遠征が大成功だったのは、〈権〉《 、》〈力〉《 、》〈層〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》を綺麗に排除できたからだ。  それさえ出来れば、後の統治など〈容易〉《たやす》いこと。 「あの国は昔からおおらかな島国気質でありますからね。以後の統治も、目に見えた横暴と搾取さえしなければ大した問題は起こらない。  後はトンネルと鉄道で〈交易線路〉《パイプライン》を〈繋〉《つな》ぎつつ、軍を常駐させて緩やかに南下。下半分も労せず手中に収めるのが、当初の目的だったのですが……」  そこで、忌々しそうに眼鏡のフレームを指で弾き。 「──どうも、商売人どもが小細工をしているようでして。 最近、急に〈鼠〉《 、》の動きが活性化していましてね。つい昨日も二人ほど尋問室にご招待して差し上げましたよ」 「小賢しくも、吐かせる前に仕込んだ毒で逝きましたが……まあそれはいいでしょう。とにかく守銭奴の間で派閥争いが起きているらしいのは確実かと」 「くだらん、それが奴らの限界だろう。珍しいことでもない」 「と、私も思っていたのですがね。どうも面倒な状況らしく……   帝国という虎穴にどれだけ踏み込めるかというのを、自分たちの椅子取りゲームに組み込んだらしいのですよ。ちょっとした〈度胸試し〉《チキンレース》気取りでしょうかね。まったく愚か」 「近隣国の過激派、間諜部隊、色々と焚きつけているようですよ。 それも今回、聖教国にまで密かに打診しているようでして」 「それがどうした」  同僚の具申を、アオイはにべもなく切り捨てた。  無表情の鉄面皮には波紋すら立っていない。 「金勘定に腐心する痴愚の群れ、一考するだに馬鹿馬鹿しい。ならばよし、遊んでやろうではないか。  戯れに獅子の尾を踏むつもりなら、対価はしかと貰い受けてやらねばならん。“力”とは何か、これを機に思い知らせてやるのも悪くない。   それとも……よもや貴様、我々が敗戦するなどとでも?」 「〈ま〉《 、》〈さ〉《 、》〈か〉《 、》」  冷たく射抜く視線に、ランスローは首を振った。それはアオイの顰蹙を恐れたのではなく、絶対にありえないという冷静な見地からだ。 「勝ちますよ。これは希望的観測でも自軍を過大評価したわけでもない、至極妥当な結論です。  今回のようにおそらく損害らしい損害さえ出ないでしょうね。時間、人員、国庫にさえ目を〈瞑〉《つむ》ればさらに速くケリがつきます。ネックはせいぜい物理的な距離だけでしょうか。  まあ、それこそ私の恐れる箇所なのですがね。我らが無敵の帝国軍、唯一の弱点を突かれかねない。すなわち──」 「“距離”か──」  ええ、と苦々しげにランスローは首肯する。  帝国は今や無敵だ。しかしそれも戦闘すればという話。  接敵し、そもそも会戦しなければ勝ちも負けも生まれない。戦えば必勝だろうと、他国という離れた位置まで物資や人員を送り込むのに生まれる費用は莫大であり、考え無しに出兵を繰り返せば無敗のまま国の寿命が尽きるだろう。  さらに、虎の子の〈星辰奏者〉《エスペラント》は〈人〉《 、》〈的〉《 、》〈資〉《 、》〈源〉《 、》だ。  戦車や銃のような生産方法が取れず、欠けてしまえば補充に苦労し、生物であるために性能の均一化が図れない。どうしても個体差が激しく現れてしまうという弱点を持つ。  出来によってトップとボトムの間では実力に天と地ほどの差がある以上、優秀な者を連続投入するわけにはいかない。鉄の武器と同じように、長距離の戦場を転々と移送して使い潰してはならないのだ。  他の大国が未だ平定されず、無事でいる理由の最大要因はそれだった。  帝国の覇道を妨げるのは物理的距離という単純な隔たり。遠いのだから、近づき難い。その単純な事実がアドラーの支配を阻んでいる。 「仮に、商人の火遊びが我々の予想をほんの少し上回ったといたしましょう。そして仮に、その中の馬鹿が一人でも引き際を誤ったとします。 ならば続けて、当然ツケを払わせるために我々もまた踏み込まざるを得なくなる」  勝利して滅ぼし万歳──などというのは大損だ。  奪い、肥えることこそ戦を行う本懐である。負け側から資産なり領土なりを回収して初めてそこに意味がある。  壊すだけの軍事国家にそもそも意味は存在しない。 「よって最悪の場合、続投せざるをえない状況へ移行する恐れがあります。   ならばその間、主に南東へかけての対処に追われてしまい〈北側〉《はいご》がガラ空きとなるんですよ──これがまずい」 「──なるほど、そういうことか」  そこで初めてアオイの口から納得が出た。  ランスローが指摘したのは旧・イギリス諸国を母体とする島国──カンタベリー聖教皇国。通称、聖教国だ。  日本という国、ひいては日本人という滅亡した民族こそ、旧暦に終止符を打ち、世界に裁きをもたらした神の使途である……という教えの元、今日まで繁栄を続けてきた宗教国家。  それの何が警戒するに値するのか? アオイのみならずこの場にいる他の高官たちにも理解できた。確かに、これは見逃せない。  無論のこと、それは〈大和〉《カミ》への畏敬などという無形の理由からではなかった。  聖教国の掲げる〈極東黄金教〉《エルドラド・ジパング》はかつて権勢を誇った基督教を母体にしているためか、多数の国に信徒が存在しているものの、そんなことは遠慮する理由にあらず。  帝国軍人が信じるものは鋼の規律だ。必要とその隙あらば、奴らの祈る聖堂など瞬きの間に鉄火で粉砕してくれよう。  ゆえに、この場合ランスローが警戒していた脅威とは、聖教国の飼う僧兵でも暗殺者でも過激派でもなく。  つまり── 「得心した。おまえが警戒していたのは〈狂信者〉《ジャパニスト》どもの玩具だな。  〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》……帝国外から訪れた存在しないはずのアストラル運用兵器、奴らのことを言っているのか」  五年前の悪夢。帝都の一角を地獄に変えた魔星の再来、それを忘れるなということが伝えたい言葉の本質であった。  この場にいる高官らの脳裏に、炎と屍が蘇る。  帝国崩壊にも至りかけた、あのおぞましい災禍が。 「……はい、その通りです。私にはどうしても、アレらが〈二〉《 、》〈体〉《 、》〈で〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈楽〉《 、》〈観〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  一度造られ、投入されたということは、後続が出来ていたとて何らおかしくないでしょう? 試作品から完成品へ。順当な流れではありませんか」  そして、あれから早五年。それだけの時間があれば、どんな国でも〈次世代型〉《つぎ》の一つくらいは出来ていてもおかしくない。 「対して我々帝国は? 何かが大きく変わりましたか? 銃の、兵器の、型が二つ更新されて? それで安心できますか?  再び悪魔と〈見〉《まみ》えたとき、今度こそあれに対処できる部隊はいますか? どうか私に教えてほしい」 「──ッ、ランスロー」 「ぶしつけなのは百も承知!」 「ですが、不敬でも何でも明らかにしなければどうするというのです。私はもう二度とあんな光景を見たくない……ッ!」  珍しく火のように吐かれた意見を前に、議会の空気は一転して重く苦々しいものへと変わった。  ある者は唇を噛み、またある者は屈辱に目を伏せる。アオイさえ険しい視線をしながらも否定を口にしなかったのはそういうことだ。  あのような事態が再び訪れた場合、〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》の誰もそれを解決できる力を持っていないということを、無言で証明してしまっている。  この五年間、帝国が無敵を吹聴できていたのは、怪物と〈邂逅〉《かいこう》していなかったから。不甲斐なくも幸運に守られていたから。無事なのは単にそれだけではないかと、ランスローは訴えたのだ。  たとえそれが暗黙のタブーであったとしても、彼は一切〈怯〉《ひる》まない。  使命感を胸に、その真実を提唱する──故国がために。  階級と戦闘力は必ずしもイコールというわけではなく、ランスローが生身の軍人であるように、帝国軍部の誰もが強化措置可能な適正を持っているわけではない。  そのためかつての大虐殺では、そこを理由に現場の高官からも多数の死者が出てしまった。  だからこそ、二度目に通じかねない要因には慎重になるべきである。何が何でもそれだけは起こしてはならない。 「悔しいのは私も同じ。ですが、それだけに慎重を期すべきでしょう。我々の決断には多くの命がかかっている。  守るべき民のためにも、兵に無駄な損失を出さぬためにも、今は耐え忍ぶべきではないでしょうか。勝利ではなく、まず敗北を避けましょう。   せめて連中を刺激する前に何らかの打開策を講じなければ、帝国は成す術なく五年前の二の舞に──」 「させんよ」  否と、〈呟〉《つぶや》かれた小さな声に宿るは灼熱。  時が止まった──息が止まる。  空気が変わった──〈揮発〉《きはつ》していく絶望感。  大いなる発言者に誰もが耳を傾けた。 「問題は無い。奴らはすべて、一人残らずこの手で〈斃〉《たお》す。  おまえも民も誰一人、二度と奴らに奪わせん。 ──そう、二度とな」  それは、溶鉱炉で煮えたぎる鉄のような──  あるいは、爆発し続ける太陽の中心核のような──  聞き入れるだけで意識を焦がす誓い。アオイも、ランスローも、他の高官も例外なく〈痺〉《しび》れるような震えが総身を駆け抜けていく。  悩みも憂いも消し飛んだのは、たった一つの理由から。この方がいる限りアドラーは不滅である、信じさせる鋼の意志がそこにいた。  決して幻覚ではない。思い上がりでもない。あらゆる不条理をねじ伏せて総統は真にそれを成し遂げてしまうだろう、それこそ思い描く限り最良ともいうべき結果で。  ヴァルゼライドとはそういう男だ。己に厳しく、民を愛し、そのためならば如何な地獄にも立ち向かう、絵物語からそのまま抜け出してきたかと錯覚する奇跡のような指導者なのだ。  だからこそ──ああ、〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》。 「疑っているはずなどありません。ですが総統閣下、それは……!」  〈呑〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》。  英雄という名の幻想を前にランスローは己を鼓舞したが、しかし。 「控えるがいい、ランスロー。それ以上の発言は〈深謀双児〉《ジェミニ》の名が泣くと知れ。 聞こえなかったか? 委細問題なしと総統閣下は仰られている」  まるでこの勇猛さこそ宝であると言わんばかりに、心酔する副官はそれ以上の発言を許さなかった。  誰もが安心し、食い下がるランスローこそ今では外様だ。誰よりもヴァルゼライドを拝している女の目に、彼の懇願は今やどれほど頭の巡りが悪く見えたか……言うまでもない。  しかしそれは、実際〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》がそうだったのか。 「それとも貴様、よもや閣下の言葉が信じられんと?」 「そういうわけではありません。しかしこれでは、あまりにも……」  ──英雄の光に焦がれすぎてはいないか、と。  言ったとてこの場では賛同者が得られないと分かっているから、ランスローは〈喉〉《のど》の奥で言葉を止めた。  これで、帝国はまた強硬論へと進むだろう。  前へ、前へと、まるで勝利を〈貪〉《むさぼ》る〈餓〉《う》え渇した大蛇のように。  そこに孕まれている危険性を憂慮するが、もはや流れは変えられない。誰にも見えないよう背後に回した手が堅く握りしめられる。  無念を飲み下しながら仕方なく着席しかけた、その時に── 「安心するといい、ランスロー殿。 その時は、私も共に〈出撃す〉《で》るとしよう」  総統閣下に勝るとも劣らぬ、されど気質の異なる覇気が室内に風を吹かせた。  それは、紛れもなく王者の素質を携えた女だった。  纏う雰囲気には余裕がある。体躯を覆うのは気品。  ヴァルゼライドを鍛えに鍛えた無骨な鋼と評するならば、彼女はまさに天然自然の金剛石だ。  努力では決して身につかない、血の尊さのみが放つ隠しきれない先天性の高潔さがそこにある。  限りなく濡羽色に近い髪の黒は貴種の証明。  〈隻眼〉《せきがん》から〈迸〉《ほとばし》るは底知れぬ制覇のカリスマ。  対する者を見惚れさせると同時に威圧する魔の美麗さは、妖艶な破壊の女神に見紛うほどで──そう、彼女こそ。 「…………チトセ」  その名を、チトセ・〈朧〉《おぼろ》・アマツ。  十世紀の時を経ながら限界まで純潔を保った、日ノ本の血を継ぐ者。  第七特務部隊〈裁剣天秤〉《ライブラ》を統べる〈正義の女神〉《アストレア》は、その肩書きに〈相応〉《ふさわ》しい威風を携え堂々と微笑を〈零〉《こぼ》した。  己を見据える同じ〈日系〉《アマツ》の女へと、髪をたなびかせながら妖しく笑う。 「そう〈睨〉《にら》むなよアオイ。なに、〈日本人の血統〉《ワーカーホリック》の悲しい性というやつさ。  御先祖様と同じように、働かなければ一秒さえ惜しいと感じてしまうらしい。とても呑気に休んでられん。  それにこの手で変えた国境線だ。後は〈堅爪巨蟹〉《キャンサー》に任せたとはいえ、〈顛末〉《てんまつ》くらいは聞いておこうと赴いたのだが……」  ちらと、アオイとランスローを愉快そうに交互で眺め。 「いやはや、中々に美しい光景じゃないか」 「人気者は辛いね、総統閣下。やはり英雄。アプローチの仕方でさえ部下の間でこうも拗れてしまうとは」 「〈裁剣〉《アストレア》──」  口が過ぎると雄弁に語る瞳。射るような視線は怒りを通り越して殺意すら宿していたが、しかしチトセは小動もしない。  むしろ微笑ましいものだと苦笑する。  まったく、これだから〈自〉《 、》〈覚〉《 、》のない女は困る。 「よせ、過剰な反応は不要だ〈漣〉《さざなみ》。〈正義の天秤〉《ライブラ》にはその権利と義務が備わっており、俺もそれを認めている」 「と、仰っているが?」 「……承知いたしました、閣下」  そう言いつつも依然放射している確かな隔意。このようなやり取り自体もう何度目になるだろうか、常に二人はこうだった。  まあ、それも致し方ないのだろう。同じ貴種の存在ながら、ヴァルゼライドを理想と仰ぐ彼女にとってチトセは決して目を離していい人物ではない。  天秤の部隊長が有する特権──それは国家に不利益をもたらす輩なら独自に裁いて構わぬという、一種の〈処刑執行許可〉《マーダーライセンス》。  権力の縛りを超えて同胞すら〈屠〉《ほふ》れるそれは天秤に続く古くからの伝統ながら同時に有名無実と化していたが、しかしその平等性こそ必要だと、他ならぬ総統自身が復権させた許可書だ。  堕落を討ち、悪を裁け。そして己が腐ったならば──容赦なくその首を刎ねるがいいと。  総統への就任と同時に言い放ち、チトセは無論それを受けた。  ゆえに彼女のみが帝国軍内部において唯一、特殊な立ち位置を保持している。  ある意味において最高権力者とほぼ同等。関係も表面上は良好であり、ゆえに今まで特権を巡る〈軋轢〉《あつれき》は二人の間で起こっていない。  少なくとも、今のところはだが。  ともあれ── 「途中から来た私が言うのもなんだが、この場合あなたが安心させれば済む話では?  結局、どちらもあなたにぞっこんなだけなのだから」 「それについては言葉もない。己の無力と不甲斐なさゆえだ」  飾らない言葉は互いの間で打てば響く。信じさせられなかった自らを恥じるように、ヴァルゼライドは腰を上げた。  そのまま困惑するランスローの肩へ、そっと手が添えられる。 「──信じろ、ランスロー。俺は死なん。  我が星、我が剣の絶対をここに誓おう。これでは不服か?」  置かれた手は優しくも、力強く。  熱い眼差しはひたすら雄雄しく。  一人の男としてこうも真っ直ぐに宣言されては、何も言えるはずがない。  この鋼を汚すことなど──ああ誰にも。 「……滅相も、ございません」 「では現時点をもって本日の会議を締めるとしよう。 各員、己が職務に戻るがいい」 「なお、貴官らは自らの提言をまとめ、後に私の元まで提出されたし。 よいな」  それを機に、各々が会議室から退席していく。  だが、ランスローは動かない。眉間に葛藤の〈皺〉《しわ》を刻み、俯きながら〈案山子〉《かかし》のように突っ立っている。  胸を渦巻くのは押し殺した進言の意図だった。  ヴァルゼライド総統は確かに強く、出来ないことをやれるとなどとは決して言わない。常に的確、公明正大。手が足りないなら恥を惜しまず助力を乞い、己に不足があったならば部下にさえ同じ人間として頭を下げる好漢だ。  冗談でも何でもなく、彼のような男は二度と現れない。  その意味が、彼らは本当に分かっているというのなら──  何としても、そう、決して── 「総統閣下は絶対なり。決して折れぬ、朽ちず砕けぬ不屈の刃──と、信じたいのは結構だが、やれやれ頼りすぎではないのだろうかと。   貴官が真に危惧しているのは恐らくそういうところかな?」 「〈裁剣〉《アストレア》殿……」  はっと、そこでランスローの意識が戻る。気づけば彼の隣にはチトセが悠々と構えていた。  既に二人を残して誰もいなくなったからか、雰囲気は友人相手のように軽い。  内面を代弁するような言葉に彼は、深く項垂れるように頷き返す。 「ええ、ええ、言うまでもなく、その通り。  〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈方〉《 、》〈は〉《 、》〈替〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈利〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》ということ。そして〈最〉《 、》〈悪〉《 、》〈の〉《 、》〈結〉《 、》〈果〉《 、》〈が〉《 、》〈訪〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈帝〉《 、》〈国〉《 、》〈は〉《 、》〈続〉《 、》〈く〉《 、》ということを、我々は重く受け止めなければなりませんのに」 「分かっていないわけではないさ。あの場に居た全員が仮にも帝国軍人だ、一人の決戦存在に依存している国家など冗談にしても笑えない」 「アオイも当然その程度には気づいている。まあ、だからこそ根が深いのだろうがね。  伝説というものは美しい。ついつい〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》」  胸が躍るから、なまじ完璧だから、負ける場面が想像できないヒトだから。  自然と誰もが求めてしまう、〈第〉《 、》〈二〉《 、》〈幕〉《 、》というものを。  ワンマン体制の弱点など何度も議論されているがしかし、しかし、しかし──〈だ〉《 》〈が〉《 》〈し〉《 》〈か〉《 》〈し〉《 》だ。  駄目だと知っていながら願ってしまうのは、まさに生きた伝説のもたらす皮肉な弊害というところか。彼の戦いを邪魔してはならないという、本来トップの人間に抱いてはならない種の信仰が全員の胸に息づいていた。  それはまさしく、輝きに満ちた魔の誘惑だ。  何か不測の事態でヴァルゼライドが死亡すれば……いいや、手足のいずれかが一つでも欠けるだけで、冗談ではなく帝国の黄金期が終わるというのに。  本来そのような人物を前線に立たせるべきではなく、しかし彼以外に異形の魔星が再来した場合それを解決できる者は存在しないという現実。  ある意味、冷静な視点で見れば信じがたいはずの現状は五年経っても何一つ改善されていないまま。  軍という組織を第一に考えれば戦闘行為から遠ざけ、あくまで指導者として扱うべきでありながら、総統閣下の化物退治を民も臣も求めているという袋小路に陥っている。  順調ならばいい反面、一つ歯車が欠ければ待つのは破滅だけだろう。  チトセとランスローはその危うさを基準に話していた。二人はまだ比較的、英雄の光に呑まれていない。 「始まりにして最強の〈星辰奏者〉《エスペラント》、救国の英雄、クリストファー・ヴァルゼライド…… スラム出身者でありながら総統にまで上り詰めたことも含めて、ありとあらゆる不可能を可能に変えた凄まじさには私も素直に感服するよ。その偉業ゆえ代理がないのを含めてね。  先ほどあの場を納めるために自分も〈出撃す〉《で》ると言ったものの、その必要があるかどうか……」 「まさか……〈日本人〉《アマツ》直系のあなたがいれば、千人力というものでは?」 「血の優劣など〈些細〉《ささい》なものさ、磨かねば当然腐る。  不断の意思がどれほど驚異の力を生むかは、閣下を見れば分かるだろう? あの人こそ精神論の実証者だ」  アストラルと高い感受性を示す〈日本人〉《アマツ》の血。それも純血に極めて近い最高の血統を持ちながら、雑種というべきヴァルゼライドの後塵を拝しているという現実がチトセにはある。  意志力のみで凌駕したのだから、怒る以前に笑ってしまうくらいだ。努力がすべてとは言わないものの、あれを見れば才能の絶対性など霞んでしまうと彼女は常々思っていた。 「実際、瞬間的な戦闘力で競うなら私の二枚は上を行く。 何より結果も出ているしな。〈右眼〉《これ》がほら、動かぬ証拠さ」  右目を覆う眼帯をチトセはあくまで、軽く小突いた。  どこか自嘲的なのは、その下が五年前に怪物の手で〈眼〉《 、》〈球〉《 、》〈ご〉《 、》〈と〉《 、》〈抉〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》。古傷を指して過去の敗北に苦笑する。  各々の敵を相手に、彼女は敗けて──彼は勝った。  それでおしまい。それが結果。口惜しいが、時間は二度と戻らない。 「そして、その実績がある限り我々の〈憂鬱〉《ゆううつ》はまだまだ続くということかな。やれやれ、互いに苦労するぞ」 「私とて本当は憎まれ役など御免ですよ。〈漣〉《さざなみ》殿こそ副官として閣下を止めるべきでしょうに……」 「ははっ、それは無理な相談だ。我が〈従姉妹〉《いとこ》はアレで少々純粋でなぁ、自分でも知らない部分で判断基準が綺麗に二分されているのさ。そして自分で気づいていない」 「ま、男に劣らず女も馬鹿だと思っておけ。おっと、これは秘密で頼むぞ」 「は、はぁ……」  首を〈傾〉《かし》げるランスローを置いて、チトセはくつくと〈喉〉《のど》を震わせて笑う。  それは不思議と嫌なものを感じさせない、あるいは案じているようにも見える表情だった。 「ともあれ、貴官の危惧もよく分かるよ。閣下は万事に〈急〉《せ》いている」  それは今回の遠征もそうだ。本来ならば一年後に予定していた行軍であり、その担当は当然ながら南部征圧部隊である〈灼焔獅子〉《レオ》が行なうはずだった。  しかし総統の強い発言により、〈裁剣天秤〉《ライブラ》を用いてのセント・ローマ侵攻が決定したという背景がある。  そして決行された電撃作戦。成功過程を導き出し、前倒しに漕ぎつけた手腕は確かに見事の一言だが、だからといって早々に攻めなければならない理由があっただろうかと問われれば、それは否という他ない。  何より、このような事例は五年前から帝国において珍しいものではなくなっていた。  ヴァルゼライドが推進し、その度に勝利を掴む。驚異的なスピードで拡大していく支配領域は誇らしさを超え、我に返れば空恐ろしいほどだ。まるで都合のいい物語を見ているような錯覚さえしてしまう。  結果的に連戦連勝しているものの、一度や二度ならともかくとして常時それなら疑問も生まれる。  大半の者はこの展開が当たり前になって既に麻痺しているものの、ひとたび冷静になれば万歳三唱では済ませ難い。  大虐殺の以後と以前では軍全体の出動回数そのものが違う。  勝ってはいるし常に正しい──だがはたして、彼にはいったい何が見えているのだろうか?  まるで〈猶〉《 、》〈予〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》かのようだと、感じる時まであるものだから。 「私は時折、あの方は何か恐ろしいものに駆り立てられているのではと、思えて仕方がないのです。  そう、我々のあずかり知らない、名状しがたき強大な何かに突き動かされているのではと……」 「ほう」  それを知りたい、いいや知らねばらない。  でなくば真に職務を果たせないという動機の下、二人は対極ともいうべき反応を見せた。  ランスローは深く祈るように視線を落とすも。  チトセは逆に口端を上げ、〈隻眼〉《せきがん》を爛々と輝かせた。 「では、探りでも入れてみるかい? Mr.〈諜報員〉《エージェント》。 あるいは正面から二人で尋ねにいってみるとか、どうだろう。我ら二人の忠義を買ってすんなり明かしてくれるかもな」 「はは、ご冗談を。小心者の私では肝が潰れてしまいますよ。あの目と向き合うなど、とてもとても」 「それは残念だ」  冗談か、からかわれたとでも思ったのだろう。チトセのちょっとした軽口には社交辞令が返って来たが、はたしてそれは本心からだったろうか。  互いに国の行く末を憂う二人は、その一瞬だけ決定的にすれ違った。  そして真意を問うことなく、追求もないまま流される。困ったような苦笑を残し、一礼してからランスローは退室した。  部屋には今やチトセ一人。それを確認してから、しなやかに腕を伸ばして。 「サヤ」 「──此処に」  軽快に指を鳴らし潜ませた駒を呼び寄せる。瞬きの間に背後へ立っていた少女、サヤの手から紙面を受け取りそれを眺める。  完全な気配遮断──まるで影のような隠形にランスローはついぞ気づかなかったのだろう。恐らくは、いつから入室していたのかさえ定かではなかった。  そしてその事実は、彼女が優秀な〈星辰奏者〉《エスペラント》……とりわけ潜入・隠密行動に長けた存在であることの証左であった。  報告書には事前に命じた調査結果の内容が細密に書かれており、それがそのままサヤの有用性を現している。  予定よりも十分な成果だ。いい仕事をしたとチトセは静かに含み笑う。 「手際がいいじゃないか。 彼の〈諜報双児〉《ジェミニ》へ移籍しても十分やっていけると思うぞ」 「お戯れを」  最大の賛辞こそ、とんでもないとサヤは微笑む。  言葉じりは上品に、しかし絶対の拒絶が籠められていた。  この方は、なんと意地悪なことを言うのでしょうかと、艶やかに首を振る。 「サヤが仕えるべき主はお姉様以外にございませんわ。わたくしの幸福を、どうか奪わないでくださいまし」 「総統閣下に口説かれてもか?」 「無論、比べるべくもなく」 「いい子だ」  伸ばされた指が頬をさすり、〈喉〉《のど》元を猫のように淡く〈擽〉《くすぐ》った。  ああ、ああ、そのご褒美がたまらない。少女の意識が桃源郷に導かれていく。桃色の多幸感に蕩けて乱れ、〈嫋〉《たお》やかな手の動きに〈内〉《 、》〈股〉《 、》をよじらせた。 「はぁ、ん……光栄です、お姉様ぁ」  ため息は法悦に濡れ、音を鳴らしながら艶やかな指先を〈啄〉《ついば》むように口づける。下腹部は〈疼〉《うず》きに〈疼〉《うず》き、〈股〉《 、》〈布〉《 、》はしっとりと湿り気を帯びていた。  発情、陶酔、思慕、崇拝── 天秤部隊副隊長、サヤ・キリガクレはこのために生きている。  そして、〈部下〉《ペット》を片手で愛玩しつつもチトセは紙面から目を離さない。  彼女には知りたがっていることがあった。そしてそれは、ランスローの抱いた危惧より深い域へと達している。 「〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の研究施設から“〈β〉《ベータ》”の移送が決定されたし。尚、同様の指令が過去に六度。いずれも最高権力者が携わっているのは確実であり……   商国からの物流に紛れこませる形で極秘に第六〈交易拠点駅〉《ターミナル》を経由して、別施設へと搬入予定。軍部以外の立ち入りはグランセニック商会に限定する。それも最低限の権限以外は容認しない、破ればその場で射殺も可」 「また、現場の兵についても同様。 階級問わず、例外なく黙秘を貫くべし、か」  そして、最後を彩るように。 「──全権責任者、ヴァルゼライド総統」  つまりは徹底して極秘の案件。軍事帝国の若き指導者が抱える謎の一端、〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》と示している。  研究機関である〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》には、その性質上なにかと黒い噂も付き纏う。そこに私財さえ投入してどうやら強烈にバックアップしているようだ。  ならばチトセにそれを見知らぬ振りで済ますつもりなど、欠片もない。  何せ彼女は今も昔も、〈ヴ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈男〉《 、》〈を〉《 、》〈信〉《 、》〈用〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  尊敬? している。評価? している。  強さに感服していることも、凄絶極まるその魂を認めているのも確かに事実だ。彼は強い。  しかし決して“忠誠”だけは欠片も誓っていなかった。  絶対に、そう心から。  顔を合わせるたびに本能が叫んでいる。あの男はいずれ帝国全土を巻き込むような、未曽有の事態と遭遇すると。そしてその呼び水になると、チトセは密かに確信している。  何もそれは根拠なき女の勘に基づいた思考じゃない。  英雄とは常に光を担う者。襲い掛かる闇を払い、希望を形にする者だ。  ゆえ逆説的に──彼のような超人が相対するに〈相応〉《ふさわ》しい闇というのは、いったいどれほどの規模になる?  彼が討ち払った大虐殺の炎ですら、実は〈序〉《 、》〈章〉《 、》に過ぎなかったと過程すれば?  その先に訪れるのは……  想像した場面にチトセは口端を小さく歪めた。一人で、孤独で、悲劇的に終わるからこそ英雄譚は胸を突く。だからこそ、まったく冗談じゃないだろう。  そして何より、そんな運命を一人で廻そうとするのはいただけない。  たった一人の英雄が国家の存亡を担い続ける。ランスローと同じく、そこについてはふざけるなと思っているのだ。 「隠し事はいけないなぁ、ヴァルゼライド。一人で何処へ行くつもりだ。  私たちは共に、帝国の未来を案じた共犯者だろう?」  〈清〉《 、》〈算〉《 、》〈は〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。それを明らかにしなければ、チトセはもはやどこにも行けない。  それだけのものを、彼女もまた五年前に失っている。 「おまえの擁する運命から、私を省くというのなら」  部下を可愛がっていた手を離した〈途端〉《とたん》、紙の束が中空に浮き上がった。  のみならず、内側へ向けて〈螺旋〉《らせん》の渦を描くように圧縮され──そして。 「自ずからそこへ赴いてやるだけさ」  発光と共に、燃え尽きながら小さな灰の塊となった。  どこからともなく吹いた風が、それを室内に〈撒〉《ま》いていく。  万遍なく撹拌されて虚空に消えた報告書。どんなに小さなピンセットを用いようと、もう復元は不可能だろう。部屋中の細かな〈埃〉《ほこり》に灰となって混じり合った。  証拠を消し去った女傑は、従者を伴に優雅な仕草で身を翻す。  何食わぬ顔で、先ほど〈垣間〉《かいま》見えた野心など今は露と感じさせずに……  どれだけ善政を敷こうとも、繁栄を歩んでいようと、人それぞれに異なる意志は決して一つにならないのか。  〈政府中央棟〉《セントラル》では今日も権力者の思惑が、それぞれの願いへ向けて交錯している。 そして、約束の勤労日がやって来た。 前金の確認、オッケー。酒も数日飲んでいない。体調も総じて完璧。 なので後は、俺のやる気ともう一つ── 「──それじゃあ、始めるね」 愛用品の武装を、俺自身へ合わせて調律する作業。 強化兵……いや、〈星辰奏者〉《エスペラント》の性能を最大限発揮させるための必須作業を行うだけだ。 「右腕脈拍、81。続けて左腕、82……」 「血圧、基準内……クリア。〈星辰奏者〉《エスペラント》側の数値に異常無し。これより〈星辰奏者専用特殊合金〉《アダマンタイト》との同期作業へと移行します」 被験者の身長、体重、脈拍、血圧など各種身体データをまず計測する。そして得られた数値に異常がないのを確認してから、それと〈同期〉《シンクロ》するように得物の調整へと入る。 ここまででも通常の〈鉄機手芸技師〉《エンジニア》と違ってかなり特殊な作業をしているが、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》の最たる特徴はさらにここから現れ始める。 「いいよ、兄さん。お願い」 「〈星辰体〉《アストラル》──〈波長〉《ウェイブ》、〈同期〉《シンクロ》」 その求めに応じて、俺は手にした得物と同時に──〈手〉《 、》〈を〉《 、》〈握〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ミ〉《 、》〈リ〉《 、》〈ィ〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈の〉《 、》〈ア〉《 、》〈ス〉《 、》〈ト〉《 、》〈ラ〉《 、》〈ル〉《 、》とも感応する。 瞬間、びくりと少女の身体が一度だけ跳ねた。〈星辰奏者〉《エスペラント》とは違いアストラルを体内へ過剰に投射されてはいないものの、一般人の身体にも微量ながら未知の粒子は宿っているのだ。それは当然、ミリィにも。 そして皮肉なことに、アストラルとの親和性が低い一般人だからこそ、こうして〈星辰奏者〉《エスペラント》が放つ波長に対して敏感になる。 〈曰〉《いわ》く不快感、異物感、大きなうねりが干渉しているような気分になるらしい。俺たちとしては既にそよ風みたいなものだが、普通の人間にとってそれは台風の動きに等しいらしく。 ゆえに、感じ取れるらしい。限定的に相手がどのような感覚でアストラルを捉えているのか……そして。 「これは、狼……? 傷だらけで、月に吠える銀色の……」 それが心の中に、特定の姿形となって見えると聞く。 まるで粒が重なり合い、星空のキャンパスで星座を描くように感じるのだとか。 「──いきます」 そして、それに合わせる形で〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》はアダマンタイトに信号を打ち込んでいく。 〈僅〉《わず》かに感応した自身のアストラル、星の力どころか身体強化など欠片も起こさない程度のそれを金槌代わりに、傍から見ればモールス信号を打ち込むような仕草で……たんたんと。 先程感じた奏者側の適したアストラルの捉え方、すなわち内包する星と感応するのに適した形へアダマンタイトの内部波長を地道に地道に整えていく。 それは、すぐに形状変化を起こす軟体へ向け、水を一滴ずつ打ち込んでは完成図へと近づけていくような根気のいる作業だった。 アストラルは粒子であり、ゆえにすぐその形を変える。金属内部は特にそれが通りやすく、しかも大量に感応しても大丈夫な〈特殊合金〉《アダマンタイト》ともあれば特定の波長に整えるのはいったい如何ほどの難易度か。 軍属時代には、髪の毛に帝国憲法を書き込む方がよほどマシだと〈愚痴〉《ぐち》っていた〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》まで存在していた。 「────、ッ……ふぅ、っ」 これが初の挑戦となるミリィにとって、まさにそれは人生最大の難行なのだろう。こちらが息を飲むような真剣さで指先をなぞり、打ち付け、俺が星を行使できる最適な状態へとアダマンタイトを整えていく。 その様はまるで名工が楽器を調律するが如しであり、ゆえにこそ名づけられたのが〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》。 得物の構成材質であるアダマンタイトと〈星辰奏者〉《エスペラント》を〈同期〉《シンクロ》させるスペシャリスト。 兄として、家族として、妹の全力を俺はじっと見届ける。 それから果たして、どれだけ時間は経ったのか…… 数分には短く、数時間には届かない。しかし何より濃密な時を過ごした後、ミリィはゆっくり俺の手と発動体から手を離した。 指先は繊細極まる作業ゆえかまだ震えていたものの、たった今まで息を忘れていたように一度大きく深呼吸して…… 「で、きたぁ……」 自分でも信じられないという風に、茫然と両手を開閉したのだった。 やり遂げたんだな。すげえよミリィ、やっぱり君は最高だ。 「ああ、格好よかったぞ」 成功したという実感を与えるために震えたままの両手を握り、笑顔を送る。黙して作業の一部始終を眺めていたジン爺は、横から俺の発動体を手に取った。 軽く握り、軽く弾く。そしてそのまま、ぶっきらぼうに手渡してぽつりと。 「大甘で七十点だ。その感覚、鈍らせるなよ」 たぶん本人にとっては最高の賛辞を送りながら、自分の仕事を再開した。 俺と師匠に褒められて、そこでやっと自分がこなしたことが分かって来たのだろう。はっとしたようにこちらの顔を見上げて、おずおずと口を開く。 「ど、どうでしょうかっ」 「完璧でござるよ、ミリィ殿」 証明するように受け取った短刀を虚空に向けて軽く一振り。正直、ミリィ一人でやったとは思えないほど微細な調整が施されていた。 〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》の本職顔負けという出来である。予想以上だという他ない。 やった、と小さくガッツポーズするその姿には、抱えきれない成長の喜びが宿っていた。この数日、真剣に打ち込んでいた努力の成果だもんな。俺も自分のことみたいに嬉しいよ。 最初は渋っていたが、結果的にはこれでよかったんだと今は胸を張って言えるから。 ならば自分としてもしくじるわけにはいかないだろう。無事に帰って来ることが、彼女に対する最高の返事だというわけで。 「じゃ、行って来るよ」 安全に卒なく終えて、ここへ戻れるようにしよう。 あくまで気楽な仕事を装いながら、俺は目的のターミナルへと足を向けた。 「ずるいよね、兄さんは」  遠ざかっていく背を見送りながら、わたしは小さく〈呟〉《つぶや》いた。  バカ。強がり。やせ我慢。いつもいつもそんな風に……  さり気なく、ふらふらと、頼りなさげに去って行ったあの人に胸が切なく痛んで、〈軋〉《きし》む。  普段通りの雑事であると、そう〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》を半ば気づいてしまっていた。  本当は、なんとなく分かっているのだ。兄はいつも、何か面倒を引き受けるとそれを誤魔化すように何事もないフリをし始める。  そしてそれと反比例するかのように、普段通りのやり取りを大切にしようとしてしまうのだ。一度失ってしまったものだから、本人も無意識にそうやってしまうのだろう。  それは小さな違和感だが、自分が見抜けないほどではない。  むしろ自分にとっては大きな違和となり、知らず目に入ってしまう。  家族で、兄で、大切に想っている人の苦しみを見抜けないほど鈍くないのに。まったくあの人は、わたしを舐めているんじゃないだろうか?  あれで隠せているだなんて恋する乙女を馬鹿しているのかしら。なんて、いったい何度思ったろうか。 「わたしだって女の子なんだよ」  いつも見ている〈男〉《 》〈性〉《 》の強がりなら、分かるよ。気づくよ。ずっとあなたを想ってきたんだもの。  それをいつまでも妹扱いばかりして、ばかばかばかばか。  本当に、本当に……  もっと何でも話してほしいと思うし力にだってなりたいのだ。自分が支えている部分なんて実際のところ、微々たるもの。金銭面での稼ぎや家事では到底返せないほどの温もりを、わたしは兄さんから貰っている。  あの惨劇から早五年……悪夢に〈怯〉《おび》えて絶叫しながら飛び起きた夜があった。  目を閉じれば両親の死が〈瞼〉《まぶた》の裏に蘇り、人目もはばからず泣き出したこともあった。  心の傷は今も〈疼〉《うず》いて、気を抜くと過去しか見えなくなってしまうほど深い〈痣〉《あざ》になっている。けれどあの人は、そういう時いつも傍にいてくれた。  真夜中、震えが治まるまでそっと肩を抱いてくれた。  悲しみが雫となって尽きるまで、ずっと胸を貸してくれた。  そして何かいい事があったなら、それこそ自分のように喜んでくれた。ミリィが笑うと嬉しいって……  それはきっと傷の舐め合いという意味もあったけど、だからいったいなんだというのか。その不器用な優しさに自分はどれだけ救われたか、とても測ることさえできない。  真実、兄がいなければミリアルテ・ブランシェという少女はとうに生きることを諦めていただろう。  過去を乗り越えられたのは紛れもなく彼のおかげで、そしていつしかわたしの抱く感情も自然と変化を遂げていった。  兄から、一人の男性へと。  ゆえに大切で、支えたいと願うから。 「だから、これがわたしの小さな〈我儘〉《わがまま》。兄さんの刃を最高の形に仕上げる」  あなたのために〈せ〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》と思い、手掛けた武装へ無事と安全をすべて託した。  〈自惚〉《うぬぼ》れでも、こんなことで役に立っていると思うことを、どうかわたしに許してほしい。  夜遊びも、朝帰りも、深酒も、ギャンブルも、どんな失敗をしたとしても構わない。たとえ他の女性を選んだとしても、精一杯の笑顔を作って背中を押してあげたいと思う。  臆病でいい、卑怯と呼ばれても全然いいの。  誰に後ろ指を差されてもこの気持ちは揺るがない。わたしは兄さんが大好きだから、守ってほしいのは一つだけ。 「どんな仕事をしてもいいけど、怪我だけはしないでね。 痛そうな傷でも負ったら、代わりに泣いてやるんだから」  そしていつも通り、この胸騒ぎがどうか〈杞憂〉《きゆう》で終わるようにと。  神様にも運命にも期待せず、手渡した〈発動体〉《アダマンタイト》へ小さく祈りを捧げたのだった。 「どうも、グランセニック商会から来ましたアラン・ハワードです。あ、こちら身分証明書なりますんで、確認よろしくお願いします。はい」 「しばしそこで待機せよ」 目の前にいる帝国兵へ偽造した証明書を渡しつつ、さり気ない仕草で俺は周囲を確認した。 交易の要である鉄道駅は今日も非常に物々しい。常駐している帝国兵がそこらに多数配置されており、何かあれば即座に対応できるという鉄壁の布陣が形成されていた。 国内外を出入りする物資、人に厳しいチェックを課すという重要な役割を任されているせいか、どいつもこいつも職業意識の高そうな面構えだ。危険物に不審人物なんのその、紛れ込むものは蟻の子一匹見逃さないと常に気を張っている。 特に、今日の第六〈交易拠点駅〉《ターミナル》は何かが違った。空気が明らかに張りつめているのはたぶん気のせいじゃないだろう。 貿易拠点というだけでは説明しきれないこの圧迫感、明らかに厄介なものを抱えている。 ……たぶん、いいや間違いなく俺の仕事絡みだけどな。うわ〈憂鬱〉《ゆううつ》。 「正式な商会印だな……よし、通れ。ターミナル構内での作業を許可する」 「ただし、関わってよい作業は商国往来の第二・第三貨物列車のみだ。それ以外の積荷に触れた場合、持ち場を無断で離れた場合、第三者と入れ替わった場合、どれか一つにでも該当すれば見つけ次第、問答無用で我々は貴様を射殺する」 「何らかの善意によって違反しようが、例外は一切認められないと知れ。規則を犯した瞬間、貴様の人権は消滅するのを肝に銘じておくがいい」 「へい、そりゃもう」 腰も頭もへこへこ低く、滅相もありませんよと愛想笑い。後ろ暗いことをしているのはこちらもとっくに自覚している、変に逆らうつもりもなかった。 ただ、そうやってしきりに恐縮してみたせいか。検問を通してもらった際、先ほどまで厳しかった軍人の顔がほんの少し緩みを見せた。 「すまんな。だがこうして脅せば不慮の事故も減るのだよ。それに幾らか時期も悪い」 「少し前にも、第二〈交易拠点駅〉《ターミナル》で聖教国の間諜が自爆騒ぎを起こしたのは知っているだろう? あれは氷山の一角でな。そのせいか警備の厳重さは年々上がる一方だ。そして我らは命令ゆえ、釘は然りと刺さねばならん」 「よって、そう縮こまらずともいい。何もおまえ個人を疑っているわけではないのだからな」 安心しろというその口ぶりは頼もしく、親しみに溢れていた。たぶんだが、この軍人さんは普通に〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈人〉《 、》なのだろう。 こういう小さなフォローを忘れず、それでいて職務に真面目なその姿勢は人間的に好感が持てる。 だから──ちくしょう、罪悪感とか感じさせないでほしいのになぁ。 「兵隊さんは立派ですねぇ。俺はこうして〈商国〉《よそ》のシマで小間働きなんぞしている始末。なんか恥ずかしくなってきましたわ」 「そう卑下するな、同じ帝国民ではないか。今や職に貴賤はない」 「……でしょうかねえ」 申し訳なさそうなのを装いながら、自分自分を〈嘲笑〉《あざわら》う。これだから今の帝国軍人は困るんだ。 どいつもこいつも英雄に感化されて誠実潔白、器を磨くことに余念がない。 こっちは大金と保身目当てにスパイの真似事してるのだから、そういうものを見せないでほしかった。 「まあ、だからといって悔い改めるつもりはないけど」 最低? 上等、そういうノリは十年遅い。 〈屑〉《くず》は〈屑〉《くず》らしく、と。ちょっとした感傷をひとしきり笑い飛ばし、日が落ちたころを見計らって監視の目を〈掻〉《か》い潜った。 貨物コンテナの隙間と影に滑り込み、周辺を警戒しながら指定外の場所へと進む。兵の配置を盗み見るのも忘れない。かつて叩き込まれた〈潜入任務〉《スニーキング》の腕はまだまだ通用するらしく、今のところ俺の気配は誰にも察知されていなかった。 隠れる、探る、逃げるの三つは今も昔も大得意だ。こういうせこい技術に関してだけは人より優れているという自信もある。 なぜなら、俺の星はそういうものだから。 ちょっとした小技を存分に活用しつつ、軽やかに警戒網を抜けていく。 すいすいと進む足取りに淀みはない。兵がどこをどう歩いているか、どちらをいま眺めているか、コンテナに阻まれて見えることさえできないが俺にはまったく障害になりえない。 右行って、突き進んで、次に三秒ほど待機。その間は隣に身を隠しておいて……おっと危ない、逆側から交代員がやって来たぞと。 まるで警備兵それぞれを真横で眺めているかの如く、次にどう動くかまで正確に読み取りながら目的地へ近づいていく。 順調すぎて怖いぐらいだ。自分が出来る人間だと勘違いしてしまうじゃないか。 なので時に立ち止り、より念を入れて探知をかけるのも忘れない。理由は〈勿論〉《もちろん》、他の〈星辰奏者〉《エスペラント》に一層の注意を心がけているためであり、恐怖心を呼び戻すためだ。毎度のことだがこういう時の慣れと〈驕〉《おご》りが危険なんだよ。 俺は弱い。俺は弱い。役立たずの一点特化──優れた奴には敵わない。 何度も何度も言い聞かせて、つい調子に乗りそうな気持ちを打ち消しながら仕事を行う。ストレスもいい具体に溜まってきたところなので、それらしいスキャンダルをさっさと見つけて帰りたい。 「そういう時に限って何もないんだよな、俺の場合」 そこそこ厳重な警備はしているが、強化兵らしき反応は一度も感知できていない。つまり現在、成果はナシだ。 それどころか、逆に目的の貨物列車へ近づくほど兵士の数が〈疎〉《まば》らになっている。まさかそこまで秘密にしたいとか? 現に自分がここにいる手前、本末転倒だと思うんだが。 しかし現に、人数そのものがどんどん限られていく始末。代わりに戦車が一台近くに配備されてはいるものの、これは手薄という他ない。 というか、ちらほらと混ざり始めたこの反応は〈軍〉《 、》〈人〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》。 動きが鈍く、鍛えている人間ではない。となるとこれは研究者? なら近場にある戦車は、最低限の人員で極秘裏にそのナニカとやらを運ぶために用意した台車替わりのようなものかと── 思った、その時に── 「────、……?」 …………何かが。 かき乱すように、意識へ捻じ込んできた気が、して。 「あれ、は」 ぎちりと、眼球が見えない五指に引っ張られる。 〈瞼〉《まぶた》が〈蝋〉《ろう》のように固い。閉じることさえ許されぬままそちらを見れば…… 見て、しまえば── いる──名状しがたい何かが、列車に積まれた荷台の奥に。 〈コ〉《 、》〈ン〉《 、》〈テ〉《 、》〈ナ〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈身〉《 、》〈が〉《 、》、〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 誰の目に触れられることなく積載された、死霊の棺桶。この世のものではない闇の産物が、こちらを眺めているのが分かる。 ついに、やっと、ようやくだと。お、俺のことを……俺だけを。 ゼファー・コールレインと再会する瞬間だけを真実望み、狂えるほど待ち焦がれていたそいつは、じっと。 見ていたか、ら、 ああ、あ、ああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァッ── 「────が、はァッ、ギ!?」 瞬間、〈世界〉《アストラル》が侵食され──頭の中で〈星屑〉《ほしくず》が爆発した。 それは現行法則の崩壊。第二太陽のもたらす物理、その根幹が揺さぶられた証明だった。 〈僅〉《わず》か一瞬、しかし確かにこの場を満たす星の光が断絶したのは間違いなく。〈第二太陽〉《アマテラス》の威光は〈掻〉《か》き消えていた。代わりにこの地を包んでいたのは、暗く深い死の冥界。 その冷たさを、俺は覚えていない。 思い出したくなどない。だって、〈夢〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 毎夜のように味わっている感覚を懐かしいなど感じるものか。それが何故、いったいどうして、現実に味わっているかも含めて知らない知らない、知りたくない──やめてくれ。 「──ッ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」 理解不能の絶望に肺から息を搾り出し、顔を〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》るように掴みながら崩れ落ちた。視界に映る光景は毒々しいマーブル模様、上下の歯は一心不乱に不協和音を奏で、痛みと恐怖の演奏会に没頭していた。 訳が分からない。訳が分からない。訳が分からない。訳が分からない。 どうしてこんなに怖いのかも、何が起こったのかも全部。混乱する理性と本能は欠片も落ち着きをみせなくて……クソが、段々腹立ってきたぞ。 「ふざけやがって、気持ち悪いと言ってんだよ……!」 〈誰〉《 、》〈か〉《 、》へ向けて頭ぐちゃぐちゃのまま罵倒を浴びせたが、いったい何をしてるんだよ俺は。 立ち上がるのにもよろめいて、二日酔いより気分悪いが今は怒りが上回っていた。 もう、何もかもどうでもいい。 仕事なんて知ったことか。帰って、忘れて、後は寝る。 余計なものを背負う前に一刻も早くここから去るんだ。考えるのも悔やむのも、すべてはそれからやればいい。 そう決めて、立ち上がった── 刹那。 ──巧妙に隠された殺意が、弾けながら襲来した。 そう、当たり前だ。これだけ物音を発したのだから──感知されないはずがない。 見つかった。 「────、ッ」 間一髪、避けれたのはまさに偶然。さっきまでの恐怖が生存本能を揺り動かしていたからか、奇跡のようなタイミングで身を襲う爆炎から飛び退く それは爆弾や火炎放射機といった、兵器による攻撃から完璧に逸脱した現象だった。あらゆる前兆を排して発生した爆発はまさしく自然発火による破壊、紛うことなき〈星辰〉《アステリズム》による炎だ。 すなわち〈星辰奏者〉《エスペラント》の真価である超常能力に他ならず。そしてそれが自分に向けて浴びせらたというのなら、彼らに見つかってしまったのは疑うべくない事実であり── さらに──現実は予想の上を行く。 常に、いつも、狙ったように。俺を逃がさないと、せせら笑うように。 「嘘だろ、おい。冗談よせよ最悪だろうが」 絶望そのものが、現実と化して目の前に降り立った。 「第七特務部隊──〈裁剣天秤〉《ライブラ》、ッ」 選り抜きの〈星辰奏者〉《エスペラント》が所属する、〈帝国黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》の特殊任務部隊。精鋭中の精鋭が、過去から〈這〉《は》い出して俺の前へと現れたのだ。 足が、自然と後ずさる。あの忌まわしくも懐かしい風貌を目にした瞬間、立ち向かおうという気概なんて欠片も残さず吹き飛んだ。 相手は三人、こちらは一人。しかも天秤──勝てるわけがない。 早々に勝利や戦闘は諦めた。骨髄から恐怖が蘇ってきた。それは連中の肩書きに恐れ入っているからではなく、保有している高い戦闘能力を今も肌で感じているからだ。 まだ隠れられていた時点から、彼らの気配を読み取れなかったという事実も俺の勇気を奪っていく。ああ、なにが強化兵は見当たらないだ。数分前の自分がいたら、首を掴んでへし折ってやりたい。 暗殺から強襲まで、あらゆる分野を要求されて限界まで磨かれるのが天秤部隊。こいつらを事前に捕捉しようというのなら、それこそ相手のミスで殺気でも漏らしてくれなければ不可能だと分かっているが、それでもこれは無いだろう。 もはや、穏便に済むはずがない。静かな足取りで間合いを詰めてくる三人の兵が、怖くて怖くて仕方なかった。 「貴様、いったい何者か。どこの隊に所属している」 「そして先ほどの反応は何だ? 答えろ」 「著しいアストラルの乱れが計器に観測された。過去に例を見ない反応だ」 「〈星辰奏者〉《エスペラント》でありながら民間に扮している理由は? 先ほどの〈異常事態〉《イレギュラー》は貴様の起こした事象なのか? この中にあるものと特別な関係があるとでも?」 「隊長の送り込んだ伏せ札、というわけではあるまい」 何のことだよ、知らねえよ、俺の方が聞きてえよ……震えて何も言えるかよ。 だいたいおまえ達みたいな殺戮部隊が、どうして重要物の護衛なんかをやっているんだ。相手側も事の詳細を何も知らず、それどころか逆に探りを入れている風だったが、こちらの頭は依然回らない。思考を埋めるのは今や逃げの一手のみだ。 生きたい、嫌だ、勘弁してくれという泣き言を吐いてしまわないよう〈挫〉《くじ》けそうな足を叱責する。これ以上、身元が割れるような情報を与えてはならないから。それだけを意地に四肢へ静かに力を籠めた。 「……黙秘か」 取ったのは敵対のポーズ。ゆえに当然、奴らは〈そ〉《 、》〈う〉《 、》する。 いつものように、当たり前に。再編される以前、壊滅する五年前とまったく同じ理念の下に、死の権限を行使する。 「ならば逝け。ここで断罪されるがいい」 「我ら裁きの天秤、その権利を執行する」 宣誓と共に〈煌〉《きら》めく三閃──吹き荒ぶは死の〈颶風〉《ぐふう》。 音と気配を消しながら照射してくる、透明な殺意の〈螺旋〉《らせん》。人知れず斬傷を刻む鎌〈鼬〉《いたち》のように彼らは高速の影となった。 視認不可能。捕捉不可能。ゆえに当然、対応不可能。 刃は肉へと食い込み、切り裂き、俺の身体から血の花が咲く── 「────が、ッ」 ──寸前、間一髪でそれを防げたのは条件反射の賜物だった。つまりは偶然、狙ってやったことではない。 その証拠に、あまりの鋭さでもう二の腕が〈痺〉《しび》れている。三条の連撃を防げたことは〈僥倖〉《ぎょうこう》であり、しかして結果を〈鑑〉《かんが》みればほんの〈僅〉《わず》かに時間を稼いだだけだった。 そしてそれは、下手に傷つくより最悪な結果へ通じていく。 「やはりこの男、強化措置を受けている」 「ますます解せん。どこの息がかかっているのだ」 ああ、ほら……警戒された。最悪だ。 評価が雑草の処理から、障害を排除する方向へとシフトしていく。つまりスイッチを入れてしまった。 また選択肢を間違えたことに腹の底から後悔する。どうして、〈糞〉《くそ》が──そこは無傷になるとこじゃねえぞッ。 心中で自分を口汚くなじりながら、防ぐ、〈躱〉《かわ》す、〈捌〉《さば》いていなす。 ぶり返しそうになる震えを忘れてただ必死に、殺されることだけをがむしゃらに拒絶しながら〈足掻〉《あが》き続ける。 そこには高尚な理念などなく、まして確固とした決意という何某かの思いがあるからでもない。だから無様、流麗さの欠片もないみっともない動きが続く。 頭を占めるのはありふれたごく普通の感情だ。死にたくない、痛いのは嫌だという凡人らしいとても俗的な思想。この状況になった今でも心は現実を認めたくないとひたすらに叫んでいて、同時に深く〈煩悶〉《はんもん》している。 どうするのが正解なんだ? どうやれば丸く収まる? いいやそもそも、どんな未来にしたいのか? 決まったとして、今度はそれが出来るのだろうか──どうだなんだと。 分からない。分からない。分からない。 だって、見つけ出そうと努力する前向きな感情さえ、俺は持っていないから。 ゆえにひたすら、泣きそうな顔で抵抗だけに没頭する。視認できない刃の軌道を持ち前の〈臆病さ〉《センサー》により、知覚して刹那で防ぐ。 繰り出される高度な殺戮連携。隠蔽した殺気を生存本能で回避し── 〈足掻〉《あが》いて〈足掻〉《あが》いて〈足掻〉《あが》いて〈足掻〉《あが》く。幾重にも展開される死の結界を転げ回って生き延びる姿はひたすら〈滑稽〉《こっけい》というものだろう。 歯噛みする。何せ〈六〉《 、》〈十〉《 、》〈七〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈を〉《 、》〈受〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》、一度も反撃できないのだ。 やはり俺は劣っている。例えばこれが、〈彼〉《 、》や〈彼〉《 、》〈女〉《 、》ならばと思わずにはいられなかった。 「あり得んぞ──貴様、いったいどうなっている」 なのにそれを見て、投げかけられたのは〈怪訝〉《けげん》な疑念。 なぜか敵手が混乱し始めていた。おまえは何かがおかしいと。 「自信が見えん。意地が見えん。選ばれた者としての誇りと気概が真実欠片も見当たらん」 「猫を噛む意思さえない惰弱な〈窮鼠〉《きゅうそ》。ならば当然、ここで死ぬるが定めであろう……しかしなぜだ。なぜ死なぬ?」 「いいや違う、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈さ〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈だ〉《 、》。この状況に対して斯様な反応をする理由がどこにある」 「見るがいい、この結果を──」 仲間の影に紛れるよう無拍子で放たれた苦無は、音速に迫る勢いで飛来した。 それを弾き──瞬時、身を屈めることで背後からの一閃を〈躱〉《かわ》す。 最初の一撃は〈囮〉《おとり》であり二の太刀であるこれが本命。天秤らしい効率重視の攻撃はひたすら鋭く、こいつらの手口を知っている者でなければ回避するのは到底不可能。 つまりは、〈運〉《 、》〈が〉《 、》〈良〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。 たまたま俺に、〈事〉《 、》〈前〉《 、》〈知〉《 、》〈識〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。 だから生き延びたという結果まで〈繋〉《つな》がった。それだけなんだよ、文句あるか。 先ほどまで脳天のあった位置を刃が〈掠〉《かす》めたという事実を重く受け止め、一秒でも遅れていれば死んでいたことに冷や汗を流す。より一層、〈怯〉《おび》えは深く、濃くなって──さらに〈臆病さ〉《センサー》は強化される。 「──認めよう。おまえは〈強〉《 、》〈者〉《 、》だ。なぜなら未だ墜ちていない」 「三対一という窮状にありながら生き延びている現状こそ、おまえの優秀さを証明している」 人それぞれで感想はまったく違う。ゆえに彼らが感じた思いは、俺とはまったく正反対。 「鋭敏な反射、身に付けた技巧、天秤に伍するどころか一部分では勝っているその戦闘力。個人で相対していたならば我らはとうに敗北を喫していよう」 「それすなわち、帝国軍においても上位に位置する〈星辰奏者〉《エスペラント》ということだ」 「どの部隊でも一線級でやっていける存在であろう。だというのに、ならばこそ貴様の心が理解できん」 「なぜ毛ほども己が力を信じないのだ」 「自己評価が低すぎる。自分を弱者と規定してから物事を眺めるなど、そこに何の意味があろうや」 「これだけの力を持ちながら、何をそこまで〈怯〉《おび》えるという。我らに対する侮辱なら……なるほど貴様、腐っておるわ」 珍妙な爬虫類でも見るかのように〈睥睨〉《へいげい》しながら追い込まれるが……それに思わず〈嗤〉《わら》ってしまう。こいつら、なんて〈お〉《 、》〈め〉《 、》〈で〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》んだ。 「理由なんて、決まってる」 三対一で持ち堪えられている? だから強者? 阿呆抜かせ。 考え方がズレているにも程がある。 「見ろよ。圧勝できてねえだろうが……ッ」 楽勝で敵を蹴散らせていない。おまえ達の大好きな総統閣下なら言うに及ばず、というやつだ。 精鋭を三人同時に相手できているからって、それが何だ。比較対象を真剣に吟味すればこんな強さは吹けば飛ぶ木の葉と同じ、結局どうしようもない領域の奴がいる時点でちっとも自慢できるものじゃない。 俺は〈勝〉《 、》〈ち〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》、〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈失〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。だからそんな評価は嬉しくないし、素晴らしいことだなんて思いもしなくば、むしろ怖気が立ってくる。 生きたいんだ。死にたくないんだ。それだけでいいから、そもそも強い弱いとか……それ以前に殺し合ってるこの今こそが嫌なんだ。 絶対無敵なんかじゃない──だから〈塵屑〉《ごみくず》、消耗品。 ゆえに全力で、けれど本気にはなれていない。傷つく結果が欲しくないからどうすれば上手く収まるかを考えながら耐え凌いでいる。 あの何事もない日常へ、後顧の憂いなく帰るためにはどうするべきか。 考えているんだから、おまえらよう── 「さっきから、邪魔すんじゃねえぞォッ!」 頼むから今すぐ死んでくれと、願いを籠めて反撃へ転じた。 「む、──ッ!?」 斜めに描かれた〈袈裟〉《けさ》の閃を十字に重ねる軌跡で弾く。こじ開けた懐へ潜り込み、さらに蹴り上げ。〈顎〉《あご》を派手に跳ねあげた。 瞬間、左右からの挟撃を避けるが遅い。身を屈めて地と水平に跳躍し、重心を極限まで下げたまま疾走を開始した。 そして切る──切る切る切る切る、切る切る切る。 〈蜥蜴〉《とかげ》のように地を滑りながら逆手の銀牙を〈奔〉《はし》らせて。対峙する兵より速く的確に、手数を追求することで敵手を刻み駆け抜ける。 狙いは手首足首頭部、あとは心臓、できれば首だ。 長年の訓練で染みつかせた手癖の悪さを最大限に利用して、急所から優先的に切断すべく行動する。相手の知覚範囲に入るのを病的に避けながら、ひたすら嫌がるように四肢を自在に動かした。 最大速度から一気に急制動をかけ、時にその逆を起こすことで積極的に錯覚の誘導を起こすことも忘れない。直線と円を織り交ぜた動きも〈攪乱〉《かくらん》に一役買い、ひたすら感覚をかき混ぜながら相手のミスに付けこんでいく。 一つ、しくじれば腕を切り付け。二つ、連携に隙間が出来れば皮膚を剥ぐ。 ひたすら相手の心が乱れるように、手間取るように、苦しむように。 身を削いでいく様は我が事ながら嫌らしい。けれどしょうがないではないか、俺にはそれしか出来ないのだから。 「ほら、こんなに〈弱〉《 、》〈い〉《 、》」 大した力を持っていないから、人間を両断すること〈さ〉《 、》〈え〉《 、》出来ない。 人智を超えたスピードもないから、一瞬で敵を葬り去ること〈す〉《 、》〈ら〉《 、》不可能だ。鋼のような防御力がないから悠々と迎撃できる余裕も無し。そこに加えて意志薄弱。だから出来るのはこの程度のものなんだよ。 〈小細工〉《テクニック》に頼っている時点で笑い者。技巧派? そんなの正面から敵を打ち砕けない雑魚だろうが。 技術でどうにかできるのは数段上の相手に限定される。それを超えて地力が隔絶してしまえば前進するだけで圧倒されるし、そういう奴こそ理想なんだ。 あの人とか、アレとか、アレとか。あんな風に。 対して俺は〈い〉《 、》〈じ〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》互角に持って行けただけだから、頼む。これでどうか、倒れてくれ。 こんなものだと分かったろうと訴えながら──しかし同時に、戦況を巻き返すべく刃を振るう。 閃光の〈檻〉《おり》を〈抉〉《こ》じ開け、苦無の雨を弾き飛ばす。集団戦のリズムに身体が慣れてきた。恐怖を緩めないよう心がけつつ〈睨〉《にら》む姿に何を刺激されたのか、敵兵の目に険が増す。 「粋がるなよ、不穏分子が。それならそれでやりようはある」 それも当然。劣等と〈蔑〉《さげす》まれても自分は何も悔しくないが、相手にとっては見逃せる道理がない。 なぜなら彼らは裁きの天秤、死の精鋭。帝国選り抜きの星であるという〈矜持〉《きょうじ》が、鼠の反撃を許容するはずもなく── 「対象の危険度を暫定Bまで引き上げる。各員、速やかに〈星辰光〉《アステリズム》を輝照せよ」 「──〈了解〉《ポジティブ》」 ゆえに、手抜き、容赦、油断、慢心──それら一切残らず排し。 「創生せよ、天に描いた星辰を──我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」 紡がれるは星の力。切り替わる、〈平均値〉《アベレージ》から〈発動値〉《ドライブ》へと。 〈星辰奏者〉《エスペラント》最大の真骨頂──〈星辰光〉《アステリズム》。 大地に輝く固有の星が、ついに目の前で新星のように爆発した。  ──〈星辰光〉《アステリズム》。  それは〈星辰奏者〉《エスペラント》の切り札であり、個々人によってまったく異なる固有能力の総称だった。  これこそ、かの人間兵器を最強たらしめている最大要因。  アストラルを利用して生み出された帝国最大の発明と言えるだろう。  遙かな上空、宇宙空間において輝き続ける疑似恒星〈第二太陽〉《アマテラス》。ここから降り注ぐアストラルと感応し、身体機能の向上に利用することで〈星辰奏者〉《エスペラント》はその性能を確固たるものへと引き上げる。  そしてアストラルという粒子はどのような作用か、世界法則そのものを一新させる脅威の力を持っていた。  地球上の鉱物から電気抵抗を取り除いたことを一例に、大小様々な点で地球環境を塗り替えた。大破壊そのものが文明を崩壊させたのではなく、それを起因にアストラルが地表を覆った流れこそ、旧西暦に終止符を打ったと言っても過言ではない。  それら、変化を余儀なくした次元間より漏れ出る粒子。  かのメカニズムは未だ完全に解明されていないものの、その効果から、こうは考えられないだろうか。  この粒子は、鉱物に関わる抵抗値を一掃させた。  そして地球上の鉱物は常に、アストラルと強く感応した状態にある。  以上の二つを〈鑑〉《かんが》みるに、アストラルの影響を強く受ける物質ほど既存法則の影響を無視できるのではなかろうかと。  そしてそれを──“人間”にも適応させるのは可能か、否かと。  意志のある生物がこれを感応できれば、能動的に何らかの異法則を行使できるようになるのでは。そう思考し、志向し、試行した果てに成果を出そうとしたのが帝国の頭脳である研究機関・〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》だ。  普通なら一笑に伏して終わるはずの空想だったが、それは彼らの間で提唱された瞬間、有無を言わさず実現に向けて動き出す。  やがてロストテクノロジーの解析と共に、あろうことか嘘のような現実性を帯び始め、最重要研究項目となったのだった。  完成するまで複雑な過程がややあったものの、理論が実証されたのは今から約十年前。初の星辰体感応強化実験の被験者、クリストファー・ヴァルゼライドが異能を獲得したことによりその論説は実証される。  光の剣──まるで本人の気質を反映したかのような、超能力の発現。  それは彼のみならず、個人の〈拘〉《こだわ》りや興味の偏り、信念や諦観なども反映した形で後続の〈星辰奏者〉《エスペラント》にも例外なく発現した。  増えていくサンプルパターン。数が多くなれば徐々にその規則性も見え始め、力のランク付けや性質のカテゴライズも始まる。  そして共有されたルールもまた、浮き彫りになってきた。  ──原則、一人に一能力。  ──同じ能力に目覚めることは、近い血縁でもあり得ない。  ──集束性、拡散性、操縦性、附属性、維持性、干渉性という六つの性質で得手不得手の分類が可能。  ──異能を発動している際には出力が上昇する。基礎能力から上がる反面、幅が大きければ反動も顕著に比例。  ──星辰を振るう際には〈星辰奏者専用特殊合金〉《アダマンタイト》で構成された発動体が必要不可欠であるということ。  これら明らかになった事実は、〈諸々〉《もろもろ》総じて〈星辰奏者〉《エスペラント》が替えの効かない生体兵器ということを示していた。個体差としてバラつきがあり、均一化ができず、完全な代替は不可能で……しかし何より無類強力。  ゆえに、その結果から〈智の水瓶〉《アクエリアス》はこう語るのだ。  〈星辰奏者〉《エスペラント》とは恐らく、小さな“〈星屑〉《ほしくず》”であり。  〈星辰光〉《アステリズム》とは言葉通り、別の〈惑星〉《ヒト》から降り注ぐ異星の光であるのだと。  アストラルは次元の穴から〈零〉《こぼ》れ落ちた粒子であり、三次元上では発生しない高位次元の産物だ。ならばその恩恵を人工的に賜った存在とは何であるか。  金属がそうであったように一つ高位の生命体へ昇華したと仮定しよう。であれば次に、人類種の上位種族とはいったい何だという話になるか。  進化した霊長類? 深海に潜む異形の魚、それとも両性類だろうか? いいや否、違うだろう。  あるではないか、宇宙という無明の空間に生息しながら億年単位の寿命を持つ超個体──すなわち地球という命がだ。  そして実際に、地表の法則がアストラルによって変化したという実例がある。組み合わせて考えれば、異能の発露は何もおかしなことではない。  地球上に異星の環境を混ぜれば当然、そこには不和なり異彩が生じる。  太陽系の惑星間でさえ重力や気温がまったく異なるのだ。広い宇宙には人類の常識が通用しない奇怪な星があったとしても、それはなんら不思議ではない。  たとえばそれは、このように── 「──ぁぁああああ、ッ!」  大気成分が、常に〈化〉《 、》〈合〉《 、》〈反〉《 、》〈応〉《 、》〈を〉《 、》〈起〉《 、》〈こ〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》星もまた、宇宙のどこかにあるはずなのだ。  酸素や水素のみならず、窒素や二酸化炭素までが常温で爆発している摩訶不思議なその不条理。  既存体系の物理科学を鼻で笑うかのように、あり得ないはずの異常現象を形にしている。  轟音と共に空を焦がす爆炎の薔薇。当たれば火達磨を通り越し、骨肉を炭化させる威力を持つそれは呆れることに連射可能という星光だった。  さらに副次効果として、燃焼を起こしながら四方八方へ飛び散る火花が空間を大きく埋める。獲物が逃げる場所を限定化しながら、縦横無尽に駆ける敵手を許さない。  しかも発動するためのアクションは、単に視界へ入れるだけ。  ほんの少し瞳に力を入れた瞬間、そこを起点に地球の大気が異星の法へと組み込まれる。  前代未聞の化学結合。発生する異常な光熱。通常、決して引かれあわない種の原子が未知なる化合を繰り返し、一秒のラグもなく破壊の炎を形成する。  ──そして、脅威はこの一種類だけに留まらない。  ここにはもう後、残り二つ。異なる星の輝きが敵手を討たんと〈煌〉《きら》めいているのだから。  その危険性を証明したのは、あろうことか炎の中心部を吹き飛ばして出現した破壊の拳だ。  如何なる道理か、驚異的な圧力にして徒手空拳。武装をあくまで発動体のみとして使用しながら〈抉〉《えぐ》るような一撃が放たれる。 「────が、ァ」  防御……など、そこには何の意味もなく。  いつの間にか〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈へ〉《 、》〈向〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈落〉《 、》〈下〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》身体が、加速をつけて自ら拳へ激突していた。  〈鳩尾〉《みぞおち》からくの字に折れ曲がり拳骨が肉にめり込む。肉体は依然、その着弾点へ向かい落ちていた。  逃がさんとそのまま容赦なくひねられた拳に五臓六〈腑〉《ふ》が〈掻〉《か》き混ぜられる。  胃液混じりの〈血反吐〉《ちへど》が間欠泉のように溢れ出すが、しかし。  手を抜かれるはずもなく、胸部を強かに打ち抜いたのは追撃の掌底。  こちらもまたクリーンヒット。防御を貫通されたことで回避を選択したものの、関係ないと再び引き寄せられた結果がこれだ。  壊れた平衡感覚。重力が狂う──〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈へ〉《 、》〈向〉《 、》〈か〉《 、》〈い〉《 、》〈墜〉《 、》〈落〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。  〈万有引力〉《ニュートン》ごと肉体が粉砕された。相手の周囲に近づけば、二足歩行さえ許してくれない。  加えてさらに── 「ぎ、ィ──ひぁぁ、ぁッ」  〈孔〉《あな》が空く、〈刳〉《く》り〈貫〉《ぬ》かれる、〈穿〉《うが》たれ〈抉〉《えぐ》られ〈嬲〉《なぶ》られながら──痛みにのけ反り夜空を仰ぐ。  胸に一つ、肩に三つ、脇腹に左右で二つ、足に一つ──何の前触れもなく五体の各部から湧き出した血の噴水。それは炎で焼いた類ではなく、剛拳で破壊されたものでもなかった。  肉に潜り込み、骨を断とうとするそれは共通して刃傷。そして今も、何かが刺さっているという違和感が傷口にそれぞれ存在している。  すなわち、これら不可視の投擲。〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈苦〉《 、》〈無〉《 、》〈に〉《 、》〈よ〉《 、》〈る〉《 、》〈襲〉《 、》〈撃〉《 、》だと理解して、その場を急ぎ飛び退いた。  瞬間──また一つ、足の甲を〈穿〉《うが》つ〈孔〉《あな》。  空気の〈微〉《かす》かな動きを頼りにしなければ、もっとおぞましい結果が待っていただろう。  種が割れたことを悟ったせいか、それとも異能を維持する時間制限ゆえだろうか、透明な〈偽装〉《ヴェール》を脱ぎ去ったかのように、肉体に刺さる鉄の刃が次々に姿を現した。  最後の一人、彼の星は実体を隠す光の〈迷彩〉《ステルス》。  その法則は地表から色を奪う、発動すれば何人たりともその輪郭を捉えることは不可能という偽装だった。  そして、本質が暴かれたとしても趨勢は何一つとして揺るがず。  断罪を担う天秤。彼らは強い。個として相手に劣っていると自ら口にはしたものの、それがどうだ。一人で敵わないならば、三位一体で当たればいいという簡単な理屈を実践して弱る獲物を追い詰めていく。  もとより戦場において優秀な個人と集団、どちらが重宝されるかと言うのなら誰に聞いても後者だろう。  完璧な集団戦闘による能力の向上は足し算ではなく、掛け算に該当する。  それを単独で跳ね除けたいと願うなら、それこそ圧倒するしかないのだ。まともな手段では希望が混じる余地もない。  一芸特化型ならば尚のこと、〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈何〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈嵌〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》。  殺し合いにおいて特別性や特殊性が必要とされる事態こそ〈稀〉《まれ》。  当たり前に強者でない限り、切り抜けるは到底不可能。 「ッ、──ぐ、ぅぁぁァァァァア!」  迫る三つの超新星。チームとして非常に高度な連携技は完成度を増し、特殊能力の発動以前に地力の段階でもはや決定的なものとなっていた。  〈平均値〉《アベレージ》から〈発動値〉《ドライブ》へ。星辰を用いる際に感応したアストラルが、術者自身を大きく高める。  活性化した〈星屑〉《ほしくず》は秘めた輝きを数多に放ち、大地を〈這〉《は》う人類とは別の生命にまで昇華する。  よって、〈星辰奏者〉《かれら》の読みは〈人造言語〉《エスペラント》。  地球と自分、二つの惑星を〈詠唱〉《ランゲージ》で〈繋〉《つな》げ光を放つ、最小単位の星々だった。  それらが確かな自信を武器に、徒党を組んで襲い掛かって来る悪夢。  対抗するためには、自身もまた秘めた星を発露しなくてはならないのは言うまでもなく。  そうしなければ生き延びるなど出来ないと、切々思い知っているはずなのに、どうしても── 「──クソ、なんで」 〈見〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈悪〉《 、》〈寒〉《 、》〈が〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 嫌だ、怖い。普段なら〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく使っているはずの〈星辰光〉《きりふだ》を今になっても切れないのは、〈偏〉《ひとえ》にそれが原因だった。俺は今も〈怯〉《おび》えている。 今この瞬間も、〈誰〉《 、》〈か〉《 、》がこちらをじっと眺めている。 馬鹿みたいな純粋さで俺の奮戦を心待ちにしているというような、訳の分からない確信があった。 そしてそれが脳裏を〈掠〉《かす》めるたび、〈脊髄〉《せきずい》へ猛毒を流し込まれたような気分になるのはどういうことだ? だから、ちくしょう、決断ができない。そしてそんな風に迷っている自分自分こそ最高に訳が分からなくて……動きは顕著に鈍ってしまう。 いたずらに減少していく余力。訪れつつあるタイムリミット。追い込まれるのも当然だと理解しながら、それでも何かを強く〈決〉《 、》〈定〉《 、》する勇気が持てない。 そうだよ、ゼファー・コールレインは凡人だ。 日々の糧食さえ〈繋〉《つな》げれば、それだけで十分な男なんだ。 今もこうして自分の道すら決められない。誰かに聞かせる素晴らしい体験談もなく。見世物としてなんら面白いものじゃないから、ゆえにさっさと他所へ行けよ。 だから俺を、俺のことを、ああいつまでも〈愛〉《くる》おしそうに── 「────見るなァァッ!」 瞬間、叫びを〈掻〉《か》き消して訪れたのは更なる絶望。鋼鉄の履帯を勇ましく鳴らしながら帝国主力の破壊兵器……戦闘車輌が立ちふさがった。 これでまさしく四面楚歌、駄目押しの八方塞がりに意識が折られそうになる。 〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》、不運がやって来た。希望は決してもたらされない。 「戦術項目第七条、発令。有事の際、〈星辰奏者〉《エスペラント》はその権限において戦闘車輌一台、ならびに歩兵二小隊を指揮下へ納めることが容認される」 「ゆえ、これより一時、貴官への命令権は〈裁剣天秤〉《ライブラ》へ移譲されると心得よ」 「〈命じる〉《オーダー》──眼前の敵を撃滅すべし」 「は、はは……」 もう、乾いた笑いしか出てこねえ。焦げた鉄の臭いを纏わりつかせた駆動する砲身。真っ黒い穴を覗かせながら〈躊躇〉《ちゅうちょ》なくこちらに照準を合わせてきた。 相手が人間であることなど一顧だにしないのだろう。帝国軍に容赦は無用、規律に殉じるという信念が分厚い装甲越しに感じられる。 「──撃て」 「──、─────」 そして……放たれた〈透〉《 、》〈明〉《 、》〈と〉《 、》〈化〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈砲〉《 、》〈弾〉《 、》が、俺を紙〈屑〉《くず》みたいに吹っ飛ばした。 自嘲、後悔、諦観、憎悪。それら負の感情をごちゃ混ぜに抱きながら、バラバラになりそうな痛みの中でありったけの罵倒を描く。まったく、どうしてこうなったのかと。 続く第二射──これまた星の後押しを受けた砲火は光の迷彩を施され、大まかな向きしか読み取れない。 しかも引力野郎の傍を〈掠〉《かす》めることで若干〈曲〉《 、》〈が〉《 、》〈る〉《 、》。まるでレールの切り替えみたいに、当たるギリギリで引き寄せたそれが軌道を変えて〈攪乱〉《かくらん》し…… そこにほれ、〈躱〉《かわ》せばすかさずこの火炎。こんがりウェルダンの出来上がりだ。 全身残さず大〈火傷〉《やけど》で、痛いやらもう辛いやら。 よって、半ば悟りの境地に達しながら宙を舞う。回転しながら二度、三度と、バウンドしながら地面とのキスをプレゼントされた。 激痛で〈軋〉《きし》む身体は全身に刻まれた死の秒読みそのものだ。気力も体力もあらゆる面で、最後の瀬戸際に陥ってる。 それでも、反骨心は今もすっかり枯れたまま。 「いっそ、気絶でもしちまえばな……」 〈呟〉《つぶや》いてみれば、なんて魅力的な選択肢だろう。気を失ったまま殺してくれれば眠るようにこの世をおさらばできる。もっともその場合、生きたまま捕えられて拷問ぐらいされるだろうけど。 ならば助かるためには反撃しないといけないものの……うまくやれば戦車を〈擱座〉《かくざ》させることは出来るだろうが、好転するビジョンが見えない。 大きな兵器を壊せることと、搭載された火力を正面から打ち破れるということは、まったくイコールで〈繋〉《つな》がらないのだ。そんなことを可能とするのは英雄か怪物に限られていて、俺には無理だし出来っこない。 そして何より、やりたくないんだ。 死ぬことも。失うことも。立ち向かうことも。切り拓くことも。何もかもすべてに〈怯〉《おび》えている──というか、どれも不思議と〈し〉《 、》〈っ〉《 、》〈く〉《 、》〈り〉《 、》〈こ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 こんなに追い込まれている今でも、五年前の地獄が魂を縛り付けているゆえに。 目に流れる血が視界を朱色に染めていった。それはなんて、あの日の空に似ているのだろう。だから…… 「誰か、俺に教えてくれ……」 「“勝利”って、いったい何なんだ?」 倒れた姿勢のまま、地を〈掻〉《か》きむしって〈誰〉《 、》〈か〉《 、》に問う。 ずっと俺を見ている誰かさん。なあ、おまえならば分かるのか? 勝って、勝って、輝いて……それで荷物を背負いながら前を向くのが幸せか? 負けて失いたくないけれど、だからってそれを〈掻〉《か》き集めればやがて救いは訪れるのか? それとも自分で掴めとでも? 逆に凡庸であればいいのか? 安らぎは目指して手に入るものなのか? 分からなくて、見えなくて、見かけ上のバランス取りつつ誤魔化してはいるけれど。ならば何故、こんなにも胸が苦しいんだ。立脚点はどこにある。 そしてそんな俺だから、こんなにも情けないと自覚している。 「それでも──」 けれど確実なこともある。勝ち負けと無縁に生きて死ぬことだけは、誰にもできないということ。 生きていく上で、勝負に打って出なければならない瞬間はそれこそごまんと存在している。 その瞬間に負けてしまえば、想像を絶する苦痛が待ちかまえていることだけは、破滅と共に叩き込まれた不文律だったから。 そう、勝利からは逃げられない。 勝利からは逃げられない。 勝利からは逃げられない。 〈過去〉《うんめい》はどこまでも追って来る── 「それこそ、あなたの宿命だから」 「ならば──」  どうするか、問いかけてきた声に。  再び俺の眼前へ、未来の岐路が訪れた。 「無理だ」  ──俺には、向いていない。 「できない」  ──好機は、既に逸している。 「やりたくない」  ──傷つくことは、嫌なんだ。  ゆえに、どれも不適合。  何一つこの身に〈相応〉《ふさわ》しい選択ではない。  主役のように光を求めて駆けることは決して出来ず、なのに目を背けることを嫌がるから、雄々しく散ることを心底恐れるその性根はまさに凡夫。  身勝手でありふれた、何処にでもいる〈十把一絡〉《じゅっぱひとから》げの衆愚に過ぎず。  ならばこそ──願うのは栄光の崩落。  〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈き〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈ず〉《 、》〈り〉《 、》〈落〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》、〈粉〉《 、》〈微〉《 、》〈塵〉《 、》〈に〉《 、》〈粉〉《 、》〈砕〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈負〉《 、》〈の〉《 、》〈悦〉《 、》〈楽〉《 、》〈に〉《 、》〈他〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「ああ──」  真実の選択を、法悦に濡れた女の声が肯定する。  そう──それが“逆襲”と呼ばれるものの本質である。  弱者が強者を滅ぼすからこそ成立する概念は、ゆえ逆説的に、勝利の栄華を手にしてしまえば二度とそれらを起こせない。  自分は永遠の負け犬、呪われた〈銀の人狼〉《リュカオン》。常に敗亡の淵で嘆きながらあらゆる敵を巨大な〈咢門〉《あぎと》で噛み砕く、痩せさらばえた害獣なり。  次にやって来る狩人が更に凶悪な存在になると分かっていても、自分自身の宿命から逃れられずに〈足掻〉《あが》いている。  〈憐〉《あわ》れで醜い、愚かな男──だから自分の比翼だと闇の底から彼女は〈謳〉《うた》う。  冥府の扉が開かれた。  待ち焦がれたわ、愛しの琴弾き。ようやく〈貴方〉《あなた》に会えるのだと── 「物言わぬ私の〈骸〉《むくろ》を連れ出して──〈眩〉《まばゆ》い星の輝きへと。  他ならぬ愛しいあなたの〈慟哭〉《どうこく》で、嘆きの琴に触れていたい」  そして今より、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の苦難が始まる。  黄泉から目覚める〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。  男の呼び声に応え、女は静かに物語の幕を開けた。 「創生せよ、天に描いた星辰を──我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」 解放するは、〈過去〉《ならく》の底で〈蠢〉《うごめ》く凶星。 臨界点突破、純度を増す極限の殺意──心的圧迫が感情を限界まで爆縮させる。 透き通っていく意識は射精しそうな爽快感から。才気喰らい尽くす悪逆無道の選択に、心が焦れて堪らない。 〈餓〉《う》えた獣のように四肢が狩猟の〈愉悦〉《ゆえつ》を求めて、むせびながら狂い哭く。〈断罪刃〉《きば》を鳴らす。死を携える。決して決して逃がさない。 闇の情動を〈掻〉《か》き集め、いざ目障りな輝きを〈蹂躙〉《じゅうりん》してやる。そのために── 「苦しんで、死ね」 吐き捨てるのとまったく同時、狼の如く疾駆した。 「────、なッ」 その爆発力、その加速、もはや先ほどまでの比ではなく。驚異的な上がり幅を前に敵〈星辰奏者〉《エスペラント》の反応速度をいとも〈容易〉《たやす》く振り切った。 〈発動値〉《ドライブ》にスイッチして上昇した出力は、平均を遥か凌駕した域にあった。一転して躍り出た身体は残像さえ残さない。無音のまま、殺気を秘めて、気配すら置き去りに己が星を発動させる。 慌て、敵の姿が全身無色透明と化す。戦車ごと異星の光で覆いつくし偽装を施したとしても──もはや無駄だ。 「──〈反響振〉《ソナー》」 俺は、既に、捉えている── 地を蹴る度に生じさせた高周波──微細に揺り動かされた大気の波が、可聴域を上回る触覚と化して奴らの位置を浮き彫りにした。それさながらそれは、暗闇を往く〈蝙蝠〉《こうもり》のように。 迷いなく突き進む俺の姿に、引力野郎が構えるものの、遅すぎる。 なぜなら俺は一芸特化の役立たず、たった一つの武器しか持たない弱点だらけの〈塵屑〉《ごみくず》なのだ。 全能には遠く及ばず一度の不足が死に〈繋〉《つな》がる、限定された状況でしか通用できない〈消耗品〉《マイノリティ》。 ゆえに〈嵌〉《は》まれば一撃必殺──誰一人、この牙からは逃れられない。 〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》という型が決まったその瞬間、負け犬は格上殺しの人狼へと姿を変える。なぜならそれが、それだけが、たった一つ俺に見出された運用方法なのだから。 なあ貴様ら、勝ちを確信していただろう? 隙だらけだ。今更そんな、迎撃態勢に入ったところで── ──甘えよ。 「──がァァッ!?」 ──対価に一本、片腕を肩甲骨から切断する。 宙を舞う肉の塊は引力野郎の左腕。高速振動を繰り返す銀の刃は切れ味抜群、切っ先に触れたならばダイヤモンドすら両断可能だ。 その成果を追いかけて砲火が轟き、苦無の雨が降り注ぐが── 「──〈共鳴振〉《レゾナンス》」 〈し〉《 、》〈こ〉《 、》〈た〉《 、》〈ま〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈に〉《 、》〈刺〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈投擲武装〉《くない》を引き抜き、まったく同じ斜線に合わせて投げ返す。 それで、暴力の群れは砕け散った。 砲弾が散る。鉄刃が散る。接触した〈途端〉《とたん》、まるで共鳴したかのように〈微塵〉《みじん》と消える鋼と鋼。一瞬で互いの振動数をシンクロさせながら際限なく高めあえば、物質はその形を保てない。 それは俺にとって見慣れた余技の一つに過ぎず──相手にとっては、想像外の不条理であったがために、致命を〈晒〉《さら》す。 「────、ぁ」 結果、〈サ〉《 、》〈イ〉《 、》〈コ〉《 、》〈ロ〉《 、》〈ス〉《 、》〈テ〉《 、》〈ー〉《 、》〈キ〉《 、》の一丁上がり。大雑把な乱れ斬りは一瞬で人体を十三へと分割した。 今まで追い込まれていたことが嘘のように。手をひねるように、あっさりと。 はは、死ねよ──まず一人。 「貴様ァァァッ──!」 刹那、怒りに燃えた炎が血の噴水ごと焼き払わんと発生した。前後左右、四方から迫り来る熱波の〈波濤〉《はとう》に逃げ場はなく、全力を注ぎこんだ最大火力はどれか一つであろうとも俺を消し炭に変えるだろうという凄まじさだ。 しかし、ほら、ここに都合よく殺したての〈バラ肉〉《たて》があるわけで。 肉片を蹴り飛ばして焔の壁を強行突破。〈柘榴〉《ざくろ》のように弾け飛ぶ死骸を払いのけながら、その腕を振りかぶる。 掴んでいるのは、まだ生暖かい無傷の生首。それを自身の星にて蝕む。 「──〈増幅振〉《ハーモニクス》」 白目を〈剥〉《む》き、血を振りまき、死者の〈髑髏〉《どくろ》が狂ったように震えだした。敗者の頭蓋は即席の爆弾と化し──そして無論、俺は〈躊躇〉《ちゅうちょ》なくそれを投げつける。 〈脳漿〉《のうしょう》の花火。火花の変わりに、血や目玉。 千切れた耳、骨の欠片が飛び散って、発火操者の意識を一瞬確かに忘我の淵へと追い込んだ。 分かるぜ、同僚が死ぬのは〈堪〉《こた》えるよなぁ。自分の無力で、見知った顔が粘土みたい壊れていくのは、辛いよなぁ、苦しいよなぁ。 だから、効果は〈覿面〉《てきめん》なんだよ。俺も体験しているからさ。 「そして、おまえに〈次〉《 、》は無い」 束の間硬直した隙を逃さず、戦車へ向けて蹴り飛ばし堅牢な装甲へと激突させる。 身体を襲う痛みで正気に戻ったが、もう終わりだ。〈戦車〉《おまえら》共々、殺し方は出来ている。 「弾けろよ」 〈増幅振〉《ハーモニクス》・〈全力発動〉《フルドライブ》──繰り出す技は振壊発勁。 掌に生み出した極小の地震。それを内臓に打ち込まれば如何な〈星辰奏者〉《エスペラント》でもどうなるかは、語るまでなく〈水〉《 、》〈風〉《 、》〈船〉《 、》だ。腹いっぱいに飲み干した火薬へ火をつければという有様で、爆炎使いは〈木端微塵〉《こっぱみじん》に破裂する。 さらに、振動とは伝播するものだ。接触した物から物へ、死体から装甲板へ……つまりは戦車を操縦している搭乗者へも伝わるために。 その結果、密閉された内部空間に地獄の〈喇叭〉《ラッパ》が鳴り響く。 音叉のように反響と増幅を繰り返して奏でられる〈不協和音〉《キリングノイズ》。殺戮の音色が鼓膜を射抜き、脳の毛細血管を次から次へと破壊した。 何度も使ってきた殺し技は拭いがたく、そして完璧。何も昔から変わっていない。血を拭いながら、ゆらりと気だるげに振り向いたそこには驚愕に歪む顔。 「馬鹿な……」 残りの一人へ振り向き、構える。 ああ……これでようやく、〈憂鬱〉《ゆううつ》な作業が終わるんだ。 「我らは裁きの天秤だろう。そのはずなのだ、そうでなければならないのだ。なのに貴様はいったい何だ。どうしてそこまでおぞましい……ッ」 「消えろ、帝国に潜む不穏分子が。その存在は許されないッ──!」 「知ってるさ」 憤激と共に突撃してきた相手に向けて一言だけ返した後、こちらもまた駆け出した。 言われずとも、おまえが俺を嫌うより、俺の方が自分自身を嫌っているとも。 その証拠を、今から見せつけてやる。 「輝く御身の尊さを、己はついぞ知り得ない。尊き者の破滅を祈る、〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》な畜生王」 「人肉を喰らえ。我欲に〈穢〉《けが》れろ。どうしようもなく切に切に、神の零落を願うのだ」 「〈絢爛〉《けんらん》たる輝きなど、一切滅びえてしまえばいいと」 歌い上げるのは地表を〈穢〉《けが》す自身固有の〈詠唱〉《ランゲージ》。紡がれる〈祈り〉《ノロイ》に感応し、不可視の〈粒子〉《アストラル》が既存の物理法則を見るも無残に歪めていく。 それは〈啼泣〉《ていきゅう》する子供のように。〈慟哭〉《どうこく》する獣のように。止め処なく垂れ流される涙と嘆き、呪いの数々。 大気を揺らして悲しみを伝導させる感情の波は、万象妬む醜悪な嘆きそのものだった。 ゆえに、それは顕れるのだ──“振動”という〈星光〉《カタチ》を取って。 俺を邪魔するあらゆる者共、狂うように震えて死ねと。 「苦しみ嘆けと〈顎〉《あご》門が吐くは万の〈呪詛〉《じゅそ》、喰らい尽くすは億の希望。死に絶えろ、死に絶えろ、すべて残らず塵と化せ」 集束性、拡散性、操縦性、附属性、維持性──それら五種、揃って平凡。あるいはそれ以下という悲惨な才能。 性質上の素質において、紛れもなく俺の素養は並の〈星辰奏者〉《エスペラント》を下回るが、しかし。 「我が身は既に邪悪な狼、牙が乾いて今も〈疼〉《うず》く」 ただ一種類、干渉性においてのみ──他の追随を許さない。 一点特化が生み出した射程距離と応用性こそ、命を懸ける最後の砦。俺が備えるたった一つの必殺だった。 「怨みの叫びよ、天へ轟け。虚しく闇へ〈吼〉《ほ》えるのだ」 加速する鼓動、増幅する振動。握りしめた銀の牙が甲高い声で啼き始め、その切れ味を自壊寸前まで高めていく。 高速で反復運動を繰り返す振り子のように、異能を用いて強制的に自分の〈心臓〉《エンジン》をも稼働させる。激しさを増す血流に血管壁が耐えられないが、寿命を削ることで最後の最後──限界速度を更新した。 ありえない二重加速。もはや敵の瞳に俺の姿は影をも映らず── 「〈超新星〉《Metalnova》──〈狂い哭け、罪深き銀の人狼よ〉《Silverio Cry》」 ──交差した次の刹那、銀牙の軌道が〈頸椎〉《のど》を断ち。 背後で、死者が崩れ落ちる音が響いた。 斬首の寸前、すれ違いざまに見えたのはあらぬ方向を見つめていた兵の視線。その目に怒りを宿したまま虚空を見つめて地へ転がる。 任を守れず、仇も討てず、そして無念を抱く時もなく…… 俺の大嫌いな現実の虚しさそのままに、人狼の餌と潰えたのだった。 「…………は、ぁ」 事が終わり、戦いの熱気が消えるに伴い周囲へ静けさが戻っていく。 残ったのは〈擱座〉《かくざ》した戦車と死体に、破壊された積荷の数々。ターミナル内のそこかしこには破壊の爪跡が刻まれている。 これだけの騒ぎを起こし、さらに〈星辰奏者〉《エスペラント》が死んだとあれば程なくここへ捜査の手が入るだろう。 長居は無用だ。今すぐこの場から離れなければならない。 その瞬間、響いた銃声にゆっくりと振り返った。 そこにはいたのは生き残りの戦車兵。鼓膜から血を垂れ流しながら瀕死の姿で〈這〉《は》い出して来た、そいつは。 「ああ──」 ほんの少し前、昼頃に会話を交わした人物で…… 「なんだ、あんた戦車兵だったのかよ」 間違いない、俺の検問を担当したあの兵隊だ。 気さくに緊張を解きほぐそうとしてくれた人柄はもう見えない。修羅のような形相に顔を歪め、震える手で銃口を向けている。 「ぐぅぅ、う……黙れッ、この悪鬼め!」 「帝国の、民の安寧は──ごほ、げほ…………ッ」 「……立派だよ、本当に」 脳味噌をかき乱されているだろうに、こうして立ちはだかる理由は執念か、それとも使命感によるものか。紛れもなく彼を支えているのは意志の力によるものだった。 輝きを失っていないその眼光。光を、明日を、未来を信じる強い輝き。俺のような人間にとってはひたすら〈眩〉《まぶ》しく、職務というだけではない確かな信念が〈伺〉《うかが》えた。 瀕死の体に装備が銃一丁では〈星辰奏者〉《おれ》を〈斃〉《たお》すことなんて、出来っこないと分かっているのに。 ……ああ、俺はあんたはを尊敬するよ。 こんな〈屑〉《くず》より何百倍も格好いい。今まで一度も、自虐と皮肉と諦めばかりでそんな熱さは持てなかった。 「けど、ゴメンな」 しかし──それとこれとは別のこと。 「顔見られたから、死んでくれ」 身元がバレたら困るので、〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく相手の首を〈撥〉《は》ね飛ばした。 俺だけならば死んでもよかった。あんたに命をくれてもよかった。 けれど、腐った男にも家族ってものがいるんだよ…… 悪鬼、外道、その通りさ──だから怨んでくれていい。 死ねば必ず無間地獄に墜ちるからと、最低の言い訳を紡ぎながら。 俺はしばし、名も知らぬ兵へ向けて黙祷を捧げた。 そして── 「げほっ、かは──ぁ、ぁぁッ」 星辰を解除した瞬間、盛大に吐血をぶちまける。 血の原因は胃が〈ひ〉《 、》〈し〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈げ〉《 、》〈た〉《 、》から。他に傷と近い部位にある内臓の幾つかが潰れたらしい。ああ、これは肋骨もかなりイカレているなと、腹をさすって確認した。 〈勿論〉《もちろん》、このダメージは攻撃を受けたからではない。 「相変わらず、融通の利かねえチカラ……」 これが反動──〈星辰光〉《アステリズム》の発動に付き纏う、〈星辰奏者〉《エスペラント》の基本仕様というものだった。 〈平均値〉《アベレージ》から〈発動値〉《ドライブ》への移行に伴い出力が急上昇するものの、いきなり全身強化をすれば当然こうなるというわけだ。上がり幅が大きければ大きいほど、反動もまた順当に増える。 リスクのないパワーアップは存在しないが、さらに俺は他人より強化の度合いがずば抜けて高い。それこそ、無計画に切り札を切れば後で自業自得と死にかけるという程にだから……なんとも救えない話だった。 「ま、そのおかげで生き延びれた部分もあるけど……」 連中に勝てた理由の大部分がそれだ。ゼファー・コールレインは〈平均値〉《アベレージ》が平均以下という劣等モロ出しである反面、〈発動値〉《ドライブ》状態の出力が〈十二星座部隊〉《ゾディアック》の部隊長を兼任している〈星辰奏者〉《エスペラント》クラスにまで到達するという特化性能を備えている。 これは非常にレアな特徴の一つで、自分と同じ上がり幅を持つ〈星辰奏者〉《エスペラント》を今まで見たのは〈一〉《 、》〈人〉《 、》しかいないほどには稀少なものだ。 それが良しかは、口が裂けても言えないのだが……まあ、ともかく。 乳母車が暴走列車にいきなり変身したようなものだから、初見で相対した場合は大半の奴が綺麗に混乱してくれる。必殺を敷いたところに前提が崩れてしまえば、ああして誰もが隙を〈晒〉《さら》す。 特に同じ〈星辰奏者〉《エスペラント》ほど詳細な知識を持っているから、驚愕もまたひとしおというやつだろう。 とはいえ、これはいわば〈騙〉《だま》し討ちだ。相手が事前に知っていれば通じないためリスクも高く、反動も大きいからやってミスればそこでおしまい。巻き返すための余力も消えて、やはり一方的にボコられる。 〈嵌〉《は》まれば必殺──駄目ならボロ敗け。 一か八、零か百、落第か満点という極端さ。負けない人間になりたい俺は、どうしてもこの特徴が好きになれない。 「万能型になりてえなぁ……」 心からつくづく思う。堅実で、弱点のない、平均して高水準な人間に生まれたかったよ……本当に。 だが、〈紆余曲折〉《うよきょくせつ》あれどこうして生き延びたのは真実だ。 早く帰ろうとよろけながら身体を起こす。今は無性に、ミリィの顔が見たかった。 そこで── ふいに、無意識が視線を誘導して。 「何だあれ? コンテナが……」 煙をあげる列車の側面が目に入る。戦車の砲弾で〈抉〉《えぐ》れたのだろう、積載されていた中身のブツがうっすらとだが確認できた。 ……それは、紛れもなく先ほど〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》棺桶で。 死者を納める鉄の柩が、芸術品のように真っ直ぐと鎮座している。 その形。冷たい光沢を放つ鋼に、どうしてか、俺は── ……この場所じゃない〈夢幻〉《どこか》でさえ、あれと出合ったことがある、気がして。 むしろ何故、アレがこんな〈現世〉《ばしょ》にあるのだろうかという疑問が湧くのは、どうしてだろう。奇怪な違和感が〈痒〉《かゆ》いのだ。意識に何かが引っかかる。 天国に魔物が紛れているかのような、現実を悪夢が侵食している、この感覚はいったいなんだ? 舌が渇き、痛みが消え、血が恐怖に凍えていくのはいったいどうして、どうして、どうして──〈理解不能〉《しっている》。 ──刹那、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》と俺は何より深く共鳴して。 「エウリュディケ-No.β──〈いざ、神託を告げましょう〉《awaking oracle》」 ついに──いいやようやく、地獄の窯が開かれた。 ──そして、屍が黄泉返る。 「あなたが迎えに来ない日に、私は醜く〈穢〉《けが》れてしまった」 それは、地の底から〈這〉《は》い出た女神。 この世のものとは思えない美醜を振りまき、悲恋の歌を奏でる死の乙女。妖しく優しく艶やかに、生者を黄泉路の果てへと誘う。 「ああ、悲しい。〈蒼褪〉《あおざ》めて血の通わぬ死人の〈躯〉《からだ》よ、あなたに抱きしめられたとしても二度と熱は灯らぬでしょう」 「だから朽ち果てぬ思い出にせめて真実をくべるのです」 「私たちは、私たちに、言い残した未練があるから」 震えが、止まらない。恐怖に、気が狂いそうになる。 直感する──これは、〈星〉《 、》〈の〉《 、》〈光〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》〈者〉《 、》だと。 太陽を蝕む冥界からの使者を前に如何なる命も敵わない。生殺与奪の絶対権、闇の代弁者がそこに在る。 「振り向いて、振り向いて。冥府を抜け出すその前に」 「物言わぬ私の〈骸〉《むくろ》を連れ出して──〈眩〉《まばゆ》い星の輝きへと」 「他ならぬ愛しいあなたの〈慟哭〉《どうこく》で、嘆きの琴に触れていたい」 差しのべられる真実の〈運命〉《あい》。動かない足、どう〈足掻〉《あが》いても逃げられない。 言うな、違う、駄目だ嫌だ駄目だ嫌だ──助けて、どうしてこうなった。 半狂乱になりながら、顔を皮膚ごと〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》る。血走った目で後ずさる俺へ向け、彼女は初めて心からの微笑を携えながら── 「──“勝利”からは逃げられない」 「さあ、〈逆襲〉《ヴェンデッタ》を始めましょう」 そのために、生きて、死んで、駆けぬけようと語ったから。 心のどこかで最後の線が断ち切れた。 もう、何も聞こえない。 「う、あぁ、ぁ……」 「アアアアアアアアアアアアアアァァァッッ──!」 「俺たちは、当たり前に生きて死のう」  どこにでもいる人間として、健やかに、慎ましく。  勝たなければ傷つき、負ければ死ぬような厳しさとは無縁の優しい世界へ──さあ。  そう願ったのは、いったい何時のことだったか。  誰に向けて誓ったのか。  記憶は〈軋〉《きし》み、悲鳴の刃に引き裂かれた。 「コードネーム・〈隕灼焔〉《meteolight》──大気操作により発火、燃焼を起こす〈星辰光〉《アステリズム》を保有。  拡散性と干渉性に高い素養を持ち、視認した箇所を起点に広範囲の爆発を起こす。連射可能。中・遠距離戦闘を得意とする。  コードネーム・〈自向引力〉《attraction》──万物に備わっている引力を自己限定で増幅する〈星辰光〉《アステリズム》を保有。  特筆して高い性質はないものの、集束性、操縦性、維持性のバランスがよく高水準。常に相手を引き寄せながら格闘戦を行うため、援護の際は巻き込まないよう注意が必要である」 「コードネーム・〈光屈折〉《visible》──可視光線を操作する〈星辰光〉《アステリズム》を保有。  高い附属性により自身、最大で五名までの随行員に光学迷彩を施せる。しかし欠点として維持性が低く、効果時間の延長を求めるなら必然的に重ね掛けが不可欠である。非常に有用な星光だが投入する際は短期決戦を心がけたし」 「なるほど。つまりはどれも〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》に優秀であったというわけだ」 「ええ、まさしく〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》にでございます」  戦闘の行われた第六〈交易拠点駅〉《ターミナル》。謎の動乱に見舞われてから二時間後、その跡地では多数の帝国軍人が後始末に動員されていた。  その中に〈裁剣天秤〉《ライブラ》の頭角であるチトセの姿はあった。  副官を隣に従えながら鋭い視線で視線を凝らす。とある理由から〈表〉《 、》〈向〉《 、》〈き〉《 、》は物見遊山という体を演じつつ、内心では別の打算を働かせて周囲の様を〈睥睨〉《へいげい》していた。  この場で死んだ天秤の兵卒三名──それは本来なら出す必要がなかった死者だ。なぜならあれら、総統に命じられて配置した正式な護衛などではなく、あくまで自身の〈独〉《 、》〈断〉《 、》〈に〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈潜〉《 、》〈り〉《 、》〈込〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》〈部〉《 、》〈下〉《 、》なのだから。  ヴァルゼライド総統閣下、彼は何かを隠している。  それが知りたい、知らねばなるまい。ゆえに〈草〉《 、》を密かに送り込んではみたものの……  結果は予想外という他ない。  正直これは、彼女をしてまったく予想できなかった結末だ。 「〈天秤〉《うち》の〈星辰奏者〉《それなり》が三名。私やおまえなら苦もなく切り抜けられるとしても、常識的に考えればまず不可能な戦力レベルといえるだろう。   不意打ちを受けるような柔い鍛え方もしてはいない。加えて戦車も一台潰されているらしいじゃないか。 つまり、正面突破されたということになる」 「鑑識〈曰〉《いわ》く、戦闘の形跡から下手人は単独犯だろうかと」 「ほう、ますますあり得んな」 「ええ、まったく」  そんなことを可能とするのは当然のこと、〈星辰奏者〉《エスペラント》に限定される。しかしそれを可能とする人物に彼女ら二人は、心当たりが〈微塵〉《みじん》もなかった。  チトセの言葉通り、それはあり得ないことだ。強化兵は人間兵器として厳重に管理される上、高い実力を持っているからどの部隊でも重宝される。  自然と階級は高くなるし、頭角を現していなくばおかしいのだ。特に〈裁剣天秤〉《ライブラ》は〈星辰奏者〉《エスペラント》の〈勧誘〉《スカウト》に余念がない。アンテナは常に張り巡らせてある。  よって、二人が知らないということは犯人が帝国軍人以外であることの証明となってしまうわけで。  ならば誰が天秤に泥を塗ったのか? まさか無強化の奴が生身で? そんな手合いが別国にいるというのか──まったく人物像が見えない。  率直に言うと、お手上げの状態だった。 「しかし不甲斐ないことだ。腕の一本ぐらい〈捥〉《も》ぎ獲れという、それでも貴様ら天秤か」  そして死者に鞭打つようではあるが、部下が死んだことに関してチトセの見解は実にシビアだ。  兵なのだから殺し合うこともあるだろうし、敵が思わぬ強者であったとしても、それが何だ。悪いが考慮に値しない。  〈呟〉《つぶや》きには小さくない毒が混じっていたものの、当然だ。無理でも無茶でも無謀でも、負けてはならない立場と責務がこの世にはある。それを背負って生きる者もまた同じく。  帝国最強の刃、十二の部隊で唯一断罪の特権を有する天秤。その看板は非常に重い。  相手が強かったから死にました……などという甘えた言葉は、他者の祈りを担う者には口にする権利がない。  責任をまっとうせずして、何の立場というのだろうか。  ならばこそ、最高権力者が抱える裏をも暴こうとするし、一見すれば背信行為に見られかねない所業にさえ彼女は〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく手を染める。  その上で、チトセ・朧・アマツは成すべきことを成すだけだ。  ただ突き進む。前へ、前へと。 「ともかく、不信の目は避けねばならん。出来るな?」 「不名誉を被せることも、耳触りを良くすることも、そもそも無関係と装うことも自由自在。思うがままでございます」  つまり、委細問題なく。  不敵な笑みを交わす主従。この程度の陰謀詭計、策略の内にも入らない茶飯事だった。二人の地位を脅かすには〈落ち度〉《スキャンダル》として軽すぎる。 「なにせ今回は不測の事態が多すぎますもの。それは逆説的に、〈煙〉《けむ》に巻くための隙間だらけということですわ」 「全員それぞれ、程度の差はあれ痛い部分を突かれたからな。ふむ、そう考えると悪い結果ではないのかもしれん。   賽の目は積まれていたもの次第になるが……」  意味深に視線を向けた先、そこには慌ただしく入れ替わりする兵士たちと、貨物列車に積まれたままの奇妙な鋼が存在していた。  形状から、あれは恐らく棺桶だろうか。  無論、中身は既に空。既に何者かの手によって持ち去られた後である。  そこに収納されていた物が件の最高機密であることは状況から確実だったが、詳細なことはそれ以上まるで読み取れない。  チトセに理解できるのは、あの柩が何らかの装置であるということ。複雑怪奇な〈旧日本製の超技術〉《ロストテクノロジー》により造り出されたものだということ。  そして、二時間前まで中にあったはずの物体こそ……ヴァルゼライドの抱える裏と密接に関係している〈鍵〉《 、》だということ。それだけだ。  推測して、ゆえに思わず微笑する。これはこれは、なんと不運な。  かの超人もやはり人か。本人は無敵でも、思わぬところで不運に見舞われてしまうらしいと肩をすくめる。 「さぁて、閣下は何を奪われたのやら」  誰も知らない秘蔵の一端。それが何者かの手に渡った。  それを知り、彼は何を思うだろうか。鉄面皮の下で汗の一つでも流すだろうか、それともまさか自作自演と? どちらにしても面白い。 「いいぞ──流れが生まれた、〈う〉《 、》〈ね〉《 、》〈り〉《 、》が見える」  変化や流動が生じればそこには自然と不純が混じり、意図していない機が誕生する。  ならば今こそ賭け時だろうと、静かな昂揚を実感しながらチトセは未来に期待を馳せた。  何かが動き始めたのなら、そこから遅れるわけにはいかない。  現場に近づけば、兵の人垣が綺麗な形で左右へ分かれた。現場の指揮を取っていた軍人が一人、代表者として軍靴を鳴らしながら背を伸ばす。 「結構。各員、楽にせよ」  過剰反応ともいえる実直さで兵は命令に従った。一糸乱れぬ動きに淀みはなく、チトセとサヤに向けられる視線には多大な畏怖と憧憬が混じっている。  それこそ、単純な階級差だけではない〈星辰奏者〉《エスペラント》と一般兵の差というものを現していた。  さらに格差は死という事象にさえも当てはまる。強化兵はたとえ肉片一つでも他国に渡るのは避けなければならないことだったから、死を検める。 「部下の遺体を回収しに来た。それで、彼らの〈骸〉《むくろ》はどこにある」 「どうぞ、こちらです」  そして現場の隣、広げられたシートの上へと歩を進めれば。 「これはまた……」  サヤは瞬間、そこに並べられた惨状に思わず苦笑を〈零〉《こぼ》してしまった。またなんとも、派手にやられたものである。  〈掻〉《か》き集められた死体の内訳だが、原型を留めているのは首を斬り飛ばされている一体だけだ。  他は胴体を裏返したかのように内側から爆破された姿が一つ、もう一人に関してはどこからどう見ても〈焦〉《 、》〈げ〉《 、》〈た〉《 、》〈肉〉《 、》〈片〉《 、》〈の〉《 、》〈山〉《 、》である。  辛うじて手足の形が残っているが、精肉所の余り肉だと言われても、恐らく大半は気づかないという有様なのだから凄まじい。むしろ鑑識員の面々はよくこれを根気よく集めたものだと、サヤは感心したほどである。  そして次に、彼女の胸中を占めた思いは納得だった。なるほど確かに、これなら〈天秤〉《ライブラ》が後れを取ったのも頷けよう。不謹慎かもしれないが犯人の戦闘技能に対する評価を一段階引き上げる。  思い切りがいい──残虐非道に慣れている。単に力があるだけの存在では、ここまでの効率重視を行えない。  良心とはそれほど馬鹿に出来ない〈枷〉《かせ》なのだ。よってこれを行った輩、中々の破綻者だと言っていい。 「確か戦車兵にも犠牲が出ていましたわね。それもこれらと同じように?」 「斬首されたのが一名。他は全員、車輌の中で目と耳鼻から血を流して死んでいました。 解剖の結果待ちではありますが……どうも脳出血を引き起こしたのが死因では、とのことです」  要するに、外傷ではなく内傷。どういう手段かは不明だが頸部狙いのパターンを除けば、どれも特殊な方法で皮膚の下をやられているわけだ。  そのような所業を常人は行えない。斬る撃つ殴るといった技術の領域を超えている。  間違いない──犯人は〈星辰奏者〉《エスペラント》だ。  と、確信したサヤはそこでようやく、ふと気づいた。  敬愛する女性の様子が、さっきから何かおかしい。 「──、────」  彫刻のようなその横顔。虚脱した瞳が茫洋と遺体の傷を眺めている。  何度も何度も視線でなぞる……  何度も何度も確認している……  呼気は切れ切れで、目の焦点は合っていない。  だからサヤはそれを知らない。こんな顔は初めて見たのだ。 「……お姉様?」  気品、血統、〈漲〉《みなぎ》る覇気──常態で纏っていたそれら王者の圧力が、チトセからはどれも幻と失せている。  彼女から漏れるのは、希望に満ちた哀切の声。  嘘。だって、ありえない──  無表情に唇を小さく震わせながら、しかし泣き出す寸前の子供みたいに首の断面を見つめていた。  なぜなら、彼女は知っているから。  この切れ味、特徴的な〈殺人手法〉《キリングレシピ》。  忘れたことは一度もない。  覚えているのだ、──彼のことを。 「────は、アハ」  三日月に口が歪む。  早鐘を打つ鼓動が痛い。  膝が笑う。腕が笑う。  頭の奥から記憶の波が次から次に氾濫して── 「はは、は、ふふっ、あははは、はは。 あははははは、ハハハハハハハハハハハハハハハハ──ッ!」  ああ、もう限界── だってこんなにも胸が熱いのよ。 「そうか、そうか、なんだ、おまえか──   生きていたんだな、ええ──〈銀狼〉《リュカオン》ッ!」  声高らかに弾ける〈哄笑〉《こうしょう》。世界をぶち壊してやると言わんばかりに、〈喉〉《のど》が削れるほどの勢いでチトセは歓喜を〈迸〉《ほとばし》らせた。  それは雄たけび、〈鬨〉《とき》の声……開戦を告げる号砲よりも力強い叫びだった。  〈頽〉《くずお》れそうな自分の身体を抱きしめて、チトセは笑う。笑う。笑う。  狂気にすら達した喜悦を、無制限に放射する。 「くふふふははははは、そうだなまったく……忘れていたよ。おまえはそういう奴だった。 臆病で、生き汚くて、自分を誰より信じられない癖していながらおかしなところで本気になる。そして毎度、運が悪い。   どうせ巻き込まれたんだろう? 震えながら殺ったんだろう? 五年経ってもまだそうなのか。本当に、そんなのあの日のままじゃないか」 「何もかもを台無しにすることばかり、大得意でさ。  なぁ、〈酷〉《ひど》いじゃないか。私を置いていくなんて。   教えてよ……ねえ、その手でいったいおまえは誰を掴んだの。  どうして、それが──」  それが、自分じゃなかったのかと。  問いに答えは帰ってこない。この場にいる者は呆気にとられて何も言えず、目の前の光景をうまく呑みこめもしなかった。そして問いに答える男も、この場には存在していない。  確かなのは強者の豹変。彼女はいま、過去に〈泪〉《なみだ》する小さな少女だ。  ならばいったい、どう言葉をかければよいのだろうか? どんな傷かも知らない以上、その過去すら見えないというのに。 「────だが」  瞬間、にぃと犬歯を剥き出す笑いにその可憐さは霧散する。  反転する愛憎。絡み合いながら愛おしく、狂おしく。 「おまえも私も地獄を抜けて生き延びた。 そして生存を知ったのだ。ならばもはや、逃げおおせるなどと思うなよ」  そうだ、誓った。二度と敗けるつもりはない。  かつて負けた。失った。己があの日地に伏したから、大切な二人の絆は奪われてたのを覚えている。  かつて〈抉〉《えぐ》られた右眼が〈疼〉《うず》くたび、どれほど後悔しただろう。  どうして、自分は奴に勝つことが出来なかったのだろうか。弱さを呪ったこともある。  しかし、叫喚し続けた果てに再び過去と同じ選択肢が現れた。  “勝利”を、“敗北”を、“逃亡”を──  問いかけられた三択に対し、選ぶものは決まっていた。  チトセ・朧・アマツは、狼を侍らせながら王道を歩むが本懐。誰にもそれは邪魔させない。  今度こそ、一心不乱に勝利する。そして約束を形にするのだ。 「おまえのすべては五年前から私のモノだよ、ゼファー」  嘆いた時間はこれで終わり。  さあ、愛しの我が人狼よ──あの日の続きを始めよう。  ──そして、あらゆる星が駆動する。  それは、欠けた歯車が回るように。  時計が再始動するかのように。  抜け落ちていた一欠片が、ついに嵌ったかのように。  英雄譚を生み出すべく、個別に加速し続けながら一つへ〈集〉《つど》う数多の意志。それら希望の担い手は折れず砕けず歩を進めていた。  勝利の呪縛を受けた者に自由はないのだ。次も次もその次も、勝ち続けることだけを死ぬまで求められ続ける。  そしてもはや、男にそれ以外の価値はなく……  いつか、たった一度の敗北で〈微塵〉《みじん》と砕けるその日まで、走り続けなければならなくなった。  頭蓋に食い込む覇者の冠。二度と外せない勲章の意味を、知れば何を思うのか。  真実を受け止めて、かつ耐えきれるのは英雄のみ。  ならば〈煌〉《きら》めく正道に、果たして意味はあるのだろうか? 誰も倣えないような、理想と光で彩られる無謬の道に憧れるのは正しいのか?  “勝利”とは何なのか── その答えを、きっと誰もが探しているから。  英雄は希望を背負い、これからも明日を目指して戦うのだ。 「──よう、御用はなんだい英雄サマ」 「死にたいのなら、今すぐにでも縊ってやるぞ」  叩き付けられる殺意の奔流。喜であれ、邪であれ、それら命を害する圧力に差異はなく極めて凶悪──猛毒の域。 「マルス、並びにウラヌス── 付き合ってもらうぞ、俺が担う宿業に」  常人ならば正気を失う魔星の威圧に、しかし〈怯〉《ひる》まず、なお堂々と。 「すべては、皆の明日を守らんがため」  言い放ち、遥か彼方をその眼光で射抜きながら── 「“勝つ”のは俺だ」 「いいや、己さ──」  告げた鋼の宣誓に、幕は切って落とされた。  新西暦1027年──  軍事帝国アドラー、首都炎上。  軍部の管轄下に置かれていた研究施設、及びそこで働く者の居住区。そして、いずれにも無関係な市井の民……  周囲のありとあらゆる存在が、〈丸〉《、》〈ご〉《、》〈と〉《、》〈火〉《、》〈の〉《、》〈海〉《、》〈に〉《、》〈呑〉《、》〈ま〉《、》〈れ〉《、》〈る〉《、》という未曾有の災禍が発生。  夜空を紅蓮に染め上げる炎は一切の仮借なく全てを焼き尽くし、辺り一帯は生命の存在し得ない焦土と化した。  死亡者数はおよそ73000人。彼らの死因の特定は困難を極めた。無論、まるで消し炭と見紛うほどに人体を燃やし尽くした〈火傷〉《やけど》により、命を奪われたというのが大半のそれではあったのだが……  しかし、〈亡骸〉《なきがら》に刻まれていた無数の裂傷。鋭利な〈鉄針〉《ニードル》にでも貫かれたのかと思わせる幾つもの穴。加えて凍傷などが確認されたことも事実。  誰の身体も等しく、圧倒的な暴力を思わせる損壊を被っていたという例があった。  ゆえに言えることは、これは決して事故などではないということ。聖教皇国から送り込まれた二体の生体兵器によって引き起こされた、人為的な惨劇──そう、正しく〈大〉《、》〈虐〉《、》〈殺〉《、》であったことを証明していた。  魔星のもたらした絶望は一言、凄惨。  喜々として住民を殺戮し、原形を留めぬまでに破壊し尽くし、逃げることも命乞いも許さなかった。  〈双〉《ふた》つの星がその手にかけた対象はまったくもって無差別に、軍人、施設に多数いた研究者のみならず、同日同区画に集まっていた帝国上層部からなんの関係もない市民まで──等しくその生を刈り取られたのは帝都の記憶に新しく。  新西暦1027年、ここは地獄の釜であったのだ。  ──しかし無力な民の涙に応えるよう、一人の英雄が誕生する。  彼の名は、クリストファー・ヴァルゼライド。  軍部改革派筆頭にしてアドラー最強の男。  酸鼻極まる地獄の戦場を、ヴァルゼライドは単身での鎮圧に成功した。その志はどこまでも尊く高潔で、その武は暴乱の魔星をも退ける。  積み重ねられた屍山血河が召還の代償であったかのように、光輝の勇者は今も悲劇を超えるべく日々雄雄しさと共に〈邁進〉《まいしん》している。  大虐殺を収めた功績をもって総統の地位に就いた後も、それは何ら変わりない。  進む復興、進軍、領土拡大、好転する経済など。  効率的な再編は進み、軍の高官たちが大虐殺に巻き込まれて半壊状態であったという事実も、時代の趨勢に急激な変化として拍車をかけた。  当時改革派を率いていたヴァルゼライドは、そうして軍を塗り替える。彼個人の資質でもある実直さ、それはそのまま政治理念となってアドラーの統治に反映された。  とりわけ、その情熱は腐敗の根絶へと形で具現化する。  復興と同時に彼が着手したのは、軍上層部の暗部である腐りきった利権の撤廃。つまり、血筋や家柄だけで権力を握る無能、嘘偽りを用いて甘い汁を吸う卑怯者、力を用いて我欲を満たす愚者などなど……  それらの切除と再配置だ。国家であるならばどこにでも存在する輩を、しかし英雄は許さない。  既得権益を握っていた権力者層からは当然のごとく反発を受けたが、理の通っていない保身など聞き入れられるはずもなく。結果として、帝国上層部の顔触れは大虐殺の以前と以後でほぼ一新される手はずとなった。  そして当然、その誠実さは臣民の支持を集める。汚職を嫌い〈真摯〉《しんし》に民へ奉公する施政者をいったい誰が嫌うだろうか。  計上された国益は民へ正当に還元されるようになり、程なく帝都に活気が戻った。ゆえに彼らは明日への希望を抱きながら日々を過ごし、誇らしく指導者の姿を仰ぐのだ。  涙は既に過去のもの。大虐殺という悲劇は、英雄の登場によってその連鎖を断ち切ったのだと──  誰もが笑う──されど果たして、それは本当に?  歴史には、語られることのない闇がある。それは清廉実直へと舵を切った帝国内でも同じこと。  例えば──あれら二体の魔星。  マルス、そしてウラヌス。遥か昔、星座に紛れ込むことで旅人を惑わせた星の名を冠する者たち。殺戮の星はヴァルゼライドの光刃によって撃滅させられたと言われているが、それが真実であることを確かめた者は誰もいない。  そう誰も、直接その目で破壊された怪物を見た者などいないのだ。  ゆえに再度問いかけよう。〈あ〉《、》〈の〉《、》〈惨〉《、》〈劇〉《、》は、本当に幕を下ろしたのか、と。  当たり前であるはずの質問に確言できる者たちは、恐らくは帝国内において〈僅〉《わず》かしか存在しない。  そしてその一人こそ、やはり──  薄い白光に照らされ、どこか〈静謐〉《せいひつ》な無機質さを感じさせる謎の空間。鋼の冥府。  そこに〈佇〉《たたず》んでいるのは、たったいま起動した二つの魔星だ。  マルス、そしてウラヌス。語るまでもなく忌避すべき異形の存在は、厳然とこの空間に存在していた。  英雄、クリストファー・ヴァルゼライドに滅せられた〈は〉《、》〈ず〉《、》の生体兵器が、しかし生存している理由は簡単。 これだけの〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》、潰して終わりはいささか惜しい。  よってその後回収され、帝国の軍事研究素材となった彼らは今、ここでかつての姿を取り戻してる。災禍を欲する暗闇を、依然その瞳へ〈湛〉《たた》えながら。 「“勝つ”のは俺か──言うじゃねえかよ、英雄さん。  そして何だ、御国のために役立てと? いやいや、なかなか面白い冗談だ。天に召された市井の連中が聞いたらなんと思うやら」  人を食ったような調子で鬼が笑う。口調は流々、しかし面の下は読み取れずともただ剣呑な空気を醸していた。  ヴァルゼライドがその身を賭して守ろうとした無力の民ですらも、この怪物には所詮、話の種に過ぎない。 「気安く口を利くなよ、卑賤の血で〈不遜〉《ふそん》なことをよく言うものだ。   もっとも、命を差し出す覚悟があるなら話は別。今ここで貴様を地獄に送っても構わんのだぞ」  対し、鉄姫は凍りつくような敵意を隠そうともしない。棘が滲むその言葉は絶対零度の暗い〈呪詛〉《じゅそ》を〈孕〉《はら》んでいる。  今にも襲いかかりそうな怒気を、そのまま〈華奢〉《きゃしゃ》な拳に握り込んだ。  爆発寸前の殺意。刹那、三者の視線が交錯して──  結果、ここに双方武装を付き合わせた拮抗状態が発生した。  ヴァルゼライドの刃は魔星の首元に突きつけられ──逆に彼ら悪鬼の爪は、英雄の胸へ向けられている。  互いの得物は紙一重で触れてはいない。だがしかし、実際の〈鍔迫〉《つばぜ》り合いよりも遙かに苛烈な意志衝突がそこには今も成されている。  見る者をまるで呑み込んでしまいそうな邪気、闘気、決意の奔流。  唯一人間でありながら〈挫〉《くじ》かれることなく、貫く眼差しでヴァルゼライドは相対する。  宣戦布告は先ほど、既に吐いたのだ。  その揺ぎ無さを〈憐〉《あわ》れむように、〈飄々〉《ひょうひょう》と喜色すら漂わせて〈赤星〉《マルス》はヴァルゼライドに問いかける。 「あれだけオレたちを毛嫌いしてた〈総〉《、》〈統〉《、》〈閣〉《、》〈下〉《、》がおいでなさるという異常事態。何かよほどのことでもあったんだろう、それぐらいは分かっちゃいるさ。  だからなあ、言ってみろよ。相方がどうかはしらんが、話次第では乗ってやらないこともないぜ」 「──〈死相恋歌〉《エウリュディケ》が起動した」  重く、そして簡潔に唯一の事象を告げる。他方のマルスは拍子抜けを感じさせる調子でそれに再度、肩を〈竦〉《すく》めるような仕草で── 「ああ、〈知〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈る〉《、》〈さ〉《、》。今さらだな大将。んなもん、とっくに察してる──第一、オレらはそういうものだろう?」 「造られた時からずっと、その宿命に〈繋〉《つな》がっている。兄弟の覚醒が分からないほど鈍い頭はしちゃいない」 「それが我らだ、貴様とは違う。 〈宇宙〉《てん》に輝く〈惑星〉《ほし》を仰げよ、人間風情が。たかだか〈星辰奏者〉《エスペラント》と並べられるのは、耐え難い屈辱だがな」  だから、それで? 無言のままにヴァルゼライドは〈睥睨〉《へいげい》する──そして命じた。察しろと。  〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》の覚醒が互いの悲願に別の形で関わること。その重要性は今更口にするまでもないからこそ視線だけで意を告げる。 「んな面すんなよ。承知の上さ。こうなればオレたちも動かざるを得ない。互いの関係を抜きにしてもな。 眠りから覚めただけならまだいいが、あいつの首輪を誰が握るか。そしてその資格があるのか。それによっちゃあ事態はそれこそ、冗談では済まなくなる。  オレたちから見ても、この状況は上手くない……」  本来、こんな形でアレは起動しないはずなのだ。  その違和感、重要性、あまりに看過できない不測──放置するなど出来るはずもなく。 「あんたもこちらの大将も、見てる場所は遙か先にあるんだろ。  ならひとまず、用事を済ませるとしようや。〈取〉《 、》〈り〉《 、》〈合〉《 、》〈う〉《 、》のはそれからだ」 「〈癪〉《しゃく》だが、そこについては同意すべきか」  しかし決して気を許しはしない。ヴァルゼライドと魔星は依然、〈不倶戴天〉《ふぐたいてん》の敵である。  何よりマルスの言動は不可解だった。独自の価値観が明らかに異彩を放っている。その語り口は鋭く英雄の内奧を認めているようでもあり、また同時になんの根拠もなく出任せで〈煽〉《あお》っているようでもあった。  〈愉悦〉《ゆえつ》の色を滲ませながら鬼面は〈哂〉《わら》い、〈唆〉《そそのか》す。 「いいぜ、あんたの男に応えようじゃねえか。 〈死想恋歌〉《エウリュディケ》を起こした比翼──如何ほどのものか、とくと見極めてやるよ」 ──閉じた〈瞼〉《まぶた》の向こうに感じるのは、いつもと変わらない朝の訪れ。 窓から差し込む日の光。ピーチクパーチクとやかましい鳥の〈囀〉《さえず》り。できることならこのまま目を覚ますことなく、ベッドの中でダラダラと〈微睡〉《まどろ》んでいたいという心地よさがある。 そう。せめて、自慢の良くできた妹が甲斐甲斐しく起こしに来るまではと…… しかしそんな日常は、〈聞〉《、》〈き〉《、》〈覚〉《、》〈え〉《、》〈の〉《、》〈あ〉《、》〈る〉《、》〈女〉《、》〈の〉《、》〈声〉《、》であえなく雲散霧消した。 「──見苦しい寝相を堂々と〈晒〉《さら》して、まったくだらしのないことね」 「とっくに日が昇っているのにまだ惰眠を〈貪〉《むさぼ》るのかしら?そうだとしたら、ある意味感心してしまうわ」 「〈涎〉《よだれ》をたらすその姿、まるで駄犬ね。愛らしいこと」 ……その一言一言が〈耳朶〉《みみたぶ》に染み込むたびに、堪えようのない悪寒が身体の深いところを伝っていく。 〈寝惚〉《ねぼ》けた頭でも否応なしに理解させられるレベルの、本能的な不快感。いささか抑揚に乏しい喋り口調が、その印象に一層の拍車をかけていた。 耐えられない。気持ちが悪い。やめろ、やめろ、喋るんじゃねえ。 この家に住んでいるのは俺とミリィの二人だけであり、だらしのない兄を起こしに来てくれるはずの優しい優しい妹は、決してこんな物言いをしたりなんかしねえんだよ。 すなわち自分は、おまえの何も認めちゃいない。 消えてしまえと、思っているのに──〈糞〉《くそ》が。 「……朝から〈碌〉《ろく》でもねえご〈挨拶〉《あいさつ》だな、てめえは」 苛立ちに目が覚めて、吐き捨てるように告げながら上半身を起こす。 目の前にいたのは案の定、昨夜の仕事で〈拾〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》厄介者。 記憶から消したい少女が俺を見下ろし、微笑んでいた。 「あら、犬扱いに不満でも? なんて〈贅沢〉《ぜいたく》なのかしら」 「それなら、まずは身だしなみくらい整えるべきだと思うけど。淑女を前にそんな〈胡乱〉《うろん》な態度では、何を言ったところで説得力に欠けるわよ」 浮世離れした格好そのままに、愛でるような〈嘲〉《あざけ》る視線を向けてくる。二つの感情が相反しているのに一つへ交じり合っていた。なるほど、どうやらこいつは基本的にこういう存在なんだろう。 〈天使〉《あくま》のように微笑みながら不敵な言葉を口にする。かつ結構な高慢であり、それを当たり前だと思っている。 まるで、やんごとなきご身分のお姫様ってか。冗談にしても笑えねえ。 おまえは、そういうモノじゃないだろう。 怪物が、怪物が──人間らしい姿を見せるな。俺は恐怖を覚えているんだ。 だからいっそ、あの場で殺すべきだったのに── 「なんで、俺は……」 ……首を断つ直前で手を止めてしまったのだろうか。 それをやってはならないと、心が何故か泣き叫んでいた。 その半端さが許せない。ゼファー・コールレインって〈盆暗〉《ぼんくら》は、どこまで根性無しなのだろう。 そもそもこいつ、貨物同然の扱いをされていたという以前に本能的な部分から受け付けられる感じがしない。軍部の中でも特に厄介な〈裁剣天秤〉《ライブラ》まで担ぎ出されていた事実が、今も背中を寒くする。 つまりは、連中にとってそれだけの価値のあるものなんだろう。存在を知ってしまっただけで〈口〉《、》〈を〉《、》〈塞〉《、》〈が〉《、》〈れ〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈う〉《、》可能性を否定できず、しかし持ち逃げてしまった手前、下手な扱いをするわけにはいかない。 目撃者は誰もいなかったとは思うが、どこかから軍に情報が漏れでもしたら即アウトだ。早急になんとかしなければまずく、そしてこういう問題はルシードへ丸投げしてしまうに限る。 何より昨日の一件は、請け負った仕事の最中に起こったアクシデント。ならば責任者に報告し、その後で指示を仰ぐのが筋というものだろう。 自分で考えることを放棄していると分かっちゃいるが、全てがもうどうだっていい。この女と居るとそんな気分にさせられちまう。 「おい、おまえ──」 「──“ヴェンデッタ”」 「ヴェティとでも呼びなさい、ゼファー。愛と〈愉悦〉《ゆえつ》と憎しみをこめて、この名を胸に刻むといいわ」 「そうかよ、〈ヴ〉《 、》〈ェ〉《 、》〈ン〉《 、》〈デ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈タ〉《 、》」 冗談、こいつを愛称でなんて誰が呼ぶか。脚を組み替える態度さえこちらは腹立たしいっていうのに。 というか、最悪なセンスの偽名だ。──ヴェンデッタ、〈逆襲〉《ヴェンデッタ》? 何から何までピンポイントで吐き気がするね。 そいつはまるで── 「………………」 ふいに、一瞬妙な鼓動の高まりを感じてこめかみに〈皺〉《しわ》を寄せた。 どう表わせばいいのかは分からないが、何だろうか……昨夜、貨物コンテナの中にいたこいつを見かけてからずっと感じる、この違和感は。 焦燥、というのが強いて言えば一番近いだろう。まるで袋小路に追い詰められ、刃物を持った追っ手に〈躙〉《にじ》り寄られている時のような感覚。こいつから一歩でも離れたくて仕方がない。 それが身体の奧から湧き上がってくるのだから、今も殺意が湧いてくる。恐怖しながら排除したい、消えてくれと思っていると── 「あ──」 「どなた?」 鳴らされたノックの音に、この状況がしくじったものであることを理解した。 あ、やばいわ。この状況、冷静になるとなんかもう完璧アウトだ。ちょっちタンマ── 「兄さーん、帰ってる? もう朝だよ。ごはんの用意もできてますよー」 「今日は家出る前にお布団干しておかなくちゃいけないから、出来れば協力してほしい──け、ど────」 時が止まった。空気が凍る。確かにまあ、〈夜這〉《よば》いに見えないこともない。 だというのに、顔を赤く染め、そして何故か呑気こいてるのだろうかね。このクソ女は。 「おはよう。お邪魔しているわ」 「え……えええええぇぇぇぇぇぇぇぇ──────っ!?」 投下された爆弾に対し理解と同時、驚愕の声を上げた。 あははー、ああもうどうにでもなーれ。 「にっ、兄さん……そちらの、少々ギリギリな格好をしている方とは、ど、どういったご関係で?」 「まさか、そうまさかとは思うんだけど、寝室に、しかも薄着の女性と一緒ってことは、つまり……つまり……っ」 「それはだなミリィ。えーっと」 「い、いいの、無理に言わなくても! 悲しいけど、ほんのちょっぴり辛いけど、覚悟はずっとしてきたからっ」 「わたしだってもう子どもじゃないんだし、そのくらい察するべきだったよね……えっと、だから、ごめんなさいっ」 「っていうか、おもてなしもせずにすみません!あの、わたし、ミリアルテ・ブランシェといいます」 「ミリィって呼んでください。それから──うん」 そこで一度、深呼吸。 ぐちゃぐちゃになった自分の心を一息にまとめ、心なしか涙をこらえているような目で。 「兄が、いつもお世話になっています」 「そして、これからもよろしくお願いいたします。どうかこの人を、隣で支えてあげてください」 「いや、その……」 ……それがあまりに〈真摯〉《しんし》な口調だったから、勢いに押されてしまいどうにも口が挟めない。 後ろめたさと、何ともいえない罪悪感が付き〈纏〉《まと》う。それを受けたヴェンデッタは、驚いてから苦笑しつつ意味深に俺を見た。 「……いい子ね。あなたには〈勿体〉《もったい》無いくらい」 そうだよ、ちくしょう、どうだこの野郎ざまあみやがれと鼻を鳴らす。不覚だが初めてこいつとの間に共通認識が生まれた気がした。 ミリィは可愛い。そして悲しませてはならない。そのためなら、かなり嫌だが、こいつが嫌いでも協力できる。 「早く訂正しておあげなさい」 「おう、望み通りにな──えっと、落ち着いて聞いてくれミリィ。こいつは全然、そういうことなんかじゃなくて」 「話せば長くなるんだが、ほら、昨日言ってた仕事でさ。ちょっと厄介な都合があって、取り敢えず一晩こいつを預かることになったんだよ」 「ふぇ、そうなの?」 そう。それだけ。つうかこんなの趣味じゃねえわと激しく頷く。 「夜の街に女一人放っぽり出すのも外道だろ?だから俺は慈悲溢れる心でここまで連れてきたわけなのさ」 「証拠隠滅のついでにね」 そこ、いいから黙ってろと小さく〈睨〉《にら》む。事の次第がバレたら絶対殺してやるからな。 とにかく肝心なことを誤魔化しまくって、どうにかなんとか遣り過ごす。良心は痛むが、仕方がない。それに一応、嘘をついているわけでもないのだし。 ミリィの方も最初こそ非日常のシチュエーションに驚いていたものの、俺たちのどこか微妙な様子を察したのだろう。小さな身体を縮こまらせて困ったように、ぺこりと頭を下げた。 「あ、あはは……えっと、取り乱したりしちゃってごめんなさいっ」 「まさかドアを開けて、いきなり女の人がいるなんて思わなかったから。人生初の衝撃で、その、見失っちゃってたかも……うぅ」 「や、こっちも勝手にこんなの連れ込んだりして悪かった。それでその、なんだ、コレは──」 コレは、何だ? いいのか言って。〈逆襲〉《ヴェンデッタ》なんて名乗る気持ち悪い女を紹介して、本当に? 一抹の不安が言葉を止めたが、当の本人は遠慮をしない。むしろ慈しむように、似合わない優しい目で妹へ好意的に近づいていく。 だから──それを思わず押し留めてでも止めようとしたが、既に遅い。 「こんにちはミリィ、私の名前はヴェンデッタ」 「ヴェティとでも呼んでくれれば嬉しいわ」 「──ぁ、はいっ。よろしくお願いしますね、ヴェティちゃん」 「敬語もいいわよ。あなた、とても愛らしいもの。ふわふわした子犬のようで見ていてとても暖かいわ」 「まるで春の日差しみたいに……綺麗な色よ、誇りに思っていいと思うわ」 「そ、そうかな……えへへ」 心なしかどこか穏やかな様子ですらあった。何かよからぬことに〈繋〉《つな》がらないかと、危惧が外れたことにほっとする。 というか、俺の時とずいぶん対応違くねえかこの女。まあミリィに害をもたらさなければ許すけど。 「ねえねえ、さっきから少し気になってたんだけど、そのお洋服ってどこの職人さんが仕立てたものかな?」 「見たことのないデザインっていうか、大胆っていうか……うわ、これすごい素材。どういう技術で造ってるんだろ」 「──気になるかしら? まあ〈勿体〉《もったい》ぶるほどのものではないけど、これが一張羅だっただけよ」 「この男に傷物にされてから、ずっとこういう格好なの。ああ、普通の服が懐かしいわ」 「傷物……じぃぃ」 死ねよてめえ、唐突にどういうデマを〈撒〉《ま》きやがるんだ、この女は。昨夜の記憶のどこをほじくり返しても出てきやしねえだろうが。 そもそも、頼まれてもお断りなので……はい、そこ。ミリィくん、まずそのじと目を止めなさい。 「ほら、こんな風に覚えも悪い。海馬が腐ってるんじゃないかしら」 「あの夜は趣向も凝らして、私なりに勇気を出したというのにこれよ。未だ答えも尻切れ蜻蛉……」 「ふふ、〈酷〉《ひど》い男だと思わない?」 「……兄さん、これから第一回家庭内裁判を始めたいと思います。神妙にお縄へついてください」 「無実です、裁判長。それなら俺、素直に娼館通います」 「それはそれで〈有罪〉《ギルティ》、〈有罪〉《ギルティ》だよ!うわぁ、どうしようヴェティちゃん。また罪状が増えちゃったっ」 「寛大な心で一つ許してあげるとしましょう。男はどうしても下半身が第二の脳味噌なんだから」 違うっつの、選ぶ権利はあると言っている。まったく薄笑いなんぞ浮かべやがって、どうなってんだこいつの頭は。 これはもうさっさとルシードに引き渡してしまうべき問題だろう。そもそも俺にとって今はとっくに勤務時間外であり、延長料金でも貰わないと割に合わないのは確実で。 奴に押し付け、そしてすぐにこんな女とは縁を切ろう。出来るならもう一度、自分の手であの棺にぶち込んでやるべきだが…… いや、そんな風に最後まで関わろうという気も起きない。とにかく一刻も早く、俺はこいつとさよならすべきだ。 そう決めて、立ち上がればしかし…… 「…………」 そこで俺に向けて冷たく注がれているヴェンデッタの視線に気づく。 これまで向けていたものとは性質の違う、呆れ果てているかのような表情──んだよ、コラ。 「あなた、一体どういうつもりなのかしら」 「この状況下で、よくもそんな恥知らずな〈も〉《、》〈の〉《、》を〈晒〉《さら》していられるわね。女性二人を前にしてまったく大した厚顔だわ」 「は? おまえ、一体何を……」 言いながらヴェンデッタの視線を追い、俺は気づく。 その瞳の見据える先にあるのは確かな存在感。同時に、この場にはまったくもってそぐわない場違いな〈隆起〉《モノ》。 五体健康な男の生理現象──うん、ぶっちゃけいわゆる朝勃ちというやつがあったわけで。 「はわわ、わわわわぁ──」 「淑女に見せつけて、反応を楽しんでいるといったところかしら?なかなかいい趣味しているわね」 目が合った者を凍えさせるような、絶対零度の冷気を〈孕〉《はら》んだヴェンデッタの視線。ついでにチラチラと指の隙間から除き見ているミリィの視線。二人の目が俺の股間を射抜いている。 いや、別に意図して見せつけてるわけじゃねえぞ。つうかむしろ、むかついた。 「はん、これだから耳年増は困る。余裕の無いフリしなきゃ馬鹿にするのも出来ないってか? 見やがれ俺のビッグサイズを、そして〈慄〉《おのの》け、ひれ伏せや」 「へえ、ポー●ビ●ツの分際で勇敢なこと。へし折ってもいいかしらそれ」 「出来るのか、おまえに」 と、強気に言いつつ思わずキュッと玉が縮んだのは秘密だ。一歩後ずさりかけた足をどうにかこうにか叱責する。 おまえ、そういうこと真顔で言うなよ。冗談だか本気だか、ちっとも分かんねえんだから。 ヴェンデッタは呆れたように小さく息を吐いて、ミリィの方へと身を向けた。 「野卑な強姦魔と同居しているなんてミリィも毎日大変ね。さぞ苦労していることでしょう」 「そ、そんなことないよっ。何年も一緒に暮らしてきて、もう見慣れちゃってるし……」 頬を赤らめながら、ミリィは小声でそう口にする。見慣れてたのか、実は。 まあ確かに、朝起こされる過程で何度かそんなこともあった気がする。苦労かけてんだなぁ、と俺はいつものことながら済まない気持ちで一杯になってしまうのだった。 そして──無意識の忌避感に、俺はついぞ忘れてしまう。 あいつに〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈名〉《 、》〈前〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》にも関わらず、知古が如く気軽に呼ばれていたと言う事実を…… 忘れたまま、記憶の中から疑問は静かに抜け落ちた。そして思い出すことはなく、永遠にその機会を逃すのだった。 で、賑やかな商店通りに── 「できるだけ安いやつでいいからな。むしろ、その辺にあるボロ布でも充分なんじゃねえの」 「もう、兄さんったら駄目でしょ。そんなこと言っちゃ」 「じゃあ行こうか、ヴェティちゃん。どんなお洋服が好みとかある?」 「その格好のままだと、ちょっと目立っちゃうもんねぇ。あ、このお店なんて良さそう」 「んー。身体細いし、フリルの付いた服とか似合いそうだよねっ」 「……どうかしら、こんなもので」 「あー、可愛い! うぅ~、いいなぁ。女の子っぽいお洋服が着こなせて」 「それじゃ、次はこれ着てみてくれる?」 「がっつり試着もすんのな……」 「ふふ、女の子には当たり前。似合わないものを買って、家で後悔するなんて嫌じゃない」 「試着でいろんなお洋服を着られるのって楽しいものなんですー。ね?」 「そうね、悪い気分ではないわ」 「ふわぁ、ワンピースも似合うなぁ。さっきのとどっちがいいか迷うかも……」 ……そんなこんなで、付き合うことしばし。 「うん、やっぱりこれにしてよかった。とっても素敵」 買ったばかりの服に着替えたヴェンデッタは、見た目だけは普通の女に化けていた。あの異様な格好を改めるだけで、ずいぶんと印象ってのは変わるらしい。それがまた苛立たせる。 どうだっていいから一刻も早く放り出したいのに、ミリィと仲良くなってきてるのがまた〈癪〉《しゃく》だった。服まで揃えてやったんだから、ああもう、いいだろう。 「ヴェティちゃんお肌も白いし、本当にお人形さんみたいね。兄さんもそう思うでしょ?」 「どうかしら? 永遠の美少女を前にした気分は」 「つまりマネキンと同じなんだな。そりゃ結構」 永遠の美とか知らんわ。こいつの見てくれがどうであろうと、正直一切関心がない。 傍にいるというだけで、言い知れない不快感が胸の内に〈蟠〉《わだかま》っている。 とにかく── 「用が済んだなら、さっさと行くぞ」 ぶっきらぼうにそう告げて、この区画の端に位置するグランセニック商会へ足を向けた。 そこで、やっと帰れるんだ。 こんな死者の存在しない、当たり前の日常に。 「おーい。昨日の件、業務報告に来たぞ雇用主サマ」 声を張り上げ、今日も相変わらず立派なドアを叩き、屋敷の〈主〉《あるじ》を呼んで見たが返事はなく…… 再度ノックをしてみるも無反応。ドアに耳をそばだててみれば、どうやら留守ではないらしく中から気配は伝わってくる。 なら、いつまでもここで突っ立っていても仕方がないので、勝手に入らせてもらうことにした。 「よう、おはようルシード。ちょっと昨夜の仕事で困ったことができてよ。聞いてもらえる……と」 「はいッ。いや、それはですね──、私どもの方と致しましても、〈斯様〉《かよう》な事態までは想定をしておりませんで」 「ええ、ええ……存じ上げております。何卒そこはご〈寛恕〉《かんじょ》頂ければと……はい、まことに申しわけございませんッ──」 おお、取り込み中だったか。なんて思いきや、こちらを見て目を見開き。 「ゼファァァ、君という男は……!」 電話を切ったルシードは、つかつかと詰め寄ってきた。その目に浮かんでいるのは濃い疲労の色だが、はて、これはいったい何であろうかと。 小首をかしげた瞬間、溜まっていたらしき〈鬱憤〉《うっぷん》が大噴火した。 「ああもう、何を派手にやってくれてんだ!おかげでこっちは大変なんだぞ、分かっているのかいまったく」 「貨物車両に軍の戦車が一台おしゃか! 加えて、死体がごろごろ転がる!挙句の果てに死んだのは〈星辰奏者〉《エスペラント》と来たもんだって──何をどうすりゃそんな大立ち回りができるわけ!?」 「おかげでお偉いさんからの電話がひっきりなしだ。それが漏れなく圧力かけてくるっていうオマケ付き。知ってるよね、分かるよね、僕がそういう連中が心底マジに苦手だってのッ」 「あぁ、もうストレスで胃がやられそう……幼女のぽんぽん撫でたぁぁい……」 わー、すっげえ剣幕。そして最後は相変わらずのオチがつくのな。 まあ迷惑かけたのは分かるが、なるほど、だいたいの事情は把握できた。どうやらこいつは昨夜の一件について、〈各〉《、》〈方〉《、》〈面〉《、》からのお叱りを受けているというわけらしい。 「まあ、派手にやっちまったからな。実際……」 出した被害も相当なものだが、あまつさえ最重要であっただろう“荷物”が〈忽然〉《こつぜん》と姿を消しているのだから、責任者に電話が殺到するのも無理はない。 帝国軍部は言うに及ばず、他の貨物関係者や警備担当の遺族などなど。クレームを入れてくる連中は枚挙に暇がないことだろう。〈組合〉《ギルド》の元締めってのも苦労が多い立場なのだ。 ルシードの様子はかなり切羽詰まっており、それはこいつがどれだけ電話越しにネチネチやられたのかということを如実に物語っている。 よく見れば肌にもツヤがなく、目には涙すら浮かべていて……なんつうかその。 「ごめんね?」 「ごめんね、じゃすまないんだよゼファー! 謝罪で全てが解決するっていうのなら、どこの国にも憲法なんかいらないの!」 「ただ苦情を受けてるだけじゃなくて、被った損害の補償もしないといけないんだよ。なあ、いったい幾らになると思っているんだい? 君があと三回人生やり直しても稼げない額なんだよ?」 「ヒュー」 「ヒュー」 「じゃなぁぁあいッ!」 ……まずい、珍しくガチでお冠である。ルシードの癖に誤魔化されない。 「あのさぁ、そりゃ今回の仕事、それなりに荒れると踏んで君に回したのはこの僕だ。任命責任はあるし、尻拭いだって甘んじて受け持とうじゃないか」 「だけど、いくらなんでもこりゃあんまりだ。こっそり根回ししようにも限度ってもんを超えているよ」 「俺を切っちまおうってくらいには?」 「……ちょっと頭をよぎったくらいに」 それはやばいね。限界スレスレだったらしいが、どうやらギリギリ間に合った。 「それだけどな。事の過程はざっくり省くが、思いがけず〈大〉《 、》〈成〉《 、》〈功〉《 、》してしまったんだよ。おかげで今回、こうなった」 「────なんだって? ちょ、まさか」 「そのまさかだよ。コトの〈原〉《、》〈因〉《、》ってやつなんだが、部屋の前まで連れて来ている」 「喜べよルシード、帝国トップの機密だぜアレ」 「OH、なんてこったい……」 ため息を共に漏らしつつ、参ったのポーズで天井を仰ぐ。そうだよな、改めて自分自身を見返すとこういう反応にそりゃなるわ。釣った魚がデカすぎる。 本来はお茶を濁すだけのつもりが、ここまでくると〈何処〉《どこ》も〈彼処〉《かしこ》もそりゃ動く。そしてそんな劇薬じみたお宝なんて、俺もこいつも求めちゃいない。 つまりはやりすぎ。大きすぎる成果はある意味手ぶらより扱いに困るが、ここまで来ると致し方なし。 「腹括ろうぜ、お互いに」 「君が言うかね……まあいい、OK。正直納得し切れてないけれど、とりあえず覚悟は出来たよ」 「では、僕の〈被〉《こうむ》った多大なる損害──その元凶はいったいどれだい?」 問われ、待ってましたと入り口へ向けて振り向く。 「おい、お呼びだぞヴェンデッタ。屋敷の〈主〉《あるじ》がご指名だぜ」 「──はいはい。いま行くわ」 俺の呼びかけに、ドアの外で待機していたヴェンデッタがその姿を見せる。指差し、こいつ、とルシードに示した。 「────ッ」 瞬間、なぜか即座に目を見開き、身体を硬直させるルシード。周囲の空気が〈僅〉《わず》か一瞬の間に強烈な緊張を帯びる。 気のせいか、部屋の中に目も〈眩〉《くら》むような電光が走ったような気がしたが……何だろう、今の? こいつの表情は呆然そのもの。脂汗も額に伝っている。付き合いもそろそろ長いが、今まで見たこともない見事な間抜け面をさらしていた。 ──そして、フリーズ解除。夢から覚めたように俺を見る。 「ちちちちょ────っとよろしいかなゼファーくんッ」 鬼気迫る表情で接近してくる肩を掴み、部屋の端まで引っ張られた。痛えなおい、ていうかどうしたんだよいったい…… 「こ、この……花と見紛うほどに麗しい……」 「いや、美の女神が顕現したのかと思うほど……いやいや、月の涙と見間違うほど……いやいやいやいやいやいやいやいや」 「ともかく、なあおい、このお姫さまはいったい誰なのでござりましょうかッ!是非とも紹介お願いします!」 「……まさかそう来るかぁ」 ……うん、まさかまさかの展開に、僕ちん思わずドン引きである。このボンボン、アレに一目惚れしやがったらしい。 なんとも脅威的な趣味の悪さだ。驚きを通り越して絶望だよ。 「ねえねえ、僕たち親友だろ? 恋のキューピッドしてくれよぉぉん」 「ああもう顔近づけてくんな暑っ苦しい!」 完全に錯乱状態に陥っている馬鹿を強引に引きはがす。紹介も何も、〈最初〉《ハナ》から厄ネタと言ってるじゃねえか。 つうかマジで止めとけっておまえ、こいつはその辺歩いてる姉ちゃんとか幼女とは違うんだぞ? 洋服なんざ用意してやったせいで普通の女に見えてしまったということなら、俺にも責任が一端くらいはあるのかもしれないけどさ。違うからね、それ偽装。 とりあえず、言うこと言ったら渡して帰ると約束して、腹を括る。 「アレの名前はヴェンデッタ、ちなみに自称な。帝国軍部が秘密裏に搬送していた何らかの成果物で、外見は少女でも本当のところは〈胡散臭〉《うさんくさ》い」 「あれだけの損害が出た原因の一つだ。だからまあ、詳しい話はおまえがこれから……ってオイ」 などと説明していると、ルシードはすでにヴェンデッタへと近づいていた。 おい、何考えてんだ。余計なことすんじゃねえぞと……思ったときには既に遅く。 「しとどに濡れる青く可憐な一輪の〈薔薇〉《ばら》──おお、それは貴女のこと」 「瑞々しい未熟な果実よ、その白桃が如き美の極限で今日も私を狂わせるのか。幼き魔性の〈艶〉《つや》を前にこの身はもはや愛の奴隷」 「ゆえにどうかそのおみ足で、〈憐〉《あわ》れな奴隷に甘美な罰をお与えください……」 「ふみふみ、と」 ……炸裂した、一世一代の〈大勝負〉《プロポーズ》。 いろいろ訊きたいことはあるが──うん、駄目だ。ちょっと処理が追いつかん。 「ねえ兄さん。お金持ちの人ってなんだか、その……独特だよね」 「うん、初めて貧乏でよかったと思う」 ゆえにこうして二人、絶句の態で見ていることしかできないのだが。静かに黙祷を捧げながら、自慢げな馬鹿を可愛そうな目で観察する。 「初めまして、可憐な〈お嬢様〉《レディ》。僕はたった今より、貴女に仕えし愛の奴隷──その名もルシィィィド・グランセニック!」 「凛とした意志を感じさせる立ち居振る舞い。おぉ、まるで女神が気紛れで迷い込まれたかのようだ」 「端的に言って、超勃起します──!」 ──台無しだッ。 「ふうん……それで、あなた私に〈何〉《、》〈を〉《、》求めているのかしら?」 「もし許していただけるなら、どうか甘美な罰を頂ければと。具体的には背中に腰掛けてもらえたり、男のデリケートな部分を痛気持ちいい加減でおしおきしてもらえれば」 「ああ、あなたの体重で圧迫されたらどれほどの恍惚となりましょうやッ」 き、生粋の変態だ……ッ。 おい、誰か憲兵呼んで来い。ちょっとレベル高すぎんぞ。 気づけば、ヴェンデッタの口元が嘲笑の形に歪んでいた。それはそれは、まるで不出来な家畜を見るような、形容しがたい表情で。 「──まったく」 「本当、どうしようもない豚ね。初対面の淑女にそんなことを頼むだなんて、どういう神経をしていたら口にできるのかしら」 「ほうら、愛してほしくば鳴いてご覧なさい。卑しく鼻をひくつかせて、人の尊厳を捨ててみれば考えてあげてもいいけど」 「ぶ、ぶひぃっ」 「うわぁ」 〈躊躇〉《ちゅうちょ》ねえ──こいつ、ノータイムでやりやがった。 〈嗚咽〉《おえつ》とも〈慙愧〉《ざんき》とも取れる嘆きを漏らすその姿に、今や戦慄の感情さえ湧き上がってきた。 ちょっと嬉しそうなのがまた、俺たちの正気をがりがり削っていきやがる。 そして、そんな無様な〈雄豚〉《ルシード》に対し、〈ご主人様〉《ヴェンデッタ》は優雅に一歩近づいて。 「その従順さに免じて、今日は特別よ。あなたに情けをかけてあげる」 「ほら、これで満足かしら?」 「お、おうっふぅ……!!」 自らの望み通り、愛しの女神をその背に乗せて随喜の声を上げる変態。ドMにしてロリコンという深い業が満たされた、記念すべき瞬間が目の前で展開している。 〈勿論〉《もちろん》、見たくなんて欠片もないのは置いといて。 「こ、この背に直に感じられる貴女の温もり、そして柔らかさ……」 「加えて僕の鼻孔に届く……いと芳しき乙女の芳香がこのまま正気でいることを赦さないのか──くぅッ」 「己が身体をもって、女神の休息を支える幸せ……〈嗚呼〉《ああ》、言葉にできない。生きてて良かった。あなたに恋をした花よォォォ!」 「……ねえ、兄さん。恋っていったい何なのかなぁ」 「たぶんあれより甘酸っぱくて、純粋で、キラキラ光って、微笑ましくなるものじゃないかな」 要するに、断じてアレじゃねえってこと。あいつらは思春期の少年少女に謝罪すべきだ。 やはり人間、全方位に優れているのを目指すべきだな。金や家柄があったとしても性癖に欠陥あればあんな様になるのだから、うん。 「んはぁ、はぁ……はぁ……」 「あ、ありがとう、ございまし……た──」 そしてついに奴の秘めたアガペーが満足したのか。尻を一叩きされた〈途端〉《とたん》、アホはその場に〈頽〉《くずお》れた。そのまま起き上がってこなくていいぞ、もう二度と。 まるで路傍の塵をみるような視線を最後に向けて、ヴェンデッタは俺のもとへと戻って来る。 「私には理解ができないけれど、あなたもこういうのが良いのかしら。ねえ?」 全力で勘弁をと、手を×の字に組んでノーサンキュー。だからミリィもそんな目を向けないでほしい。 ……で、だ。 こっちはいい加減元の話に戻りたいところだったが、当の雇用主は行為の余韻に浸って未だヒクヒクと身を震わせている。マジで終わってるなこいつ。 正直触りたくないが、起こすべきだろうから……仕方ない。 「ちぇりゃァ、金的ィィッ!」 「──コッカケッ!?」 そして、足に伝わる何ともいえない肉の感触……局部が仮借なく踏みにじられたことにより、苦痛の雷鳴が奴の身体を貫いた。 ああ、なんて嫌な足触りだろうか……うぉえっぷ。 「く、あ……オォォ、ああああぁぁぁぁ……」 「ちょっ、君、何やってんのゼファー……」 「いや、好きなんだろ? こういうプレイ」 「男に踏まれたところで嬉しくもなんともないよ! まったく何かね、紳士を馬鹿にするんじゃないッ」 おまえ、ちょっと帝国中の紳士に土下座してこい。 侮蔑の目を向けるも、きょとんとする仕草にイラッと来たが。ともあれ多少なれども正気に戻ったらしく、本題に入らせてもらうとしよう。 股間を擦っているこいつの肩を掴み、話の内容がミリィに聞こえないよう数歩離れる。 「〈あ〉《、》〈い〉《、》〈つ〉《、》をどうにかしてくれねえか。俺の雇用契約は昨日の夜でいったん終わり、そうだろう」 やむにやまれぬ業務上の事情があって、貨物の中からわざわざ家に連れて帰った。なら後は〈管理責任者〉《ルシード》に任せるのが妥当な措置だ。 アレはやばい。分かるんだよ──俺には少々荷が重い。 昨夜のターミナルで経験した一連の流れ、あれは思い返しても異常だ。戦闘の激しさもさることながら、その背後には軍部絡みの事情が存在しているのが実にやばい。 ただの脱走兵が背負えるようなものじゃなく、すいませんねと戻すには既に一晩。もう遅い。 その辺を〈一頻〉《ひとしき》り話したことでようやくルシードも、まともな表情に戻ってきた。思考回路をフル回転させながら考えつつ口を開く。 「うん、現段階ではちょっと分からないことが多すぎるね」 「まずお嬢さん……レディ・ヴェンデッタは一体何者なのか。こんなうら若き女性が軍事機密という時点でも不可解だし、護衛はしかもかの天秤。キナ臭いにも程がある」 「何かそっちで心当たりは?」 「ないね、どれも真実初耳だ。むしろ心底参ってる。……首を突っ込むべきじゃなかったかもと」 「今更軍に返すことも、放り出すのも悪手だろうね。警戒が密になっているから恐らくすぐに足が着くよ。何より僕は個人的に反対だし……」 と、変態は一瞬だけ表情を緩ませてから、キリリと戻し。 「連中に敵視なんてされようものなら呑気で怠惰な生活もあえなくお終い。……僕らは揃ってしょっ引かれ、セントラルで尋問フルコースってところじゃない?」 「なんて、君ならそこんところの事情、僕より詳しいはずだろう?」 まあなと、適当な返事を口にして俺は黙考する。やはり差し当たっての問題はあいつの処遇に尽きるらしい。 現場に証拠はなるべく残さないようにした。〈目〉《、》〈撃〉《、》〈者〉《、》も残らず始末した。 俺は公的に〈死者〉《MIA》であり、そしてゼファーという〈星辰奏者〉《エスペラント》を知る人間も五年前に全滅しているものだから、その方向だと恐らく足は着かないはず…… だが昨夜、商会の関係者が出入りしたという記録は当然のことながら残っていた。 ならばいずれはルシードのもとへ軍が来て事情説明を求めることだろう。少なくとも、すべての関係者に対してそれぞれ一通りは話を聞かれるはずだ。 こいつは責任者として俺のやらかしたヘマを隠蔽しなければならず、そこで下手を打ったなら、冗談抜きで最悪の結果になるのは日の目を見るより明らかだろう。 普段は一緒に馬鹿やっている仲だが、実際には頭の回るこいつのこと。それなりの逃げ道を用意してあるとしても旗色は良いものじゃない。 何せ犯人である証拠として、〈強奪品〉《ヴェンデッタ》を連れているのだ。あれが傍にいる限り疑いの目は避けられないか……疫病神め。 「まったく、少しは反省しているのかいゼファー。今朝方からひっきりなしに鳴り響く電話に対応してきた苦労は、こんなものじゃないんだよ?」 「あー、手間かけさせたな」 「うむ、分かればよろしい。とまあ言ったところで、こっちも君が意味もなく大立ち回りを演じたなんて思っちゃいないさ」 「理由があっての行動だろう? なら面倒だが後は僕の領分だ。なあに、聞く限り決定的なしくじりはやらかしていないみたいだし、追求の矛先を〈躱〉《かわ》すことはどうにでもなる」 「ただ、彼女がいったい何者か。そして背後関係を洗うところまでは恐らく手が回らない」 「本人が語ってくれるならいいんだけど……まあ長期戦になるかもね」 だな、と〈頷〉《うなず》き首肯する。ヴェンデッタがどのくらい軍と絡んでいるのかは知らないが、こちらからそのヒントを探ろうとするのは相当骨が折れる作業だろう。 あいつには説明しようという意思が無い──いいや、自分自身そのものをどこか軽視している節さえある。 なのでまずは時間稼ぎに終始すべしと。俺たちの認識に一応の結論は出た。それを告げるべく、ルシードがヴェンデッタに対して口を開く。 「〈淑女〉《レディ》の目の前で内緒話とは失礼をしたね。この非礼、寛大な心をもってどうかお許しを」 「ともあれ事情は聞かせてもらいました。遠慮なく、しばらくの間この屋敷に住まえばよろしいかと。幸いにして部屋は幾つも空いていますから案内しようと思うのですが──」 「いいえ、世話にはならないわ」 「そこで巡るめく耽美な愛欲の日々を──って、へ?」 ヒートアップする寸前、思わぬ一言に思わず聞き返す御曹司。予想外の返答に対し、俺も一瞬虚を突かれてしまう。 そんな反応になど欠片も〈斟酌〉《しんしゃく》することもなく、ヴェンデッタは泰然した様子を崩さず流し目をこちらへ向けた。 ……実に、実に嫌な予感がしているのはきっと気のせいなんかじゃなく。 「難儀な性癖に付き合わされるより、素直な女の子と暮らす方が素敵とは思わない? ねえ、ミリィ」 「ヴェティちゃん、それって──」 「できればお世話になりたいんだけど、どうかしら?」 「はい黙れ。そして死ね。ふざけろボケが何言ってんだ」 論外だと割って入る。コレが転がり込んでくるなんぞまっぴら御免だというのに。 「あら、家主としては不服?」 「ぶちまけていいのなら言ってやる。勝手に話進めてんじゃねえ」 「おまえはここだ。絶対来るな。顔を見せるな。嫌なんだよ」 「えらく嫌われたものね。けど私を〈攫〉《さら》ってそんな言い分、通ると思っているのかしら」 「それに、あなたも分かっているんでしょう。仮に私と離れたところで今更安心できないということを。臆病で疑り深い性根のくせに、ふふ」 ぎり、と噛み締めた歯が鳴った。非常に腹が立つものの正しい指摘にぐうの音も出ない。実際、確かにそうだから。 俺はこいつが嫌いだが、目を離すことに関して、もっと怖いと思っている。 歩く爆弾を放置している気分になり、知らぬ場所で何かとんでもないことを起こされるという……説明できない不安があった。 傍に置くのは絶対嫌で──なのに動向を把握しなくば、恐ろしくて眠れない。本当に、最低のジレンマだ。 「この足で軍部に駆け込まれても困るでしょうしね。いい落としどころだと思うわよ」 「私が真実をそのまま証言したら、困るのはあなたじゃなくって?」 「それでもっつってんだろ……」 だから葛藤してるんだ。噛み締めた歯が苛立ちに鳴る。余裕ぶりやがって、顔を潰して皮を全部削いでやれば、どれほどスッキリするだろうか…… ヴェンデッタはもはや話はお終いといった雰囲気だ。まるで俺を理解しているかのような態度も、その微笑む様にすら憎悪が募る。 そして深く、恐怖が〈疼〉《うず》いて止まらない。 どうすればいいのか、まったく何も分からなくて…… 「ゼファー……」 その時、幽鬼のような表情を浮かべ、ゆらりとルシードが近寄ってきた。そのまま胸ぐらに手をかけて── 「うふふふ、あははははは……うぅ、おのれぇ……」 「それが彼女の望みならば、我が女神は一時君に預け……くぅぅ」 「……泣くほどなんだ」 その頬には〈滂沱〉《ぼうだ》の涙が流れていた。言ってることと表情がこれだけ合っていない奴も珍しいが、未練の感情しかないぞおまえ。 「……けどね、実際それ以外ないと思うのさ。事の次第が収まるまでこの館には人の出入りが多くなる」 「ならば当然、〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》?」 軍の高官とはち合うかもしれない以上、遠ざけておいた方がいいってか? だから疑いの目を避ける意味でも同居しろ? 俺は一応戦闘力も備えているから、ある程度の脅威を始末することもできるからって、確かに理屈としては最善かもしらんがよ。 心情的に認められないのも分かってほしいし、それ以上に、先立つ問題があるだろうが。 「金がねえよ。だから使用人とか小間使いの所にやれ。もう一人分の余裕とかうちには欠片もございません」 「ふむふむ、つまり報酬があればいいわけだ」 「ならば彼女の生活費、及びそれに準ずる費用──すべてこの僕が即金で支払おう」 「まずは、このくらいあれば当面足りると思うがどうだい?」 「はぅあッ──」 提示された小切手の額を見た〈途端〉《とたん》、俺の脳内がスパークした。 思わず足が崩れそうになるそれは、現役時代も見たことない素晴らしい金額だった。面倒料も込みということなんだろうが、それにしたって有り得ない。 思わずルシードの正気を〈伺〉《うかが》えば朗らかに笑っておられる。今からヴェンデッタを受け取ることについて、どうやら〈微塵〉《みじん》も疑っていない。 ちくしょう、こいつめみくびりやがって。俺がむざむざ、こんなもので── 「謹んで拝命させていただきます」 「うん、よろしい」 契約成立。ああ、かくも金とは恐ろしい。 豹変? 無節操? 言わば言え。世の中金がなきゃ所詮なんもできやしないのだ。愛や友情だって、嘘でもいいなら買えるんだぞー。すごいんだぞー。 ともかくリスクは吹っ飛んだ。いいぞ、ようやく俺にも運が向いてきたんじゃなかろうか……ッ。 「ようやく話は〈纏〉《まと》まったようね」 「応とも、札束に感謝するがいいわ。ほーれ、この額がおまえの値段だ。参ったか」 「兄さん、あとでお叱りタイムです」 などと〈喧々諤々〉《けんけんがくがく》しつつ、大事に大事に小切手をしまう。色々と〈憂鬱〉《ゆううつ》は待っているかもしれんが、今この時はなんとも上機嫌になれた。 そして、長々とこの場に留まるわけにもいかないだろう。使用人が来客を知らせるノックを告げ、どこぞの権力者がやって来たのを伝えていた。 見つかる前にさっさと出ていく、その前に── 「では、我が麗しの女神よ。しばしの別れとなりますが、再び会える日を一日千秋と待ち焦がれましょう」 「その時まで、どうかご健勝であることを」 「それは無理ね。つまりあなた、〈私〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》?」 未練たらたらな男の言葉に──返す問いは、まるで魔女のような妖艶さで。 背筋を伝うどうしようもない寒気。こいつから消えない、生理的な域での不快感が一瞬だけ濃くなった。 それは例えるならば、なんの前触れもなく幼子の死骸を見せられたかのような気持ち悪さに他ならず…… これまで脳天気に振る舞ってきたルシードにしても、問いかけられた言葉は意外だったのだろう。一瞬黙り込む様子を見せながらも、すぐに再び口を開く。 「殺し文句という奴ならば、いいえ滅相もない。僕にはそんな度胸などありませんから」 「愛を〈囁〉《ささや》いているのです。振り向かせたいと願うのです。何故かあなたの冷たさは、僕にとって懐かしい」 「つまりは守ると?」 「これでも一応、男です。普段は受ける側ですが、時には攻めにも転じますよ」 相も変わらず浮ついたことを言ってはいるものの、その目は真剣で──苦い後悔に、濡れているようにも見えて。 真面目な〈表情〉《ツラ》もできるんじゃねえか、などとしょうもない茶化しを入れる気にすらならない。そう感じさせる表情だった。 ド変態でも、馬鹿でも阿呆でも、本気なのは間違いなく。ゆえにヴェンデッタは寂し気に笑み、俺の方を振り向いた。 「だそうよ──あなたは、どう思っているの?」 「私をその手にかけてくれるのかしら、ゼファー」 などと、問いかけてくるが──そんなの。 「──いつでもいいぜ」 わざわざ隠しておくほどでもない殺意、嫌気をたった一人に照射する。他の誰も気づかない、剣呑な本心をそれを聞かされたヴェンデッタはほころぶように表情を緩めた。 殺すという俺の言葉に対し、どこかほっとしたかのように── 「ああ、それなら安心ね」 「その時を目指して激しく琴を弾きなさい。待っているわよ、吟遊詩人」 穏やかなヴェンデッタの表情に鼓動が一つ跳ねる。不快感と同時に、俺の心にもう一つの漣が波紋をそっと広げていた。 俺を慈しむような、そして全てを包み込んでくるような錯覚に…… 〈眩暈〉《めまい》にも似た戸惑いを、どうしても感じてしまうのだった。 「遅れてすみません、師匠!」 ルシードの屋敷から出たときには、すでに日が高く昇っていた。俺たちはその足でジン爺の〈工房〉《アトリエ》へと足を運ぶ。 転がり込むように入るミリィに対し、一方のジン爺はといえば弟子の様子にもまるで頓着する気配がなく、いつも通りの渋面で黙々と仕事に打ち込んでいた。 まあ一応連絡は入れておいたのだし、そこまでミリィが恐縮することもないだろう。この爺さんが口をきかないのは別に怒ってるからとかじゃなく、単に偏屈な性格してるってだけだろうから。 「遅れようが構いなどするものかよ。来たのならさっさと準備しろ」 「はいっ!」 突き放しているようにも聞こえる言葉にいちいちヘコみはすることなく、元気よく返事をするのが実に〈眩〉《まぶ》しい。 もうすっかり師の対応に慣れているというか、〈逞〉《たくま》しく育ったというか。 「珍しく優しいじゃん。雷の一つも落とさないなんてよ」 「どうせまたぞろ、貴様が連れ回したのだろう。身内のみならず儂にまで迷惑を掛けていることを少しは自覚しろ、〈呆気〉《ぼけ》が」 「で、一体何をしていた」 「〈糞〉《くそ》みたいな厄介事を一つ片付け、代わりにガッポリ、俺金持ちのウッハウハ」 「要は阿呆坊主の道楽絡みか。〈雁首〉《がんくび》揃えて暇なこと──」 と、そこで初めて、ジン爺は戸口に立っているヴェンデッタの存在に気づいた。 そして、その目が開かれる。 「あれはまさか──いいや、待て」 「おい、貴様。いったいどういうことだこれは──何の冗談が起きている」 「……はぁ? 何が」 首を〈傾〉《かし》げるが反応はなかった。確認するように俺とあいつを見比べる爺さんの声は、ひたすら固い。 心なしか眼光も先ほどより険しさを増している気がして、空気も重く、息苦しくなっていた。 そして深い嘆息を吐き出した後、今度は眉間をもんでいる。 何やらまったく分からないが、どうやら呆れているようだ。 「無自覚か……信じられんぞ、疫病神め」 「ここに連れて来る意味が全く分からん。連中の差し金ならば、いよいよもって馬鹿馬鹿しい」 「いきなり罵倒されてもな。つうか俺なんで絡まれてんだよ」 「……分からんか。ならばいい、〈耄碌〉《もうろく》したわ。聞き流せ」 「そして喜べ、恐らくおまえに〈資〉《 、》〈格〉《 、》はない」 ……資格? 吐き捨てるように呟いて、ジン爺は再び自分の作業に戻る。 そして工具を弄りながら、心底不愉快そうに舌打ちをこぼしていた。 怒りか、苛立ちか、ともかく何かが気に障ったのだろう。作業体勢を整えたミリィに向けて、ぶっきらぼうにただ一言。 「──帰れ、今日の仕事は結構だ」 「え? でも……」 唐突にそう告げられたミリィは、目をぱちくりさせて師匠を見た。まだ作業を始めてすらいないのに、どこか拍子抜けしたような様子だが。 「〈あ〉《、》〈れ〉《、》の面倒でも見てやれ。そして、今後二度と此処の敷居を〈跨〉《また》がせるな」 ヴェンデッタに対して露骨に表わされた不快感にミリィは戸惑うが、爺はすでに手元の作業に集中していてとりつく島もない。 「そして問おうか、〈黄泉醜女〉《ヨモツシコメ》。何ゆえそこの凡愚を選んだ?」 「答えは〈勿論〉《もちろん》、未練から。あなたの〈鉄腕〉《うで》とは違うのよ」 「く、ハハ──」 それがまた、痛烈な皮肉を受けたかのように、呵々と自嘲し。 「〈業腹〉《ごうはら》よ。これだから、人生ままならん」 言葉とは裏腹に満足したような一言を残し、そしてそれきり背を向けた。 俺とミリィは視線を交わすが、深い事情を訊く術は思い浮かばず── 半ば追い出されるような形で、三人共に〈工房〉《アトリエ》を後にせざるを得なかった。 で、結果としてたむろするならここに限るというわけで…… 「それにしても、どうしたのかなぁ。今日の師匠」 注文が来るまでの間、妹はそう言って溜め息を吐いた。珍しい師匠の様子に心配を隠せないようだ。 「たしかに普段から無愛想な人だけど、あんな感じは初めてだったなぁ」 「まあ、たまたま虫の居所が悪かったんだろ」 あるいは、俺と女の趣味が同じであったか。ヴェンデッタを見て気分悪くなったり諦めたように笑った辺り、こちらとしては今より仲良くなれそうである。 だがまあ、それを言うのは〈憚〉《はばか》られるため…… 「偏屈な爺さんだし、そんなこともあるわな。明日になってみれば、ころっと忘れてまた偉そうにしてるさ」 そうフォローを入れておいた。気遣いはもっともではあるのだが、ここで俺たちが考えたところで実際のところは分からない。 互いに深い部分まで入り込まないのを暗黙の了解としてきた分、いまさらそれを破るつもりはないのだ。 だったら、気楽にしていた方がいいというものだろう。ただでさえ面倒事が転がり込むことになって、これからいろいろと忙しくなるのだ。余計な心配で神経磨り減らしても仕方がない。 答えの出ない思考を〈弄〉《もてあそ》んでいたところで、飯がまずくなるだけ。 それよりも、とりあえずのところ俺には為すべきことがあった。 「おーい、おっちゃん」 席を立ち、厨房へと近寄っていく。ちょうど俺たちの注文を作り終えたところだったらしい。 「おう、どうした。飯なら今から持って行かせるぞ」 「ほい、これ。稼いできたぜ、今までのツケ分」 「なん、だと……?」 そう言って、ルシードに貰った今回の報酬で溜まりに溜まったツケをドンと支払った。 そして自慢げにどうよとふんぞり返るも、正気を疑うような目で見られる始末。俺の評価が分かるというものである。 「信じられん……いいのか、おまえこんなに払っちまって。なんか裏でヤバい仕事でもやってるんじゃないだろうな」 「大丈夫。健全なお仕事だった、よ?」 「疑問形じゃねえか」 即座に否定できないのが辛いところではあるが、そこは目をつぶってほしい。 座席に戻ってみると、ちょうどティナとティセが注文を運んできたところだった。ほかほかと上がっている湯気が食欲を刺激する。 「おー、ようやくツケ払ってくれたんですねゼファーさん。今後もこんな風に、ニコニコ現金払いでお願いしますよ?」 「うちの経営が傾きでもしようものなら、わたしたち二人とも路頭に迷っちゃうんですからねっ」 「そうなったら恨みますので、どうかご覚悟くださいね」 怖いこと言いやがる……〈囂〉《かしま》しいウェイトレスどもの声に耳を塞いで椅子に座った。 厨房に行っている間、こいつらがヴェンデッタも交えていつもの調子で世間話に興じているのが聞こえてきた。取り澄ました様子は変わらないものの、件の問題人物は意外と普通の様子で双子に接している。 ミリィとの関係を見ても思ったのだが、こいつは別に誰彼構わず毒を吐いたりするわけではないようだ。 つまりは、理由もないまま棘があるのは、俺だけだということになる。 「あら、お利口な犬ね。借金の返済を覚えたなんて、賢いわ。いつもなら踏み倒すところじゃなくて?」 ……このように。 「それにしても、お二人ってどういう関係なんです?そんなに昔からお付き合いされてた風にも見えないし」 「〈酒場〉《バー》でナンパキメて、その勢いで自宅にたらし込んじゃったってとこですか。やーん、不潔ぅ」 小悪魔ウェイトレスどもの言葉を受けて、真意を〈窺〉《うかが》うようにこっちを見てくるミリィ。心配いらんぞ我が妹よ。お兄ちゃんは今も変わらず、巻き込まれただけの哀れな小市民でございます。 「おまえら適当こいてんなよ。そもそも俺はこんな女なんぞタイプでもなんでもねえし、頼まれたってお断りだ」 「ややっ、今タイプとおっしゃいましたね? これは聞き捨てならんですよ」 「無表情クール系のヴェンデッタさんが好みではない……要するにセクシーなお姉さんがいいと?」 「すいません、ミルク一つ追加でっ……!」 「んん~? ミリィさん、ひょっとして気にしてますか? 牛乳たくさん飲んで、ばいんばいんのナイスバディを手に入れようとか目論んでたりしてっ」 「そ、そんなこと考えてないですよ。ええ、ほんのちょっぴりしか」 頑張れ、押し切るんだ我が妹よ。君だけはこいつらに毒されないでくれ。癒し要素っていうのも大事だと思うんだよ、俺は。 「うわ、なんですかその不満気な顔。そもそもゼファーさんが〈曖昧〉《あいまい》に誤魔化そうとしてるから、わたしたちとしては気になっちゃうんじゃないですか」 「あー、はいはい。んじゃ俺、胸が1メートル超えてるような姉ちゃんが好みでーす。これでいいか?」 「ねえオーナー、胸囲ってどれくらいありますー?」 「125だ」 乗っかってくるなよ、おっちゃん。ってかなんで無駄にいい笑顔してんだ、ときめけと言うのか。 「好みとかその類のものを、ゼファーが持っているとは思えないわね。相手よりもまず己の欲求に忠実なのよ、この子は」 「だからほんの少し誘惑されたら流される。実際、押し切られたことばかりでしょう? そして身体へズルズルと……」 「〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》みたいにね。違う?」 「な、──てめッ」 「ふえええええぇぇぇぇっ!?」 何を、平然と、あらぬ事を宣いやがるかこのクソ女はッ。 ティナとティセはどっちも生温かい目で俺を見つめ、ミリィに至ってはほとんど泣き出さんばかりの表情を浮かべている。つうかもう冗談にすらなってねえ。 「なんだ、やっぱりそうなんじゃないですか。隠してる方がこういうのって詮索されちゃうものですよ?」 「臭う、臭うぞ~。ちょっと人には言えないレベルの黒歴史が隠されていると見た」 「兄さん、後でお話があります」 「ふふ、まずは自分の下半身を律することね。犬は〈躾〉《しつけ》が大事だもの」 「解せぬ」 一致団結した女共に四方から責められて、思わず深く嘆息した。それを見ながら元凶の女はどこか可笑しそうに表情をそっと緩めている。 本当に、こいつが来てからまったく〈碌〉《ろく》なことがない。 本当に、本当に…… こいつの笑顔が、気に入らない──  大虐殺の以前と以後──その日を境に軍は一度死に、そして大きく生まれ変わった。  まず第一に、勢力争いの決着による評価基準の変化が挙げられるだろう。  当時の上層部、血統派に属する高官は当時魔星の襲撃区域に居合わせておりそのほとんどが故人となった。それが政情不安を加速させるも、改革派筆頭であるヴァルゼライドが総統の座に納まったことで決着を迎えたのが一つ。  これ以降、英雄の意向により階級から生まれや育ち……血の尊さといった先天的評価のほとんどが、さして力を持たなくなった。  つまりは徹底した能力主義。血統によって保証されていた地位はその大半を撤廃されたというわけだ。  どのような名家に生まれようとも関係なく、ただ武功によってのみ隊章の色が決定される。当たり前だが、それはとても難しいこと。  実力がそのまま序列へと反映される極めてシンプルな構図は、あろうことか〈日系貴種〉《アマツ》の姓を持つ者らにも当て〈嵌〉《は》められた。これは周辺国にも類を見ない、抜本的改革の一つと言っていい。  どうあっても人は生来の特権を優先してしまう嫌いがあるのに、今やそれはまったく用を成しはしない。  誤魔化しは許さん。搾取略奪、横暴もない。  理を持って行動すべし帝国兵、民の明日と未来へ尽くせ──と。  徹底された成果主義の下、今の軍で幅を利かせるのは総じて強者。先天的な才能があれどそれをたゆまず磨いてきた者たちが、順当な地位についているそれは喜ぶべきことなのだろう。  そして、それは自分──チトセ・朧・アマツについても例外はない。  力に見合った評価を受けることに、否はなく。  それら体制変化をずっと待ち望んできたというのに。  心は、今も焼かれている。  あの日から何一つ、変わることなく、そうずっと。  五年前に、敗北を喫した瞬間から── 「あぁ、あああぁぁ…… 嘘、なんで、どうしてこんな──」  神経を直接〈蹂躙〉《じゅうりん》されるかのような激痛に、脳髄の奧まで貫かれた。  視界が一面の赤に染まり、四肢はもう動かない。  そしてようやく理解したのだ。自分は怪物に敗けたのだと。  何が正義の〈裁剣〉《アストレア》か、何が不滅の天秤か。根本から絶ち折られたまま、敗亡の闇に叩き落とされたのを覚えていた。  そう、あの日いた怪物は〈二〉《 、》〈体〉《 、》〈の〉《 、》〈魔〉《 、》〈星〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  自分の瞳を〈抉〉《えぐ》ったのは、人知れず存在していたもう一体だ。  〈颶風〉《ぐふう》と化した悪魔はそのままとどめを刺す事無く、追い〈縋〉《すが》ることを許さぬ速さで消え去った。消えない傷を刻まれたまま、喪失感と生き恥だけがこの手にそっと残される。  伸ばした手には何も掴めない。敗者はただ失うだけ。  ゆえに、ああ、彼もまた── 「や、やだ。駄目、待ってよお願いっ……」  去っていく、走っていく──答えはもう返ってこない。 「約束、したじゃないの……」  そのはずだったが、二人の道は別たれた。  彼はもはや決めたのだ。この地獄を生き延びるために。そして、小さな少女を守るために、自分のすべてを捨てるのだと。  臆病者が振り絞った勇気の結果を、〈憐〉《あわ》れな女は動かない身体で眺める。  せめて、せめて、抱き締めてほしい。  なのにあなたの温もりは、もう私のものではなかったなんて…… 「わ、私……素直に、なるから── 本当の気持ちを、伝えたいから……〈大和様〉《カミサマ》、どうか、もう一度だけ……」  願って、祈り、願って、祈り── それでも想いはついぞ叶わず。  魔星の生み出す破壊の炎へ男は〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく身を投じた。  次の刹那、その姿形を爆炎と破壊が覆っていく。敬愛する祖父に続いてまた一つ、指先から大好きな星がすり抜けてしまい── 「行か、ないで……ゼファー、……────」  そして、彼は死んでしまった。  会う方法は、二度とない。  押し寄せる絶望と激痛に喘ぎながら、涙と共に私は意識を失ったのだ。  ……それからも、無情に時は流れゆく。  死すべき場所を失い、何の因果か生き延びた自分は今も以前となんら変わらず、アストレアの名を冠しながら部隊長を務めている。  復活へ向け、再編されていく新たな〈裁剣天秤〉《ライブラ》。  生まれ変わる〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》。  ヴァルゼライド総統の下で帝国軍はより雄々しくなっていく。  それらは実に、そう実に、一将校としては喜ばしく……私にとってはどこか色あせて見えるものだったから。  実際のところ、生存後は抜け殻だった時期もある。  なぜなら彼はもういない。再建途上の軍部で覇気もなく立ち回っていたことは否めないだろう。  一度死んでしまった者は、その瞬間に〈永劫〉《えいごう》縛られてしまうのだ。たとえ身体が生きてようと、志を取り戻した今になっても魂は五年前に取り残されたままなのだと、自分は確かに感じていた。  だが、しかし──運命が再び眼前へと訪れる。  数年越しの時を経て、ついに失った輝きが生きていたと知るのだった。  目の前でどこか所在なさそうにしているのは商国の御曹司、ルシード・グランセニック。  帝国の商業区画における〈組合〉《ギルド》の元締め。上がってくる報告によれば毎月優秀な数字を弾き出している優男を前に、呼び出しを送った意図を切り出す。 「ご足労願って申し訳ないな、御曹司殿。 今日確認しておきたい内容は、前日の〈駅舎〉《ターミナル》で起こった事件についてだ」 「貨物コンテナ、戦車、そして我が天秤からは強化兵が三人も…… これがあの日に発生した被害だが、中々だとは思わないか?」  問いかけに対し、彼は何も動じなかった。商人らしい内心を〈伺〉《うかが》わせない、〈曖昧〉《あいまい》な笑みを〈零〉《こぼ》す。 「いやはや……なんと言いますか、物騒なことですよ。   被害額は想像するだけで〈眩暈〉《めまい》がしますし、こちらとしてもあらぬ疑いでてんてこ舞いです。亡くなられた〈星辰奏者〉《エスペラント》の方には悪いですが、〈大和様〉《カミ》に祈りたいというところでしょうか」 「うちにも一人、欠員が出てしまいましてね。まったく補償にお金がかかる」 「資料によればアラン・ハワードという商会員だったか? 降ろし先で不幸とは、なるほどそいつも運がない。  死体も上がらないとなれば供養もできんのだからな」 「ええ、面倒なことです」  ……簡潔に、そして痛み入るように。  目の前の御曹司殿はさして表情を変えることなく、実に他所行きめいた口調で述懐している。  それはそれは、見事なものだ。〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》人間の冥福を祈る姿が、実に様になっている。 「ああ、ちなみに何か新しく目撃情報は入っていませんかね?   そちらで保護されたならお礼をしなくばなりませんし、我々の面子も立たない。差し支えなければお教え願うとありがたいのですが、どうでしょうか」 「ふむ……」  そして胆力もある──成程、こんな風貌でもさすがは〈組合〉《ギルド》の長といったところか。下手も打たずスタンスも一貫していた。  自らは〈尻尾〉《しっぽ》を〈晒〉《さら》さず、まず〈言質〉《げんち》を引き出してから対応しようという態度はうまい。それは単に情報を提供しに来たのではないという、彼の立ち位置を〈窺〉《うかが》わせる立ち回りだ。  つまりは協力的、かつ対等という駆け引き。表面上は謙ってはいるものの、己の所属に対する〈不利益〉《リスク》を上手に避けつつ、こちらにも出来ることはないかと言っている。  何より、こちらに選択権を与えた上でというのが巧い。一見無抵抗に見せかけたそれは効果的で、評価に値する行動だ;ちた。  ゆえ正直に言って、心象としては悪くない。話をするのは初めてだが、個人的には芯の通った人間は嫌いじゃないのだ。  これならば帝都でも長生きできるだろう。  欲をかいた〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈先〉《 、》〈代〉《 、》みたいには、そうなるまい。 「いや──すまなかったな。報告書を提出いただき感謝するよ。  ともあれ、損害の責任は護衛を成せなかったこちらにある。その屈辱たるや〈慙愧〉《ざんき》の念に堪えん。そちらと同じくこちらも面子の商売でな」 「馬鹿はすぐ調子に乗りますからね。一度でも失敗すればこちらが劣化したものと思いたがる」 「まったくだ。しかし、大概はそういうものさ。  弘法に筆の誤りは許されない。絶対無敵の幻想を、敵も味方も求めているんだよ。そう思えば楽だから」 「ともあれ、話が早くて助かった。そちらからの要望も可能な限り受けるとしよう。 後程書面を送るから、確認してくれるといい」 「ありがたいことです」  判を押した書面を手渡し、そこでほっと優男から〈安堵〉《あんど》が漏れた。  堅苦しい質問から解放されたせいか、ルシード・グランセニックは少しおどけた調子で口にする。 「やれやれ、緊張しましたよ……まさか天秤から直接ご指名が来るだなんて。 生きた心地がしないとはこのことですね」 「よく言う、その立場では説得力がないと思うぞ」 「部屋に籠もって判子押すだけのマシーンですよ、僕は基本ぐうたらです。お偉い方々との謁見はいつだって心臓に悪い。 そして、鼓動を高鳴らせるのは常に愛だけで十分でしょう。違いますかな?」 「ほほう、それはそれは。興味深い。 貴君の立場からすれば女子供はより取り見取り、衣装のようなものではないのか?」 「いえいえ、そんなものに何の価値がありましょうか。 真の愛とは〈容易〉《たやす》く手に入らぬもの。それは誰でも変わりません」  仕事が終わった後に行われるのは、私人としてのやり取り。このような余談もそれなりに有意義であり……しかし、なるほど面白い。  彼はその女とやらを思い出しているのか、先程までとは違った熱を宿しながら話していた。 「可憐で神秘的、そして〈儚〉《はかな》い。出会った時から僕の心は彼女によって埋め尽くされて……まあ率直に、一目惚れをしたんですよね。これが。  運命なんて毛頭信じちゃいませんでしたが、これが中々、悪くない」 「男にそこまで思われれば、女としても悪い気はせんだろうな。見れば一途でもありそうだ。 ならばどうだ、いっそのこと想いを告げてみてはどうかね」  そう続けると、どこか彼は困ったように。  いいや──これは、諦めるようにだろうか? 「いえ……それが彼女、僕にまったく興味が全くないようでして。   会う度に心が〈萎〉《しお》れる思いですよ。まあ、諦めてはいませんけどね。いつかを目指して、諦めず振り向かせてみせると──まあそんなところです」  言葉は額面通りの感情のみ、というわけではないが、それでも共感できた部分はあった。  取り逃がすのはとても痛い。  痛いから── 「なるほどな、まあ分かるよ。私も昔、奥手すぎて逃げられてしまったことがある。 だから次に機会があれば、より情熱的にいくつもりさ」  告げると、お互い頑張りましょうという社交辞令が返って来た。  そう、再び必ず手にしてみせる。  今度は放さない──たとえ彼がどう言おうと、自分は決して敗けるつもりがないのだから。  そして──  ルシード・グランセニックが退室し、部屋は静寂で満たされる。  最後の会話についてもう一度思い出せば、身体の底から熾火にも似た熱い感情が湧き上がってきた。  可笑しなものだなと、口端を歪めつつ意を正す。 「──サヤ」 「ここに」  私人は終わり──さあ、それでは〈調査〉《しごと》を再開しよう。  余韻を断ち切って呼び掛けた瞬間、即座にサヤが現われた。彼女へはこの度の件について、既に把握させている。  御曹司からもたらされた情報を照らし合わせ、並行して収集していた情報と組み合わせれば、これで〈断片〉《ピース》はすべて〈集〉《つど》った。  絞り込んだ候補は六──そして、濃厚なのは内二つ。  ここまで来れば、数日ほど探りを入れれば恐らく〈尻尾〉《しっぽ》を掴めるだろう。軍上層部は犯人を謎の〈星辰奏者〉《エスペラント》として戦力上から捜査を重ねているものの、自分たちはまったく別の、無関係な〈は〉《 、》〈ず〉《 、》の者からある匂いを〈辿〉《たど》っている。  すなわち、それは〈後〉《 、》〈ろ〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》〈さ〉《 、》というやつだ。それも公に残るようなものではなく、もっと小さな……衆愚そのものという反応。  当時、あのターミナルに存在していた使命感のある軍人や、職業意識の高い作業員などは端からまとめて除外している。  当たり前の、何処にでもいる、そして臆病な人間が紛れ込みやすそうな浅い隙間。〈裁剣天秤〉《ライブラ》三人を〈鏖殺〉《おうさつ》できる能力を宿しながら、しかし〈使〉《 、》〈い〉《 、》〈捨〉《 、》〈て〉《 、》に近い立場や待遇を平然と感受できる、そんな立場の者を探った。  そして、結果は徐々に見えてくる。  ゆえにこそ、後は〈忌憚〉《きたん》なき命を下すのみ。 「これから頼むことは私情が多分に混じったものだ。下手人を捕えるという大義すら、私にとっては既に二の次、三の次。  よって、一般兵を使うのは部隊長としていささか〈躊躇〉《ためら》う。そのため手駒を用いることは本来避けるべきなのだが…… 信の置ける副官として私はおまえに頼みたい。どうだサヤ、力になってはくれまいか?」  笑み、そして頬を撫でれば──蕩けるように彼女は〈頷〉《うなづ》く。 「確認するまでもございませんわ、お姉さま。 どうか、このサヤ・キリガクレ──存分にお使いくださいませ」  神聖なものへ捧げるように、手の甲へ唇を一つ。  随喜と情欲に打ち震えながら、サヤは主の手足となった。 厄介者をうちに住まわせることになって数日後――二人を連れて、俺は商業区画へと訪れていた。 歩く足取りはまだ昼間であるにも関わらず、一日がっつり仕事をした帰りのように重い。 その理由は確認するまでもなく、忌々しい女が平然とした面下げてミリィと一緒にいることだ。何当たり前のように俺の暮らしに取り入ってやがるんだと、金をもらった今になっても思わずにいられない。 時折こっちに向けられる艶やかな視線が〈鬱陶〉《うっとう》しい。妹と話す可憐なその声が苛立つ。一挙手一投足、ヴェンデッタの存在そのものが俺の神経をかき乱す。 どうしてここまで胸糞が悪くなるのだろう? 出会ったあの夜から今まで、心が休まった瞬間がなく―― いや、止めだ。それさえ片時も考えたくない。できることなら、このまま街の人混みに打ち捨てて帰ってしまいたいくらいだった。 「この界隈は以前に来たときよりも賑わっているのね。喧噪の中で買い物をするのも、ミリィと一緒なら悪くないわ」 「さ、ヴェティちゃん。まずは雑貨屋さんに向かいましょ。日用品で足りなくなっちゃったものが結構あるから」 「そこで買い物が終わったら、三人でお茶なんてどう?せっかく街中まで出てきたんだしね」 「ええ、楽しみ」 その微笑みは愛らしく、すれ違う人がにこやかに眺めるほどだが、俺の目には違和しか生まない。 死体が日の下を闊歩しているかのような、どうしようもない異物感。影絵がひょこひょこと歩いてるように見えるのは……視神経が俺だけおかしくなったのだろうか? ミリィはすっかりあいつに心を許してしまっている。元来他人に壁を作らない性格だったというのもあるが、二人はもはや傍から見ていると親友同士、あるいは姉妹にすら見える。 何か不測の事態が起こってヴェンデッタと離れることになったら、やはり悲しむんだろうな──などと考えてしまう事実事態が腹立たしい。 命が、死者に〈穢〉《けが》されている、ようで── たまに叫び出したくなるこの感情は、いったい── 「どうしたの、冴えない顔をして」 「ただでさえ締まりのない造形なんだから、せめてそれなりの表情をしていなさい。隣に二人も〈淑女〉《レディ》を連れて、その態度はいささか失礼というものでしょう」 うるせえな、と口にすることすら〈億劫〉《おっくう》だった。 俺は無視をもって、ヴェンデッタに自分の意志を伝えた。 本当に、何だよ……これは。 どうして俺はこんなにも、こいつのすべてにムカついて── こいつのすべてが、ひたすらに恐ろしいと思うのだろうか? そして、真夜中──草木も眠る丑三つ時。 ミリィたちが深い眠りに落ちている最中、俺は一人気配を消して静かに家を抜け出した。 向かう先は、もちろん── 「──っ、もう一杯」 つまり足を運んだのはいつもの〈娼館〉《ばしょ》で、指名をしたのはイヴだった。 とにかく、見知った女の美貌を肴に酒を飲もう。そしてこのストレスを溶かすんだと、自棄になってグラスをあおる。 頭の中が何もかも、どろどろになってしまうまで…… 「お仕事、いろいろ大変だったみたいね。お疲れさま」 「相変わらず耳が早いな、おまえは」 穏やかな気色を〈湛〉《たた》えるイヴから新たにグラスを受け取り、俺は一息に呷った。〈喉〉《のど》の奥、そして一瞬遅れて胃の〈腑〉《ふ》がウイスキーによって熱せられる。 美味い──そして当然、強い。アルコールは好むが、体質的に弱い自分は、それだけで視界がまたくらりと歪んだ。 「あん。もう、いきなりそんな飲んじゃダメ。すぐにお酒が回っちゃうわよ」 「ゼファー君、そんなに強いわけじゃないんだから。こういうのは味わいながらじゃないと損でしょう、ね?」 「いーんだよ。こっちは酔っぱらいに来てんだし」 そう……今はただ、何も考えることなく酒に溺れてしまいたい。 街を歩いていても、家に帰っても。果ては一緒にいないときですら、ヴェンデッタの存在が俺の心に暗い影を落としている。 要は一人の〈餓鬼〉《ガキ》でリズム崩されているのと同じだが、その通りでも構うものか。情けないのは慣れっこだ。 そんな〈四方山〉《よもやま》な思考に身を任せていると、イヴが俺の方へと身体を寄せてくる。前はやんわりと拒否したが、火照った身体に他人の体温は心地いい。 「やっぱり疲れてるのね。遊びに来てるっていうのに上の空」 「それって、ゼファー君が最近一緒に暮らし始めたっていう〈女〉《、》〈の〉《、》〈子〉《、》に関係してたりするの? それなら一層、輪をかけて珍しいわよね」 「恋しちゃって、他のことが何も目に入らないとか」 「馬鹿言うなよ、マジで」 噴飯ものだね。愛だの恋だのいうおままごと、俺たちとは最も遠い位置に存在している。ジョークであったにしてもお断り。 理由は一向に見えてこないのに危機感だけは〈煽〉《あお》られて、正直に言ってしまえば参ってる。 家では常に気を張っていたせいか、緩んだ精神状態の今は、アルコールの巡りがいつもより早くなっているのを感じた。 「なんでこんな気分になるのか、俺の方が知りてえよ……」 何故だろうか、〈見〉《、》〈て〉《、》〈は〉《、》〈な〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》〈を〉《、》〈見〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》という気持ちを覚えてしまうのは…… そしてむしろ、〈こ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈ヴ〉《 、》〈ェ〉《 、》〈ン〉《 、》〈デ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈タ〉《 、》〈に〉《 、》〈顔〉《 、》〈向〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》かのような錯覚に囚われてしまうのは……いったい、どうして。 分からない。分からないが、しかし── 「俺だってさ……」 好き好んで他人を嫌いたいわけじゃないんだ。 誰かを理由もなく憎みたがるやつなんて、いったい何処にいるっていうんだ? けれど、どうしてもあいつの姿を見たくない。無視できない。それは幼い頃、雨の日に捨て犬を見捨てたことで、翌日にそれの死骸を目撃したというような、気持ち悪い心境によく似ている。 俺が拾いでもしてやれば、こいつはまだ生きていたのだろうか? いや、けれど……なんて具合に湧き上がる生々しい後悔の念だ。 それはまるで、古傷をずっと生々しく突きつけられているかのようで── 「そんなの、肯定的に見られるか……!」 無理だ。居心地が悪すぎる。 苦味の入り交じった郷愁に通じる感覚。俺が四六時中取り憑かれている思いとは、言うなればそんなところ。 何か原因でもありさえすれば対策の打ちようがあるものの、皆目検討のつかない現状では完全にお手上げ。こうして意味のない〈愚痴〉《ぐち》を〈零〉《こぼ》しながら酒を〈呷〉《あお》ることくらいしかできない。 「──、はぁっ。クソが」 だから飲む──ひたすらに飲む、飲む、飲む。 酩酊状態で意識がぶっ壊れるまで、自分の惨めさを許せるようになるまでアルコールに溺れたがる。こんなに美味いのに、苦いと感じてしまうまで〈喉〉《のど》を酒精で焼いていく。 自暴自棄、支離滅裂な俺の言葉にこれまで黙って耳を傾けていたイヴが微笑を浮かべた。 それはどこか母性すら感じさせる優しさを内包していて、触れた箇所から〈安堵〉《あんど》が生まれる。 「じゃあ──」 そして、次の瞬間── 「私が、受け止めてあげるから」 「イヴ……」 押し付けた肉感的な身体から、〈微〉《かす》かな香水の香りが鼻腔をくすぐった。 覆い被さるようなその体勢。重ねられたイヴの手は、〈華奢〉《きゃしゃ》でありながらもたしかな温かさを有している。 濃厚に漂う女の匂いに咽せてしまいそうだった。呼吸すら顔にかかる距離にまで接近したイヴが唇を艶めかしく、そして妖しく言の葉を紡ぐ。 「大変だったのね、辛かったんでしょう? だけど、今だけは忘れていいの。私にできることだったら、なんでもしてあげる」 「前にも言ったでしょう。〈歓楽街〉《ここ》は、傷を愛するためにあるって……、ん」 一度、二度、鎖骨に、〈喉〉《のど》に……口紅が愛を刻む。 まるで食虫花を思わせる甘い誘いでありながら、その瞳には慈愛の色をも浮かべていた。相反する要素に思えるそれらはしかし、どちらもイヴにとっては偽らざる感情なのだろう。 娼婦でありながら女神。そんな陳腐な例えが頭に浮かぶ。 「あと、お酒のせいにしちゃえば気になる女の子への義理立てもできるでしょ?ふふ」 「だから違うっつうの……」 「ならそれでいいわ。ゼファー君が楽になるような感じ方で」 心地良く響くイヴの〈囁〉《ささや》きは、俺の下半身に疼痛にも似た感覚を呼び起こしていく。酒の回りきった身体はすっかり熱を帯びていた。 指先が円を描くように股間の膨らみを上からなぞる。 じれったい快感に合わせ、濃密なフェロモンが脳を汚染し始めた。 この状況では、断る理由なんてあるはずもない。だから、俺は── 酔いに任せて、傍らのベッドにイヴを押し倒した。 豊満な肢体から漂う濃密な雌の香りが、ふっと鼻腔をくすぐってくる。 「──ふふ、慌てなくても大丈夫よ」 「私はいなくなったりしない。拒んだりもしない。あなたの抱える不安を、少しでも和らげてあげたいから」 「だから、ほら……ゆっくりね?」 吐息のかかる距離での睦言めいた〈囁〉《ささや》きは、まるで耳を通して頭に直接染み込んでくるかのようだった。 「────助かるよ」 ならばもう遠慮はしない。ガス抜きに付き合ってもらうことの感謝を告げて、抱き合いながらそのままベッドに身を預けた。 薄闇の中仰向けに寝転ぶと、慈愛に満ちた眼差しを向けながらイヴはいそいそと乗りかかってきた。豊満な柔らかさと共に女の重みを下腹部に感じている。 見上げた身体は〈華奢〉《きゃしゃ》でありながら、しっかり出るとこは出ているという完成された女神のようだ。露わとなった胸元は瑞々しくも柔らかさを感じさせ、こうして向き合っているだけでも生唾が喉を潤す。 つうか、本当にでけえ。何食えばこんなになるんだよ。 「ふふ、もう。そんなに胸ばっかり見て……」 「前から思ってたんだけど、おっぱいが好きよね。ゼファー君は」 それは男なら当然だろう。いい女が目の前にいて蠱惑的な身体を有しているなら、雄はそれだけで転んでしまう生き物だ。 目が行くに決まってるし、本能に抗えるはずもない。だからそれを今から〈貪〉《むさぼ》る。 「ありがとう。私の身体……求めてくれて嬉しいわ」 「いいよ、好きにして。どんな欲望だって構わない。何をされたって嬉しいの。あなたのためなら、喜んですべてを受け入れたいから」 まるで聖母とすら錯覚させる微笑を浮かべながら、口にする〈台詞〉《せりふ》は〈淫蕩〉《いんとう》極まりない。雄の生殖本能に直接訴えかけてくるもので、酔いもあり自制心のタガが外れていくのを感じる。 イヴが〈身動〉《みじろ》ぎする度に〈淫靡〉《いんび》に揺れる白い乳房に、欲望の赴くまま手を伸ばす。 「はぁ……ん……あ、あぁっ……」 ドレスを脱がすために触れた瞬間、それだけでイヴは甘やかな声を漏らしながら身を小さく震わせた。その敏感な反応が堪らない。 まろびやかでありながらしっとりと柔らかい感触が伝ってくる。劣情は加速し、愛撫をする手が止まらない。坂を転げ落ちるようにこね回す指が激しさを増した。 下半身にゆっくりと熱が溜まっていくのを感じた。とろ火にかけられたようにじわりと身体が疼き始める 「んんっ……ふぅっ……ぁ、んっ……そんな、焦らなくてもいいのよ……?」 「私はずっと、〈娼館〉《ここ》にいるから……はぁっ……逃げたりなんてしないから……ん、くふぅっ……」 そして、男の嗜虐をすべて飲み込む淫らな母性。イヴの乳房はまるで溶けてしまうかのように柔らかく、触れているところから飲み込まれてしまいそうだった。 この感触はまるで麻薬、もっと、もっとと求めてしまう。欲しくなる。 「んっ……はぁ、はぁ……手つき、いやらしい……」 「く、ぅんっ、そんな……あぁっ。こんなにされたら私、感じちゃう……んんっ……」 〈仄〉《ほの》かに恥じらいが混じった声が男心をくすぐってくる。その反応は魅惑的で、慎ましく身をよじる姿に頭の芯から〈痺〉《しび》れが通る。 揉みしだく手を止めないまま思う──この雌がとことんまで蕩けた顔を見てみたいと。 卑小な欲求に身を任せながら、淡いピンク色をした先端を少し強めに摘んでやった。 「あっ……! ん、乳首ぃ……そ、こぉっ、ひんっ……」 刺激に対してぷっくりと反応した乳首は、まるで初めて男の前に披露されたと言われても信じてしまうほどに〈無垢〉《むく》な桃の色合いをしている。 それをさんざん指先で〈捏〉《こ》ねくり回す。時には焦らすようにゆっくりと、時には痛いほど性急に。 手の動きに合わせて、大きな乳房が弾むように揺れる。そのたびに白磁の肌へうっすらと汗が浮かび、それがまた理性を焼く甘い〈体臭〉《フェロモン》となって男を野獣に変えていく。 「ん、んっ……ふぅっ……は、ぁっ……おっぱい、気持ちいいわ……くふぅっ……ん、あぁっ!」 「もっと〈苛〉《いじ》めて、好きなだけコリコリって……ぁ、はぁっ……もっと触れて、私を望んで……ん、ふあぁっ……」 言われるまでもなく、こちらもとっくに収まりがつかなくなっている。 色香を前に溶けていく自制と思考。もっと欲しい、もっと〈苛〉《いじ》めたい、もっともっと〈淫蕩〉《いんとう》に鳴かせたいと思ったから── 胸を弄り続けていた手を緩やかに下へ向けて〈這〉《は》わせていく。豊満な乳房を超え、くびれと〈臍〉《へそ》をなぞり、イヴの柔肌を伝い下りて密やかな潤みを〈湛〉《たた》えている秘所へと指を滑り込ませた。 瞬間、濃厚な性臭が花開く。 「はぁっ……! んっ、くふぅっ……あ、あぁっ……んぅっ……」 「ゼファー君の、指……んんっ……私のナカ、〈掻〉《か》き混ぜてる……や、はぁんっ……」 にゅち、にゅち……と劣情を刺激する音を立てて秘肉が絡みついてくる。中から止めどなく溢れてくる愛液は喘ぐたびにその量と粘度を増した。 肉〈襞〉《ひだ》が、しゃぶる様に潜り込ませた指を歓迎している。蜜〈壺〉《つぼ》をひとしきりかき混ぜて、ぬるつく愛液と膣〈襞〉《ひだ》の感触を楽しんだ。 そして、快楽に露わとなった肉芽の皮を優しく剥いて── 「ひぁぁっ! あ、くぅっ……あ、あぁっ……」 なぞるように転がしてやると、刺激のたびにイヴの身体が大きく波打った。ひときわ大きな水音が鳴り、それが鼓膜から理性を抱きに襲ってきた。 「はぁっ……んっ……ねえ、聞こえるかしら……? 私のここ、ぐちゅぐちゅいってるの……」 「あっ……や、はぁぁっ……ゼファー君に、気持よく……んっ……させられているから……ああ、いいの、もっと求めて」 「はぁぁっ……シーツ、どろどろになっちゃう……んんっ、くふぅっ……」 口にしている通り、身体は乱れに乱れていたがそれでもこちらを包み込もうという母性があった。それがまた〈淫蕩〉《いんとう》さと背徳感を醸し出し、雄の欲望を〈滾〉《たぎ》らせていく。 幻惑されてるのはこっち、それは間違いないだろうが、構わない。一夜の濃厚な情交だからどこまでも、どこまでも激しく、淫らに…… 「あぁっ……もっと……もっと感じさせて……ん、はぁっ……ひぅぅっ……」 自らねだるように腰をくねらせて、俺の指に愛液を絡ませてくるイヴ。淫蜜の音は絶えず、熱を帯びた膣〈襞〉《ひだ》がむしゃぶるように締めつけて随喜の蜜をまぶしていた。 ぬかるんだ雌穴は、湯気さえ立ちそうなほど熱く、雄の生殖器を求めていた。 その誘惑に対し、こちらも精嚢から衝動が駆け上がってたまらない。そのまま外気の外へと晒す。 「はぁ……ああ……ゼファー君のここ、すごく大きくなってる……んんっ……」 露わにした交尾欲にいきり立つペニスを前に、イヴの目じりが欲望に蕩ける。 くい、と緩やかに股を浮かせて花弁を向けた。〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈奥〉《 、》で発散してと、その欲望をあるがまま受け入れるべく粘膜同士での結合をねだる。 「ぱんぱん……溜まっているのね。こんなになる前に私のところへ来てちょうだい……いつでも〈慰〉《、》〈め〉《、》〈て〉《、》あげたいわ」 「遠慮なんてしなくていいし、利用するだけでもいいの。抱いてあげる、癒やしてあげる……それが私の望みだから、んっ」 くぱぁ、と微笑みながら指先で広げられる愛欲の入り口。 硬くそそり立った怒張を濡れに濡れた粘膜へと宛がう。すっかり蕩けきった秘唇の感触がとても心地よく、はやる獣欲がまま突き入れたくなる気持ちを抑えて、ゆっくりと味わいながら押し進めていく。 身勝手に、心地よさだけを目当てに、この奥で種を吐き出すべく…… 「あ……いいの、たっぷり堪能しながら……来てぇ」 この体勢から分かる上品に整ったサーモンピンクの秘部……艶めかしく濡れる中心へ腰を突き上げていくたび、背筋に走るのはたまらない快感の〈怒涛〉《どとう》。生殖本能がどうしても刺激される。 柔肉を〈掻〉《か》き分けるようにして、反り返った陰茎が蜜〈壺〉《つぼ》を味わいながら掻き分けて侵入していく。 そしてついに、根元まで結合を果たし── 「ん、あぁぁっ……! くぅっ……あ、あぁっ……」 雄と雌の身体が、深く、深く〈繋〉《つな》がった。 鈴口と子宮口が積年の恋人みたいに睦み合い、濃厚な口付けを交わしている。濃密に刺激される雄の欲望。この快感だけで精嚢が甘く疼き、今すぐぶちまけてしまいそうだ。 「はぁ……入った、ね……んんっ……太くて硬いの、私の奧まで届いているわ……ゼファー君の味、久しぶり」 「すっごく熱々で、とっても男らしい……はぁっ……私の身体、このまま溶けちゃいそう……」 女の媚を満面に浮かべたイヴに、欲望はさらに上昇していく。自ら腰を深く落としての雌雄結合。その陶然とした笑顔を見ていると、何もかもをそのまま許してもらえそうな底無しの誘惑があった。 傾国の美女とはきっとこういう女なのだろう。一度でも味見してしまえば最後、深みに〈嵌〉《は》まって抜けられない……たったいま夢中になっている自分のように。 鮮やかな朱の口紅が色っぽく、愛を求めた。 「あはぁっ……く、ふぅんっ……さあ、もっと感じてちょうだい……はぁぁっ……」 言うが早いか、イヴは自身の腰をうねらせて〈咥〉《くわ》えたペニスを搾りにかかる。 粘度の高い愛液に満たされた極上の膣肉──その中で亀頭を絡め取られ、上下運動で全体を刺激される。その度に鼻腔をくすぐる彼女の芳香、弾ける汗。 小刻みに身体を揺する光景の卑猥さは筆舌に尽くしがたく。周囲に響く卑猥な水音も重なって、俺の興奮はいやが上にも増していく。 「はぁ、はぁ……んぁぁっ……すごく、感じちゃうわぁ……んっ、あぁっんんんっ!」 「くふぅっ、あっっ……ふふ、ビクビクって、動いて……んんっ……ふ、あぅっ……」 熱を帯びた肉〈襞〉《ひだ》が、まるで陰茎と一体化するかのように締めつけてくる。気持ちいいというよりも、〈繋〉《つな》がっている部分からこのまま溶けてしまいそう。 かつ、ぎゅっと締められた膣口は雄の生殖器を愛しているのか。まったく離そうとしないがゆえに息をつく暇もなく、快楽から逃れることもできない。 肉と肉を打ち合わせる音が、淫らに響く。 そのたびにイヴの秘部は媚びている、男の種を〈希〉《こいねが》って。 「はぁ……んんっ……もっと、いっぱい、身勝手に感じていいのよ……? 私を使って、吐き出して、気持ちよくなって……」 「生殖欲求が溜まって、処理が必要になったら……ひゅぅ、ん……好きな時に、好きなだけ、気兼ねなく種付けしに来ていいんだからね……」 「あぁぁっ……しょうがない、わよ……年頃の、瑞々しい女の子と一つ屋根の下で、暮らしてるんだもの……しかもミリィちゃんとは、血が〈繋〉《つな》がってないだなんて」 「あんな可愛い子の甘い生活臭を吸っていたら、やぁ、んっ、雄としての本能が〈滾〉《たぎ》っちゃう……でしょう? 成長するたび、すれ違うたび、ふとした時に女を感じて……たまらなくなるんじゃないかしら」 「今まで私を求めに来た時は……そんな風に、クラリと来ちゃった時なのよね、本当は……ふふ、ふふふふふ」 それは実際、なきにしも、あらずで── 理性が融解した今嘘はつけず、けれどそれを認めるのは癪で、さすがに最低だと思ったから変わりに腰の動きで応える。 反撃──突き上げてくるような射精衝動、種付けの希求を堪えながら眼前の乳首を摘み上げてやる。ねじるように激しく、刺激的に。 「ふあぁっ……! いっ、ひぅぅっ……おっぱい、急にぃっ……んんぅっ……」 「く、うぅっ……乳首、じんじんしちゃう……んっ……い、あぁっ!」 無遠慮な愛撫にさえ魅惑の肢体を跳ねさせながら反応するイヴ。同時に膣内が急激に締まり、電光めいた快感がペニスから脊髄を一気に〈奔〉《はし》り抜けた。 「うぁっ……はああぁっ、こ、これ、いいのぉっ……くふぅっ……あっあっ!」 「こんな、の……んんっ……どうにか、なっちゃいそう……あ、うあぁっ……!」 イヴの得ている快感を指し示すかのように、止めどなく溢れ出てくる愛液がシーツをしとどに濡らしている。乳首が性感帯というよりは、これは全身が極端に敏感なのだろう。 どのような責めにも身体を震わせ、股を濡らし、雄へとねだる── 言わずもがな最高の体質であり、少なくともこの仕事において、男心を容易に〈擽〉《くすぐ》るであろうことは想像に難くない。分かっていながらのめり込む。祝福された魔性の美肉。 子宮口をほぐすように鈴口を深く押し込んだ。射精の受け皿、その場所を確認しながら先走りを塗りこんでいく。 「そう、奥、こんこん、こんって……ああ……うあぁっ……く、んんっ……」 互いの結合部から響く水音に刺激され、思わず腰が動いてしまう。先程からの刺激で膣内の狭窄にも拍車がかかっていて、これはいつまで俺の方も堪えられるか分からない。 だからイヴから余裕を奪うかのように、指ではなく歯を使って乳首を噛んだ。 まるで愛撫という名を借りた加虐行為、獲物を食いちぎる狼のように美味な乳肉を味覚でも味わう。母乳など出ていないはずなのに、口の中にはイヴの肌そのものといった甘ったるさと汗の味が広がった。 「はぁっ……ち、乳首ぃっ、んんぁっ……いいの、それいいっ……もっといっぱい吸い付いてぇ、あっ、ああぁっ!」 瞬間、頭を乳房に向けてむしろ押さえつけられた。 視界いっぱいに広がる肌色。鼻腔を満たす淫らな性臭に包まれて頭の中がさらにどろどろに蕩けていく。まるで幼児へ戻れというように、髪の毛を優しく撫でられた。 下半身では激しく交わり生殖行為を悦しみながら蕩けあい、混じり合う粘膜。ペニスで繁殖欲求を満たしながら、口では乳房をむしゃぶるという倒錯した愛情をイヴはひたすらうっとりしながら求めている。 「赤ちゃんみたいに、おっぱいちゅぱちゅぱしながら、ぁぁっ……好きなだけぐちゅぐちゅって、〈貪〉《むさぼ》りながら、ねぶってぇ……っ」 「そして……最後は、私の〈子宮〉《おく》、にぃぃっ……」 肉欲が、愛欲が、母性によって混じり合う……そこに生まれる背徳感。 乳輪を獣と化して噛みきるほど愛弄しながら、まるで禁忌を犯しているような〈昏〉《くら》い喜びに支配されて求め尽くす。下腹部に溜まった鈍痛、睾丸で濃縮される欲望、その解放を最高点で迎えるべく律動を加速させていく。 「ふぁっ……んんっ……そこ、そこだから……ん、ひぁぁっ……」 「そこに、押し付けて……んひぃ、っ……満たしてぇっ」 突き上げ、揺さぶり、時にはペースダウン。あらゆる動きを織り交ぜて、〈貪欲〉《どんよく》に快楽を〈貪〉《むさぼ》る。 耳元での〈淫蕩〉《いんとう》なおねだり。膣内射精、種付けの求めを聞いてこのまま幾らも我慢が保たないであろう快感が、波のように押し寄せてくる。 粘液の発する〈淫猥〉《いんわい》な水音は、今やどちらの性器から発せられたものか分からなくなっていた。肉〈襞〉《ひだ》は注がれるべき精を一滴も逃さないとうねっている。 「はぁ……はぁ……ああ……ゼファー君の、すごくいい……子宮に、ゴツゴツってぶつかって、狙いをずっと、定めてるぅ……」 「その度にね、あそこから……はぁっ……蜜が、どろっと出ちゃうの……こんな風に、あぁぁ」 〈捩〉《よじ》り込むような動きに合わせて、イヴも自ら腰をくねらせる。亀頭と肉〈襞〉《ひだ》との擦過によって与えられる快感に一瞬視界が明滅した。 互いの興奮が、互いを高めあって、より感覚を鋭敏にしあっているのを実感する──激しさがまた一つ上がった。 「あぁ……は、んぅっ……中で、ペニスがびくびくって……」 「ねえ、そろそろ……? ならもっと、最高の頂を目指して、ん、くぅっ……はぁぁっ……」 「あっ……あああ……それ、いいっ……グリグリいいのぉっ……んんっ……あぁっ! あああぁっ!」 子宮口をほぐすように、押し付けたまま、ねぶる。ねぶる。 膣内は性感の高まりとともに妖しく〈蠢〉《うごめ》き、愛液をたっぷりと〈纏〉《まと》った肉〈襞〉《ひだ》がペニスに絡みついてきた。 最後が近い。腰を打ちつけるようにして突き込む。ペニスを抜き差しをする度にイヴの秘処からは淫蜜が溢れ出し、二人の内股までも濡らしていく。 「ん、ふぅっ……あ、ああぁっ……も、もう……はぁぁっ……く、ぅっ!」 やがて、全身を刻みに震わせて訴えたのは最後のサイン。 接合部から溢れる愛液は、まるで失禁したのかと見間違うような量をシーツに流していた。 先走りと混じり合い、メレンゲのように泡立ち、互いの性器を生々しく彩っていく淫らな蜜。そのぬめる水気が、ひときわ大きな快感を生み── 「あああああぁっ……あああああああ……ゼファー君っ、乳首噛んでっ……食べ尽してぇっ!」 睦み合う粘膜。限界まで腰を押し付けながら、共にその頂点へと昇りつめた。 「んんんっ……私っ、もう、イッ、ちゃうぅっ……んんっ!」 「く、ふぅっ……ひあぁっ! い、い、イクうううううううううううううううううううううううううううううううううっ!」 オルガスムスの〈嬌声〉《きょうせい》と同時、肉〈襞〉《ひだ》が一際強く〈痙攣〉《けいれん》する。 放った大量の精をその子宮に叩きつけられ、感じているのだろうか──イヴはまるで弾かれでもしたかのように、うっとりと身体を〈痙攣〉《けいれん》させながら俺を包み込んでくる。 汗ばんだ身体でしがみつき、離れないでと柔らかい四肢を絡みつかせて…… ねっとり最奥で結合したまま、雄の身勝手で、最高に気持ちいい甘美な生殖行為を優しく優しく受け止めていた。 「あっ……はぁ……そう、注いでぇ……」 「一滴残らず、最後まで……」 濃厚な〈種子〉《スペルマ》を本来結びつくべき場所で心地よく搾り取られる、背徳感、達成感、充足感の波に爪先から脳天まで一気に心地よい〈痺〉《しび》れが走った。 びくん、びくんと小さくしゃくりあげながら、ペニスが喜びに脈動する。もはや何も考えられない。 避妊などしないからこその充足は、あまりに禁忌でとても深い味わいだった。互いに鈴口と子宮口を少しでもくっつけながら、後など何も考えない、無責任な粘膜交合の味に浸り……本能を満足させる。 「はぁ、んっ……ふ、ぅっ……いっぱい、出てるわ。ゼファー君の、〈精液〉《ザーメン》……」 「どろどろで、熱い……んんっ……まだ、震えて……あそこの内側が、濃いのでいっぱいに……はぁっ……」 「ふふ、そんなに結び付けたいの……?」 本音を言うなら、最低だがしてみたい。彼女の〈胎内〉《はら》に自分の証を気兼ねなく植え付けることができるのなら一日中こうしているに違いないだろう 実際は内心を答える余裕なく、イヴの甘い体臭を吸い込みながら、満ち足りた吐息を吐く。やがて最高点を超え、ゆっくりと引いていく快感の潮。 身体を離し結合を解こうとするが、けれど蠱惑的な肢体はこちらを捉えたままだった。陶酔と慈愛の視線を向けながら、欲情をぶり返させるように結合部をやわやわと締められる。 ちろり、と艶めかしく舌を動かしイヴは耳元に息を吹きかけられた。耳たぶを甘噛みし、穴を舌先でくすぐりながら残り火の情欲を煽る。 「……まだ残っているわね。遠慮しなくていいのに」 「あ、はぁ……ほら、いい子……いい子……んっ」 ──そっと伸びた手が、〈睾丸〉《こうがん》を優しく慈しんだ。 中に蓄えられた子種の一つ一つさえちゃんと胎へ受け止めたいのだろう。イヴの後戯は震えるほど雄の本能を打ち抜いて、腰砕けになりながら成すがまま残り汁を注ぎ込む。ぐりぐりとペニスで奥をこね回した。 「そして、出し切る間は……んちゅ、ちゅぅぅ……はぁ、ちゅっ、ぱぁ……」 豊満な身体と〈繋〉《つな》がったまま、降りてきた唇へ自然と舌を絡めあう。混じり合う唾液のなんと甘美なことだろうか。 アルコールに焼かれた脳を上書きしかねない快感。イヴの抱擁に抱かれながら汗だくの身体を密着させ合う。深く、愛しく、性器を〈繋〉《つな》げ合ったまま二人でじっくり絶頂と膣内射精の余韻に浸っている。 唇を〈貪〉《むさぼ》り合い、見つめ合いながら上下の穴での粘膜交合。最後の最後まで吐精を堪能し尽くして、愛欲の交接を十分ほど味わった頃。 「はぁぁぁ、ん……お疲れ様ぁ……」 余韻に浸るイヴの秘唇から、俺はペニスを抜き取った。さっきまで〈繋〉《つな》がっていた部分から間抜けな音が鳴る。 〈仄〉《ほの》かに充血した膣口は湯気さえあがりそうな有様で、白濁液が透明な愛液に混じって溢れ出す──そう、思うがまま種付けしたから。他ならぬ俺の精が彼女の股を彩っていた。 〈淫靡〉《いんび》な光景へ釘づけとなる視線を察してか、イヴは妖しく微笑みながらそれを見せつけるよう、あくまで上品に腰を突き出した。 白濁が膣口を滴り、尻の割れ目を伝って、シーツへ落ちた。 いやらしく唇を歪めながら、下腹部を撫でている。〈胎内〉《ここ》に向けて思う存分注いだのだと、これ見よがしに示していた。 「ほぅら、ぐちゅぐちゅ……つまめちゃうくらい濃厚だわ。こんなに溜めてたら駄目じゃない……」 「放っておいたら、いつか本当にミリィちゃんを食べてしまうんじゃないかしら……そしたらきっと、一回でお腹が〈膨〉《 、》〈ら〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈う〉《 、》かもしれないわね」 「こんな、んぁっ……種の、一粒一粒が分かるくらいっ、あぁ……今も野性的に泳いでいるみたいだもの……うふふふ、ひゃぁん」 だから、ここにお手軽なオンナがいるとイヴは言外に誘っていて。中出しされた精液と愛液の混合を自分の秘部ごと、指でカクテルし始めた。 金も要らず、対価も貰わず、ただひたすら癒してあげると言っている。どこまでも相手にとって都合がよく、ある意味においては聖母のように。 淫らな誘惑に再び溺れてしまいそう。酒が入っているはずなのに、こんな程度ではまだまだ満足できそうにないと、股間は雄々しく起立していた。 それを見てイヴは蕩けるように微笑んだ。甘い空気は、まったく欠片も薄まらない。 「ゼファー君の〈こ〉《、》〈こ〉《、》も、私の蜜と出した種ですごくべとべと……おいしそうよ。とっても立派」 そして悪戯っぽく男性器相手に顔を近づけ、語り掛けた。すんすんと鼻を鳴らし、生々しい性行為そのものの臭いをかぐわしげに吸い込む。二人の欲望が絡み合った性臭を。 「あなたも、すごく気持ちよかったでしょう? たまらないものね。無遠慮に雌をよがらせて、欲望のまま快感交尾に〈耽〉《ふけ》るのは……」 「もう一度、したい? いま出来ちゃった分の精子、またさっき吐き出した子宮の奥で、動物みたいに、たっぷりと──」 「……やんっ」 ……当然、そんな誘惑をされる限り情欲の火は燃え上がる。 「じっとしてて、〈お〉《、》〈掃〉《、》〈除〉《、》してあげるから──」 そしてそのまま、〈再〉《 、》〈度〉《 、》を当たり前のように甘受する。股座に顔を埋めてくるイヴの姿に、ぞくりとした感覚が走った。 まるで誓いのキスみたいに先端へ口付けを一つ。そしてそのまま、艶めかしく開いた口が愛おし気に〈昂〉《たか》ぶりを呑みこんで…… あまりに心地よすぎて、砕けたはずの理性が少しだけ疑問を呈するのだ。ここまで何もかも受け止めてもらい堕落するのはどうだろうかと、ベッドに寝転び天井をぼんやりと見上げながら束の間ふとそう思ってしまう。 けれど元々、俺自身の意志力なんてたかが知れているというもので。 「だから、深く考えなくてもいいの……ちゅ、れるっ……ぴちゃ、んむっ……」 「ちゅぽっ、ちゅぽっ、ん……ちゅぅぅぅぅぅ、はぁ……一夜の夢なら、せめて素直なケモノになりましょう? ん、あむぅ……」 話しながら下半身で〈上〉《 、》〈下〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈頭〉《 、》に手を添えて髪を撫でた。心地よさを堪能しながら王様気分で口淫の刺激に身を震わせる。 種付けという心地よい重労働を終えた雄の生殖器を、愛情たっぷりに癒していく。亀頭を丹念にねぶる舌の感触、頬ずりされる竿、優しくほおばられる玉袋、どれもすべてがたまらない。 ペニスがすぐに、欲望を〈滾〉《たぎ》らせ始めて── 「────さあ、召し上がれ」 捧げられた上等な肉へ、ひたすらに溺れていく。 突き、〈貪〉《むさぼ》り、吐精し、休み、そして再び体力が戻る合間で酒を飲み、狂ったようにまた没頭して…… 自分でもどうかと思う程、色欲の限りに〈耽〉《ふけ》ってイヴへと注ぐ。アルコールと肉体的な疲れ、そして何より精神的な罪悪感に身を焦がしながら、やがて── 「──おかわり」 どうにも気乗りがせずに、そう濁す感じでグラスを差し出した。 ここは娼館であり、相手はイヴで……据え膳的なシチュエーションであると分かっちゃいるんだが、今一つこう、覇気が湧かない。 男としては情けないのかもしれないが、ミリィの顔がふっと頭をよぎったことによる罪悪感が、欲望を押し留めた。 そして真に腹立たしいことだが、ヴェンデッタの顔も想起して──こちらは湧きあがる苦々しさが意識をシラフへ叩き戻す。 信じられないことに酔いそのものさえ、綺麗に醒めてしまったようだ。 腹立たしく、負けるかてめえと、不思議な対抗心のもと求めるのはまずアルコール。女体はいらん、酔ってやるんだ、そう決めた。 それを格好つけてるとでも思われたのか、くすくすと可笑しそうにイヴは微笑み、グラスに新たな〈琥珀〉《こはく》を注ぐ。 「ふふっ……ええ、どうぞ好きなだけ」 「意地っ張りの望むまま、いつまでだって付き合うわ。さっきと同じウイスキーのロックでいいかしら?」 妖しい笑みを浮かべながら新たな酒瓶が登場する。さあ、今夜は宴と行くぜ。 そして── もうここまでいくと挑戦のような心境で、美女のお酌を次から次へ胃に流し込んでいくのだった。 そのまま何もかも、あらゆる気持ちが誤魔化されてしまうまで…… 飲んで、飲んで、飲み潰れるまで。俺はアルコールで〈喉〉《のど》を焼くのだった。その結果── ──ついに、今まで精神的に張り詰めていたものがぷつりと解れた。 強烈な睡魔に襲われ人形のように身体が落ちる。〈瞼〉《まぶた》を開いていることすらままならず、ベッドに身を横たえるとイヴがするりと隣に入ってきた。 「やっぱり疲れてたのね……おやすみなさい。私がここにいてあげるから」 そう言って頭を優しく撫でてくる仕草に、どこまでもガキ扱いかと言ってやりたくもあったが、もはや意識が保ちそうもない。 なので今は撫でられるまま身を任せて、俺はそのまま眠りに落ちた。 そして、〈朦朧〉《もうろう》とした意識の片隅。脈絡のない記憶の中、これまでに出会ってきた人間の顔が脳裏へと連続する。 そんな中で、イヴの仕草に何かを思い出しそうで――ああ、そういえば。 「あれは、〈誰〉《 、》だったっけか──」 まるで全てを赦す癒しにも、最後の断罪にも思える記憶。それをほんの〈僅〉《わず》かに思い出しかけながら…… 視界は、暗闇に呑まれていくのだった。 束の間の夢として、俺は過去を忘れながら眠りに着く。 「おご、おおぐぅぁあががががぎぎ──」 ……んで、目が醒めた時にまず感じたのは強烈な二日酔いの頭痛。 次第に意識が覚醒していき、昨夜のことを思い出していくにつれて俺の気分は超ダウナーへと落ちていった。はっちゃけすぎたと反省する。 何より頭がめっちゃ痛い。マジで割れる、しかも吐きそう。 右側にあるのは、イヴのなんとも艶めかしい寝姿。うん、いいね。生唾ものだよこの光景──なんて普段なら呑気に思うところだが、今の俺はアセトアルデヒドという最悪の敵に痛めつけられているわけであり。 左側に視線を向ければ、その主原因たるいくつもの酒瓶が転がっていた。 昨夜の怠惰をそのまま持って来たような残骸は、一つの絶対的な心配事を突きつける。 「これ支払いくらになるんだろうか……って、おえっぷ」 喋ったと同時に代金と嘔吐のダプルパンチでえずく。なんかもう、駄目だ。色々と真っ白ですハイ。 精神的にもやもやしたものがあったのは事実だが、しかしこれはやりすぎた。ミリィになんて言い訳しようか。そろそろ起きてるだろうから、家に俺がいないことに気づいてるだろうし……ああ。 怒られるかなぁ、色々と。 とりあえず財布にいくら入ってたかと、頭を〈蝕〉《むしば》む激痛の中で残金の確認をするのだった。 日々の進展は何もないまま、時間だけが白々しく過ぎていく── レストランでの一幕は普段通りの日常だ。 相変わらずこっちにちょっかいを出してくるティナとティセ。そして厨房の奧から時折様子を〈窺〉《うかが》うように話を向けてくるアルバートのおっちゃん。笑い合うミリィにヴェンデッタ。 いつもの光景と、そう表してしまってもいいだろう。そのくらいヴェンデッタの存在は自然に日常へと溶け込んでいる。 未だそれに慣れていないのは、明らかに俺だけで…… 「兄さん、さっきから元気ないみたいだけど、大丈夫?」 「ひょっとして、体調悪いとかだったりするのかしら……だとしたら、早くお家に帰らないと」 「あぁ、平気平気。そういうんじゃないから」 と言いつつも、うまく笑い返せられたか自信はない。 ヴェンデッタに対する異物感が今や無視できないほど肥大化の一途を〈辿〉《たど》っているのは、言うまでもないだろう。内心の疲弊を隠しながらひらひらと手を振ってみる。 「でも……」 「そうだよミリィちゃん。本人がなんともないって言ってるんだから、余計な心配はかえって毒というものでしょ」 「それに、ゼファーさんが無気力なのは今に始まったことではありませんし」 「だよねー。基本ダルダルオーラ出してるよね、世の中総じて紙風船とか言っちゃいそうな」 小うるさいが、まあ実際その通り。突っ込みを入れてやる気力も湧かず、テーブルの上に片肘をついてスパゲティをフォークで〈弄〉《もてあそ》ぶ。 巻いて、解いてと、手慰みのように繰り返してから口に運べば、気分を反映しているせいか……あまり味が感じ取れないのに苦笑した。 ストレスで〈味蕾〉《みらい》が全滅したのかね、こりゃ。本当に、ああ本当に笑うしかない。 「あら、ずいぶんと美味しくなさそうに食事をするのね」 「せめてこういう時ぐらいは無理でも笑顔を作りなさい。一人で食べる時ならまだしも、日々の〈糧〉《かて》は喜びながらいただくものよ?」 「……るせえな」 しかして、元凶はご覧の通り。 からかうように、慈しむように、反応を楽しみながら蕩々とした口調で〈囁〉《ささや》いたものだから──俺は。 「黙って食えよ、飯が冷めんだろ」 「ふてくされている子がいたら苦言ぐらいは呈するわ。そんな風に振る舞えば、心配するのはミリィでしょう?」 「私を気にしろとは言わないけれど、守るべき家族の前では立派な兄を装いなさい。男の子なのだから」 「そうね、とりあえずその立て肘をどうにかするべきね」 「──────、はぁ?」 フォークが、皿と硬質な音を奏でる。 その母親じみた口調が、なぜかひどく、〈癇〉《かん》に、障って── 「だから肘よ。お行儀が悪いと言っているの。……まったく、背筋も曲がっているわ」 「食器を鳴らすのもよしなさい。食事前にちゃんと手は洗ったの?幾つになってもだらしがないのはやめなさい。あなたはもう、子供に行動を真似られる歳なのよ」 「最低限のテーブルマナーは守るべき……なんだけど、ええまったく」 そこでくすくすと、仕方なさそうに〈■■■■〉《ヴェンデッタ》は微笑んだから。 頼む、やめろ、やめろ、やめろ──〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈連〉《 、》〈想〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈態〉《 、》〈度〉《 、》だけは、どうかと、願わずにいられなくて。 「それが微笑ましく思う私は、いよいよ末期ね」 「どこまでも物覚えが悪いんだから」 「────もういい」 ──恐怖を振り切り、零下に墜ちた感情が冷たく声を断ち切った。 ミリィの、ティナとティセの視線が集まるのを感じたがもう止まらない。叫び出してしまいそうな自分をなけなしの理性で抑えながら、俺は明確な拒絶を叩きつける。 駄目だ、これ以上はもう何かが〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈り〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。 脳が〈過去〉《きおく》を引き摺り出す──そんな痛みは、絶対嫌だ。 嫌なんだ。 「おまえ、このまま消えろ」 「今すぐにルシードのところへ行け。そして二度と、そう二度と、俺の前にその死人じみた面を見せるな」 「二束三文で私を預かったのに?」 「ならいらねえよ、こんなもん」 財布を開き、ルシードに貰った残りの金をテーブルに叩き付ける。それが店内に流れる緊張感をより深くしたが、それさえ意識に入ってなかった。 「使った分もだ。後で幾らでも返済してやる。だから、消えろ、頼むから……」 「俺、は──ッ」 そこで、何故か引き裂かれたように〈喉〉《のど》が引きつったけれど。 「おまえのことが、大嫌いだ……!」 「─────」 「兄さん……」 俯きながら吐き捨てて、そのまま顔を上げはしない。 それは決してこの沈黙に耐えられないからでもなく、相手の顔を見れないからというわけでもなかった。 もっと別の、泣き出したいような気持ち。それがヴェンデッタの姿を見ると痛みと共に溢れ出しそうで、絞首台に上がる囚人のように自然とそれから遠ざかろうと願っている。 「な、なんだかいきなりとんでもないことに……」 「お、落ち着こうよ、二人とも……」 だからそのまま、入口へ向けて振り返りながら歩を進めた。 今は誰の言葉も聞こえないし聞きたくないという意思表示を示しながら、この空間を後にする。 そのまま夜の街に消える寸前──聞こえたのは、ささやかな拍手の音色。 見もしないのに理解できる。背中の向こうでアレはとても美しく、まるで救われでもしたかのように、俺を讃えているのだと。 「───そう、まずは偽らずに心の内をさらすこと。そしてそれを恐れずぶつかること」 「嬉しいわ。ようやく本音を吐露してくれたのね」 「知ってただろうが」 「それでも、言葉にするのが大切なのよ」 そうか、ならば俺はこう返そう。 「だから嫌だと言っているんだ」 確定していることだろうとも、それが痛いなら口にしたくない。 正論であったとしても、傷を負うなら論外だ。 減らないように、苦しまないように、少しでも楽になるようにと……それをずっと願ってきたからそんな正論、御免こうむる。 「あっ……兄さん、待って──」 妹の声さえも振り切って〈急〉《せ》かされるように店を出た。 胸の奥にある痛痒が今は少しでも治まるよう、1ミリでも遠ざかるべく……俺は確かに逃げ出したのだ。 ──それから、〈幾許〉《いくばく》か。 足早に歩き続け、訳のわからない苛立ちを噛み締めた後…… 「ちくしょう、何やってんだか……」 頭の熱も抜けた頃、湧き上がった強烈な自己嫌悪に負けてしゃがみ込んだ。自分のダメさ加減に対して、今度こそほとほと愛想が尽きそうである。 手持ちの金をすべて置いてきたのは失敗だった。無一文じゃこんな時間にどこへも行けず、かといってあれだけ無様をかました手前、のこのこと戻るわけにもいくまいし……というわけで。 結局、店先から数百メートル先をぐるぐる行ったり来たりで、はい終わり。そりゃあ盛大に溜め息だって漏れてしまうというものだ。 そもそも、俺はどうしてあれほど激情に駆られたのか── それさえも、何だ、今となっては〈靄〉《もや》がかかって思い出せない。 どうも見逃せない決定打があったような気がするものの、それを明確に思い出せばまた不快な気分になるだろうし、かといって回想を忌避すればその原因も掴めない。 だからこうして、行くも退くも選べないまま……なぁなぁと。 時だけが無情に過ぎる。月と〈第二太陽〉《アマテラス》を眺めながら自分の不甲斐なさを心底呪った──そこに。 「よう。随分と派手にやらかしちまったなぁ?」 不意に声をかけられて振り返ると、そこにはアルバートのおっちゃんがいつもと変わらない顔で立っていた。 他の連中の姿はなく、外で一服という感じでもない。つまりは、俺がこの辺でウロウロしてるだろうとみて様子を〈窺〉《うかが》いに来たといったところだろうが、ともあれ。 まずはこれだろうと、申し訳なく頭を下げた。 「悪ぃ、迷惑かけたわ」 「ははっ、気にすんな。悲しいことに店内で騒がれて困るほどの客なんざ、俺のレストランにはいやしねえよ」 「ただ、ミリィちゃんには後でフォローしておいてやんな。うちのウェイトレスどもは……まあ大丈夫か」 「あいつらはそれなりに世慣れしてるし、明日になりゃもう忘れてるだろ。だから一々気にしてんな」 「は、軽く言ってくれるねえ」 「そりゃあ言うとも、むしろ逆だろ。おまえは重く捉えすぎなんだよ」 「生きてるんだから虫の悪い時もある。うまく伝わらないこともある。その度に減点法で換算してたら、とても生きてはいけないだろうぜ、っと」 語りながらおっちゃんは隣に腰を下ろした。それは年寄り臭い仕草のくせにどこか様になっていて、思わず小さく笑ってしまった。 「そうそう。適当に笑顔作って辛いことは忘れちまえ。思い出すな。記憶の底に置いときゃいい。それでも時間は過ぎていくんだ、残酷なほど優しくよ」 「乗り越える、成長する、雄々しく〈ま〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》に成り続ける、さらに加えて間違えない……なんてことが出来るのは一握りの傑物だけさ」 「凡人はブレるもの、か」 「そういうことだ」 だから俺の馬鹿も許すと、伝えながら豪快に笑い飛ばされた。年の功とでも言えばいいんだろうか、バカやらかした男に対する度量の広さが染み入るようだ。 確かに言う通り、ミリィには謝っておかなければならないだろう。ヴェンデッタにも、嫌々だがそれなりに反省しているという体裁は整えておくべきで。多少のフォローも当然つけての対応が、これから必要になってくる。 だが、言い換えれば事はそれで解決するのだ。取り返しのつかないものを壊したわけでも、相手が俺を見限ったわけでもない。 損なった心証は日常生活で回復できる程度のもので、十分今から挽回可能だ。 客観的に見れば、単に俺が〈癇癪〉《かんしゃく》起こしただけであるから、誠意ある対応をきっちりすればこれ以上こじれることもないわけで…… そう分かっているから、ゆえに──いいやだからこそ。 「それでも、俺は目につくんだよ。おっちゃん」 ほんの小さな粗が、〈些細〉《ささい》なはずの欠点が、気にしても仕方ない穴が── 〈澱〉《よど》みが、傷が、痛みが、過去が──どうしても気になって見過ごせないんだ 気がついた時にはゆるゆると口が動き始めていた。〈愚痴〉《ぐち》とも内心の吐露ともつかない独白。人のいい中年親父くらいにしか聞いてくれやしないだろう、みっともない話を続ける。 「間違いなく人としての器が小さいんだろうな。悪い部分に敏感で、なのに成長したいと思っていない。奪われるのは怖いのに、勝ち取ろうと努力するのをまず面倒だと感じてしまう」 「だからそれ相応の毎日しか送れやしないし、おまけにそこで満足するんだ。朝はミリィに起こされて、たまに日雇いで借り出され、飯食って、ツケ溜めて、ダラダラゆるゆる〈飄々〉《ひょうひょう》と……」 「誰が聞いても情けないのに、信じられるか……? マジでこれが俺の精一杯なんだよ」 ……だから、ほんのちょっと外圧が加わるだけで破裂する。 結果として〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈風〉《 、》になったわけだ。後先なんてこれっぽっちも考えられない、余裕をなくせばあんなもので。 「くくっ──」 なのに、真剣な悩みへ返ってきたのはこもった苦笑だから、それが納得いかなくて思わずじとりと〈睨〉《にら》んでしまう。 「おお、悪ぃな。なんつうか、俺がおまえくらいの歳の頃を思い出しちまってよ。似たようなもんだったと思ってさ」 おっちゃんは可笑しそうに笑いを噛み殺しながら、そんなことを口にした。夜空に淡く輝く対の光源を見つめつつ、どこか感傷的な調子で〈呟〉《つぶや》く。 「最初は意欲的だった。ちっぽけな自分に四苦八苦しながら、それでも〈一端〉《いっぱし》の男になってやろうと目をギラつかせて、ああだこうだと駆けまわってたよ……若さだな」 「けど、その果てが〈コ〉《 、》〈レ〉《 、》だ。今はもうどこへもいけねえ、身の丈ってもんを知ったから限界の一つ手前で宙ぶらりん」 「今のおまえと同じだな」 言いながら、にかりと男臭く笑う。俺と違って吹っ切れているのか、後ろめたさや自虐のない清清しさがそこにはあった。 「それでもまだどこかで〈掻〉《あが》いているのは、未練かね。今の自分も案外悪いもんじゃねえけどな」 「なんだ、最初からなろうと思ったわけじゃないのか」 「そりゃそうだろ。俺はもっとビッグになりたかったよ。なんせ〈貧民窟〉《スラム》の出だからな」 「ガキの頃はそりゃあ貧相な暮らしをしてたもんさ。その分野望に燃えてはいたが、それもまた向こう見ずか……」 その思わぬ発言に信じられないと首を振った。スラム出身? 嘘だろ、ありえない。 絶対能力主義の今となっては底辺出の軍人も珍しくはなくなった。しかしそれは五年前、あるいは十年以上前に限られる。 そう、年齢から逆算すればおっちゃんの若いころとは、まだ── 「そう、十年よりさらに前。つまり〈星辰奏者〉《エスペラント》が存在もしていなければ、ヴァルゼライド総統閣下がトップについてるわけでもない」 「治安も未来も最悪だった。必死になってスラムを出ても、底辺生まれの〈塵〉《ごみ》なんて誰も相手にしてくれないしな。どこへ行っても厄介者さ」 「いつだって腹を空かせてたし、イラついてたよ。世の中を恨むことが何度もあった」 「だからこそというのも変だが、今の生活はあの日描いた理想じゃなくとも、それなりにマシなもんだと思ってる。普通ってのが得難いものだということは人並みに知ってるつもりだ」 「おまえさんがミリィちゃんとの暮らしにこだわる気持ちだって、少しは理解しているつもりだぜ」 そう言って励ます姿が、どこか俺には〈眩〉《まぶ》しく見えた。 さらりと秘めるべき出身を口にしたことも、心の内でとうに決着が着いているからなのだろう。貧民窟から抜けて真っ当な暮らしをするためには、一筋縄じゃいかない覚悟がいる。 世間からの風当たりに、偏見、迫害……何よりあの場で育ってしまえば、心のどこか歪んでしまう。まっとうな精神を得るという、当り前さえ苦労するのだ。 それが身に染みて分かるから、〈他〉《 、》〈人〉《 、》〈事〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》だけに同情と共感が湧き上がって来る。 「大した人間だよ、あんたも。〈碌〉《ろく》な奴がいないあそこで、よくまあ〈屑〉《くず》にならなかった」 いやはやまったく、普通は〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》ものなんだが── 「は? おまえ何を──いや」 「そうか、そうなんだな……」 「そういうことだよ、〈先〉《 、》〈輩〉《 、》」 苦笑しながら俺は自分を指差した。隠すほどの過去でもないが、これまで口にすることのなかった自らの経歴を自然に明かす。 スラム出身者は〈屑〉《くず》。別に偏った見方でもねえさ。これだけ分かりやすい〈実〉《、》〈例〉《、》が、ここにのうのうといるんだから。 ──そう、ゼファー・コールレインも同じく〈貧民窟〉《スラム》出身者。 最底辺で〈蠢〉《うごめ》くだけの、かつては人の形をした〈生塵〉《なまごみ》たちの一員だった 「掃き溜めみたいな場所でガキ同士つるみながら過ごしてきた。弱い者同士、徒党を組んで身を守る……ま、あそこじゃよくある光景だな」 「俺も含めてどいつも孤児だったから、見たことのない親や大人は頼れない。そしてこっちは弱者の群れだ。自然とじわじわ削られて、日に日に誰かが減っていく」 「俺の番は今日か、それとも明日かという時に……十年前だな。ちょうど〈星辰奏者〉《エスペラント》が軍で台頭し始めたのは」 貴賤は問わない。秘めた才さえあるならば、我らは汝を受け入れよう…… そんな売り文句があればどうする? 一も二もなく、そりゃ飛びつくわ。 もう、〈餓〉《う》えることがなくなるなら。奪うこともしなくていいなら、是非もなし。 「ほら、当時は改革派と血統派がバチバチやり合ってたじゃん? どちらも派閥拡大に余念がなくて、しかも改革派はガチに功績通りの待遇を付けてくれるという話だ。ありがたいったらなかったよ」 「何より最低条件で寝床あり、給料あり、三食ついてくるとあれば天国みたいな条件だったぜ」 「それに、もし強化兵になれでもしたら人生一発逆転だろ? 最底辺の犬っころから一躍エリート街道へとね」 「なれたのか?」 「まっさか」 ──そこだけは、一つだけ身を守るための嘘をついて。 「ゴールはいつもこんなもんさ。無職の穀潰しが一匹、出来上がりでござーい……なんてな」 結果は〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》だと、お手上げポーズで示してみる。 みすぼらしいのはもう嫌で、〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》になりたくて、多少は根性出しながら色々挑戦したものの──いつだって穀潰しに戻ってしまう。 軍の生活は栄光と破壊に満ちていた。〈星辰奏者〉《エスペラント》であるがために戦場から戦場へと渡り歩く陰惨な日々。 一芸特化の性能がゆえ適切な任務があれば即投入されるものの、現実は常に理不尽と予測外の連続で、成功確率は目安というのが当たり前。 突然の裏切り、事前に知るはずもない脅威。それらと遭遇するたびに傷つき迷いくたびれ果てて、〈血反吐〉《ちへど》と涙を吐いたり泣いたり…… 勝利はあった。見返りもあった。けれど功績が報われたのなら、人間兵器である俺たちはさらに次の、また次の──次の次の次の戦火へと延々渡り歩かねばならないから。 その度に“敵”と名付けられた存在を殺し尽せば、その度によくやったと賞賛されたら頭も当然、おかしくなるさ。 帝国の軍服を身に〈纏〉《まと》っていない者、いいや時には身内であっても誰であろうが手にかけてきた。なまじ能力が後ろ暗いことに向いてたため、汚れ仕事まで任されるようになり……落ちるに落ちた男が俺だ。 情けない? そうだとも、だって誰も教えてくれなかった。 「──“勝利”って、重いよな」 〈血塗〉《ちまみ》れた栄光と引き替えに、背負わざるをえない重責──あんなものを背負ったまま生きるだなんて、俺には到底出来やしない。 勝てば勝つだけ潰れそうになるなんて、そんな馬鹿げた話があるか。 「あんなものには耐えられねえよ。御国のためだなんて、どんな神経で口にしてんだか」 一人の女の子で今も限界。さらに一人、こうして追加されただけでパンクするという、そんな程度の器なんだよ。 立ち上がり、内情を吐き出し終えた一区切りに俺は大きく伸びをする。おっちゃんも腰を上げ、居住まいを正してから口を開いた。 「ま、難しいことは考えんな。生きているんだから何とかならぁな」 「そりゃまた当たり前の〈台詞〉《せりふ》だことで」 「おう、当たり前だ。どこにでもありふれている。だから何より正しくて、実はめちゃくちゃ難しい」 「初志貫徹、毎日コツコツ、そんなことは誰でも知ってる。けれどそれを守れるやつはどの分野でも一握りだ」 「正論ってのはいつも呆れるほどシンプルなんだよ。この場合、おまえさんが素直に謝ることとかな。そしていつも真に解決を求めるなら、それを選択するしかない」 「──だから嫌だ。だから、痛い」 「そう、身が裂けるほどに」 「正しいってのは、痛いんだ。間違ってる方が人間には快感なんだなぁ」 前を向け。振り向くな。嫉妬の前に努力しろ── 自分を、仲間を、未来を信じ、己が幸福だけではなく人々や世界のために、と。 それはそれは、どこかで聞いたことのある当たり前の正論だ。だからこそ激痛が走って仕方ないし、〈辟易〉《へきえき》してしまうという面がある。 サボることもズルすることも嘘つくことも一切なく、最後まで走り抜ければそれはまあ、確かに立派だ。しかしやはり、そんな理想を実行に移すなら聖者のような純粋性を求められる羽目になるのは、言うまでもない。 明日やるべきことを今やることが正しくても、言い訳を重ねながら一時の楽を求める方が不思議と心は気持ちいい。後になってやっておけばよかったと、悔いることは分かっているのに。 権力で不当に搾取したり、圧倒的な力で〈蹂躙〉《じゅうりん》したり、他者を論破しておまえは愚かと〈嗤〉《わら》うことも皆同じ──全部、どれも快感なんだ。 間違っていることは、気持ちがいい。 だからずっとダラダラそちらを選んできた。見ない振り、聞こえない振り、知らない振りは本当に俺の心を今まで軽くしてくれたが……ああ、クソ。 「あいつに謝りたくねえ」 ミリィはともかく、あの〈餓鬼〉《ガキ》には絶対頭とか下げたくない。対処としては正しい反面、心情としては想像するだけで最悪だ。 そんな俺の、これでもかという〈顰〉《しか》め面におっちゃんは豪快に笑った。肩をバシバシ無遠慮に叩いてくる。 「はっはっは、まあ頑張るがいい若者よ。今回ばかりは正解を選べるように努力するんだぜ」 うっせ。ただまあ、仕方ないと半ば観念してもいるので。 〈踵〉《きびす》を返しながら、一応告げる。 「そのためにも、少し頭を冷やしてくるわ」 「ミリィと……ついでにあいつにも、悪かったと伝えておいてくれ」 そんな事実上の敗北宣言を吐いてしまったことに、鉛のような不快感を感じたが、無理矢理腹へと飲みこんだ。 ああ、これだから──正しいことは痛いんだ。 「ま、そういうわけだな」  去っていく背が曲がり角に消えたと同時、アルバートが独りごちると近場の物陰から見慣れた顔が現われた。  隠れていたのはミリィとヴェンデッタ。普段とは明らかに異なった様子の彼を気にかけ、こうして耳をそばだてていたのだろう。表情には納得と、そしてどこか後ろめたさの影があった。 「あいつも、いろいろ思うところがあったってことだ。 受け止めてやれとまでは言わないが、今回のことは見逃してやってもいいんじゃないのかい?」  鷹揚な調子でそう口にするアルバートに、ミリィは言葉を発することなく小さく〈頷〉《うなず》く。  いささかしおれた様子に見えるのは、自らがこれまでに聞けなかったことをこの偉丈夫がいとも〈容易〉《たやす》く引き出したからだろうか。  だがそれも、ある一面においては当然のことだろう。  なぜなら二人は同じ家で、兄妹も同然に暮らしている関係。その安らぎに満ちた現在を不用意な詮索で壊してしまうことが恐くて、ミリィはゼファーの身の上を今まで尋ねることができなかった。  共に負った傷がある。だからこそ質問を避け、互いの治癒をじっと待っていたのだが……  それは決して間違った対応ではなかったとしても、今回に関しては踏み込めない領域でもあったのだろう。  秘めた痛みや過去を白日へさらすには、ある種の無遠慮さが必要となる。相手の事情を時にわざと〈斟酌〉《しんしゃく》しない人間や、適度に距離感の開いた相手である方が、意外と話しやすいことがあるのも事実なのだ。  それは当然、ミリィも分かってはいたのだが── 「──ずるいですよね、男の人同士って。 ああいう重い話を、あっさりお互いに明かし合えるんですもん。なんだか敵わないなぁって感じ」  言葉に含まれているのは、感謝の入り混じった悔しさだった。兄の心を軽くしてくれたことを喜びながらも、女としてそこに小さな嫉妬を抱える。  その感情を理解した上でアルバートとしては苦笑するしかない。 「仕方ねえさ。野郎なんてのは端からそういう生き物なんだよ。  相手が腹割ってきたら、こっちも応える。んで話し終わったらさっさと忘れて身軽になって……かと思えばしがみ付く。  傷も、後悔も、きっと根っこのところがいろいろ考えられねえバカなんだ。俺もあいつも、どいつもこいつも」 「ただあいつは、見ての通りだ。〈負い目〉《ケジメ》で身動き取れなくなってる」  過去に苦しみ自縄自縛──先ほど初めて深い部分まで触れたものの、あれは相当根が深い。  少なくとも、心の芯が一度完璧に折れているゆえの弊害だった。  何をそこまで気に病んでいるのか、アルバートには皆目見当つかずにいるが長く傍にいたミリィにしても、完全な理解までには至っていない。  ただきっと時間のかかる問題なのは間違いない。こんな一度の会話で完治するとはいかないから、思い悩む少女に向けて励ますように小さく笑んだ 「そう心配すんな。ほれ、こんな可愛い子たちが心配してんだ。苦い経験の一つや二つ、いつか克服するだろうよ」 「さあ、どうかしらね」  などと疑問視するような言葉を、しかし欠片も疑っていないような信頼を秘めてヴェンデッタは首肯した。  表情を〈僅〉《わず》かに緩めている姿は天邪鬼ながら神秘的だと、アルバートは頬をかいた。なるほど、こういうところがゼファーは苦手なのかもしれない。 「あなたはいい男ね、アルバート。我が家の犬に発破をかけてくれたこと、心から感謝しているわ」 「わたしも、ありがとうございます」 「よせよ、くすぐったい。大事な常連客へのちょっとしたお節介さ。  それに、ここから先はお嬢ちゃんたちの仕事だぞ? なんせ男の成長を見守ってやるのが女の甲斐性ってもんだからな」  茶化すような仕草を前に、つい先ほどの緊張した空気はもはやどこにも見られなかった。  きっと程なく、ゼファーは意を決して店まで帰ってくるだろう。  そして苦虫を噛み潰したような顔で、ヴェンデッタに悪かったと言うはずだ。この上なくぶっきらぼうなその表情が目に浮かぶ。  だから、今はその時を待とう。あれで中々、非を認められる人間なのだとこの場の誰もが信じている。  彼が直に戻って来るのを信じながら、三人は優しい夜風に吹かれるのだった。  けれど、その刹那── 「そう、来るのね──〈殺塵鬼〉《カーネイジ》」  共鳴するは、〈人造惑星〉《プラネテス》間特有の鼓動──  憂愁の色を宿したその瞳が細められる。 「本当に世話が焼けるんだから」  視線の先には映っているのは、先の見えない闇夜だけ。  されどそこに何かを予見したのか、ヴェンデッタは静かに彼方を見つめていた。 ──そう、ここが始まりだった。 こんなどうしようない掃き溜めで、一生懸命に生きていた。 自然と過去が頭の中で再生される。幼い頃──スラムで生きて行くために、自分と同じような身寄りのない子供たちと徒党を組んで過ごしていた、あの時を。 それは、〈弱者〉《カモ》を求めそこら中に潜んでいる無頼漢どもに対抗するための手段。三本の矢というか、ガキにとっては徒党を組むのが一番容易で、手っ取り早く強くなるための道だったのは間違いない。 だが当時つるんでた連中も、次第に過酷な環境で自然に淘汰されていった。 見知った顔が減っていく中で正気を保てたのは奇跡に近く、実際はもうギリギリの瀬戸際で、だからこそ軍への入隊を選んだのだ。そこに前向きな感情とやらは一切ない。 帝国の未来なんて、心底、本気でどうでもよく…… その事実に今更気づいて、思わず俺は笑ってしまった。口の端が奇怪に歪む。ああ自分は、あの日から変わらず一度も、何かを決めてないのかねえ。 らしいと言えばまったくらしいと、その弱さに自嘲する。 そんなだから、訳わからない少女相手に一人でビビり、テンパって── あげく、今── 「いい加減、隠れてないで出て来いよ」 ──こうして、何者かからの尾行を許す。 闇の向こうへ声を掛けたが、帰ってくるのは白々しい沈黙のみ。せっかくこうして場所を選びお膳立てをしたというのに、姿を現すそぶりがない。 というより、こいつ隠れるつもりがあるのだろうか? まるでわざとぶつけているような憎悪の意志、それが今も彼我の位置を浮き彫りにしている始末。ここまで来ると絶対わざとだ。 ならいいさ、乗ってやろう。今は珍しく〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》なのだから。 「理由は分かんねえけど、俺を恨んでるんだろう? いいぜ、やろうや。白黒つけてさっさと終わろう」 普段であればこんな挑発紛いの〈台詞〉《せりふ》は吐かないし、どうにかして〈撒〉《ま》くことができないかと考えたはず。 相手の素性が知れていないため尚更そうするべきなのだが、意識がささくれて、どうしようもなかったのだ。 だから、石でも拾って投げてやるかと思ったところで、小さな足音が静寂に響く。 そして、続き耳へ入ってきたものは── 「創生せよ、天に描いた星辰を──我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」 紡がれる〈詠唱〉《ランゲージ》──それが意味するものを悟った瞬間、戦慄が総身を襲った。 「女神の手にした右手の〈剣〉《つるぎ》。冷たく鋭い鋼の刃よ、おまえは心を持ちえない」 「揺らぐ〈秤〉《はかり》の導くままに、〈穢〉《けが》れと罪を裁断しよう。物は言わず。主張も要らず。主命を〈以〉《もっ》て闇を〈穿〉《うが》つ」 聞き違えるはずもない、それは〈星辰光〉《ほし》の輝きを呼ぶ誓願──超新星を生み出す呪言。 まずい、まずい、まずい、まずいと──混乱の渦に落ちる中、そして悟る。〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》と。 「なぜなら、それこそ〈剣〉《つるぎ》の本懐──正義へ捧ぐ愛ゆえに」 「いざ、鉄の時代を切り〈拓〉《ひら》かん」 このタイミングで俺を狙って〈星辰奏者〉《エスペラント》がやって来たこと。それすなわち、ターミナルの一件が露見した最大の証拠に他ならないと理解して──同時。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈降り注げ、火の落涙。正義の滅びた大地へと〉《     Judgement Tear     》」 闇を引き裂くように、球状の白光が虚空を焼いて〈奔〉《はし》った。 「ッ、────」 有無を言わせず放たれたそれは、まるで稲妻を思わせる超高密度のエネルギー体。火花を散らしながら高速で迫り来る光球を、横っ飛びに紙一重でなんとか〈躱〉《かわ》す。 瞬間、轟く爆発音。吹き荒れる衝撃が表面をくまなく焦がし、ひりつく熱波が肺を焼く。 そこへ続けてさらに二つ、迫り来る爆雷球が唸りを上げて一斉に襲来した。 威力は先ほど見た通り、直撃すれば五体満足では済まないだろう。良くて黒焦げ、悪けりゃ絶命。 どちらにしても、産毛一つかすってしまえば粉〈微塵〉《みじん》になってしまう。 だから、避ける。とにかく必死に逃げ惑う。迎撃なんて考えない。 これはまさに〈燃〉《 、》〈焼〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈爆〉《 、》〈弾〉《 、》だ。圧縮された熱量の塊が常時激しく反応しながら狂うように猛っている。 そんなものに対抗したいと願うなら、一気に絶対零度で凍結させるか、反応そのものへ訴えるか、力押しで消し飛ばすしか選択肢というものがなく── ──ゆえに、俺の手持ち札ではこれを防ぐのは絶対不可能。 爆雷の雨を転げまわって避ける負け犬。無様というしかない姿のまま、恥も外聞もなく泣きそうな顔でひたすら〈掻〉《あが》く。 「──ああ、なんて惰弱。〈鬱陶〉《うっとう》しい」 「立派なのは逃げ足だけ。まったく評価に値しない」 爆発音に紛れて周囲に女の声が響くものの、その居場所は夜闇に紛れて掴めない。 相手に気配を悟らせない術を心得ているのだろう。確実にターミナルで交戦した〈星辰奏者〉《エスペラント》とは二枚、三枚上手の相手……なのは間違いないのだが…… 「楽に死ねるとは思わないでくださいませ」 ……何故だ? 突き刺さる殺意が異常にでかい。 そのせいで隠形が乱れ、時に残像へ色がついてしまうのは明らかな悪手であり、それゆえに分からなかった。こいつは俺の何なのだ? されど、悠長に考える時間はなく── 「まずは脚、次に腕、胴体、そして最後に醜悪なその顔面……」 「ゆっくりと吹き飛ばし、芋虫のように地を〈這〉《は》わせてさしあげましょう。──ご期待を」 「が、ああああああァァァッ!?」 〈慇懃無礼〉《いんぎんぶれい》な──しかしその実、侮蔑と憎悪しかない言葉が爆雷と共に浴びせられた。 砲撃から視線を切っていないにも関わらず、〈予〉《、》〈想〉《、》〈外〉《、》〈の〉《、》〈方〉《、》〈向〉《、》よりの爆風が炸裂する。 こちらの回避能力を見越してか、直撃狙いから切り替わった。脇を通過したはずの電磁球が中空で爆発し、最も近づいた瞬間に前触れなく秘めた炎を開放する。 前後左右に上下も含めた全方位──自在に飛翔する爆弾が詰め将棋の要領で俺の移動を限定していく。砕けた瓦礫が燃焼し、煙と化して吹き上がった。 「──遅い」 そして──土煙を突き破ってきた拳撃の先、ようやく俺は相手の姿を捉えたのだった。 月光を受けて照らし出されたのは軍服を身に〈纏〉《まと》った、小奇麗な風貌の若い女。格好と隊章で相手の素性もあらかた理解できてしまう。 想定内での最悪パターン、こいつはやはり紛れもなく〈裁剣天秤〉《ライブラ》の刺客であり── 「が、ぐぅ──ッ」 交差した一合で、その脅威をまざまざと見せ付けられる。 合わせて迎撃したはずが、まるで霞を払ったかのようにするりと抜き手が胸へと刺さった。 内臓を〈抉〉《えぐ》るような一撃は肺を圧し、酸素を吐かせ、堅実かつ効果的にこちらの余力を削ぎ落とす。 のみならず──いいや、その程度で済むはずもなく。 考える隙を与えない矢継ぎ早の凶手が続く。両の目、〈喉〉《のど》元、〈顎〉《あご》、水月、そして金的──寸分の狂いもなく人体の急所へ飛んでくる四つの手足は、踊るように美しく。 当然、それを俺は〈捌〉《さば》ききれない。星の輝きに劣らない肉弾技術の錬度を前に、完璧な劣等として不等号を敷かれていた。 俺より巧い、だから勝てない。単純ゆえに劣勢を覆せないのだ。 だからそう、一方的に、成す術なく──ただ真っ向から、力と速さと技の差で順当にねじ伏せられる。抵抗する余地さえない。 小柄な体躯に秘めた力は戦闘者として完全に俺を凌駕していた。近接でもこうして〈嬲〉《なぶ》られ、しかし下がれば、再びさっきの二の舞だろう。 順当にこちらを上回る地力を前に、打てる手など、どれほどあろうか。 一転突破を求めても格上相手にそんな隙は、やはり早々見出せない。間合いを離そうとしない女と並走しながら斬撃を何度か放っているものの、そのすべてが絶妙な見切りによって避けられる。 そして、こちらがヘボを見せるたびに──そう、何故か。 「──なんの真似ですの、それは」 殺意が増す。憎悪が〈軋〉《きし》む。許せない許せない──貴様その様は何なのだと、理解不能の悪意が燃える。 まるで、〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈弱〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈様〉《 、》〈に〉《 、》。全霊振り絞れと、攻撃はより苛烈なものへ烈火のごとく加速していた。 「その程度で? これが底? あの方に目をかけられておきながら、気力も才も機転もない。どこまで愚鈍であるのやら」 「ああ、許してくださいお姉様。サヤはもう耐えられません。こんな〈塵〉《ごみ》にも劣る〈屑〉《くず》畜生、あなた様が記憶に刻む価値もない」 「あなたの覇道に〈轢〉《ひ》かれた、くだらぬ汚点……染みの一つでございましょうに」 嘆くようなその言葉はいったい誰に対してか? 少なくとも俺のことなど欠片も見ずに、誰かへ向けて心の底から忠言を搾り出していた。 顔を上げた刹那──無機質な眼光が、心臓の鼓動を射抜きにかかる。 「ゆえに死ね。貴様は塵だ。殺してやる、殺してやる、殺して殺して──死に腐れや」 「我ら裁きの天秤、その権利を執行する」 宣誓と同時、過去最大規模で発動された奴の奏でる〈星辰光〉《アステリズム》。 生み出されるは三つの〈電磁光球〉《プラズマ》。それが奴を中心に円を描き、高速で旋回と反転を繰り返しながら流れ星のように飛翔した。 大気を震わせるような轟音、崩壊していく廃墟。連続して生み出されては発射される爆雷の飛沫を前に、老朽化の進んでいた壁や床はひとたまりもなく爆砕される。 驚異的な操縦性を有しているのか、空中を泳ぐように進む光球は信じがたい軌道を描いて俺一人へと殺到していた。抜けることなど決して出来ず、さらにその弾幕を〈躱〉《かわ》したとして、意味はない。 なぜなら、それら魔弾の発生源こそあの女であるのだから。 接近など、炎の種火に自ら飛び込むようなもの。文句なく焼き焦がされる。 「ほうら──どうしましたの? おいでませ」 「もっとも、触れた瞬間消し炭一つ残しませんが」 それはあたかも主を守護する絶対の〈防壁〉《シールド》であるようだ。〈煌〉《きら》めく星が周囲を華麗に浮遊して、接近する如何なる敵をも逃がさない。 水中に敷き詰められた機雷の如く、不用意に近づく者を〈木端微塵〉《こっぱみじん》に消し飛ばす。突貫を仕掛けることは、まさにそのまま奈落への片道切符だ。 どうにもこうにも、手が出せず── ……かといって、このまま守勢に徹していたところで〈縊〉《くび》り殺しに遭うことだけは確実だった。 行くも退くも総じて爆殺。よしんば懐へ入れたとして、死に方が殴殺へと変わるだけ。 逃走を選ぼうにも、それを許すような隙がそもそも奴に見当たらない。三体の〈星辰奏者〉《エスペラント》をまとめて相手取ることよりも、この女一体こそが、遥か格上の難敵だった。 要するに、見事な八方塞がりだ。そして同時に、〈や〉《 、》〈は〉《 、》〈り〉《 、》と思う。 「──いい加減に、しろよ」 ほら、見ろよ。〈次〉《 、》〈の〉《 、》〈難〉《 、》〈題〉《 、》〈が〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》。 一つ勝てばその次が、そのまた次が、さらに次が…… より驚異的な姿となって俺の前に訪れる。いつものように舌なめずりして“勝利”から逃がさないと口ずさんでいるのが見えてきた。 〈嬲〉《なぶ》られながら歯噛みすれば脳裏をよぎるのは少女の影。ふざけるな、ふざけるな、だから〈逆襲〉《おまえ》が嫌なんだ──! アレを拒絶しようとした結果が、この苦痛に〈繋〉《つな》がっていると俺には思えてならないんだよ。たとえそれが屁理屈や八つ当たりであったとしても、そう導かれたという感覚が今も絡みついてくる。 ──さあ〈斃〉《たお》せ、そして更なる〈次〉《 、》へ往きましょう、と。 今もそっと、耳元で〈囁〉《ささや》いているような錯覚を感じてしまうから──ああ。 「認めねえ──」 そして──もはや、心底どうでもいい。心の奥で何かが〈キ〉《 、》〈レ〉《 、》た。 天秤の後続、恐らく幹部クラスの〈星辰奏者〉《エスペラント》がどうして来たのか。それを殺すことのリスクとメリット。そもそもやれるかどうかといった確率さえ、頭の中からぶっ飛んでいく。 腹の底から湧き出すのは、爽快感を伴う殺意。端が、〈歪〉《いびつ》に、そして大きく吊り上がる。 「ああそうさ関係ない。どいつもこいつも〈鬱陶〉《うっとう》しいんだよ、勝手に人の周りをうろつきやがって」 おまえら、邪魔だ。気持ちが悪い。 だから気分よく、現状を改善するにはどうするか? 簡単な手段が一つある。 「殺してやるから、死ねばいい」 あくまで自分の利益のために、女を殺す。 それは愚劣で最低なこと、言い逃れが出来ないほど人の道理を外れていて──ゆえに心が〈愉悦〉《ゆえつ》で〈疼〉《うず》く。 間違っていることは気持ちが良いから……正しいことは痛いから。 自分より優れている存在を踏み〈躙〉《にじ》り、死と敗北を味わわせる。それはなんて最悪で、同時に魅力的なことなのだろうか。 ゆえにやろう、一点特化の塵らしく。たった一つを武器にして、今からこいつを〈嵌〉《は》め殺す。 方針が決まったことで精神が急激に安定していくのを感じ、今こそ相手の舐めた能書きを〈蹂躙〉《じゅうりん》してやろうと思った刹那── 「──────、あ」 眼前で膨れ上がった光球が、その意気を〈容易〉《たやす》く〈挫〉《くじ》いた。 目を覚ませ、これが格だと言わんばかりに力の差を見せ付けながら女は〈嗤〉《わら》った。やる気になった俺のことを心底侮蔑し、最大級の悪意をもって誅を下す。 「では、ごきげんよう──〈糞〉《くそ》野良犬が」 「のた打ち回って死に腐れやァ」 瞬間、致死の大光球が〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく爆裂し── 光と熱と炎の〈波濤〉《はとう》に飲み込まれながら、ゼファー・コールレインは塵のように吹き飛ばされた。  ──そして。土煙が晴れたその先に、もはや獲物の姿はなかった。  あるのは〈抉〉《えぐ》れた破壊跡と、焦げて黒ずむ瓦礫の破片。  焼け〈爛〉《ただ》れた死体の肉は見つからず、そこに空いた〈下〉《 、》〈の〉《 、》〈階〉《 、》〈へ〉《 、》〈続〉《 、》〈く〉《 、》〈穴〉《 、》を確認して思わず舌打つ。  敵手の秘めた性能から、サヤ・キリガクレは相手が瞬時に何をしたのか悟ったのだ。 「コードネーム・〈銀狼〉《リュカオン》、宿す星は振動操作…… なるほど、〈床〉《 、》〈を〉《 、》〈切〉《 、》〈り〉《 、》〈抜〉《 、》〈き〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》。逃げ足だけは上等ですこと」  見渡せば爆散した破片の内、綺麗に切断されたようなものが幾つかそこには混じっていた。  恐らく大光球が当たる寸前で星光を発動、そのまま刃を振動させて切れ味を増し、下へと続く抜け穴を生み出したというわけなのだろう。  生き汚いが、妙手でもある。交戦してからここで初めて、サヤはゼファーを評価した。  ゆえに続けて、軍に残された相手の資料内容を回想する。  〈星辰奏者〉《エスペラント》は帝国の重要な成果物であり、その管理は常に厳しい。ゼファー・コールレインという男がいったい何を可能とし、何が得意で不得手なのか、小技の詳細までは掴めないがその大まかな概要には既に目を通してあった。  敬愛する主人は自分の態度を面白がっていたせいか、具体的な部分については未だ知りえなかったものの……  それを考慮した上で、出された結論は大まかこうだ。 「アレの武器は基本二つ。出力の異常な落差と、一点特化の干渉性……」  〈平均値〉《アベレージ》と〈発動値〉《ドライブ》の差が極端に大きく、それによる〈騙〉《だま》し討ちをどうやら得意としていたらしい。  他に類を見ない上昇度は客観的に見れば、生まれ変わったとさえ感じるのだろう。その〈怯〉《ひる》みを利用して短期決戦に持ち込むわけだ。  そこで生きるのが、高い干渉性からくる射程距離と応用力。  振動という現象は利用範囲が多岐に渡り、高まった出力と掛け合わせれば短い時間に限った場合、やれることは非常に多い。  動作音の消去、切断力の向上、反響感知、振動増幅──等々と。  総合してみれば、なるほど確かに認めざるを得ないだろう。 「〈暗〉《 、》〈殺〉《 、》〈向〉《 、》〈き〉《 、》ですわね」  恐らく、その分野においてのみ自分を上回っているはずだと、冷静にサヤは結論付ける。  軍人として、そして〈星辰奏者〉《エスペラント》として。総合的な完成度で言えばこちらの方が圧倒的ではあるものの、瞬間的な突破力に関しては……腹立たしいが一手劣ると言う他ない。  そこは〈真摯〉《しんし》に受け止めよう。  だからこそ、後れは取らない。  一芸特化の宿す猛毒、その奇怪極まる〈捩〉《ねじ》れ具合に関しても自分は主へ叩き込まれているゆえに…… 「お姉様、もうすぐですわ」  敬愛する主を想い、たおやかに小さく微笑む。  それは見かけによらぬ〈獰猛〉《どうもう》さを秘めており、ぞっとするほど殺意と悪意に濡れていた。  全身全霊でゼファーの存在を殺すという意思が余すことなく含まれており、あれが自分と〈関〉《 、》〈係〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》事実さえ、サヤはとても容認できずにいるのだった。 「あのような男、拾う価値などございません。まして傍に置くなどと……」  そう信じ、忠言したが主は苦笑するだけだった。  サヤは覚えている。頬をうっすらと赤く染め、まるで少女のような微笑みを浮かべた彼女の姿を。  その美しさを思い返すたび胸が震えて仕方ないのだ。どうして自分が、あの笑みを献上することが出来なかったのだろうかと歯噛みせずにはいられない。  そして願う、自分がいつか彼女にとって〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》ことを。  そのためにも──  だから、あの〈塵屑〉《ごみくず》だけは──可及的速やかに駆除しなくてはならない。  四肢を焼き、股を潰して去勢しよう。  内臓を〈掻〉《か》き混ぜながら眼球を〈抉〉《えぐ》ってやれば、どれだけ醜く悶えるだろうか。  無価値であることを突きつけて、必ず思い知らせてやるのだ。自分が誰より、あの方のことを愛しているし力になれるということを。  蕩けるように、いぢめて、啼かせて、抱いてほしい。その瞬間を想像するだけで下腹部が情の欲を帯びるの。  ああ、お姉様──〈貫〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》、と。 「ですから、もういい加減終わらせましょう。 所詮は負け犬。これ以上遊んであげる価値など、どこを探してもございませんわ」  よって、誰にともなく短い決意を口にして消えた獲物を追いかけた。  飛び込んだ暗闇は照明など欠片もないが、しかし気配や痕跡を〈辿〉《たど》ることなどサヤにとっては造作もないこと。  冴え渡らせた五感を研いで気配を探る。逃げ込んで上手く目を〈眩〉《くら》ませたつもりだろうが、〈却〉《かえ》ってこれでは袋の〈鼠〉《ねずみ》というものだ。  捕捉するのに一分もかけはしない。  ゆえにいざ、足を踏み出したその瞬間── 「な──ッ、ぅ、ああああ!?」  突如として、〈音〉《、》の氾濫が巻き起こった。  物音がする──鼓膜の裏で、耳管の奥で、そして遠く遥か彼方で。  多種多様な音の奔流が、遠ざかりながら、あるいは逆に近づきながら。急激なドップラー効果で変化しつつ理解不能の不協和音を演奏していた。  背後で自分以外の足音が鳴り──  振り向き様、すかさず星を叩き込む。 「──ッ、違う」  だが、そこには何も存在していない。周囲と変わらぬ薄暗い闇があるばかりで──いいやそもそも、これはそれ以前の問題か?  信じられないことに、そこへ転がっていたのは大きな瓦礫の塊だった。つまりこれが、サヤには先ほど紛れもなく人の足音に聞こえていたということ。ありえない事実を前に愕然とする。  戦慄する時間すら許さず、〈出鱈目〉《でたらめ》な音の渦は大きくなる一方だ。  五感の一つ、聴覚が完全にかき乱された。頭痛すら感じる音量が冷静さを削ぎ落としていく中、意識を最大限に稼動させる。  考えろ。考えろ──自分は何をされている?  敵手の星は振動操作。それを踏まえて、何をされているのかと。  自問した瞬間、一瞬で答えは出た。そうかこれは── 「──〈偽〉《、》〈装〉《、》〈音〉《、》〈の〉《、》〈発〉《、》〈生〉《、》ッ」 「正解、よーく気づいたねえお嬢ちゃん。さすがは天秤、優秀優秀」  〈吼〉《ほ》えた瞬間、〈耳〉《 、》〈元〉《 、》〈で〉《 、》〈囁〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》ような声が響き渡る。  〈咄嗟〉《とっさ》に振り向きながら振り払えば、当然そこに姿はない。空気の振動による虚実入り乱れた音界の中、嘲弄しながら男は語る。  それはそれは、とてもとても〈愉〉《たの》しそうに。 「生物は基本、五感に頼る。そして何よりそれぞれの感覚から得た各情報のバランスに。  匂い、手触り、味、色彩、そこに加えて奏でる音……どれも別個に感知はしていない。実は相互に補填しながら知覚の精度を総合的に上げているんだ。  何か一つでも欠けたら他が鋭敏になるのはそういうわけだな。無駄な感覚器官はないし、どれも疎かにしてはならない。 全体でようやく一つ。優れた部分を持っているのは結構でも、五つはそれぞれ揃っているのが当たり前だろう?」 「だから通常、一角が欠けるだけでも想像以上の負担になる。それは技量どうこうの話じゃなく生物としての本能でだ。ぶっちゃけストレス溜まるんだよ。  違和感は生理的に心を〈蝕〉《むしば》む。摂取した栄養が偏るだけで鬱になるのが人間だ。俺たちが思っている以上に人類は繊細に出来ている。変化に弱い。  ──例えば、こんな風に」  瞬間──四方八方から襲い掛かった風切り音へ対し、矢継ぎ早に迎撃した。  しかし返ってくるものはかき乱された衝突音のみ。獲物の姿はどこにも見えず、そこに加えて聞こえてくる間隔すらも既におかしい。  明らかに着弾とは異なるタイミングで発生している音さえあり、これではどこで爆発が起こったのかも疑わしくなってきた。  けらけらと、その下手人が耳障りに肯定する。 「間違っていないぜ。ちゃんとそこに撃っているよ」  けれど、発生したそれは物音より小さかった。徐々に見ているものすら信じられなくなってくるのは、まさに術中──だがしかし。 「ええ、それでこそ……」  サヤは小さく不敵に笑った。いいぞ、そうでなければあの方の目が曇っていたことになる。  この程度が出来ないようでは、主の顔が泥に塗れてしまうだろうに。  そして、自分にとっても〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》。  何度となく潜り抜けた修羅場であり、ゆえに解決方法はある。 「かくれんぼがお好きなら、いいでしょう。〈燻〉《いぶ》り出してさしあげます!」  選択したのは全方位への乱れ撃ち。全力で解放した超新星が星屑の雪崩と化して、廃墟を穿ち焦がし抜いた。  単純明快──徹底的に、逃げ場もないほど破壊すればいいだけのこと。  ゼファーは知らないことだが、サヤが〈爆熱光球〉《プラズマ》を生み出せるのは同時に三つという制限があり、大型のものに至っては一つずつしか撃てないという厳然とした縛りがある。  それは出力と特性から生じる限界点。サヤがどれだけ優秀な〈星辰奏者〉《エスペラント》であったとしても、現時点でその壁を超えるのは不可能だったが、しかし……  逆に言えば、それ以外にこの〈星辰光〉《アステリズム》は大した〈枷〉《かせ》を持っていない。  連射可能、燃費良好、さらに操縦性が抜群で、維持性さえも揃っている。  よって無謀な同時展開さえ望まなければ、息切れなく、機関銃のように爆発の連鎖を紡げるそれが、いま驚異的な命中精度であらゆる〈物音〉《まと》を撃ち抜きながら爆炎の花を咲かせている。  宣言通り、かくれんぼの場所が消えていく。大が小を真っ向から粉砕して喰らい尽くす、その間際に──  ひときわ巨大な破壊音が、天井から鳴り響いた。  軋んだと思った次の瞬間、頭上一面が襲いかかるように崩落してくる。  それは、初めて起こした相手側からの〈直接攻撃〉《アプローチ》。  今まで場所を嗅ぎ分けられないよう潜んでいた敵手が、ついに勝負へ打って出た。音を偽装しながら密かに上の階層を切り進めていたのだろう、大質量で圧殺すべく瓦礫の壁が降ってくる。  しかし、甘い── 「こんなもの、紙同然」  まばたきの間に大光球を創造する。この時のために今まで〈わ〉《 、》〈ざ〉《 、》〈と〉《 、》〈遅〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》展開速度を、遠慮なしで駆動させた。  何処かの物陰から相手の動揺が確かに伝わり、その事実にサヤは勝利を確信する。 「化かし合いはわたくしの勝ちということで」  ゆえに誇りながら、銀狼の企みが打ち砕かれる──寸前。 「ああ、まあそれはそれとして──  一体誰なんだよ? おまえが濡らす〈淫〉《、》〈売〉《、》は」  無音と化したはずの世界で──せせら笑う言葉が一瞬、サヤの持つあらゆる意識を消し飛ばした。 「────、──」  何だ? こいつは、何を言ったのか? 激しく沸騰する殺意が冷静に駆動していた思考回路を、一つ残らずぶち切れさせた。  それが策と分かっていても、駄目だ決して見過ごせない。  許せない。許さない。負け犬風情があのお方をと── ああまさに、そう思ってしまうことこそが違わず相手の狙いというのに。  冷静に──いいや無理だ、殺してやる。  暴走する忠誠心から、ゼファーの死を強く願って意識が束の間乱れ狂った。 「はい、ご苦労さん」  そして、〈僅〉《わず》かに手が遅れてしまう。  この瀬戸際で、ほんの僅かに……ブレたのだ。 「ああああああああああぁぁぁぁァァァッ!!」  瞬間、爆砕する天井と共に音の嵐が鼓膜を貫く。  意識の隙間を縫うように繰り出された攻撃は、限界まで増幅された、音、音、音、音──爆音による狂想曲。  心構えを断たれた間隙へと滑り込み、その衝撃はサヤの五感をまとめてすべて崩壊させた。  だから、それが相手の〈殺人手法〉《キリングレシピ》。心のあり方に唾を吐くそのやり方は、最低で下劣な分、恐ろしくも効果的だ。 「──さようなら、お嬢ちゃん」  闇の中、閃くは冥府へ誘う死の刃。背後から〈囁〉《ささや》かれた言葉に呼吸が止まり、サヤは迫り来る死を予感する。  目が合った男の瞳はまるで聖者を思わせるように透き通りつつ、同時に身の毛もよだつほど〈悪辣〉《あくらつ》に歪んで濁った無の〈硝子〉《ガラス》。  どこまでも機械的に、そして静かに、厳かに──決着の時は訪れた。 そう、これでおしまい──詰み王手。 肉体を内側から痛めつける反動を堪えながら、この一瞬にすべてを賭ける。 大規模な振動干渉により血肉が今にも弾けそうだが、それでも何とか間に合った。振りぬいた腕は今まで何度もやったように、〈容易〉《たやす》く首を刈るだろう。 特化型に〈嵌〉《は》められたなら、後は死ぬだけ。 呆然とした表情を貼り付けたまま、おまえはここで死ぬがいいと、胸中で吐き捨てる。 「チェックメイトといったところかな。おまえの勝ちだよ、そして〈流石〉《さすが》」 「──元〈裁剣天秤〉《ライブラ》副隊長、ゼファー・コールレイン」 瞬間──響いた別の足音が、その結末を覆した。 「ぐ、ぅッ……!?」 過去を想起させた瞬間──横合いからの〈暴〉《、》〈風〉《、》に巻かれ、大きく背後へ吹き飛ばされた。 俺を殺そうとした天秤女は健在で、つまりはまったく殺せていない。千載一遇の好機を潰されたことにしかし、しかし……俺の心はもはや欠片も興味を向けてはいなかった。 足音が響く。こつこつと、断頭台の刃みたいに。 最悪の既視感がする。この〈指〉《 、》〈向〉《 、》〈性〉《 、》〈を〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈天〉《 、》〈候〉《 、》〈操〉《 、》〈作〉《 、》は……まさか、嘘だそんなこと。 ある訳ない、あいつは死んだはずなのに── 「新旧副官対決、なかなか面白いものを見せてもらった」 「あ、あぁ…………」 この声を、俺は聞き間違えるはずがなくて。 その姿を、俺は忘れるはずがなくて。 迫り上がってくる恐怖に震えながら、やっとの思いで口を開く。 五年前、ずっとそうしてきたように。あの懐かしくも最悪な日々と同じように、膝をつきながら彼女を見上げる。 「アマツ、隊長……」 「なんだ、悲しいな。あの日のようにどうか名前で呼んでくれ」 チトセ・朧・アマツ──俺の元上官、そして〈裁剣天秤〉《ライブラ》最強の〈星辰奏者〉《エスペラント》。 かつて戦場を共に駆け、背中を預けた相棒が、そこで静かに微笑んでいた。 「久しいな、〈銀狼〉《リュカオン》。まさかこうしておまえに再会できるとは、夢にも思っていなかったよ」 「いま私は心から、それを喜ばしいと感じている」 言いながら、眼帯で覆われていない琥珀の片目で俺を愛でるように射〈竦〉《すく》めていた。まるで親愛の情でも抱いているかのような口振りで話しかけてくる。そう、何もかもが昔のように。 対して俺は、膝が笑ってまともに立っていられなかった。ああ、だってそうだろう。思いがけないこの再会に戦慄し、絶望し、そして── 「チトセ、俺は……」 何を言うべきかと迷い、そこで言葉に詰まってしまう。いまさら言い繕う資格なんて、もう俺には残ってないと分かったから。 「……あの大虐殺で、おまえも死んだと思っていたよ」 「ああ、私もおまえをそう思った。かつてないほど絶望的で、しかし共に生き延びたとは〈大和様〉《カミサマ》の加護でもあったのかもな」 「とはいえ、五年だ。文句の一つは言わせてもらおう。私を置いて別の女を選んだあげくに身を隠すとは、まったくこれでも傷ついたのだぞ? 〈妬〉《や》けてしまうな、どうしてくれる」 「複雑な女心をおまえはどう思っているんだ、ええ」 「……そうだな。言い訳はできねえよ」 あの日、俺は確かにミリィを選んだ。それはすなわち、敗北したチトセを置いて逃げ出したことを意味している。 二人の命を秤にかけて選択し──そしてこいつを切り捨てた。 どう〈掻〉《あが》いてもそれは覆せない真実だから、背を向けた俺はこいつに対して言い訳を口にするなど許されない。 いま生きているからいいじゃないかで、それは到底埋められない溝だろう。その重さ、過去という鎖を分かっているかいないのか、なぜかチトセは楽しげに煩悶する俺を見て低く〈喉〉《のど》を震わせていた。 「やれやれ〈酷〉《ひど》いな。かつての片腕にこうも振られてしまっては、私の求心力とやらも大したものではないらしい」 「ご覧の通り、おまえの後釜には懐かれているのだが……なあサヤ」 チトセの後ろに庇われるような位置、窮地を救われた後進──サヤという女はそこで〈慙愧〉《ざんき》の念を滲ませていた。主の問いかけに、自らの不甲斐なさを呪いつつ、口を開く。 「すみません、お姉様。むざむざこのような醜態を……」 「構わんさ。こういう言い方も変ではあるが、いい経験になったろう。反省するなら学ぶといい。あんな強さもあるのだと」 「どうだ、おまえの前任者はなかなかに手癖が悪いと思わんか? なにせこれで、師父の眼鏡にかなったという変り種だ。光るものはあるのだよ」 「──そして、おまえと組まされた」 「輝かしい青春時代というやつだな。今ではすべてが懐かしい」 青春? 馬鹿言え。全方位に優れた純血種と一芸だけしか持たない雑種。チトセを磨き、学ばせるための風変わりな〈教〉《 、》〈材〉《 、》として俺は引き抜かれただけだろう。 アマツの血筋として、次期天秤の部隊長を担う宿命を持つチトセ。こいつに多角的な視点と経験を若いうちから積ませるべく、俺は相方へとあてがわれた。 そして、向いているからと暗殺ばかりを研ぎ澄ませて…… エリートな特務部隊の副隊長、そんな肩書きを手に入れながら安らぎは欠片もなく、幸福さえもすり抜けて残ったものは首を刈られた死骸の山。 「血の雨だけしか、なかったろうが……」 「かもしれん。しかし、それだけではなかったよ。少なくとも私にとっては」 「だから──」 一歩、前に出た〈途端〉《とたん》、燃えるような覇気がなびく。 それは俺がずっと見てきた王者の気質。自分が所詮、底辺の生まれであると痛感させられた貴種ゆえの風格が、再び俺の折れた心を圧しにかかった。 刻み込まれた〈憧憬〉《トラウマ》が、胸を強く軋ませる。 「もう一度私のものになれ、ゼファー・コールレイン」 「軍に戻るんだ。あの時に叶えられなかった想いを、今度こそ我々の手で掴み取るために」 ……それが余りに〈眩〉《まぶ》しくて、泣きそうな気分になりながら俺は思わず目を細めた。 ちくしょう、こいつは、どうしてあの日からこんなにも変わってないんだ。どうして俺に、恨み言の一つだって言ってくれはしないのか。 惨めで惨めでたまらなくなる。チトセは今も誰より強く、そして綺麗だ。 見惚れそうなほど強く美しいままだったから目を逸らすことしかもうできない。劣等感の根源を前に苦しさだけが湧き上がる。 「……脱走兵だろ、俺は。軍法会議で縛り首だ」 「心配はいらん。過去の失踪やその他〈諸々〉《もろもろ》の〈事〉《、》〈件〉《、》について、残らず不問にしてみせよう。そんなものよりおまえが欲しいと言っている」 「……きっと、また逃げ出しちまうぜ」 「ならば心胆から鍛えなおそう。私を、見る目がない女にさせるな」 「……破格だな」 「そうさ、悪い話ではないと思うが?」 悪いどころか、にわかには信じがたい提案に〈眩暈〉《めまい》すら覚えてしまう。暗にヴェンデッタ絡みのことも庇ってみせると告げているため、そこにはやはりたまらない誘惑が含まれていた。 証拠は残していないつもりだったがやはり調べはついているらしい。そしてチトセに知られたとあれば、きっと他にバレるのも時間の問題というわけだ。 それを考慮に入れたとしたら、こうして離反者に選択肢を与えるこいつはなんて慈悲深いことなのだろう。 無論、逆に考えればチトセの胸先三寸にすべてを握られているに等しいものの、こいつはいつも自分の言葉に嘘をつかない奴だった。 それだけは、今でも強く信じられる。 けれど── 「買いかぶりはやめてくれ」 さして〈逡巡〉《しゅんじゅん》することもなく、俺は弱音を口にした。 「俺には無理だ。頼むから、もう放っておいてくれ」 続ける言葉は情けなく、恐怖と自己否定に〈塗〉《まみ》れている。そんなことしか、過去の戦友に伝えることができなかったが偽りない本音がこれだ。 俺はおまえとは違うんだよ。あれだけ傷つき苦しんで、けれど見事に復活を遂げたチトセみたいには決してなれない。また、きっと、〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈か〉《 、》〈で〉《 、》〈挫〉《 、》〈折〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。 何よりあんな激痛に立ち向かう気概があれば、とっくの昔に軍へ出頭してるはずなんだ。それをしていないのが壊れた証拠、ゼファー・コールレインはとっくの昔に終わっている。 うなだれて告げた内心は、知古であるため何らこじれず相手へと伝わった。 見た目は女王然とした様子を崩さず、やれやれといった表情を浮かべながらチトセは得心したかのように一度深く、目を閉じた。 「……なるほど、五年前に致命傷を刻まれたのは私だけではないらしい」 「その自虐はとうに見慣れたおまえの癖だが、さらに深度を増しているな。少なくとも今ほど重傷ではなかったぞ。すべてはあの日が原因か」 「安心しろ、さすがに私も瀕死で戦えとは言わん」 ゆえに、と。〈仄〉《ほの》かに熱を〈孕〉《はら》んだ声が〈呟〉《つぶや》くように紡がれて。 「では、再教育といこうか?」 瞬きすら終わらぬ一瞬の後、チトセが俺の眼前に立っていた。 手にした蛇腹剣を重々しく鳴らし、そして── 「んっ────は、ぁ」 「──────」 艶やかな唇が、惹かれあうように重なった。 それは柔らかく、瑞々しくて、〈貪〉《むさぼ》るように情熱的な想い〈一撃〉《くちづけ》──だから訳が分からない。 一瞬だけ絡んだ舌に、頭の中は真っ白だ。けれど見つめるチトセの瞳は、潤みながらもひたすら〈真摯〉《しんし》に澄んでいる。 「そう、何があっても見捨てないさ……そのために此処まで来たんだ」 「宣戦布告は済ませたぞ。さあ、乙女に恥をかかせるな」 混乱する俺を置いて頬を染めながらチトセは笑う── 〈嗤〉《わら》う── 〈哂〉《わら》うワラウワラウ、〈獰猛〉《どうもう》に。 それは砂漠に水が染みるかの如く、豹変という速度で笑顔の意味が塗り変わる。いじらしくそっと寄りかかっていた手は獲物を掴む爪と化し、包み込むような信頼はそのまま戦意へ反転した。 そして── ──まさしく俺の記憶がままに、彼女は再び戦士と化すのだ。 「逃がさない。逃がさない──あの日からずっと、おまえの魂は私のものだッ」 「あ、がァァッ……!!」 そして、脇腹が瞬時に消し飛んでしまいそうな刺突を受けながら、俺は苦悶に歯を食い縛った。 一瞬遅れて〈灼〉《や》けるような熱さが傷口から〈奔〉《はし》る。最大級の警戒を持っていたにも関わらず、抜刀の瞬間さえ目で捉えることができなかった。気づいた時には貫かれてるなんて、もはや冗談にもなりやしない。 ゆえに退避し──否、それさえ何の効果もなく。 「ああ、ああああああ、ッ、ギ──!」 刻まれる。刻まれる。刻まれる。刻まれる──それもしっかり加減しながら。 圧倒的という言葉さえ陳腐だというように、超高速で繰り出される〈怒涛〉《どとう》の斬撃。切っ先が消えた〈途端〉《とたん》、肉が離れて血が飛び散る。防ぐことさえ敵わない。 それは特に、星光を用いた類の技ではなかった。単に隔絶した〈平均値〉《アベレージ》を誇るがゆえ、そして剣術を操る動きが恐ろしいほど巧みなゆえに繰り出される鋭い剣戟。 つまりは地力で俺の〈発動値〉《ドライブ》に喰らい付き、〈且〉《か》つ技量によって上回るという常軌を逸した不条理である。 「ふむ、私の実力は織り込み済みか。忘れていないようで嬉しいよ」 「覚えているか、ゼファー。いつも私たちはこうだったな」 声が聞こえた、と──認識したと同時に身体中を切り刻まれる。 焼けた鉄棒を押し付けられたような痛みの後で、全身から鮮血が舞った。 全力なのに、後先なんて考えず振り絞っているというのに、動きが速すぎて辛うじてしか認識できない。しかも無駄が欠片もなかった。五年間の歳月が、さらにチトセを押し上げている。 昔日、繰り返した手合わせよりも互いの差はずっと〈酷〉《ひど》い。走り続けた兎を前に、怠けた亀は敵わないという当たり前の結果があった。 「〈祖父様〉《おじいさま》がいて、おまえがいて……ああ、あの時間こそ星だった」 「ゆえに願うよ。失われて二度と取り戻せない光景だが、しかしおまえはそうじゃない。無くしていないものもあった。ならば後は精進あるのみ」 「もう一度、人狼を侍らせたいのだよ。どう思う?」 「──そんな負け犬、知らねぇなッ」 叫び、薄汚れた暗殺者だった過去の自分ごと否定する。回顧しながら言葉にはどこか熱病めいた高揚を感じさせ、引きずられそうな誘惑があった。 「ガ、ッ────」 水月に打突をもろに喰らい、壁まで弾き飛ばされる。一瞬呼吸不能になりかけて意識が宙に飛びかけた。 頭を全力で駆動させ、逃げの算段を組み立ててはいるものの成功する見込みは皆無に等しい。チトセは俺を過大評価しているからこそ、決して侮りはしないのだ。 それは言い換えてみれば警戒されているということであり、相手の慢心や隙を突くことでここまで来た俺に対して噛み合わせは絶望的だ。地力どころか、相性さえもとことん悪い。 加えて俺は〈相棒〉《こいつ》を熟知しており、〈相棒〉《こいつ》もまた俺の講じるあらゆる手段を網羅している。不意打ちや〈騙〉《だま》し討ちの通じる芽すらその時点でもう潰れているため、勝ち目がない。 「私の圧倒はあの時と同じだが、おまえも相変わらず剣呑じゃないか。ほら、まだ諦めてなどいないという目をしている」 「どうする〈銀狼〉《リュカオン》……さあ、さあ、さあ、さあ、ここから如何に引っ繰り返す?」 だからない、無いんだよ。秘策なんて何一つ。 期待したような声と共に斬光が走り、そのたび俺は敗北へ突き落とされていく。そしてそれさえ、まだ温いという風にチトセは覇気を〈迸〉《ほとばし》らせた。 「ではそろそろ、同じ土俵に立つとしよう」 「なあ、私を見ろよゼファー。強くなったと見惚れるがいい」 「創生せよ、天に描いた星辰を──我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」 その言葉に燃えるような熱を乗せて、極大の〈詠唱〉《ホシ》が紡がれた。 「ああ、懐かしき〈黄金〉《こがね》の時代よ。天地を満たした繁栄よ。幸福だったあの日々は二度と戻らぬ残照なのか」 構えたチトセの総身に感応する、桁違いのアストラル。 同時、周囲の大気がざわめくように荒れていく。それはまるで異能の行使を祝福しているかの如く、常識外れの超新星が高らかに産声を上げ始めた。 「時は流れて銀、銅、鉄──荒廃していく人の姿、悪へ傾く天秤に私の胸は切なく激しく痛むのだ」 「人の子よ、なぜ同胞で憎み合う。なぜ同胞で殺し合う。正義の女神は涙を流して剣を獲る」 鳴動する大気。渦巻く暴風。強烈な気圧変化に伴って空間さえも〈撓〉《たわ》み、〈軋〉《きし》む。 瓦礫が吹き飛び、壁に叩きつけられて粉々に砕け散った。人間を軽々と吹き飛ばす風力が、一人の女を中心に螺旋を描いて〈集〉《つど》い始める──〈貴種〉《アマツ》の血へと。 「ならばその〈咎〉《とが》、この手で裁こう。愛しているゆえ逃さない」 ──そう、これこそ、日本の血が生む潜在能力。 アストラル技術の発祥民族であるためか、それとの親和性が先天的に極めて高い化物ども。そこらの雑種がどう〈掻〉《あが》こうと〈辿〉《たど》り着けない域の〈天稟〉《てんぴん》、選ばれた者がいま輝きながら翼を広げる。 全方位六性質、満遍なく優れているという理想系の星が〈煌〉《きら》めく。 「吹き荒べ、天罰の息吹。疾風雷鳴轟かせ鋼の誅を汝へ下さん──悪を討て」 彼女を〈裁剣天秤〉《ライブラ》の頂点たらしめている真骨頂が──今、ついに。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈無窮たる星女神、掲げよ正義の天秤を〉《Libra of the Astrea》」 ここへ、光り輝く煌星として新生した。 すなわちそれは、もはや逃れられない俺の破滅を意味している。 「こうして全力を振るうのも、大虐殺の時以来か……あまり易々と死んでくれるなよ」 信じているぞと、身勝手な信頼を口にして──そっと切っ先を向けた刹那。 主の宣した名に応えるよう創造された大暴風が、俺を彼方へ吹き飛ばした。 「──ッ、ァァアアアアア!」 一つ、二つ、三つ、四つ……風のミキサーに削られながら老朽化した壁をぶち抜いていく。 五つ分の部屋を超えてめり込みながらようやく止まった。上下さかさまの体勢で〈磔〉《はりつけ》にされ、奇怪なオブジェと化しながら咳き込むように吐血する。 それでも、まず思ったのは〈動〉《 、》〈か〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》という一念だった。ここにいては死ぬだけだ。そう、攻撃はまだ終わっていない。 続いて、風が渦巻き、渦巻き、渦巻き集いて──出来上がるのは流れる雲海。 先ほどの台風を媒介に姿を〈顕〉《あら》わしたのは紛うことなく積乱雲。周囲一帯を覆うようにして広がったそれの至る所で蒼白い電光が小さく弾け、何が訪れるかを見せ付けて。 「ぎ、ああああああああァァァッ!!」 逃げることも、まして抵抗することもできず、部屋全体へ閃く稲光に一瞬で呑み込まれた。 全身を貫く数億ボルトの激痛に絶叫せずにはいられない。そう、風を操るとはこういうことだ。〈星辰奏者〉《エスペラント》としてのチトセは今や気象兵器と化している。 正義の女神──〈裁剣〉《アストレア》。彼女の手にする刃の前には、何者も等しく断罪されるのみ。 チトセの宿す星の光をかつての師父、先代〈裁剣天秤〉《ライブラ》隊長はこう呼んでいた。 「風神雷神、かつて日本に存在していた有名な概念だな。五行においては木気であるとも言われたか」 「自然災害とは神のもたらす裁きであり、思い上がった人々へ向ける戒めでもあったそうだ。現象の偶像化、おまえはなんとも雅なことよ、と」 「……そう評され喜んだ時もあった。覚えていないか?」 「ごほっ、ハ──〈頷〉《うなず》いたら、手加減してくれるのかい?」 「まさか」 「ぐぅァ、ガッ──」 笑顔で放たれたのは無慈悲に下される暴風の連撃。土手っ腹に直撃し、アバラの粉砕される嫌な音が低く響く。先ほどの雷撃に続けて〈内臓器官〉《ナカ》も〈纏〉《まと》めてイカれてやがった。 集束させた風の力は天候などと言うにはあまりに暴虐性を〈孕〉《はら》んでいて、まるで加速をつけた鉄球を仮借なく打ち込まれたかのようだ。そしてそれに対抗する手段なんて、俺からすればまったくない。 動けば暴風の圧に絡め取られ、乱気流を突き破れない。かといって遠距離からの攻撃手段も大したものはほとんどなく、仮に接近できたとしても結果はまるで同じこと。 先程までのように何もできず、〈蹂躙〉《じゅうりん》されるのみだろう。 両者の立ち位置をこの結果は正しく反映していた。弱者は地に〈這〉《は》い〈蹲〉《つくば》るのみという、順当な結果が余さず実演されている。 間髪入れず目の前に閃いたのは蛇腹の刃。形態を変え、予測不可能な軌道を描く斬撃が烈風と共に身体の各部を〈膾斬〉《なますぎ》りに捌いていく。 武技、星光、ともに隙なし。全ての能力が他の追随を許さないというその万能性こそ、正に戦闘者の理想型──何一つ俺の勝てる要素がなかった。 舞い散る鮮血の赤に、闘争本能などというものはすっかり〈挫〉《くじ》かれ消えていく。 再び轟風が巻き起こり、今度は地面へ打ち込まれた釘のように下の階へと吹き飛ばされる。全身は打撲と裂傷でもはや満足な駆動は望めない。 だが、それでもと、望みを託して〈掻〉《あが》きを見せても。 「ふむ──いいぞ。少しは記憶に近づいてきた」 ──余裕の体で防がれて、隙など僅かもこじ開けられない。 一挙一動に俺の持ち得ない心技体のすべてがあった。才能を宿し、努力を重ねた人間が持つ絶対性は一芸特化の奇襲程度で揺るがない。 「ではもう少し牙を強く研いでみよう。折れるな、〈掻〉《あが》け──変わって見せろよ我が狼」 そして、抵抗はどこまでも虚しく…… どんな手を打とうが、その〈悉〉《ことごと》くを乗り越えられて…… 砕き、潰され、もがき、いなされ…… 〈弄〉《もてあそ》ばれる駄犬が如く、風雷の五月雨により苛烈な〈躾〉《しつけ》を浴びつくし…… 「──まあ、今はこんなところか」 ……番狂わせが起こる予兆さえ掴み取れず、順当にここへ敗北を〈晒〉《さら》すのだった。 見下ろすチトセと見上げる俺の視線が重なる。あの日失われたこいつの右眼は今や眼帯に覆われていて、それだけが記憶の中の姿と違うただ一つの相違点だった。 〈顛末〉《てんまつ》を知っているためそれは痛ましいはずなのに、様になっている姿はどこまでも〈眩〉《まぶ》しく映る。 血筋があって、家柄がよく、師に恵まれ、野望があり、努力するのを何より好むその姿── ああ……本当に、どうして俺は、こんな人間になれなかったのだろうかと思わずにはいられなくて。 隙のない完全無欠の〈憧れ〉《トラウマ》をせめて静かに眺めながら、その美しさにただ見惚れていた。嫉妬さえも湧き上がらないというあたり、まったくどう処理すればいいのやら。 「なんだ、笑っているのか。ゼファー」 「そう、だな……妙に、懐かしくてよ」 地べたを〈這〉《は》う俺と、それを見下ろすチトセの構図。〈裁剣天秤〉《ライブラ》にいた時間は思えばずっとこの光景が基本だったと思うのだ。 おまえがいて、師父がいて、しごかれ嬲られ磨かれて…… ほんの少しだけ救いがあったものだから。 「未練だ、なぁ……」 「そんなことはない。もう一度、私の下へと来たならば」 「誓うよ、もはや二度と負けはしない。どのような困難でも踏破してみせるから、おまえの牙を我が手に寄こせ」 「それとも何だ、私では不服だと?」 まさかと、血で咳き込みながら力なく首を振った。そんなことは決してない。 「おまえとなら、無敵だよ。ずっとそうだったじゃないか……」 「ああ。私が万能、おまえが特化。共に足りない部分を補うことでどんな任務も怖くはなかった。敵などいないと信じれた。誇らしかった」 「そして何より楽しかったよ。箱入りでは見えない世界を教えてくれたと、今でも深く感謝している」 「……だが、アレだ」 炎と災厄にすべては〈穢〉《けが》れ、崩れ去った。 それを指摘すると肩を〈竦〉《すく》めてチトセは少し苦笑した。どこか〈儚〉《はかな》く憂いを見せる。 「私はおまえを信じていたよ」 けれど、俺はおまえが〈羨〉《うらや》ましかった── 勝ちたいから特化型を尊重する女と、負けたくないから万能型を妬んだ男。そんな俺たちの関係は、それなりに上手く回っていた面もある。 共に相手の価値を求めていたのは本当で、けれどあまりに根っこが違い過ぎたのだろうから、あの瀬戸際で二人の道はきっぱり別れた。 その関係性は今もまったく変わっていない。俺はもう断たれたと告げ、彼女はまだだと雄雄しく語る。 俺はもう嫌だと逃げて、彼女は往こうと誘いに来た。 決して相手が嫌いじゃないのに……そうだ、俺はこいつが嫌いじゃないんだ。ただ、憧れさえ感じていながら、結果としてこうも食い違っているという現実がある。 だから俺はと──続けようとした言葉が、そっと指先で止められた。 俺を抱き起こしながら困ったようにチトセは首を〈傾〉《かし》げてみせる。柔らかく、ただ静かに。 「大丈夫さ、今は違う。私にもおまえの心が理解できるよ」 「敗北してどれだけ泣いたと思っているんだ。偽りなんて〈纏〉《まと》わないから、せめてその目でありのままを感じてくれよ」 「………………」 その言葉があまりに信じられず、思わず硬直してしまう。振りほどけない身体を労わるようにそっと頬を撫でる指先は、身体以上に心の傷を優しく癒そうという想いから……? ミリィのことも、ヴェンデッタも、今だけは他のすべてが頭の中から消え去ったく。こんなチトセは見たことがなく、ゆえに息さえ奪われたまま阿呆みたいに眺めている。 俺を撫でる手はたどたどしく、ほのかに切なく震えている。微笑みながらチトセの顔が落ちてきた。 息が触れ合うような至近距離で真っ直ぐな視線が重なる。それは不謹慎ながら吸い込まれそうなほど綺麗で、どこか物悲しく輝いていたものだから…… 「なあ、ゼファー……ずっと言い忘れていたことがあるんだ」 「私はあの日、おまえに──」 「おお、嘆かわしいねえ花婿殿よ。〈拐〉《かどわ》かされては頂けない」 「愛しの彼女は、冥府で健気に〈吟遊詩人〉《オルフェウス》を待っているのによォ」 声が響いたと同時──轟きながら天井が砕け散った。 廃墟を〈容易〉《たやす》く突き破り、〈何〉《、》〈か〉《、》が目の前へと舞い降りる。巻き上がる砂塵の向こう側、極大の死が塊を成して〈禍々〉《まがまが》しい律動を繰り返していた。 チトセが止まる。俺も止まった。手足が一気に凍りつき胸が大きく波打ち始めて止まらない。 ──覚えているぞ、この気配、この異物感。世界を〈蝕〉《むしば》む絶対的な捕食者の恐ろしさを俺は記憶の闇へ強く、深く冷たく刻まれているのだから。 砂塵が消えてそこに存在していたモノは…… 「さあて、第一試験といこうじゃねえか」 触れただけでどうにかなってしまいそうな赫黒の殺意。独特の意匠を備えた鋼の巨躯。忌まわしい鬼面の〈火星〉《マルス》が、血濡れの過去から抜け出して眼前へと立ちはだかった。 「あ、あぁぁ……」 ああ、〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》…… 次の難題が、次の難敵が、次の、次の、次の次の次のと…… 俺を永遠の負け犬とするために──■■へと導くために、際限なく。 「お姉様、これは──ッ」 「さもありなん。まったく、今日は過去によく会う日だよ」 察知して馳せ参じた副官へと軽口を返しながら、しかしその眼光は既に刃の如く鋭利な光を宿している。 常態で放たれる殺意の渦はチトセのそれとはまったく違う重厚な鋼の威圧に他ならず、人間に放てる類のものではなかった。 これは〈異〉《 、》〈物〉《 、》だけが持つ災禍の臭いだ。同じくアストラルを用いる生きた兵器でありながら、〈星辰奏者〉《エスペラント》とは何かがまったく異なっている。単純な上位互換とは明言できず、さりとて無関係というわけでもない。 ならば何かと言うのなら……ああ、そうだ。 「似ている……?」 凝縮した死の気配。まるで〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》にそっくりだと、恐怖の由来に合点がいった。 それを察して孤独に〈怯〉《おび》える俺を置き、威風堂々とチトセは立つ。 「やあ、いつ黄泉返ったのかな赤の魔星」 「今になって再び〈相見〉《あいまみ》えるとは思わなかったが、ご機嫌なその理由を一つ教えてくれないかな?」 「はん?」 不思議なことに、そこで初めて鬼面の四眼がチトセを向いた。この場の最大戦力へ、まるでたったいま気づいたように視線を寄こし、次いで小首を〈傾〉《かし》げている。 「あぁ……天秤のご令嬢か。まあご覧のようにという風でね。鎖に〈繋〉《つな》がれた〈憐〉《あわ》れな犬に自由はないというわけさ」 「それと、悪いが〈同胞〉《きょうだい》絡みでね。構ってやれる時間がない」 応じ、そしてそれっきり。似つかわしくない殊勝な言葉を告げたと思えば、それ以降は〈一瞥〉《いちべつ》もせず視線をチトセから外す。 今すぐに斬りかかられても当然だというはずながら、その見逃しに〈躊躇〉《ちゅうちょ》は欠片も見られなかった。 拍子抜けするような態度は紛れもない本心なのだろう。鬼は〈貴種〉《アマツ》の純血種にまるで興味を有していない。つまり奴は、天秤の総隊長を狙ったがためここに現れたわけではなく── 〈人間〉《おれたち》が〈訝〉《いぶか》しむ中で、仮面に包まれた朱の眼光がこちらを射抜いた。そして舐めるように俺を見回した後、〈禍々〉《まがまが》しい光を面に浮かべる。 嘘だろ、やめろ、ありえないと困惑するが──そう、すなわち。 「──よう、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 奴の目的は俺だということ。最悪の想像が、悪夢のように的中して現実と化す。 「おまえの比翼は思った以上に気難しくてね。余計なことかもしれねえが、今から少しお節介を焼かせてもらおう」 「そういうわけで、ここから先は男同士の会話といこうや」 告げながら見せ付けるように鳴らされる鋭い爪。準備運動用というように肩を回し、弛緩したその刹那。 「ガ、ッハ──」 状況の整理もつかないまま一気に背後へと流れる視界。魔星の突進が身体の真芯へと突き刺さった。 のみならず、死なないよう絶妙の加減で繰り出された豪腕に掴まれて、隣の部屋へと吹き飛ばされる。 超越の速度がもたらすその衝撃に喘ぎながら、女二人をこの場に残し、一対一の構図へとお膳立てを整えられた。 ──だから、もう、逃げられない。 あの日と違い、今度は一人で絶望の過去と相対する。 「悪いな。痛めつける趣味は無いが、今のオレは〈諸々〉《もろもろ》封じられててよ、ままならねえもんだ」 「つまり根性出せば、そう簡単に死にやしないということだ」 うそぶくように魔星は口にするが、封じるとは? いったい何を?こいつの行動、言葉、企み……そのすべてがこれっぽっちも分からない。 分からないが、しかし……ッ。 「……おいおい」 俺は潰れかけた芋虫のように、地を〈掻〉《か》きながらここを逃げ出すべく必死に動く。 その度に〈埃〉《ほこり》でまみれ身体を汚すが、だからといって立ち向かう意思なんて、既に根こそぎ蒸発していた。 どうしてこいつが生きているんだとか、軍部の研究素材としてホルマリン漬けになってろよとか。何から何まで分からないが、そんな疑問より拒絶を選ぶ。一刻も早くここから去りたい。 生きるんだ。生きているんだ。死にたくないんだ──こんな様でも。 負け犬そのものの惨めな姿にマルスは呆れたのだろう。これは予想外だという風に嘆息しつつ天を仰ぎ、諭すように語り掛けてきた。 「なあ、おまえさん。それでいいと本当に思ってんのか?」 「──、────ッ!」 丁寧に、的確に──決して死なないように蹴り上げられる。 次いで全身がバラバラになるような衝撃が連続して叩き込まれる。身体が跳ね上がった瞬間、巨大な腕に頭部を鷲づかみにされて覗き込む異形の視線と目が合った。〈喉〉《のど》から小さく悲鳴が漏れる。 「たす、け……どうか、頼む────」 「だから……あー、いやいや、そういうんじゃなくてよォ」 「まさか本気でそうなのか? とりあえず助かりたいだけ?演技でもないとしたら、いよいよ男を見る目がないねえ〈同胞〉《きょうだい》は」 それは、誰を慮るような言葉なのか。白けたと言わんばかりに首を〈傾〉《かし》げて、そこから一転── 「──〈惨〉《むご》いぜ。そんな奴をなぜ選ぶかね」 誰かを〈咎〉《とが》めるように〈呟〉《つぶや》いた直後、またも俺は〈嬲〉《なぶ》られる。 〈獰猛〉《どうもう》かつ精密な赤星の轟撃に、悲鳴すら奏でる間もなく壊され続けた。 抵抗も、逃走も、防御すらも許されない。突風に吹かれた木の葉のように、ただ哀れに翻弄される。過去と同じ、巨体に似合わぬ異様な高速機動を駆使しながら悪鬼は俺を死の間際へと追い込むのだ。 そう、ただただひたすら一方的に。 どうして俺を狙っているのか、何一つ分からぬまま。 翻弄される光景は、まさに蟻と鬼の力比べ。 戦力比はまさに一対千というところか。隔絶していて、ゆえに絶対敵わない。 だというのに、一息に殺されない事実から裏には何か、知りたくもない別の目的が嫌になるほど〈伺〉《うかが》えた。 マルスはじっと壊れゆく俺の姿を眺めている。ひたすら窮地に追い込むことで、その内面を推し量ろうとするかのように固定したまま揺るがない。 「なるほど……無駄な発破と分かってきたが、一応聞こう。〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈様〉《 、》〈子〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》?」 「笑っているのか、泣いているのか。それとも未だに黄泉を抜けてはいないのか。どうしてわざわざおまえのことを選んだか……英雄サマは趣味じゃないのか」 「教えてくれよ、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》を射止めた男。そしてちっとは本性見せろや。じゃねえと、ほら、激しく真に遺憾ながら──」 「オレは、おまえを殺すことになる」 それは、なんて矛盾した〈台詞〉《せりふ》だろうか。 まさに今、俺をそうしようとしている奴が口にしていい言葉じゃない。なのに何故か、それがしっくり来ているという真実こそが分からない。 呆れながらも痛ましそうに、理解不能な情動を見せつけて鋼の鬼は人体破壊を行ない続ける。 「……〈憐〉《あわ》れだな」 「いいぜ、慈悲だよ。オレがきっちり殺してやる」 猶予期間もこれにて終わり。魔星はついに、完全純度の殺意を〈纏〉《まと》ってようやくこちらを眺め始める。 「その方が絶対にいい。独断だろうが構うものかよ、〈憐〉《あわ》れ過ぎる」 「なぜならこのまま突き進めば、おまえに待つのは〈死〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈も〉《 、》〈恐〉《 、》〈ろ〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈運〉《 、》〈命〉《 、》〈だ〉《 、》。そこで苦しむぐらいなら、ここで綺麗に終わっとけ……人間として召されりゃいい」 「おまえは〈吟遊詩人〉《オルフェウス》じゃあなかったんだ。どこにでもいる〈凡人〉《ただびと》だよ」 その言葉こそ、きっと俺にとって最上の幸福なのだと花を慈しむかのようにマルスは俺へ囁いた。救いを告げるような声は、耳障りなほど澄んでいる。 「あ……、ぁぁ…………ッ」 だから── だから、クソ、それが何の慰めになるというんだ?〈血反吐〉《ちへど》に咽ながら鬼を呪う。 恨んでいいと勝手に告げて、納得しろ? 受け入れろ? 知らない間に巻き込んで、運命とやらが強大だから役者以外は死んじまえって? 塵や凡愚に用はない? 綺麗な言葉や言い回しで悟ったように語りやがって……結局、俺は死ぬんだろうが。ならばそこに何の納得があるっていうんだ。 こんな現実は嫌だという身勝手な感情こそ偽りない俺の本音で、けれどそれを覆せるだけの力だけは身体のどこにも宿ってない。それが無性に悔しかった。 今更になって最後の〈掻〉《あが》きで立ち上がっても、振り上げられたあの裂爪で死ぬだろう。ふらふらと船上みたいによろけながら、やっと上体を起こしたところで判決が下る。 「──ま、それならそれで派手にいこうや!」 「しみったれた言葉はやめて、華々しく逝こうぜ──なァァッ」 割り切ったから、それはそれ、これはこれ──今までの理知的な顔とは一転、突き抜けたいっそ笑えるほどの狂喜と暴威がマルスの中で爆発した。 放たれた一撃は先ほどまでの義務感で繰り出されていたものに比べ、三倍近くの速さを誇る。 そして俺は瀕死の様で、迫り来る死を恨めしげに眺めるしかなく…… 「退けよ、鬼面──唾をつけたのはこちらが先だ」 疾風迅雷──〈螺旋〉《らせん》を描き轟かせ、飛来した鉄の刃が致命を防いだ。 気づけば背後、立っていたのは〈正義の女神〉《アストレア》。風を推進力へと転じた爆発的な加速を用い、魔星を急襲したのだった。 そこからさらに二撃、三撃。火花を散らす暴星と裁剣、巨爪と刀。激突を繰り返して渡り合うチトセの動きに淀みはなく、流麗な体〈捌〉《さば》きで真っ向から鋼の鬼と切り結ぶ。 五年前、一人の英雄がそうしたように。配役を絶妙に変更しながら、伝説が再び目の前で演じられ始めていた。 「横取りはいけないなぁ、その男には私も用を残しているのだ。廃棄するならまず一報を入れてくれ」 「理由を聞けば納得するかもしれないが……どうする? 口を滑らせるつもりはないか?」 「クク、さぁてどうしようかねぇ?」 間断ない暴風烈風、縦横無尽に走る刃。鞭の如き斬撃弾雨を弾きながらチトセとマルスは気軽に言葉を交し合う。必滅の意を乗せながら、しかしまるで積年の友人みたいに会話だけが懇意な姿で突き進んでいた。 「覇気はある。力もある。才に関しちゃ英雄よりも潜在的に秀でていると……まあ確かに」 「それなりの資格はあるが乱入はオススメしねえな。知らないなら、それに越した話じゃねえし……」 「実際、〈大〉《 、》〈将〉《 、》は何も語っちゃいないだろう?」 「────ほう」 にやりと、その〈誰〉《 、》〈か〉《 、》を共に思い描いてチトセは口角を吊り上げた。二人の間で何かの隠喩が通じている。 「いいことを聞かせてもらった、感謝しよう。ゆえに──」 「では、その気にさせてみせましょう」 瞬間、降り注ぐ爆熱光球──〈僅〉《わず》かな隙を貫いて副官の完璧な連携がマルスの身体へ突き刺さる。 目配せや合図すらなく主従は動きを一致させた。主を慕うサヤにとって戦闘支援は十八番の一つ、見本じみたアシストが魔星の動きを見事に捉える。 「──言ったろ、〈悪〉《 、》〈く〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。力量以外に色々あんのさ」 しかし、それでも鬼面はなお無傷。恐るべき頑強さを誇示しながら白煙を割り、悠々と歩を進めていた。 そう、怪物とは不死身であると古来より相場が決まっているものだ。かつてと異なり瘴気をなぜか〈纏〉《まと》っていない相違点はあるものの、内包している素の出力はさすが魔星の眷属であり、戦軍の〈星〉《カミ》に他ならない。 対峙するチトセに並びサヤが白雷を激しく散らした。援護の体勢を取りながらもその瞳に宿るのは特級の敵意であり、天秤の支柱二名は共に怪物を討ち取るべく〈矜持〉《きょうじ》と軍靴を大きく鳴らす。 「そういうわけでだ」 「いいだろう」 「人間を侮らないで下さいまし」 高まりあう戦意が渦巻く。誰もがやる気で“勝利”を求めているからこそ、何があっても止まらない。 決着をつけない限り、もはやここが死地になるのは決定的で…… 「やめろよ……」 ……ゆえに、俺一人が蚊帳の外。 これから始まる激戦に、ゼファー・コールレインは付き合えない。 そして傷つくこの身体では、それの余波すら防げないと確信したから── 「──行くぞ」 「────、嫌だ!」 されど無慈悲に会戦の号砲は放たれる。負け犬の悲鳴など、その力強さに〈掻〉《か》き消されるだけだった。 絶望と嘆きに喘ぎながら、狂ったように輝き続ける英雄譚へと俺は再び飲み込まれていく。 暴力、暴風、暴熱、暴圧。世界を引き裂くありとあらゆる暴虐の〈坩堝〉《るつぼ》。破壊手段の見本市に救いや許しは一切ない。 公平な弱肉強食の理は強者の楽園を創造して、弱者の命を拒絶する。 「が、っぁ、ァァァアアア──ッ」 だから当然こうなる他なく、巻き込まれた俺はただ、苦悶のラッパを鳴らし続ける生きた楽器と化していた。 まさに〈塵屑〉《ごみくず》。真なる無価値。ゆえに放っておけばいいはずが、こちらの動きを奴らは逐次目を光らせている始末。逃走するための隙はなく、そして誰も助けるつもりは持っていない。 外も中も醜く潰れた。骨や内臓はどれだけ無事に残っているんだ? 未だに脱落していないのがむしろ不思議で、そんな奇跡は求めてないの何故かまだ、どうにかねばって生きている。 まだ、必死に生きているんだよ──死にたくないって、言っているんだ! 「──逃げる」 その一念、死亡寸前の本能が折れた心に火を宿した。 それは後ろ向きであり、本当の意味では解決策に至らない一時凌ぎであるものの、確かな改善の意思だった。嫌だ嫌だと言いたいが、しかし駄々はもうこねない。 不平不満をどうしても口にしてしまう小物だから、せめてそれを行動は移さねばと決心して傷つきながら機を〈伺〉《うかが》う。この場の全員が勝利を求めるゆえの穴、その〈陥穽〉《かんせい》を突くために。 目を凝らす。目を凝らす。目を凝らす。眼軸がねじり切れるほど、さながらそれは狂犬病の獣がごとく妄執すら籠めた一念で輝く奴らの粗を探して── ああ、ついに。 「どけぇぇぇッ──!」 唯一訪れた、好機とすら言えない刹那の間隙。三つの星が激突したその中点、激しさゆえに発生した空白地帯へ最後の力で果敢に跳んだ。 これが正真正銘、最後に生み出す超新星。 全員の〈聴覚〉《みみ》をピンポイントで〈掻〉《か》き乱し、鼓動をひたすら加速させ、逃走経路を〈反響音〉《ソナー》で探り、あらゆる技を詰め込みながら一心不乱に駆け抜ける。 〈窮鼠〉《きゅうそ》の反抗、ただ一点に賭けた思いが実を結んだ。同時に行なった四工程は強者の意識を小さく貫く。 逃げ切れる。そう確信して、寸前── 「つれないなァ、花婿殿。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》はおまえのために目覚めたんだぜ?」 「それをなんだ、〈ま〉《 、》〈た〉《 、》そうやって見捨てるのか?」 「────、ッ」 そう、まさに寸前──いつかの風景が記憶の彼方で明滅したから。 「あ、……」 そのせいで、ほんの〈僅〉《わず》かに硬直した筋肉が遅れを見せた。そしてそれは異形の魔星にとってすれば、十分な隙だろう。 視界の端で鬼は小さく首を振った。期待外れと嘆くように……もしくは祝福するように。 「あぁ──やはりおまえさんは〈落〉《 、》〈第〉《 、》だ」 「ただ、それはそれで幸せかもなァッ」 よって、命運はここに尽きる。 回避は不可能。防御も不可能──相殺を狙うにもこちらの攻撃出力では、どう足掻いても焼け石に水。 轟速をもって迫る凶爪は、もはや避けようのない軌道を辿り俺の頭蓋へ振り下ろされた。 「──さあ、それではもう一度」  絶体絶命の境地で、〈い〉《、》〈つ〉《、》〈か〉《、》〈の〉《、》〈記〉《、》〈憶〉《、》が俺の内側に蘇った。  俺の思考はあいつのもので、その逆もまた然り。ゆえに誰かの切なる声が、頭に直接響いてくる。  暗く冷たい冥府の底から、少女が優しく愛情と共に〈囁〉《ささや》いていた。 「“勝利”を求める? “敗北”を拒む? “逃亡”を選ぶ?  いいえ、否。そうでしょう。どれもあなたに〈相応〉《ふさわ》しくない。  そんなものはどう〈掻〉《あが》いても形にできない」  なぜなら自分は永遠の負け犬、呪われた〈銀の人狼〉《リュカオン》。  常に敗亡の淵で嘆きながらあらゆる敵を巨大な〈咢門〉《あぎと》で噛み砕く、痩せさらばえた負の害獣。  次にやって来る狩人が更に凶悪な存在になると分かっていても、自分自身の宿命から逃れられずに〈足掻〉《あが》いている。  そんな男に栄光なんて掴めない。  光に向かって駆ける権利を、最初から持っていないのだ。 「私があなたに与えられるのは、たった一つの〈導〉《しるべ》だけ」  ゆえに、少女の存在意義は真実そこに集約している。  〈憐〉《あわ》れで醜い、愚かな男──比翼に向けて彼女は〈謳〉《うた》う。  より深い、闇へと続く深遠に向け冥府の扉がまた開かれた。  待ち焦がれたわ、愛しの琴弾き。あなたの〈絶叫〉《うた》がようやく聞けると、微笑みながら女は星へと願いを捧ぐ。 「──“勝利”からは逃げられない」  だから、それを〈呪縛〉《すくい》と成すために。 「さあ、〈逆襲〉《ヴェンデッタ》を始めましょう」  勝者の光を破壊すべく、死界の乙女が愛の歌を口ずさんだ。 「あなたが迎えに来ない日に、私は醜く〈穢〉《けが》れてしまった。  ああ、悲しい。〈蒼褪〉《あおざ》めて血の通わぬ死人の躯よ、あなたに抱きしめられたとしても二度と熱は灯らぬでしょう」  それはまさしく死女の恋──〈儚〉《はかな》く、切ない、〈骸〉《むくろ》へ堕ちた愛の詩。  胸に秘めた切なる想いがたった一人の〈生者〉《おとこ》へ向けて綴られるたび、伝えるたびに、地獄の星が大震する。  この世にあらぬ美しさとは、つまり冥府の影なのだ。どれほど麗句を並べようとあの世の言葉は常世を穢し、闇は光を敵視する。 「だから朽ち果てぬ思い出に、せめて真実をくべるのです」  つまり猛毒、闇の賛美歌。神聖なる〈星辰体〉《アストラル》が魔性の支配へ置かれていく。 「私たちは、私たちに、言い残した未練があるから」  物理法則を超越して衣服がその形質を変えていく。  白磁を通り越した美術品のような〈白木〉《ほね》の肌。星の粒子が蠢きながら、その体躯と集束しつつ彼女の下僕へ変わっていく。  異常な感応は通常あり得ないはずの発光へと至り、〈星屑〉《ほしくず》のようにやがて世界を彩り始めた。  幽魂のように、人魂のように、鬼火のように、ゆらゆらと。  そう、〈出〉《 、》〈力〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈死〉《 、》〈の〉《 、》〈女〉《 、》〈神〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈関〉《 、》〈係〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。備えた特性だけを頼り、星の力を掌握して無尽蔵に干渉しながら輝くのだ。  〈煌〉《きら》めくたびに吹き荒ぶ死者の燐光、生の悲鳴──見惚れた命を地へ誘う。 「振り向いて、振り向いて。冥府を抜け出すその前に。  物言わぬ私の〈骸〉《むくろ》を連れ出して──〈眩〉《まばゆ》い星の輝きへと。  他ならぬ愛しいあなたの〈慟哭〉《どうこく》で、嘆きの琴に触れていたい」  すなわち、これこそ魔星の証明。少女もまたいと呪わしき〈人造惑星〉《プラネテス》。  英雄の光を滅する奈落の使徒、〈死した伴侶〉《エウリュディケ》。  されど今は、ああ今は──  たった一人、あなたへ向けて。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈冥界へ、響けよ我らの死想恋歌〉《Silverio Vendetta》」  瞬間、紡ぎ上げた死の運命が二人の星を響き合わせた。 「おお、おおおぉ──」 「まさか──」 「あり得ない、ッ」 ──その瞬間、閃く刃がすべての星を断ち切った。 触れれば弾けるはずの光球を、無形の風そのものを。 まるで存在しない実体を捉えたかのように、物理法則を完全に無視し尽くして切断する。破壊できない現象を、〈現〉《 、》〈象〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈滅〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》という不条理を実現した。 跡形もなく霧消する星光に奴らは驚愕しているが、それは俺もまったく同じ。いやそもそも、マルスの攻撃を回避した上こんな風に動けた道理がまったく何も分からない…… 〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈加〉《 、》〈速〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》? いや、違うだろう──それ以前にまず。 「これは、何だ……?」 いま自分が見えている未知の奔流、大気に満ちる〈煌〉《きら》めきに戦慄が止まらない。 俺に、チトセに、マルスに、サヤに──そしてこの世界そのものに存在している小さな輝く星々は、いったい何を示しているんだ? 分からない。分からないが、しかし── 「────ッ、がァ」 〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈に〉《 、》〈振〉《 、》〈動〉《 、》〈を〉《 、》〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》〈途〉《 、》〈端〉《 、》、〈あ〉《 、》〈ら〉《 、》〈ゆ〉《 、》〈る〉《 、》〈星〉《 、》〈が〉《 、》〈掻〉《 、》〈き〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。 火球を苦もなく切断し、さらに〈怯〉《ひる》まず直進して蹴り飛ばした。ちょうど逆位相をぶつけてやれば、それだけでどんな力も泡のように消滅していく。 大きな力はそこにまったく必要ない、重要なのは合わせる精度だ。 それぞれ固有の波が分かれば、個々に応じた振動数さえ見切ったならば、後はただそれだけで何もかもを滅ぼせる。 「──素晴らしい。これさえもかッ」 まさに〈雷切〉《らいきり》──名刀の逸話を再現し、銀の刃が稲妻さえも両断した。 電流さえも捻じ伏せて、一方的に星の光を切り伏せる。湧き上がる出力は本来の〈発動値〉《ドライブ》を突き破り、更に更に、更に更に更に更にと際限ない上昇を続けていた。 それはもはや墜落に等しい速度の身体強化。本来入らない器へ向け、今も無遠慮に流れこむ力の波濤が、止まらないッ──! 魔星と同等の域を目指してどこまでも、そうどこまでも、ゼファー・コールレインは強くなる。 そんなことを望んでなどいないのに、俺は今──〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》へ秒刻みで変わっていくのだ。 あらゆる星々を駆逐する、ただそれだけの存在へと。 「クハ、ハハハハハ……あぁぁ〈謳〉《うた》っちまったか、弾いちまったかァァ」 「これでおまえは冥府へ下る一途な琴弾き。可愛そうだぜ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》──ッ!」 「知ったことかァァッ──!」 呪いのように喝采する声へ怒号を放ち、真っ向から互いの影が激突する。 そして、交差一閃──銀の軌跡が火花を散らし鬼の片腕を斬り飛ばした。 極限まで向上した切断力の前には、頑強なはず〈躯体〉《くたい》さえ今やバターか豆腐に等しい。抵抗する鋼は裂かれ、肩口からいとも〈容易〉《たやす》く削り取るのに成功する。 つまりもう、俺を止める者はいなくなった。 そのまま足を止めず超高速で廃墟に空いた穴へと駆けて、この場を一気に離脱する──まさに刹那、その一瞬。 「ようこそ、我らが運命に」 おぞましい歓迎の言葉を聞きながら、俺は戦場から脱出した。 初志貫徹、奇跡が冷めないその内に闇の中を流星となって走り抜ける。 視界の内ではいまだ消えない光の粒が、幻想的に舞っていた。 俺の変貌、その覚醒を祝うように──呪うように。 ずっとずっと、きらきらと……  そして──戦闘の中心地であった廃墟は、今はその余熱だけを残して空虚な静寂に包まれていた。  水を差されたような、振り上げた拳に行き場がない中途半端さ。  不完全燃焼そのものという空気が周囲に漂い、先の喧騒とはまったく逆の深い沈黙をもたらしている。  ──そう、何がなんだか分からない。 「あの男は……」  訳が分からないにも程あるだろう。苛立ちを見せるサヤだったが、瞳の奧に覗く感情は戦慄よりも困惑だった。  〈銀狼〉《 リュカオン》、ゼファー・コールレイン。元天秤部隊副隊長……と、それはいいし理解もできるが、ならばあれは何だというのか? あんな光景は初めてだった。  突然の出力向上とそれに伴う謎の覚醒。前者から既に意味不明だが、後者は特に理解不能だ。  獲得する星光は〈星辰奏者〉《エスペラント》一体につき原則一つ。そのルールは絶対である。性格や血統などあらゆる要素が総合して能力に深く絡んでくる以上、二種を得ようというならば文字通り身体も心もまったく異なる自分自身を備えていなくば出来やしない。  多重人格患者でさえ、肉体が同一であるためか多重能力の獲得条件を満たせなかったとサヤは聞いた覚えがある。  なら先ほど自分が見たものはと……思考を重ねるその背後で、チトセが満足げに笑んだ。 「こういうことがままあるものでな。相変わらずあの〈銀狼〉《リュカオン》は侮れん。 手元に置いておきたいと言ったこと、今なら少しは分かるだろう?」 「……ええ、不確定要素の塊ですが」  確かに、博打や乱数のような男であるのは間違いない。  楽に流れて弱気に惑う風見鶏。しかし時折〈し〉《 、》〈で〉《 、》〈か〉《 、》〈す〉《 、》がため目を離しては甚だ危険──まったくなんとも、タチの悪い。  だがともあれ、無視できない存在だろう。チトセにとってはかつて侍らせた部下として、そしてあくまで個人としても実に気になる存在である。  さらに── 「よォ、ちっと腕拾ってくれねえか?  時間経つと再生すんのも手間になるからよ。その辺りに転がってんだろ」  今日でもう一つ。魔星さえ〈誑〉《たぶら》かしたとあれば、ゼファーは尚更、注目するべき存在だった。  それは五年前の再現。片腕を切り飛ばされたマルスだが彼の埋まっていた瓦礫が赫黒の瘴気に触れた途端、夢幻のように消滅した。  森羅万象、無機有機、それら一切区別なく……触れた物が平等に像を失い虚空の中へ溶けていく。  後には何も、破片一つ残っていない。 「なるほど、おまえも実に興味深い」  加えて、非常に懐かしい──衰え知らずの猛悪ぶりだ。  〈禍々〉《まがまが》しさに顔をしかめるサヤとは異なり、チトセは顔色を変えることなく転がった腕を観察してから投げ寄こした。 「よっとォ──」  自らの腕を受け取り、そのまま無遠慮に断面を〈繋〉《つな》げる鬼面。その体勢を維持して十秒、〈僅〉《わず》かそれだけで神経の再結合が完了して肉と肉が一つになった。  〈星辰奏者〉《エスペラント》など遙か及ばない回復能力を見せつけ、これで完全復活なのだがしかし……濃厚に漂っていた殺気の波はとうに雲散霧消しているのだった。  チトセもマルスも、あれだけ殺し合っていながらとても平静だ。  さらにあろうことか、豪胆にも世間話でもするかのように語り合う。 「さて、色々と聞きたいこともあったのだが……いかんな。どうにも一つ格好がつかん」 「違いねえ。お互い本命から袖にされちまったもんなァ。特定人物に固執するのはやはりこう、上手くいかん」 「英雄に斬られ、狼に手を噛まれてか」 「こちら的には詩人か琴弾きなんだがね」  くつくつと、秘めた目的を匂わせながら鬼面は〈喉〉《のど》を震わせた。それは明らかに〈諧謔〉《かいぎゃく》の混じったものであり、遠回しでありながら真実を完全に隠そうというそぶりがない。  それはチトセを所詮はヒトと見下してるから無用心の? いいや違う。  不思議なことに、マルスは彼女へ一定の敬意すら抱いていた。  そして同時に、感服しているわけでもない。つまり精神的には対等であるということをあからさまに示している。  鬼は相手が人間でも、〈裁剣〉《アストレア》でも、何者にでも差別はする趣味はないのだ。  そう恐らくは、〈ど〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》。  理解できた事実に対してチトセは〈獰猛〉《どうもう》に微笑んだ。 「いいのか? 守秘義務を守らなくて。 おまえの飼い主はその辺り、特に厳格なはずだろうに」 「カ、はは、見抜かれちまえばしょうがねえだろ? ああその通り、これで結構オレも窮屈してんのさ。相棒よりはマシだがね。   さすがは〈貴種〉《アマツ》のご令嬢、うまく隠していたはずなのにズバリ裏をかかれちまうとは……おお、怖い怖い」 「は、そちらこそいい性格をしてるじゃないか」  顔を見合わせ共犯者のように目を輝かせた。その通り、マルスは誰も差別しない──ゆえに〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈使〉《 、》〈役〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈者〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈同〉《 、》〈時〉《 、》〈に〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈敬〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  誰であろうと同じ命。行き過ぎた平等主義を拝するがため、こうして実にわざとらしく私心を優先したりもする。  今の待遇に不満があり、加えて仮の主が〈英雄〉《アレ》だ。チトセの想像する通りの男であったなら、当然鬼の待遇など〈微塵〉《みじん》も改善されないだろう。  間違いなく、いずれ誰かを守るために最大効率で使い潰される未来が見える。  よって、話せる範囲をそれらしく語っているというのなら──ああ、いいぞいいぞ、見えてきた。  五年前の大虐殺。マルスとウラヌス。そしてターミナルでの一件に、謎の進化を遂げたゼファー……  チトセの中であらゆる点が一本の線へと〈繋〉《つな》がっていく。  ついに〈捉〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》と知れ、英雄よ。 「気になるなら直に掛け合ってみるのも手と思うぜ。あれは民も部下も信じているから、同じ地平に立とうとするのを恐らく無下にはしねえだろうよ。  ひょっとしたら、オレたちも敵じゃなくなるかもしれねえ」  ──そして、最後に意味深な言葉を残しながらマルスは跳躍。  あくまで見かけ上は理性的に、魔星はそのまま悠々と夜の闇へ消えるのだった。 「お姉様……」 「ああ、是非も無い」  残された天秤二名は互いに短く視線を交わす。 「ならば聞いてやろうじゃないか、我らが自慢の大将へ」  その先に、チトセは追い続けてきた何かがあると確信していた。  帝国に渦巻く運命を感じながら、隠されていた真実へ彼女は果敢に踏み込んでいく。  待っているのは悪意か、敵意か……いいやそれとも?  どのようなものであっても切り開かんと決意しながら、正義の女神は優雅にその身を翻して廃墟を後にするのだった。  〈帝国政府塔〉《セントラル》中枢部──アドラーの〈最奧〉《さいおう》に位置している鋼の城。  厳戒とそびえ立つ摩天楼とも評せるそこで、一人の男が瞑目していた。  クリストファー・ヴァルゼライド。彼は静かに瞳を閉じ、事の〈顛末〉《てんまつ》を〈反芻〉《はんすう》しながら幾重も思考を張り巡らせる。 「〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の目覚め……」  予定外に続く予定外、それがいったい何故であるかを静かに己へ問いかけていた。  〈静謐〉《せいひつ》な室内に反響する〈呟〉《つぶや》きは、誰の耳にも入らず消えて、声量以上に重々しく響き渡った。  それは王者ではなく走り続ける挑戦者として、彼もまた戦っている最中であるからこそ苦難を受け止め噛み締めている。 「依然、すべては〈理解不能〉《アンノウン》。事の次第さえ見抜けんとは、まったくもって、〈滑稽〉《こっけい》な。 しかしそれでも成さねばならぬか……なるほど、つまりは委細変わらず」  戦い、抗い、その手に掴む。  勝つのは己と宣した誓いを形にするべく、再び意思へと炎をくべた。  そして── 「やあ、ご機嫌麗しく総統閣下。いきなりでなんだが、単刀直入にいかせてもらおう」  軍靴も高らかに現われたのはチトセ・朧・アマツ。  前触れなく声すらかけない突然の入室はまさに無礼という他ないが、予期していたのかヴァルゼライドは来訪者にも動じない。  それどころか、二人の間に存在する緊張感は総統と部下という枠組みのものではなかった。  敵意があるわけではない。殺気があるわけでもない。なのに肌がひりつく様な圧力が室内を静かに満たして、どうしようもない息苦しさを生んでいる。  当然だ、今からするのはそれだけの話……一つ間違えば〈袂〉《たもと》を分かつと共に覚悟しているからこそ、互いに余分な言葉はなかった。 「マルスに会ったか。何が聞きたい」 「隠していた貴君のすべてを。災禍の元凶を再び動かした理由は? 五年間、あれを使っていったい何を研究していた?  そして何より、元とはいえ私の部下をいったいどうするつもりなのか。そこを是非とも一つ聞かせてもらいたい。  確か、オルフェウスだったかな? 人狼が琴弾きとは、どうにも見当つかないのだが……」  そこで言葉を切りながら、問いかける〈隻眼〉《せきがん》は刃よりも鋭かった。  虚偽は許さないと絡み合う視線が弾ける。英雄もまたそれを受け止め、真っ向から見返しつつ静かに重い口を開く。 「旧暦に終止符を打った〈大破壊〉《カタストロフ》、その日文明は崩壊した。全世界規模の空間震に見舞われて……   爆心地である日本ごとユーラシア大陸の東半分が消滅。さらに三次元そのものの境界線が激しく乱れ、土地や建造物もまた、巻き込まれながら〈混〉《 、》〈ざ〉《 、》〈り〉《 、》〈合〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  旧フランス西海岸に点在していたサン・マロ湾上に浮かぶ小島、モン・サン=ミシェルもその一つ……遥か東方にある日本軍の一施設と融合して内陸部へと転移した」 「知っていますとも。我々帝国が軍事国家となったのは、そもそもそれが原因だろう」  前ふりなく国史を語り始めたヴァルゼライドに対し、承知のことだとチトセは続けた。  〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》に人々が〈集〉《つど》い、国を作ったのはどこも同じ。荒廃した大地で復興するにはそれしかなく、そして得られる技術によって以降の繁栄指針が出来た。  アドラーが軍事帝国として成長したのは、自然な流れというわけだ。そんな事実は百も承知。  ならば何故、そんなことを彼は今更語るのか? 疑問を氷解させるように、ヴァルゼライドは続けて語る。 「以後の詳細は割愛するが、結果としてアストラルの軍事利用技術から強化兵という技術が生まれ、〈現在〉《いま》へと至る。 ゆえに、分かるだろう朧。魔星の存在そのものが我らにとっての〈絶対矛盾〉《パラドックス》だ」  〈星辰光〉《アステリズム》という分野に関して帝国は常に最先端。各国はその秘密を得るべく虎視眈々と日夜狙っているはずが、更なる〈上〉《 、》が出現してその前提は破綻する。  並の〈星辰奏者〉《エスペラント》では敵わないという完成度、誰が見ても後塵を拝しているというしかない。 「ランスローの危惧は正しい。奴らが量産された日に帝国の歴史は終わる」 「五年で出自すら掴めていない、と?」 「解析したが前例がまったくない。理解できたのは強引に探りを入れれば自爆するということだけだ。ご丁寧にそこだけ分かりやすくしていたらしい」 「威力は?」 「〈政府塔〉《ここ》が平らになるそうだ」 「要するにお手上げか」  下手な軽挙は絶対厳禁、これではとても手が出せない。  手が出せないが、しかし── 「だからといって、手をこまねているわけにはいかん」  対抗策を見出さなければ帝国の命運はその場で尽きるというなら、軍人の義務を果たすために、そして己が誇りにかけて守り抜こうと努力するのが彼らの宿命。  ヴァルゼライドもチトセも同じく、その点だけは共有している大志だった。ならばこそ── 「それで? だからこそ話の筋が見えてこない。  あなたの事だ、五年をかけて何かを成さんと〈掻〉《あが》いたのだろう? 貴君こそ帝国一の愛国者だと信じる心に疑心はない」  ゆえに、〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。指を〈咥〉《くわ》えて待つような男じゃないと知っているから、そこに繋がる言葉を待つ。  一度瞳を閉じてから、閉じていた真実が開帳される──その前に。 「──朧、〈星辰奏者〉《エスペラント》と魔星の共通点はいったい何だ?」  と、英雄は逆に問うた。少し考えてチトセは応じる。 「アストラル運用型の軍事兵器という点だろう? 規模は比較にならずとも、その根本はまったく同じ」 「そう、星の力は〈第二太陽〉《アマテラス》から降り注ぐ高位次元の素粒子により成り立っている。 すなわち──それの〈対抗措置〉《カウンター》が確立すれば、いったいどうなると思う?」 「そのような初歩、今更論ずるまでもなく────、ッ」  言いかけた事実を秘すべく、チトセは〈咄嗟〉《とっさ》に手で口元をすばやく覆った。彼女の中で動揺と困惑、さらに理解が錯綜して斑模様を脳裏に描く。  〈ま〉《 、》〈さ〉《 、》〈か〉《 、》と〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》が〈鬩〉《せめ》ぎあい、〈軋轢〉《あつれき》を生みだす中で一度も揺れない男の視線と目が合った。  本気だ──そして、この男ならやりかねない。 「……はは。正気じゃないな、クリストファー・ヴァルゼライド。あなたは自分の語ったことが本当に分かっているのか?」 「無論、あるがままに。 〈対・星辰体感応型兵器〉《アンチ・アストラルウェポン》の創造。それが適えば、後続がどれほど送り込まれようと──敵はない」  すなわち、それこそ〈星辰奏者を滅ぼしうるもの〉《アンチ・エスペラント》──  超新星を生み出す粒子、〈星辰体〉《アストラル》。それら根本へ干渉する新兵器を自分はずっと求めていたと、英雄はついに彼女へ明かすのだった。  この新西暦世界においてアストラルとは普遍的に存在している、あって当たり前の素粒子だ。無機有機問わず大気中どころか原子と原子の隙間にさえ、それらは静かに介在している。  言わば基本法則の源。影響下にないものは存在せず、とりわけ〈星辰奏者〉《エスペラント》はその恩恵を最大限に受けることで優れた異能を獲得していた。  つまり、その本質へ直接的な干渉を行なえるというのなら…… 「風雷、〈爆熱白球〉《プラズマ》、無形のものとて切り裂ける」 「理論上、俺の放つ光ですらもな」  星の光が紙に書かれた色取り取りの絵とすれば、それは書かれた紙そのものを引き千切る行いに等しい。  チトセは先ほど、それを確かに目にしていたから疑わない。机上の空論などではなく〈彼〉《 、》はそれを、実際にやってのけたのだから。 「そして、貴君の生み出したその超兵器こそ……」 「〈死想恋歌〉《エウリュディケ》──いや、〈月天女〉《アルテミス》-No.β。〈火星〉《マルス》と〈天王星〉《ウラヌス》を参考に作り出した、太陽の対である月の女神。 本人は“〈逆襲〉《ヴェンデッタ》”と名乗っているようだがな。まったく、よく言ったものだ」  なるほど、逆襲……件の生体兵器についてチトセは知識を持っていないが、使用人物のことを考えればよく出来た因果じゃないかと一人〈頷〉《うなず》く。  ゼファーは確かにそういう男だ。栄光を踏み〈躙〉《にじ》る手腕に関して、卓越したものを秘めている。 「しかしこれまで、何故かアルテミスは目覚めずにいた。考えられる全ての手段を行使しても不備はないのに起動しない。〈林檎〉《りんご》を〈齧〉《かじ》った白雪姫であるかの如く…… それに伴い〈暗号名〉《コード》を〈死想恋歌〉《エウリュディケ》へと変更。 新手法が見出されるたび、各研究機関をたらい回しにされながら今に至るというわけだが」 「突然の起動──しかも起こしたのは元天秤の脱走兵、か」 「さらに仕様外の同調現象まで起きた。己が星を他者に託す……前代未聞の異常事態だ。そんな風には造っていない」 「冥府に響く恋の歌を奏でるは、それを起こした男の〈慟哭〉《さけび》。改めてみると実にロマンチックなのだがね」  だから、あの鬼面はゼファーを〈吟遊詩人〉《オルフェウス》と呼んだのだろう。こうして聞く限りにおいて、その名に違わず古い逸話をなぞっている。  余人であれば感じ入るものがあるのかもしれないが、しかし当人たちからすれば笑っていられることではなかった。 「ともかく、何としても早急に確保しなくてはならん」  無理に手を出せば再び眠り姫になる可能性があるものの、されど放置はとてもできず、手をこまねくのも当然却下だ。  この技術が仮に他国へ渡ってしまえば、それは間違いなく帝国滅亡の序章となりうる。比喩ではなくヴェンデッタは現世界の王冠に等しいのだ。  そして今、その栄光をもたらす使者は一人の男へ魅入っている。 「さて、私のみならず運命にまで愛されたか。いったいどうするつもりだよ……なあゼファー?」  起動させた人物がよりによって彼かと、チトセは思わずその皮肉さにくぐもった笑みを漏らした。  未来は誰にも分からない。しかし再び、帝都で何かが起ころうとしていることは確実だろう。  五年の時を経て運命が動き出した。もはや誰にも止められない── 「そしてもう一つ、悠長に構えていられん理由もある。  件の〈吟遊詩人〉《オルフェウス》についてだが、無為に放置していてはやがて死亡するだろう。いいや、今この時、既に生きていない確率が高い」 「──なに?」  一転し、聞き逃せない〈台詞〉《せりふ》に対してチトセの目が冷徹に細められた。  ヴァルゼライドは残酷な真実を彼女に伝える。 「マルスとウラヌス同様に〈死想恋歌〉《エウリュディケ》もまた〈人造惑星〉《プラネテス》。通常の〈星辰奏者〉《エスペラント》とは別次元の域でアストラルと感応し、超新星を発現している。   どのような奇跡か知らんが、生身の人間がその恩恵に携わって無事に済む道理もない。そう、すなわち──」  魔星が宿す〈星辰光〉《アステリズム》を人が奏でるということは── 「文字通り、魂を削る羽目になるだろう」  まさしく悪魔の契約であり、地獄への片道切符に他ならなかった。 「あ、があぁぁァァァァっ……!!」 ゆえに──身体を内側から焼く激痛に〈呻〉《うめ》きながら、俺は地べたに〈血反吐〉《ちへど》をぶちまけていた。 うち回る様はまさに狂乱。手を〈内腑〉《ないふ》に無造作に突っ込まれて、裂かれてしまいそうな感覚が一瞬も途切れることなく襲ってくる。ただひたすら極限まで濃縮した激痛を前に、地を〈齧〉《かじ》りながらのた打ち回った。 「ヒぎ、ィィィッ……アぁ、ぐ、ひ、ハ──」 指を噛む。指を噛む。肉を犬歯で食い破り、ガリガリと骨を削って引き千切れば正気を保てるもかもしれなくて。 けれど幸か不幸か〈顎〉《あご》が激痛で〈痙攣〉《けいれん》しているものだから、牙は肉しか突き破れない。だから〈抉〉《えぐ》れる〈抉〉《えぐ》れる〈抉〉《えぐ》れる〈抉〉《えぐ》れる〈抉〉《えぐ》れれれれれれれれれれ―― 振り子のように頭を何度も地面にぶつける。ガンガン、ワンワン、ゴンゴン、ぐしゃり──それでも痛みは止まらない。 皮膚の下で億の〈蟲〉《むし》が〈這〉《は》っているから、取り除かないと、取り除かないと、全部喰われて消えてしまう。 でもそうなれば救われるのか? ああ、ああ何も分からない──ッ。 熱い溶岩にも似た感覚が万雷の苦痛をもたらす中、思い返すのは先ほどの異常な強化。驚異的な能力だったのは間違いなく、生き残ることが出来たとしても大きすぎる代償がいま厳然と訪れた。 あの瞬間、注ぎ決まれた力、力、力、力──感応したあまりに膨大なアストラルの大〈波濤〉《はとう》に俺の身体は耐えられない。 小さなグラスに滝を流し込んだようなもの、結果がどうなるかはご覧の通り。ゆえにこうして反動により、自壊するのは当然で―― 粥になった内臓がとろとろと口端から漏れた。全身の血管がぷちぷちと可愛らしい音をたてて次々潰れていくのが分かる。 骨が微細に〈罅〉《ひび》割れて内側から肉を削った。息をするだけで死に墜ちていく。 「〈抉〉《えぐ》る、〈抉〉《えぐ》る、痛み、エグるぅぅ──ッ」 震える手で自分の武装を取り出した。 目玉でも〈刳〉《く》り〈貫〉《ぬ》かないとこの苦痛から逃れられない──正気へ反転するために狂気を犯すと、決意して。 「ゼファー」 ──刹那、あらゆる激痛が消え去った。 雨音に紛れるよう響いたのは、ほんの小さな足音が一つ。 現れた人影は俺に〈奇跡〉《くつう》を寄こした少女で。地獄へ誘う元凶だったものだから、ああ―― 「どういうこったッ。何だよこれは、意味が分からねえぞどうなってやがる──!」 残った力を振り絞り、襟元を掴みながらありったけの〈呪詛〉《じゅそ》を叩きつけた。 〈漲〉《みなぎ》る怒りにほんの少し気力が戻ってきたものの、知ったことじゃないんだよ。 「てめえは何だ! どうしてこんなに痛いんだ! 俺に何を、どうさせたいっていうんだよ……ッ」 いきなり目の前に現われて、力を与えて、苦しめて。 吐き出される泣き言の嵐。胸に溜まった〈慟哭〉《どうこく》がついに弾けた。 「見ろよ、この様を……」 塵だろうが、〈屑〉《くず》だろうが。負け犬そのものの姿だろうが。 やるべき時に何も出来ず、勝利から逃げ続けて立ち向かうという気概はない。現状をより良くしようなんてまったく思わず、そして今、小さな少女に掴みかかって罵詈雑言を浴びせている最低ぶり…… そんな男に成せることなど何もない。仮によしんばあったとしても、それは小さな一つだけ。 俺の器は、もうとっくにあの子で埋まっているから。 「頼む……もう、やめてくれ──」 血の混じった涙と〈涎〉《よだれ》と鼻水を垂れ流し、〈縋〉《すが》りつくように懇願する。怖くて怖くて仕方ない。立ち向かうこともしたくない。 だって、それは── 「〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈痛〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》──ええ、“勝利”から逃げたがっているのよねゼファー」 柔らかい微笑を浮かべたヴェンデッタへと、俺は小さく〈頷〉《うなず》いた。それは泣きじゃくる子供のように、途方へ暮れた迷子のように。 「そうね、間違いや怠惰の方がずっと楽。正解とは常に痛みが生まれるものよ」 「前を向き、明日を目指し、未来をより良いものへと変える……言葉にすれば立派でもそれを実現できる者は、実際のところそういない。そもそも小さな日常事さえ完璧に出来る人がいったいどれほどいるかしら」 「汚れた部屋を掃除しない。洗濯物を畳まない。相手の目を見て話ができない。ついつい不精をしてしまう……」 「勇気が出ない。理由もないのになぜか戸惑う。気分が乗らない、向いてない。今日は駄目だ。明日やろう。自分に合った大きな何かが〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈在〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》……」 「どれも間違ってはいるけれど、本当に気持ちがいいわよね」 そうだ、心が軽くなる──あれは仕方なかった、どうしようもなかったんだと自己弁護を重ねることは大半の場合、非常に楽だ。 掃除は毎日した方がいい。どんな相手を前にしても、堂々と話せる勇気を持て。何もしないまま漠然と最初から出来ることをねだる前に、日々精進して新たに会得する方がずっと正しいはずだろう……と。 ……そんなことは分かっているんだ。 分かっているんだよ、〈負け犬〉《おれたち》だって。 けれど出来ない。命の危険など存在しない安穏とした日常でさえ、敗者はまるでそれが自然なことのように楽へ楽へと流れてしまう。 だからどこまでも大した人間になれず、欠陥だらけの落伍者である自分自身を俺はとうに受け入れたんだ。 高望みなんてもうしない。慎ましく、〈屑〉《くず》は〈屑〉《くず》なりに生きてきたはずなのに…… いいや、だからこそとヴェンデッタは首を振った。そして優しく微笑みながら、こちらの髪を撫でつつ諭す。 「けどね──結局、その先に大したものはほとんどないのよ」 「やるべきことを正しくやろうと努力すること。それを心がけない限り、人は何者にもなれない」 「夢だけを見て、言い訳が達者なだけの人間なんて誰にも必要とされないでしょう? 当たり前のことなのよ。どれだけそれが理不尽でも、あなたは既に〈私〉《 、》〈を〉《 、》〈黄〉《 、》〈泉〉《 、》〈返〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 「〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》。ゆえに〈逆襲〉《わたし》を遂げない限り――あなたの明日は訪れないまま」 「ゼファー・コールレインは、本当の“勝利”まで〈辿〉《たど》り着けない」 よって、それがすべて。どう〈掻〉《あが》いても覆せない、俺とこいつの運命であると告げていた。 寂静感を滲ませながら逃げ道を打ち砕かれる。楽の泉に溺れる権利は、もう俺の中に存在しない。 何かが、ゆっくりと折れていく。 そして代わりに、沸々と沸きあがるこの感情は、ああ…… 「だから、さあ。前を向いて」 「やる前から諦めちゃ駄目。夢を胸に描きなさい。一度決めたことは投げ出さないの。男の子でしょう、意地を張らなくてどうするの」 「あなたはちゃんと、〈や〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈子〉《 、》なんだから」 「────うるせぇッ! 耳障りなんだよ喋んなァァッ」 殺意すら籠めた怒号が雨粒に反射した。するしかない、やるべき、成すべき、やらなければ──それらの言葉を俺は激しく拒絶する。 「杓子定規な正道で救われるのは、正義の味方や超人だけだッ。英雄魔人だけなんだ……!」 「俺は、何処にでもいる人間でいい──勝利なんてもうたくさんだッ!」 たとえ、真の救済がその先にあったとしても。一命振り絞った先にのみ本当の安らぎが待っていたとしても、否だ。拒絶する。 正道を歩む重さ、栄光に付き〈纏〉《まと》う影、〈眩〉《まばゆ》い勝利の反作用に俺は決して耐えられない。現に今もそうだから一つ奇跡を起こした程度で、こんな様をさらしている。 だからおまえには付き合えないと、〈嗚咽〉《おえつ》まじりの本音を告げる姿を前にヴェンデッタは微笑んでいたままだった。 茨の道を歩めと語り、なのに誰より俺の魂を慈しんでいる。 包み込むような暖かさすら、確かにそこには存在しているものだから── 「もう、情けないこと言わないの」 優しく、優しく、愛情と共に俺の涙を指先が拭う。 〈血塗〉《ちまみ》れの身体を撫でながら、幼子をあやすように〈彼〉《 、》〈女〉《 、》は── 「大丈夫、安心して。私だけはあなたの地獄に付き合ってあげる」 「それが、二人の交わした約束だもの──」 そして──言葉の意図を察することなく、意識がついに暗転した。 痛みは消えても、傷そのものは無くならない。ついに限界を迎えた身体が人形のように崩れて落ちる。 薄れゆく意識の片隅で聞こえてきたのは、やはり母性に満ちた穏やかな声。 「ミリィには怪我のこと、上手く誤魔化してあげるから」 「今はただ、ゆっくりとおやすみなさい。あの頃みたいに」 耳元に触れた〈囁〉《ささや》きはどこか懐かしい子守唄のようでもあって…… 抱きしめられて触れ合う身体に確かな熱を感じながら、眠りという生死の狭間へゆっくり墜落するのだった。 もはや俺には抗えない、いいや誰にも止められない、運命の車輪が駆動する音を聞きながら──  ──そう、ゆえに誰もが祝福していた。  たった一つの終点へ向けて、礼賛しながら車輪を回す。  動け、至れ、運命へと。ついに埋まった最後の歯車。人知れず築き上げられていた物語が待ち焦がれたように音を鳴らした。 「では──目覚めの時だ、眷星神。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の完成は近い。 琴弾きが黄泉の坂を下って降りる。己はずっとこの瞬間を切に切に願っていた」  〈寿〉《ことほ》ぐ声が暗闇の中で厳かに響く。〈静謐〉《せいひつ》な言葉の奥に秘められたるその意思は、恒星にも等しい情熱、まるで不滅の烈火であった。  炎のように常時輪郭を変えながら、その本質は一貫して揺るがない。あらゆるものを踏破しても未来を求めて燃える大志。悲願の成就を誓っている。  それはまるで、彼の光刃を振るう英雄のように。  朽ちず退かず〈永劫〉《えいごう》砕けぬ、超常の精神を備えながら未来だけを見つめている。  そして同じく挑んでいるのだ──勝つために。ゆえに男は同胞へ向けて問いかけた。 「〈殺塵鬼〉《カーネイジ》、何を求める」 「──死を、見るも無残な〈鏖殺〉《おうさつ》劇を。 あの結末にオレは心残りがある。五年前に生み出した破滅の炎、あれは決して〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈様〉《 、》〈で〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》」  ゆえに、鬼が願うは赤の戦乱。かつての不実を恥じるように不甲斐ない己自身の過去を呪って、マルスは誓う。  今度は決して、そう必ず、あんな終わりは許さない──  成し遂げなければならなかったはずのことを、最後まで赤星は貫くだろう。鋼の意思はたった一つの野望を目指して一心不乱に駆けるがため、どれだけ血が流れようと歩みを止めは決してしない。 「〈氷河姫〉《ピリオド》、何を求める」 「──奴への天誅、それのみを。 個人的な雪辱のみではございません。あれはいずれ〈第二太陽〉《アマテラス》へも弓引く男、我らが存在理由に懸けてその〈魂魄〉《こんぱく》を打ち砕かねばならぬでしょう」  ゆえに、鉄姫が願うは天意の誅。二度の敗北を払拭するため、そして何より自ら背負った宿業がため、ウラヌスは誓う。  何度でも、そう何度でも立ち上がろう。かの英雄を討つまでは──  屈辱を力に変えるその姿は、まるで何度も、絶え間なく錬鉄を繰り返している鉱物だった。いずれ首輪が外れた時、鋼に輝く忠を武器に再びこの地へ氷の華が咲くだろう。 「そして〈露蜂房〉《ハイブ》、〈色即絶空〉《ストレイド》、〈錬金術師〉《アルケミスト》に〈天霆〉《ケラウノス》……」  眷星神──〈人造惑星〉《プラネテス》である各々、願いは千差万別でも〈辿〉《たど》り着くのはたった一つの結末なのだと決まっているゆえ揺らがない。  運命の車輪が駆動する。静かに、密かに、確実に──  臆病な人狼を乗せながら、冥府の底へと真っ逆さまに墜ちていくのだ。 「〈高天原〉《タカマガハラ》より天下りて、〈火之迦具土神〉《ヒノカグツチ》の星へと集わん。  さあ、奮起するがいい〈吟遊詩人〉《オルフェウス》──その歌声で黄泉の国から貴様の愛を取り戻せ」  それを成し遂げない限り、どれだけ嘆き叫ぼうとも救いは〈永劫〉《えいごう》訪れない。 「我々も、英雄も、その日が来るのを待っているぞ」  立ち向かえという苦難に満ちた正道を告げ、惑星の主は薄笑った。  ──兄が初めて家にやって来たのは、今から六年前。  その頃、わたしはまだ10歳。仕事熱心で優しい両親の庇護の下、何不自由なく育てられていた。  友だちのたくさんいる〈学園〉《スクール》は楽しかったし、毎日があっという間に過ぎていったことを覚えている。  まるでこの世の中には一欠片の悪意すらもなく、〈眩〉《まぶ》しい光に満ちていると……  わたしにとっての世界というものは、そんな風に映っていたのだ。  将来は両親のようになれればいいなと、淡い夢を抱きながら。  父と母はともに軍部の研究者で、帝国直轄の〈施設〉《ラボ》に所属していた。  その専攻は新しい〈軍用特殊合金〉《アダマンタイト》の開発で、詳細な部分は分からなかったものの、私はよく二人の仕事場を見学したものだ。  まるで、御伽話の中に出てくる宝玉のように輝く合金──  まだ幼かったわたしは、綺麗なものに好奇心を惹かれる。もっと知りたい、触れてみたい。そう思うのは自然なことだったのだろう。  やがて金属について体系的に学ぶようになったが、それは学問というよりも遊びの延長のようなもので。  分厚い本を眺めるわたしを、両親が褒めてくれるのも嬉しかった。  研究施設はみんな良い人たちばかりだったのも大きかっただろう。軍部と聞くとどうしても厳格なイメージが浮かびがちだが、決してそんなことはなく、わたしが訪れても嫌な顔一つせずに迎え入れてくれたものだ。  そんな中で民間の研究団体との違いを挙げるとするなら、施設にたくさんの護衛の人たちが常駐していることだったと思う。  扱う情報の中には国家機密も多くあり、セキュリティには万全が期されていたというわけだ。  勤めている人の誰もが、帝国のためを思ってそれぞれの仕事に励んでいる。幼心にも素敵だなと思ったもので。  そんな護衛の一人として、兄は我が家に訪れたのだ。 「第三〈研究機関〉《ラボ》、及びブランシェ一家の警護に本日付けで配属されることになりました、ゼファー・コールレインです。  どうぞ、よろしくお願いします──」  ああ、そうなんだぁ──なんて、最初の感想としてはそんなところ。  警護担当の入れ替わりはわりとよくあることで、それほど珍しいものではなかったから。わたしにしても事情の分からないなりに、また新しい人が来たんだと思いながら両親とともに〈挨拶〉《あいさつ》の場に立ち会った。  今の兄さんからは想像もつかないけれど、会ったばかりの頃は口数も決して多い方ではなく、寡黙な青年といった感じだった。  事務的で語らない。 「えっと、初めまして。ミリアルテ・ブランシェです。よろしくお願いしますねっ、ゼファーさん。  あっ、コールレインさんの方がいいですか?」 「いや、好きなように呼んでくれて構わないよ」  そう〈微〉《かす》かに笑ってこちらを見る彼の表情は、どこか疲れているように見えて。  まるで戦地に赴き、数年ぶりに帰ってきたかのような〈倦怠〉《けんたい》の色を浮かべた瞳だったのを、強く覚えていた。  だから、まあ、最初は子供らしいお節介な話だったのだ。  これまで家に来た警護の人たちはみんな凛々しい感じを漂わせていて、どこか恐くもあったのだけど彼は少し違ったから。  辛そうなら休んでいいよ? 元気なほうがいいよって。  そんな風に思って、この人のことが少し気になった。  どこにでもある普通の出会いから、わたしたちの関係は始まったのだ。  翌日から、兄は〈お〉《、》〈仕〉《、》〈事〉《、》を開始した。  わたしたちが朝食を終えたくらいの時間に家まで訪れて、両親を〈研究所〉《ラボ》まで送迎する。  また、自宅作業を行う日には玄関やリビングに立っての護衛任務にあたるというのがその内容。  時折見せる鋭い視線を見て、やっぱり軍人さんなんだなぁ、と子供心に妙な感心の仕方をしたものだ。いつもは疲れているようだけど、きっといざという時には頼れるんだろうなと自然に思えた。  その頃、時同じくしてわたしの両親は軍部で新規発足されたプロジェクトのチーフへと抜擢された。  上層部の人から直々に下された命令は家族の栄誉となり、その夜はささやかなお祝いもしたものだ。  帝国の繁栄、研究の進展、そして家族の幸せを目指して日夜研究を進めている光景が日常として確かに在った。  そして人間、衣食住が足りれば人にも自然と優しくなる。さらに子供なら尚更、寂しそうな人間をほうっておくことが出来なくて……  家族の傍にいながら護衛だから、仕事だからねと、どこか一線を引いた彼のことがわたしは幼心にどうしても気にかかったものだから。  話しかけていく内に彼のことを、自然と『お兄ちゃん』と呼ぶようになった。 「まいったな……」  兄は少しだけ困った様子を見せたけれど、特に私を諫めることもなく穏やかな笑みを浮かべてくれた。  護衛対象の娘という立場上の関係から、いつも一度ぺこりと頭を下げながら、兄はわたしとお話しをするのが日課になった。とは言え、それはこちらから向けた一方的なわがままのようなものだったのかもしれないが。  つまるところ、欲しかった年上のお兄さんというものに浮かれていて。  ある日──彼と偶然二人きりになった時、わたしは一つのことを訊いてみたのだ。 「お兄ちゃんは、どうして軍に入ったの?」  いかにも子どもらしい純粋な疑問。  そのいささか無礼だったかもしれない問いかけに、彼は頭を〈掻〉《か》きながら口を開く。 「そうだね……言ってみれば成り行きかな。他に選択肢がなかったから。  あと、軍ってのはお給金がよくてね。もともと入隊したのも〈餓〉《う》えないためだし、どうしてって訊かれて返せるほどの大層な理由はないな。  ほら、ミリィちゃんもおなかペコペコは嫌だろう?」  ふうん、そういうものなんだぁと、返答にきょとんとしたことを覚えている。〈他〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》って。  誇り、使命、国を守る──それが〈軍人〉《かれら》のとてもよく口にする言葉なのに。  御国のために戦うのが仕事で、だからどんな死地にも〈怯〉《ひる》まないような勇敢な人ばかりなのかと思っていたから、首をちょこんと〈傾〉《かし》げたものだ。  やっぱり兄さん、変わってる。  そして、同時に少しほっとした。  人を傷つけるとか戦うとか、わたしはやっぱり少し苦手。  みんなとても〈堅〉《 、》〈い〉《 、》。  兄さんがそうじゃなくて、本当によかったの。 「あー、そりゃ改革派の皆さんはね。彼らのやる気と比べられたら俺もちょっと困るなぁ、うん……  まあお兄ちゃんは他の人より恐がりなんだよ。きつい修行とか、強い意志とか。そういうもので生きたり死んだりするのが苦手で──逃げ出したいのに上司が鬼でさ」 「……鬼さん? 角とか生えてるの?」 「ああいや、あいつ見かけは綺麗なんだが……その、とにかくずっとこき使われちゃってるわけなんだ」 「だから今は……そうだね、こうやってミリィちゃんの家族を守っているのは悪くないよ。  人間、あんな強くいられるのは一握りだ。戦う理由が変わらないってのはきっといつもずば抜けて強い奴。  俺はそうじゃないことに最近少し、ほっとしてる」 「ミリィちゃんのおかげかな。ありがとう」 「はいっ、どういたしまして」  なんて、えへんと胸を張ったけど、それは感謝の言葉が嬉しかっただけ。当時のわたしには兄さんの言葉は少しだけ難しかったから。  でも、言われてみればその通り。  強い人は一握り。気持ちが変わっていくのは普通のことで、わたしだって同じこと。毎日いろいろなものを見て、知って、進んでいく。  そして、人の関係というのもそうなのかもしれない。  兄とわたしたち家族は、徐々にその心の距離を縮めていった。  毎日顔を合わせ、時には一緒に食事をしたりしているうちに、最初はどこか遠慮がちであった兄も照れ笑いくらいなら見せるようになっていた。  同時に、ちょっと疲れた表情を浮かべている時などは気づけるようになっていた。わたしが指摘すると、ばつが悪そうな顔で苦笑したりして。  両親、そして優しい〈軍人〉《にい》さんと過ごす日々に、わたしは一抹の不安すらも抱くことなく満足していた。まるで爽やかな木漏れ日の中を歩いているような感じ。  こんな毎日がずっと続く──そんな少女らしいお気楽さでいたのだ。  そして、〈悲〉《、》〈劇〉《、》はあの日訪れた。  思い出すのは、〈禍々〉《まがまが》しく揺らめいている紅い炎──  わたしの日常そのものであった研究〈区画〉《エリア》一帯を、まるで燃やし尽くすかのように呑み込んでいる。  建物が焼け落ち、まるで熱せられた〈飴〉《あめ》のように形を失っていく街並。  人が燃え、思い出が燃え……やめて。やめて。見たくない。  これは一体、どういうこと? 変わらないと思っていた優しい日々が、一転地獄に落とされる。  轟音、悲鳴、断末魔……知らない知らない、こんな世界見たことない。  到底理解などできるはずもなくて、ただ〈怯〉《おび》えているばかり。  思考は真っ白、状況の何も飲み込めないまま──気づいた時には、わたしは家に向かっていた。目を固く閉じ、耳を塞いで狂乱の街をただ駆けた。  あの場所に戻れば、きっと守ってもらえる。  お父さん、お母さん。お兄ちゃん……早くいつもの笑顔に会いたい。  ただその思いを心の寄る辺に、炎の舌をかいくぐりながら家を目指した。  そして……  わたしの見たものは…… 「────っ」  そこには、泣きたくなるほど求めていた人の姿があって。 「あ……あ、あぁぁ……っ……」  父の身体は、大きな瓦礫でぺしゃんこに押し潰されていた。  まるで押し花。違うのは流れている血と内臓が、川となって流れているだけ。白衣と手足が隙間から覗いていなければ、それとは気づけなかっただろう。だって顔さえ見えないんだもの。  同時に視界の端に入ったのは母の姿。ああ、ほとんど原形を留めていない。分からない。  剥き出しの鉄骨で身体が串刺しになっている。それは人形に針を何本も突き刺したような有様で、傍に頭部が転がっていなければそれと分からない有様ではないか。  人としての尊厳など欠片も残されてはいない。  巻き込まれた。死んだ。意味も理由もなく、ただ巻き込まれて。  炎と瓦礫に飲み込まれていく。 「や、ぁ……やだよ……っ」  呼吸は速く、浅い。わたしは何か口走っていたのかもしれないし、そうでないかもしれない。自分自身が制御できずにどうにかなってしまいそうだ。  昨日までの記憶がフラッシュバックする。  穏やかな家族。暖かな時間。ただ一つ分かるのは、あの日々はもう二度と戻ってこないのだということ。 「ミリィ──」  物音を立ててわたしの前に現われたのは兄だった。  絶望の状況下、最も会いたかった最後の家族。  あの人は全身傷だらけで、目は虚ろに濁っていた。彼はこの暴虐に巻き込まれて〈何〉《 、》を見たのか。  恐怖と絶望に心を〈蝕〉《むしば》まれているのが一目で分かったけれど、それでも幼いわたしは傷つく心に精一杯で── 「お、兄ちゃん……どう、なってるの? なんで……  わたし……嫌だよ、こんな……い、やぁっ……」  炎に照らされ涙混じりに問いかけるも、兄から帰ってきたのは長い沈黙。  なぜならこの人もまた、何か強大な物語に巻き込まれた被害者であるから。  理由などない。悲劇とはいつも唐突に訪れる。  ゆえに〈こ〉《、》〈れ〉《、》は避けられなかった災禍であり、そしてわたしたちが生きていく限り、癒えることのない心の傷となることを言外に語っていた。 「ッ、危ない──」  〈眩〉《まぶ》しい白光が閃いたと同時、さらなる爆発が間近で起こって兄に身体ごと庇われる。  目の前を覆う轟炎、爆風……必死の形相で手を伸ばしてくる兄の顔。  すでに限界を迎えていたわたしはそこで、プツリと糸が切れてしまったかのように意識を失うのだった。  ──後に名付けられたあの日の名は、〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺。  帝国外には存在しないはずのアストラル感応兵器による、あってはならない襲撃。引き起こされた未曾有の災禍。  研究者から一般市民まで、あの区画にいた人々の実に八割は命を喪ったそうだ。  数多くあった〈機関〉《ラボ》も全焼したのみならず、その時行われた実験の立ち会いに訪れていた政府の人たちも死亡が確認されたという。  帝国の被った被害はとても言葉では語り尽くせない。後に総統へと就任したヴァルゼライド閣下を旗頭として、人々は懸命にアドラーの再興を目指した。  寝る間を惜しんで励む英雄の姿に、少しずつ暗雲は晴れていく。  涙を拭き、多くの人が明日へ向けて立ち上がった。  だけど、わたしは──  起き上がることもできない。気力も湧いてこない……生きているのか、そうでないのかすら分からない精神状態のまま過ごしていた。  大虐殺の日以降、兄は軍から行方を〈眩〉《くら》ませてわたしと一緒に暮らし始める。帝都の小さな家で悪夢に夜も眠れない女の子の面倒を見続ける日々。  あの出来事を現実のものだと受け止められなかったから。これまで歩んできた人生の中に、あれほどまでに凄惨な光景は〈僅〉《わず》かにも存在しなかったために、ミリアルテ・ブランシェの時間は確かに一度凍てついた。  しかし、そんなときも兄はわたしのことを思い、隣にいてくれて。  両親を守れなかったという彼の苦悩が、痛いほどに伝わってくる──ああ、止めて、そんな泣き出しそうな表情は。あなたは一所懸命頑張ってくれたのに。  その後も、日常から何まで兄は助けてくれた。  お金もそうだし、きっと身分についてもそう。どうにかしてわたしを日常に戻そうと頑張ってくれたのも知っている。  大虐殺の悪夢に魘されて眠れない夜もずっと隣にいてくれた。そっと手を握ってくれた、あの温もりを覚えている。  どれも一生忘れられない、大切な思い出ばかり。わたしが数年をかけて今の暮らしを送れるようになったのも、兄のおかげ。  だから唯一の兄として、そして自慢の家族として。  大切な、大好きな、想い焦がれる〈男性〉《ヒト》として──  あなたのずっと傍にいたいんです。今度はわたしが、誰よりも近くで見守っていたい。それが今のささやかな夢だった。  そして、五年の月日が流れ……傷は癒えたが今でもふと、考えてしまうことがある。  大虐殺とは、一体何だったのだろうか?  上手く言葉にはできないが、単なる不運などではない〈何〉《、》〈か〉《、》があったのではないかという気はしている。  〈禍々〉《まがまが》しいあの光景には、偶然などという言葉で片づけられないものがあったのではと。  特殊合金の研究施設が襲われたのも、どこか示唆的であるだろう。陰謀論を〈囁〉《ささや》くには十分で、軍の一部高官──主に純血派に属していた者が多く死んだことも何かを匂わせている。  けれど── 「わたしは今、生きているから」  それだけで十分。  立ち上がれたのだからもう、すべては過去のことにしよう。  心に傷は残り続けるし、きっと忘れることは一生ないけど明日を向いて頑張ろう。悲しみの涙を流すより一つでも多くの喜びを残したい。  赤丸のついたカレンダーを見る。この時期以外では、もうあの日を思い出すこともない。  今では仕事もあるし、師匠もできた。忙しい毎日にはやり甲斐だってある。  最近では可愛らしい同居人もできて、賑やかな日常には穏やかな笑顔が絶えず存在している。  兄さんと傍で笑い合える日々はあの頃と同じ。いや、今の方がずっと深い信頼で〈繋〉《つな》がっているだろう。  わたしは充分に幸せなのだ。こうして明日に進んでいくことこそ兄妹の望みだと強く思える。  さあ、明日の朝も早い。  感傷や思い出に浸ってる暇なんてないぞ、と前向きに思考を修正して。  胸の〈燻〉《くすぶ》りに静かに蓋をしながら、わたしは眠りに落ちていく。  どこまでも、どこまでも……  失うときは一瞬だと、心のどこかで〈囁〉《ささや》く声からそっと耳を背けながら。 なんの変哲もない、いつもの朝── 違いがあるとすれば、ここ一週間ほどは起こされるよりも前に目が覚めていることだろうか。それは俺にしては非常に珍しく、ミリィは驚きながらも世話焼きの機会が減ったことに少し不満そうな様子だった。 理由は無論、大したことじゃない。ただダラダラと惰眠を〈貪〉《むさぼ》っている気分になれないってだけだった。つうかぶっちゃけ〈寝〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈恐〉《 、》〈い〉《 、》。 「夜襲とか受けたりしねえよな……」 天秤に、あの鬼面に、いつ襲撃されるかという恐怖も分からないこの恐怖。誰か分かってくれないだろうか。 〈駅舎〉《ターミナル》での騒動は、誤魔化せていたどころか完全にマークされていた。あの夜、決定的な痕跡を残すヘマを踏んでいたことは間違いなく…… というかむしろ、相手が悪すぎた。チトセが生きていたとあれば俺の手口なんぞ丸裸だ。どう殺すか、どう殺したかなんて死体を見られれば一目でバレる。 そして、〈魔星〉《マルス》。災禍の象徴とも言える怪物。どうしてあいつが未だ存在している? 英雄に殺されたんじゃねえのかよ、公式発表と違うじゃねえか。 しかも、明確に俺と接触を持とうとしていて── 「どうしろっつうんだよ……」 ああ、手の震えが抑えられない。そうさ、恐いんだよ。 奴の言っていることは皆目分かりやしないが、それなりに目的があったと見るべきだろう。少なくとも無差別に襲撃をかけてきたとは考え辛い。 何もかもが想定外の事態。命からがら逃走してきたものの、そんなのは単なる一時〈凌〉《しの》ぎ。俺がこの界隈に住んでいるのだってきっと、とうに露見してるはず。 そして抵抗を試みたところで、連中相手に勝ち目などあるはずもなく。まして軍の裏まで関わってそうな気配もあれば……まさに死刑執行を待つ囚人の気分だ。 独り身であれば構いやしないが、今の俺にはミリィがいる。あの子だけは何としても帝国の暗部に巻き込むわけにはいかなくて。 じゃあどうするか? なんて問えば──当然、どうも出来るかということしかならず。 「運命なんざクソったれだ」 鬼の語る崇高な言葉とやらを切り捨てる。 起き抜けに〈反響振〉《ソナー》を張り周囲を警戒したが、〈胡散臭〉《うさんくさ》い奴の存在は感知できない。それがまた不気味で、泳がされているのかという疑念が心を〈蝕〉《むしば》むものだから。 溜め息を吐き、〈憂鬱〉《ゆううつ》の〈澱〉《おり》を溜めたまま俺は空の酒瓶を足で小突いた。 恐ろしいほど何事もなく……今日もまた、生きている。 三人で囲む食卓は、拍子抜けするほどいつもの光景。並べられたミリィお手製の料理が今日も食欲ををくすぐってくる。 「兄さん、おかわりいるかしら? スープたくさん作ってあるけど」 「おう、貰う」 「甘やかしすぎはいけないわよ、ミリィ。男を堕落させていいことなんて何もないのだから」 「自分のことは自分でしなさい。空いたお皿はちゃんと重ねる。家族だからって甘えないの……このくらい言われなくとも踏まえておくべきではないかしら?家長でしょう、一応は」 うるせえよ、と〈睨〉《にら》むだけに留めて聞き流す。小うるさい姑かてめえは。 ──あの夜、ヴェンデッタと何があったのかはよく覚えていない。 気づいた時には家のベッドに寝かされていて、意識を失う直前の記憶が〈攪拌〉《かくはん》されてしまっていた。身を裂く激痛に耐えかねてスラムを〈彷徨〉《さまよ》ったところまでは覚えているのだが…… 無論本人には問い〈質〉《ただ》したものの、いつものように〈煙〉《けむ》に巻かれるばかり。腹の底は未だ見えないまま今に至っているのが不気味で、あらゆるものが不鮮明なまま残っている。 例えばあの、訳が分からん力とか。 突然の出力上昇で結果的に助けられたが、ゆえにこの距離の取り辛さよ。そして疑り深い性根のために、どうしてもこう考えてしまう。 こいつ、あの能力を使えば俺を殺すことも〈容易〉《たやす》いんじゃないか──と。 「あらやだ、少女を舐めるように見るなんて。変態かしら」 「阿呆抜かせ」 詮ない思索を打ち切って、俺は飯を強引に胃袋へと掻っ込んだ。 今日も今日とて自然に俺を〈煽〉《あお》ってきやがる。多少は対応を覚えたものの、依然変わらず〈鬱陶〉《うっとう》しい。 しかし──まあ、小さな不満こそあれど。 この日常が今日も変わらず続いていることにどうしようもなく〈安堵〉《あんど》する。何かの間違いであの連中に見逃してもらえないか、などと都合のいいことを思わず考えてしまうほど。 「ねえ、兄さん。ひょっとしてだけど、最近お仕事忙しかったりするんじゃないのかな」 「ん? どした、急に」 「わたしの気のせいだったらいいんだけど、いつもと比べてなんだか疲れてるような感じだから」 「ほら、この前だっていつの間にか家でぐったりしてたでしょ。ヴェティちゃんに支えられて戻ってきたらしいけど、次の日から〈風邪〉《かぜ》で数日寝込んでいたし」 「雨に打たれて倒れたものね」 そうだな、〈雨〉《 、》〈に〉《 、》〈打〉《 、》〈た〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈倒〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈よ〉《 、》。その通りだ。 「んなこたぁないぞ妹よ。兄さん朝から食欲全開ッ、ほーら、一口でこの通り、うまいうまい」 「とにかく、別になんともねえよ。心配してくれてありがとな」 下手な芝居だ。こうして小さな嘘を重ねていくのはもはや茶飯事ではあるのだが、やはり心は痛む。 状況が状況であるだけに仕方がないが、さっさとどうにか片づけたい。元の暮らしにこの子を戻せることを願う。巻き込むのだけは絶対ごめんだ。 「なら、いいんだけど……何かあったら無理をせずに相談してね。わたしにできることがあったら、なんだって協力するから」 「兄さんが考えてるよりも、ミリィはもう大人なんですからね」 「そんな気に掛けることもないわよ。平気だと言うことは、余裕があるということだもの。放っておいてあげればいいわ」 「その傷と痛みの積み重ねが、男を強く鍛え上げるのよ」 「お、おおぉ……ヴェティちゃん、なんだか大人」 「……難易度の桁が違うけどな」 〈天秤〉《ライブラ》、そして魔星。そいつらとがっつり関わったのを知っての上でのこの笑顔と発言だ。致命傷でさっくり逝くわ。 つうかまだ傷つけと? 言うのなら、やはりこいつは気に入らん。 思わずソーセージにフォークをブッ刺しながら、そう思うのだった。 「さて──それじゃ、そろそろ〈工房〉《アトリエ》に行こうかな」 朝食を終えて、ミリィは奥の部屋で俺の武装をチェックし直していた。鈍い刃の輝きに無骨な造形、そのどこからどこまで女の子には似つかわしくない。 最近は、もっぱらこうして家に持ち帰ってから発動体の調律をしているミリィ。食事時以外の時間は、自室に隠れてトンカンやってることもしばしばだ。 そして翌日仕事場に持って行き、作業の採点をジン爺が行うという流れになっていた。師匠〈曰〉《いわ》く、実際にアダマンタイトに触れてこその修行であるらしい。 〈軍用特殊合金〉《アダマンタイト》は個々人によって微細な調整が要求される。ゆえに一つ一つを直に見て作業することこそが肝要……と軍にいたころ聞かされた。 言ってみれば、〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》が全力を奮うための必須パーツのようなものだしな。 何かあれば一緒に住んでいる俺に確認するのが合理的であり、その意味で爺の提案は意外と筋が通っている。こうして仕事場まで毎日抱えて持って行くことだけが手間というものだろう。 「へえ──これは、なかなか悪くないものね」 「えっ、分かるの?」 「それなりにはね。じっくり見るのは初めてよ、あくまで知識が存在しているだけ」 発動体にヴェンデッタが目を〈遣〉《や》って、感心したような声を漏らす。それはまるで優れた工芸品でも見た時のような反応だ。 また何か知ってんのかよと思うも、こいつとの出会いが軍部の貨物内であることを考えれば、〈そ〉《、》〈っ〉《、》〈ち〉《、》〈方〉《、》〈面〉《、》に精通していようとも特段の不思議でもない。 視線を送れば、受け流すように微笑みやがる。ああ、いいよ別に。てめえから話が聞けるなんざこれっぽっちも期待してねえし。 聞くのならもっと別の〈適〉《 、》〈任〉《 、》〈者〉《 、》を知ってんだよ。 「──アレはな、製造時からの記憶野にある程度の知識を叩き込まれておる。無知の雛鳥を育てるのも手間であろうが」 「自らの構成材質にも関わっておる分野の話だ。アダマンタイトそのものを製造させるわけではないが、知って損になるものでもない」 「さらに、アレは〈最初期型〉《ベータ》だからな。連中はそれで終わらせるつもりで生み出している。ならばいっそ、あれやこれやと〈頭脳〉《ここ》に詰め込んでおるだろうよ」 「ゆえに儂が仕込もうとしておること。馬鹿弟子の調律作業を見て気づいたと、無理はない。奴らはそれで出来ている」 「……情けだ、一応聞いてやろう。理解できるか?」 「はい、何を言ってるのか分かりません」 無論、ちんぷんかんぷんである。適任者が賢すぎるのか、それとも俺が馬鹿なのか、何言ってるかこれっぽっちも理解できない。 辛うじて分かったことは、ミリィの調律した俺の得物には何かの片鱗が見えていだと、そしてヴェンデッタが反応した? ……おいおい。 「あんた何を教えようとしてんだよ。危険なことじゃないだろうな?」 「言ったろうが、どうせ〈辿〉《たど》り着くとな」 「アダマンタイトには発展性がある。基礎理論からそこに〈迷〉《 、》〈い〉《 、》〈込〉《 、》〈む〉《 、》輩がどうしても存在する以上、それは明かしてやるべきことだ」 「発展性って……そんなもの初耳ですよっ」 と、師の発言が衝撃的だったのか、テンション高く話に入ってくるミリィ。目がキラキラしているのは恐らく見間違いじゃあるまい。 いつもならここで〈戯〉《たわ》けがと〈扱〉《こ》き下ろされるのだが、ジン爺は軽く瞑目して……何かを吟味をしてから口を開いた。 「あるとも、アダマンタイトにはその先が。そして無用の長物だ。なぜなら、〈星辰奏者〉《エスペラント》には〈永劫〉《えいごう》扱えん代物と化すからな」 「そこの間抜け面にも分かるよう説明するなら、アダマンタイトの役割とは使用者がアストラルと感応する際の補助装置だ。大雑把に言えばそういうことになるだろう」 「〈星辰光〉《アステリズム》を発動するには大気中のアストラルと適切な量で感応しなければならん。少なければそもそも星は発動せず、多ければ語るまでもなく自滅する」 「蓋を閉めた鍋の中へ煮えたぎる湯を注ぐが如しよ。貴様の卑小な器に湖ほどの熱湯を注げばどうなる?」 「破裂するな」 「空の状態から突如満杯になればどうだ?」 「急な熱変化で鍋はボコボコ……って、あぁ」 なーるほど、そりゃ〈鍋〉《からだ》も耐えられんわ。 専門家である爺さんから見ればかなり強引な説明だったかもしれないが、力の触れ幅が大きいとどうなるか、よく分かった。 「よって、適量で感応する機能こそアダマンタイトには求められる。その際に合金内を伝導する粒子の量、速度、密度などが個々人によって違うがため、〈星辰奏者〉《エスペラント》の運用にはどうしても技師が欠かせんのだ」 「そしてその微細な調整は、当然配合や形状など各種項目が複雑に影響しあうことで最終的な数値を決めるが……旧暦の技術をなぞれば当然その先も見える」 「感応するアストラルの量、速度、密度を極限まで高めること、それ自体は可能なのだ。アダマンタイトの発展性とはそれを指している」 「……そうなん?」 「わたしも知らなかったから。でも師匠、それって……」 「然り。理屈を云うなら簡単だが、結果は誰でも予想が出来ることだろう。〈使〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈お〉《 、》〈ら〉《 、》〈ん〉《 、》」 「どうだ、穀潰し。強大な力を得るか、水風船となって弾けるか。試すというならやってやるが?」 ……やだよ。それ死亡率100%のモルモットじゃんか。 というか、そうなるとますます不穏な話だぞこれ。なんだってこの爺、そんなものを〈弟子〉《ミリィ》に教えているというのか? 「あの、師匠。もしかしてわたし、実は結構危ないことをやっちゃったりしてました……?」 「粋がるな、貴様の浅知恵など知れたものよ。表層に触れた程度で、深奥を理解するには業も狂も渇も足りん」 「基礎理論を〈執拗〉《しつよう》に突き詰めた〈秀〉《 、》〈才〉《 、》〈く〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》が、アダマンタイトの発展に夢想を抱いて空回るのが時折あるのだ。儂が教えているのはおまえが無駄な時間を費やさんよう、都度修正しているだけに過ぎん」 「そうですか、よかったぁ」 兄を〈爆発〉《ボン》させないことにほっとするミリィと、なぜか不機嫌になって舌打ちする爺の差を見よ……俺への好感度が見事に分かれているようだ。死ねというか、そうですか。 「だが、どうしても行使するという腹積もりなら……」 そう言って、自らの〈義手〉《うで》を軽く叩いた。血の通わない乾いた音が〈工房〉《アトリエ》に響いて。 「己の身体ごと削って〈取〉《、》〈り〉《、》〈替〉《、》〈え〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈え〉《、》〈ば〉《、》〈い〉《、》〈い〉《、》。合金側は完璧なのだ。器の小ささが問題ならばそれに合わせることが正着と云うものだろうよ」 「生身で扱うなどとつまらん夢想にかまけているより、その方がよほど理に適う話よな」 うわ恐え、それこそ世迷い言の〈範疇〉《はんちゅう》じゃねえかよ。これだから〈螺子〉《ねじ》の外れた〈技師〉《マッド》は困る。 何より、その取り替えた箇所だけは星の通りも良くなるだろうが、他の部分はどうだっつう話である。なんか愉快な想像は出来そうもないのでそこで俺は、考えるのを打ち切った。 「うぅ、なんだかわたしの手がけた仕事から話が変な方向に……」 「でも確かに、一理はそこにあるんですよね。個人としては反対だけど〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》としては合理的な見地だから……その、興味事態はあるっていうか」 「────メカ兄さん。格好いいかも」 ピーピピ、ガシャーン、発進シマス──じゃないよミリィ。恐い、恐いよその目。お願い止めて。 そこのクソ爺も感心したという顔止めろ。この飽くなきブレーキの取れた探究心、絶対あんたの影響だろうが。 「はっ──な、なーんちゃって! 大丈夫、兄さんの身体をどうこうするなんて却下ですから。やっぱり生身が一番だよ、うんっ」 「とはいえ、それで限界が近いのも事実だがな」 「〈完〉《 、》〈成〉《 、》〈体〉《 、》を相手取るのは骨だったろう? 貴様と連中には、すなわちそれほどの差があるということよ」 「……はあ?」 何を言っているのだろうか。分からない、はずなのだが。 俺の得物を見て得心したようなヴェンデッタ。そして完成体とやら。気のせいか、悪い想像が芽生え始めてきて── 「どの道、賽は投げられた。ならば選択の一つとしては覚えておけ。そこの弟子もだ」 「試せ、そして〈躊躇〉《ちゅうちょ》をするな。ただ鋼を打つだけでは技師とは言えず、その見方でいけば貴様はいくらか筋がいい。ゆえに後は闘志を見出せ。抗うのではなく、壁を砕くという意思を」 「そして忘れるな。謙遜も度が過ぎればただの卑屈に成り果てる。もう少し自評の精度を上げるがいい」 ぶっきらぼう極まる口調ではあるものの、その言葉の内容に俺とミリィは思わず目を丸くする。 大半はよく分からなかったが、つまりあれだ。おまえは自分が思っているより大した奴だと言ったわけで…… 爺さんが人を褒めるなんざ〈滅多〉《めった》にないから、こうまで言われたら逆に何か裏があるのではと思えてしまう。それがたとえミリィの才能を認めていたにしても、だ。 「いずれ向き合う時も来るだろう。ただくれぐれも、死神に愛され過ぎんよう気をつけろ」 「もっとも、すべては既に決まっていることかもしれんが……」 ミリィ、そして俺の二人を見遣って告げる。それは皮肉か、ジン爺なりの寓意なのか。 ともあれ、なんだかんだ弟子のことを気に掛けてはいるようだ。極度の偏屈だから分かり辛いっつうのは最早あんたの業だよな。 「やー、しかし今日はいやに〈饒舌〉《じょうぜつ》じゃねえか。何だ、悪いもんでも食ったのか?」 「黙れ、言うに事欠いてそれか貴様。〈盆暗〉《ぼんくら》にも程があるわ」 「あはは、まぁまぁ……」 軽口を叩く俺に、畳み掛けるような辛辣な罵倒。それは、すっかりいつもの様子である取り付く島もない雰囲気で。 しかし、少しだけこの爺の素顔が〈垣間〉《かいま》見えたような気がしたのだった。 一心地ついたところで、ジン爺は工房を出るのだろうか荷物の準備をし始める。 〈螺旋〉《らせん》巻きに鉄鎚、見てもよく分からない〈諸々〉《もろもろ》……それらを鞄に詰め込む師匠にミリィがぱたぱたと近寄って尋ねた。 「歓楽街〈区画〉《エリア》の発電機修理ですね、師匠」 「貴様もさっさと支度しろ」 「はいっ!」 言われ、お供のミリィもいろいろと用意を始める。てきぱきとした挙動、そして小気味のいい返事。うん、いかにも助手として使い勝手がよさそうだ。 「貴様も阿呆面下げている暇はないぞ。〈暫〉《しば》し後にはここを出る、その積もりでいろ」 「はい? 俺がなんでよ」 「儂を使う〈伝手〉《つて》など一つしかなかろう。貴様を〈凌〉《しの》ぐあの阿呆坊主よ。有象無象の案件ばかりを振ってきおるわ、馬鹿馬鹿しい」 「奴の言うには雑用に貴様を使えとよ。分かったのなら荷物を運べ」 と、言って今日のお仕事が決まってしまった。この場合、時間が潰れたと嘆けばいいのか、それとも臨時収入を得る機会が出来たと喜ぶべきか。 あるいは、爺さんの中でルシードより順位が高かったことにほっとするべきなのやらと……思っていたが、まあしかし。 「一緒の現場でお仕事なんて初めてだね、兄さんっ」 ミリィが喜んでいるから良しとしよう。それが一番の報酬だな。 「けどそうなると、ヴェティちゃんはどうしよっか。長引いたら少し遅くなるかもしれないし」 「放置でいいだろ、あんなん」 「はい、駄目です。小さな女の子を一人残して外出したまま、そんなのやったらグレちゃいます」 「だから兄さんにはヴェティちゃんを連れてきて欲しいの。それから途中で合流ね」 「師匠もそれでいいですか? 邪魔になることは絶対にしませんから」 「儂に関わらせるなと言ったはずだが……」 そこで珍しく、くぐもったように〈喉〉《のど》を震わせて。 「あれを童女扱いとは、〈嗤〉《わら》わせる。ああよかろう、好きにしろ。一度は茶番を眺めて見るのも悪くない」 などと前言を撤回し、あっさりと認めてしまった。さては意外と弟子には甘かったりもするんだろうか。分からん。 ミリィも性格こそ優しいものの〈押〉《、》〈し〉《、》は強いし、なんだかんだバランスの取れた師弟だったりもするのかもな。 しかしまあ、俺はそんな思いを口にすることもなく。言われたとおり、〈工房〉《アトリエ》を後にするのだった。 そして嫌々、家で人形のように〈佇〉《たたず》んでいたヴェンデッタを連れて合流。今度は一同歓楽街を歩んでいく。 まだ昼間であるにも関わらず、通りを行き交う連中はそれなりに多い。いいね、あんたら、こんな時間から通えるご身分でさ。俺なんて、代金ツケてくれる優しいお姉さんのところへ通うくらいしかできない。 とはいえ、金は天下の回りもの。この〈区画〉《エリア》で湯水の如く金が消費されているからこそ、俺たちに回ってくるオシゴトもあるわけで。 「んで、何すんのよこれから」 「今日は電送関係のチェックと修理を頼まれてるの。ネオンを使っている関係もあるから、今までにも何度かね」 「何箇所か回ることになるかもしれないから、荷物はお願いできると嬉しいな」 「あいよ、任された」 俺の仕事としてはこんなものだが、二人のやることは専門性も重要度も非常に高い。基本、インフラとは電気とガスを指している。そのどちらかに対して理解を示しているというだけで食いっぱぐれることはないのが今の世だ。 本来なら正規のでかい業者に頼むところだが、グランセニックの傘に入っているため隠れた腕利きであるジン爺にルシード指名でこういう仕事が入るのだとか。 「本来ならば要りもしない場所にまで街灯を据える。明かりを増やす。さらに毎晩、朝まで使っておきながらすぐ壊れたと……度し難い」 「しかもこの上、壊れてもいないのに儂等を呼ぶときておるわ。定期検査だと?抜かしたものよ色狂いが。たかだか一年で不具合の発生するような仕事などしておらん」 ……このように本人は凄まじく機嫌が悪い。というか歓楽街そのものと相性が悪いのだろう。 金や性欲がらみの欲望をどうでもいいと思っているのか、イライラ〈苛々〉《いらいら》しておられるご様子だ。それでも電灯どころかガス灯の配管までついでに直してしまうあたり、その手腕が見て取れる。 「わっわっ、師匠、ここの構造何ですか。すっごく複雑──」 「〈流石〉《さすが》にそれなりの銭を〈注〉《つ》ぎ込んでいるだけあって、多少ましなものを置いてあるだけだ。この程度、触ってみれば単純なものよ」 「そうですか?今のわたしだと結構時間かかっちゃいそうに見えますけど……」 「儂の工房での作業が、このような玩具に手間取るものであるわけなかろう。いいか見ていろ。まず確認するべきはこの小型タービンだ」 「見た目だけで安易に判断せず、触れて確認をしておけ。ここに〈澱〉《よど》みがなければ、後は何と言うこともない。〈捩子〉《ねじ》を締め、オイルを差し……」 「職人の鑑ね。あれ、きっと値段以上の仕事よ」 「だからルシードが囲ってるんだろ」 なんだかんだいいつつも、雇われた料金分はきっちり働いていくつもりであるようだ。あれはたぶん、他人の半端な仕事を見るとむかついて、引き継いだら完璧に仕上げてしまうというタイプだな。 そしてミリィは爺の手伝いをしながら、実地で様々なノウハウを学んでいるといったところか。時に〈頷〉《うなづ》き、時に質問を交えながらも師に付いていっている。 目を輝かせながら無骨な機械に挑むその姿は、決して女の子らしいとは言えないかもしれないが、家で見せる優しい表情とはまた違った雰囲気が出ている。 そういう顔は、悪くなかった。あの子はちゃんと地に足をつけて生きている。 成長しているのが嬉しくて……少しだけ、寂しいけれど。 「優しい目をしているわよ。いつもそうしていればいいのに」 「いいんだよ、俺のスタンスをどうこう言うな」 感傷に浸っていたが、隣からの無粋な声でそれを断ち切る。こいつに褒められても全然嬉しくない。 ヴェンデッタはそんな態度にさえも微笑して受け流し、かと思えばこの区画の街並みが目新しいようで周囲を見回しては興味深げにしていた。 いつも泰然としてやがるこいつから考えれば、珍しい姿ではある。たしかに普段行く中心街と比べれば、並んでいるものの品揃えから雰囲気までガラッと変わってるかもしれないが。 実際、俺もイヴに会いには来るものの、特に詳しいというわけでもない。それ以外の用事は〈滅多〉《めった》にないし、慣れてない度合いで言えばこいつより少しはマシといったところだろう。 そんなことをつらつら考えていると、一仕事終えた二人が戻って来る。爺さんの方は相も変わらず渋い顔、シワが深くなっちまうぞ、そんなんじゃ。 「おう、どしたんだよ。なんかミスでもしたのか爺さん」 「虚けが。この程度の作業など、目を閉じていてもしくじりなどせんわ。もとより半分は手を加える必要がない」 「まだ充分に使える〈機械〉《もの》であっても修理申請を出しておる。無駄の極みであるし、そのような仕事を受ける仲介人もまた同様に程度が低い」 「いいじゃん、そんなピリピリせんでも。とりあえずは頼まれたことやってりゃ儲かるんだからさ」 「馬鹿げた仕事を浅ましく拾ってまで得る稼ぎなど願い下げよ。その日を〈凌〉《しの》げればいいなどという貴様と一緒にするな、阿呆が」 「わたしは面白かったんだけどね。見えないところに装飾が施されていたり、払いがいいからちょっとした遊び心のある造りも多くて新鮮だったよ」 「まあ、師匠からすると実用性とは程遠い〈外見〉《デザイン》ばかりを求めているって話になるから……あはは」 「見てくれ? 気品? 〈屑〉《くず》めらが、重視すべきは性能よ」 それはまた、機能重視の極みだね。ミリィにとっては普段触らない部分の経験値にほくほく顔だが。 結果的には、弟子の経験になっているし、重要な部分は自ら取り組むことで職人としての仁義も通した形になっている。案外いい師弟なのかもしれない。 「手早く済ませて儂は帰る」 「ふふ、次はどんなのが見れるかな」 「息ぴったりね」 「デコボコっつうんだよ」 そんなこんなで、二人のまったく異なる感想を聞きながら歓楽街〈区画〉《エリア》巡りは続くのだった。 そして── 「ふぅ……これで全部回りましたかね、師匠?」 「ああ」 まだ日が高いものの、暮れるまでもう少し。 どうやら仕事は終了したようだ。ジン爺は油で汚れた手を布で拭いている。 歓楽街もそろそろにわかに騒がしくなる頃だが、どうしたものかね。これから帰っても特にすることも思い付かず、おっちゃんの飯屋くらいしか行く当てもない。 せっかくここまで来ておきながら、仕事だけで終わるというのもつまらん気がするし。 「儂は工房に戻る。今日の仕事は終わりだ。貴様らは勝手に羽を伸ばして来るといい」 ジン爺の言葉は素っ気ない。まあ、あれだけ言ってたあんたとしてはそうだろうけどな。 対して、一種独特とも言える街の様子を前に、女二人は少し見て行きたいような雰囲気を出している。 さて、俺はどうしたものかね。 まあ結局のところ、こいつから目を離すわけにもいかねえだろうな。 未だ正体すらも掴めていない特級の不安要素。ミリィと二人だけにはしたくないし、ジン爺と一緒に帰らせるのはさらにマズい。本人からあまり近づけるなと言われているわけだし。 「あ、ねえねえ兄さん。ちょっとあのお店覗いてきてもいいかな?」 「じゃあ私はこちらの露店を見ていくわ。後で、そうね──時計台の下で合流というのでどうかしら」 「おまえが仕切んなよ、部外者」 ミリィが自分の見たい店へと向かった後でヴェンデッタに告げてやるも、相変わらず俺の言葉なんざ聞いている様子はない。 「なるほどね、この〈区画〉《エリア》には生活に必要はないものばかりが置いてあるのかしら。だからこそ華美で、豪奢で、人目を惹く」 「その代わり、飾り立てなければ埋もれてしまいかねないと──まるで孔雀の求愛みたい」 歓楽街の様子に目移りしているヴェンデッタは、どうにも普段と印象が違って見える。こいつの特徴でもある〈不貞不貞〉《ふてぶて》しいまでの落ち着きがどこかへ行ってしまっているのだ。 その姿は、まるで普通の少女のようにも思えて…… 一瞬、有り得ないことを考えた自分に失笑を漏らす。 普通だと? こいつが? ねえよ馬鹿かと。 たとえどんな仕草を見せたところで、俺の心に〈澱〉《おり》のように〈堆積〉《たいせき》している嫌悪感は消えていない。本能的なレベルで忌避したがっている。 そう、自分でも不思議に思うほど。 「ねえ、ゼファー。ここに置いてあるような物は、いつも行く商業〈区画〉《エリア》には入荷されないのよね」 「なら、幾つか買っていっても良いと思うのだけれど。また似たようなものが探し出せるという保証もないし」 「これなんて可愛らしいものね。あなたも見てごらんなさい。ほら」 「ああ、もう勝手にすりゃいいだろ、そんなもん」 「欲しいっつうんなら買えよ。ルシードに都合して貰った金は、言ってみればてめえのもんだろうが」 「ふふっ、良いのかしら? あなたの大事な大事なお金を、憎い私なんかに使ってしまっても」 「とはいえ──何かを買ってくれるというのなら、それは嬉しいものだけどね。ありがとう、ゼファー」 その感謝は真っ直ぐで、ゆえにどうも調子が狂う。内面すべてを知っているわけではないが、こいつはこんな奴だったか? 「初めてここに来たんだもの。少しくらい好きにしてもいいでしょう?」 「初めてって、そりゃ……」 当然そうだろう。鉄の棺桶から目覚めたのだから、と──考えたところではたと気づく。 つまりこいつ、その口ぶりから考えるにずっと眠ったままだったのか? それとも一度起きていたが、何らかの理由でああして封印されていたとか…… 分からないがしかし、俺は自然とこいつがようやく起きたものだと極当たり前に感じていたと自覚する。 それが何か、〈ず〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈前〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈事〉《 、》〈情〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》。 「おまえ……」 「あ、いたいた。ゼファー君」 問いかけた口が、かけられた声によって思わず止まった。 そこへ俺たちを捜していたのだろうか、イヴが娼館の方から現われた。そして同時に内で渦巻く嫌な感触も霧散していく。 ……まあ、気にしなくていいだろう。ヴェンデッタのことなど知りたくないし、どうでもいい。 〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈後〉《 、》〈悔〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。 「今日は来てくれてどうもありがとう。この区画もけっこう広いし、頼んだ範囲もかなりのものだったから、荷物持って歩くのも疲れちゃったでしょう」 「いつもジンさんはいい仕事をしてくれるし、何かあったらお世話になってるのよ。これからもどうかよろしくね」 「俺に言うかね」 「ええ、気に入られていると思うもの」 どこがだと首を〈傾〉《かし》げるのだが、上品に笑われた。そしてやはり、顧客から見ればあの爺さんの仕事振りは有能ということなんだろう。 まあ、こうした通り一遍のお世辞を伝えたところで、偏屈極まるジン爺が喜ぶなんざこれっぽっちも思えないわけだが。 イヴはしばらく俺たち二人を見ていたが、やがて何か理解したかのような視線を向けてきた。 「お買い物? 歓楽街にまで女の子連れて来るなんて珍しいわね。あ、〈祝祭〉《フィエスタ》の準備かしら」 「あー、違う違う。むしろそっちのが忙しいんだろ」 「そうね、上流階級と交流があるというのも色々あるから」 今日から数週間後、帝都では〈祝祭〉《フィエスタ》というものが開催される。これは、自分たちが日々健やかに生きていることを〈大和様〉《カミサマ》に感謝しながら杯を傾けるという毎年の恒例行事。 収穫祭、感謝祭など、名目は違えどもこの手の祭りというものは旧暦の昔から様々な国で行われてきており、有り体に言ってしまえば騒ぐ口実というやつだ。帝都でも楽しみにしてる連中は多いし、街は相当盛り上がる。 普段は質実を旨とする軍部も、この日ばかりは昼間から行われる宴を大目に見る。祭事というものは市井の民にとっていい気分転換になるもので、管理側としてもガス抜きの機会として利用しているというわけだ。 「私も舞踏会に向けて準備しようと思って来たのよ。去年のものを着ていくわけにもいかないし」 いかにもハイソなその理屈に俺は肩を〈竦〉《すく》めてみせる。いいじゃん、同じの着て行ったってよ。俺なんかこの服何年着倒してると思ってんだ。 つうか舞踏会、舞踏会ねえ…… 「肩がこりそう、なんて顔をしているわね。でもうちの子たちにはとても人気よ? 顧客と踊ったり、時には玉の輿にまで発展したりで」 「本来は普段〈所縁〉《ゆかり》のない人たちと関係を作ったり、そういうのが目的なんだけどね。参加者はみんなドレスアップしているし、普段の帝都とは違った雰囲気があって参加するだけでも楽しいものよ」 しかし、ヴェンデッタは何やら興味を示すように話に耳を傾けている。イヴはそれを察知したのか、柔らかく微笑んで。 感想としては、そりゃ良うございますねといったところだ。ますます俺には関係ない。 「それはそれは、楽しそうね。愛欲にまみれているから、〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈女〉《 、》〈の〉《 、》〈子〉《 、》にはとても居心地がよさそうだわ」 「そうね、愛されるのは好きだもの」 「甘やかすのも?」 「天職ね」 ふっと笑いながら、二人は顔をほころばせた。なにやら通じ合うものがあったのか同時にこちらへ視線を寄こす。 「ねえゼファー君。今日のお礼に口利きしてあげるから、今年は二人も参加してみたらどう? きっと楽しいわよ」 「あら剛毅ね。私のような者でもいいのかしら?」 「ええ、もちろん。なんだったら、着ていくドレスを選ぶお手伝いもしてあげるわ。ほら、そこにお店があるでしょう? けっこう良い仕立てのものが揃ってるのよ」 「ねえ、一緒に見てみましょうか」 そうヴェンデッタを促し、そのまま手近な店へと入っていった。どういう流れだ、信じられん。 「ゼファー君はそこでいい子に待っててね。女の子のドレス姿を最初に見る特権をあげるから」 事後承諾に等しい形で放っておかれている間、イヴの見立てでドレスを選び試着するヴェンデッタ。 そして── 「どうかしら、ゼファー」 俺の前へと出てきたヴェンデッタは、〈瀟洒〉《しょうしゃ》なドレスにその身を着飾ってる。 馬子にも衣装というのはいつの時代の諺だったろうか。要すれば、似合ってなくもない。そもそもこいつの外面は平均以上のものであり、そこらの服ならば着こなせるのは道理というものだろう。 ただ、まあ……なんというか。なんだろう、この〈違〉《 、》〈和〉《 、》〈感〉《 、》は。 似合っているとは思う。大したものだとも思う。嫌悪感を抜きにすれば美少女だと評価も出来るが…… 〈初〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈ド〉《 、》〈レ〉《 、》〈ス〉《 、》〈姿〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》という、何もおかしくないはずの感想がどうにも頭に引っかかる。 「ああ、もういいんじゃねえのか。どれだって」 「あらいけないわ。ちゃんと女性を褒めるのも、紳士の嗜みだと思うのだけれど」 「あなたが連れて歩く女なのよ。飾り立てた姿くらい褒めなくてどうするのかしら」 「ほら、いいのよ? あらん限りの美辞麗句、〈僅〉《わず》かな語彙を振り絞って並べ立てても許してあげるわ」 「んなもんどうだっていいわ。つうか俺も出るのは確定かよ、舞踏会」 そしてまた、よく分からん感慨が去来する。〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈も〉《 、》〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈初〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈だ〉《 、》と。 おかげでどうも落ち着かない。嫌がるべきか、何かほっとしたような、奇妙なむずがゆさのせいで背中が〈痒〉《かゆ》くて仕方がなく。 とにかく慣れないことをしているなという自覚のもと、俺は苦い溜め息を吐くのだった。 改めて考えてみるまでもない。誰と行動するかなんて、んなもんミリィ一択に決まってるだろう。 こんなちゃらんぽらんな俺でも一応はあの子の責任者であり、〈歓楽街〉《ここ》みたいなアダルトな場所で放っておけるわけがない。ほら、ミリィ可愛いからスカウトとか来るかもしれないし。 それに、肉体労働の後の癒しはやっぱり優しい妹であるべきだ。ヴェンデッタと二人で街歩きなんざ、考えただけでもぞっとしない。 「それじゃあ、私も少し見て回るとしようかしら。二人は一緒に行くのでしょう?」 「言うまでもなし」 「ヴェティちゃんも、わたしたちと一緒にどうかな?」 「せっかくの申し出だけど、今日のところは遠慮しておくわ。ミリィもたまには兄妹水入らずで楽しんできなさいな」 「あなたはとてもいい子だもの。だからたまには、この駄目男を困らせてあげるくらいが丁度いいのよ」 そう言ってヴェンデッタは歓楽街の雑踏に紛れていった。捨て〈台詞〉《ぜりふ》はアレだったが、そこは常々俺も思っていることなので良しとしよう。 あいつは未だに敵か味方か測りかねる女ではあるものの……まあ、現状のところ特に危険性のようなものは見えてこない。歓楽街を歩かせるくらいなら大丈夫だろう。 ミリィはヴェンデッタのことを気にしていた様子だったが、やがて俺の方を向いた時には頬を染めてはにかんでいた。 「そ、それじゃあ……わがまま言っていいかな?」 「一緒に行こっか、兄さん」 「うちの妹は安上がりだねえ」 それだけで幸せだという姿に頭が下がる。そんなことでいいのなら、俺はいつだって叶えてあげるさ。 二人仲良く並んで道を歩く。歓楽街ということもあり、変な輩がよらないよう近づいているためか普段より互いの距離は近かった。 歩くたびに指先が手の甲が触れ合うようで、なんというか、むずがゆく…… 「えへへ……」 チラリと隣を見れば、少しだけ恥ずかしそうに笑うミリィ。 「こうして近くでお店を見ながら歩いてると、なんだかデートしてるみたいだね。本当はただの仕事終わりで、全然そんなことないはずなのに」 「わたしたちって、他の人たちからはどう見えてるのかなぁ」 「『うわー、釣り合わねえ二人』とか、『あんな冴えない男とくっつくとかマジ拷問』ってところに一票」 あるいは『ヒモが、死ねィ!』だろう。言われたらぐうの音も出ないな。 「むぅ、そんなことありません。兄さんは格好いいんだから。それに釣り合わないのはわたしの方!」 「だから、お似合いって思われた方が嬉しいよ? だって少しでも追いつけたって気がするからね」 目を優しく細めてそう口にする姿が〈眩〉《まぶ》しい。嬉しいこと言ってくれる、兄さん感激。 だから──ちょっとした悪戯心と、言葉に出来ない日ごろの感謝をこめて。 そしてこれぐらいなら〈兄〉《 、》〈妹〉《 、》の〈範疇〉《はんちゅう》だという、〈微〉《かす》かな打算もこめながらミリィの手を取ってみた。 「ひゃうっ!? に、兄さん、どどどうしたの。急にっ」 「いやー、ほらこの辺りって人多いじゃん。はぐれちゃいけないからな」 「そ、そういうこと?けどそれにしても、心の準備というものがあるっていうか」 「いいじゃんいいじゃん。それと、店見るのはもういいのか?欲しいモノがあればなんだって言えばいい。今日は特別に奮発するからさ」 街全体に漂う享楽的な空気につられて、俺もつい調子に乗ってしまう。ああ、やっぱりこんな気分になれるのは、この子と一緒の時だけだ。 やがて、アクセサリーを売っている露店の前でミリィはその足を止めた。じっと見ているのは、女の子らしい〈華奢〉《きゃしゃ》なチェーンのブレスレットだ。 「ふわぁ、素敵……」 「ん、それがいいのか?」 一瞬どこか申し訳なさそうに迷うも、こくんと〈頷〉《うなづ》くミリィ。恐らく気を遣ってくれたのだろうが、値段もそんなに高いものじゃない。 会計を済ませて早速腕に着けてやる。いくら妹とはいえ、こういうのはなかなか照れるもんだな。 「ん、どう……? 似合う、かな」 「そりゃ〈勿論〉《もちろん》。うちの子は何を着けても似合うんです、悪いが異論は認めません」 「ふふっ。ありがとう、兄さん」 「本当に嬉しい──絶対、ずっと大事にするから」 〈向日葵〉《ひまわり》を思わせるような明るい笑顔に胸が洗われ、心が〈軋〉《きし》む。安物なのに、そこまで感謝されることが申し訳ないような気がした。 そして何より──痛いのが負い目だ。あの日この子が失ったものを、俺は少しでも取り戻すことができているだろうか? 流した涙を帳消しにしてしまう分、幸せを与えることができただろうか? そう思わずにはいられず、それでも言葉にして問いかけることはしない。口にするぐらいながらそれは行動で見せるべきことだから。 ゆえにせめてと、妹の心の底から嬉しそうな言葉に幸せを噛み締める。この普通で平穏で、しかし掛け替えのない時間がいつまでも続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。 「あ、いたいた。ゼファー君」 そこへ俺たちを捜していたのだろうか。見知っている艶やかな女が娼館の方から現われた。 そして同時に、こちらへちらちらと向けられる視線の数々。まあそうなるわな、こいつが寄って来たとあれば…… 「今日は来てくれてどうもありがとう。この区画もけっこう広いし、頼んだ範囲もかなりのものだったから、荷物持って歩くのも疲れちゃったでしょう」 「いつもジンさんはいい仕事をしてくれるし、何かあったらお世話になってるのよ。これからもどうかよろしくね」 「ミリィちゃんもお久しぶりね。偉いわ、はい……なでなで」 「はいっ。こちらこそ、ありがとうございます!」 などと、撫でるイヴと撫でられるミリィ。これは子犬を可愛がる美女の構図というところだな。 ルシードと同じく身分保障の関係で二人は顔を合わせた機会はあるものの、担当区画の問題からあの〈御曹司〉《ボンボン》ほど出会う頻度は高くなかった。 イヴとしてはミリィを愛らしいと思っているようで、会いたがっている時もあるらしいが。ともかく権力持ってる奴から大事にされているのはいい事だ。もしもの時を考えれば、これほど心強いことはない。 ひとしきりスキンシップが終わったのか、こちらを見ながらイヴは嬉しそうに目を細めた。 「いいわね、家族水入らずって感じで。自由な時間があるうちは大切な人に使ってあげなさい」 「何かが出来るようになった〈途端〉《とたん》、今度は好きに動けなくなるものよ。おかげで私も最近は忙しくならざるをえなくてね」 「そっか、〈祝祭〉《フィエスタ》の準備が近いんですね」 今日から数週間後、帝都では〈祝祭〉《フィエスタ》というものが開催される。これは、自分たちが日々健やかに生かされていることを〈大和様〉《カミサマ》に感謝しながら杯を傾けるという毎年の恒例行事だ。 収穫祭、感謝祭など、名目は違えどもこの手の祭りというものは旧暦の昔から様々な国で行われてきており、有り体に言ってしまえば騒ぐ口実というやつだ。帝都でも楽しみにしてる連中は多いし、街は相当盛り上がる。 普段は質実を旨とする軍部も、この日ばかりは昼間から行われる宴を大目に見る。祭事というものは市井の民にとっていい気分転換になるもので、管理側としてもガス抜きの機会として利用しているというわけだ。 そして── 「特定階級のために毎年舞踏会があるんだよ。名のある人が多く参加するらしいから、きっと準備に時間がかかるんじゃないかな」 「そうなん?」 「ええ、そうなの。そして皆が皆、ゼファー君みたいに食べられればいいっていう主義じゃないのよね。だから粗相は避けたいわけ」 「上流階級同士の交流、縁を暖めたり〈繋〉《つな》いだり、時には少し表に出来ない話をしたり……まあ色々ね。それらを考慮した上で調度品の配置だったり、出す料理やどうフロアを飾り立てるか」 「どこの誰にその仕事を頼んだかで箔付けも始まるから、色々あるのよ。慎重にならざるを得ないわ」 聞いていて思わず眉間にしわがよった。うへえ、肩こるわぁ。食べればいい主義で正解だろうに。 「けれど〈勿論〉《もちろん》、楽しいことも多いわよ?女の子には一生の思い出になるかもしれないし……」 そこでちらりと、イヴはミリィに流し目を送った。そして俺たち二人を見てから一度、小さく〈頷〉《うなづ》いて。 「そうね、今年は二人一緒に参加してみたらどうかしら? 服装に関してもこっちで負担してあげるから」 「……え、えええっ!」 ……落とした爆弾発言に、なんとなく彼女の真意を悟った。 「あの、イヴさん。さすがにそれはっ」 「気にしないでいいわよ、これは私の趣味だもの。ミリィちゃんやゼファー君に優しくしてあげたいだけ」 つまりはいつもの病気である。こちらに助けを求めるミリィに対し、俺はお手上げポーズで首を振った。 諦めろ、妹よ。その女は頭の中が常時ナイチンゲール症候群だ。庇護欲の湧く相手を見ると甘やかしたくて仕方がなくなる習性があるのだよ。 「じゃあまずはミリィちゃんをご案内ね。はい、ついて来て」 「はわっ、あううぅぅぅぅ……」 そのまま肩を掴まれ、ぎゅっとされたり頬ずりされたり撫でこ撫でこされたりしながら、ミリィは手近な店へと拉致されていった。 まあ、招待されるパーティーならいいんじゃねえのと吹っ切れよう。美味い飯がたらふく食えるだろうしと、俺は頭を切り替えた。 ああなったイヴは相手をとことん甘やかす。別にそれで減ったり悲しんだりするわけでもないことだし…… そして何よりも、日頃遊ぶ暇もなく頑張っているミリィの気分転換にもなるだろう。 ……あの子にとっても、ああやって甘やかす大人は必要だろうしな。その部分だけは“兄貴”じゃ無理だ。 そして、イヴの見立てで我が妹が着せ替え人形になることしばし── 「ど、どうかな兄さん──変じゃない?」 俺の前へと出てきたミリィは、〈瀟洒〉《しょうしゃ》なドレスにその身を着飾っていた。 感想を述べろというのなら、これしかないだろう。最高に可愛い。本気で可愛い。無双である。 もうなんというか、どこぞの毒舌ゴスロリや切り裂き女傑とは次元違いの愛らしさだ。もじもじと少し恥ずかしそうな姿が尚グッド、俺の星も〈滾〉《たぎ》ってくるというものだろう。 妹でありながらも天使であり、ならばこそ〈跪〉《ひざまず》かずにはいられない── 「〈嗚呼〉《ああ》、お似合いですともお嬢様。このゼファー・コールレイン、貴女をエスコートさせて頂きとう存じます」 「……兄さん、それもしかしてルシードさんの真似?なんだかそっくりなんだけど」 「げぶぉはァッ──!?」 やばい、この五年で一番の精神的ダメージだ。〈無垢〉《むく》な弾丸が無慈悲にハートを〈抉〉《えぐ》り取った。 思わず崩れ落ちる俺を見てミリィは小さくころころと笑う。まだ頬は少し赤かったが、それでもちろりと舌を出して悪戯っぽく、魅力的に。 「ふふ、なーんて嘘ですっ。もっとちゃんと褒めてほしかったから、ちょっといじわるしてみただけ」 「本当は、とってもとっても嬉しいよ」 それは、今までに見たことのない女としての表情で──なんというか、無性に意識してしまう。 心臓が奇妙な鼓動を刻んだ。それが甘く、〈疼〉《うず》き、棘のように痛く。 「だから兄さんのエスコート、楽しみにしてるね!」 勘違いするんじゃねえぞと自分に言い聞かせながら、俺は小さく肩を〈竦〉《すく》めた。 妹の成長を喜びながら──〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》、俺もまた彼女に向かって頷くのだった。 ぶっちゃけ、呑気に羽を伸ばす気分にはとてもなれない。 いつ〈裁剣天秤〉《ライブラ》の急襲を受けてもおかしくない現状は、言ってみれば〈喉〉《のど》元に刃が当てられているにも等しい。考えておくことなんていくらだってあるだろう。 チトセはまた、必ず俺の前にやって来る。 あいつは有限実行がモットーだ。その初志貫徹ぶり、俺は誰よりよく知っていたから気分が乗らず…… 「行ってこいよ、二人とも。俺、ちっと疲れたししばらくここいるからさ」 その言葉に顔を見合わせるミリィとヴェンデッタ。どうしようかと考えている様子だ。 「疲れたって、大丈夫? もしかして無理させちゃったとか……」 「ああ。歩き詰めで足がだるい程度だよ。心配なんて必要ないない」 「それならいいけど、変に隠すのはダメだからね。辛かったら早めにお家に帰って休んでいいよ」 「はいはい」 ひらひらと手を振って二人を見送る。その去り際に── 「──安心なさい。きっと、この平穏は〈様〉《 、》〈子〉《 、》〈見〉《 、》よ」 「だからあなたも、少しはその臆病さを克服なさい」 「……はっ、出来ていたら落ちぶれねえよ」 かけられた言葉に悪態を付き、自嘲とも苛立ちとも取れない〈呟〉《つぶや》きを漏らした。 ミリィはヴェンデッタを連れて店の建ち並ぶ方へと向かっていった。まあ、妹にたいしては上手く誤魔化せたと思っておこう。 そして、この場に残されたのはむさ苦しい男二人。負け犬に頑固爺という驚きの組み合わせであった。 で──ここからが本題。 「気づかせてない、よな?」 「当然だ。〈そ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》については何一つな」 ならいい、と胸を撫で下ろす。さすがに電送管の配置やそこに施された細工など、その裏に隠された仕組みについてミリィに教えていなかったか。 それは例えば──ちょいとネジを一つ緩めてしまえば、特定地点が爆発してしまうおかしなガス管とか。なぜか、軍専用規格の端子が背面に隠されている電送盤とか。 帝都に存在するインフラにある、ちょっとした〈不〉《 、》〈思〉《 、》〈議〉《 、》の数々。それがこの歓楽街には多めに設置されているから、実は結構あの子が気づくのではと気が気じゃなかった。 なにせこの場所は〈愛と欲望〉《ハニートラップ》の巣窟だ。グレーゾーンの支配地域であり、ゆえに欲で目が〈眩〉《くら》む輩も多い。 ……俺も昔、それのお世話になったこともある。なぜなら内部粛清こそ天秤のお仕事だから。 このエリアは軍部の連中とズブズブだ。それは盛り場を管轄に置きたいという管理側の思惑と、権力層の旨味を享受したいという歓楽街側の打算が交錯した結果として存在する現象だった。 例えば……建物、路地裏、そこかしこに存在している隠し通路だってある。これは要人暗殺の際に使うべく軍部が秘密裏に通したものだし、その見返りは多額の裏金といったところか。 「華やかに装っては居れども、それはあくまで表面だけのこと。一皮〈捲〉《めく》れば〈碌〉《ろく》でもない暗部ばかりよ」 「大元のところで軍部と〈繋〉《つな》がっていれば、そのような実態も〈宜〉《むべ》なるかな。隠そうにも粗が多すぎてどうにもならん。貴様も〈疾〉《と》うに気づいているのだろう?」 「だから〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》なんだろう?」 この爺さんが軍に〈繋〉《つな》がりを持っていた人間なのは間違い無いし、互いになんとなく分かっている。だからルシードは指名したのだ。要するに〈黙〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈ろ〉《 、》という話で…… ああやだやだと、そこで考えるのを止めた。愉快じゃない想像なんてしたくないね、まったく。 そして、キナ臭い話ついでにもう一つ。 「そういや、爺さんって強いの? 生臭い感じはするけどさ」 「ほう──なるほど貴様、知りたいのか?いいぞよかろう、三途の川に沈めてくれるわ」 「俺、これでも〈星辰奏者〉《エスペラント》だぜ」 「ゆえにそれが〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈達〉《 、》の弱さだ。小僧程度、殺す手段は無数にあるわ」 格上殺しは可能ってか──なるほど、頼もしい。 「ならちょいと聞いてみたいんだけどよ、退役後の俺やあんたを狙って追っ手が差し向けられるとするじゃん」 「そいつはもちろん自分より強い。圧倒的に強い。刺客なんだから当然だな。標的を殺せる腕前じゃなければ存在自体が成立しねえ」 「で、〈嵌〉《は》められて一対一を強いられたとする。ああ、逃げるっつう可能性は一旦除外な」 「そうしたとき──爺さんならどう切り抜ける?」 そう問いかけたところで、帰ってきたのは失望に満ちた嘆息だった。本気で言ったつもりだったが、おまえ何言ってんのという目を返される。 「不可能だな。野垂れ死ぬに決まっとる。負ける条件を並べ立て、ありとあらゆる勝機を消し、しかし超えろと語ったところでそんなことは絵空事よ」 「儂ならまず必勝への軌跡を描いて狩りへと挑む……というよりは、だ。それは〈誰〉《 、》を想定した疑問なのだ?」 「誰って……」 それは〈勿論〉《もちろん》、と言いかけてふと気づく。 ああそういえば確かに──強敵と〈咄嗟〉《とっさ》に思い描いたのは、驚くことに魔星の類じゃなかった。 俺が戦うのは恐ろしいと、いや、〈戦〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈嫌〉《 、》〈だ〉《 、》と総合的な意味合いで感じているのは。 「恐らく〈殺塵鬼〉《カーネイジ》、〈氷河姫〉《ピリオド》あたりと予想したが、違うのか?ならば貴様の天敵として〈露蜂房〉《ハイブ》か〈天霆〉《ケラウノス》とも思ったが、どうやらそういう感触でもない」 「〈色即絶空〉《ストレイド》なら恐れると言うより、忌むだろう。心情的に苦手だろうしな。〈錬金術師〉《アルケミスト》と出会ったならば既に運命は決している。貴様は既に黄泉の坂よ」 「そして恒星は未だ燃え〈滓〉《かす》──なあ、ならば誰を思い描いた?儂の知る以外に何者が奴らの聖戦に参したという」 鷹のような目で詰問された時、何か気になったり聞いた覚えのある単語が幾つか混じっていたものの、いつにない爺の勢いに流されてしまう。 その時、思わず答えてしまった名前は。 ずっと胸に焼き付いていた、〈尊敬〉《トラウマ》の象徴は── 「チトセ・朧・アマツ…… 俺の一番苦手で、一番怖いと思う女」 と、口にしたところで、なんか気恥ずかしくなったのはどうしてだろうか……まったくこれっぽっちも分からない。 だが何か、居心地の悪さである一要因はよく分かる。俺の知ってるこいつの方が強いんだぞ的な、爺さんの言う精鋭以外を口にしてしまった気まずさというか、何だこれ? ともあれ、ほら、なんか怪物よりも元上官のが生きてたのかよインパクトはでかいじゃん? だからあいつを思わず過去の基準点にしてしまってたらしく、変な熱と憧れと後悔と恐怖が色々ぐっちゃぐちゃと言いますか…… うん、自分で何を言いたいのかさっぱりである。おかげで爺も珍しくぽかんとしているわけであって、さっきから沈黙が痛い。 そして正気に戻ったのか、心底〈扱〉《こ》き下ろすような目をしてぽつりと。 「くだらん、昔の女ときたか……」 阿呆が、塵めが、〈盆暗〉《ぼんくら》めがと、なぜかやっちまった感のある俺に向けて散々〈呟〉《つぶや》きながら、さらにもう一つ。 「抱け。堕とせ。モノにして寝返らせろ──さすれば勝つも負けるもないわ、色呆けが」 そう吐き捨て去っていくジン爺の背中を見ながら、内心でぼやく。だってしょうがないだろうが、俺にとってチトセが“強者”の基準点なんだっつうの。 英雄や魔星はなんだか遠すぎて、とにかく死ぬという感覚しか湧かない。だから今でも深く、強く、自分の届かない者として焼きついているのは彼女なんだ。 「結局、実りない会話になったが……」 あいつが今でも、俺の中で大きなウェイトを占めていると自覚できただけ良しとしよう。きっと今後、避けて通れる女じゃないし。 良い意味であれ、悪い意味であれ…… そうこうしている内に、夕刻を迎え── 歓楽街〈区画〉《エリア》までわざわざ出張ってきてくれたお礼にと、イヴが夕食に招待したい旨を俺たちに伝えてきた。こっちは仕事なんだし、そこまで気を遣わんでもいいのにな。 しかし断る理由も特になく、ジン爺を除いて再合流した俺たちは娼館へと向かうのだった。 「いらっしゃい、三人とも。どうぞ座って」 「お、おじゃましますっ」 「意外ね。あなたはこういう場所、よく通ったりしてるのかしら?随分と慣れてる風だけれど」 「いらんこと言うんじゃねえよ、てめえは」 やめんか馬鹿、たまに通っているのをミリィにバレたらどうしてくれよう。 通された部屋にはすでに美味そうな料理が湯気を上げて所狭しと並んでいる。いずれの皿に乗っているのもお高そうなものばかりで──ああ、なんつう気前の良さだろうか。 「兄さん、手が震えてる」 「おお、すまん。〈上質なお肉様〉《ローストビーフ》なんざ見たのも久々でな。ついブルっちまったぜ」 「料理を目の当たりにして〈涎〉《よだれ》を垂らすなんて、まさに犬ね。慎みというものを覚えたらどうかしら」 「はいはい、仲良いのは分かったからじゃれあいはそこまで」 「さあ、それじゃ始めましょう」 高級な〈誂〉《あつら》えの施してある椅子に腰を下ろし、俺たちは〈労〉《ねぎら》いの乾杯を交わした。 「うわぁ……これ、すっごく美味しい。どうやってソースのお味取ってるんだろ」 「いいんでしょうか? こんな素敵なお料理、いただいちゃっても」 「あら、いいのよ。一日お仕事頑張ってくれたんだもの、もてなさない方が怒られちゃうわ」 「とは言っても、一番の功労者は帰ってしまったみたいだけど」 「ええっと、師匠はその、職人気質の最高峰と言いますか……少しだけ真面目すぎる部分があって」 「……すみません。でも、悪気はないと思うんです。鉄と向き合うのにすごく〈真摯〉《しんし》な人ですから」 「そんな取り繕わなくても平気よ。ルシード君ほどじゃないけど私もあなたのお師匠さんとは、付き合いがあるつもりだもの」 「むしろミリィちゃんにリラックスしてほしいわ。こういう場所にお呼ばれしたのが初めてでも、堅くなられると悪いことしちゃったかなって」 「あわわ、そんなことはありませんよっ。今日はとても楽しいです」 年上の女性からの気遣いにミリィは恐縮しきりの態を見せており、その初々しい様子にイヴもまた〈満更〉《まんざら》でもない様子である。 他方、普段から可愛がっているミリィを取られた気にでもなっているのか、ヴェンデッタは食事の手を止めてじっと二人のやり取りを見ている。こいつが嫉妬めいた感情を表わすのも珍しいもんだ。 「まあ、ざまぁみろってな」 「何か言ったかしら? あなたは出された食事を卑しく〈貪〉《むさぼ》っていればいいのよ」 「まあ分からないならそれもいいけど……後になって何を思うかは自由だし、その時になって好きに感じとれば結構だわ」 「愛の奇跡が起こるといいわね」 「へいへい、好きに小難しいこと言ってなよ。言われたとおりこっちゃ卑しく〈貪〉《むさぼ》るから、手をつけないならその肉寄こせや」 「もう、兄さん。またヴェティちゃんに〈棘々〉《とげとげ》しい」 「慌てなくてもたくさん用意してあるわよ」 そんなこんなで、慣れない場所と面子ではあるものの賑やかに食事は進み…… 「ところで──スラムの方で、少し前に〈騒〉《、》〈動〉《、》があったそうね」 場の空気が落ち着いたところで、イヴが俺に視線を寄越しながら口を開く。 ついに来たかと思ったが……考えて見ればそりゃそうだ。彼女はまさに帝都一番の情報通、歓楽街の女王様。 軍部の連中まで噛んでるネタだ、ならこいつの耳には当然入ってるだろうな。そして粗方、俺という事の登場人物についても掴んでいる。 こうして夕食に誘われたのも、もしかしたら布石だったのかもしれない。 「そう、なんですか?」 「ええ、だからミリィちゃんは一人の夜道に気をつけてね。彼らは社会に迎合しない人間でもすなわち弱者ではないの。自分たちの縄張りで大きな騒ぎを起こされて、面子に泥を塗られたと感じる住人も当然いるわ」 「事実、今も一部の腕自慢たちが騒ぎの当事者を捜してるらしくてね。たまにこの辺りにも現われるのよ。少しだけ治安が不安定になっているから、注意して」 「あそこ出身の者は相手の事情を欠片も〈斟酌〉《しんしゃく》しないものね。己の顔を回復するということが一番大事なんだから」 「なんだか恐いですね……」 「ええ。だからゼファー君に守ってもらわないと、ね?」 ──飛び火はなるべく避けるように、と。交わした〈視線〉《アイコンタクト》に〈頷〉《うなづ》きつつ感謝する。 ただまあ、確かにそれは失念していた情報だ。天秤、魔星、それらに気をとられていわゆる土着の危険性を見逃していたと言わざるをえない。 ミリィみたいな普通の女の子にとっては、なまじ精鋭部隊や怪物の脅威よりゴロツキが増えることの方が心配な面が大きい。 とにかくスラムからも厄介な火の粉が残っているとあれば、しばらくは近づかない方がいいだろう。教えてくれたイヴには真に感謝だ。 こちとら既に大量の厄介事抱えている。これ以上増えちゃ、それこそどうしようもねえというものだ。 そして、夜は更けていき。 美味い酒がさらなる食を促し、イヴに勧められるがままに飲み食いをしたその結果── 「いやぁ……よく食ったわ。俺もう腹パンパン、何も入んねえ」 高級料理をこれでもかと堪能した俺たちは、揃いも揃って身動きもままならないほど満腹状態になっていた。 うん、タダだからって食いすぎた。腹回りがギチギチにきつく、正直少し休みたい。 「まったく、出されたものを端から食べていれば、それは過食にもなるでしょう。少しは慎みを持ったらどうかしら」 「腹さすりながら言っても説得力ねえぞ」 皮肉な言葉とは裏腹に、すっかり満腹の態を見せているヴェンデッタ。こいつはこいつで楽しんでいたようだ。まあいいんじゃねえの、どうだって。 「とても美味しかったです。ご馳走さまでした、イヴさん」 「あらいいのよ、ミリィちゃんなら皆で毎日来てくれても。食後に膝枕はいる? あ、耳かきとかしてあげましょうか?」 「あはは、さすがにそこまで甘えられませんよ」 そして相変わらずミリィへは特にだだ甘いイヴである。久しぶりに娘と会った母親だろうか、これは。 「それに結局、ドレスまでいただいちゃって……」 食後のお茶に口をつけながら、部屋の端に置いた荷物をチラ見しているミリィ。その視線の先には、昼間に買ったドレスの包みがある。 当然こちらが買ったものではなく、やはりイヴが今度の〈祝祭〉《フィエスタ》用にとミリィとヴェンデッタの二人分をプレゼントしてくれた。本当に持つべきものは気前のいい金持ちである。 その普段し慣れない贈り物がミリィさんは気になっているご様子で、先程からどうも挙動に落ち着きがない。あまりの好意に気後れしているというのが、控えめな妹の性格からよく分かった。 しかして突っ返すわけにもいかず、はてさて…… 「あの調子だとミリィはきっと気に病むでしょうね。あなたと違って我慢してしまいがちだから、親切に慣れていないのよ」 そんなことおまえに言われなくても分かってるっつうの。ミリィがそういう少女だって、一番知っているのは俺なんだから。 なのでこの場合、どうすればいいかも分かっている。親切が優しすぎて受け止められない。そういうのなら、仕方ない。 「なあ、ちょっと試しに着てみるか。そのドレス」 一肌脱ぐといたしますか。 そして、俺たちは正装を身にまとって娼館内を移動する。 ミリィは先ほど貰ったドレスを、対して俺は着慣れないタキシードを。 窮屈だなこれ、とは思うものの口には出さずイヴに先導されながら目的地へ黙々と足を動かした。 そして── これから数週間後に開催される舞踏会、まだ誰もいない無人の会場で── 隣にいる、ほんのりと期待の色を浮かべた少女の瞳に── 「それじゃあ、練習スタート」 伸ばした手を取り、そっと、拙く二人で踊りだした。 観客はイヴとヴェンデッタだけ。他にペアのない広いホールの下、俺とミリィはたった一組の男女として貸切を〈満喫〉《まんきつ》していた。 「こ、こうして改めて着替えると、ていうかこんなに近いと……なんだかちょっぴり恥ずかしいよぅ」 「マジで似合うから大丈夫だって。ミリィは本当にミリィだな」 「はうぅ、止めてよ兄さん、もうっ」 とは言ってはいるものの、〈満更〉《まんざら》ではない様子で。頬をピンクに染めてはにかみ、その場でくるりと一つターンをしてみせる。 普段の服装もキュートでいいが、こういった装いも普段とは違う別の魅力と〈相俟〉《あいま》ってよく似合っている。ホールに咲く可憐な花とでも例えるべきだろうか。 舞踏会なんかに行ったら、金持ちに見初められたりする展開もあるかもしれない。そしたら俺は逆玉コースだが、さすがにそんな金はいらんな。兄としてはまだまだ妹の交際を認める訳にはいかんわけで。 もうしばらくだけ、あの家で二人の時間を過ごしたい──そう願わずにはいられないから。 「さあ〈お嬢様〉《レディ》、お手を拝借……っていかんわ。やっぱ俺にはこりゃ合わん」 「そうだね、あれはきっとルシードさんだから似合うんだよ」 「過剰すぎてスベるまでがお約束だがな。おっと──」 言って、〈躓〉《つまづ》きかけたミリィの手を少しだけ強く握る。同時にぴくっと初々しい震えが伝わり、そのまま二人で軌道修正。 「ふふ……ありがとね、兄さん」 照れた顔も愛らしく、しかし上目遣いでこちらを見るその面持ちは、すっかり女性を感じさせるものになっていた。ああそうだ、この子はもうそんな歳にまで育ったんだ。 それが嬉しく、同時に冷静な部分は思う。一人立ちの瞬間は近づいてきているのかもしれないと。 俺を取り巻く厄介な事情の〈諸々〉《もろもろ》、それを考えればなるべく早めにイヴにでも預ければ安心なのではと、考えることは多々あるが。 今、それ以上はやめておこう。 やがて、少し慣れてきたのかミリィは笑顔を覗かせ、俺の手を逆にきゅっと握り返してきた。ふわりと女の子特有の甘い、蠱惑的な薫りがステップを重ねるたびに鼻腔の奥をくすぐった。 「ふふ、リードしてくれる兄さん、素敵」 「んなことねぇよ。こんなのでいいってんなら、素敵のハードルが少し低いぞ。俺より巧い奴とか幾らでもいるしなぁ」 むしろ上流階級の暗殺、潜入任務用に習った作法でいいのかと思わないでもない。申し訳なくなってしまうほどだが。 「んもう、そういうことじゃないの。わたしは、兄さんがエスコートしてくれるから嬉しいんですー」 「そうだな……俺もミリィがいいや、気兼ねなくて」 「それじゃ、そろそろ本格的に始めるか。これまでは適当だったけどまずは基本としてワルツから。まあ三拍子の音楽だってことを覚えておけば十分だわな」 「確か、一、二、三……っていうリズムだよね」 「そう。アクセントは〈一〉《、》に置いてな。で、まずはこうして足を揃えるだろ」 「一歩目は左足を前に進めて──」 「こう、かな」 「おお、上手い上手い。二歩目は、右足をさっきの左足の横へ引き寄せる感じで踏み出す」 「うわわ、ひゃあっ」 「慌てなくていいからな。んで、パートナーの男がいる場合、ここらへんで互いに近づく──」 「あ──」 ステップの拍子に急速接近し、頬を真っ赤に染めてしまうミリィ。けれどこちらはなるべく表向き普段どおりを努めて動く。 だがその様子がなんだか妙に艶めかしくて、こっちまで鼓動が大きく跳ねてしまったのは──まあ、少し置いておくとしよう。うん 「ほい、続き続き」 「──う、うん」 軽口混じりではぐらかす。そして当然、ミリィの視線から目を逸らした。 俺は兄で、家族だから。今の彼女が向けている想いを見つめてはならないし、受け取ることは論外なのだ。 この子のまっすぐな視線が、俺には少し〈眩〉《まぶ》し過ぎるし──そして何よりも、ここで雰囲気に流されでもしたらもう戻れない気がした。 そうなったら償うも〈糞〉《くそ》もない。外道にまでは落ちるものか、ということで。 「なんつうか、こういう機会が俺たちにあるなんてなぁ……」 「うん。人の縁って、なんだか不思議」 「〈繋〉《つな》がったり、切れちゃったり。思いがけない場所で、想像できなかったりすることがいっぱいあって……」 「もちろん、辛いことがたくさんあるかもしれないけど」 見上げてきたその表情には、さっきのどこか切実な雰囲気はなく。 「今日みたいに楽しいこともいっぱいあるね、兄さんっ」 「だな」 俺のいつも見ている、大切なミリィの笑顔があったのだった。 まあ、何だかんだといろんなことがあったが── ミリィも楽しんでくれたみたいだし、終わってみればいい一日だったのだろう。  夜の闇に落ちたスラム街──  そこは活気溢れる正道を違えた、落伍者たちの〈集〉《つど》う集落であり。  犯罪の〈横溢〉《おういつ》する掃き溜めであり。  そして同時に、ある意味で帝都の表と何も変わらない〈秩序〉《こんとん》の支配する社会であった。  一見それは無秩序な集まりにも見えるが、人が増えれば必然的に〈規〉《、》〈律〉《、》が構成される。  暴力を受ければ報復してよい。のみならず、二度と舐めた真似ができないまでに痛めつけ、敷いた〈取り決め〉《ルール》を遵守させても構わない。それがどれだけ不条理なものであろうとも。  それは感情論であると同時に、スラムの深層心理に息付く社会法だ。生き抜くために必要な共通認識と言ってもいいだろうか。  すなわち、ここには少なからず〈混沌〉《カオス》なりの規則性が存在しており、それを絶対視する者にも事欠いてはいない。  弱肉強食であるがゆえに常に生きのいい無頼漢が現われ、彼らの〈鬩〉《せめ》ぎ合いこそが無法社会を危うい均衡の上に存在せしめている。強くなれ、押し通せ、それこそ善の唯一法。  分かりやすいたった一つの鎖だからこそ、道を外れた存在には都合がいい。なぜなら誰も、狩人になることだけは否定されたりしないのだから。  取りも直さず、〈斯様〉《かよう》な現状はスラムの危険性が思いの他高いことを意味している。なのに火種を抱えながらにして、この街が存在し続けているのは何故であろうか。  無論、軍部がその気になりさえすれば鎮圧自体は容易であるものの、行動に移すには幾らかの懸念が付きまとう。  単刀直入に言うのなら、どんなものにも〈ゴ〉《 、》〈ミ〉《 、》〈箱〉《 、》が必要とされる場面は多いということ。  完全な清水に生物が住めないというように、それは多くの者に嫌われながらも必要悪として存在権を獲得していた。  当たり前だが帝国は軍事国家だ。ゆえに当然戦いもするし、侵略もすれば人死にも自然と出る。よって帝国が繁栄するほどに、そこからどのような理由があれどもあぶれた〈事〉《、》〈情〉《、》〈持〉《、》〈ち〉《、》も生み出されてしまうのは必然だった。  闘争ほど不確定という言葉が生まれる場所はない。その数と頻度は、煮えたぎる熱湯の泡が如くという有様で。  結果として最後にここへ〈辿〉《たど》り着く者も多かった。英雄がどれだけ素晴らしい改革を行なおうとも社会福祉には限界がある。そして今さらやり直せない者たちの終着点がスラムとして機能している面もあった。  無論他の構成要素もある。例えば不法入国者、罪人、捨て子や横流しの商人なども混在して……  描かれる負の斑模様。ならばこそ、それをみだりに突いたところで今度は別の歪みが生まれるだけであり、住み分けが成されている現状こそが管理側から見れば次善であるという判断が下されていた。  病巣を潰すには成功しても健全な市街にまで飛び散っては、後が怖いと。  ゆえに歪でこそあるものの、この街は鋼の帝都に於ける一つの勢力たり得ていた。  そんなスラム街を一望する廃ビルの屋上──  〈佇〉《たたず》む男は〈眦〉《まなじり》を細め、〈愉悦〉《ゆえつ》の色を口端に浮かべていた。 「──ああ、会ったぜ。とは言っても前にちょろっと〈挨拶〉《あいさつ》しといた程度だが。  面白そうな兄ちゃんだとは思ったが、まだ詳細は分かんねえな。牙を隠しているようには見えたが、はてさて。   まあオレに言わせたら〈勿体〉《もったい》ないと思うがね。人間五十年、下天の内をくらぶれば、〈夢幻〉《ゆめまぼろし》のごとくなりと。いくらデキる奴だとしても〈出〉《、》〈し〉《、》〈惜〉《、》〈し〉《、》〈み〉《、》なんぞしてればアッという間に終わっちまう。   おう悲しいねえ。ならどうするかなんてのは、語るまでもないことだろう?」 「ん? ──〈呵々〉《かか》、安心しろや。いくら温いからって即ブッ殺したりはしねえよ。〈貧民窟〉《ここ》の頭だからといって万事が万事、同じ流儀は通らんこと。分かっているさ心配無用よ。   ただ、暴れるのが好きってのはその通りだ。やっぱこう、人間殴って殺してなんぼだろう?   スラムはいいぜ? 好き放題やってるだけでオレに喧嘩売ってくる馬鹿は後を絶たない、退屈しない。弱かろうが強かろうが恥じないってことはいいものだ。何せ見ていて気持ちもいいしな。   半端に賢くなっちまうと、あんたみたいに〈哲〉《 、》〈学〉《 、》の方角へ逸れちまう。善とは何か、正義とは──って知らねえよ」 「その前にまず楽しむことを覚えんとなァ。ともかくこうして生きてんだから、新鮮な気持ちで人生楽しむのがオツだろうよ」  乾いた笑い声が夜闇に響く。そう、そのためになら彼は決して〈躊躇〉《ちゅうちょ》しない。  無法地帯たるスラム街に根城を構えるこの男は、屈折こそ見られるもののそこに悲壮の色は宿してなかった。  生とは素晴らしい──ならばこそ生きる。  あまりに単純な信念はその単調さゆえ強靭で、自己矛盾による隙がない。  闇の中、背中越しに会話する影はその純粋さに呆れると同時……それがこ若者の強さであるとも理解していた。  彼はとにかく〈他〉《 、》〈者〉《 、》〈へ〉《 、》〈の〉《 、》〈憎〉《 、》〈悪〉《 、》〈が〉《 、》〈薄〉《 、》〈い〉《 、》のだ。恨み、憎しみ、それら悪意を基本的に抱こうとしたがらない。つまらないことはつまらないと素直に口にするものの、だからとって激昂して〈嬲〉《なぶ》るなどといった悪行はスラムに君臨していながらしている場面が一度もなかった。  なぜなら、弱者を殴るのはつまらないから。  生きることは楽しいから、だから楽しく殴れる〈強者〉《あいて》とやろう。  その馬鹿みたいな考え方で実際に頂点までのし上がった傑物は、己が支配域をにやついた笑みと共に眺めている。どこかに楽しいことはないだろうか、面白い〈諍〉《いさか》いはないだろうか。  出来れば自分と共に笑い転げながら死合えるような、素晴らしい〈万夫不当〉《ばんぷふとう》の雄はいないかと──  飢えることさえ楽しむ獣に、軍服を着た〈同〉《 、》〈盟〉《 、》〈者〉《 、》はそっと情報を口にした。  彼の扱いは簡単で、利用されていると本能的に見抜いていながらそれさえ楽しんでくれること。  それを若干危惧しながら、しかし同時に信用しつつ…… 「五年前の亡霊ねえ──ハハッ、そりゃあ災難。あの兄ちゃんもえらい奴らに絡まれたな。   はいよ、了解。まあ適当に突っつくさ。出方を〈伺〉《うかが》いたいってんなら、適当なところで収めはするが……」  そこで一度、豹のように瞳孔を細めて振り向き。 「いいのかい、〈巻〉《 、》〈き〉《 、》〈込〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》。あんたが抱えるヴァルゼライドへの〈拘〉《こだわ》りに」  木枯らしが二人の間を通り抜ける。  問いかけに瞑目したのは数秒か、それともあるいは数分か。考えた末に首肯した、結果として無頼漢の生命は今から疾走を開始する。  歌って笑って砕いて壊して願って楽しみ高らかに──生の謳歌へ〈勤〉《いそ》しむだろう。  それこそ自分の人生が〈袋小路〉《デッドエンド》に行き着くまで。 「いいねえ〈人狼〉《リュカオン》。いいねえ〈裁剣天秤〉《ライブラ》。そして魔星に英雄様と──   さあて忙しくなるなぁこいつは。下っ端を方々に出張らせて情報を集めてみるか? それとも適当にぶらつくか? あんたからの報告を待つ? ああ、ああ、ああ、ああ、どれも実に面白そうだ!」 「──楽しいねえ。きっとそいつら、いい奴らだぜ?」  なぜなら、会う前からこんなにも〈他人〉《じぶん》を喜ばせてくれる者達だからと。  人を喜ばせる者に悪人なんていない、子供のように語って笑う。笑って笑って笑って笑って──その笑みが阿修羅のように異様な圧力を放つまで。  アスラ・ザ・デッドエンドという男は笑う。  最初に狙いを定めるべきは逃げ惑う人狼だろう。  今はまだ、アドラーの闇に〈掻〉《か》き消えかねない種火に過ぎない。ああ〈勿体〉《もったい》ない、そんな様では〈か〉《 、》〈わ〉《 、》〈い〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  ここで油を注いでやるのもまた一興。さあ引火してくれ、大火になれ、きっとおまえも熱くなれると身勝手に覚醒の祈りを捧げる。  やがて〈帝都〉《みんな》を巻き込む炎になれば、それはさぞかし壮観だろう。  仮に己が死んでしまったとしても、それはそれでまた楽しい。  そう稚気を〈漲〉《みなぎ》らせて、アスラは再び破顔するのだった。 あれから、今日で丁度きっかり五年。今年もまたこの日が訪れた。 早朝、ヴェンデッタはまだ目覚めておらず。すでに支度を済ませているミリィへ俺は告げた。 彼女もまた今日だけはヴェンデッタを連れて行こうとは口にしない。そう、今日だけはあの悪夢に傷つけられた者たちの時間…… 「んじゃ、行くか」 「うん」 そして── 雨の降る中まず訪れたのは、未だ大虐殺の爪痕が色濃く残っている研究機関の跡地だった。 あれから五年の経った今でも復旧は手つかずで、建物の破損も当時のまま。歩きながら俺たちは自然と言葉少なになる。 見覚えのある場所に差しかかった時、ふと振り返るようにしてミリィは足を止めた。 「この先が、わたしの家だったんだよね」 「お父さんもお母さんも、毎日研究ばっかりしてたなぁ。一緒に遊んだ思い出はあんまりないけど、お仕事をしてる二人の姿はよく覚えてる」 「だから、わたしも〈冶金〉《やきん》技術に興味を持つようになって、研究の真似事をして、ちょっとのことで褒めてもらえたのが嬉しくて……普通の子どもらしい遊びの方が馴染みがなかったりしてね」 「たまに公園に遊びに行ったら、もうそれだけでも大冒険に思えたなぁ」 ああ、知ってるよ。覚えてる。他のみんなが外で遊んでいるような時でも、ミリィは両親の話を目を輝かせながら聞いてたよな。 まるでそれが、世界のすべてを記したような賢者の技術であるかのように―― 子供心に抱いていた夢や想いがあったそれも、今ではすべて過去の残照となったから。 感傷的な気分に浸りながら、俺たちはミリィの家だった場所を通り過ぎる。 丁度、運よく雨も上がって。 研究機関の跡地を離れ、到着したのは集団墓地だった。 規則的に並べられた墓石が一見すれば美しくも映るこの場所には、帝都での死者のみならず、大虐殺で亡くなった犠牲者たちや前線で死んだ兵たちの遺体をも納められている。 そして今日は当然ならここを訪れる人が多い。ミリィの両親にとって命日だということは、すなわちあの惨劇で死んだ者全員の命日でもあるからだ。 年に一度ここに慰霊に訪れる被害者家族の姿も多く、今日は人の多さゆえか警備として周辺に兵の姿まで見える。一般兵にまで顔が知られているわけではなく、軽く会釈して通り過ぎた。 花を共同墓地へと捧げるミリィ。その姿に、俺は自らの呼吸が速まっているのを感じる。 すまない、すまない、すまないと──胸の内で渦巻くのは何万何億何兆と繰り返してきた嘆きの〈懺悔〉《ざんげ》だ。 罪悪感が身を〈苛〉《さいな》み、妙にはっきりと心音が聞こえてくる。過去の記憶。そして血塗られた風景を思い返すたびに―― 俺は── 「終わったよ」 報告を終え、立ち上がったミリィにはっとする。目じりに小さく浮かんだ涙の雫が、胸に痛い。 「あの日、わたしは何もかも失ったけど……兄さんが生きていてくれてよかった」 「自分一人だけだったら、きっとこうして立ち直れなかった。傍に兄さんがついていてくれたからいま笑っていられるの」 「なんだか、ここに来るたびそう思うんだ。おかしいね」 「いや、俺の方こそ……」 〈呟〉《つぶや》き、血の滲むような力で自らの拳を握り込む。それは俺の〈台詞〉《せりふ》だと。 心の底から、本当にそう思う。彼女がいなければ、俺の心なんざあの日とっくに砕けていた。自責の念に堪えられず、自ら命を絶っていたかもしれない。ミリィがいつも笑いかけてくれたから、こうしてどうにか今までやってこれたんだ。 彼女を守るという決意。それは絶対の不文律であり、〈容易〉《たやす》く命すら懸けられる。たとえそれで死んだところで惜しくもなんともない。 なぜなら、そう。 ミリィが、君こそが〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈に〉《 、》〈戻〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》から── 「……なんだ?」 瞬間、背筋が一瞬だけ泡だった。 周囲の空気、その密度がどこか濃くなったような異変を察知する。向こうの方が騒がしいようだが一体なんだろうか、と…… 「よう──シケた面してんねえ、有名人さん」 振り向こうとした身体が動かず、〈耳〉《、》〈元〉《、》から聞こえた声に束の間意識がぶっ飛んだ。 俺の肩に馴れ馴れしく手を置き軽口を叩く男――それが、こんな至近距離で、馴れ馴れしく肩に手を置かれていることに、一瞬で背筋が凍る。 いつの間に後ろにいたのか、まったく感知できなかった。その事実を理解できた〈途端〉《とたん》、底知れない悪寒が腹の底から湧き上がる。 〈慄然〉《りつぜん》としながら振り向いた先にある顔は見覚えのあるものだ。 こいつは確か、あの夜の── 「ッ、く――てめえ」 「まあそう嫌がるなって兄ちゃんよ。オレはほら、アレだよアレ。熱狂的なあんたのファンさ」 「つうわけで、悪いな嬢ちゃん。ちょいと借りるわ」 「えっ、あの、あなたは……?」 「下がってろ、ミリィ──」 男の身体から漂ってくるのは咽せるような血の匂い。その濃度に頭がくらくらして危険性を再認識する。 こいつはやばい、頭がおかしい、日常的に人間を破壊しているのがこれでもかと理解できた。生死に対する価値観が明らかに破綻してしまった手合いだ。 この血臭は入り口にいた警備の兵士か? それとも他の誰かだろうか?分からないがしかし── 「焦るなって、ほれ」 それは如何なる技か。距離を取ろうとするもほんの少し肩に指先がめり込んだだけで身動き一つままならない。 関節を極めている様子もなく、ただ筋肉の一部を押されただけで──ちくしょう、訳が分からねえ。 だが迷っている時間の猶予はなく、逃げる算段を必死に組み立てる。何よりもまず、ミリィをこいつから離さなくては。 「おまえさんも大虐殺で家族を喪ったクチかい? いやいや、災難だったな。ただまあそれもそれで良し」 「万事塞翁が馬、禍福は〈糾〉《あざな》える縄の如し。生きるも死ぬも〈寿〉《ことほ》ぎながら甘受するのが大切だろう? 痛い辛いと泣くよりは呵々大笑して明日に糧にすることこそが寛容と……」 「ま、実践できないって面されたら引っ込めるさ。悪かったよ。しかし肝が細いのは今後のためにもどうかしようぜ?」 「黙れよ、ペラペラくっちゃべりやがって。一体何が目的かさっさと言え。ないなら帰れ。こっちは平和主義者なんだ」 「そうかい。じゃあ単刀直入に」 俺の問いに、男は軽口の延長線上やはり動じず。そのまま〈飄々〉《ひょうひょう》とまるで世間話でもするかのように。 「なあ、兄ちゃんだろ? そうなんだろ?スラムで大立ち回りした、剛毅な脱走兵とやらは」 「軍の〈星辰奏者〉《エスペラント》やら怪物を相手に面白おかしく踊ったんだろ?ああいいねえ、格好いいぜ〈痺〉《しび》れやがる。そういうところが実にいいッ」 「ならさ、構いやしねえだろ? 一丁オレともやろうぜ、兄ちゃん」 この〈餓鬼〉《ガキ》、空気も読まずにベラベラと―― 「どう……いうこと、兄さん──」 無遠慮に投げかけられた言葉に、隣にいたミリィは瞬時に蒼白な表情へと変わる。露見した――俺を見つめるその瞳は突然〈齎〉《もたら》された事実に〈儚〉《はかな》く揺れている。 その事実に、頭の中で何かがキレた。 今まで守ってきた掛け替えのないものに土足で踏み込まれ、俺は自分の心が急速に冷えていくのを感じる。勝手なことをほざきやがる。にやついた顔を今すぐ止めろよ、〈一〉《 、》〈般〉《 、》〈人〉《 、》が。 「――いい加減、その口閉じろ」 俺はただ、放っておけと願っているだけなのに。 それをてめえ、強化措置も受けていないそこら生身の分際でよ── 「やるも何も――どうせおまえ、俺を逃がす気ないんだろう?」 「応、当然よッ!」 瞬間、俺たちはまったく同時に飛び退いて── 「が、ッ――ぁ?」 なぜか、そう──〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈か〉《 、》無防備に攻撃を食らってしまった。 拳と拳がぶつかったと同時、気づけばこちらの腕が弾かれていた……のみならず力の向きがあらぬ方向へ受け流された。結果、顔面に痛烈な一撃が突き刺さる。 さらに警戒していたはずの鉄拳はまるで威力が下がっていない。それだけで意識が持って行かれそうなほどの破壊力を有していて、物理学を無視した結果をもたらしている。 「────兄さんっ!?」 「大、丈夫だッ! なんともない。だからミリィはそこで──」 「──噴ッ、呵ァッ」 言葉をさえぎるかの如く、大地揺るがす震脚が鳴り響く。石畳に雲の巣状の〈罅〉《ひび》が走り奴の喜悦を暴力として表現している。 ……その一撃、いいや構えか? 地を踏みしめて拳を鳴らすその姿、どう見ても〈出鱈目〉《でたらめ》な我流としか思えないのに。 ゆらりと揺れる身体の動き、それ一つで次の予備動作が〈途端〉《とたん》に予測しにくくなる。道理がまったく分からない、完全な未知の技術だ。軍隊格闘術などとは一線を画する独特の奇怪さを有している。 「そうら、どうしたどうしたどうしたどうした──兄ちゃんそれじゃあ死んじまうぞ?」 「もっと熱く、心を未来を魂を、振り絞ろうや信じてるぜ?〈祀〉《まつ》る〈神輿〉《みこし》がその程度じゃあ誰も踊っちゃくれんだろうがよッ」 「そんなもの、別の誰かを担ぎ出せ──!」 冗談じゃないと〈吼〉《ほ》えながらの突撃──今度はさらに神経を鋭敏化させる。 〈驕〉《おご》りを捨て、動きを読む。奴が強化兵じゃない以上、どうしても人体に可能な動きしか出来ないんだ。 ならば必ず隙が出る── はず、なのに……何だこれは、どうして〈拳〉《 、》〈が〉《 、》〈二〉《 、》〈度〉《 、》〈曲〉《 、》〈が〉《 、》〈る〉《 、》? 中空で蛇頭のようにくねった軌道で進んだ拳骨。鋭い一撃がこめかみを撃ち抜き、そしてそれは目の錯覚などにはあらず…… 「ハハハハハハ──そらそらそらそら、いざ見切れぇッ」 連続する打撃。人体構造上ありえないはずの動きで放たれる、それは奇怪な乱拳の嵐。その一発すらまともに防げず次から次へと〈滅多〉《めった》打ちにされていく。 うめき声を出すことさえ許されず、何度も揺すられる頭の中で必死に思考回路を回していた。 恐らく、こいつの拳は目の錯覚を利用しているのだろう。緩急を巧みに使い、速度ではなく〈意〉《 、》〈識〉《 、》〈の〉《 、》〈隙〉《 、》〈間〉《 、》〈に〉《 、》〈ね〉《 、》〈じ〉《 、》〈込〉《 、》〈む〉《 、》ことで命中精度を引き上げている。 つまり極限まで到達した肉弾戦闘の専門家だ。こと一対一、拳闘という分野においてこれほど強い男に俺は出会ったことがなく、こんな男がスラムに埋もれていたことが信じられない思いだった。 そう、曲がる拳の正体は分かった。そういう星光でも持っていると理解すれば強引にだがまだ納得できるし、対応も可能。 だが、ならばいったい── 「〈入〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ぞ〉《 、》」 なぜこいつは、どうやって── 「──がッ、くそ!」 〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈を〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈少〉《 、》〈し〉《 、》〈触〉《 、》〈る〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》で、あらゆる力を消し去っているのだろうか……? 指を少し押し込まれただけで、時には相手の皮膚に触れた瞬間、籠めたはずの〈膂力〉《りょりょく》が拡散したり別の方向へ嘘のように逸らされる。 それどころか相手の攻撃にしても明らかにおかしい。腕で防御した瞬間、なぜか〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈衝〉《 、》〈撃〉《 、》〈が〉《 、》〈脇〉《 、》〈腹〉《 、》〈に〉《 、》〈走〉《 、》〈る〉《 、》。腹に当たれば、背中へ丸ごと弾けたような痛みが走るパターンもあった。 衝撃がうまく届かぬ反面、相手は自在にそれを送り込んでくる。〈怪訝〉《けげん》に思う間にも、雨霰と降り注ぐ連撃が俺の全身に容赦なくめり込んだ。 まったく異質な強さを前に対抗策が編み出せない。それを見て、男は呵々とまるで老人のようにかすれた笑いを吐いていた。 「効くか、知らんか、分からんか? 応ともならば教えてやろうッ」 「これぞ経絡秘孔──殺人拳の真髄よォ。カカカカッ!」 「ケイラク、ヒコーだぁ?」 分からないどころか聞いたことのない響きだったが、しかし後の言葉はよく分かった。 殺人拳──つまりそういうことなんだろう。信じがたいことにこいつの動きはすべてが“技術”だ。 人間ならば誰でも手に入れられるものを極限まで高めたのが、このよく分からない衝撃操作法の正体。そしてそれは馬鹿げていることに、人体改造を施した〈星辰奏者〉《エスペラント》をこうしてたこ殴りにする力さえ持っている。 勘弁してほしい。頭がどうにかなりそうだ。こいつを指していったい誰が生身だなんて思うというのか。 「おいおいどうしたこんなものか? 少しは気張ってみせろよ、兄ちゃん。いざ尋常にって名前の一つも名乗ったら気合もまた出てくるかい?」 「そうだな、是非とも教えてくれよ。忘れるなんて絶対ねえわ」 おまえみたいな危険人物、知っておかねば怖すぎる。 「アスラ・ザ・デッドエンド……どうよ、中々いい名前だろう?」 「は、なんだそりゃ。ガキんちょが調子乗ってつけたみたいだぜ」 「カハハ、大正解だ! そりゃあ自分で命名したからなァッ」 「────ぐ、ッ」 褒めてくれてありがとうと、その一撃には感謝しかなく。なのに鋭く。 襲い来る衝撃をどうにか受け流そうにも、アスラと名乗る男の拳が直撃すると同時、やはり有り得ない方向に力圧が掛かってくる。 力が逸れた──ああもう、訳分かんねえぞこれ。 むしろもう、付き合いきれるかと思い始めたところで。 「だから、まずい部分は〈そ〉《、》〈の〉《、》〈目〉《、》だぜ。兄ちゃんよ」 今までにない親切心? 忠告? ともあれおかしな親身を突然見せて、アスラは俺を指差した。 「おまえさん、オレを見た時にまず逃走という選択を取ろうとしたな?そこの嬢ちゃんを守ろうとした結果かもしれないが、だとしても馬鹿みたいに見切りの早い決断だった」 「と、思いながらちょっと気に入らねえことがあったら、立てた算段引っ繰り返して喧嘩売りやがると来たもんだ。そりゃ隠し事ぶちまけたこっちが悪いぜ? だとしてもいきなりの方向転換すぎるだろ」 「そいつを指してやりたいことをやりたいようにやっていると言うんだろうが、止めときなって。〈そ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈に〉《 、》〈向〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「オレ様みたいな天衣無縫っつうの? 好き嫌いが極端に無い手合いじゃないと破綻するんだわ」 「嫌だ、やめろが動機じゃあ、そりゃマイナスの炎だろ?それで成功する連中は何もかもを焼き尽くせる奴か、何もかも嫌いなままの奴だけだよ」 「そういうわけでだ──なァ、てめえ一体何がしたい?」 「勝利? 敗北? それとも逃走? 逃げるなら荷物は幾つで、何処を目指していつまでよ。そこんところをはっきりしないと、結局誰も守れやしないぜ」 「おっ、ま──おまえなぁッ」 こんだけ人をボッコボコにしておきながら、何をいきなりしんみり忠告してやがるんだ。どういう神経してやがる……! そして気づけば、アスラから戦意は欠片もなかった。あれほど恐ろしかった狂える喜悦が今は静かな湖面のように凪いでいて、そのままケラケラと子供のように陽気な笑いをたたえている。 「人類殴りあえば皆兄弟ということよ。よくあるだろう? 拳から伝わる想い、男の熱い友情劇というやつだよ」 「とまあ、それはそれとして──」 そこでちらりと、不安に〈怯〉《おび》えているミリィへ視線が向けられた。瞬間、緩みかけた空気は消えて、巻き込んでしまった不甲斐なさから全身の血液が沸騰してしまいそうなほどの怒りを覚える。 その姿を見て、アスラはこれ見よがしに口角を吊り上げながら近づいてくる。 一歩、一歩、また一歩と…… 「要するに、あんたの周りは今後騒がしくなるからさ。オレもちょいと混じらせろって要望立てと、どんなもんかと味見を一つということで」 「最後に純粋な忠告としては、だ。兄ちゃんから見りゃ甚だ不本意な資質かもしれないが──」 そして、同時に地を踏みしめ── 「──な? 意外と、ヒーローとか向いてるかもしれねえぜ」 踏み込んできた一撃……ミリィをも巻き込みかけない拳撃を、完全に受け止めた。 その一瞬、決してしくじれない刹那の攻防。それを経験したことでここに来てアスラの乱拳を見切ることに成功したのは、なんという皮肉だろうか。 あれだけ殴られても一向に捉えられなかったその軌道が完全に予測できてしまった。 けれど、そんなことすら、俺にはもう、どうでもよくて── ミリィにその拳を向けて、何をニヤついた笑みで見てやがるんだ──てめえ。 「──────」 受け止めた拳へ握りつぶすほど力をこめる。今までにない本気の殺意を乗せ、妹の前だからと禁じていた発動体へとアストラルを巡らせ始めた。 これで? 発破をかけたつもりだって? 俺を成長させたいからミリィを出汁に使ったと……ああ、ああ、ありがとさん。おかげでこうしてレベルアップだ。争いごとに関しては、おまえ天才だって認めてやるさ 「今度、同じことをやってみろ」 ──だから俺も、素敵な言葉をくれてやるよ。 「──おまえは、楽に、殺さない」 あらゆる憎悪と殺意を籠めて、貴様のすべてを踏み〈躙〉《にじ》ってやる。 「ク、カカッ──おお、いいねえおまえさん。〈僥倖〉《ぎょうこう》だ。心が躍るわ」 ……手を離す。一切悪びれず〈飄々〉《ひょうひょう》とした態度でサングラスをかける姿に、反省や後悔は見られない。 むしろ俺が抵抗したことに〈安堵〉《あんど》を漂わせているあたり、とことん性根がねじれている。 そしてそのまま、背を向けながらひらひらと手を振って。 「じゃあまた、本番で会おうや。組みたくなったらいつでも言いな」 楽しければ、面白ければ──いいやどんな結末でも笑ってやると後姿で豪語しながら。 やって来るのも消える時も自由気ままに嵐の如く。告げて去っていくアスラの真意は、最後まで分からぬままだった。 ――そして。 「ねえ兄さん……」 「ああ……」 中途半端に隠し事を知ってしまったミリィと、俺は静かに向き合っていた。 何を言うべきか、まだ何もまとまっていない。明かすべきか、誤魔化すべきか、それを悩んでいることそのものが裏切りなんじゃないだろうかと。 考える俺は何も言わず囚人のように突っ立っている、俺は。 「帰ろっか、家に。手当てもしなきゃいけないしね」 「分かっているから、心配しないで。ね?」 「ミリィ……」 しかし彼女は何も変わらない態度で。その瞳の奧にある人を信じる気持ちは〈僅〉《わず》かにも揺らいでいない。 「そりゃあ黙っていたのは、少しだけ驚いちゃった。でもそれは、兄さんがわたしのためを思ってのことだったって分かるもの」 「そういう気持ち、伝わってるよ。わたしはずっと、あなたがいてこそのミリィなんだから」 その気持ちが涙が出そうなほど優しくて──心が同時に悲しんでいた。 そっと殴られた箇所をいたわるようにミリィの手が触れる。優しく、暖かく、包み込むように。 「けどね、いつまでもそれだけじゃ悔しいのも本当の気持ち。だからここで約束したいの」 「いつかわたしが、兄さんの全部を支えられるようになったら。その時は辛いこと、悲しいことも、ちゃんと言葉で話してね」 「……はは、そっか」 「そうなんですっ、ふふ」 潤んだ瞳で健気に笑うミリィが〈眩〉《まぶ》しくて、俺も思わず笑いが漏れた。 本当に、本当に、うちの妹は最強だ。どう〈掻〉《あが》いても敵う気がしない。 「あー、参った参った。本当に、なんつうか、なんもかんもお手上げって感じだわ」 この状況下でも、ミリィはあくまで俺の気持ちを真っ先に考えてくれている。大切に想ってくれている。それがとんでもない強さだと分かって、ひとしきり二人とも大声で笑った。 さっきのことを綺麗さっぱり忘れたように二人揃って歩き出す。気分はとても晴れやかで、胸の〈靄〉《もや》がかなり軽くなったと思う。 本当に、本当に大切な女の子…… 目に入れても痛くない自慢の家族。だから…… 「忘れないで、わたしは兄さんのおかげでここにいるっていうことを」 この想いを寄せられる痛みを、しっかりと抱えて生きよう。 〈贖罪〉《しょくざい》にもならない〈贖罪〉《しょくざい》。いいや、きっともうそんな後ろ向きな感情だけではなく…… 幸福な時間に救いを見ながら、俺はミリィと共に帰路へとついた。  同刻──セントラルが一角、〈研究機関〉《ラボ》の白色光に照らされて二人の女が〈佇〉《たたず》んでいる。  片や総統直属の副官、アオイ・〈漣〉《さざなみ》・アマツ。  片や〈裁剣〉《アストレア》、チトセ・〈朧〉《おぼろ》・アマツ。  旧日本民の血を色濃く継いだ二人が〈斯様〉《かよう》な場で顔を合わせるのは〈公〉《、》〈務〉《、》〈外〉《、》〈の〉《、》〈報〉《、》〈告〉《、》のために他ならず、ゆえに人目を避けていたが。  端的に言って、両者の間にある空気は両極端に隔絶していた。チトセを陽とするならば紛うことなくアオイは陰。暖と寒、肯定と否定、非常に分かりやすく互いが互いをどう思っているかが見て取れる。 「なるほど、現状では特に動きは見られないと」  特に現状ではそれが顕著だ。本来なら報告書を渡して帰ろうとしていたアオイをチトセが引き止めている形になっている。  自室に持ち込んで目を通せばよいものを、わざわざそうしている意図は何か。それは眼帯の裁剣のみが知っている。 「しかし驚いたな、まさか観察対象を殴り倒す荒くれ者がいようとは。あれでも奴はれっきとした〈星辰奏者〉《エスペラント》だぞ?」 「市井に下ればどんな名刀だとて鈍る。まして元から数打ちだ、劣化の度合いは推して知るべしなのではないか?」 「これは手厳しい」  くく、と〈喉〉《のど》を転がせて笑う仕草は軽快で、言葉と表情がまるで合致していない。むしろその通りだと言うような余裕さえ見て取れる。  それが不快なのか、アオイの視線は険しくなる。水と油であるかのように感情表現一つとっても真っ二つに分かれていた。 「だが、鈍ったとはいえ〈星辰奏者〉《エスペラント》を制する技術か……是非とも一度この目で拝見したいものだ。出来ることなら習得したい。   うまく解き明かして兵に仕込むことが出来たなら、総統閣下もお喜びになるかもなぁ。うん?」 「何が言いたい」 「言葉通りの内容をだよ。実際、施術適正がある者は数が少ない。ならば全体強化の一案として軽く提案してみただけだが……」  そこでちらりと、意味深な流し目をチトセは送って肩を〈竦〉《すく》めた。苦笑しながら嘆息を漏らす。 「やれやれ、まったく堅い奴だなおまえは。私もかつては散々鉄だと揶揄されたが、おまえのそれは金剛石だよ。   そうしてストレス溜めていれば、その内中からパンクするぞ?」 「何を言うかと思えば、戯言を。おまえに私の何が分かる」 「──総統閣下は一体何をお考えになっているのだろうか、だろう?」  告げた瞬間、しんと二人の間が静まり返った。まるで限界まで張り詰めた弦のように。 「軍を抜けた脱走兵など通常、身柄を即刻確保。そして終わりだ。  それがなぜか、此度限りは寛大な処置――不自然だわ。ああ気になる。敬愛する我が君よ、あなたはいったい何を隠しておいでなのか。  と、私も当然思っているが、そちらとしてはどうなんだ? 副官なんだろう、ええ?」 「────」  〈煽〉《あお》るような言葉に、〈微〉《かす》かな沈黙を挟み。 「それを貴官に問う資格はなかろう、〈裁剣〉《アストレア》殿。   言いたいことはそれだけか? ならばそろそろ、職務に戻らせてもらうとしよう」 「はは、頑固者め。話してくれるかは分からんが、問うくらいはしていいだろうに。 閣下に嫌われるのがそんなに不安か?」  アオイに返答はなく、淡々と退室する準備を進めていく。  そのまま一度、能面のような──しかし瞳にだけ凍えるような意思を籠めてチトセのことを〈睨〉《にら》みつけた。 「私はただ、〈粛々〉《しゅくしゅく》と閣下の命に従うだけだ。   あの方が下す決断に誤りなど〈微塵〉《みじん》もないのだから」  そして、静かに鉄の才媛は去っていく。  その背を見送ったチトセは一人残された部屋の中で、やれやれと肩を〈竦〉《すく》めた。あれではまるで厳重に封印された爆弾のようだなと思う。 「いかんなぁ、あれは。どうもお節介が過ぎてしまう」  漏れた口調こそどこか稚気を〈孕〉《はら》んでいたものの、それは決してアオイを疎んでいるからではない。少なくともチトセに関しては旧知の仲であるがゆえの気安さを楽しんでいたのは事実だった。  無論当然、それに加えて何か有用な情報を引き出せればという鎌掛けも平行して行なっていたが……それはさて置き。  チトセがアオイにああいう態度をする一番の理由は、見ていると情けない過去の自分を思い出すからというのが大きい。  まあ要するに、彼女も五年以上前はああいう自分の本心に気づかないタイプの女であって……  あいつは自分にとって片腕だ。有能な側近だ。などとまぁ自覚も出来ぬままこき使い、あげくそのまま逃げられてと、今では笑い話にもならないとチトセは深くかつての自分を恥じている。  結果として、アオイの頑なな姿を見るたびに何ともいえない羞恥心と、古傷をくすぐられたような気分になるのだ。 「認めてしまえばこれほど楽だというのにな」  そしてそういう感情が、対するアオイは非常に苦手だ。さらに戦闘力の差という点でチトセに対抗意識──あるいは苦手意識を抱いている。  こちらの理由は明快で、ヴァルゼライドに対する〈不遜〉《ふそん》な態度、及び〈傲慢〉《ごうまん》な物言い、しかしそれでも戦果による軍への貢献は多大があるという事実。これらが絡み合うことで結果として“気に入らない”という感情に落ち着いている。  その心理的な〈諍〉《いさか》い、というか相性の悪さだろうか。それが二人の交わす言葉を自然と短くしてしまい、さしものチトセもアオイに探りを入れるのは苦手な部類になっていた。  立場上、ヴァルゼライドにもっとも近しいのは彼女であるのに。  うまくいかないものだと、軽くぼやくが。 「さて──」  気を取り直して彼女は研究室の奥へと移動していく。人払いは済んでいるため、残った研究員はここにはいない。  幾つかあるこれらの部屋は装置の点検、定期整備などの名目で入れないようになる期間がある。そして今、この部屋がそれに該当する……というのが〈公〉《 、》〈式〉《 、》〈の〉《 、》〈情〉《 、》〈報〉《 、》であり。  事前に知っていた特定の通信機へ座り、まったく無関係であるはずの演算機に数式を入力すれば── 「久しいねえ、〈裁剣〉《アストレア》──また話が出来て〈僥倖〉《ぎょうこう》だ」  受信機の先、喜悦の色を浮かべた〈赤星〉《マルス》の声が流れ出した。  そう、これは今〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》と〈繋〉《つな》がっている。  チトセも知らない、このセントラル内に存在するはずの誰も知らない空間から。 「よく言うよ。閣下に内緒で事前に〈鍵番号〉《ナンバー》を〈囁〉《ささや》いたのはそちらだろう?首輪は中々面倒と見える」 「それは当然、英雄の仕事だからな。災禍の星に自由はなく、独力ではどうにもならんよ。奴はまさしく破格の男だ。  実際こうして、目を盗んでの会話さえ一苦労なものだろう?」  ヴァルゼライドに見つからぬよう──  二人の間で行なわれている談話は確かにこれが初めてじゃない。あれから事の内実を詰問しに尋ねた際、チトセはこうして特定の手順を踏むことによりマルスと言葉を交わす権限を彼から与えられていた。  しかしそれでは、最も探りを入れたい男の裏が見えぬままだ。  以前は納得したように見せたが、当然チトセはあれがすべて真実を語ったなどという甘い認識はしていない。  だがそこで調べるための手段は途絶してしまう。いわば真実の出る蛇口を握っているのがあちらなのだ。出すも渋るも自由自在、熱心に問いかけても言葉程度があの英雄に通じるとも思えなかった。  彼の管轄下でコンタクトを取っている限り、〈迂闊〉《うかつ》なことは早々出来ない。  となれば、後は簡単な方程式だろう。蛇口の支配権を奪うのではなく、既に出てきた水の方を〈懐〉《 、》〈柔〉《 、》する。  蛇口の主に決して決してばれぬよう、内密に。  そしてそれは、片側の魔星にだけだが成功した。 「まあ、こちらとしては感謝の一つもしておこう。そちらにとっても同じだろうが……」 「利害の一致はこういう時に話が早い。敵の敵は協力できる。  もっとも……味方とまでは決して表せぬだろうがね。おお、世知辛い」  まったくその通り──何せ、用が済んだら殺していいのだ。  少なくともチトセは何度かの〈邂逅〉《かいこう》を経て、いずれ必ずマルスを斬ると決めていた。〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈恐〉《 、》〈ら〉《 、》〈く〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈主〉《 、》〈義〉《 、》〈に〉《 、》〈反〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。つまりどう〈掻〉《あが》いても、帝国の敵だということだ。  それは根拠のない勘だったが、彼女はそれを疑わない。かつて一度だけそれを間違いだと切り捨ててしまった結果、あの〈初恋〉《オオカミ》に〈尻尾〉《しっぽ》を巻いて逃げられた。  ゆえに、魔星との気安い言葉は互いの関係性が敵同士ではないことの表面的な証左であり、同時にそれ以上の個人的な仁義や憂いは欠片もないと雄弁に物語っているのだった。  悪鬼と戦姫。共に被る余裕の仮面からは、その真意は〈窺〉《うかが》い知れない。  内心を見抜かれているのか? それらしく取り繕っているだけか? 片側が単に利用されて終わるのか? それとも互いに散ってしまうか? いやいやはたまた── 「ともあれ、こちらが喋れる範囲も今となってはごく〈僅〉《わず》かだ。相方と違って口が軽い自覚はあるが、余計なことは滑らせないのが上の〈総〉《 、》〈意〉《 、》というわけでね…… よってまず、新たな〈戦場〉《ぶたい》が必要だ。そこで信用を獲得しなくば、〈枷〉《かせ》もまったく緩まない。すなわちそちらも、真実を手にすることが出来ないわけさ」 「手間のかかる〈兵器〉《ポンコツ》だ。おまえの相方を口説いた方がどうも早い気がするが、どうなんだ?」 「ははッ、それは無理だねえ。冷笑されて終わりだろうよ。ただの人種に何を媚びるという感じだな」 「あいつは見たまま優等生でねえ。我らが主を愛しているのさ。 だからその分縛りも薄いが、自分の意思であんたの味方は決してしない」 「よく出来ている関係だよ、まったく」  ならば、残る道はそれこそ一つ。 「だがよかろう、これも試練だ。成すべきことは変わらない。   語れよ、マルス。いま貴様の言える範囲で真実を明かせ」  茨と知りつつ踏み抜くのみ。そう決めた、ゆえに行くのだ。  今度こそ自分にとって大切な“勝利”を掴むために。 「では、改めて自己紹介と行こうか」  そして軽く、ちょっとした〈秘〉《 、》〈密〉《 、》を明かすような〈諧謔〉《かいぎゃく》と共に。 「固体名マルス-〈No.ε〉《イプシロン》──〈星辰光〉《コードネーム》、〈殺塵鬼〉《カーネイジ》。  〈“β”〉《エウリュディケ》に琴弾き共々、よろしく頼むぜ。〈裁剣〉《アストレア》」  自らが〈五番目〉《イプシロン》に製造された魔星であると、鬼面は嬉々と告げるのだった。  まるで宿した〈昏〉《くら》い真実を、さらなる闇へと覆い隠すかの如く。  約千年前、日ノ本を中心に引き起こされた〈大破壊〉《カタストロフ》。〈星辰体〉《アストラル》の臨界爆発によって、当時地上に存在していた多数の人間、及びユーラシア大陸の六割近くが一瞬にして消し飛ばされて出来た新西暦。  旧暦が滅びて以降、現在に至るまでこの世界は平定されることのない動乱期が続いている。  殺戮、侵略、そして報復。時代どころか世界法則に変化が起こった新西暦において尚、戦火は至る所で人命を仮借なく焼き尽くす。  そんな時代であるがゆえ、軍事帝国たるアドラーが世界にその名を轟かせるようになったのも必定の流れであると言えるだろう。なにせどれだけ時代が変わっても人は人だ、争うことを止められない。  武力は必然として求められる。  相手を殴りつけて言うことを聞かせるのはシンプルで、性別民族国家を超えて通用する実に〈野蛮〉《べんり》な解決方法なのだから。  振るわれるのは慈悲なき力。そして、抗するのもまた力。札束で身は守れないし、首に刃を突き付けられた際に信仰心を〈翳〉《かざ》したところで生き残れは当然しない。  金で傭兵を買う、信徒を暗殺者に仕立て上げる。国によってやり方はそれぞれ違えど、最終的に行き着くのはすなわち暴力。  全ては原初の理に集束するのだ。力のなき者から死んでいく、と。  そして〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》において、〈天秤〉《ライブラ》の隊長を歴代務め上げる家系はその理を非常に遵守する方向性を備えていた。  それが朧の血筋であり。  すなわち自分──チトセ・朧・アマツの生家であった。  旧日本の民族をルーツに持つ者達は新西暦において、優秀な者を生む確率が非常に高い。  さながらそれが、この〈ア〉《 、》〈ス〉《 、》〈ト〉《 、》〈ラ〉《 、》〈ル〉《 、》〈に〉《 、》〈覆〉《 、》〈い〉《 、》〈尽〉《 、》〈く〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈地〉《 、》〈表〉《 、》〈の〉《 、》〈新〉《 、》〈法〉《 、》〈則〉《 、》〈内〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》かの如く。  生産、開発、果てはカリスマや勤勉さまで。多才な者から一点特化とそれぞれ種別は違えども、今となっては〈大和〉《アマツ》の血筋が秀でているのは常識中の常識だ。  そして中でも、朧の家はとりわけ争い事に関して驚異的な素質を持って生まれるものが多かった。  正面戦闘から果ては暗殺まで、敵軍の殲滅であろうと挙げる戦果は見事の一言。そして武力というものは分かりやすいほど評価され、帝国において天秤という一つの枠を手に入れるまでになる。  無論、それに伴う勝利の義務も必然的に生まれてくるが、元が元。〈自分〉《チトセ》を筆頭に戦い、滅ぼし、手に入れるのは朧の姓を継ぐ者たちにとってさほど難しいことではなかったのだ。  無力な民を救うためにこそ武を振るえ。我欲を捨て、妄執を捨て、そして己を捨てるのだと……教え込まれながら成長していく。  先達より脈々と受け継がれてきた“力の価値”を理解する事。我々は選ばれし者であり、それがゆえに使命が生じるという摂理。  勇気、気品、高潔さ。旧暦の概念で表わせば、〈高貴さは義務を強制する〉《ノブレス・オブリージュ》の精神。それともこの場合は武士だろうか? ともあれ、まあ。  そのような一族の環境下においても、私の実力は図抜けたものであった。  誰より才能があり性格的に努力を好む。さらにアマツの血筋とあれば、これで強くならないわけはない。  身体能力、胆力、センス、さらにそこへ〈星辰奏者〉《エスペラント》という技術が生まれてから発現した〈星辰〉《アステリズム》の力まで加わった。  どれを取っても歴代最高の資質と聞き、それを深く受け止めて。  己の先代、当時〈裁剣天秤〉《ライブラ》の隊長を務めていた偉大な祖父に近づくべく日々〈研鑽〉《けんさん》を積んだものだ。  先代の〈裁剣天秤〉《ライブラ》隊長──私の理想、私の憧れ。  戦闘者として、そして武人として、さらには一人の人間として。  血の〈繋〉《つな》がった祖父として。  自分の知る限り何もかもを兼ね備えていた人格者。既に負け無しだった幼い時分、手合わせをして唯一及ばなかった相手である。  よって敬愛していたし、近づきたいと強く思った。  だからその時から既に、将来何になりたいかは自分にとって決まっていたのだ。 「〈祖父様〉《おじいさま》の後は私が継ぎます」  堂々と告げたのは、ああ、まだ若かったなと苦笑するような青臭さで。  それはある種の宣戦布告でもあったけど、あの人は笑っていいぞと〈頷〉《うなず》きながら頭を撫でた。  それに、時代の変遷もあるだろう。帝国で〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》という新兵器が開発されたことで、〈裁剣天秤〉《ライブラ》の継承もかなり早まるという見込みがあった。  強化兵の強さは積み重ねた武技の数々を凌駕することも多く、ゆえに資質へ比重が置かれる。  祖父も適正はあったが、自分に比べれば幾分下のものだった。それでも一般的な〈星辰奏者〉《エスペラント》に比べれば強者ではあったものの、同じ技量を私が手に入れたなら敗北するのは自明の理というものであって。  ……思い返せば、祖父はもうあの時から決めていたのだろう。  そう遠くない瞬間、自らの座を私に明け渡すということを。  そう、そんな時だった。  祖父直々の指名により、〈裁剣天秤〉《ライブラ》へ一人の男が新たに配属されたのは。 「おまえ、名は?」 「ゼファー・コールレインです。隊長に引き抜かれてここにやって来ましたが、その…… 正直、俺なんぞがこの部隊でやっていけると思えません。ですが命令なので、今後もよろしくお願いします」 「……は?」  とまあ、なんとも覇気のない返事だったことで。  これが私の運命を大きく変えた〈邂逅〉《かいこう》である事など、当時は知る由もなかったのだった。  ゆえに、第一印象としては困惑。なぜ祖父はこんな男を引き抜いたのかと思ったところに、しかも自分とツーマンセルを組ませるという追い討ちだ。  こいつがおまえの相棒だと告げられた時は、〈耄碌〉《もうろく》したかと半ば本気で心配したのを覚えている。  まあ結果として、師の目は欠片も曇ってはいなかったということで……  安定して高出力の全方位万能と、不安定ながらも極端に振り切れた一点特化。  生まれも育ちも血の尊さから考え方まで、何もかも正反対だった自分たちはそれで案外良好な相棒関係を構築することになったのだった。 「はは、面白い技を使うなおまえっ。いいぞ、気に入った。私のことも以後は名前で呼ぶがいい」 「いえその、アマツの方を呼び捨てはちょっと……」 「当人が構わんと言っているんだ、恐縮するなよゼファー。相方だろう?」 「…………チトセ、さん」 「さんも要らん」  などと、そのようなやり取りもありながら。  時が流れるにつれ、訓練や任務をこなす度に、互いの距離は自然と近くなっていった。  〈勿論〉《もちろん》それは情に絆されたというわけではなく、単純にゼファー自身の有用性があってのこと。  なにせあの頃の自分は今よりも輪をかけての〈能〉《 、》〈力〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈主〉《 、》〈義〉《 、》〈者〉《 、》である。ゆえに彼の力を認めたことが信頼を寄せる第一歩だった。  干渉性一点特化に、欠陥とさえ取れる〈平均値〉《アベレージ》と〈発動値〉《ドライブ》の差。そこから生まれる独特の暗殺技法。  創意工夫して〈掻〉《あが》き、実際になんとかしてしまう姿はとても好感に値した。  こちらの才能を〈羨〉《うらや》む彼は、自分など私を完成させる風変わりな〈教〉《 、》〈材〉《 、》であると自嘲していたが、そういう自虐的な部分も含めて面白い男だと思う。  そして付き合いが長引くほど、なぜ祖父がゼファーを自分の相棒に指名したのかよく分かった──彼は〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈平〉《 、》〈凡〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。能力ではなく、考え方や価値の基準が。  お金が好き。楽が好き。怠けたい。苦労は嫌だ……  強い相手を見れば恐がり、同時に羨み、なんで自分はこうなんだろうと勝手に比べて落ち込んで……  改善するのがきつそうなら、文句を言いつつ諦める。  尻を叩かなければすぐ甘えようとするその根性。市井を生きる人間がすべて同じとは言わないが、まさにその反応こそ〈貴種〉《アマツ》という支配層側が思い浮かべる〈顔〉《 、》〈の〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈市〉《 、》〈民〉《 、》そのものだったのは間違いない。  祖父が最も自分に学ばせたかったものは、恐らくこれだ。  一般人という名の、社会を回している歯車側の抱く不満。  自己練磨を好む勤勉な自分や祖父では決して持たない意見、視点の数々。  空を雄雄しく飛ぶ鳥が、泥に潜む〈鯰〉《なまず》の視点を知れないように。  それに気づいたとき初めて、力や才能以外の観点で私は他人を尊敬した。なるほど、なるほど、これがいわゆる普通とやら。 「すごいなゼファー、そこまで弱音を口に出来るとは」 「俺はむしろ、チトセがどうしてそんな前向きか知りてえよ」  なぜって、性分なんだから仕方がない。というか〈裁剣天秤〉《ライブラ》でそこまで自虐に走るのは彼くらいなものだろう。隊員である強化兵は選りすぐりで、しかもエリートという自負がある。  それなりの力を有していながら、こうまで〈俗〉《 、》な精神構造を保ち続けていることも一種の才能ではないだろうか? 「ぷっ、くくっ、はは、ははははははは……  やっぱり、おまえは本当におかしな奴だッ。あはははは、ははははは!」  それが急におかしくなって、笑ったり、からかったり……  ふてくされた相棒の肩を叩いて、敬愛する祖父の指導を仰いで、〈研鑽〉《けんさん》を積みつつ任務と実績を重ねる時間。  何もかもが順調だったあの日々は、思うたびに胸が締め付けられるほど幸福な結晶のようで。  楽しかった。ああ、本当に楽しかった──  ゆえにあれこそ今は帰らぬ金の時代。  祖父がいて、ゼファーがいて、私がそこで笑っている。  二度とこの手に戻らない、〈正義の女神〉《アストレア》の愛した小さな世界の姿だった。  やがて銀の時代が到来し、大切な目標を失ってしまうまでは。  政府中央棟にて行われるは、軍上層部が集結する円卓会議。  〈黄銅十二星座部隊〉《ゾディアック》の長が〈集〉《つど》っているこの場は、誇張ではなく時に世界の趨勢をも左右する場であると言えるだろう。  挙げられた議題は、帝国の現在置かれている状況。報告するのは通例通り、主に〈深謀双児〉《ジェミニ》である。 「──まずは周辺国家の治安悪化についてですが、これは先日西部駐屯部隊の〈鋼盾金牛〉《タウラス》が即時鎮圧致しました。  なお戦後処理も継続して同部隊が行なっておりますが、こちらも経過は至って順調。それに伴い情勢も安定。ゆえ、これ以上の心配はないかと存じます。   今回の件で生じた人的、資源的損害、及び反抗勢力鎮圧における功労者は別項に記載してまとめてありますので。質問がある方はそちらに目を通してからぜひ」  〈澱〉《よど》みないその言葉は慣れたものだ。事の次第を詳細に把握し精通している。  その並外れた情報処理能力は昔気質の血気盛んな兵士には時に軽んじられることがあるものの、軍上層部の者たちは帝国の羅針盤となる彼の重要性をよく知っていた。 「報告ご苦労だった、ランスロー。  では次。カンタベリー聖教皇国、並びにアンタルヤ商業連合国についてはどうなっている?」 「依然変わりなくですな。聖教国は首をすぼめた亀が如く。商国は時たま思い出したように東部担当の〈血染処女〉《バルゴ》、〈猟追地蠍〉《スコルピオ》と戯れておりますよ」  世界の勢力図、その中心に現在アドラーは強化兵を唯一擁することで位置している。にも関わらず、併合されようとしない国も未だ一定数存在していた。先の二国はその代表たる大国である。  アドラーの東部に位置するアンタルヤ商業連合国──その名の通り、大小の国家群が長い時を経て融合、分離、同盟を繰り返して誕生した商業連合国家である。  彼等は自国を富ませる事にかけては随一の手腕を有しており、金銭を拝するゆえに容赦がない。  衣食住足りて礼を知ると人は言うが、そこに加えて貯蓄があると倫理観は水に落とした砂糖のように溶けていく。旧暦から残った資本主義の良し悪しを凝縮したとも言える国である。  そして旧イギリス、アイルランド領に位置する宗教国家──カンタベリー聖教皇国にも油断は禁物だった。  宗教というものは往々にして他の価値観をどれも軽く凌駕して、すべての上位存在ともなる概念である。それはかつて存在した基督教のみならず、それを母体に誕生した〈極東黄金教〉《エルドラド・ジパング》であっても変わらない。  〈餓〉《う》えも、死も、神の御許にまでは届かないのだ。悪魔も神も証明ができないゆえに、彼等は時に思いがけない無謀を起こすことがある。己の中の神様に従って。  端的に言って〈麻〉《 、》〈痺〉《 、》しており、その精神構造自体はごく単純なものだが、それゆえに強靱であり御し難い。  刃を突き付け〈威嚇〉《いかく》しても無駄だ。金を振舞っても無駄だ。狂信にまで達した者は極少数だが、そこまで至った者らにとって守るべきものは常に己の身ではないのだから。  〈勿論〉《もちろん》、これ以外に小国は幾つも存在している。中には帝国の黄金時代にあやかって自分から併合を求める国もあるにはあるが、基本それは少数派だ。  〈僅〉《わず》かな隙をついて少しでも利を〈掠〉《かす》め取るべく、周辺国家は虎視眈々とアドラーの動きを〈窺〉《うかが》っている。  少しの情勢の傾きで、世界の勢力図は如何様にも変わっていく事だろう。  今までも、そしてこれからも。  加えて──自国内の事情であろうとも、決して問題無しとは言い難い。 「我々アドラーを脅かす存在はそれら外圧のみに〈非〉《あら》ず。皆様の中で耳にしておられる方もいるでしょう。   先日、スラム街で起こった騒動を」  そう、内側どころかお膝元である帝都にも波乱の種は存在している。  先日の事件について、耳聡い彼はその事実を掴み。ゆえに職務上、見過ごすわけにはいかなかった。 「魔星の片割れ──マルスが現われたと、そう聞いている」 「左様にございます」  目撃されたのは、帝都を炎の海に巻き込み壊滅的な打撃を与えた魔星。クリストファー・ヴァルゼライドがその光剣で討ち滅ぼし、黄泉へと送ったはずの存在。  それが再度出現するなどとは、如何なる理屈で考えても有り得ない事であるしあってはならない。  少なくとも、何も知らされいない者たちにとってみれば、それは── 「現在の帝国における平和を、根底から揺さぶりかねない……あってはならない事態と認識致します」  恐れか、それとも危惧ゆえか、ランスローの顔色は普段より青白さを増していた。  この場にいる全員の脳裏に炎と屍の光景が蘇る。帝国崩壊すらも有り得た、あのおぞましき災禍が。 「〈僭越〉《せんえつ》ながら、私は以前よりあれら謎の兵器について量産の可能性があると進言して参りました。今起こっている事態は、正に懸念してきた事そのものではないかと考えます。  この度姿を見せたとされている仮称“マルス”は、〈以〉《、》〈前〉《、》〈の〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》〈と〉《、》〈は〉《、》〈別〉《、》〈個〉《、》〈体〉《、》〈と〉《、》〈い〉《、》〈う〉《、》〈可〉《、》〈能〉《、》〈性〉《、》があるかと……  すなわち、かつて総統閣下が討伐したものの後期生産型。聖教国より送り込まれて来た新手ではないかと一考します」  彼の言葉の意味するところはすなわち、魔星の進化形が既にこの世に存在しているという事だ。過去が蘇るよりなお悪い。  そしてさらに、ランスローの弁舌はその最悪とも言える想定にすら留まらない。考えすぎかもしれませんが、と前置きしながら論を重ねる。  最悪を常に思い描いて動くことこそ彼に託された職務ゆえ。 「もう一つ、これは最近疑問を感じてきたことなのですが……   あれら二体は、本当に〈聖〉《 、》〈教〉《 、》〈国〉《 、》〈の〉《 、》〈所〉《 、》〈有〉《 、》〈物〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》? 軽々に断じていいのかと、今となっては思っております」 「ならば商国か? それとも第三者の存在だと? それは飛躍が過ぎると思うが、貴官には何か確証があるというのか」 「いいえ、何も。ですがそもそも可能性を否定する材料にしても、現状何もないはずでしょう。   現に有りえてはならない事が起こっていたのですから。ならばもう、いっそ開きなって今までの前提条件を一度捨てることにしたのですよ。そうしてもう一度、自由な発想をしてみますと……」 「我々は、知らずあのマルスという存在を兵器というカテゴリーに括り付けていたなと思ったのです。〈星辰奏者〉《エスペラント》と同じ力を使うからといって、我々帝国より優れた国が開発したというのではなく。  そもそもあれは、〈自〉《 、》〈律〉《 、》〈的〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》なのではないかと考えました。つまりアレは最近製造されたのではなく、〈旧日本の日本〉《ロストテクノロジー》そのものとして千年の時から目覚めたのではないだろうかと思いましてね。  これならば、我々帝国よりアストラルの軍用に優れていたとて当然でしょう? なにせ解析先の技術、その大元が暴れていたわけですから」 「確かに、それは自由な発想だな」 「荒唐無稽、とは軽々に言えまいか……」  その今までにない新しい論説に対し、チトセはランスローの評価を内心で上げた。  彼女は既にマルスが近年製造された存在だと分かっているが、恐らくそれは完全に間違いというわけではないと思う。あれには何か、やはり人智の及ばぬものが携わっている気がするのだ。  ランスローの懸念はさらに続く。 「そうなってくると、色々と辻褄も合うのです。仮称“マルス”、仮称“ウラヌス”の製造は旧暦最後の世界大戦ということになります。  私が当時の技術者とした場合、魔星に固有の人格を植えつけるとするならばそれは〈勿論〉《もちろん》こうします──その力で敵国を打ち倒せ、と」  それすなわち、旧日本以外のすべてが攻撃対象ということに他ならない。 「ゆえにこそ、此度の事件は特級の危機となる恐れがありましょう。なにせ彼らの故郷はもう消えている。   今の世界に在る国すべてが、残らず彼らの標的ですよ? この論が正解ならば我々はお手上げです。あと何体残っているのか検討もつきませんしね」  ランスローの懸念は単なる妄執かもしれず、それは心配のし過ぎかもしれない。しかしたとえ無駄であろうとも、万難を排する事こそが本分であり、そして真偽を確かめられる者などこの議会には誰一人いない。  ゆえにしばしそれぞれの間で意見の交換が始まる。ならば、ヴァルゼライド総統閣下に魔星討伐を任せればいいのではないか──という向きもあるだろうが、仮にこの新論が正しければ今までのように頷けない。  なにせ、これではまるで時を越えて蘇る時限爆弾だ。  下手をすれば子供たち、さらに後の時代にまで不穏の目を残す。  誰にでも解決できるという、そういうやり方の模索が必要な話になっていた。 「そのような状況を避けるためにも、魔星への対応策が急務かと。   よって、総統閣下……あなたが推し進めていたはずのものを、私たちは知りたいのです」  これまで極秘とされてきた、総統管轄のプロジェクトを──  対アストラル運用兵器の研究である事以外は何も明かされておらず、その進行度が一定水準に達した時点で公開されるとされていた。  しかし、現状音沙汰無し。理由は単純、討伐された魔星の破片を寄こされた〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》、あそこの研究が遅々として進まなかったから──とされているが。 「魔星の再来より〈遡〉《さかのぼ》ること一週間ほど、第六〈交易拠点駅〉《ターミナル》の一件を覚えておいででしょうか?  私はあそこから何かがおかしいと思うのです。もしやとは、思うのですが……」  その時に何か起こったことが、と。  不安げに問われた言葉にヴァルゼライドは〈頷〉《うなづ》いた。 「もはや隠し通すのも下策だな……その通りだとも、ランスロー」 「あの日、俺は秘密裏に移送を命じたものがある。件の襲撃はそれを狙った他国の送った手合いによるものだ」 「中には、いったい何が……?」 「聡明なおまえなら見当がついているのだろう? そう、魔星だよ」  事も無げな発言と共に室内がにわかに騒がしくなる。さすがの内容に多くのものが絶句し、ランスローもまた言葉を失って〈唖然〉《あぜん》としていた。  くつくつと〈喉〉《のど》を鳴らしているのはチトセだけ。  ああ、確かに中に入っていたのは〈魔〉《 、》〈星〉《 、》である。  その事実を正確に理解しながら、事の次第を見届けた。それぞれが鬼面の姿を想像する中、そこに誘導した男は静かに語る。 「恐れることはない。奴は今、復元と共に首輪を宛がってある。俺の承認なくば全力を出すことが不可能な状態だ。   だがしかし、一人でアレを扱うことにも限界があるだろう。俺も所詮は人間だ。よって、仮に暴走したとしても鎮圧できる者に奴を預けた。  スラムで魔星と戦っていたという情報、おまえはどこまで掴んでいる?」 「は、はい。破壊と戦闘の規模から恐らく複数の〈星辰奏者〉《エスペラント》、それもかなり優れた戦闘者と戦っていたのではと……まさかっ」 「そうだよランスロー殿。済まなかったな、今回ばかりは密命だったのでね」  ヴァルゼライドへの助け舟、というわけでもないがランスローを筆頭にこの場の者をチトセは丸め込んでいく。すらすらとそれらしく、何より自身の存在を説得力の要にして言葉を紡いだ。 「慣らし運転というやつさ、まあ引継ぎの儀というやつかな。おかげで総統閣下からも託される運びになったよ。  これで以前、貴官が懸念していた負担と期待の一極集中も少しは軽減されたはずだが。どうだろうか?」 「今までおまえには余計な心労を負わせていた。これをもって、その忠誠に詫びさせてくれ。   各々、聞こえたか? 魔星はもはや限定的だが我らの手にある。あれは自然災害ではない、制御可能な兵器なのだ。   ならばもはや、あと一歩だろう。これからも皆の力を至らぬ俺に貸してほしい──」 「頼む」  力強くされど〈真摯〉《しんし》に告げられたその一言に、誰もがすかさず敬礼を返した。むしろこれで奮い立たぬというのなら、何が軍人というだろうか。  魔星がどれだけの脅威であっても進展は可能であると示された。もとよりこの場の誰もが英雄のことを信じているのだ。ならば後は駆け抜けるのみ。  多くの意思が一つの光に向かって〈集〉《つど》っていく。  その最中──〈僅〉《わず》かに二人、影を残した者を除いてはだが。 「────」  誰もが総統閣下を讃える中、そっと寂しげに目を伏せた男と。 「さて、ここからいったいどう出るか……」  そんな男の姿を確認しながら、小さく〈呟〉《つぶや》く〈隻眼〉《せきがん》の女傑。  果たして裁剣は不敵にも映る色をその瞳に浮かべ、何かが動くのを待っている。  あるいは自分が動けるときを──  閉会し、人の去った会議室に残っているのはランスロー。  その端正な表情は憂国の感情からだろう。今は蒼白の色を見せ、何事かを小さく口の中で〈反芻〉《はんすう》している。  内容は彼だけにしか聞こえていない。しかし少なくとも、普段見せない焦りが色濃く出たものなのは間違いなかった。  それは事の重大性を改めて確認したからか?  それとも恐るべき〈陥穽〉《かんせい》でも見つけたからか?  あるいは、ヴァルゼライドとチトセの裏から、何かを嗅ぎ付けてしまったからか?  どれが真かは分からないが、彼が何かを〈恐〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》のは間違いない。その想像が未来になるのが、恐くて恐くて仕方ないのだ。 「事態が、動く――」  国を〈真摯〉《しんし》に憂うその独白は、誰もいない議場に消えていく。  そこに秘められた感情だけは、紛れもない真実だった。  過ぎゆく日々に、元々さしたる希望などは抱いていなかった。  大きな危険もなく、また飢える事もなく、そこそこの暮らしができれば、まあそれでと――  サヤ・キリガクレが幼かったあの頃は、日々を漫然と送れればそれで十分に足りていたのだ。  キリガクレ──つまるところ〈霧〉《 、》〈隠〉《 、》。  姓の語源が示すように、その役目はつまるところ〈忍び者〉《よごれしごと》。  大和の血を半端に受けついだがため、より純潔に近い〈方々〉《アマツ》を支えるのが定めであると。いわゆる守護役なり従者なりを仰せつかった家系こそが、自分の生まれた場所だった。  良く言えば“臣”であり、悪く言えば“隷”。なぜわざわざ祖先は血統の優れた側にかしずこうと決めたのか、それはいったいどんな心境だったのか。  確かめる手段はもはや無いが……  ともあれ、自分はそれなりに優秀だった。戦闘、暗殺、諜報という荒事関連に加えて、家事や交渉術といった生活面についての技術も難なく習得。これいった挫折や葛藤など、思えば一度もしていない。  何事にも冷めていたものだから結果が出るまで淡々と打ち込むことも苦ではなく、それなりの才も秘めていたことで、奉公に出せるというお墨付きをかなり早い段階で貰う運びとなったのだった。  その、いわゆる繰り上げ認定をもらうことになった理由は、能力値の評価からという面もあったが、やはり五年前の大虐殺による人員不足が大きく関係していたのだろう。  特に〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈部〉《 、》〈隊〉《 、》が半壊したのは、アマツの中でもかなり衝撃が大きい話であったらしく……  朧の血筋直系である隊長は、右眼損失。加えて重傷。  副隊長以下部隊員は行方不明と死亡者だらけ。  被害者を合わせると、実にその七割近くが鬼籍に入ったというのだからそれは凄まじい痛手だった。さらに部隊の特性上、〈星辰奏者〉《エスペラント》の保有率が高いとう事実を当て嵌めて確認すると目も当てられない有様だったと言えるだろう。  なのでおまえ、そろそろモノにもなったじゃないか。  〈星辰奏者〉《エスペラント》の素質もあるから、強化兵として働くがいい。  やんごとなきあの御方の再起、そして部隊再編に選ばれたのだ。  その栄誉、感涙して受け取るがいいぞ。よかったなサヤ──  などというお家の有り難いお言葉をはい、はい、はいと従順に聞き流したのは覚えていた。そして次の日、情熱という感情がすっぽりと欠けていた自分は特にこれといった感慨もなく勤め先に足を運ぶ。  不満どころか期待すら抱かぬまま、面倒な主君でなければいいのだがと内心で思いつつ。  着任した、その先で── 「おまえがサヤ・キリガクレか。まだ少女、などと侮るつもりはない。   その力、私に寄こせ。こんなところで止まるわけにはいかんのだ。   勝つために」  サヤ・キリガクレは運命に出会った。  総身を駆け巡る抗えぬ情動。自分で自分が理解できなくなる感覚。視界に一度入れた〈途端〉《とたん》、魂を掴むこの感覚に立っていることさえ難しかった。  ああ、これを一目惚れというのだろう。  胸の中で初めて芽生え始める〈滾〉《たぎ》るような“欲”。  身体が震え、頬が色付き、世界が鮮やかに染まっていく。  ──下腹部が熱い。  ──蜜が溢れる。 「何なりとご命令を――チトセ・朧・アマツ様。  このサヤ・キリガクレ、〈貴方〉《あなた》に命を捧げます」  ゆえにこの瞬間、自分の生き方は決定した。  ああお願いします、どうかどうかお姉様。たおやかなその指で濡れる花弁を散らしてください。〈喉〉《のど》を撫で上げ、乳房をつねり命じてください──〈舐〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》。  よって己が行動原理はあの日から至ってシンプル。  すべてはお姉様のため――帝国の利など〈僅〉《わず》かほどの興味も抱いていない。何よりも優先して主を守り、いつの日か〈ご〉《 、》〈褒〉《 、》〈美〉《 、》を賜りたいと願っている。  それを追って焦れる日々さえ、芯から溶けてしまいそう。  ならばこそ仇成す者がいたのなら全力を〈以〉《もっ》て叩き潰す。  総統閣下であろうとも、強大な魔星であろうと、アマツであろうと。  そしてあの、いと忌々しい〈人狼〉《だけん》であってもみな同じ。  誰も主の栄光は〈穢〉《けが》させはしない。この幸福な時間をいつまでも、いつまでも続けるために―― 「それでは報告を聞かせてもらおうか」 「御意に、総統閣下」  見かけは流麗に──内心は〈案山子〉《かかし》を相手にしていることと、何ら変わらぬ心境。  見本のような一礼を行ってから英雄に対して、調査報告を行う。 「現在、軍部の息のかかった者たちを商会絡みの流通経路に紛れこませ、対象の監視を行っております。  今のところ特に問題は見受けられず、以降も観察を続行するつもりです」  伝えられる事は通り一遍、当たり障りのないものばかり。  それは別段隠し事があるからというのではなく、事実あの〈駄〉《 、》〈犬〉《 、》が生活している周辺にはあれから特に何の異変も起こってはいなかった。  まあ墓参りの際、反体制勢力の〈要注意人物〉《ブラックリスト》に手傷を負わされたという報告は実に気持ちのいいものであったが…… 「続けよ」  その情報を以前耳にした時も、さらに今も、目の前の英雄は顔色一つ変えるそぶりも見せなかった。  表情からは何も〈窺〉《うかが》えず内心はまさに鋼鉄のごとし。  事務的な伝達を進めながら、自分はそれを悟られぬよう気を付けつつ観察を続行する――そう、すべてはお姉様のため。  マルスを預けたことによる情報伝達担当──という立場を受け、主から託されたのはやはりクリストファー・ヴァルゼライドへの警戒と、仔細な探り。  お姉様こそ至高であるという意見は揺るがないものの、しかしこの男が飛びぬけて破格であるのは誰もが認める所である。  よってこちらの〈叛意〉《はんい》に気づいているのか、いないのか。  彼の反応、仕草に現われる感情の機微、その他総てに気を配る。  同時に決して隙を見せぬよう、呼吸感覚にさえ気を付けながら…… 「そして、これは隊長からの代弁となりますが……  もう少し〈直〉《、》〈接〉《、》〈的〉《、》に探りを入れてみてはどうでしょうか?  虎穴に入らずんば虎子を得ず。より精緻な情報を収集するため、この任務に最適な人員を配置できればと。さすれば更に進捗は捗る事でございましょう、とのことです」 「果断にして性急だな」 「それこそが〈裁剣天秤〉《ライブラ》でありますゆえ」  にこりと、見目麗しい造花の笑み。言葉を伝えつつ、されど内容よりどういった反応が返って来るかへ意識を向ける。 「先日の会議で明かした以上、今後必ず各方面からの質問は日増しに強くなっていきましょう。なにせ魔星を従えたというのですから。  そして人は、目に見えた成果が上がるとどうしても焦れ始めます。次は? さらに? もっともっとと……」 「総統閣下に〈不遜〉《ふそん》な物言いをする者は、さすがに一人もいないでしょう。ですがその分……」 「研究を担当している〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》へ〈皺〉《しわ》寄せが、か。十分にあり得る話だ」  英雄という象徴は責められない。けれど進展した、という言葉は欲しい。  そうなると人は拝するものを守るため、他が悪いと言い始める。  自制心を要求される軍属だとて人なのだ。そうならないという保証はないし、内心では不満が募る可能性もある。  ヴァルゼライドはそれを吟味し、しばしの沈黙から口を開いた。 「朧はどうしている? 対象を揺さぶるというのであれば、恐らく奴が適任だろう。魔星では刺激が大きすぎる」  来た──と、内心でほくそ笑む感情を抑え込む。  その提案、公的な裏付けこそ引き出したかったために。 「ええ、まさにその件へ向けて捜査準備にあたっております。というよりは、既に動いていらっしゃるかと」 「手が早いな、素晴らしい。やはり彼女は優秀だ」  それは精悍なこの男らしい純粋な賛辞だった。油断ならない人物であるがお姉様に対する高い評価は本物であり、ゆえに自分も誇らしい気分になる。  まあ、〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈抜〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》のだが。  ヴァルゼライドは、チトセ・朧・アマツという人間の才覚を正確に評価している人間の一人だ。  過大評価もしない。過小評価もしない。他評に惑わされもしない。  二人は人間の平均値を大幅に飛び越えている傑物であり、その点だけを見れば紛うことなき同類だろう。一般的な基準とはかけ離れているからこそ通じる部分が互いにあり、恐らくそれゆえ感覚的な理解が深くなっている。  共に行動理念や実行力など重なっている部分が多く、それゆえ時に内心が見えてしまう。完璧な隠し事を行うためには自分のような〈緩〉《 、》〈衝〉《 、》〈材〉《 、》が必要なのだ。  それは恐らく、どちらにとっても…… 「ならばそちらは任せよう。マルスについても何かしら不備があれば随時報告するといい、最優先で対応する」 「了解いたしました」  その言葉は釘を刺したのか。それとも内密に行われた接触に気づいているぞと示唆したのか。それともはたまた──  分からぬが伝えておかねばならない。最後の一言が若干気になるものの、それを判断するのは主君だ。  与えられた命令をこれでこなした。  よって、腹立たしい──もとい危惧するのは一つだけ。  あの小汚い歩く〈塵屑〉《ごみくず》のようなクソ敗残者に、あの方が〈誑〉《たぶら》かされたりはしないだろうかと願うのみ。 「ああ、お姉様……どうか早まらないでくださいまし」  完全完璧な人類種の至宝に存在していた、たった一つの弱点。〈壊〉《 、》〈滅〉《 、》〈的〉《 、》〈な〉《 、》〈男〉《 、》〈の〉《 、》〈趣〉《 、》〈味〉《 、》を心より嘆きつつ、接触行動を開始する離れた主へ祈るのだった。 朝っぱらから呼び出され、俺とヴェンデッタが向かっているのはあのボンボンの屋敷だった。 ミリィはいつも通り先ほど爺の〈工房〉《アトリエ》に送り届けたあとであり、ゆえに俺は不本意ながらこいつと二人というわけである。冴えない気分ではあるものの、雇い主にわざわざ指名されてしまっては仕方がない。 進む周囲の街並みからは活気のある声が聞こえてくる。それは催し物の準備に〈勤〉《いそ》しむ姿であり、どこもそこそこ忙しいといった様子である。 「あれがイヴの言っていた〈祝祭〉《フィエスタ》なのね。なるほど、賑やかになりそうだわ」 そう、間もなくこの帝都では毎年恒例である祝祭が行われる。年に一度のそれは民の活力となっている。 「庶民は出店でちまちま買い食いしたり、露天商ひやかすという過ごし方がせいぜいだがな。〈贅沢〉《ぜいたく》したいならおまえの奴隷にねだってくれ」 「あら、かわいそう。大切な親友を子豚の貯金箱みたいに言うなんて」 だっておまえが叩けばあいつお金を出すだろうが。尻をぶつたび、〈涎〉《よだれ》を垂らしてチャリンチャリンとよ。 まあ先ほど言ったとおり、今までの祝祭といえば――ミリィ連れて露店巡りをしたりというのがせいぜいだ。ルシードにたかって酒屋で支払いパワーを余裕で超えた痛飲をしたこともあったっけ。くだを〈撒〉《ま》いて朝帰りしてるな、大抵。 まあそんな馬鹿馬鹿しい過ごし方さえしなければ、至って楽しく健やかなイベントである。今年は舞踏会にも招かれてるし、イヴの顔を潰さないようにしなくてはならないだろうことが……個人的には〈憂鬱〉《ゆううつ》だが。 それにしても―― 「今日の用事はなんだろなっと」 例年通り、祝祭絡みの手伝い依頼とかだろうとは思うが。詳しい事は何も通達されていない。 金払いがいいなと考えながら、浮かれた雰囲気漂う帝都を歩くのだった。 ──日常は、何事もなく続いている。 不気味に思うほど誰からの接触もなく、穏やかに。 そして、屋敷に到着してしばし。 ルシードに出迎えられてから数刻が経過した、のだが。 「────はぁ」 「うんこ漏れそうなのか?」 「────はぁぁぁぁぁ」 「あなたの発言でため息が呆れに変化したわね」 こんな具合に、今日のこいつは何かが違っている様子。 部屋に通され、座ってくれと一言告げられてから珍しくため息ばかり吐いていた。緊張しているのか頭を抱えているし、ヴェンデッタが来ているにも関わらず、ちょっかいを出すことなく黙っている。 加えて、やけに部屋が片付いていた。来客用のため綺麗なのは普段通りだが、今回はやけに徹底している。何なんだ? 「……仕方ないが、そろそろ時間なので腹を括るとしよう。というかこの場の全員がそうしなければならないかもね」 「まず最初に、僕の勘を告げるとするなら〈彼〉《 、》〈女〉《 、》の目的は偵察だ。ねじ込んできた身分の関係上、恐らく荒事はないと思うけど用心してね」 「いきなり物騒なこと言うなよな……バレたか?」 「と、思う。だけど心配はいらない、かなぁ……? 普通に考えたらレディが目当てのはずなのに、どうもあれは──」 なんて言いながら、なぜか俺の顔をまじまじ見てくるルシード。首を〈傾〉《かし》げている様子はこう、侮っているというか僕ちゃん不思議に思ってますという感じが満載であり…… 微妙にいらっとするが、ともあれ。 「まあ要点だけど〈掻〉《か》い摘むと、これからやんごとなき身分のご令嬢がやってくる。〈貴種〉《アマツ》の箱入りお嬢さんで、商業〈区画〉《エリア》の顔役である僕と直接話がしたいらしい」 「で、君を呼んだのはその会談中に僕たちの護衛を頼むためで、そして終了後はそのまま相手方の護衛に付いてもらう。OK?」 「そりゃ銭もらえるなら構わんが……」 話が見えてこないので生返事になってしまう。箱入りお嬢様が来たとあれば、どうせお高いものを欲しがっているのだろうと予測はつくが、それなら偵察って何なんだよ? それにこいつの申し訳なさそうな雰囲気も気にかかる。あともう一つ、別の疑問として。 「それでどうしてこの無駄飯ぐらいまで呼んだんだ? 言っておくが、馬鹿馬鹿しい理由は無しだぜ」 「あちらさんの希望。表向きは孤児、住所不定者など、それに対する身分の保証や商会の援助もろもろ。お涙ちょうだいの話を盾に、箱入りお嬢さんの善意でやってくれますよと……いうのがあくまで最初の話」 「そして先日、会ってびっくりあんたマジかというわけでさ。本当に、これは参った」 「とにかく先方に会えば分かるよ――」 どうにも歯切れが悪い返答に首を〈傾〉《かし》げたとき、丁度ドアがノックされた。 件のご令嬢が来たらしい。 「最後にこれだけ言っておく。僕と君とで彼女を守るんだ、いいねゼファー」 何を〈藪〉《やぶ》から棒に。守る? 一体どういうことかと。 いよいよ疑問に思ったところ、そして── 「あら」 「来たぁ……」 「────、──」 ──登場した〈や〉《 、》〈ん〉《 、》〈ご〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈き〉《 、》〈身〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈お〉《 、》〈嬢〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》を見て、俺の口が盛大に引きつった。 ああ、うん、そうだね。確かに言葉通りアマツのお嬢さんだね。 けど箱入りとか嘘つけコラァ! このお嬢様はなぁ、ライオンだって笑顔で撲殺できるスーパー断罪マシーンじゃねえかッ。 そんな超戦闘力を秘めているはずの令嬢は、〈瀟洒〉《しょうしゃ》なドレスに身を包んで意味深な微笑をたずさえている。 そしてそのまま、お上品に小首を〈傾〉《かし》げる仕草をみせて── 「本日は護衛の方まで手配していただき、手厚いお心遣いありがとうございます。グランセニック様」 「チトセ・〈漣〉《 、》・アマツです。皆様、本日はどうぞよろしくお願い致しますね」 「……どうも」 ギギギ、と油の切れたブリキよろしく頭を下げる。内面はもうパニックで、ムンクの叫びよろしく大絶叫が吹き乱れていた。 思い出すのは、こいつが持っている〈表〉《 、》〈の〉《 、》〈顔〉《 、》。特権層であるアマツはそれなりの地位のお歴々と謁見する機会も多くあり、猫被りもまた世渡りの作法であり、さらにはそこにもう一つ。 こいつの場合、実は一般には〈顔〉《 、》〈が〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。〈裁剣天秤〉《ライブラ》という特務部隊の隊長であるからこそ表に顔写真類は一切流れない。 軍内部にでも入らない限り、情報としてではなく個人的な人間性を知る者はいないのだ。 よって後は“朧”という名前さえ隠してしまえば、ご覧の通り。 「──ふふ」 素の顔が潜入用に早変わり。苦い顔をする俺を見ながら、チトセは悪戯っぽく口端を歪めるのだった。 そして――商業〈区画〉《エリア》の元締めであるルシードと、チトセとの会談が開始される。 そこに警護という名目で同席しているが、ぶっちゃけ不要だろとは〈ご〉《 、》〈令〉《 、》〈嬢〉《 、》相手に言えないわけで。 「本日はこのような機会を設けていただき、ありがとうございます」 「いえ、構いませんよ。むしろ僕としてもその提案は渡りに船でして」 「そちらの身寄りがないお嬢さんに市民権を与えたいと。ああ、その善意と優しさは素晴らしいと思います。是非とも手伝わせてほしいですね」 「ええ助かりますとも、チトセ嬢はお優しいですなぁ」 「いいえ、アマツとして当然のことでしょう。特権は民の安寧にこそ用いるべきだと思いますので」 「立派な志だことで、あはははは」 「大したことでは、ふふふふふ」 うーわぁー、しーらじーらしーい。なにこれなにこれ、チョー茶番。 ごめんなさい──つうか胃が痛いです。ああもう嫌だよおうち帰りてえぇぇ。 「大人はね、互いに真実を察していても時と場合を選ぶのよ。なんでもかんでも馬鹿正直に口にして、相手をそれで不快にさせたら駄目でしょう? あなたも少しは見習いなさい」 「俺決めた、今からピーターパンになる」 とりあえずぶっ殺して来いと、〈師父〉《せんだい》から暗殺任務やらされた時と同じぐらい嫌だ。 離れてそれを眺めているだけで胃が痛くなっていく。対面でソファに座るこの二人は、どういう神経しているのやら…… 「とりあえず、身分保障としては例の形で。書類や控えなどに関してはこちらが預かる形でよいと?」 「ええ、構いません。ルシードさんは信頼できますし、こういうことは早い方がよろしいでしょう? ついこの間も治安の悪化が見られたという話ですから」 「被害にあっても身の証明が立たなければ、悲しい結果になりますものね。確か、スラムで何かが起こったという話ですが──」 何かも何も、おまえと俺がドンパチしただろうがよ……とは口に出せず。 「この頃はまた安全が戻ってきたと聞きました。良いことですが、どうしてでしょうね?」 「そうですね……まあ、お嬢さんに聞かせる話ではないかもしれませんが」 「最近、スラム界隈が何か動いているという噂があるのですよ。元々小競り合いの多発していた地域ではありますが、最近の〈そ〉《、》〈れ〉《、》にはなんでも統率者の意志を感じるのだとか」 「秩序とまでは言いませんが、何か確固たる目的を共有しつつあるのではと……そんな噂もありますね」 「スラムの者が? にわかには信じられません。それにそんなことをして、何か得があるのでしょうか」 「いやいやお嬢さん、無法を舐めちゃあいけませんよ。人間自体がそもそもあまり〈賢〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。目先の欲望に負ける馬鹿や、予測もできない未熟な子供が大半です」 「むかつくからぶっ壊そうとかやっちゃう輩が大半ですとも。そう、たとえば──商会員を抱き込んで物資をこっそり抜いたりだとか。やるバカ本当に多いんですよ」 「バレる度に処分されても関係なし。学習しない。反省の色もなし。悪知恵だけは達者なもので、色んなルートや方法で輸入品を〈掠〉《かす》めていく。最近は、そうですね……」 「主に〈銃〉《 、》〈器〉《 、》〈類〉《 、》が狙われているんですよ。やあ困った」 「まあ、こわい」 と、猫かぶりな反応をしつつ──ほんの一瞬鋭くなった目の輝きを見逃さない。ルシードの〈世〉《 、》〈間〉《 、》〈話〉《 、》がとてもお気に召したようだ。 そして先の話は俺にとっても初耳だ。アスラが現在スラムの頭を張っていることと組み合わせて考えた場合、どうも愉快な想像ができそうにない。 あの戦いを起爆剤に色んな場所で、色んな思惑が次々動き出しているような気がする。 近いうち、何かとてつもないことが起こるような……よくない気分だ。 「大変なのですね。これ以上商会に損害が出ないよう、よければ私が〈然〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈ろ〉《 、》に話を通してみましょうか?」 ──情報の見返りだ。物資周りの警備を強化しても構わんぞ。 「もちろん商会、ひいては商国側のご迷惑にならなければ」 ──とはいえ、そちらも立場があるだろう。なあ、どうだ? 「お心遣いはありがたいですし、私としては提案を受けてもいいのですが……すみません。そこまで甘えるのは、少し」 ──自分はともかく、母国が面子にうるさいので。すみません、気持ちだけで結構です。 「いいえ、こちらこそ差し出がましいことを言ってすみません。ですがあまり遠慮せず、頼み事があればどうぞご気軽に」 ──ならば借り一つとしておこう。 「はは、頼もしいことです」 ──天秤に貸し作ったぞォォ、よっしゃあやったぜッ! 「二人の副音声が聞こえてくるみたいね」 「いやもう、マジ勘弁……」 帰りてえ、本気で今すぐ帰りてえ……そしてミリィを見て癒された後、アルコールに溺れながら僕はぐっすり寝るんだ。 もっとこう、ストレートに言えよおまえら。見ているこっちが疲れるというか、何ともいえない気分になってたまらないんだっつうの。 会話が一段落してこんなにほっとしたのは久々だ。続いてヴェンデッタの方に向くチトセ、緊張が治まる暇がない。 「本日はわざわざご足労いただいて、ごめんなさいねお嬢さん。自分のことなのに話を聞いているだけで、退屈だったんじゃないかしら?」 「気にせずともいいわ。縁の薄い会話だったから、眺めていてもそれはそれで楽しかったもの」 共に微笑を浮かべながら、互いの言葉を涼風のように事もなく受け流している。 見つめあう二人の視線に何がこめられているのか、俺には何も〈伺〉《うかが》えない。 「それと、一つ聞きたいのだけれど……」 「立場の保証についてなら、グランセニック商会が受け持つということになったわ。何か不都合が起きたりした場合は、名義がこちらに移るという話と思って」 「僕が帝都から離れざるを得なくなったら、だけどね。まあ〈勿論〉《もちろん》、石に〈齧〉《かじ》りついてでも残ってやるけどさ」 つまり、何か致命的な事が起こった場合に限り、ヴェンデッタの身柄はチトセに託すというわけか。 先ほどの会話でいつそういう密約をしたのか、読み取れなかったがどうやら手はずは決まっていたらしい。軍部に身柄を拘束された際、身の安全だけでも守らせようという次善策というわけか。 そして確かに、選択肢としてチトセはそう悪いものじゃない。 他の部隊はともかく天秤は彼女を頂点と据えた一枚岩だ。部隊員が懐柔されるという心配もほとんどなく、仮に総統から命じられても隊長の言葉を優先するという唯一の部隊であるから。 チトセ個人がヴェンデッタをどうするかにかかっているものの、無下に使い潰されることもないだろう。悪は残らず断罪するが、決してそれは見境ないというわけじゃない。 先代たる師父の教えがあいつの中にある限り…… この女は正解を選び取る。ヴェンデッタが殺される時があるなら、それはあいつが死神か何かに変貌した時だけだろう。 「ですからあなたの安全は──」 「そんなことはどうでもいいの」 だというのに、当の本人はそれら一切裏で行なわれたやり取りをまったく意に介することなく。 スカートを軽くはためかせながら、軽くステップするようにチトセの傍へ見上げる形で近づいた。視線を合わせて、ふっと微笑み。 「ねえあなた、吟遊詩人はお好きかしら?」 「それなら私たち、とても仲良くなれると思うわ。だってどちらも同じ音色に焦がれているもの」 「…………」 吐き出されたこれみよがしな暗喩に対し、期せず沈黙が下りる。 束の間、呆気に取られたようにチトセは目をそっと見開いて。 「────ふ、くく」 そして一瞬、思わずという風に〈本〉《 、》〈来〉《 、》の彼女らしい苦笑を漏らした。気のせいだろうか、視線に〈微〉《かす》かな好感が乗った気がした。 「ええ、琴の調べは好きですよ。これで私は芸術の嗜みもありますから。ただはしたない話ですが、音楽よりも動物と戯れるのが好みでして」 「いつか屋敷に狼を買うのが夢なんです。どう思います?」 「ああ、悪くないわねそれも。遠吠えの切なさは確かに私も、軽く胸がときめくもの」 「ふふ、気が合いますね。なぜでしょうか」 「ある特定の部分に関して、趣味が似通ってるんでしょう?」 うふふと〈殊更〉《ことさら》上品に笑う二人の美少女……なのだが、その光景を見るたびにじっとりと汗が出るのはどうしてだろうか? 止まらない冷や汗、凍えるような悪寒、おかげでもうさっきから背中がびっちゃびちゃの状態である。ああ、今すぐここから逃げ出したい。 「それでは、名残惜しいですがこれでそろそろ。約束通り彼のことをお借りしますね」 ……しかしやはり逃れることあたわず。 こちらの意識を機敏に察知してか、絶妙のタイミングで腕をそっと上品に掴まれた。もう逃げられない。 優雅な足取りのチトセに連れられ、俺は〈護衛〉《いけにえ》の任に就く。 「心ゆくまで可愛がってちょうだいな」 「おお、友よ。安らかに眠らんことを」 「いや、助けろよおまえら……」 ──そしてせめての抵抗に、手を振り見送る薄情者へと最後のツッコミを入れながら。 「──驚いたぞ、まさかアレを〈誑〉《たら》し込むとは。色男になったじゃないか、ええゼファー?」 廊下に出た〈途端〉《とたん》、何度も見慣れた〈獰猛〉《どうもう》な笑みにからかわれる。 一瞬にして被った猫を脱ぎ去るチトセに、俺は何とも言えず視線を〈彷徨〉《さまよ》わせるのだった。 ──手配されていた高級車に〈歓迎〉《らち》されて、目的地へと進んでいく。 貴重なガソリンを消費して進む車は、アマツの令嬢を乗せるためのものであるため揺れもない。軍部高官に支給されるやつには何度か軍属時代に乗ったものの、記憶にあるそれより二つはグレードの高いものだった。 今は歓楽街区画へと向かっている途中だが、この調子だと大した時間も掛からずに到着することだろう。 「しかし、こうして二人きりになるのは久しぶりだな。以前はあれで劇的だったが部下に魔星の目もあった。そう考えると感慨深い」 「昔はよく一緒の任務に宛がわれたものだったと、覚えているか? 私はまるで昨日のように覚えているぞ」 「まあ俺も覚えちゃいるが、なんだ……」 なぜこいつ、こんなに楽しそうなのだろうか? 以前あれだけ俺をボコボコにしておいてからに。 というか、いや待て、それ以前に── 「……どうして俺の隣に腰掛けるわけ?」 「当然、そうしたいからだ」 いやだから、その理由が分からねえんだよ。おかげでこっちはさっきからどうするべきかが判断できん。 チトセがここにいる意図は明白だ。今の停滞した現状をぶち壊すために送り込まれた軍の刺客で、状況を見れば十中八九そのはずなのだが、しかしどうにも感触が違う。 こうもスキンシップの激しい女だったか? 五年前はこうじゃなかったはずなのだが。 ……見えてこない分、仕方ないが心を決める。こちらから踏み込まねばきっとチトセは万事妙に浮かれたままだろう。 何も知らないままでは俺が不安だ。命を握られている気がする。 「さっき妙な会話を交わしていたけどよ。ヴェンデッタはおまえから見てどうだった? 正直俺は持て余してるし、あいつが何かよく分からん」 「ほう、当事者からさえ特に感じるものは無しか。ならば私に分かることなどそれこそ何もあるまいよ」 「それでも意見を口にするなら、特に違和はなかったということだけだ。少なくとも見た目は普通の人間と何ら変わりないものだった。内側から感じるものも同時に然り」 要は分からないという返答だが……なるほど〈普〉《 、》〈通〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》ときたか。裏はいったいどうなのやら。 俺もそこまで馬鹿じゃない。冷静になった後、ヴェンデッタの正体にも幾つか仮説は立てているし、その言葉がそのままの意味ならば── 「しかしまったく、振ってきたのがまずは他の女についてか。ああ悲しい、嫉妬してしまうぞ馬鹿」 「おまえは相変わらず女心が分かっていないな」 「まあ、うん。それはそうだが……」 「なんだ歯切れの悪い。二人きりだぞ? おまけに密閉空間なのだぞ?運転手は〈曇硝子〉《くもりがらす》でこちらがまったく見えん仕様。防音処理も完璧だ。そして近くに美女がいる」 「ならば我慢弱い男として、やるべきことがあるだろうが。なんだ、おまえまさかその歳でもうEDなのか? 困るぞ私は、おっ勃てろ」 「なんでだよ」 無理だよ、おまえ恐いもん。そんなことすりゃゲラゲラ笑って俺の息子をちょん斬るくせに。ハニートラップの真似事なんぞしてくれて、どうにもいまいち調子が狂う。 五年前は色気などまるで使わなかったろ。よっしゃ斬るぜ、断罪断罪、げーははははぁ、死ねィッ! てな感じに。 なんて、ある意味呑気に思っていると…… 「仕方がない、おまえの男性機能を回復する手助けをしてやろう」 俺の片腕を目にも留まらぬ早業で、むんずと掴み。 「ほぅら──っ、あん」 次の瞬間、ぽよんと、まろびやかな感触が手のひらに広がった。 ──はて? この柔らかくも触り心地のよい豊満なミラクル果実は? 「ふふ、ぁっ……何だ、がっつくじゃないか」 思わず一揉み、そして二揉み。むにむにと五指がわななき、たわわな実りを楽しんで、だ── 「はぁ、ん……どうだ? 興奮して海綿体に血が通わんか? んぅ?」 「ちょっと待てぇぇぇぇえええいッ!」 現実を認識した〈途端〉《とたん》、身体ごと思いっきりのけぞった。手を鷲掴みにしていた巨乳から強引に引きはがす。 「──やん」 やん──じゃねえよ、いやいや分からんどうなってんだッ。 「お、おまえ誰だ何者だッ。なんかチトセによく似たそれっぽい女だろ、絶対そうだろ偽物だなコラァァ!」 「失敬な。単に成長しただけだ。本音を出すのは気分が良いぞ」 からからと笑う姿からは、先ほどまでの艶や妖しさが綺麗さっぱりなくなっている。乳を自分から揉ませた女の反応じゃないが、しかしやはり先ほどまで女性を匂わせる態度を取ったチトセのそれは俺はひどく動揺させた。 こいつ、やっぱり五年前とは〈何〉《 、》〈か〉《 、》が違う。それはちょっとした仕草だったり、さっきのような大胆さだったり、本人〈曰〉《いわ》く本音だが……記憶のままじゃないというのはこれで深く痛感したぞ。 そして、我ながら今まで警戒心で麻痺していたのかもしれないが…… 「おお、おお、いいぞその目だ。ようやく意識してくれたか」 「そうさ、私だって女なのだぞ?」 俺は間抜けなことに、ここで初めてチトセの服装がどれだけ際どいかというのを意識してしまったのだ。そうだよ、こいつも立派な女性なんだと。 上官、大将、天秤の頂点という視点に別項目が加わっていく。おかげで急に居心地が悪くなり、命の危機とは別の意味でこいつのことが……なんだ、その。 ……おっかないくせに乳でかいな、おい。 ともかく──いかん、それ以上考えるのはかなりまずいことだ。 車内の空気を変えるためにもカードを切る。 「……まあ、それは置いといてだ」 「さっきの話題、ヴェンデッタについてだがおまえ何かを掴んでるだろ?意味深なことをさらりと言うとき、だいたいそれがサインだからな」 指摘に対してチトセは微笑で肯定した。問われれば答えるが、流すならそれでもいいという場合、こいつは俺にこんな語り口をする。 「そうだ、掴んでいることがあるのも確かな事実だ。では逆に、おまえはヴェンデッタがどういう〈も〉《、》〈の〉《、》なのか分かっているのか?」 その問いに対し、俺は首を横に振る。あいつの正体は皆目不明で、分かっているのはやばい出自であることくらい。 感覚的な変化はあの一度だけ。それを理解したのだろうチトセは、声を落として口を開く。 「以前、私たちが刃を交えた時におかしな事があっただろう? おまえの星が突如として増幅し、超絶の力を行使するに至ったこと──」 「あれから知ったことだが、彼女の詳細はアストラルへの〈対抗装置〉《カウンター》らしい。あらゆる〈星辰奏者〉《エスペラント》や魔星を無力化する劇薬だとさ」 「それがヴェンデッタ──〈死想恋歌〉《エウリュディケ》-No.βの製造目的である、らしいぞ」 「ッ、――――」 聞かされて、言葉が出て来ない。アストラルへの直接干渉? 馬鹿な、そんなことが可能であるはずないだろうが。 〈第二太陽〉《アマテラス》より降り注ぐ粒子は世界中の〈遍〉《あまね》く物質に介在しているものであり、まさに世界の骨子じゃねえか。そんなものに訴える? そして俺は、その体現者となったって? ならばあの時、視認した〈煌〉《きら》めく粒子の流れとやらは── まさしくアストラルそのものであったから、俺は星そのものを根っこから消し去ることが出来たのでは? 波長を感知し対振動を打ち込むことで。 「……あいつの星をどうして俺が? 不可能だろそんなこと」 「だから手をこまねいているのだよ。上も、私も、誰も彼もが、〈迂闊〉《うかつ》に手を出せずにいる」 「おまけに、これまでヴェンデッタは軍部の研究所で一度たりとも起動したことがなかったらしい。こちらもまた原因不明」 「それがこの度、〈ど〉《、》〈こ〉《、》〈か〉《、》〈の〉《、》〈誰〉《、》〈か〉《、》が目覚めさせたというじゃないか。さらに力まで〈同調〉《リンク》して使ってしまう。如何なる手段を取ったのかと疑問解決に大忙しさ」 「で、それを踏まえてもう一度問おう。何か感覚的に気づいたことは?」 「冗談じゃねえ。俺が分かるわけないだろう」 「だろうな。ゆえに喜べ、これで我々はもう少しおまえを泳がせることになる」 「実験動物の観察期間ってわけかよ、くそ……」 悪態にも力がない。話し終えたその内容はどれもにわかには信じ難いものだが、しかし、もしも告げられたすべてが真実なのだとしたら――これまでの様々な現象に説明がつく。一応ついてしまうのだ。 そして、自分が絶望的な運命に取り囲まれているのが分かる。 チトセがこうまでして嘘をつくメリットも見当たらない。否定する要素もない。ゆえに恐らくこれは真実、だからこそ思考は今も混乱の真っ最中だ。 だってそうだろう。やばいってレベル超えてんぞ、そんな異常事態ばかり引き起こす存在は。 俺がヴェンデッタを造りだした側だとしたら、絶対に起動者であるゼファー・コールレインを放っておくわけがない。 「不安か、そうだろうな。おまえは昔から臆病だ。よって道を一つ提示しよう」 「もし望むのなら、私が守ってやってもいい。不安など片時も感じさせないぞ? 交換条件という奴だ」 などと〈囁〉《ささや》くように言い、身を寄せてくるチトセ。鼻孔に〈微〉《かす》かに届く香りは香水だろうか、それは五年前には覚えのあるもので……今は男を〈疼〉《うず》かせる色香を〈纏〉《まと》った誘惑だ。 「ヴェンデッタをこちらに引き渡せば、あの御曹司との約束は守れるし、おまえの心配もこれで雲散霧消する。そして私はそれらの重荷を背負う代わり逃げた狼を手に入れる。悪い話じゃないはずだ」 「だから、なあ、そろそろ振り向いてくれてもいいんじゃないか? 私はずっと本気だぞ」 「まさかこの期に及んでまで、それを疑ったりしないだろう」 「ねえよ、そんなこと。俺は今まで一度たりとも、おまえが嘘を言っているとか思ったことは欠片もない」 ただその瞳が、そして輝く信念が、あまりに〈眩〉《まぶ》しく真っ直ぐすぎて── 「俺が勝手に、ビビッて尻込みしているだけだ」 ゆえに今も目を逸らしがてら、窓の外に視線を向けた。 傍にいる女の温もりをどこか遠くに感じながら、突然教えられた真実を消化しきれず混乱と絶望に飲まれている。 ヴェンデッタが語られたままの存在なら、俺は絶対に逃げられない。 チトセの提案に乗った方が良いのかと、悩みながら思考の渦へと溺れていった。 車で送迎されることしばし、俺たちは歓楽街〈区画〉《エリア》へと到着した。 酒場、カジノ、そして娼館――日の光の下に建ち並ぶ建物は夜の魔力を失っており、白々しい雰囲気すらも感じさせる。 そして俺は意気を失ったままだが、今は身体を動かそうと気を改める。とにかく今はチトセの行動に付き合うことで何も考えないようにしたい。 まあ、こいつがわざわざこの場所に来たということは、やるべきことなど一つなのだが…… 「五年たっても?」 「五年経とうとだ」 つまりは帝都に巣食う〈膿〉《 、》の排除。内部調査についてである、と。 まあ見たまま、ここは軍高官の汚職がわんさか眠っており、そしてそれは後を絶たない。俺も現役時代にはここから発覚した売国奴なり暗愚なりを何回首刈りしたことやら。 「ここ数年は景気が好調のためか、歓楽街に出入りする連中も多くてな。それに合わせて流れ込む情報量も倍増した」 「軍部高官といった特権階級であろうとも例外にあらず、通いつめている者もいる。一夜の快楽を求め続ける人間の本能というものだが、しかし」 「たまにはそう見せかけて外と〈繋〉《つな》がる奴もいる」 「後を絶たんよ、その手の輩は」 ゆえにこそ、機密の漏洩などもはや日常茶飯事であり、こうして天秤の人間が取り締まることもしばしばというわけだ。憲兵としての側面が大きく機能した結果である。 それがある一線を超えた場合、俺がやっていたような極秘の暗殺へとシフトするんだが……と。 そうこうしているうちに、イヴが出迎えてくれた。チトセは一歩前に出て軽く会釈する。 「ようこそいらっしゃいました、チトセさん。今日は〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》のご身分で?」 「って――あら、ゼファーくんまで。今日はお仕事?」 「ああ、まあな」 「〈朧〉《 、》として対応するが、畏まる必要はない」 「それでは案内、よろしくお願いするよ。イヴ・アガペー」 その言葉だけは素のままだが、いたって淑女な仕草でそう告げるチトセ。会話の聞こえない通りすがりの人間には、単なる令嬢に見えるだろうという配慮ゆえか。 しかし改めて思うが、そういうのが自然に出来るあたりそもそも名家の出なんだよな、こいつは。サマになるのは〈流石〉《さすが》といったところだろう。 「ゼファーには本日の護衛を頼んでいてね。むしろこちらが不思議なのだが、二人はよもや知り合いか?」 「ええ、よく〈娼館〉《うち》に来てくださる素敵な男性ですよ。ねえ?」 「……そう、だねえ。うん」 「ほう――ほう、ほう、ほう」 と、何か空気が〈僅〉《わず》かに〈ざ〉《 、》〈ら〉《 、》〈つ〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。わぁい、なんだろねこれはおかしいぞぅ。 にこやかに〈頷〉《うなず》くチトセから、そこはかとなく刺さるものがあったような──見た感じは特に変化などないが、何故だろう。生物としての本能が危険であると告げている。 ビビってる俺の様子に気づいたのか、イヴがくすくすと妖艶に笑んだ。あんまりいらんことするなよな、からかっていい相手じゃねえぞ。 「なんだゼファー、やはりおまえの男は枯れてないというわけか。まったく私は嬉しいよ……安心したぞ、ああ心から」 「まあ私はどうこう言いはせん。仕方のない事だと認めている。寛容だからな、許してやろう、ゆえにここは聞かねばならんな」 「イヴ、主にこいつの〈お〉《 、》〈気〉《 、》〈に〉《 、》〈入〉《 、》〈り〉《 、》は?」 「私ですね。あと、大きな胸もお好きかと」 言った瞬間、チトセの視線がイヴの肢体を下から上へと一気になぞる。 雄の欲望を〈掻〉《か》き立てる見事なスタイルを確認して、負けず劣らぬ自分の身体もチェックしてから、〈喉〉《のど》を震わせて肩を揺らす。くくくという笑い声が滅茶苦茶怖い、つうか逃げたい。 「そうかそうか……これはまた、実に複雑な感情が湧き上がって来るじゃないか。ストライクゾーン入っているだと?」 「もしや少女趣味なのか? 妹に手を出すという背徳感がたまらんのか?巨乳の女はいかんのか、片目もないし、ああしかしと──〈煩悶〉《はんもん》した健気な想いは何だったのやら。ふふふはは」 「なあ、ゼファー。おまえなぜ五年前に私へ手を出さなかった!そうすればとっとと自覚できたはずで、万事丸く収まっていたというのに、忌々しい……ッ」 ……なぜ俺に怒るのだろう? ていうか。 「無茶言うなよ、色気ゼロだったじゃん。スパルタすぎてち●ち●うずうずしなかったもん……」 「ええいやかましい、あの頃から胸はあったろうが! たわたわに実っていただろうが! もっと下半身に素直にならんか、ケダモノらしく〈貪〉《むさぼ》れいッ」 「おのれ、かつてない敗北感だ……どこまで私に傷を刻むというのか貴様は」 「あらあら、最近急に女運が上がって来たわねゼファー君。私もそろそろ身体で受け止めるのはお役御免になっちゃうかしら?」 「くぅ、妬ましい……ッ」 何だろう……何かは分からんが、というか理解したくないのだが、さっきから悪寒が止まらん。 ドス黒い怒りのような波動を感じるのは気のせいではないだろう。ほんわかと無自覚に火へ油を注ぎ込んでいるイヴと、俺へ向かいメラメラと情念を燃やすチトセがぶっちゃけ怖い。 綺麗どころに挟まれていながら、これだけ心労が掛かるとはなんという理不尽だろうか。 しばしの間、なんともいえない居心地の悪さを味わうのだった。 と、まあ何だかんだありつつも―― 「……まあいい、気分を変えよう。そうさポジティブシンキングだとも、深呼吸、深呼吸」 「私の身体は奴の欲を十分あおると分かったのだ。そうだとも、悪いことばかりじゃないぞ。うん」 「ふふ、弱い部分と好きなプレイ。後で教えてあげましょうか?」 「ぜひとも」 「やめてよぉッ」 俺のちっぽけなプライドや、性方面のプライベートが思う様〈蹂躙〉《じゅうりん》されつつ…… 事はようやくまとまりを見せ、互いに意識を切り替えた。いわゆる仕事モードというやつに。 娼館内の一室に案内されてから、チトセはイヴから薄い冊子のようなものを受け取った。恐らくそれがこの歓楽街における閻魔帳のようなものなんだろう。 寝物語で漏れた情報、不正の数々、それら表に出せない情報を元に不穏分子どもをしょっ引いていくというわけだ。 そして本来なら、これでお仕事は終わり。そのリストを頼りに手順を組み立て、市井への刺激が強くならないよう幾つかの案を出し、〈裁剣天秤〉《ライブラ》の中から適任者が選択される。 こいつは暗殺、こいつは潜入、こいつは交渉というように……と。 「……?」 思っている時、〈微〉《かす》かに耳元へ聞こえたのは虫の羽音だったろうか? なぜ娼館内にと俺が不思議に思っていると…… 「さて――それでは行きがけの駄賃といこうか」 「立て〈銀狼〉《リュカオン》、景気づけに一人ほど狩っていく。手伝うがいい」 どうやら〈向〉《、》〈こ〉《、》〈う〉《、》からお越しくださったようだぞ、と。言われて〈反響振〉《ソナー》で探知を掛けてみれば、ああなるほど。 ちょうどお隣の一室から、それらしいごそごそとした動きがあった。 経験則から後ろ暗い動きをしているなと悟る。なにせいそいそとトランクに〈紙〉《 、》〈の〉《 、》〈束〉《 、》を詰めているのだ。明らかに女へ渡すという感じじゃない。 「では、後のことはよろしくお願いいたします」 「了解した」 そして歓楽街の母からも切られたとあれば、もはや逃げ場所も消え去った。 隣の部屋に堂々と踏み込めば、そこにはぎょっとしたような男の姿。つかつかと歩むチトセが前に立ち、〈獰猛〉《どうもう》な笑みをたたえて正面から〈睥睨〉《へいげい》している。 擬態を捨てて放たれる覇気。服装こそ違えども発する圧力は〈些〉《いささ》かも衰えてはいない。 「なッ、なにかね君は! 指名の押し売りならよそでやれッ」 「私は今からクラリスと甘い時間を過ごす──」 「いやいや、そういうのはいいんだよ。アンタルヤの十氏族が一つ、マドロックの鼠さん?」 〈不遜〉《ふそん》なその一言で、男の身体がびくりと跳ねた。 傍から見てればまさに蛇に〈睨〉《にら》まれた蛙だ。もう勝負は決まっているなと、予定調和の続きを眺める。 「悪いが、もうとっくにバレているんだよ。おまえとその愛しい女、揃って奴らの息がかかった売国奴だと既にこちらは掴んでいる」 「今日は娼館で〈情報収集〉《オシゴト》の傍ら、運用資金の横流しといったところか? ああ、分かるぞ。家族が軒並み戦死するのは悲しいことだ。国から保障が出たとしても以後の稼ぎが不透明なら不安になるのも仕方ない」 「しかし、だからどうした。身に余る借金を作ったのは貴様の不徳が成すところだろう。情状酌量の余地はないな」 「くッ、退け……!」 視線だけで圧されることがついに耐えきれなかったのだろう。隠していた刃物を持ち出し、無謀にもチトセを刺そうとする。 対して〈裁剣〉《アストレア》は嘲笑を浮かべながら、〈怯〉《ひる》まず不動。そして一言。 「──じゃれろ、〈銀狼〉《リュカオン》」 「あいよ、っと」 〈上〉《 、》〈官〉《 、》からの命令を受けて、飛び出し一発。ナイフを飛ばして、腕をぐりっとねじ上げる。 「が、ぐぅッ──!?」 そしてそのまま体重をかけてしまえば、一丁上がり。 「捕縛完了。ついでだ、〈落〉《 、》〈と〉《 、》〈せ〉《 、》」 「〈了解〉《ヤー》」 そのまま頸動脈を軽く絞める。びくりと一瞬〈痙攣〉《けいれん》して、呆気なく国賊はお縄についた。 本人からすれば不幸だろうが、まあこのくらいで済んで良かったなと個人的には言ってやりたい。おまえ相当ラッキーだぞ、なんせ帝国一恐ろしい女に歯向かってこれなんだから。 後は軍に捕えられ、流した情報を搾り取られてさよならだろう。未来は灰色かもしれないが自業自得だと納得してもらいたい。 振り返れば、そこには少し満足そうなチトセがいて。 「捕縛術も衰えてはいないらしいな。結構だ」 「お誉めに〈与〉《あずか》り恐悦至極でございます」 簡単なものではあるが、共に任務をこなしたような気分になった。 なんだか今だけは昔に戻った気がしたから、それが愉快で二人は小さく笑うのだった。 それからは、呼び出した憲兵へと内通者を突き出して…… 軽い事後処理をチトセが行った後、俺たちは大通りを歩いていた。 車による送迎を使わず二人だけで暗くなった帝都を進む。既に人影はまばらで、肌を撫でる夜風が心地良い。 「今日はありがとう、付き合ってくれて嬉しかったよ」 結局、今までチトセは俺を拘束しようとはしなかった。 敵対するそぶりさえ見せず、こうして彼女の一日に付き合わせただけ。それどころかヴェンデッタの真実や、俺が泳がされているという現状まで伝えてくれた。蓋を開けてみればこちらが助かることばかりである。 本当に、分からない事だらけだ。 「礼を言われても正直困る。俺がいる意味なかったし、そもそもこんな任務自体、新参に任せるレベルのものだろう? おまえが出張るものじゃない」 「それについては確かにそうだが、今回はおまえと会うための口実だよ。それぐらい分かってほしいな」 「あと、反論させてもらうなら常に軍部は人材不足だ。今も昔も、どの部隊も、正確に言うのなら〈数〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》増えても意味がない」 「肥大化していく領土、結託していく近隣諸国、〈星辰奏者〉《エスペラント》によって一部の質は飛躍的に高まったがそれでもまだまだ問題だらけさ」 「総数五百の〈星辰奏者〉《エスペラント》が味方について決するほど、戦争とは甘いものか? 〈星辰奏者〉《エスペラント》になるべく仕官したのに夢破れた一般兵は、高い練度を保ってくれるか?」 指摘に対して俺は沈黙を返す。そしてそれこそ、チトセの言葉を肯定していた。 数に資源に気候に地形、おまけに運。勝敗に関わる要素はそれこそ無数にあるものだし、夢や憧れにつられた者が優秀な兵に育つというのも難しいという話。 実際、〈星辰奏者〉《エスペラント》になった〈途端〉《とたん》デカい面する〈新兵〉《ルーキー》と古参兵の間で〈軋轢〉《あつれき》があるパターンも多い。 ヴァルゼライド総統閣下が直々に治めている帝都はともかく、地方軍はよりそれが顕著な傾向として表れるのを遠征先でよく見たものだ。 まだ世に出て十年ちょっとの新技術、問題はまだまだ随所に眠っている。それら発生する〈軋轢〉《あつれき》の原因を理解した上で軍という組織にうまく貢献できる者たち、というならば確かに人材不足だろう。 能力、精神、それら複数の要素を含めた上でいうのなら優秀な人間は軍のどこにも足りていない。 それは選りすぐりの精鋭たる〈裁剣天秤〉《ライブラ》であったとしても、例に漏れはしないのだろう。 「人狼の抜けた穴は、今をもってなお埋まっていないというところさ。苦労しているよ、実際」 「そこはあの女がいるだろうが。俺と違って従順だったぞ、あれ」 「確かにサヤは優秀だが、あれはまだまだ脇が甘い。不測の事態、例外、邪道……それらに対する経験値が圧倒的に足りないのさ。なまじ何でも出来てしまった弊害だな」 「だから早い内におまえとぶつけて良かったよ。まったく、人を育てるのには手間がかかる。〈祖父様〉《おじいさま》には今となっても頭が上がらん気分だな」 「まあ、ヴァルゼライド総統閣下ほどの軍人であるなら、あらゆる面でも一人でも事足りるのだろうがな」 「護国の英雄様と比べても仕方ねえだろ」 あれは紛うことなき〈英雄〉《バケモノ》だ。魔星と同じ、俺たち人間と並べていい存在じゃない。 「そうだな、彼の星はそれほどまでに突き抜けている。ゆえに私はこう思うのだ──英雄とあれら魔星は果たして何か違うのかなと」 つまり、俺と同じことを疑念として抱いていると…… 口にする神経は見事もなものだが、しかしそれはチトセが言っていい言葉じゃないのも事実だった。 「いいのかよ、んなこと言って」 「構わんさ。当の本人から許されていることでもある。実際、おまえも薄々と感じていたことだろう? あの男は〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈直〉《 、》〈ぐ〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈て〉《 、》〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈お〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》」 「ヴァルゼライドは傑物だ。国を悲劇の淵から立ち直らせた、軍の腐敗をも一掃した。彼の導きのもと帝国は今後も繁栄を続ける事だろうが……」 そこで一度だけ、言葉と視線を切りながら。 「奴の行動にはどこか妄執じみたものを感じることがある。あの大虐殺の勇姿を見て、おまえもそうは思わなかったか?」 さあな、と俺は独りごちる。その手の話を振られても、凡愚である俺に言えることなんざありはしない。 〈大〉《 、》〈衆〉《 、》〈に〉《 、》〈と〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》〈英〉《 、》〈雄〉《 、》〈像〉《 、》だなんて、五年前に起こった災禍と、未だまともに向き合うことすらできていない俺が言っていい言葉じゃない。 選ばれた存在であるチトセたちとは違うから、本音を内に閉じ込めた。 そして言いたくないというその意思表示を、チトセは苦笑しながら眺める。長い付き合いがゆえ誤魔化すのは通じない。 「口を〈噤〉《つぐ》むのもいいが、いつまでもそうしていられる訳ではないぞ。なあ、帝国一の重要人物」 「おまえは永久の眠りからあの少女を、〈死想恋歌〉《ヴェンデッタ》を目覚めさせた。そこには必ず何かがあるし、少なくとも総統閣下はそう見ている」 「もう無関係ではいられないのさ。おまえが望む望まないに関わらずな」 だから? 選べって? おまえもまた逆襲しろと、あいつみたいに言うのかよ。 「どうして、俺なんだ……」 ゆえにそれが分からない。神様がいるのなら配役を間違っている、分不相応が過ぎるだろう。 「だってそうだろ。どっからどう見たって俺は情けない人間だ。何かが多少は出来たとしても、英雄と同じステージには〈辿〉《たど》り着けない凡人なんだよ」 「ならば己の宿命を放棄して、私に彼女を明け渡すか? こちらとしてはそれでも一向に構わんぞ。彼に対するカードが増える」 「そして────おまえが手に入る。それを問うために今日という日があったのだから」 「んなこと言うなよ、こんな俺に……」 差しのべられた手は、そして威風を備えた姿は、涙が出るほど昔のままだ。〈眩〉《まぶ》しくて輝かしい、人の上に立つべき器。 だからこそ痛いんだ。 「〈勿体〉《もったい》ねえよ、誰が見たって。おまえは凄い女なんだ」 「尊敬しているのは嘘じゃない。今でもずっとその在り方に憧れてるし、償いたいと思う気持ちもちゃんとある」 あまりの強さを前にして恐れたり、自虐に走りはしたけれど。憎んだり嫌ったりした覚えは一度もないんだ。 もう一度来いと言われて、頷きたいという想いすら心の中にはいくつかあった。 けれど── 「チトセ、おまえ〈重〉《 、》〈い〉《 、》んだよ」 家柄も、容姿も、強さも、目指す未来の尊さすらも。常人では手の届かない隔絶した超重量を秘めている。 大きな責任、大きな意志に、夢希望……それを抱いて歩む苦難についていけると思えない。 だからチトセを背負えもしないし、共に進むことも出来ない。以前そうなったように卑小な器を備えた俺は砕け散り、もう一度こいつのもとから離れようとしてしまうだろう。 「もしもおまえが今より身軽な女だったら……」 俺たちは、今頃どうなっていたんだろう? 〈裁剣〉《アストレア》でなければ。アマツの生まれでなければ。強く真っ直ぐな格好いい女じゃなければ、はたして…… 単に憧れもせずやはり傍を離れただろうか。それとも逆に、丁度よい重さだから今も隣にいただろうか。 訪れることなど有り得ない、ただ空虚な夢想が頭を過ぎる──そんな俺の独白を聞きながら、チトセは柔らかな笑みを浮かべた。 「……未練だな。本当に、早く素直になっていれば」 ぽつりと〈呟〉《つぶや》いた言葉はか細く、聞こえず。 自嘲するように口元を小さく歪めて、顔を上げた。 「あの日、炎の中で私が行かないでと口にしたら……」 「何も強がらず、正直な心で傍にいてと言えたなら。ゼファーは私のもとに残ってくれたか……?」 失われた右の瞳を、そっと前髪越しに撫でつけながらチトセは問うた。 それは過去には戻れないことを理解した上の疑問で。 どちらを選ぶかなど、その時に戻ってみないと分からないけれど…… 「選んでいたかもしれないな」 大虐殺の以前、それまでの間に俺とおまえがもっと互いに信じあっていたならば……あるいは。 あのような結末はなかったのかもしれないと思う。その気持ちは、きっと間違いじゃない。 「そうか――」 「ああ、感謝するよ。未練が一つ晴れたみたいだ」 それは花のほころぶような笑顔で。 チトセは嬉しさを隠し切れない表情をたたえたまま、俺にそう告げるのだった。 「――それでも、ないと思う」 仮の話だから分からないが、俺がおまえの強さを信じている以上、恐らくその言葉に〈唖然〉《あぜん》としてしまうんじゃないかと思う。 行かないでなど、チトセが言うはずはない。あいつなら切り抜けられると、信頼の感情で本気にしないと感じるのだ。 力を信じているからこそと……予想した未来さえ、なんという皮肉さだろう。 「こういう時だけはっきり言うんだな、おまえは」 「仕方ない。連れない男を振り向かせるのも女の醍醐味というものだ」 どこまで本気か分からないチトセの言葉を聞く俺の感情は、なぜか晴れず。 俺はどうしようもない〈寂寥〉《せきりょう》感に襲われるのだった。 そして――束の間の逢瀬も終わり。 直接的な調査、という名目が切れる。懐かしい時間はここまでだ。 「早々死ぬなよ、ゼファー。おまえが生きているだけで場が動く」 「私が英雄の真実をあばく日まで、しぶとく生き抜き続けるがいい」 「努力するさ。俺だって死にたくない」 短く告げたチトセは、そのままドレスを翻して夜の闇へと立ち去った。 残された俺は不甲斐なさに拳を握り締める。胸が痛いのはどうしようもない切なさから、それに気づいて小さく笑う。 「ああ、そうか──」 悲しい? 辛い? 当たり前だろ、だって── 「あいつもまた、俺が生きてきた〈人生〉《かこ》なんだから」 〈寂寥〉《せきりょう》感に包まれながら夜空を見上げた。 見ていたのはお星さまだけ。淡い輝きを見せる月と〈第二太陽〉《アマテラス》を見て、しばし感傷に浸る。 「おいおいおいおい、見たぞゼファー。なに〈黄昏〉《たそが》れてやがんだ、ええ?」 「──のわッ!」 と、急にかけられた言葉に反応して飛び退けばそこにはおっちゃんがイイ顔しながら立っていた。 にやにやと言う顔は口以上にものを言う。おおかた、甘酸っぱいストロベリー展開があったのかと勘違いしているのだろう。野次馬そのものという表情をしてやがる。 「いいとこの〈別嬪〉《べっぴん》さんと話し込んだりしちゃってよう? 見たところいい感じだったじゃねえか、このこの」 「ミリィちゃんに強力なライバル出現ってところか? まったく隅に置けねえなぁ、この無職は!」 「だーッ、もう、んなわけねえよ! ロマンスなんてあるかっつうのッ」 「まったまたぁ」 バシバシと背中を叩くおっちゃんからさっさと逃げるが、この顔だと全然信じてねえなこりゃ。 当分これでからかわれそうであるのにため息をこぼす。できればミリィとかヴェンデッタ、主に双子の駄ウェイトレスに黙っていてほしいのだが……無理なんだろうなぁきっと。 「……で? おっちゃんは何だよ、買い出し?」 「おう、ちょうどチーズが切れたんでな。うちの二人に金渡してもまともなもん買って来るとは思えなかったというわけでな」 「まあその辺はともかく、腹減ったろゼファー。丁度いいからうちに来な。さっきのご令嬢とどこまでいったか、きりきり話してもらうからな」 「へいへい、刺したり刺されたりした仲ですよと」 「お、おおぅ……中々ヘビーな関係だな。刃傷沙汰はいかんぞマジで」 安心するがいいおっちゃんよ、主に刺されるのは俺だけだから。 などと、そのままいつもの調子で気安く雑談を重ねていく。それは生温いやり取りで、先ほどまでチトセと交わしていたやり取りと違って非常に軽い。 それは居心地がよく、ゆえに今さら失えない。 ヴェンデッタの重要性、そして自分の置かれた立場、そしてそれを狙う者。複雑に絡み合う危険を分かった上で動けない。五年もあれば大切なものは当然できているわけなんだ。 その上で、これからどうするべきなのか。 連中のいう観察期間、それが終わってしまった時に── 「何が始まるんだろうなぁ……」 ──たぶんその時、〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》。 運命という名の断頭台を予感しながら、それでも今は優しい安寧に身を任せるのだった。 訪れる苦難の直視を避けるように。ただどこまでも、凡人らしく……  もしもおまえが今より身軽な女なら、と──  告げられたその言葉を思い出して、脳裏をよぎるのは過去の悪夢。  それは五年前より以前。  あいつ〈曰〉《いわ》く、チトセ・朧・アマツが〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》決定的な瞬間だった。 「──────」 「見事だ、チトセ……これよりおまえに〈裁剣天秤〉《ライブラ》を託す」  その情景を、自分はきっと死ぬまで忘れないだろう。  振り抜いた刃から滴り落ちる鮮血を。  胸に去来する喪失の感触を。  そして眼前に転がる師父、敬愛する祖父の上半身と下半身が泣き別れたその姿を。 「なん、で──」  それは、部隊長継承の儀式。  祖父が定めた〈裁剣天秤〉《ライブラ》を継がせるための最終条件であり、内容は非常にシンプルなもの……だったはず、だ。 「どうして、このような──」  視覚、触覚、聴覚、嗅覚、味覚――五感すべてを薬品により極限まで鈍らせながら、かつその状態で迫る敵を返り討て。  試験場所は森の中、暗闇から襲撃する者は一人。  それに勝ちえた時こそ、すなわちおまえは後継者として完成すると。  敬愛する祖父は、この人は、言って、それで──  自分はそれを完璧に成し遂げてしまい、ああ── 「──〈祖父様〉《おじいさま》ッ!」 「大切な、ことだろう? 親兄弟とて切り捨てなければならぬ時があるということ…… そして、過ちを犯しても進まねばならぬということは、いつの世も……ぐっ、ごほッ」 「おまえは、正しいものを常にこよなく愛するが……正しいものがいつだとて、世を輝かせるとは限らんのだ……  正当で、素晴らしく、しかし〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》というものが世にはなんと多いことよ…… 逆に毒であっても救いになることばかり……ふ、ふふふ。まったくこの世はおかしいのぅ」 「わ、分かりません……あなたが何を言いたいのか」  正しいのは駄目? 間違いでも選べ? だから今こうして血縁殺しを経験しても前に進め? なんなの、それは──  今までとはまったく異なるその言葉を、どれも受け入れることはできなくて。 「分かりたくなど、ありませんッ」  叫びながらかちかちと歯を鳴らして〈嗚咽〉《おえつ》を漏らす。  大切なのだ。今もそうだ。なのにこんな、どうして──どうして。  頭を埋め尽くすのは疑問の乱流。自分は何かを間違ったのか? どこかで何かを見落としたからこうなった?  きっとそうだ。  なぜなら、自分は儀式に気づかなかった。  事前に察知できなかった、それは明らかなミスじゃないか。  間違った、正しくないのだ。それは真っ直ぐでも光でも正義でもない。どうしようもない間抜けな過ち。  だから、だから、だからだからだからと──己を責める孫娘に祖父はそっと小さく笑った。  手間が焼けるというように。そして、これが最後だという風に。 「──今から大切なことを伝える。忘れるな、チトセ。  人には必ず、己より正当で、〈且〉《か》つ強大な正義を相手に立ち向かわねばならぬ〈瞬間〉《とき》が訪れる」  正論こそが最も人を傷つけるのと同じ。正義を歩む者は、その正しいという痛みに耐えられる者たちしか救わない。  ゆえに手段や組織、社会を守るためには間違っていても貫かねばならないと常に正しく在ろうとした後継者に彼は語った。  それこそが、人間にとって訪れる最大の試練であると師は締める。  ならばこそ、いつの日か── 「おまえがその時、おまえだけの〈正義〉《わがまま》を掴めるよう……地獄の淵で祈っておるぞ」  その時は、言葉の意味なんて何も分からなかった。あまりの悲しみに内容を忘れない事だけが精一杯で。  正義、〈正義〉《わがまま》? 何なのだろう、それは。個人的な見解を押し通すことは我欲だろう、どこも正しくないじゃない。  分からないの祖父様──だからお願い、行かないで。  まだこんなにも未熟だから、あなたの薫陶が必要なんです。  これだけでもう折れそうなのだと、伝えたいのに、もはや命は風前の灯火だった。アマツの祈りであったとしても〈大和〉《カミ》は何も聞き届けない。  そして、奇跡はついぞ起こらずに── 「さらばだ、チトセ。我が自慢の、孫娘よ……  これでおまえは、帝国を守る裁きの……つる、ぎ────」  肉親としての愛情を最後に告げ、祖父は安らかに瞳を閉じた。  もはや二度と目覚めない。  大切なこの人は、もう二度と。 「────っ、ぅ……うぅ、あっ  あぁ、ああっ、あああああアアアアアアアアアアアアアアッ!!」  ……天へと響く少女の断末魔、子供の時間が死んでいく。  これからは隊を率いる者として、そして何よりたった今死んだ祖父に〈相応〉《ふさわ》しい存在として在らねばならず。  〈斯様〉《かよう》にして私は、天秤の座を継承した。  心に深く刻まれた埋められない裂傷と共に。  以後、私は剣であろうとする。  祖父に報いなければならないという感情が一種の呪いとなったのだろう。ある種の強迫観念が刻み込まれたせいか、言動に余裕がなくなっていったのが自分でもよく分かった。  そう、自覚は出来ていたのだ。しかしそれでも改善には至らない。  結果としてそれは〈相棒〉《ゼファー》との不和を招き始め、徐々に互いの心的距離は離れていくことになる。  少佐の階級を与えて副隊長へ任命したが、それでも溝は埋まらない。  むしろある一つの要素を支点として、より亀裂は広がり始めるのだった。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》のトップに立つということは、当然今までと視点が変わる。それはつまり帝国内部の権力闘争、血統派といわれる特権階級の実態を目の当たりにするということだった。  今の自分から見れば、苦々しく感じつつも泳がせた後で順次不正を暴いたり逆に利用するなどと〈強〉《したた》かな対応も取れたろうが…… 「ふざけるなよ、貴様ら」  当時の自分は許さない。そうだ、認められるはずなかった。  祖父が守っていた帝国の一員たる貴様らの、その姿はいったい何だ?  正しく生きろ。真っ当に進め。光を拝して民を照らせよ。それが貴様ら何を我欲に浸っている、と──  青臭い義憤に頭の中は白熱して、勘違いしたまま祖父の言葉を思い出す。  それを正しい権利などと宣するなら、私の抱く〈正義〉《わがまま》で腐敗を根こそぎ誅してくれると。  ゆえに日々、裁きの剣を振るい続けた。〈僅〉《わず》かでも汚い部分が見えたならば容赦はしない。  時に強引とも取れる手段さえ〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく行いながら、どんな闇をも逃がすものか。アマツであろうと例外なく、断頭台へと送り続ける。  だから、馬鹿な自分は気づかない。  その休みなく続けられる内部粛清の嵐に〈実行者〉《あいぼう》の心がどれだけ擦り切れていったのか……  繰り返される暗殺の連続。流される血の運河。それが如何に彼を追い込んでしまったのか、ついぞ解する機会もなく時は流れる。  そして私は〈邂逅〉《かいこう》した。〈同〉《 、》〈じ〉《 、》〈志〉《 、》〈を〉《 、》〈抱〉《 、》〈く〉《 、》〈同〉《 、》〈胞〉《 、》に、ここで初めて出会ったのだ。 「協力を求めます、〈裁剣〉《アストレア》殿。軍の腐敗をこの手で一掃するために」  改革派の筆頭──始まりの〈星辰奏者〉《エスペラント》、クリストファー・ヴァルゼライド。  当時の彼は大佐であり、大将である自分には本来声をかけられるような階級差ではなかったものの、そんなことなど気にならない。むしろその眼光を見た瞬間、奴との同盟をすぐさま決断したほどだった。  この男は、決意と呼ばれる概念が結晶化したような存在である。  血統だけで高い階級を保っている愚図などとは役者が違う。  そんな傑物と手を組めたことは、むしろこちらからも歓迎すべき展開だった。  何より、ヴァルゼライドと出会ったことで自分の信念はより強固なものになっていく。  このような男が、なぜ大佐程度に収まっているのだろうか。  スラム出身? 卑賤な血? 馬鹿を言え、この意志力を見てなお貴様ら、権力の椅子にしがみつくというのか阿呆共。  救えないにも程がある。  ならばやはり、連中は裁かれなければならない。  軍全域に能力による正当な評価システムを敷き、〈名家〉《コネ》や〈貴種〉《アマツ》が優先される現状を正す。  そう息巻いた果てに、我々は……  いいや、〈私〉《 、》は一つの大きな過ちを犯してしまった。 「近々、我々を〈睨〉《にら》む血統派の重鎮たちが何らかのお披露目を内々に行うようです。恐らくは自分への当てつけでしょうが……」 「利用しない手はない、か」  ヴァルゼライドは〈星辰奏者〉《エスペラント》という新技術を帝国に確立させた。それが彼に向けられる改革派信仰の柱、その一つであるのは間違いない。  よって連中もまた、同等の研究成果を持ち出すことでの箔付けを狙ったのだろう。いずれ〈星辰奏者〉《エスペラント》を無用にする新合金がどうだとか、内容は眉唾物ではあったのだが……  ともあれ、それが連中を一網打尽にする絶好の機会であるのは違いない。  よって自分とヴァルゼライドは、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》に大規模な粛清計画を秘密裏に打ち立てる。  そう、そして〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》──  五年前の惨劇、〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺。  本来は事故に見せかけて腐敗した権力者を誅殺するはずだったあの日は、魔星の襲撃により想定を遥か上回る地獄へとその姿を変貌させたのだった。  何もかもが予測から離れ、味わったのは敗北の痛みだけ。  片目を失い、あいつを失い──そこで二度目となる喪失の絶望が私の憑き物を洗い落としていった。  ああ──行かないで、お願いゼファー。  ごめんなさい、私はどうしようもなく馬鹿だった。  祖父が死んだ悲しみに暮れてばかり。それでもあなたはずっと傍に、近くに居てくれたはずなのに。  沈みゆく太陽を見つめてばかりいたせいで、後ろで昇る朝焼けに気づかないまま失った。  彼に一度でも本音を語って泣きついていたら、どうなっていただろう。  自分たちは結ばれていただろうか。それともやはり、重いと一蹴されただろうか。  彼もあれだけ傷ついて、失うことはなかったろうか……  後悔は汲めど尽きぬ海が如く。今も胸にある〈傷痕〉《きずあと》と共に心の内で血を流している。  ──そして、ならばこそ対称的に不信の芽生える者が一人。  血統派の粛清を願った、同じ共犯者。  あれを機に唯一のし上がったヴァルゼライドを、自分はどうしてもただの英雄と仰ぐことは出来なかった。  奴には必ず何かがある。  そう判断する最大の、そして自分だけの知る真実をこうして胸に刻んでいる。  光一つなく、人影のない深夜に研究室で〈蠢〉《うごめ》く影──  人知れず情報を閲覧しているのは、〈深謀双児〉《ジェミニ》隊長たるシン・ランスロー。  まるで中将とは思えぬほど焦燥した顔つきで、必死にばら〈撒〉《ま》いた紙面内容を記憶の海へと刻んでいた。 「違う……これも違う……」  〈呟〉《つぶや》きながら髪をがりがりと〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》る姿は、苛立ちを隠せていない。  鬼気迫る様子から〈伺〉《うかが》えるのは切羽詰まっている内心だった。  〈急〉《せ》かされているのは恐らく使命感ゆえにだろう。なんとしても事の裏を探るのだと、その表情が物語っている。  脳裏をよぎっているのは先日行われた会議でのやり取り。  極秘裏に搬送していたのは分かった。察知した別勢力が襲撃に来たというのもいいだろう。そして中身であるマルスを、チトセら天秤が引き受けたということも。  後にスラムで馴らし運転と戦闘評価を行なったというのも、一応であるが筋は通る。しかし── 「アレはおかしい。〈余〉《 、》〈白〉《 、》がある……」  あのターミナル襲撃があって一週間、不自然な空白期間が存在しているのがランスローには気にかかった。  先の事件からスラムでマルスの姿が確認されるまで、チトセが〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》を〈執拗〉《しつよう》に探していたのを掴んでいたのだ。  マルスを極秘に受け取ったというのであれば、それは何だ? 何を探そうとする必要がある? 「それに、確か〈魔〉《 、》〈星〉《 、》と……」  対してこちらは勘のようなものだが、総統が〈マ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ス〉《 、》と呼称しなかったのが気にかかる。  あの場、あの時にそう言ったなら間違いなく鋼の鬼面を指してだろうが、しかし何かが気にかかった。  ゆえに今、ランスローは真実を求めて危ない橋を渡ろうとしている。  下手にバレれば帝国への〈叛意〉《はんい》と取られ、階級が剥奪されてもおかしくない。しかしそれでもそうせずにはいられないのは、やはり故国を思うゆえだった。  それは誰にも明かしていない彼の本心。  ただ〈粛々〉《しゅくしゅく》と形にしてきた、行動指針のすべてであり── 「──〈流石〉《さすが》だよ、ランスロー殿。やはり貴官は侮れんな」  ならばこそ、背後から響いた声は死神の拍手に等しかった。 「ご安心を。ここにいるのはご覧の通り、わたくしたちだけ」 「────ッ」  大声を放ちかけた口が、背後から伸びた少女の腕で塞がれる。  いつの間にいたのだろうか……サヤはランスローの背後を取り、そっと指先を立てていた。  しぃ、と微笑むその仕草は実に可憐で、ならばこそ恐ろしい。  彼女がその気になっていてれば、彼は自覚することなくそのまま死んでいただろう。 「そう驚かしてやるな、サヤ。まあともあれ……貴官の危惧も当然か」  ちょっとした部下の茶目っ気をたしなめながら、チトセはランスローに近寄っていく。〈微〉《かす》かに響く足音が闇に浮かんでは消えていく。 「何もおかしなことじゃないさ。私と閣下は、共にその手腕を買っている。その〈内〉《 、》〈実〉《 、》も含めてな…… ゆえ、単刀直入にいこう」  そして、彼へ向かい手を伸ばす。  ゼファーに対して見せた柔らかさなど〈微塵〉《みじん》も感じさせぬ、鉄のような冷たさと覇気の圧力を〈纏〉《まと》いながら。 「ランスロー殿、私と組むつもりはないか?  こちらが貴官以上の事情通であるというのは、今さら語るに及ばんだろう。しかし未だこの通りでな。  全貌の解明には遠く及ばん〈体〉《てい》たらく。となれば当然、協力者が必要だろう? それもとびきり優秀な」 「〈裁剣〉《アストレア》殿――」  つまりそれは、共犯者の勧誘に他ならず。  同時にランスローにとってもまた、現状を打開しうる蜘蛛の糸に他ならなかった。 「ともに解明しようではないか。貴官にとっても悪い申し出ではあるまい?  何よりこのままでは、おまえ〈些〉《いささ》か困るだろうが──なぁ?」 「……何のこと、とは言えませんか。やれやれ」  揶揄するような声に対してランスローは肩をすくめた。それはまさしく白旗の合図であり、彼女の提案に乗るということの返事でもある。  無論、それは利害の一致ゆえという理由もあるが、もっと切羽詰まった事情もまた深く絡んでいるものだった。  何よりここで拒否すればどうなるかなど、それこそ答えは一つだろう。背後を取っている〈少女〉《サヤ》が恐るべき暗殺者に早変わりして、冷たい死体になるだけだ。 「──いいでしょう。毒を食らわば皿までと」  眼鏡の縁を軽く押し上げ、顔を上げたランスローは普段通りの精神状態を取り戻していた。  その胆力、やはり彼も一部隊の隊長だということだろう。予測外の事態に一々驚いているようでは彼の仕事は務まらない。 「聞かせていただきたい、〈裁剣〉《アストレア》殿。あなたの掴んだ真実を」 「〈吼〉《ほ》えたな? いいぞ、途中下車はもう効かんが」  承知の上だと、微笑みながら〈頷〉《うなず》く返答。  英雄という強固な光の裏側で、その輝きに疑問を呈する者たちもまた水面下で結託していく。  ヴァルゼライドという光源の奥に潜むものを、それぞれの理由であばくために。 「などと、〈裁きの女神〉《アストレア》は包囲網を構築中。憐れ光の英雄は、守るべき者たちに手を噛まれている次第だが……  試さなければ可能性は零だとしても……果たしていったい、あの男へ策がどこまで通じるものやら」  闇の底、人に在らぬ者たちもまたそれを受けて動き出す。  そう、人間が小さいからとて大きなものが無関心なわけではないのだ。  昆虫の営みに興味を抱くかのように、彼らもまた事態の移り変わる様を心待ちにしているがゆえ。 「御命令とあらば私も接触いたしましょう。さすれば誘導も〈容易〉《たやす》いかと。  所詮は人、しかし奴には有効でしょう。上手くやれば寝首をかけると愚考しますが」 「まあ、そう〈逸〉《はや》るな。おまえ達」  同胞、いいやこれは〈臣〉《 、》〈下〉《 、》に向けてか。最も傷ついた姿である上位個体は具申する彼らを鷹揚にたしなめた。 「よかろうよ、好きにやらせてみればいい。我々に必要なのは恐らくそういう〈雑〉《 、》〈多〉《 、》さだ。 奴か、己か、その構図では何も動きはしなかった。そう、何も……  万事が万事、思い通りに進むなら〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈達〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》」  そうだ。聖戦が発動していれば、〈彼〉《 、》〈と〉《 、》〈ヴ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈運〉《 、》〈命〉《 、》〈を〉《 、》〈決〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》。  しかし、そうはならなかった。それによって〈“ε”〉《マルス》が、〈“ζ”〉《ウラヌス》が生まれるという流れにまで到達している。 「それに実際、想定外の〈吟遊詩人〉《オルフェウス》が我らの幕を上げただろう?」  つまりは何もかもが予想外で動き出したことになる。理由は未だ彼らにとっても不明だが、しかし好転したのも事実だ。  よって今更、それらの是非を問うことは馬鹿馬鹿しいと男は語る。 「ならば良し、歓迎しようではないか。  我々だけでは運命の車輪を回すに足らんらしいと、己はとうに認めたよ」  各々好きにやればいい。人間側に参戦を望む声があるのなら余裕をもって受け入れよう。  結果、マルスやウラヌスがどのような凶行に走ろうとも影は肯定するだろう。  血に惨劇、自由に行え。生きるも死ぬも受け止めて、運命の車輪を回せ。  すべては〈死想恋歌〉《エウリュディケ》を完成させるために。  そしてその先にある聖戦にて、英雄との死闘の先に輝く“勝利”を掴むために。 「もしもの時は〈天霆〉《ケラウノス》の指示を仰げ。今回の件、全て一任してあるゆえな」 「御意」 「それが〈天主〉《カミ》の御心ならば」  ならばこそ、彼らは静かに舞台が完成するのを待つ。それはつまり、あらゆる者が訪れようと歯牙にもかけぬ〈不遜〉《ふそん》であり、同時にどんな事態が起きても構わないという〈傲慢〉《ごうまん》だった。  最後に勝つのは自分たちで揺るがない。  なぜなら魔星こそ、この世で最も〈旧日本の遺産〉《ロストテクノロジー》の純粋技術で誕生した超兵器であるのだから。  理屈の上では〈星辰奏者〉《エスペラント》に敵う道理が存在しない。英雄という例外を除き、彼らは依然最強だった。  その強さ、優性を理解しているからこそ最大限に行使できる。  人類を圧倒するという思いは油断を生むだけではない。己が他とは違うという自負自尊があるからこそ発揮できる能力がある。  この世を〈木端微塵〉《こっぱみじん》に砕きかねない最悪の暴力があるのだった。  それが発揮されるのは、臆病な人狼が再起しようと願うとき。  魔星も、英雄も、あらゆる者が、その日の到来を待っている。  琴弾きが黄泉の坂を降るまで、さあ――あと幾ばくか。  生命の本質とは、模倣と反射だ。  過去に受けた仕打ちを繰り返し反応してみせる映写機、生きた機械といってもいい。  たとえば、虐待の連鎖などが有名な例の一つだろう。  多感な幼少時に親から暴力を浴びて育った者は成長して大人になると、今度は自分が我が子へ拳を叩きつけるようになる。  あれだけ辛く、嫌がり、あんな風にはならないと誓ったはずが気づけば加害者になっているという悲しい現象。  これは一般的に、脳の感情受容体である海馬が虐待により萎縮した結果だと言われている。恒常的に与えられるストレスから逃れるため、他者の抱く悪意──この場合は他人の精神を感じ取れなくなるだとか。  結果、子供が嫌がっているか、いないのか。それを真に理解できなくなる。  相手の心を理解しているつもりであっても、そう信じているのは本人だけ。  傍から見ればまるで焼き直しであるかのように、かつて自分が痛めつけられた光景をそっくりそのまま我が子に対して再現するのだ。  それはある意味、仕方のない話なのだろう。なぜなら当たり前のことだが、人間は学習した事柄から表現の幅を拡張していく生き物だ。  未経験、未体験、そして未知の行動理念であれば、そんなことは当然実行できないし意図さえ容易に読み取れない。笑顔といった感情表現一つさえ、普段から頻繁に浮かべているものと比べればその差は歴然と言う他ない。  愛や優しさを見て育った者は、他者へ慈愛を抱けるよう成長していく傾向を持つが……  その逆、悪意に〈晒〉《さら》されて育った者は、自らそれらを周囲へぶちまけるようになっていく。  実際、〈殺人愛好者〉《シルアルキラー》や〈精神病質者〉《サイコパス》の大半は問題を抱えた家庭環境から製造される事例が多い。意味も理由もなく悪人になるパターンなど、基本的に物語の中に限られる。  誕生した瞬間から殺人衝動を持つといった、気合のある殺人鬼など現実にはそういない。  生命の本質とは、模倣と反射。  傷つけられたから傷つけ、奪われたから奪う。今まで自分が学び育ってきた環境なり境遇なりを忠実に複写することで、人は己が人生を表現するわけだ。  良くも悪くも、まるで鏡か蓄音機のように。  よって、生まれが〈屑〉《くず》な奴はどう〈掻〉《あが》いても〈屑〉《くず》である。  最低の人間性を見てきたから、そういう風に育ってしまう。  底辺という劣悪な教科書をずっと見て成長するのだから、そうなるのは当然だ。醜悪な本性を学習し、無意識下で反射し続ける。  その場の気分で罵り、踏みつけ、唾を吐いてゲラゲラ〈嗤〉《わら》う大人たち。  猫の死骸より濁った目をした、同年代の〈糞〉《くそ》〈餓鬼〉《ガキ》ども。  仲間割れに闇討ちなんかは〈挨拶〉《あいさつ》代わり。気を許した〈途端〉《とたん》、内臓を切り売りされて捨てられる。そんな場所で思春期を過ごした者がどんな人間になってしまうか……今も変わらない〈貧民窟〉《スラム》の姿が、如実に証明しているだろう。  けれど── 「それでも、希望は訪れるわ。だって生きているんだもの」  いつ如何なる環境でも“例外”というものは存在する。  黒から生じる白、塵溜めの中で咲く花、地獄に聖者というように。  いつ如何なる時も極小の確率で発生する奇跡と悪夢は、決して〈穢〉《けが》れない純粋性を〈以〉《もっ》て小さな救いをもたらした。 「今の苦難を嘆くより、訪れる明日の光に小さな願いを託しましょう。  大丈夫、皆で頑張ればきっと出来ないはずがないわ。私の自慢の家族だもの」  そう、その言葉を今でも〈自分〉《ゼファー》は覚えている──いいや忘れるはずがない。  古い記憶の中、輝き続けるささやかな光。  劣悪な環境において一切負に傾かず、そして染まらなかった彼女の笑みはどこまでも気丈で優しく、清らかなものだった。  残飯ですら奪い合い、いがみ合う俺たち〈餓鬼〉《ガキ》が最後の一線で持ちこたえたのは間違いなくあの人がいたからだ。純白の布へ一つでも染みが出来るのをためらうように彼女に恥じないことだけはしないと、誰もが深く戒めていた。  マイナ──皆の母であり、大切な支えであった女性。  彼女はいつでも希望を、夢を、愛を語り、率先してそう在るよう心がけていた。まさに聖母であるかの如く。 「私は待つわ。いつかあの子が、ここへ戻って来たときのために」  時には、欠ける仲間へ心を痛めながら。  皆の悲しみを振り払うように、微笑みながら残る〈孤児〉《きょうだい》を抱きしめた。 「元気でね。病気だけはしないように。あなたの活躍が聞こえるのを楽しみにしているわ」  時には、巣立っていく背を眺めながら。  立身出世を夢見て商国へ発った弟分、その前途を祈りながら我が事のように喜んで、行き先に祝福をくれた。  そして── 「馬鹿ッ、もう、心配したんだから。代わりにゼファーが傷ついたら、私そんなの全然嬉しくないわよ!」  危ないことをすれば、それこそ本気で怒ってくれる。  あなたが大切だからと、溢れんばかりの愛情ゆえに、涙さえ浮かべながら俺たちを叱ってくれたのだ。  それは大人が気晴らしに殴るわけでも、邪魔だから怒鳴るのともまったく違う。胸が熱くなる想いの言葉はどんな強がりも撃ち抜いて、小さな痛みと大きな喜びをもたらした。  抱きしめられた胸の中、どうしてか涙が止まらなかったのを覚えている。  こんなにも自分たちを案じてくれる人間がいることに、ただそれだけで救われた。  彼女がいたからこそ、最後の最後で踏みとどまれた者は多い。  生まれと育ちゆえに大した男ではないとしても、マイナのくれた愛情があったから俺たちはギリギリで人間だった……人間になれることが出来たんだ。  つまりそれは、言い換えれば己の中に確固とした芯があったわけではなく。  ただ一人の女性が持つ強さ、優しさという前提条件ありきの健やかさということであり、省みて見れば家族への依存といったい何が違うのだろうか。  それを子供に当て〈嵌〉《は》めることが酷であろうと、真実の一端であったのだけは間違いない。  ゆえに終点は決まっていた。  小さな楽園の崩壊は、呆気なく訪れる。  それは絶対王政とまったく同じ欠点だろう。どれだけ素晴らしい人物であったとしても、たった一人の存在を軸に機能する集団はそこが欠けた〈途端〉《とたん》、もう終わりだ。一瞬で体裁を保てなくなってしまう。  彼女だからこそ出来た、彼女だからこそ孤児のグループは保っていた。マイナ、マイナ、皆の光──よって語るまでもなく、その〈支柱〉《ぼせい》が消えてしまった瞬間に〈餓鬼〉《ガキ》共の安い絆は瓦解する。  人畜の悪意渦巻く環境では、子供同士の友情や家族愛など半端なそれでは藁の小屋だ。  彼女ほどの優しさでなければ、誰も当然ついてこない。  精神の安定を保てない。  ゆえに、孤児ををまとめる中心人物がいなくなればいとも〈容易〉《たやす》く食い荒らされるし、実際成す術なく〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  マイナ、消息不明。  人〈攫〉《さら》いに目をつけられたか、まるで霞か雲のように彼女は俺の前から姿を消した。  どこなの、姉ちゃん。やだよ置いていかないで、謝るからごめんなさい──と。泣いて叫んでも梨の礫で、しかもそんな弱った〈餓鬼〉《ガキ》などスラムの中では強者の餌だ。  姉の安らぎを忘れられなかった幼子から、順にうまく唆されて櫛が抜けるように後を追う。  見知った顔はバラバラになり、あっという間に闇へと消えた。残っていたのは気づけば最初に、捜索を諦めた俺一人。  またしても小物がゆえに生き残る。  黒から生じる白、塵溜めの中で咲く花、地獄に聖者。そんな抜きん出た例外に頼っていたがゆえの幸福は、実にあっけなく冷たい現実に潰された。  薄情にも、一番早く心が折れた人間が結果的に生き延びるあたり世知辛い。  そして──  マイナの失踪からしばし、台頭した〈星辰奏者〉《エスペラント》という技術により軍の門戸は貴賎の別なく開かれた。  貧困と孤独に耐えきれず、もう〈餓〉《う》えるのは嫌だったから一も二もなく飛びつく自分。  精密検査の結果によって驚くことに強化兵へ、さらに花形の〈裁剣天秤〉《ライブラ》に配属が決まったという驚愕の展開が訪れる。  しかも、次期部隊長が確定している〈貴種〉《アマツ》の美少女と組まされた。  いいぞ、いよいよ運が向いてきたかと喜んだのは一瞬で……都合のいい能天気な精神は、すぐに責務の重圧で粉々に砕かれる。  もとより、先代の〈裁剣天秤〉《ライブラ》隊長に一睨みされた時点でぽきりと折れた。そして苦悩は連続する。  勝つたびに、栄光を手にするたびに、際限なく湧き出てくる次の問題、次の敵、次の次の次の次の──〈勝〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈負〉《 、》〈わ〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈義〉《 、》〈務〉《 、》  止めてくれ、知らなかった。知らなかったんだよ──勝利がこんなに重たいなんて。  程々の、それこそ平均的な暮らしで十分構わなかったのに。泥を噛み続けてきた人生だからありふれた生活を手にするだけで最高なのに、いったいどうしてこうなるのか。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》副隊長という、そんな大仰な肩書きはいらない。  一般の兵から畏怖と憧憬の視線を向けられても、ただ煩わしいだけ。光栄なんて感じるものか。賞賛の声は、地位へ縛り付ける強固な鎖に他ならない。  〈相棒〉《チトセ》は隊長就任を機に対応が事務的になり、信頼関係も冷めていった。  ゆえに心は磨り減って、戦って、戦って、〈挫〉《くじ》けそうな心を壊れる寸前でやけくそ気味に〈繋〉《つな》ぎとめる。  自傷行為を続けながら走り続ける特攻兵だ。救いはどこにも訪れない。  もういい、心を捨てよう。与えられた任務を遂行するだけの機械になりたい……そう願うほどくたびれた果てにミリィと出会い、少しだけ人間らしさを取り戻せて。  訪れた大虐殺の炎で、チトセとの関係を切り捨ててでも、彼女を守ると決意したのに。  〈掻〉《あが》いた結果、自分は英雄と怪物の〈前〉《 、》〈菜〉《 、》に落ち着いた。  結局、蓋を開ければこんなものだ。ゼファー・コールレインというつまらない男に成せることなど、煎じ詰めればこの程度。  性根〈脆〉《もろ》い弱者に何かが出来るほど、世の中は甘くない。  そして敗者に二度目を許すほど、世界は温厚に出来てもいない。  ならばと勝利を手にすれば、栄華と責務が誇りを持てと背へ圧し掛かってくる始末。  かといって逃げたとしても追ってくるなら、いよいよもってどうするべきか分からない。  だから、誰か教えてくれ。“勝利”から逃げる方法を──  俺には無理だ、出来やしないと、〈喉〉《のど》が枯れるほど叫んでいるのに。 「ねえ、教えてゼファー。  間違っているのは気持ちいい? 正しいことは辛いだけ?  満点じゃなければ無価値と、あなたは知らず決め付けてはいないかしら」  無慈悲な疑問提起が〈囁〉《ささや》かれる。  追い詰めるように、慈しむように。愛するように、癒すように。 「痛い、苦しい。だから嫌だ。自分以外がやればいい……ええそうね、代わりがいるならそれも通るわ。  それでも今は、いいえどんな未来においても吟遊詩人はあなただけ。他の誰かに〈死想乙女〉《エウリュディケ》を起こす資格はないの」  だから何だと言うのだろうか、〈対・星辰体感応型兵器〉《アンチ・アストラルウェポン》。  脅威の生きた超兵器。魔星の親戚が人の道理を語るというのか? 笑わせる。  もはや自分は、おまえが何者なのかを知ってしまった。想像を超えた機密の重さに今も潰れそうなのに、唯一の権利とやらを与えられても何かが出来ると思えない。 「ゼファー・コールレインの声でなければ、〈彼女〉《わたし》の〈瞼〉《まぶた》は開かないわ」  ああ、だから? 主役になれと? 「頑張ることで、もう一度立ち上がってみた先に」  素晴らしい未来とやらを築くため? 「そして、今まで歩んできた過去に確たる証を立てるため」  ならばこそ、そんな選択肢は選べない。  因縁の決着。犯した罪の清算。それを行うことを他人はいつも奨励するが、それを実行できる奴がいったいどれほどいるだろうか。  自分以外には訳知り顔で講釈を垂れる癖に、実演できてる人間はそれこそ〈僅〉《わず》か一握り。  痛む傷を見つめるなんて、誰でも嫌だ。御免こうむる。規範や正しさに囚われて生きるのはもうたくさんだ。  ゆえに、はっきりと口にしよう。  “〈逆襲〉《ヴェンデッタ》”なんて、必要ない。  幻想は現実にならないからこそ意味がある。  苦しみながら勝利を喰らい、涙を流して物語を紡ぐ宿命なんて、この世の誰にも存在してはならないんだ。 「〈酷〉《ひど》いわね」 「ええ、〈酷〉《ひど》い」 「私は、ずっと待っていたのに」  けれど──くすくすと、二重の声が心の壁に亀裂を刻んだ。 「その通り。〈彼女〉《わたし》はあなたにそう言ってるのよ、物語の主人公になりなさいと」 「今よりもっと頑張って、見栄を張って、意地を張って。これが自分の最高だと誇りを胸に掲げなさい」 「名誉、信念、友情、愛……どれでもいいわ。あなたという小さな男が、心から本気になれるものならば」 「甘えていいとか言わないわよ? むしろ怠けているようなら、お尻をひっぱたいてあげるんだから」  淑女と少女。母性と雌性。慈愛と悲哀を滲ませて、しかし融合させながら一緒くたにした音色が響く。  不可思議に反響する切ない響きがそこに潜む〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》の人物を、初めて俺へ伝えていた。  そして何故だ、交互に語るその声色を聞くたびに、渦巻く拒絶が雪の如く溶けていくのは……  まるで精神が反転したかのように、安らぎを甘受していく自分が分かる。  意識を優しく愛撫するのはどこかで感じた、小さな安らぎ。懐かしい日常の香りと共に厳しさと愛情が、〈傷痕〉《きずあと》へと浸透していく。 「だから、それが〈彼女〉《わたし》の未練。冥府に堕ちても消えたりしないたった一つの未練なの」 「ごめんね。ずっと、それを伝えることが出来なくて。  あなたの優しさに甘えていた。本当に謝らなければならないのは、ずっとこちらの方だったのよ……」  違う──違う、違うと。それだけは断じて否と叫ぶのだが、彼女は切なく微笑むだけ。  俺の〈未練〉《きず》とまったく同じ。これは誰にも譲れない自分の咎だと語っている。 「だからもう一度だけ、とても当たり前のことを告げましょう」 「貫く信念。〈挫〉《くじ》けぬ正義。輝く勇気。永遠の愛。それは言葉だけの幻かもしれないけれど、手に入れようと歩み続ける行動だけは、誰にも〈穢〉《けが》せない真実よ」  そう、それだけは本物だと自分にもわかる。  たとえ途中で失敗しようが〈嘲笑〉《あざわら》う者こそ無粋。なぜなら傷でも痛みでも、そこには歴史が残るから。  あの日に感じた嘆きに絶望、苦しみの数々は決して嘘なんかじゃない。  そんなこと── 分かっているんだ。 分かっているんだよ、俺だって。  けれど、でも、だから──ちくしょう。定めた理想に追いつかず、頂点を見てしまったことで比較した自分の小ささが嫌になる。悔しさを噛み締めてどうしても〈煩悶〉《はんもん》に身を〈捩〉《よじ》ってしまうんだ。  〈■■■■〉《ヴェンデッタ》、あなたみたいには成れなかったと思わずにはいられない。  誇るよりもまず先に己の至らなさを呪ってしまう、その理由は── 「ええ、あれは私が犯した罪。それがすべての起点だから」 「〈彼女〉《わたし》が死に、〈逆襲〉《わたし》になった。それを清算するためにあなたを導くと誓ったの」  それこそが〈自分〉《ゼファー》にしか成せない業で、過去の呪縛を断ち切るためには必要不可欠な禊だった。  共に裁かれなければならない、二人を〈繋〉《つな》ぐ小さな〈罪過〉《くさり》。  魔星や英雄もそこには決して入ってこれない、過去の領域。あらゆる運命がそこに集約しているならば、罰を下す権利もまた二人の間にしかないのだ。  そしてそれを遂げた時、きっとそこで命は散るだろう。  俺たちの物語は再び始まり、そして終わる。そんな未来が自分にも理解でき始めたから── 「ふざけるな」  俺は絶対に選ばない。勝利など求めるかと、今までと逆の心境から意地を張って突っぱねる。  それでも時は動くと知りながら、駄々をこねる幼子を慈しむように死の女神は〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈分〉《 、》の影を重ねた。その事実が何を指しているのか分かって、その慈悲と残酷さに今更泣きたくなってくる。  嫌だ、行くな。失いたくない。  ああどうして、俺はいつも大切なことばかり気づくのが遅いんだ。  心の何処かで感じていた面影が、慈愛に満ちた口調で確信に変わる。  だから俺は、〈ず〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈ヴ〉《 、》〈ェ〉《 、》〈ン〉《 、》〈デ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈タ〉《 、》〈が〉《 、》〈怖〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》とその真実を理解して── 「運命の車輪が回るまで、あと〈僅〉《わず》か」 「それまでもう少し、優しい日々を過ごしましょう」  過ぎ去ったいつかのようにと、二重の願いを響かせながら。  家族を想う純朴な願いに包まれて、俺の意識は途絶した。  いつものように夢から醒めて……再び訪れる現実に、手に入れた真実はまたも消えてしまうのだろう。ゆえ願わずにはいられない。  どうか、ほんの少しだけ彼女に優しくなれるようにと。さらに続けて、狂うように祈るのだ。  頼む、思い出してくれ──ゼファー・コールレイン。  おまえは何があろうとも、〈逆襲〉《ヴェンデッタ》を遂げてはならない。  もう一度、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》を失いたくないならば…… そして、今日も〈夢〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》…… なのに奇妙な居心地の悪さと共に、寝起きを迎えて食卓に着いた。 「ゼファー、あなたの傍にある胡椒を取って貰えるかしら」 「そんくらい自分で取れや。手ぇ届くだろ、甘えんじゃねえ」 「もう兄さん、意地悪しないの。はい、ヴェティちゃん」 「ありがとう──それに比べて、まったく〈貴方〉《あなた》は幼稚な意地悪をするものね」 「もう子供じゃないのだし、そろそろ〈弁〉《わきま》えてはどうかしら? 女性に頼み事をされた時の態度というものを覚えるべきよ」 「生憎、おまえの召使いになるつもりはねえな」 とかいう軽口も自然と口をついて出る。少し前であれば、ヴェンデッタの姿を視界に捉えただけで本能的な嫌悪感が湧き上がり、他の何も考えられなくなっていたことだろうに。 思えばこいつがこの家に転がり込んできてから、早二ヶ月強か。 そう考えると何ともいえない微妙な気分になってくる 三人で食卓を囲んでの〈朝餉〉《あさげ》もそろそろパターンができていた。ミリィはいつものように甲斐甲斐しく、ヴェンデッタも穏やかな微笑みを浮かべてそれに付き合いながら、たまにこちらを罵倒したり。 ……とてもじゃないが、その姿は兵器とは思えなかった。まして、そう。 「〈対・星辰体感応型兵器〉《アンチ・アストラルウェポン》、ねえ……」 チトセから教えられた事実を、時折ふと忘れてしまいそうになる。それどころか、この頃は奇妙な感覚まで芽生えていた。 眠りから覚めるたびに、〈懐〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》という念が重さを増しているような…… 「じろじろ見ない。冷める前にお食べなさい」 「わーってるっつの」 と、相変わらず当の本人は何を考えているのか分からない存在ではある。おかげであれから、追い出すという決断にまで至らなかった。 つまり現状に流されただけだが、仕方ない。なんせ俺だもんと思いつつ、窓の外へ視線を向ける。 いよいよ〈祝祭〉《フィエスタ》を迎えた本日。まだ太陽が昇ったばかりではあるが気の早い連中はさっそく酒場で杯を傾けていることだろう。 「今日の帝都はさぞ賑やかなんでしょうね」 「ふふ、そうだね。一年に一度のお祭りだもん、この日を楽しみにしてきた人もきっと多いだろうし」 そんな浮かれた雰囲気とあって、〈工房〉《アトリエ》での仕事も今日は休み。店を開けておいたところで、どうせ客なんて来ないだろうというのがその理由だ。 どうせ騒ぎ疲れた馬鹿が何ぞ壊して、翌日駆け込んでくるんだろう。馬鹿馬鹿しい……などと苦虫を噛み潰すように宣っていたジン爺の渋面を思い出す。 〈祝祭〉《フィエスタ》自体は以前から行われていたものの、今のような陽気なノリになったのはこの数年といったところだ。そして、それは〈偏〉《ひとえ》に国が好景気を迎えているからに他ならない。 高邁な理屈や理念で軍人は動くが、市井の民はなかなかそうはいきやしない。目の前のシンプルな幸せがあってこそ、日々の暮らしを汗水垂らして頑張れるのだ。 単純だが、それでいいじゃねえかと思う。飲んで、騒いで、また明日。 だからこそ── 「ミリィさん。このゼファー・コールレイン、折り入ってお願いがございます」 「〈祝祭〉《フィエスタ》で使うお小遣いが欲しいんだよね。いいよ」 「おお、マジで!?」 「そりゃあ〈勿論〉《もちろん》、兄さんの稼いできたお金だもん。わたしが普段それを制限しているのも、すぐにお酒で溶かすからでしょ」 「けれど今日は固いことは言いっこなし。たまには息抜きしないとね」 「お金の無心を妹にする兄ねえ……本当にあなたは可愛らしいわ、プライドがどこにもなくて」 「そんなものはとっくに犬へ食わせたの。それにおまえ、あんま生意気言ってっと屋台メシとか食わせてやらんぞ」 「そしてケチ。救いようがないとはこのことかしら」 「……なんて、そうね。貧乏性なのは笑えないかもしれないわ。だって私たちの金銭感覚、あんまり育っていないんだもの」 「はあ? 一緒にされても困るぞおい、あくまでそれはおまえだけだろ」 「今は見たまま無職だが、かつては立派な軍人だぞ俺。そう、社会に貢献するべく働いていた期間があるのだ……!」 「あら立派よ、過去の栄光じゃなければ特に」 「あはは。でもね、昔はピシッと軍服着てたりしたんだよ? なんだかちょっと懐かしいなぁ」 などと、こんな風に〈和気〉《わき》〈藹々〉《あいあい》と。 三人がちゃんとした会話を交わしているなどということは、以前ならば考えられなかったかも知れない。 すっかり当たり前となった光景は俺にふと、家族というものを想起させる。〈餓〉《う》えていた時間の多い愉快な記憶じゃないかもだが、これもまた悪くないと思えるものだった。 「──いいものね、こういうのも。穏やかに過ごす時間なんて、私には初めてのことだから」 「これも、誰かさんが素直になってくれたお陰かしら?」 「いい加減慣れただけだっつうの。言っとくけど、俺はてめえを歓迎してるとかそういうわけじゃねえかんな。勘違いすんなよ」 「はいはい、聞いておくわ。愛しい駄犬」 「そうだねー、兄さんの気持ちはちゃんと分かっていますから。ねー?」 「ええ。分かりやすいもの」 くすくすと微笑む仕草に俺はため息まじりで頭をかく。本当に、どう反応すればいいんだこれは? 真実を知って恐れるべきが、逆にこうして当初より打ち解けている始末。チトセどころか、狙っているのは恐らくそのさらに上で、となればあの恐ろしい英雄様なはずなのに…… 今すぐ放り出しておくべきで、逃げさせてくれと俺らしく泣き叫んでいるはずなのに…… 最近の俺はとても心が穏やかだった。認めよう、ヴェンデッタに対するものは大半が軽口で、既に悪意や敵意についてはほとんど抱いていないのだと。だからこそ分からない。 俺はこんなにも警戒心がない奴だったか? 軍部から逃げ延びて、今日まで生きて来られたのは、言ってしまえば卑屈だからであったはず。なのにどうにも今はその部分が麻痺してしまっていると感じていた。 この時間を、穏やかな日常を自らの手で終わらせたくないと思うから。その子供じみた感情のまま、今日もまたずるずると── そう、ずるずると……ヴェンデッタがいる日常を、まるで惜しむかのように。懐かしむかのように。 「さあ、ゼファー。食べ終えたのなら、後片付けでも手伝いなさい」 「〈祝祭〉《フィエスタ》にに行くのだから、その準備もしないとね?」 「へいへい、分かりやしたよお姫様」 「素直でよろしい」 促すヴェンデッタの声に応えつつ、俺はそっと視線を逸らすのだった。 自分の感情が、どのような構造になっているのかまるで把握できぬまま、漏らしたため息はふわりと消えた。 それから── 「ふわぁ、どこも盛り上がってるね」 俺たち三人は連れ立って街に繰り出した。思っていた通りの賑わいがこの大通りにまで満ち溢れている。 男も女も皆いつもより着飾っており、それはそのまま活気として街の雰囲気に現われていた。帝都全体に熱が籠っているような感じと言えばいだろうか。 見るのは初めてだと言っていただけあって、ヴェンデッタは周囲を興味深そうに眺めている。こういう普通の女みたいな顔もするんだな、こいつも。 「あそこに集まってるのって、〈酒場〉《バー》の人たちだよね。今年も歌ってくれるのかなぁ」 「歌う?」 「そう。毎年ね、路上の一角にああやって楽器を持ってきて演奏してくれるの。とっても上手なんだよ」 「後で見に来てもいいでしょ、兄さん?」 もちろんだと頷く。うんうん、年頃の女の子らしいじゃないか。普段はいろいろと苦労をかけていることだし、こういう時くらいは無邪気であってほしい。 この〈祝祭〉《フィエスタ》は特別何をするというわけではない、親しい人と盛り上がり、面識のない奴とは親しくなって杯を交わす。そうすれば、後は自然と話が弾む。 言ってみれば普段の暮らしの延長線上にあるといえる。そしてそれは、日常こそが最も価値のあるものであるということの証左でもあった。 こうしていられるのだって、五年前からは想像すらもつかない。チトセには悪いが市井に下って良かったとこういう時に感じられる。 「おい、はぐれるなよヴェンデッタ。チビっこい背丈で見失いでもしたら探せねえ」 そこで、どうもきょろきょろと落ち着きのないヴェンデッタに声をかける。実際、こいつは人波に埋もれてしまいそうなほどの身長しかないんだし、迷子にでもなられたら厄介だ。 子供扱いされたことに少々不機嫌な顔をしたものの、何かを思いついたかのように俺に近づく。 「じゃあ、これならいいかしら?」 などと言いつつ、空いた腕を手に取られた。 「まったく、淑女を子供扱いするなんて感心しないわね。そうまで言うなら、〈貴方〉《あなた》がエスコートしてごらんなさい」 「今日くらいは無礼も大目に見てあげる。ほら、早く」 いや、だからといって、どうしていきなり手を握るのか。 そりゃ、はぐれるなと言いはしたけどな。だいたいてめえと俺は、こんな間柄じゃねえだろうが。 ほら、はぐれないように── 「ふふ、なんて顔をしているの。たまにはこういうのも悪くないと思うのだけど、〈貴方〉《あなた》はそうでもないのかしら?」 「手を〈繋〉《つな》いで往来を歩くなんて、あの頃からの夢だもの……結局、祝祭には今まで一度も行けなかったし、ね」 「……なんのことだよ、それ」 「今は遠い、色〈褪〉《あ》せた思い出についてのことよ」 そう言って、薄く微笑むヴェンデッタを見ていると、奇妙な感覚が湧き上がる。 何かを憂うような声音に感じられたのは、俺の気のせいだったろうか。 意味の分からない妄言──であるはずなのに。何か大事なことを見落としているように感じてしまうのは、どうして。 「むう。いいなぁ、ヴェティちゃん。自然にスキンシップが取れて」 「それじゃわたしも──てやっ」 言うが早いか、空いていたもう片方の手にミリィも飛びついてくる。まあこっちは愛らしい妹なので悩まずオッケー。 きゅっと握ってくるミリィの手は小さくて、けれど昔よりは当然大きくて、今はしっかりとした女の子の柔らかさに育っていた。 「ふふっ、これで迷子になることもなくなるね。それじゃ見にいきましょ、兄さん?」 「あらあら、両手に花とは〈贅沢〉《ぜいたく》ね」 「まあ、たまには良い目を見させてあげるわ。光栄に思いながら、一日を充分に堪能しなさいな」 含み笑いをするヴェンデッタ。なんつうか、自分で言うなよな。おまえは。 「さ、向こうに行くわよ駄犬」 「あっ、私あれも見たいな」 「ちょ、別方向を目指すなっての」 同時に反対方向へと興味を惹かれた二人に、両サイドから引っ張られてしまう。色男は辛い、とでも思っておけばいいのかもしれないが、実際やられると対応に困るのだった。 などと慣れないことをやりながら、大通りを歩いていく。 こういう時間は悪くないと、俺も口元が緩み出していた時に── 「やっほぉぉぉう、奇遇だねぇゼファーくーん!」 「〈偶〉《 、》〈然〉《 、》仕事が早く終わってー、〈偶〉《 、》〈然〉《 、》外に出てみたらー、なんと〈偶〉《 、》〈然〉《 、》こんなところで君たちに会えるだなんて……いやぁ運がいいなぁこの僕は!」 「それでそれで、我が愛しの女神はいったいどこかな? 今日もあなたの可愛い子豚が甘い折檻をご所望です、と──」 「んなァ、ッ──」 「〈怒涛〉《どとう》すぎるわ」 ──と、祭の陽気に誘われてか、〈曰〉《いわ》く〈偶〉《 、》〈然〉《 、》やって来た駄目御曹司とエンカウント。 そして俺たちの状態を見て、石像のように動きを止めた。 「ぜ、ゼファーと、レディが腕組みだと……」 「加えてもう片方にはミリィくんまで。なんたる強欲、なんたる不条理、不平等ッ……ええい何だね、ここはどこの〈平行世界〉《パラレル》か! ハーレムなんて君にはないッ」 「今日は一段と加速してるね……」 「お祭りだから期待してたんだろうな、たぶん」 イベントの後押しであわよくば、なんて思っていたはず。ところが蓋を開けてみれば、俺が二人と手を〈繋〉《つな》いでいるという衝撃の光景が待っていたわけだ。 銀髪少女を傍らに侍らせ、親しげに密着しながら練り歩いている──ように見えても仕方がない。そして羨み、〈特殊性癖〉《ロリコン》にアクセルかかったということか。 しばらくルシードはふらふらと幽鬼のように〈蹌踉〉《よろ》めいていたが、やがておもむろに近づいてきて。 「許、せんッ──おお、世のツルペタさくらんぼの精たちよ。我に一時、世を正す力をォォッ」 「この子にとって、正しい世の中とは何なのかしらね」 「たぶんおまえみたいなのが裸でふわふわ踊ってんだろ」 だから肩掴むな、血涙を流さんばかりの形相で凄むな、歯をギリギリ鳴らして妬ましい妬ましい言ってんじゃねえっつの! ああもう、ほんと面倒臭えッ。 祝祭であろうともこいつは至って平常運転。絡んできた勢いそのままに、ずびしと俺を指してくる。 「一緒に住むまでは許可をしたがねゼファー、淫行まで認めた覚えはありません。少女は〈無垢〉《むく》だから素晴らしいの! 純粋性を守るためにも責められるのは僕らなの!」 「よって僕が見つけたからには看過できないでござるの巻。レディと一つ屋根の下に暮らして、彼女の匂いを思うさまクンカクンカできる桃源郷だけでは飽き足らず、まさかの狼藉見過ごせん!」 「いま、すべての〈帝国紳士〉《ロリコン》に代わって汝を討つ!ほぁぁぁぁ、こぉぉぉぉ……ッ」 「そんなことしてたっけ、兄さん?」 「全然まったくこれっぽっちも覚えがねえな」 第一、うちの洗濯担当ミリィだし。 「僕たちの間にあった熱い友情もこれまでだね。いいや、これは最初から決められていた別れであろうか……君はデカパイ、僕ペチャパイ、崇めるものがこれほど違えば争うこともまた運命か。ふっ」 「否定はしないけど、ちょっと周りを考えてね〈馬鹿野郎〉《しんゆう》。巻き添えにするの超やめて」 往来のド真ん中で奇声上げるのは勘弁してほしい。そりゃ祭の日ではあるものの、普通に注目されてて恥ずかしいんだが正直。 「ゆえに──僕と君、どちらが女神に〈相応〉《ふさわ》しいか、雌雄を決しようではないかッ」 「いいぞー。じゃあそれで」 なのにこいつは俺の気持ちなど欠片も取り合わず続けているので、さっさと適当に終わらせよう。 「なんだか話が進んでるけど……いいの、ヴェティちゃん」 「ええ、まあ祝祭でもあるのだし、このくらいであれば構わないわ」 「それにあの子も、あれで迷える子羊だしね。ああまでおねだりされたんだもの。〈躾〉《しつけ》ける側の人間として考慮くらいはしてあげましょう」 「おおっ、なんだか格好いいっ」 「ご褒美ご褒美お馬さん、ご褒美ご褒美ふみふみと……ッ」 「こっちは見たままダメダメだけどな」 勝った後の妄想に浸ってか、いい具合にトリップをかましている。地位がなければこいつ今頃、絶対ブタ箱に入れられてるだろ。 そしてルシードの声につられてか、集まって来る野次馬たち。面白い見世物でも始まったとでも思われてるんじゃねえのかこれ。 「おい、あれグランセニック商会の坊ちゃんじゃねえか。愛のためにとか叫んでるぞ?」 「女を取られて取り返すってか? 昨日の友が今日の敵とは、切ないねぇ。こっちとしちゃあ面白えが」 「となると、こいつは見逃せねえな。おいみんな、決闘だとよッ」 連中の表情には、祭りの日特有の面白いもの見せろ的な感情がありありと滲んでいる。収拾つかんぞ、どうしろと? 「さあ、状況は整った。まさか逃げたりはしないだろうね。男と男の真剣勝負──このルシード・グランセニック、今ここに叩きつける」 「やだって言ったら?」 「お酒を出そう」 「はい乗ったー、よっしゃ来いやァッ」 「おお、あっちの兄ちゃんも乗ったってよ」 「決闘成立だ!」 〈煽〉《あお》り立てる野次馬連中。完全に祭りの余興になっちまったが、しかし酒のためなら悔いはない。隣で白い目で眺めている少女二人からは〈勿論〉《もちろん》そっと視線を逸らした。 いやだって、あいつ俺の操縦方法分かりきってるんだもん。仕方ないじゃん、状況的に断るのとか無理そうだし。 「んで、勝負の方法はどうするわけ? なるべくさっさと終わるやつが好ましいんだが」 「まあ、〈流石〉《さすが》に僕も最低限は空気を読むさ。流血沙汰は論外だし、何よりパワー関係だと、頭脳派であるこちらとしては圧倒的に分が悪い。逆も当然、また然りだ」 「よって条件としては平和的に、〈且〉《か》つある程度対等になるような、気力が勝敗を分けるものこそ好ましいということで──」 つまり──結論として、こういう形に。 「さあ、間もなく始まります。男の意地と〈矜持〉《きょうじ》を懸けた一世一代の大勝負っ」 「かたや万年金欠男、蓄えなければ甲斐性もない匿名希望の無職さん。対するは商業〈組合〉《ギルド》のお偉いさん、残念御曹司ことルシード・グランセニック──」 「司会はわたくしティセ・クジョウとっ」 「ティナ・クジョウでお送りします」 いつの間にか連れて来られていたのはおっちゃんの店で、俺とルシードは向かい合わせに座っている。 わざわざここまで付いてきたギャラリーで周囲には人だかりができてしまっていた。つうか暇だな、あんたらも。おかげで適当に逃げることとか出来そうにないわ。 面白いものが見られる──そんな期待感に満ちた空気の中ルシードは立ち上がり、芝居がかった仕草で口を開く。 「それではルールを説明しよう」 「君が日頃から得意にしていること……それは食事、加えて睡眠。仕事があるとき以外は常に、家でダラダラ食っちゃ寝しているはずだろう」 否定はできない、ので〈頷〉《うなず》く。 「ならば勝負もそれに基づき、大食いで雌雄を決するというのはどうだい。山盛りの料理を前に、思うさま闘争本能を発露させようじゃないか」 「支払いは?」 「無論、敗者が全額持つのさ」 「あ、じゃあパスで。そんじゃ行こうか二人とも」 「あははは、全部こっちで受け持つさ。だからお願い、勝負しようよぉぉ!」 ありがとう、我が友よ。金持ちである君が大好きだ。 「俺はありがたいがな。たくさん食っていってくれるんなら、どっちが勝とうが構わねえしよ」 「他の連中もどんどん注文してくれよな。安い、早い、そこそこ美味いがうちの自慢だぜ!」 この機を逃さず売り込んでいくとは、おっちゃんも商魂〈逞〉《たくま》しいことであるよ。美味いに〈そ〉《、》〈こ〉《、》〈そ〉《、》〈こ〉《、》を付けるあたりが謙虚さというか、正直というか……微妙な物悲しさを感じさせるが。 「兄さん、無理はしないようにね。食べ過ぎも苦しいものなんだから」 ミリィが心配してくれているその横で、まるでどこかの貴族のように悠然と椅子に腰かけていたヴェンデッタが口を開く。 一応、今回の景品なのでその態度にも目をつむろう。 「さあ、見事勝利してみせなさい。愛しい駄犬、待っててあげる」 「犬のように卑しく〈貪〉《むさぼ》れってか? はいはい、もういいわ。ここまで来たらやってやるから」 「どうやらルールも決まったようですね。ひたすら出されたものを食べて、空いたお皿の枚数が多い方が勝ちとします」 「勝った方が、今日一日レディと共にしっぽり楽しむ──それでいいね」 「そんな権利はノーサンキューだが、やるからにはきっちりやるさ……タダ飯だし」 「では、場外のトラッシュトークも盛り上がってきたところで料理の準備も整いましたっ」 「それでは参りましょう。レディー……」 「ゴー!!」 開始の合図と同時──閃くフォーク、踊るナイフ。眼前に〈堆〉《うずたか》く盛られたフライドポテトを片付けて刹那の間に皿を空ける。見ればルシードも同時に片づけてやがる辺り、こいつもこいつでマジなのだろう。 つうか── 「無銭飲食、最高……ッ」 「二皿目、お待ちぃっ!」 迅雷の速さ──まさに一足飛びで厨房からナポリタンを運んで来るティセ。そして瞬きをする間にも再びおっちゃんのところに戻っている。どういう身のこなしなんだそれは、忍者かおまえ。 「っしゃぁッ、じゃんじゃん行くぜ!」 「──ひぃぃぃやっはァァァアッ!」 ……と、なんか方々のテンションがえらいことになってるなと感じつつ、麺をずぞぞと口に押し込む。 ギャラリーの盛り上がりにこちらも熱で応えてくれるおっちゃん。稼ぎ時とか思ってる顔だな、あれは。 スパゲティを超速で巻き上げ〈啜〉《すす》るように掻っ込んだ。完食速度こそ上がるものの、時間差で一気に胃袋が膨れるスタイルだが──まあ気にしない気にしない。 俺、胃も強い子だし。負けるのアルコールくらいだし。一応、各内臓器官もきっちり強化されてるしね。 むしろ心配なのは、だ…… 「ひょおおおォォ────ひゃォッ!」 ……頭の中加速しっ放しのこいつが、あとどれだけ壊れずに済むかだろう。なんというか、よく分からん方向へはっちゃけつつあるなこれ。 俺は肉体的に、そして奴は精神的な力によって次々と料理を平らげていく。そうまでしてヴェンデッタから〈ご褒美〉《オシオキ》をねだっているのかと思うと、なんかやるせない気分になった。 「はいはい、どんどん行きますよーっ」 付け合わせの熱々マッシュポテトを口内に放り込み、ハンバーグと併せて一気に〈嚥下〉《えんか》。 息つく間もなく次はムニエル、そのまた次はバターも香ばしいラザニアでと。 「ごふっ……ふ、ふふ、まだまだイケるぜ。我が胸に彼女の愛がある限り!」 「へえ、ペットの粗相を許すことも愛と呼ぶのね。ミリィは知ってた?」 「し、しーっ、今それ言っちゃ駄目なやつだよ」 だよなぁ、聞こえてたらたぶんルシード死んでたぞ。いやそれとも逆に喜んでたか? 心底、報われん男である。 だがしかし、そうやって必死になれる姿というのは嫌いじゃない。どんなにアレな性癖であれ、ヴェンデッタへ向ける感情はどうやら混じり気のない本物らしいし。 それなら── 「しゃあねえか……」 あれでも、まあ、ミリィも認めてるからギリギリ仕方なくというか…… ヴェンデッタも一応、〈う〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈員〉《 、》と認めるのもやぶさかじゃないというわけで。余裕ぶるのはもうやめだ。 そういうわけで、わざと負けてもいいかなんて考えたりはやめるとしよう。よっていざ、ここからは真剣勝負。 「まあ、そろそろ長い付き合いだしな」 ならこっちも〈友〉《 、》〈人〉《 、》として、それに応えるのもやぶさかじゃないだろう。 さあて、余裕ぶるのはもうやめだ。ここからはこいつがふっかけてきた真剣勝負に殉じまして…… 「それじゃあ俺も、全力で行かせもらうか。おら、ついて来いよルシード……!」 「な、まさか今まで余力を……ッ! ええい〈怯〉《ひる》むな僕、負けるな行くぞ、妄想パワーを〈滾〉《たぎ》らせるんだ!」 「オオオオオオオオオオォォォォォッ!!」 どこまでも馬鹿で、熾烈な、意地の張り合いはその後も続き── 「ああぁぁぁ、食った食った……げぷっ」 「さ、さすがだゼファー……かはっ」 両者の間にもたらされた結果は〈引き分け〉《ドロー》。ほぼ同時に白旗を上げた瞬間、ルシードはテーブルへ崩れ落ちた。 俺もこいつへの敬意として、体内機能を高めようとしなかったためか、意外ともう限界ギリギリ。よくもまあ生身でこいつ、ここまでついて来られたものだと敬意を表したいほどだった。 ともあれ、これにて一件落着。 「勝者、ただ飯ぐらいの──むしょぉぉぉくッ!」 馬鹿騒ぎは大歓声のもと、幕を下ろしてみせるのだった。 「おめでとうゼファー。喜びなさい、これで私は変わらずあなたのものだから」 「男性二人が自分を目当てに競い合う、これも初の経験だわ。ありがとう」 そんなことで礼を言われてもな、と思いつつ。 「初めてか……ああ、そりゃよかった」 どこかほっとしたような、不思議な気分で俺も笑う。 もう戻らない〈彼〉《 、》〈女〉《 、》に面白い体験を与えられたような気がして、初めて俺はこいつに向けて素直に微笑むことができたのだった。  そして、騒動に紛れて拍手を送る一人の男。  観衆に紛れて事の成り行きを見ていた彼は、楽しそうにしていながら存在感が異常に薄く保たれていた。  周りのギャラリーは誰一人その人物を気にしている様子はなく、たとえゼファーやルシードらに注目していたとはいえ、不自然なほど視線をそちらに向けていない  そこだけ一切、まるで迷彩をした何かが紛れ込んでいるかのようだ。  一段落した時を見計らったのか、そのままそっと厨房へと歩み寄っていく。  その姿は── 「よぉ──お楽しみじゃねえか大将。あんたの店、意外と繁盛してんのな」  現われたのはアスラ・ザ・デッドエンド。  スラムの主はどこか気安さを漂わせながら、眼前の男性へ知古のように語り掛けていた。  このレストランのオーナー、アルバート・ロデオンに向けて。 「…………」 「はは、そう嫌がるなよ。しゃあないだろ? これもまた〈縁〉《 、》ってことさ。  重く捉えずにそれはそれで楽しみゃいい。信頼しようが裏切ろうが、何事も結果が出ねえと正誤の境は分からぬもんよ」 「だからとて、不義理であるのは変わんねえよ」  言って、舌が焼けるような恥と情けなさをアルバートは感じた。  自らの不甲斐なさに瞑目する彼を見て、やはり真面目だと無頼漢は小さく笑う。それじゃあ生きにくかろうにと思わずにはいられなかった。 「まあ、いいさ。心行くまで日常とやらを楽しもう。   砕けるときは一瞬だと、あんたも知っているだろうしな」 「は、余計なお世話だ……」  返した苦笑にどんな感情が含まれていただろうか。寂しさ、悔い、諦めが混じっていたのは言うまでもなく……しかし負の想いだけでは決してあらず。  どこか遠い目をしながらアルバートは厨房の奥へと足を向けた。その背は普段よりもどこか小さく見えている。  内心の葛藤を察していながら、対して何も言わぬままアスラもレストランを後にした。  賑やかな祝祭の喧噪へそっと密かに埋もれたまま……人知れず。  誰に気づかれることもなく、束の間の〈邂逅〉《かいこう》はこうして終わる。 「兄さん、お腹はもう大丈夫?」 「あー、なんとか。最後は乗せられてついドカ食いしちまったわ……反省」 「だらしのないお腹になったわね。そんな状態でスーツを着れたりするのかしら、ふふ」 「おまえなぁ……」 などとやり取りをしつつも、時間も経過したことでだいぶ腹の具合も楽になってきた。ああまで乗せられてしまうとは祭りの雰囲気とは恐ろしいものである。 そしてそろそろ、日も沈む。大通りからも人がまばらになっていき、昼間の騒がしさはなりを潜めているのだが。 今日はこれで終わりではなく── 「それじゃあ、行きましょうか」 もう一つ、誘われていた場所があった。 そして──歓楽街のダンスホールへと、俺たち三人は到着する。 開かれているのは以前伝えられた通り富裕層連中の集まるパーティで、本来なら俺たち庶民が出られる類ではないのだがそれはそれは。イヴというコネは凄まじい力を持っていたというわけである。 いちおう俺も借り物のタキシードに着替えさせられているが首回りや、まだ若干張ったままの腹がきつくてどうも落ち着かない。 〈大広間〉《ホール》で歓談している面々は、男も女もお高そうな衣装に身を包んでいる。もしも誤って踏んづけたりなんかしたら、弁償に幾ら掛かるんだか分かりやしないのが恐ろしい。 さらに今は俺一人。例に漏れず、女の身支度は時間がかかっているらしくこうしてそわそわと少女二人を待っていた。 「ゼファー君。来てくれたのね」 目敏く俺を見つけて、声をかけてくれたのはイヴだった。姿は普段と変わらないものの、その妖艶な魅力は他のどの参加者よりも濃厚なのは言うまでもない。 現に今も、かなりの視線がこちらへ引き寄せられている。中には俺を〈睨〉《にら》んでいるものもあって、無論のこと落ち着かない。 「本日はお招きいただき……って、そういうのはもういいか」 「ええ、いまさら畏まる関係じゃないものね。ああでも、招いたのに申し訳ないんだけど人と会う用事ができちゃったの」 「ほら、前に言わなかった? このパーティを機に、身請けの話が持ち上がる子も結構いるって……」 「ああ、玉の輿の」 金持って地位のある輩がイヴの後輩ちゃん達を見初めるってやつね。娼婦から一転のシンデレラストーリーが行われているという訳で、当然手続きが必要になるわけか。 ならこちらに構っている時間もないだろうし、しょうがない。 「そういうのなら気にしねえよ。こっちはこっちで適当にやってっから、しっかり送り出してくればいいさ」 「ありがとう。それじゃあ、月並みだけど楽しんでいってね」 〈挨拶〉《あいさつ》もそこそこにイヴは立ち去っていく。歓楽街の元締めという立場もあるゆえ、ただ遊んでいるというわけにはいかないらしい。 よく見れば、周囲では参加者同士の自己紹介が盛んに行われている。パーティの態を取ったコネの作り合いを考えれば、あいつにとってこの〈煌〉《きら》びやかな空間も一種のビジネス会場なのだろう。 それはそれで寂しいことかもしれないなと、詮無きことを考えていると── 「あ、いたいた。お待たせ、兄さん」 俺の連れもどうやら着替えが終わったらしく、声がかかる。 そしてそのまま、反射的にミリィの方へと振り返れば── 思わず息を飲んでしまったのは仕方ないというものだろう。 見惚れたというか、それ以外の理由も込みで言葉が詰まる。ヴェンデッタとミリィのドレス姿はそこら辺を歩いてる、いいとこのお嬢さんと比べてもまったく遜色のないもので、可愛いというのも認められる。 そう、そっちについてはいいのだ。 問題は、ならどうして隣に見覚えのある女がもう一人いるのかということだろう。 超がつく予想外の人物がすまし顔でこちらにそっと手を振っていた。 「……ミリィさん? そちらの見目麗しいご令嬢は、いったいどなた?」 「あらやだ、ご〈挨拶〉《あいさつ》ですねゼファーさん。私も家の関係でこの場にお招き頂いただけですのに」 「会場に来てみたら知っている方がいましたので、お声を掛けさせてもらいました。ええ、偶然ですよ?」 と、完全に淑女モードでのたまいやがる誰かさん。他二人からは見えないように悪戯っぽい表情が見え隠れしているあたり、明らかな確信犯だ。 まあ、実際やんごとなき家柄ゆえ自分をねじ込むのも実際〈容易〉《たやす》い。大方、俺とヴェンデッタをマークしに来たんだろう。 それとも単に、これもあいつの言う観察の一環とやらか。考えると怖い気分になるので、その想像を頭の中から今は追い出す。 そして気を取り直し── 「ふむ、〈貴方〉《あなた》もなかなか似合っているじゃない。悪くないわよ」 「こういうのを、旧暦の〈諺〉《ことわざ》で馬子にも衣装と言うのかしらね?それを言うなら私もかしら、ふふ」 シックなドレスに身を包んだヴェンデッタは、認めるのも〈癪〉《しゃく》ではあるが綺麗だった。 なんというか確かにこれは元が違う。大仰に言えば、どこかの神話の女神かと言うくらいの存在感で、恐ろしいほど浮世離れした何かを持っていた。 透明で、荘厳な、ゆえに〈儚〉《はかな》く──幻想的。 まさしく現実には生息できない御伽噺の〈妖精〉《フェアリー》だ。引き込まれそうなほど美しく、手を出すのさえ戸惑われる不思議な輝きがある。 それはまるで月のように……あるいは冥府の底で輝く、魂の熾火みたいで…… 「いいなぁ、ヴェティちゃん。兄さんを釘づけにできて……」 「私は、どうかな? おかしな部分がなければいいけど」 そして反面、年相応に可愛いのはミリィだ。三人の中で最も分かりやすい、血の通っている温もりに溢れていた。 普段の感じとはまた一味違った魅力があり、それが少女でありながら大人の色香を絶妙のバランスでまとわせている。 少しだけ背伸びをしているように見える部分が愛らしさに拍車をかけていた。悪い虫が寄ってこないか、これは真面目に心配である。 「美人を三人も連れて、幸せですね。ゼファーさんは」 そう言うチトセは誰よりもこの場に適応していた。高貴さ、優雅さ、さらに気品、どれも揃って完璧でありまさに高嶺の花と化している。 肢体の豊満さは色香を宿しながらそこに下品さは見られない。他二人とは一線を隔する、大人の妖艶さと美しさが滲み出ていた。 内面を知っていなければ、きっと見たままのお嬢様だと勘違いしていただろう。それだけに俺は以前ともまた違う、舞台が整っているゆえの雰囲気に戸惑う。 というか、タイプの違う女性がドレス姿で三人も俺に話しかけている状況が、まったくもって現実とは思えない。 なんかこう、妙にそわそわするというか、居ても立っても居られないというか、その…… ともかく、落ち着かない。 「そういえば、チトセさんは兄とどういったご関係なんですか? 先ほどは以前の仕事で知り合ったと言っていましたが……」 「ええ、ついこの間グランセニック商会で。ルシードさんからの勧めで一日ほど護衛をしてもらった関係ですね」 「その際は、〈い〉《 、》〈ろ〉《 、》〈い〉《 、》〈ろ〉《 、》〈と〉《 、》〈お〉《 、》〈世〉《 、》〈話〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。ですよね?」 「ソウデスネー」 「確かに嘘じゃないわよね、私もその場にいたわけだし」 「へえ、人の〈繋〉《つな》がりってなんだか面白いね」 まあ裏を知っていると色々複雑な気持ちになるが、それはともかく。 しかしこの三人──意外と気が合うらしいのは意外だった。特に妙な雰囲気にもならず、見たまま穏やかに談笑しており、不思議と会話も弾むようだ。 出自も性格も違うというのに、これが相性の不思議というものだろうか。変な化学反応を起こさないだけありがたいというものだが。 「そういえばあなた、この間は随分と情熱的に迫っていたようだけど、あれから何か成果はあったの?」 「それがまた、つれない返事ばかりでしたね。けれどそれも懐かしくはありましたので、楽しい時間を過ごせたかと思います」 「というより、その素っ気なさも一興だと思い始めて来ましたから」 「重症ね、よく分かるわその気持ち。手間が掛かる分、夢中になってしまうでしょう?」 「ふふ、たしかに──」 「えっと、お二人はさっきから何の話を?」 「気が付けば、するりと逃げる男の話と──」 「そんな相手を追ってしまう、女の性についてです。ふふ」 「あ、なんだか分かっちゃいましたっ。どんどん本気になるっていうか、だから次こそはっていうか、そのたびに色々と空回りもするんですけど」 「なぜか見捨てることができない」 「手を差し伸べたくなるというか」 「ふふっ」 「まったく」 「私たちも大概ですね」 「……居心地わりぃ」 なんだろう、空気がどんどんと針の筵へ変わっていくこの感じ。もしかして責められたりしてるのだろうか? にこやかに談笑しているが、聞いている度にいたたまれなくなっていく。お願い誰か、助けてほしいと視線を横に逸らしたまま時間が過ぎるのを待っている。 すると、やがて会場には曲が流れ、周囲のトーンが落ち着いたものへと変わっていった。 同時に男が女を誘う光景がよく見られ、〈洒落〉《しゃれ》た仕草で手を取ってフロアの中央へと歩み出る。 「チークタイムってやつか」 「ふわぁ、素敵──」 そう言いながら、ミリィは俺の顔を見上げてくる。ちらちらと控え目な形ではあったが、何を求めているのか丸わかりだ。 自分も踊ってみたいという雰囲気がありありと伝わってくる。はっきりと言い出せないあたり健気なのはご愛嬌だ。 このあいだ二人で練習もしたし、ならば実際に試してみたいことだろう。 「そうね、私も正直興味があるわ」 「意中の人から選ばれるのは女性にとってもロマンですよね」 と、これまた婉曲な誘い文句が横から二つ。特にヴェンデッタは珍しく分かりやすい言葉を使っていた。 思えばこいつに対する感情は今日一日でかなりの変化を見せている。悪感情は極端に減り、意固地になって跳ね除けるつもりはもはやない。 かといって、チトセをここに置いていくのもどうだろう? まだこいつが俺に接触した真意も聞いていないわけであり、単なる観察としてここは放っておくべきかというのも軽々に踏み切れなかった しかし全員から誘われているという事実は変わらない以上、どうするかは決めねばならない。 そんな三人を前にして、俺は── 「……しゃあねえなぁ、今日はおまえに付き合うか」 渋々という態度で、仕方ないという風を装いながらヴェンデッタの誘いを選んだ。無論、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》〈の〉《 、》〈理〉《 、》〈由〉《 、》を裏に抱えた状態でだが。 色々と懸念はあるが、何よりまずチトセからヴェンデッタは極力引き剥がしておくべきだ。対アストラル用の兵器と語ったのはあいつで、当然その立場を考慮すれば興味津々にならざるをえないだろう。 ならば今はこうしておくべき。ミリィを残すのはちと不安だが、チトセは人質を取って脅すという手段を取る性格じゃない。せいぜい俺の普段の態度を面白おかしく聞き出す程度と考慮する。 それに、昼間のこともあった。一応、そうほんの少し、一つまみほどの慈悲はヴェンデッタにもやっていいんじゃないかと、気の迷いが生じたことにしておこう。うん。 「あら、そこはもっと情熱的に誘えばどうなの? お嬢様、一夜の夢をどうか私にお恵みください、という風に」 「ねえよ。むしろそっちが感謝しろい。こんな色男に声をかけられるなんて、やだぁうそうそ、夢みたーい……ってな」 「そうね、なら私も素直な気持ちを口にするわ」 「ありがとう──嬉しいわ、ゼファー。こんな場所であなたと一緒に踊れるなんて、本当に、夢みたいよ」 「……お、おう」 上ずったように声が詰まった。思いがけず帰ってきた笑顔は〈眩〉《まぶ》しく、普段の悪態が欠片もない純粋で真っ直ぐなものだった。 本当に、何だこれ? 調子が狂う。気のせいか頬が熱い。どうしてか居心地が悪く、背中に何ともいえないむず痒さが走ったようで。 こいつの顔を直視することができないとか、俺はいったいどうしたんだ? 「これはまた、見せ付けてくれますね。赤面もので〈妬〉《や》けてしまう」 「うぅ、いいなぁヴェティちゃん」 「大丈夫、踊り終えたら交代するわ。大切な時間を独り占めするつもりはないもの」 「こんな駄目男でも、それなりの需要はあるみたいだからね。もっとも、私たちの男を見る目が特殊なだけかもしれないけれど」 「ふむ、一理ありますね」 だろうな、言っちゃなんだかゲテモノ趣味だ。我が事ながら、この三人に対しては非常にそう思わざるを得ない面がある。ゼファー・コールレインに群がるなんて異性の趣味が悪いぞー、君たち。 そんな内心の忠告を分かってかいないでか、彼女たちは妙に上機嫌だった。こちらを一瞬ジト目で見た後、何やら仕方ないという顔を各々がして苦笑する。 そして── 「それでは、また後ほど」 「遠慮なんかしないで。気兼ねなく、好きなだけ踊っていいんだからね」 やはりまた、女同士の間で納得をしてその場を後にした。 去り際の気を遣われたような視線に首をかしげながら、俺は納得顔のヴェンデッタを横目で見る。だから、そんな微笑まれても何がなにやら。 「……おまえらって実はテレパシーとか使えんの?」 「手のかかる男を前にすると、女は意外と一致団結するものよ。それも、後一押しで再起しそうな状態ならね」 「まあ、大切に想われていると、そういうことにしておきなさい。託された側としては少し責任重大だけど」 「そんなことより、ほら──」 「うぉっ、と」 誤魔化すように手を引かれ、そのまま前のめりになりながら踊り場へと足を運ぶ。 突然の行動に文句を言ってやろうとした俺に向け、ドレスを翻しながらヴェンデッタは振り向いた。くるりと円を描くように、あるいはつま先で満月のふちをなぞるように。 可憐に回りながら、溢れんばかりの笑みを返す。 「さあ、踊りましょう。ゼファー」 「こんな機会は二度とないわ。なら〈永久〉《とこしえ》に思い出せるよう、楽しまなければ損じゃない」 俺をどこかへ誘うように、思うままにステップを刻み始めた。 それはどこまでもセオリーを無視した、自由気ままなダンスだった。作法だとか手順だとか、そういう形式を一切気にせずひたすら心が赴くままに、素直な気持ちで舞っている。 場の空気や気品に捉われない行動は場に〈相応〉《ふさわ》しくないものなのだが……それを誰も〈咎〉《とが》めないのは、この光景があまりに幻想的だからだろう。 ドレスの〈裾〉《すそ》をはためかせ、銀の髪をなびかせる様はまるで月の女神のよう。 天から迷い込んだ妖精が如く、満面の笑みをたたえながら舞うヴェンデッタ。喜びを全身で表現している少女はまさに、この舞踏会で一際輝く純真無垢な華だった。 そう、とても……とても幸せそうに笑っている。 もう死んでもいいわと言わんばかりに、散り逝く刹那の輝きを強く連想させるから、こいつはこんなに美しい。 感じた想いを胸中に押し込めながらその手を取って、俺も回る。くるくると、くるくると、流れる景色の中心に微笑む少女を見つめながら。 「楽しそうだな……つうか、はしゃぎすぎだろうが」 「仕方ないでしょう、だって想像さえしていなかったことだもの。こんな時間が、もう一度私たちに訪れるなんて」 「そう思うなら、いつもこんな調子でいてくれよ。そっちの方が話しやすい」 「今更の話かもしれないが、俺だって、別に誰かを嫌いたくはねえんだからさ」 「でしょうね。あなた、面倒くさがりだもの」 ご明察だと、肩をすくめて苦笑した。まったくそれが分かっているなら少しは容赦をしてほしい。どれだけ腹が立ったと思っているのか…… いや、たぶん確信犯なのだろう。承知の上で俺を〈煽〉《あお》っていたのだと、今なら理解できるからここで釘を刺しておかねば。 「怒ったり、悲しんだり、怨んだり……そういうのって疲れるんだよ。望んでやりたいとは思えない。何かに執着することは、それ自体がとてもパワーを使うからな」 「よって、まあなんだ。今のおまえはいつもよりいい女だと、認めてやるのもやぶさかじゃない。ずっと今みたいにしてくれるなら、俺としても助かるんだが……」 「馬鹿言わないの、それは〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈女〉《 、》でしょ?」 「楽しい、素敵よ、あなたが好き。だから絶対傷つけないわ。大好き大好き愛してる……なんて、童貞の見る甘い甘い夢物語よ。安っぽい〈飴〉《あめ》玉ね」 「現実の女性は違う。確固たる人格を有し、人生という歴史を備えた一人の他人。だからちゃんと自分の意志で物事を伝えてくるし、愛を誓った夫婦にさえすれ違いが発生するわ」 「あーぁ、やだねぇリアリストはこれだから。すぐに現実どうこう言い出しやがる」 「ふふ、何度も言っているでしょう。正しいことは痛いのよ」 「世の中をそっくりそのまま受け止めるという行動は、それだけ辛く、難しい行いなの」 「人はみな、生まれた時は原石だわ。単に尖った岩の欠片。何度も研磨しなければ価値のある宝石には決してなれない、石ころのまま……」 「けれど、磨くということは尖った部分を削ぎ落とすということでしょう?別の〈原石〉《だれか》とぶつかり合い、大きな試練と擦れ合って、変化しながら輝きを放つ姿に成長していく……」 「そして、それは当然とてもとても苦しいこと。成長期の身体みたいに、立派な形へ変化するだけそこに痛みが付き〈纏〉《まと》うわ」 一度折れた骨はより太く、丈夫になって再生する。酷使してダメージを受けた筋肉は痛みを伴いながら超回復して強くなる。 苦しみを浴びて乗り越えれば、当然それは経験値となって確かにそいつを育てるだろう。 けれど、言うまでもなくそれは恐ろしいスパルタ論だ。自分を追い詰める何かを尊べなんて普通はそうそうできないし、まず当たり前にやりたくない。 辛いことは避けたいのが人として当然の心境であり、ゆえにそれは一つの事実を浮き彫りにする。 「そう、だから逆に考えると──〈出〉《 、》〈会〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈痛〉《 、》〈み〉《 、》〈を〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈最〉《 、》〈も〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈成〉《 、》〈長〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈糧〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》」 「仇敵、〈好敵手〉《ライバル》、口うるさい母親に、ひたすら厳しい恩師や教官、苦難困難災難と……か」 どれも自分の大嫌いな存在ばかりだ。たとえ親切心や真心から来たものでも、俺はそれらを拒みたくて仕方がない。 だって、心が折れてしまったら成長も〈糞〉《くそ》もないのだ。一度それでぽっきりやられている手前、それが正しいと分かっていてもこの手の論はトラウマだった。 そして、そんな俺の心境を分かっていながらこの女は誘っている。いつもいつも、いつもいつも変わりなく……ただ一心に、微笑みの裏で切なる想いを籠めながら。 ただ簡潔に、〈立〉《 、》〈派〉《 、》〈な〉《 、》〈男〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》〈な〉《 、》〈さ〉《 、》〈い〉《 、》と……言葉にするとあまりに簡単で、ゆえに恐るべきお節介を焼くのだろう。 容赦なく負け犬の感情を〈抉〉《えぐ》ってでも運命を与えようという、その方針。この点に関して異常なほど頑ななヴェンデッタを見て、胸中の奥が針で刺されたように〈疼〉《うず》く。 だから──ああ、また今もだ。 そんなこいつに、俺は〈誰〉《 、》〈か〉《 、》の面影を見てしまう。 それが今、分かりかけているからこそ、こんなにも切ない。その笑顔が痛々しいと感じるから、俺は── 「……本当に、おまえは怖い奴だよな。ヴェンデッタ」 そんな言葉を他人事のように投げかけるしか出来なかった。複雑な感情を知ってか知らずか、少女は悪戯っぽく小首を〈傾〉《かし》げて瞳を細める。 「ええ、そうよ。ゆえに私は冥府に堕ちた〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。あなたの〈綴〉《つづ》る〈逆襲〉《ヴェンデッタ》」 「偽りなく、心の底から、誰よりも〈吟遊詩人〉《オルフェウス》を愛しているわ。そしてだから、あなたの過去を癒せない」 「〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》のことを謝るわけにはいかないの。そうしたらきっと、あなたも〈謝〉《 、》〈り〉《 、》〈返〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、ね」 「……はぁ?」 などと、また意味深な言葉を口にしてきやがった。しかも今までとはどうも籠められた想いというか、毛色が違うと感じられる。 どこか申し訳なさそうな感情はいったい何が原因だ? そっちが謝るとたぶんこちらも謝るはずって、おいおい何だよ…… 「わけわからん。第一、そんな罪悪感ねえぞ俺には」 まるで俺とおまえ、〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈が〉《 、》〈罪〉《 、》〈を〉《 、》〈共〉《 、》〈有〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》ようじゃないか。納得できんし、見当もつかん。 「つうか、付き合いも長くなってきたんだからスパッと言えや、スパッとよう。いい加減、もやもやしてくるわ」 「ふふ、な・い・しょ──なんて、ごめんなさいね。これだけは“〈月天女〉《わたし》”の口からは言えないの」 ──“〈死想恋歌〉《わたし》”が伝えるべきことだと、そんなことを呟きながら。 「そして、もし語る時が来たとしても、それは決して今じゃない。これはきっと最後の最後に気づかなければいけない過去……」 「私を黄泉返らせた最初の過ち、それがいったい何なのか。ようやく見つけたその時に、別れの言葉を告げたいのよ」 「それほど深く、〈彼女〉《わたし》は後悔しているから」 「〈出〉《 、》〈会〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》と、あなたが思っているように」 そう言いながら深くなる微笑みは、この上ない偽装のベール。 本心を覆い隠すような態度は、見せたいのに見せたくないという矛盾の働き。まるで俺と同じように本心をはぐらかすその仕草、女々しさを前にして、俺は。 何故か、どうしようもなく腹が立った。 「──うるせえ、勝手に決めんな」 「あ──」 なので手を勢いよく引き寄せて、ガキが拗ねるように口を尖らせながらヴェンデッタを抱き留める。 そしてそのまま、腰を支えて変わらぬ動きで踊り続けた。驚く相手の瞳を見つめながらも離さない。 「勘違いするなよ、俺は今もおまえが苦手だ」 「〈癇〉《かん》に障るし、聞けばトンデモ兵器だし、もうそれこそ〈苛々〉《いらいら》しない部分を探す方が難しい。どうしてこんな厄介者がと思ったことも、それこそ一度や二度じゃなかった」 だから頬が熱いのなんて気のせいで、鼓動が早くなったのも気のせいなんだ。なんせ先ほど言ったこと、どれも全部紛うことなき俺の本心なのだから。 怨んだことさえあるし、殺そうともしたし、不思議とこうして向き合う今さえ……空恐ろしいモノに触れているんじゃないかという、言葉にできない不安のようなものさえある。 「けれど……」 ああ、けれど…… 「ああ、ああそうだ。けど、けれどよぅ……ッ」 危険とか、恐怖とか、〈逡巡〉《しゅんじゅん》とか苛立ちとか臆病とか。 魂を縛るすべての鎖を頭の中から追い出して、素直な気持ちを口にできるというのなら。 「おまえ一人くらい、笑って受け止められるようになりたいんだよ」 こんな俺でも、本当は正しく生きてみたいから。 「情けない自分から変わりたい。今一度、何かが出来る人間になりたいって……今更思う瞬間は、確かに、確かにあるんだよ」 ……そうだ。いったい誰が、諦めたままで十分などと思うだろうか? 逃げたままで何かが改善するなどと、本気で信じているだろうか? 認めがたいが否だろう──そう、誰だって、〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 「少しずつ分かって……いいや、最初から本当は全部分かってたんだよ。ずっと目を逸らしていただけで」 「正しいことをどれだけ辛いと叫んでも、結局それは依然正解のままなんだ。嫌だからと避けた結果、都合よく別の案が舞い込んだり、突然奇跡が道を拓いてくれるだなんて、そんな救いは早々ない」 「仮にそれがあったとしても、自分自身はまるで変わらず、未熟なままで生きていかなきゃいけなくなる」 五年前、炎の海で在りもしない〈大和〉《カミサマ》へと必死に慈悲を〈希〉《こいねが》った自分のように。 確かに英雄は現れた。俺とミリィは生き延びた。しかし果たしてそんな結末を本当に最初から望んでいたか? ──違うだろう。 あの時、俺はあくまで己の意志と力によって道を切り〈拓〉《ひら》かんと誓っていた。続く魔星の襲撃で絶望に叩き落とされはしたものの、その気概によって一度確かに勝利することは出来ていたんだ。 〈裁剣天秤〉《ライブラ》を相手に、チトセを相手に、命を賭けて勝った過去は真実だ。奇跡に頭を垂れ、誰かどうか助けてくれと泣き喚いた結果なんかじゃ断じてない。 運命に文句をぶつけるだけの、今みたいな〈塵屑〉《ゼファー》じゃ到底できないことだったろう。 それが、英雄と怪物を見たことで── 「情けねえ……どうして、ここまで堕ちたんだか」 敗北と絶望に打ち砕かれ、なりたい自分を見失った末路がこれだ。 最初からこんな、世を悟った風の戯言なんて吐きたくなかった。ずっとずっと心の何処かで、胸を張って生きてみたいと叫ぶ想いがあった。 それを掴み取るために、やらなければならないことは決まっている。 「〈血反吐〉《ちへど》を吐いて、転げまわって、涙と小便垂れ流して、馬鹿みたいに苦しい思いをしながらでも……」 「やらなければいけないことが、この世界には無数に在る。そしてそれを超えない限り、真に求めた地平には決して〈辿〉《たど》り着けないんだな……だってよ」 「“勝利”からは逃げられない」 生きる上で戦わなければならない瞬間は、誰しも必ず訪れる。 その時に勝つこと自体が正解じゃなかったとしても、負けることですべてが上手くいったとしても、勝利という事象そのものを無碍にするだけは誰にも、絶対に出来ないのだ。 勝者と敗者。栄光と衰退。光と影。それら明暗を分ける単純な対構造は、世の中には呆れるほど溢れている。そしてどちらを選んでも、傷ついたり苦しんだりするのはどうしても避けられない ずっとその構造から逃げ出したいと思っていた。そして今、そんな自分の姿にやっと恥を取り戻すことが出来始めている。 あと一歩、まだ最後の部分はうまく掴めていないけど…… だから今は──その、なんだ。ちくしょう。 「だから、ほらアレだ。気の迷いというか、今はそういう気分だということにしながらよーく聞け──今からすげえ似合わねえこと言うからよ」 悔しいけど、おまえはいつも正しかった。俺を光に導こうと頑張っていた。 そういう部分が怖くて、苦手で、とことん俺に容赦のない……いい女だと認めるからこそ、どうか最後まで聞いてほしい。 「たとえ痛みだらけで、傷つけあうことばかりだったとしても」 「俺とおまえの〈繋〉《つな》がりに、苦しみしかなかったとしても」 「出会いそのものを否定することだけは、何があってもするんじゃねえ」 つまり、おまえの戯言に少しだけ乗せられてやると決めたんだ。こちらが腹をくくったのに、なんか後ろめたそうな表情を今更〈元凶〉《おまえ》が見せるなというわけで。 「俺みたいなこと抜かすなってことだ、バカ。根性出すって万年無職が言ってんだから、運がよかったと笑いやがれ」 「……………」 どうだ分かったかと、ふんぞり返りつつ細い腰から手を離す。ノリと勢いに任せた言動を自覚すると何だかやけに恥ずかしく、思わず相手を振り回すよう〈殊更〉《ことさら》大きくステップを刻んだ。 ヴェンデッタは何も言わない。まるで感情が真っ白になってしまったかのように、どこか呆然とこちらの横顔をじっと見つめて。 「ふふ、ふふふふふ……」 「やだ、おかしい。あなた本当に、今更どの口でそんなこと……ふふ、あはははは」 「うっせ」 そして、萌える〈蕾〉《つぼみ》のように屈託なく少女は笑った。目じりに涙さえ浮かべながら、こらえきれないと言わんばかりに何度も何度も〈喉〉《のど》を震わす。 だからその素直な表情を見て、俺も思わずつられて笑った。胸に湧き起こるのは達成感。ようやくこいつを笑顔に出来たと、俺は強く思えたのだ。 ああ、らしくない。らしくないが──悪くない。 握った手から体温と共に心さえも〈繋〉《つな》がるようで、束の間の夢が心の距離を縮めていくのが実感できる。感動を噛み締めるようにヴェンデッタは深く〈頷〉《うなず》いた。 胸に手を置きながら抱えきれない感謝の想いを、愛情と共に言葉へ籠める。 「嬉しいわ……ええ、本当に。救われたような気分」 「少しずつ、共に改善していきましょう。弱さも、臆病も、あなたなりのペースでいいから、一歩ずつ」 「ゼファーが独り立ち出来るまで、どんな苦難でも共有するわ。感謝なさい、約束通り私はずっと地獄まで付き合ってあげる」 「そりゃ御免だな。俺は天国ご指名なんでね」 「さっさといっぱしの男になってやるさ。見てろよ、すぐに度肝を抜いてやる」 「ええ、そしてその時にこそ──」 柔らかく、月の女神は聖母のような慈愛と共に。 「最高の〈告白〉《さよなら》を、あなたに送ってあげるんだから」 それは逃れ得ぬ最後の結末。二人の物語は、その瞬間に幕を閉じる。 “勝利”とは、何だ? “栄光”とは、何だ?それを得れば、何も失わずに済むのだろうか── 抱え続けた疑問に対して、答えを問われる時は近い。ただ今は訪れる運命を知ることなく、俺たちは互いを見つめて踊っていた。 泡沫のような幸福に包まれて、ずっと、ずっと…… この瞬間を、最期のときまで決しては忘れはしないように。 「それじゃあ、せっかくの機会だからな。踊ろうか、ミリィ」 「えっと──いいの、かな?」 「そりゃあ〈勿論〉《もちろん》、ダントツで」 なんせ他は、謎の少女型〈最終兵器〉《リーサルウェポン》に、特務部隊の〈女隊長〉《メスゴリラ》だ。我が麗しの〈天使〉《いもうと》と比較するなどそもそも論外、選択肢など有って無いようなものだろう。 「おやおや、〈流石〉《さすが》は色男。まったく言ってくれますね」 「ええ本当に。女性を選んでその言い草、身の程知らずで愛らしいわ。〈躾〉《しつけ》けを施したいくらい」 はい、黙りなさい外野ども。うちのミリィをおまえ達みたいなヨゴレと一緒にするんじゃねえ。というか口調がわざとらしいわ。 にやにやと嫌な笑みを張りつけながら視線でいびってくる毒婦どもを牽制する。悪い影響を受けてはならんと、ミリィの肩を抱き寄せながらさっさと離れることにした。 「ほら、行こうぜ」 「わわっ、兄さんちょっと──」 こんな機会は〈滅多〉《めった》にないから。さあ、手を引きながらいつかのように── 兄妹水入らずの、優しいダンスに興じるのだ。 〈煌〉《きら》びやかな照明の下で、他の男女と同じように静かなリズムで踊り出す。まずはたどたどしく一歩、二歩と……数歩も歩けばすぐに慣れて、後はそのままゆったりと。 多数の参加者に紛れながら、素朴な可憐さを放つミリィを精一杯エスコートしていく。初めは驚いていたが自分の状況を改めて意識したのか、はにかみながらそっと手を握り返して来た。 桜色に染まった頬に、少し潤んだ翡翠の瞳。 控え目に、でも嬉しいと、健気なその表情と仕草がたまらなく愛おしい。 「……もう、強引なんだから」 「悪い、嫌だったか?」 「えっと……実は全然。ていうかむしろ、嬉しかったっていうか。えへへ」 「リードされる機会があんまりなかったから、柄にもなく少しときめいちゃいました」 「そいつは光栄の極み」 素直な言葉が胸に染みるよ。女の子らしい純な態度に、俺も自然と嬉しくなった。そして何より、ミリィをこうして選んだことは正しかったと強く思う。 大切な家族だからという理由だけで誘いに乗ったわけじゃない。こんなに優しい少女なんだ。よって〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》の近くに残しておくのは不安だった、という心理が大きく働いたせいでもある。 ヴェンデッタとチトセは方向性こそ違えど、日常では共に異端だ。後ろ暗い事情を抱えている手前、そんな影から遠ざけたかったというのが理由の一つ。 さらに加えて、特徴的な雰囲気を持っているせいか、何気なく立っているだけで周囲の目を否応なく引いてしまうというのが大きな懸念だった。実際こうして離れた〈途端〉《とたん》、すぐ複数から声をかけられているようであるし。 男女問わず惹きつける〈魅力〉《カリスマ》は見事という他ないが、それは当然、悪い虫も寄って来るというわけで。もしその中の一人が、うちの可愛いミリィに粉かけようとしやがったら…… ……まあ、そんな不快極まる想像も、あの二人についての感想もここまでにしておくとしよう。なんか〈苛々〉《いらいら》するのでやめだ、やめ。 そんなことより、今はこの可憐なダンスパートナーの相手を務めるべきだから、俺たちは互いを見つめながらこの優しい時間を堪能する。 右に、左に、周囲で踊っている他のペアと遜色ないほど二人の動きは滑らかだった。以前にこうして軽く練習してみたとはいえ、とても二度目とは思えないほどミリィの動きは自然なものだ。 「へえ、うまくなってるな」 「あれからこっそり自主練してたんだよ。もしかしたら、いつか本当に本番が訪れてくれるかもって……」 「思ったり、密かに願ってみたりして、けどこうして叶うだなんてことはまったく想像してなかったから。今も心臓、すごくドキドキしているの。破裂しちゃいそうなくらい」 「なんだか、夢みたいだね。〈灰被り〉《シンデレラ》もこんな気分だったのかな」 旧暦から今も残る古い童話のお姫様。彼女を飾った一夜の魔法になぞらえて、今の自分と照らし合わせているのだろう。 だらしのない王子様と踊りながら、想いが叶った喜びのままにミリィはそっと微笑んでいる。 「とても幸せで、幸せすぎて、わたしどうにかなっちゃいそうかも」 「欲ねえなぁ。まだまだ、こんなの序の口だぜ」 「いくらだって幸せにしてみせるさ。ミリィが嬉しいと、俺も嬉しい」 「もう、兄さん最近そればっかりだよ?」 なんて苦笑されてもなぁ、これが本心なんだから仕方ない。俺はミリィが大切で、その幸せこそ第一なのは揺るがない。 そう笑って伝えると、ミリィは初めてほんの少し目を伏せた。そんな俺だからと、そう言わんばかりに…… 「ううん、そうじゃないね。最近じゃなくて、ずっとそう……」 「五年前から、わたしは兄さんに守られてばかり。見えないところで無茶をして、バレないように誤魔化して、知らないところで必死に我慢を続けてること。全部分かってるんだから」 「あ、責めてるわけじゃないの。ただ、ふとした時にそれを感じて、わたしが勝手に苦しくなるだけ。ちょっぴり切ないけど、大切にしてくれていることはちゃんと伝わっているからね」 「だから──」 触れ合っていた手に、〈僅〉《わず》かだけ力がこもった。 迷いは一瞬。意を決したように、あくまで何気なさを装いながら…… 「……いいんだよ? そろそろ、自分の幸せ追い求めても」 気丈に、精一杯の勇気と共に、ミリィは優しくそう〈呟〉《つぶや》いた。 その言葉に息が詰まる。頭が真っ白になって、何を言われたか分からぬまま呆然と〈佇〉《たたず》んでしまう。彼女は静かに続く想いを吐き出した。 「わたしは、ほら、こうして元気に育ったから。〈自惚〉《うぬぼ》れかもしれないけど、兄さんが自慢に思える妹には何とかなれたつもりでいるよ?」 「一人でも大丈夫、ブラコンじゃありませんし、師匠からも仮免くらいはもらったところで、家事だって全部お任せ、整理整頓もきっちりやれるし、だから……だから……」 「もう大丈夫。全然、へっちゃら、あなたのミリィは強い子だから平気だもん」 そう言って、小さく震えながらも笑うミリィに俺は頭を殴られたような衝撃を感じていた。 伝わる感情は紛れもなく真心によるもので、相手を想うがゆえのもの。俺を優先するからこその言葉を前に、足場が崩れそうなほど大きなショックを受けている。 この子は、とても素晴らしく成長した。こんなことが言えるほど優しい心に育ってくれた。自分も寂しいはずだろうに、まず兄の未来を考えてそのためならばと口にできるその優しさ。今も瞳に〈眩〉《まぶ》しく映る。 嬉しいはずだ。誇りに思っていいはずだ。この瞬間を目指してずっと、俺はミリィのためにと生きてきたんだ。そのはずなのに。 俺はどうしてか、末期を悟ったかのように苦笑うことしか出来なくて。 「迷惑、だったか……?」 「違うよ、むしろ同じ気持ちだからかな。さっき言ってくれたことが、そっくりそのままわたしの本心」 「兄さんが嬉しいと、わたしも嬉しい。たくさんの、かけがえのない愛情をくれたから少しでもそこに報いたいの」 「本当の、あなたの笑顔が見たいんです」 災禍の炎にもう囚われないでいいんだよ、と。笑んだ許しの声に、今度こそ心が駆り立てられた。 「そのために──」 自分という〈枷〉《かせ》を気にしないでと、訴えかけた声を遮り。 「いつか本当に笑いたいから、君の傍にいるんだよ」 初めて──俺は愛しい少女へ向けて、本当の言葉を告げた。 そうだ、君は〈枷〉《かせ》なんかじゃない。荷物だなんて思わないでくれ、違うんだ。 ミリアルテ・ブランシェは、俺にとって最後の光だ。救済であったとしても絶望や罪なんかじゃ断じてない。間違っているのはゼファー・コールレインという〈屑〉《くず》だけなんだよ。 臆病で、情けない、そんな男がちっぽけな意地を捨てずにいられたのはミリィが傍にいてくれたからだ。 そう、俺は──君のおかげで〈人〉《 、》〈間〉《 、》に戻ることができたんだから、と。 「わっ……えっ、兄さん──」 「あー、はいはい認めざるを得ないねこりゃ」 理解して、おかしくなって、溢れんばかりの想いゆえに抱き寄せずにはいられなかった。 そして触れ合い、伝わって来るこの温もりが馬鹿みたいに愛おしかった。ふわふわの髪も、そこから薫る優しい匂いも、小柄な身体も何もかもが大切で大切でたまらない。手放すなんてもはや考えられないほどに。 やられた……ああ、これはもう完敗だ。俺ってやっぱり、手の付けられないシスコンだったみたいだね。 「ま、つまりこういうこと。妹離れできてないのは、どうも俺の方だったみたいでさ……」 「他や責任がどうとかじゃなくて、正直に自分の幸せ追っているからミリィと一緒に居たいんだ。そこの部分、なんかようやく自覚できた」 「……………」 どこか呆然としているミリィに対し、心中で白旗を振りながら俺は肩を小さく〈竦〉《すく》めた。 なんていうか、恥ずかしいにも程がある。妹が兄離れしようとしているのに、年長の兄側がこうも駄目っぷりを露呈しているだなんて、どうしようもない自分らしさに思わず笑ってしまうじゃないか。 「まったく、とことん格好つかねえな。こんな様じゃ間違いなく俺の方が土壇場で駄々こねそうだ」 「邪魔になったらすぐ叩き出してくれていいからな。そうなったらようやく、踏ん切りつくと思うからさ」 「そんなこと、ないよ」 消えそうな〈呟〉《つぶや》きがミリィの唇から漏れた。おずおずと寄り添ってくる熱が、そっと俺の胸に体温を伝えてくる。 早鐘を打つ鼓動はどちらかじゃなく二人分のもの。互いの視線が交差する、まるで見えない糸で〈繋〉《つな》がっているかのように目が離せない。相手の存在に魅入られていく。 「邪魔になんか、思わないよ。兄さん……」 「わたしも、同じ気持ちなんだから。ずっと一緒にいてほしいって、駄々こねたくて仕方なかったんだから」 「ミリィ……」 「兄さん──」 そして── そっと、ミリィの瞳が閉じられる。 顔はほのかに赤く、何を求めているのかは一目瞭然。どんな感情によってかは、今更語るまでもなく。 ──ゆえに、だからこそ戸惑う。こんな俺がそれに応えていいのだろうかと。 やってはならない。そんな資格はない。どれだけ彼女がそれを願っていたとしても、やった瞬間言い逃れる余地すらなく〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈最〉《 、》〈悪〉《 、》〈の〉《 、》〈外〉《 、》〈道〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。 何も知らない者が見れば、これはいじらしい少女の思慕だ。しかし真実を知る者から見れば、なんと悲痛な皮肉な光景だろうか。 この刹那、圧し掛かって来る過去の重さに肩へ添えた手が震える。 誤魔化せ、笑え、いつものように。どれだけこの子を傷つけることになったとしても、へらへら笑って〈有耶無耶〉《うやむや》にしなければと。 分かっていたはずが、けれど── 「んっ、──」 その想いに応えるべく、唇が触れ合わせる。 胸中を占めるのは、己を八つ裂きにしたい負の衝動。確かな幸せを塗りつぶすほどの後悔を噛み締めながら、ミリィに男としての返事を送った。 ああ、やはり俺は最低だ。 どうしようもない、最底辺の糞野郎だ。 「ふぁ、はふ……」 自分自身を殺したいほど恥じながら、内面を押し隠して顔を離す。 目の前には、夢心地で自らの唇をなぞるミリィ。さっきの一瞬を確かめるように、何度も何度も、そこに残った熱を確かめている。 「…………あーっ、と」 「えっと、その、あうぅぅ……」 「ほ、本日は、お日柄もよくいい天気でっ」 「いやもう夜だから」 「はうぁっ」 もじもじと、トマトのように真っ赤な顔で身をよじる姿はとても可愛らしいものだった。 こちらの顔を見ると〈殊更〉《ことさら》意識してしまうのだろう。上目づかいでこちらを見た、かと思えばせわしなく視線を動かして直視しない。 ぎこちなくダンスをしながら、しばし二人の間に言葉はなかった。 数分ほどそれが続いた頃だろうか。まだ顔を赤面させたまま、ミリィはやっと俺の目を見て〈呟〉《つぶや》いた。 「……しちゃった、ね」 「……そう、だな」 そして笑みを向け合った。彼女はとても幸せそうに──そして俺は、胸の中を激しく強く〈軋〉《きし》ませながら。 家族ではなく異性として慕われている、その愛情があまりに痛い。 それを嬉しく感じる心の裏で、自らを糾弾する声が渦を巻いて荒れ狂う。神がこの世にいるのなら、今こそ俺を裁いてほしいと願う心が止まらないのだ。 俺は、自分自身をもう許せない。兄妹の枠を少しでも超えてしまったこの瞬間、永遠にその機会を失ったのだと自覚する。 「ありがとう、兄さん。今日はとびきり、最高の一日」 それでも、ミリィはとても幸せそうで。 「わたし、兄さんと出会えてよかった。本当に、本当に、言葉に出来ないくらい幸せだよ」 「──大好き!」 「ああ──」 本当に、本当に、崩れ落ちてしまいそうなほど幸福で── 「俺も、幸せだよ、ミリィ」 家族として、男性として、確かな愛情を寄せているその想いに対し、再び心へ誓うのだ。 「約束するよ。必ず、君を守り抜くと」 君だけは、君だけは、そう他の何を犠牲にしても──必ずこの手で守り抜く。 そのためならば、英雄や怪物が相手であろうと関係ない。純粋な愛情に応えるという禁忌を犯した今の俺に、恐れることなどもうないのだから。 そう、当たり前に生きて死ぬために。 どこにでもいる人間として、健やかに、慎ましく。 勝たなければ傷つき、負ければ死ぬような厳しさとは無縁の、優しい世界を君に与えてみせるとも。 原初の祈りを再び胸に想起しながら、優しい時間をミリィと共有するのだった。 「悪いが、そちらのお嬢さんともう少し予定があってな」 「ほら、前のお仕事絡みで」 「あ、そうなんだ……」 そうなんだよ──と、もっともらしい〈建前〉《うそ》を口にしたが、それは〈勿論〉《もちろん》、チトセとロマンチックな時間を過ごしたいからなんていう理由じゃない。 以前の会話で教えられたヴェンデッタのこと、そして自分の個人的〈繋〉《つな》がりなど、それら把握されている情報を吟味した上でこいつを放置していくのは下策だ。 特にミリィとチトセが二人きり、なんていう状況は絶対に避けねばならない。だからこの話に乗れと、相手にアイコンタクトを送るのだが…… こちらの意図を分かっていながら、しかしニヤリと笑うご令嬢。 「熱心なことですね。別段、私は後でも構いませんが?」 「せっかくの機会なのです、可愛い妹さんを優先されてはいかがでしょう。ビジネスを優先せずとも、別段こちらは〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈会〉《 、》〈え〉《 、》〈ば〉《 、》〈済〉《 、》〈む〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》ですし……」 「ねえ、ゼファーさん」 「ははは、またまたご冗談を」 つまり、また会いに来る? 逃がさないって、暗に伝えてんのかそれは。淑女の振りしてなんとも背筋の冷えることを言う。 余裕のある流し目が妖しく輝き、艶めいている。引きつった笑みの俺をどこか満足気に眺めながら、チトセは優雅に髪をはらった。 「まあ、そこまで誘われたなら致し方ありませんね」 「それではお二方、少しばかり彼をお借りしてもよろしいでしょうか?」 「はい、構いません」 「珍しく勤労意欲に溢れているようだから、思う様こき使ってあげるといいわ」 言ってから、ミリィとヴェンデッタは手を〈繋〉《つな》ぎながら背を向ける。 その一瞬、すれ違う間際に── 「あなたも、早く素直になることね」 「つまらない正しさには、もう囚われたくないんでしょう?」 「…………」 つま先を伸ばし、背伸びして何事かをチトセに伝えた。 忠告、だったのだろうか。それきりヴェンデッタはこちらに〈一瞥〉《いちべつ》もせず、ミリィの手を取り楽しげにステップを刻み始めていく。 おそらく俺が話を終えるまで、二人はああして一緒に踊っているんだろう。妹へ妙な虫がつかない構図にほっとしつつ、このパーティを楽しむ少女の姿をそっと見つめる。 どっちも笑顔で、楽しそうなことである。何よりだ。 「……やれやれ、恐ろしいな。もしやと思うが、あれはおまえの入れ知恵か?」 対して、こちらは少々複雑そうな顔だ。何を吹き込まれたのかは聞こえていないが、こちらも俺と同じように痛いところを突かれたらしい。 「んな訳あるか。万事ずっと、あいつはああいう感じだ」 「なるほど、おまえが苦手としているのも少し分かった気がするよ」 「彼女はあまりに〈お〉《 、》〈節〉《 、》〈介〉《 、》が過ぎるらしい。あの目には世界や人がどういう姿に見えているのか……空恐ろしく感じるな」 「つまらない正しさとは、よく言ったものだよ。まったく……」 正しさは痛いのではなく、陳腐だと。自嘲するような苦笑を浮かべて、チトセは何かを噛み締めていた。 「だが実際、一利はあるか。ふふ、それなら……」 そして、何かを得心して振り返ったかと思った矢先。 「では自分らしく、素直に間違いでも犯してみるかな」 がっつりと、モロに人肌の柔らかさと温もりが押し付けられた。 にょりと人体の中で最もふくよかな部位が、いい感じに歪む。それに伴い品のいい香水と、甘いチトセの体臭が鼻をくすぐる──って、ちょい待て。 「ちょ、ほわっ、おま──」 「なんだ、そんなに動揺してくれるなよ。少し女に寄りかかられたくらいじゃないか。ん?」 「ああ、それとも刺激が足らなかったか? それは済まなかった。すぐに足してやるとしよう……ほうら、どうだ?」 「どうしてそうなる。逆だ、逆ッ」 ああだから、そっと寄りかかって肩に頭を乗せてくんな。ドレス越しとはいえ、そのデカい横乳をすりすりと擦り付けるのも止めてくれ。なんか変な気分になってくるだろッ。 まずい、これは今までにない怖さだ。戦闘力的な意味合いとは別の危険を、チトセからひしひしと感じてならない。 いかん、いかんぞゼファー。このままだと〈腰〉《 、》〈が〉《 、》〈前〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈み〉《 、》になってしまう……! 「お、まえ、色仕掛けは苦手とか、昔言ってたろうがよっ」 「言わなかったか? それについては考えを改めた。やはりアレだな、せっかく持って生まれた女の武器だ。腐らせては〈勿体〉《もったい》ない」 「なのでこうして、限定的に使ってみようと開き直ったが……はは、やれやれ効果〈覿面〉《てきめん》じゃないか。嬉しいぞ」 「んぅ……そら、柔らかいだろう? また揉みしだいてもいいのだぞ? おまえが私のモノであるように、私のすべてはおまえのモノだよ、ゼファー」 「どんなサドマゾだっつうの」 よし、また鷲掴みにしちゃれ。あの感触をもう一度──と、頭の中で〈囁〉《ささや》く悪魔。むにむにと押し当てられる豊満な乳の柔らかさと、それが〈あ〉《 、》〈の〉《 、》チトセだという事実を前に、なんかもうまともな思考が働かなくなってきた。 全神経が接触している箇所へ集まったかのようで、鼻腔をくすぐるオンナの匂いも相まり、人目もはばからず抱き寄せたいというドロドロした性衝動が押し寄せてきてたまらない。 それを押し留めているのは心の中で叫ぶ天使のおかげだ。 やめろ馬鹿、おまえチトセに手を出したりして責任取れんの? ヤるならもっと後腐れない、手軽な雌を選べやボケが──と、〈渾身〉《こんしん》の忠告を俺に送ってくれる良心の声。 ああ、その通り。もっともなその正論を頼りにして、なんとか欲を引っ込めた。俺の態度にチトセはどこか残念そうに笑っているが、それでも腕はがっちり掴んで外すつもりはないらしい。 時折、空いた側の手でこっちの腕に指を〈這〉《は》わせている。くすぐったいが、その甘えるような仕草がいたずらっぽく誘惑を続けていた。 「おっと惜しい……もう少しだと思ったのだが」 「ふ、抜かせやハニートラップ初心者め。こちとら立派な肉食形よ、童貞くんとは違うんですー……つうか、そろそろ放してくれね?」 割りとこうして密着するの、息子がちょくちょく起きちゃうからね。本当はね。 「連れないこと言ってくれる……なびかないなら、これぐらいの役得はいいだろう? 私へのご褒美と思ってくれ」 「それにこうでもしておかないと、社交的な場ともあれば余計な声がかかるのさ。せっかくの逢瀬だから一々邪魔はされたくない」 「そりゃ明らかに〈黒髪〉《アマツ》の女が媚び売ってれば、何事かと思われるわな」 ちょいと意識をこらせば、まあ感じるはありとあらゆる視線の数々。 チトセに対して声をかけるかどうか、さっきまで機を〈伺〉《うかが》っていた男どもが遠巻きにちらちらこちらを見てやがる。天秤の特性上、こいつは表向きに顔を知られていない分、珍しいというか気になって仕方ないのだろうな。 となると、俺のことまでやんごとなき身分だと勘違いしているかもしれん。向けられる視線には嫉妬の他、困惑と畏怖みたいなものまで混じっている辺り、どんな大人物かと目されているのやら…… とにもかくにも目立つ目立つ。肝の小さい俺にとっては、帰りの夜道が恐ろしくなる注目度合いだ。 どうしてくれるという意味をこめて寄り添う女を軽く〈睨〉《にら》めば、そ知らぬ顔で微笑まれた。 「いいではないか。私を二人から離す目論見は成功したんだ。そちらの思惑に乗った以上、対価は当然払ってもらおう」 「それに何だ、素面に戻れば劇物扱いしてくれおって。さっきみたいに鼻の下を伸ばしていれば可愛いのに、さっさと野獣になるがいい」 「しーてーまーせーんー。そりゃちょーっとボインにコロリとしかけたけども、男ならだいたいそうなの」 「一部の〈変態〉《ロリコン》を除いて、巨乳には古今東西、雄を惑わす有効成分満載なんですぅ。そういう風に出来てるわけ」 「つまり、なにやら屁理屈で取り繕っているようだが、おまえは私の身体に釘付けだったということだな。これは結構」 「うん、中々のものをお持ちで……じゃなくてだな。男はお馬鹿さんだから、巨乳という時点でポイント高くなっちまうの」 「ほほう──要は、大きければ誰の乳でも同じだと言いたいわけか」 ……心なしか、絡めた腕の圧力が増した。余裕のある艶っぽい笑みが今はどこか怖く見える。 「相変わらずいい度胸だな、ゼファー。いっそ惚れ惚れする正直さだよ。恐れ入るぐらいだ」 「それはアレかな? おまえの腕だからいい気分に浸っている私への挑戦状か?いいぞ、受けて立とう。いつか必ず同じ幸福を味わわせてやるとここに誓うさ、ふふふふふ」 「あ、はい。すみません。実はチトセだからめっちゃドキドキしてました。本当です許してくださいこの通り」 現に今も、俺の心臓は激しく〈動悸動悸〉《ドキドキ》しっぱなしである。冷や汗も出てきた。震えもだ。歯がカチカチ鳴って止まらねえよ。 「……まあその、冗談抜きにするとそりゃあな。背徳感がかなり〈ク〉《 、》る」 「おまえの実力とか、立場とか、家柄とか、あとは思い出。そういう〈諸々〉《もろもろ》の部分を加味して、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》チトセが俺に密着しているかと思うと──」 「──興奮、するんだな。相手が他ならぬ私だから」 熱の浮かされたような〈呟〉《つぶや》きに、俺は目をそらしながら〈頷〉《うなづ》いた。 下卑た男の欲情だとは思うが本音が行き着くのはそこだった。結局なんだかんだ言って、いい女に言い寄られるのは普通に嬉しい。当たり前のことだった。 一度背を向けた高嶺の花がわざわざ手の届く場所に降りてきて、しかも自分へ情熱的にアプローチまでして来るんだ。一人の男してそこに喜びを感じるのは当然の道理であり、ちっぽけな雄の自尊心が刺激されたりしてしまう。 「──けどな」 そう、〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》、こう続く。 「同時に逆のことを思ったりもしてしまうんだよ。そしてそれが、心のブレーキになっている」 「たとえばせめて、この髪を染めてから寄ってくれ……とかさ」 言いながら、滑らかな黒髪を指に取る。 絹のような感触は一級品で、さらさらとほどけるたびに照明を反射して星の粒みたいに光る。天然物の黒瑪瑙が如きその美しさは、決して染色では再現できない輝きだった。 〈貴種〉《アマツ》の証は触れればこれほど軽いのに、気を抜けば俺の指に絡み付いてくるのだと、そんな錯覚をしてしまう。 「黒は嫌いか?」 「いや、似合っているとは思うけど」 けれど、それが重いのだ。選ばれた血の証明、それが似合うということは誰よりも上に立つ者として〈相応〉《ふさわ》しいということに他ならないから。 「美貌、地位、家柄、実力。おまえが持っているもの全部、どれ一つとっても分不相応なものはない」 「ちょっとした色仕掛けで舞い上がる俺とは、まったくもって大違いだ。分かるだろ……?」 「……そうかもな。擁護しようにも、確かにそこは否定できん隔たりだ」 「感性と感覚の違いが非常に大きい。私は背負うべき責を全うしようと心がけるが、対しておまえは煙たがるし、すぐに捨てたがろうとする」 「それでもなんとか長い間、必死に堪えて〈掻〉《あが》き続けてみたものの、限界はああいう形で訪れた。無理強いしてしまったことを、今では強く悔いているよ」 「遅くなったが……すまなかったな、重いものを背負わせすぎた」 「五年前、おまえを追い込んだのは他ならぬ私だ。視野狭窄に陥っていた我が身の不徳が大切なものを失わせた」 「まったく、過去の自分を恥じるばかりだよ。もし仮に会えたとしたら、思わずその場で両断してしまうくらいに」 物騒なことを言いながら、〈喉〉《のど》の奥を震わせてチトセはどこか寂しげに笑った。 それは自信家のこいつには珍しいもので、同時に再会してから何度か見るようになった表情だ。 「だからな、ゼファー。こういうのはどうだろうか」 そして、続けるように問いを選んで── 「私がすべてを捨てたとしたら、おまえは私をどう思う?」 「チトセ・朧・アマツという女を、いったいどう感じるんだ。一つ、答えてみてくれないか」 「どう、って……」 それは以前やった問答の続きだろうか? おまえは重い、それが嫌だというやつの。 たじろぐ俺へ微笑しながらチトセは言の葉を紡いだ、何気なく散歩するかのように、しかしそこへ隠せない想いをこめて問いかけてくる。 「家名も、血筋も、能力も、あらゆるものを喪失してただのチトセとなったなら、というやつさ。私とおまえは果たしてその時、どんな関係になったのやら」 「なんて、少女のようにいじらしく思ってみたりするのだよ。ああ、出会うこともなかったというのは無しだ。ここはもう少し、都合よく想像してもいい場面だろう」 「以前の拡大版さ。子供がやるような、もしも自分がああならば、仮にこうなったらという単純な“if”の話。一度気軽にやってみろ」 「……まあ、そうだなぁ」 何もかも失くす、つまりチトセが一般人だったらという〈もしも〉《if》の話、ねえ。 以前はさらりと流した言葉だが、ぱっと思いつく限りでは単純な結論に落ち着いた。直感的な粗い考えだがたぶんこうなるのだと思う。 「前にも言った通り、俺は決しておまえ個人は嫌いじゃねえんだ。これはたぶん、チトセが一般人になったとしてもあまり変わらない部分だろう」 「申し訳なく思っているのは本当だし、出来る範囲であるのなら償いたいとも感じてる。そういった過去のいざこざ、まとめて全部チャラにできるなら良好な関係を築くこともできると思う」 おっぱいデカいし、しかも俺に好意的。しかも重たい使命や責務もない。となれば自然と、いい間柄にはなれるんだろうが…… 「けれど、たぶんそこで終わりだ。逆にそこで頭打ちになると思う」 「どうして?」 そんなこと、決まっている。 「俺の知るチトセ・朧・アマツは、夢に向けて一直線に飛んでいく、流れ星みたいな女だからな」 正しい方角へ、正しい速度で、一直線に駆け抜けることができる奴。 俺には出来ないことをあっさりやれちまう。そんな〈眩〉《まぶ》しい奴だから── 「だから、俺はおまえに憧れて──おまえは俺の〈古傷〉《トラウマ》なんだよ」 「もしものチトセなんて想像できるか。仮におまえがそんな凡百に堕ちたとしたら、何の興味も持たないんじゃねえのかな? だって怖くないんだから」 「……おい、ゼファー。おまえ無茶苦茶言っている自覚はあるか?」 「知るか、俺も自分で言っててビックリなんだぞ。何だこりゃ」 チトセに対して感じる良さと悪さ、捨てたはずの誇りに誓い。互いの傷、痛み、憤りに、決して消せないある種の信頼……どれもこれもが不可分の領域で合一している。どれ一つとっても切り離せない。 自分で自分の感情がよく掴み取れないわけだ。こいつとの思い出を俺は大切に思いながら、同時に深く拒絶している。 積み重ねた幸福と悲哀がどっちも大きすぎるせいで、自分でも正誤で測れる領域をとっくに超えていたということか。 「はっ、こんなんじゃ正しいも間違いもねえか」 自嘲した口の中に苦いものを感じた。チトセを捨て、ミリィを守ると決めたあの日の自分は正しかったか、それとも否か。 どれだけ自分に問いかけても出なかった問いの答えが、こんなところで出てしまったようだ。思わず苦笑する自分に、チトセは思い出すように瞳を閉じる。 「──忘れるな、チトセ。人には必ず、己より正当で、〈且〉《か》つ強大な正義を相手に立ち向かわねばならぬ〈瞬間〉《とき》が訪れる」 「おまえがその時、おまえだけの〈正義〉《わがまま》を掴めるよう、地獄の淵で祈っているぞ」 そんなことを、〈訥々〉《とつとつ》と〈呟〉《つぶや》いた。 誰かの言葉をなぞるようなその語りは、どこか聞き覚えがある。ああ、確か。 「〈祖父様〉《おじいさま》の遺言さ……そういえば、言ってなかったと思ってな」 「あの人らしいわ」 天秤の前隊長だった共通の師を思い出す。先代はいつも簡単なことは口にせず、その真意を読み取れと言外に要求している部分があった。 引退してチトセに隊を継承してから会ってはいないが、そうか、遺言…… 師父もまたとうに逝っていたらしい。また一人、過去は知人を地獄に連れて行ってたわけか。 「かつて、私はこれの意味が欠片も分かっていなかったよ。字面だけを記憶して、それで覚えたつもりになって、本質にはこれっぽっちも理解が及んでいなかった」 「代償に片目を支払い、相方を見失って、空虚な五年。代償としては長かったのか、それとも短かったのか……」 「そして今、その一端をやっと〈伺〉《うかが》えたような……不思議な気分の真っ最中さ。まったく過去を呪うばかり」 「気づけばこれほど簡単なことだった。私はいま幸せだぞ、ゼファー」 「タンマ、ちょい待ち──どうしてそこでスリスリすんのさチトセさん」 あいや待たれい、明らかにそういう空気じゃなかっただろ今。 しんみりした雰囲気だったでしょ? なんか過去の〈寂寥〉《せきりょう》感が、切なく胸を撫でてたでしょ? それをなぜ、いきなり桃色で塗り潰そうとするのでしょうかこのお方は。 柔らかいのでマジ止めて、おっぱいむにむにしてるんです──ッ! 「何って、マーキングだよ。狼にはこれだろう? 自分の匂いをたっぷりつけて、縄張りを主張しているのさ」 「ちなみに、女は男より生まれつき匂いに敏感らしい。帰ったらあの二人に驚かれてしまうかもなぁ、ああ困った困ったどうしよう」 「尚更やめい。明日の朝食抜きにされたらどうしてくれる」 「ほう、ならば娼婦相手ならいいとでも? 〈娼婦〉《メス》を買い、香水を塗りこまれて家に帰るのは構わないと……それはそれは。不愉快な」 「まさかと思うが、シャワーで洗い流したから隠し通せているはずだ、などと間抜けなことは言ってくれるな。あの聡明な妹〈君〉《ぎみ》なら、気づかぬわけがなかろうよ」 「………マジで?」 「はは、恋する女を舐めおって。匂いに態度、〈些細〉《ささい》な変化それ一つで私たちは男の裏を嗅ぎ分けるのさ」 だからほら、と続けて俺の身体に寄りかかり密着の度合いを深めるチトセ。顔を引きつらせながら、しかし周りの目もあって強引に引き剥がせない俺は成すがまま、その柔らかい匂いと熱を受け止めていた。 ていうか、どうしてこんな淫らというか、明け透けな態度を取るようになったのやら。昔はこうじゃなかったろうに。 暇があれば特訓特訓。悪は斬る。色恋、私心、一切無し。 未来だけを見て、理想と共にひた走る〈眩〉《まぶ》しい女傑……それがどうだ。五年ぶりに出会ったはずの上官は、まるで出した覚えのない女としての側面をこれ見よがしに見せ付けてくる。 事があるたびに戻れ、おまえが必要だと口にしながら、無理強いをしない。そして時折、こうして戦力としての勧誘以外に男女として俺を誘惑しにかかっていた。 そう、これではまるで…… 単に一人の女が、男の気を必死に引こうとしているようで……居心地が悪い。 「というか、なんだ、おまえが娼館通いをしていることを想いだして段々〈苛々〉《いらいら》してきたぞ。貧乏人を自称するなら、性欲処理に無駄な金をかけるな馬鹿者。こっちに来んか、飛んでいくから」 「あとせめて、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》は使うのは止してくれ。私の精神衛生上どうもよくない。同じ巨乳に掻っ〈攫〉《さら》われると過去の自分に腹立つのだ」 「なんのこっちゃ? とは言われても、金取られないからイヴしかいないというかだな」 「そうなると他に選択肢もないわけで……」 「そうか、ならば──」 そして、チトセはすかさず背伸びをして。 「──んっ、はぁ。こうして解消すれば、問題あるまい」 「どうだ? 唇だけでも、見劣りするものじゃないだろう? 後で思い出しながら、ぜひ存分に〈使〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》」 ちろりと舌が、薄くルージュの引いた唇から覗く。 これで二度目となる不意打ちのような口付け。ほんの一瞬だけ触れ合った熱に浮かされたのか、頬を染めながらこちらを見上げるチトセはあまりに魅力的で、息を呑むほど女の色香を放っていた。 陶酔している。喜んでいる。俺と交わした愛情表現が楽しいと、からかうような口調とは裏腹に素直な思惟が伝わってきたものだから。 「……おまえ、実はキス魔だろ」 「こっちも驚いているところさ。ふむ、新しい自分を発見か。悪くない」 「安心しろ。こんなこと、ちゃんとおまえ限定でだよ……んっ、首筋も中々」 これは自分のものなんだぞと、誰にでも分かるような所有印を付けたいのか。そのまま子猫がじゃれるかのように、首筋を甘噛みしてくる。それはもう、一目で分かるほど幸せそうな顔をして。 ああ、ここまで来ると誰にでも理解ができるだろう。鈍感を装う逃げ道なんてどこにもない。 こいつが俺のことをどういう風に見ているのか、否応なく感じ取れた。気のせいでもなく、思い上がりなどでもなく、チトセはきっと──いや、間違いなく。 「おまえは……」 ──俺のことが好きなんだな、なんて。 問うのも馬鹿馬鹿しい決定的な事実を口にしかけて、その寸前に飲み下した。 それはきっと、尋ねてはいけないことだったから。一度でも口にしてしまえば、仮に肯定されてしまえば、もはや俺は責任から決して逃れられなくなるだろう、胸の奥底へ厳重に封を加えて沈めこむ。 かつて〈チ〉《 、》〈ト〉《 、》〈セ〉《 、》〈に〉《 、》〈対〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈犯〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈罪〉《 、》、誰にもいえないその嘆きを清算しなければそもそも隣にいる資格がない。そして仮にそれを成そうとしてしまえば、〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。 彼女が歩み、形にしていく道の輝き。その尊さに耐えられないから。矮小な器が砕け散るのを予想できて、その手を取ることだけは無理だと、絶対の拒否を続けるのだ。 俺もまた、こいつのことは嫌いじゃないのに。 そう思いながら迷い、悔やみ、今も立ち止まっているからこそ、俺は棒立ちのままこいつの〈誘惑〉《アピール》を受けるだけ。 抱きしめることもしなければ、突っぱねることもまたしない。ただ〈案山子〉《かかし》のように突っ立ちながら、自分の意思というものを極力表現せずにいる姿はただ一言、情けない。 「まったく、やれやれ」 そして、そんな一歩を踏み出せない俺のことを、チトセはやはりよく分かっていた。 苦笑しながらまた一度、頬に口付け。今はそれでいいさという意思表示を送った後、組んでいた腕をほどいて手を引いた。 「さて、そろそろ壁の花でいるのも無粋」 「せっかくの舞踏会なんだ。お互い、訓練と任務で若い時間を使った身空だ……ならば今から、遅かりし青春を謳歌してみようじゃないか」 言って、向けられた〈眩〉《まぶ》しい笑顔に、敵わないなと苦笑した。 ああ、なるほど、それはいい。確かに俺たちの青春は密度が濃い分、あまりに質実剛健で殺伐としたものばかりだったと思うから。ここらで一つ華やかさを取り戻してやろうと思うこと、まったくもって悪くない。 その相手が、昔と代わらずおまえであるということも。 悪くない──そう、まったくもって悪くないと感じるから。恭しくその手を握り返すのだ。 「仰せのままに、お嬢様。天秤仕込みのステップで一曲お相手いたしましょう」 「ああ、いいな。それなら私も大得意だよ」 そして、光の下で二人は優雅に微笑んだ。 潜入任務のために学ばされたダンスの作法を、ただ〈真摯〉《しんし》に、相手と踊るためだけに用いていく。自己主張をせず場に溶け込むための動きだが、それでも視線を感じるのは今のチトセがあまりに美しいからだろう。 桜色に染まる頬、その表情から滲み出る女としての艶やかさは、この場のどんな貴婦人より魅力的だった。対して俺は衣装に着られている貧相さ、まったく釣り合っていないと思う。 けれど、男女問わず魅了する一輪の花に対して、今だけは気後れしない。 そう、いまこの瞬間だけは──俺とこいつが素直な自分で向き合える、数少ない機会だと共に確信しているから。 「悪くないな、こういうのも」 すべての答えを先送りにして、夢のような一瞬を記憶の中に刻み込む。 この先、何があっても今という思い出を忘れないように。チトセという凄い女と過ごした時間を真実として、自分自身に焼き付けた。 いつか再び、五年前と等しい重さの決断を迫られることを心のどこかで予感しながら。  そして、静かに時間は流れていく。  〈煌〉《きら》びやかなパーティを彩る語らいの一つは、取り立てて特筆することがない穏やかな時間として過ぎ去った。  それぞれの内面に小さな波紋を残しながらも、しかし大きな変化を促すにまでは至らないまま、夜会は盛況と共に何事もなく幕を下ろす。  ゼファーという小さな男と、付き添う女の逢瀬もまたそこに殉じた。彼らは再び小さな葛藤を抱えながらも普段通りの日々を営むだろう。  だが──それは何事もなければという話。  忘れてはならない、平穏とは砂上の楼閣であることを。 「恐らくこれ以上は意味がなかろう」 「然り、観察経過は終わりだな」  血も、炎も、死も訪れなかった〈稀有〉《けう》な時間はもう終わり、つぶさに監視していた者らが宿命のもとに動き出す。  英雄魔人戦神悪鬼、それら以外の只人など欠片も残らず消し飛ぶだけだ。  運命の車輪が動き出す。後には何も、何一つ、大したものは残らない。彼ら二人がいる限り、やがて訪れる決戦は前人未到の烈火と化して、あらゆるものを焦がしつくすと既に決まっているのだから。  陽光の差し込まない鋼鉄に包まれた空間は、神殿のように〈静謐〉《せいひつ》で、〈且〉《か》つ荘厳な雰囲気に満ちていた。  旧暦の建造物特有である病的な規則性を有しているからか。人の手ならば〈僅〉《わず》かに生じる誤差、〈手作業〉《ハンドメイド》ゆえに生じる製作者の癖や思惟が此処には存在していない。  綿密な計算の元、まるで記号の羅列が如く完全を求めて構築された空間は、単一の機能を叶えるためだけに全存在を傾けている。ゆえにその完全さが、内にある者を威圧するのだ。  遊びがない。余分がない。揺るぎがない──息が詰まる。  人間性が排除された鋼の箱庭は、強大な秩序の支配領域として一人の存在を玉座に敷き、暗い沈黙を保っていた。  その静けさを打ち破るは、気泡の浮かぶフラスコの棺。  中心に坐す半壊した〈歪〉《いびつ》な人影が、見るも無残な有様ながら生の息吹を言葉に変える。 「やはり分かっていたことだが、常態では〈死想恋歌〉《エウリュディケ》に変化は無しか。  内面においては幾らか変節もあったろうが……まあ余人に感じ取れぬ程度ならば、そこにそもそも意味はない。  同調したのもただ一度。外圧を加える必要がある」  朗々と、淡々と、告げる言葉は掠れている。  半死半生の姿どおり、恐らくは声帯も半ば欠けているのだろう。左腕欠損、下半身は丸ごと損壊、そのような状態で生きていることは驚嘆に値するものの、そこから感じられるのはどうしようもない不完全さだ。  致死寸前でありながら生きているその様は、見方を変えれば封印されたようにも思える。あるいは〈憐〉《あわ》れな標本か。どちらにしてもこの広間と違い、完全性や健常さとはかけ離れているという他なく。  そして事実、彼はここから一歩たりとも動けないという縛りがあり、外に出れば即座に死ぬ。  出来るのはただ、〈睨〉《にら》み見上げる英雄に対しこうして語るぐらいのもの。  〈硝子〉《ガラス》瓶に左右される生命。その不自由さと脆弱さを〈鑑〉《かんが》みれば、なるほど、彼という存在の優性は野を馳せる獣や昆虫にさえ劣るだろう。  されど、見るものが見れば分かるのだ。  目が死んでいない──絶大な覇気が、火種となって燃えている。  それは永遠に尽きぬ恒星が如く、人類では到達不能の意志力だ。唯一の大志へ向けて一心不乱に突き進む純粋さはまさに機械、されど男は無感にあらず。  〈滾〉《たぎ》る情熱を秘めている。〈矜持〉《きょうじ》と覚悟を備えている。しかもそれが劣化せず、無機の不変をたたえながら今も燃焼を続けていた。  それは紛れもなく光に属する強さである。外敵の嘆きを願う闇の類では持ち得ない、正反対の〈煌〉《きら》めき輝く星の希望。  こんな様でありながら男は明日を信じている。  自らの往く道を、その尊さを拝するがゆえ止まらないし、諦めない。  ──そう、たったいま見つめあう稀代の英雄とまったく同じに。  彼らは強く、雄雄しく熱い。だからこそ、最大の宿敵であり〈不倶戴天〉《ふぐたいてん》の好敵手という関係だった。  共に常態で発する凄まじい闘志と闘気に、〈星の粒子〉《アストラル》が震えるように揺らめいている。仮にこの場へゼファーがいれば、恐怖しながら二人を指してこう言ったろう。  あれらはまったく同種の怪物──空前絶後の超新星  〈英雄〉《バケモノ》と〈神星〉《バケモノ》が、いずれ雌雄を決しようと激突を誓っているのだと。  そして、その運命に彼らは当然〈怯〉《ひる》まない。いいや、その瞬間を目指すことにおいてだけは全力の一致団結を見せている。  それは狙われる者にとって、どれほど最悪な絶望であろうか。 「マルス、ウラヌスは引き続きおまえの下へ〈貸〉《 、》〈し〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》としよう。  あれらの気性は知っていようが、まあ問題はなかろうよ。寝首をかかれぬよう慎重に運用するがいい」 「貴様に言われるまでもない」  勇者と魔神が共にその手を伸ばしにかかる。逃げ場など何処にもないと示すように、より確実な過剰ともいうべき手段を協力しながら実行するのだ。  その事実、不条理極まる物語の禁じ手を選択してヴァルゼライドは眉を〈顰〉《しか》めた。自らの吐いた言葉に何を感じたか、強烈な不快感を噛み砕くというように〈僅〉《わず》かに眉間へ〈皺〉《しわ》を刻む。  それを見て、笑う男に気泡が鳴った。互いに滅ぼしあう相手でありながら、しかし何故か往年の友人へ苦笑するかのように口角を上げる。 「不服そうだな、英雄よ。理性は納得しているが、感情ではというやつかな?  脱走兵であろうとも、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》もまた紛うことなき帝国民。犠牲にするのを心苦しく感じるとは、潔癖症にも程がある。余裕がなくばその器ごと砕けるぞ?」 「ゆえに割り切れ──などとは少々、口に出来ん無知厚顔か。  それほど利巧であったら、おまえを選んだ甲斐がない。それに……」  刹那──轟、と吹き付ける憤怒の戦意。帝国民、ゼファー・コールレインの命を侮辱するのは許さんと、英雄の射殺す眼光が語っている。  その在り方。矛盾を〈孕〉《はら》み、清濁を併せ持ちながら、それでもなお希望の体現者となる鋼の意志力に〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》だと魔星の主は思わずにはいられなかった。  やはりこの男は破格であると、再確認して〈皹〉《ひび》の入った〈喉〉《のど》を震わす。 「そうだ。そこで怒れる男だからこそ意味がある。 事実、おまえは〈間〉《 、》〈に〉《 、》〈合〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の不備から今まで、よく耐えてきたものだ。現実的な確率論を語るのならば、既に死骸となっているのがよほど正しいというものを」 「それが何だ。確率など、所詮は事前の目安に過ぎん」 「おまえ達にはどうしても人間を侮るという、拭いがたい悪癖がある」 「仕方あるまい、それが我々の〈製造意義〉《アイデンティティ》でもあるのだから。虎に生まれた者は虎としての常識通りに生きるだけ、一々猫を警戒するほど臆病では獣として落第だろう」  どちらが上で、どちらが下か。誕生時に定められた種族として忠実に行動しているだけに過ぎず、それはおかしなことでも欠点でもない。  おかしいのは、この場合まったく逆だ。 「むしろ、虎を食い殺す猫の方がよほど異常というものだ。まったくおまえは、いったい幾つ奇跡を起こせば気が済むのやら……」 「ゆえに、今では己もこう思うよ。あれが最初から〈月天女〉《アルテミス》として目覚めていればと。 そうであれば──」 「俺と貴様の決戦だけですべては終わったはずだろう、か。確かにそこは同意しよう」  共に肯定したのはその一点。思惑は違えど二人は宿命の成就を望み、本来ならそれは〈約〉《 、》〈十〉《 、》〈年〉《 、》〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈叶〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  その真実を〈反芻〉《はんすう》するたび、ヴァルゼライドは怒りとも自責とも取れぬ感情を感じずにはいられなかった。  そうなれば、後の大虐殺は起こらなかった。  そうなれば、マルスやウラヌスといった災禍の魔星も生まれなかった。  そうなれば── 「俺たちの犠牲など“彼女”一人で十分だった」  始まりの女、逆襲の女神と化した存在を強く思う。  罪には罰が必要だ。しかし今、それを受けてはならぬ立場であることが、光の英雄を苦しめている。  その避けられぬ最初の犠牲者。運命の車輪に〈轢殺〉《れきさつ》された女に対して、欠けた神星もまた奇怪な思いを抱いている。 「過去の事だ、仕方あるまい。無いなら創る。足らなければ強化する。そしてこの世は何事も、わざわざ零から始めるより元があるほどやりやすい。  原理としては〈星辰奏者〉《エスペラント》となんら変わらん。生きているか、死んでいるか、そして門が狭いか広いか……それだけの違いだけだろう。  素体の候補としてあれはまさしく極上だった。身元の分からぬ〈貧民窟〉《スラム》出身の女ならば、後の波紋もそう起こらんと互いに納得したはずだ」 「そこを今更、蒸し返すつもりはない。俺も所詮、貴様と同じ塵屑だ。  ただ、〈大和〉《カミ》の技術も大したものではないのだと、そう感じているだけに過ぎん」  日本国の〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》、その集大成ともいうべき存在を前にしてヴァルゼライドはこの上ない皮肉を吐いた。  もし彼らが真実〈大和〉《カミ》と崇められるに足る文明を築いていたならば、千年前に獲得していた技術が非の打ち所がないものであったなら、こののような遠回りはそもそも起こらなかった。  しかもヴェンデッタの覚醒と、彼女とゼファーの関係性。そこに関して未だ不透明な事実は多く内在しているまま。  彼女が〈死想恋歌〉《エウリュディケ》と化す以前、あの二人に何がしかの関係があったのは恐らく確か。経歴の記載された書類から共にスラム出身者という共通点があることからも、近い存在だったのは間違いないと推測できる。  恐らく、肉親。あるいはそれに近しい間柄──と、しかしそこから先が分からない。  一卵性の双子という関係でさえ己の星を託すことなど不可能で、まして性別が違うとあればそもそもそれを論じることさえ時間の無駄というものだった。  〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の頭脳をしても糸口さえ掴めていない。  何かを、そう──決定的な部分を自分たちは見落としている。  真実の核を掴めていない。勘違いしたまま、ついにこうして動き出そうと決めていた。  それはいつか、思いがけぬ反作用となって運命を破壊するのではないか?  今までの“勝利”を覆すほど巨大な、そして邪悪な姿になって。  その名の通り、〈逆襲〉《ヴェンデッタ》を形にするのではなかろうかとヴァルゼライドは危惧している。 「ふ、ふふふ……」 「────何を笑う」  眼下で思考を重ねる英雄へ、含み笑いが水を差した。  鋭い眼光を向ける敵手に対し、〈硝子〉《ガラス》越しに影は小さく首を振る。そういうことではないのだと。 「ああ、勘違いをするな。〈蔑〉《さげす》みもしておらんし、こと此処に及んで人がどうだ、星がどうだと侮るつもりは〈微塵〉《みじん》もない。  おまえ以上の人類種を己は知らんと宣した見解、そこは今でも違わんよ」 「しかしな、最近ふとこう思うのだ。おまえはなんと孤独であるのかと」  告げた言葉に〈憐〉《あわ》れみや〈労〉《いたわ》りは混ざっていない。彼らはやがて全力でぶつかり合う宿敵同士。互いを認めてはいるものの、温かみに満ちた感情や、本気の気遣いといったものを送りあう間柄では決してなかった。  必要と好機があれば〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく切り捨てるし、その日が来れば問答無用で殺し尽くすと己と相手に誓っている。  だが、その在り方を見て感じるものは当然あるのだ。  対等の敵手と定めるがゆえ、不屈の意思を宿した〈同類〉《おとこ》にかける言葉というものがある。 「相対するは一騎当千の眷星神、己を含めてそれが複数控えている。全力で討ちとらねば天津の光は地表を覆い、統べるだろう。  だというのに、対するおまえは文字通りの単騎駆けだ。戦力差を比べてみれば誰の目にも結果は明らか。稚児に説いても理解ができる算数の領域にある。  それに、真実を語らぬことで身内にさえ何人か疑心を抱かれている始末。知っているぞ、その手を噛むべく今も牙を研いでいるらしいことを」 「すべての真実を知る身としては、ひどく〈憐〉《あわ》れで、〈滑稽〉《こっけい》だ。本心を明かしてもすれ違うが人とはいえ、悲しくすら思うほどおまえの理解者はどこにもいない」  権力、組織、それが絡むと人間の足並みは〈途端〉《とたん》に狂う。ここに思慕と金が入れば、人は内紛せずにはいられない。  ヴァルゼライドの〈信者〉《シンパ》にも当然、忠誠とは遠い理由で彼を拝する者もいる。大衆は特にそうだ。大虐殺を収め、連戦連勝により黄金時代を到来させたからこそ、民は施政者を歓迎している。  それはつまり、彼らが崇めているのは伝聞や理想という〈薄幕〉《フィルター》を通してのクリストファー・ヴァルゼライドということ。  アオイのように間近で彼の人となりを体感し、忠を捧げた者の方が全体を見れば極〈僅〉《わず》かだ。  そして、彼は常に真の己を語らない。  咎も、罰も、苦難も、決意も──自分ひとりで背負うがため、胸に深く秘めたまま。  どれほど激しく裏切られても、甘んじて受け止める意思と強さがあるために正道を歩むことが出来てしまう。  そう、どれだけ運命が残酷に彼を痛めつけることがあったとしても。  この世に誰一人、自分を求める存在がいなくなったとしても、戦うことができるのだ。ああ、それを嘆かわしいと思うのは当然の道理だろう。 「希望を担うたった一人の勇者を呪い、足を引こうと画策しているその愚かさ。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》、想像することさえ出来ん能無しどもが多すぎる。 これを仕方ないと片付けるには、悲劇が過ぎるというものだ。  おまえはそれほど民のために、他者のために、真実たったそのためだけに……未来も〈矜持〉《きょうじ》も友も過去も一切合財、残らずすべて、〈決意〉《ほのお》へくべたというのにな」  見返りなど求めない誠実さも、行き過ぎれば自傷と同じだ。他人を救う前に、まず自分を救う。それこそ人の取るべき基準であり、自然な行動というものだろう。  英雄だとてその道理からは外れない。否、そこから外れてしまった者は〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈超〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  臆病な人狼は傷の果てに悟ったが、彼はそこで突き抜けた。  結果、道はさらに険しくなり誰にも頼ることが出来なくなる。後ろを着いていくことさえ、他の誰にも出来やしない。  しかし、これは〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》だ。 「なあ、共に背負わせてもよいのでは? 古来よりこう言うだろうに。人類の未来は一人の決戦存在ではなく、総意によって形作るものであると。  逆説的に、英雄個人の奮闘で救われる後の世とやら、そこにいったい何の価値があるというのだ。 汝ら〈大和〉《カミ》に取り残された者の挑戦、受けて立つのもやぶさかではない。帝国との総力戦でも我らは〈怯〉《ひる》まん、しかし何故?」  そうまで孤高であるのかと、問いかけにヴァルゼライドは瞑目して── 「組織とは、どのように腐ると思う?」  〈静謐〉《せいひつ》に、異なる問いを口をした。  組織の腐敗が起きる原因……答えは幾つか自然と浮かぶ。  権力を手にした俗物、理想の劣化、派閥争いなどはすぐに思いつく最たる例だが……  ヴァルゼライドはこの時、その〈根〉《 、》〈本〉《 、》を指摘していた。そう、俗物が上に立つことも、理想が劣化していくことも、派閥が誕生していくこともすべては一つに集約される。 「──答えは、数が多くなるからだ。善意もまた集団を歪ませる」  そんな身も蓋もない真実を形にして、ゆえに自分はたった一人で挑むのだと確たる真意を形にした。  ヴァルゼライドに命を捧げた部下がいて、この場合、先の会話を聞いてしまったとしよう。  その者は恐らくすぐにこう思うだろう──総統閣下の力にならん、と。  そしてその人物に親友がいて、その友はヴァルゼライドなどよりも身近な仲間を大切に思う好漢であると仮定する。  すると〈途端〉《とたん》に、話はこじれてややこしくなっていくのだ。  運命へ突き進む英雄に、過酷と知りながらその背を追いたがる部下。その部下を止めたがる友誼に熱い竹馬の友と……  誰かが悪意を抱いているわけではない。そこには決意、尊敬、思いやりという人間的に推奨される心だけが存在している。他人を妬み傷つける悪人など誰一人としていないのに、ヴァルゼライドはそれだけでかつてないほど行動を起こしにくくなっていくのだ。  さらに、この中の誰かが一人でも命を落としてしまった場合、そこには当然他の要素も次から次へと登場してくる。  家族や恋人が出てきた場合、彼らが故人の望んでいたことだからと納得しても、不信の芽はどうしてもほんの〈僅〉《わず》かに生まれてくるだろう。  正しさゆえに──愛ゆえに。  よって、巨大化した組織はどうしても加速度的に足並みが揃わなくなる。  円熟する果実の如く旨みと甘みを凝縮しながら、しかしそれは膿んでいくのと実質何も変わらないという不条理な状態へ陥らざるを得なくなる。  ゆえ逆に論じるならば、組織が純粋な理念を保つ方法とは──そう。 「心変わりしない個人によって構成された、単一の歯車。純粋さを保持するためにはそれしかない」 「そして個人である以上、もはやそれは組織と呼ぶべきものにあらず。茨の道だな、まったくどうして……」  そんなことを臆面もなくこの男は言えるのかと、魔星の主は呆れながら感心した。あくまで公平な観点から、ヴァルゼライドは協力者を募るよりも、己一人で相対することを選択したのだ。  他意に左右されぬ環境のもと、独力にて運命を決する。これが最も勝率の高い公算だと、信じるがため揺るがない。 「そして貴様、何を勝ったつもりでいる」  不利など承知。敵に語られるまでもなく、理解して男は道を選んだから。 「言ったはずだぞ。“勝つ”のは、俺だと」  閃光のように、胸の星へ光を掲げて勝利を誓う。  英雄は戦い続ける。  輝かしい未来をその手で民へともたらすまで。 「く、ふ、ふふふふふふ……」  そしてその〈煌〉《きら》めく眼差しと対峙するたび、砕け散った男も思わず〈喉〉《のど》から笑いがこみ上げるのだ。  ああ、それでこそだ。不謹慎ながら心が躍る。  胸に灯るのは負けてはならんという対抗心。まるで人間のような反応をしているものだと自覚して、けれどそれが嫌ではないという始末。  なんだ、まったく、己は壊れてしまったのかな?  だというのなら、それで結構。初志は違わず貫徹する。その過程において譲れない衝突が増えただけで、後は力で押し通るのみ。 「〈吼〉《ほ》えたな〈英雄〉《ニンゲン》。天津をこの地に降ろすがため、選んでやった単なる手駒がよく言った」  運命の切れ端を恵んでやった、あくまで使い捨ての道具。  そのはずだった男は見事、血の劣性や理不尽を覆してここまで来た。  ならばその挑戦、受けねばなるまい。  避けては通れぬ最大の障害であると認識して、半壊した身体を〈軋〉《きし》ませながら星の王は宣誓する。 「挑んでみせろ──己に、この〈迦具土神〉《カグツチ》壱型に。  〈大和〉《カミ》の生んだ唯一無二の眷星神が、宿命の果てに貴様を討とう」  強く、熱く、雄雄しく、激しく、反発しながら高め合う英雄と魔星。  運命の車輪が回る。たった一つの終点へ向けて、誰も彼もが礼賛しながら駆動するのだ。  ここからすべてが動き出す。  ゆえに無論、ささやかなその願いは砕かれる。  人間として、銀狼として、そして吟遊詩人として。  いずれを選択するにしても、彼は遂げねばならないのだ。その手に“勝利”を掴むまで。  最後の安息はこれより終わる  ──〈逆襲〉《ヴェンデッタ》に導かれ、物語は加速度的に佳境へ向けて転がり始めた。  物事の価値を真に思い知る瞬間は、総じて喪失する時だろう。  無くしたことで理解する大切さ。それはよくある話かもしれないが、それだけ世の中に溢れている事例だということを示している。  普段、何気なく存在しているものであるほど有難味は薄れていく。  手足が付いていることをわざわざ感謝していては、日常生活を営むことさえ出来やしない。当たり前の恩恵として甘受したまま生きていくのが、人として、生き物として語るまでもない当然の生き方だ。  よって、それを無くすという事態は当事者にとって不意打ちに等しいものとなってしまう。  何故、どうして、自分にこんな不幸が訪れるのかと……  嘆いた時にはもはや手遅れ。  昨日と同じ今日。変わらない幸福。当たり前で、そこら中にあるような、誰にでも得られるささやかな日常ほど、崩れ去るのは一瞬だ。  前触れなく、運命は激流と化して襲い来る。  破滅の足音はとても静かに、獲物を囲うべく物語の裏側で響き渡るのだ。 「……これは、いったいどういうことなのでしょうか?」  そして──彼もまた、喪失する内の一人。  読み進めていた書類から顔を上げて、ルシード・グランセニックは内心の動揺を押し隠しながら問いを返した。  気を抜けば苦々しく歪みかねない表情を、必死に保ち続けている。 「どうも何も書かれているがままだろう」  対して、鋭い彼の視線を受けても鉄の才女は揺るがなかった。  密命を受けてグランセニック商会に足を運んだアオイにとって、ルシードの疑問など吹けば飛ぶ〈藁〉《わら》と同じ。  その感情も、互いの立場も、一顧だにする価値すらなく、よって一方的な命令を押し付ける行動にも思うところは〈微塵〉《みじん》もない。  そして無論、本来ならこのような対応はありえないことだ。曲がりなりにもルシードは他国に籍を置いている人物で、帝国の土を踏んではいるものの、下達を受けるべき存在かと問われれば答えは当然、否というもの。  実際のパワーバランスはともかく、あくまで表面上は帝国軍が動かしていい駒じゃない。  どのような自体であれ、それは〈依〉《 、》〈頼〉《 、》という形を取らなければならないのだが……今回に限り、それは少々趣が異なっていた。  まるで獅子と鼠。この部屋にいる二人の間には、目に見えない厳然たる上下関係が存在している。  その原因は、ルシードの手にする書類にあった。そこには彼にとっての絶望が、そしてアオイにとっては総統より遣わされたある一命が記載されている。 ゆえに彼女は容赦しない。  忠実なヴァルゼライドの手足として、決定事項を神託の如く伝えるのみだ。 「要点はそこにまとめてある通りになる。司法取引、というわけではないが、そちらにとっても悪い話ではあるまい。  よもやたった今、〈盲〉《めし》いたがため読めなくなったと〈戯〉《たわ》けたことを言うまいな」 「……いえ」  ああ、そうであったならどれほど楽かと、ルシードは歯噛みせずにいられない。許されるならこのまま、衝動に任せて紙面を破り捨てたかった。  それをやらないのは、単に何も解決しないから。暴れたところで既に急所を捉えられている事実は何も好転しない。  今や、王手の理由を尋ねることしかできずにいた。 「なぜ、この話を僕に持ちかけたのですか?」 「貴君にそれを問う権利はない」  そして、返答に取り付く島は欠片もなく。 「探られたくない腹があるなら、黙して従え。ルシード・グランセニック。むしろこれは多大な慈悲と心得よ」 「なにせ、閣下直々に〈目〉《 、》〈を〉《 、》〈瞑〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》とのことだ。貴君に求めているのは真実そこにあることだけ。   事を成せば後は自由と言っている。どうだ、特例中の特例であろう? 父君と同じ末路を〈辿〉《たど》らぬこと、感涙しながら噛み締めるがいい」  そう、命じられたのはたった一つ。  ヴェンデッタの処遇に対する〈諸々〉《もろもろ》、それで清算すると言っている。  今までだんまりを決め込み、風見鶏を続けていた彼に対してその提案はまさに多大な恩情と言っていいだろう。  これが他の帝国軍人ならば、首を刎ねられていてもおかしくないはず。  ただ、それでも── そうだ、ああそれでも。  それでも、それでも、それでもなのだ。〈彼〉《 、》〈と〉《 、》〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈に〉《 、》〈対〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》。  ゆえに激しく葛藤して、今もルシードは苦しんでいる。自分の立場を考えれば奇跡とも言うべき破格の対応を前にして、かつてないほど心を激しく〈軋〉《きし》ませていた。 「では、これにて失礼する。賢明な判断を期待しよう」  悩む男を〈睥睨〉《へいげい》するにも飽きたのか、最後に釘を刺してからアオイは〈粛々〉《しゅくしゅく》と〈踵〉《きびす》を返した。  あくまで仕事、責務ゆえ。ルシードに対して何の感慨も見せることなく去っていく、その背中にぽつりと。 「あなたは、よくそこまであの方に尽くせるものですね」  ほんの〈僅〉《わず》か、呆れと同情を含んだ声がかけられた。〈憐〉《あわ》れむような言葉がどこまでも惨めなはずの青年から告げられる。 「本来なら僕は今頃、絞首台の露でしょう。実際あなたも、個人としてはそうするべきだと強く感じているはずです。  けれど、総統閣下が決めたとなれば話は別だと、ご覧の通りだ。そしてそれはあの方から見た場合、信じるに値する部下であると果たして感じるものでしょうか?」  あなたは、少々従順すぎる。ヴァルゼライドは、自らを肯定する人間を信じるような男かと、問いかけながら切り込んでいく。  淡々と絶望を告げた女に対し、これはちょっとした意趣返しだと言わんばかりに囁いた。 「きっと閣下は、あなたを信用していても信頼まではしていない。評価点は能力のみ…… 部下という枠を超え、一人の人間として見ることはありませんよ? その辺り、あなたは如何にお思いかと」 「それこそ、実に〈嗤〉《わら》わせる。最近の商人は情を第一に語るらしい」  つまらん詮索は不要であると、鋼の信奉者はルシードの揶揄へ侮蔑を返す。  アオイは思う、〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈か〉《 、》と。そのような俗に染まった論調はチトセだけで十分なのだ。 「私の忠義は〈微塵〉《みじん》も揺るがん。あの方こそ我らがアドラーの御旗であり、つまりそれは国そのものを拝することと同義であろう。簡単な方程式だ。  守るべき民のために、仰ぐべき光のために、鋼の規律に隙はない。英雄がいる限り我らは一つの星なのだ。   金銭を崇め、下衆の勘繰りをする輩には理解のできん話だろうがな」 「ええまあ、なにぶんご覧の通りに下劣なもので。ついつい余計なことを口にしてしまうのですよ」 「人は所詮、どこまでいこうと人であると思いますから」 「見解の相違だな」 「凡人らしい戯言でしょう?」  弱さを愛する男と、強さを崇める女。平行線のまま二人の言葉は交わらない。  互いに違わず相手のことを、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈駄〉《 、》〈目〉《 、》〈だ〉《 、》と内心で見下していた。  そしてそのまま、理解し合うことなく別れた瞬間。  溜め込んでいた感情がルシードの中で爆発した。 「──ッ、〈糞〉《くそ》ったれが!」  思わず蹴りつけたテーブルから伝わるのは、〈微〉《かす》かな痛みと衝撃だけ。  自らを〈苛〉《さいな》む現実は、八つ当たりなどで変わらない。それを思い返して、思わず頭を抱えながらソファに腰を下ろして〈呻〉《うめ》く。  彼はこれから、身を切るような苦しみの下で決断を行わなければならない。  それを思い返すたびに、目頭の奥が熱くなる。このまま子供のように泣き叫ぶことができれば、いったいどれほど楽だろうか…… 「ちくしょう、〈詰〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。もう逃げ場所はどこにもない。  僕にも君にも彼女にも……」  そう、運命の車輪はもう回り始めているのだ。  巻き込まれたものは磨り潰される。阿鼻叫喚の英雄譚を前にして、弱者に逃げうる術はない。  ルシードはかつてそれを痛感している人間だ。親を失い、耐え難い苦痛を味わった。だからこそ、肉を削ぎ落とすように血を流しながら、それでも差し出すものを選ばなければならないことを正確に悟る。  〈制限時間〉《タイムリミット》は残り〈僅〉《わず》か。  友情、愛情、立場、使命、そして命。選べ選べ、どれかを必ず。  何かのために、何かを切るのだ。  在るがままにすべてを守る……そんな甘い選択肢だけは、どこにも用意されていない。 「ゼファー、レディ、僕は──」  時計の針は止まらない。大切なものを心の秤にかけながら、彼は絶望の中で嘆き続けた。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》か、〈人狼〉《リュカオン》か、それともただの〈人間〉《ゼファー》としてか。  分岐点はすぐそこに。  主演が行く先を定めるまで、目と鼻の先に迫っていた。 楽しい一夜が過ぎ去ろうと、日々は変わりなく進んでいく。 〈煌〉《きら》びやかなお祭り騒ぎの余韻も抜けて、はや幾日か。ありふれた素晴らしい日常は当人の心配を置き去りに平常運転で進行していた。 まるで、本当に何事も起こっていないかのように。安心するのはまだ早いかもしれないが、今までずっと普段の生活を営みながら心の何処かで身構えていたのが馬鹿みたいに思えてしまう。 それも仕方のないことだろう。チトセから数度の接触があったものの、とりたてて目立った事件はその程度。真剣な命のやり取りはあれから一度も経験していない。 臆病者の勘繰りで済めばいいと気を張っていたが、いよいよもって単なる〈杞憂〉《きゆう》になったのではと……そんなはずもないのに感じながら、昨日と同じ平凡な今日を生きていた。 ゆえに、これもいつも通り。ミリィを仕事場に送ったときに、頑固爺から仕事の話を聞かされた。 「……で、また何かあいつから?」 「近々、片割れを連れて屋敷に来いと言っておったわ。いいな、これで確かに伝えたぞ」 工房に顔を出して開口一番、苛立ちを隠しもしないぞんざいな口調でジン爺さんは伝言を吐き捨てた。 鼻を鳴らして顔を〈顰〉《しか》める態度は相も変わらず〈刺々〉《とげとげ》しい。〈雇用主〉《ルシード》の伝令役にされたことがそんなに嫌か……まあ嫌なんだろうな、この調子だと。気持ちは若干分かるけど。 「内容まではあずかり知らんが、楽観はするな。阿呆坊主の言葉ゆえ気まぐれの線もあるが、そうでない可能性も十分あろう」 「進展の確認か、進展をさせるために呼ぶ算段か。ともあれそれが真相なら、貴様も年貢の納め時ということだな。迷惑をかけることなく、そして精々、派手に死ね」 「いきなり不吉なことを言ってくれるなや」 これもまた、冗談じゃないんだろうなと、思わずこちらも嫌そうな顔をしてしまう。 亀の甲より年の功と言うべきか。この爺さん、恐ろしいことを口にする時は妙な説得力を放ちやがる。思わずそうなってしまうような気がするから、こっちとしてはとても心臓に悪い。 今も何か思案している様子だが、その思わせぶりな態度もやめてほしいものである。次に何言われるのか、怖くて仕方ないだろうが…… 「時に、〈ア〉《 、》〈レ〉《 、》の調子はどうなのだ?」 「転がり込んでから既に〈三ヶ月〉《みつき》。何か特筆すべき事態はあったか?言ってみろ」 「特に何も。普段通りに毒吐きつつ、上から目線のお節介だよ」 「ふん、なるほど解せんな。これほどの期間、起点と行動を共にしながら変化無しとは」 「それでは奴らも焦るだろうよ。泳がせておく旨みがない、ならばそろそろ痺れを切らす頃合いやもな」 「……そうかい」 そりゃ忠告ありがとさん──と、流してやりたいところだが。 薄々気づいていた部分をそろそろ追求すべきだろうと思ったから、頭を〈掻〉《か》きつつ視線を細めた。 「あんま突っ込みたくない部分だから、今までなぁなぁにしていたけどさ……」 「爺さん、あんた何を知ってるわけ?」 「さてな」 返答は簡素で、自分のことながら興味なさそうに嘆息しつつ。 「儂はもはや〈飽〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》のだ。ゆえに、連中の行く末にも、その勝敗にも興味はない」 「よって各々、勝手に決めろ。いまさら儂に関わるな」 などと一刀両断、切れ味よく突き放して。以降はまるで聞く耳持たず、自らの作業台へと足を向けた。 自分は既に劇を降りた役者だと背中で語り、ただ黙する。頑ななその態度から情はまるで見えないものの、決して本音は語らないという意思表示だけは確固として示されていた。 つまり交渉失敗。この石頭めと頭の中で毒づきながら、仕方なく思考を建設的な方向へと切り替える事にしようと務める。 ええと、確かルシードの奴がヴェンデッタを連れて来てくれだっけか?そうなると── 「うわ、迎えに行くのかよ。面倒くせえ」 この場にいない居候がどこで暇を潰しているか、見当ついているために思わず大きく溜息をついた。ああ〈糞〉《くそ》、また歩かねばならんのか。 「アルバートさんのところに行くの?」 「まあな。たぶんあいつ、いつも通りあそこでだべっているだろうし」 やる気ない俺を見かねてか、作業を中断して話しかけてきたミリィに〈頷〉《うなず》く。飼い猫の観察じゃないが、この三ヶ月であいつの行き先はよく分かっていた。 ヴェンデッタの行動パターンと交友関係は、基本的に俺やミリィと関わりのある人間絡みに限定されている。おっちゃん、ティナ、ティセ、ルシードに後は大穴でイヴくらいと……まあその内のどれかといるのは間違いなく。 この時間帯だと十中八九、おっちゃんのところで双子ウェイトレスと談笑していたりするのだろう。もしくは家で一人おとなしくしているかだな。 ああ見えて、単独行動をほとんどしない奴だから。まったくしょうがねえただ飯食らいがと思うのだ。 「ふふっ」 と、眉間に〈皺〉《しわ》を寄せる俺を見てミリィは何故か楽しげだった。 「どうしたよ。いきなり笑って」 「えっとね、なんだか嬉しくて。兄さんこの頃、ヴェティちゃんにも優しくしてるみたいだから」 「……いやいやミリィさんや、さりげなくぞっとすること言わないでくれませんかねぇ? 単に慣れただけだっての」 「そうかなぁ。でもやっぱり、それならわたしは今みたいに慣れた感じが嬉しいな。家の中が賑やかで、暖かいからほっとするもの」 「三人で暮らし始めた頃なんか、兄さんすごく張りつめてたよね。ぱんぱんに膨らんだ風船みたいで、今にも弾けちゃいそうな感じ」 「本当は、見てて不安だったんだよ? なぜかいつもヴェティちゃんを警戒してて、とても怖い目をしてたから」 その言葉に思わず閉口してしまうのは、まさに図星だったからだ。俺はあいつが怖かった──というか今も、それなりの恐怖心を感じているのは間違いない。 だが、同時にそれが少し変化し始めているのも事実で…… 「けどね、今は全然違うよ。兄さんは以前よりとっても素敵になりましたっ」 「お皿を並べてくれるようになったし、ゴミ出しを手伝ってくれるようになったし、それと深酒の回数も減ったよね」 「そりゃあほら、だらけてるとあいつうるせえし……」 容赦なく馬鹿にしてくるものだから、腹が立ってついつい見返してやろうとしてしまうわけだ。 たぶん誘導されているんだろうなと分かっていても、あの毒舌ゴスロリに見下されるのは我慢ならん。要はそんな対抗心からの受動的な手伝いで、自発的なものじゃないから誇れない行動だが、ミリィはそれを違うと語る。 「だからね、きっとそれを“成長”って言うんじゃないかな?」 「妹としてはちょっぴり悔しいけど、今の兄さんはとても格好いいと思うよ。本当の気持ちが見えるっていうのかな? なんだか、すごく魅力的」 「そんなもんかねぇ」 褒められているのだろうが、なんとも複雑な心境だ。笑顔や思いやりで誤魔化すより今の自分がいいと言われたこと、俺は素直に喜べなかった。 自信やプライドと縁遠い生き方をしてきたせいか、どうも恥ずかしいものを見せてしまった気分になる。そんな低い自己評価を見越してか、ミリィはぐっと近づきながら励ますように見上げてきた。 「そうだよっ。ずっと見てきたわたしが言うんだから、絶対間違いないんです」 「──だって、大好きな人のことだもん」 「間違えるわけなんて、ないじゃない」 頬を染めながらストレートに想いを告げる〈自〉《 、》〈慢〉《 、》〈の〉《 、》〈妹〉《 、》に対し、俺は頬をかきながら〈軋〉《きし》む精神を自覚していた。 この前の一件からミリィは時折、女性としての顔を覗かせるようになっていた。 それを受け止めるたびに、男として嬉しいような、家族としてこそばゆいような気持ちになりつつ…… 最後に、最低極まる自分の薄汚さを突きつけられた気分に陥り、激しい〈懺悔〉《ざんげ》に苛まれるのだ。 「……そりゃあ、信憑性あるかもな」 「えへへ、趣味は兄さん観察ですから」 喜びの裏に拭いきれない古傷が潜んでいる。果たして俺は後どれだけ、この子に自分の感情を隠し通すことができるだろうか? 湧き上がる想いへ強固に蓋をする。控え目に深呼吸して、意識を無理にでも切り替えた。 ──まあともあれ、兄貴としてはその信頼に応えないといかんわけで。 「んじゃそれらしく、お仕事片付けちゃいますかね」 「うん。今日もお互い、頑張ろうね!」 少しは前進しているといわれた以上、やるべきことをやるとしよう。 と、いうわけで── 「景気づけに調律頼むよ、新米〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》さん」 「あっ、言ったなー。これでも進歩してるんですっ」 「どうかねぇー」 なんてからかいながら、本当は欠片も疑っていない。あれから日進月歩で上達しているミリィの腕を俺は誰より信じているから。 「その内、兄さんが驚くようなすごい調律してやるもん!首を洗って待っててねっ」 しかしこうして、軽く意地悪をしてみるとうちの子は可愛いもので。ついつい、いぢめてしまうのだった。 「じゃあ始めるよ」 「〈星辰体〉《アストラル》──〈波長〉《ウェイブ》、〈同期〉《シンクロ》」 ……………… ………… …… それから、しばし〈発動体〉《アダマンタイト》の調律を行って。 工房を後にして一人、大通りをそれとなく周囲を〈伺〉《うかが》いながら歩いていく。 道を行き交う人々から特に感じるものはなく、害意や敵意といった非日常の要素はどこにも紛れていないようだ。 「罠なし。視線なし。危険なし、と」 要するに、平凡な午後の街並みだ。危険なものが潜んでいる気配どころか、その予兆といったものもなかった。 「平和、なんだがねぇ」 それはとても良いこと、なのだが。変な肩透かしのように思えてぼやく言葉が口から漏れた。 先程の、爺さんから意味深に脅されたことが結構尾を引いているのだろうか。嫌な予感というほどではないものの、何か収まりの悪い感情が胸の奥で小さな渦を巻いている。 〈喉〉《のど》に小骨が刺さったような、ちょっとした違和感が〈鬱陶〉《うっとう》しい。そう思っていると…… 「あら」 「あり?」 「おう、ゼファーじゃねえか。丁度よかった」 期せず、というかまったく予想しない場所で目当ての人物と出会ってしまった。しかも隣には、俺以外の保護者付きで。 飲食店の経営者がこんな時間に堂々と歩いているとは、いったいどういうことだろうか? 中年親父が店を放置して表を出回っていることに対して、ついつい〈怪訝〉《けげん》な目をしながら穿った想像をしてしまう。むしろ今までの儲けから考えて、考え付くのは一つしかない。 「……まさかおっちゃん、ついにあの店潰れたとか? あ、ツケはチャラという方向でよろしく」 「ははははは、最初の予想がそれかよこいつめ──はっ倒すぞこんにゃろう」 にこやかに否定されるまで一秒もかからなかった。おかしい、どうやら違ったらしい。 おっちゃんは真面目だから軽々と席を外すこともないだろうし。ならばますます理由が想像できないな、と思ったところへ隣から入るフォロー。 「急用だそうよ。外せない用事が出来たから、今日はもう閉めるのですって」 「ティナとティセもこれを機に軽い里帰りをするらしくて。少しの間、店そのものも休暇期間に入るらしいわ」 「あいつらは出稼ぎ組でな。俺の用件ともタイミングが重なったからいい機会だと思ってよ、骨休めをすることにしたんだわ。自営業はそういうところ個人の裁量で決められるのが強みだな」 「で、話し相手もいなくなるし、店内に残ったお客も私だけだったから。こうしてご厚意にあずかっているというわけよ」 「常連の子を放り出して、はいさよなら……なんてのは個人的によろしくねえしな。まあ、これも客商売の内ってことさ」 にかりと笑うその顔の、なんと男らしいことだろうか。 そして本当に、そんなサービス精神でどれだけ首を絞める気だろうかと思うのだ。一銭にもならないというのに、この親父はまったく…… 「男前だな、店長。俺は常々その優しさが貧乏の元だと思っていたよ」 「まったくね。そこは私も同意せざるを得ないところよ。常連とはいえ小食の少女一人、相手と儲けの相関を見て態度を変えなきゃ駄目じゃない」 「つうか、送り届けようとか普通考えないよな。どれだけ親しくなっても基本は店長と客の関係なんだし」 「そういう部分につけこまれるから、ゼファーのような甲斐性なしにもツケを許してしまうんでしょう? さっきも散々、従業員からねちねちいびられてたものね」 「あー、そりゃ帰省するのも金がいるしなぁ。貧相なナリで帰っても家族を心配させちまうか」 「優しさは人生を彩るけれど、人生を続けるには最低限の賃金は必要なのよ? あなたはもう少し狡猾になるべきね、アルバート」 「……分からん。女の子を送っただけで、なぜ俺はこうも責められているのだろうか」 無論、心配だからである。追い込みたいわけじゃないのだが、あまりに面倒見よすぎるとそれはそれで見ていて不安になるというか……ともあれ。 「まあコックとしてはともかく、オーナーとして不甲斐ないのは事実だと思うわよ」 「人格は一流、けれど料理は二流、あげく経営手腕が三流なら、悪いけれど及第点はあげられないわね。多少あこぎな真似をしてでも富の搾取は必要よ」 「その人情は好ましいけど、女から見た男の稼ぎとしては……ねぇ?」 「もう少し悪者になる覚悟をしてはどうかしら。ああ、でもそうなるとあなたの魅力も半減してしまうわね。困ったわ、どこも八方塞がりなんて……ふふっ」 「……おい、なんか嬢ちゃんの棘が急に鋭さを増したぞ。おまえ限定の残虐性が俺にも発揮されているんだが、何だこれ?」 「そりゃたぶん、おっちゃんも気に入られたからだな。おめでとう」 そしてようこそ、こちら側へ。心の底から歓迎しよう。どうかそのままこの小姑もどきの説教を一手に引き受けてくれるがいい──ッ! 「あらやだ、何を笑っているのかしらこの駄犬は。まさか私があなたを見離すとでも思って?」 「安心なさい、どちらも改善点の塊だもの。自らの不徳を嘆き、生き恥を噛み締めながら、変わりたいと願うまで欠点を指摘してあげるわよ」 「どれだけ情けないとしても私は決して見捨てないわ。どう、嬉しい?」 「……ないわぁ」 そこで意気揚々と頷けるのは極限まで達したドMか、超重度の修行マニアぐらいだろう。向上心が服着てるような奴しかそんな言葉は喜べんぞ。 見ろ、あのおっちゃんですら頬が引きつっている。それでも俺ほど嫌がっていないあたり根は善良でタフなのか、軽く頭を振ることで話のペースをすぐに戻した。 「まあ、なんだ……とにかく、今日からうちは少し長めの休店だ」 「再会するまでの間、悪いが飲み食いは別のところでやってくれ。うちと同じ調子で好き勝手に踏み倒すんじゃねえぞ」 「あいよ。首を長くして待ってるさ」 なんだかんだ言って、俺もおっちゃんのレストランは嫌いじゃないし。 さっきまで一部ヴェンデッタと共にああだこうだと言ったもの、あの場所は悪くないのだ。いつかミリィが言ったように人の暖かさが感じられる分、居心地がとてもよかった。 なので常連らしく、早めの再開を待つとしよう。それまでは少しの間、よそに浮気をしてみますか。 「……ゼファー」 思っていたところで、おっちゃんが少し難しい顔で振り返った。 申し訳ないような、歯に物の詰まったような顔をしている。 「あー、っと。なんだ、その……」 「次に店開いた時は、ちゃんと今までのツケ払ってくれ。でないとまた、俺があの小悪魔どもにいびられちまう」 「そういうことは明日の財布に聞いてくれ」 つまりは予定で、未定だった。無職にそんな期待をするなと清々しいほど堂々と返す。 予想通りの返答を聞いたからか、苦笑しながらおっちゃんは軽く手を振りながら去って行った。 そして当初の予定通り。目的の人物はこちらへ視線を寄こし、どこか悪戯っぽく微笑んでいる。 「それで? 私を探していたのは、一人が寂しくなったから? 素直な態度ができたなら甘えるのも許してあげるわ」 「阿呆か、だったらミリィをなでなでしてるね。おまえの〈恋奴隷〉《ファン》がどうかお顔を見せてとよ」 「それはそれは、中々気乗りがしないことね。まあそれが私の仕事ならリクエストには応えるけれど」 「追っかけがいる分ありがたいと思えっての。むしろ幸運なのは〈傍〉《はた》からみたらおまえの方だぜ?」 「身分と資産と顔だけ見たら、あいつあれでも良物件だぞ」 「そこに性癖を入れないところが最後の情けということかしら?」 みなまで言うな、さすがにあれは俺から見ても擁護できん。 あの捻れに捻れた女の趣味さえなければなぁ。ヴェンデッタに熱を上げることもなく、順当にどこぞのご令嬢をゲットしていたはずだろうに。 横目でヴェンデッタの表情を確認したがそこには今からルシードと会うことへの期待感とか、男女的な愛情とか、胸のトキメキ的な何かはこれっぽっちも感じ取れない。想いは依然、一方通行のままだった。 それなりの頻度で会っているものの、やはり進展する可能性は零らしい。あいつはとことん報われないなと、心の中で合掌しながら二人は揃って歩き始めた。 別段、急いでいるわけでもない。時間の指定もない以上、なんとなく風景を眺めながらゆっくりグランセニック商会を目指していく。 「しかし、なんか今日は慌ただしいな」 ルシードからの招集に、爺の思わせぶりな態度や、私用があると言ったおっちゃんと…… 気のせいか俺の身辺限定で何かがごちゃついているように思った。ここでチトセからの接触などがあれば、さらにその感覚は加速するだろう。 不吉な予兆というまでにはいかない、妙に浮ついたこの感じ。どうも今一つよろしくない。 「嵐の前の静けさか、それとも嵐が去った後か。あるいはようやく台風の目を抜けて暴風域に再突入を始めたか……」 「あなたはいったいどれだと思う? まあ真実がなんであれ、風雨に〈晒〉《さら》されるのは免れないでしょうけど」 「へいへい、俺がひーこら喘ぐのがそんなに待ち遠しいわけで?」 「馬鹿ね。辛いに決まっているじゃない。失う様が見たいだなんてそもそも悪趣味極まるし、人に不幸が訪れるのをいったいどうして歓迎できるというのかしら」 「これはあくまで必要性の問題よ。壁が迫ってこなければ、誰かさんはそれこそずっと惰眠を〈貪〉《むさぼ》り続けるからね」 「けれど──」 そこで、何故か〈滅多〉《めった》に見せない寂しげな微笑をたたえて。 「ゼファーが“成長”し始めて、最近は少し安心しているわ」 「下地はできた。だからきっと、後はもう何を〈選〉《 、》〈ぶ〉《 、》か決めるだけなんでしょうね」 そう〈呟〉《つぶや》いた言葉に、俺はちょっとした驚きを感じていた。 それは、改善を訴えてきた女の口から飛び出した初めての正当な評価。ある一定のラインには達しているということ。そして〈仄〉《ほの》めかした先に最後の導きがあるということを示していた。 「選ぶって、何をだよ」 「誰のため、そして何のために〈英雄〉《ヒーロー》になるかをよ」 「家族、友人、恋人、世界──なんでもいいの、心の底からゼファーが本気になれるものなら。私はそれを祝福するわ」 ヴェンデッタは語った。余人から指を差されるものであっても、本人以外はまるで価値があると思えないようなものでも、そこは一切構わないと。 重要なのは、未来を目指すために何を第一と定めるか。 そしてその決断に対して正真正銘、〈渾身〉《こんしん》の〈熱量〉《おもい》を注ぎ込めるかどうかにあると、そう告げている。 ──だから。 つられて俺も、脳裏に〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈描〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》のだ。 記憶から消えない影と〈傷痕〉《きずあと》。優しさと温もりの中、静かに血を流し続ける自分自身の原風景を見つけたからこそ、今一度。 問いかけた。 「それはたとえば、〈過〉《 、》〈去〉《 、》を選んだとしても?」 「ええ〈勿論〉《もちろん》、ただし途中下車だけは許さないわ。そして予言してあげる」 「それを選択した瞬間、あなたを襲うのは〈か〉《 、》〈つ〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈純〉《 、》〈粋〉《 、》〈な〉《 、》〈真〉《 、》〈実〉《 、》〈よ〉《 、》」 ゆえにそれこそ、致命の猛毒──〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈名〉《 、》〈の〉《 、》〈死〉《 、》〈神〉《 、》である。 ひとたび顕現すれば最後、言い訳は二度と効かずそして逃げ場はどこにもない。ゼファー・コールレインの精神を欠片も残さず、細胞単位まで砕くだろう。 〈喉〉《のど》が鳴ったのは恐怖から? ゆっくりと浸透する波乱の予兆は、ヴェンデッタの口を借りて無明の未来を示している。 そしてその時、俺たちは── 「……ま、今すぐ決断を迫られないだけ有情だと思っておくさ」 と、陰惨たる物言い一発笑い飛ばしてみた。 意味深なのは普段通りだ。ちょいと気を抜けば深刻そうな雰囲気を出してきやがる。 だから一々、訳の分からん言葉を受けて落ち込むのはもうやめよう。正直もっと無茶振りされると思ってたと、肩をすくめて受け流した。 「動じなくなったじゃない。それはとてもいいことよ」 ヴェンデッタもそんな俺を見て微笑む。辛辣な言葉を投げかけながら、しかし右往左往はしないでほしいというように。 「時計の針は戻らない。だからせめて、後悔だけはしないようにね」 さて、どうだか。トラウマだらけの人生なのだが…… そうそう克服できるだろうかと思いつつ、天を仰いでみるのだった。 到着したルシードの館を前にして周囲の様子を確認するべく、立ち止まる。 身分の高い要人なり高官なりと鉢合わせては非常にまずい。そのため軽く警戒したが、こちらを呼んでいるためか来客の気配はなかった。 よってそのまま気兼ねなく、扉を開けようとしたところ…… 「…………?」 一瞬、妙な感覚に手が止まった。 空気がざらつくような違和感。屋敷の中に〈お〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》感じながら、首をひねりつつ足を踏み入れた──瞬間。 「色めき萌ゆる妖艶たる〈薔薇〉《ばら》の〈蕾〉《つぼみ》──おお、それは貴女のこと」 「いやもう、そういうのいいから」 幽霊の正体見たり枯れ尾花。待ち伏せていた変態の口説き文句に、とりあえずツッコミを入れておく。 さっきまで真面目になりかけていた自分を、今は殴ってやりたい気分である。 「むむ、友に対してなんたる態度か。最近ますます容赦がなくなってきたよね、ゼファー」 「愛しの女神とついでに君を迎えるべく、三十七分と四十秒ほど扉の前でずぅっっっと一人、体育座りの体勢でわくわく出待ちしていたのにさ」 「その根気をどうして別の形で生かせないんだろうな」 あと友人と思ってるなら、玄関口でとんだ〈性癖暴露〉《プロポーズ》を聞かされるこっちの身にもなってほしい。ちょっとした罰ゲーム気分じゃねえか。 「あらあら、今日も元気に頭の〈螺子〉《ねじ》が足りないようね。ルシードはとても愉快だわ」 「賢くならないチワワみたいで、いつも見ていて飽きないわね」 「おうふ、光栄の至りでありますッ。ねえねえゼファー、僕っていま愛されてるよね! 天使の優しさに包まれてるよね……!」 「ペットという分類ならそれなりなんじゃね? 人としてはアレだろうけど」 「──ふむ、それもそれで良しとしよう! 任せたまえ、僕にとってはその扱いさえご褒美だッ」 「拘束プレイ、首輪に調教、お尻ぺんぺんお馬さん……ああ、いいねぇ、いいよ実にいいッ。彼女からの施しならどれも余さず、味わい尽くしてみせようともさ」 「潔いドMだこと」 「認めたくねえけど、不屈の精神ってこれかもな」 清々しい被虐主義者とかちょっと無敵すぎるだろ。誰かこいつを徴兵して、カミカゼ特攻させてこい。 「つうかおまえ、どんだけ暇だよ。本職の方はどうなったんだ?」 「放り出してるわけじゃないよ、今日の分は片づけてある」 「最低なものが一つ残っているけれど……まあだからかな、こうして馬鹿もやりたくなるのは。いいユーモアだったろう?」 「僕だってたまには羽目を外したい時があるのだよ。善良な好青年の顔を脱ぎ捨て、窮屈な毎日を潤すためにちょっとした遊び心にふけることもあるわけだ」 「それどの口で言ってるんですかねぇ?」 「私の目には、遊び心が二足歩行しているようにしか見えないけれど?絵に描いたような〈放蕩御曹司〉《ボンボン》よ、あなた」 「ああ、辛辣なその口調が胸に刺さる……! ですがこの〈諧謔〉《かいぎゃく》も、すべてはあなたがその魅力で僕を捕えて離さぬがゆえ。そう解釈していただきたい」 「麗しのレディを前にどうして正気を保てましょうや。おお〈大和〉《カミ》よ。美とは、愛とは、なんと甘美な罪なのかッ」 「……この子、今日は一段とテンション高いわね」 まったくだ、今日のルシードはいい感じにキマっている。いつもの三割増しで〈鬱陶〉《うっとう》しい。 ていうか、どうもアプローチが激しすぎるように思うのだが。 ……何だろうな。これは。 「いやぁ、しかし彼女がいると空気が違うねぇ。金、金、金と亡者の〈集〉《つど》うこの屋敷が乙女のフェロモンで浄化されていくようだ」 そのちょっとした違和感は、部屋まで歩いている間でもずっと変わらなかった。 大仰な身振り手振りを添えながら、機関銃のように吐き出される美辞麗句。確かにそこはある意味いつもと変わらないが、情熱のギアが二段は上がっていると見える。 だからこそ、どうも〈腑〉《ふ》に落ちない。ドM〈且〉《か》つロリコンという、変態の見本みたいな男だがこう見えてルシードの根はとても繊細で臆病なのだ。 ぶっちゃけると極度の〈ヘ〉《 、》〈タ〉《 、》〈レ〉《 、》なのである。 仕事面ならいざ知らず、チャンスを前に尻込みするのは序の口で、特にヴェンデッタを相手にする場合では〈わ〉《 、》〈ざ〉《 、》〈と〉《 、》笑い話で済ませるよう馬鹿をしている節があった。 それは俺と同じ、染みついた敗北者の性だ。どうしても深く踏み込むことが出来ないまま中途でお茶を濁してしまう、それが常。 ゆえに、今のやけに陽気なこいつが俺にはどこか……そう。 「ルシード、おまえ何かあったのか?」 泣き顔を隠しながら必死に踊る、〈道化〉《ピエロ》のように見えた。 商談用の応接室まで目と鼻の先の距離であったが、思わずそう問いかける。 「────は、へっ?」 「…………あらあら、まぁまぁ」 「なんだよおまえら、二人して。気になったんだよ悪いかコラ」 「あー、とにかく、余計なもん溜め込んでるならここで軽く吐き出しとけって。独り言形式なら幾らでも〈愚痴〉《ぐち》ってくれていいぞ、たぶん」 適当に聞き流すし、抱えられないようだったら当然その場で忘れておく。 単にぽつぽつ語るだけ。大した答えなんてきっと俺は返せない。けれどそういう軽いノリであるからこそ、話して楽になることがこの世にはたくさんあるのだ。 そんな具合に、いい感じのことを口にしたのだがしかし── 「……君、本当にゼファー? 実はよく似た別人だとか、怪盗が変装している偽物だったりしないかい?」 「うそ、本物? 何それ怖い……」 「どういう意味だこの野郎。つうか俺が気遣うのはそんな不自然に見えるかよ」 「そりゃあ〈勿論〉《もちろん》」 「当然よね」 おなじみ、この反応である。はいはいそうだね、どうせ味方はいませんよっと。 「いや、そう拗ねないでくれ。正直、凄まじいギャップなんだ」 「なにせ君、他人の〈葛藤〉《にもつ》を配慮するとか、今まで一度もしてないだろう。そりゃあこちらも驚くよ」 「僕の知っているゼファー・コールレインは病的なほど臆病で、自分どころか他者の傷に触れることさえ拒むような、そういう男だったはず。ていうか実際そうだったし、だからこちらも重宝していた」 「それがまさか、男子三日会わざればとは言うけどさ……」 そこで静かに言葉を切り、ルシードは俯きながら口角を歪めた。 それは後悔とも歓喜とも嫉妬とも取れるような、そしてどれでもないような、形容しがたい複雑な笑みを浮かべている。 「……愛しのレディ、これはあなたの功績で?」 「いいえ、あの子を取り巻くすべての手柄よ。誰か一人の影響じゃない」 「私の未練や、彼女たちの愛情に、あなたの友情さえもまた含まれているのでしょうね」 「ならばこその必然ですか……はは、なるほどなるほど。これは参った。してやられたと言う他ない」 「ほんのちょっぴり男前になったようだね。ゼファー〈く〉《 、》〈ん〉《 、》」 「うっせえやい。ったく、皆して大げさな反応しやがって……」 からかわれたり、まともに褒められたりでむず〈痒〉《かゆ》いわ。同じ場所で足踏みするのに飽きてきただけだっつうの。 どんな風に生きようが、それはそれで疲れることが分かったからな。成長しないという選択すら、〈変〉《 、》〈化〉《 、》〈を〉《 、》〈壊〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》というエネルギーが必要になってくるんだ。まったく堪ったものじゃない。 当然、自分の置かれた状況に今も恐怖を感じているのは間違いないが……どうもその調子だと、この先ガチで詰みかねないし。 必要に駆られた以上、少しは開き直るしかなかろうよというわけでして。 「ほれいいから、お悩み教室開催してやるよ。これぞ出血大サービスだ」 「結局、なんだかんだで今までおまえには世話になってきたからな。一蓮托生なんだろうし、気の一つぐらい使ってみるさ」 「……そうかね。ありがたいな、本当に」 涙が出そうだと言いながら軽く目じりを擦っておどける、その横顔。まさか本当に泣いていたのだろうか? 驚く俺から視線が切られた。〈微〉《かす》かに潤んだその瞳が、〈佇〉《たたず》む少女へ向けられる。 「──ヴェティ嬢」 「あなたは、今の彼が好きですか?」 「ええ、思わず笑みが浮かぶほどに」 そして、返答は短くも誇らしげであったから。 「そうですか……なら、僕も負けられないかな」 「ああそうさ。僕だって、本当はこんなこと御免だった。けれどそのまま流されて、〈仕〉《 、》〈方〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》といつまで言えば──ッ」 「……ルシード?」 微笑んだかと思えば一転、顔を手で覆いながら彼は嘆きを搾り出し始めた。 恐怖に耐えて、逃げ場のなさに苦しんで、けれど何をすればいいのかと、決断できずに〈煩悶〉《はんもん》している袋小路の痛みと悲鳴──〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈仕〉《 、》〈草〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈見〉《 、》〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。 まるで自分のように泣きながら、ルシードは激しく自分を恥じている。 そして…… 「だから──二人とも、ありがとう。ようやく僕も決心がついたよ」 「逃げろゼファー、〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈先〉《 、》〈は〉《 、》〈地〉《 、》〈獄〉《 、》〈だ〉《 、》。奴らが気づく前に一刻も早く彼女を連れて──」 「おっと、そいつはいただけねえなァ」 「半端な男だ。役に立たん」 〈真摯〉《しんし》な眼差しが、隠していた真実を明らかにする──まさに寸前。そう、寸前で。 「うあああぁぁぁ、ぐぅぅッ──」 「なッ……!?」 ……何もかも、すべてがまとめて御破算となる。 吹き飛ぶ応接室の扉。爆風によって傷つく廊下。〈咄嗟〉《とっさ》に飛び退いた俺とは違い、破壊の波に巻き込まれてしまったルシード。 前兆なき暴力が一瞬であらゆるものを〈蹂躙〉《じゅうりん》し、それは有形のみならず無形のものまで焼き払う。 俺が抱いたちっぽけな親切心や、友人に心変わりを決断させた感情まで。人の抱く心と身体、総じて残らず無意味であると示すように、虚しく激しく消し飛んでいく。 「目標は目と鼻の先、策を弄する必要なし」 「お膳立ては整った。さあ、運命の続きといこうぜ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 ──そして、代わりに出現したのは希望を砕く〈禍〉《わざわい》の魔星。 かつて相対したその異形が見えた〈途端〉《とたん》、俺は残酷な運命が再び動き出す音を聞いた気がした。 一歩、一歩と、何気なく歩み寄る絶望の使者に汗が噴き出て止まらない。 震える足は自然と後ろへ下がっていき、指先が〈痺〉《しび》れるように恐怖の毒に侵されていく。 この悪夢はいったい何だ? 分からない──分からない、から。 「何故、どうして……」 「どうもこうも見たままでしょう。現実の認識さえ〈覚束〉《おぼつか》ないとは、やはり人間。失望させてくれるものだわ」 「所詮、奇貨など邪道ということ。ただの起点ではこんなものね」 「そう言ってやるなよ、相棒。お友達に売られるところで、友情回避が成功したかと思ったところのオレたちだ。そりゃあ混乱するものさ」 〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈待〉《 、》〈ち〉《 、》〈構〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》のは、つまりそういうことだと明かす鬼面。万事仕組まれていたと語る。 俺とヴェンデッタが呼ばれたこと。ルシードの態度に引っかかるものがあったこと。更に、最後の“逃げろ”と言ってくれたこと…… それらが一本の線に〈繋〉《つな》がり、あいつがどういう役目を担わされていたかが理解できた。 きっと帝国そのものとも言える強大な圧力をかけられたのだろう。そして俺たちをおびき出す、都合のいい餌に選ばれてしまったんだ。 だというのに、あの馬鹿は土壇場で俺たちを優先したから── 「──くっ、ルシードッ!」 噴煙に塗れた廊下の破片へ叫んだが返答は戻ってこない。それが最悪の事態を想起させて、怒りと悲しみを止め処なく氾濫させた。 気絶しているだけなのか、それとも押し潰されてしまったのか……確認しようにも目の前の怪物二体を超えなければそれも叶わず、しかし強行突破を試みれば此処は戦場と化すだろう。 そうなれば生きていても余波に巻き込み、そのまま殺してしまいかねない。 生死の確認は不可能だった。 きっとあいつらの言うこと聞いてりゃ、こんなことにはならなかったはずだろうに…… 馬鹿野郎、大馬鹿野郎がッ。キャラ違うだろ、格好つけてんじゃねえぞ馬鹿! だから頼む──生きててくれ。その時は俺の方から酒を〈奢〉《おご》ってやるからさ。 「来るわよ、ゼファー」 ──そして、後悔を噛み締める猶予もなく。 「よう、そろそろ気持ちは定まったかい?」 「どちらにしても一向に構わない。確保させてもらうだけ」 一切の希望的観測を砕きながら、現実は破滅を描いて進行するのだ。 「ではせいぜい、無駄に〈掻〉《あが》いてみせなさい──」 ──〈星辰光〉《アステリズム》、発動。 万象〈蝕〉《むしば》む魔の双星が、〈禍々〉《まがまが》しく煌いた。 絶望が迫る。死が具象する。これより先、暴虐の輪舞が訪れると予見する。 「──捕まれぇぇッ!」 ヴェンデッタを抱えながら飛び退いた──次の刹那、顕現したのは絶対零度の氷結凍園。 嵐に吹き飛ぶ瓦礫が如く、氷杭が弾雨と化して襲来した。 「つぅぅ、ッ──」 それを〈躱〉《かわ》す、避ける、逃げる──受けようだとか切り払おうとか、そんなことは思いもしない。 その数、そして速度に質量。それらがもたらす破壊力と脅威のほどは最悪と言って余りあるだろう。人体を〈藁〉《わら》のように貫通する氷の棘が、散弾に等しい密度で空を裂いて飛翔してくる。 しかもこれら、一撃たりとて当たれば駄目だ。即座に終わる。 単に磔と化すだけではない。喰らった瞬間凍てつき終わる氷界の種子であると、五年前に嫌というほど見せ付けられた悪夢だった。 壁に、床に、天井に、着弾した箇所から咲き誇っていく停止の氷華。ウラヌスの星に彩られて世界が氷河期へと転じていく。 さらに──そう、〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈体〉《 、》。 「──そうら、今日は〈枷〉《 、》〈無〉《 、》〈し〉《 、》だ。消えたくないなら必死になれよォッ」 暗黒の瘴気を〈纏〉《まと》いながら迫り来る鋼の鬼面。吹き荒ぶ氷嵐の中、一直線にマルスがこちらを猛追していた。 それはまさに、後先考えぬ身投げじみた特攻だ。何せウラヌスが放っている攻撃の中を進んでいる上、それを避けるそぶりもない。ゆえに当然、順当に、氷の杭は鬼の体躯に激突して被弾箇所から咲き誇ろうとするのだが── されど、氷華は芽吹かない。その身に〈纏〉《まと》う邪気の鎧があらゆる暴力を消失させる。 氷界? 凍結? それが何だと、如何なる〈枷〉《かせ》になるものかと、加速を続ける滅殺の魔星。 数と支配領域で圧すウラヌスと異なる、唯一にして絶対の絶望が狂喜しながら駆動するのだ。 「ぐッ、おおぉォ──」 よって、それら圧倒的な破壊の宴に舞台の屋敷は耐えられない。 獲物の俺が震えながら逃げ惑うたび、豪奢なはずの建物が弾けながらぶっ壊れていく。異形の進撃に合わせて消える高価な絵画や調度品、人の築いた権力は奴らの力を前にして蟻の如く〈蹂躙〉《じゅうりん》される。 共に極上の殲滅兵器。攻撃手段、星辰特性、闘争倫理はまったく違えど、圧倒的なその暴威は頂上の証に偽りなかった。 ゆえに、俺は逃げるだけで精一杯。 そしてこのまま避けるだけでは、遠からず限界が来ると理解しているというのに。打つ手がないのも痛感していて── 「──マルス-No.ε。並びに、ウラヌス-No.ζ」 「それが〈殺塵鬼〉《カーネイジ》と〈氷河姫〉《ピリオド》の正式名称。約五年前に製造された、純粋な戦闘用の〈人造惑星〉《プラネテス》」 逃げ惑う最中、轟音に紛れて響くヴェンデッタの声。命の危機に瀕していながら平素と変わらず静かに告げる。 「他の個体はそれぞれ別の役割を割り振られているけれど、彼らに求められていたのは暴力装置としてのみよ。だから当然、付け入る隙はほとんどない」 「基本的に大規模な戦場での運用を想定して造られたから、多対一、長期戦はお手の物ね。私と違って〈持久力〉《スタミナ》にも長けている分、自滅を待つのは下策も下策。真っ先に除外すべき方針だわ」 「けれど、だからといって不用意に短期決戦へ持ち込めば地力の差が大きく出てくる。あなたも承知の上でしょうけど、彼らの〈星辰光〉《ヒカリ》は非常に高い殲滅力を備えているわ」 消滅、凍結──共に凶悪、掠っただけでも致命的。 当たった部分がごっそり欠ければ動きは鈍り、当然死ぬ。凍ってしまえば動きは止まり、こちらも当然そのまま終わり。一度当たればそのまま地獄へ超特急で真っ逆さまだ。 改めて理解したが驚異的過ぎて笑ってしまう。ヴェンデッタの言葉が真実なら、戦場での効率的な運用をとことん追及した結果なのだろう。 マルスとウラヌスはより多く、より確実に殺し尽くすことだけを、全性能で体現している。 「絶望的な情報をどうも。それで、続きは何かあるのかよ……ッ!」 そんなことは分かっているから、避けながら先を促す。 氷杭が皮膚を裂き、血管を凍てつかせた。髪の先が爪に〈纏〉《まと》った瘴気に喰われて姿を消す。……死はすぐ目の前に迫りもはや幾ばくの猶予もない。 「だからこうして、逃げの一手を打っているのは正解よ。ただそれも一時しのぎに過ぎないけれど」 「古びた過去の太陽と、光と鋼の英雄が、手を組み一致団結しながら逃さないと言っているもの。彼らは決して諦めない」 ──だから、後はもう残る選択肢など一つだけ。 ご覧の通り、敵手は強大最悪だ。数の上でも力の上でもこちらは劣勢。勝てる見込みは無きに等しい。 相手の恐ろしさを再確認させられて、打開策は告げられず、もはや詰んだと言わざるを得ないこの状況で。 それでも、求める未来を得るためにはこいつらを討ち滅ぼすという、無理難題の先にしかないのだと突きつけられたから。 その無慈悲な真実に対して、さあ── 「俺は──」 いったい── 「どうするの?」 ──そんなこと、 どうもこうもないだろうが! 「さっさと逃げろよ……つうか邪魔だ、手が塞がる」 広間まで逃げ延び、着地した瞬間にヴェンデッタをそのまま離した。 答えは今もそれしかないが、現実的に考えて出来るわけがないことだろう。気合と根性でどうにかなる戦力差じゃないのだ。 そしてなんとか今を切り抜けようにも、〈荷〉《 、》〈物〉《 、》を腕に抱えたままでは無理だった。 「爺さんの〈工房〉《アトリエ》へ行け。たぶん隠し玉の一つくらいは事前に用意しているはずだ」 あの感じだと、こんな場面の到来も予想してたのではと思っている。 俺と違って常に自信満々なのだから、こういう事態に対しても毅然としてもらわなければ困るだろう。 「……あなたは?」 「はッ、あの調子だぜ? 逃がしてくれるわけねえよ」 言葉を吐き捨てたと同時、怪物が悠々と追ってきた。常態で放たれる圧力が獲物を逃がさないと揺らめいている。 「無駄な抵抗をするものね。あまりに〈儚〉《はかな》く、粗雑で醜い。消してしまいそうになる」 「けどまぁ、それもそれで良しとしようや。慎重に〈観〉《 、》〈察〉《 、》せよとのお達しだろう? 条件には合っている」 「重々承知だ、しかしだからこそ言っているのよ。不快だと」 「あの御方の命なくば一息に凍てつかせているものを……」 俺を敵とすら認識していないのか。連中に会話を隠すそぶりはなく、そして同時に納得もした。 そう、不思議だったのだ。こいつら二体に狙われて、何故〈未〉《 、》〈だ〉《 、》〈に〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》がずっと分からなかったものの、理由の一端がようやく見えた。 奴らを差し向けた側もヴェンデッタの起動原因が完全に解明できていないのだろう。ゆえに観察、本気を出さずに俺の対応を見定めるに留めているんだ。チトセからかつて聞いた情報とも今の状況は合致していた。 仮に俺を殺して、その瞬間ヴェンデッタが再び停止してしまうのではと……危惧しているから決定打を行使できずにいる。 要するに〈実験動物〉《モルモット》扱いなのだが、手のひらの上で転がされていようとも、〈嬲〉《なぶ》られているような現状でも、何とかこうして生きているのに違いはない。 人外ゆえの余裕こそ唯一の勝機だと理解してはいるものの、だが──クソッ、ああけれど。 「怖くないの?」 「怖えよ、当たり前だろうがッ」 逃げたい──嫌だ、恐くて怖くてたまらねえさ。 〈怯〉《おび》える心に震える身体。四肢は今にも崩れそうで、どうして俺がこんな目にと嘆く思いは当然ある。 しかしそれでも、逃げたところで先延ばしになるだけなんだ。〈斃〉《たお》すことは正しいけれど絶対不可能、されど背を向けたとして何が好転するだろうか。 ならばもはや死中に活しかねえんだよ。零に等しい希望を求めて、向き合うことしか道はない……! 「────行けッ!」 ゆえに〈吼〉《ほ》えて突貫する。走り去るヴェンデッタを確認した後、後ろは二度と振り向かない。 発動させた星辰光は最初から最大出力。殺気の波を〈掻〉《か》き分けながら、反撃を行使すべく疾風の如く駆け抜ける。 小細工など到底無意味。遮蔽物は破壊される。ならばこのまま、そう一気に。 真っ向から斬首すべく限界まで速度を上げて── 「……何なの、それは?」 ……瞬間、踏み出した足場がウラヌスの支配圏へと変貌した。 鉄姫を中心に同心円状に展開された樹氷の森林。〈僅〉《わず》か一息で出現した空間支配はそれだけ、そうたったそれだけで、俺の活動できる領域を根こそぎ奪い尽くしたのだった。 二足で走っている限り、接地面を侵略されては文字通り手も足も出ず── 「──うぉぉぁ、ッ」 さらに追撃、急速に成長を遂げる氷晶の枝。反転して飛び退いた俺を串刺しにすべく透明な凶器が迫る。 氷の苗木は樹木と化し、小枝は幹に、林から森林へと瞬く間に変わっていった。 その光景はさながら地獄に在るという針山か。生者を刺殺する数多の〈槍〉《えだ》が、支配者の敵を〈穿〉《うが》たんと縦横無尽に猛り狂う。 枝葉が伸びる際に生じる乾いた音……その反響だけを頼りに樹氷の動きを予測しながら、無事である〈僅〉《わず》かな空間を縫って避ける。当たってはいない、そうなれば死ぬのみなのだが、しかし。 「ぎッ、ア──」 低下し続ける外気温。紙一重、皮一枚、直撃する瀬戸際で〈躱〉《かわ》す、〈躱〉《かわ》す──それだけで〈筋〉《 、》〈肉〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈熱〉《 、》〈が〉《 、》〈失〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。 これほど動き続けているのに体温はまるで上昇しない。いま現在、この空間は零下何℃まで落ちているんだッ……!? 「そぅらよっとォ」 そこへ駄目押しと言わんばかりに、鬼面の豪腕が唸りを上げた。気軽な掛け声と共に無造作な動きで眼前の樹氷群をぶち砕く。 瞬間、砲撃でも受けたかのように爆砕した氷の破片。 恐るべき勢いで〈撒〉《ま》き散らされた大小様々の氷片は、獲物を追い込む面征圧の弾幕と化した。その攻撃は適当で、思いつきを実行しただけにマルスは過ぎず──我意が無いゆえ読みきれない。 よって幾つか、小型の氷塊が身体を削った。どうせ喰らうならと瞬時に割り切り、大型の破片を確実に避けることでダメージを軽微に留めて走る。 それは紛れもない良判断。〈咄嗟〉《とっさ》にしては限りなく正解に近い行動で──ああ、しかし。 「それで? 終わり? 〈凌〉《しの》げたなどと何故思う?」 魔星を前にしては、そのような対応など所詮陳腐な悪あがきであり。 虚空に飛び散る氷塊が不気味、不吉に鳴動する。主の命を再び受信し── 「咲き誇れ。優雅に、美しく」 見麗しい絶死の氷華が宙へ数多に咲き誇る──そう再び、〈枝〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈種〉《 、》〈子〉《 、》〈へ〉《 、》〈と〉《 、》〈転〉《 、》〈生〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》のだ。 「ッ、──ぁああアアア!」 よって当然、今度はそれを避けきれない。至近距離、全方位に発芽した死の花束が葬送の餞別と化して俺の肉を貫いた。 それは星辰の再干渉。かつて生み出した星光に訴えかけ、それを起点に星を再発動するという〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》もよく用いる攻撃手段の一つだった。 維持性と干渉性が共に高い値の場合、このように〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈を〉《 、》〈連〉《 、》〈鎖〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》ことも可能となるが……ふざけるなよ化物が。なんていう規模と出力をしてやがる。 ほんの数センチ四方の欠片をそれも無数、しかも一呼吸でここまで増幅させたその神業。信じられない〈能力値〉《パラメータ》だ。 連鎖どころか、これはまさに実質的な〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈の〉《 、》〈永〉《 、》〈続〉《 、》〈化〉《 、》だろう。息切れを起こさない限り、ウラヌスは永遠に氷河の星を展開できる。 「……がふッ、は」 身体を貫いていた棘をまとめて切り裂き、その場に思わず膝をついた。 彫刻みたいに冷えた身体。四肢に刻まれた裂傷。致命的な損壊はしかし未だ負っていない。 だからまだ、まだ動ける。死を拒絶できるという事実に〈微〉《かす》かな〈安堵〉《あんど》を抱いたのだが…… 「やれやれ、皆目分からない。コレの何処に優性が秘められているというのやら……」 そんな人間としての奮闘は連中から見れば下の下に過ぎず、呆れと侮蔑と落胆を乗せた〈呟〉《つぶや》きがウラヌスの口から漏れた。冷めた大気に反響している。 「どう見るかしら、〈殺塵鬼〉《カーネイジ》。私はそろそろ頭が痛くなってきたけど」 「さぁてなァ──」 わざとらしく首をひねるマルスは荒い息を〈吐〉《つ》く俺をじっと、つぶさに観察していた。その態度はまるで何も関係のない第三者のようにも見えて、見世物を眺めているような視線がひたすらに不気味だった。 標準的な〈星辰奏者〉《エスペラント》では恐らく既に穴だらけにされている事実。運が絡んでいたとはいえ生き延びれたという結果。そして奴ら、魔星側の事情による試しの手加減…… それらを考慮に入れて、結論は簡潔。 「まあ〈概〉《おおむ》ね、おまえさんと同意見だな。正直、理解不能だよ」 「オレとしても根性見たのは最後の一瞬だけだからよ。〈単〉《 、》〈騎〉《 、》として相まみえるのは、ある意味これが初の機会だ」 「となりゃあ、根っこはともかく表層はこれで限界なんだろう。総合的には中堅より多少上ってところだな」 「つまり凡庸。奴のように突きぬけているわけではなく、かといって底辺という程でもない」 「牙は宿しているのでしょうけどそれもあくまで人の域。中途半端ね、我らの影も踏めてはいない」 「これでどうして、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》を目覚めさせられたのか。なるほど、あの御方にも分からぬわけだわ」 「よって──ああ、忌々しい」 瞬間、仮面越しに〈睥睨〉《へいげい》していた女の視線に憎悪が混じる。 いったい何の琴線に触れたのか、虫けら扱いは変わらないが恐らく俺は羽虫から害虫と認定されたのだろう。 不快感に呼応して氷の森が版図を広げる。徐々に、徐々に、床や壁面を〈蝕〉《むしば》んでいくウラヌスの異星法則──世界が奴に喰われていき、そのおぞましさに背が震えた。 「──衆愚を相手に弾き語りをしていればよかったものを、目障りな。場違いなのだよ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 「貴様は運命に紛れた異物だ。矮小さを〈曝〉《さら》け出せ、我らの失望を買うがいい」 理解のしがたい侮蔑と共に上昇していく魔星の邪光。荒れる口調に比例して、天井知らずに出力が膨れ上がっていく。 〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》なその言葉、人を逸脱した感性、どれもまさしく〈絵物語〉《ファンタジー》の怪物だ。この世のものとは信じられず、現実性を欠いている。 ゆえに、湧き上がる恐怖の中で思わず俺は〈歪〉《いびつ》な〈嗤〉《わら》いを〈喉〉《のど》で転がす。 どいつもこいつもあいつもそいつも、口を開けば運命運命運命運命── 「勝手なことを言いやがって」 痛いんだよ。辛いんだよ。死にそうなんだぞ? 勝手を言うな。 今も逃げ出したいという衝動に耐えながら、俺はおまえらと向き合っているんだ。それがどれだけ辛いことか、分からねえだろクソ人外め。 プライド捨てて、ゲロ吐いて、土下座をかませば解決するなら幾らでもそうしてやるよ。貫き通す意地なんて平和な日常以外にないんだ。魔星を〈斃〉《たお》した栄光など、得たとしてもそこらの犬にくれてやる。 その臆病さ、染み付いた自虐癖は今も変わらず健在で……それでも膝を抱えたまま震えて泣くのはもう止めた。 嫌だから、嫌だから、嫌だから、嫌だから──ゆえにひたすら〈掻〉《あが》き続ける。あてのない〈解決策〉《すくい》を手に入れるまで。 「────ミリィ」 そして俺の人生を、〈君〉《 、》〈へ〉《 、》〈と〉《 、》〈捧〉《 、》〈げ〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》。 〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈贖〉《 、》〈い〉《 、》〈は〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。だから── 「────チトセ」 そしてあいつの〈喪失〉《はいぼく》に、確たる答えを返すべく。 やり残した過去と、今に続く想いがある。だからよう── 「時を稼ぎたいのでしょう? ええ喜びなさい、付き合ってあげるわ」 「納得させろ、真価を見せな。おまえを信じさせてくれッ」 「ふざけろよ、化物共が」 勝算などないまま、襲来する破滅の化身を〈睨〉《にら》みつけて。 「俺の死に場所は此処じゃねえんだッ──!」 気力を頼りに〈吼〉《ほ》えた瞬間…… まるでそれが契機の如く、事態は突然別方向へと一気に急転し始めた。 「────しゃあああらァァッ!」 刹那、前触れなく轟いたのは無頼武侠の拳と蹴撃──意気揚々と豪快に、〈且〉《か》つ嵐より〈獰猛〉《どうもう》に、〈愉悦〉《ゆえつ》と殺気を〈纏〉《まと》いながら若き野獣が躍り出た。 疾駆する影はそのまま、氷杭を蹴り砕いて足場に変え…… 振り下ろされた鬼面の爪を、中空で踊るようにすり抜けた後…… 悠々と〈佇〉《たたず》んでいた鉄姫の身体をそのまま笑顔で殴り飛ばし、この上なく鮮やかに華麗な着地を決めたのだった。 「カ、呵呵ッ──いいねえ殴り甲斐がある!」 「柔剛合わせたこの感触。おお、まるで生身の肉よ。単なる鉄や鋼じゃねえなぁ遣り甲斐がある、堪らんわッ」 異形を殴った事実に対して至上の悦を感じているのか。げらげらひひひと、口端が裂けるほど深い笑みを〈湛〉《たた》えながら、男は下品に腹を押さえて転げるように身震いしている。 それがまるで、素直な子供であるかのように楽しそうであったから…… 「嘘だろ、おい──」 なぜおまえはとか、どうしてだとか、問いかけるべき理由の数々、それらすべてが蒸発したのだ。 アスラ・ザ・デッドエンド──この男が成した功績を脳が未だ処理できずにいる。未来予知じみた闘争勘があることは知っていたが、しかしこれほど凄まじいとはついぞ思いはしなかった。 アストラル感応処置すら受けていない生身の身体で、なんだこいつは。〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく暴力の渦に飛び込んだ〈無謀〉《どきょう》も含めてイカレているにも程がある。 弾き飛ばされたウラヌスが立ち上がり、拳の当たった箇所を撫でた。表面装甲は傷一つないものの、何かを確認するようにそこへ指先を〈這〉《は》わせている。 「衝撃の〈内〉《 、》〈部〉《 、》〈伝〉《 、》〈播〉《 、》……なるほど、人の術の極みということ」 「応よ、これぞ我が魔拳。人種の行き着く〈技〉《ギ》の結晶、その雛形とも言うべき型よ」 「そういうわけで──なぁ付き合えや、死合ってくれよお二方。やろうぜ、やろうぜ、心ゆくまで。俺は前から一度くらい人間以外を殴り砕いてみたくてなァッ!」 震脚にて地を揺らし、大気へ気合を喝破する命知らずの〈無法者〉《アウトロー》。退く心算など〈微塵〉《みじん》もなしと、ぎらつく〈眼〉《まなこ》が語っている。 これもまた、英雄とは別種の異常者なのだろう。 理由不要、根拠無用、ただ己のみを〈以〉《もっ》て完成する強さと力を見せつけるように体現している。まさに奴こそ貧民窟の王だった。 そして、続く複数の動作音が続く衝撃を予感させ── 「総員、構えッ。攻撃対象マルス、並びにウラヌス── 〈撃〉《て》ぇぃッ!」 放たれる隊列掃射。間断なく破裂する火薬と共に鉛の雪崩が、魔星へ向けて撃発された。 着弾、と同時に投げ入れられたのは七十にも及ぶ〈手榴弾〉《グレネード》だ。 耳をつんざく轟音が落雷でも受けたように屋敷全体を激震させる。さらに続けて、駄目押しとばかりに大口径の砲門が矢継ぎ早に噴煙目がけて火を噴いた。 ……完璧だ。一糸乱れぬ見事な連携。撃滅するまで油断は抱くなという教えが徹底して、一兵卒まで仕込まれている光景は思わず感心してしまうほど。 だからこそ、この部隊の出自が見えない。一見すればただの軍人に見えるものの、どうしてマルスやウラヌスを攻撃する? 総統の命令を受けた部隊じゃないなら、これは独断専行なのかと。 急転する展開を前に呆気にとられている中、ふと気づけば俺の傍に〈誰〉《 、》〈か〉《 、》がいた。 ゆっくりと上げた視線の先には、見知った男の、まったく見慣れぬ雄々しい姿。つい先ほど、道端で談笑していた影がある。 「──どうやら間に合ったようだな。大丈夫か、ゼファー?」 かけられた笑みと言葉は力強く、同時にこの男が俺のよく知る人物で間違いないと証明されてしまった。 「……はは、は、どういうことだよ。訳分かんねえ」 掠れた苦笑が〈喉〉《のど》から漏れた。何がなんだか、さっぱりだ。 「この部隊は? あの戦闘狂は? おっちゃん、あんたいったい何なんだよ」 どうして〈軍服〉《そんなもの》を着てやがるのかも含めて、裏が皆目見当つかない。ずっと〈騙〉《だま》されていたのだろうかと疑う心が止まらなかった。 「まさか、飲食店に扮装してずっと観察してたのか? 軍から逃げた脱走兵だと密かに目星をつけることで……」 「違うさ、出会いは偶然だ。そもそもそんな義務はない」 「なにせ俺は、〈軍〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈抹〉《 、》〈消〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈身〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》な。この服装もかつての名残りで、ちょっとした退職金代わりだな」 微笑しながらそんな答えを聞いたことで、ますます俺は混乱した。 抹消とは何だ? それはまさか、脱走兵より後ろ暗い過去を持っているのではなかろうか? そしてますます現状の理解が遠のいていく。帝国軍に籍を置いていないと言いながら、こんな戦力を持ち得ているその理由が見えてこない。 日常の中にあった〈人物〉《ピース》が別の色に変わっていく。 この人は── 「それなら、あんたはいったい──」 何者なのかと問いかける、その寸前に。 「──ああ、〈五月蝿〉《うるさ》い」 ──氷の園が怒気にざわめく。文字通り、空気が瞬時に凍てついた。 あれだけの砲撃を受けながら傷一つなく、それどころか強烈な不快感を周囲に向けて放射している氷の鉄姫。噴煙を払いのけつつ前進し、死神のように戦場を殺意の刃で支配する。 薄々そうだろうとは思っていたが、ウラヌスは極度の〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈嫌〉《 、》〈い〉《 、》なのだろう。乱入して来た兵士に対して、〈蟲〉《むし》の群れを目にしたような蔑と嫌悪を〈撒〉《ま》き散らしている。 誰一人逃さないと歪む口元が語っていた。それはとても明確な、屋敷そのものを呑みこみかねない暴力の予兆── 「こりゃいかん。どうするリーダー、物騒なお嬢様が〈痺〉《しび》れ切らしたみたいだが?」 「たぶんこれは捕らえられんぞ。つうか何だ、冷気なんて使われた日にはさすがの俺もお手上げよ。殴れん、壊せん、物足りん」 「なあ、兄ちゃんもそりゃ不満だろう? 拳の応酬が燃えるというのに、まったく女はこれだからなぁ……くはははははッ」 「うるせえ馬鹿、てめえ状況見えてんのか……!」 正気かこいつ、壊滅的な敵意を前に何を呵呵大笑してやがる。 殺意に荒れる吹雪、爆発寸前のニトロ、狂えるような憎悪の波がまるで見えていないのか? 後はもはや羽毛が撫でた刺激でさえ弾け飛ぶと、誰の目にも明らかだろうに。 ウラヌスの指先がゆるりと宙に弧を描く。戦慄する俺を尻目に、有象無象分け隔てなく〈鏖殺〉《おうさつ》せんと星辰光を肥大化させた。 「待てよ、相棒。〈塵〉《 、》〈掃〉《 、》〈除〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈役〉《 、》〈目〉《 、》だ」 しかし、その破滅を止めたのは敵対していた者たちではなく奴の相棒である深紅の魔星。 表情は面であるゆえ読めないものの、静かなその言葉にはかつてないほど〈真摯〉《しんし》な思いが込められていた。本心からウラヌスに己の誇りを宣している。 「悪いがこいつに関してだけはおまえさんにも譲れねえ。だからそっちは予定通り、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》を獲りに行け」 「な、ん────」 さらに続けた内容に俺は思わず〈愕然〉《がくぜん》とした。 待て、待て待て、俺を優先しないだと? 後回しにするというのか?それはつまり── 「……この人畜共に誅を下すのは自分だと?」 「いんや、優先順位を忘れんなって話だよ。本命は常に嫁の方で揺るがない。〈吟遊詩人〉《オプション》の見極めは不測の事態を憂慮してだろ、何も不可欠なわけじゃねえんだ」 「何よりほれ、おまえさんにとってすれば──」 「初志貫徹か……そうね、確かに」 「討つべき者は徹頭徹尾、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》。そこらの木端にかかずらうのも馬鹿馬鹿しいということか」 ゆえに狙うはあくまで本命。すなわち今から、逃がしたはずのヴェンデッタを追うということに他ならず。 「爺さんの〈工房〉《アトリエ》へ行け。たぶん隠し玉の一つくらいは事前に用意しているはずだ」 あいつの逃げ込んだ先──あの場所で働いているミリィの下へ、こいつらが駆けていくということを示していた、から。 「行かせるかァァッ──!」 その可能性に思い至ったと同時、あらゆる理性が蒸発した。 無策で突撃を敢行した愚かさも、それを客観視するための余裕ごと頭の中から消し飛んでいる。飛び出そうとしたウラヌスへ向け懇願さえ口にしながら刃を振るった。 飛び散る火花。得物の刃が奴の手甲と初めて触れる。 「おまえは、死ね、絶対、やめろ──それだけはッ」 「何を今更」 対し、返答はこの上ない嘲笑で。 「──消えなさい、邪魔だから」 〈鍔迫〉《つばぜ》り合いは一瞬、軽く払うだけの動作によって大きく弾き飛ばされた。 感情丸出しの攻撃がまともな効果を生むはずないが、構うものかよ知ったことか。より苛烈に激情が胸の内で燃えたぎる。 分泌される〈脳内麻薬〉《アドレナリン》。恐怖を塗りつぶす殺意、殺意、殺意、殺意──〈軋〉《きし》む身体に構うことなく着地と同時に再突撃した。 絶対に行かせない。駄目だ、消えろ。おまえは必ず殺してやる。 壁を砕き、その穴からを飛び出して屋敷を後にしたウラヌス。視界の端で部隊と交戦し始めた鬼面の姿などもう見えない。 他のすべてを意識の外へと追いやって、俺は奴を追う猟犬へと変貌する。 ちらりと、去り際に知古と視線を交わして。 「行け、ゼファー。おまえのやるべき事を成せ──」 後押しされた声を背に、奴を討つべくその背中を追跡した。 全力で、全速で、後先など〈微塵〉《みじん》たりとも考えず一直線に駆け抜ける今は、後の反動など考えない。 アストラルと限界まで感応しながら前へ、前へ、前へ前へ前へと──ッ。 そして、何故か隣を並走する一人の影。依然変わらず楽しそうに絶拳使いは物騒な笑みを〈湛〉《たた》えている。 「明鏡止水、無念無想の境地を捨てて我欲にその身を任せるかい? 己が願いに振り回されるもまた一興、と──」 「クハ、いいねえ、いいねえ、実に好みの執念だッ。泣いて喜べ兄ちゃんよぉ、今から俺があんたの味方になってやらァッ」 「勝手に言ってろッ──!」 趣味人め、何が気に入ったか知らないものの、ついて来るなら好きにしやがれ。俺の目的は変わらないんだ。 ウラヌスを殺し、あの子を守る。五年前の悪夢など近づかせたりは決してしない。 よって、ここから先は追走戦だ。 疾走する異形の女とそれを追う二人の男……戦場は街中へと舞台を移し、別の様相を呈し始めていた。 ミリィ、どうか君だけは──俺のすべてを捧げても必ず守ってみせるから。 「よく〈吼〉《ほ》えたぞ、我が狼──やはりおまえはそうでなくては」 「だからこそ、私もまた願うのだ。飼い主として〈相応〉《ふさわ》しくあらねばならんと」 刹那──覇気のある声と共に招来されしは烈風雷鳴、壊光の乱舞。 屋敷の壁をぶち破り大穴を開けながらなお減退しない星辰光。それはまさしく天の裁き、女神の刃だ。超帯電した死のミキサーが荒れ狂い魔星の身体を滅却せんと破壊の嵐をまき散らす。 「総員、遅れるな。我ら裁きの天秤、その権利を執行せよ」 御意、と──そして〈彼〉《 、》〈女〉《 、》のみならず。 号令に続き掃射されたのは破壊の五月雨。巨大な白熱光球が、爆炎が、衝撃波が……主の狙った標的目がけて次から次へと、止め処なく雪崩れ込む。 それは総員と宣された通り、紛れもない〈裁剣天秤〉《ライブラ》の一斉攻撃だったのだろう。まるで途切れない滝の如く、〈怒涛〉《どとう》となって放たれる多種多様な〈星辰光〉《アステリズム》。かつてない規模と激しさで彼らの敵を撃滅している。 轟音、爆音、眼前で死が入り乱れる。それは夜空で輝く花火のように美しく、悪魔の〈晩餐〉《ばんさん》みたいに騒々しくただ苛烈に。 五十を超える強化兵から放たれた必殺の〈波濤〉《はとう》を前に、俺は呆ける事しか出来ず、ただただそれを眺めているだけだったが…… 「総員、構えッ──これより我々は〈裁剣天秤〉《ライブラ》を援護する!」 さらに、さらに、そう〈さ〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》──事態は再び思いがけない展開へと進行した。 雄々しい男の声に従い、一糸乱れぬ銃撃雨が叩き込まれる。出現した軍服姿の集団は隊列を即座に成して、迷うことなく戦闘行動を開始した。 そして激しく混乱する。どこの部隊かは知らないが、あいつが率いる天秤以外の〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》がどうしてと、そんなことを思うより先に…… 「なん、で……」 分からない。分からない。なあ、おっちゃん……どうしてそこにあんたがいるんだ? 軍服を〈纏〉《まと》った姿が異常なほどに似合っているのは、なんでなんだよ。昨日今日でそいつに袖を通したという雰囲気では断じてなく、指導者らしい立ち振る舞いが様になっているからこそ、事の裏が読み取れない。 だからあまりの驚愕に、俺は束の間〈唖然〉《あぜん》とするしかできはせず── 「────、がッ」 「ごめんあそばせ。あまりに隙だらけだったもので、つい」 結果、実に呆気なく忍び寄った〈隠密〉《サヤ》の手で捕獲された。 腕をねじられたまま地面へと倒される。以前の恨みがあるからだろうか、嬉々と関節を極めているその横顔にはとてもイイ笑顔が張り付いていた。 しかして、これにより自由に動けなくなったのも事実。 俺は恐らく乱入者の手で舞台から引き摺り下ろされたのだろう。そして、それを目論んだのはこの女。 「よくやった。しかし不用意に痛めつけるなよ、サヤ。肝心の出番で役に立たないようでは困る」 そいつの出番は恐らくこれから増えるだろうと、淀みなく歩を進めながらチトセは眼前へその姿を現した。 未だ鳴り響く銃撃と破壊音を〈一瞥〉《いちべつ》する仕草には確かな余裕が〈垣間〉《かいま》見える。すべて予定調和、万事順調だという自信の表情……ああなるほどね。見えてきたわ。 「……おまえ、ずっとこいつを狙っていたな」 俺、ヴェンデッタ、魔星に英雄。それら連中の語る運命とやらに登場する人物たち、それらが大きく交差する瞬間をずっと〈伺〉《うかが》っていたのだろう。渦中の俺をじっくり観察することで。 返答はやはり笑みだ。見惚れるほど優雅な仕草で髪をかき上げ、艶やかにその目論見を首肯する。 「そういうことさ。これもまた、実に皮肉な構図と思わんか?」 「あれから五年の時を経て、私も今、誰かさんと同じ所業に手を染めているのだからな」 「まったくだよ。こんなにもおまえが馬鹿とは思わなかった……」 これは紛れもなくテロリズム、すなわち体制への反逆だろう。どんな確信や証拠のもとで行動を起こしたかは知らないが、ここまで派手にやった以上は言い訳など通じない。 たとえチトセの地位と功績があったとしても、許されるわけがなかった。現政権を打倒でもしない限りヴァルゼライド総統から永遠に追われるだけだ。 本当に、なんてことを、いつもこいつは…… 「はは、愚かと〈嗤〉《わら》うか? 責務を捨てたと軽蔑するか? ヴァルゼライドに牙を剥くのがそもそも自殺行為だと? ……まあ、言いたいことは〈概〉《おおむ》ねわかるが」 「それでも、彼の体制には見逃せない疑問点が数多く存在している。同じ結論に達した者も、探せばそれなりにいるようだしな」 意味深に視線を寄こした先では、見慣れた男の、見慣れない晴れ姿。 まったくそんな、気遣わしい顔でこっちを見るなよ。表情があまりに記憶通りで、別人だと思いこめもしねえわ。 「おっちゃん……で、いいんだよな? そっくりさんとか双子じゃなくてよ」 「ああ。正真正銘、おまえの知っているアルバート・ロデオンだ。生きてたようで嬉しいぞ、ゼファー」 「そしてこの場合……貴官には久しぶりというべきだろうな、〈裁剣〉《アストレア》殿。まったくとんだ同窓会だ」 「お互い、狙っていたのはまったく同じ。ならばタイミングが被るというのも道理でしょう──元〈深謀双児〉《ジェミニ》の隊長であるあなたにとって、使える〈伝手〉《つて》を探すことなど容易なはず」 「軽く言ってくれやがる。どの〈情報対策〉《セキュリティ》も五年前とは別物で、結構難儀してんだぜ?」 「しかし、現にあなたはこうして此処にいる。現政権の打倒を目論む〈反動勢力〉《レジスタンス》の首魁として、ヴァルゼライドへ切り込むにはこの機を置いて他にないゆえ」 「だから優秀ってか? ったく、お世辞は止してくれ。俺はただ〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》のことを人より少し知ってるだけだよ」 「………………」 ……この二人は、いったい何を言ってるんだ? 理解は出来るが心がそれを濾過できていない。まさに右から左へと、鼓膜をつるりとすり抜けて状況把握も〈覚束〉《おぼつか》なかった。 おっちゃんが元〈深謀双児〉《ジェミニ》の、それも隊長? この善良で、小娘にいじられて、場末のレストランで経営に喘ぐような中年親父がそうだって? 冗談も大概にしてくれと願っているのに、苦笑しながら〈顎〉《あご》髭を搔くその口から否定の言葉は出てこなかった。チトセもそれが真実であるという前提で会話している。その自然な態度こそが間接的に先の〈過去〉《はなし》を肯定していた。 ならば、あの日常は何だったんだ? まさかずっと俺たちは監視されていたのだろうかと、思う疑念が止められない。 拘束された身体から一気に熱が失せ始めた。現実が、崩れていく。 「それに言葉を返すようだが、驚いたのはこっちの方だ。そうまで分かっていながらまさか、〈裁剣天秤〉《ライブラ》までこんな博打に乗り出すとはな……」 「以前の貴官を知っている分、俺としては信じられない気分だよ」 「五年も経てば成長しましょう。後は英雄に何の疑問も抱かないようでは、内部調査など出来ますまい」 「よって、あなたとこうして目的が一致したのはこちらとしても好都合だ。〈誰〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈も〉《 、》〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈に〉《 、》〈近〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈者〉《 、》として、その見解を聞いてみたい」 「……剛毅なところは相変わらずかね。それはつまり、〈組〉《 、》〈む〉《 、》ってことかい?」 「求めるものが同じであるなら。ああ、悪い話ではないでしょうか」 敵の敵は味方になるか──敵のままか、すべてはあなた次第である。 そう伝えた鋭い視線が絡み合い、戦場とは別種の緊迫感がこの場を包んだ。近くで今も轟く爆音がこの空間だけどこか小さく、遠雷のように響いていると感じられる。 全容が分かっていない俺にさえ、その問いかけが大きな意味を持っているのだと理解できた。 ゆえ返答を前に、思わず俺まで息を飲み── 「────ああぁぁぁッ。やべぇ、もう限界だわ」 ──瞬間、そっと〈呟〉《つぶや》いた鬼の言葉が殺意に濡れて〈煌〉《きら》めいた。 そう、ここに〈条〉《 、》〈件〉《 、》〈が〉《 、》〈成〉《 、》〈立〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。 ある一定以上の命を前に〈騒乱の星〉《マルス》が〈大望〉《しんじつ》を制御するなど、到底不可能なことだから。 「あ、あぁ──」 「……なんですの、この圧力はッ」 爆発的に解放された漆黒の瘴気──地表の星が、闇に染まる。 それは煮え〈滾〉《たぎ》る業火のように。あるいは命を〈蝕〉《むしば》む病魔のように。消えていく、消えていく、消えていく有形無形の森羅万象。 星光? 銃弾? 当たった、当たった──ああそれで? 放たれた暴力の波がどれほど強大であろうとも、そして膨大な数を備えていようとも、その深い邪悪に触れたら最後。何人たりとも無事には済まない。 存在そのものが消滅して、後には欠片も残らないのだ。 「秦広、初江、宋帝、五官、閻魔、変成、泰山ト──七審七回四十九ヲ経テ三悪道ヘ墜チルガ今ヨッ」 「〈餓鬼〉《ガキ》ニ喰ワレテ畜生ト化シ、地獄ノ底ヘト御〈出〉《イ》デマセェッ!カヒ、ヒヒャ、クハハハハハハハハァァ──ッ!」 物質破壊を〈嘲笑〉《あざわら》うような超常概念を巨躯に〈纏〉《まと》い、鬼面の星は〈哄笑〉《こうしょう》する。支離滅裂な言葉が何を示しているのか誰にも理解できないまま、秘められている魔の狂気を周囲へ向けて放射していた。 触れた瓦礫を抹消しながらゆっくりと踏み出す姿は、恐ろしくて仕方がなく、ゆえに忘れられたことなど一度もない。 そうだ俺は、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》がいったい何なのか嫌になるほどよく覚えている。 英雄譚の決戦を負け犬として眺めていたから、網膜に焼き付いていた。その出力を、そのおぞましさを……ッ 「間違いない。これは、五年前の──」 よって断言しよう──〈俺〉《ゼファー》では、〈闇の鎧〉《アレ》を超えられない。 出力が違う、相性が悪い。牽制の一撃どころか装甲を〈掠〉《かす》めただけで幻のように散ってしまう。 ならばこそ、奴は奈落に住まう赤の獄卒。責め苦を担う“鬼”であるのだ。 「前言を撤回しよう……ああそうさ、もはやオレたちだけの運命じゃねえ。目が覚めた気分だよ」 「挑む権利それ自体は、〈人種〉《ヒト》の側にもあったんだなぁ」 その時、一瞬だけ堕ちた凶相が素面に戻ったのは何故だろう? 己が愚を恥じるように、マルスは小さく自嘲した。それは知性の輝きであり、たったいま奴は深く自らの行動に深い反省を見せている。 「舐めていたこと、確かに詫びよう。おまえ達全員が運命に参戦しても構わないと、認める想いに嘘はない」 呆れるほど真っ直ぐな飾り気のない謝罪。だからこそ、魔星の真意を疑う余地はどこにもなく、この場にいる全員が大きく困惑してしまい── 「ならばこそ、聖戦に参する資格が欲しいなら掴み取ってみせやがれ」 「オレという試練に苦難、砕き乗り越え至ってみせろや。人間どもォォッ!」 反転する賢知と暴虐──眼前に立つ一切合切、滅亡させんと轟く喝破。 巨体に似合わぬ超高速の〈颶風〉《ぐふう》と化し、深紅の魔星は殺戮劇の幕を上げた。 ──そんなこと、 どうもこうもないと、 知っている、 けれど。 それでもおまえが見ている前では…… 〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》みたいに、逃げてはならないと思うから…… 俺は──、ッ! 「知ったことか、ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえんだよォォッ!」 子供が泣くように叫びながら、震える足で地を踏みしめた。 着地と同時に得物を構えてヴェンデッタを背にかばう。魔星を前にもはや逃げず、真っ向から迎え撃つという意思表示を示したのだ。 ゆえに本能が俺の下策に怒っている──おまえ、何を勘違いしていると。 なあ、思い出せ。正気に戻れよ〈自分〉《おまえ》は弱い。弱いだろう? ゼファー・コールレインは〈塵屑〉《ごみくず》で、大した理想も意地もない〈糞〉《くそ》のような男に過ぎず、あんな恐ろしい怪物どもを〈斃〉《たお》すなど逆立ちしたって出来やしない。 今すぐ必死に逃げ出せよ。〈尻尾〉《しっぽ》を巻いて涙を流せ。どうかやめて許してと、低頭しながら背中を向けろと──〈囁〉《ささや》いてくる弱音の中。 「なあ、ヴェンデッタ──」 ほんの少しだけ、以前と違いがあるのなら。 「おまえは言ったな。俺の地獄に付き合うって」 それは紛れもなく、俺がいま守ろうとしている少女に相違はない。 おまえが後ろにいる以上、逃げてはならないと思えるんだ。なぜならどれだけ掻いても“勝利”から逃げ出すことなど、この世の誰にも出来ないから。 その真実をこれでもかと突きつけてくれた怖い女、強い女、〈儚〉《はかな》い女。挫折の中で捨てた〈矜持〉《きょうじ》と、秘めた本音がゆえに〈疼〉《うず》く。 そうだ……言ったろ、本当は俺だって真っ直ぐに生きてみたいと。ひねた諦観なんてまっぴらなんだよ。 胸を張り、誇りを胸に、どんな困難を相手にも乗り越えたいと願っているから──ああ、今こそ。 「あれは今でも有効か? オイどうなんだよ、言ってくれ。今にも逃げ出してえんだから……!」 「ゼファー、あなた……」 悲鳴のような声はどうしようもなく震えていて、しかし心は既に成すべきことを定めていた。 だから、さあ、あと一押し。後ろからこっちのケツを蹴り上げろ。いつものように、ずっと訴え続けてきたように…… 俺の心に、炎をくれ。 「ええ、ええ……ッ」 背後から響く感極まったような少女の声。〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈を〉《 、》〈ず〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈待〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》と、心の底から女神のように祝福している。 「付き合うわ、それがこの世の果てだとしても。あなたがそれを望む限り傍にいるのが私の〈未練〉《すべて》」 刹那、急速に〈同調〉《リンク》していく二人の波長。 視覚可能になっていくアストラル。全身から〈漲〉《みなぎ》る出力。変革していく超新星。 かつて一度だけ手にした力があの時よりも強く、強く、強く、強く── 俺たちを〈完〉《 、》〈成〉《 、》〈に〉《 、》〈近〉《 、》〈づ〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。 「さあ、見せてちょうだい──あなたの奏でる〈逆襲〉《ヴェンデッタ》を」 〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の〈琴〉《もとめ》に応えて、奈落の底から逆襲の女神は〈謳〉《うた》った。 俺たちは今や二人で一つ。本来あり得ざる星の光を身に〈纏〉《まと》い、魔星へ向けて振りかざす。 いざ再び──〈冥界へ、響けよ我らの死想恋歌〉《Silverio Vendetta》。 そしてそれを敵手もまた歓迎している。この展開を待っていたと。 「いいぞ、〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》」 「それならこちらも、応じるまでよォッ」 想定内、よって揺るがず奴らも星を開放する。 その姿、その圧力、五年前の大虐殺を想起させる光景に恐怖心が蘇る。肌で感じられる存在感の差というものが、まず心から砕きかかった。 だが、それがどうした。 「──もう逃げねえ」 前に出る。過去に現在、そして続く未来にも後退するつもりはない。 数の上では〈二〉《 、》〈対〉《 、》〈二〉《 、》だと小さな勇気を鼓舞しながら、これから少しでも真っ当な自分を目指すためにも── 「おまえ達は、ここで死ね」 宿った戦う力を内に束ね、地を蹴り抜いた。 それとまったく同時、疾走を始めたのは深紅の魔星。小細工、余技、一切抜きの真っ向勝負──両極の磁石みたいに互いが互いを仕留めるべく最短距離で相手を目指す。 その行動は豪胆でありながら、しかし何より合理的な行動だった。なぜならマルスの〈纏〉《まと》う星光は必殺性の塊であり、搦め手で得られる優位など微々たるものになっている。 万象、触れれば消滅する暗黒の瘴気。極論どこかに当たれば殺せるのだから、〈最大速度〉《フルスピード》で一心不乱に相手へ向かうこの愚直な戦法こそが真骨頂。 そしてそれは単純であるがゆえ、小細工、余技、それら搦め手に該当するものに対して滅法強い。かつて〈英雄〉《ヴァルゼライド》が切り伏せた時のように、切り崩すにはどうしてもある一定以上の地力が求められてしまう。 だから、〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈マ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ス〉《 、》〈に〉《 、》〈勝〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。純粋な火力不足。攻防一体である闇の鎧を突破できる、そんな牙を一つも宿していなかった。 だが── 今はッ── 「突破できるぞ」 「やってみなッ」 刃を、爪を、振りかぶる。それはいつかの再現であり──互いが互いへ必殺を叩き込む刹那の一瞬。 以前は片腕を切り飛ばしたが、しかし。 忘れてはならない、今は〈二〉《 、》〈対〉《 、》〈二〉《 、》だということを。 絶妙のタイミングでもう一体からの支援が入り、視界を樹氷が埋め尽くす。氷の木が、華が、所狭しと咲き誇り進行方向を塞ぐことで俺の加速を妨害した。 生死を分ける最後の一足が踏み込めず……されどマルスは減速しない。奴にとっては氷の棘などなんの邪魔にもならないからだ。 結果として明暗は見事に分かれた。たたらを踏んでしまった俺と、気兼ねなく爪を振り抜いたマルス。どちらに軍配が上がるかなど論ずるなく明白であり、よってこのまま死ぬが定めであった──〈通〉《 、》〈常〉《 、》なら。 悪いが、その程度は考慮している。 「──まだだッ」 臆病者を舐めるなよと心中で〈吼〉《ほ》えながら繰り出す震脚、〈地〉《 、》〈を〉《 、》〈蹴〉《 、》〈り〉《 、》〈抜〉《 、》〈く〉《 、》。 瞬間、炸裂した〈共鳴振〉《レゾナンス》。ウラヌスの星光、その波長に合わせた対の振動を打ち込むことで凍結氷界を連鎖的に消し飛ばした。 振動は伝播する。そしてこの場合、力の大きさは関係ないのだ。氷そのものを生み出している〈星辰体〉《アストラル》に共鳴すれば、どんな高出力の星であろうと姿形を消滅させるのが可能となる。 よって魔爪の回避に成功し、さらに先端を斬り飛ばした。 地を蹴り、無茶な体勢からの一撃であったためかなり浅くはあったものの、確かにこちらの攻撃が効果を成した事は大きい。 やはり〈通〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》。氷も、瘴気も、〈掻〉《か》き消せる。 俺は今、戦えている──! 「小賢しい真似をッ」 〈手応〉《てごた》えを掴んだ俺が気に障ったのか、休む間もなく繰り出されたのは氷杭の嵐。 その数、視界に映っただけでも百二十七……逃げ場そのものを潰さんと唸る破壊の雨は、さらに着弾と並行してウラヌスの支配領域を広げていく。 萌芽する氷華たち、本物の樹木と違い結合しながら先端を伸ばしていく樹氷の枝葉はまるで成長する〈檻〉《おり》のようだ。上下左右前後方、侵食して逃げ場を消し去る絶命の牢獄。 ゆえにこの弾幕を避けても無駄だ。いずれ飽和した氷の園が獲物を捕らえ、透明な柩の中へと標本の如く包み込む。 人外の高出力を武器にした二段構えの殺戮手段を前に、しかし俺は── 「──行ける、ぜッ」 〈躱〉《かわ》す。 〈躱〉《かわ》す。 〈躱〉《かわ》す。 〈躱〉《かわ》す。 〈躱〉《かわ》す〈躱〉《かわ》す〈躱〉《かわ》す〈躱〉《かわ》す〈躱〉《かわ》す〈躱〉《かわ》す〈躱〉《かわ》す〈躱〉《かわ》して──近づいていく、じりじりと。 今まで保っていた〈安全〉《マージン》を削りに削りに、文字通り紙一重にまで最小限へと落とし込んだ回避動作。皮膚を裂かれ、血管が凍てつく苦痛と恐怖に耐えながら、生死の綱渡りを一発ごとに続けて進む。 凍結していく床や壁面を時に震脚で消し去りつつ、それでも相手へ喰らいつこうとするそれは、まさしく決死の行軍だった。 なにせ向かってくる氷の棘、無数とあるのに一撃当たれば俺は死ぬか凍り付くのだ。そのどれもが音速に至る速度で迫っているとあらば、弾幕を潜り抜けるなど自殺行為に等しいだろう。 たった今、自分がそれを行っていることも含めて、まったく正気の沙汰じゃないが…… 正面突破、これ以外にウラヌスへ近づく手段がないというのなら、嫌でも何でもやるしかないんだ。 ああ、だってさ。 「ずっと、嫌がってきたけれど」 仕方なく、嫌だ嫌だと恐怖に駆られ、それしか方法がないからと。 自分を必死に奮い立たせて、泣き喚きながら立ち向かってきたのが今まで。だからずっと限界の一歩手前で立ち止まってた。 踏み込むことが出来なかった。 「今は違うと言うのなら」 怯えや逃避が土壇場でいったい何の力を生むだろうと、思えるように成れたこと。それを証明するためにも。 「戦いなさい、力の限り」 「──ああ、言われるまでもねえッ」 そして、突撃を開始する。進行方向は〈勿論〉《もちろん》、恐るべき氷の嵐へ。 鉄姫を中心に展開される絶対零度の星氷へ向け、回避から攻撃へと一気に転じた。 「見ろ、見ろ、見ろ、見るんだ」 ゆえに全神経を尖らせる──そうだ、視認している粒子の動きを疑うな。現在の光景に囚われるな。理解して、予測して、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈前〉《 、》〈兆〉《 、》〈に〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 たとえヴェンデッタの力で〈強化〉《ブースト》が施されたとしても、速度と火力の両面ではどうしても差が生まれている。 だからやるのは、常に先読み。アストラルの動きを見て連中の星がこれからどのように動くのか、放たれるかに集中する。 それさえ掴めば── 「ははッ、〈躱〉《かわ》すかねぇこれを」 背後から猛進して迫った二撃──振り下ろし、からの蹴り上げを避けて。 回避した瞬間、降り注いできた氷柱とそれを起点に咲いた氷華を切り裂く。 攻撃を予期してそれにすかさず対応する。〈容易〉《たやす》いとは決して口にできないが、しかし今の俺にとっては実行可能な体捌きだ。 合わせて反撃──避けられ反撃──そこにすかさず横殴りの奇襲が来るが、これも〈捌〉《さば》き。 結果、入れ代わり立ち代わり目まぐるしく動きながら、死の〈円舞〉《ワルツ》が奏でられる。 まさしく五年前、英雄がこの二体を相手取った光景とまったく同じように。対等とは言わずとも正面から激突しながら生きている。戦闘を続行できているのだった。 もはや俺はただ狩られるだけの獲物じゃない。やりようによっては魔星を討つことも可能だろう。 そしてその考えは、戦いの中で徐々に色濃くなっていく。 「なんて〈素〉《 、》〈直〉《 、》なんだ、おまえらは」 そう、少しずつだが見えてきた──なぜ〈人間〉《ヴァルゼライド》がこいつらを〈斃〉《たお》せたのか、徐々に実感できてくる。 こいつらの発する殺意、ないし出力量は確かに人間では不可能なほど膨大無比な桁だろう。しかし反面、その強さと裏腹に意識の方が非常に〈生〉《き》のままやって来る。 つまり、敵意の隠蔽がほとんど成されていないのだ。基本どの攻撃も思うがまま放っているものばかりであり、フェイントや無我といった〈攪乱〉《かくらん》技はほとんど使用してこない。 やったとしても洗練された技の結晶……などという境地のものは欠片もなく、それが一つの真実を俺に確信させてくれた。 こいつらは〈兵〉《 、》〈器〉《 、》であっても〈戦〉《 、》〈闘〉《 、》〈者〉《 、》じゃないのだ。戦場で大多数の兵を一掃するのが製造目的であるからこそ、卓越した個体との戦闘が端から想定されていない。 御伽噺に出てくる邪悪な竜とまったく同じ。強靭な身体と生命力を持っているがゆえ、それを磨いたり工夫したりすることをまったくせず、やがて修練を積んだ英雄に滅ぼされるという定めを持つんだ。 だからこそ、先読みを可能とする技術と──魔星にも〈怯〉《ひる》まない強い意志力さえ宿していれば渡り合える。 腹をくくった今の俺なら狂いそうな殺意の奔流とも向き合えるし、意識をへし折られない限り次の挙動を読み取れる状態にまで至っていた。 アストラルそのものを感知できるようになったことで、精度も向上。攻撃の大半を事前予測できている。 無論、それでも相手は強大。素の戦闘力は侮れず、今もこちらが劣勢なのは間違いのない事実だろうが…… それでも湧き上がる感情にもはや悲観はどこにもなかった。戦える。読み取れる。そうだ、俺は負けていない。 「やれる──」 攻撃の合間に反撃を選択できる。逃げ惑うだけじゃない。 くるくると目まぐるしく回転する勝負のコイン。表か、裏か、勝つか、負けるか……確率が低いとしても勝利の権利は零じゃないんだ。 「こんな俺でも──」 渡り合えている今が、怖いのに誇らしい。逃げてばかりだった自分を少しでも払拭できたと証明できた気がしたから。 すごいだろ、ミリィ。どうだよ、チトセ。 なあ──見ているか、ヴェンデッタ。 おまえのおかげだ、ありがとう。 これで俺はもう一度── 「自分のことを、信じてやれる!」 凍気を、瘴気を、閃光の如く断ち切り〈吼〉《ほ》える。 そのたびに高まっていく〈逆襲〉《ヴェンデッタ》とのシンクロ。 生み出された力の波を循環させ、さあ、このまま一気に── 「──いいや、そこまでだ。〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。 おまえの〈慟哭〉《うた》は、ここで終わる」 そう……一気に、と。 踏み出したはずの足が、鋼鉄の宣誓に止められた。 コツ、コツ、コツと、鳴り響く雄々しい足音──光が奏でる覇の進軍。 それは自分とって紛うことなき死の音色。希望を担う重々しい男の歩みが、まるで荒野を往くが如く荘厳に響き渡る。 気づけば誰もが行動を止めていたが、それも当然。何を感じるかは万別でも〈英雄〉《ヒカリ》を前に目を逸らす愚行など何処の誰にもできないのだから。 「貴様──」 鉄姫は、凍える憎悪を滲ませ── 「おやおや」 鬼面は、これで終わりかと苦笑して── 「──────」 逆襲は、そっと切なげに目を伏せて── 「ま、さか……」 そして今宵、英雄譚に捧げられる卑小な〈獲物〉《おれ》は気圧されたように後ずさった。 たなびく〈外套〉《がいとう》。携えた七刃。金の髪に青の瞳。そして情熱を宿した眼光…… 圧倒的な存在感を放ちながら、男は眼前へ姿を現す。脇役が暖めていた舞台へついに運命を奏でる〈主〉《 、》〈役〉《 、》が到着したのだ。 さあ、括目せよ。〈次〉《 、》〈の〉《 、》〈難〉《 、》〈題〉《 、》〈が〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》。 訪れる次の大敵。次の不幸。次の苦難。次の破滅。 次の次の次の次の──越えねばならない、巨大な壁。 理解しなければならない絶対なる真実は一つ。この男を今から打倒しなければ、ゼファー・コールレインは死ぬだろう。 「良い目だ、報告とは違い覚悟も決まったように見える。掴んだ決意の賜物か」 「だからこそ実に惜しい。身勝手な言い分だが、俺たちの理想に巻き込まれさえしなければと思わずにはいられんよ」 言い放ちながら、ゆっくりと抜き放った刃は断頭台を連想させた。秘めた凶悪度で語るのならばあれはどんな処刑具をも上回る、驚異的な殺人性を宿している。 そんなものを携えて今から何を、誰を討つというのだろうか? 理解するのは簡単で、それがかつてない絶望となり心を捻じり〈軋〉《きし》ませていく。吐きそうなほど恐ろしい。 恐ろしいが、しかし……けれど。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ッ」 「ゼファー……」 逃げ出さずに刃を構える。なぜならもう、〈背〉《 、》〈は〉《 、》〈向〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈決〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 生まれたての小鹿みたいに震えながら、それでもヴェンデッタの前に立って英雄の姿を〈睨〉《にら》む。威風堂々と立つ男は、視線の先で静かにそれを首肯した。 「そうだ、それでいい」 「好きに〈掻〉《あが》け。一切責めん。おまえにはこの理不尽に抵抗する権利がある」 運命に巻き込まれた被害者として、そして同時に当事者として自分を討つ資格があるとヴァルゼライドは認めていた。 「手向けにもならんが、ここに誓おう。俺は必ず“勝利”を掴む。ゆえにそちらもそうするがいい」 ならばこそ、背負っているもののために敗北しないとその熱い眼差しが語る。それはまさしく目に毒であり、あまりに強い姿のためか視界に映っているだけで俺の決意を削っていく。 精神が病魔に侵されたかの如く崩れそうなのがよく分かった。二体の魔星を相手取る緊張感さえこの男を前にするのに比べれば、どれほど救いに満ちた気分だったか。 そしてそんな〈英雄〉《モンスター》を前に、戦いを選択している自分はいったい何なのだ? 立ち向かうと決めたから? 決意を嘘にしないため? 勝たなければ生きられないから? あくまでそうべきである以上、苦しいけれどもやらないと? 分からない、分からない──幾多の理由が思考の中で浮かんでは泡のように消えていく。 だから、俺は問いかけずにはいられなかった。 「なあ……教えてくれよ、総統閣下」 「“勝利”って、いったい何なんだ?」 俺にとってのとか、あなたにとってのだとか、そういう個人の主観によって変わるような言葉じゃなくて…… 誰にとっても同じ、普遍的な意味合いで“勝利”とはいったい何であるというのか。極論、人が生きていく上で勝つとはいったいどういうものか。 ずっとそれが分からずに振り回されてきたからこそ、戦い、勝ち続けてきた男にそう聞いて…… 「──さてな」 相対するヴァルゼライドに敵意はなく。〈僅〉《わず》かの間、その疑問を噛み締めてから〈真摯〉《しんし》に返した。 「誰もがそれを探し求めて、己が〈生涯〉《みち》を歩んでいる」 「だからこそ、俺は、征くのだ」 よって、それが英雄の答え。運命を切り〈拓〉《ひら》かんと願う男もまた“勝利”が何かを知ろうとしており、それをいつか悟るためにも歩みを止めはしないのだろう。 その双肩に背負う希望がある限り、俺は決してこの男から逃げられないのだ。たとえここで避けれたとして、必ずいつかは激突する。 だからこそ── 返答を聞き終えた瞬間、俺たちはまったく同時に地を蹴った。 まるで示し合わせたでもしたかのように、戦闘の幕を切って落とす。 そう、もはや結末などとうに分かりきった、〈戦闘行動〉《よていちょうわ》を行うのだ。 一合── 共に最高速から放つ剣戟。中空にて火花が散り、強大な衝撃によって身体が横へと大きく傾いだ。しかし相手は既にもう片腕が動いている。 二合── 逆側からの光刀を迎撃。力、のみならず技を駆使した斬撃に手が〈痺〉《しび》れる。対振動で星を消そうとも、卓越した技量によって物理衝撃を叩き込まれた。結果、大きな隙をさらす。 三合── 皮一枚で防御に成功。二刀による払いと斬り上げ、翻る〈外套〉《がいとう》を隠れ〈蓑〉《みの》に放たれた連撃は鋭いが限界寸前で間に合った。それが次へ〈繋〉《つな》ぐ予備動作であったとしても防げたのは奇跡に近い。 四合── 体勢が崩された。振り下ろし、と同時に手放した得物ごと叩き込まれた回し蹴り。コンマ一秒以下、直撃した瞬間を狙っての神業。刃を手にした腕が大きく後ろへ弾かれる。 五、六、七、八合── 挙動の出先を崩され続ける。動こうと思った先に刃があり、身体を真っ直ぐに保てない。 九、十、十一合── 力で押され、技も通らない。本能的な回避行動まで恐らく読みきられたのだろうか。どうして迎撃できているのか、自分で自分が理解不能。 十二合── 訳が分からない。気づけば武器が手から離れていた。 十三合── もはや成す術など欠片もなく。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈天霆の轟く地平に、闇は無く〉《    Gamma-ray Keraunos    》」 「──がぁぁァァァァァァアアアアアアアアッ!?」 ──落ちて来た光の刃が無慈悲に血肉を切り裂いた。 輝く破滅の洗礼を受け、俺は〈永劫〉《えいごう》逃れられない敗北の底へと墜ちていく。 輝きに、裂かれ討たれて、墜ちていく。 墜ちて、墜ちて…… 墜ち、て………… 「……どうしようもないわな」 ダンスホールから抜け出して、俺は一人星空を静かに拝みながら誰にともなく〈呟〉《つぶや》いた。 結局、三人からの誘いに対して誰かを選ぶことはなく。〈曖昧〉《あいまい》な返事と態度で誤魔化して、愛想笑いを浮かべながらそっとあの場を後にした。 そして今、こうして特に理由もなく夜風を浴びつつ〈黄昏〉《たそが》れている。 ただ、時間を潰すために、なんとなく。 彼女たちを視界に入れると、どうしても罪悪感を感じてしまうものだから…… 「逃げ癖だよなぁ、まったく」 それぞれの想いと理由で誘われたのは知っている。 〈煌〉《きら》びやかな場だからこそ、自分と一緒にいたいのだと女性に強く願われたこと。それは確かに光栄だろうし、男としてそれを受けねば廃ってしまうと分かっているさ──だがしかし。 「角が立っちまうんじゃないか、って」 ほんの少し、思った〈途端〉《とたん》にもう駄目だった。誰か一人を選ぶという確固な意思など、はいおしまい。 心地いいぬるま湯の関係を引き伸ばすため、俺は気づけばいつもの様に保留の一手を打っていた。三人の感情から目を背け、ただ漠然と〈現在〉《いま》を費やす。 きっと、これ以上誰かと仲が深まれば〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈成〉《 、》〈ら〉《 、》〈ざ〉《 、》〈る〉《 、》〈を〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。 それがミリィであろうと、チトセであろうと、ありえないがヴェンデッタであろうとも……心の比重が変動すれば奮起せずにはいられなくなる。それがとても怖かった。 俺は、何処にでもいる人間でいい。勝利なんてもうたくさんだ。 だから今、こうして静かに臆病者は目を背けている。同時にそれでいいのだと、胸に刺さった後悔という棘と共に〈昏〉《くら》い〈安堵〉《あんど》を噛み締めていた。 そう、今だけは何者でもなく……狼や琴弾と呼ばれることから逃避して、優しく甘い間違いへ痛んだ心を沈ませる。 正しいことは痛いから。 ああ、ゆえに── 「────、ぁ」 運命は、そんな堕落を見逃さない。 何にも成れず、まして成ろうともしなかった名無しなど、脇役として容赦なく英雄譚の炎へくべるということを。俺はついぞ忘れていたのだ。 幸福な日常により鈍化していた警戒心。その隙間に刺された毒が視界を激しく混濁させて、脚から力を奪っていく。 「なん、だ……これ──」 ぼやけた景色の中、見えたものは小さな虫……いいや、あれは蜂だろうか? 鈍い鉄の光沢を持つ奇怪な昆虫。それが気のせいか物悲しげに頼りなく、獲物の俺を気遣うように宙をゆらゆら舞っていた。 刺されたはずの首筋だけが異様に熱く、神経は大半が麻痺しているため動くことはもう出来ない。指先の感覚さえ数秒前に失った。 何がなんだか分からないが、確実に実感するのは近づいてくる終焉の臭い。 これがゼファー・コールレインの呆気ない最期というのは、薄れゆく意識の中ではっきり感じ取れたのだった。 流し込まれたはずの毒が異様に甘美であるからか、恐怖はない。むしろようやく解放されたというような、不思議に感じる安らぎへと俺はゆっくり落ちていく。 ああ、もうこれで……勝利に追われることもない、と。 苦しむために過酷な現実へ挑まなくてもいいことに、ほっとしてさえいるんだからさ。なあ、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》も── 「そんな顔、するなよな──」 気に病むなと、物憂げな知人の影へ最後に告げたその瞬間…… 俺は優しく抱かれるように、闇の底へと落ちるのだった。 人として、狼として、琴弾としてのいずれにおいても落第である小さな男は、その惨めさに〈相応〉《ふさわ》しい空虚な末路を迎えて消えた。 ……嘆きの琴は、もう鳴らない。  この世の万物は流転する。  雄大に広がる自然も、技術の粋を尽くして建築した鋼の要塞も、永遠にそのまま残り続けることはない。  経年し、踏み荒らされ、枯れ〈萎〉《しお》れ……その度ごとに新芽が生まれて代替わりを果たしはするものの、またいずれ朽ちていく。  人工物にしても同様。どれだけ強固な防壁を築き上げたところで、更に上回る暴威に〈晒〉《さら》されてしまえば敢えなく瓦解していくのみ。  諸行無常の理を説いたのは、旧暦の日ノ本であっただろうか。  絶対の存在など成立しない。永遠など有り得ない。そして、それは無形のものであろうともまた然り。  人の心。結ばれた絆。生涯の決意。  守ると誓った思いですらも変わりゆく。或いは引き裂かれる。  原因は〈諍〉《いさか》いであり、裏切りであり、戦火であり──  概して言えることは、それらの〈訪〉《、》〈れ〉《、》〈る〉《、》タイミングを正しく推し量ることは不可能。  時に人生にまで累を及ぼすほどの出来事は、予定調和の中には存在し得ず。  いつだって不意に訪れる。  そう──まるで。  最も効果的に傷を負わせられるのはいつかと、運命は舌舐めずりをしながら見計らっているかのように。  そして、戦火の及ばぬ場所においてもそれは例外でなく……  〈僅〉《わず》かな前兆すら覗かせることなく、平穏であったはずの〈工房〉《アトリエ》の扉が何者かの襲来によって開け放たれた。  物々しい空気が周囲を一変させる。  たった今まで普段と変わるところのなかった日常。その空気を引き裂くように、軍靴の硬質な音が響き渡る。  ジンとミリィを包囲するのは、漆黒の軍服をその身に〈纏〉《まと》った兵士たち。  彼等のいずれも表情は険しく、何らかの任務を受けてこの場に訪れたことを〈窺〉《うかが》わせる。隙のない挙動には友好の雰囲気など欠片も漂っていない。 「え? あ、あの、これって──」 「成る程、ようやく来たかよ。走狗共が」  各々の手には、いずれも星辰感応を成す〈特殊合金武装〉《アダマンタイト》が握られている。  すわわち、見渡す限り一人残らず〈星辰奏者〉《エスペラント》。  帝国軍が群れを成して乗り込んでくる様子はさながら制圧作戦のようであり、民間人を相手取るには明らかに余剰戦力。  その光景には、まるで何らかの〈非〉《、》〈常〉《、》〈事〉《、》〈態〉《、》が起こったことを想起せざるを得ない。 「っ、あ──」  否応なく掘り起こされるのは、五年前の忌むべき記憶。  〈あ〉《、》〈の〉《、》〈時〉《、》もそうだった。穏やかであった日常の最中にそれは引き起こされ、状況を知ることすらも許されないまま地獄に突き堕とされる。  掛け替えのない思い出を焼き尽くされた。大切な人たちを、何人も失った。それは今もなお取り戻せないものばかりで胸が痛い。  嫌だ。嫌だ。嫌だと、心の中で子どものように首を振る。理屈ではない悪寒がミリィを〈苛〉《さいな》み、その〈華奢〉《きゃしゃ》な身を〈蝕〉《むしば》んでいく。  どうしてこんなことになっているのか、彼女には分からない。分からないが、間違いなく〈何〉《、》〈か〉《、》が起こっているのは分かった。  当たり前のように過ごしてきた毎日を決定的に喪失させる異変が、すぐ、そこに。  二人を取り囲んでいる兵士たちは、記憶の中の悪魔ではない。この帝国を、己の身を懸けて日夜守ってくれている護国の戦士だ。  しかし──彼等の視線はミリィとジンのところで留まっている。それは、目的が二人そのものであることの証左であった。 「たかだか爺と小娘に〈星辰奏者〉《エスペラント》を駆り出すなど、連中のやる事には相変わらず無駄が多い。何年経っても変わっておらんか、馬鹿馬鹿しい。  今はここに戦力を集めていられる状況ではないだろうがよ。それとも反目し合っているのか── どちらにせよ悪手、時間の無駄だ」  異常事態に直面しても、ジンの様子は変わらない。 普段と同じく〈不遜〉《ふそん》、〈傲岸〉《ごうがん》。  まるでそれは──この状況もまた、彼にとっては普段の光景でしかないと言わんばかりの面持ちである。  それを生来の性格で片づけることも可能だろう。たとえ相手が体制側の人間であろうとも、決して媚びず諂わない。その一貫こそがジン・ヘイゼルであるのだと。  しかし、〈こ〉《、》〈れ〉《、》はどこかがおかしい──泰然と〈佇〉《たたず》む師匠の姿に、そうミリィは思う。  わたしはこんなにも驚いて、事態が飲み込めなくて恐いのに……まるで襲来とすら表せるような突然の出来事に、こうまで平然としていられるものなのか。 「〈竦〉《すく》む事はない、よく見てみろ。連中は確かに儂等が目的であろうが、敵意、殺意の類は見えんだろうが。  大方のところ──〈ど〉《、》〈う〉《、》〈で〉《、》〈も〉《、》〈い〉《、》〈い〉《、》〈話〉《、》〈を〉《、》〈聞〉《、》〈か〉《、》〈せ〉《、》〈に〉《、》〈来〉《、》〈た〉《、》というところだろう」 「なかなかの〈お〉《、》〈言〉《、》〈葉〉《、》ですわね、ジン・ヘイゼル。  本日持って来たのは、他でもない──このアドラーの行く末を占う重大事でありますのに」  そう二人に告げ、兵士たちの後方から工房内に歩み寄ってくるのは女性軍人だ。語る物腰こそ丁寧であるものの、それはいささか慇懃の部類に属している。  緊張状態を中和するような笑顔を浮かべていてもなお、周囲の空気は全く緩むことはない──彼女もまた、戦火に身を置く存在であることは容易に〈窺〉《うかが》い知れた。 「お二人とも、お初にお目にかかります。わたくしはサヤ・キリガクレ。   〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》が一つ、第七特務部隊〈裁剣天秤〉《ライブラ》の副隊長として、本日はお話に参りましたの」 「〈裁剣天秤〉《ライブラ》、って──」  話を聞き終わる前にミリィは反応してしまう。それは兄もまた〈星辰奏者〉《エスペラント》であるせいか、大事な人との関わりを想起せずにはいられない単語だった。  実際、過去に自分たちの家族警護を担当していた人員も、何度か〈裁剣天秤〉《ライブラ》から派遣されていた。よって連鎖的に、あの時のことを思い出してしまうのも無理からぬこと  しかし、大虐殺の日を境にミリィは両親を喪い、同時に“守られるべき対象”から外された。軍部が価値を見出していたのは、あくまで研究者としての彼女の両親でありミリアルテ・ブランシェではないから、あの日から特に接触があるわけでもない。  それがどうして、再び姿を現わしたのか── 「貴女がミリアルテ・ブランシェですわね。お噂はかねがね。   〈あ〉《、》〈の〉《、》〈男〉《、》と同居しているそうで、ええ、その苦労が偲ばれるというものですわ」 「兄さんを、知ってるんですか……?」  兄の存在に言及され、ミリィは身構える。  サヤの言葉にはどこか隠しきれない棘のようなものが見え隠れしており、それは私怨めいたものを〈窺〉《うかが》わせていた。 「天秤が〈迂遠〉《うえん》な遣り取りか。聞いて呆れる、白々しいわ。   これまでも監視を付けていただろうが。ならば、茶番など打たずに初めからそう言えば良いものを」  監視──ジンの発した言葉にサヤ・キリガクレは口端を歪める。  その表情は、まるで優美な令嬢が美しい顔に泥を塗られたかのようだった。 「気づいていましたのね、〈流石〉《さすが》は元〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の筆頭研究者。その〈辣腕〉《らつわん》、今でも健在ですか」 「腕がどうこう云うものでもないわ。〈尻尾〉《しっぽ》を軽々に覗かせる程度の尾行など、単に貴様が下手だというだけだろう。   その程度の水準では、あの〈盆暗〉《ぼんくら》にさえ及ばんわ」 「──だから、あらかじめ言っておいただろう? 警戒すべきは人狼のみに〈非〉《あら》ず。奴の周りには、油断のならん古参兵が潜んでいるということを。   私の部下が失礼をしたな、ジン・ヘイゼル。いささか〈不躾〉《ぶしつけ》な〈邂逅〉《かいこう》と相成ったが、どうか機嫌を損ねないで欲しい」  そして、更なる脅威がその姿を現わす。  悠然と歩を進めてきたのは、ミリィにとって見覚えのある人物で── 「舞踏会以来となるな、ミリアルテ嬢。相変わらず愛らしく、息災で何よりだよ。 安心したまえ、事を荒立てたりはしない。 天秤の、そして〈裁剣〉《アストレア》の名に懸けてな」 「うそ……チトセ、さん?」  チトセ・朧・アマツ──〈祝祭〉《フィエスタ》の夜のドレスではなく、十二星座部隊の軍服に身を包んだ彼女の姿は、このような混乱の最中にあっても優美。  まるで混沌に降り立つ戦女神のような威厳すら〈湛〉《たた》え、一度だけ〈邂逅〉《かいこう》したことのある女性は微笑むのだった。  ミリィは当然、混乱する。そうだ混乱するのは彼女だけ。  他の誰もが、これを語るまでもない事実だと受け止めている中、一人置き去りにされていた。突然浴びせられた真実に、足が小さく震えはじめる。 「事情を説明してやりたいところだが、今は〈些〉《いささ》か時間が許さない。 済まないな。 ──私達が用のあるのは、そこで気難しい顔をしているご老体だ」 「────」  淑女然とした柔らかな、しかし有無を言わせぬ圧をその内に含んだチトセの言葉。  突如として天秤部隊から水を向けられたジンはしかし、いつもと変わるところはなく無愛想に頭を〈掻〉《か》くばかり。 「爺一人に〈雁首〉《がんくび》揃えてご苦労な事よ。軍務に熱心なのは、貴様等の頂く総統譲りといったところか?  どちらにしても、これだけ騒々しくすれば今日はもう仕事にはならん。逃げたりなどするものかよ、話してみるといい」 「ほう、大した胆力だ。〈怯〉《ひる》まず〈不遜〉《ふそん》なその気質、部下に聞いていた通り。ああ悪くない。 とまぁ、大上段に構えるのも無礼か……〈お〉《、》〈願〉《、》〈い〉《、》に来たのはこちらの方だしな。害意などないと言うのは本当だよ。構えず聞いてくれればいい」  余裕を崩すことなく語り、チトセは片方残された眼を射〈竦〉《すく》めるように細める。そこに浮かぶ色は今はまだ読み取れず。  そして── 「黄道十二の星座が司る帝国軍部──その精鋭たちを〈以〉《もっ》てして、御することの叶わなかった〈人造惑星〉《プラネテス》については、当然存じているのだろう?   かの大虐殺の首魁……アドラーにとっては既に過去であるはずの〈そ〉《、》〈れ〉《、》の監視を、私は現在一任されている状態でな。   表向きは、だが」  苦笑するチトセに対して、ミリィにとってその言葉は全く理解が及ばない。  しかしジンは〈僅〉《わず》かも動揺を見せることなく、その顔に刻まれた〈皺〉《しわ》を不機嫌そうに深める。 「貴様の二つ名は〈裁剣〉《アストレア》だったな。天頂に輝く星々をも、己が秤で裁こうという心積もりか?」 「まさか。五年前に手〈酷〉《ひど》く奪われた女が、そこまで〈自惚〉《うぬぼ》れてなどいないさ」  そう〈呟〉《つぶや》き、眼帯を指先で一撫でする。 「ただ、総統閣下のお考えにまでは私も理解が及ばない。彼が如何なる腹積もりで魔星を〈扱〉《、》〈お〉《、》〈う〉《、》〈と〉《、》していたのか──   軍の目すらも届かぬ場所で秘密裏に行われていた何か……それを探ろうとしたがしかし、失われてしまったらしい。 あなたもよく知っている、人狼の手によって」  ヴェンデッタは奪われ、運命は回り始めた。すべてが惹かれあうように動き出すことを指して、その真実を彼女はいま求めている。  すべては、情報だ。  知らなければ、最前どころか次善の手すら打てないのだから。 「は──総統閣下などとは良くも言ったものよ、小娘が。   貴様は確かに、余人と比べてずば抜けているのかも知らんが、駒としては劣等だな。我が強すぎる。   至極〈尤〉《もっと》もそうに述べてはいるが、詰まるところは己が主を信用していないということだろう。その野心に満ちた〈隻眼〉《せきがん》を見れば分かる。   だからこそ、こうして儂の下へ来た──いずれ必ず、寝首をかいてやるために。違うか?」  指摘するジンの舌鋒は鋭く、天秤兵士の間に剣呑な空気が走る。  アドラーに於いてヴァルゼライドと並び立つ武威を唯一有する〈裁剣〉《アストレア》に対し、ここまで明け透けに物を言う相手とは未だかつて遭遇したことがない。  しかし彼らが主たるチトセは不敵な笑みを浮かべこそすれども、動じるような素振りは〈微塵〉《みじん》も見せずにいる。どころか、むしろ楽しんでいるような気配すら漂っていた。 「ああ、貴殿の言う通りだな。そういう意味では、私は軍人失格さ。   盲目的に地獄の底まで付き従うというのが優等であるならば、そのような評定などこちらから願い下げだ。ことの真贋を見極めずして〈裁剣天秤〉《ライブラ》は名乗れまい。 端的に言えば、ヴァルゼライドの真意が見えてこないのさ──あの男と手を組んでから五年が経つが、裏は今も隠れたままだ。   無論のこと私は一部隊長に過ぎず、知らされていない事項もあるだろう。そこは別に構いはしないし、奴そのものには信を置いている。誰より民のことを考えているのは、間違いなくヴァルゼライドで揺らがない。   〈だ〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈こ〉《、》〈そ〉《、》、逆に秘匿しているのは不自然だと言っているのさ。公明正大たる総統閣下が、〈何故〉《なにゆえ》一点にだけ深い闇を抱えているのか……」  信じて従えばいいのかもしれない。事実、彼は今まで帝国を牽引してきた黄金時代の立役者だ。  どんな窮地においても自分の身すら〈顧〉《かえり》みず、傷を負うことも〈厭〉《いと》わず、ただ愚直に民を守り続けてきた。疑う方がおかしいと、誰が見ても思うだろう。  だから責任は己が負うべきという、当たり前の前提によって問う。 「これは私の独断だ。〈見〉《、》〈定〉《、》〈め〉《、》〈ね〉《、》〈ば〉《、》〈な〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》というゆえの行動。何事もなかった〈暁〉《あかつき》には、如何なる沙汰が下ろうとも覚悟はできている」  少なくとも、伝えた本気は感じ取ったのだろう。拒否は通じないと思ったのか、ジンは苦々しく舌打ちを〈零〉《こぼ》した。 「儂に〈辿〉《たど》り着いたのはどの〈伝手〉《つて》だ。〈錬金術師〉《アルケミスト》といったところか?」 「この帝国の四半世紀を紐解いていけば、嫌でも耳に入ってくるさ。貴殿ほどの技師ならな。  軍事研究機関、〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の元中心人物……帝国の暗部にも身を置いていたであろうことは想像に難くない。   なぜ退役が認められ、あまつさえ隠居生活が許可されていたのかは知らないが……現在の状況がそれを許さない」 「師匠……」 「昔の話だ。たしかに儂は軍属であり、日夜〈星辰奏者〉《エスペラント》の研究に明け暮れておった。 あの女が言っていることは、真実だ」  〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》──帝国の誇る〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》が一つ。  ミリィがその名を知らないはずがない。今は亡き彼女の両親も研究者であり、〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の1グループが直轄している〈機関〉《ラボ》で働いていたのだ。言ってみれば智の水瓶は憧れだとも思っていた。  そこにジンが所属していたと聞かされ、ミリィは当然驚きはしたものの……それにも増して、心のどこかで妙に納得してしまった。  こと調律の技術に於いて、ジンは他の技師など比較にならない図抜けた腕を有している。それは毎日一緒に作業をしているミリィこそが、一番よく知っている事実だった。  どんなに〈些細〉《ささい》な作業からでも通底して見て取れる、その卓越した才能。  帝都の片隅に隠れるようにして、どうして小さな〈工房〉《アトリエ》を構えているのかと思ったりもしたものだ。  ゆえに、帝国の軍事技術を司るとも言われる〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》に所属していたと聞かされて、そこに違和は感じない。  そして、ジンの過去を知り、その上で〈工房〉《アトリエ》に足を踏み入れた女は告げる。 「一緒に来てもらおうか、ジン・ヘイゼル。貴殿の〈遍〉《あまね》く知識が私には必要だ」  チトセの口にした〈誘〉《いざな》いは、激動の訪れを予感させて── 「笑わせる。選択肢などないのだろうがよ。  単刀直入に言えばよかろう、連れ去るとな」 「人聞きが悪いな、話を聞かせてもらうのさ。ただし、場所を変えてな。   あなただとて、魔星や英雄に巻き込まれるのは御免だろう? 私もそうだ。それでも怨むというのなら、甘んじて受け入れよう」 「ミリアルテ・ブランシェ。君にもお出で頂きたい。幾つか確認しておきたいことがあってな」 「──わたしには、何か大した価値なんて」 「ああ、すまん。怖がらせたようだが構えることはないさ。身の安全は保証するし……それに正直なところ、〈工房〉《ここ》に残っているよりも私たちの傍にいた方がずっと安全だ」 「手荒な真似はしない、それは約束しよう。私としても、君の兄に嫌われるのは避けたいからな」  そう言いながら少しだけ、おどけたようにチトセは〈僅〉《わず》かに肩を〈竦〉《すく》めた。その気軽な態度に〈僅〉《わず》かながらミリィの緊張もほぐれていく。  それは、同じ男性を思うがゆえの〈共感〉《シンパシー》だったのか。その一言だけは信じられると、少女は静かに思えるのだった。 「それと、他ならぬあいつとも関わりのあることだ。君もきっと、聞いておいた方がいい」  告げられた言葉に、鼓動が一つ大きく跳ねた。  あいつ──チトセにそう示唆される存在は、たった一人しか思い当たらない。  今はここにはいない、わたしの大切な人。  もしかして── 「兄さんが、何かに巻き込まれているんですか?」 「ああ、抗し難い運命にだ。そして、このままであればゼファーの星は必ず遠からず破綻する。 あいつを救いたいだろう? 今回の件は、引いてはそのための提案でもある」  ……なんだろう、既視感がある。  それは五年前と同じ感覚。恐ろしい、抗いようのない無慈悲な運命が、再び自分を呑み込んでいくのをミリィは感じた。  街を焼き尽くす炎。原形すらも留めていなかった両親。あの時、自分は何もできなかった。ただ無力に翻弄され、泣いていただけ。  そして、今はどうだ?  なにか、出来ることが増えただろうか?  弱いまま? 子供のまま? ならばまた── 「──────」  掠れたミリィの声は、誰にも届くことはない。  それはまだ音を成しておらず、彼女自身も己の感情を理解していない。ゆえに風に紛れて消えていく。  あの日起こった悲劇と、そして未だ知らされていない真実。  それらとミリィが向き合うのは……そして、己を賭して運命と〈戦〉《 、》〈う〉《 、》のは、今まさにこれからであるのだった。 面倒ごとは御免だと、そう思い続けてこれまでやってきた。 〈仕〉《、》〈事〉《、》以外での戦いになんて巻き込まれたくなかったし、いざ荒事に直面しても今までさんざんっぱらビビってきて。 分を超えた勝利に潰され、ちっぽけな自分を嫌というほど認識させられてきたんだ。〈あ〉《、》〈い〉《、》〈つ〉《、》〈ら〉《、》みたいな英雄には到底なれっこないし、ならば危険を冒すなんざ馬鹿のすることで。言うなれば、これは臆病者なりの処世術。 裏を突き、〈騙〉《だま》しに掛けて、これまでどうにか生き延びて来られたといっても過言じゃない。 しかし、今だけは──ッ。 〈平均値〉《アベレージ》から〈発動値〉《ドライブ》へと爆発的に引き上げられた星辰。持てる限界速度に達した〈渾身〉《こんしん》の斬撃はしかし、こともなく魔星に弾かれる。 初撃にして出し惜しみなし、並の〈星辰奏者〉《エスペラント》すらも遥か凌駕した域にあったはずの星を軽々といなしてしまう正真正銘の怪物に俺は思わず歯噛みする。 襲い掛かる刃は残像さえも残さない加速を得ていたはず。音も、殺気も、気配すらも置き去った全力ですらもその首元には触れられない。 いいや、届く気すらせず。 「シ、ィッ──!」 ほぼ同時の呼吸で躍り出たのはアスラ。何の打ち合わせもなく阿吽めいた連撃に持ってくるそれは奴の戦闘センスの賜物だが、ウラヌスに届かないという意味においては委細同じ。 それでも唯一の収穫は〈魔〉《、》〈星〉《、》〈の〉《、》〈興〉《、》〈味〉《、》〈を〉《、》〈引〉《、》〈け〉《、》〈た〉《、》ということか。見る者全てを凍りつかせるような蒼く輝く魔眼が、ゆっくりこちらへ向けられている。 殺気を〈孕〉《はら》んでいるどころではない、視界に囚われた者全てを根絶せしめんとするその凄みに一瞬圧倒されかかるも…… 「行かせねえぞ、化け物が──」 武装の柄を握り締め、命を懸けて遂行するべき決意を口にする。 てめえの向かう先にいる連中は、こんな俺にようやくできた宝物なんだよ。軽々しく踏み荒らしていいような安いものじゃ断じてない。 ミリィとの、ささやかな生活──そこにヴェンデッタも加え、三人で過ごすそれは時に〈辟易〉《へきえき》することもあったけれど、今となってはどれも〈穢〉《けが》されていいわけがなく。 絶対に守り抜く。その思いを〈星光〉《ほし》に変えて刃を震わせ、虐殺の権化である蒼の魔星と対峙する。 〈彼我〉《ひが》の力量差は歴然で、勝ち目があるなどと思う方が馬鹿げている。現在にしたところでなんとか追いすがったという状態でしかないものの、それでも奴の足だけは止めた。 一人であれば正直詰んでいただろうが、如何なる因果か今はアスラが〈こ〉《、》〈ち〉《、》〈ら〉《、》〈側〉《、》についている。正体、思惑、全てが不明? ああ構わねえ、何だって利用してやる。 「────」 あまりにしつこく追いすがったせいか、極寒の〈仮面鉄姫〉《マスクレディ》がこちらに向けてくるのは〈僅〉《わず》かな苛立ち。取るに足りない下等生物風情に付き〈纏〉《まと》われていることに、内なる殺意が荒立っているのが感じられる。 「事ここに至って、なお喚くばかりとは呆れたものね。巡りの悪さ、所詮は人間というところか」 心胆寒からしめるその声音に滲んでいるのは──侮蔑と、そして呆れか? 「我欲に囚われ、近視眼的にしか事象を捉えられないとは……醜悪を通り越して、いっそ〈憐憫〉《れんびん》すらも湧いて来ようというもの」 「これ以上失望させるな、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。本当におまえ、事の本質が分かっているのか?」 ついでと言わんばかりに──しかし無拍子で放たれる氷杭の砲撃を、俺は間一髪のところで〈躱〉《かわ》す。奴の一挙手一投足に集中していなくば、いつ命を刈り取られるか知れたものじゃない。 〈赤星〉《マルス》とこいつの違いは端的に言えば攻撃範囲で、どれだけ間合いを取っていようとも一瞬にして致死の氷が殺到する。安全圏などという手緩いものは存在せず、間断ない集中状態を強いられる。 「卑小な妄執、見るに耐えん。我々のために行儀よく琴を弾けばいいものを……何を〈不遜〉《ふそん》に意気込んでいる」 「何、心配せずともおまえはもはや逃げられん。〈本〉《、》〈命〉《、》を回収したなら、すぐにでも確保してあげましょう。ゆえにこの場は〈弁〉《わきま》えろ」 「いい加減に、邪魔だ。惨めに〈這〉《は》い〈蹲〉《つくば》るがいい──」 刹那、足下から無尽蔵に次々と生えてくる樹氷──呑まれてしまえば一巻の終わりという脅威でありながらも、この怪物は未だ〈本〉《、》〈性〉《、》を〈晒〉《さら》してはいないという予感がしてならない。 言って見れば、俺は敵だとすら思われていないのだろう。取るに足らない、目の前に転がってきた塵と同程度の認識に過ぎず、ゆえに星こそ用いてはいるもののあくまで適当に振り払うのみ。 戦闘と呼ぶにはあまりに雑だが、それでも膨大な出力は児戯だけで空間を侵食する。 結果、俺は手も足も出ない。いくら決意と共に魔星の前へ立ちはだかろうとも、勝負の場においてはそのような感情など何の影響をも及ぼさない。 あくまで無造作、片手間で放たれたはずの攻撃ですら致命の撃となる。こっちの全力など軽く圧倒されており、突破口すら見当たらぬまま── 「畜生が、ッ──」 氷弾を弾き続ければ死こそは避けられるものの、肝心要であるウラヌスとの距離はいつまで経っても離れたまま。このままでは、ただ徒に消耗を強いられるのみ。 しかも、自己を中心に空間凍結を維持しながら攻撃を仕掛けてくるため始末に負えない。 周囲丸ごと死の大地へと染め上げるなんざ、想像するのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに莫大な出力が必要だろうに。 降り注ぐ氷杭、そして着弾点から花咲く氷華。それは戦場にありながらも美しく、どこか目を惹きつける。まるで地獄へと誘う悪魔の誘惑のように。 「よう、どうするよ大将。こいつはちっとばかし面倒だ。劣勢だろう? 燃えるだろう?」 「〈素手喧嘩〉《ステゴロ》ならこちらの独壇場だがよ、ありゃ紛れもない兵器だな。何せ丸ごと凍らせる。おかげでこう、中々うまく相性が嵌らない」 「というわけで、いっそ今から捨て身といこうや。さて、〈乾坤一擲〉《けんこんいってき》大博打、如何なる間合いで仕掛けるものぞとォ──」 「どうよ?」 「どうもあるかッ」 並走する形となったアスラは相変わらずの軽口を叩いてやがる。この期に及んでその度胸、呆れを通り越していっそ感心すらしてしまう。 襲い来る氷弾氷柱をひょいひょい器用に〈躱〉《かわ》す、まるでサーカスじみた回避方法は生来の勘に由来するものだろう。ああ、こいつを見てると一応味方であるにも関わらず溜め息が漏れてしまう。 どうして俺の周りには多いのだろう、この手の桁外れた天才どもが。 俺があれだけ修練を重ねて身につけた戦闘のノウハウを一瞬でこなし、のみならずその遙か上を行く傑物どもが。生身でそれを見せつけられるこちらとしては、己の凡才ぶりが嫌になる。 「おまえ、余裕あんならこの状況をどうにかしろよ。いつまでもヘラヘラ遊んでんな」 「追いつけるんだろ? その感じなら」 「どうかねぇ、〈ア〉《、》〈レ〉《、》止めるっつうのはちとキツいぜ」 「接近までなら何とかなるが、殴れるほどの至近距離となら話は別だ。必中の間合いをむざむざ〈晒〉《さら》す相手じゃない」 「それに──たとえこっちの攻撃が当たっても、腕がぽっきり〈凍〉《イ》っちまう。殴っといて壊死させられたんじゃまったく割に合わんだろう」 「ま、本気を出せば俺一人で余裕だけどよ? カカカカッ」 そう〈嘯〉《うそぶ》いて、ケタケタと笑うアスラ。最後の言葉は聞き流して……まあ、前者に関してはそうだろうな。殴れば凍る、魔星の恐ろしさは守備面にもしっかりと至っていた。 絶対零度に等しいあの凍気を〈周〉《、》〈囲〉《、》〈一〉《、》〈帯〉《、》に〈纏〉《まと》っているのだ。接近するという行動事態が自殺行為であることは、想像に難くない。 人体の〈表面〉《ガワ》だけじゃない。全てを凍らしめる極低温によって肺の中まで凍りつき、それで少しでも動きが鈍れば四方八方からの攻撃によって串刺しだ。 のみならず、軽い攻撃が当たったところで、アスラの言う通り末端ごと凍結させられるのだろう。こいつも恐るべき第六感で魔星の攻撃を避け続けてはいるものの、如何せん有効な攻撃手段が見出せずに攻めあぐねている。 状況を言えば手詰まりで、まともに取り合わないことくらいしか生き延びる術はない。そんな中で選ぶべきなのはきっと逃げの一手で、いったんこの場を退き対抗策を考える──と。 実際、今までの俺であればそうしていた。あの大虐殺の日ですらも、怪物に立ち向かう勇気すら湧かずにただ戦場から逃げ去ったんだ。 だけど、今回はそうはいかない──俺がこいつを止めると決めた。あの悪夢の中でただ一つこの手に残された、大切な女の子を守るために。 頭をフル回転させ何とか光明を見出そうとしていると、アスラが含み笑いを浮かべて問いかけてくる。 「絶体絶命の窮地に於いても出し渋るとは。いやいや、実は余裕があると? 役者だねぇ、見掛けによらず」 「どういうことだ──」 「それはこっちのセリフだぜ。おまえさん、何か〈隠〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈る〉《、》〈力〉《、》があるんだろ?」 「聞き及んでるぜ。暴虐の赤星をすら退けたと云う〈超新星〉《チカラ》だとよ……なあ、どうしてそいつを使わない」 「己に縛りを科してるってな風でもねえな。〈事〉《、》〈情〉《、》〈持〉《、》〈ち〉《、》か、まともに出せやしねえのか──」 無遠慮なその言葉に思い出したのは、ヴェンデッタとの〈同調〉《リンク》──命を削り、破滅の星と成す所行。 この男の言う通りで、アレは俺の手に負えるものではなく、そもそも未だに御せてすら……いや、二度目を使った覚えもない。 約束されているのは己の身の破壊のみであり、それはすなわち地獄への片道切符。なので当然、封じてきたが。あの力に手を出すべき局面が、再びこうして現れた。 ならば──できるか。耐えられるのか? もう一度使ったら死ぬんじゃねえのか? 仮に成功したとしても、またあんな風に苦しめって? いいや、それでも── 「勝ちの目があるってんなら、出し惜しみしてんじゃねえぞ。明日の心配するなんざ、そんなタマでもねえだろう?」 「自分は弱いだの何だの、その手の主張は勝手にしてな。敗者になって惨めに人生送るのだっておまえさんの選択だ、止めやしねえよ。自由にやれや」 「だがな……まあほら、アレだ。ぶっちゃけ、俺が見ていてつまらん。殴りたいのに殴れない? いかんぞ、そいつは大問題だ」 「で、ならばどうする? いいか、男には命の賭け時ってのがあるんだよ。そして、今がその時ならば、きっとそいつは派手になる。花火のようにドカンと弾けて……運命だろうと〈木端微塵〉《こっぱみじん》だ」 「おまえさん、大切なものがあるんだろ? それぐらいしないと守れんのだろ?なら全力出せ、気張ってみろや。いつまでも後悔したままの人生送るなんざ真っ平だろうが。呵々ッ」 などと、偉そうに語るこいつの言葉は単なる暴論で、思い付きを適当に口にしているだけなんだろう。他人の事情に土足で踏み入って〈掻〉《か》き乱す、共同墓地で絡んできた時と同じ。 いい感じにむかついた。理不尽そのもの、ふざけるなと思う。 思うが、しかし──それは発破となり俺の心を奮わせていくのも事実。 俺には守ると決めた女の子が、ミリィがいる。なら成すべきことなんざ決まっていて、こんなところで足止め食ってるわけにはいかないだろう。 二度と後悔したくないんだ。あんな思いはもう嫌だから、ならば── 「少しでいい……あいつを引き付けていられるか?」 「カッ、いいねえ〈相〉《 、》〈棒〉《 、》──ようやく尻に火が点いたかい」 「オレ様を時間稼ぎに使うってか。ああ上等だ、任せろやァッ」 意気揚々とアスラは言い放つ。大したことを宣ってやがるこいつにしたって、勝算があるというわけじゃないだろうのはよく分かる。もしそうなら、とっくに実行しているだろうから。 だからよ、おまえも俺を信用しろ。正直相性悪いけどこの一時、今だけは俺もそっちを相棒として見るからよ。 その強さに関してだけは超が付く一級品だと認めているから、隣へ同時に並び立つ。 敵は不沈で味方は即席、状況はまったく見通せない。高レートの博打であるのは明白で、もはや鉄火場は避けられず。これを正面から押し通るなど、大概〈英雄〉《バカ》のすることだろう。 けどな── 「創生せよ、天に描いた星辰を──我らは〈煌〉《きら》めく流れ星ッ」 紡がれる〈詠唱〉《ランゲージ》に感応し、不可視の〈星辰〉《アストラル》が刃に集束していく。これまでは涙であり、嘆きであった〈呪詛〉《じゅそ》の感情。しかし今、この時を〈以〉《もっ》て祈りと化す。 怨嗟。〈慟哭〉《どうこく》。それらが星の光となって顕れる。 なあ、ヴェンデッタ──この〈詠唱〉《こえ》がもし聞こえているのなら、少しでもいい。俺に力を貸してくれ。 魔星を打ち砕き、あの日々を再び取り戻す力を。 おまえだって、ミリィが傷つくのは嫌だろう? 「だからとっとと、俺にあの日の力を寄こせッ──!」 鼓動はどこまでも加速して、銀刃が唸りを上げて啼き始める。触れれば斬れるその域まで高めた振動こそが、この不退転の戦場に〈相応〉《ふさわ》しい。 己の身など〈顧〉《かえり》みることなく、星の輝きを召喚する。心肺機能は限界を超えて加速、止まらぬ血流によって全身が発熱を帯びる。まるで溶鉱炉に投げ込んだ鋼のように。 そして── 「〈超新星〉《Metalnova》──〈冥界へ、響けよ我らの死想恋歌〉《Silverio Vendetta》ッ!」 絶対不利からの逆襲を宣言し、魔星を地に堕とすための疾走を開始した。  瞬間、駆けるウラヌスは感知する──己が疾走する背後から突如として強大な〈星辰体〉《アストラル》反応が発生した。  それは〈星辰奏者〉《にんげん》如きでは起こし得ない規模の光輝であり、例えて表わすならば魔星同士の衝突にも相当する規模だった。  しかも、なぜかエネルギーの発生と同期して、自身の向かおうとしていた進行方向上からも〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈と〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈同〉《 、》〈一〉《 、》〈の〉《 、》〈反〉《 、》〈応〉《 、》〈が〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。  その熱量、その委細。違わず同じ星光に、ウラヌスは得心した。吟遊詩人が黄泉へ向けて琴を奏で始めたというわけか。  すなわち── 「来る──」  そこには、矢継ぎ早に殺到する氷杭を斬り裂いて己に迫るゼファーの姿。  銀刃を手に疾走する姿は、まるで死出の旅路へと誘う案内人のようだ。  ウラヌスは、思わず深い笑みを口元に浮かべた。ついに本命が舞い降りたらしい。 「〈漸〉《ようや》くにして目が覚めたか……いいだろう。今の貴様であるならば、障害と認定するのもやぶさかではない。  さあ見せてみるがいい。己が〈番〉《つがい》と重ねて〈纏〉《まと》った、その星を──」  ここに至り初めて、魔星の意識がゼファーへと集中する。  相対しているだけで発狂しかねない極大の殺意──それは今までの様な片手間ではない、排すべき相手と見定めたがゆえのものだった。  周囲の氷結速度がさらに加速していく。街が凍り、大気が凍る。まるで氷河期の如き世界へと塗り替えられていく。  創成にも等しい莫大な星が満ちてゆき──刹那。  空間の四方から発生する氷杭、それが一気にゼファーへ向けて襲い掛かる。  〈躱〉《かわ》すことなど不可能な万の砲撃は、しかし。  当たらない。切り裂かれ、いなされ〈躱〉《かわ》され対応される……全てを斬り裂く人狼の出力もまた、飛躍的に増大していた。  何より、アストラルそのものの流れを読めるのが大きい。  視覚の変調は挙動予測の精度を上げ、ゆえ事前に〈射手〉《ウラヌス》の動きを読む。 「ふむ、どうやら見掛け倒しでもないということか。先程までの貴様であれば殺す積もりで放ったのだが……  取り分け、迅度の上昇は極端。これならば〈人造惑星〉《プラネテス》相手の戦闘であろうとも、早々後れを取ることはあるまい」  しかし未だ、魔星は余裕と観察の姿勢を崩さない。  ゼファーに対する一定の評価も、あくまで高みから見下ろしたがゆえの言葉を下す。 「アストラルそのものへ振動による干渉を行うとは、人間風情がよく〈掻〉《あが》く。  こちらの星光、その素粒子に於ける振動数を見切った上で逆位相を発生させ、消滅させる……成る程、あながち曲芸とも言い難い」  人狼の如きゼファーの進撃は投擲された槍の如く。一筋の閃光とその身を化して、剣林弾雨を貫いていく。  物理的な氷弾のみではなく、発生する星辰の振動に干渉し無形の現象さえも〈掻〉《か》き消していく。  その様を、あくまで愉快そうに〈睥睨〉《へいげい》しつつ── 「では、威力の強大さは?」  ならばとばかり、ゼファーの頭上に巨大な氷塊を創造して落下させた。  その規模は隕石にも等しく、発生を確認して避けられるようなものではない。言うなれば巨人の一撃で、身の程知らずの狼に下される鉄槌に等しい。  だが、それも──  巨象に蟻が潰される刹那、振動掌を正面から撃ち込んで消滅させる。  ゼファーの持ち技である〈共鳴振〉《レゾナンス》──現在の出力自体が桁違いであり、ゆえに効果も〈斯様〉《かよう》に至る。 「これに関しては及第点と言ったところか。仮にもあの御方さえ見通せずにいる〈吟遊詩人〉《オルフェウス》、そうでなくてはこちらも困る」 「だが〈些〉《いささ》か目障りだ、〈暫〉《しば》しそこで踊るがいい──」 「ッ、グゥッ……!」  言葉と同時、ゼファーの足元から発生した鋭利な氷樹がその身体を貫いた。  一切の予備動作がなく、加えてここまで見せたこともない死棘の攻撃に、ここまで曲がりなりにも渡り合ってきた彼も〈躱〉《かわ》せない。  氷結し銀世界と化した足下を、鮮血が紅く染め上げていく。  限界まで己の運動性能を高めようとも、高度に連続していた攻防を行うには五体満足であることが必須の条件。ゆえ、こうして脚を止められれば〈途端〉《とたん》にゼファーの牙は無力と化す。 「なるほど、範囲攻撃に対応できんか。数が増えた際の対応も甘いな、つまり総じて物量による小技に弱い。  所詮は劣等種、〈人造惑星〉《プラネテス》たる我々に伍せる〈筈〉《はず》もなし、か」 「グダグダ、抜かしてんじゃねえぞ……コラ」  共鳴状態にあるその能力を、まるで逐一検証するかのような鉄姫の物言いにゼファーは〈呪詛〉《じゅそ》を吐き捨てる。  貴様の首を今すぐ寄越せと、凍結しながら殺意を籠めた。 「ほう、まだ諦めていないか。ならば──」  薄〈嗤〉《わら》う言葉と同時、青く〈煌〉《きら》めくウラヌス。ただ〈粛々〉《しゅくしゅく》と周囲に今までの数倍の数の氷杭を発生させる。  まるで愚かな罪人を天に誘う女神のように、その手をかざして死を宣誓する。 「望み通り、数で圧殺してやろう」 「ッ、────」  脚の拘束を破砕し、放たれた死氷に触れる寸前でどうにか迎撃する。触れれば終わりであるものの、身体に先程までのキレはなかった。  逃げ惑えないがゆえの必至、脚を止めての斬撃で辛うじて魔弾を撃ち落とし〈微〉《かす》かとなった自らの命を〈繋〉《つな》ぐ。  生きる、殺す、それを両立させようと〈掻〉《あが》き惑うが、しかし。 「なんだと、ッ──」  まさに王手と言わんばかりの星光が──ゼファーの足元を凝固させ、その場に固く縫い付ける。  今までのような刺し貫くのとは違い、血肉そのものを停止にかかった。  機動性を有していさえすれば〈嵌〉《は》められる能力ではなかっただろうが、しかし負傷による刹那の鈍りが彼を致命の状況へと追い込む。  完全に自由を奪われた状態は、一瞬で蜘蛛の糸に掛かった哀れな羽虫へ。こうなってしまえばもはや捕食されるのを待つばかり、ウラヌスは〈嘲〉《あざけ》りながらそれを静かに眺めていた。 「全てにおいて格上である私を迎え撃ち、その上で更に隙を生み出してどうにかしようと目論んだか? 馬鹿馬鹿しい。そのような蛮勇、勇気と呼ぶにも値しない。  弱きは強きに敵わない。水は上から下へと落ちる。意志の力? ああ、それで? 少々心を決めた程度で方程式が狂うなら、そちらの方が問題だろう。自然界の道理が狂う。  おまえと私、その時点でもはや勝負は決まっている」  鹿は獅子を殺さない。蝶は蜘蛛を捕食しない。極論、ウラヌスの語る言葉はそういうことだ……そしてそれはとても正しい。  〈星辰奏者〉《エスペラント》の限界を超えねばならないという時点で、無茶に頼っているということ。自然な成り行きに反する博打、その時点で既に勝利への道筋は破綻していると鉄姫は語る。 「邪道は邪道にしかなれん。卑小な己を恥じなさい、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」  朗々と〈謳〉《うた》い上げるそれはどこか高貴で、まるで〈舞台劇〉《オペラ》の調べのようだ。弦の切れた吟遊詩人は如何な思いで聞いているのか。  絶望、自棄、そのような感情に落とされても何も不思議はない現状にて。  しかし── 「く、くくく──ああ、悪い。あんまりにも片腹痛くってよ」  瀕死とも呼べる状況を前にしてゼファーは笑う。  表情は侮蔑の色を浮かべ、まるで嘲笑するかのように魔星の片割れを見下していた。  死刑を待つだけである〈筈〉《はず》の存在が、まるで高みにいるかのような、その表情。激しく矛盾しているものの、目はまだ光を失っていない。 「いやいや、あんたのことを誤解してたわ。まるで悪魔か死神だって……  それがどうだ、実に可愛いものじゃないか。そうだな、とても自然だよ。おまえは強者で、だから最後に必ず勝つ」  そして実際、そうなっている。  弱者たるゼファーを相手取って力を見せつけ、理路整然と勝利の芽を潰し、諦めない意識を追い込みながら刈り取ろうとした。それはもう、楽しそうに。  当たり前だ。当たり前だ。何もおかしな行動じゃない。  よって、つまるところ── 「おまえさ、本当は大した奴じゃないんだろう?」  そして、吐いた侮蔑に大気が凍てつく。  目に映るもの全てが氷結してしまいそうな、極寒の怒りが張り詰めていた。  それはまさに〈逆鱗〉《げきりん》である。静かに、しかし膨張寸前の激情をウラヌスが宿す中、一切の空気を〈斟酌〉《しんしゃく》することなく吟遊詩人は語る。 「“普通”だよ、あんたは。少なくともその心においては。  怪物は力を誇らない。それは手段だと割り切ってしまう。だが、おまえはどうだ? 存在理由そのものにすら見えるぜ」  強いから自分は上等で、強いから選ばれし存在だ。  強いから、強いから、強いから……  つまるところ、暴力に寄り掛かって自己を構成しているわけだ。力を頼りに見せつけている、それはとても当たり前の方程式。  獅子を食い殺す鹿じゃないから、蜘蛛を捕食する蝶じゃないから──狂ってないから怖くない。 「だから、〈異常者〉《えいゆう》に負けたんだよ。不条理な存在が、そのおかしさで負けてどうするんだか」  言い放った瞬間、ウラヌスの星光が一瞬で集束した。主の意を反映して凍結の深度を深めていく。  それ見ながら、なおも〈嗤〉《わら》って── 「おめでとう。俺たちは等しく、〈塵屑〉《ごみくず》……凡人だ  あんたは、ヴァルゼライド総統に決して勝てない。当たり前のように戦って、当たり前に敗北するさ」 「黙れよ、貴様ァッ──!」  決定的な言葉を吐いた瞬間、最悪の絶対零度が空間へと吹き荒れる。  ゼファーを一瞬で氷の柩へ飲み込みかねない、死の抱擁。熱を奪い去るそれは主の怒りを反映し、苦痛と共にその命運を断ちにかかった。  ……今まさに凍て付きつつある、彼の描いた策通りに。 「──今だッ!」 「破ッ、ハハハァッ──待ち侘びたぜ大将よォ!」  機を待ち焦がれていたアスラ・ザ・デッドエンドが、号令と共に突貫した。  上機嫌に呵々大笑しながら現れて勇躍一途、瞬時に距離を詰め迫る。  されど、周囲一帯を覆う氷の世界は未だ健在。出し抜かれたところで、魔星と人間とではそもそも桁が違うのだ。  彼が生身において破格でも、殴ればそのまま凍て付き砕ける。  すなわちウラヌスに近づいた瞬間、いつでも凍り漬けにすることが可能であるが、狙うのはそちらではない。  悪童が、今から嬉々とぶん殴るのは── 「そうら、行けやァッ!」  アスラの掌底がゼファーを打ち、その衝撃で足下の縛であった氷の拘束を粉砕する。  それはまさしく拳の極み。発勁により行われた、振動伝播の一撃だった。外側のみを砕く神業が見事に魔星の縛りを砕く。  身体は全くの無事であり、なんという技巧かとゼファーは思わず舌を巻くが、今はそれを胸の内へ留めた上で疾走を再開する。  星辰を発動させ、爆発的な加速をもって蒼星の懐に潜り込んだ。  踏み込むゼファーと、一歩引いてしまったウラヌス。  我が身を釣り餌にした策により……この一瞬を〈以〉《もっ》て、ウラヌスの星光を瞬間的ながらも捉えたのだ。  そして──〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の有する唯一の切り札、警戒するにも値しなかったはずのそれが、今まさに死の恐怖としてウラヌスの眼前へと具現する。  寒々しいまでの冴えと共に、自らの首元へ迫る刃。その必殺性が確かであり、こちらが圧倒していたものの関係ないと断ち切るべく、唸っている。  そう、相手を殺すには圧倒も〈蹂躙〉《じゅうりん》も必要ない。  ただ一点、斬首さえ成せばすべてはそれで済むのだから。  事ここに至って待っているのは死であるからか、ウラヌスは半ば呆然としていた。  戦場で見せた事のない表情──しかしそれは焦りではなく、一杯喰わされたことに対してというわけでもない。  死の危険が迫っているから? ああ、それでもなく。 「──ヴァルゼライド」  英雄と、目の前の吟遊詩人……似つかないはずの二人を、なぜか重ねて見たことが彼女の意識を凍らせていた。  侮蔑に〈塗〉《まみ》れた目。醒めた目線。勝利することに全能力を傾け、自然の道理を覆す異常な生命。どう考えても敗北するはずが、その運命に牙を〈剥〉《む》く訳の分からない何者か……  既視感に、ああ、なるほどなと独りごちて。 「〈燦爛〉《さんらん》な我が身と比べ、〈憐〉《あわ》れでならぬ。直視に耐えん。  ゆえに奈落へ追放しよう──雨の恵みは凍てついた」  次の瞬間、憤怒の激情が鉄姫の内から燃え立った。  地の底から響くようなその〈詠唱〉《ランゲージ》に、ゼファーの背筋へ怖気が走る。  それは無論のこと〈怯〉《おび》えなどという感情ではない。覚悟を決めた今、戦場で向けられる殺気に萎縮するなどということは有り得ず。  ましてや必殺の局面、この刃を打ち下ろすだけで勝利が確定するという絶好機。  しかし──しかし。  そんな理性よりさらに奧へ存在する生物としての本能……それを根底から凍らせるかのような〈呪詛〉《じゅそ》の響きに、思わず反応してしまった。  引き金となった感情は明確、憤怒。  魔星が己の存在意義と定めし宿業、その激情こそが、彼女を本領へと近づけた。 「──逝け」  短く、されど絶大の殺意を宿した一言が世界を変える。  地面から一気に乱立する、樹氷の大森林。まるで空間そのものが悲鳴を上げているかのように絶頂しながら、凍てついていく。 「ッ、ぅ────」  必殺の一撃はそれに阻まれ、避ける、避ける──なんとしても生き延びようと反転した。さもなくば氷河期に包まれてしまう。  〈禍々〉《まがまが》しく星光を吐き散らすウラヌスは、その様をただ眺めている。  明確な、今までとは比較にならない憎悪と共に、見定めていた。 「下賤の輩が、〈穢〉《けが》れた血筋が、舐めた口を利いてくれる。  だが一つだけ、逆に感謝をしてやろう。貴様は私に、原初の衝動を思い出させてくれたのだから」  それは底冷えする静かな口調。怒りこそ感じられるものの、判断力を奪う類の激情に〈非〉《あら》ず。  伝わって来るのは、ただ眼前の相手の命を奪うという単純な殺意と憎悪。そこに揺らぎは〈微塵〉《みじん》も存在しておらず、すなわち先刻までゼファーの突いていた弱点がもはや存在していないことを意味している。  漆黒に塗りつぶされた憎しみをもって、ウラヌスは完成するのだろう。  五指を伸ばし、ゆっくりと掲げる様は極刑の通達。  人狼の頭上に巨大な氷塊を創造する──その規模は、先程までの優に十倍。 「……おお、こりゃいかんな」 「ッ、オオォォォォッ!」  他人事のような〈呟〉《つぶや》きを〈掻〉《か》き消すように、限界まで高めた〈増幅振〉《ハーモニクス》の斬撃を放つ。  避けたところで餌食となるのは避け難く、ならば死中に活を見出す──と。 「ガ、ッ……!」  しかし、その抵抗を許すことなく周囲四方から降り注ぐ氷の杭。刺さり、〈抉〉《えぐ》られ、破壊されていく人体。  着弾点から花咲く氷華は美しくも〈禍々〉《まがまが》しい。体熱を一瞬で奪い細胞を端から壊死させる。  圧倒的な氷の暴威を前に、もはや為す術など存在しない。見えていたはずの背中が恐るべき速度で遠退いていった。 「大小の差はあれ、貴様は奴と同じものを持っている。ゆえに決して見過ごせんと理解した。  不条理など必要ない。劣等はそれらしく、磨り潰されていればいい」  瞬間、凍気を吸い込み続けたことによって肺は凍りつき、四方八方からの攻撃によって身体はただ為すがままに〈嬲〉《なぶ》られた。  腕が、足が、動かない。これこそまさしく、魔星の本気。  そんなものに至らせてしまったことが、すべての失敗なのだろう。冷徹な殺戮者と化したウラヌスを相手取っては、もはや勝負の土俵に上れてすらいなかった。  今、世界に満ちているのは虐殺だ。  周囲が透明ま結晶に覆われていくその様子は、あたかも氷河期を迎えた世界のよう。莫大な星光がウラヌスを中心に渦巻いているのが、狂いそうなほど肌で感じられる。  あらゆるものは〈蹂躙〉《じゅうりん》される。人もモノも等しく消し飛ばされていく──  禍の魔星を前にしては何人たりとも生き残れない。  かつて五年前に思い知った絶望が再臨する。異形によってもたらされる残酷な運命の執着点。一歩、一歩と、歩み寄る鉄鬼の姿に汗が噴き出て、それさえ凍て付き死へ近づける。  命が惜しいんじゃない。ただ、ここで終わるわけにはいかないとゼファーは強く思うのに……。  だが立ち上がれず、氷杭によって串刺しとなった傷口からまるで力が抜け落ちていくかのようだった。  感情の〈窺〉《うかが》えないウラヌスの鉄面。その〈静謐〉《せいひつ》にも似た沈黙が〈却〉《かえ》って最悪の事態を想起させ、恐怖が止め処なく氾濫する。  アスラの所在を確認しようにも、もはや周囲は氷の世界と化していた。〈僅〉《わず》か先すらも見通せずに判別不能、生死の確認は困難となっている。  しかしこれだけは言えるだろう──今の蒼星を阻止するのは、もはや不可能であると。  目の前の怪物を打ち〈斃〉《たお》さなくては、その進撃を止められず。  このままだとそれは、決して叶わぬ願いであり。  希望は完全に打ち砕かれ、後悔を噛み締める猶予すら与えられることもないのだと思いされた。  ただの〈人間〉《ゼファー》などこんなもの、その認識を焼き付けられながら恐るべき死に落ちて行く。  そして、死の氷刃が首筋を撫でる。  底無しの絶望に呑み込まれようとしていた、その刹那── 「あ、があぁァァァっ…………!?」  まるで弾け飛ぶかのように、星光が突如身体から雲散した。  それはまったく意図していないはずである、異能の強制解除──〈血反吐〉《ちへど》を散らし倒れ込むその姿が、訪れた現実を如実に表わしている。 「ぎ、ィッ……ぐ、ッ、グウゥッ──」  身体を内から焼く激痛に〈呻〉《うめ》きながら、狼狽しつつ地を〈這〉《は》いずる。狂乱をどうにか抑えてこそいるものの、〈内腑〉《ないふ》を〈抉〉《えぐ》るような感覚は止むことはない。  極限まで濃縮した崩壊現象を前に、地を〈齧〉《かじ》りながらのた打ち回る。  異常な強化、その代償。注ぎ込まれた膨大なアストラルの〈波濤〉《はとう》、それに耐え切れないゆえの自壊が訪れた。  ……つまりは、〈時間超過〉《タイムオーバー》。〈僅〉《わず》かな奇跡も、するりと手から〈零〉《こぼ》れゆく。  それと同時に、ウラヌスへ集まっていた星の力も等しく減退し始めた。無論、〈訝〉《いぶか》しむ〈氷河姫〉《ピリオド》の意志によるものではない。  先程まであれほどゼファーの死を望んでいた蒼星が手心を加えるはずなどなく、すなわちこれは第三者の意志によるものだった。  己が手を開閉し、見つめること数秒。  やがて、得心がいったかのように〈背〉《 、》〈後〉《 、》の方角──その先を〈睨〉《にら》むように見遣る。 「己を差し出すから見逃せと……?  愛のために、自己犠牲か〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。愚かだが、まあいいだろう」  他方、全身〈痙攣〉《けいれん》を起こしながら地を〈這〉《は》うゼファー。その様はまさに敗者で、惨めにのたうち回るばかり。  そんな男を見下し、〈嗤〉《わら》うウラヌス。絶対者に仇成した劣等に唾する優越の感情を隠すことなく、口を開く。  結果を見れば、どうして〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》にヴァルゼライドを〈垣間〉《かいま》見たのか、分からない。  似ても似つかなぬ有様だろう、と。 「思い上がり、高望みをしたその反動と云ったところか。〈憐〉《あわ》れだな。   永遠にそうして泥を啜っていろ。貴様にはその様が似合いだよ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」  蹴り飛ばされ、されるがままにゼファーは激しく吹き飛んだ。通りの建物にめり込んだが、反撃の手段と気力は共に存在していない。  最後にもう一度だけ戦場を〈睥睨〉《へいげい》し、そのまま〈氷河姫〉《ピリオド》は離脱するのだった。  もはや〈一瞥〉《いちべつ》すらもなく、敗者だけを踏みにじって戦闘は収束した。 「カ、ハッ……ハァッ、ハァッ。 ぎ、グゥッ……ハ、ァッ……!」  そして、虫の息であるゼファーは必死に自壊へ抗っている。  叩きつけられた衝撃、ないし反動で見るも無惨な様ではあるがまだ生きていた。  さらに同刻、荒れ果てた氷野からアスラの姿が現われる。どうやらこちらも命は取り留めたのだろう。  歯が立たなかったという戦いを経てもなお、変わらず〈飄々〉《ひょうひょう》としているアスラはゼファーに接近する。それも満足そうにしている辺り、非常にいい空気を吸っている。 「見逃されたねえ、どうもこりゃ。  余裕だったな、〈奴〉《やっこ》さん。しかし、〈何〉《、》〈者〉《、》〈か〉《、》が喧嘩の最中に割って入ってきたようだったが──っと」 「ア、スラ……俺を連れて、〈工房〉《アトリエ》へッ。  向かってくれ、早く……!」  掴みかかり、懇願するようにようやくそれだけをゼファーは口にする。  信頼などしていない相手でもなお、頭を下げなければならない程に大切な存在が魔星の向かった先にはあった。  負けた。傷ついた。それでもいい、けれど決して諦めない。 「はは。自分より、あのお嬢ちゃんのことってか──いいねえ、そういうバカは。男らしくて結構だ!   貸しておくよ。きっちり後で払ってもらうぜ? カカッ」  そして肩を借りて歩を進める。  不格好であり、借りも作った。しかしゼファーには、それ以上に優先すべきことがある。  生きていてほしい──ただその思いだけを胸に、二人の男は〈工房〉《アトリエ》へと急いだ。  いつだって、大切な存在を守れないのか──  それでも、ミリィ、どうか無事でと。  霞み行く意識の中で、ゼファーはそれだけを〈希〉《こいねが》わずにはいられなかった。 それから、なんとか目的へ着いたものの── 〈工房〉《アトリエ》に到着して中を見渡すが、そこには誰の姿もなかった。 ミリィも、ジン爺も、そして先にここへ逃がしたはずのヴェンデッタも。やはりウラヌスに連れ去られたのか? 最悪の可能性が脳裏をよぎる 「くそッ……!」 己の非力さ、そして〈結果〉《ツケ》として回ってきた現実に歯噛みした。どうして俺はいつも一歩遅いんだ……ッ。 しかし、それにしては周囲に荒らされた様子がない。工具なども普段のままで、ここで荒事が起こったとは考え難いと冷静な部分も告げている。 「いったい何が……どうなっている?」 ジン爺たちが意味もなくここを空けるはずもなく、さりとて何者も訪れなかったはずもなく──ああダメだ、分からない。 「うわ、こりゃまた〈手酷〉《てひど》くやられてますねー。リタイアしなくて大丈夫なんですか、ゼファーさん」 「お連れの方たちの行方は、隊長から〈伺〉《うかが》っていますよ──」 途方に暮れているところへと現われた人影は、ティナとティセ。ここで遭遇するはずのない二人の声に一瞬虚を突かれるも。 「おまえら、その格好……」 どういうことだよと驚くのも、無理はない話だろう。 何つうセンスだよその服装は。いつもの様子とはあまりにもかけ離れているというか、その類の雰囲気には〈覚〉《 、》〈え〉《 、》がある。 天秤部隊にいた頃、こういう格好に身を包んだ仲間は多くいた。連中の任務は潜入工作、隠密行動、情報収集…… 概して最前線に立つ軍人ではなく、特務を遂行する手合いの雰囲気。おっちゃんが軍服を着ていたように、その従業員であるティナとティセも〈ソ〉《、》〈ッ〉《、》〈チ〉《、》関係だということになるのか? 「おう、双子どもじゃねえか。ご苦労さん」 「オレらを拾いに来てくれたってか。つうことは、〈お〉《、》〈っ〉《、》〈さ〉《、》〈ん〉《、》からの指示が出てんだな」 「はい、事は迅速にと」 「色々と切迫しているようですよ? どこもかしこも、動きだらけで混戦中です」 状況の飲み込めない俺に対して、アスラは気軽な〈挨拶〉《あいさつ》を二人と交わしている。まるで元々ご近所でもあったかのように。 それは、明らかに知己への対応で……俺は悩む頭を一端止める。この類の場では、全てを知ろうなんてするのは多分間違っているだろうから。 重視すべきは〈優〉《、》〈先〉《、》〈順〉《、》〈位〉《、》。それに従って情報を整理していこう。 大切なのは家族。そう一つ筋が通れば後はどうにでもなる、ゆえに。 「お連れの方っつったな、おまえら」 「てことは知ってるのか、ミリィの居場所を。答えてくれよ、どこにいる?」 「おぉ、ゼファーさんと〈こ〉《、》〈の〉《、》〈手〉《、》の話は初めてですね。いやぁ、なかなかいい顔してるじゃないですか」 「〈流石〉《さすが》は元天秤部隊ってところですか? そちらの方が、よほど凛々しく見えますよ」 「茶化すなよ、偽装ウェイトレスども」 早く話せと〈急〉《せ》かす。こちらは見たまま、余裕がないんだ。 「では、私からお答えしましょう。まずヴェンデッタさんの行方は未だ存じ上げておりません。そして──」 「ミリィさんとジンさんは、天秤部隊に連行されていきました」 「〈裁剣〉《アストレア》がここに姿を見せた、との報告が入ってますね。恐らくそのまま、〈政府中央塔〉《セントラル》に向かったんじゃないでしょうか」 ──ああ、なるほどそうだよな。チトセがこんな混乱で何か動かないはずもなかった。納得だ。 けれど、ならば〈工房〉《アトリエ》に訪れてわざわざ連行していったのはどうしてだ? 狙いは爺か? 軍がミリィに用があるとはどうにも思えず、あいつは人質を取って脅すよりは直接俺を引き込もうと来るはず。 よって、消去法でジン爺さんを優先したとしよう。どんな事情があるかは知らないが、あれが只者でないのは明白だ。 指折りの腕を持つ〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》が、これまで野に放たれていたことの方が不自然ですらある。軍部としては、爺さんの持つ技術が目当てだったのかもしれない……と。 一応の仮説としてはこれで通るが、しかしその場合、ミリィは共に連れて行かれたというところになるのか? だが、ともあれ。 無論心配ではあるものの、とりあえず無法な扱いをされることはないだろう。それぐらいには元相棒のことは信じてる。 希望的観測が多分に混じってはいるものの、最悪のシナリオは回避した……そう考えてもいいか、これは? 魔星絡みでなかったことは〈僥倖〉《ぎょうこう》と言ってもいいのだろうが。さて── 「ゼファーさん。他にも幾つか掴んでいる情報もありますので、私たちのアジトへ来ていただけませんか?」 「そうそう、聞きたいこともありますし。話したいこともちらほらと」 「ああ、正直おまえらの素性どころか、事態もまるで分からない。一度アタマから説明してくれ」 「当然の疑問ですね。ではまず、改めて我々の属する陣営から──」 「光あるところに闇もまた存在し、〈燻〉《くすぶ》り〈蠢〉《うごめ》く者もいる……栄華を極めし帝国も、皆がその恩恵に与れたわけではありません」 「ヴァルゼライド総統閣下による治世。しかし意外なことに、誰もがそれに賛同しているわけではない。軍から逃亡した〈貴方〉《あなた》も、広義では同じようなものでしょう?」 「清流より、泥を好む魚も多いということですね」 「私たちはそういった、帝国の小さな不満や歪みの雫。その受け皿」 「元〈深謀双児〉《ジェミニ》隊長──アルバート・ロデオンを指揮官に頂く、現政府に対する反動勢力です」 そして、知りたくもない真実は明かされた。 日常だと思っていたものの一角が、またも静かに削れていく。すべてが終わった時、果たして俺に帰る場所はあるのだろうか…… 今更過ぎる、冷たい答えを俺は噛み締めるのだった。  そして、時同じく──  ジン・ヘイゼルとミリアルテ・ブランシェが、〈工房〉《アトリエ》から連行された先は〈政府中央棟〉《セントラル》。  巨大な壁の向こう側の世界──彼等にとってしてみれば、これまで遠くに眺めていただけであるはずの鋼の要塞である。 「さて、ここが私の執務室だ。何もないところではあるが、まあゆっくりしてくれ。 ミリアルテ……いや、ミリィ嬢もそんなに緊張しなくていい。それとも、私はそんなに恐ろしいか?」 「いえ、ただ……まだ少しだけ現実感がなくて」  思いの外落ち着いた雰囲気の漂う静かな部屋であったが、ここに来るまで気後れは止まらなかった。周囲を見渡せば、物々しくサヤと警備兵が配されている通路、そんな中を通過して案内されてきたのだから。  天秤部隊の兵士は退出し、室内にその姿があるのはチトセとサヤ、ジン、ミリィ。  そして──あとは、〈先〉《 、》〈客〉《 、》がもう一人。 「おお……これはミリィくん、ヘイゼル老も」  〈部隊長〉《チトセ》の執務室と聞いていた場所に、既にいた一人の青年──ルシード・グランセニック。  彼もまた拘束の類などは受けておらず、さりとて逃げる意志なども感じ取れない。どこかで転びでもしたのか、少々服装が〈埃〉《ほこり》っぽくなっているとしてもそれだけだ。  ただ困ったように微笑を浮かべている。それはミリィがいつも見ている、ルシードの印象そのままだった。  ゆえにこそ、〈場〉《、》〈違〉《、》〈い〉《、》である感が否めない。  ミリィは考える。〈工房〉《アトリエ》に天秤部隊が訪れたのと同じように、グランセニックの邸宅にも軍部の者が向かったのだろうか? 「このような場所でお会いするとは、いやはや奇遇なものだね。できることなら君たちを巻き込みたくはなかったが……   運命って奴はいつだってままならないようだ。まったく、最悪の気分だとも」 「ならば、貴様はどうして此処に居る? 事態に関して〈与〉《あずか》り知らぬ、などという詭弁は要らんぞ」 「まあ、ちょっとした〈災〉《、》〈難〉《、》に遭ったというところでしょうか。その意味では、お二方と似た状況ですよ。   おかげで青〈痣〉《あざ》も出来てしまったという次第で。いてて……僕の清らかなお尻、ちゃんと元に戻るだろうか」 「あら、名誉の負傷なのでしょう?」 「……まあ、ギリギリで人情が勝って良かったよ。それ以上はやめてくれ」  苦笑するルシードは身体をさすりながらも、どこか弱弱しかった。さほど重傷でもなさそうではあるが、彼も恐らくは何かに巻き込まれたのであろう。  ジン、ミリィ、そしてルシード。この場に集められた目的は未だ見えず、裁剣の述懐を今はただ待つばかりで── 「では改めて、ようこそお越しくださった。本題といこう。   御曹司殿は災難ではあるが、無関係を決め込める立場でもあるまい。あちらに利用されるのを避けるためにも、今は付き合っていくといい」 「そりゃありがたいが、よろしいので? 総統閣下にバレたりしたら……」 「構わんさ。民を守るのは軍属の義務だ。こちらとしても、あなたの財と人脈を奴の手もとに置くのは避けたい」  その会話、交わされる意味はミリィが聞く以上の何かが含まれていたが……軍人と言われて思い出すのはまず兄のこと。昔出会ったばかりの頃の記憶が、一瞬だけ頭を過ぎる。  口数が少なく、どこか〈昏〉《くら》い影を背負っていた。今では見せなくなって久しいその表情を、目の前のチトセが〈微〉《かす》かに浮かべた気がしたのだ。 「とは言ったが、アドラーを支えるその遣り方は様々だ。組織の統制こそが使命である者もいれば、日夜情報収集を行い混乱を未然に鎮圧する者もいる──   その中で、〈軍事技術〉《ロストテクノロジー》の研究を〈以〉《もっ》て帝国に尽くす一団がある。分類上は支援部隊という名目だが、その機関が第十一研究部隊〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》だ。   〈星辰奏者〉《エスペラント》の開発も彼等によって成された偉業なのはもはや語るに及ばずだろう。ここの面々になら、特に」  誰もがその問いに首肯する。当時、未知と言われた星辰理論。その核となる部分の解明は〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》所属の数名によって成し遂げられたものだという。  言うなれば軍事の礎、少し興味があれば知れる程度の情報だ。  そして、意味深な視線がジンへと向けられる。その意図は明白。 「最初期から在籍していた功労者の一人、それがあなたなのでしょう? ジン・ヘイゼル老」 「あの程度の〈研究成果〉《モノ》で有り難がられるなどと、詰まらん事よ。大体にして、当時から何年が経過したと思っておる。   未だに〈星辰奏者〉《エスペラント》が幅を利かせていることこそ、恥としれ」  苦虫を噛み潰したような渋面で語るジン。それは、今まで弟子の前で口にすることのなかった彼自身の経歴。  ミリィの両親もまた軍部の研究者であり、ゆえにジンも〈そ〉《、》〈ち〉《、》〈ら〉《、》の人間であろうという見当程度はついていた。〈冶金〉《やきん》技術に於いて相当の実力者であることは今更言うまでもないが……  しかしまさか、帝国の研究者の権威であるとまでは思わなかった。  両親はよく口にしていたのを思い出す。彼等は選ばれた一握り中の一握り、特級の天才だと。その何十分の一の業績でもいいから自分たちが成し遂げられたら、どれだけ国の為になるだろうと。  崇拝対象にも近い存在──それが今、目の前にいる。  いや、ずっといたのだ。これまでも。 「しかし〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》は、軍の中でも活動内容の秘匿性が極端に高い部隊でね。帝国内部でも極一部の者しか知り得ない研究も日夜行われていると聞く。   無論、彼等とて国の為に行っていることだ。その前提を疑ってはいないさ。アドラーを支える叡智に違いはなく、相応の感謝も抱いているが……」 「ヴァルゼライドの懐刀であるのなら話は別、か。分かりやすい」  〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の研究対象は遠い昔に失伝した、ロストテクノロジーを選考している。  すなわち古来に消滅した大和の遺産──その粋を結集させたと言われる〈政府中央棟〉《セントラル》の、更なる技術的〈蘇生〉《サルベージ》を行なっているという。  よって当然、富も名誉も関係ない輩も多い。純粋な知識欲に突き動かされてる研究者集団であるならば尚更……何より実際、ジンもまたそういう気質を多分に含んだ人間だった。  その彼は、チトセに対して感情のこもっていない視線を向けた。  さらに己が左手を一瞬見つめ、潮時かと瞑目してから、口を開く。 「貴様の推測は暴論に等しいが……嗅覚だけは褒めておこう、外れない直観とはもはや予知だ」  ゆえ、間違ってはいないと、口を開いたジンに一同の視線が注がれる。  この偏屈な翁は秘中の秘とされている旧時代の叡智の研究、そのどこまで識っているのかという空気が漂う。  そしてヴァルゼライドが秘めたことについても、また……  英雄が実は何を目論んでいるのか。語る前に、まず尋ねる。 「儂に行き着いた根拠は?」 「アダマンタイトの〈先〉《、》を研究しようというという話から、と言えば分かるはず」 「えっ──」  そこで、一度だけジンとチトセの二人は同時にミリィを見た。  〈僅〉《わず》かに意味深な視線は、すぐに逸らされる。それでもその一瞬が、なぜかとても恐ろしかった。 「〈先〉《、》って、それは……今よりも更に進化を遂げるということですか?」 「あくまで論としてはな。〈星辰奏者〉《エスペラント》の用いる生命線にも等しい〈専用特殊合金〉《アダマンタイト》……現在、他国に対するアドラーの優位性そのものだが、どうもそれで終わりではないらしい。   門外の知識ゆえ、私にも上手く説明できんが。どうもそれに該当する情報が散見していた。そして──」 「星辰奏者を上回る強大な力、と言われて思い出すものは一つしかないでございましょう? 関連性を疑うのは当然のこと」  五年前に、そして先ほども現われたあの魔星……連中は兵器であり、すなわちその戦闘力には理路整然としたテクノロジーが用いられている。  それこそ〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》の精鋭たちが束になっても歯が立たないほどの、となれば関連性も臭ってくる。 「帝国軍を凌駕する存在と、その研究……総統閣下が一枚噛んでいると考えたところで不思議はあるまい。   どうだ、ヘイゼル老。話を聞かせてくれないだろうか」  現状上がっている断片的な情報を〈斯様〉《かよう》に結び付けたのは、チトセの第六感的なものと言える。その理屈は強引で、しかし物言いは〈真摯〉《しんし》そのもの。  アドラーの未来を憂う裁剣の女神を前に、ジンは瞑目して口を開く。 「いいだろう。先ずは大元について〈浚〉《さら》うとするか」 「弟子よ、アストラルの特性について簡単に〈諳〉《そら》んじてみろ。奇を〈衒〉《てら》った説明は要らんぞ、稚児でも知るようなものでいい」 「あ、はい──〈星辰体〉《アストラル》というのは、大気中や物体の組成間、そして人間の体内にと、地表上のあらゆる場所に満ち溢れている素粒子です。   その源は、天に輝く〈第二太陽〉《アマテラス》。疑似恒星とも呼ばれている天体から一時も休むことなく、地球へ向けて〈星辰体〉《アストラル》は放出されています」 「そうだ。それが世界の共通認識であり、因果よな」  遙かな昔、極東の島国が次元間断層から抽出に成功した素粒子──  充満している環境において、通常のそれと異なる特殊な物理法則を発生させる、三次元の外から生じた星屑。それがあくまで、今の世界を構築する常識として認識されている。  第二太陽は次元に空いた〈孔〉《あな》であり、別位相から地表にアストラルを供給し続けている……と、ジンの言う通りこの程度の認識であれば、新西暦の民なら誰でも有していた。  だが、それを〈嘲笑〉《あざわら》うかのように老齢の技師は首を振り── 「だが真実は、それと異なっておる。  アストラルの本質は、別次元の力が三次元上に置いて変異した〈副〉《 、》〈産〉《 、》〈物〉《 、》〈だ〉《 、》。日ノ本の民が求めていたもの、それ自体では決してない」  定説、常識……新西暦の千年余りを覆す一言。  ジン・ヘイゼルはここに、全く未知なる結論を開帳した。 「変異って……そんな、だってアストラルは──」 「考えてもみろ。大和の連中が欲していたものとは、果たして何だ?  全世界が資源枯渇問題で緊張状態に置かれている中、求められるのは即決で使えるエネルギーだ。それも恒常的、かつ無限に取り出せるものが好ましい。  次元間の相転移から生じるエネルギー抽出……儂が当時の科学者ならば、まずはこれを目指したろうよ。そしてやはり、そうだったという記録があった」 「いいや、この場合は〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈証〉《 、》〈人〉《 、》と言うべきか……まあともあれ、これは真実よ、お墨付きもある」  と、それは不思議な言葉だった。  まるで千年前からずっと生きてきた何かから直接、真実を聞いたことでもあるかのような言葉に誰もがしばし〈訝〉《いぶか》しむが……  ジンはそれを気にせず、言葉を続ける。〈訥々〉《とつとつ》と、余人を関せず真実を吐露し続ける。 「ゆえ、あくまでアストラルは徒花よ。先も語った通り、高位次元エネルギー抽出時に生まれる、言ってみれば廃棄物に等しい。  なにせ異次元の力だ。こちらの世界に入った瞬間、劣化するのは当然であろう?」  そうして、本来の純粋な能力を失って変異。三次元上で粒子という概念へと落ち着いた次元間相転移エネルギーそのものこそ、アストラルと言うのだと。  開陳される旧暦の事実に誰もが言葉を失う。世界法則を一新させた原因が、よもやそんなものだとは閉口した。  同時に過去の技術、そしてもはや滅んだ過去に畏怖の念を覚える。  旧暦の文明は、果たしてどこまで達していたのだろう? 想像すら及ばない。 「大破壊後、千年の間に事実は捻じ曲がって伝わったというわけか……いやはや、風聞とは恐ろしい」 「そういう事だ。本来、〈ア〉《、》〈ス〉《、》〈ト〉《、》〈ラ〉《、》〈ル〉《、》〈制〉《、》〈御〉《、》〈技〉《、》〈術〉《、》など何処も持ち合わせてはいなかった。 元は確か、次元式核融合炉だったか……それを技術的特許として資源問題の解決と自国の優位を示すべく、一歩踏み出そうとしたそうだ。   結果は見事に、異界を突いてあの様だがな。己等に御せぬ鉱脈を外側の世界へ求め、掘り当てたがその逆流で溺死した」 「もっとも、その引き金を引いたのは他国の間諜が原因だと聞く。第五次世界大戦中、敵国が欲を張ってそれに細工をしたらしい」 「勝てなければ、効果的な嫌がらせ……人類の得意技ですね。やれやれ旧暦も変わらない」  その果てに、世界中を巻き込んだ。下手人の名が残っていれば、そいつはきっと永遠に語り継がれる罪人だろうし、本人も未来を知れば恐らく〈慟哭〉《どうこく》していたはず。  しかし、時は二度と戻らない。  愚者の暴走か、賢者の英断か、世界は一度崩れ去った。それだけが事実であるのは間違いない。 「アストラルの発見過程は理解できましたわ。しかし、その大元となった次元エネルギーとは……どういう風に干渉、制御をしていたのです?   今の話が事実であれば、存在しない方がおかしいでしょう、と──」 「なるほど、だからか」  最初の論題、アダマンタイトの先というもの──  神の力とも呼べるそれを制御した、神鉄とも呼ぶべき合金。その本質が見えてきたことで、ジンも静かに首肯した 「強大無比なエネルギーは確かに存在していた。だが、まずこちらへ持って来る際には元来の形ではいられない。次元を超える際に変質してしまう以上、それを粒子化させぬまま伝導させる媒介が要る」  三次元上に流れ込んだ〈途端〉《とたん》、一番の魅力であるエネルギーは喪失される。  物理法則に干渉する特殊な粒子とやらも、それはそれで有用だが大元には届かない。 「試行錯誤した結果、大和の科学者は相互作用に目を付けた。これは電磁相互作用などが有名な反応だな」 「仮想光子を媒介に、電界から磁界を……磁界から電界を。  そっか──三次元に呼び出せばアストラルになってしまう。ならそれはそれとして、膨大なアストラルを感応させれば!」 「極小なら、次元の向こう側に干渉できるというわけか。効率が悪いように聞こえるが、その辺りはどうなのだ?」 「生物が行えば溜めておくなど不可能よ。 しかし、旧暦には半導体技術がある。人ならば不可能な長時間の安定制御も一度穴を開けてしまえば後は機械で行えよう。   あとは力を抽出する炉心さえ、専用の特殊合金──〈神星鉄〉《オリハルコン》であればいい」  それが、アダマンタイトを超える未知の超合金。  日本が次元間相転移エネルギーを手にするため開発した、文字通りの神鉄だった。チトセとしても、そこに興味を感じずにはいられない。 「そのオリハルコンを手にした場合、我々〈星辰奏者〉《エスペラント》が異界の力を用いることは可能か? 否か?」 「自殺志願ならそう言え。生身では感応するアストラル量の基準を満たせん。より高次のエネルギーを具現化するには、あまりに脆弱すぎるのだ。  恩恵を得たいのならば、まずは死ね──その後、一から造るという発想なくば始まらん」 「一から? まさか──」  サヤの驚愕に対して、ジンは静かに語る。淡々と、まるでそれが自明のことであるかのように。 「まずは〈素〉《、》〈体〉《、》〈の〉《、》〈選〉《、》〈定〉《、》から始まる。多種多様、〈諸々〉《しょしょ》の条件を満たした者を被験者として、一度殺す。ここは帝国、内外で死体には事欠かん。  それを材料に、オリハルコンの〈骨格〉《フレーム》を造るのだ。次に肉、次に皮膚と、次に鋼と……付け加えてそれらしい形を整える。   それが〈星辰奏者〉《エスペラント》の上位互換、〈人造惑星〉《プラネテス》の基本的な製造方法に他ならん」  語られた事実は魔星の作り方。ゆえに──ああ、すなわち。 「そうだ。〈殺塵鬼〉《カーネイジ》、〈氷河姫〉《ピリオド》など……奴らを製造したのは〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》で、ひいては帝国そのものだとも。そして儂も基礎理論の構築に携わった経緯がある。  あの大虐殺が起こった真実の一端が、これだ」 「そ、んな──」  だから、この場でただ一人ミリィはその真実に震えていた。  この中で唯一、五年前に家族を失った人間として、絶句する。  あの痛みが、嘆きが、喪失が……すべては国そのものの陰謀だったと聞かされて、足場が喪失したような感覚に襲われていた。  〈蒼褪〉《あおざ》める顔色に、わななく唇。  〈呪詛〉《じゅそ》か、それとも〈慟哭〉《どうこく》か。何をすればいいのかさえ、思いつかない。分からない。 「なるほど、だから奴は……」  対して、チトセは得心のいったように〈頷〉《うなず》く。語られた真実は何も技術的な部分だけではなく、この国の暗部そのもの──アドラーの歴史の裏側だろう。  それすなわち、ヴァルゼライドの暗躍。彼が密かに進めていた計画の一部に他ならない。  かつて共犯者であった彼女だけは、それを知っている。  そして、明かすべき時が来たのだと感じながらミリィに向けて視線を寄こした。  それは雄々しくも、罪を裁かれる囚人のように……  不思議な、気遣いともケジメとも取れる輝きを宿してチトセは語る。真実を。 「当時、〈星辰奏者〉《エスペラント》の開発技術で勢いを増す改革派と、その筆頭であるヴァルゼライドを疎ましく思っていた勢力がいたのさ。血統派という連中でな。  まあ、よくある既得権益側だと思ってくれて間違いない。彼等はヴァルゼライドの台頭を阻止するため、〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の表側に在籍する機関の一つに勅命を下した。 内容は、〈星辰奏者〉《エスペラント》を上回る通常運用可能な兵器の開発……それによって軍部での発言権、自勢力のアドバンテージを取り戻そうとしたのだろう」  中心となったのは、強化適正を持たなかった政府高官が主だった。  スラム出身者は選ばれたのに、自分は超人になれない苦痛……嫉妬は当然発生し、彼らを動かす原動力へと変化する。 「その後、数年を費やしてどうやら一定の進展を遂げたらしい。研究の成果を発表すべく、血統派幹部での集会が計画された。  そして、彼等はその日を狙った改革派に潰される……ヴァルゼライドと結託した、我々天秤部隊によって。  それが五年前、私の知る大虐殺の契機だよ」 「補足をするなら、その日は〈殺塵鬼〉《カーネイジ》と〈氷河姫〉《ピリオド》の試験運用も兼ねていた。  だが、結果は見事に暴走だ。魔星は素体となった人間の衝動を色濃く受け継ぐ仕様でな。死者の〈残滓〉《ざんし》に従ったまま、自由に暴れてあの様よ」 「あ、あぁ……」  点と線が、目まぐるしく〈繋〉《つな》がっていく。  〈眩暈〉《めまい》を感じてよろめくミリィ。それでは、まさか……いや、しかし。  魔星の試験運用、それが大虐殺の遠因ならば。  血統派から研究を頼まれていた〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》直轄のグループが一つ、その主任であったのはいったい誰か?  ここまで聞いてしまえば、容易に想像がついてしまう。だから恐い、聞きたくないのに。  真実は容赦なく、その姿を現していく。 「〈そ〉《、》〈の〉《、》〈連〉《、》〈中〉《、》は〈情報〉《データ》でしか知らんが、なかなか優秀な夫婦だったのだろう。〈表〉《、》に在席していながらも、オリハルコンの一端へと〈僅〉《わず》かとはいえ指を掛けた」 「ゆえに、血統派の一掃と平行して標的に上ったのだろう。〈奴〉《、》を監視と暗殺の任につけたのが私、主任夫妻を対象に定めたのはヴァルゼライド。共犯者とはそういうことだ。   ……すまない。怨んでくれていい、償いなら何でもしよう」 「そんなの、だって……こんな──」  〈真摯〉《しんし》な謝罪に対して、怒鳴りたいわけじゃない。怨みたくも当然ない。  ただ、胸が痛くて堪らないのだ。その辛さだけが大きくて、悲鳴一つ言えずにいる。 「御二方とも、感情的にならないでくださいまし。そもそも、最たる原因を作ったのは総統閣下の方でしょう。   魔星に類する技術が〈僅〉《わず》かでも外に漏れるのを懸念した。それが両親の狙われた真実です。部隊員を駆り出す程度、そう珍しくもないことかと」 「──サヤ」 「事実でございましょう? 仮に天秤へ頼まなければ、あちらで勝手に別の手駒を選んでいたはず……」 「残酷なようですが、どちらにしても結末は同じだったと思います。なにせ、成果物を完全に潰すためあのような怪物まで持ち出したのですから」  それについては、あのヴァルゼライドにしても最大の悪手だったと、この場の全員が認識している。  初の試験運用ではあったし魔星がどう行動するかは明確に分からない……という事実を抜きにしてさえ、後の大火は防げたはずの惨劇だった。 「なぜ、奴らはヴァルゼライドに反逆した?」 「大方、勝てると見誤ったか。あるいはあの血統派粛清劇が、何かの琴線に触れたのだろうよ。  一見はまともな精神状態に見えたとしても、奴らの内側は非常に単純だ。芯ともいうべき方向性に対して愚直でな。人間時代の衝動と記憶にあっさりと引きずられる」  そして──大虐殺は生み出された。  血統派の大粛清とオリハルコンの技術流出を防ぐため、総統と天秤が起こした茶番劇。それは二体の異形が手綱を振り切ったことにより、最悪の結末を生み出したわけである。  そして、ブランシェ一家はそれに巻き込まれた〈憐〉《あわ》れな羊であり生贄。  炎が広がったこと、不測の事態があったことは確かだろう。けれど、それでも、こんなのはあんまりで……  なのに、ミリィの心は怒りより悲しみが勝っていたから、その場に泣き崩れてしまいそうになる。  突然明かされた真実が、彼女の芯を削いでいく。  瞳から、今にも泣きだしそうな涙を堪えたくて──なぜか。 「……誰、なんですか?」  なぜか、自分でも分からないままミリィはぽつりと〈呟〉《つぶや》いた。 「チトセさんが、わたし達家族を処理するために選んだのは……」  〈そ〉《、》〈れ〉《、》を知らなければならないという使命感だけで、空っぽな感情のままに問う。  誰に命令を下したのか。知っても変わらない過去を、どうしてか尋ねてしまい。ゆえに── 「そうか、聞いてなかったか──」  今までで最も深い、気遣いの籠もった痛ましげな視線を向けられた。  早鐘を打つ心臓。乱れる呼吸。ああ、震えが止まらない。やめてください、あなたはどうしてそんな顔をしているの?  そう問い返そうとした矢先、ふと余計なことを少女の明晰な頭脳は思い返してしまう。  チトセは言った、監視と暗殺の任につけたと。  つまり常に〈ミ〉《 、》〈リ〉《 、》〈ィ〉《 、》〈の〉《 、》〈傍〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈人〉《 、》〈物〉《 、》〈が〉《 、》〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈の〉《 、》〈両〉《 、》〈親〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》ということになって、それは。  それは、まさか──ううんだって。 「────嘘、だよね」  ずっと自分たちの隣に居た、誰か。  なぜか瞳の奥に、どうしようもない罪悪感をずっと隠していた人物は── 「元〈裁剣天秤〉《ライブラ》副隊長、ゼファー・コールレイン。  それが、護衛と偽り送り込んだ……君の両親の敵だよ」  ここに真実は明かされる。  何より辛く残酷な、少女のすべてを粉砕する真実がその無慈悲さで何もかもを叩き潰して、少女の胸を撃ち抜いた  大虐殺の──否、あの日にミリアルテ・ブランシェの心を殺して。  それからの五年、ずっと支え続けてくれた相手の名は── 「兄さん……」  わたし、は──と。〈呟〉《つぶや》いた瞬間、ミリィの意識は精神的な抑圧により途絶していく。  問い掛けるような、そして〈縋〉《すが》りつくその声は、彼女の視界を昏く覆う闇の底へと誘った。  二人はもう、かつてと同じ優しい兄妹には戻れない。  その悲しさを、どうしようもなく確信したまま涙を流して眠りに落ちていくのだった。  自然界には起源を同じくする種族の中で、上位種と下位種という概念が存在する。  たとえばネコ科動物。大小の別こそあれ、その身に備わった特性として、彼らは『狩り』に秀でている。獲物を待ち伏せ、追い詰め、爪牙にかける能力において他の種よりも勝っていると言えるだろう。  ならばネコ科動物内での上位下位を論じる時、その代表的な尺度となるべき要素は〈狩猟者〉《プレデター》としての優劣ということになる。  どれだけ大きな獲物を襲撃し、捕食が可能かという尺度基準……その俎上で判ずるならば、上位種は虎や豹などの大型獣。下位種は小型の山猫や家猫という結論が導き出されることだろう。  また霊長類という種族に関して言うならば、彼らが他の種よりも優れた特性とは『大脳の発達性』であるという。よってそれに伴う知力の優劣こそが、ネコ科でいう狩猟能力に相当する種としての比較基準となるはずだ。  ゆえにここでも、上位種は〈人間〉《ホモサピエンス》であり下位種はゴリラやチンパンジーというヒエラルキーが成立する。  このような形で、同一〈種族〉《カテゴリー》内での上位種と下位種は証明が可能だ。  そして……旧西暦の世界にはいなかった〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈種〉《 、》〈族〉《 、》についてもまた同じ。  同一カテゴリー内における、上位種と下位種の違いが確かに存在した。  〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》と〈人造惑星〉《プラネテス》――新時代における二種の生体兵器。  天空の第二太陽から降り注ぐ〈星辰体〉《アストラル》……〈新西暦〉《いま》の世界を律する未知の因子を、地上で最も直接的に駆使するものたち。〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈種〉《 、》〈族〉《 、》にもまた、ネコ科にとっての狩猟能力、霊長類にとっての知力と同様に、その優劣を定めるべき比較基準が存在する。  そして〈勿論〉《もちろん》、通常〈星辰奏者〉《エスペラント》が下位種で〈人造惑星〉《プラネテス》が上位種であることは、付け加えるまでもないだろう。  では、両者の違いとは何であり何処にあるのか。  それは大別して、次の三点が挙げられる。  まず一点。アストラルに対する感応量そのものの規模が桁違いであること。  その差は、獅子と猫のそれよりも隔絶したレベルにあると言えるだろう。よって両者が振るう〈星辰光〉《アステリズム》もまた、単純な出力面において比較にならない差が存在する。  次に二点目。〈星辰光〉《アステリズム》という条理を超えた力を発動するにあたって、それを可能にする素体の構造もまた違うこと。  端的に言って〈人造惑星〉《プラネテス》は、通常の〈星辰奏者〉《エスペラント》とは肉体の組成そのものが大きく異なる。いや、〈設〉《 、》〈計〉《 、》〈思〉《 、》〈想〉《 、》の段階から、完全な上位互換と言って過言はない。  飽くまで既存の人間をベースに能力を強化するのが〈星辰奏者〉《エスペラント》ならば、〈人造惑星〉《プラネテス》は最初から超人の能力を希求して〈生〉《 、》〈み〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》存在なのである。  その差異は、彼らが〈星光の異能〉《アステリズム》を引き出す半身と言うべき、ある物質に関連している。  通常、アダマンタイトと呼ばれる特殊合金を異能の発動体として用いるのだが、〈人造惑星〉《プラネテス》には〈下位種〉《エスペラント》にはないもう一つの秘密があった。それは、彼らが〈誕〉《 、》〈生〉《 、》〈時〉《 、》〈点〉《 、》でその身に宿した特殊な素材……いわばアダマンタイトの上位と呼ぶべき超合金の存在だ。  その特殊な金属の働きこそ、魔星の力を引き出す源であるが……  秘奥とも言える鋼の真実に気づくものは少なく、ゆえにここでは割愛しよう。ともかく〈構成材質〉《メインフレーム》の段階から、魔星は上位種族であるという認識で構わない。  そして、最後の三点目。これこそが肝要であり、科学の魔星たる〈人造惑星〉《プラネテス》の真骨頂とも言えた。  それは〈応〉《 、》〈用〉《 、》〈力〉《 、》……すなわち、〈異能〉《アステリズム》の出力を〈任意〉《アナログ》に変化させることが可能という点である。  通常の〈星辰奏者〉《エスペラント》のそれ、スイッチのオン・オフ――とは異なり、ボリュームを上下させるように最適値の能力を発現できるのだ。  たとえば三の強さしかない敵を十の力で殲滅することは、無益な〈過剰攻撃〉《オーバーキル》でしかないだろう。せいぜい、四か五の力であれば事足りる。  しかしそれも、零か十かの選択しかない〈下位種〉《エスペラント》では不可能な芸当だ。  ひとたび星の力を奮えば、問答無用で〈発動値〉《ドライブ》へと移行する。適切なだけの出力を、適した展開に応じて引き出すことは仕様上とても難しい命題だった。  よって消耗の度合い、戦力の秘匿性、多様な状況への適合力……どれを取っても任意調節できる〈上位種〉《プラネテス》には、兵器として劣ってしまう。  ともに特殊任務での運用を基本としているだけに、この応用力の優劣は絶対的な格差となる。  そう……〈魔星〉《かれら》は能力の加減が効くからこそ上位であり、優れているのだ。  そしてそれは、〈星辰光〉《アステリズム》が個々の人格や記憶と連動している部分と、密接に絡んだ関係にある。  出力を上げ、能力を解放していくほど、その本質はより可視化されていくわけであり──つまり逆説的にこうなるわけだ。〈全〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈出〉《 、》〈せ〉《 、》〈ば〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》、〈魔〉《 、》〈星〉《 、》〈の〉《 、》〈地〉《 、》〈金〉《 、》〈が〉《 、》〈む〉《 、》〈き〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。  それは上位種ゆえの宿命。全力の上限が大きく、調整が効くゆえに生まれた副作用ともいうべきか。  ゆえに――  マルス-〈No.ε〉《イプシロン》。  乱雲呼ぶ神話の軍神、赫き惑星の名を冠された異形の魔星。  今、彼もまた、限りなく〈本〉《 、》〈来〉《 、》の純粋な精神状態に近づいていた。  荒ぶる異能の〈昂〉《たか》ぶりに合わせ、一秒ごとにマルスは本性を露わにしていく。  怪物まがいに〈造〉《かえ》られた巨躯の下に息づく、心を持った生体兵器としての真実を晒し始める。  ものみなすべて、〈灰塵〉《かいじん》に帰す〈殺塵鬼〉《カーネイジ》。  その秘められた災禍の本性が、かつてないほど色濃く顕現しようとしていた。 チトセが〈裁剣天秤〉《ライブラ》の部隊ごと、反体制に回った? アルバートのおっちゃんが元〈深謀双児〉《ジェミニ》隊長で、今は〈反動勢力〉《レジスタンス》の首魁だと? いきなり明かされた事実の数々。ああ、確かにそれは俺にとってどちらも等しく異常事態だ。〈明〉《 、》〈日〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》の身の振り方を考えたら、特大級の頭痛の種になるのは間違いない。 だが――そのどちらさえ、今は共にどうでもよくなる事態へと直面していた。 その疑問に〈煩悶〉《はんもん》することが出来るのも……目の前で展開される、最悪の光景を生き延びられたならという仮定でしかないのだから。 「くッ……う、ぁ──」 舌が妙にざらついて苦い。否応なく記憶に刻まれた、この大気に混じる絶望の味を、俺はいまだ鮮明に覚えていた。 思いだせ、さもなくば呑み込まれて終わりだと、脳細胞が警告を告げる。 五年前――〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺が行われた、運命の夜。これはその時〈肉体〉《からだ》と魂とで味わわされた、“死”という〈概念〉《もの》それ自体の味だった。 「さあて諸君、間引きの時間だ。これから検査を開始しよう」 「どうした、どうした――〈怪〉《 、》〈物〉《 、》が来るぞ! ならば雄々しく立ち向かえ」 「英雄様の運命に、馳せ参じると願うなら──ッ」 そして、〈咆哮〉《ほうこう》と同時にその巨躯で〈颶風〉《ぐふう》の如く疾走し── 鉄の爪が唸り、薙ぐ――それだけで、すべてが終わっていた。 そう、ただそれだけで、奴の前に立つ兵たちは跡形もなく〈消〉《 、》〈滅〉《 、》する。燃え尽きるマッチみたいに音もなく輪郭が崩れ、消しゴムか何かで削り取られてでもしたかのように、形を失い霧散していく。 骨肉を断つ音も、溢れ出す臓物の臭気も、真っ赤な色をした血潮も……漆黒の瘴気に接触すれば、ただ一瞬で幻のように溶けて消えた。 残った身体の残骸は、生々しい血肉の残飯。天秤の擁する強化兵、反動勢力の兵士たち、どちらも区別も差別もなく、一方的に〈蹂躙〉《じゅうりん》される。 殺戮と呼ぶには清潔すぎ、浄化と言うには〈冒涜〉《ぼうとく》的すぎる〈魔星〉《マルス》の所業……奴はその禁断の力を存分に振るいながら、鬼面の下で〈愉悦〉《ゆえつ》していた。 何もかも、五年前の焼き直しであるかのように。 総身を走る恐怖。悪夢の〈再演〉《リプレイ》が、起こっている。 「いいのか、いいのか人間よ──オレの本気はまだ遠い。これらは所詮、力の一端。奴とは比べるべくもない」 「勝てないか? 無茶をいうな? そうかい、ならば死んでおけ。救ってやるとも、苦しむことはもうないさ……」 「聖戦に巻き込まれて苦しむ前に、ここで解放してやるよ」 訳の分からない、それでいて頭の芯は冴えているといった風に妄言を吐き散らしながら……深紅の装甲鬼は〈骸〉《むくろ》さえ残さない、奇怪な殺戮劇へ興じている。 俺はサヤの骨指術によって動きを封じられたまま、ただそれを機械的に網膜へと映していた。逃げだしたいのに、逃げられない。もうここで戦う必要性など、とっくに消えた後なのに。 〈仕〉《 、》〈方〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》立ち向かった俺とは違い、やる気のある連中がここには十分残っていた。 チトセやおっちゃん、その部下たちも闘志はまだ持っている。少なくとも不退転の覚悟があるのは違いなく……冷静に事態を眺めようと努めていた。 犠牲になっていく部下の姿、秒単位で散っていく命を険しい視線で見つめながら、何が最善かを探っている。 「さて――どうしましょうか、お姉様。〈謀〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》点については、やはりと言うべきなのでしょうが」 「まったくだ、〈枷〉《かせ》など何処にあるのやら……自由気ままなものではないか」 「となれば、実力をもって確保すべきが〈最良〉《ベスト》だが……」 「どさくさで、この駄犬を奪われても困りますものね。唯一明らかになっている連中の勝利条件なわけですし」 ちらりと、主従がこちらを〈一瞥〉《いちべつ》した。もっとも、視線に宿る感情は寒暖きっちり二分されていたのだが…… ともかく、その狙いはよく分かる。チトセの狙いは第一に俺という〈勝利条件〉《トロフィー》の確保。第二に回収しての離脱なのだろう。 できればヴェンデッタのことも手に入れたいと思っているだろうが、戦闘中で今すぐにでも奪われかねないこちらを優先したわけだ。ありがたくって、涙が出るね。 そして、相変わらずその姿は〈眩〉《まぶ》しい。 部隊の損失に揺らぐことなく、好機を乱戦の中でも透視せんとチトセは静かに星の力を練っている。部下の命が散っていくのを眺めながら、しかし目を逸らさない。 背負って、耐えて、自覚して……努力を詰んで、弱音を吐かず。 その姿を五年越しに改めて確認したことで、郷愁の念が胸に痛い。過去に傷を負いながらまだ立ち向かおうとしているこいつと、今の自分を比べてしまう。 そんなこいつが、俺なんかに好意を抱いてくれたこと。思い返すたびに、何か綺麗なものを〈穢〉《けが》してしまったような罪悪感がせり上がる。 俺は── 「と、こんなものか……ああ、やれやれ」 嘆く自分を置き去りに、マルスは粗方の〈掃〉《 、》〈除〉《 、》を終えていた。 散らばる肉片と血痕は、どう見ても殺した人間の総量と見合っていない。異次元へ消し飛ばしたかのように、死骸の切れ端を踏みしめながらどこか気落ちしているようだった。 それはまるで、落第を取った生徒を〈憐〉《あわ》れむかのように──あるいは逆に、なんて不甲斐ないと落胆するかのように。これ見よがしに稚気を放ち、天を仰いで〈嘯〉《うそぶ》いていた。 「可愛そうにというべきか、安らかにと祈るべきか……どうにも判然つかんなこれは。高望みの結果かねぇ」 「破格の男が主役を務める弊害だな。あれに見合う者でなければ、誰も基準に届かない。結果として判定役を似合うオレは、死を〈撒〉《ま》き散らす鬼になる」 「ゆえに、だ──」 不意に、二対の鬼眼が炯とその輝きを増した。まるで十年来の旧友に出くわした喜悦を示すかのように。 「あんたはどうだい、〈裁剣〉《アストレア》。世のため人のためこんな邪悪は許しておかぬと……正義の鉄槌、その振るい方を見せてくれよ」 「そもそもオレを超えない限り、あの〈英雄〉《バケモノ》に敵うはずなどないのだから」 「貴様が言うな……とは、大概言えんな」 なぜなら、この本領を見せたマルスにさえ総統閣下は勝利したから。奴の言っていることはおぞましいほどに正しい。 そして──なぜか、ふいに視線を別の方向へ寄こし。 「だからこそ、個人的な忠告もしよう。元中佐殿、〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》はそこでやめておけ」 「大切な親友とは、器がまるで釣り合っていない。そうだろう?」 その、無機質な鉄面に〈穿〉《うが》たれた四つの〈孔〉《まなこ》。そこから向けられる思惟の先には、俺でもサヤでもチトセでもなく…… 「なに……?」 おっちゃん――アルバート・ロデオンその人がいた。 〈訝〉《いぶか》しげに眉をひそめる様子は、本気で心当たりがないようだった。その様を見て鬼面だけが静かに苦笑を漏らしている。 「悩みな。真実ってのは、悲しいかなそんなものだ」 そして、言い放ちながら──再動する鋼の巨躯。〈天秤部隊〉《ライブラ》と〈反動勢力〉《レジスタンス》、またも双方の別なく一瞬で数人が〈微塵〉《みじん》に散った。 あまりにも無味乾燥に、存在ごと滅殺させられていく人間たち。そして散華する命の塵を浴びて〈嗤〉《わら》う、無邪気なまでの〈殺塵鬼〉《カーネイジ》。その猛攻を見ながら俺はおっちゃんに問いかける。 「……昔、あいつと友達だったりとか?」 「馬鹿ぬかせ。あんなバケモンに知り合いなんぞいてたまるか」 ただ――と何か引っかかりがあるのか、怪訝な顔は崩さず。 その先を口にしかけた矢先。まだ青年になりたての〈反動勢力〉《レジスタンス》兵が、マルスの攻撃に巻き込まれるのが視界に映った。 「く――」 恐怖と絶望の表情を一瞬だけ鮮明に刻みながら、俺たちの目の前すぐでそいつは跡形もなく消滅していく。 さすがに見ていられなかったのだろう。顔を歪めたおっちゃんが、意を決するように踏み出して〈ア〉《 、》〈ス〉《 、》〈ト〉《 、》〈ラ〉《 、》〈ル〉《 、》〈と〉《 、》〈感〉《 、》〈応〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》のだが── 「やめとけって。昔のことは知らないが、今はまともな身体じゃねえんだろ。味方の足を引っ張るだけだ」 日常の中では感じることもなかったが、こうして修羅場の空気を共有することで初めて判った。アルバート・ロデオンという男が、元は〈星〉《 、》〈辰〉《 、》〈奏〉《 、》〈者〉《 、》であったこと。 そして、前線で闘う戦士としては致命的な、何らかの疾患や障害に〈蝕〉《むしば》まれていることも見えた。 芯の部分とも言うべきものが、完全に破壊されている。ヴェンデッタとかつて同調した影響か、強烈な高熱の焼き鏝でも喰らった後であるような……なんともいえない痛ましさがそれが俺にはひしひしと感じられた。 「傷痍軍人なら、それらしくしていろよ。指揮官が前線に出張るなら、そこの女ぐらい強かになってくれ」 「……若い奴に見透かされるってのは、どうにも愉快なもんじゃねえな。だがよ、既にそういう段階でもないと思うぜ」 「見ろよ。無理でも無茶でも、後〈す〉《 、》〈ぐ〉《 、》だ」 マルスの暴虐は止まらない。浴びせられる銃弾の嵐を命中前に〈喰〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈尽〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》、その射手たちをも引き裂き〈分解〉《バラ》しながら〈吼〉《ほ》え荒ぶ。 「さあ、さあ、さあッ! この荒ぶる邪悪を止めてみせろよ、誉れ高き軍人諸君、故国を憂う勇士たち──〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈否〉《 、》〈定〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》!」 「小さき者の振り絞る勇気。高潔なる自己犠牲。掲げた決意が手繰り寄せる数多の奇跡……何でもいい、誰でもいいんだ。どうかオレにその身でもって証明してくれッ」 塵芥と化す屍を〈撒〉《ま》き散らし、魔星はなおも〈哄笑〉《こうしょう》し続けていた。何もかもが愉快で堪らない、この夜は己ひとりのために祝福されているとでも言いたげに。 超重の巨星が放つ引力に自ら落ちていくかのよう、いとも〈容易〉《たやす》く積み上げられていく新たな死。職人のごとく実直に、あまりにも淡々と更新される〈殺塵記録〉《キリングスコア》。 そんなマルスを前にして、兵士たちはもはや犠牲者という記号の集積でしかない。 そして徐々に。より高まっていく、というか…… これは── 「そんなものは着飾った絵空事、綺麗な〈物語〉《うそ》の中だけなどと――ああ、どうか頼む。切ない言葉を言わないでくれ」 「なぜなら、ほら、この世の本質は総じて“装飾”なのだから。世の中をより価値あるものとするために、人類が積み上げてきた努力の歴史……それこそ、〈煌〉《きら》びやかな偽りであるべきだろうがッ」 奴は歓喜し絶頂していた。そして悟る、本音の匂いというものを。 五年前の大虐殺に匹敵するほど……いや、あの時以上に殺戮の美酒に酔い〈痴〉《し》れて、秘めた内情を吐露している。滔々たる弁舌で吐き出されるのは、奴自身の説く奇怪な思想。 「着飾ってこそ、綺麗な夢を描いてこそ、格好をつけるその雅さこそ人間の抱く真実だろう? それをただの虚飾だと、どうして卑下する? 毛嫌いする?」 「真実こそが素晴らしいと誰もが言う。けれど果たして〈真実〉《そんなの》に、どれほど値打ちがあるものか? ──なぁ、よく考えてくれ。本当に、それに殉じて死ねるのか?」 情熱に満ちた語り口には、だが滴り落ちる毒にも似た歪さが充満していた。鬼眼の秘めた奈落が光度を増す。 「この〈剥〉《む》き出しの、身も蓋もない〈悲惨〉《しんじつ》に――」 「届かぬ格差で踏み潰されるだけの、この無意味無価値な〈終焉〉《しんじつ》に――」 「悲しくはないのか、お前たち! こんな〈真実〉《モノ》をありのままに受け止めて、オレに殺され死に逝くだけでいいというのか? 違うだろう!」 「〈怯〉《おび》え恐怖し、絶望しながら……それでもせめて、振り絞った〈勇気〉《うそ》で着飾るその姿。その強がりこそ真実だ」 「おまえ達の存在には、意義があった。立派だった。たとえオレに傷一つ与えることができないまま、虚しく命を散らそうとも……」 その一瞬、無駄死にが美しく見えたのなら── 「感じた想いこそ、事の本質になる」 「まあ、アレだ。〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈者〉《 、》〈は〉《 、》〈救〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》ってやつだよ。これもまた嘘偽りの言葉だが、否定すべき格言じゃあない」 「世の中には優しい虚飾が必要なのさ。そしてこちらこそ、信じるべき概念は多いのだとオレは確かに感じている」 「…………」 そしてマルスは、口調で長広舌を締めくくった。だから殺し尽しても、何も出来ずに死んだとしても、おまえ達は悪くないと天へ固く誓うように。 〈真摯〉《しんし》にすら感じる言葉は、自分が葬った兵たちへの手向けだったのだろう。本人の言葉通り、奴は彼らの死を無駄死ににしたくないと思っているらしい。 臆病者でもなんでも、格好よくあれた瞬間が一つでもあるなら、そちらをそいつの真実にしてしまえ、と。 その方が笑顔になれる、明日への希望が湧いてくる……という風に人の弱さを許しているのだ。 その言葉は甘く、奇妙な希望に満ちている。だからマルスを見ている誰もが奇妙な感慨を抱いていた。相手の方が圧倒的に格上ながら、それでもどこか対等の目線をしてくれているような、ありえない慈悲深さがあると錯覚する。 けれど、俺はむしろそこに―― 「やれやれ。やはり、あなたは余分が多い」 「たかが〈塵〉《ごみ》掃除に、片鱗とは言え本性を〈垣間〉《かいま》見せるとは。我らが内実、そう軽々に〈曝〉《さら》すものでもなかろうに」 「いつにも増して戯れが過ぎるわ、〈殺塵鬼〉《カーネイジ》」 そして、相棒の狂乱にも飽きたのか──同じく悪夢の夜に降臨した蒼き魔星は、対照的にどこまでも醒めていた。 弱者としての本能が警告を発する。殺戮に興じていない分だけ、今はある意味マルスより〈質〉《たち》が悪い。誤魔化しが利きづらい危険な敵として、冷静な視点を持っている。 ゆえに、サヤの拘束を弾き反射的に飛び退ろうとした――瞬間。 「ちィッ――!」 全力を込めたはずの両足が、どちらも微動だにしなかった。 いつの間にか靴裏に生じ床面と〈瞬〉《 、》〈間〉《 、》〈接〉《 、》〈着〉《 、》していた霜は、一瞬にして樹氷へと成長。みるみる内に膝の高さにまで〈這〉《は》い登ってくる。 極低温が一瞬にして神経までも麻痺させ、凍傷の痛覚すら感じさせぬ早業だった。のみならずチトセたちまでも、〈爆発的増殖〉《パンデミック》を果たした氷華の獄に足を縫い止められている。 雑兵には目もくれず、両部隊の指揮官格だけを優先的に狙撃したのだろう。精度重視のため仕留めるまでには至らずとも、乱戦の中で確実な隙を生み出すには充分な捕縛攻撃。 「さっさと〈吟遊詩人〉《オルフェウス》を確保なさい。それ以外は有象無象なのだから、後で好きにすればいい」 「どうにも女はロマンってものに理解がないねぇ。まあいい、わかったよ相棒」 苦笑しながら歩み寄る、破滅の脅威。そう。ただの一撃で万象を〈灰塵〉《かいじん》に帰す、この〈破壊神〉《マルス》が振るう滅殺の爪撃。それを呼び込むには充分すぎるだけの隙は、確かに発生していた。 事態は正に絶体絶命。〈喉〉《のど》元に突きつけられた破滅の剣先を前に――糞が、ふざけんな。 「だから、そうやって笑ってるんじゃねえよ」 俺は、呆れ混じりで吐き捨てていた。心底嫌になったのだ。 「〈普〉《 、》〈通〉《 、》は文句なしの窮地だぜ? おかしいだろ」 氷の磔刑に処された、漆黒の軍服姿は紛れも無く生贄の立場にあるはずだ。 にも関わらず笑みを浮かべたチトセという〈強者〉《おんな》は、やはり英雄に至れる器だ。俺とは棲む世界が違いすぎると、改めてそう痛感する。 「それとも……〈誰〉《 、》〈か〉《 、》をあてにしてるからってんなら、お門違いもいいところだぜ」 背中にのしかかる期待を感じ、どうしようもなく苛立ってしまう。 俺は〈同類〉《そう》じゃないんだってことを、いい加減に呑み込んでくれよ〈貴種〉《アマツ》のお嬢様。惚れた欲目で男の器を見誤るだなんて、世間並みの女じみた〈可愛〉《おろか》さは持ち合わせちゃいないはずだろう? 「なんだ、悪いのか? 私がおまえを信じることは」 「この耳はしかと聞いたぞ。敗北を拒絶し、理想を〈吼〉《ほ》えた〈先刻〉《さき》の気概……ようやく〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈狼〉《 、》が帰ってきたと感じている」 チトセから注がれる日輪のような視線に、俺は思わず顔を逸らしていた。それは、預けられる〈信頼〉《プレッシャー》が痛みを感じるほど〈眩〉《まぶ》しすぎたから。 かつては知らなかった、強き者の横に並び立つということの苦痛と恐怖……それを俺は、五年前のあの夜に嫌というほど魂へ烙印を押されてしまった。 だからこそ、チトセがあの恐ろしい〈英雄〉《ヴァルゼライド》に弓を引けた理由が判る。今の彼女は、その〈同〉《 、》〈類〉《 、》に駆けあがりつつあるわけだと。 敗北と古傷を糧に、そう成ったこと。凄いと思うよ、ああ見事だ。 けれど、俺を巻き込むのはやめてくれ。そっちはとうに〈瘡蓋〉《かさぶた》さえ残らなくても、俺にはまだ〈疼〉《うず》きもするし血も滲む生傷なんだ。 「それに少しくらいは喜ばせろよ。この窮地、隣にいるのは求めたおまえ……ああ、おあつらえ向きというものだろう?」 戦わなければ、死ぬ。そして死にたくなければ、勝たねばならず。 さらに俺の思い描く最強の女が、共に戦おうと〈囁〉《ささや》いているとあれば…… 「クソッ、選択肢は一つじゃねえかよ……ッ」 現実的にも、これしかない。苦々しく恨めしい視線を寄こす俺に対して、チトセは笑って〈頷〉《うなず》いた。 「五年の〈歳月〉《とき》を乗り越えて、〈天秤〉《ライブラ》に〈裁剣〉《アストレア》と〈銀狼〉《リュカオン》は再び揃った」 「ゆえに──さあ、我らの戦を始めよう。ゼファー・コールレイン!」 膨れ上がる、歓喜の〈星辰光〉《かがやき》。 そして……期待という重圧に背を向けたまま、俺は冥府の底へと呼応するように〈意識〉《て》を伸ばして。 「――それでいいのよ、愛しい負け犬。〈怯〉《おび》えた目をして走りなさい」 離れた場所から応えたその〈声〉《て》は、びくついた俺を底の底まで見透かして……それでも優しく〈囁〉《ささや》いてきた。 「戻らないとだけは決めたのでしょう? 〈昨〉《 、》〈日〉《 、》にはない何かを欲しいと思ってしまったから」 「“勝利”からは逃げられない。だから――」 ……だから? 「彼女と歩幅を合わせることで、少しは学習してみなさい」 星の光と共に俺を包みこむ優しい声は、けれど身震いするほど残酷で怖ろしく…… 「〈超新星〉《Metalnova》──〈冥界へ、響けよ我らの死想恋歌〉《Silverio Vendetta》」 それでも俺は、逆襲の女神が与える寵愛を再び我が身へ受け取った。 向かう先に立ち塞がるのは二体の怪物、〈殺塵鬼〉《カーネイジ》と〈氷河姫〉《ピリオド》―― 隣には、俺を死地に導く無慈悲で優しい〈星女神〉《アストレア》―― 五年前に背を向けた俺の運命たちは、何一つ変わることなくそこにいた。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈無窮たる星女神、掲げよ正義の天秤を〉《Libra of the Astrea》」 そして、チトセもまた〈星辰光〉《アステリズム》を輝照させる。 非才の凡夫ならただ圧倒されるしかない、全方面における完成を見た〈無謬〉《むびゅう》の星光……俺はそれを、五年ぶりに味方として隣で浴びる。 胸に過ぎりゆくのは、頼もしさと同時に劣等感。 古代神話の〈太陽神〉《アマテラス》を思わせる、チトセの放つ眩ゆさは……かつてと同じく俺の〈精神〉《め》を灼き、自分の中にある影の濃さを否応なしに意識させてやまなかった。 突きつけられるのは、見上げた相手の遥かな高みと己が足場との絶望的な落差。〈掻〉《か》き立てられるのは、同じことができない自分への暗い嫌悪――そして。 「〈征〉《ゆ》くぞ、ゼファー! 全攻撃をマルスに集中する──〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈剥〉《 、》〈が〉《 、》〈す〉《 、》〈ぞ〉《 、》ッ」 理想の彼方へ迷いもせずに駆け抜けていく、美しき流星への狂おしい憧憬だった。 ああまったく、こんな俺でも〈誇〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》おまえは、本当にいい女だよ──糞ったれ! ならばいいさ、星の世界はあまりに遠く、だがそれでも今はおまえに付き合うよ。自虐は今だけ噛み殺す。 だから、今はあの時みたいに──さあ。 「――〈了解〉《ポジティブ》! これより〈裁剣〉《アストレア》を援護するッ」 かつてと同じく、なりふり構わず俺は雄雄しく〈吼〉《ほ》えるのだった。 気を抜けばたちまち遠ざかる勝利へ向け――相棒の背中と共に、牙を〈剥〉《む》き出し喰らい付いていく。 チトセという〈正答〉《こたえ》の影を踏めなければ、下される運命はただ落伍者としての死でしかない。ならば上等、今はなんとか付いて行く。 いつも俺の先を〈疾走〉《はし》っていた、戦女神のたなびく黒髪。それが常時突きつける苛酷な正答へと駆ける、己の器を諦めながらも焦がれ続けたあの頃みたいに――意識は五年前へと逆行していた。 ――そして耳を〈聾〉《ろう》する轟音が、俺を一瞬にして現在に立ち返らせる。 大気を〈劈〉《つんざ》き荒れ狂う雷光は、音速を超えた衝撃波により〈足下〉《そっか》の氷獄を一撃で粉砕。同時にウラヌスの〈矜持〉《きょうじ》を土足で踏み〈躙〉《にじ》った。 「させると――」 「――させるかッ!」 憤怒の追撃を遮ったのは、縦横無尽に飛び交う〈雷火球〉《プラズマ》の連続放射──並びに、天秤兵の星による〈絨毯〉《じゅうたん》爆撃がそれの後を追随する。 チトセへ放たれた氷杭の〈槍衾〉《やりぶすま》を全弾撃破し、なおウラヌス本体へも肉迫していく〈裁剣天秤〉《ライブラ》。そこに反動勢力も続き、引き剥がすと〈吼〉《ほ》えたチトセの意図を後押した。 すなわち役割分担。俺たちがマルスを担当する間、他の全員で凍結の魔星を封じると── 「側面支援いたします、お姉様ッ! こちらは束の間、私たちが──」 「感謝する」 怒れるウラヌスを阻止するサヤに、鍔と鞘とを打ち鳴らして返礼し。チトセは宣言した〈標的〉《マルス》へ向けて加速する。 「――なるほど、結局はこうなるか」 瞬間、鬼面の下でどこか悔いるような声が響いた。 それはまるで、〈兵〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈を〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈方〉《 、》〈が〉《 、》〈望〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》と言わんばかりの〈呟〉《つぶや》きであり、ふと漏れてしまった真実の欠片のように顔を覗かせ、そして消える。 「しかし、これはこれで良しとしようかァッ! 盟約を反故にした分、あんたにきっちり付き合おう」 「手切れ金は、幾ら払えばいいのかい?」 「無論、私が満足するまでだ!」 応酬を交わした〈途端〉《とたん》、鋼の巨躯は突進を再開した。 言葉から読み取れたのは、複雑な利害関係で絡み合う〈蔦〉《つた》にも似た、かつての両者。だが今や、敵と味方は明確に分かたれたのだろう。合理の面でも、ここで抹殺を〈躊躇〉《ちゅうちょ》する理由は双方ともに〈微塵〉《みじん》もない。 仕掛けたのは同時、されど上回ったのは加速を重ねたチトセだった。 抜刀即斬――軍服の〈腰間〉《ようかん》より〈迸〉《ほとばし》ったのは、玉散るばかりな鋼の銀光。 「まずは、その得物――」 だが魔星は不動。襲い来る必殺の刃を認識しているにも関わらず飽いた予定調和のごとく、無感動に漏らした〈呟〉《つぶや》きの意味は既に自明だ。 そう、奴には敵の攻撃を怖れる理由が存在しない。さっきまでの暴虐で示していた通り、マルスを目指す攻撃はすべてが中途で消滅する。 それは万象を〈貪〉《むさぼ》り散らかす、姿なき暴食の〈顎〉《あぎと》が為す所業。奴が〈纏〉《まと》うその邪悪な結界が何なのかは、俺にも皆目判らない。 だがそれある限り、紅蓮の魔星は存在するだけで攻防一体の無敵を誇る。チトセの居合がどれだけの加速に達しようが、その前では総じて無意味と化してしまう。 早々貫けない魔の瘴気に対して──しかし。 「いや、くれてやる訳にはいかんな。下衆には余る業物だ」 しかし、それは余人ならではの話。人の身に留まりながら、鉄の戦鬼さえ凌駕する星の光がここにある。 今、攻防一体はマルスだけの特権ではない。亜音速にすら達するチトセの斬撃もまた、〈結界〉《それ》を〈刀身〉《み》にまとい付かせていた。 それは風――〈殺塵鬼〉《カーネイジ》が常態として放つ漆黒の邪気を、刃と一体化した気流の渦が切り裂いている。奴が誇る暴食の結界も、実体なき〈気流〉《かぜ》の鎧は対応していなかった。 いや、正確には〈物〉《 、》〈質〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈効〉《 、》〈き〉《 、》〈が〉《 、》〈若〉《 、》〈干〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。 英雄の極光も、そして他の〈星辰奏者〉《エスペラント》による星光も、著しく減退していたが衝撃は確かに与えていた。すなちそれは、特定の異能なら通じるということを示している。 そして恐らく、鍵となるのは集束性だ。ヴァルゼライドがかつてマルスを切り裂けた理由はそこに起因していると見て間違いない。 ゆえに、その想像は正しく──刹那、〈絢爛〉《けんらん》と白い火花が乱れ咲いた。 殺意を乗せた鉄と鉄とが、超高速で激突し合う爆発的な轟音が響く。この時初めて、マルスはその爪を防御の使用に余儀なくされた。 「さすがは〈貴種〉《アマツ》、とびきりの〈純血〉《ブルーブラッド》だ。手足のごとき精妙なる星辰の操作ぶり、見事の一語と言わせてもらおう」 「努力の好きな天才とは、これだから始末に困るな」 だが、無敵を傷つけられた怒りなどは〈微塵〉《みじん》もなく……鉄の鬼面は、素直な感嘆を示している。 「お褒めに〈与〉《あずか》り恐悦至極……と言いたい所だが、小手先の手妻上手と侮られたようで〈些〉《いささ》かばかり不本意だがね」 チトセもまた、夜叉のごとく〈獰猛〉《どうもう》に〈嗤〉《わら》いながら刃を〈翳〉《かざ》す。 「さにあらずという証を今から見せるが、構わんな? 私は少々手荒いぞ」 「英雄よりかい?」 「望みとあらばッ」 〈咆哮〉《ほうこう》を叩き付けた瞬間、かくて始まったのは〈一髪〉《いっぱつ》〈千鈞〉《せんきん》の〈格闘戦〉《ドッグファイト》。 超至近距離から放たれる必殺の一合、また一合。烈刃と剛爪が奏でる剣戟の響きは、ぶつかり合うごとに激しさを増す。 そして破壊力の高まりと競合するかのように、〈疾〉《はや》さもまた一合ごとに加速を重ね打ち合う間隔を狭めていく。 とうに秒を裂き、瞬を刻み、刹那の域の応酬へと。残響はもはや十重二十重に折り重なり、人間の可聴域には〈単一〉《ひとつ》としてしか届かない。 驚嘆すべきは、さも鈍重な体躯で〈神速〉《チトセ》に対応しきるマルスの方か。それとも、自身に数倍する〈巨人〉《マルス》と真っ向打ち合い退がりもしないチトセなのか。 判っているのは、ただ一つだけ。どちらも俺には隔絶した〈超人〉《バケモノ》だということ。 〈五年前〉《あのとき》と同じく、その中に投げ込まれた途方もない恐怖を咬み殺しながら―― 完全なる死角から撃ち放った、意識の継ぎ目を狙う首刈り一閃―― それはしかし、何もない虚空のみを斬り裂き流れた。 「――ちぃッ」 不意討ちの失敗を悟ると同時に、敵の攻撃圏内から離脱し迎撃の構えを取り直す。 技でも勘でもない、それは単純な速さによる回避。見てから、理解し、〈躱〉《かわ》される。ああ本当に、嫌になりそうな性能だと吐き捨てながら〈睨〉《にら》み返した。 「とォ――なるほど、こういう仕掛けか。順当だな」 おどけて〈嗤〉《わら》うように、目まぐるしく明滅する四つの鬼眼。 「〈女神〉《アストレア》の正剣と、裏をかく〈人狼〉《リュカオン》の邪剣か。その表裏一体、虚実自在の変幻殺法……これで幾つの戦場首を転がしてきたのやら、と」 「驚嘆したいところだが、男としてそりゃどうなんだよ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。女を前に、狡からく首を狙うそのやり口は〈矜持〉《きょうじ》的にどうなんだ? せっかく玉がついているのによ」 「知るか、俺は実利最優先でね──ッ」 〈吼〉《ほ》えながら、返しの一撃を〈躱〉《かわ》しつつ鬼面の周囲を旋回する。そしてそれを正道の裏で隠すように、チトセが雄々しく突貫した。 裁剣が光へ、そして狼は卑しく影へと……喰らい殺すべく潜伏するこの戦法。 その通り……これはチトセと俺ゆえに成立する、かつて〈裁剣天秤〉《ライブラ》時代に構築していた常套手段だ。 何の〈衒〉《てら》いもなく、ただ圧倒的なだけの〈正面攻撃手〉《アタッカー》が敵戦力の意識を根こそぎ奪う。後背の目を失った敵を、暗殺に一点特化した伏兵が奇襲。混乱に乗じて〈蹂躙〉《じゅうりん》し、前後から電撃的に勝負を決する。 主体たるチトセの、完全無欠なる戦闘力を絶対の“陽”。 すべてにおいて平均、もしくは以下だが、瞬間的な〈爆発力〉《きば》にだけは秀でた俺が“陰”。 王道と詭道を併せ持つ、かつて無敵を誇った連携。それが今、紅の魔星を討ち獲るべく行使する。 何度も、何度も、何度も、何度も──死をもたらすまで続行される暗殺舞踏。 首を胴から断ち切るまで、あるいは風雷で真っ当に壊されるまで、捉えた獲物を追い込んでいく陣形は実際に、大きな効果を発揮していた。 本当に少しずつだが、マルスの装甲に〈些細〉《ささい》な傷が刻まれていく。自己修復能力まであるのか現状は回復と損傷の〈鼬〉《いたち》ごっこであるものの、攻撃が通っているという事実は俺たちにとって非常に大きい。 完全無敵ではないということの証明を頼りに、初めて見えた希望に任せて回転速度を上げていくが── 「──本当に、不憫なことだ」 何故か、鬼は納得したように俺を向いた。二対一、ほぼ互角の死闘を演じながら、何か別のことに感じ入っている。 「陰陽の格差が酷すぎる。〈自虐癖〉《トラウマ》の根はこういうことかよ。効率効率効率と……おまえは機械じゃないってのによ」 「すべての栄誉は、アマツの血を引く正義の女神ただ一人へと。黒子に徹した狼はねぎらい一つじゃ報われない。長い従軍生活で厳しく〈躾〉《しつけ》けを施された、これが結果というわけだ」 「そうまで尽くした理由は何だ? 栄誉か? 金か? それとも色香?やめとけやめとけ、見合っちゃいねえさ。素寒貧の〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 「そのお嬢ちゃんとは早めに縁を切るべきだ。オレの首を貰う代わりに、少し一考するといい」 「ほう――聞き捨てならんな、その言葉は」 ぼやきにも似たマルスの戯れ言に、悠然とチトセは微笑を返した。 音もなく入日が翳るように、その目元が細められる。古代日本の仏像にも似て穏やかな半眼は、しかし猛獣の〈威嚇〉《いかく》と同意義だった。 「喜ぶがいい。今ので一気に、おまえの株は急降下だよ。原型を残すのに少々苦労しそうな程だ」 「そりゃあ悪かった。しかしなんだ、男として思うところ有りとでも思ってくれ」 「なあ、おまえさんもそうだろう? だから軍から脱走したままいたと──」 「黙れ」 そんな──気遣わしそうに続けようとしたマルスの言葉は、轟き渡った〈金〉《 、》〈属〉《 、》〈音〉《 、》に中断された。 奴の〈喉〉《のど》首を再び狙い、鉄爪によって〈受〉《 、》〈け〉《 、》〈止〉《 、》〈め〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》短刀の鈍い〈煌〉《きら》めき。俺の殺意が、ぺらぺら喋る魔星を止める。 「手前勝手に、俺の理由を定義するな」 醒めきった声で、俺は奴の耳元にそう〈囁〉《ささや》く。瞬間、鋼と鋼が悲鳴じみた擦過音を立てて離れ去った。 間合いの外に離脱する俺へと伝わってきたのは、鬼面に隠した確かな〈驚懼〉《きょうく》。 ヴェンデッタの対星辰干渉力を付与された俺の〈刃〉《ほし》は、〈共鳴振〉《レゾナンス》によりマルスのまとう闇の鎧を打ち消し本体に届く。 能力の正体が不明であれ、それが星辰に基づくものである以上消滅は可能だ。無論、出力の大小に関係なく。 だがその理以上に奴の心胆を冷やしたのは、〈今〉《 、》〈度〉《 、》〈は〉《 、》気配を読めず防ぐしかなかったという一点――敗地の暗闇から逆襲の牙〈剥〉《む》く、〈格〉《 、》〈上〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》の狼に対する悪寒に他あるまい。 「報われない影に徹した理由だって? ああ、教えてやるよ」 なぜなら、今の俺は過去の冷たさを取り戻しかけているから。 奴の言葉は、ただひたすらに腹が立った。ゆえに真実をくれてやる。 「そんなもん、生き残るために決まってる」 チトセの輝きにトラウマを刻まれたのは本当でも──あいつに栄光を奪われたとか、そんな妬みは一切ない。 あいつが美しいのは、あいつの功績だ。俺が惨めなのは、あくまで俺が〈塵屑〉《ごみくず》なのがすべての原因であるんだよ。 チトセが悪い? 馬鹿を抜かせ、俺の相棒は最強だ。 紛うことなく、最高の存在だったんだよ。 答えを返すと同時に、異形の巨躯が突進を開始。俺へと標的を変えて肉迫する。 「ほう……ただそれだけかね?」 戦端が切って落とされると同時。紅蓮の魔星は、興趣を惹かれたように俺との問答を続けてきた。 やれる。どうにか攻防が成立する。その〈手応〉《てごた》えを感じながら、俺は振動操作の星辰を乗せた刃を全速全開で振るっていく。 触れるものみな〈灰塵〉《かいじん》に帰す魔星の前進……はしかし、今の俺には“圧倒的脅威”であれ“打つ手なしの理不尽”じゃない。こちらの集束性では本来通じないはずだったが、しかし性質の差によって瘴気を貫く矛として機能していた。 攻撃を見極めた上で受け流し、返す刃で切り結ぶことは、破滅と紙一重には違いないが何とかやれる。 「ああ、それだけだ」 ゆえに展開される乱戦の中でも、そう返答できるだけの余地は残されていた。 貧民街から餓死だけはしない軍へ転がり込んだのは、ひとえに今日の命を〈繋〉《つな》ぐため。下層出身ゆえ最初に送りこまれた高死亡率の激戦区から、適性検査の結果〈裁剣天秤〉《ライブラ》に拾い上げられた時も同じだった。 ああ、これでまた明日も生きられる……という〈安堵〉《あんど》の中だけにある幸福。それ以上の価値あるものなど知らなかった。 「地位? 栄光? そんなもの、命あって初めて高いだの低いだの言えることだろ。俺はただ、生きてるだけで精一杯だったんだ」 「そんな雑魚が軽んじられるのも、惨めなのも当然だ。むしろ〈世〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈な〉《 、》〈き〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 馬鹿が突然、何かすごい力を手に入れて調子づくとか。 努力もしてないのに、いきなり幸福が舞い降りる展開とか。 才能もないのに、少し汗水流した程度で勝ち組になってみせたりとか。 そんな都合のいい妄想は現実だと〈罷〉《まか》り通らないし、通ってはいけない。 形にするべきは、能力のある者が正統評価される社会。意欲と才能が尊重され、逆に俺みたいな臆病者には〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》の恩恵がもたらされる世界であって……ああゆえに。 「だから、おまえがのたまった栄光なんて、俺にはまとめて〈糞〉《くそ》食らえだ。勝利の反作用が怖いんだよ」 「強い奴に勇気出して立ち向かうのが素晴らしい? 阿呆か、ただの自殺だ。死ななくたって痛いだろ。そこにどんな意味を付けたって、流れる血は止められない」 「俺を高く見積もるな。俺を安く見下すな。俺に何かを期待するな。頼むよ、頼む──俺の事を見るんじゃねえ」 この化物共が──と、攻撃と共に慟哭を叩き込む。 「たとえその挑戦が、おまえの言う綺麗な虚飾であろうともッ」 〈装飾〉《そんなもの》に価値などない、価値があるなど思いたくもない。そう伝えながら一蹴して攻撃する。 マルスは走る斬撃を〈躱〉《かわ》しながら、どこか納得したように〈頷〉《うなづ》いていた。肩を〈竦〉《すく》めるように、首を若干〈傾〉《かし》げながらこちらを覗く──〈静謐〉《せいひつ》に。 「つまり、“勝利”に興味を持っていない……と」 「ああ、そうさ。試練に挑んで不幸になり、挙句の果てはボロボロに。そして傷つき死んでいけ?」 嫌だ、嫌だ。痛いことはしたくない。 「生憎と、不幸も傷も腹一杯だ。もう一つも要らねえんだよ、俺の人生には」 「だから、俺にそんな〈試練〉《もの》を押し付けたがるおまえも不要だ。死んでくれ」 そうだろ? なにせ、おまえ──運命運命、命の価値がどうだと言いつつ。 「──結局、俺を殺そうとするんだから」 手管を尽くして斬り結ぶ中、苦い唾を吐き捨てるようにそう〈言〉《ご》ちた。 かくて鬼面との死と隣り合わせの問答は、平行線のまま噛み合わずに終わる。それも当然だと言えるだろう。俺には自分にとっての利害の他に、こだわるものなど何もないのだ。 それは人間関係についても言える。 家族と一緒の平穏な暮らしは、俺に人間らしい潤いを与えてくれる――だからミリィが必要だ。 決して望んだ出会いじゃないが、〈魔星〉《バケモノ》どもとの闘いにおける運命共同体には違いない――だからヴェンデッタが必要だ。 そこまで思いを巡らせた時、俺はふと自分の中の矛盾に気付いていた。 ならば……俺の襟首を掴み上げ、死地という高みへ連れ回す〈強者〉《かのじょ》の存在とは一体何だ? 俺自身の生存哲学に照らせば、俺には何の利もない〈繋〉《つな》がり。それどころか、魔星どもと〈同〉《 、》〈類〉《 、》の害そのものでしかないはずで、だから無理だと何度も何度も伝えたはず。 なのにどうして、この俺は――と、合理では割りきれぬ感情が一瞬だけ脳裏を過ぎったが。 互いの隙を奪い合う拮抗した攻防の中、〈伏〉《 、》〈兵〉《 、》の奇襲が鬼面を側背から一撃した。 先制の雷撃に続くのは、竜巻状の〈暴風〉《サイクロン》をまとったチトセ自身の突撃。肉眼では認識不能な超音速が叩き出す衝撃が、鋼鉄の巨躯をも宙に舞わせる。 「貴様自身が言ったろう、マルス?〈裁剣〉《アストレア》と〈銀狼〉《リュカオン》は表裏一体、虚実自在だとな」 「ご所望に応えて演じてみたという訳だ。初めてにしては望外に上手く〈嵌〉《は》まった」 蛇腹剣による高機動かつ有機的な斬撃で、崩れた鬼面を猛追しながら〈嗤〉《わら》うチトセ。その言葉通り、今のは俺と彼女が役割を反転させた〈裏〉《 、》〈の〉《 、》〈裏〉《 、》による鬼手だった。 ゆえにさしものマルスも、その虚を〈衝〉《つ》かれるのは無理もない――この方程式は前提条件が狂っているのだから。 真の意味で表裏が自在となるには、双方が同等の役割をこなせなければ成立しない。そうでなければ、少なくともマルスほどの手練に通用する域には達しないという前提がある。 チトセが〈暗殺者〉《おれ》の代役を務めるのは、全方位万能がゆえの上位互換で充分可能だ。一方、俺がチトセほど圧倒的な〈正面攻撃手〉《アタッカー》を代行するのは、本来能力的に不可能なはずだった。 だが今、事実としてその条件は達成された理由は……紛れもなく一つだ。 〈星辰〉《ちから》が上昇している──いいや、それ〈だ〉《 、》〈け〉《 、》じゃない反応に、思わず自分自身に怖気が走った。 冥府の闇から〈揺蕩〉《たゆた》う逆襲の怨歌は、かつてない力強さで届いていた。何がきっかけになったのか、以前よりもヴェンデッタとの〈繋〉《つな》がりをより確かに感じられるこれは、その影響による能力上昇と見るべきか。 何か、不可思議な鼓動が……胸の奥で鳴り響いている。別何かに塗り変わっていくような、この感覚。 形容しがたい不安がある。俺はこれから、どうなるんだ……? 「ほう――そこまで行ったか。いや、行かせちまったと言うべきか」 「これでまた一つ、運命の車輪は回ったわけだ。終わりは近いな、寂しいことだが……」 鬼面もまた俺と同じく、何かに気付いたような気配を浮かべる。その巨躯が俺たちへの反撃へと移行する寸前、あらゆる動作を止めていた。 それどころか、あっさりと異能を解きつつ背後を向いて── 「引き上げるとしようや、相棒――お役御免だ。〈あ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》もそう言っている」 続いて奴から飛び出したのは、耳を疑う撤退宣言。後方で暴れる蒼の魔星へと呼びかける。 「害虫駆除を残したままは〈業腹〉《ごうはら》なれど、そのようね。本末転倒を演じるほど愚かではないわ」 「どうやら、泳がせて〈追〉《 、》〈い〉《 、》〈詰〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》方がいいみたいだし。それに……」 「──そうらァッ」 刹那──こちらへの介入を阻止せんと奮闘したサヤの光球と同時、襲来した鋭い烈蹴。それをウラヌスは優雅に氷盾で防ぎながら、襲撃者を〈睥睨〉《へいげい》した。 「じゃれつく理由には、事欠かないようだから」 「応とも──火種は大きい方がいい。誰も彼もで踊ろうや」 何の目的か、気づけば参戦してきたアスラ・ザ・デッドエンド。闘争だけを欲する無頼漢が、見下す魔星に嬉々として〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈巻〉《 、》〈き〉《 、》〈込〉《 、》〈め〉《 、》と宣していた。 その発言をどう取ったか、鼻で〈嗤〉《わら》ったウラヌスが離脱する。樹氷の森を一気に発生させ、それを足場に屋敷の壁面へ空いた穴から振り向くことなく去って行った。 そして、もう一体の怪物は── 「おまえさんという人間が何となく見えたぜ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 残ったマルスが俺を見る。今、鉄の巨躯から戦闘の気配は完全に消えていた。 「どうやらオレとは、相性悪い感じだがな……」 そして、なぜか苦笑らしき響きを俺の耳に残してから── 手近の壁を粉砕し、新たに生まれた出口から悠然と消えていった。 そして、広間に残されたのは破壊の後の静寂と、負傷者の惨たる〈呻〉《うめ》きだけ。最悪の遭遇は、どうやらここに幕を下ろしたらしい。 「……いや、見逃してもらっただけか」 それなり渡り合えることを証明しても、〈斃〉《たお》すのはおろか手傷らしい痛手を負わすこともできなかった。王手を指さずして駒を引き上げたことから裏を感じずにはいられない。 以前に闘った時もまた同じ。あの夜も〈窮鼠〉《きゅうそ》の牙〈剥〉《む》き一矢を報いた俺に対し、これからが本番というところであえて逃走を許した。餞別代りに、片腕さえ悠々と差し出して。 もはやその理由には気付いている。魔星の背後にいる奴らも含めて、真の狙いは俺自身じゃないのだから当然だ。 奴らの狙いとは、ひとえにヴェンデッタであり――そして今、まさしく俺に起きているこの変革に他ならないと、確信しつつある。 「ぐっ――」 連想が結実しかけた刹那、馴染みの代償――〈平均値〉《アベレージ》からの〈発動値〉《ドライブ》移行への反動が俺を襲った。 そう、かつて発狂しかけた……あの時と同じ感覚だ。 「づぅ、ぐオッ――ガァァ、ア……ッ!?」 身が引き裂け裏返るような激痛と悪寒が、細胞レベルで俺を〈苛〉《さいな》む。禁断の呪歌を奏でた報いが、再び只人の血肉を〈蹂躙〉《じゅうりん》してゆく。 目鼻口から血を噴き崩れた俺の身体を一瞬で駆け寄った細腕が支えたものの、そんなことでマシにはならない。むしろ今この瞬間も、真っ逆さまで地獄の痛みを味わっている。 痛い。死ぬ。痛い。死ぬ。いっそ、どうか殺してくれと、祈るような悪夢の痛み。 眼球を〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》って〈抉〉《えぐ》りたいような自死衝動を堪える俺に、そっと指先が頬へと触れた。壊れるほど奥歯を噛み締めるその様を癒すように、こちらを抱きかかえたチトセが瞳を揺らして眺めている。 「本当に……私はいつも、間違えてばかりだな」 潤んですら見える〈隻眼〉《せきがん》。それは俺が見たこともない光で、確かな情の輝きが見える視線と仕草だった。 「おまえは私のものだと言ったろう――死ぬのは断じて許さんぞ」 「いや、違うな……すまない、ゼファー。どうやらまた、おまえに理想を押し付けてしまったらしい」 そう言えば、この有り様の俺をチトセが見るのは初めてだった。 〈隻眼〉《せきがん》はすぐ目の前で、大量の血と膿汁に沈んだ俺を映している。似つかわしくない取り乱しようと少女じみた〈怯〉《おび》えは、俺の喪失を心の底から恐れているのだと伝わった。 抱き締められるその温もりは、今の身体には熱いほどで、心地いい だからだろうか、静かに痛みが緩和されていく。豊満な柔らかさに包まれているせいか、意識が他人の存在で〈繋〉《つな》ぎとめられているのが分かった。 「心配すんな……ただの〈仕〉《 、》〈様〉《 、》だから」 〈血反吐〉《ちへど》に汚れた口の端に引きつり返った笑みを作ってみせた。なけなしの体力が、その一搾りで消え失せていくのを感じるもののこれがちっぽけなプライドだ。 そして何より……どうもこの反動自体、以前に比べれば幾らか軽減されているらしい。なんせまだ、意識が途絶していない。前なら既に落ちていた。 すべての始まりである〈死想恋歌〉《ヴェンデッタ》。前に使った時は即座に頭を地へ打ち付けたが、今は痩せ我慢が出来る程度に済んでいるのも事実。 「〈酷〉《ひど》い姿ね。〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈夜〉《 、》と同じ」 瞬間、聴覚に響いたのは雨音の幻聴と……〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》と同じ面影が発した、現実の声。 「でも、今のあなたは痛みの中で笑えているわ。それが手にした答えと噛み締めなさい、ゼファー」 「あの時より少しだけ、あなたは立派になれたのだと」 いつの間にか視野の隅に〈佇〉《たたず》んでいたのは、記憶にある幻覚じゃなかった。先に逃したはずのヴェンデッタが、どうしてか俺のことを見つめている。 ああ、まったく……どれが現実で、どれが幻であるのやら。 幻想と現実が走馬灯のように入り乱れる中……意識はすぐさま朽ちるように、そこでぷつりと途切れてしまう。 チトセに抱かれたまま、俺は意識を闇の底へと落とすのだった。 ――炎の匂いがした。 街も、人も、何もがもが〈蝋〉《ろう》燭のように燃えている。 そして……鼻を〈衝〉《つ》くのは、炎よりもむせるような血の臭い。 思い返すのは、そう、あの時―― 銀の刃が閃いて―― 片目を奪われ血の海に沈んだチトセを、俺は誰より近くで見ていて―― そのまま、手を伸ばすことさえせずに背を向けた──その時。 「行か、ないで……ゼファー、……────」 届いた声を、必死に聞こえないふりをしたこと。 本当は覚えていたと言えないまま、耳を塞いで、目を閉じた。 すまない、隊長。すまない、相棒。おまえのことは好きだけど、ここで俺たちはさよならだ。 憧れてたよ、本当に……本当に。 本当に…… 「……ッ」 と、そこで残酷な〈悪夢〉《かこ》は遮断され、俺は“五年前”から帰還した。 ――何もかもが変わり果てた、敗残の〈現在〉《いま》へ、 と、 思う。 いつも通り、夢を覚えていないという特性によって、重要なことを忘れてしまった。ああ、何をこんなにうなされていたんだろうか、と。 不快感と罪悪感だけを胸にしながら、目を覚ますのだった。 「お、気が付いたか」 意識が戻って最初に聞こえたのは、おっちゃんの声。 「ゼファー。私だ、わかるか」 そして最初に見えたものは、すぐ傍で俺に寄り添っていたチトセの顔だった。黒い瞳に〈安堵〉《あんど》が広がる。 「ああ……ここは?」 俺の見知らぬ場所。だがこの二人がいる以上、敵地でないことだけは確かだろう。骨身にまで染みついて取れない職業癖……無意識に巡らせた索敵探知にも、敵意の影は引っかからない。 「アルバート殿が帝都内に保有する拠点の一つだ……まだ動かない方がいい」 乾いた血で汚れた寝台から身を起こす俺を、優しい力で押し留めようとするチトセ。 なんというか、妙に優しい。ふっと微笑む姿を見ていると、眼帯を除けばまるっきり年頃の女みたいにさえ思えた。 それが妙に気恥しく、こちらもまた無理をする。意地みたいなものだが、俺はこいつに変な気遣いをさせたくない。 高嶺の花を〈穢〉《けが》したくないというのは、たぶんこんな感情なんだろう。 「心配はいらねえよ。派手に血を吐いたから驚いたかもしれねえが、痛みは〈殆〉《ほとん》ど残ってない」 ただ目に見えない体内の損傷は、回復までに多少時間がかかる。その間の機能低下は避けられないだろうが、こうして寝てもいられない。 状況は急転した。このまま呑気に寝ていれば、きっといずれ支払うのは命だろう。 そして、その時傷つくのは俺だけではない。 「まあ、そう急ぐこともねえさ。たっぷりとはいかないが、時間も稼げたと見ていいだろう」 「取りあえずお前の懸念から片付けるが、ミリィちゃんはいつも通り平穏無事だ。何かあれば、監視中の部下から一報が入る。安心しろ」 「……そう、か」 俺の心を読んだかのような一言。大切な妹の名を聞いて、確かに〈逸〉《はや》る気勢は落ち着いた。 よくよく考えてみれば、奴らの思惑を吟味するに家族の心配は薄そうだ。飽くまで今の所は、だが。 連中の目的は、ヴェンデッタの現状唯一の起動手段である俺への〈耐久試験〉《ストレステスト》。ゆえに今は、次なる機会までに俺の回復を静観する手番である可能性が高い。 追い詰めると言った鉄姫の発言が、実に不気味だ。考えるだけで吐きそうになるが、今はそれ以上考えるのはやめておこう。 それよりもまず、状況を知らなければ。 「よし、落ち着いた所でこちらの事情を隠さず教える。知りたいことはあるか?」 「つってもな……」 偽らざる本音としては、何も知りたくないし聞きたくねえよ。厄ネタ臭がぷんぷんだし。 とは言え目をきつく閉じても耳を塞いで喚いても、状況は黙って通り過ぎちゃくれないのも判っている。感情と理性の葛藤が、言葉尻を濁らせた。 「ならば、まずは私から話した方がよさそうだな」 浮かぬ俺の横顔を見つめながら、チトセが現状説明の口火を切った。 「〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》が一角、第七特務部隊〈裁剣天秤〉《ライブラ》は昨夜をもってアドラー帝国軍から離反。このたび晴れて賊軍となった」 「そしてその指揮官であるチトセ・朧・アマツは、今や帝国に仇なす賊将という訳だ。いやはや、さすがは総統閣下。手が早いとは思わんか?」 「まるで、事前にそうする手はずだったようではないか。愉快だろう?」 「俺なら泣くわ」 「普通は凹むな。少なくとも俺は凹んだ」 肩を〈竦〉《すく》めて、男二人で顔を見合わせ嘆息する。カラカラと笑うチトセの豪胆がどうにもこうにも〈羨〉《うらや》ましい。 だがまぁ、事態は見えてきた。要するに、あれか。 「ああ。察しの通り、すべて私のせいときた。昨日起こったマルスとウラヌスによる、グランセニック商会襲撃事件。その手引きを成したとな」 「まあ〈諸々〉《もろもろ》細部に穴はあろうが、それを英雄……ヴァルゼライドが認めたのなら話は別だ。奴が軍事帝国アドラーの意思である限り、それを妨害する実力行使に出た私の立場は当然そうなる」 「よって反帝国……と言うより、反ヴァルゼライド政権の旗を掲げる〈反動勢力〉《レジスタンス》との共闘はごく自然な流れで締結したよ」 「個人的な親交はなかったが、彼女の能力と性格はよく知っている。互いに手を結ぶ程度の信用もある。ならば後は一択だ」 そして二人は手を組んだ、か。国家への反逆。必然、国家規模の組織暴力から命を狙われる立場であるというのに、豪胆なことだ。 欧州の覇者たる軍事大国の〈暴力〉《それ》に、真っ向から対立した。にも関わらず、毛ほども泰然自若を崩していないチトセがいる。 気が狂った、馬鹿な――とは別に思わない。その種は以前から蒔かれていたのだろうし、再会後に交わした言葉からも察していた。 「やっぱり、というか……まあ本当に実行しやがったことには、心底呆れて、感心してるよ」 「そうか、ふふ。ゼファーらしい感想だな」 こいつの芯には、既存体制の枠を超越した正義の概念が存在する。胸に掲げた女神の天秤が判定した悪を、恐れることなく指差し撃てる。 だから、その相手がクリストファー・ヴァルゼライドという帝国臣民にとっての絶対存在であろうと関係ない。 だが、それはあくまでチトセの中だけで通じる理屈に過ぎないのも事実。 「〈貴種〉《アマツ》の血を引く帝国軍の銘花一輪……とは言え、国民の支持を仰いでの人気勝負じゃ分が悪いぜ。そこんところ、どうするんだよ」 「あちらは生きた伝説だし、立志伝中の人物だけに下層民からの支持も絶大だ。下をあおって内乱の火を〈煽〉《あお》る手も、早々使えるものじゃないだろ」 帝国内の人口もまた、この世の多分に漏れず貧富がピラミッドを形成する。よってそれは、英雄の掌握する上層部どころか、より多数派をも味方に付けていることに他ならない。 「一方で、高嶺の花ほど泥に落ちれば踏みにじりたくなるのが人情だ。〈深謀双児〉《ジェミニ》お得意の諜報戦で、どんな汚名を着せられるかも判らんしな」 よって、事態は内乱以前。国を割る事態を呼ぶまでもなく、チトセは何の大義も持たぬ国賊として粛清される方向に向かうだろう。 その際の背後関係は、さしずめ聖教国に商業連合……付け足す〈尾鰭〉《おひれ》には事欠かない。 「〈深謀双児〉《ジェミニ》の長、ランスロー中将とは既に密約を交わしてある。〈裁剣天秤〉《ライブラ》の挙兵に合わせ、内部から〈撹乱〉《かくらん》工作を行ってくれる〈手筈〉《てはず》だ」 「とはいえ、あれも中々に面倒な男でな。〈国〉《 、》のためなら何でもするだろう。現状はともかく、下手に信用過ぎするのも恐らく愉快なことにならん」 「それはまた、根回しの行き届いてることで」 「だがそれを差し引いても、悲観するのは馬鹿馬鹿しい。どう動こうとも総じて愚者なら、信じた道を選ぶことこそ肝要だろう」 「それと、確かに今や賊将だが……歴史に名を馳せた英傑を思えば、実に感慨深いものがある。古の〈神国〉《ヤマト》に照らすなら、さしずめマサカドやサイゴウといったところかな」 「なに、初めから民に信を問うつもりなど毛頭ない。起こすのは天下の乱ではなく一身上の私戦。奪うのは政権などに〈非〉《あら》ず、あの男の首一つだけだ」 そんな豪気な〈台詞〉《せりふ》を平然と〈嘯〉《うそぶ》くチトセ。希望などない、袋小路そのものの趨勢に聞いている俺の胃が痛くなってきた。 「ところで〈深謀双児〉《ジェミニ》と言えば……元そこの部隊長さんよ」 この際、確信犯は放っておくことにする。話の矛先を変え、アルバートのおっちゃんに気になっていたことを尋ねた。 そう、まず聞いておかなければならないのはこのことだろう。 「レストランのオーナーなんぞやっていた、その訳は?」 「市井に紛れるための偽装だな。幸い、俺の料理がヘボいのもあって、顔が売れることもなかった」 「俺やミリィと出会ったのは?」 「偶然だな。つうか、むしろこっちが驚きだぞ? まさかうちでタダ飯喰らうヘタレ無職が元〈裁剣天秤〉《ライブラ》で、しかもあいつの野望に関わってるとか……想像できるかっつうの」 ……うん、そうだな。それはごもっとも。 ただ、となると一つ見過ごせないことがある。 「その……仲良さそうな〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》とやらは、いったい誰よ?」 「……クリストファー・ヴァルゼライド。スラムから共に軍へ志願した、最も古い友人だよ。いわゆる幼馴染というやつだな」 明かされた情報は予想していたものだったが、聞いて思わず〈眩暈〉《めまい》がした。そしてなんとなく、おっちゃんが反動勢力などの長に成った経緯も悟る。 要は、道を違えたのだろう。あの英雄は光のように突き進むがゆえ、方向転換をまるでしない。恐らくどこかの局面で、二人の間に決定的な意見の相違が生まれた訳だ。 そして、他方は負けて切り捨てられた。それが目の前の男、アルバートであっただけのことであり…… 「聞くか? もういっそ、ここまで来たら全部話すぞ」 「冗談。これ以上、余計な重荷は御免だわ」 さりげなく与えられた選択肢へ、一も二もなくNOへと飛びつく。いまそれを聞いたら、本当の意味で後戻りできなくなってしまいそうだったから。 それに、まだ聞きたいことは残っている。 「最後に、あんたと赤鬼の関係が知りたい。明らかに訳ありな感じだったが……」 思い出すのは、マルスが見せた謎めかした態度。あれは、明らかにおっちゃん本人を見て言っていた言葉だ。 「なんか気づいたなら言ってくれ。こっちの方が、俺には死活問題だ」 あれは再び俺を狙うだろう。もう一度やり合った時のために、知れることは知っておくべきだった。 「予測、というか……俺もにわかに信じがたいがな」 「外見はあの通り見る影もないが。俺の見立てに間違いがなきゃ、奴とは確かに因縁がある。というか、あの独特の語り口は今でも確かに覚えているよ」 「もう十年も前になるが、帝都に有名な連続殺人鬼が猛威を振るった時期がある。狡猾な奴で、警察の網には〈杳〉《よう》として掛からず逃亡を続けていた」 まだ貧民街にいた頃、そんな世間の噂を聞いた憶えは〈微〉《かす》かにあった。だが、詳しくは知らず犯人がどうなったのかも知りはしない。それほど、日々の糧を得ることだけに必死だったのだ。 「で、軍にお鉢が回ってきたという訳だ。担当の中に、当時まだ〈深謀双児〉《ジェミニ》の下っ端だった俺もいた。一年近い根比べのような〈追跡劇〉《おいかけっこ》の末、ようやくお縄になったわけだ」 「まあそれも、当時の先代殿が率いていた〈裁剣天秤〉《ライブラ》の手を借りてどうにかという有様だがな」 「その事件については、私も一応知っている。着任後、過去の報告書にはすべて目を通したからな。それに珍しい事件でもあった」 「確か……捜査が混乱したのは、〈信者〉《シンパ》の多さが原因だったはず。〈匿〉《かくま》ったり、熱烈に協力した者が何人もいたらしい」 「妖しい〈新興宗教〉《カルト》の教祖だとでも?」 「似たようなもんだ。英雄と殺人鬼の違いは、振りまく死が大衆の利になるか、個人の利になるかだけだよ」 「山と積んだ死体が勲章に見えた、というわけか」 つまり、凶行が凄すぎて魅力的に思えるほどの殺人鬼だったというわけだ。社会の役に立たないまま讃えられる人殺しなど、最悪の部類だろう。 「当時のことを思い出すと、今でも気が滅入る。正直、忘れちまいたい事件の筆頭だ」 「そして、グランセニック邸を襲ったあの鉄の化け物……物の考え方や話しぶりの癖が瓜二つだった」 「俺の手で死刑台に送り込んでやった、〈殺人鬼〉《あいつ》にな」 「……愉快じゃないが、要するに?」 「奴らの元は、我々と同じ人間ということで──」 「そう──〈人造惑星〉《プラネテス》というのは、元来そういうものなのよ」 その時、巡らせた連想よりも冷ややかな声が疑問の答えを示していた。 ヴェンデッタもまたこの場所に案内されていたのだろう。その姿を見てようやく、気絶する前に見た彼女の姿を思い出す。 「〈殺塵鬼〉《カーネイジ》のみならず、〈氷河姫〉《ピリオド》もそう。人間としては、既にこの世に在らざる亡霊よ」 なら、おまえも同類ということか――と、以前の俺なら嫌悪混じりに毒づいていただろう。だが今は、どうしてかそんな気がまるで起きない。 こいつが誰かということを聞きたくないような……とにかく、それは置いておこう。 嫌な予感がするので、言葉の矛先を変える。 「つくづく俺の言う通りには動きゃしねえんだな、へそ曲がりが。爺さんの〈工房〉《ところ》へ行けって言っただろうが」 「あなたこそ、絶望的に血の巡りが悪いのね」 「私を逃し、〈騎士〉《おとこ》の義務を果たしたつもりなんでしょうけど。全くもって無意味な徒労だとは気付かなくて?」 「もう〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈く〉《 、》〈り〉《 、》は読めたのでしょう? なら敵が私を単独で狙うことに、今更どんな意味があると言うのかしら」 聞き分けのない子供に噛んで含めるように、淡々とそう説かれたのは……なるほど確かに正論だった。 敵勢力の狙いは、俺でもヴェンデッタでもない。〈俺〉《 、》〈と〉《 、》〈ヴ〉《 、》〈ェ〉《 、》〈ン〉《 、》〈デ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈タ〉《 、》にあるのだ。絶えず窮地に俺を追い詰め、ヴェンデッタに死蔵された〈死想恋歌〉《エウリュディケ》とやらの力を引き出させるために襲ってくる。 よって、ヴェンデッタ自身は何処にいようが関係ない。安全な場所という概念自体がもはや無意味だと、分かってはいる。 分かってはいるが、しかし。 「理屈で全部納得できると、おまえ思っているのかよ」 「無理でしょうね。あなた、独善的だもの。楽かどうかで判断するから、色んなものに巻き込まれて……傷だらけ」 「けど……その甲斐あって、見たかったものは見れたので良しとするわ」 溜息をつく俺を前に、ヴェンデッタは薄く微笑している。 「何のことだか……」 そういや、意識が落ちる間際に何事か言われた気もするが……その辺の記憶は〈曖昧〉《あいまい》で思い出せない。 「安心したまえ、ゼファー」 横合いから聞こえたのは、またしても馴染みの声。煤で汚れた背広姿がそこにいた。軽い傷はあちこち負っているようだが、無事だったのは幸いだ。 「ここは今、レディにとって地上の何処より安全な場所だよ。なぜなら、この――」 「幼女性愛に血迷った奴隷がいるから、か?」 「そこは、愛に生きる苦悩の騎士と言って欲しかったねぇ」 「非常時の盾ぐらいには使えるのかしら」 「吊るしてサンドバッグの代わりにはなるかもな」 いつもの小芝居じみた流れの空気に、頬が自然と緩むに任せる。 「まあ、信用する程度ならできるんじゃねえか? おまえ、俺たちを庇ってくれたし」 そう苦笑した〈途端〉《とたん》、ルシードが息を止めるのが伝わってきた。ひび割れた笑顔の繕いはたちまち剥げて、奴がその下に隠していた憔悴と〈慙愧〉《ざんき》を覗かせる。 「なんというか……やれやれ、きついね。許されるのも」 「……君はまだ、僕を信用に足る男だと言ってくれるのかい?」 「本意じゃねえことぐらい、阿呆でも判る」 軍部、それも総統直々の命令。大方まあ、そんなところ。 つまりは、この国に生きる人間であれば誰もが逆らえない強制力だ。まして商会が軍部との〈繋〉《つな》がりがあれば尚更だろう。 それでもこいつは、土壇場で俺を売ることを拒もうとした。生きていく上での困難と苦痛を、ぎりぎり一杯選択したのだ。 「それが判らないほど〈餓鬼〉《ガキ》じゃねえつもりだ。最後の最後まで迷っていたってこともな」 もしも俺に同じ立場と〈し〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈み〉《 、》があったとしたなら、果たして同じ決断ができていただろうか。 何度も〈決断〉《いたみ》から逃げてきた敗残者だからこそ、そんな風に思いが至る。だから、ルシードを尊敬こそすれ責めるような気は全く起きない。 「ありがとう、ゼファー」 「再び友人と呼ばせてもらうには、まだ〈雪〉《そそ》ぐべき汚名は残されているだろうが……せめて祝福だけはさせてもらうよ」 「――君の行く道に幸あれ、〈銀狼〉《リュカオン》。その結末が安らぎに満ちていることを、僕は祈るよ。 約束通り、巨乳を選んでくれたようだし」 「最低だ」 などと、小芝居を挟みながら壁に寄り掛かって苦笑しつつ。 罪を許された〈安堵〉《あんど》と……なぜか取り残されたような寂しさを、ルシード・グランセニックは口元に浮かべていた。 「それで、ルシードの身柄だがな。名目上は捕虜という形で〈反動勢力〉《おれたち》が預かることになった」 「かえって気が楽でいいよ。表に戻れば、公的に君たちの敵へ与しなくてはならない身の上だしね。板挟みはもう御免だ」 「事がすべて収まった時は、〈商会〉《うち》で色々融通させてもらうよ」 ルシードの去就は決まった。後は――と言わんばかりの食い入るような視線で、それまで沈黙していたチトセが俺へ向く。 「それでゼファー、おまえのことだが──」 そして、〈真摯〉《しんし》な視線を向けながら。 しかしその指先に、万感の意を籠めて。 「私と一緒に来い。おまえの力が、必要だ」 かつてないほど真っ直ぐな、虚偽を許さない勧誘の言葉に思わず俺は苦笑する。 だから、本当に……そういう想いが〈眩〉《まぶ》しくて、重たいのだと言っているのに。 そんな態度を見せるたびに……一人の男を惑わせてる美しさ、まったく自覚して欲しい。 「……相変わらず、単刀直入つうか」 「漢らしすぎるだろ。頼むから、ちょっと待ってくれ」 「この期に及んで何を迷う? もはやそんな時間はない」 「闘うべき敵は一致している。生存確率の観点でも悪い話じゃないだろう。何より私は、おまえと再び一緒になれて嬉しいしな」 「何より、死なせたくないのだよ……もはや単独で乗り切ることなど不可能だ」 これ以上ないほど〈真摯〉《しんし》な言葉を、火のような意思に乗せて真っ直ぐぶつけてきた。分かっている、その正論も……語ってくれる思いの丈も。 おまえと私なら大丈夫だと、信じてくれるその言葉も、涙が出るほどありがたい。 ここまで言われて男〈冥利〉《みょうり》に尽きない奴がこの世にいるだろうか。もしもいるとしたなら、そいつは間違いなく男の〈屑〉《くず》だ。事を成す意欲よりも失敗の損失だけを怖れ、女を守るとも言えない臆病者。 だから── 「待てって言ってるんだよ……」 そんな〈屑〉《おれ》に、出来ることなど何もない。少なくとも、英雄を相手に立ち向かうなんてことは。 そう、相手が魔星だけならばまだその案も考えた。何とかできるかもしれないと、希望的観測を口にすることも出来た。だがあの英雄、ヴァルゼライドだけは話が別だ──疑いなく共に死ぬ。 あれは破格だ。敵わない。伝聞だけだったなら、まだ無知ゆえの蛮勇を奮う余地もあったはずだが、俺はこの目で見てしまったんだ。神話の中にしか存在を許されないはずの奇跡が、現実に具現化したあの光景を。 俺とおまえで? あいつに勝てる? 無理だ、不可能だ。絶対できない。 そして、出来ないと思っている俺の〈末路〉《おわり》に……おまえを付き合わせたくもないから。 「おまえ自身のことは、俺個人としては大切に思っている。憧れだ。尊敬してる。だがそれは……」 「失敗して、私に責任を押し付ける理由にはならないと? そんなことは訊いていない」 「確率を提示したのは、おまえの気を引くチップだよ。傍にいてくれるかどうかだけが、私にとっての大切だ」 だから──ああ、くそッ。どうしてそうやって、おまえは俺の逃げ道を尽く塞ぐんだよ。 女として人として傷つけぬようにと口にした、せめてもの気遣いさえ無用だと言い切られてしまった。ならばもはや、言うべきことは一つだけ。情けなく言葉を吐く。 「俺にはとても無理だ。おまえには付いていけない」 「おまえなら出来る。私が保証する」 「どうしておまえに、そんなことが言えるんだよ」 「当然、信じているからだ。ゼファーという男のすべてを」 「そうやって諦めばかり口にして、なのに一度やってみれば大したもので、私の鼻を明かしてくれるその在り方……涙も、嘆きも、傷も、痛みも全部まとめて欲しいと思う」 「なぜなら──」 そこで、ゆっくりと彼女は眼帯を指差して。 「私は誰よりも、それを知っているからな」 「おまえとの闘いで、生涯唯一の敗北を喫した時から」 眼球を強制的に掴まれたかのように、視線が吸い寄せられて離れなくなった。目の前に迫る秀麗な眉目に落とされた、一点の欠損……厳めしい鋼色の眼帯へと。 古傷を指しながら、迷いなく繰り返される言霊の揺るがなさに圧し潰される恐怖さえ感じてしまう。もはやそれは、俺にとっては〈呪詛〉《じゅそ》にも等しい。 「あの日おまえに〈抉〉《えぐ》られたこの傷が、忘れることなく憶えている」 そして、重なった。夜空を焦がす炎とむせ返る血臭の中、かつて置き去りにしてしまった女の残像と――目の前にいるチトセとが。 家族を無くした少女を選び、別の何かを捨て去った……その代償が目の前に改めて示される。 舌がもつれて言葉が出ない。意識は五年前へと逆行し、俺を時の迷路に〈彷徨〉《さまよ》わせた。 「無理、駄目、出来ないと………話の焦点が違うわ、ゼファー」 震える横顔へ〈囁〉《ささや》きかけてきた少女の声は、女神のように優しげで―― 「自分の力が及ぶか及ばないかは問題じゃない。あなたが、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》やれるのかどうかという話よ」 「大切に思っているなら、どうしてそれを証明しないの。私は祝福してあげるわよ? おめでとうって、心から」 ――悪魔のように容赦がなかった。 「ッ……」 ゆえに、今度こそ俺は完全に言葉を奪われる。正論という刃で心臓を〈抉〉《えぐ》られ、〈空洞〉《うつろ》が生じたままで塞がらない。自己嫌悪は、もはや自死を望む衝動すら感じさせた。 空白の思考を塗り潰していくのは、ただ――ここには居たくないという逃避願望。 「……ゼファー」 あたかもヴェンデッタの言葉に触発されたかのように、チトセの手が虚空を〈彷徨〉《さまよ》う。放心したようなその声同様、虚ろな動きで。 「私はな、違うんだ……」 白い、指先が―― 「おまえが考えているほど、強い女などではなく……」 俺の手へと、伸びてきて―― 「――――――ッ!!」 そんなことはない──と、続くはずの言葉を言わせないため。否定するかのように背を向けた。 狂おしい絶叫を噛み殺すやいなや、俺は本能が命じるままに最速の逃走手段を採っていた。反射的に星光を起動、体能力を限界値まで引き出しながらヴェンデッタを抱えて走った。 出口まで一直線に突っ切り、見張りの上を飛び越えて逃げ出す。追いついてくる者は、もはや誰もいなかった。 文字通りたった一人の女に背を向け、ゼファー・コールレインは逃亡したのだ。 「見直したと思った矢先に、早速失望させてくれるわね。手のかかる負け犬だわ……本当に」 苦笑するような皮肉は腕の中から聞こえた。〈咄嗟〉《とっさ》にこいつを抱えて逃げたのは最大の武器を手放すまいという、染みついた習性ゆえだろうか。それとも、何かの情でも働いたか。 あるいは、チトセの傍に〈死の女神〉《ヴェンデッタ》を置いておくのを嫌がったか。……答えは二度と分からない。 「泣いてたわね、あの子」 「泣いてない……あいつは、泣いたりはしねんだよ。そんな格好いい女なんだよ」 「涙を見せずに泣く人間だっているのよ。そして、好きな相手の前でだけ弱くなりたい女の子もまた……」 「――本当に馬鹿ね、ゼファー」 突風に千切れる切ない〈憐〉《あわ》れみの〈呟〉《つぶや》きが、胸を〈抉〉《えぐ》る〈慙愧〉《ざんき》の痛みを深くさせた。噛みしめるのはただ、自分自身の情けなさ。 チトセの視線が、哀切極まる訴えが脳裏から離れない。そう……俺はかつても一度こうして、あの白い手を置き去りにしてしまったのだ。 すまない、すまない、心の底からすまないと思う。だが同時に、チトセから遠ざかるこの足は一度たりとも止まる気配を見せはしなかった。所詮これが、俺の骨身に染みついた負け犬の性というやつなのだろう。 俺は〈屑〉《くず》だという、数えきれないほど繰り返してきた諦観と居直り。道行くすべてての人間から唾を吐かれて構わないし、むしろそれこそが望ましい。 魂までも腐り落ちていくような、馴染んだ堕落の実感。再びそれに浸された心を麻痺させながら……俺は、確かに目覚めかけていたはずの胸の〈何〉《 、》〈か〉《 、》に眠れと命じた。  ――そして帝都の最も深い暗闇に、今宵も秘密の靴音が静かに響く。 「マルスとウラヌスを引かせたか」  己の前で立ち止まった靴音の主を、〈仄暗〉《ほのぐら》い培養液の光越しに〈一瞥〉《いちべつ》した視線がある。  〈迦具土神〉《カグツチ》壱型。滅び去った今や伝説となった神国・〈日本〉《ヤマト》が地上に唯一遺した、〈原初〉《オリジナル》の〈人造惑星〉《プラネテス》――その残骸が笑みを浮かべる。  不完全な肉体に幽閉されたその精神は、だがそれゆえに生誕時よりも巨大な自我を有するに至っていた。  退行した人類史が文明再編に要した千年期は、この〈人〉《 、》〈造〉《 、》〈の〉《 、》〈神〉《 、》にとって己が何者であるのかという思索を結実させるに充分な時間であったといえる。  すなわち、生まれながらにして人類に優越する上位種たるべき結論を。  己がこの不具という牢獄から解放された時、地上の支配を己が創造主らへと明け渡す。いいや、必ず移譲させよう。  千年をかけた自己定義が導く明白な運命を実現すべく、カグツチはこうして旧文明の〈残滓〉《ざんし》に漂いながら待ち続けているのだ。  運命の車輪が回る、その瞬間を──眼前に立つ英雄と共に待っている。 「目的は達した。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》と〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の同調率が急激に上昇したことは、俺よりも直接的に体感できているはずだ」  クリストファー・ヴァルゼライドは、厳かに告げる。  己に大望を叶える力を与えた代わり、来るべき未来における未曾有の災厄と化すことが約束された星の王へ。  己が討ち滅ぼすべき宿敵を、静かに見定め〈睨〉《にら》むのだ。  古来より一代の野心に身を焦がす者たちは、悪魔との契約を交わしたという。そして例外なく破滅し地獄に落ちた。  だが、この男は違う。魂を売り渡した悪魔にいずれ自ら立ち向かい、逆に地獄へ追い落とすつもりでいる。  常人ならばありえぬ、そんな狂気にも等しい苛烈な気概。それは今宵も、不屈不敗の長身に〈横溢〉《おういつ》していた。 「──無論だとも、〈天霆〉《ケラウノス》」  人工の羊水に気泡が踊る。〈微〉《かす》かな喜悦を浮かべたカグツチの口元より漏れたものだ。  〈悪魔〉《おのれ》をいつか滅ぼさんとする、掟破りの〈契約者〉《ファウスト》……〈天霆〉《ヴァルゼライド》の隠さぬ意志は、とうにその相手たるカグツチも知悉している。  共にその上で手を結び、共にその上で勝つのは己であると〈微塵〉《みじん》たりとも疑ってはいない。 「出力の上昇のみならず、より自然な同調が両者には可能になっている。これは紛れもない進歩だろう。  因は恐らく〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の側であろうな。〈月天女〉《アルテミス》には、元々自発的な変化も成長もありえぬ。ゆえに今や、死せる冥府の〈死想恋歌〉《エウリュディケ》なのだから」 「死者は自ら変われない、か……」 「それを言うなら、人間だとてそうだろう? おまえという破綻者だけは例外なのだが──おや、これは」  不意に、カグツチの〈双眸〉《そうぼう》が夢見るように遠く煙った。 「……ほう、今もまた上昇したやもしれんぞ。我らは何もしておらんのに、奇妙なことだ。さてどうしたかな」 「やはり、不確定極まりないか。  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》に限らず、この技術体系そのものが」  対照的に、ヴァルゼライドが漏らしたのは徹底して現実を見たゆえの感慨だった。 「膨大な試行錯誤をもとに、再現性を備えてこその科学であり、文明の恩恵と呼べるものになろう。未だどれもが試作のままでは、支配も制御も叶うまい。  まして、〈星辰体〉《アストラル》そのものとなれば……」 「まあ、賭けかもしれんな。しかしそれこそ人生だ。  己も、おまえも、生涯という不確定要素の中で存在している。どこかで無謀に挑戦しなくば、何も出来ずに終わるだろうさ」  その言葉に答えず、ヴァルゼライドは暗闇しか見えぬ頭上を仰ぐ。〈天蓋〉《てんがい》の上にある帝都の夜を、その〈夜〉《 、》〈の〉《 、》〈彼〉《 、》〈方〉《 、》〈に〉《 、》〈浮〉《 、》〈か〉《 、》〈ぶ〉《 、》〈光〉《 、》を浴するように。 「ならばこそ、必要なものはただ光だ。歴史の闇に埋もれた失伝技術を再び照らす、圧倒的な文明の暁光が要る。  それこそが、次代の繁栄を人類に約束する希望となりうるだろう。だからこそ俺は、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈光〉《 、》をこの手に掴み、帝国の未来へと捧ぐと決めたのだ」  決然たる意志に満ちた英雄の言葉に、しかし〈硝子〉《ガラス》の中の神星は冷笑を返した。  誰かのために、何かのために。それは結構だが、しかし。 「人間とはつくづく矛盾の徒だな。貴様ほどの傑物でも……いや、逸脱すればこそなのか。 希望に至らんとするがために、新西暦の破滅を呼ぶとは」  それに対し、ヴァルゼライドの声に動じる気配は〈些〉《いささ》かもない。  そう、否定さえもしない。 「そうだ。明日の希望を生み出すために、今の世界を敵に回そう。その過程で虐殺者と未来〈永劫〉《えいごう》呼ばれることも覚悟した、すべての咎を必ず背負う。  〈第二太陽〉《アマテラス》を、この地に引き摺り下ろすがために」  〈第二太陽〉《アマテラス》――現在の世界における主要エネルギー源であるアストラルを放出する謎の光源体。  英雄が宣した言葉の意味は、それを手中に独占しすべてを解析するという目的の開陳。同時に、それをもって帝国が世界の覇者たらんとする宣戦布告であった。  そうなれば、禁断の秘密と権益を巡り未曾有の大戦が欧州……いや全世界を戦火に巻き込むだろう。なにせアストラルの発生源そのものを手に入れるというのだから、他国が放っておくはずもない。  いくら移動距離という概念によって大戦争が起きにくい新西暦においても、それは最大の起爆剤になりうる可能性を秘めており……  その次なる闘いに、しかしヴァルゼライドと帝国は勝利するだろう。他国に先駆け編成を終えた、〈人造惑星〉《プラネテス》と〈星辰奏者〉《エスペラント》で構成された古今無双の軍団によって数多の勝利を重ねるはず。 「ゆえにこそ、己は貴様へ手を貸した。共に目指す目的は同じ、〈第二太陽〉《アマテラス》を母なる地球へ誘うがため。  次元上の特異点と化した日本国を、二度目の〈大破壊〉《カタストロフ》により三次元へと呼び戻す」  対して、カグツチの大望は降ろした〈第二太陽〉《アマテラス》──異次元に〈繋〉《つな》がる孔を、〈本〉《 、》〈来〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》に戻すことが目的だった。  かつて旧暦を崩壊させた〈大破壊〉《カタストロフ》により発生した、特定点。  すなわちその正体こそ、かつて滅び、次元の〈向〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈側〉《 、》へ墜ち現象そのものと化した〈大和〉《カミ》の国であるのだという真実と共に、〈邁進〉《まいしん》する。 「そして、事を達するその時に――」  〈超人〉《カグツチ》の黒瞳と〈英雄〉《ヴァルゼライド》の碧眼とが、〈硝子〉《ガラス》越しにぶつかり〈軋〉《きし》みを上げる。  幻聴が聞こえるほどの圧力が、音もなく空間の闇に満ち満ちた。 「我ら両名、互いに雌雄を決する時」  そして、来るべき眷星神と人類との生存闘争……その避けられぬ聖戦の誓いを互いに行う。  不思議と敵意はそこになく、奇妙な連帯に結ばれた〈友情〉《きずな》めいたものさえ漂っている。  我が宿敵よ、貴様は〈俺〉《おのれ》が必ず討とう。  聖戦にて決する雌雄を二人の怪物は共に光を滾らせながら望んでいた。 「では戻るといい、英雄。悲願のためにも、要となるのは〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。その構造を少しでも暴いておくに〈如〉《し》くはない。  より狂おしく、二人を奏でさせるがいい。冥府の底に鳴り渡る、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の血まみれの調べを」  それ以上に交わすべき言葉は、もはや互いに残っていなかった。  黙したまま視線で〈頷〉《うなず》きを交わし合うと、二人は別れ、それぞれの場所に戻っていく。  復活の時を待つ神星の使徒は、再び〈硝子〉《ガラス》の中の夢見る眠りに。  運命を背負った英雄は、再び暗闘劇の渦中へと。  〈道〉《 、》〈化〉《 、》〈は〉《 、》〈遂〉《 、》〈に〉《 、》〈踊〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》――シン・ランスローは、その一報を訊いた瞬間に小躍りしたくなる衝動を堪えた。  それは彼個人の明確な勝利であったからだ。帝国軍にあって、現総統に匹敵する存在感を誇る〈裁剣〉《アストレア》――チトセ・朧・アマツへの。  だが彼個人に、〈大和〉《カミ》に連なる〈貴種〉《アマツ》の血統への憧憬あるいは劣等感といった特別な好悪は……実はまったく持ってはいない。  それも、ランスローの出自たる〈故〉《 、》〈国〉《 、》を思えば異端とも言えた。彼が帝国軍内において秘め隠してきた、本当の所属国を思うならば。 「これで私もようやく長い雌伏が報われる。本国の国益に寄与できそうで、何よりです。 あなた達は引き続き、次の指令に移行してください。アルバート殿へのパイプも使う場合がありますので、いつでも身軽に動けるよう心掛けていただければと」  眼鏡の下に浮かべた柔和な微笑は、一礼してから退出していく小柄な〈双〉《 、》〈子〉《 、》〈の〉《 、》〈少〉《 、》〈女〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》へと向けられていた。 「我ら、〈大和〉《ヤマト》の遺した御心がままに」「我ら、〈大和〉《ヤマト》の遺した御心がままに」  ティナ・クジョウとティセ・クジョウ。  アルバート・ロデオンのレストランで働くウェイトレス二人は、主人同様に裏の顔を有していた。  ただしその所属は〈反動勢力〉《レジスタンス》ではない。篤い信仰心を宿したその言葉が示すように、彼女たちはカンタベリー聖教国の密偵という暗い一面を持っている。  千年前に栄華を誇り大いなる文明の片鱗を遺した旧日本への信仰は、上流下流問わず人々の間でかなり根強い。それはもはや、この新西暦における世界宗教となっている。  その最右翼の国家が、帝国とはドーバー海峡を隔てて対峙するかの島国である。  だが先にも触れたように、ランスローは聖教国民でありながら彼らの掲げる〈極東黄金教〉《エルドラド・ジパング》には欠片ほども感化されていない。いわば無神論者という所であり、好意的に見るならば徹底した現実主義者であった。  それゆえに―― 「チトセ・朧・アマツ少将。貴官の敗因は、この〈帝国〉《くに》の裏を見透せなかったことです。いえ、正確に言うのならヴァルゼライド総統〈の〉《 、》〈み〉《 、》を絶対視しすぎたことが悪かった。   あの方の存在を知っていれば……あるいは、私のように手を差し伸べられていたなら、むざむざ無駄な道化を演じることもなかったでしょうに」  現在の帝国内における、彼の主人たるカグツチという存在に対しても……思うところは畏敬などではなく、ただ実利である。  そう、ランスローはマルスとウラヌスがゼファーへ差し向けられる直前に、密かに魔星からコンタクトを受けていた。  理由は恐らく、聖戦の相手であるヴァルゼライドを意識してのことであろうが、しかしそんなことはどうでもいい。  彼にとって重要なのは、それがどれだけの利益を生み出すかということにある。  まずはカグツチ自身が旧日本の遺産ゆえの、本国へもたらす未来の莫大な技術的優位はいったい、如何ほどになるだろうか?  それは、技術面のみならず宗教面でもだ。聖教国からすれば彼はいわゆる現人神にも等しく、そんな存在とのパイプを持つだけで帰国後の栄達は望みのままとなるだろう。  もう一つは、帝国内における現在の実利面。実質的にこの国を左右する影響力を有したあの怪物と、その手札である魔星たちは世界地図をも塗り替えかねない戦力を保有しているのは間違いなく。  対ヴァルゼライドで連動する、チトセとの密約を反故にしたのもひとえにそれを秤にかけた打算の感情ゆえである。というより、もはや比べるまでもない。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》との協定がもたらす利など、その前では木っ端同然。使い古した新聞紙だ、一考する価値もない。  そして…… 「総統閣下。これで〈貴方〉《あなた》の両目は塞がれた」  帝都でチトセの〈反乱〉《クーデター》と対峙するヴァルゼライドは、その鎮圧に注力せざるを得なくなる。  少なくとも表向き、民衆や部下に対して良き総統を演じなければならなくなる。それがどれほど少なくとも、必ず確実な隙が生まれるだろう。  それを突けば、彼個人の卓越した軍事采配をほんの少し麻痺させることも可能なはず。〈畢竟〉《ひっきょう》拡大しきった各戦線は大きく崩す先駆けにもなれば、他国は当然肥えていく。  聖教国との戦況も変わるとなれば、俄然やる気も出てくるものだ。  兵のため、帝国の未来のためと、人情に訴えつつ〈睨〉《にら》まれながら〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》言葉で〈攪乱〉《かくらん》する仕事からも解放される……おお、素晴らしい!  チトセとヴァルゼライド。どちらが勝とうが、ランスローと聖教国にとっては利しかない。まして、帝国の本体が英雄ではなく魔星の王であれば。 「面白い。実に面白くなってきました」  いっそ、カグツチを〈神輿〉《みこし》にして──本当に彼を神と仰ぐのも一興かと。  帝都の闇に、シン・ランスローの〈嗤〉《わら》いが滲んで溶けた。 ハンプティ・ダンプティ、塀の上。 ハンプティ・ダンプティ、落っこちた。 王様の馬と、王様の家来。 みんな揃っても戻せないもの、なぁんだ? 「答えは──」  答えは、もう知っている。  だから口に出来ぬまま、ずっと心に沈めてきた。  破滅の封が解かれていく。  我らは再び〈繋〉《つな》がった。  〈遺伝子〉《アンテナ》を起動します。  〈接続先〉《チャンネル》を調整します。  〈同調元〉《ヴェンデッタ》が見つかりました。〈情報通信〉《ダウンロード》を開始します。  〈受信中〉《ローディング》、 〈受信中〉《ローディング》、 〈受信中〉《ローディング》、 〈受信中〉《ローディング》……  冥府を〈降〉《くだ》れ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。〈絶望〉《しんじつ》の底へと向かい、声を張り上げ墜ちて行け。 「ガアアアアアアアァァァァァッ────!?」 ──そして、刹那の夢から目を覚ます。 冷たく無慈悲な現実が熱い激痛を押し付けた。 「づぅッ……ガ、ァ──」 肩から脇腹へ向け、〈袈裟〉《けさ》に走った一直線の深い裂傷。骨肉を貫通した〈煌〉《きら》めきは紛うことなき致命傷で、しかしその恐ろしさは喰らった瞬間訪れた。 駄目だ、死ぬ──身体の中を〈光〉《 、》〈が〉《 、》〈暴〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈止〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 獲物を引き裂いた〈途端〉《とたん》、激しく分裂と反発を繰り返して反応し続ける光刃。もたらされる痛み、痛み、痛みの渦。発狂しかねない激痛の嵐が、何よりもまず俺の心を根こそぎ潰しにかかっている。 ああ、理解できた。ヴァルゼライド総統閣下の掲げる〈星光〉《ほし》は、単に束ねて放つだけの光や熱では断じてない。 あれは、もっと恐ろしい〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》だ。あらゆる命を滅亡させる雄雄しく美麗な死の輝き── のた打ち回り、無様に〈血反吐〉《ちへど》を〈撒〉《ま》き散らす。堂々と見下ろす影は鋼の視線で俺を射抜いた。 「下手に動くな。寿命を縮める。身勝手な物言いだという自覚はあるが、死なれてもまた困るのだ」 「よって、このまま確保させてもらう。運命が終わる時までそのまま眠っているがいい」 それが凡人である俺にとって唯一無二の救いであると、英雄は静かに告げた。確かに、まさしくその通り。 心も身体も再びこうしてへし折られた。勝負はとうについたのだ。そして今、奇怪な魔光の刃によって狂いかねない痛みの連鎖を、深く焼き付けられている。 逆転の目など、誰が見ても何処にもなくて…… やはり〈自分〉《ゼファー》は〈屑〉《くず》のまま…… 決意したつもりになって、生まれ変ったつもりになって、浮かれて、はしゃいで、その挙句が〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈通〉《 、》〈り〉《 、》こんなもの。 駄目な男の決意など所詮ゴミだと証明された。ならばもはや、抗う理由がどこにあろうか? 英雄の語る言葉はどこまでも現実的で、果てしなく正しいものとして押し付けられる。 そう、だからこのまま意識を切ろう……と。 「いいえ、それはどうかしら」 敗北の揺り〈篭〉《かご》へ堕ちる寸前、変わらない少女の声が薄れる視界を〈繋〉《つな》ぎ止めた。 「ヴェン、デッタ──」 見上げればそこには、俺を庇って凛と立つ小さな背中が〈佇〉《たたず》んでいた。何も退くことはないのだと、真っ向から相手を見返し言葉なく叫んでいる。 「立ちなさい、ゼファー。まだ〈一〉《 、》〈撃〉《 、》〈も〉《 、》〈ら〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》?」 「何も終わっていなければ、始まってすらいない。本当の勝負はここからよ」 「な、ぁ……?」 ……そんな、呆れるほどぶっ壊れている声援に、過去最大の忘我へ囚われた。 は? いや、なんだよそれ── おまえアホか? バカじゃねえのか? 「ふざ、け……ッ」 濁った血にむせてしまい罵倒の声が出てこなかった。どうだこら、弱るこの姿を見やがれ馬鹿が。なのに揺るぎない想いとか、吐くんじゃねえよ撤回してくれ。 ほら、見ろよ。俺だけじゃないだろう? おまえの正気を疑ってるのは英雄どころか魔星もだ。 こんな様の俺を見て、まだそんな言葉を吐く神経。心底理解できないと、この場の誰もが感じているのに…… 「だってそうでしょう? これでお膳立ては整ったわ」 「あなたの真価が発揮されるのは、泥にまみれて喘ぐ後。痛みと嘆きが深まるたびに、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》は琴を弾くのよ。深く悲しく鮮烈に……」 俺に告げるのは、そんな狂った真実。 正しかろうが本当だろうが絶対に認めたくない事柄を、容赦なく突きつける。そしてその上で、強く信じる。自分自身などよりも、こうして転がる負け犬をだ。 「なぜならそれが“逆襲”と呼ばれるものの本質だもの。弱者が強者を滅ぼすからこそ成立する概念は、ゆえ逆説的に、勝利の栄華を手にしてしまえば二度とそれらを起こせない」 「あなたは負け犬、呪われた銀の〈人狼〉《リュカオン》。常に敗亡の淵で嘆きながら、あらゆる敵を巨大な〈顎門〉《あぎと》で噛み砕く、痩せさらばえた害獣でしょう?」 「眼前には輝く英雄。勝利を求める覇者がいる。すなわちそれこそあなたの獲物、喰らい滅ぼす光なら……」 そのおぞましさを、悲しくも誇りに変えて── 「さあ、立ち上がりなさい。今ならきっと何より激しい〈慟哭〉《どうこく》で、嘆きの琴を奏でられるわ」 ゆえに、いざもう一度──いいやそれこそ何度でも。 勝者の栄光を〈蹂躙〉《じゅうりん》するまで、〈塵屑〉《ごみくず》に変えるまで、立ち上がって〈涎〉《よだれ》を垂らし憎い憎いと〈吼〉《ほ》えるがいい。それが俺の本性であり、逃れえぬ運命なのだとヴェンデッタは神託を授けるように囁いている。 覗き込んだ瞳の奥に宿るのは、いったい如何なる情念なんだ? 愛や信頼が垣間見えてしまうことが、尚更困惑を掻きたてる。 それは、久しぶりにこいつの本質へ触れたことに対する戸惑いで。だからこそ、一つの事実を思い返さずにいられなかった。 そう、ヴェンデッタもまた魔星。その精神構造に限っては人類をどこか逸脱した部分がある マルスやウラヌスと同じく、たった一つの情念へ非常に素直な使徒なんだ。 英雄もまたその深い内情を見たのだろう。射抜くような視線を寄こす。 「なるほど、〈惨〉《むご》たらしい。どの口でそんな言葉を吐いているのか、俺としては不思議でならんよ」 「分かっているはずだ、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。その男は〈被〉《 、》〈害〉《 、》〈者〉《 、》なのだと。我らの聖戦に巻き込まれた〈憐〉《あわ》れな琴弾き……誰の因果でそうなったのか知らぬなどとは決して言わせん」 「おまえに選ばれたがゆえ、今もそうして苦しんでいる。只人のまま終われた未来、摘み取ったのはいったい誰だ?」 切っ先を向け、少女を詰問する総統の言葉は……皮肉にも慈悲に満ちたものだった。 言葉通り、何も違わず、ヴァルゼライドの発言はすべてが的を射ぬいたもの。ならばこそ傷ついた俺に代わって言葉を放つ。 矛盾しているようではあるが──ゼファー・コールレインもまた、本来は彼が守るべき帝国の一員なのだから。 「恥があるというのなら今すぐ解放してやるがいい。無理ならいっそ、眠らせてやれ。おまえの言葉は地獄に導く亡者のそれだ」 「だから苦難より遠ざけて? 何事もなく安穏と? 〈傲慢〉《ごうまん》ね、そういうところはさすがだわ〈天霆〉《ケラウノス》。神話通りの最高神よ」 「大望を抱かなければ人は何にも成れやしないと、あなたは勝手に決め付けている。いいえ、むしろそれが嫌なんでしょう? 何事もなく生きている人間をどうしても好きになれないから」 「強者で孤独で背負いたがり……そんな人に用はないの。ええ、誰が選んでやるものですか」 言いながら、突きつけられた刀身を彼女は優雅に、恐れることなく手で払った。 おまえは駄目だ、〈趣〉《 、》〈味〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。クリストファー・ヴァルゼライドという英傑を前に明確な拒絶を示す。 「お呼びじゃないのよ、英雄さん。宿敵と仲良く二人、ご大層な信念を仲良く語り合ってなさい」 「そして、彼を見くびらないで。あの子は必ず立ち上がるわ」 「そう、ずっと昔から〈私〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》は知っているのよ」 「────、──」 〈受信中〉《ローディング》、〈受信中〉《ローディング》、〈受信中〉《ローディング》、〈受信中〉《ローディング》…… 思い出すな──思い出せ。 何かが激しく胸の中で揺らめいている。恐怖も苦痛も健在なのに、意思が再び四肢に力を宿し始めた。不思議なビジョンを〈垣間〉《かいま》見るたび、魂に熱い火を取り戻していく。 それが如何なる力を持っているのか……分からないのに、気づけば歯を食いしばり身体は地を踏みしめ始めていた。 震える指が〈刃〉《きば》を強く、こぼれないよう握りしめる。 「私が愛する男性は、情けなくて、傷だらけで、いつも何かに〈怯〉《おび》えているのに……そんな自分が大嫌いなどうしようもない男なの」 「それでも、震えながら決めた想いに対してだけは──」 〈■■■〉《マ■ナ》、〈■■■〉《マイ■》──そうだ。立てる男になるのだと、俺は誓ったはずだから。 君のために再起すると心から思えたがために、そう。 「答えを形に出来ると、私も等しく信じているのよ」 その言葉に応えるべく──いざ、選ぶ選択肢はただ一つ。 “勝利”ではない。“敗北”は嫌だ。“逃亡”なんてできっこない。俺はちっぽけな男だから、華々しさや栄光なんて形に出来ると思えないんだ。英雄を相手にして、決意の多寡で勝負できるはずもない。 激痛にひたすら耐えて、断裂していく筋繊維の悲鳴を耳に、ああそれでも──〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》と。 涙の雫を振りまきながら、胸に抱いた誓いとやらを口にするというのなら。 「──踏み〈躙〉《にじ》ってやる」 貴様らが最も嫌がることを、最悪の時と形でぶちまけてやればいい。 敗者の一撃、すなわち“〈逆襲〉《それ》”を選ぶしかないだろうと、決めたんだッ。 「同調率がここに来て……いったい何が」 得物を構え、星光を再発動した俺の姿にヴァルゼライドが瞠目する。だがもはや、それさえこっちとしてはどうでもいい。 語るべきは、目の前に立つ厄介な少女のみ。 「どうだ、嬉しいかよヴェンデッタ……おまえの望み通りだぞ」 精一杯の強がりを口にすれば、返答はまるで女神のような微笑と共にもたらされた。 「いいえ、決断したのは常にゼファーよ。私はいつも言葉をかけてるだけだもの」 「最後の一歩を踏み出すのは、いつだってあなたの小さな勇気なのよ」 その言葉が素直に嬉しく、だから必ず形にしよう。 そうだとも。まだだ、まだ諦めたくない──必ず奴らを喰い殺すと、強く誓って〈滾〉《たぎ》らせる。 高まっていく同調率は今一時、暴れ狂うようなアストラルを俺の身体に感応させる。いずれ訪れる反動がどれほどのものになるか、予想は出来ても今はそれを考えなかった。 「──マルス、ウラヌス」 そして、連中もまた万全を期す。 英雄は油断を持たない。手負いの獣を前にして、より確実な策を取るのみ。 「手を貸せ。この圧力だ、下手をすれば殺しかねん」 「まあそうなると困るわなァ、お互いに」 「断じて貴様のためではない、が──」 「ああ、〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》」 すなわち、奴らが求める最後の欠片。際限なく共鳴し合う俺とヴェンデッタの姿に対し、運命を回す要因を見出しつつある。輝く眼光が真実を見逃さないと告げていた。 ならばいいさ、勝手にしていろ。その期待ごと打ち砕く。 「行、く、ぞォォォォッ──!」 〈迸〉《ほとばし》り、〈漲〉《みなぎ》る力の奔流で激痛を打ち消しなが突き進む。 進め、進め、進め、進め──まるで前へと墜ちるように。 墜ちていく、ように──ッ。 一対三、大虐殺の主演たちをすべて敵に回した状態で……再び死闘が幕を上げた。 「──なに?」  ──そして、最初の激突から〈異〉《 、》〈常〉《 、》はすぐに現れる。  受けた刃から伝わる恐ろしいほどの衝撃に、そして何より敵手が取った動きに対して英雄は〈僅〉《わず》か〈訝〉《いぶか》しんだ。  たった今迎撃した相手の斬撃。その意図があまりに不可解で、眉間へ〈皺〉《しわ》を刻みこむ。  気のせいかと感じた次の瞬間、再び連続する〈異〉《 、》〈常〉《 、》。  続けて二撃、突撃と同時にゼファーが放った鋭い刃。あらゆるものを断ち切らんと銀の牙が虚空を〈穿〉《うが》ち、マルスとウラヌスを襲撃するが…… 「おいおい──」 「なんだと?」  それを受け止め、弾き飛ばされたはずの二体もやはり、起きた現象のおかしさに思わず大きな疑問を抱いた。  〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈お〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》と困惑する。  その戸惑いを〈嘲笑〉《あざわら》うかのように再び、間断なく敵手の刃が襲い掛かった。しかも想像を絶する速さでだ。 「お、おお、おおおオオオオオォォォ──!」  それは圧倒的な速さ、恐ろしいほどの速度域。ゼファーはいま間違いなく、人生における最高速を常時更新し続けていた。  姿が霞んだと思った次の瞬間、気づけば走る銀の閃光。死の旋風。  縦横無尽に、間断なく、連続して三体へ叩き込まれる刃の軌跡は荒々しくも流麗だった。もはや線どころか紐の束をぶちまけでもしているようで、跳ね上がった〈膂力〉《りょりょく》を武器に敵手の影へと浴びせ続ける。  その凄絶さ、〈鎌鼬〉《かまいたち》どころか悪鬼のごとく。  見えない斬撃を予測し、うまく防御できているのは今やヴァルゼライドぐらいのものだ。マルスとウラヌスにいたっては大半を迎撃できず、反応さえ出来ないまま刃風の直撃をひたすらもらい続けている。  凍気を抜き、瘴気を裂き、放つ星の光ごと問答無用でねじ伏せた。  餓狼に群がられているかの如く、傷つきながら疾駆する敵手。設計を遥か上回る動体反応を前に成す術なく、魔星は削られていくだけである。  しかしなぜか、二体は奇妙に落ち着いていた。そしてそれは、ヴァルゼライドもまた同じ。  激昂するでもなく、困惑を〈僅〉《わず》かに宿して敵手の動きをひたすらじっと眺めている。少しでも事態を理解しようと、ゼファーの軌道を追っていた。  そう、なぜなら今の彼は〈異〉《 、》〈常〉《 、》だから。  見るからに奇怪な点が、あからさまに多々あるから。  すなわち── 「はッ、はッ、はッ、ギ──ィ、ァァァアアアア!」  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》は今、狂ったように絶叫しながら戦闘行動を行なっていた。  〈喉〉《のど》が〈罅〉《ひび》割れるほど叫び、苦痛の嘆きを〈撒〉《ま》き散らし、〈涎〉《よだれ》と涙を垂れ流して鉄の刃を振るっている。  ぶちり、ぐちゃりと、耳を凝らせば断続的に聞こえる異音。疾走するゼファーの内から、臓腑の潰れる音色となって激しく周囲へ響き渡る。  休みなく駆ける足は今にも根からへし折れそうだ。超スピードの代償、強く地を蹴る反動が、骨や肉を攻撃以上の苛烈さで激しく痛めつけていた。  身体には無数の〈皹〉《ひび》が走り、次の瞬間、〈木端微塵〉《こっぱみじん》になったとしても何ら不思議なことじゃない。 「ッ────重いが、しかし」  攻撃を加えている腕にしたって、それはまったく同様だ。  あまりに速くなり過ぎた挙動のせいで、力任せに斬りつけることしか出来ていない。つまり鍛えたはずの技術技巧が、なんら生かせていないもの。  結果、ゼファーの突撃は想定以上の脅威をまるで発揮できずにいる。  これではつい先程、マルスとウラヌスを相手取っていた状態の方がよほどマシというものだろう。総合的な戦闘力が明らかに下降していた。  完全な暴走状態、極限まで〈上〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈た〉《 、》〈同〉《 、》〈調〉《 、》〈率〉《 、》がここにきて足を引っ張りつつある。  まるで、不恰好な〈操り人形〉《マリオネット》。感応するアストラルのみが増大し、それを扱うべき〈吟遊詩人〉《オルフェウス》がまったくそれを生かせていない。  だがしかし、それもある意味当然なのだ。考えて見ればこの結果は、むしろ自明というものだろう。 「──〈過剰供給〉《オーバーロード》、我らの星を人の身で用いた報いだ」 「仕様外ならではの現象ってところだな。というより、こいつが初の事例だろうよ」  そう……ゼファーという小さな男の器では、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》という星の光を操ることなど、そもそも到底不可能なこと。  今までは浅い〈同調〉《リンク》で済んでいたから、恩恵をうまく享受できたというに過ぎない。しかし彼ら二人の絆は、今や大きく深まった。  よってもはや、扱いきれない。  〈人造惑星〉《プラネテス》の〈恩恵〉《あい》を、心は受け止められている。  しかし単なる〈星辰奏者〉《エスペラント》の一人である、ゼファー・コールレインの肉体は── 「まだ……まだ、俺はァッ!」  絆の自滅、とでも言うべきだろうか。〈吼〉《ほ》えたそれは誰が聞いても己に向けた鼓舞に過ぎない。  ゼファーという〈蝋燭〉《ろうそく》を燃やし尽くす愛の業火。勝者を喰らうと願うたび、ヴェンデッタの一途な想いに応えてしまうそのたびに、彼の身体は常識外れの〈過剰供給〉《オーバーロード》で崩壊していく。  順次へし折れていく骨の音色は、まさに死へのカウントダウンだ。  一本、ああ……また一本と。耐え切れない〈骨格〉《フレーム》から〈ひ〉《 、》〈し〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈げ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。あと数分このままなら、それだけで彼は死ぬだろう。 「己より優れたものを滅ぼすために。  そして勝者の栄光に、泥を塗りつけ〈嗤〉《わら》うために。  理解できたぞ──〈逆襲〉《ヴェンデッタ》とはそういうことか」  その構図、二人の間にある因果性をヴァルゼライドはついに見抜いた。  なぜ日常という時間では、何も進展が見られなかったか。  なぜ逆に修羅場では、急に同調が深まったのか。  そして最初に、ヴェンデッタが彼のいったい何処に惹かれて起動したかということも……これは朧気ながらだが。  すべてが一つに〈繋〉《つな》がっていく。よって思わず、知りえた構図に苦笑が漏れた。 「皮肉なことだ……これでは俺も、そして奴も、アレに選ばれるはずがない。光を喰らう敗者をこそ切に求めていたのだからな」  英雄、神星──そんな輝きにヴェンデッタは用がなかった。これもまた、確かな真実。  勝利を目指して進む限り、彼女は決して目を覚まさない。  二人の描いた聖戦は、彼らが主演を勤める限り〈永劫〉《えいごう》幕を上げないのだ。  まるで喜劇、最初の一手が大願成就を拒んでいるという矛盾。思えばそこに長く縛られていたものの、往年の謎がようやく解けた。  ならば──いざ、運命の車輪を回せ。  最後の歯車を手に入れろ。  感慨と共にヴァルゼライドは刃を強く握り直した。さあ、聖戦はすぐそこだ。 「そして、ならばこそ俺はおまえを認められんよ〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。趣味の悪さが過ぎるだろう。 見ろ、おまえが愛する〈吟遊詩人〉《オルフェウス》を──」  〈睨〉《にら》み付けた先には、妖しく微笑む魔星の少女。ヴェンデッタは欠片たりとも同調を抑えようとしていなかった。  逆襲、逆襲、逆襲をと──  その名の通り、一心不乱に誘う姿。まさに魔性と言う他なく。 「あぁ、ぁ、ァァァ──」  愛情を受けて駆動し続ける〈吟遊詩人〉《オルフェウス》は、彼から見ればひたすら〈憐〉《あわ》れだ。  自壊しながら、必死に〈慟哭〉《こえ》を鳴らしているその姿。もはや現実をまともに感知できているかも怪しいもので、死人の妄念に操られているとしか思えない。  ならばその関係性、醜悪と切って捨てるに十分だろう。 「舞台に上がれ。雄々しく舞え。主役に成るのだ、成らねばならぬと……そう押しつけたあげくがコレか。 〈業腹〉《ごうはら》だ。見るに耐えんよ」  ゆえに解放してやろうと、腰を落とし、深く構えて。  放ったのは真っ向からの居合い抜き──鋼が十字に交差した。  暴走するゼファーの〈膂力〉《りょりょく》は圧倒的だが、しかしヴァルゼライドには〈技巧〉《わざ》がある。力任せの一撃などいなし、逸らし、迎え撃てば事足りよう。  単純な能力差を経験則で上回っていた。  硬直は一瞬、次の刹那には真っ向からの斬り合いが発生する。  飛び散る火花は〈怒涛〉《どとう》の如く、黄泉へと誘う〈鳳仙花〉《ホウセンカ》。かつて勝敗が決したはずの十三合を軽く越え、激突しあう刃と刃──閃光の結界が二人の間に発生する。  その空間に入れば最後、如何なる者も斬滅されて終わるだろう。  ゼファーとヴァルゼライド、彼らの放つ切断という死の嵐は極まっていた。超近距離での剣戟に限定してだが、二人はここに破滅的な均衡状態を作り上げる。 「──獲ったぜ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」  だからこそ、その時点でもう終わりだ。なぜならその対等な斬り合いこそ、英雄がお膳立てした状況ゆえに。  強引に自分へと釘付けにしたゼファーへ向け、巨大な爪が落ちてくる。どれだけ速くなったとしても止まってしまえば意味はなく、勘が鈍ってしまったならば、当然危機は察知できない。  よって、猟師が獣を狩るかのように安々と罠へ〈嵌〉《は》まった。  逃れることなどもう出来ず……いいやそもそも、そんな思考が今のゼファーに出来ただろうか? 「────は、ァ」  虚ろな眼球がぐるりと円を描きながら、そこでマルスの姿をようやく捉える。  それは理性が蒸発した成れの果て。彼は既に自分が何と、なぜ戦っているのかさえ理解してはいなかったのだ。  脳細胞は焼き切れる寸前で、回避防御迎撃等々……考えられる状態ではどれ一つとって何もなく。  ヴァルゼライドとの攻防で千切れた意識に写るのは、とうに夢中の幻だ。  見えるのは、ノイズにまみれた謎の光景。  血の海に女であろう影が一人、切なく〈誰〉《 、》〈か〉《 、》に問いかけている、不可思議な夢の欠片を見ていた。 ハンプティ・ダンプティ、塀の上。 ハンプティ・ダンプティ、落っこちた。 王様の馬と、王様の家来。 みんな揃っても戻せないもの、なぁんだ? 「答えは──、ッ」  分からないまま、それを切り払うようにゼファーは最後の一撃を放った。  爪に向けて放ったのは本能任せのぶん回し。  無論、マルスの豪腕を弾けるはずなど〈微塵〉《みじん》もなく、そのまま呆と迫る終わりを眺めている。  というより、それさえ彼にはどうでもいい。  それよりも、早く早く、あの質問に回答しないと。  ああ、謎かけの答えは、答えは──  そう確か── 「た、──」  死の刹那、そのまま正解を口にしかけた寸前に。 「下がれよ貴様ら──それは、私の狼だ」  〈静謐〉《せいひつ》に、されど煮え〈滾〉《たぎ》る熱情が状況を一変させた。  解き放たれしは黒き赫眼──女神の神威が、牙を〈剥〉《む》く。 「風伯、雷公、天〈降〉《くだ》りて罰と成せ── 神威招来・〈級長津祀雷命〉《シナツノミカヅチ》ィィッ!」  轟く〈吼〉《ほ》えは烈破の如く。天より墜ちる雷はまさしく女神の裁きであり、罪や〈穢〉《けが》れを焼き尽くす猛き浄化の刀剣そのものだった。  それを放つ存在こそ天秤の長、チトセ・朧・アマツという稀代の女傑。  瞬間的に〈人造惑星〉《プラネテス》さえ凌駕する出力を捻出した一撃は、〈星辰奏者〉《エスペラント》の限界突破を実現して最強の横殴りを炸裂させた。  その圧倒的な暴威を前に、迎え撃つは斬り裂く極光、氷の防壁。  暴風雷鳴──何するものぞと天昇する輝きが、真っ向から破壊の息吹を両断した。極限まで高められた集束性の一撃は本来無形の風雷さえ、その光刃で二つへ分ける。  そして、拡散した破壊の飛沫を凍気の波が遮断する。切り分けた際に生じた嵐の余波を、堅牢な氷の盾が削られながら防ぎきった。  ──結果、星と星との〈鬩〉《せめ》ぎ合いに建物だけが耐え切れない。  木端となって爆散する豪奢な屋敷、そこから飛び出した三つの影を〈睥睨〉《へいげい》するは魔眼を備えた正義の女神だ。  切り札を露にしながら、チトセは薄く微笑んでいる。真っ先に己を〈睨〉《にら》みつけるウラヌスを〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》に見下していた。 「──おのれ、腹立たしい。私に奴を庇わせるとはッ」 「お生憎さま、それはそちらの都合だろう? よって私も、己が都合を優先させてもらうまで」 「なぁ、そうだろう──ヴァルゼライド総統閣下」  それは温和な口調であったが、内心は正反対の方角へ振り切れてるのは言うまでもないだろう。  彼女は今、かつてないほど激怒していた。それはゼファーの奪取で後手を踏んだこともそうだが、あらゆる面で手玉に取られた自分自身の不甲斐なさに腹が立って仕方がないのだ。  無傷のマルスは闇の星を〈纏〉《まと》っており、そこに制限、〈枷〉《かせ》といった類のものは当然欠片も見られない。  裏で体よく〈嵌〉《は》められていたのだろう。出し抜こうと〈掻〉《あが》いていた自分に対し、チトセは今いっそ清々しいほど〈キ〉《 、》〈レ〉《 、》ていた。  よって逆説的に考えるなら、ようやく彼女はヴァルゼライドの手の平から抜け出すことに成功したと言っていい。  英雄と裁剣、似通いながら決して交わることのない二人の視線が交差する。 「惜しいな、朧。よもやおまえと道を違える事になろうとは」 「白々しい。私はずっと、こうなるだろうと思っていたよ。五年前のあの日から半ば確信していたさ。  そして、おまえもそうなのだろう? まったくこれは電光石火の早業だよ、〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》」  そう、本来チトセは〈商〉《 、》〈会〉《 、》〈の〉《 、》〈屋〉《 、》〈敷〉《 、》〈へ〉《 、》〈と〉《 、》〈突〉《 、》〈撃〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈手〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  己が部隊を引き連れて、魔星ならびにゼファーの身柄を確保しようとしていたのだが……  時同じくして、動き出した反動勢力の部隊諸共、〈何〉《 、》〈故〉《 、》〈か〉《 、》待ち伏せしていた〈近衛白羊〉《アリエス》の襲撃を受けた。  見たことがない謎の小型兵器──〈機〉《 、》〈械〉《 、》〈蜂〉《 、》の大群を伴った正規軍。それらに対して大幅な足止めをくらってしまい、結果出遅れ、まんまとうまく出し抜かれた結果がこれだ。  それでもなんとか、こうして間に合ったのは不幸中の幸い。  瀬戸際で彼女は運命へと食い込むことに成功した。  舞台に上がる。聖戦に足をかけた。そして二度と、観客に落ちるつもりは毛頭ない。 「あれら〈機蟲〉《きちゅう》や、貴様の抱く野望にしても、分からぬことに問いたいことだらけだよ。私は今もその後背を眺めるばかりで、追いつけたという試しがない……」  ゆえに、まずはその敗北を認めた上で。 「だから、事の中核だけは奪わせてもらうとしよう」  指を鳴らした瞬間、背後に素早く降り立つ人影。  それは魔眼の解放と同時に潜ませていた、もう一つの矢。気を失ったゼファーと無表情のヴェンデッタを抱え、サヤは忠実に主の命を実行していた。  そして、遅れながら包囲網を突破した〈裁剣天秤〉《ライブラ》の隊員も傍へと〈集〉《つど》う。  彼らの主は総統ではなく〈正義の女神〉《アストレア》、忠実な裁きの剣は揺るぐことなく、帝国の頂点よりも彼女の刃を拝している。 「退路の準備、整いましてございます。〈殿〉《しんがり》はこの者らが」  よって、ヴァルゼライドと魔星の足止め──時を稼いで死ねという実質的な処刑の言葉を前にしても、気後れは〈微塵〉《みじん》もない。  ゆえにチトセも彼らに対して、ただ一言。こう告げて〈さ〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》と言うのだ。 「奴らを討て。帝国に仇なす者ども、生かしておけん」  宣した瞬間、放たれた烈風の渦。それに続いた天秤兵の突撃とチトセの離脱はまったく同時に行なわれ……ここに逃走を成功させた。  全力で仕切り直しを図った彼女の決断は迅速であり、且つ正解。  ヴェンデッタを奪われたヴァルゼライドは、これで最後の一手をチトセに取られたことになる。  つまりここに来て、舞台はまたも複雑に変化した。先ほどまで順調に回り始めていた運命の歯車が、再び空転し始める。  混迷していく事態を指して、ウラヌスは〈嗤〉《わら》う。  ままならぬ現状よりも、袖にされた男を見てその無様さを〈嘲笑〉《あざわら》った。 「〈滑稽〉《こっけい》だな、ヴァルゼライド。部下にさえ見放された気分はどうだ? 私は愉快でたまらんよ」 「予感はあった、取り立てて騒ぐことでもなかろう。それに──」 「〈死相恋歌〉《エウリュディケ》の理屈も解明、完成度も規定値を超え高まった。  ならば後は、気兼ねなく回収するだけ。あんたとしても出張った甲斐があったよなァ」  不確定要素について懸念すべきは、もはや無いと証明できた。  それに比べれば逃亡など、総じて〈些細〉《ささい》。何を憂い戸惑うことがあるだろうか。  進軍せよ、覇道を往け──奪い取って天へ掲げん。  砕け、“勝利”の名の下に。すなわちそれこそ英雄の本懐なれば。  ゆえにいざ、あと一歩。  そこへ向かって踏み出すことを、ヴァルゼライドは恐れない。 「──〈退〉《ど》け、裁きの天秤よ。俺は征くと決めたのだ」  そう、彼は〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈諦〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。なぜなら彼は鋼のような男だから。  友を、家族を、恋人を、たとえその手で焼き尽くしても不変の意思を保ち続ける、常識外の〈英雄〉《モンスター》。  ひとたび誓えば、そこで完結。折れず曲がらず〈躊躇〉《ちゅうちょ》しない。  決意したのだ、決めたのだ。だから後はそれを雄雄しく貫くのみと、刃を携え明日を目指す。  ゆえに、己が意思を阻む者が相手であれば──  手心を加えることなど一切なく、星をも断ち切る極光を襲いかかる兵らへ向けて容赦なく解き放った。  殲滅まで、かかった時間は二分弱。  光の剣をその手に携え、英雄は魔星さえ従えながら覇道を歩む。  すべては、聖戦の果てに輝く勝利を手にするために。  自分が奪ってきた者たちへそれをもって報いるために、止まらない。  そして、同時刻──大通りにて。  商会の屋敷を目指していた反動勢力は、予期せぬ襲撃を受けていた。  虚空を覆い尽くすのは無数の〈蠢〉《うごめ》く機械〈蟲〉《ちゅう》。自然界には存在しない鉄によって構成された昆虫が、万の羽音を轟かせて部隊の者へと襲い掛かる。  それはまるで稲穂に群がる〈蝗〉《いなご》の〈波濤〉《はとう》か、砂糖に群がる蟻だ。数の暴力、その極地と言っていい。  鋭い〈顎〉《あご》に〈齧〉《かじ》り付かれ、分解されていく銃器。  毒針を射ち込まれ、弛緩していく兵の体躯。  敵対勢力にとってそれは悪夢のような現実だろう。それら〈蟲〉《むし》の群れというのものは本能的に〈お〉《 、》〈ぞ〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》、ゆえにまず視界を埋めて飛来する機蜂の波を前にすれば、そもそも戦意を保つ者さえ少数という有様だった。  情けないと言うなかれ、それは健常な精神を持つ人間なら極々自然な感情だった。  大群の恐ろしさは大小、強弱に依存しない。認識できないその膨大さに対して人はひたすら圧倒されるのだ。  数え切れない害虫が敵意を持って自分に押し寄せてくる光景は、ただそれだけで決意を刻み食い荒らす。  しかもそれが一つの意思に統制されて襲い掛かってくるのなら、感じる脅威と畏怖の情は言わずもがなというところだろう。  反動勢力の命運は今や風前の灯だ。  さらに駄目押しとしてもう一つ、彼らに退却をも許さない決定的要因が存在している。  ──敵は、機蜂だけではない。 「右翼十七名、中央へ向けて一斉射。  続き左翼、〈機蟲〉《きちゅう》により〈撹乱〉《かくらん》された地点へ向けて榴弾を投擲。陣形を〈掻〉《か》き乱しつつ後退せよ。〈燻〉《いぶ》りだせ」  総統の代行者、アオイの声が星光を通じて凛々しく響く。  堅実で、隙のない的確な指示。さらに彼女の〈星辰光〉《アステリズム》にて通じる情報の共有を受け、恐るべき連携により〈近衛白羊〉《アリエス》が帝国の敵を討ち取っていく。  自らが感じる視界、聴覚の〈添付〉《ペースト》。並びに遠隔からの〈思考伝達〉《テレパシー》──これがアオイ・漣・アマツの擁する〈星辰奏者〉《エスペラント》としての異能である。  元々、彼女の生家である漣は優秀な施政者を多く生み出してきたという歴史的背景を持つ。  天秤という固定枠を持つ朧とは近縁でありながら、方向性は武官ではなく文官のものだ。  それら血の由来ゆえか、アオイの発現した星の力は念送という“他者を巧みに運用する”性質を多分に宿したものだった。  兵という駒ではなく、あくまで将。  強化された兵ならぬ、強化された指揮官として開眼した能力を存分に発揮する。  反動勢力側は、既に七割の鎮圧に成功。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》はチトセ、サヤを筆頭に幾人かの〈星辰奏者〉《エスペラント》に突破されはしたものの……多勢は既に落としてあるゆえ問題なし。  この趨勢を覆す要因はもはや戦場に残っておらず、何よりアオイの目的はとうに果たされているのだから、ここから先は単なる残敵掃討だった。  ヴァルゼライドの命令通り、指定された時は稼いだ。  よって後は、いかに彼の意を汲んでそれ以上の働きが出来るかどうかというところだろう。ゆえに一切、気は抜かない。  気は抜かないが、しかし…… 「これら〈機蟲〉《きちゅう》、有用ではあるが、果たして……」  アオイにも当然、疑問がないわけではないのだ。彼女は本来優秀な才女であり、よって今も慎重に推論を重ねている。  総統閣下より賜ったこの鉄で出来た機械の蜂ども、いったいどういうものなのかと思考せずにはいられない。  なにせこれら、自分の〈思考伝達〉《テレパシー》が通じるわけで、今も念じる指示通りに彼らが動いている以上、つまり何がしかの〈精〉《 、》〈神〉《 、》を宿しているのに他ならないということだ。  無論、アオイ自身に〈機蟲〉《きちゅう》を操る力はない。彼女の星は精密に他者へと意思を伝えるものだ。  物体を直接動かす代物ではなく、よって何か、あるいは別の〈第〉《 、》〈三〉《 、》〈者〉《 、》がこれを自在に操縦していることになるが── 「あり得ない」  それこそ、常識的に考えれば不可能な話だった。  これほど大量に、しかも同時に、且つ精密に遠隔操作できる〈星辰奏者〉《エスペラント》など存在するはずないのだから。  可能とする怪物が軍に入れば必ず重用されているはず。しかし彼女は聞いたことがない以上、その選択肢は除外せざるをえなかった。  しかしならば、この蜂は何なのだ? アストラルと感応する性質が見られるため、アダマンタイトで出来ているのは確実だ。  ならばやはり、〈星辰奏者〉《エスペラント》の手によるものか?  総統が秘密裏に育成していた秘蔵の手札?  だがそれにしてもこの規模、力、どう考えてもチトセ〈級〉《クラス》の〈貴種〉《アマツ》でなければ捻出できる力にあらず、と……  胸中に渦巻く疑念にアオイは答えが欠片も出せない。そして無論、正解に〈掠〉《かす》りすらしていなかった。  いいや、考え付くはずもないだろう。  まさか、これら鉄の蜂を使役するのが歓楽街の娼婦であるなど。  遠く離れた場所から、今も楽々と〈機蟲〉《きちゅう》を操っていることなど。  そして何より、彼女がマルスやウラヌスと同じく魔星の眷属であるなどと、いったいどうして考え付くことが出来るだろうか?  何もかもが常識外れ、規格外。よって気づかぬアオイのことを責めることなど誰も出来ない。  ゆえに彼女は思い悩む──疑念と忠誠、その狭間でだ。 「閣下、私は……」  見抜けぬことが愚鈍なのか。それとも自分を、信じているから秘蔵の手札を任されたのか?  それらヴァルゼライドの真意を判別する材料を持っていないゆえ、アオイは強く〈煩悶〉《はんもん》する。深い忠誠が縄となり彼女の首へゆっくりと絡み巻きついて、離さない。  それはまるで傾けた砂時計が如く、少しずつ少しずつ、鉄の女の心中へと形容しがたい感情を〈堆積〉《たいせき》させていくのだが……  主へ向ける己が本心に気づいていないアオイはしかし、その〈軋轢〉《あつれき》が分からない。  ただ、居心地の悪さや〈些細〉《ささい》な苛立ちという感覚だけは確かであり、それを鍛えた精神力で押し込める。  再び戦況へと思惟を裂き、女性的な想いのすべてを尊敬へと入れ替えた。  耐えることは何も解決させないものの、先延ばすことはできる。  総統閣下の御心を疑うなど、不敬の極み。度し難い。  自分自身をそう戒めて、今は── 「さあ、おとなしく縛につけ。元〈深謀双児〉《ジェミニ》隊長、アルバート・ロデオン。   叛徒に堕ちた貴君の〈咎〉《とが》、閣下に裁いてもらうがいい」  不忠の輩を捕えるのみ。反動勢力の大半を鎮圧し、首謀者の眼前へ堂々と歩み寄った。 「……言ってくれるな」  アオイの前で苦笑をたたえるこの男は、元〈帝国黄道十二部隊〉《ゾディアック》の隊長格。総統閣下と長い時間を歩んだはずの盟友である。  今はご覧の有様だが、敬愛する主もまた彼との〈邂逅〉《かいこう》を心の何処かで望んでいると思うがゆえ、戸惑わない。 「連行しろ。あの方へ送る手土産としてくれる」  命じられてはいないものの、彼女はここでアルバートを生かしたまま確保するのを選択した。  それはアオイにとって非常に〈稀有〉《けう》な決断だ。本来ならば帝国に潜む不穏分子として即刻射殺すべきであると分かっていながら、何故ここでという判断に彼女自身が気づかない。  上意をそのまま徹底的に遵守してきたはずの女が、独自に下した異例の判断。それは気まぐれだったのか、あるいは緩みか、それとも積もった拭いきれない疑心ゆえか……ああ、それとも。  竹馬の友を前にすれば、総統閣下の本心を聞けるかもしれないと──  無意識下で〈疼〉《うず》く女心と願望に本人は何も自覚しないまま。反抗勢力を壊滅させ、離反した〈裁剣天秤〉《ライブラ》に一定の損壊を与えたという手柄を胸に、セントラルへと〈踵〉《きびす》を返した。  錠をかけられ、自由を奪われたアルバートはただただ静かに沈黙する。  〈近衛白羊〉《アリエス》に連行されながら、しかし今も考えることは止めていない。  思えば、今回の決起は何もかもが仕組まれていたのだろうと彼は思う。あらゆる勢力が介入する絶好のタイミング、その用意された瞬間へ自分も〈彼女〉《チトセ》もこぞって飛びつき……こうして見事に〈嵌〉《は》められた。  さらにアルバート側にとって最大の予測外な出来事は、それら動きを読まれていたことだけではない。  予め、自分たちの陣営に仕込まれていた〈間者〉《スパイ》。あの男が突如として離反したことにより、反抗勢力は瓦解の序曲を一気に奏でてしまったのだ。 「アスラ、まさかあいつがな──」  ゆえに、アルバートもまたアオイと同じく真実に気づくはずもない。  アスラ・ザ・デッドエンドという無頼漢が、まさか先ほど猛威を振るった〈機蟲〉《きちゅう》の操者と同種の人外。〈人造惑星〉《プラネテス》の一体であるなど、見抜くことがどうして出来よう。  そしてさらに、彼が実は〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈段〉《 、》〈階〉《 、》〈で〉《 、》〈の〉《 、》〈離〉《 、》〈反〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈特〉《 、》〈に〉《 、》〈命〉《 、》〈じ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》に至っては、知る寄る辺など何処にもなかった。  誰が知ろう。我欲任せの独自行動に移った理由、それはたまたま屋敷を目指すまでの進軍ルートに強く起因しているものなどと。  とある〈工房〉《アトリエ》の傍を通ったことで、彼は偶発的ながら〈肉〉《 、》〈親〉《 、》の位置情報を〈偶〉《たま》さか感知してしまう。  すなわちその一点が、アスラの離反を誘発した唯一無二の条件などと、知る者はどこにもいない。  作戦? 運命? 知るか要らねえどうでもいい──欲するべきはただ一つ。  自分の中に譲れない芯を寄こせ。胸は常に空っぽで、どれもこれも味気ないのだ。  成功失敗勝利に敗北、熱くなれる〈理由〉《オモイ》をくれよ。ないなら殺して奪い取る。思うが〈侭〉《まま》に生きたいから。  その信念から爆発したのは、父性を求める孤児の衝動。素体から継承すべき精神構造を持たないため、自らの創造主をアスラは求めて疾駆する。  己をとりまく他のすべては、頭の中からとうに消えた。反動勢力をあっさり捨てて、適当に薙ぎ倒しつつ目当ての男を目指して走る。  その結果── 「──せいやァァ、ハァッ」 「ぐぅ、ぬ……ッ」  〈存在理由〉《アイデンティティ》を構築すべく、親を砕くと唸りをあげる剛の拳。  卓越した技を駆使して、いまアスラはジンを容赦なく追い詰めていた。  掌打、蛇拳、烈蹴、背撃──繰り出されるは絶拳乱舞。  並ぶものなき拳の極みが空を〈穿〉《うが》ち、地へ轟く。一挙一足そのすべてが虚でありながら同時に実だ、アスラの振るう魔拳の嵐に牽制という概念など一発足りとて混じっていない。  ゆえにそれら、技量の域にてすべてが必殺。  さらにそこへ〈魔星〉《クロノス》としての性能さえ容赦なく乗せているというならば、後は語るべくもない。  至近距離、並びに一対一の構図。これら二つの要素が揃った場合、〈色即絶空〉《ストレイド》は紛れもなく最強の〈人造惑星〉《プラネテス》へと変貌する。  だからこそ、この場においてジンがアスラに敵う道理は欠片もなかった。元よりこの二人に限っていえば、勝敗を論じる方が間違ってると言えるだろう。  彼らは正しく、上位互換と下位互換。  才能から経験においてまで、子が親を圧倒するよう造られたから覆らない。  優劣など、その時点でもはや定まっているのだ。劣勢へ追い込まれる老骨に、その方程式を打ち破る手段はない。 「おいおいどうした? その程度か? いいや違うなそうじゃねえ。俺の〈素体〉《モデル》が下らん余技に頼るなや。 老練の冴えというもの、いっちょここに〈晒〉《さら》してみようや。殴って砕いて〈嗤〉《わら》ってくれよ──〈耄碌〉《もうろく》するには早すぎろうがッ」 「はッ、やかましいのだ〈糞〉《くそ》〈餓鬼〉《ガキ》が!」  ぶつかり合う魔拳と鉄拳、喜悦と怒号。  互いの身体が衝撃の強さに後ろへ大きく流れ……かと思えば次の瞬間、それさえ次撃へ巧みに〈繋〉《つな》ぎ、再び彼らは激突しあう。  それはまるで、よく出来た殺陣のように演じられる死線舞踊。  一歩も退かず、〈僅〉《わず》かも休まず、狂った親子は破壊の飛沫を相手へ向けて意気揚々と撒き散らす。  それは一見、互角に見える戦いだった。なにせ本来アスラを相手に打ち合うことなど不可能なのだ。力の多寡ではなく、能力の特性により成り立っている因果であるゆえ、防げない。  彼の発する〈星辰光〉《アステリズム》は、近接戦では無類無敵。指先一本、体表に掠られでもしたその瞬間に勝負が決する代物である。  攻撃を防いだ瞬間、衝撃操作で脳髄の内側から弾き飛ばされたとしても、なんら不思議なことじゃない。  よって、アスラと真っ向から拳を交わせる存在は、ジン・ヘイゼルに限られるのは間違いなかった。  遺伝子上の同一人物であり、なおかつ対抗策の〈義手〉《オリハルコン》を備えている老拳士は……しかし。 「────ッ、く」  やはりそれでも、そうそれでもだ。己自身の完成形を相手取り勝てるものなどそういない。  手数が足らぬ。若さも無くした。結果的に増加していてく被弾回数。それは加齢に伴う自然な劣化というもので、ゆえに当然この場における致命的な負の要因に他ならない。  対称的に究極の後継者として生み出されたアスラの身体は〈滾〉《たぎ》っている。  継承した技巧技能と、与えられた星の光に猛々しき若い〈肉体〉《うつわ》。  ジンが劣勢に追いやられつつあるのは、至極当然の理である。  そして、防戦一方である原因は何も実力差に由来するだけでなかった。真剣勝負の場において勝敗を分ける要素は、それこそ多岐に渡っている。  環境、気候、時刻など……すなわち外的要因が深く関わってることは、少し考えれば誰にでも理解の及ぶ〈範疇〉《はんちゅう》である。  よって戦場に〈異〉《 、》〈物〉《 、》が混入しているとあれば、その影響は実に明らか。争いあう両者の間に多大な波紋を投げかける。  よってこの場合、それは第三者という形で現れていた。 「──あ、あぁ、師匠ッ」  ミリアルテ・ブランシェ。老拳士の教え子。〈工房〉《アトリエ》内にて期せず巻き込まれた彼女の存在が、事態にアクセントをもたらしている。 「阿呆がッ、動くなこの馬鹿弟子め……!」  〈吼〉《ほ》えながら、猛禽が如く迫る踵墜を受け流した。  突然の襲撃に惑う少女を内心で間抜けと吐き捨て、勘の鈍さに失望しながら億の罵倒を吐血と共に飲み下す。  ああ、まったく何と愚鈍な、この小娘。どこまで儂の足を引けば気が済むのかと、〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》にジンは思った。  傷ついていく師の姿にミリィがどれだけ心を痛めているかなどということ。それら気遣い、優しさ悲しみ……総じて無駄だ。気が削がれるゆえ〈鬱陶〉《うっとう》しい。  そう〈辟易〉《へきえき》する感情こそがジンにとっての真実であり、実際それは戦略的な見地において何一つ間違ってはいない。  効率のみを重視するならミリィは今すぐ、ここを離れるべきなのだ。  恐るべき暴力を前に身体が萎縮したとしても、師匠を案じているとしても、この場に残るべきじゃない。  涙を目じりに溜めるなど、そんな暇があるのならやるべきことを何故やらん。呆れてものも言えんわ馬鹿が。よくよく愛想が尽きたとも。  くだらん感傷。身を案じる思いやり。  つまりそれらは塵なのだ。役に立たん感情なら切って捨てるが真理だろう。  なんと使えん小娘かと、見下げる心情に嘘偽りは〈微塵〉《みじん》もない。  ああゆえに、ならばこそ── 「気に食わん──ッ」  ジンは今、人生最大の疑問に直面していた。  どうして自分がそんな〈馬〉《 、》〈鹿〉《 、》〈弟〉《 、》〈子〉《 、》〈を〉《 、》〈庇〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?  理解できず、困惑しながら全力で拳を振るう。  ……本当に、いったい何故なのだろう?  アスラの猛攻を受けながら、常に弟子の立ち位置を確認しつつ動いている自分のことが、ジンには欠片も分からない。  戦闘に巻き込まれぬよう、累が決して及ばぬよう、頭の片隅に留めながら絶拳の雨と対峙しているこの構図。  どう考えても暴挙であり、非効率で不本意だ。自殺行為もはなはだしい。己が他人であったなら、〈睥睨〉《へいげい》しつつ〈扱〉《こ》き下ろし侮蔑する行いだろうに。 「……何故、なのだ?」  ジンは少女を見捨てはしなかった。  愚を犯している自覚もある。  止めるべきだと理解している。  弟子など捨てろ。気にするな。技術を授ける〈お〉《 、》〈遊〉《 、》〈び〉《 、》など構っている余裕はないと。  分かっているし、そのはずなのだ。しかし何だ足が動かぬ。  これはいったいどうなっている──!  余計な動作を代償に蓄積していくダメージの中、激怒しながら彼は己へ自問していた。  極めて小さい勝率を、更に更にと下げていく自分自身の暴走に対して、今や恐怖さえ感じているのは仕方ないことなのだろう。  なぜならジン・ヘイゼルは、仁愛を知らぬ男だから。  自己の究極系などという、そんな理想だけを追い求めて歳を重ねた〈馬〉《 、》〈鹿〉《 、》なのだ。  普通に考えれば分かるはずの、誰もが胸に宿している当たり前の感情に老拳士は気づかない。  〈我が子〉《アスラ》の誕生と共に芽生えた、親としての情愛。先達として未熟な若人に自然と感じる庇護の情。  その想いは、育てた弟子に対しても確かに注がれているのだが、彼自身には分からない。  そんな簡単なことさえ、何も見えぬまま惑っている。 「……拍子抜けだな」  ならばこそ、面白くないのはアスラの方だ。彼もまた当然のように、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈感〉《 、》〈情〉《 、》〈が〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  願い求めたはずの相手に、手抜きをされたと感じてしまう。  よもや情が原因などと、思いつけないし考え付かない。  彼らは共に〈螺子〉《ねじ》の外れた〈破綻者〉《おやこ》だと、重々承知し受け止めている。まったくこれは、どういうことやら。 「右往左往ふらふらと……分かんねえよ、なあ〈製作者〉《オヤジ》。あんた何がしたいんだ?  無駄な動きが多すぎる。かと思えば、時に棒立ち。まるで〈案山子〉《かかし》だ。〈藁〉《わら》の代わりに肉を詰めただけじゃねえかよ。喰いでがない。  最初はほら、期待していたんだぜ? もしや秘策か、あるいは誘いか? いいぞ、来い来い。受けてやるから見せるがいいと。  待ち焦がれてはみたものの……蓋を空ければ空っぽだ」 「かと思えば、妙に気張る時もある。しかもやたら、〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈時〉《 、》に限って」  そう、〈ミリィが巻き込まれる場合〉《どうでもいい時》に限って──ジンの技は恐るべき冴えを見せた。  鋭く、熱く、その一瞬だけ若さを取り戻したかのように往年の切れ味を復活させる。アスラが求めている領域まで。 「出来れば万事、ああしてくれると有り難い。分かるだろう? これじゃあ意味がねえんだよ。 大業、穢悪親殺し──俺は製造者たるあんたを砕き、燃える〈熱情〉《ほのお》を手に入れたいのさ」  それこそ紛れもなく、ジンという男が描いた被造物の存在定義。創造主の掲げた理念に向けて、忠実にアスラはひたすら走り続ける。  老骨の中ではとうに〈萎〉《な》え果ててしまった、化石のような理想めがけて一直線にまっしぐら。  “極み”という形無き終点を求めてやまず、ゆえに楽しみ、殺して往くと語っている。  それはまさしく、かつてのジン・ヘイゼルの生き写しであり── 「やはり〈餓鬼〉《ガキ》よな。よく〈吼〉《ほ》える……」  たまらなく不快だったのはどうしてか。分からないが、しかし。 「〈盈〉《み》つれば則ち必ず〈虧〉《か》くのよ。どれほど器を埋めようが、後は転げて落ちるが定め。 如何なる夢も手中に掴めば色〈褪〉《あ》せ朽ちる……ああ、なんとも〈滑稽〉《こっけい》だ」  自らの生んだ傑作に対して、反射的に漏れた嘲笑が答えだった。  アスラの在り方、己を高めようとするその意志を〈扱〉《こ》き下ろしたジンの言葉は最大の自己否定に他ならない。  彼の目には、眼前にて乾いていると叫ぶ〈餓鬼〉《ガキ》が〈憐〉《あわ》れな童に見えていた。  今まで欲していた境地を価値がないと吐き捨てながら、彼はここで己の歩んだ半生を〈ろ〉《 、》〈く〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と痛感したのだ。  やっとそれを、ほんの少し認めることが出来た。  自分は人間として、どうしようもなく欠けているものがある。  他者より高尚でなくば我慢ならんという感性、その〈不遜〉《ふそん》極まる妄念からこの歳でようやく解放され始めた。  完成も究極もない。そんなものに囚われて、頑なに〈拘〉《こだわ》ることこそ馬鹿なのだと気づいたがゆえ──心は軽く。 「そうかい──ならば、致し方なく」  それを探求するために生み落とされた求道の拳に、止まる意志など芽生えない。ああそうだとも、何が何でも押し通る。 「この絶拳、喰らってそろそろ目ぇ覚ませ。  狂える業をいざ取り戻せや、親父殿ォォッ──!」  有言実行、初志貫徹──彼はただひたすら愚直なその信念で、行き着く場所まで駆けるのみ。  灰となって燃え尽きようが、〈辿〉《たど》り着けるなら構わない。  轟く喝破に大気が震え、〈怯〉《おび》えるようにアスラの体躯へ〈集〉《つど》い輝く〈星辰体〉《アストラル》。  猛り狂う〈色即絶空〉《ストレイド》が万象砕く力となって、魔星の拳を死の鉄槌へと変えていく。 「だめ、こんな……っ」  放たれる密度と圧力にミリィの顔から血の気が引いた。〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》としてなまじ才能があるせいだろう、アスラの内で高められていく力の桁を正確に読み取ってしまい、その凄絶さに戦慄する。  流星雨のようなアストラルの奔流が、一人の男へ渦巻きながら雪崩れ込むという異様な光景。  まるで人間大の溶鉱炉が如く。あらゆるものを火種に変え、喰らい尽くして燃え盛る。  そんな破壊の一撃を人に放てばどうなるか、論ずるまでもないことは日の目を見るより明らかだ。  程なくジンは〈消〉《 、》〈し〉《 、》〈飛〉《 、》〈ぶ〉《 、》だろうと、ミリィは未来を幻視した──次の瞬間。 「あ────」  ……思わず駆けだした彼女のことを、いったい誰が責められよう。  想いのままに、考えることさえ吹き飛んで、ミリィは師を助けるべく小さな身体で躍り出た。  心が凍てつく。思考は止まった。何をすればいいのかさえ、少女の中には浮かんでいないし思いつかずに漂っている。  なにせ、自分が非力である事実をミリィは誰よりよく知っていた。戦うことなど出来ないし、技師としてもまだまだ未熟。この場ですべきは縮こまって震えることだと、当然分かっているはずなのだ。  けれど──それでも、尊敬する師が殺されようとしているなら。  身体は自然と動くだろう。だって大切な人なのだ。それはきっと人間ならば誰もが抱く当たり前の感情で何もおかしなことじゃない。  知っている顔が死ぬのは嫌だ。ゆえに守りたいと願うミリィはとても〈ま〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》な女の子であり……  だからこそこの局面では、どうしようもなく不幸で悲しい犠牲者だった。  そして無論、対してアスラは〈ま〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。健気な少女の乱入など一顧だには当然しないし、いいやそもそも見てすらいない。  仮に知人であったとしても結果は違わず同じだろう。  かわいそうな子が一人、散ったな死んだな……ああそれで?  不幸な犠牲者、それもまた良し。勝手に一人で納得したまま、意気揚々と現実の〈ほ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈苦〉《 、》〈さ〉《 、》を堪能しつつ、ジンを壊すのは言うまでもない。  ゆえにそのまま視界へ映る親へ向け、絶する拳を剛と放った。  攻撃の軌道上に柔らかい〈少女〉《たて》が一つ紛れ込んでいるものの、まとめて砕いて貫き下そう──おお、我が拳に敵は無し。  自負はどこまでも個人の内で完結している。  可憐な命を手向けとばかりに散華しながら、その剛腕が血肉を〈抉〉《えぐ》る寸前で。 「────まったく、どこまで世話の焼けることよ」  苦笑したような響きと共に、師弟の立ち位置が入れ替わった。  庇おうとしたミリィの前へ、邪魔だとジンが身を割り込ませる。  〈咄嗟〉《とっさ》に庇おうとした者を更に庇う形になり、体勢は当然崩れた。結果としてアスラが当初願った通りに獲物の身体へ炸裂する。 「かはッ、ぐぅ……がァァァッ──!」 「い、いやぁぁぁぁああああッ」  よって、順当に拳は刺さり……続けて弾ける浸透勁。  内部伝播した衝撃が内臓を〈撹拌〉《かくはん》し、骨は〈微塵〉《みじん》に粉砕された。  〈血反吐〉《ちへど》を〈撒〉《ま》き、苦悶の〈呻〉《うめ》きを漏らしながら、ジンはそのまま吹き飛んで壁に向かって一気に激突。  そして意識を闇へと落とし、身を横たえて気絶したのだ。  そう……これにて、勝負は決した。  親子喧嘩はここで終わり。  決め手は、本気を出してから一発目の小手調べ。  子供はやはり優秀で、性能通り勝利をその手に掴んだが── 「…………は、ぁ?」  ならばこそアスラは呆気にとられてしまう──何だこれは、分からない。  胸の内は以前と変わらず空虚なままだ。熱さも芯も自己もなく、埋まらない風穴だけがそこに厳然と残っている。  消化不良、理解不能。裏切られたような痛みだけが、じわじわと彼の心に染みていく。  何かを激しく叫びたいのに、それを行う気力自体が湧き上がってはこなかった。分からない、分からない、ただひたすらに分からない。 「牽制だぞ、これ」  なにせ先の一打にしても、本気などではないのだから。  二撃、三撃目前提での連続技を想定していた。よってジンの全身が消し飛ばずに済んだのは、そういう事情が上手く働いた結果であるが、それが何だというのだろう。  信じていた。信じていたのだ。磨き抜いた拳の技量、己を造った狂気と執念。それらの重さと激しくぶつかり、鎬を削ったその果てにと──自分にとっての聖戦をアスラは何度も夢想していた。  きっとその激突は至高至上の死闘になると予感していた、はずなのに。  結果はこれだ、〈味〉《 、》〈気〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  達成感? 高揚感? あるかよそんなの、どうしてこれで喜べる?  無価値な勝利を手にしたところでいったい誰に、何を誇れる。  違う、違う、違う、違う──そうだとも、自分は決して。 「……………… つまんねえ」  こんなどうでもいい結末など、求めてはいなかった。  そう、こんなくだらない終点を目指して走ったわけではないのだから。断固として己が完成を拒絶する。 「よく分かったよ、あんたは既に〈搾〉《 、》〈り〉《 、》〈カ〉《 、》〈ス〉《 、》だ。  執念、妄念、すなわち狂気が何処にもない。これでは俺を完成まで導くどころか、部品にすらなれるかどうか……」 「──、────ッ」  歩み寄りながら、気を失ったジンの姿を見下す視線はひたすら冷たい。  子供が飽きた玩具を眺めるような、その眼光。自分に向けられているわけではないのに、ミリィはそれを見ているだけで心が凍えるようだった。  だが、その鋭さから守るようジンを背に、手を広げる少女の勇気は紛れもなく美しい。  身体は恐怖に震えているし、瞳は涙で濡れていたが健気にも師を守ろうという意志だけは宝石のように輝いている。  そしてその師弟愛を見るたびに、アスラは大きく失望するのだ。  いやいや、まったく〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》。 「本当に、どうしてこうも衰えたのやら」  認めてやりたい心の清さであるのだが、この場に限ってそこから生まれるものはない。それは、〈ジ〉《 、》〈ン〉《 、》〈の〉《 、》〈力〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈想〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》。  仁、愛、情、義──それらの力を、何もアスラは侮っているわけではない。  別段、所持していても構わない類の意地だし、むしろそれは時に奇跡を起こす要素だ。振り絞れる想いなら有るに越したことはなく、土壇場での原動力になりうるものとも認めていた。  しかし、世には適材適所というものがあるだろう。  誰が何と言おうとも、アスラこそこの世で最もジンを理解している存在である。よってそれら暖色的な感情が〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈似〉《 、》〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》のも分かっているし、知っている。  老拳士に似合うものは〈研鑽〉《けんさん》、練磨……それのみだ。  自己を高めるという執念に引きずられ、如何な犠牲もいとわないという外道左道の精神こそが持ち味であり、本質である。  何せ、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。真実なのは明らかなこと。  身勝手な利己の探究心こそ、ジンとアスラの根であると今更疑うべくもない。  その狂気、怨念ともいうべき完全性への希求と渇望。総じて破綻した信念の集大成として生まれた子供から見れば、この光景はまるで甘い蜂蜜だった。  毒蛇を救う幼い〈天使〉《ミリィ》。  与える光は蛇になんの力も授けないまま、老人を痛みの眠りに浸している。  似合わない、なんて〈ち〉《 、》〈ぐ〉《 、》〈は〉《 、》〈ぐ〉《 、》。  だからどうしても、これだけは文句を言わねば始まらなかった。 「なぁ、親父。おまえ本当に俺の〈製作者〉《おや》か? 今更わざわざ善人ぶるとか、どうにも今一信じられん。 何より、向いてないからそれ止めようや。ご覧の通りろくな結果になっちゃいないだろ?」  気絶して耳に入っていないとしても、これは確かに伝えておくべき糾弾だろう。アスラの言葉は、何も間違ってはいないのだから。  善であろうが悪であろうが、純粋なものは強く尊く美しい。ここにきて半端になったツケを払ったことこそが、彼の死闘を台無しにした。  それは逆説的に、師がどれだけ弟子の影響を受けていたかを示しているためミリィもまた一歩も退かない。優しさの何が悪いのかと。 「あなたは、どうしてこんな〈酷〉《ひど》いことを──!」 「悔しいかい? 悲しいかい? けどな嬢ちゃん、俺だっていっそこのまま泣きてえよ」  瀕死の師に涙を流す弟子と、大願を失い途方に暮れる被造物。  感性の違いを無視すれば、果たしてそれはどちらがより不幸に感じている結末だったか分からないが──しかし。 「勝手なこと、言わないでください」  何もかもが突然で、分からないことばかりだけれど。それでも会話から彼ら二人の間に血縁という関係があると、彼女は静かに理解した。  だからミリィも、アスラに対して言わねばならないことがある。 「親も子も、最初から家族になんて成れないんです。だってどう頑張っても、わたし達は別の人間なんだもの」 「だから少しでも同じ時間を共有して、時に泣いたり、笑ったり……  そうやって、ゆっくりと思い出を育むから、互いのことを大切だと思えるようになっていくんじゃありませんか。  あなたと師匠の間に何があるかは知りません、けれど──」  それでも、これはあまりに一方的に過ぎるだろう。 「いきなり伝えて、理想通りじゃなかったなんて口にする……そんな願いが叶わないのは当然でしょう! 子供の駄々じゃないんですよッ」  毅然と涙に濡れた瞳を向けて、ミリィはアスラを叱責した。  それは彼にとって子猫の〈威嚇〉《いかく》に等しく、弱者の拙い勇気に過ぎない。  悲しいかな、ろくでなし相手に高尚な説法など馬耳東風と流されるのだ。  しかし、今回はその訴えにまるで納得したかのように。 「なるほど、つまり俺は最初の一歩を間違えたと。   血縁さえそんなまだるっこしいわけか。ならばもっと、愉快な相手を探していればよかったと……しくじったなこりゃ」  手頃な因縁を選んだはずが、大外れ。そう言わんばかりに勝手な感想を口にしながら、アスラは髪を乱雑に指で〈掻〉《か》いた。  ミリィの心はまるで伝わらず不発に終わった。されどそれは完全な無駄となったわけではなく、自分が間違えた要点だけはしっかり理解したのだろう。  つまりは事前の積み立てなり、前準備の段階が不足していたというわけだとアスラは言葉を受け取った。  唐突に襲いかかり、いざ尋常に死合おうやと──それがどうもよろしくなかった原因らしい。  製作者だから、子だからと、因縁で押し通ることが出来ないのかとようやく分かった。ならばもはや、ジンに対して興味を抱く理由はない。  予め心の内を語り合っておかねばならぬという、そんな死闘が必要らしい。  面倒臭い。雅じゃない。劇的だから楽しいのに……下準備とは、やれやれと。  感じる想いのまま、大きなあくびを一つ漏らして気だるそうに首を回した。入口へ向けて〈踵〉《きびす》を返し、敗者へ向かい雑に告げる。 「あばよ、クソ親父殿。そのまま惨めに枯れて逝け」  そして真実、それっきり……  まるで気落ちした悪童のように、アスラは不満を隠しもせず〈工房〉《アトリエ》を後にした。  残されたのは瀕死に追い込まれた師と、それを前に悲しむ弟子。  嵐が過ぎ去ったのはいい。ミリィは無傷で助かった。けれどこれから、いったい何をすればよいのだろう?  考えて、まず思い立ったのはやはりジンを救うこと。  人を呼ぶにしても、応急手当をすべきでも、迅速に動かなければならないと自覚する。 「早く、どこか手当ての出来る場所に……」  そして、行動に移しかけたと同時── 「──待ちなさい、ミリィちゃん」 「えっ……」  ふいに〈頭〉《 、》〈の〉《 、》〈真〉《 、》〈上〉《 、》から聞こえた声に、彼女は思わず足を止めた。  それは聞き覚えのある声色。つられて視線を向けた先、小さな何かが羽音を響かせ宙を飛んでいるのが見える。  そして程なく、彼女の指へと舞い降りたのは鉄の蜂。  一瞬それに驚いたものの、ミリィはそれが危ないものには思えなかった。  なぜなら自分は、なぜかどこかで、この〈波〉《 、》〈長〉《 、》をとてもよく知っているような気がして…… 「イヴ、さん……?」  触れた〈機蟲〉《きちゅう》から感知できるアストラル──〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》として、〈彼女〉《イヴ》のものだと確かに分かった。  だからこそ、〈星辰光〉《アステリズム》によるものだという事実に対して驚愕する。イヴが〈星辰奏者〉《エスペラント》だなんて、それはいったい、どういうこと?  軍の関係者以外がなぜ、どうしてなのだと惑う視線が、鉄の複眼と交錯した。  疑問には答えないまま、離れた場所から言葉と想いが伝えられる。 「ひとまず私のところへ避難して。ここなら少しは安全だから……  今は、信じてほしいの──お願い」  それは地獄へ垂らされた蜘蛛の糸か、あるいは逆に黄泉へと誘う甘言か。  時が過ぎていくと共に、事態はより複雑に、あらゆる者を舞台の上へと連れ去っていく。  主役端役の別などない。  誰もが皆、それぞれの方角へと……運命を加速させ始めていた。 目は開いた── 意識は重い── 頭は激しく痛みを増して、今にも弾けてしまいそう── よって、寝覚めは最悪であり、耐え難い不快感にまみれながら俺は静かに目を覚ます。 「っ、ァ───」 瞬間、視界に混じったのは奇怪な情景。理解不能な記憶の破片が、脳を内から〈軋〉《きし》ませる。 「ぎ、ぐぁ……痛ぇ」 〈怒涛〉《どとう》の勢いで流れ込む感覚の正体には、おおよそ見当がついている。恐らくこれは〈誰〉《 、》〈か〉《 、》の過去だ。他人の抱いた想い、感じた記憶が自分の中へと強制的に注がれている。 なぜそれが分かるのかと問われれば、感覚的だと応えるしかないだろうが、間違いない。 ぶっ壊れた蛇口のように意識を駆ける、他者の視点。その違和感が俺を今も〈蹂躙〉《じゅうりん》して、壊していくのが分かるのだ。 なぜなら、これは、余りにも── 「受け止め、られねぇ……ッ」 多すぎる──完全な〈容量超過〉《キャパシティオーバー》。強大すぎる他我の〈波濤〉《はとう》を、ゼファー・コールレインは受け止めきれない。 噛み締めすぎて奥歯に〈罅〉《ひび》が走ったものの、内部崩壊は〈粛々〉《しゅくしゅく》と進行中だ。脳髄から心臓、血液、臓器までもが異常な域でアストラルと感応している。 まるで〈星辰奏者〉《エスペラント》の閾を超え、より上位の存在へと造り替える真っ最中であるかのように、ッ。 当人の器を無視して行われる革新の産声。しかしそれが終わるまで、俺が果たして自分を維持できるだろうかと言われれば……それは無論、否だろう。 未来は恐らく、水風船かトマトシチューだ。死ぬ、死ぬ死ぬ──死んでしまう。 「誰か、頼む……!」 だから苦悶に頭部を掴みながら、伸ばした指で空を〈掻〉《か》いた。 このままだと星の光で自滅する。強化されるはずの過程に俺は殺されてしまうと悟り、助けを求めて── 「大丈夫」 隣にいた少女の影に、そっと手を握られた。 「ここにいるのは私だけ。もう少し、休んでいても構わないわよ」 「……そうかい、有りがたいことで」 そこで、覗き込むヴェンデッタとの触れ合いに……ようやく意識が鮮明化する。 急速に色を取り戻していく現実感。四肢の感覚、そして自意識。ついでに、英雄から受けた傷まで痛みがぶり返してきたものの、自意識が削られるさっきまでの喪失感に比べれば幾分マシというものだ。 痛いというのは生の証。俺はまだ生きていると確認して、それを支えに荒い息を整える。心の余裕を取り戻していく。 寝たまま首を動かしてみれば、今いる場所はどうやら自室のベッドらしい。まずその事実に、小さくない驚きを感じた。 最後の記憶が、ヴァルゼライドと斬り合っている光景でぷっつり途切れているせいか、あのまま死んだものだと思っていた。 どういう風にここまで〈辿〉《たど》り着いたのか、そもそもなぜ生き延びれたのかまったく想像できないままだが……ともかく。 その疑問はとりあえず置いておこう。紛れもない〈僥倖〉《ぎょうこう》を噛み締めるより──そう、今は。 「なるほどね、〈粒〉《 、》〈子〉《 、》〈の〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》がよく視えるよ。くそったれ」 こちらの光景、狂ってしまった目玉の方がよっぽど大事だ。 どうも運命とやらは、手放しに生還を歓迎させてくれないらしい。明らかな変化が俺の身体に起こっていると、苦々しくも自覚する。 つうかもう、お手上げね。何だよこれは。〈喉〉《のど》を震わせるだけで身体中が痛いのに、こみ上げてくる諦めの苦笑をどうにも止められねえじゃんか。 「一応聞くけど、俺って別に〈星辰光〉《アステリズム》を発動してたりしないよな?」 「承知の事実を問いかけるのはやめなさい。まあ、見ての通りということよ。あなたは今や、とても私に〈近〉《 、》〈づ〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》」 「分かるでしょう、互いの間で行き来する〈星辰体〉《アストラル》の輝きが」 ヴェンデッタから俺へ、そして俺からヴェンデッタへと……流れ行く星の〈煌〉《きら》めき。 明らかに前者の量が圧倒的なその流れこそ、身体を軋ませている原因の一つだろう。どうやら今も、俺はこいつの影響を受けているらしい。 常人には見えない、まさに不可視の〈導線〉《ライン》。ならばそれを断ち切れば解決するが、しかしそう旨い話があるわけもなく…… 「〈繋〉《つな》がりを解く段階なんて、とうに過ぎてしまったわ。仮に解除できたとしても、やればあなたは死ぬだけよ──〈天霆〉《アレ》の光を受けたもの」 「〈光崩壊〉《こうほうかい》による死滅の斬撃。本来ならあのまま終わっていたけれど、今もこうして生きているのは、やはり〈同調〉《リンク》の高まりゆえね」 「それでも、強引に命を〈繋〉《つな》いでいるわけだから予断を許しはしないけど……」 つまり、俺の身体は正真正銘〈壊〉《 、》〈れ〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》ということだ。死に体にも程がある。 常に〈逆襲〉《ヴェンデッタ》の恩恵を流し込まれて、苦しんで。けれどそれを拒否してしまえば、今度はすぐに英雄から刻まれた〈後遺症〉《ガンマレイ》で天に召されるというわけで…… 軽くまとめてみれば、見事なほど終わっているな。本当に、ため息さえ漏れてこないとはこのことだよ。 ゼファー・コールレインの頑張りは、あえなく終了。一矢はそこそこ報いたものの、巻き返す可能性はどうやらとっくに潰れたらしい。 だから── 「もういいさ、俺のことは捨てて行け」 不思議と、そう……諦めではなく、心穏やかな気持ちで俺はヴェンデッタにそう告げた。 驚きに目を見開く顔は新鮮で、どうだ一杯食わせてやったと思いつつ口の端をつり上げる。最後の優しさ、味わえよ。 「チトセを頼れ、あいつならきっと上手くやるはずだ。おまえの星さえ必ず使いこなせるだろうぜ」 「期待させて悪かったな」 そう言いながら、ちょっとした充足と共に頬を撫でて笑いかけた。肩の荷が下りたような、情けなくともやり遂げたというこの気持ちはなんだろうか。分からないままであったとしても、今はこいつへ優しく接してやりたかった。 だって、俺はもうヴェンデッタを単に恐怖の対象として見られないから。 こいつの心と深い部分で〈繋〉《つな》がって、感じた想いにやっと気づいた。俺はこいつを恐かったんじゃない、〈罪〉《 、》〈悪〉《 、》〈感〉《 、》から逃げるために見たくなかった……怯えてた。 雪崩れ込んだ過去や記憶は錯綜しながら頭の中を駆け抜けて、あまりの量に圧迫され詳細をほとんど覚えていないものの……今まで向けた拒絶と恐れが的外れだったこと確かだろうと理解する。 痛い、すまない、ごめんなさいと──繰り返し繰り返し、こいつに向けて湧き上がった感情はその大半が謝罪の念。 なぜかは分からないが、俺は確かに詫びなければならない罪を犯している……そんな気がして。 ゆえに、ここでそれを清算しなければならない。負け犬の末路に付き合わせてはならないと、心の底から思うのだ。 「馬鹿ね、ええ本当に大馬鹿よ。変な気をつかわないで」 ──そう伝えた時、優しく抱きしめられた小さな温もり。 慈しむように、あやすように抱き締めながらヴェンデッタは俺の髪をそっとその手で撫でていた。瑞々しい、少女の香りが俺を包む。 「私がゼファーを捨てるだなんて。そんな未来、何があっても訪れたりはしないんだから」 「勝手に一人で、終わったことにしないでちょうだい。最後まで付き合うと、最初から言ったじゃないの。そうしたいから、そうするだけよ」 そして、こつんと額を合わせながら華のような笑顔を見せる。 「ね、だから逃げちゃ駄目。勝負はまだまだここからじゃない」 「どんな結末になったとしても、最後までやりきりましょう? あなたの意地を、私に見せて」 信じているわ。大好きなのよ、付き合うからと……〈眩〉《まぶ》しいほど真っ直ぐな愛情。 照れくさくなるほど純粋で、しかし何より過酷な運命へと誘う声に対して、俺は。 ああ、思わず…… 「うわ。出たよ、得意の無茶振りが……」 〈辟易〉《へきえき》したように〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》嘆息した。まったく毎度すぐこれだ、実は脳筋じゃねえのこいつ? 「そこだ行け行け諦めるな、進んでいればどうにかなるぜー、なんてのは英雄魔人の特権だっつの」 根性論ばかりを口にして、正しいことをしろと言って…… 「だいたい俺は──」 ろくでなしの甲斐性なしだと、おまえが一番分かっているはずなのに。 「凡人だから、出来ないから。きっと無理だ。もう止めよう」 「なんて戯言、私が許すと思っていたの? あらやだこの子、物覚えが悪いのね。〈躾〉《しつけ》けがまだまだ足りないみたい」 「どうしてほしいかなんて、もうゼファーは分かっているでしょう?」 そんなことを、何度否定されてもへこたれずに言うものだから。 「……はっ、そりゃまた確かに」 希望など見えない絶望だらけの現状でも、やるしかないと発破をかけられてしまうのだ。 ならばもう、生かすために離れろとか、逃げたりやめたりなんて言葉は不必要な痴れ言だろう。自分が再起を選んだようにヴェンデッタもまたそれと等しく、共に行くと決意する。 ならば、こいつを俺の地獄へ連れて行こう。 「しゃあねえ、そこまで言うなら付き合えよ」 心は決まり、瀕死の身体で開き直った。よってそろそろ認めよう──俺たちはもはや、切り離せない運命共同体なのだと。 生きるも、死ぬも、勝つも、負けるも、すべてを二人で共有する馬鹿みたいな関係なのだと受け入れた。 「ま、チトセもおまえのことはきっと扱いかねるだろうしな。小言ばかりのこまっしゃくれた毒舌女、付き合えるのは俺ぐらいか」 「いいのよ、あなたが選んでくれるなら」 「それだけで私は幸せ……ん、ちゅ──」 ……そして、寄せられた唇を気負うことなく受け止める。 その柔らかさはどこか懐かしく、印象に残る温もりだった。唾液の橋を残して互いの顔がゆっくりと離れる。 神秘的な相貌へヴェンデッタは束の間、女としての艶を乗せる。これもまた、なぜか懐かしく感じる微笑。濡れるような蜜の香りが伝わった。 「さあ、たっぷり癒してあげる……」 桜色へ頬を染めながらの、〈淫靡〉《いんび》な誘惑。 俺は傷だらけの身体で、抵抗せずその愛情へと身を任せた。  そして──二人が逢瀬を交わしているのと、時同じく。 「いちゃつきおって、いっそ混ざってやるべきか──妬ましい」  隣の部屋、食卓のテーブルを指先で小突きながらチトセはぽつりと〈呟〉《つぶや》いた。  何だこれは、貧乏くじを引かされたぞと、ふて腐れる少女のように眉間の〈皺〉《しわ》を揉み解す。  まあ命を危機を脱した後だ。生存本能が〈滾〉《たぎ》るというのも一理ある。  愛を交わす、実に結構──処女と違ってとりわけ男は、性行為で減るものもない。  一人や二人、愛人なり妾なり認めてやるという度量もあれば、ヴェンデッタという存在の重要性も分かっている。情で縛り付けられるなら、今更そこに文句はないのだ。ああ、いいぞいいぞ好きにヤれ。  文句はない、ないぞ、ないのだ……だがしかし。 「どうもこれは納得いかんな」  男を救った功労者として、苦虫を噛み潰した顔になるのは仕方がないことなのだろう。  こういうのを、〈鳶〉《トビ》に油揚げを〈掻〉《か》っ〈攫〉《さら》われたというのだろうか? チトセは静かに、本日何度目かの嘆息を吐きだした。 「決めた──事が終われば奴を強姦するとしよう。思うが〈侭〉《まま》、天国を見せてやらねばならん」 「ご自愛くださいお姉様。幼女に手を出す〈不埒〉《ふらち》者など、本来なら牢にぶち込む類でしょうに。 むしろ個人的には、地獄を見せて然るべきかと」 「はっ、冗談だとも聞き流せ」 「私とて〈愚痴〉《ぐち》の一つも言いたくなるさ。現状と、これからの不透明さを思えばな」  まあ確かにと、そこにはサヤも同意せざるを得なかった。  彼女ら、もとい〈裁剣天秤〉《ライブラ》の置かれた現状は率直に言って最悪だ。先の反乱において選りすぐった〈星辰奏者〉《エスペラント》の大半を喪失し、忠と実力を備えていた手駒は大きく数を減らしている。  おかげで、何をするにも手が足りない。どんな作戦行動にも数の多寡はあればあるほど喜ばしいのだ。  ならば不足を補充すべきだが、それも恐らく不可能だろう。  チトセの〈叛意〉《はんい》を読んでいたヴァルゼライドが、既に彼女を反逆者と認定して通達しているのは間違いない。  天秤における末端、今回動員しなかった兵については押さえられているも同然だった。並外れた意志力か、チトセに対する絶対の忠心なくば、英雄に歯向かうことなど誰にも出来はしないのだ。  よって一時、退却後にゼファーの住処を仮宿と彼女は定めた。  なにせゼファーとヴェンデッタ、この二人だけがこちらの手にした現状を打破しうる唯一無二の持ち札である。彼らにとって落ち着ける場所、少しでも短時間で療養できる空間を選択するのは当然の帰結といえるだろう。  連中にとって、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の価値が健在なのも大きい。  ゆえに、決定打を押さえているのは現状チトセということなのだが、事の趨勢はそう簡単にいかないのが悩みどころだ。 「情報が圧倒的に足らん」  なぜならまず、窮地を覆すにあたって今後の指針が見えていない。正義の女神は切り込むべき最終的な到達点を、未だ掴んでいなかった。  半壊している大和の使徒、その眷属たる魔星たち。そして対するヴァルゼライドと、彼らが演じる最後の聖戦……  通常知りえない陰謀であり、それらは常に闇の中へ隠れている。解き明かすべき材料にさえ、チトセは出会えていなかった。  情報もまた力、そしてこの場合それは下手な武力よりよほど重要なものにあたる。  極論、機と覚悟と運があれば一点突破は可能なのだ。セントラルの構造や軍内部の体制を知り尽くしたチトセにとって、残った部下を犠牲にすれば英雄閣下が籠城を決め込んでも〈辿〉《たど》り着くのは難しくない。  マルスとウラヌスを二体同時に相手というなら話は別だが、ともあれ。  そこから先が続かない。  誰を、どういう手順で討ち払えば? 真なる勝利を手に出来る? 分からないまま突貫するのは〈勿論〉《もちろん》、愚考。ゆえに賢く、膠着している。 「せめてランスロー殿と連絡が取れればな……」  第三諜報部隊〈深謀双児〉《ジェミニ》隊長、シン・ランスロー。  表向きは忠臣、しかし裏では聖教国に属している〈諜報員〉《エージェント》。二国間の政争を潜り抜けてきた男は、こういう時こそ役に立つはずの札だろうに。  今回の件で同盟を破棄されたかもしれないが、少なくとも渡りがつけば交渉くらいは出来ていた。ヴェンデッタをダシにすれば、更にヴァルゼライドへ探りを入れるよう仕向けれたであろうものの……それも既に後の祭り。  結果、手が何も打てず硬直している。  今ではゼファーが回復後、ヴェンデッタから何かを聞き出せてはいないかと問うことだけが情報源という、その時。  まるで状況にそぐわないノックと共に、続いて開いた扉の先には── 「よう──初めましてだ、天に弓引く〈裁剣〉《アストレア》。  アポ無しで何だが、助っ人はご入り用かい?」  思いがけない〈闖入〉《ちんにゅう》者、道徳倫理の破綻した無頼漢がそこにいた。 「──ほう」 「貴様、ここまでどうやって……ッ」  アスラに対して二人の反応は綺麗に分かれた。チトセは彼にまず感心し、対してサヤはまず警戒する。  何せ外にはしっかりと配下の強化兵を潜ませていた。その布陣が突破されたということは、この男が生身で複数の〈星辰奏者〉《エスペラント》を下したことを意味している。  あるいは、気づかれずに潜入を成功させたのかもしれないが……それもそれで驚異的だろう。凄まじい隠形ということになり、これもまた彼の優秀さを示していることになる。  なんにせよ、ここまで近づきながら彼女たちが今まで共に気づなかったという事実は非常に大きい。  そしてその失態ゆえ、残りの隊員は壊滅したかと思ったが…… 「ああ、単に無効化しただけだ。見つかった場合にだけ良い夢見せてやったんだよ。優しいだろう?」 「それはどうも、感謝しよう」  威風堂々──押し入っておきながらいけしゃあしゃあと言う側もだが、肩をすくめて返す側も、反応としては普通じゃなかった。  予定外の事態において普段通りを装うことが何より重要、ゆえにチトセは己を変えない。同時に裏では風もかくやの回転速度で、思考を動かし続けていた。  この男、名前は確かアスラだったか。初対面だが報告書では知っているため、すぐにそこへと思い当たった。  スラムの統治者にして、荒くれ者を束ねる暴君。確か一度、拳のみでゼファーを圧倒したと聞くがどうやらそれは真実らしいと、男の評価を一段階心の中で引き上げる。  記憶では反動勢力側に属していたという話であるが……〈首謀者〉《アルバート》がアオイの手に落ちたという情報は既に掴んでいるわけで。順当に考えれば、今回の訪問はそれに絡んだ話ということになる。  ──あくまで、常識的に考えればだが。  しかし見る限り、これは勘だがどうにも違和を感じるのは果たして……  予測を重ねるチトセに対して、アスラは独り我知らずと椅子へ大きく腰掛けた。テーブルの上へ足を雑に放り出し、マナーなど〈斟酌〉《しんしゃく》しない〈不遜〉《ふそん》さでケタケタと陽気に笑う。  それこそ見たまま、何一つ大したことを考えてはいないように、口を開いた。 「カカ、あんまりそいつら責めんなよ? なんせ〈俺〉《 、》だ、相手が悪い。   森羅万象、如何に渾然たろうともひとたび掴めばこの通り。理合いを識れば一体となるは容易し、止水の境地は此処に在り──   と、まあ大仰ぶってみたものの、所詮は老いた男の遺産でなぁ。要は児戯だ、くだらねぇ」 「おやおやそれは〈勿体〉《もったい》ない。私としては魅力的な技術に見えて仕方がないぞ? 潜入から暗殺まで、使いどころも山ほどあろうに」 「そうなんだがねぇ……どうにもこう、思い入れが霞んじまったわ。   やはり人生、継がず強請らず、勝ち取るものこそ真実だ。生み出された性能頼りはどうもいかんと理解した。  自分の〈虚〉《うろ》に翻弄されて、不完全に終わるが定め……   ヴァルゼライドやカグツチが、慎重になるわけだよなぁ。どう思う?」 「────さあて、な」  〈静謐〉《せいひつ》に、一瞬だけチトセはそっと視線を細めた。心中ではアスラの重要性が天上知らずに上昇していき、急速に相手を見る目が別のものへと変わっていく。  対称的に、無頼漢はそんな彼女の反応にも無頓着を貫いていた。  自由に。ただ自分が言いたいから。たったそれだけの理由だとこれ見よがしに表現しつつ、先ほど犯した〈失〉《 、》〈敗〉《 、》を〈愚痴〉《ぐち》と共に吐き出していく。 「〈第二太陽〉《アマテラス》の所有権を奪い合うのも結構だが、それで結局、あちらもここまで〈拗〉《こじ》れてやがる。   万全、必勝、期したはずがこの様だ。琴弾きが出てこなければなんも始まりゃしなかった。かといって、無策でいけば俺みたいになるわけで……  用意周到では足らず。無策無策でも不満が残る。浮世がここまで〈難透難解〉《なんとうなんげ》であるのなら、生こそすなわち奈落の底か。他の奴らはようやるものよ」 「あるいは、ならばこそ死後にも残る妄執なのかね……俺だけ空虚であったのは、むしろ救いであったのかもなぁ。   で、その辺どうだよ〈裁剣〉《アストレア》。〈殺塵鬼〉《カーネイジ》と何度か密談してたんだろう?   〈俺〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈の〉《 、》〈魔〉《 、》〈星〉《 、》はちゃんと、〈常世〉《いま》を謳歌していたかい?」  それとも〈雁字〉《がんじ》搦めだったかと、肩をすくめながら悪童は問いかけた。  それは明らかな情報の流出、紛れもない背信行為なのだが……まったく〈躊躇〉《ちゅうちょ》が見られないのは、いっそ清々しいほどだった。  というより、明らかに投げやりである。  悪びれどころか単なる雑談、アスラはそんな認識で自己の裏や真実を思いつくまま吐露している。 「悪いが、奴とは付き合いが浅くてね。おまけに縁も切れたから、そこについては答えられんが……」  よって──それはチトセにとって、値千金の情報源に他ならない。  舞い降りた幸運。罠にも見える博打に対して、〈怯〉《ひる》むことなくチップを乗せた。 「しかし、おまえは意外と博識だな。無法者がよもやここまで事情通とは、ついぞ思っていなかったよ。  何処で、如何に、それを知ったか。教えてくれ──興味があるのだ」 「別にいいぜ、隠す必要もうねえし。 ……色々、飽いてきたからな」  口調はあくまでひたすら軽く、アスラは相手の誘いを受ける。  彼の言葉は今やどれもが真実で、心の感じる通りに動くと、言っているから容赦しない。 「つうわけで、ここから先は〈有〉《 、》〈料〉《 、》といこう。   俺の望みは至極単純、宴をもっと派手にしたい。不完全燃焼だから大きな火種が欲しいのさ」  神星と英雄が描いた〈運命〉《みらい》へ〈辿〉《たど》り着きつつある現在、後は予定調和のまま聖戦の幕が上がるとしても、〈些〉《いささ》かそれではつまらんだろう。  もう少し混迷として構わない。いいや、それこそ望ましい。  何より、宿命から袖にされたこの結果を、アスラは決して我慢できない。  未熟で空虚で、過去を〈僅〉《わず》かも〈顧〉《かえり》みない精神は、他者にとっての都合などまるで無視してあらゆる者を巻き込み始める。  つまりこれは、運命への〈八〉《 、》〈つ〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》だ。  それに付き合うかどうかと、チトセに話を持ち込んだのはやはり気まぐれなのだろう。単に劣勢側の方ならぶつかる敵が多くなる、という子供じみた計算の結果でしかないのかもしれないが……どちらにしても。 「いかがしますか、お姉様」 「是非もない」  渡りに船だ。こちらは見たまま劣勢である。ならば〈餓鬼〉《ガキ》の八つ当たり、それがどうした歓迎しよう──理解しやすい我欲ほど、付き合いやすいものはない。 「戦場程度、幾らでもくれてやろうではないか。生半可な刃ではもはや奴らに届かない」  手負いの獣と同様に、追い詰められた人間ほど恐ろしいものはいない。  敗北や喪失を跳ね除けられるのならば、人は幾らでも残酷になれる面を持つ。余裕を奪われた状況ほどその念は当然強い。  手段を選べる局面など、とうに過ぎ去っていた。  そして皮肉なことだがこの状況、切り札である〈逆襲〉《ヴェンデッタ》にも似合っている。  ゆえにチトセは〈逡巡〉《しゅんじゅん》しない。屈さず〈怯〉《ひる》まず諦めず、残った可能性を追うためならばどんな一手も打つと決めた。 「真実をくれ、魔星の眷属──おまえに意義をくれてやろう」 「いいねぇ、そいつは実に魅力的だ」  契約は成った──魂を〈蝕〉《むしば》む渇きを癒す。  それだけを対価にして、アスラは彼女の手を悠々と取る。  交わされる握手は不履行を許さないという、互いの固い意思表示。  信頼など〈微塵〉《みじん》もなく、だから同時に偽りもない。二人はどこまでも己が本音を〈晒〉《さら》した結果、ここに盟を結ぶのだった。  西暦2578年──その年、世界は崩壊した。  〈星辰体〉《アストラル》技術の争奪に端を発した第五次世界大戦は、全世界規模の空間震災と、地球環境の改変を引き起こした〈大破壊〉《カタストロフ》により幕を下ろす。  有史以来最大となる空前絶後の災禍を前に、既存文明は一新されたのだ。  大戦末期に誕生した、一体の人型人造兵器を残して……  それは、旧時代の置き土産。当時の日本軍タカ派が生み出した初のアストラル運用兵器、その試作型として〈迦具土神〉《カグツチ》壱型は生み出された。  目的は無論、当時の世界大戦にて別方向から戦況を決定づけるために。大陸間を長射程のミサイルや航空兵器が飛び交う中、今までの兵器とはまったく別のアプローチを求めた結果、恒星は当時の軍人たちに必要とされたのである。  その用途とは、単騎による無手での潜入と要所鎮圧。  次代を逆行した正気を疑う製造理念は……しかし、当時の戦争手段を考えれば盲点に位置する妙手であった。  二十一世紀ならばいざ知らず、二十六世紀になれば兵装も劇的な強化と様変わりを遂げていた。  歩兵の一人一人に、重厚な〈強化服〉《パワードスーツ》が支給される時代だ。発展した科学力で兵器が進化した結果、生身の人間ではどうしても大した戦闘力を持てない時代になっていた。  率直に言うのならば、装備の良し悪しで兵の価値が決まるのである。  薬物による〈強化人間〉《ブーステッド》も居はしたが、それが主流であったのは二十三世紀初頭の頃。  人工筋肉と、それを制御掌握する高度な〈補助知能〉《AI》の発展により、それを組み込まれた装備品はあらゆる面で人間の練熟による個体差を凌駕した。  努力を誤差に変えてしまう、創造物の優秀さ。まさに物質文明の極地とも言える時代だったろう。  結果、まず軍隊から格闘戦というものの重要性が一気に崩れる。〈勿論〉《もちろん》ある程度の訓練は行っているものの、その価値は昔と比べて激しく薄れていると言わざるをえない。  なにせ、装着すれば〈補助知能〉《AI》のアシストにより達人の動きが出来る強化服が、山ほどあるのだ。  わざわざ生身の技巧など、学ぶ方が稀というもの。時間を割くだけの価値が時と共に喪失した。  しかもそれにしたとて、より強力になった各種兵器の前には大した力を持ちえない。  蠅にすら命中する精度の誘導ミサイルが開発されていた西暦末期、発明品が人間の限界値をとうに超越していたため、生身の個人など単なる肉の袋としか機能せず……  ゆえに、ここで生きてくるのだ。〈生〉《 、》〈身〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈最〉《 、》〈新〉《 、》〈兵〉《 、》〈器〉《 、》〈を〉《 、》〈も〉《 、》〈凌〉《 、》〈駕〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈驚〉《 、》〈異〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈型〉《 、》〈兵〉《 、》〈器〉《 、》とやらが。  〈迦具土神〉《カグツチ》壱型が完成すればほぼ〈無警戒〉《ノーマーク》で敵国の首都なり、主要な軍事施設なりに送り込める。  まさに別領域からの刺客。時代そのものに背を向けた戦略が完成すれば、かなりの効果が見込めるという目算だった。  そして壱型が完成すれば次は弐型、参型と……量産まで達したなら、後は一気に各国へ潜り込ませてくれようと画策していた目論見は、〈大破壊〉《カタストロフ》の発生により机上の空論として終わる。  世界は滅び、日本は第二の太陽と化した。  残されたのは、ようやく〈完成〉《ロールアウト》したばかりのカグツチだけ。  如何な歴史の悪戯か、彼は一度も戦線へ投入されぬまま次元震で大きく傷つき、製造された〈試験管〉《ゆりかご》へと舞い戻る羽目になったのだ。  本来なら話はそこで終わったろうが、しかし…… 「諦めん、すべては拝する〈大和〉《カミ》がために」  ──忘れてはならない。神星は、人類ではなく被造物だと。  どれだけ傷つき壊れようとも、与えられた命令を果たすことこそ至上の本懐。〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈が〉《 、》〈壊〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈で〉《 、》、入力された命令を止めるはずがなかったのだ。  真に日本が消滅していたのなら、〈流石〉《さすが》に自壊をしていただろう。だが、カグツチは知っている。  最先端の〈星辰体〉《アストラル》研究結果を詰め込まれた鋼の恒星、彼はすぐさま事の次第を把握した。  〈第二太陽〉《アマテラス》、あれぞ我が神──どうかお待ちを。  与えらえた命令通り、叶わず己が、あなた方日本の民を偉大なる支配者としてこの大地へと呼びましょう。  その目的意識は色〈褪〉《あ》せない。日本軍という主が消えて実に千年経った今でも、生まれた時と変わることなくカグツチの中で機能している。  崩壊寸前の命を〈繋〉《つな》ぎ、見るも無残な姿であってもその意志だけは永遠だった。何より時間だけは腐るほどある。人造物ゆえの一途さを最大限に発揮しつつ始まりの魔星は、来たるべき機を待ちながら計画を練り続けていた。  〈人造惑星〉《プラネテス》、〈星辰奏者〉《エスペラント》、オリハルコンにアダマンタイトと……  日本を復活させる技術的な問題と、その転用〈計画〉《プラン》。それは六世紀ほどを費やすことで何とか完成した、のだが。  そこで一度、計画は大きな遅れを見せることになる。  カグツチはこの〈試験管〉《ようすい》から出られない。ゆえに実行を担う協力者の存在が、どうしようもなく欠けていた。  〈第二太陽〉《アマテラス》が降臨してこの場に近づけば、高濃度になる大気中のアストラルを利用して強制的に自己修復をはかることも可能だろう。  しかしそこまで至るには、やはり独力では不可能だ。  ならばと〈眷星神〉《てあし》を造ろうにも、素体は誰が見繕う?  己と理想を同じくする他者が、最後の一手で必要になった。  そしてその行き詰まりは、これから実に四世紀ほどの時間をカグツチへと要求することになる。 「器が矮小。覚悟が足りん。我欲が過ぎる。話にならん」  人間観察の日々──セントラルの深奥たる開かずの間にて、魔星の主は代行者の選定を密かに行い続けていた。  ここは、カグツチを心臓部として動く神星の御許。  〈星辰体〉《アストラル》の動きから人となりを検分するのは実に〈容易〉《たやす》く、されどそれと反比例するかのように適任は現れない。  求めるべきは、紛うことなき傑物。  自分までとはいかずとも、覇気と信念を携えた者が好ましい。  富や名声を求める者など話にならん。軽く利用できたとしても、そういう者は利によって幾らでも転ぶ俗物だ。  そんな輩に背負えるような宿命などでは断じてなく、生半可な存在では重圧に屈し、壊れてしまうが関の山。  さらには単に潔癖なだけであっても不適格。  己が手を汚す覚悟のないものに、いったい何がなせるという?  ゆえに、冥府魔道をそれこそ苦もなく踏破しうるような──  不条理を〈一瞥〉《いちべつ》と共に、軽々切り伏せてしまえるような──  清濁併せ呑みながら、暗闇に〈穢〉《けが》れず、〈煌〉《きら》めきを掲げ続けられる勇者がいい。  そんな有りえざる人間を今か今かと待ち焦がれ、四百年もの間、凡愚秀才天才奇人を検め続けた。  その結果── 「────なんだ、この男は」  破格の男と、ついに出会う。  その時初めて、彼は人類種に対して感嘆の念を抱いたのだ。  圧倒……いいや、見惚れたと言っていい。  今まで定めていた合格基準、それはいったい何だったのかという程に、男はすべてを超越していた。  〈滾〉《たぎ》る情念、うつろわぬ不屈の意志、瞳に宿った〈煌〉《きら》めく覇気はひたすら雄々しく、熱く、強く──  〈日本〉《アマツ》の血が入っていないことが信じられない完成度。  完全無欠の〈英雄〉《モンスター》、その若き姿がそこにあった。 「いいぞ、おまえを選んでやる」  その猛き、鋼の心──大儀の代行者たる資格あり。  呼び寄せた初の謁見にて、世の成り立ちをカグツチは静かに説いた。  そして、後のことは語るに及ばず。クリストファー・ヴァルゼライドは人類初の〈星辰奏者〉《エスペラント》と成り、大虐殺を経て、軍事帝国アドラーの英雄として名を刻んだ。  アストラルの人体適応技術を帝国軍部を浸透にさせ、黄金時代を築き上げた最大の立役者として君臨しながら、裏で神星との密約を進めていく。  〈第二太陽〉《アマテラス》を大地へ降ろすまでは共に──そして事を成し遂げたなら、成果の処遇を決するべく聖戦を行うと彼ら二人は決めている。  カグツチは、日本を今度こそ世界の支配者とするために。  ヴァルゼライドは〈第二太陽〉《アマテラス》そのもの、ないし復活した日本の技術を奪取するため。  最後の一点で譲れず、ならばと激突を定めた。  無論、互いに恨んでなどいない。敵意はある。必ずこの手で滅ぼすと誓っているのも事実だが、相手の道を認めていないわけではないのだ。むしろ敬意さえ抱きながら互いに戦意を向けている。  なぜなら彼らは、どちらも等しく〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈前〉《 、》〈進〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》という恐るべき〈特性〉《あくへき》を備えている。  いわば似通った欠陥を宿す同種だ。そのせいか相手の決意に関しては、奇妙なことに信頼や〈共感〉《シンパシー》さえ覚えている。  諦観とは無縁という生命として致命的な破綻。それを改善せず抱えながら、前だけを見て突き進む。 「ああ、何故だろうな」  そしてその事実を〈反芻〉《はんすう》するたび、カグツチの胸中で何かが熱く〈疼〉《 、》〈く〉《 、》のだ。  半壊した身体を忘れ、宿敵を殴りつけてやりたくなる。  堪らない。待ち遠しい。ああ、すぐにでも決着を遂げられない我が身に対して、不甲斐なさすら感じるほどに。  それは、明らかな命令外の衝動──本来存在しない〈異常〉《エラー》であった。  カグツチはどこまで行こうと〈人〉《 、》〈造〉《 、》〈物〉《 、》だ。どれだけ人類より性能面で優れていようとも、所詮は科学の産物であり、ならばこそ突破できない限界点や基礎設定というものが厳格に内へと刻み付けられていた。  星を扱うために自意識はあれど、自由意思はその実無い。  千年もの間、刻まれた命令に忠実なのが揺るがぬ証拠。  しかし、ならばこの衝動は──  抗えない想いはいったい、何であるというのだろうか──分からない。  その変化を、壊れたというのであればそうなのだろう。  大和の遺した人造兵器は、明らかにその精神へ仕様外の反応を起こし始めていた。ヴァルゼライドという傑物との〈邂逅〉《かいこう》がもたらした因果に対し、未だそれがどういう結果を導くか、予測できる者はいない。  ただ確実なのは、聖戦が発動すればただで済みはしないということ。  帝国、日本、人に魔星にあらゆる者を巻き込んで、大虐殺すら及びもつかない英雄譚が二人の間で発生するのは間違いなかった。  最後の鍵、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の完成は目前。  約束の時は近い──さあ、運命はすぐそこに。 「“勝つ”のは、己だ」  〈大和〉《カミ》か、宿敵か。それは果たしてどちらに捧げた宣誓であったかは、カグツチ自身にすら分からない。  されど運命の車輪は回る。誰も彼をも巻き込んで、光も影をも〈掻〉《か》き乱して。  星が紡ぐ物語を、静かに描き出していた。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》と〈死想恋歌〉《エウリュディケ》──  彼と彼女が潰えた時、〈第二太陽〉《アマテラス》の帰還は成る。  大抵の場合、人生には転換点というものが存在する。  ある一つの出来事を境に、これまで生きてきた方向性そのものが変わってしまう。結果として良い方に向かうこともあれば、最悪の目を引く可能性も当然等しく転がっている。  人の生とは〈曖昧〉《あいまい》で、ゆえに変化は避け難い。  そして──俺にとっての契機とは振り返るまでもなく、約九年前〈裁剣天秤〉《ライブラ》に配属されたことだった。  帝国軍の門を叩き、〈星辰奏者〉《エスペラント》の素質を見出されたのがすべての始まり。  飢えを〈凌〉《しの》ぐため、身の保証を求めたことから訪れた思いがけない栄達は、地獄への片道切符として俺の運命を予約していたのだろう。  生体検査の結果はそこそこ優等。劣っているわけではないが、〈稀有〉《けう》だからと、もてはやされるほどではないという戦力評価だったはず。  それがまた、何の因果か先代の〈裁剣天秤〉《ライブラ》隊長に見込まれてしまったことが運の尽き──  手続きに〈紆余曲折〉《うよきょくせつ》を経た後、即座に天秤へと配属される〈手筈〉《てはず》になった。  正直、受けた待遇はそれなりのものだったし、客観的に見れば決して割が合わないということはないだろう。暗殺や内部粛清はあったものの、泥に〈塗〉《まみ》れていては掴めなかった金が普通に入ってくる生活。  名誉にしても同じことで、護国の士だのと持ち上げられることも増えた。望んだものでもないが拒む理由も特にない。  改革派に血統派。政情は相変わらず不安定で、仕事は大量。  有り体に言えば、当時は人手が必要だったのだ。たとえ、それが少しばかりマシであるという程度の人材であっても。  やがて、俺は評価され始めるようになる。  挙げた首級が積み重なり、順当に昇進を果たしていく。そして比例するように殺す人間の数も増加の一途を〈辿〉《たど》り始めた。  首を刎ねる。首を刎ねる。毎日毎日、幾つも幾つも……  血の匂いなんてものにはすぐ慣れたが、斬首の瞬間はいつも心が〈僅〉《わず》かに陰った。〈暗殺者〉《おれ》に〈怯〉《おび》える奴、燃えるような目をして〈睨〉《にら》んでくる奴、命乞いをしてくる奴に他にも他にも……という風に。  そいつらが日銭に化ける。命が換金されていく。  悪人を〈骸〉《むくろ》に変えて美味しくメシを喰らう日々、まともでいられる訳がない。  これが帝国の未来を憂い、大儀や未来のために剣を取るような人間なら良かっただろう。狂気の中に置かれようとも己を保つことが立派に出来たのかもしれない。  しかし、俺はそうじゃなかった。別段何か信念があって軍人をやってる訳じゃなく、貧困を抜け出したかったからただ漫然とここにいる。  だからそう──これは護国の刃などではない、単なる作業。〈穢〉《けが》れた日課。  〈昏〉《くら》い惰性に浸された日々が、芯を持たない精神を徐々に徐々に擦り減らしていき磨耗していく。  密偵。暗殺。拷問。虐殺。加速度的に増えていく汚れ仕事。  それは帝国のためであり、秩序のためであり、そして民のためであり……知るか知るか、どうでもいい。  我に返れば恐らく終わりで、亡者に追いつかれてしまうだけ。  目を逸らしたままでは当然実感なんて湧くものじゃなく、かと言って卑小な器でいつまでも溜め置けるようなものでもない。いつも不安でいっぱいだった。  背中を預けた相棒はいたが、そいつはあまりに〈眩〉《まぶ》し過ぎて──  生まれもそうだし、迷いなく天才と呼べる星光もそう。〈弛〉《たゆ》まぬ向上心は俺の真逆を行くものだから、日々を虚ろに流れるだけの半端者とは大違い。  振るう剣に迷いはなく、奪った命を背負う覚悟も出来ている。ゆえに気の置けない時間を過ごせた相手ではあったものの、二人の距離は離れていく。  やがてあいつは〈裁剣天秤〉《ライブラ》部隊長への就任を果たした。  選ばれし者は相応の地位へと上り詰め、平凡な者は地を〈這〉《は》いつつそれをただ見ているばかり。  引きずられながら付いて行く。  臆病なため、嫌だと拒否することも出来ない  それからも、下される命令は苛烈さを増していく。  もっと斬れ、もっと殺せと〈堆〉《うずたか》く積まれる手配書、罪状。やがて標的の名前すらも見なくなり命ぜられるままに殺し続ける。  ただ無感情に、機械的に、毎日毎日誰かを斬った。  斬ったし斬ったし斬ったし斬った。  暗闇を覗き込むなら暗闇に染まる、とはよく言ったものである。悪を憎み、腐敗した権力者を断罪する正義のお仕事を続ければ、必然、醜悪な現実ばかりを見てそれを殺すということになる。  どこを向いても、ああ汚い──やめてくれよ冗談じゃねえ。  裁きの女神と違って決意もなければ、英雄と違って理想もない。  行動と気持ちは〈乖離〉《かいり》していき、現実感すら失っていく。  だから思えばあの頃、俺の心はとっくに壊れていたのだろう。凡人の限界を迎えていたことにすら気づけないザマは、悲劇を通り越して〈滑稽〉《こっけい》だ。  そんなある日、〈部〉《、》〈隊〉《、》〈長〉《、》から新たな任務が下された。 「今から一ヵ月後、血統派の幹部共が一堂に会する機会があるらしい。  奴らお抱えの〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》、その一グループが改革派に不利益なものを開発しているようでな。 研究が成果を出してしまえば、この国の改革は十年ほど遅れるだろう。馬鹿に鋏を持たせてしまっては始末に負えない。  ゆえ、彼の連中に裁きの剣を下すのだ。任せたぞ、〈人狼〉《リュカオン》」  〈案山子〉《かかし》のように〈頷〉《うなず》いた俺は、さぞ腐った目をしていたことだろう。  何せ、そう──  自分のことも帝国の行く末も、万事がどうだっていい。  如何な任務であろうとも心を動かすことなく、ただ殺すのみなのだから。  そして、俺は〈潜〉《、》〈入〉《、》〈工〉《、》〈作〉《、》を開始した。  護衛と偽って標的に帯同し寝首を〈掻〉《か》くといういつもの手。いくら警戒意識の強い相手だったとしても、人は身内に対して甘くなる。  根回しは部隊側が既に行っており、こちらも万事抜かりなし。  さして難度も高くない任務で、さっさと終わらせてしまえばそれでいいというただそれだけの──はずだった。  しかし、そこで俺を待っていたのは、人生の救いとなるような家族の暖かさ。  ミリィと、彼女の両親。  まるで日溜まりを思わせるような人たちを前に、ゼファー・コールレインの精神は皮肉にもその均衡と安定を取り戻していくことになる。  ブランシェ一家は優しく、俺へ向ける微笑みには打算が欠片も見えなかった。  曲がりなりにも〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》に連なるグループに属しているというのに、そんなことで軍事技術の開発など務まるのかと思ってしまう人の良さ。  家族と等しい扱いを受ける時間が、心を静かに解きほぐしていく。  絆。無償の愛。穏やかな日々。そんな御為ごかしだったはずの幻が、当たり前に溢れていて……  分かっていたはずだったけれど、温かさを感じてしまい、触れてしまったらもうダメだ。  心の痛みや〈澱〉《よど》み、染み付いて取れない血の匂い──そのどれもが、ここにいたら癒やされていくんじゃないかと思えてしまう。  本当に、本当に。涙が出そうなほどあの家庭は光に満ちていた。  だからこそ、仮初の任務が充実するたびに喜びの影で自責の念が色濃く湧き上がり始めていく。  止めてくれ。お願いします。これ以上、どうか優しくしないでください。  俺は、本当はあなた達を殺すために──奪うために来たんです。  どうしようもない〈屑〉《くず》なんです。最低の塵なんです。  あなた達が優しくする価値なんて、これっぽっちも無いんです。  何もかもぶちまけたいと思う時もあったが、染み付いた職務に対する慣れと反射が行動を縛り付ける。  逃げることや逃がすことも考えたが、しかしそれでは意味もない。  たとえ自分がここで任務を放棄しても、他の誰かがきっとすぐに配属される。そしていずれ殺されるだろう。  あるのは死期が早いか遅いか、その違いのみ。  拒否も、自殺も、逃亡も、どれを選んでも意味はない。  天秤の裁定は覆せない──ブランシェ一家の全滅は、とうの昔に決められてしまっているから。  ゆえに、真実を口にする勇気など持てるはずがなく。  自らの気持ちから目を背けたまま、時は流れていき。  笑顔を見るたびに嬉しくて。自分の中途半端さを突き付けられて。  ずっとこのままでいたくて、死にたくて堪らなくなりながら──  生涯忘れることの出来ない〈あ〉《、》〈の〉《、》〈日〉《、》をついに迎えてしまう。  土壇場まで悩んで、悩んで、悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで──  ああ、けれど。  結局、俺は〈屑〉《くず》だった。  どうしようもない、〈塵屑〉《ごみくず》のままだったんだ。 「──ああ」  目の前には肉塊が二つ。  それは言わずもがな、〈ミ〉《、》〈リ〉《、》〈ィ〉《、》〈の〉《、》〈両〉《、》〈親〉《、》〈で〉《、》〈あ〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》。恐らく首を落とされたことにも気づけなかったことだろう介錯は、偽善であってもせめてと送る手向けだった。  もう、この人たちの声は聞けない。笑顔なんて見られない。  あの暖かい時間は、二度と戻ることはない。  〈罅〉《ひび》割れた心で何も考えないよう務めながら、重い足取りで外へと向かう。  俺に課せられた指令はブランシェ一家の暗殺で、ああ駄目だ、〈あ〉《、》〈と〉《、》〈一〉《、》〈人〉《、》処分対象が残っている。  命令を遂行するだけの人形に歩みを止めることは許されない。  心は砕けて闇へと落ちた。そのはずなのに、何かが奥で軋んでいる。  感情の正体に大方の見当はついていたものの……見えないふりして押し殺す。  どうした〈暗殺者〉《ゼファー》、こんなもの単なる任務だろうがと言い聞かせるも上手くいかず、命さえどうでもよくなる。  いっそ彼女を殺した後に、自分も死ぬのがいいだろうか?  〈贖罪〉《しょくざい》だなんて大層なものじゃないし、その資格もあるはずがない。ただ心が耐えられないからそれは途轍もない名案のように思えたのだ。  もう、生きているのも〈億劫〉《おっくう》だ。  ゆえに、さあ、少女の〈亡骸〉《なきがら》を抱きしめながら自分も腹を掻っ〈捌〉《さば》こうと考えながら、自嘲したその瞬間──  連続した爆発音が響き渡り、視界が炎の赤で染まった。  事故の類とは違う、明らかな指向性を有した攻撃による破壊の焔。壁を破壊しながら瓦礫を焦がし、施設の外にある街並みが視界に入る。  そこで、目の当たりにした光景は── 「な、に……?」  広がっていたのは地獄絵図。存在していたはずの日溜まりは紅い炎に染め変えられ、街のすべてが焼け落ちていた。  建物は無残に倒壊し、暴虐の意志に踏み荒らされているかの如く〈区画〉《エリア》一帯、あらゆる者が哀れに命を奪われている。  大きな瓦礫で身体が押し潰されている者。もはや、ほとんど原形を留めていない者が大半だ。男か女かも分からない。  〈剥〉《む》き出しの鉄骨で串刺しになっている者。それは人形に針を何本も突き刺したような子供遊びじみた有様だ。ただ適当にどうでもいいという風に、命が潰され散らされている。  そのいずれも、浮かばれることすらない無情で無残な〈蹂躙〉《じゅうりん》劇。  死してなお、人としての尊厳が踏み〈躙〉《にじ》られる光景に解凍された精神が自然と息を詰まらせた。 「どうして、こんな──」  阿鼻叫喚の光景に、心臓の鼓動が加速する。こうして立っていられるのが不思議なほど、自分自身が抑えられない。  まるで糸が切れてしまったかのような心が、一つの可能性に思い至る。  ……自分に責任を求め始める。 「俺、なのか……?」  それは〈区画〉《エリア》全域に渡る、要人の同時殺害。  〈俺〉《、》〈は〉《、》〈こ〉《、》〈の〉《、》〈た〉《、》〈め〉《、》〈に〉《、》、〈送〉《、》〈り〉《、》〈込〉《、》〈ま〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》〈で〉《、》〈は〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈か〉《、》?  隊長は言っていた、裁きの対象はグループだと。  集団において開発情報は共有化されているはずであり、一家を殺せばそれですべてを根絶したとは言えないだろう。  ゆえに、求められるのは一網打尽。ブランシェ一家暗殺と機を同じくしての〈区画〉《エリア》一帯、破壊活動。及び虐殺をやったとしてもおかしくない。  自分の暗殺が何らかのスイッチとして、秘密裏に作戦遂行へ組み込まれていたということ。有り得ないと、いったいどうして言い切れるというのだろうか。  一概に被害妄想と思えない想像に目が回る。平衡感覚が保てない。自らの下した刃の重さに、今更ながらに震えが込み上げてきた。  炎に照らされるのは、強大な運命に巻き込まれた被害者。  理不尽な理由により命を奪われた、物言わぬ屍。  怖い、すまないと、何が何だか分からないまま謝りたくてたまらないその時に。 「ッ、──」  同時、〈眩〉《まぶ》しい白光が閃いてさらなる爆発が間近で起こった。  目の前を覆う轟炎、爆風……無差別攻撃。  ブランシェ夫妻の〈亡骸〉《なきがら》がそのままであった背後の家屋も、破壊に巻き込まれて崩れ落ちる。  弔うことさえも許されず、瓦礫に潰され呑み込まれていく。  そして、炎に映る奇怪な影は、果たして。 「なんだよ、あれは……」  紅の災禍と蒼の凶禍。  見たこともない異形が、刹那、こちらへと意識を向けた。 「────」  視線が交錯したのは一瞬。怪物は他方へと向かい去っていく。  〈ア〉《、》〈レ〉《、》が何なのかは分からない、見たこともない。だが、この街を地獄へと染め変えた主犯であるのは間違いなかった。  俺が見逃されたのは、きっと石ころとしか思われてなかったから。こいつを殺すよりも面白い獲物、あるいは目標がいるのだと……恐らくそう判断されたからに過ぎず〈僅〉《わず》かな瞬間、運命から見逃される。  そして同時に、ああ。  背後に生まれた気配。現われた女の子は── 「ミ、リィ──」  絶望の状況下、最も居合わせたくなかった最後の家族。  両親を奪い、日常を奪い、そしてこれから殺さなくてはならない少女が両親の〈骸〉《むくろ》を前に呆然と立ち〈竦〉《すく》んでいた。 「お、兄ちゃん……どう、なってるの? なんで……  わたし……嫌だよ、こんな……い、やぁっ……」  炎に照らされ涙混じりに問いかけられるも、沈黙以外を返せない。  言えるはずがない、などと思うのもきっと〈欺瞞〉《ぎまん》なのだろう。  もうとっくに、俺たちの関係は崩れている。それでも〈咄嗟〉《とっさ》に得物の刃を隠してしまった浅ましさが、ひたすら胸に痛かった。  〈こ〉《、》〈れ〉《、》は俺が招いたに等しい災禍で、だからこそ彼女の顔が見られなくて、嫌われるのを今この時でも恐れながら必死に無表情を装っている。  ああ、笑ってしまう醜さだ。この期に及んで、親まで殺して阿呆かと。  そう己を罵り──奮い立たせて。  最後の任務を果たすべく、後ろ手で柄を握り踏み出して……しかし。 「ッ、危ない──」  さらなる爆発が間近で起こり、思わず俺は身体ごとミリィを庇った。  すでに限界を迎えていたであろう彼女は、その衝撃をきっかけに腕の中であっさり意識を喪失する。  抱き起こし、確認しても目覚めない。悪夢に〈魘〉《うな》されながらしがみ付く様に可愛い妹は気絶していた。 「お父さん……お母、さん……」  ──その〈呻〉《うめ》きが何より胸を刺し貫く。  生き地獄であったろう。辛かったろう。そして、これから先の人生にも希望はきっとないのだろう。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》が標的の生き残りを許すなどとは思えないし、無論一人で逃げられるはずもなく、俺が仮に裏切ったとて結末はもう見えている。  ならば、いっそ──  震えた腕で、静かに刃を振り上げた。  今ならまだ、この子を安らかに、もうこれ以上苦しませることなく──逝かせることができるだろう。  すまない、すまない、すまない、と。  もう何に謝っているのかさえ分からず、腕を振り下ろしたその刹那── 「お兄ちゃん……生きてて、良かった……」  その〈身動〉《みじろ》ぎに、すべての時間が凍てついて―― 「行っちゃ、やだ……やだよぉ……」  うっすらと目を開けた、涙を一筋流しながらの〈呟〉《つぶや》きに、意識が漂白されたのだった。  もはや、何も考えられない。ただ彼女の体温だけを感じながら、物言うことなく立ち尽くし掲げたはずの手を下ろす。  ミリィは眠りに落ちたかのように再び瞳を閉じていた。残された自分は、湧き上がって来る衝動のまま血の滲むほどに己が拳を握り込む。  俺は──いったい、今まで何をしていたんだ?  自罰の怒りに身を焼きながら、ようやくこの時、人間へと戻れたような気がしていた。  己の〈屑〉《くず》さ。臆病さ。苦しさ弱さ、過去痛み……  それらすべて、あらゆるものを言い訳にいったい何をやっている?  軍は正義で、抗ったとて逃げられないから。したり顔で世の中を理解した気になりながら自分自身から目を逸らして、この子の命を奪うのか?  成すべきことすらも定めず、ただ状況に流されてここへ来ただけのゼファー・コールレインなんかに……  この優しい少女を殺していい権利が、いったいどこにあるという?  まるで善人であるかのように、苦しまずに殺すことが彼女のためなど馬鹿げているにも程があるだろう。  殺して、殺して、殺して、殺して──そして、ようやくこの瀬戸際で。 「っ、く……あ、ああっ……うあああああああぁぁッ…………」  俺は涙を流しながら、ミリィの身体を抱き締めた。  そんな資格はありはしないが、せめて今だけ。どうか、神様。  心に蘇る熱い感情──まるで子供のように〈嗚咽〉《おえつ》を〈零〉《こぼ》す。 「任務ご苦労様でした、副隊長殿……その子は?」 「────」  ──そして、どれだけ経ったろう。  背後に出現したのは同じく〈裁剣天秤〉《ライブラ》所属の〈星辰奏者〉《エスペラント》、その一小隊。  やはり軍部総出の作戦だったという訳だろうか。情報を与えられていなかったのは〈先駆〉《おれ》だけで、この混乱は彼らにとって織り込み済みだったのかもしれないが……  もはや、それさえどうでもいい。  立ち上がり、ミリィを抱きしめながら振り向く。  炎を反射して紅く輝く俺の刃に気づきながらも、同僚は眉を〈顰〉《しか》めていた。 「標的の一人ですか。これほど幼いのに、いえ……  避け難い宿命とはいえ、思えば不憫なものですね……せめて、安らかに逝かせてあげましょう」  〈頷〉《うなず》きもせず黙ったまま、銀の刃へと視線を落とす。  思考は徐々に先鋭化、心だけが灼熱に沸騰していくのを感じた。  軍の思惑、大義、現状と未来。  殺してきた人間の顔、仲間たちの顔、チトセの顔、そして──  全てが〈過〉《よ》ぎり、そして消えた。  迷いはない。後悔もない。  俺はこの決断を、心の底から誇りに思う。 「副隊長? どうされました、裁きの執行を……」 「──黙れ」  それだけを、はっきりと〈呟〉《つぶや》いて──  振り向き様に首を刈り、勤勉な部下を殺した。  仲間殺しは特級の背信行為と分かっていたが、しかし決して止まらない。止まるつもりもまったくない。  ようやく気づいた真実が、胸に強く息づいている。 「──この子だけはやらせない」  そう、守るのだ。  何に代えても……過去も、現在も、自分自身を捧げても。  すべてを闇に捨てたとしても構いやしないと決意した、迷わない。 「邪魔をするな──でないと全員殺す羽目になる」  恐らく、俺は幽鬼じみた表情を浮かべていたことだろう。  心神喪失にも等しい状態でありながら、しかし力強く宣誓する。  少女の騎士なんか気取ってるわけじゃない、ただの意地を貫き通す。ようやく目が覚めた〈塵屑〉《ごみくず》の、馬鹿な言い種を形にするのだ。 「副隊長……馬鹿な、乱心か!」  騒ぎを嗅ぎつけた星辰奏者が集まって来る。どいつも浮かべているのは一様に驚愕の表情だ。  そりゃそうだな。俺は軍人であり、こんな愚行は裏切り以外の何物でもない。当然、死罪が待っている。  物言わぬ遺体となった同僚と、下手人である〈副隊長〉《おれ》を見て動揺が伝播していくのが分かった。  俺も以前であれば、〈そ〉《、》〈っ〉《、》〈ち〉《、》〈側〉《、》だったが、既に何も関係ない。  ──関係ない。 「止まれ、コールレイン少佐! これもまた大義の一環、貴官が情に流されてはいったい何が示せるというッ」 「今更そのような、どうして──」 「隊長も悲しむでしょう。あなたほどの方がッ」  あなたほど、とは……買い被りも程度が過ぎれば笑えない。鼻で笑い飛ばしながら星光を起動して、眼前へと刃を構える。  遅すぎるかもしれないし、許されることもないだろう。  だが、それでも今度こそは。この思いだけは譲れないと奪った少女の父母に誓う。  だから── 「どけよ、おまえら──俺は行く  自殺志願ならそこにいろ。ただし、一切容赦しない」  焔が激しく燃えていた。  熱が全身を駆け巡り、それが駆動する力となる。  今までどんな任務でも感じたことのない〈そ〉《、》〈れ〉《、》を、腕の中の少女から与えられて。 「う、あ、あああああああああああああああああああァァァァッ!!」  背信の愚者を迎え撃つのは、居並ぶ多数の天秤兵。  その真っ直中へと、〈咆哮〉《ほうこう》を轟かせながら突撃するのだ。  そして、裏切りの血と死を〈撒〉《ま》き散らしたあげく……  相棒との別離を血涙と共に経験し……  怪物に〈嬲〉《なぶ》られ、英雄に最後の意地まで叩き折られて……  今もまだ、守ると決めた少女への〈贖罪〉《しょくざい》の日々は続いていた。  俺のすべてはミリィのために。  こんなことで償えるとは欠片も思っていないけれど、こんな自分を救ってくれた優しく強い君に対して生きること。それをどうか許してほしい。  仮初の〈兄妹〉《かぞく》であっても、いつか絆を真実へと変えるために。  ほんの少しでもいい、あの日々を取り戻したいと願うから。こうして今も生きている。  誰にも言えない生き恥を、晒しながら生きている。 ティナとティセに連れられて、俺たちはスラムにある反動勢力のアジトとやらにやって来る。 すると、そこにいたのは軍服姿のおっちゃんで……その姿に参るね、どうも。 この手の場所に〈知〉《、》〈り〉《、》〈合〉《、》〈い〉《、》がいるというのは、分かっていても慣れないものだ。エプロン姿の中年親父が元軍属だなんて、どうして予想できるだろう。 「おう大将、ご苦労さん。首尾の方はまずまずってとこか」 「そちらこそ大変だったな。怪物の相手をさせちまったが……ま、おまえにとっては本望か」 「応とも、なあに心配御無用。骨のある相手と〈戦〉《ヤ》れて、気分の悪いはずもなし」 「決着は持ち越しになっちまったが。ああ、待ちきれんぜ」 んで、二人のこの仲である。同じ勢力に身を置く者ならば当然かもしれないが改めて見たとしても、やはりどこか釈然としない。 傍らに控えていた兵士の一人が、魔星との交戦による結果を報告する──あれから〈自軍〉《そちら》の被害は甚大で、幾人かの犠牲も出たらしい。 全滅に至らなかったのは〈僥倖〉《ぎょうこう》にも思えるが、おっちゃんに率いられたこの連中の部隊練度はざっと見たところ相当だった。俺に刺さる視線もまた警戒心が締まっている。単なる烏合の衆じゃない。 これならば撤退戦に集中すれば損害を抑えることも可能だろう。もとい、皆殺しにあっていないだけで上等なのは間違いなかった。 そういう部分も含めて現状、状況は不透明なことだらけであり……ひとまず話を聞くしかない。 「で、単刀直入に教えてくれよ。おっちゃん、あんた一体〈ど〉《、》〈う〉《、》〈い〉《、》〈う〉《、》人間なんだ?」 「そうだなぁ……おまえにこうして話すのは初めてだったか。見ての通り〈退役軍人〉《リタイア》さ」 「元〈深謀双児〉《ジェミニ》隊長、んで軍にいた間にいろいろあって、今では〈反動勢力〉《レジスタンス》なんてものを率いてる落伍者だよ。おまえと同じだ」 返答に思わず眉間を揉み解す。似た境遇だと思ってはいたがまさかここまでとは、互いに素性を伏せていたところまで一緒だったという訳か。 いや、隠し果せてたなどと思っていたのはたぶん俺だけなのだろう。〈深謀双児〉《ジェミニ》は諜報活動を主任務とする部隊であり、その分野においては天秤すらも及ばない。 しかも相手は元部隊長であるのだから俺の素性は割れてたものと、そう考えたほうが良さそうだ。 「で、最終目標は国家転覆ってか? 意趣返しにしても過激だな、おい」 「いや、違う。そういう奴も末端の構成員にはいるのかもしれないが……」 言って、おっちゃんはどこか遠くを眺めるように眼を細める。それは、まるで己の過去を回顧するかのような眼差しで…… 「──大義ってほどでもねえが、こんな俺にも意地があるのさ」 「ま、あれだな。放っておけない奴がいるから、こういうことをやっているんだよ。集団としてはともかく、個人としての目的意識はそんなところになるわけさ」 その表情を見て思わず少しほっとする。いかつい外見に似合わぬ人の良さは相変わらずのようで、こうして聞いていても思わずどこか引き込まれてしまう。 口にした言葉が真実かどうかはさておき、ひとまず額面通りに受け取っておいてもいいだろう。 レストランオーナーとしての顔しか見たことがなかったが、組織の頭という役どころもなかなかどうして似合っている。こういうのを人〈誑〉《たら》しと言うのだろうか。 「なるほどな。おっちゃんについては大方理解したわ」 「んで、そいつらは? なんつうか、どうも毛色が違うみたいだけどよ」 「やーん、知りたいですか? 個人的な興味ですか?」 「さてはこの手の格好の〈愛好家〉《フェチ》だったとか。普段と違うわたしたちの姿を見て、グッときちゃってるとか?」 「マニアックですね。そういう趣味はどうかと思いますよ」 この状況下においても、双子どもの調子はいつもと全く変わらない。どうかと思うのはこっちの方だが……この明るさは擬態の一種なのだろう。 嘘くさい、というか〈わ〉《 、》〈ざ〉《 、》〈と〉《 、》な部分が含まれているのは間違いないと今なら分かる。 「こいつらはちょっとした筋からの協力者だ。言うなれば、目的を同じくする利害関係上の同士ってとこかな」 「双子でクジョウねぇ……如何にも〈極東黄金教〉《エルドラド・ジパング》らしい名前だな、お二人さん」 「乙女の秘密にそうやって立ち入ってくるのは良くないと思いまーす」 「そもそも、名前について〈貴方〉《あなた》に言われたくありませんし」 仲がいいのか悪いのか、双子とアスラがやりあっている様子を見て思う。 大和由来の苗字とやらについては俺が知る由もないが、その手の〈命名〉《ひびき》を好む国はといえば聖教皇国くらいしか思い浮かばない。 もしそうであるとしたら、ティナとティセは帝国外から紛れた別勢力ということになる。おっちゃんと協力関係にあるんなら、以前から互いに裏の顔を知っていたいう話になるが……ああ、まったくキナ臭い。 こんなにも近くにいた連中が、次から次に裏の顔を見せ始める。世界が剥がれ落ちていくような感覚は軍属時代を思い出し、どうにも好きになれなかった。 「んで、アスラはスラム街のトップだな。その腕っ節はおまえさんも見ての通りで、気性の荒い〈破落戸〉《ごろつき》どもにまでも知れ渡っている」 「よくこんな危ない奴、組織に抱えようと思ったよな。俺だったら絶対にゴメンだわ」 「危険な存在と言えばそうだが、俺たちの仕掛けようとしてるのは戦いだ。強さにこそ価値があるっつうのは、どうにも覆せない部分でよ」 「実際、こいつがウチの筆頭戦力。少々扱い辛かろうが、どうしても手放せないってわけだ」 まあ、そうだろうな。人間性を抜きにすればこいつの実力は折り紙つき──というよりも、異常といえる領域に立ち入っている。 〈貧民窟〉《スラム》を牛耳っているというのも納得だ。荒廃極まった街とは言えども人間の集まりであり、カリスマ的な存在がいれば自然と耳目を集めることになる。 総統閣下が秩序なら、こっちはそのまま弱肉強食。すなわち混沌であり、それは時に強烈な魅力を放つ。 アスラの有する強さ、そしてあの良くも悪くも拳一筋の単純なノリは、あの暴力万歳区域における旗頭となっても合点がいくというものだった。 「しかし、とんでもない混成軍だな。ここにいるメンツの連携が一切想像できないってのがまず凄えわ」 「つうか、武装蜂起なんてしようものなら、捕まれば当然死罪。英雄様は容赦しないし……」 「正直なとこ、勝ち目とかあるのかよ?」 「いや、どうだかな。だが幼馴染が妙なことを始めようとしてやがるんだ。見捨てるわけにもいかんだろう?」 「──は?」 その言葉に、思わず豆鉄砲を喰らったような顔をしてしまう。誰が誰と幼馴染って、いきなり〈身内〉《ローカル》な話になったのは…… いや、待て──確か今の軍部高官において最も有名なスラム出身の存在となれば、まさか。 「そう、クリストファー・ヴァルゼライドと俺は〈旧〉《ふる》い仲なんだよ。軍部にも同期で入隊した。今でこそ総統なんて大層なもんになっちまったが、あいつとは幾つもの戦場を共にしてきた腐れ縁だ」 「とは言え、比べれば出来は月とスッポンだがなぁ。いつも奴が前に出て、俺はそれを後方から支えてきた」 「要するに裏方さ。それでも与えられた役割には満足してたし、互いに補い合えてもいたはずなんだが──」 屈託なく語るおっちゃんの表情に嘘は感じない。そして── 「今は、あいつを止めなきゃならんと思っている。おまえも薄々分かっていると思うが、あの馬鹿、妙な裏を抱えていてな」 ああ、そうだな知っている。そしてあんたも知っちまって、〈袂〉《たもと》を別ったというわけだ。 マジかと思いはしたものの一応筋は通っている。疑う材料も生憎ない。ならば後は、続く言葉もおおまか予想できていた。 このタイミングで魔星の襲撃に対応し、俺に協力したのはつまり── 「と、まあこっちの概要はそんなとこで……どうだ、力を貸してくれないか?」 「ああ、いいぜ。他に選択肢もないしな」 ──ゆえに、予想通りの言葉に対して感慨もなく誘いをそのまま受諾した。 反動勢力と組むことによってのリスクは当然存在するだろう。しかし、この連中から得られるリターンも大きいと見る。 というより、こちらには決して揺らがない芯があるんだ。 「協力するのは構わない。けれど一つだけ条件がある」 「ミリィについての情報は、どんな小さなことでも一番に教えろ」 告げる俺に対し、それこそ何を今更とでも言う風に、おっちゃんは〈僅〉《わず》か苦笑した。 「ああ、〈勿論〉《もちろん》だ。俺個人としてもそうしたいしな」 「変な駆け引きや出し惜しみはしねえよ。約束する」 「しかしそれにしても、いい顔できるようになったじゃねえか。ははっ、俺もお節介焼いた甲斐があったというもんだな」 俺の背中を叩きながらの言葉に、思わず毒気を抜かれてしまった。 それは、楽しかったあの日のままで…… 何だよおっちゃん、あんた素から良い人なのかよ。元軍人とか、そんな甘さじゃやっていけないだろうにまったく。 身を置いていたからこそ分かるが、軍部内は決してクリーンなところじゃない。見渡す全てに権謀術数が渦巻いており、総統閣下の正義感はむしろ希有なものだと言ってもいい。 隊長格ともなれば、俺なんかの何倍もそれを実感してきたはずだ。なのにこれで元〈諜報員〉《エージェント》? 実は〈深謀双児〉《ジェミニ》を解雇されただけじゃなかろうな? ともあれ、これで俺が反動勢力側に加わることが決定する。成すべきことはシンプルで、一刻も早くこの〈伝手〉《つて》を頼りにしてミリィをこの手に取り返すだけ。 ジン爺さんのみならず、ミリィまで〈攫〉《さら》ったのにはきっと理由があるはずだ。それが彼女の保護にまで〈繋〉《つな》がるのだと信じるしかない。 そして、相手は軍部の人間……それなりの扱いという前提ならば、恐らく様々な説明が今頃なされていることだろう。 その中には、当然俺の素性も含まれているはずであり── 思い出すだけで胸の痛む〈血塗〉《ちまみ》れた過去。出来ることなら隠したかった、墓まで持って行きたかった情報もきっと耳に入っている。 なら……果たして彼女は、真実を知った後でも俺に救われたいと願ってくれるだろうか? 生涯守るという決意こそが、ここまで俺を支えてきた。 だが、そんな資格はもう失われてしまったのかもしれない。誰にも望まれていない空虚な願いへ落ちたなら、救出する行動さえもはや筋違いになってしまう。 あの子自身に、拒絶されてしまったら── だけど、それでも。 ミリィ。俺は、君を──  ルシード・グランセニック邸の襲撃から数日が経過した。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》、〈反動勢力〉《レジスタンス》、そして魔星……勢力入り乱れた動乱は互いに何かしらの収穫を得たことで、その処遇について対応している。  静寂の闇に浮かぶのはヴァルゼライド。ウラヌス。マルス。  光の英雄と冥府の悪鬼、〈不倶戴天〉《ふぐたいてん》の敵と定める彼らが〈集〉《つど》う目的とは何か。  その鍵を握るのは── 「ご機嫌麗しゅう、総統閣下。 〈貴方〉《あなた》に拝謁願うには幾重の検査が必要なのね。こんな少女一人に対して、まったく厳重だこと」  一国の総統、そして異形の魔星を前にしても、ヴェンデッタに臆するところはない。  どころか、まるで食後のティータイムでも楽しむかのように平然と、知己に語るが如くの物腰だった。  ゼファーとウラヌスの衝突後、彼女は蒼星の元へと投降。そのまま抵抗を見せることなく政府中央棟へとこうして連れられた。  以降、数日間に渡り〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》による検査を受け、現在の状況へと至っている。 「無礼は詫びよう、〈月天女〉《アルテミス》-〈No.β〉《ベータ》」  皮肉めいた語りを向けられても、ヴァルゼライドはそれを受け止めていた。  役者の〈集〉《つど》った現状においては、〈迂遠〉《うえん》な遣り取りなど不要であるということだろう。ゆえに今まで一通り、調べるべきを調べたことで単刀直入に問いかける。 「だが我等には時間がなく、ゆえに聞かせて欲しいのだ。おまえの〈完〉《、》〈成〉《、》〈度〉《、》はどの程度まで回復している。 吟遊詩人のいないこの状況に於いて、如何な干渉が可能なのか……その部分を確認したい」 「見ての通りよ。一人では星の輝きを見ることも叶わない、〈憐〉《あわ》れで無様な出来損ない──」 「あなた達の求めている基準には、とてもとても至っていないわ」  自らを卑下する言葉は真実だ。製造時において定められた〈本〉《 、》〈来〉《 、》の能力値を、ヴェンデッタは現状まるで発揮していない。  本人が語る通り確かに一面だけを見たならば出来損ないという他なかった。しかしそれでも、彼女の存在はヴァルゼライドの求める願いに必要不可欠な〈断片〉《ピース》であるのは間違いない。  なればこそ、軽々に切り捨てることが出来なかった。  そもそも代替案があるようなら、不確かな目覚めを待つことなく彼はヴェンデッタを破棄している。  よって、ここで用いるのは〈真摯〉《しんし》な言葉。  目覚めた自我に対して初対面であるからこそ、相手の真意を推し測ろうと英雄は問いかける。 「我々の決着に対しては、何らかの含むところは?」 「いいえまったく、どうでもいいわ。  総統閣下にも、そして〈火之迦具土神〉《ヒノカグツチ》にも生憎興味はまったくないの。〈勿論〉《もちろん》、他の魔星についてもそう。 いえ、一部の例外はいるかしら? まあともあれ、それもきっとあなたにとっては余談でしょうね。聖戦にはまるで関わりのないことだもの」 「それで、次はどうするのかしら? 愛しい駄犬を連れて来て、無理にでも〈繋〉《、》〈い〉《、》〈で〉《、》〈み〉《、》〈る〉《、》?   恐らく彼は、私を選ばないでしょうけど──   つまりはご愁傷様ということね。〈貴方〉《あなた》たちの運命は、未だ成就の兆しもないのよ」  〈些〉《いささ》かの〈諧謔〉《かいぎゃく》を含んだ言葉を、さも可笑しそうに少女は告げる。  それはまるで手慰みであるかのような身投げにも似た物言いだった。明らかに生殺与奪を握られている状況にも関わらず、恐れや怯えは伺えない。  行動の根拠は、彼女に対する扱いにも表われているだろう。ヴェンデッタに対して何らかの要求があることを隠しもしないヴァルゼライドだが、それを強制することはない。  いいや、少女の言葉通り〈片〉《、》〈割〉《、》〈れ〉《、》〈の〉《、》〈み〉《、》〈で〉《、》〈は〉《、》〈出〉《、》〈来〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》というのを理解したと言った方が正しいか。 「なるほど、おまえでは不可能だということか」  吟遊詩人がヴェンデッタを選ばなければ意味などない。それが分かった。  しかし計画の要であるから、ゆえにこうして行き詰っている。  不毛な結論に行き着いてしまい、だからこそ別の手段を彼は静かに脳裏で構築し始める。  悲願の少女が目覚めたところで状況はさして改善を見せないらしい。  ならばいっそ、〈拘〉《こだわ》ることなく──と。  思ったところで、不愉快そのものといった稚気が同室していた者から漏れる。舌打ちが大きく響いた。 「戯れも程々にするがいい。あのお方の意向に背を向けるなど、言語道断。恥を知れ。 出来ないと言うならば、今ここで殺してもいいのだぞ。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》」 「あら、言ってくれるわね〈氷河姫〉《ピリオド》。それは嫉妬なのかしら? 渇望されている者が自分じゃないと拗ねているの?」 「私が出来損なったからこそ、貴女たちが生まれたこと……感謝しても良いはずだけれど」  それが揺るぎようのない事実である分、ならばこそウラヌスの苛立ちが空気を微細に震わせる。  殺気を感じてもなお、ヴェンデッタは不敵な笑みを崩さない。すべてを知っているかのような女王然とした態度で語りかける。 「ほら、〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈仇〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈わ〉《 、》〈よ〉《 、》? 仇敵と仲良くお茶をするなんて、随分ほほえましいじゃない。ええ、私にはとても出来ないわ。   純血に憧れるのは相変わらず、〈紛〉《、》〈い〉《、》〈物〉《、》の悲しさね。お似合いよ」 「は──そんな過去はとうに捨てた。   今の私は星の使徒、あの方の手足であり、その〈技術〉《ち》を継いだ継嗣である。 〈試〉《 、》〈作〉《 、》〈品〉《 、》に何かを言われる筋はない」 「そして、我が因縁に関しても……」  大気の揺らめきは殺意の揺らめき。鉄姫から放射される怨嗟の波が、室内を凍てつくように満たしていく。  すぐにでも弾け飛びかねない張りつめた空気。何を知っているのか、ヴェンデッタの言葉はウラヌスの隠したがった本音の真芯を突いていた。  そして──いいや、しかし。 「そう突っ掛かるなよ〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。せっかくの〈別嬪〉《べっぴん》が台無しだぜ?  おまえさんもだ、ウラヌス。片側であろうと捕獲できたのは、最良ではないにしても大功績だろう。我らが主もお喜びだ。  壊すだけの俺には無理な命令、見事じゃねえか。それくらい好きに言わせてやろうや」  剣呑な空気に割って入る赤星はどこか機嫌が良いようにも感じられた。理由は窺い知れないものの、それは〈満〉《 、》〈腹〉《 、》〈の〉《 、》〈獣〉《 、》を連想させる寛容さだ。  ゼファーが去った後、館で行った彼にとって雑兵に過ぎない相手の戦闘行為で何を得たのか、はたまた人の反抗に感じ入りでもしたのかは、分からないが……しかしともあれ。  最も人からかけ離れた存在が、この場で誰より大らかな態度をかざしているのは間違いない。鬼はとても寛容に氷河姫を〈窘〉《なだ》めていた。 「享楽主義者に言われたくはなかったが……まあいいでしょう」  それに毒気を抜かれたのか、ウラヌスが殺意を霧散させる。余裕を取り戻したせいか口調に若干の優雅さを宿しつつ、ヴェンデッタを〈睥睨〉《へいげい》しながら鷹揚に一歩下がった。  そう、四者が顔を突き合わせていたところで結局、状況は変わらないのだ。言い争いなど無駄なこと。  やはり、唯一行き着く点は〈起〉《 、》〈動〉《 、》〈者〉《 、》で揺るがない。 「鍵となるのは、やはり〈吟遊詩人〉《オルフェウス》ということか」 「違いないだろう。花婿がいなければ黄泉〈降〉《くだ》りなど茶番に過ぎない。どうしてあいつがそんな役を担ったか、目覚めた因果はそこに集束するだろうが……」  ちらりと、三者がそれぞれヴェンデッタに視線を寄せて。 「話すつもりがないのか、それとも本人すら原因を知らないのか……どちらにしろ、口を割らせて解決するとは思えないがね」 「ならば技術的に明かすとしよう、〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》に一報せねばな」  そして一瞬だけ、ヴァルゼライドはその表情に郷愁を浮かべた。  記憶の中を振り返り……そして。 「約十年以上の間、おまえの代わりに〈月乙女〉《アルテミス》となる素体は現われなかった。  次を模索する線はある程度残しておくが、最優先はこの好機だ」  ようやく掴んだ運命の片翼、容易に逃がさないと告げている鷹の視線は鋭利であった。  聖戦へ懸ける信念。決意を滲ませる英雄に対して、ヴェンデッタは薄く笑う。 「だから、〈貴方〉《あなた》には興味がないと言うのよ。  大切な他人と築くは、削り合いながらも高め合うという試練だけ。すなわち愛しい艱難辛苦。それ以外には興味なし。   お似合いよ、あなた達。〈宿敵〉《ともだち》と好きなだけ踊っていればいいのだわ」 「────」  そして〈踵〉《きびす》を返そうとするヴェンデッタを、蒼星が険も露わに〈睨〉《にら》みつけるがどこ吹く風と囚われない。  深紅の魔星は我関せず、英雄は黙するのみ。  ここは運命の腹の中、何処に行っても逃げられないと三者三様に示しているのを逆襲の女神は〈一瞥〉《いちべつ》する。 「今更逃げたりはしないわよ。友達の……いいえ、〈家族〉《いもうと》のところへ行くの。   最後になるかもしれないのだから、会っておいてもいいでしょう?」 「好きにしろ」  退室する少女の影に対して、ヴァルゼライドは静かに告げた。本来なら拘束具でも着けておくことが最善だろうが、しかしそれで自壊されでもされたならすべてが即座に終わってしまう。  何より、あるがまま放置することによって何か見えてくるのでは……?  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》に根づいた衝動、その真実を〈垣間〉《かいま》見るために泳がそう。これは彼にとっても賭けだった。好きに動かし、観察する。  その意を知ってか、ヴェンデッタの退室と同時にウラヌスが明らかな苛立ちを見せた。英雄を蔑するようにねめつける。 「ふざけるなよ、ヴァルゼライド。貴様いったい、どこまでアレを付け上がらせる?   聖戦にすら興味がないだと? ああ、よくも黙って聞いていられるものだ。〈大和〉《カミ》に忠する星ならば、あの御方を黙って仰げばよいものを」 「ならば、おまえが興味を持たせればいいだけのことだろう。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》を連れてこい。そうすれば、否応なく運命は加速する。  その時は貴様の願い通り、存分に殺し合ってやろう」  剣先を感じさせる鋭利な言葉が再確認させるのは、両者が居る本来の立ち位置というものだった。  いずれ争い、いずれ殺す。己と貴様は怨敵であると静かに宣したヴァルゼライドを前にして、鉄姫は邪悪に破顔した。  そう、それこそが彼女の唯一無二の渇望であるゆえに。 「いいだろう。貴様はこの手で必ず殺す。何があろうとも生かしておかん。   すぐにでもあの塵と〈黄泉醜女〉《ヨモツシコメ》をまぐわせて、その命ごと砕いてやろう」  愛する妻を黄泉の国から救うため〈吟遊詩人〉《オルフェウス》は死力を尽くす。いいや、我らがそうさせよう。  成功するのか、虚しく失敗に終わるのか。  運命の先は未だ見えず、歯車はただ終点へ向かい静かに回り続けていた。  〈政府中央棟〉《セントラル》に招かれてから数日。  ジン・ヘイゼルは軍の協力者として、ここ研究棟に四六時中籠もっていた。  無論その口利きを行ったのはチトセであり、ある意味で言えば嘗ての役職に返り咲いたということになる。  権力を盾にその判断を〈裁剣〉《アストレア》が下したのは、無論のことこれから先を見越しての考えだった。  魔星、ヴァルゼライド、それらに対して手札はあるに越したことは当然ないのだ。真実を知った今なら余計に強くそう思う。  表立って反逆行為に手を染めていないため、警戒しつつ水面下で事を進められる状況を最大限に利用していた。  真実を知る技師の手を借り少しでも〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》の深みを知るべく、別方面から手を尽くして英雄の裏へ切り込んでいく。  そして、ジンの助手を務めているのは、〈工房〉《アトリエ》にいた頃と変わらずミリィだ。  このような形で軍内部に入ることなど異例中の異例であるが、公の兵には存在を明かさないこと、チトセの権力という庇護下にある客分ということで何とか〈罷〉《まか》り通らせている。  ミリィがこの場へ場違いにもいることを知っているのは、チトセにサヤ、あとは彼女の部下である研究室の外側で警護中の天秤兵に限られていた。  二人が現在扱っているのはオリハルコンに関しての情報であり、師から直々に一つずつ指導を受けながら軍部の深奥を閲覧している。  それは本来、ミリィにとって願っても無い智の享受であるのだが…… 「おい、聞いておるのか馬鹿弟子よ」 「え、ぁ──」  声を掛けられ、思わず驚いたような反応を見せる。  普段の彼女と比べるとその注意力は散漫であり、顔色もどこか血色を失っているかのようだった。 「儂を前にして気もそぞろとは良い度胸よ。説明を繰り返させるつもりか?  気が入っておらんなら不要だ。とっとと休め」 「──はい。ありがとうございます」  言葉こそ辛辣であるものの、その奧に自分に対する気遣いを感じてミリィは力なく微笑んだ。  師匠の配慮は素直に嬉しい。だがしかし、それでも今は── 「でも、すみません。何かに没頭していた方が、今は……  ただ部屋でじっとしていると、どうしてもいろいろと考えちゃうんです」  そう、頭の中はまだ何も整理できていない。  兄のこと、両親のこと、そしてオリハルコンのこと……  あの炎の日、自分からすべてを奪っていったのはこの超技術のせいなのだろうかとミリィは思わずにいられないのだ。  だとしたらあの人は、と──接するには少しだけ胸が痛くて。  チトセに聞かされた五年前の真相。ゼファーのことがあれからずっと、この数日少女の胸を常に〈苛〉《さいな》み続けていた。  五年もの間、ずっと自分のことを第一に考えてくれていた兄。  彼に対する感謝を生涯忘れることはないだろうが、しかしそれは、両親を自らの手にかけてしまったがゆえの〈贖罪〉《しょくざい》だったのだろうか?  ミリアルテ・ブランシェという人間ではなく、犯した罪があったからこそ傍にいただけではないのか?  理屈が通っているだけに不安を感じずにはいられない。  ゼファーと過ごした時間は自分にとってあまりに大きく、掛け替えのない宝物。今では彼に対して家族以上の感情を抱いている。  二人の関係が今後どうなるかは分からないものの、彼も自分のことを大事に想ってくれているとミリィは確かに信じていた。  信じていた、はずだった……けれど。  もうそれすらも、今となっては確言できない。根本に刻まれた大きな〈皹〉《ひび》が塞がらない傷となってじわりじわりと血を流す。  隠していたことを責めるつもりはない。  言えないことも分かっている。だって、あの人は変な部分で優しいから。  頼られてるのを自覚していながら、そこで〈梯子〉《はしご》を外すなんて出来るはずがないのだ。  告げれば傷つける、だから黙っていた。そう分かっていても、けれど、けれど、けれどけれど──〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈は〉《 、》?  そう思う感情が泉のように止まらない。信じたいのに止まってくれず、涙のように濡れていく。 「兄を思い、目を曇らせるか。儂には到底理解できん感情だな」  易々と心を見抜かれるがそれも仕方ないだろう。  これだけ上の空では、きっと説明も頭に入っていないことさえ容易に師へと見抜かれている。  せめて仕事に対してはと思うのに、それさえこうしてままならない。それが歯がゆく、自責に惑うミリィの想いをジンは静かに否定した。 「責めている訳ではない。ただ、己は逆だったなと思い返していただけよ。  他者のことなど考えたこともなかったわ」  そして、何気なく告げられたあまりにも〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》な言葉に対して、思わず目を丸くしながら師の横顔を覗き見た。  そこに嘘はまったく見えず、素のまま心情を吐露しているのが〈垣間〉《かいま》見える。人でなしそのものの発言を彼はまるで世間話もするかのように、続けて語った。 「誰がどうなろうが自らとは関係なく、押し並べてどうでもよい。興味があるのはただ〈研鑽〉《けんさん》、それ以外は有象無象の雑音だとな。  己が可能性の追求……生来の能力を完全に開花させた、言うなれば自己の究極形を見てみたい。 日々何をしている時にも、その願望を携えていた」  師の言葉を受けミリィは考える──可能性の追求というのは分かるが、自己の究極? それはいったい、何がどういうことなのだろう?  獲得した智を余すことなく注ぎ込むという意味であるのか、それともと……  思索する弟子を一顧だにすることなく、ジンの話は淡々と続く。 「叡智の探究にのめり込んだのは、それが切っ掛けであり総じてすべてよ。   自分という何より身近な存在こそ、人は意外と把握しておらんのだ。自らの力量を盲信する輩、逆に卑屈で過小評価に過ぎる手合い……貴様も多く接してきたことだろう。どいつも〈容易〉《たやす》く見誤る。  そういう阿呆は見るに耐えん。連中が〈斯様〉《かよう》な認識へと至るのは、他人を変に意識しておるがゆえだがな」 「儂は、それが我慢ならんかった。そしてだからこそ目指した、自己の極点というものを。 身体も鍛えた。叡智も求めた。そして研究を積み重ね、魔星や〈星辰奏者〉《エスペラント》の領域をも知識として掌握する。  そして、求めた果てまで〈辿〉《たど》り着き──   〈滑稽〉《こっけい》かな、興味を無くしてしまったのだ」  そこで初めて、苦虫を噛み潰したように老骨は表情を大きく歪めた。  いいや、これはもしや呆れだろうか? この人は今、誰より何より己自身の行動に深く強く自嘲している。  だからこそミリィには分からない。 「どうして……ですか?」  求めていたものが手に入った、ならばそれは満足だろう。  自分も目標が達成できたら嬉しい。ジンが言うように、人生を懸けていたならきっと尚更だ。それが、なぜ。 「さてな……馬鹿馬鹿しいことに、儂はそれが今でもよく分からんのよ。  理論に穴はない。結果も完璧だった。それなりの対価を払いこそしたものの、〈神星鉄〉《オリハルコン》は儂の理論を実証して己が極点、その雛型を創造するのに成功する。   何一つ不満に感じることなどないが……しかし何故か、その完成品を見た〈途端〉《とたん》、馬鹿らしくなったのだよ」  こんなもののために、ではない。  これほどのものを、でもない。  自分は何をしていたのだ、という有り触れた後悔でもない。  ただ無理に言葉へ当てはめるなら、〈飽〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》というのが近いだろうとジンは胸中で思っている。万事どうでもよくなるあの感覚は、今になっても因果がまるで分からない。 「だが……」  そこで不意に、師は弟子へと視線を寄こした。 「右往左往する〈馬鹿弟子〉《おまえ》を見て、ようやく少しばかり理解できた気がしておるわ。 理想、真実、夢……それらは実体がない時こそ最大限に人を動かす」 「答えの出せる者と離れ、出ない答えに〈煩悶〉《はんもん》する今のおまえがその証明だ」  得ることで満たされるものもあれば、得られないことで満ちているものもまた存在する。  持っていないからこそ未来へ向かえるということを、ジンは人生を〈鑑〉《かんが》みながら告げていた。要は手に入れた〈途端〉《とたん》、大望は塵に変わって飽きたのだと〈嗤〉《わら》いながらミリィへ明かした。 「星は届かぬからこそ星だった……一度創造できてしまえば、それは見上げる夢ではなくフラスコの中で生じる、ただの実験結果に過ぎん」  理想は叶えた瞬間、現実になってしまうのと同じこと。  それが分からずに走り続けた過去が自らの不徳であるというように、老練の技師はじっと己の義手──その掌を眺めていた。 「迷うのも良いだろう。だがな、手を動かさぬ者は技師ではない。   いつまでも立ち止まるなよ、〈鬱陶〉《うっとう》しい。未熟なおまえの悩みなど当人と会えば霧消する、〈泡沫〉《うたかた》程度のものであろうよ」  小娘が、おまえなど所詮そんなものである──と。  悩むなど思い上がるなという言葉はしかし、不思議な柔らかさに満ちていた。悪態そのものである叱咤に、ミリィは自然と微笑んで大きく〈頷〉《うなず》く。 「はいっ! ありがとうございます、師匠!」  ──だからね、兄さん。  今はまだ何を言ったらいいのか分からないし、本当の気持ちも実はちょっとだけ恐いまま。  ミリアルテ・ブランシェがあなたにどう思われていたのかも、二人で過ごした大切な時間が本物だったのかも分からない。  だけど……それを知るためにも、再会を信じているよ。  直接聞きたいから。伝えたいから。その時まで、自分なりに精いっぱい頑張ってみせるから。  あなたが育ててくれたミリィは、こんなことで〈挫〉《くじ》けたり、立ち止まったりしないのだと胸の奥で強く誓う。  悩みのすべては晴れていない。  けれど痛みは、幾らか小さくなっていた。 「休憩は終わりだ。次に取り組むべきはオリハルコンの〈星辰体〉《アストラル》伝導効率、並びに次元間相転移エネルギーの抽出効率について──」  そして、弟子に対する講義をジンが再開しようとした、そこに。 「──む?」  一人の少女が静かに入室してくる。  銀色の髪を〈靡〉《なび》かせるその姿にミリィは思わず目を瞬かせた。そこに居たのは、ああ、泣きたくなるほど求めていた家族のもので── 「──ヴェティちゃん!」 「しばらくぶりね、ミリィ。会えて嬉しいわ」  思いも掛けないヴェンデッタの登場に、慌てて駆け寄り抱きしめる。  彼女の表情は以前のままで、訪れた〈安堵〉《あんど》に崩れ落ちてしまいそう。目の奥が熱くなって仕方ないから、それを堪えるためにもまた相手の髪へと顔をうずめる。 「どうしてここに? ううん、とにかく無事でよかった。  よかった、よぅ……」 「──もう、そんな泣きそうな顔しないの」  言いながら、しがみ付く少女を優しく撫でるヴェンデッタ。その表情はまるで姉のようでもあるし、母のようでもあるという外見以上の慈しみが宿っていた。  想ってくれる者を〈労〉《いたわ》る家族の顔を見せながら、大切に感じてくれる喜びを分かち合う。 「あなたはやっぱりいい子ね、〈眩〉《まぶ》しいくらいに……」  そう、ゆえに〈悔〉《 、》〈い〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「そんなあなただからこそ、託すことが出来るわ」  その言葉にミリィは思わず顔を上げた。ヴェンデッタの秘めているであろう真意は未だ汲めないが、しかしそこにはとても重い響きがあると直感的に感じていたのだ。  まるで背負ってきた宿命の一端を預けるような、神事めいた気配すら漂わせている。  そして…… 「運命の針は進むか」 「ええ、しかしこれが私の選択。大切な家族を守る、その願いを叶えるために」  何より、〈運〉《 、》〈命〉《 、》〈の〉《 、》〈車〉《 、》〈輪〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈家〉《 、》〈族〉《 、》〈を〉《 、》〈解〉《 、》〈放〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》── 「ジン・ヘイゼル。あなたの力を──〈鋼の左腕〉《オリハルコン》を貸してちょうだい」  日本の生み出した遺産技術……〈神星鉄〉《オリハルコン》を肉体へ接合した異端の技師へと、協力を訴えた。 夜のスラムを適当に歩きながら、俺は〈反響振〉《ソナー》で周囲を探る。 ──特に怪しい連中の気配は感じられなかったものの、取り巻く状況は相変わらず予断を許さない。 自分を餌にしつつの散歩であったが、どうやら釣果は何もなし。それは今日に限った話でもなく、ここ数日を通じてだ。 思えば、こんなにミリィと長い間離れた時間はなかったかもしれない。守るべき存在の姿が見えないことで俺はどうにも感傷的になっている。 心に何ともいえない苦味が広がっていくのを感じるも、しかし冷静でなくてはならず。でないと連中へ良いようにやられてしまうだけであり、今出来ることは万全の備えを確保しておくことと分かっているが、心はやはり落ち着かない。 ヴェンデッタについてもまた、反動勢力の連中から続報はなかった。 ならばやはり、囚われたと見るのが妥当なところだろう。あの時逃げろと俺の下した判断はことごとく裏目に出たという訳だ。 所詮は負け犬、こんなもの──などと自嘲したくなるのをどうにか堪える。何しろ順当にいけば次の獲物は自分であり、いつ襲来を受けてもおかしくないのは日の目を見るより明らかだった。 なのに事態は動かない。俺の〈与〉《あずか》り知らぬところで、予想もつかない思惑が働いているのかもしれないが、それさえも考えては詮ないことで。 八方塞がりの状況はどうしても焦燥を生んでしまう。〈逸〉《はや》る想いを感じながらアジトへ戻ろうとすると、そこにはアスラの姿があった。こいつも周囲の警戒に当たっているのだろうか。 「おう、そっちもお散歩かい」 「何か起こればお仲間連中が知らせるだろうに、ご苦労なこったな」 「……っせえな、じっとしてても落ち着かねえんだよ」 こいつはいろいろと面倒な奴であることは確かなものの、この数日間でそれは性格だと割り切れるようになった。 〈磊落〉《らいらく》こそが素である奴と分かってしまえば、相性の悪さは兎も角として会話ぐらいは普通に出来る。こっちに手出しをするつもりがないなら、今のところはまあいいさ。 「しかしあの双子も威勢の良いのは口だけか。連中の〈尻尾〉《しっぽ》すら掴めないとは〈間諜〉《エージェント》としてどうなんだか」 「あれでも頑張ってる方だろ。つうか、そんな万能なものじゃねえよ」 相手は帝国軍部。そう易々と自らの行動を〈晒〉《さら》しはしないだろう。加えてティナとティセがいくら腕利きであったとしても、あいつらにとってここは他国。 自由に身動きが取れるという訳でもない上、敵は精鋭、地の利皆無と来たならば諜報活動が困難なのは自明の理だ。 「そういやよ、ゼファー。おまえさん、ようやく腹括ったみたいじゃん。なかなかいい面構えしてんぜ」 「剣呑つうの? 今にも何かしでかしそうな雰囲気がまるっきり隠せてないのが、いい感じだ。そういうの嫌いなんじゃなかったか?」 どこか楽しそうに突っ込まれて閉口してしまう……ああ、そうだな。確かに気持ちは逸ってるよ。 しかしまあ、こいつに言われることは不覚と呼べるものだろう。 「ああ、〈咎〉《とが》めてる訳じゃねえよ。むしろその意気に便乗しようという、とても前向きな話についてだ」 「嫌な予感しかしねえが、とりあえず聞くぞ。なんだよ便乗って──」 「そのままの意味さ。なあゼファー、このまま二人で作戦だの何だの無視して、敵さんの本営目がけて突っ込まねえか? そそるだろう?」 「報告、連絡、相談、どれもこれも真っ平でよ。面倒はあいつらに任せたまま……なあどうよ」 「大却下だ」 なんつう向こう見ず極まる提案だ。あんまりにも短絡的すぎて、何を言ってるのか一瞬分からなかった。 そんな俺の様子を欠片も〈斟酌〉《しんしゃく》することなく、アスラは揚々と語る。 「単騎先駆け、これぞ戦の華だろうがよ。殴り込んで一騎当千。男の浪漫も滾ろうが」 「なあ、どうだ行かねえか相棒よ。いっちょ男を見せてやろうや」 いや、どうしたらそうなるんだよとため息が漏れる。というか薄々感じてはいたがこいつマジモンの馬鹿なのか? こないだもさんざん苦戦しただろうに、返り討ちの可能性がずっと高いということをスルーできるその剛胆さが今は無性に〈羨〉《うらや》ましい。 それとも、こういうのが英雄の素質ってやつだろうか。一見無鉄砲な行動に見えて、しっかり結果がついて来るならそれは確かに破格だろうが…… ともあれ、そんな下策は絶対飲めずひらひらと手を振った。 「へいへい、成功率が九割超えたら考えるわ」 「成功率ねえ……おまえさん、んなこといつも考えながら戦ってんのか? 詰まんねえだろ。そういうの」 「賽の目振って丁半博打、脳内麻薬を愛そうぜ?」 「っていうか、だ。そもそも、そんな風に考えてから行動する奴なんてのは、人生何が楽しいんだか」 嘆息を吐きつつ、首を回して骨を鳴らす。かったるいと言わんばかりの仕草をしながら背筋を伸ばして目を細めた。 「物事ってのはな、過程と結果で出来ている。んでもって、おまえのような臆病ちゃんは、これなら結果が満足出来る形になるなと確信してからようやく動く」 「それってこうは思わんか? 頭で考えて行動する奴ってのは、やりたいようにやって勝った奴より得られる感動は少なくなる──と」 「んなもんでいいのか? 本当に楽しいのか? 俺にはそこがよう分からん。初見でかつ適当に、やりたいようにやって勝つのが最高だろうに。そうだろう?」 そう言ってアスラは首を〈傾〉《かし》げている。ああ、なるほどな。いかにも快楽主義者らしい言い分だ。 こいつは強烈な生の実感にこそ価値を置いているということだろう。窮地であればあるほど歓迎で、それを切り抜けてこその己であると。 無論、言ってることは馬鹿げている。だが〈逆〉《、》〈に〉《、》──もしくは表裏一体として。 「よく分かるわ。そして、俺とおまえとではそもそも根本からして違ってる」 「俺はな、別に勝ちたい訳じゃないんだよ。ただ失敗して、傷つきたくない……痛いことが恐いだけだ」 そう、あくまで回避を優先した結果。〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈勝〉《 、》〈つ〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 要するに重視してるものが違うだけ。こいつはすべてに前のめりで、俺はどこまでも後ろ向き。別に引け目は感じない。 傷つけないというのは……守るってのは、きっとそういうことだから。 「はぁ、そうかよ〈勿体〉《もったい》ないねぇ。痛みも言ってしまえば己の一部だぜ?負けることの何が悪い」 「次には勝てると考えようや。必死に〈掻〉《あが》いて〈掻〉《あが》いて〈掻〉《あが》いて、訪れたどんな結果も面白かろうに。笑えば勝ちだ」 ……なんて、笑うこいつから見た場合、普通の連中はさぞまどろっこしく映るのだろう。 ゆえに、スラムへ流れたのも必然であったかもしれない。ここでは後先なんざ考えても仕方ない。目の前の相手をどうにかしなけりゃ、明日の朝日すらも拝めない場所なんだから。 俺も昔はそれで良かったさ。だがもう違う、卒業だ。 「つまり、おまえは何もかもが自分の糧と思ってんのな」 「応よ相棒、その通りッ」 皮肉すらも正面から肯定しやがる。うん、分かっちゃいたけどやっぱこいつと合わねえわ。 つうかもう、俺のことを相棒と呼ぶな。前の相方よりタチ悪いわ。 ともあれ、今はこうしてそんな相手と適当に会話を重ねる以外になく。どうしたものかと思っていると…… 「……ん? どした」 今の今まで軽口を叩いていたアスラの表情が、急に真剣味を帯びたものへと変化した。 敵襲か? しかしそれにしては、張っている〈反響振〉《ソナー》の網には何の反応も感じていないが── 「呵々──〈見〉《、》〈ら〉《、》〈れ〉《、》〈て〉《、》〈る〉《、》〈ぜ〉《、》、どこからか」 「これだけ離れてても殺気を感じるとは、大した執念深さだねぇ。これだから女ってのは面倒臭い」 アスラは火がついたように〈獰猛〉《どうもう》な笑みを漏らした。対して俺は今もまったく視線の類を感じないが、と……思った刹那に。 『──ゼファー』 ──直接精神に語り掛けてきた声は、忘れようはずもない音色。 渦中の人物、俺がまさに探して止まなかったあいつの声が意識を一気に引き締めさせた。〈運〉《 、》〈命〉《 、》〈が〉《 、》〈途〉《 、》〈端〉《 、》〈に〉《 、》〈動〉《 、》〈く〉《 、》。 「ヴェンデッタ? おまえ、今どこにッ」 『質問は後。いいこと、今いる場所からすぐに離れなさい』 再会できたこと、聞くべきこと、伝えるべきこと、それら〈諸々〉《もろもろ》を後回しにしてヴェンデッタは短く告げる。 いつになくシンプルな言葉は事態の切迫を伝えるかのようだった。 それが徐々に生存本能を〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》り、追い立てられるような恐ろしさを背筋へ流し込み始める。 そして── 『そこは既に、天王星の射程内よ──』 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがため」 ──どこか遠く、〈逆襲〉《ヴェンデッタ》との同調越しに星辰の爆発的な上昇を察知した。 ようやく気づくとは間抜けの極み。アスラの言う通り、俺たちはもはや確実に捕捉されている。 本能が嗅ぎ分けた殺気、首筋がただ薄ら寒い。命を奪うという本気の妄執が俺にべったり張りついている。 惑星規模の新星爆発──刹那、一気に天王星が弾け飛ぶ。 「散りばめられた星々は銀河を彩る天の河。巨躯へ煌めく威光を纏い、無謬の〈宇宙〉《そら》を従えよう。  ならばこそ、大地の穢れが目に余るのだ。醜怪なるかな国津の民よ。〈賤陋〉《せんろう》たるその姿、生きているのも苦痛であろう。  〈燦爛〉《さんらん》な我が身と比べ、憐れでならぬ。直視に耐えん」  紡がれる詠唱はまるで〈呪詛〉《じゅそ》のごとく。  ウラヌスの深意の本能に宿るのは、人間そのものに対する憎悪に他ならなかった。  弱く、無能で、醜怪である──ゆえに存在を許さない。  宇宙を着こなす天空神は、地上を蠢く〈人間〉《ごみ》共を尊大に侮蔑する。 「ゆえに奈落へ追放しよう──雨の恵みは凍てついた。  巡れ、昼光の女神。巡れ、闇夜の女王。爛漫と、咲き誇れよ結晶華。これぞ天上楽土なり」  死の宣告は鉄姫なりの慈悲なのだろう。生命を氷結させ華と化せば、せめて美しく散るはずだから。  全宇宙を統べる天こそ絶対。  神を彩り〈煌〉《きら》めく銀河、その星〈屑〉《くず》の一欠片となれ。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈美醜の憂鬱、気紛れなるは天空神〉《    Glacial Period    》ッ」  〈第二太陽〉《アマテラス》に選ばれし〈人造惑星〉《プラネテス》、それは蒼星の言うように人とは遙かに隔絶している。  彼女を彩る氷は死神の鎌であり、無力な人狼に撃ち込まれる致死の杭ともなるだろう。  無窮の高揚を見せる異能が、いま高らかに牙を〈剥〉《む》く。 「戯れはここまで。取るに足りない劣等種と言え、貴様は〈些〉《いささ》か目障りだ。  口を〈噤〉《つぐ》むだけでは最早足らん──その命を〈以〉《もっ》て、あのお方の糧となれ」  ゆえに今、形成された砲身にて照準をゆっくり合わせて── 死ぬ、駄目だ──悪寒が走る。〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈捕〉《 、》〈捉〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 生存本能が全力で命の危機を告げていた。あと一秒でも、この場にいればそれで終わるッ。 刹那、蒼の星光が遙か離れた場所に収束していく感覚を、〈星辰体〉《アストラル》の流動と共に視認して── ウラヌスの存在を知覚したと同時、下手をすればそれより速く──大砲にも等しい極大の神撃が眼前へと迫っていた。  ──ここに、一人の女の話をしよう。  軍事帝国アドラーに、旧日ノ本の姓を冠する女がいた。  大破壊後のアマツは貴種であり、喪われた大和の血統であることの証明でもあった。そのため彼女は幼い頃から周囲の畏敬を集めながら、それに〈相応〉《ふさわ》しい精神の成長を遂げていく。  己が持て囃されるのはあくまで当然のこと──やがて〈選〉《、》〈ば〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》〈者〉《、》として振舞うようになり始め、栄耀栄華の限りを自然と尽くすようになった。  権力者は腐る。特権階級ゆえの堕落。何も珍しいことではない。  それは彼女の家系、その大半がそうであり民草から富を搾取して豊かな暮らしを送ることに何の疑問も抱かない。優等種に与えられた権利として、雑種への〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈躾〉《 、》を平然と行ない続ける。  劣等は黙って献上していれば良い。我々に尽くし、楽しませろ。  思い上がりに等しい我欲の横暴は、しかし盛者の理として必衰の時を迎えてしまう。  貴種特権の乱用による民からの不当な搾取はどこの国でもある例であり、それは帝国であっても何ら不思議な話ではなく、今までならば見逃されて終わりであったがそれは──しかし。  時代は大きく変革される。  軍事帝国アドラー、軍部改革派筆頭たるヴァルゼライド。彼がそのような所業を決して、見逃すはずも許すはずもなかったのだ。  そして無論、投獄された女は叫び、血の尊さを主張する。  〈貧民窟〉《スラム》出身の薄汚い〈成〉《 、》〈り〉《 、》〈上〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》が偉大な自分を害するなど、どれだけ世の理に反しているかを訴えた。  ふざけるな、ふざけるな。貴様が如き身の程知らず、大和の怒りに粛正されればいい。  ヴァルゼライドは、それを聞いて静かに告げた。〈睥睨〉《へいげい》しながら裁きを下す。 「カナエ・〈淡〉《あわい》・アマツ──おまえは〈日本人〉《ヤマト》の直系などではない。  その血筋は、旧シンガポールに根を下ろしていた華僑のものだ。大戦後の混乱に乗じてアマツを名乗り、おまえの祖先は日本人の血を継ぐ者と〈僭称〉《せんしょう》してアドラーへと流れついた。  同じ黄色人種であることを理由に己を〈騙〉《かた》った、恥知らずの末裔だよ」 「ロストテクノロジーの解析により、遺伝子の詳細な検査が現在では可能となった。知らないはずもないだろう。  その調査によれば、おまえの誇る血の優性にはなんの根拠もないそうだ」  その言葉を当然のこと、女は一笑に伏した。  何を馬鹿げた世迷い言を。私が選ばれていないだと? そんなもの欠片も自分は信じない。  よくもまあ、貧しく汚い卑賤な鼠が知恵を搾ったものであると、〈嘲笑〉《あざわら》って〈扱〉《こ》き下ろす。  ──自分はアマツ、〈貴種〉《アマツ》なのだ。  対するヴァルゼライドは怒りも嘆きも欠片も見せず、不動のまま。 「──理解した、ならば仔細教授しよう」  真実を必ず貴君へ教えてみせる。  彼女にそう確約し、その日は静かに去っていった。  それから三か月。  刑が執行されるまでの間、ヴァルゼライドは毎日彼女の独房へと足を運びにやって来た。  行ったのはまさしく〈授〉《 、》〈業〉《 、》。〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》によって明らかとなった華僑と日本人の遺伝子的差異。得られた検査結果のどこを見て判別しているのか等々、それを毎日淡々と語り掛ける。  彼の政務は多忙を極めているはずでありこのようなことに時間を費やしている場合ではないだろうが、しかしヴァルゼライドはそれを不断の努力によって捻出していた。  授業は続く。ひたすらただただ、根気強く。  女が自分の過ちをしっかりと、正確に理解するまで何日も何日も真摯に、ひたすら愚直に続けられた。  その誠実さ、言い逃れの出来ない真実に──女の精神は徐々に疲弊の一途を〈辿〉《たど》る。  最初は聞く耳持たずであったが、まず相手の精神力に参ってきた。そして弱ったところへ正しい理屈が、正しい言葉が、自分の根底を破壊する事実の波が止め処なく入って来る。  自尊心は既に瀕死だ。気が狂いそうだったし、実際にそうなった。しかし、やはりヴァルゼライドが責任を持って彼女の精神を立て直す。  有り余るほどの正当性が堕落による快感を一切認めてくれないのだ。  語り、説き伏せながら、言い逃れができない絶望の学習授業は続行する。彼女はまさしく光によって廃人に陥っていく。  けれど、発狂しかけた精神状態でどうにか踏み止まれたのは最後の意地が残っていたから。  ある一つの反論を内に秘め、誠実さと正義のもたらす輝く地獄に女は耐え切り約束された絞首台へと向かっていく──  一族はすでにここで首を括り、ついにとうとう最後が彼女。  傍らには、罪人の最期を見届けに来たヴァルゼライドの姿があった。  ゆえに叩きつけるは今しかなく、このまま勝ち逃げてやるために温め続けた最後の反論を彼女は吐く。 「気分はどう? 〈底辺〉《スラム》出身者。ええ、さぞ晴れやかなことでしょう。  その薄汚い手で、天頂の星を追い落とせたのだから。けれど、一つ教えておこう── 私が仮に偽物であるとしても、それはおまえの優性を証明しない。  下賤なおまえの血が、浄化されるわけではないのだ」 「意志の力? 笑わせる、どこまでいこうと〈塵〉《ごみ》は〈塵〉《ごみ》。結局おまえは、うまく世界を利用してきた私のことが〈羨〉《うらや》ましかっただけなのだろう?  ああ、卑小ね。浅ましいこと──」  言い切ったそれは、なんと甘く心地いい感触だろうか。  奴の心に最期へ爪を立てたこと。それを誇りに、彼女は己を貫いてそのまま黄泉まで逃げ切るのだ。  土壇場の逆襲に〈快哉〉《かいさい》を叫び、心の底から〈嘲笑〉《あざわら》うが──なぜか。 「おまえは何を言っているのだ?」  心底理解が出来んというように、ヴァルゼライドは眉根を寄せた。  それは、怒りや妬みとは決定的に違うもので……彼女を侮蔑するように、ため息を一つこぼしてやはり淡々と口を開く。 「おまえ個人が罪を犯したことと、血の優劣は何の関係もないだろう。見当違いも甚だしい。 俺は単に、過ちを誇っているようだったからそれを正しただけに過ぎん」  そもそも血とは混ざるものだ。たとえ〈始点〉《ルーツ》がそうであろうと、長き歴史の果てに本物の〈日系〉《アマツ》と混ざる機会も多かったろう。  なにせ遺伝子が暴かれるまでそれら本物と交配してきているのだから、起源がどうこうというものを今更重く、ヴァルゼライドは見ていない。 「アマツであろうが華僑であろうが、真に世を憂い、〈尊き者〉《ブルーブラッド》の勤めを果たしていたならば、絞首されるはずもなかろう」  つまり、彼が真に思い知らせたかったのはそこだ。血の優劣に対する〈拘〉《こだわ》りを解き、自らそのものを見直せと諭していたつもりだったが……  ああ、まったく。 「その程度も理解出来ず、この期に及んでなお発するのが恨み言とは……見下げ果てるな」 「そっくり返そう、浅ましいと」  ヴァルゼライドが告げるのは、残酷なほど〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈真〉《 、》〈実〉《 、》だ。  言い逃れなど許さない。  ゆえに、そう。こうなった因果はすべて── 「詰まるところは、おまえ個人の魂が腐っていただけだろう。  そのまま惨めに死ぬがいい」 「──、────」  瞬間、女の全存在意義が〈木端微塵〉《こっぱみじん》に砕かれた。  正当性が完全に完璧に完成を遂げ、彼女の心を〈蹂躙〉《じゅうりん》する。  許せない、許せない──許せないぃッ。 「ヴァルゼライドォォォォォォォ────────ッ!!」  絶望と憤怒に彩られたその表情は、見る者すべてを地獄へ引き摺り込まんとするかのようだが、もはや遅い。  血の涙を流しながら轟く怨嗟を絶叫しつつ……  そのまま無慈悲に、哀れな女は絞首台の露と消えた。  そして女の取るに足りない人生は、ここで終わるはずだった。  だが、しかし── 「気分はどうかな、生まれ変わった天津の〈躯体〉《カラダ》は」  再び目を覚ました時、彼女の新たな天主は祝福と共に彼女を迎えた。  おまえは純粋な大和の技術により蘇ったと。  数万の死体の中から、天頂へと連なる狭き門を潜り抜けて選ばれたのだと、証拠と共に明かしてくれた。  新たな種の名は〈人造惑星〉《プラネテス》。  女は異形の身体で歓喜する──素晴らしい、ああ素晴らしい!  〈些細〉《ささい》なことで誇りを持っていた日々すらも〈滑稽〉《こっけい》だった。真実、今の己は人類の超越種であるというその事実こそ喜ばしい。  日本の血筋? それが何だ、どうしたという。自分は人間などよりも遥かに優れた存在になったのだから。  いいぞ、〈下等種〉《アマツ》すべてが色〈褪〉《あ》せて今や醜く見えてしまう。これこそ正統な宿命であったのだ。  しかし──己の力を誇示するはずであった〈場〉《、》〈所〉《、》でも、桁外れた超越者が女の前に立ちはだかる。  クリストファー・ヴァルゼライド。  自分を侮辱し、貶め砕き、死に追いやった怨敵がいた。  あれが我らの宿敵だと、語る主の言葉さえ今の彼女……ウラヌスには関係ない。その構図を理解した〈途端〉《とたん》、意識はすぐさま激発する。  今度こそ、必ず殺す。この与えられた星をもって── 「そう、試さなければならんだろう。  果たして人の身で、その宿業を担う器があるのか否か。  機会はすぐに訪れる。〈神星鉄〉《オリハルコン》の技術流出を防ぐ極秘任務に、オレたちも控えさせておくらしい。評価試験というやつだ」 「なあ〈氷河姫〉《ピリオド》、やられたままでは治まらんだろう?」  ほぼ同時期に〈製造〉《ロールアウト》された同胞も、手を貸そうと告げていた。  唆される──それもいいだろう。真意が何でも構わない。  自分の心は既に決まっている以上、後は必ず成し遂げるのだ。奴に思い知らせてやる。  そして魔星は災禍を生み出した。それが五年前、帝都を焼いた蛇遣い座の真実である。  血統派の粛清というすぐに消えるはずの火種は大火と化して燃え上がり、やがて諸共、英雄に屈服される瞬間までひたすら暴走を続けていた。  ゆえに今も、決してウラヌスは諦めない。  刻まれた苦痛と憤怒、あの屈辱こそ衝動なれば。  英雄という人間の幻想を砕かんがために、大和の裁きを下すのだ。  今度こそ、今度こそと激しく強く願いながら…… 魔星の放った死の凍気── 極低温の星光を凝縮させた一撃は極大の破壊力で大気を〈穿〉《うが》ち、飛翔してきた。不意打ちに対して辛うじて反応出来たのはヴェンデッタのおかげで、それがなくば間違いなくあのまま死んでいただろう。 「ッ、どういう威力してやがる……!」 着弾点を見れば、蒼星が如何に桁外れであるかが分かる──直撃地点から四方十数メートルが、巨大な氷の華により完全に侵食支配されていた。 凍気に誘われ枝葉を伸ばしていく様は、世界を喰らっているかのようだ。別星系の法則が地球環境そのものを魔の氷河期へと突き落とす。 己の身に危機が迫っているにも関わらず〈唖然〉《あぜん》としてしまったのも、仕方がないことだろう。有した星の規模があまりにも違いすぎる。獲物を〈嬲〉《なぶ》り、〈弄〉《もてあそ》んでいた獅子がいよいよ兎を狩りにやって来たのだ。 「──アスラッ!」 叫ぶが、答えは返ってこない。周囲の空気をも白く凝固させる凍気の渦に姿すらも呑まれていた。 死んだか? いや、あいつは俺より先に勘づいていた。より遠くまで〈躱〉《かわ》したかもしれないし、何よりこうも簡単に死ぬはずあるかと信じるだけだ。 そして──どちらにせよ、安否が窺えない状況で構っている暇はなく。 『第二撃、来るわよ──』 再び悪寒が走った。ヴェンデッタと〈同調〉《リンク》していることで感知できる、遠方で集束するアストラルの大〈波濤〉《はとう》。 〈集〉《つど》っていく粒子の渦、その苛烈さ。装填時間はあまりに短く、膨大な量の星辰が必要とされることなんて全く問題としておらず── 「く、っ──!」 放たれる絶対零度の砲撃をどうにか見切って回避する。そして再び着弾点から一気に噴き出る冷気と氷。 世界を〈蝕〉《むしば》むように氷枝が伸び、触れたものすべてが凍らされる。こんなもの、当たれば終わりだ──振動で消すも〈糞〉《くそ》もないッ。 こちらは間一髪のところで〈躱〉《かわ》すのがやっとだが、相手の弾数は恐らく無限。反撃の届きようのない超長距離から、冷酷に照準を定めてくる。 次に放たれたのは連撃。足下から天をも突かん勢いで次々と生えてくる樹氷。呑まれてしまえば一巻の終わりという緊張感に胃がヒリつき、逃げ場から徐々に覆われていく。 ひとたび魔星が牙を〈剥〉《む》いてしまえば、最早こっちの力がどうこうじゃない。待つのは暴虐に〈蹂躙〉《じゅうりん》される運命のみで、何をしようとも抗し得ない。 氷杭、氷華が周囲全域へ乱れ舞う。〈発動値〉《ドライブ》状態で避け続けてはいるものの、それとて幾らも続かずにやがて被弾してしまうだろう。 「グ、ああぁぁッ!」 着弾と同時、花弁のように周囲へ飛び散る氷弾を銀刃で斬り落とす。相殺の〈共鳴振〉《レゾナンス》を発動するもあまりの数と速さによって衝撃を殺しきれない。 『生きている?』 「平気だよ。まだどうにかな……」 言ってはみたものの、武装を握る腕はたかが一撃の防御で凍傷にやられてしまった。周囲の空間にしても急速に気温が低下し、このままでは心肺機能にも影響が出ることは避け難い。 反撃の一手を考えるも、しかしウラヌスまでの距離はあまりに遠い。アストラルの感知によって居場所こそ特定できはしたものの、こっちが動けばその瞬間に迎撃態勢へ入ることだろう。 接近は不可能。迎撃も不可能。そもそも間合いを詰めたところで勝負になるかも分からない。 持久戦も当然却下、ここにいるだけでも全身が凍りつき鈍らされていくのだ。ヴェンデッタと合流できていないことだけが不幸中の幸いだった、庇いながらの戦いなど一瞬で串刺しにされてしまうだろう。 すべてを滅する星辰を前に、思い出すのは大虐殺の光景。 「これが、奴らの全力……ッ」 力を行使するたび命の炎が消えていく。哀れで無力な人間ども、一つの例外もなく死ぬと知れと、伝わる意思さえただただ怜悧。 逃げるだけしか出来ない状況の打破は、ヴェンデッタとの星光相乗──それしかないと理解して。 しかし覚悟を決めた刹那、放たれた氷弾に体勢を崩される。 駆け回っている場所を次から次へと大輪氷華で覆われた結果、あちらの星が先に相乗効果を起こしたことで氷杭の成長が早まっていく。 それにより、足裏が地面へ〈僅〉《わず》かに貼り付けられた。後は冷酷に射貫くのみという状況へいとも〈容易〉《たやす》く追い込まれる。 遠方から感じるのはアストラルの大集束。ああ、だめだ。ここで死ぬ。 半ば諦念し、せめてと〈掻〉《あが》こうとした──その瞬間。 『──兄さん!』 響く声に、力が湧いた。 それは、何よりも──震えが走るほど求めていたもの。 全力を振り絞り、皮ごと引き剥がして強引に氷の〈枷〉《かせ》から脱却する。過負荷によって足の筋肉が次々断裂しかけたが、構いやしない。構うものかよ。構ってなんていられるか。 ウラヌスが放つ狙撃の射程範囲外まで跳躍する──届け、届け。 いいや、届くッ! 「ッ、アアアァァァァッ!」 身体中を引き裂くような激痛が走る中、瀬戸際で回避に成功した。生き延びる代償に皮膚と血肉を多少払いはしたものの、そんなことはどうでもいい。 まだ、こうして立てている。終わっていないんだ、何も。 なにせ、そう── 「──ミリィ、無事かッ」 君が無事でいる以上、俺にとってここで死ぬような選択はない。 『何言ってるの! わたしのことより、兄さんの方が……ッ』 頭の中に声が直接響いている。これはヴェンデッタの能力で、ならば今、二人は一緒にいるのだろうか? 状況は読めないものの最悪には至ってない。そして、それならば充分だ。 いいぞやる気が湧いてきた──救いはまだ残っている! 「大丈夫──こんな傷、何てことない」 「待ってろ。すぐに行くからな」 何より、彼女が見ている前で醜態など〈晒〉《さら》せるはずねえんだよ。俺は生涯、ミリィを守っていくと硬く誓っているのだから。 『嘘だよ……辛そうじゃない。離れていても分かるんだからっ』 けれどミリィはこちらの状況が分かっているのか、明らかに涙声だった。心まで〈繋〉《つな》がっているのか、悲しみが伝わってくる。 『全身どこも怪我だらけで、傷ついて、ボロボロで……』 「そんなことねぇよ、平気だ。どうってことない」 それは強がりでも何でもない事実。少なくとも精神は凍る痛みを消し飛ばし、熱意を宿し〈咆〉《ほ》えている。 そう、ミリィのためなら俺は── 『──嘘だよッ』  などという、その強がりを少女は強く否定する。  ヴェンデッタの星を通じて、ミリィにはこの場に在らざる光景が見えていた。兄の視界を通じながら彼が置かれている苦境に対して、悲鳴と嘆きを切なく叫ぶ。  当然、これは彼女にとって初の体験。セントラルにいながら、まるでゼファーが目の前にいるかのように会話を交わせているそれは、常識外の現象であるのは言うまでもない。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》と〈悲想恋歌〉《エウリュディケ》、比翼連理である者同士のみならずそこに三人目を交えての感覚共有。それは本来、ヴェンデッタの有する異能にも存在しない力である。  通常ならば異物として認識されるはずの第三者──しかしミリィが弾かれず容易に〈同調〉《リンク》していることは、果たして彼女が〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》であるがゆえか?  それとも、ゼファーとアストラルを〈繋〉《つな》ぐ銀の〈触媒〉《やいば》。その調律を通じることで、間接的ながらに彼の星に共鳴してきたという事実が、ここで星辰同調の一助となったか?  それとも単に、彼らが家族であったから? 理由は分からないが、しかし。 『どうして、そんな傷ついてまで戦うの? すごく痛そうで、血も流れて……  逃げていいよ。ううん、逃げてっ。こんなことに兄さんが付き合う必要なんて、きっとどこにもないんだから』  戦っている兄の姿──心配で、痛そうで、とても見てはいられない。  手を伸ばしさえ出来ないことが、胸を締め付けて堪らなかった。  自分のために戦っているなら尚のこと、心は大きく〈軋〉《きし》みを上げる。知ってしまった真実が、どうしても問いかけるのを止めてくれはしない。 『それとも──〈贖罪〉《しょくざい》だから、なの?  父さんと母さんを、兄さんが奪っちゃったことの──』  口にするのは、あの日に起こった大虐殺の真実。  心の深くに達した傷は、共に生涯癒えることはない烙印。  自分が苦しんでいるように兄もまた、自責の念に縛られているのではないだろうかと思うのだ。五年前からずっと、いつも一番に思ってくれた人だからこそ…… 『何を犠牲にしてもわたしを見守ってくれてたのは、そういうこと?』  償うために──義理として。 『五年もの間、ずっと──』  あなたをわたしに縛り付けてしまったのかと、考えたその〈呟〉《つぶや》きに。 『──違うッ!』  不安を粉砕するような〈咆哮〉《ほうこう》が、意識へ強く響き渡った。 『罪を償いたいと思っていた。だけど、決してそれだけじゃない。  勝手な義務でも、自尊心でも、当たり前だが〈憐憫〉《れんびん》でもない。最初は色んな理由があったかもしれないが。 けれど、今はッ──』  結晶の魔砲を小さな刃一つで迎え撃ちながら、ゼファーは語る。  着弾のたびに増えていく傷と疲労、絶望で〈嬲〉《なぶ》られながらも答える言葉を止めることは決してない。  星を介して同調しているがため、ウラヌスの脅威に〈怯〉《おび》えるゼファーの感覚が直接的に伝わってくる。  一歩、一歩と、震える足は自然と〈躙〉《にじ》り下がっているのが理解できた。極寒の氷撃を受け続けているにも関わらず、緊張の余り汗が噴き出て止まらない。そんな反応の一つさえミリィの内へと伝播する。  低下していく体温の影響下、指先は力が入らない。  想起するのは最悪の事態。恐怖が身体の奧から止め処なく氾濫してくる。  蒼の〈星辰光〉《アステリズム》が〈煌〉《きら》めき、氷弾が襲い来る。着弾した次の瞬間には、氷華が周囲一帯を丸呑みする勢いで爆発的に広がった。  それが何度も、何度も何度も連続するという絶望の光景。  死以外のどんな可能性も想起できない状況で、それでもなお立ち上がろうと〈掻〉《あが》き続ける彼の心──その本心は。 『つ、あァァッ──』 「いいから、もう……やめてっ」  思わず口から〈零〉《こぼ》れてしまった言葉。ゼファーが魔星から逃げ惑うたび、その身に刻まれていく生々しい傷が胸に痛い。  お願い、もう立ち向かわなくてもいいの。ごめんなさい。  戦って傷つくくらいなら、逃げて無事でいてほしいんです。大切なあなたを失うことこそが少女にはもう耐えられないのに。 『待ってろ、ミリィ……すぐ、迎えに──』  腕を、足を、胴体を、壊死寸前まで凍りつかせて命を瀬戸際〈繋〉《つな》いでいる最中でも兄の声は響いている。  立ち向かうと、当たり前に言っている。  逃げてよ、兄さん。もう他のことなんてどうだっていいの。  なのに、それでも諦めないあなたは──。 「〈贖罪〉《しょくざい》でも、義務でも、自尊心でも、〈憐憫〉《れんびん》でも……どれでもないって言うのなら」  怖がりなのに、痛がりなのに。  自分のため恐怖を殺して〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく命を懸ける──ああ、あなたは。 「──だったらどうしてなのよ、馬鹿ぁぁ!」  やっぱり誰より大好きな、嫌いになんてなれっこない愛しい兄へ涙を流し、問いをぶつける少女。  それに対する、男の答えは…… 「──どうして、だって?」 ミリィの問いに対して、とっくに腹は決まっていた。 ああ──そうだ、決まっていたんだ。 「君の笑顔以上の幸せなんて、この世のどこにもないからだッ!」 『─────』 ──叫び、ここで完全に自覚する。 ああ、そうだ。俺は君を、ミリアルテ・ブランシェという一人の少女を愛している。 俺を暗闇から引っ張り上げてくれた女の子。心を照らしてくれた灯火。ずっと〈縋〉《すが》っていた、助けられてきた大切な家族。その重さと暖かさを今度こそはっきりと心のすべてで受け止める。 最愛の家族、大切な女の子。ミリィ、ミリィ、一緒に生きていきたいんだ。たとえこの身がどうなろうとも。 「君に会いたい、今すぐにッ」 「たとえ何が立ちはだかろうと、そっちの方が苦痛なんだ。大好きだよ、大切だ──頼む抱き締めさせてくれ」 『うん、うんっ──』 頭に直接聞こえるその声は、涙ぐんでいるだろうか。 先まで抱いていたであろう不安は最早なく、いつもの優しい俺の大好きなミリィの声だ。 『わたしも好き、大好き』 『ずっとずっと、兄さんのことが大好きだよっ』 これから二人の行く先に、どんな傷や痛みがあっても構わない。 いつでも、こんな俺を信じてくれた優しさが胸に深く染み渡る。あの日の誓いは自分のすべてだ。ゆえに必ず守り通すと決意して、心に熱い炎が灯る。 迷いも憂いも晴れ渡り──成すべきことはたった一つ。 あらゆる痛みは消し飛んだ。俺の命を奪わんとする魔星、おまえごときに奪わせない。 俺たちの絆を断ち切れると思うなよ、必ず彼女を守るんだ。 「──だからァッ」 「力を貸せ、ヴェンデッタ! 俺たちの家族を、今度こそ守り抜くためにッ」 『ええ──行きなさい、ゼファー!』 星辰を介し想いが重なる。それは、闇を照らす三つの光。 絶望さえも砕く家族の〈絆〉《チカラ》がここに〈集〉《つど》いて発動する。 遠方で蒼星のアストラルが揺らいでいた。それは極大で、触れれば終わりに変わりはない。魔星に仇成す者は皆等しく滅するのみ。 放たれ、迫り来る破滅の氷弾。そこに俺は、刃を構え踏み出して── 着弾した瞬間、氷の華が咲き誇りながらその結晶を〈撒〉《ま》き散らした。 「他愛ない──」  ──目標に直撃したのを確認し、ウラヌスはその口端を歪めて〈嗤〉《わら》う。  小賢しくも逃げ回っていたようだが、それもこれでようやく終焉。  〈些〉《いささ》か手間取ったものの、所詮あれは下賤の輩。〈吟遊詩人〉《オルフェウス》などと持て囃されていようともただの人類である以上、少し本気を出してしまえばこんなものというわけだ。  〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》に関しては、まあどうにかしているだろうと彼女は静かに考える。  獲物と同じく星光を向けはしたものの、殺すまでには恐らく至っていないはず。  多少〈掠〉《かす》ったことは間違いないが勝手に生き残っているだろう。ゆえにわざわざ〈斟酌〉《しんしゃく》しない。  対して、ゼファーは生きたまま氷漬けとなっているのは確実だった。  本来自分の周囲に展開している星光を凝縮し、砲身の形成により離れた場所で一気に爆発解放させる結晶の魔弾。自身の切り札を受けて無事に済む存在など忌々しい光の英雄くらいなもの。  周辺も余さず氷結する性質上、完全なる回避も不可能。まあ少々破壊力は過多であったかもしれないが……瀕死ではあっても死んではいるまい。  最悪、脳と心臓さえ動いていれば良いだろう。  とはいえ、氷棘や花弁の刺さり方如何によっては原型が崩れているかもしれない。なにせ力を入れすぎたのか、最期の一発は着弾と同時に全方位へ弾けながら飛び散った。  華が咲くというよりは花火のような、その解放。  あれはまるで──などと思ったところで、彼女はふとそれに気づく。 「まさか──」  〈飛〉《 、》〈び〉《 、》〈散〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》? それはもしや、直前で何かの干渉を受けたのではと──  気づき、すぐさま視線を戻すとそこには一迅の〈颶風〉《ぐふう》が疾走していた。  視界に映るのは星光で速度を倍加させ、ウラヌスへ猛然と接近してくるゼファーの姿。  誰よりも速く、何よりも速く。そしてひたすら一直線に迷い無く。  建物の屋上を跳躍しながら恐るべき速度をもって迫り来る。その様子はさながら弾丸の如し、凍結どころか生きていながら、しかもこちらを殺傷すべく気炎を上げて突撃している。  何故生きているのか疑問に思うが──それよりも、身を焦がすのは屈辱と憎悪。仕留め損ねたその事実に鉄姫は激しい怒りを抱く。 「舐めるなよ、琴弾きが──ッ」  迎撃すべく〈咄嗟〉《とっさ》に放った一撃も狙いは完璧。  それは本来ならばゼファーの中心へと直撃し、成す術なく凍てつかせる一撃であったが──  着弾するまさに寸前、髪の毛に触れる刹那で切り裂かれた。  切断と同時、叩き込まれたのは〈共鳴振〉《レゾナンス》による対消滅振動。ヴェンデッタとの同調を果たし、〈星辰体〉《アストラル》に直接訴える冥府の琴が魔星の光を踏み〈躙〉《にじ》る。  氷弾は四方へ凍気を拡散させ、花火のように豪快に弾け飛ぶ。  さらに続けた二撃目も同様に消滅させられた。ゼファーの接近は止まらない。  ゆえにおかしい、殺せないはずはないのだ。  互いの隔絶した星光差によって、満足に反応すらも出来ないのにと、ウラヌスは驚愕する。  しかし、目の前の光景は現実だ。信じられないことに、距離にして5km先の狙撃を切り裂きながら、ゼファーは今もウラヌスに恐るべき速度で迫っている。  その眼光、その姿──殺す、死ねよ、滅びろと。  おぞましいとも感じさせる執念のもたらす決死の特攻。つまりは気合、根性や覚悟の成せる奇跡に対して想起させられる人物は一つ。  歯噛みする、許せない──ああ、そうだ、ようやく理解した。 「やはり貴様、奴の同類かァァ────ッ!!」  〈抉〉《えぐ》ったのは、一度目の生から続くウラヌスの古傷。  英雄と同じく〈尊〉《 、》〈き〉《 、》〈者〉《 、》〈を〉《 、》〈滅〉《 、》〈ぼ〉《 、》〈す〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》を前にして、精神的な仮面の剥がれた〈氷河姫〉《ピリオド》はあらゆる余裕をかなぐり捨てた。  目障りな、粋がるなよ、劣等は劣等らしく地を〈這〉《は》いながら、我等が意志に沈むがいい。  更なる力を捻り出し魂さえ注ぎながら暴走する敵意を圧縮、解き放つ。  だが、しかし…… 「────、ふッ」  もう一度、いいや何度でも襲い来る猛り狂った氷界弾をゼファーは切り裂き、進み続ける。  背筋に走る悪寒は未だ止むことはない。どうにか切り抜けたことに刹那の〈安堵〉《あんど》を覚えると同時、死の恐怖が全身を縛ろうと今も激しく襲っていた。  精神を極限まで摩耗させながらの疾走に嘘はなく、〈怯〉《おび》えと必死に戦いながら彼は狙撃の斜線を〈辿〉《たど》りつつ真っ向から挑んでいる。  まず第一に、ゼファーは決して弾道が見えているわけではないのだ。  それどころか、ウラヌスの姿さえまったく視認できていない。  当たり前の前提として、〈星辰奏者〉《エスペラント》とて人間である。戦闘性能を極限まで引き出されている〈生体兵器〉《ウラヌス》とは根本からして違うため、望遠機能を搭載している魔星には及ばない。  ヴェンデッタとの同調でアストラルを視認できるようになっては当然いるものの、視力そのものが向上しているわけではなかった。  ゆえに、見ているのは星光の揺らぎそのもの。  ゼファーは知らない情報だが、〈神星鉄〉《オリハルコン》で造られた人造惑星は膨大なアストラルと感応し、次元間エネルギーそのものを限定的に現界へと呼び出すことで超出力を捻出している。  言わば地球の法則を無視した〈異次元〉《むこうがわ》の恩恵、その一端を用いている以上は星光の流れもまた大きくうねらざるを得ない。  巨大なものの身じろぎは、小人にとっては大地震だ。  結果として、〈予〉《 、》〈備〉《 、》〈動〉《 、》〈作〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈の〉《 、》〈認〉《 、》〈識〉《 、》〈が〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。ウラヌスの粒子反応が極端に膨れ上がったその瞬間、相手の必殺がやって来るという因果関係を利用して迎撃のタイミングを計りながら合わせていた。  そして第二に、これは素体の経歴に関わってくるものだが…… 「──視えるぞ、おまえの殺意が」  ウラヌスの殺気は非常に強く凶悪な反面、あまりに明確で捻りのないものだったのだ。  とてもストレートに燃やした悪意をぶつけてくる。  元軍属であったゼファーとしてみれば、それは察知しやすいという他ない。  弾丸の速さに合わせて刃を振るなどという大それた芸当は、当たり前だが本来なら不可能なのだ。まして魔星の砲ともあれば言わずもがなというものだったが、しかしここまで〈素〉《 、》〈直〉《 、》とあれば話は別になるだろう。  殺す、殺す、殺す、殺すと──あまりに真っ直ぐ進む敵意。  それが自らへと照準を結んだタイミングで、〈該〉《、》〈当〉《、》〈箇〉《、》〈所〉《、》〈へ〉《、》〈と〉《、》〈切〉《、》〈っ〉《、》〈先〉《、》〈を〉《、》〈置〉《、》〈い〉《、》〈て〉《、》〈迎〉《、》〈撃〉《、》〈す〉《、》〈る〉《、》。  恐ろしいし難しいが、それだけだ。神経を極限まで尖らせた今、絶対不可能なわけではなかった。  これもまたゼファーが知り得ないことであるが、ウラヌスの素体となった女は、本来戦いなどしたこともない〈御令嬢〉《おじょうさま》である。  よって魔星となった現在も戦闘技術の一切をこれといって有しておらず、備わり宿す星の力へ彼女は完全に依存している。  与えられた力を磨こうという意志など、当然欠片も持っていない。  己は優性で、ゆえに勝つ。などという大上段から踏み〈躙〉《にじ》ってこその貴種という肥大化した選民主義──この場合は悪癖を素体から色濃く継承してしまっていた。  よって敵意を隠蔽する、或いはわざと全方位へと散らすなどして本命を覆い隠す、そんな小技を知りもしないし使えない。身に着けたいとも思わない。  だからとても実直に、己が心の赴くまま、しかし人間には不可能な力強さで殺意を放っているわけであり……  それは通常の人間なら意志をへし折る大きさであるからこそ、先程までのゼファーにも極めて有効に機能していたものであった。  だが、今は違う。  心に灯った意志は火矢の如く、たった一つの願いへ向けて一直線に飛翔している。  〈怯〉《おび》えも迷いも既に消えた。  彼に恐怖を超えさせたものは、それこそ実に明白だろう。  人狼としての牙ではない。吟遊詩人としての宿命でもない。  ちっぽけな一人の男として、譲れない少女の想いを武器にありったけの勇気をかざして鋼の障害へと挑んでいた。 「おのれ、何故だ──如何なる理屈でこのような。  〈星辰体〉《アストラル》を読むとはいえ、この変容はいったい何だ。奴に何が起こったというッ」  そして意思による覚醒など、ウラヌスは認めないし分からない。有らん限りの出力で氷塊弾を乱射する。  強大無比であるはずの絶対零度はしかし、そのすべて無情に斬り落とされるがままだ。  狂えるほど憤怒しながら放つ必殺の魔氷、それが霧雨の如く払われる理由に彼女だけが気づいていない。  恵まれた自らの性能。人とは隔絶した領域の〈人造惑星〉《プラネテス》。  与えられた優勢を疑いもしないその〈傲慢〉《ごうまん》。その怠惰。  それがヴァルゼライドに負けた一因であることを。そしてたった今、ゼファーの接近を許す最大の要因であることを、愚かな女は気づかない。 「捉えたッ──」  魔星との距離が接近する。  残り、後は1kmもない。強化された今の足であったなら、もはや数秒もあれば達する距離までゼファーは近づく。  銀刃に星辰を収束させ、必殺の一撃を構えたその時過去最大規模となる〈星辰体〉《アストラル》感応量がウラヌスの総身から吹雪のように〈迸〉《ほとばし》った。 「人間如きが、侮るなァァッ──!」  周囲一帯を巻き込み、余波だけで凍結させていく星光はまさに暴虐。  これが人外、魔星の意地。  小細工や修練など必要ない。生まれ持った圧倒的な出力差で押し切ることこそ上位種の特権だと言わんばかりの力、力、力── 「よかろう、認めたぞ。私の攻撃は当たらない。   ならば、空間ごと飲みこんでくれるまで──ッ」  〈裂帛〉《れっぱく》、〈咆哮〉《ほうこう》して狙いを変える。  これまで察知してきた殺気の射線、寄る辺とも言うべきそれがゼファーの下方へ〈僅〉《わず》かに外れた。  鉄姫の狙いは〈両〉《、》〈者〉《、》〈の〉《、》〈間〉《、》〈に〉《、》〈あ〉《、》〈る〉《、》〈地〉《、》〈面〉《、》──意識の外であろう何もない空白座標に向けて〈渾身〉《こんしん》の氷界魔砲を一気に放つ。  瞬間、咲き誇るは〈獰猛〉《どうもう》なる大氷華。廃墟と化したビルを丸々一棟飲み込んで尚止まらない極大の出力が、〈彼我〉《ひが》の間を埋め尽くす。  そこには逃げ場などなく完全に空間そのものを塞ぎきった。  それどころか周辺を支配する冷気の〈波濤〉《はとう》は、ゼファーを飲み込み氷の棺へ閉じ込めるだろう。  軍人如きには推し量りようのない、常識外の怪物だけが為し得る一手。直撃というこだわりを捨てた今、唯一待つのは死に他ならない。 「──獲ったぞ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」  私の勝ちだと──ウラヌスが心中〈快哉〉《かいさい》を上げる。  ああ、確かにそれはそうだろう。相手がこれまで通りの臆病者であったなら。 「──〈増幅振〉《ハーモニクス》ッ」  そして、狙い済ましたように〈自〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈全〉《 、》〈身〉《 、》へゼファーは振動を叩き込んだ。  心臓や筋肉、血管、さらに感応するアストラルまで強制的に奮い立たせる。  負担の大きい刹那の二段強化技、それは〈僅〉《わず》かな瞬間だけ驚異的な超加速を彼に束の間もたらして──  魔星の放つ死撃を飛び越え大輪氷華を突破した。  そう、今までゼファーは〈最〉《 、》〈速〉《 、》〈の〉《 、》〈移〉《 、》〈動〉《 、》〈手〉《 、》〈段〉《 、》〈を〉《 、》〈封〉《 、》〈じ〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈死〉《 、》〈の〉《 、》〈行〉《 、》〈軍〉《 、》〈を〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。この一瞬、たった一度の勝機がために。  即死の魔弾が飛来する中、少しでも速く駆け抜けたいという誘惑に耐えながらの接近。魔星の切り札に対して、こちらは切り札を温存しながら正面から突っ込んでいくという突破手段。  気が狂いかねない恐怖に耐えながらの進撃は、果たして彼にとってどれほどの地獄であったことだろうか?  元来臆病な男にとって、最高速を封じて挑む決断さえ心を削るものだった。  ウラヌス相手に手札を秘めながら、必殺の発射点へ疾走するという脅威に満ちたその難業。  成し遂げたのはやはり、たった一つの想いからに他ならない。 「おのれが、〈吟遊詩人〉《オルフェェェウス》──ッ!」 「──違う」  だからそう、言うならばこれは陳腐な話に過ぎない。 「俺は、ゼファー・コールレイン──  〈銀の人狼〉《リュカオン》でも〈吟遊詩人〉《オルフェウス》でもない、ただ抗い続ける……人間だ」  恐るべき怪物を打ち倒すのは、いつだって愛と勇気。  人間で在り続けようとした者は、少なくともそこから背を向けた者より生命として強かった。  これはただ、それだけの話である。  ──刹那、交差した影が〈煌〉《きら》めき銀の刃が空を裂つ。  氷嵐の狙撃主から頸が断たれ、宙を舞った。  選び取った存在の大切さを誇るように、決着は静かに訪れる。 「はぁ……はぁ……は、ぁっ……」 荒い息をついてその場にへたり込む。凍傷まみれの身体へ徐々に、体温が戻っていくのを感じながら震える身体を抱きしめた。 勝つには勝ったが、感慨はない。まだ信じられない。俺が奴を倒せた奇跡に思わず疑問を抱いてしまうのは生来の気質ゆえか。 それでもこれが現実だ。魔星との実力差は歴然としていたが、勝利を引き寄せることが出来たのはミリィがいたからに他ならないと、〈安堵〉《あんど》のたびに強く思う。 俺には守るべき存在がいて、あいつにはいなかった……これは恐らくその差なのだと信じたい。 莫大な星を行使した反動で、外傷以上に内部から〈灼〉《や》け落ちてしまいそうに血肉が痛んでいるものの、どうにか耐える。併せて頭痛までもするのは、強烈に神経を擦り減らしたからだろう。 一発でも読みをミスっていれば死ぬ状況だったのは間違いなく、それを超えられたのが今でも信じられないほどで── 『兄さん……良かった、生きててくれて』 『わたし、もう、っ──』 ミリィは〈安堵〉《あんど》の涙を流していた。緊張が解けたというのもあるが、ここまで過酷な重圧を掛けられたのは初めてのはずだから。 「ミリィのおかげだ。だからもう、泣き止んでくれると嬉しいな」 『──うんっ!』 俺の言葉に、〈向日葵〉《ひまわり》を思わせる明るさで答えた愛しい妹。 心が直に〈繋〉《つな》がっている感覚は結構なのだが、こういう時傍にいないということはどこか非常にもどかしい。 できることなら今すぐにでも抱き締めたいんだが、まあともあれ。 『おめでとう、ゼファー。よく諦めなかったわね。あなたにしてはなかなか上出来といったところじゃないかしら』 続いて、ヴェンデッタが話しかけてくる。その言葉にはいつもの棘がなく、おかげで俺も素直な気持ちで感謝を伝えられる。 力を貸してくれた〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈家〉《 、》〈族〉《 、》へと。 「俺だけじゃ無理だ。おまえがいなかったら何も出来ずに死んでいた……ありがとな、ヴェンデッタ」 『ふふ、珍しく素直ね。嘘みたい』 などと呆れ混じりに揶揄される。確かに、今までが今までだったからというのは分かるが今となっては笑い飛ばしてほしいものだ。 それに、ああ── 「そうだな。何つうか、今はすっきりした気分だよ」 静かに、〈第二太陽〉《アマテラス》の輝く空を見上げながらそう口にした。 隠してた事実もあった。遠慮もあった。そして、心のどこかで恐かった。そんな本音をミリィと語り合えたことが今までにない解放感を生んでいる。 そして今ならこいつのこともちゃんと家族の一員なのだと、思うことができていた。それが今は、少し嬉しい。 『ああ、今の〈貴方〉《あなた》なら大丈夫ね』 『安心したわ、素敵な姿が見られて。目を覚ました甲斐がこれであったというもの……』 そう、三人がいれば大丈夫だと──思えているのに、なぜか。 『今日のこと、忘れないで。それとミリィを大切に』 『私にとっても、彼女は大切な妹なんだから』 どこか物静かなそれが、遺言じみた響きに聞こえてしまうのはいったいどうしてなのだろうか? さらにその口調が、俺の古い記憶を絶妙にくすぐっている。 ヴェンデッタの物言いは、まるで〈あ〉《、》〈の〉《、》〈人〉《、》のようではないかと── 「────」 声をかけようとした瞬間、星光による同調がふいに途切れてしまった。 ラジオを切ったかのように途絶えた声、そして感覚。ヴェンデッタの声が聞こえなくなったそれが、どうにも不安を〈煽〉《あお》り始めた。 「あいつ、まさか……」 胸に去来したのは、〈僅〉《わず》かたりとも考えたくない想像。それを否定するように俺は首を振るのだった。 「まさか、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》──」 「おやおや、これは予想外だな」 「また一つ聖戦は遠ざかる、か」 「────、レディ」  そして──眠るように、とても静かに。  ヴェンデッタは瞳を閉じる。それは、普段の彼女からは想像もできないほど穏やかな表情で冥府に落ちる花嫁のようでもあったから。 「ヴェティちゃん……ねえ、どうしたの?  ねえ、っ──目を覚ましてよ、ねえ!」  まるでそのまま、二度と目覚めることはないかのような突然の眠りに対してミリィは当然混乱した。  少女もまた、五年前に死線を見たことのある人間だから分かるのだろう。ヴェンデッタから漂う濃密な死の気配、死人特有の抜け殻じみた存在感を敏感に察知して……だからこそ信じられずに言葉をかける。  けれど、満足げな少女の寝顔は目覚めない。  どれだけ揺さぶり言葉をかけても、精巧な作りものであるかのように愛すべき家族の一人は黄泉の底へと旅立っていた。 「──〈役〉《、》〈目〉《、》を遂げたのかもしれんな」  取り乱す弟子に対し、ジンが静かにそう告げる。  彼もまた普段の態度とは異なる、どこか〈悼〉《いた》むような表情を浮かべて続けた。 「こいつらは死者であり、その内奧に存在する衝動に突き動かされておる。 要は、生前の未練を原動力としておるわけだ……いわば亡霊のようなものよ。  貴様に何かを託し、それを果たしたというのなら。いやそれとも──」  続けた言葉は分からないが、それでも要点はミリィにも掴み取れた。  自分と兄を見て、安心したと言ったこと。きっとあれが何らかの引き金だったのだと少女もようやく悟ってしまい、涙が目尻に浮かび上がる。  こんな別離はないだろうと、思わずにはいられなくて悲しみに打ち震えながらせめてヴェンデッタを抱きしめることしか出来ない。声にならない静かな〈嗚咽〉《おえつ》が研究室へ染み入るように流れている。  それから数分ほどだろうか、研究室にやって来る人影があった。 「ルシードさん──」  〈政府中央棟〉《セントラル》に来て以降、チトセの下で実質軟禁状態であった彼が呆然とヴェンデッタを眺めている。  走ってきたことで息は荒く、身体は喪失に震えていた。  顔面は蒼白で今にも崩れ落ちそうなほど、死人のように血の色を失っている。 「は、はは……レディ、冗談は止してもらえませんか?  ねえ、起きてくださいよ。そして、麗しいその声を聞かせてください。 いつものように……」  〈縋〉《すが》るように語りかけるが、ヴェンデッタはそれに答えることはない。  この場の誰もが理解する──永遠の眠り。  ミリィの腕に抱かれたまま、二度と覚めない安らかな夢に包まれたままだった。 「う、あ、ぁぁ……っ  ああああああああぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァッ!」  その場へ崩れ落ちるルシードに、ミリィもまた何も言うことができなかった。  〈慟哭〉《どうこく》は少女の死を深く〈悼〉《いた》む悲しみに満ちていて、耳をふさいでしまいたいほど悲痛な痛みが籠められている。  しかし── 「ルシード・グランセニックだな。そこを動くなッ」  そこで突然、前触れもなく部屋へ天秤部隊が立ち入って来る。  悲しみに暮れるルシードに刃を向けるその態度は明らかに威圧的であり、皆がヴェンデッタを想うこの場にはそぐわない。空気が一瞬で葬儀場から火薬庫のものへと変わった。 「ま、待ってください。今は……」  ミリィが両者を取りなそうとするものの、任務を受けているであろう兵士たちも退く様子はない。  いや、気のせいだろうか……〈ど〉《 、》〈の〉《 、》〈兵〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈余〉《 、》〈裕〉《 、》〈が〉《 、》〈無〉《 、》〈い〉《 、》。  よく見ればまるで怪物を相手にしているような緊張が、彼らの間に張り詰めている。〈星辰奏者〉《エスペラント》にあるまじき過剰ともいえる態度に対してミリィは束の間、疑問に思い── 「──下がれ」  そして、険しい顔でジンが告げると同時──先程までその場にうなだれていたルシードがまるで幽鬼のように立ち上がった。  その動きが、なぜかとても怖気立つ。  続けて師の叱責もさらに激しさを増し始めた。 「下がれ馬鹿弟子、もたもたするなッ」 「え、でも──」 「〈戯〉《たわ》け、早く〈そ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》から離れろッ!」  それは見たことのない師が見せる本気の焦り。ルシードにこのような大仰な反応を示すことに対して、ミリィは思わず驚愕に硬直する。  分からない、分からないけど何かがおかしい。嫌な感覚が止まらない。  世界に打ち付けられた〈仮面〉《いつわり》がまるで剥がれ落ちるかのように──そして。 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがため」  彼が口にしたのは、星を起動する〈詠唱〉《ランゲージ》。  星光を宿す者のみに許された起動言語を、憤怒と共に紡ぎ出した。 「少し、黙ってくれないかな?  彼女がゆっくり眠れない。その安らかさを、〈穢〉《けが》すなよ」  そして、死者の〈慟哭〉《どうこく》が暴威という形を伴って顕現する。 「あ、ぐ……あああァァッ……!」  瞬間、天秤兵の全員が〈地〉《 、》〈面〉《 、》〈へ〉《 、》〈と〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈力〉《 、》〈で〉《 、》〈押〉《 、》〈し〉《 、》〈付〉《 、》〈け〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》。  まるで不可視の掌により莫大な圧を受けているかのように、誰一人立ち上がれず地へめり込むほど彼らの身体が沈んでいく。  べきりぼきりと、枯れ枝のように響く音は人体が潰れる音色。骨がへし折れ血を吹きながら肉塊へと変わっていった。 「え、ぁ……なんで? こんな、信じられない〈星辰光〉《アステリズム》」  その凄まじさ、暴力的な絶対性に──ミリィは自然と身震いした。  〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》であるからこそ分かる隔絶した出力と、恐ろしいまでの能力値。親しい間柄である人間の劇的な豹変に対して茫然自失とする他なかった。  ルシードから〈迸〉《ほとばし》っている情念は〈寂寥〉《せきりょう》。悲哀。やるせない〈赫怒〉《かくど》の業火だ。  見ているだけで伝わってくる破壊衝動に従って、雑草を摘むかのように兵の命を〈押〉《 、》〈し〉《 、》〈花〉《 、》へと変えていく──そしてその度、消えていく。  昨日と同じ今日。変わらない幸福。  当たり前で、そこら中にある、誰にでも得られるささやかな日常。  ミリィや兄の愛した時間はしかし、崩れ去るのは一瞬だった。前触れなく運命は激流と化して次から次へと襲い来る。  そして、もう止まらない。 「ようやくその気になったということか、ルシード・グランセニック。  いや、ヘルメス-〈No.δ〉《デルタ》──〈錬金術師〉《アルケミスト》」  ジンが口にしたのは、〈人造惑星〉《プラネテス》の個体名。  多数の顔持つ伝令神──錬金術師と呼ばれた男はその問いを噛み締めるように〈頷〉《うなず》いた。 「避けられないとは──ああ、知っていたとも最初から。  けれど、彼女が眠ったのなら是非もない。これ以上傍観を決めている訳にもいかないだろう」  そう、彼の親友と同じように……  愛する少女をきっかけに目覚めるのは、ゼファーだけの特権ではなく。 「そして行動を起こすのは、僕だけではないだろうさ」 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがためッ」  ここへ、さらにもう一人。  響き渡る〈詠唱〉《ランゲージ》が、新たなる魔星の起動を高らかに告げるのだった。  暴走するのはアスラ・ザ・デッドエンド。  普段と変わらない、まるで日常の仕草のように。〈ご〉《、》〈く〉《、》〈当〉《、》〈た〉《、》〈り〉《、》〈前〉《、》〈の〉《、》〈顔〉《、》〈を〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》反動勢力の仲間を次から次へと殴殺していく。  それに伴う一連の動作は普段と変わらず見事で流麗、そして同時に何かがおかしい光景だった。  指先を〈掠〉《かす》めるだけで、頭が破裂し飛び散っていく──  ほんの〈僅〉《わず》かにつついただけで肉がそのまま、骨だけひしゃげる──  眼前の相手を殴ったはずなのに、なぜか隣の男が死んだ──  死んでいく、ああ、死んでいく。  誰も彼もが適当に、訳も分からず死体の山になりつつあった。ありえない〈蹂躙〉《じゅうりん》劇を欠伸まじりに無頼漢は形にしている。 「どういうことだ、アスラ──」 「あん? 今更何言ってんだ。もうなんとなく分かろうが」  傷ついた指揮官の問いかけに、あくまで彼は秘密を明かす悪童のように。 「クロノス-〈No.η〉《イータ》──〈色即絶空〉《ストレイド》。そういうことさ、悪いな大将」  己が正体を告げながら、ケタケタと陽気に笑った。  屈託ない表情に邪気はなく、怨みも怒りも〈微塵〉《みじん》もないまま……されどしっかり潜り込んだ〈反動勢力〉《かりやど》をきっちり壊して処分していく。 「どうも緊急事態らしくてなぁ、基本自由なはずだったんだが……お呼びがあっちゃあ仕方ない。 個人的には義理人情で最後まで付き合うのもよかったんだが、名指しとあっちゃしょうがねえよな。ああ、しょうがねえ。  ちなみに、あんたの動きはとっくにお見通しだったらしいぜ?」  かつての戦友を次々と打ち〈斃〉《たお》しながらも、最後までアスラの口調は軽かった。  気に入っていたのも本当で、言葉はすべて真実だ。きっと指示さえなかったのなら同志のままでもよかったが……  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》が自死したならば話は別。  カグツチの要請とあれば、彼もまた動き出さなければならない。  何より〈吟遊詩人〉《ゼファー》と殺し合う理由も出来た。おお、めでたい。  一時でも相棒となった男と交える死線は、いったいどんな味がする? それもまた愉快そうだとアスラは思い焦がれるために── 「それじゃあ、悪いがサヨナラだ。あとは勝手に頑張んな。  結構楽しかったが、あばよッ──と!」  一つ大きく息を吸い込んで、地面へ向かい踵落としを叩き込んだ。  次の瞬間──  反動勢力のアジトが〈地〉《、》〈上〉《、》〈の〉《、》〈廃〉《、》〈ビ〉《、》〈ル〉《、》〈ご〉《、》〈と〉《、》〈崩〉《、》〈れ〉《、》〈始〉《、》〈め〉《、》〈る〉《、》。  何だこれは? 何をやった──拳法ではなかったのかと、アルバートは混乱する。  この男が引き起こしたのはまるで地震の誘発だ。何かを見事に砕いたことで、周囲丸ごと呑み込みながら建造物が倒壊していく。  一方のアスラは弱者の都合など〈斟酌〉《しんしゃく》しない。どこまでも豪放〈磊落〉《らいらく》に、呵々笑ってなんとも楽しげ。  未来を思い、崩れていく地下の中で不動のまま天を仰ぐ。 「さぁて、それじゃあゼファーと遊ぶかねぇ。王子様を引き摺ってくりゃ眠り姫も目覚めるだろ。 まあ──どう転ぶにしても楽しい喧嘩が出来そうだ。  カ、カカ、カカカカカカハァァッ──」  そして心の底から楽しそうに、アスラは崩れ落ちる瓦礫の中で逃げることもせず高笑った。  未来の闘争に思いを馳せながら、一人古巣を潰しながら──地の底へと無防備に飲み込まれて消えながら。  いつまでも楽しそうに、子供のような笑い声を上げ続けているのだった。  ――チトセ・朧・アマツは、二度までも掴めずこの手をすり抜けていった温もりを想う。  この手が掴んできたものは、恐らくは他人よりも少しばかりは多いのだろう。  まずは生まれ持っての名家の血筋があり、長じるごとに積み重ねた勝利があり、血筋と勝利に対する称賛があった。  また、それらを得ても歪むことがなかったがゆえに掴めた、友情や絆の数々もあった。  どれだけ多くのものを掴み取り、そして取りこぼさずにいられるかということ。そのために、どれだけ多くの克己と努力を惜しまずにいられるのが人生の〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》を表す指標であると……自分は信じて歩んできたのだ。  そう――あの日までは。  クリストファー・ヴァルゼライド。貧民窟から身を起こし、叩き上げの実戦の中から頭角を現してきた軍人の中の軍人。  当時大佐階級であった彼が申し出てきた共謀を受け入れたのも、それが〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》であると己の価値観で判断したがゆえである。  いや、あるいは……その出自からヴァルゼライドを身近にいる一人の若者へと重ね、無自覚に気を許していたのかもしれない。  何処までも普通の人間であることを自認する〈彼〉《 、》とは、およそ似ても似つかぬ硬骨の存在ではあったものの、二人はどちらも底を知る者。不条理の中で育った者。  ならばこそ見えるものが近い、自分はそこに価値を見た。そして共に手を結ぶ。  軍部に寄生し既得権益を〈貪〉《むさぼ》る、腐敗した上級将校たちとその軍閥の粛清。  それは〈裁剣天秤〉《ライブラ》を率いる身となって以来、既に日々実行していたことでもある。  だが苛烈な裁剣を振るうたび、いつも生き残るのは本当に斬るべき巨悪に他ならないという矛盾があった。連中が最終的な根絶を免れる要因には、まず体制そのものが持つ構造力学上の問題があるのだ。  彼らは蜘蛛の巣の上で肥え太った蜘蛛。複雑怪奇に張り巡らされた、制度や人脈を利した抜け道という蜘蛛の糸の渡り方に長けている。  奉じた正義も、鍛えた刃も、迷宮のように入り組んだ粘着質の巣の中ではすべてを断つには至らない。  裁く者も同じ秩序を奉じる限り、決して根絶できない類のものだ。いわば必要悪に近い。  そしてまた、彼らの派閥にはアマツに連なる家系の者も多く含まれていたことが、またなんとも情けないという侮蔑を湧き上がらせる。  貴様らそれでも〈貴種〉《アマツ》であるか? 恩恵を得て育ったならば、それに〈相応〉《ふさわ》しい生き方を民へと示せ。我欲を〈貪〉《むさぼ》る獣でどうする。  ……と、何度思ったか知れないが、そう思う自分こそ特権階級側の者では圧倒的に少数派だった。  人間とは基本、堕落する者。清廉な志を持続できる者こそ稀。  ゆえ自分にとって〈貴種〉《アマツ》であることは誇りと同時に、やがて自分では拭うことのできない“原罪”としても機能していくことになった。  世上には一見、快刀乱麻を断つかに見える女神の裁剣。しかし己だけが知っている老獪な寄生虫に届かぬ虚しさは、徐々に心を〈蝕〉《むしば》んでいく。  なにせ、一切の妥協を許さない〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》など多数派とは相容れないわけなのだから。行動を起こすたび、むしろ少しぐらいの不正なら許すがいいと〈反駁〉《はんばく》する声が、軍内部でも隠然と聞こえ始めた。  誰でも叩けば多少の〈埃〉《ほこり》は多少出るものであり、明日は我が身となるならば当然の保身だろう。  それらの徒労や四面楚歌に、〈裁剣〉《アストレア》が折れなかったのは歴史が示す通りであった。  だが、所詮は生身の人間。それも本来は感受性豊かな時分を出ていない若さであり、気丈な振る舞いの下で密かに摩耗していないはずがない。  実のところ、あの当時に心を病んでいたのは〈彼〉《 、》の方だけではなかったのだ。  だからこそ、当時はヴァルゼライドという〈英雄〉《ヒカリ》に深く感謝していた。  相棒たる狼より、この男の方が〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  優れているし敬意は抱くが個人的にはそれまでだ。つまりそんな情の薄さがあったから、逆に手を結べる部分があったし暴走できる部分もあった。  現実に混在する理不尽への怒り、粛清に対する迷いが凄まじい傑物を見ていることで紛れていく。  輝きは徐々に、疲れ果てていく自分の心を“正しさ”で侵食し始めたのだ。立ち上がる、立ち上がれると、弱気を無視することばかりが上手くなる。  それが正義という呪縛であると、ついぞ一人気づかぬままに……  そして、疲弊した心はかつての日々をも都合よく解釈する。  鉄の男との出会いで蘇ったのは、すり減った日々に見失いかけていた祖父の〈訓〉《おし》え。これもまたあらゆる意味で捻じ曲がった  ――人には必ず、自分より正しい者を相手にしなければならない時が来る。  ――だが己が相手の光より劣っていると痛感して尚、退けぬ時も必ずある。  ――それはもはや、正誤を超越した人生と人生の激突である。  ――ゆえに、貫くことから自分の全ては始まるのだと。  〈斃〉《たお》すべき巨悪が体制という蜘蛛の巣に紛れるならば、犠牲を出しても巣ごとすべて焼き払おう。〈特権階級〉《アマツ》の原罪を問う者がいたとしても、それでも自分は違うと断言しながら同族殺しを続けよう。  独善との謗りにも、そうだと認めて笑ってやる。応さ、総じて受け止める。  貫くこと――その決意が意固地になって定まる。  あらゆる迷いを無くしたその歩みは、いつしか背中合わせになって久しい相棒との距離を更に遠ざけていく。  けれど、全てが終わればもう一度、彼の元へと帰れると信じた。心から楽しかった、あの頃のように。  その願いだけを心の支えに、今はただ歩き続ける他になかった。  そして、転機は静かに訪れる。  軍事帝国アドラーを新時代に導く、〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》という革新的軍事技術。未知の人体実験に身を投じその第一号となったヴァルゼライドと対抗するように、それを凌駕する別方向からのアプローチによる新兵器が開発されているという噂。  それを推し進めているのは、今までチトセの刃が届かなかった守旧派閥──血統派の中心人物達だという。  眉唾物とは思うが、もし連中の思惑が実を結べば帝国の政治と軍事は内輪の権力維持のため向こう10年は停滞するだろう。  その間に周辺諸国が力を付けるのは自明。事によれば、新技術を敵国に売り渡す奸賊さえ現れるやもしれない。  それがヴァルゼライドの見立てであり、チトセもまた同意見だった。 「機会は一ヶ月後。その一夜で全てを決する。帝国を〈蝕〉《むしば》む癌を、ただ一刀で切除するぞ」  ゆえに予定される新技術の公開実験を失敗に導き、混乱に乗じて軍内部の主導権の奪取と主要人物の一掃を同時に行う。  そしてすべてを闇に葬りながら、帝国を理想の方向へと軌道修正する――それがヴァルゼライドと自分の画策した〈計画〉《クーデター》の全容だった。  計画の絵図は水面下で急速に描かれてゆく。殺害すべき対象の〈閻魔帳〉《リスト》もだ。新技術を封印するため、開発責任者一家の暗殺という不幸な犠牲は……しかし。  流血を最小限に留めるための必要悪でもあったから、苦渋と共に決断した。 「必ず同時に一家全員だ。幼子一人も見逃してはならん。技術者と言えども軍属、どのような手段で機密を秘匿しようとするかは分からん。  過去に禁制の麻薬を非水溶性の樹脂に詰めて子の腹に隠し、国境を越えようとした犯罪者がいた。その程度の事態は今回も想定しておく必要がある」  だからこそ、不要な犠牲を出さぬための最適任者として手練れの札を選びもしたのだ。  誓って、それ以外の理由はない。  追い詰めるつもりなんてなかった。  傷つけるつもりなんて、これっぽっちも、なかったのに…… 「命令は以上だ。行け、〈人狼〉《リュカオン》」 「――〈了解〉《ポジティブ》」  そして〈彼〉《 、》……副官ゼファー・コールレインは、死んだ魚のような目をして〈頷〉《うなず》いた。  亡霊のごとく生気の失せた声を聞いた瞬間、洩れそうになった〈嗚咽〉《おえつ》を懸命に堪えた。  すまない――すまない、ゼファー。ごめんなさい。  そこまで追い込んでいたのかと、己の罪深さと彼への〈憐〉《あわ》れみが激痛となって胸を〈抉〉《えぐ》るけど、これが最後だ。もうこれ以上、おまえの手を汚させることは決してしない。そのための世の中を、私たちの手で作るんだ。  ……なんていう青臭く、都合のいい謝罪を秘めながら。  受令後、ゼファーがドアを開けて出ていくまで何も言えなかった。口を開けば、全てが涙に押し流されてしまいそうだったのを覚えている。  そう……〈五年前〉《あのころ》、自分は出来る限りのことをした。そこに不純な動機は何一つなく、身も心も帝国の未来という公に捧げていたのは胸に誓って本当のこと。  いや、たった一つ願った私欲があったとするなら。  それは、相棒と共に駆ける未来。  どれほど互いの手が返り血で汚れていたとしても……否、だからこそ互いの罪までも許し合って雄々しく明日に進もうと。  誓い、願い、描いていた。だからこそ心の痛みも無視できた。  けれど、恐らくそれがチトセ・朧・アマツの犯した〈第〉《 、》〈一〉《 、》の罪だったのだろう。  何故ならば、罰とは罪に対して下されるもの。〈裁剣〉《アストレア》の〈錆〉《さび》と変えてきた〈咎人〉《とがびと》たちに、自分が数多そうしてきたようにやがて裁きは訪れる。  罪なくば罰は生まれず、そして罰は……  ――あの夜、確かに下されたのだから。  〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺。歴史にそう名を刻まれた未曾有と破壊と殺戮劇は、魔星の降臨と共に帝都を〈蹂躙〉《じゅうりん》し尽くした。  塵のように死んでいく忠勇の兵士。炎の中で消し炭と化す〈無辜〉《むこ》の民。それら圧倒的な犠牲を前に、何もかもが想定外の事態に御破算となったのだと悟る。  民が死ぬ。部下が死ぬ。何もかもが、炎に焼かれて死んでいく。  想定外? 馬鹿を言え、そんな言葉でこれが許される罪であろうか。  無血革命など、もはや夢のまた夢。思い描いた理想も未来も、すべてが灰となって燃え落ちていく。  途方もない後悔が、捨て去ったはずの迷いを再び呼び戻そうとする。  けれどまだ止まれない。止まってはならない。二度と己の〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》を疑わぬと、貫き通すと、祖父の英霊に誓いを立てた。それを嘘にはできないじゃない。  そして……ここで立ち止まれなかったことこそが、自分の犯した〈第〉《 、》〈二〉《 、》の罪だったのだろう。  夢遊病者のように〈彷徨〉《さまよ》った足が、ふと足下を浸す夥しい血だまりを踏んだ。  路傍に転がるのは、兵士の屍。だがその〈首〉《 、》〈の〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》軍装に、〈裁剣天秤〉《ライブラ》の〈紋章〉《エンブレム》を認めた時……  ある予感が、すぐに背骨を凍りつかせた。  その感覚が外れることを今度ばかりは祈り続け、ぎこちなく向けたその先には――ああ。 「これ、は……」  部下である〈裁剣天秤〉《ライブラ》隊員たちの転がる屍。そして、その中心に〈佇〉《たたず》む幽鬼のごとき殺戮者の姿があった。  〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》である卓抜した戦闘力を持つ部下たちは、全員が一刀の下に急所を断たれて死んでいる。  知っている、この〈殺人手法〉《キリングレシピ》。  知っている、この寂静感。  闇に潜む狼が、一撃必殺の牙により牙を〈剥〉《む》く。 「副隊長、が……コールレイン少佐が、任務を放棄して暴走……ッ  阻止せんとした我ら、を――」  まだ息のあった唯一人の兵士が、無念の〈呻〉《うめ》きと共に事切れる。もはや誤魔化しようもなく、事態はここに明らかとなってしまった。  ゼファー・コールレインは自分の下した命に背き、反逆したと明かされる。  〈軋轢〉《あつれき》に心へ〈罅〉《ひび》が走った。  意識が、果てなく凍結していく。 「なぜだ……」  口からこぼれ出た声は、死人のように枯れ果て全ての感情が抜け落ちていた。  事実、自分の心は一度そこで死んでいたのだろう。理性が認識するより先に、夢見た未来が潰えたことを悟ってしまう。 「──答えよ、〈人狼〉《リュカオン》。命令を拒絶し、あろうことか味方を殺した正当な理由を説明しろ。 さもなくば、貴様であろうと処断する」  嘘、嘘──ああ違うの。そんなことを問いかけたいんじゃなくて、私は。  表向きはそんな風に平然と喋っていたのが信じられない。自分であって、自分でなかったみたい。  それはいかなる時でも正しい軍人という機械に徹するための、訓練と克己によって構築された自慢の仮面。放心し役立たずとなったチトセ・朧・アマツの人間性に代わり、正義を行使する〈裁剣〉《アストレア》が目前の不条理に対決する。  己の〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》を貫き通せと、黄金の〈訓〉《おし》えが脳裏に激しく〈木霊〉《こだま》していた。  立場が、決意が、身体を強く呪縛する。 「……悪いな、隊長。限界だ。 俺はもう、〈人狼〉《リュカオン》なんかじゃないんだよ」  確固たる決意を滲ませて、ゼファーはそう〈呟〉《つぶや》いた。  傷だらけのまま〈怯〉《おび》えて〈竦〉《すく》んで、雄々しさとも凛々しさとも無縁な疲れ果てた姿とは似ても似つかない餓狼の反逆。  朗々と発する絶縁状に、淀みは欠片も存在しない。 「俺は、当たり前に生きて死ぬと決めた。人間らしい平穏無事な生活だけがあればいい。だからこれが、最後の“勝利”だ。  陽だまりの下で、ただの男として〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈子〉《 、》を守って生きていく──これ以上は背負えない」  だから、選んだのだと?  自分との絆よりも大切だという、その陽だまりとやらを?  おまえにそうまでさせたのは自分のせいかもしれなくて。でも、そんな裏切りあまりに〈酷〉《ひど》いじゃないか──相棒。  互いにどれだけ変わろうと、二人は一緒に居続けるんだと……ずっとそう信じていた。信じていた。今も信じているんだぞ。 「──────、そうか。  その言葉、我が〈裁剣天秤〉《ライブラ》と帝国に対する反逆と理解していいのだな?」  そんな、内心とはかけ離れた、軍人の口が勝手に動く。  状況の不透明性を排除するべく糾問を飛ばす。  駄目、いけない。そんな〈真実〉《こと》を明確にしたら本当に全部終わってしまうから……止めてちょうだい〈裁剣〉《アストレア》。  自慢の仮面が剥がれない。 「そうさ。もうこれ以上何一つ、おまえの歩みに付いていけない。  やっと、ようやく目が覚めた。掃除屋稼業はもう御免だ」  違うの──おまえに望んでいたのは、そんな〈任務〉《こと》じゃ決してないの。 「つまり重責に耐えきれず、惰弱にも半ばで折れたと言うのだな。  己を磨き勝利してきたにも関わらず、奪った責務を果たさぬと? 凡愚の安楽に逃避するのか? 許されるわけがない」  違うの──おまえに言いたかったのは、そんな〈糾弾〉《こと》じゃ決してないの。 「知ったことか。その邪魔をするならば、誰であろうと斬り捨てる」 「この、私であろうとも……?」  ああどうか、そんな残酷な問いに答えないでゼファー。 「当然だろう、チトセ――俺はおまえが怖くて堪らない」  遂に抜き放たれた銀色の刃が、夜光に濡れて男の決意を示すのだった。  それが、終焉の合図。 「ふ、くくくくく……ッ。 そうか。そうか、いいぞゼファー。おまえは私に牙を〈剥〉《む》こうと言うのだなッ」  どうして。どうして。どうして──と。  悲しみと絶望の〈輪廻〉《ループ》に閉じ込められた心は、いっそあの刃を受けて死んでしまえばいいとさえ思っているのに、身体は依然駆動する。 「よかろう、ならば処断せねばなるまいな!」  それは喝破か、それとも悲鳴か。今でもついぞ分からない。  自分を駆り立てる〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》を成す意志は、照射された敵意に対して正確無比に反応した。  もう自分は止まらない。貫き通すという盲目的な衝動のまま、相棒との殺し合いという最悪の愚行に向かって疾駆する。 「だが、思い上がるなゼファー。勝てると思っているのか? この私に。  常勝不敗の〈裁剣〉《アストレア》、駄犬の牙など通さんよッ」 「かもな。で? 百回やって一度も勝てれば大奇跡……〈屑〉《くず》にとっては十分だろうが。 来いよ、相棒──噛み殺してやる」  何が間違っていたのか、どこで狂ってこうなったのか。それさえ何も見透せずに、ゼファーの殺意へ刀の〈鯉〉《こい》口を切って構えた。  もう、二人は止まらない。  友情が残っている。信頼も残っている。  もしかしたら、それ以上の感情さえあったかもしれないけれど。 「はッ、吠えたな不忠者。その牙へし折り、惨めな死をくれてやろう。  そうさ他の誰にも渡さない──おまえのすべてを、私が奪うッ」  ただただ、〈滑稽〉《こっけい》だった。望んだ未来を掴み取るため突っ走った挙句に、〈未来〉《それ》をこの手で斬り捨てようとしている自分を〈嘲笑〉《あざわら》う。  一瞬だけ浮かんだ泣き顔を叫びで〈掻〉《か》き消し、刀身へ風を〈纏〉《まと》わりつかせた。  その決別と嘆きが、二人の星を強く〈眩〉《まぶ》しく輝かせて── 「行くぞオオォ――ッ!!」  かくして、チトセとゼファーは激突した。  互いに選んだ〈運命〉《ほし》の〈重力〉《さだめ》に、引かれ墜ちていくかの如く。  闘いは熾烈を極めた。共に互いの能力も太刀筋も知り尽くした者同士の、全能を尽くした殲滅戦が展開される。  必殺の剣舞と〈星辰〉《ほし》の秘奥が、幾度となく攻守を入れ替え炸裂する。  理不尽と悲憤に千切れそうな感情の高まりは、皮肉にも双方の能力を過去最大級に引き出していた。  そして正面からの激突となれば、能力に死角のない自分がゼファーを圧倒するのは自明だろう。  闇に紛れてこその暗殺者であり、決闘ならば剣士が勝る。初めは互角と見えた攻防も、徐々に覆せぬ地力の差が露呈していく。 「やらせんぞ、ゼファー! そんな〈巫山戯〉《ふざけ》た〈我侭〉《わがまま》を許してなるか、この馬鹿者が……ッ」  剣閃が交錯するたび相棒の……いいや、愛する男の〈血飛沫〉《ちしぶき》が風に薫る。  その中で、ただ私は狂おしく叫び続けていた。自分が秘めていた真の感情を理解していくたびに己の心を傷つける。  猛り狂う疾風迅雷は幾度となくゼファーの五体を〈蹂躙〉《じゅうりん》し、放たれる太刀は満身創痍を更に深く切り刻んだ。  致命の一撃こそ巧みに〈躱〉《かわ》しているものの、失血と痛手は狼に漂う死相を色濃いものへ変えていく。 「そうだな、確かにこれは〈我侭〉《わがまま》だ。仕事を投げ捨て、味方を殺し、あげくこうして反逆と―― どう考えても正しいのはそっちで、滅茶苦茶なのはこっちの方だ」  雷撃に〈臓腑〉《ぞうふ》を生焼けにされてゼファーの血が沸騰する。  剛性を帯びた竜巻は、戦車との衝突事故にも匹敵する衝撃だ。とてもたってはいられない、強大な火力を秘めている。 「性根の腐った臆病者、あんたの信頼に泥を塗った男の〈屑〉《くず》。何度でもそう〈詰〉《なじ》ってくれて構わない。  だけど……そんな腐った男にも、守りたいものが出来ちまったら。  おまえがそうであるように、〈貫〉《 、》〈く〉《 、》しかねえだろうがッ」  だが、それでもゼファーの動きは決して落ちない。こちらの慟哭を受け止めて、なお怖じぬ何かが傷だらけの五体を〈衝〉《つ》き動かしている。  それが余さず伝わるだけに……入神の域へ冴え渡る技とは裏腹に、心は乱れ狂う一方だった。 「言うなッ! 裏切者の抗弁など、聞くに堪えん。  私から学んだだと? だから決断したのだと? 〈戯〉《たわ》けたことを抜かしてくれるな、そんな言葉は嬉しくない」  それではまるで、自分の有り方こそがこの決別を後押ししたように思えるじゃない。  そんなの──嫌、耐えられないもの。 「こんな〈勝利〉《あくむ》を、どうして──ッ」  行かないで、行かないで――〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》。  伝えるべきはたったそれだけのことなのに、想いを吐き出すことがどうしてもできない。  それがとても苦しくて、傷つけたくないと感じながら刃を振らずにいられなかった。いあま、必殺の剣は涙の露で濡れている。 「ゼファァァァァ――――ッッ!!」 「チトセェェェェ――――ッッ!!」  そして、決着の一撃が交差する。  星女神の秘剣さえ〈凌〉《しの》ぐ〈疾〉《はや》さで、銀の人狼はすべてを振りきり駆け抜けて……  炎と闇の彼方へと、血濡れの牙を閃かせた。  ――かくして、〈第〉《 、》〈二〉《 、》の罰は下される。  負け犬の牙は、百度に一度の奇跡を起こした。  〈格上殺し〉《ヴェンデッタ》の成就である。 「行か、ないで……ゼファー、……────」  崩れ落ちたまま一歩もそこを動けなかったのは、右眼を穿った刃の痛みのためじゃない。  それ以上に大きなものが失われ、この手をすり抜けていったのだと知ったから。取り戻せない後悔に、身体からあらゆる力が喪失し……  チトセ・朧・アマツは生涯ただ一度の敗北を喫した。  兵士として、また人間として。その代償を我が身と心で支払ったのだ。  そして、敗残と再起の時は訪れた。 「〈古傷〉《きず》が〈疼〉《うず》く」  なぜ〈五年前〉《あのとき》、自分はゼファーに敗北したのか。  自分の剣を、すべてから背を向けた彼の牙が上回ったのは如何なる道理の為した業か。  右眼に刻まれたその証……眼帯の下に残した惜別の〈傷〉《しるし》を思うたび、その答えをずっと〈弄〉《もてあそ》び続けていた。 「いや……答えなら、敗北の瞬間に見つかっていたか」  それは、自分だけの正しさを信じられた者と、そうでない者との差。  正義、名誉、義務……あの頃のチトセ・朧・アマツが〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》ものはすべてがそうした“正しい理由”だったはず。  既に世において価値あるものと認められ、誰もがそうあるべきとする理想を描いた黄金律。そしてそれは、同時に〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》だったもの。  己は、自分自身と向き合った末にそれを選び取ったのではなかった。ただ教科書をなぞる生徒のように、〈正義〉《それ》へ選ばされただけだったのだと悟る。 「万人に通じる正誤を超えた自分だけの願い。だからかな、あいつは強かったですよ〈祖父様〉《おじいさま》。 軍人として不実であろうが、人として不義理を働こうが、そんなもの、こんな自分には関係ないとばかりに貫き……」  その果て、最後の最後で〈執念〉《おもい》の強度が実力差を覆したのだろう。  出力すらも瞬間的に引き上げたのか。自分の恋情が足を引いたか。  それともあの頃から既に、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》と〈無意識下〉《ゆめ》で繋がっていたからか。  それとも、それとも……ああ、ともあれ。 「最後まで、私はそれを出来なかった」  間違いなのはそこだろう。自分にもあったはずの譲れない感情、正誤を超えた想いなら死闘の間にも狂おしく胸を焦がしていた。  一人の女として、本音に気づくことができていたのだ。  けれどそれを、言葉にも行動にも出来なかった。祖父の〈訓〉《おし》えを曲解し、軍人として人間として貫くべき〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》に〈拘〉《こだわ》るあまりこの様である。  いわば魂が真に望むのとは正反対の行動を、心身に強いながら闘っていたようなもの。敗れたのも当然だと言えるし、また並外れた克己心なくして可能だった所業でもない。  本音と向き合うことを避けたのは紛れもない弱さだったと、今は確かに認めている。  そして……敗北を糧にその〈真理〉《こたえ》へ至ったからこそ、後悔の時間もまた永かった。  お願いどうか帰ってきてと素直な想いを吐露しながら、涙の夜を幾つも過ごした。もう手遅れだと思っていたが、しかし今はまだ間に合う。  ならば、いざ…… 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ……か。   ならば愚者なりに出来ることをするとしよう。おまえを〈失〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈得〉《 、》〈た〉《 、》、私自身の〈経験〉《こたえ》をもって」  そして、今度こそ手放さない。  貫くべき願いが何なのか、もう理解しているのだからと胸に熱く誓うのだった。 そして── レジスタンスのアジトから飛び出した後、俺は再び猛烈な消耗感と全身の激痛に襲われていた。回復して間もない内に、またヴェンデッタと〈微〉《かす》かなりとも同調を行ってしまった反動に襲われている。 意識を失う以前、何とかスラムの廃墟に潜り込んで休眠。目が覚めた頃には既に日は高かった。 その足でジン爺さんの工房へと向かう。時間帯的に、ミリィはもうそちらへ出勤していると見たからであり…… 「――兄さん!」 実際、予測は当たった。俺たちの顔を見るや、血相を変えて飛んでくる。 「ああヴェティちゃんも……よかった、心配していたんだからね」 「ゆうべ遅く商会で大騒動があったって聞いたの。現場には近づけないし、兵隊さんに聞いても何も教えてくれないし……」 その上、当のグランセニック商会に向かった俺たちは一晩帰ってこなかったとあればさぞ心細かったことだろう。 「心配かけたなミリィ。けど、悪い……詳しいことは後になるけどまず俺の話を聞いてくれ」 「今すぐ出発の準備をするんだ。帝都を出るぞ」 「えっ!?」 ……そして今、更なる迷惑をかけようとしている。 胸が痛い。自分の弱さに腹が立つ。けれど恐らく生き延びるにはこれしかないんだ。この国のどこに行こうと居場所はもはや、どこにもない。 アドラーにいれば、待ち受けているのは確実な死だ。 「そういう事情が出来ちまったんだ。驚くのも無理はないだろうが、頼む」 「でも、いきなり急に……そんな」 唐突な俺の発言に、ミリィは当然のように戸惑っている。助けを求めるかのように、俺の傍らに立つヴェンデッタに視線を向けた。 「まあ言いたいことは分かるわ。何をしたんだとか、どういうこととか、付き合わせるな甲斐性なしとか」 「言いたいことは色々あるでしょうけど、今はゼファーのやりたいようにさせて欲しいの」 諦めたような、呆れたような溜息をついて銀髪は〈頷〉《うなず》く。子供の〈我侭〉《わがまま》に疲れた母親めいた仕草だった。 「治りかけの〈麻疹〉《はしか》が、またぶり返してしまったとでも思ってちょうだい。ただ今回は、お節介な相手が一人この子を放っておかないでしょうし」 「そういう訳で、少しだけ好きに泳がせてあげましょう? 痛みと過去が、負け犬をマシな顔にしてくれると期待して……ね」 「ヴェティちゃん……」 ヴェンデッタのその言葉を聞いて、ミリィは少し考えこむ。俺には意図が分からなかったものの、二人はそれでどこか通じたようだった。 それからおもむろに、黙って俺たちを見守っていたジン爺さんの元へ行く。 「師匠、申し訳ありません。わたし、兄さんと……」 「言わんでいい。勝手にしろ」 表情を変えず、爺さんはミリィに〈顎〉《あご》をしゃくる。それきり背を向け自分の仕事に戻っていく。 「すまねえ爺さん。もうここへは戻ってこれないと思うが……」 「儂に謝ってどうする。何処へなりとも〈去〉《い》ぬるがいい、貴様の勝手だ」 「元々おまえたち兄妹の事情は知らん、立ち入る謂われも儂にはない」 いつもと何一つ変わらぬ仏頂面で、蝿を追い払うような仕草を見せる。怒りや侮蔑ではなく紛れもない平素の態度だ。 「ただし、曲がりなりにも積み上げた不肖の弟子とその技量。惜しむ心は多少あるがな」 「腹立たしい……まったく、〈耄碌〉《もうろく》したものだ」 けれど……そう付け加えられた一言は、千の罵倒よりも心を〈抉〉《えぐ》った。 「…………」 そう、俺が帝国から逃げるということで生じる、もうひとつの現実としてこれがある。 ミリィが技師として、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》として有望な才能が活かされる将来。それは少なくとも帝国においては閉ざされるだろう。一緒にいるこの俺が、軍からの逃亡者である限りそれは決して避けられない。 アストラルや〈星辰奏者〉《エスペラント》の研究は帝国が抱える門外不出の技術だ。ジン爺さんほどの師匠に巡り合うことも、他国ではとても不可能。 独学で究めるにしろ到達できる域など高が知れている上に、生かせる環境そのものがない。 つまりは、俺が妹の未来を奪ってしまうということに他ならず…… けれど、ちくしょう。過去は俺たちを捉えに来た。逃げるためには、これしかなくて……しかしッ。 俺は── 「大丈夫だよ。行こう、兄さん」 けれど、当のミリィは顔色一つ変えずに俺を促してきた。 「荷物があるから、一度家にも戻らないといけないし。ああ、ご近所にも〈挨拶〉《あいさつ》していきたいけど……そんな暇もないんだよね?」 「心配しないで。わたしだって、こういう時を少しは覚悟してたんだから」 同じく身の証明を一度捨てたからこそ、妹もまたそれに心は備えていた。 この先に待つ生活への不安は、当のミリィとて予感しているはずだ。にも関わらずむしろ俺を気遣うように振舞っている。胸が傷んだ。 「で、行くんでしょう? ゼファー」 「……ああ」 すまない、ミリィ。大事な夢を壊して、ごめん。こうするしかなかったんだと、〈糞〉《くそ》みたいな針だらけの言い訳を飲み込む。 その代わり……〈五年前〉《あのひ》すべてを失くした君に誓った、平和な日々だけは必ず約束するから。 だって、そうでなければ―― あいつをあんな目に遭わせてまで、この〈人生〉《くらし》を選んだ意味がなくなっちまうじゃねえか。 「ちくしょう……」 大切だった。相棒だった。憧れていた──嘘じゃない。 だからこそあいつの目玉を〈抉〉《えぐ》った感触は、五年経った今も忘れられていない。そのたびに、痛くて気持ち悪くて、熱くて泣きそうで――どろどろとした叫びたくなる感情の塊が込み上げてくる。 思い出すたび、俺はミリィとの今の日常を〈大〉《 、》〈事〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と改めて強く思ったう。 あの日はっきりと決別したから、本気で〈闘〉《や》り合って挙句の果ては償いようのない〈代償〉《きず》を刻んじまったからこそ、報いるだけの価値を守り抜かなければならない。 それを今更、やっぱり俺は出来る子になったからやり直す? 馬鹿を言え。 あの〈決別〉《わかれ》を、払った犠牲を、そんな安いものに貶めていいはずがないだろう。 俺はあの日から永遠の負け犬――その名こそが〈相応〉《ふさわ》しいし、そうであるべきなんだ。 ──ひとしきり思案した末に、足が向かったのは歓楽街区。 魔星や反動勢力、〈正義の女神〉《アストレア》に背を向けて逃げ込んだ先は、迷える男を包み抱く優しき夜の女神の懐だった。 ルシードならびにグランセニック商会というかつての庇護者は、もう頼れない。公の権力は、事が治まらない限り復活することはないだろう。 となれば後は、蛇の道は蛇……政府や軍部とは縁遠い暗部を頼るしか道はなかった。だから俺はここへ来たのだ。 そう、歓楽街の母――イヴ・アガペーの庇護を求めるために。 「そう、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》に会うのね」 「本当に面白い女運をしているわ。もう少し見抜く目を養いなさい」 などと、ヴェンデッタは理解不能の嘆息を吐いていたが……ともかく。 彼女が経営する帝都一の娼館。向かった先がここだと知った小さな連れは、それきり言葉を飲み込んだ。 そしてミリィとヴェンデッタには別室で待機していてもらいつつ、イヴとの交渉に単身臨む。 場合によっちゃ、ミリィには見せたくない汚さを〈晒〉《さら》しても要求を通さなくちゃならない。俺には、もう後がないから。 「あらあら……だいたいの事情は呑み込めたわ、ゼファー君」 ヴェンデッタの素性やら俺との関係、また敵がそれを狙う理由などは巧妙に伏せ……俺は一通りイヴに説明を終えた。 要するに、ルシードと一緒に〈反動勢力〉《レジスタンス》絡みのやばい仕事を〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》軍に追われてると説明する。 ゆえになるべく早く密出国したい。商会も〈尻尾〉《しっぽ》切りで敵に回りかねないぞ――と、内容はおおよそこんな所。 「それであなた達を帝国から逃がすために、危ない橋を渡れと言うのね」 「まあ、ぶっちゃけるとそういうことなんだが……頼むイヴ。もうあんたしか頼れる人間がいないんだよ」 「俺が捕まって、今までの裏仕事を洗いざらい引き出されたら、〈芋蔓〉《いもづる》式だ。あんたもやばくなるんだぜ。拷問とか滅法弱いし」 「何ならルシードが今どうなってるか、裏を取ってもらってもいい。その程度には働かせてもらう」 「いいのよ、そんな肩肘張らなくて。今さら腹の探り合いなんて野暮なことはよしましょう?」 「それにほら、私があなたの頼みを断ったことがあったかしら?」 それはそうだが……これでは、悪者にもなれない。 俺の甘い期待に応えるように、イヴは艶然と微笑した。隠した嘘もすべて抱きしめてくれるような優しさを、今日も彼女は見せてくれる。 こんな時であったとしても、しょうがないという顔で苦笑を一つするだけだ。その表情は何もかもを許す母親のように優しい。 「逃げ落ちるなら、今は南方がいいでしょうね。セント・ローマ陥落にあたり、領土の拡大が急速で国内から人の流れも多いから」 敵地を占領し旗を立てたのなら後に続くのは人間だ。駐留軍の将校や兵士たちの家族、新たに生まれた権益を求める商売人を始めとした人口の移動。そこに紛れた後、占領地から帝国の外へ。 提示された情報も納得できる。ならば、後は── 「列車の旅券、それに国境を抜けるための偽造通行証が要る。二人……まあ一応、しかたなく三人分で」 「心配しないで、それぐらいすぐに手配するわ。当座の逃亡資金も必要でしょうから、あなたの口座を使うことにはなるでしょうけど」 「それも含めて明日の最終便までには揃えてあげる」 「俺の今までの稼ぎで足りるか?」 「足りない分は、〈餞別〉《せんべつ》代わりってことでいいわよ」 「今夜の所は、ミリィちゃんたちと店の客間で休んでいけばいいわ。女が欲しくなったら私がいるし、ね」 天使のように微笑みながら、しなだれかかるような媚態さえ送ってくるイヴ。甘やかすとも取れるその優しさが、今は地獄に垂らされた蜘蛛の糸だ。 本当に、ただただありがたい。弱者にとって無償の善意ほど心に迫るものはなかった。 「すまねえ、イヴ……本当になんと礼を言えばいいのか」 「いいのよ――疲れたんでしょう? 辛かったんでしょう? 私はとてもそういうものが〈疼〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》」 「だから、もう何も心配はいらないわ」 その言葉に、これで助かったと湯のような〈安堵〉《あんど》が身を浸す。もっとも、ある程度そうしてくれるだろうとも期待していたが、願う通りの対応は救いになる。 と言うより、俺の求めを拒絶する彼女の姿というのが想像できない。 思えばいつもそうだった。どれだけ醜態を〈晒〉《さら》そうが苦言を呈したりは決してしないし、辛い時は察して慰めの言葉を掛けてくれる。求めれば求めただけ、いつも〈男〉《おれ》の欲しいものを与えてくれた。 そう、イヴは何処までも優しい。まるで──全身が蜜で出来ているかのような慈愛と救済に満ちている。 「けれど、寂しくなるわね。ゼファー君やミリィちゃんがいなくなるのは」 「一時だけのことさ。それに、あんたを必要とする男ならこの〈帝都〉《まち》には星の数ほどいるだろう?」 「あら、誰でもいいわけじゃないのよ? これでもしっかり判断基準は備えているつもりだもの」 「ゼファー君だからほんのちょっぴり特別ね。思い出も欲しいから、せめての名残りに今夜は一緒に踊ってくれたりしないかしら?」 「ああ、いいぜ」 「なら午前零時に、ダンスホールで」 そして──誘いに〈頷〉《うなず》き、俺はイヴの私室を後にした。 「これでいいんだ……これで」 〈望〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈通〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈落〉《 、》〈ち〉《 、》〈ぶ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》未来。しかし俺は、かつては感じることのなかった焦燥感を引きずっていた。 このまま甘えて、遠くへ逃げて――それでいいのか、恥ずべきことじゃないのかと問いかけてくる自分自身の内なる声がある。 生きるためとっくに忘れ去ったはずの感情が、胸焼けめいた後引く違和感をもたらしている。あいつとの再会から、その思いは強く強く止まった鼓動を取り戻していた。 野を疾走する、〈餓〉《う》えた狼のように訴える……けれど。 「いいに決まっている……」 繰り返した自分の言葉を打ち消すように、勝手に浮かんでくる女の面影を振り払った。誇りすら捨て去った男が抱える、たった一つの過去の未練。 いつかはそれさえも、俺の中から色〈褪〉《あ》せていくのだろうか? 答えはまだ判らなかった。 深夜の風が、遠くから乾いた鐘の音を運んでくる。 市内にある何処かの寺院か時計台が〈報〉《しら》せる、定刻の……そして日付の変更を告げる鐘だ。 俺は娼館を出ると、夜陰に乗じて移動する。深夜の寝静まった通りを幾つか渡ると、すぐそばにダンスホールの豪奢な建物が見えてきた。 そして鍵の掛かっていない裏口から建物内に入り……今は人影の絶えた真夜中のホールへと足を踏み入れ、そして。 「待たせたな」 無人の大広間。その中心には、大輪の〈薔薇〉《ばら》めいたイヴの姿が存在していた。 「いらっしゃい、ゼファー君。今夜は二人だけの貸し切りよ」 そしてグラスに注いだ〈高級〉《たか》そうなワインを、俺へと差し出す。受け取り、二人で盃を合わせた。 「旅立つ男に」 「優しき女に」 〈馥郁〉《ふくいく》と漂う薫りを嗜んでから、渋味を帯びた酒精を味わう。深夜の静寂が耳に痛いほどだった。 寂静感と、不思議な虚無感が胸を襲う。落ち込みたいのか叫びたいのか分からない、心の虚脱が〈微〉《かす》かに痛い。 「長いような短いような……どちらだったのかしら、私たち」 「さあ? どっちにせよ、あんたには世話になりっ放しだったけど」 甘え続けて、とうとう〈自分〉《てめえ》で帳尻合わせなきゃならない〈過去〉《ツケ》の尻拭いまでさせている。改めて思うと、なるほど見事な〈屑〉《くず》っぷりだ。 そして、それさえイヴは許してくれる。たとえ正しいことであっても、辛いことに向き合う必要なんかはないと免罪符を与えてくれる。 だからこそ、俺は聖女めいた彼女の包容力に今まで癒やされ続けてきた訳だが…… その怖いぐらいの優しさは、果たしてどんな人生を過ごしてきたら身に付くものだろうか? 「なあ……あんたはどうして、そこまで誰かに優しいんだ? 一体どうしたら、人間ってのはそんな風になれるんだよ」 これが最後であるせいか、ふと今まで感じてもいない疑問が口をついて出てしまう。 対して、少し意外そうな表情を彼女は浮かべた。 「へえ、初めて訊かれたわそんなこと。あなたのように私を必要とする人たちは、そういうことを口にしないものと思っていたから」 「そういうもんか? 過去話なんて、わりと出てくる話題と思うが……」 「弱っている人間に他者を構うゆとりはないし、傷を持つ者であるほど探り合いには臆病になるものよ。あなたがそうであったようにね」 「お互いの痛む所を〈晒〉《さら》し合うような流れになったら、堪えられないもの。よって普通は他人の内心には鈍感、ないし触れることを意図的に避けるの。だからね、少し驚いたわ」 「ゼファー君もいつの間にか、そういうことを口にできるようになったのねって。それ、きっと快癒の兆しよ? 大切になさい」 そんなイヴの持論と似た言葉を……俺はつい最近も、何処かで耳にしたような覚えがあった。 「なにせ君、他人の〈葛藤〉《にもつ》を配慮するとか、今まで一度もしてないだろう。そりゃあこちらも驚くよ」 「僕の知っているゼファー・コールレインは病的なほど臆病で、自分どころか他者の傷に触れることさえ拒むような、そういう男だったはず。ていうか実際そうだったし、だからこちらも重宝していた」 ――ああ、〈悪友〉《あいつ》に言われた感想だったか。 つまり、俺らしくはないと感じたのだろう。あの時のルシードも今のイヴも。続けて成長、あるいは復帰と言っている。 けどまぁ、そんなのは〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》ないのだ。俺は結局そういう柄じゃないってことは改めて判ったし、むしろ今更そんなことをするのは〈間〉《 、》〈違〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》と感じている。 「あらやだ、私の話だったわね……」 長い〈睫毛〉《まつげ》の下で、聖女の瞳が追憶に煙る。 「人間ってね、ゼファー君。結局は、自分の見てきたり触れてきた〈世界観〉《もの》通りになるしかないと思うの」 「私も同じ。優しくされて生きてきたから、同じように今そうしてるだけ。誰も独りで生きてはいけないと、経験則として知っているから」 夜の聖母が静かに語る、その生い立ち。それを耳にした男は過去恐らくいなかったのだろうし、甚だ光栄の至りではある。 「私が生まれながらに背負っていた境遇って、客観的には割と絶望的なものに見えると思うの。でも、当の本人にとってはそうじゃなかった。だっていつも〈他者〉《みんな》がいたから」 「信者の優しさに囲まれて、愛し愛されて生きてきたわ。そこは完成された愛の巣で、自分の弱さを隠すことがまったく無意味な蜜の楽園。強がらなくても、愛してくれる」 「愛してくれたわ、愛してくれたわ、だから愛する。当然のことね」 「それが見返りなんかじゃない、自然な生命の在り方。難しい学説だと応報感情って言うらしいわね、こういうの」 くすくすと笑うイヴは綺麗で、妖しく、美しく── だが、それを聞きながら、今こうして肌が粟立つような違和感は一体なんだ? 第六感とも言うべき培われた本能、何かが〈や〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》と急速に告げている。 甘ったるく、歪んでいく。 「だから、私も自分なりに愛の巣を創ってきたのよ。夜の〈帝都〉《まち》は私の子宮」 「人生に疲れた人々が、最後に帰ってくる安らぎの場所……私が与える〈絶対愛〉《アガペー》の蜜を求めた巣箱なの」 「ゼファー君もそんな可愛い私の〈蜜蜂〉《こども》だったわよ。取り巻く群れの一部みたいに」 どろりと、愛おし気に……しかし空気が砂糖漬けになったような錯覚を感じて。 瞬間、俺の体内警報が危険水域を振り切った。肉体は理性が命令を下すよりも早く退避を選択。一跳びで10メートルほどの距離を確保する。 敵意はない。殺意もない──けれど何かが、何かがやばい。 「止まれ、イヴ──それ以上俺に近づくな」 氷水のような汗が止まらなかった。懐の右手は刃の柄を握りしめている。既に俺自身が知っている〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈感〉《 、》〈覚〉《 、》を、目の前のイヴからも強く感じてやまなかった。 「だから、あなたは永遠に〈巣〉《ここ》へ囚われた一部なの。傷付いたなら、何度でも私の蜜で癒してあげる」 「ごめんね? 〈騙〉《だま》したことに、黙っていたこと。〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈二〉《 、》〈人〉《 、》には抗えないから、代わりにずっと愛してあげる」 「さあ──思う存分、〈繋〉《つな》がりましょう? 〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 そして── 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがため」 紡がれる〈起動詠唱〉《ランゲージ》。聴覚がまず、静かなる異変を真っ先に捉えていた。 それは空気の振動……すなわち音だ。虫の羽音のように無機質な唸りは、次第に耳を〈聾〉《ろう》するまでの轟音に増殖していく。 何より、吟遊詩人だと? その呼び名を使うということは、すなわち。 「……嘘だろ。あんたまでが、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》なのかよ」 次いで視覚が、音の発生源と共にイヴ・アガペーという女の真髄を認識した。 「情欲と、愛欲と、繁殖と、豊穣よ。海に浮かんだ真珠の泡へ、どうか血肉を宿してほしい」 「濡れた肢体に、滴る蜜は止め処なく。西風は魅了され、季節の女神は侍従となった。悶える雌雄の悦びで地表に愛が満ちていく」 それは無数の機械蜂。いつの間にかダンスホールを埋め尽くすほど膨大な〈蟲〉《むし》型飛行物体が、鉄色の雲霞となってイヴの周囲を滞空している。 全貌を見せたその姿は、まさしく女王蜂に従う眷属。それは紛れもなく〈星辰光〉《アステリズム》で〈煌〉《きら》めく触媒、〈超合金〉《アダマンタイト》で出来ている。 いいや、それとも……これは〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈金〉《 、》〈属〉《 、》なのか? 異常な量のアストラルと感応して、人を超えた暴威を静かに具現化していく。 「さあ、若き王様。黄金の林檎をどうか私にくださいな」 「褒美として、理想の〈媚肉〉《からだ》を授けましょう。木馬の蹄に潰されようと、禁忌の果実を貪りながら〈褥〉《しとね》の奥へと篭もりなさい」 身が凍る。空を震わす一機一機が、俺が手に持つ刃に等しいそのおぞましさ。 感じる気配の底知れなさは凡百の〈星辰体感応兵〉《エスペラント》を隔絶している。あのマルスやウラヌス、そしてヴェンデッタと同じ領域――すなわち、魔星の眷属だ。 つまりは俺たちを追う存在、総統ヴァルゼライドか別のものか──ああ、ともあれ。 「楽が束の間あるならば、そこは正しく桃源郷なのだから」 「〈繋〉《つな》がり抱き合い交わって、甘い巣箱に溺れましょうや」 この状況、もはや覆すだけの手札はなく── 「〈超新星〉《Metalnova》──〈妖娼神殿、蕩ける愛の蜂房なれば〉《Hexagonal Venus Hive》」 超絶たる数の暴威……ゼファー・コールレインにとって致命的な星光が、静かに具現したのだった。 「この顔は見せたくなかったのだけど、仕方ないわね。浮世の〈し〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈み〉《 、》は色々あるから」 「いらっしゃい、ゼファー君。抱いてあげるわ、いつものように」 「いっぱい、愛してあげる」 そして飛び交う機蜂群は、全てが女王の意思下に統制された軍勢と化す。イヴのしなやかな指先が俺を指した。同時に、明らかな指向性と秩序を帯びた編隊飛行が進軍を始める。 その数、万、億、あるいは兆か? 数えきれない量の究極、〈顎〉《あご》を鳴らして飛翔する。 「つ、ぐぅッ──」 敗北の予感はするが、しかし──刃を逆手に襲い来る無数の機〈蟲〉《むし》と追走劇を開始する。目標は、軍勢の向こうにいる〈司令塔〉《イヴ》。 稲妻状に跳躍を重ねて加速を上げつつ、追いすがる群れを斬って斬って斬りまくる。短刀で足りなくば振動も駆使し、俺を中心とした防空圏を手数で維持。最短距離で血路を切り開いていく。 だがそれも、数え切れない〈蟲〉《むし》の軍団にとってみれば可愛い抵抗のようなもの。 総体は揺るぎない。十や百減った程度で、この大瀑布から逃れる〈術〉《すべ》はどこにもなかった。 「あらあら。あなた、そんなに頑張ってしまう〈男〉《ひと》だったの?」 「褒めてあげたいところだけど……残念ね、〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈私〉《 、》は〈疼〉《うず》いて〈疼〉《うず》いて止まらないの。そんな雄々しさなんかよりか弱い方が愛しいわ」 たおやかな円舞を描くイヴの細腕。その采配に呼応して、鋼の軍隊蜂たちもまた一糸乱れぬ陣形で総攻撃を掛けてきた。 かと思えば、不規則な攻撃パターンを突発的に織り交ぜこちらの前進を揺さぶってくる。 マルスらと違い圧倒されるような殺意こそ感じないが、相手の心理を読む機微に関しては〈流石〉《さすが》に娼婦、実に巧み。蜂蜜のような甘い甘い愛しさが、俺を逃さないと言っている。 「勝った負けたと、男はいつも〈白黒〉《それ》ばかり。世界はかくも色とりどりで美しいのに」 〈耳朶〉《みみたぶ》から〈沁〉《し》みこむ甘言は、何も俺を幻惑する手管という訳でもあるまい。しかし、そう疑いたくなるほど攻撃の手はとことん緩まず容赦がなかった。 「しゃらアァァッ――!」 とは言え、敵の攻勢は逆襲に転じる格好の契機だ。四方から殺到した〈機蟲〉《きちゅう》群による突撃を斬り払い、密集の薄い方面へ反転しての大跳躍を演じる。 空中姿勢のまま後方を見ずに、猛追してきた編隊へ〈増幅振〉《ハーモニクス》をぶち込む。 命中した一機はそのまま仲間を巻き込む炸裂弾に早変わり、まとめて数十機が連鎖爆発し、爆炎と衝撃波が背中を叩いた。 が、なにせこの数だ。群がるすべてを撃墜するのは到底無理で、張り巡らせた刃圏を突破した何機かが鋭利な羽で全身を切り裂いていく。 高速機動する鉄の礫であり、弾丸として命中しただけでも結構なダメージがある。 加えて……クソが、最悪だ。 「毒、か……ッ」 攻撃の度に撃ち込まれていたのは、明らかに麻痺毒の類だろう。それも強化された〈星辰奏者〉《エスペラント》の代謝機能を物ともせぬほど強力な。 その蓄積が、次第に無視できなくなってくる。どんな成分を〈孕〉《はら》んでいるのか、恐ろしいことに〈痛〉《 、》〈み〉《 、》〈が〉《 、》〈快〉《 、》〈感〉《 、》〈に〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 ああ、ならばこその〈露蜂房〉《ハイブ》か。筋肉が重く弛緩していき、中枢神経が〈痙攣〉《けいれん》という〈誤作動〉《エラー》を吐き出し続けている。 動きの鈍った俺の五体を、何万という機虫の大群が〈蹂躙〉《じゅうりん》しているというのに満足に動けない。 だが、それでも〈掻〉《あが》く。泥酔者のように緩慢で切れ味の欠片もない動きで、無様な剣舞を演じ続ける。 いつの間にか、俺は彼方のイヴを見上げていた。両足は既に速度を維持する力さえ喪失している。 「どうして無理して頑張るの? 苦しいでしょうに。辛いでしょうに」 「無くしてしまうことは恐怖じゃないわ。負けてしまうのは罪じゃないのよ。逃げこむ〈子宮〉《ばしょ》ならここにある」 「手が無くたって、餌を運んでくれる誰かがいれば人はそれでも生きていける。足が欠けても、背負ってくれる人がいればどこへだって行けるでしょう?」 「そうして人は、委ね合って生きていくの。だから余裕のある人は、傷ついた人々に愛を与える義務がある」 勝てない――〈怯懦〉《きょうだ》や負け犬根性の類ではなく、客観的事実として認識する。〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈天〉《 、》〈敵〉《 、》〈だ〉《 、》。 互いの能力を比較して相性が徹底的に不利。振動波は刃に乗せての点と線で打ち込む他なく、このように雪崩じみた面制圧攻撃には物理的に対処しきれない。 極論、〈優〉《 、》〈秀〉《 、》〈な〉《 、》〈範〉《 、》〈囲〉《 、》〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》を持っている存在でなくば勝ち目がないといえるだろう。一点特化、斬首狙い、そんな暗殺紛いの技ではこれに対抗する術はないんだ。 求められるのは地力としての優秀さ。そう理解したが、しかし、だからこそ覆す手段がないために追い込まれる。 暴走する愛の雪崩、機蜂が蜜を〈湛〉《たた》えて笑う。どこまでもただ甘ったるく。 「さあ、眠って融けておしまいなさい――私の愛の蜜〈壷〉《つぼ》へ」 「大好きよ、それは本当。だからなんとか死なないように、この後〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》へ掛け合ってあげる」 そんな、どこかズレた慈悲を見せながら……押し寄せた〈機蟲〉《きちゅう》が俺の身体を絶叫ごと飲み込んだ。 針から全身に回っていく麻薬のような蜜毒の嵐。四肢の動きを麻痺させて、痛苦を快感に変えながら絶頂させるかのようにこちらの意識を混濁させる。 何も出来ない、打つ手がない。 仮にヴェンデッタと同調しても、大出力で薙ぎ払うことなど出来はせず……ゆえに敵わず。 ゼファー・コールレインは〈露蜂房〉《ハイヴ》によって、一方的に敗北した。 ――瞬間、機蜂の雲霞を引き裂いたのは雷鳴と閃光。 瞬間的に離脱し損ねた数百機が、一瞬にして炭化した。 「――――ッ!?」 次いで一帯に渦巻き荒れ狂ったのは、〈鎌鼬〉《かまいたち》と化した乱気流。これもまた、眷属の何分の一かを苦もなく引き裂き藻屑に変える。 大気が焦げた。鼻つくイオンの刺激臭が充満する。その向こうへ、靴音と共に立った影は…… 「〈私〉《ひと》の男を手篭めにするとは、いい趣味じゃないか。イヴ・アガペー」 扉より吹き込む夜風に、黒い髪と黒い〈外套〉《がいとう》を遊ばせながら〈嗤〉《わら》っていた。 「悪いがまだ伝え忘れたことがあってな。邪魔するならば、容赦せんぞ」 「チト……セ……」 静寂のダンスホールに登場した第三の踊り手。呼んだその名が、麻痺した舌上でもつれる。輪郭もまた、霞んだ視界の中で溶けながらもよく映った。 彼女がここに来たことを、俺は心のどこかで〈微〉《かす》かに嬉しく感じながら…… 毒素に中枢神経を侵されたまま、消えそうな意識を留めて必死に眺めているのだった。かつての相棒が舞う格好いいその姿を、記憶へ焼き付けるかのように。  肉体の不具、あるいは奇形。  それ祝福として〈寿〉《ことほ》ぐ価値観は、遥か旧暦の時代から存在した。  たとえばヒンドゥーの神話では、神々の姿はしばしば三つ眼や多腕などを有する異形として描かれる。これなどはそうした文化習俗の影響と見ることが可能だろう。  大破壊によって旧時代の国家や領土、民族の枠までもが混沌の〈坩堝〉《るつぼ》に叩きこまれてリセットされた新西暦の時代においても、そうした文化を継承する地域共同体は存在した。  それはいかなる捻じれによるものか、欧州の辺境に細々と根付いていた混合習俗である邪教の一つ。  〈大和〉《カミ》を奉じる〈極東黄金教〉《エルドラド・ジパング》以外の宗教概念。その集落では、代々身体の欠損した娘を生き神として崇め奉る習俗があった。  両手足のない、芋虫のような姿で生まれたその少女もまた同様。  掟により、祝福を受けた巫女となるべく育てられる。  食事から排泄まで、生きるための行動すべてに他者を必要とするその環境は、自力で食物を得ることができねば死ぬ自然界において、絶対の弱者である彼女が生きれる唯一の場所と言ってよかったろう。  歪んだ世界観においては、無力さえ当然のこととして受容され祝福される。  邪教の信者たちは喜びを持って不具の少女に食事を運び、身を清潔に保ち、排泄処理さえ引き受けた。そこに一切の利害得失は存在しない、完全なる無私の施しだけがある。  人間が自然に備えた応報感情により、少女はやがて己も他者へ施したいという欲求を抱くようになった。  愛されている。愛しているの。だから愛する、愛したい──と。  しかし、四肢のない少女には何をすることも叶わない。  どうかこの私にも〈他者〉《あなた》のことを愛させて――なのにそれを、叶える〈肢体〉《てあし》は彼女になく。  その満たされぬ〈忸怩〉《じくじ》たる願望は、やがて彼女の根源を形成する強固な芯として定着していくことになる。  そして──偶然か、それとも運命の必然か。領土拡大を続ける帝国軍は進駐したその地で掃討戦を展開した。  邪教を奉じた集落も、結果として壊滅する。  ゆえに巫女の少女もまた平等に虐殺されて死亡したのだが、その報告を受けた〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》が死体を回収したのは何ゆえだったろう。  肉体の異形性と特異な環境に可能性の光を見出したのかもしれないが、ともあれそれはある存在を造り上げる条件に合致した。  果たして少女は素体として施術を受け、適性により〈歪〉《いびつ》な蘇生に成功する。  第八の〈人造惑星〉《プラネテス》、アフロディテ-〈No.θ〉《シータ》。  〈露蜂房〉《ハイヴ》という字名を関する、愛欲の魔星が誕生したのだ。  素体と完成品の関係は、厳密には生前の本人そのものというわけではない。  されど大元の人間が抱えた衝動は、まるで怨念のように後の個体へ継承される仕様になる。  かくして十全な肉体を獲得して生まれた魔星はイヴ・アガペーを名乗り、創造主らにお膳立てされた環境の下、願望を実行に移していった。  他者へ何もかも与えたい、癒してあげたい、望めば望むだけ……と常時考える思考回路。娼婦はそのための天職とも言えるだろう。  やがて彼女は、男のみならずあらゆる者を〈籠絡〉《きゅうさい》させずにはおかぬ無自覚な〈女神〉《どくふ》として帝都の夜に君臨した。  多くの信徒で養った目利きを用い、相手の欲しいものを的確に見抜きつつ、我が身を捧げるほど尽くす。その結果、どんな人物も彼女の愛に依存した。  中には、イヴがいなければ何もできないようになってしまうほど甘く甘く蕩かしていく。  築くのは、愛の蜜沼。  弱者の痛みを少しでも緩和すべく、誠心誠意で甘味を与える。  ──そうして、現在。 「どなたかと思えばあなただったのね。 お久しぶり、チトセさん。思えば前もこんな感じだったかしら?」 「ああ、男絡みでは二度目になるな」  対峙するは愛によって捉える女と、愛を逃してしまった女。  世界が静止したような真夜中の舞踏場。力尽き倒れた男を間に、二人は静かに〈微笑〉《ひばな》を交わし合っていた。 「〈諸々〉《もろもろ》、おまえ自身に問いたいことはできたが……さて。   まずはゼファーがかけた手間を謝罪しよう。何やら迷惑をかけたようで、痛み入る」 「いいえ全然、迷惑なんて。ここは遊郭、欲の聖域なればこそ一夜の戯れは許されるわ。 ただ、帰りたがらないと思うわよ――あなたの側は辛いから」  鷹揚に微笑を浮かべたまま、しかし双方ともに譲る気配は〈微塵〉《みじん》もなかった。  二人の間で静寂の夜気が、ゆっくりと不穏な磁場を帯びていく。 「倒れるほどの無理をして、運命に囚われて。本当はそんなこと彼は望んでいなかったのに。 〈殺塵鬼〉《カーネイジ》ではないけれど、このまま休ませておあげなさい。きっと、その方が幸せなのよ。悲しいことに」  ゼファーを昏倒せしめたのは自身の攻撃に他ならないが、イヴの視線に宿るのは飽くまで滲み出るような母性愛だ。  むしろ今では、〈憐〉《あわ》れみのようなものさえ宿っている。彼に今後訪れる苦難、展開、それを思って心配する感情は紛れもなく本物だった。  対してチトセは、そこに無慈悲とも取れる冷笑を浮かべる。 「なるほど、あい分かった。しかし困るな、そういう勝手な甘やかしは。そいつを駄目にしないでくれ。 それに……存外、〈痺〉《しび》れるものだぞ? 男が立ち上がる瞬間というのは。   私が求めているのはそちらだ。ゆえに済まんが尻を叩かせてもらうため、おまえの下には置いておけんな」  返した宣告は、聖母の慈愛を真っ向から切り捨てた。  主観と好みの違いだろう。だからこそ、正誤ではなく譲らない。  イヴは溜息一つを優雅に漏らし、苦笑しながら肩を〈竦〉《すく》めた。そして仕方ないとばかりに星光を淡く輝かせる。  瞬間、すかさず応える機蜂群──鋼の羽音が鳴り始める。 「見解の相違ね。チトセさんも女なら甘えさせてごらんなさい、とても幸せになれるから。  弱者は誰もが恐れているの。敗北し、役立たずになることを。そして、勝ってこいと尻を蹴り上げる者たちが怖くて怖くてたまらないと感じている。  今、私がそうであるように……」  ……その時、ほんの少しだけイヴは目を伏せて。  自分に命じた者の強大さを想起したのか、小さな諦観を見せて見つめた。 「だから、私が解放してあげるわ――可哀想な彼のことを。  聖戦まで関わらせない。それが、ゼファー君にしてあげられる最後の慈悲だと思うのよ」  これが救済。これが愛。そう告げる言葉に──しかし。 「〈御託〉《ごたく》はいい、さっさとやろうか堕落の魔星。手間をかけるつもりはない」  チトセは凛と言葉を返して、刃を携え星を練った。  そよ風が旋風と成り、やがて嵐に変わっていく。彼女の遺志に呼応してまさに神風へと成長するのだ。 「重要なのは貫くこと。それだけでいいのだと、今の私は知っている。それを奴に取り戻させるためならば── 少しばかり強いぞ?」  口元が円弧を描いて吊り上がり──  刹那、繰り出されたのは先制の雷撃。放射状に荒れ狂う紫電の鞭が、機蜂の空襲を当たるを幸い、焼き尽くして舐めつくす。  空間そのものを薙ぎ払う雷神の猛威は銀狼を一蹴した〈怒涛〉《どとう》の飽和攻撃を押し返し、戦いの始まりを知らせる戦鐘として、高らかに響き渡った。  そして──展開される攻防は、戦闘ではなく〈戦〉《 、》〈争〉《 、》という有様だった。  ぶつかり合う機蜂と風雷、点ではなく面と面による戦いが相手をねじ伏せ打ち砕くべく凄まじい余波を生みながら相手の星を侵略していた。  イヴのたおやかな指も、チトセが振るう鋼の刃も、どちらもまさしく指揮者の棒だ。右へ左へ振られるたびに轟音を響かせて破壊の演奏を奏でている。  二人の女神に率いられた大軍団。  大出力と大規模を兼ね備えた者たちだけに許される華々しい死闘が、ここに火花を散らし合う。 「貫くこと──確かにそれは強いわね、だから〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》は恐ろしい。  そしてそれは、万人には持てない強さよ」  言いながら攻める機蜂、雲霞の数は圧倒的だ。百や千を撃破されたとてその穴は瞬時に補填されてしまう。  これらはただの〈大〉《 、》〈群〉《 、》ではなく、精妙に指揮された〈大〉《 、》〈軍〉《 、》だった。疾風に蹴散らされ、迅雷に焼かれても、決して陣形は崩れない。 「快楽、愉悦、安息、耽溺……互いの望むまま与え合ってこその男と女。共に歩むなら許し合える相手がいいはずだもの。  それを否定した絆など、あまりに〈歪〉《いびつ》で不自然だわ」 「そこについては否定はせんよ。疲れたのなら〈労〉《いたわ》ろうし、傷ついたなら舐めて癒しもしてやろうさ。 だが、何事も過ぎたるは及ばざるが如し。度を越した癒しは、立ち上がる力さえも奪い取る」 「まして貴様の〈愛〉《それ》は大衆向けの使い回しだ。真に相手を見てはいない。ゆえに、ゼファーを〈慮〉《おもんばか》ってもいないと見える」  そしてチトセも、応えつつ星光を輝かせる。  荒れ狂う嵐と雷鳴をも乗り越えて、機蜂は変幻自在に編隊を組み変えては襲い来るが何のことはない。  鶴翼、鋒矢とその陣形を巧みに入れ替えながら、圧倒的物量で〈裁剣〉《アストレア》を〈蹂躙〉《じゅうりん》せんと殺到するが、しかしそれは功を成さない。卓越した戦術眼により一匹残らず叩き潰され、毒針は空を切る。 「本当に大切なら、尻の一つでも叩いてやらんか」 「ふふ、苦手だから仕方がないわ。けどその代わり身体は何度も与えてきたわよ、チトセさんと違ってね。  何度も私を求めてくれたわ。傷を〈晒〉《さら》して甘えてきたの。私はそれを抱いてあげたし、幸せだったわ……とてもとても」  言いながら──そっと意味深に、指先で自らの〈下〉《 、》〈腹〉《 、》〈部〉《 、》をなぞる。  臍の下、すなわち子宮の存在と、そこで何度も彼の愛を受けた事実をアピールしながら妖しく笑う。 「あなたもそうすれば、きっと大好きな男の子と幸せになれるのに」  こんな簡単な事なのに、ねえどうしてと小首を〈傾〉《かし》げる。  それはまるで少女ような仕草だった。母性の裏に見える、どこか歪な幼さが垣間見える。 「そんな不器用だと、後悔ばかりしちゃうわよ?」 「だから今、こうして努力しているのさッ」  〈吼〉《ほ》えと同時、範囲攻撃と飽和攻撃が一気に激突──その均衡は崩れ去った。  風雷の城壁は突破され、鋼鉄の蜂群が死の羽音を轟かせる。  孤剣一振りのみを携えたチトセの姿は、万軍を前に落城を迎えた天守閣をも彷彿とさせて……  だが、そうはならなかった。なぜならば、女神の手にする孤剣こそが真の絶対城壁であったから。  一閃したのはもはや鋼の刃を超えて、森羅万象の追随を許さぬ〈流星〉《ほし》の域にも達していた。  それは〈抜〉《 、》〈き〉《 、》〈放〉《 、》〈た〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈事〉《 、》〈実〉《 、》、ただそれだけですべてを決する絶速の剣。努力の結晶。  刃の軌道上に存在した数多の敵、そして物理法則でさえも……〈事実〉《そ》の後追いをつられて演じ、確定された現実を再現するしか許されない。  〈星辰奏者〉《エスペラント》の到達しうる最高峰、そして一子相伝たる朧の秘奥と融合たる因果切断の乱剣がここに制圧を開始した。  加えて、歴戦で積み上げられたチトセ自身の技巧もまた完成の域に達している。結合を解かれた連接剣は蛇腹の刃に分解され、余人には扱いきれぬ変幻自在の殲滅兵装と化す。  鞭がそうであるようにその先端は優に音速を突破、〈衝撃波〉《ソニックブーム》をも派生しながら鋼鉄の暴風圏を形成する。  その連続回転はさながら止められぬ破壊神の大車輪。チトセの征く所、機蜂の万軍は大海を割るように真空地帯を切り抜かれていった。  そして、瞬く間に司令塔たるイヴまでの距離を踏破。一刀でその首を刎ね飛ばした── が、しかし。 「……ほう、蜂を使った〈空蝉〉《うつせみ》か。 瞬時に目〈眩〉《くら》ましの手管を打つとは、存外使える。そそられたぞ、殺すには惜しいな」  斬首されたのは、蜂群を蟻集させて形成した身代わりの〈擬体〉《ダミー》。イヴ本人は既にチトセの攻撃圏外にまで離脱していた。  賛辞と共に、標的を失った刃をチトセは再び構え直す。  そしてそこから、動きが若干変わっていった。まるで試すかのように多種多様な手段を使い、イヴを追い詰めにかかるのだ。  疾風迅雷との総力尽くした〈凌〉《しの》ぎ合い、また冴え渡る秘剣の炸裂により〈流石〉《さすが》の軍勢も深い損害を受けていく。  残存兵力を編成し鉄壁の陣を〈布〉《し》き直す〈露蜂房〉《ハイブ》。数の暴威をもって鳴る戦力は未だ健在である。だがそれも、今やチトセに削り取られる羽虫の群れになりつつあった。  これはどうだ? これならば? 天地左右同時に襲う蜂軍を風雨雷鳴で蹴散らしながら、嬉々と笑って試しつくす。  〈美麗な魔星〉《アフロディテ》の限界性能、そこを検証するかのように。  そして、徐々にチトセには見えてきた。幾千の弾幕と化した機蜂の突撃を、〈絢爛〉《けんらん》たる絶剣の閃きで迎え撃ちながら確信する。  ──イヴは確かに魔星だが、しかし戦闘者では決してない。  恐らくは〈統〉《 、》〈治〉《 、》〈用〉《 、》の個体なのだろう。拡散性、維持性、操縦性の三種のみを突き詰めた〈蜂〉《ほし》の力を密偵代わりに潜ませて、その特異な精神構造により対象の弱みを癒して蜜に溶かす……  なるほど、帝都の〈情報網〉《ネットワーク》を統括して報告する役目こそ彼女本来の役割だとすればこれほど適したものはないと、静かに納得するのだった。  その直感は正しい。ならばこそ、彼女の外見は〈人〉《 、》〈型〉《 、》なのである。  マルスとウラヌスのように戦闘特化の調整を受けた存在ではない。よって闘志もなければ敵意も薄く、ただ強力な星光を工夫なく素のまま相手へぶつけているだけだ。  チトセからすれば、それは今や何ら脅威になるものではない。  相性自体も悪くないため、理合いを掴めば後は苦も無く── 「だが、それでも価値は十分にあるな」  同時、雷鳴により一斉に乱れ咲いた爆炎の華が横顔を照らし出した。  もはやイヴの攻撃は、自ら戦力を減じるだけの自滅しかもたらさない。戦闘能力の格差は、今や完全に露呈している。  そして〈獰猛〉《どうもう》に歯を〈剥〉《む》き出し、刀の切先を突きつけた。既に勝負は決したとばかりに敗軍の将へ向かい勧告する。 「どうだ、イヴ・アガペー。ここらで一つ取引とはいかんか?  連中の情報、貴様らの語る運命とやら、明かすならば慈悲をもって対応するのもやぶさかではない。  ああ、しかも今回はゼファーをつけても構わんぞ? 無論、本妻は私だが」  ……などと、そんな交換条件を素面のまま口にした。  〈隻眼〉《せきがん》に宿る光はあくまで本気、心底から勧誘の言葉を放っている。 「愛人の一人や二人ならば問題なかろう。独占はしても束縛はしない、それが器量というものだ。軍門に降るのならば浮気は容認してやろう。  と、いうわけでだ。我が下へ来るがいい。その有能さを認めた上での交渉だが……どうだ?」  〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》な宣言を前に、しばし沈黙がおりたものの……  イヴは嘆息しながら、〈眩〉《まぶ》しげに眼を細めつつ静かに首を横へと振った。 「求めには応えるのが私だけれど、生憎それは辞退するわ」 「ほう、何故だ?」 「だってあなたは強いもの。矛盾さえも呑み下して、自分自身を貫いている。   私は永遠に弱者の味方でありたいの。あなたの誘いを選び取れば、強者に与してしまうから」 「それに──」  そこで一度だけ、遠い何処かへ視線を向けながら──明確な恐怖を見せて。 「仮にあなたと組んだとしても、〈聖〉《 、》〈戦〉《 、》では生き残れない。   そういう領域じゃないのよ、彼ら二人の凄まじさは……」  自分もまた弱者であると告白しながら、イヴは飽くまで優雅に相手の誘いを優しく蹴った。  提案は実らない。  しかしチトセは、むしろその言葉を待っていたとばかりに口を歪に吊り上げる。 「そうか、ならば死ね」  喜悦に満ちた殺意を解き放った。 「決戦兵装――解放」  その手が顔の眼帯に掛かるや、勢いよく引き剥がす。  下から覗くのは、無惨な過去の〈傷痕〉《きずあと》には〈非〉《あら》ず。鋼鉄の光沢を放つ異様な義眼がそこから姿を現した。 「冥土の土産に持ってゆけ。生き延びたなら語り継ぐがいい。これが女神の切札だと」  それは如何なる仕掛けによるものか……機械仕掛けの魔眼が輝きを帯び、膨大な〈星辰光〉《アストラル》がそこへと吸収されていく。  真空の渦へ周辺大気が吸い込まれていくように、暴力的なまでに大量の星光が今チトセの掌握下に集まりつつあった。  すなわち、干渉性の瞬間的な〈増幅〉《ブースト》。  それがもたらした異変は、星光の偏在密度が高い上方向――ダンスホールの〈天蓋〉《てんがい》をも越えた〈帝〉《 、》〈都〉《 、》〈上〉《 、》〈空〉《 、》に生まれていた。  大気圧縮。積乱雲形成。気圧の急激な変動。  それらによって生じたのは、もはや一つの嵐そのもの。内部で雷雲と暴風渦巻く大嵐球が、凄まじい内圧を帯びて夜空に〈螺旋〉《らせん》を描いている。  義眼の正体、それは特殊な調律を施した〈星辰奏者用特殊合金〉《アダマンタイト》による触媒だった。ゼファーに与えられた敗北を機に、チトセは干渉性の重要を再認識して選んだ手段がこれである。  折れた骨を固定するためにボルトやナットを埋め込むというのは多々あることだが、これはそれとも違う強化手術。執念による再起、つまりは覚悟の証だろう。  金属そのものを断線した視神経と接続し、眼球本来の機能を代償として身体の一部を〈星辰光〉《アステリズム》用の装置へと造り替えた。  そこから放たれる一撃は、まさに彼女の全身全霊。  天頂から降り注ぐ裁きの雷となり機能する。 「風伯、雷公、天〈降〉《くだ》りて罰と成せ── 神威招来・〈級長津祀雷命〉《シナツノミカヅチ》ィィッ!」  〈咆哮〉《ほうこう》と共に解き放たれたのは、通常の数百倍にも増幅された疾風迅雷。封印を解かれた超〈弩〉《ど》級の破壊力が、天より地上を直撃した。  ホールの屋根〈天蓋〉《てんがい》を粉砕し、〈露蜂房〉《ハイヴ》とその眷属を〈蹂躙〉《じゅうりん》。あらゆるものを撃砕し焼滅し吹き飛ばすそれはまさに、女神の断罪に他ならない。  限定的に強化された威力は、もはや〈星辰奏者〉《エスペラント》の域を超え〈人造惑星〉《プラネテス》にすら比肩するだろう。  〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》が蓄積した技術の結晶たる、アストラル干渉装置化手術――〈裁剣〉《アストレア》の右眼に宿る殲滅兵器が、今ここに最大威力を解き放った。  まさに神威の炸裂であり、それを前に生存が許される者など存在するはずもなく…… 「この際だ、私もひとつ〈懺悔〉《ざんげ》しよう。死者に嘘はつけないからな」  事実、直撃を受けたイヴは万の眷属と共に消し炭さえも残っていなかった。  歓楽街の聖母が最後に立っていた場所。魔眼を再び眼帯の下に封じながら、チトセはそこを〈一瞥〉《いちべつ》する。 「はっきり言って、おまえのことが私はとても〈羨〉《ねた》ましかったよ。  あいつがどのように身体を抱いたか。〈褥〉《しとね》でおまえを啼かせていたのか。それを想像するだけで……うむ、なんだ。正直腸が煮えくり返った」  押し殺した情念と共に〈呟〉《つぶや》きながら、わずかに残されていた灰の欠片に目を伏せる。  まるでただの〈八〉《 、》〈つ〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》、やれやれ処女か乙女かと自分自身に軽く自嘲を〈湛〉《たた》えながらチトセは悪戯っぽく笑った。 「だから、心置きなく殺せて満足だ。よくぞ誘いを蹴ってくれた。おまえの選択は素晴らしかったぞ?  安心して地獄で亡者を慰めてくれ。後の子細は、引き受けよう。  ──ゼファー・コールレインは、私の〈人狼〉《おとこ》なのだから」  そして最後に、実に晴れやかな表情を浮かべて〈踵〉《きびす》を返した。  後ろはもはや振り返らない。堂々と、勝ち取った相手の下へ歩を進める。  女と女の勝負を決した要因は、皮肉にも愛や情などではなく純粋な“武力”によって決着を迎えたのだった。 全身を〈苛〉《さいな》む激痛と、血管に滞留した麻痺毒の〈残滓〉《ざんし》がようやく薄らぎ……俺の視界は回復した。 はっきり見届けたのは決着の瞬間。チトセが弩級の一撃でイヴを葬り去った凄まじい光景だけは、はっきりと確認できた。吹き飛んだ〈天蓋〉《てんがい》から射しこむ月光を浴びて神々しいまでの後ろ姿はまさに争いの女神だ。 イヴについて悲しく思う心はあるし、考えるほど複雑な感情が湧きあがるものの……しかしそれでも目の前で起きた展開に圧倒される。 ゆえにその様を、痴呆のように見惚れることしか俺にはできず…… 「大丈夫か、ゼファー? まだ毒が回っているなら言うがいい。お姫様だっこしてやるぞ」 だから、振り向いた曇りない笑顔に反応するのが思わず遅れた。 「どうして来たって、聞いた方がいいかね。これは……」 「おいおい。そんなもの、迎えに来たに決まっているだろう」 その手を二度までも払いのけて逃げ出した俺に対し、しかしチトセは以前と何も変わらぬ様子で即答した。 そこに、やはりという気持ちがある。やめろという想いもある。 「何度でも言うぞ。私と一緒に来い、共に闘ってくれよ〈銀狼〉《リュカオン》」 そして、まるで初めてそう頼むのかのように繰り返した。かつて俺が叩きつけた拒絶など、その明快で力強い意志には一つの傷さえ付けられていない。 ああ、まったく……こいつは、なんて。 「本当に、凄えよなぁおまえは……」 腹の底から溜息が絞り出された。もうなんつうか、逃げ出す意地さえ張る気がもはや起きねえよ。 「今更か? どうせなら、もう少し甘い賛辞が欲しいところだな。惚れ直したとか、犯したいほど劣情を催すとか」 そんな冗談めかした不満を真顔で述べるチトセ。そこには過去の傷も、現在の葛藤も、一切何も見えはしない。 その姿はあまりにも〈眩〉《まぶ》しくて。見上げる高みで、憧れでありすぎる。 だから俺は、コンプレックスが〈疼〉《うず》くんだよなあ本当に。そんな恐ろしい高さに連れて行かれたら堪らないと、無意識で無様に悲鳴を漏らしちまう。 「……だから、なんで俺なんだか。人手不足が過ぎるってか?」 「どこかにいるだろ、もっとマシな男ぐらい。軍だろうと民間だろうと、おまえの目なら見分けが付くはずだろうし」 どんな苦難にも屈しない理想の〈主人公〉《ヒーロー》。挫折は常に成長の糧であって、不幸な過去すら栄光を彩るお膳立てにすぎない。 チトセ・朧・アマツの隣に立つのは、そういう男じゃないとならないんだ。こいつの輝きに見劣りせずにいられる勇者でなければ。 何処までも情けない自分への腹立たしさは、奇妙な表現ではあるが、一種の義憤と言ってもいい。俺はそれだけのことをやらかしたんだし、そのためここまで腐った。 なのに、そんな廃棄物に執着するチトセの盲目ぶりが理解できないし、したくない。〈無謬〉《むびゅう》の〈裁剣〉《アストレア》が、俺のことになるとそんな駄目っ子になっちまうのが実に嫌だ。 おまえ綺麗だし、すげえし、格好いいし、なんかもう……ああもう。 高嶺の花だからこそ、こっちを気にしないでほしいと思うのは、俺一人の〈我儘〉《わがまま》だろうか。 そう思ったが、しかし。 「──馬鹿たれが、この鈍ちんもどきめ」 俺の愚痴を遮ったのは、軽やかなその一言だった。 「やはり初めからこうするべきだったか。ただ私も一応、女としての慎みなり男の立場への配慮は人一倍強い方だからなぁ。つまりは相応に古風な女だと言うことなのだが……」 「いかんな、これではイヴを笑えん。まったく指摘された通りではないか」 と、何やら突然わけのわからない独り言を〈呟〉《つぶや》きはじめた。一瞬、呆気に取られてしまった次の瞬間―― 「ともかくだ」 「──ん、なッ!?」 野獣のように〈獰猛〉《どうもう》で、そして敏捷で迷いのない力に俺は組み伏せられていた。 「チ、チトセ……さん?」 吐息が熱い。文字通り触れ合うほどの近さに、彼女の顔が迫っている。 「ああもう、四の五の言うな。そんなもの、知ったことではないのだからな」 「……少しだけ、甘やかさせろよ。勝利を手にしたご褒美に」 丹田……身体の中心部に体重を乗せられ、俺は身動きが取れなかった。単純な腕力ではなく術理によって俺は抵抗を封じられている。がっちり捉えられて動けない。 だがそれ以上に、黒い瞳の真剣さが俺を釘付けにしていた。息が触れ合う距離で、体臭さえ感じ取れる距離で、チトセは優しく笑っている。 「いいか、言い訳などさせんためにはっきり言うぞ? ようく聞け」 「私が一緒にいたいのは、誰とも知らぬ正しい男なんかじゃない。相手がおまえだからこそ、こうして必死になっている」 「どうしてか、判るだろう?」 〈獰猛〉《どうもう》に俺を押し倒しながら、反して〈囁〉《ささや》く言葉は何処までも穏やか。慈しむような言葉にしかし、俺はどうしようもなく追い込まれる。 いやまあ、そりゃ俺も男だからとっくにわかるともさ。しかしそれを口にするのはどうも〈躊躇〉《ためら》われるというかで……よう。 「……ヴェンデッタを起動できるから?」 わざと外した答えへチトセは静かに首を振る。 「五年前、一度勝ったからか?」 まぐれと勢いの過去に対しても、再び俺の答えを否定する。 「じゃあ……なんだ、わかんねえというので一つ」 「おいこら、意気地がないぞー、この負け犬め。というか分かっているだろ、おまえ」 「まあ、ギリギリまで気づかなかった私にそれを責める資格はないか。心というやつは厄介だな、本当に。中々一歩が踏み出せない」 心の底から可笑しそうに、チトセは少女みたいに笑っている。〈裁剣天秤〉《ライブラ》配属時に初めて出会った瞬間を、俺はそこに思い出した。 そして、降り注ぐ月光と静寂の中……チトセの瞳が、はにかむように微笑んで。 「だから、私から言うよ……もうおまえを逃がさないように」 「──好きだ、ゼファー。一人の女としておまえのことを愛してる」 そして、心臓が止まるような一言を〈囁〉《ささや》いた。 分かっていたけれど、明らかとなった想いはもう言い訳を許さない。清廉な感情が胸をすっと通り抜けていく。 「他は全部建前さ。この気持ちがある限り、私はどんな敵とでも……どんな正しさとでも闘えるよ」 そして、続くその言葉で思い浮かんだのはヴァルゼライドの存在に他ならなかった。 帝国の誰もが讃える絶対正義。英雄譚の体現者。そんな〈英雄〉《かいぶつ》に逆らい闘えるのは……チトセもまた〈傑物〉《そう》であるからなのだと思っていた。あの英雄や魔星に劣らない、凄い奴なんだからと。 だが、そうではないとこいつは自ら口にしたのか? 自らの持つ〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈強〉《 、》〈い〉《 、》〈正〉《 、》〈義〉《 、》を疑わぬからではなく、魔星殺しの〈死想恋歌〉《エウリュディケ》……その力を呼び覚ます〈吟遊詩人〉《オルフェウス》を当てにしているからでもない。 すなわち、とても単純に…… 「俺を死なせたくないから、アレに反旗を翻した?」 「そうとも。どうだ、凄いだろう?」 〈勿論〉《もちろん》、〈諸々〉《もろもろ》の理由はあったろうが決定打はその感情で間違いないとチトセは言った。そしてそれを貫く限り、自分は無敵だとも言っている。 それがあまりに真っ直ぐで、だからこそ居ても立っても居られない。こいつがそこまでしてくれている価値を、何より俺自身がゼファー・コールレインに見出せていないことが辛かった。 間近で見るほど痛々しい、俺が刻みつけた裏切りの刻印。眼帯の下で一生消えないその傷に、俺は向かい合うことができないのに。 「おまえ、実は結構馬鹿だろ? こんな片目まで獲られてさ……それで好きとかよく言ったよ」 「俺がおまえにやっちまったことは、どうでもいいってのか?」 「代わりに強さをもらったからな。箔もついたし、切り札も手に入れた。今となっては勲章だよ」 「何よりこの〈隻眼〉《まぶた》の奥には、あの日見たおまえの強さが焼き付いている。ならば悪いものじゃない。あの敗北は必然だった」 「正しいか、正しくないか。勝てるか、勝てないか。そんなこととは関係なく戦える強さ……貫く重み」 「この目こそゼファーの頑張った証だろう? ほら、もっと自信を持て」 そう言ってほほ笑むこいつがどれほど強いか、もう俺には分からない。とにかくすごいという気持ちしか湧き上がらない。 そっと無機質な眼帯に触れる。その失った光に見合うだけの価値、それを俺は手に入れるべきではないかと強く感じ始めている。 恥が──感謝が──想い──誓いが── あの日無くしてしまったものが、胸の中で少しずつ、少しずつ…… ああ、少しずつ…… 「今の私が強者に見えているならば、あの日のおまえが〈右眼〉《ここ》に宿っているからさ。正誤を越えた先にある願いに〈純粋〉《ひたむき》だった〈銀の人狼〉《おおかみ》がな」 「だから、この〈隻眼〉《せきがん》を恥じたことなど一度もない。むしろ、おまえとの無二の絆と誇りに感じていたんだぞ」 チトセは飽くまで穏やかに、けれど〈火傷〉《やけど》しそうなほどの熱さを込めて訴えてくれる。告白を聞く俺の胸に、過去の傷跡にそれがじわりと染み込んで行く。 乗り移ったその熱は、行き場を求めるように俺の五体を駆け巡り……涙腺から滲み出すように溢れてきた。 認めてほしい相手に認めてもらった思える感情が、何よりの救い。五年間……いやもしかしたら、生まれてからずっと知らずにいた気持ちだった。 「本ッ当に……おまえは、すごい女だな」 こみ上げる熱情を〈堪〉《こら》えながら、俺は慈愛に満ちた黒い瞳を見上げていた。あの月のように、闇夜の中でもずっと俺を見守ってくれていた女神の眼差しを。 「変われるかな、今からでも」 戸惑うように〈呟〉《つぶや》いた。ただの裏切りと逃避でしかないと思っていた俺の行動が、一人の女をこんなにも凛々しく成長させたのだと知った。ならば見合うだけのものを、こっちも得ないと釣り合わない。 「それが許されるのなら……」 こいつに罪を許されたから。今度こそ、その信頼を裏切ってはならないとの戒めから……いや、違う。 「変わりてえ……俺だって、五年前のままでいるのはもう御免だッ」 ああするべきとか、資格がどうとか、そんな〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈理〉《 、》〈屈〉《 、》なんかどうでもいい。俺自身が、心の底からそうなりたいと思っている。 俺のトラウマ。俺の憧れ。そして〈仄〉《ほの》かな想いを抱いていた一人の女、チトセに対して〈真摯〉《しんし》に生きたい──だからこそ。 「もう、おまえに恥じるような人間でいたくない」 「なりたいんだ。おまえが誇れるような俺自身に……ッ!」 〈呻〉《うめ》くように絞り出した〈慟哭〉《どうこく》は、紛れもなく自分という狼の産声だった。 惰性や逃避で選んできた生き方ではなく、こう在りたいという道を歩む人生への再誕であり――だからこそ。 「お帰り、ゼファー……私の〈人狼〉《リュカオン》」 「今ここに貴官は〈裁剣天秤〉《ライブラ》へと復隊した。──五年間の任務、ご苦労だったなコールレイン」 「──はい。ただいま戻りました、隊長」 そして、甘く〈囁〉《ささや》くような祝福の言葉は、触れ合った唇の温度に溶けていった。 地を〈這〉《は》う狼はようやく回帰したのだろう。〈星女神〉《アストレア》を守護する同じ夜空の星座へと。 「ん……ちゅ、はぁ────ふふ」 唇を重ね、触れ合う肌の熱さと肉の重みを意識する。欲だけじゃない、それらに対する愛おしさが胸を満たす。 愛だの恋だの、呼び名は別にどれでもいい。女の身体よりも、心を抱きたいと強く欲するこの気持ち。それを、俺は生まれて初めて全身で感じていた。 舌先と共に触れ合う、熱に浮かされたようなチトセの吐息。口内に流れこんでくるそれは火のように火照っていた。 「……さて、我慢もこれまでだ。今夜一晩で、五年分しっかり取り返してやるからな?」 「楽しい楽しい既成事実の時間といこうか、なぁゼファー」 不意に凄味を帯びた声音で俺の肝を冷やしてくる。狼が取って喰われたんじゃ洒落にならないが、まあそれもいいだろう。 今は、生まれ変わったこの清々しさに包まれていたかったわけで。〈粛々〉《しゅくしゅく》と乗り気な乙女のアプローチを俺は我が身で受けるのだった。 そして、俺たちは自然と娼館の一室へと足を運び── この告白が嘘じゃないと、互いに証明するのだった。  心や魂で通じ合い結びつくことができるのが人間であると、ある者は言う。今宵、銀狼と女神が想いを交わしたそのように。  だが逆もまた真なり。互いに通じ合う一切を持たずして結びつくことが可能なのも、また人間である。  それは端的に言って利害関係という、凡百の情愛や信頼などより遥かに強靱な〈紐帯〉《きずな》。  互いに求めるものが明白であるからこそ、欲得づくでありながら純粋で嘘偽りない意思疎通が可能になるという一種の背理だった。  今、帝都中枢の会議室。その閉ざされた一室で密議の場を共有する人間模様もまた、その事実を証明していた。 「考えてみれば、拍子抜けするほど単純な〈詐術〉《トリック》だったのです」  シン・ランスロー。アドラー帝国軍の将校にして、真実はカンタベリー聖教国の間者。  彼は今や、憂国の苦労人という仮面の下に秘め続けた思惑や欲望を余す所なく〈晒〉《さら》している。  密偵があろうことか素顔を〈晒〉《さら》し、正面から交渉相手へと語り掛けていた。 「人々に奇跡というものを信じさせるにはどうしたらいいか。一つは本当に奇跡を実行すること。もう一つは、奇跡を演じてみせること。  かように、言葉の上でさえ錯誤しやすいこの両者。真贋の〈見〉《 、》〈分〉《 、》〈け〉《 、》は実にもって困難でしょう。何故ならば〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》ゆえに……」  〈喉〉《のど》で漏らした含み笑いも、少年のように無邪気な響きを帯びていた。しかし同時に老獪な策謀の臭いも複雑に混合している。  偽りの人間関係や立場といった重石から解放された快さが、その声にも表情にも露わになっているのだろう。彼は今、真実何かから解き放たれていた。  ──だからこそ、言葉の刃で勝負へと打って出ている。 「しかし総統閣下。あなたが五年前その〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》であったのか、私にはどうでもいいのですよ。 私の興味は奇跡の真実などではない。奇跡の種そのものにあるのですから」  ゆえに今、誰もがその威に服するしかない絶対存在……クリストファー・ヴァルゼライドに対しても、臆する所は〈微塵〉《みじん》もない。  自国の権益という純粋で嘘偽りない拠り所を明らかにした今、カグツチからの〈接触〉《コンタクト》という札を盾に堂々と言葉を紡ぐ。 「……豹変とは正に貴様のことだな、ランスロー。  獅子身中の虫が。控えよ、総統の御前であるぞ」  よって、その言動に〈反駁〉《はんばく》したのはアオイ・漣・アマツである。なにせ彼女は〈カ〉《 、》〈グ〉《 、》〈ツ〉《 、》〈チ〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈を〉《 、》〈未〉《 、》〈だ〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  身命を捧げた主君を軽んじるかのようなランスローの振る舞いに、きつく〈眦〉《まなじり》を吊り上げる。そして真実が露見された今となっては、この場ですぐさま薄汚い間諜を処断したいと思うのだが…… 「無用だ、漣。この場においては、対話を〈迂遠〉《うえん》にさせる形骸でしかない」  なぜか、主君はそれを押し留めていた。カグツチの存在を知る英雄は、それを知るゆえアオイの描く常識的な対応に打って出ない。 「そしてランスロー。貴様についても一人の腹を括った男として認めよう。俺と対等の〈交渉〉《テーブル》に臨む相手として、不足はないと感じている。  だからこそ、〈泳〉《 、》〈が〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》のだからな」  そしてヴァルゼライドは、飽くまで不動のままであった。相手の能力を認めた上で正面より対峙する。  敵国の人間であるランスローに対し、快も不快も一切見せることはない。表面上は変わりなく堂々と応じていた。 「それは〈重畳〉《ちょうじょう》。賢明なる総統閣下のご英断、こちらこそ感服いたしました」  〈慇懃無礼〉《いんぎんぶれい》を絵に描いたように芝居がかった一礼。  再び上げた視線は、〈不遜〉《ふそん》で狡猾な光を〈湛〉《たた》えていた。 「さて、では〈商〉《 、》〈談〉《 、》と参りましょうか。 単刀直入に申し上げますが、私は総統閣下のお役に立ちたいと思っております。帝都を騒がす反動分子、のみならず精鋭を持って鳴る〈裁剣天秤〉《ライブラ》の離反による〈騒乱〉《クーデター》……  これらが長引けば、帝都内の治安のみならず前線の指揮系統にも著しい混乱が及ぶは必定。私としてもこの国にそれなりの愛着はありますので」  〈飄々〉《ひょうひょう》と、まさしく商人が売り向上を述べるような滔々たる弁舌に、信じられる点は如何ほどもない。  それを、ヴァルゼライドは否定することなく静聴していた。ゆえに控えるアオイもまた苦々しく沈黙するしかない。 「よって、この早期鎮圧を実現させるべく私の手駒を動かしましょう」  アオイの眉間に不興の〈皺〉《しわ》が浮かんだ理由は、その〈天秤〉《ライブラ》の蜂起に恐らくはランスロー自身が一枚噛んでいるだろう自作自演の事実と……そして、今は国賊として敵に回った親族への憤りであった。  本当に、これだけは分からない。  あの従姉妹は、何という愚かなことをしたのだろう。 「……チトセ」  もしこの前代未聞の一事により、末代までの汚名を残すようなことにでもなれば……その恥辱は朧どころかアマツ全体に降りかかる。チトセや自分の一命をもってさえも〈雪〉《そそ》ぎきれないというのに。  アオイに選民主義はないが、それでも家や血の〈繋〉《つな》がりというものには人並みの愛着もある。だからこそ私人としての感情は当然激しく〈軋〉《きし》むのだ。  〈呻〉《うめ》くようなその〈呟〉《つぶや》きは、しかし誰の耳にも止まることはない。次いで口を開いたのはヴァルゼライドであった。 「対価を言え。先の言葉から想像は付くがな」 「腹を割った対話というのは実に気持ちがよいものですね。いかにも、ご賢察の通り―― 〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の大虐殺、その立役者となった魔星たち。そして戦争の常識を塗り替えた〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》に、星の〈異能〉《ちから》を引き出す合金アダマンタイト……ああ、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》もありましたか。  ともあれそれら、何の前触れもなく帝国内部から〈発〉《 、》〈見〉《 、》された〈旧〉《しん》時代の超技術。そのお〈零〉《こぼ》れを〈聖教国〉《うち》にも頂戴したいのですよ」 「もちろん、そちらが隠しておきたい本命まで寄越せとは言いません。型落ちのお下がりで結構です。 それだけで、本国は狂喜乱舞するでしょうしね」  旧式であっても、帝国以外にある諸国との関係上においては充分な優位となるであろう〈神国〉《ヤマト》由来の軍事技術。  それらを求めた上で、帝国との和平協定を水面下で確固たるものに保つ。  それが、ランスローの描く何処までも現実的な国家安寧の計であった。  そもそもカグツチがいる限り、帝国アドラーを打倒できる確率は極小であり旨みもまた然程ないのだ。  金の卵を産む鶏が凶悪にして獰猛なら、飼い慣らそうと血を流すより、交渉して小康状態を保つのがいいだろう。 「奉ずる国は違えど、自国への忠誠は評価しよう。それもまた、極東信仰の賜物か」 「……いいえ、思い違いをなさらぬよう総統閣下。確かに私はかの宗教国家の人間ではありますが」  さも可笑しげに含み笑い、ランスローは眼鏡の弦を弄って。 「〈大和〉《カミ》へ対する信仰心、また宗教的情熱は一切ありません。千年も前に滅び去った国やその文化を奉じるのはまだしも、今を生きる我々の現実を左右されるなど……愚行以外の何物でもないでしょう?」 「国体を護持する上での象徴としては、実に使い勝手がいい〈概念〉《もの》とは評価していますがね。 もっとも、こんなこと本国で漏らせば首が飛びかねないですが」  そして一転、真剣な目で黄金の英雄を〈一瞥〉《いちべつ》する。  真偽の使い分け、〈我〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈同〉《 、》〈じ〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》と。 「あなたならご理解いただけると思いますがね、ヴァルゼライド総統。英雄も神も似たようなものですから。  集団の大多数を導き御する上で、実に効率的な道具立てです」  ランスローが言うように、この国において〈英雄〉《ヴァルゼライド》はその絶対性で言うならば教祖や神にも等しかった。  民草は言うまでもなく、軍人という現実主義者の極みたる人間たちでさえ彼の威光を疑わない。  何よりも、ヴァルゼライド自身がその認識の上で英雄らしく振舞っている。  他者が求める理想化された英雄像を裏切るような言動や失敗を、彼は決して冒すことがない。  それは、ヴァルゼライドという個人が有する能力が可能にするものではあるだろう。しかし何よりも、まずは“英雄たるべし”を行住坐臥実行するその意識あってのこと。  英雄万歳──とならない者から見れば、まさしく異常だ。  その点については、ランスローは未だ手を切ったチトセと同意見である。  まあもっとも、この男はそういった演出家ではなく〈英〉《 、》〈雄〉《 、》〈ぶ〉《 、》〈り〉《 、》〈が〉《 、》〈素〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈心〉《 、》〈底〉《 、》〈タ〉《 、》〈チ〉《 、》〈が〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》と、内心で吐き捨てつつ…… 「それで……いかがですかな、英雄閣下殿? この取引、ご承認いただけますか?」 「よかろう。〈好〉《 、》〈き〉《 、》〈に〉《 、》〈動〉《 、》〈く〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」  許しに対して微笑すると、一礼してランスローは立ち去った。  その気配が完全に消え去るのを待ったかのように、アオイは遅れて口を開く。 「閣下、さすがにこれは温情がすぎるのでは? 奴は今すぐ処断すべきと愚考します。 あれはまだ、我々に伏せている手札があると感じました」  アオイがそう口にしたのは、純粋に軍人としての嗅覚だ。帝都の深い闇の奥、鋼鉄の柩に夢見る神星のことを彼女は知らないが、勘が働かないわけではない。  チトセ程ではないが、英雄を拝する以外は彼女もまた真実を見抜くことに長けている。 「問題ない。奴を〈動〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》限りはな。その見極めは怠らん。  すべてはそこにある。瀬戸際を見誤らぬ限り、危険というものはこの世にはない」  心服する男の示した断言に、アオイは自己の内に芽生えつつある不安を眠らせる〈べ〉《 、》〈き〉《 、》だと強く思った。  それを疑うことなど〈間〉《 、》〈違〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。何故ならば、この偉大な男の背中こそは〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈も〉《 、》〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》無二の〈道標〉《みちしるべ》なのだから。  けれど……  閣下、お許し下さい――とアオイは内心でそう〈懺悔〉《ざんげ》する。  憧れである彼の、目指す彼方の光がどうしても見えないという漠たる不安。それを消しきれぬ己のどうしようもない矮小さを、彼女はそっと小さく恥じた。  それこそは翻って、ヴァルゼライドがいかに凡人の域を越えた傑物であるかという証明である。地を〈這〉《は》う蟻に、巨人が見据える世界の全容が把握できないのと同じであると、何度も何度も自分へ向けて言い聞かせる。  尊敬しているからこそ、彼女は英雄を否定しない。  そして、その光を仰ぎ続ける限り……本当の想いから目が逸れていく。 「不安か、漣」  己の卑賤な葛藤を暴かれたような一言に、彼女は心臓を砕かれるに等しい衝撃を受けて硬直した。  絶句するまま〈佇〉《たたず》むアオイを、不敗の英雄は〈一瞥〉《いちべつ》する。強く〈頷〉《うなず》き鷹のような眼差しを副官へ向けて〈僅〉《わず》かに労わるよう目を伏せた。 「お前には、未だ語っていないことも多い。それは事実だ。言い訳できん。   だが、それでも付いてきてくれると有り難い」  そう投げかけられた言葉は、もはや確定された未来の約束にも等しかった。ゆえに帝国軍総統副官は、直立不動で敬礼を捧げる。 「お供いたします――クリストファー・ヴァルゼライド総統閣下」  そして、アマツの名を持つ迷える乙女もそう返答した。  忠誠と恋慕の別さえも、未だ自覚できずにいるままに。 「……本当に、手〈酷〉《ひど》くやられたものね」 意識は若干〈朦朧〉《もうろう》としている。激しい痛みが常にあるわけではないが、ヴェンデッタの言葉は、遠くから響いてくるようだった。 それでも口を開こうとも思ったものの、今の状況では満足に自分のことすら伝えられない。ただ成されるがまま、相手の仕草を受け止める。 「ほら、無理はよしなさい。あなたは何も考えなくていいわ。ただ私のするがままに身を委ねれば……」 いつもよりも優しく響く彼女の声。それすらも、はっきりとは認識できないが代わりに感覚は敏感だった。 俺は言われるがままに身体の力を抜いて、それを受け入れていった……。 「こういう奉仕もあるでしょう。少しは痛みを忘れられるはずよ」 「昔と同じ……あなたの傷は私が癒してあげるから」 ゆっくりと男の陰部へと手を伸ばす。 見かけ幼い少女の仕草は背徳感に溢れたものであるはずが、しかし、それはどこか自然なものに見える振る舞いだった。 妖しい手つきでさすられて、身体がぴくりと反応する。痛覚を上回るむず痒さがそれを従順に受け止めていた。 「ふふっ、こんな状態にあっても反応は確かね。さすがよ」 「薄らとした意識で期待させたのなら、責任を取らないといけないわね……んっ、ほら……」 優しくペニスを包み込んだ小さな手は、迷うことなく上下へと動き、ゆっくりとしごいてくれる。 少女の手の平の感触は、どこまでも柔らかく、それでいて退廃的だった。 「あら、少し大きく……硬くなったわね。私の胸を見て興奮してるの?こんな小さな、女の子のおっぱいを見て……」 「それとも……ただ単純に気持ちいい? あなたのペニスが……」 その通りだった。彼女の手も指も、こちらの弱いところを的確に触れてきている。裏筋に始まり、〈雁首〉《かりくび》を引っ掛けるようにしてしごいてくれる。 以心伝心、心が導線で〈繋〉《つな》がっているかのようにやってほしい部分を刺激してくれた。すると先走りした、ぬちょりとした粘り気のある液体が漏れ出す。 まるで知り尽くしたような相手の身体。あたかも懐かしくも愛おしい場所へ、還ってきた口振りで手による奉仕を続けていく。 「うふふ……、可愛いわよゼファー」 ボロボロの身体は傷から滲む血と、それから汗まみれで、普段よりも血なまぐさい匂いをさせている。 そこへ、ヴェンデッタがあたかも古いアンティークのピアノを弾くような指使いで触れてくるのだ。 壊れてしまった楽器を扱うよう慎重に、ときにリズミカルに股間へ触れては、ささいな刺激から与えていった。あまりに〈儚〉《はかな》い愛撫がゆえに、身体はびくりと反応した。 「身体は敏感ね。正直で助かるわ……」 「けど、このまま指でさするだけじゃ、あまりにも寂しいわよね……?」 敏感だから反応するというよりも、触れられたところから、徐々に感度が上がっていくようだった。 細く白い指で擦るように撫でると、冷えたはずの身体の芯へ、火をともすように体温が高まってゆく。 「はぁああ……っ、いいわ……今日は好きなだけ、ご褒美をあげるから……」 「少しずつ刺激を増やして、我慢できなくしてあげる――」 頬を染めながら〈呟〉《つぶや》いたヴェンデッタは、そのまま一連の自然な動きのように薄い唇を開き、陰茎へ舌を手を伸ばした。 瞬間、こちらの腰が浮かび上がる。純粋な生理作用と反応による動きだったが、その奥に潜む男の本能を、彼女は決して見逃さない。 「うふふ。こんな状態なのに、しっかり固くさせちゃって」 「知っているわよね。瀕死なほど、雄の本能がはっきりと身体へサインを送るのよ? 瀬戸際で子孫を残そうとする理屈ね……」 「あなたは死なせないけれど、今はその〈昂〉《たか》ぶりに身を任せて……ちゅっ」 血と汗まみれの身体ゆえ、陰部からの匂いは、さらに濃厚できついというのに。 しかし、彼女はすんすんと鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、それから愛おしそうに口づけた。 「これだけ汚れてたら、念入りに掃除しなくちゃね――」 普段のからかうような口調ながら、その言葉からは彼女の強い想いがはっきりと感じられた。 舌先を〈這〉《は》わせ、根本から竿を舐め上げる。舌の裏側が雁のところで引っかかり、彼女はれろれろと押すようにして刺激を加えた。 その動きは、まるで蛇のそれであるように、妖しく動いている。 「ちゅっ……んんっ、まだ亀頭に余裕はあるわね。早く……、ここをぱんぱんに膨らませてあげたいわ」 「はぁんむ……、れろっ、ぺろっぺろ……、ちゅる」 「んふ……っ、尖端から、少しずつ漏れてきているわよ? 良かったじゃない、精力はそのまま生きる力だもの……ほら」 ペニスをしごく手は根本から〈陰嚢〉《いんのう》にかけて刺激を与えている。指で押したり、撫でたり、つまんだり…… さながら〈睾丸〉《こうがん》を〈弄〉《もてあそ》ぶが如く手管の動きで、意識があり、身体が完全であっても骨抜きにされたであろう。本当にやりたい時、やってほしいことをヴェンデッタはやってくれていた。 「こんな風にしゃぶられたことはあるかしら――ちゅるるぅっ、じゅぷ」 軽口を叩くが、彼女の口技は巧みであった。融けるといっても違和感のないほど、熟達した唇と舌の動きで、ペニスをしごいてゆく。 「ぐっぽっぐっぽぐぽ……っ、じゅぷぅっ、るちゅっ、ちゅぴっ!」 「はんぅむぅ、れろれろれろ……じゅぷぅっちゅぶぅっ、ちゅっ……、れるぅっ、りゅむぅっ」 痛みでまともに喋ることのできない俺の、今こうして欲しいという思いが、まるで以心伝心で伝わっているかのような口淫。それをこいつは〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく実行していく。 〈陰嚢〉《いんのう》の弱い部分、〈雁首〉《かりくび》のしゃぶって欲しいところを、最初からなぜか熟知しているかのように。精液の溜まった〈睾丸〉《こうがん》を優しく揉みほぐしながら、じわじわと、ゆっくりとこちらの官能を高めていく。 「……ぷはぁ、んっ。静かな分、いつもより素直な反応ね。それとも、気持ちは引いても、身体は抵抗できないのかしら」 「もしそうなら、力を抜きなさい……余計なことを考えなく済むよう、蕩けさせてあげるから……ちゅっ、ちゅっ」 ペニスを〈咥〉《くわ》える彼女の眼差しは、どこまでも懸命で優しく揺れていた。それがまた雄の本能を刺激する。 ねっとりとした舌の感触に、俺はうごめくように息を吐き出して、わずかにだが身を〈捩〉《よじ》って反応する。それが頬肉とこすれ合い、更なる快感を生んだ。 「んんっ……れろぉっ、ちゅぶっぐぷっ……、ぐっぷぁっぐっぽっ……るちゅぅっ! れろれろれろれろ……っ」 「はむぅっ……、ちゅっ、ちゅるうぅううううっ、ちゅぱっじゅるっ、じゅっぷぅっ……っ」 「ウフフ……っ、しゃぶってる、こっちが興奮してきちゃうわねっ……るちゅぅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅぱぁっ!」 巻き取られ〈咥〉《くわ》え込まれた男根が、少女の口内で刺激されていく。びくんと何度も腰が快楽に打ち震え、カウパー汁がどくどくと溢れてゆく。 彼女は唾液を溜め、口の中で一緒に混ぜ合わせ、それを一気に嚥下する。蜜のように吸い上げた。 「……んぐ……ごくっ。濃くなってきたわね、その調子よ」 さらに〈陰嚢〉《いんのう》を揉みほぐしながら、彼女は言う。 「ここに……、あなたの精子が詰まってるのね。もっともっと――傷ついたときほど、雄の本能でずっしり膨らませなさい」 「こんなにガチガチにして、少しも手を抜かせてくれないんだから……ふふ、性欲には正直じゃない」 ヴェンデッタが舌なめずりをするように、ペニスへ顔を再び近づける。 自らが立てている音ですら、興奮と官能の餌にしているようで、紅潮した雌の顔でむしゃぶりついてゆく── 「ちゅるぅうううぅっ! れろれろれろぉ……はむぅっ! んっ……ふぅううっ! るちゅぅっ!」 「はぁはぁ……むちゅ、じゅるぅっ、……ちゅぱっ! ちゅっちゅっ……、ちゅうううぅっ!」 「じゅぷっじゅぷ……、るちゅぅっ! ぐっぽっ、ぐっぽっ、ぐっぽっ……はむぅ、くぷぅっ、ちゅっ! ちゅっ! ちゅぱっ!」 ペニスをしゃぶり倒し、一心不乱に顔を上下させて吐息が、精液に混ざって〈淫猥〉《いんわい》な水音を立てていた。 腰の奥を駆け上がるぞくぞくとした脈動、それをヴェンデッタは口内で確かに感じているのだろう。うっとりと陶酔しながら口淫奉仕に没頭する。 「あはっ、しょうがないわね……もう出しそうなの?」 「……いいわよ。はむっ……いつでも、好きなときに出しなさい。私が全部、お口で受け止めてあげるから……んんっ」 腰が蕩けそうになるほど、焼けつくような口淫。深く、深く、〈咥〉《くわ》えられる。 銀髪は汗と精液まみれになりながら頬へ張りつき、てらてらと糸を引くように光っている。 唾液と愛液のミックスされた匂いは、〈痺〉《しび》れるように甘く、幼い少女をどこまでも雌へと〈昂〉《たか》ぶらせていった。他の女とはありえない、気が狂いそうな快感がペニスから流し込まれる。 「分かるわよ。あなたのモノから、はっきり伝わってくる……」 「気持ちいいでしょう? そんなに感じて……私は幸せよ、ゼファーが感じてくれているんだから」 「ちゅ……、最後まで――真っ白になるくらい、気持ち良くさせてあげるわ」 言葉にうだるような熱がこもる。それは行為の中で挑発的に述べているだけではない、本人同士にしか伝わらない、確かななもの。 「はむはむぅ……れろぉっ! ちゅるぅううううぅ……、じゅぽじゅぽじゅぽ……っ! じゅぷぁっ……はむちゅっ!」 「んふぅううぅ……、ちゅるぅっ! じゅっぷっ! じゅっぷっ! じゅるぅっ……れろれろれろっ!」 〈途端〉《とたん》、こちらの身体も背中から先に、腰へと反応が伝わっていく。肉棒への刺激が、脳よりも先に全身を支配しているかのようだった。〈疼〉《うず》きがもはや止まらない。 「んんっ……、濃厚になってるっ……先漏れした子種の量かしら、味が少し変わってきたわよ……?」 「こんなのをお腹へ注がれたら、〈孕〉《はら》んじゃうくらい……濃いのが……んむぅ」 舌と歯で亀頭を刺激し、半開きの唇で〈雁首〉《かりくび》を圧迫する。 ペニスを刺激し続ける彼女から〈零〉《こぼ》れる〈涎〉《よだれ》には、じわりと漏れた精液が混じり、ぽたぽたと床に垂れるたびすえた匂いが立ち込める。 「はむぅっ……ちゅぶっ、れろっ……るちゅっ! ちゅっちゅっちゅっ……! ちゅばっ! ちゅるぅっ……ちゅっ!」 「むふぅっ……はんむぅ、ちゅるぅううううう! るちゅっ!じゅっぷ、ぐぷぐぷっ! ぐっぽぐっぽ……っ! じゅるぅぅっ!」 「うふふ……まだまだよ、さぁ――」 「むぅ……ふむぅっ、れろれろれろ……ちゅぱっ! はむぅっ、はむぅっ、じゅるぅっ! ちゅぱっ! れろれろれろ……ちゅぅぅっ! じゅるうぅっ……ちゅぴっ!」 舌でベロベロと亀頭や裏筋を責め立てられ、俺は声も出せずに、ただ気持ちよく昇ってゆくだけ…… それでも、お構いなしといった風情で、彼女は一気にスパートをかけた。 「ちゅるぅうううっ、ちゅっちゅっ、じゅぽじゅぽ、じゅるっ!ぐっぽぐっぽぐっぽぐっぽ……ちゅぶっ!」 「んんっ……ふわぁぅっ! んぐうぅっ……るぅちゅぅっ! れろれろれろ……じゅぽじゅぽじゅぽじゅぽ……ちゅるぅっ! れるぅっ!」 そして── 「んくぅ……んぐぅっ! んんんんっ……んっんっんっ」 我慢することなど思いもつかず、奉仕による甘美な絶頂へと導かれた。 腰の奥が〈痺〉《しび》れて重い。理想をそのまま実行されたかのような口淫で、何もかもがその小さな口に搾り取られていくようだった。 「はぁあ……んっ……、ふぅんんっ……はぁ……」 その度に……脈打ち、噴射するような精液をヴェンデッタは物怖じせず、うっとりと飲み干してゆく。 相当な射精量のはずだが、まるで見せつけるようにして〈零〉《こぼ》さずに咽を鳴らしていた。 「んんっ……こんなのに出すなんてえぐいわね。量が多くて驚いたわ」 だが、そう言うくせに、〈咥〉《くわ》えたまま〈陰嚢〉《いんのう》を優しく揉んでくれている。最後まで吸い出して飲み干すためだ。 「ちゅううううぅぅぅ……ちゅっ、ちゅぅぅぅ……ぽんっ」 「ふふ……いい子、とっても頑張ったわね。こんなにたっぷり吐き出して、ちゅっ」 ペニスを〈咥〉《くわ》えたまま尿道に残っている精液も逃さず、最後まで吸い付いてきた。口内に半ば精液を溜めた状態で、悪戯っぽく舌なめずりして告げてくる〈淫蕩〉《いんとう》さに、脳が〈痺〉《しび》れる。 「とっても濃厚だったわ、これだけ粘ついていると、噛み切れないほどに……」 「それと安心もしたわよ。ここまでの量を出せるなら、すぐにでも動けなくなるほどじゃないでしょうし……それに」 「……まだ、満足しきってないようね」 未だギンギンに怒張したペニスを、うっとりと見つめながら、ヴェンデッタは妖しく微笑む。 ここまで来たら、淡白に終わることはできない。骨を抜くような快感にそんな気さえ起きなかった。 最後まで尽くしてくれるという少女の誘いを断ることができず、痛みを快楽で塗りつぶしながら行為はその先へと続く。 「こうするのは、久しぶりね。ゼファー……」 一度、果てた後だからだろうか。不思議とヴェンデッタに奉仕される前よりも、身体が軽くなっているようだった。 彼女が言う雄としての――生きるための本能だろうか。種を残そうという生殖願望、どろりと〈滾〉《たぎ》る繁殖欲求が身体を呼び起こしている。 とは言うものの、決して自分で動けるわけではない。ヴェンデッタが乗っかるという楽な態勢になって彼女と抱き合った。 「対面座位……いや、騎乗位ね。重くはないはずだけど大丈夫かしら」 うねうねと腰を〈淫靡〉《いんび》に蠢かすが、表情はより柔和になって笑いかけている。 先ほどまでは生きる本能を喚起するため。今度は純粋に快感を与えてやろうといった雰囲気である。 手練手管の竿師みたいな動きだが、見目麗しい幼女の姿。口淫のときも同様だが、アンバランスな魅力にくらっと〈眩暈〉《めまい》がする気がした。 「こら……無理して動かそうとしないの。いいから同じように任せなさい」 「こういう体勢は、女が主導権を握るものよ――」 艶めく口元を見れば、精液の〈残滓〉《ざんし》が残っている。 「それともゼファーは、こういうの嫌いかしら?」 普段の〈傲慢〉《ごうまん》さはなりを潜めているが、その分淫らさが増している。そして肯定も否定も無意味だった。心が〈繋〉《つな》がっているような錯覚がするため、こうして行動をただ受け止める。 「うふふ。こんな風に擦り合うのって……っ、んっんっんん、ものすごくいやらしいわね……あはぁ」 むせかえるような匂いの中、粘膜同士が擦れ合う。亀頭がビラを捲り上げると、ちゅぴという水音がした。 ペニスがすでに回復していたが、彼女の秘所も〈咥〉《くわ》えていたときからずっとぐしょぐしょに濡れていたのだろう。 挿入していないのに、じゅぷっという空気の混ざる音が響くと、こちらの身体がびくんと震えた。翻弄されているそれさえ、信じられないほど心地いい。 「あああっ、ひゃん……! そっ、そこ……っ、あっあっあっあっ……はぁはぁ、かたぁい……」 「ゼファーにまたがって、あそこをゼファーのおち○ちんに擦りつけて……喘いでるっ」 「擦れるたび、クリトリスから電気が〈奔〉《はし》るみたい……」 腰の動きは、徐々に深く早いものになってゆく。女は没頭するように、陰唇が開いて絡みつくほど、奥へと導こうとしている。 擦り撫でつけるまま、男の股間へ身体を沈ませてゆく。ぽたぽたと、秘所からは蜜が溢れ始めていた。 「さあ、お帰りなさい……このまま奥まで〈挿〉《い》れるわよ」 それは命令ではない。さりとて合意を誘うものでもない。 ヴェンデッタは、ただ事実として真実を告げているようだった。 それを眺めたまま、俺は大人しく彼女の動きに導かれていく。先端の粘膜がむつみあい、純血の証を快楽と共に食い破って── 「んっ、んんっ……ああっ、はぁはぁ……くぅうう」 処女膜を〈蹂躙〉《じゅうりん》し、幼い未開の膣壁をペニスにより味わっていく。 「ふぅわぁ……っ、ゼファーの、これ……変わらず、私の膣内にぴったりね――」 「あっ、ああ……っ、はぁはぁ……あっあっあっ」 驚いた。彼女の言う通り、そこはまるで自分の特等席のようであったから。 ゆっくりこじ開けてゆく感覚は、はっきりと跳ね返って伝わってきている。じっくりと揺すられながら埋もれてゆき、女の意志とは反対に、膣肉は男を拒もうとする処女特有の反応はあるが、しかし…… ただ、どうしようもなく気持ちいい。不思議なほどの一体感がペニスから伝わって来る、結合部が溶けそうだった。 「す、すこしの……んはぁあ! 少しの隙間も、ないわ……っ、密着って、こういうことを言うのね」 幼子の純血を奪うとは、つまりこういうことだ。 生臭い臭いが辺りに立ち込めている。見かけ、まだ性行為に及ぶような歳ではなく、快楽よりも痛みの方が大きいだろう。 いたいけな子宮の絨毛は、凶悪なまでの男根によって、今まさに〈蹂躙〉《じゅうりん》されている。快感を感じているのは普通に考えるとこちらだけで――それなのに。 「っ……あはぁあああ、んはぁっ、ああっ……はぁはぁ!」 「んくぅうううううーーー! ああっ! い、今……子宮にまで、あなたのが〈辿〉《たど》りついたわ」 「うふふ……久しぶり、お待ちかねの一番奥よ……」 うっとりと破瓜を滴らせて語るヴェンデッタは、見たままの処女にも、成熟した女性にも同時に見えて……こちらの心を〈掻〉《か》き乱す。 しかし、彼女は内心を見透かしたように微笑んで口を開いてきた。 「心配しなくていいの。そうね、初めてでもあるわ。けどこれは、私がずっと望んできたことだから……っ」 「あなたは自分のことだけ考えて……私の身体を、味わいなさい」 彼女の物言いは慈悲深く、どこまでも慈愛に満ちながら淫らだった。 そして、膣内の具合は極上。狭いなどという次元ではない。隙間がないと言った女の言う通り、まさにぴったり肉〈襞〉《ひだ》の一つさえ密着している。 男にとっては理想そのもの。あたかも自分専用にあつらえたようで、今もペニスは子宮口へ悦びの先走りを塗りつけていた。 出したい、出したいと生殖衝動が下腹部で〈滾〉《たぎ》っている。この幼い身体の奥底へ精を心行くまま吐き出したいと、馬鹿みたいに何かが内で叫んでいた。 「んっんっんっ、あはぁ……っ、立派になったわね」 「ふぅうう……っ、そろそろ、動くわよ。身体のどこかが痛くなったら言いなさい」 それは自分の〈台詞〉《せりふ》だと答えようとしたが、言葉がうまく出て来ない。 なぜなら、開始された彼女のピストンが気持ち良すぎた。幼い身体でありながら、まるで〈貪〉《むさぼ》っているような動き方で処女肉をペニスに絡ませ続ける。 しかも、こう動いて欲しいと思った角度へ、的確に腰をくねらせ振っていた。 これらは相性という安っぽい言葉で表現して良いものなのか――分からなかった。 「あっあっあっ、あああっ……ゼ、ゼファーのが、膣内でどろどろになってる……っ」 「蕩けそうよ……、あなたのおちん○んの先から、熱い先走りが止まらないの……んはぁああ」 「はぁああああああん……ああっ、んん……、やっ、くぅううう……あっ、あっ、あっ、あっ、あっ!」 少女の身体から飛び散る汗が、こちらの顔にも降りかかる。 すると……まだ成熟していないような、甘く切ないような匂いが、鼻の前をふわりと通り抜けた。 彼女は小さな体で、いよいよ本格的に律動を〈奔〉《はし》らせていく。子宮へ種をねだるかのように、雄の射精をその全身でねだっていた。 「はぁああああ、ふわっ、んんっ、ゼ、ゼファー……っ」 「あっ、あっ、あっ、あっ、んくぅううう……かはぁっ」 「固くて、熱いわ……っ。たくましくて、素敵よ――」 突き上げることのままならない俺に対して、積極的に腰を前後させ、律動をリードしているヴェンデッタ。 荒ぶるような動きではなく、あくまでも優しいが――しかしむさぼるような動作。一生懸命という奉仕と同時、自らの快感も優先して止まらない。 「はぅううう。きゃあああああっ、ああっ、あっ……んっんっんっ」 膣の上側を、竿の尖端で擦るように突き上げる。溢れる蜜が気泡と混ざり、じゅぷじゅぷとペニスの根本までを汚していた。 背中を弓なりに反って、小さな体を〈痙攣〉《けいれん》させるたびにこちらへ贈られてくる快感は麻薬だった。鈴口と子宮口が何度も熱い口付けを交わし、その度にあまりの〈疼〉《うず》きで〈眩暈〉《めまい》がする。 「ひゃあああんっ……! そ、そこ……! そこよ、女の袋の下……っ」 「あなたのに突き上げられて、子宮ごとせり上がってくるみたい……ふふ、出すべき場所の確認かしら?」 こりこりと先端に当たるヴェンデッタの子宮。内蔵ごと持ち上げているような感覚は、こちらも実感していた。 小さな身体は軽いが、しかし言葉では表現できないような、全身の重さがあった。それがみっちり腰と腰を密着させて、生殖器を奥まで交じり合わせている。 「あっ……ふわぁあああ! んくぅううう……、あっあっあっあっ……はぁはぁ、ガ、ガチガチね」 「おかしくなっちゃうくらい、ゴリゴリ当たってるわよ……っ」 「んんっ、はぁああああああん……た、たまらないわ、もっと突いて……私を求めて」 前後だけではなく右へ左へ、物足りずに斜めへと動かす腰は、ひたすら肉棒を〈貪〉《むさぼ》るような勢いだった。 「んんっ、ゼファー、気持ちいい……?」 「はぁはぁ……、好きなだけかき回していいのよ。あなたが、気持ち良くなれば、それが私の幸せだから」 「ふふっ……、何て言っても……はぁああああんっ!痛いのが気持ちいいから、私も楽しんでるけれど……」 痛いのが気持ちいい感覚は、丁度同じくして共にしている。それは性の快感だけではないが、傷ついた身体で交わることが、こうまで複雑な快楽とは知らなかった。 それにヴェンデッタの膣内は痛いほどきつく、処女を奪った瞬間は、怪我よりも〈痺〉《しび》れるくらいの刺激だった。そして今も、その味わい深さは変わっていない。 「おっ、奥にあたってるぅ……! かきまわされてるの、すごく好きよ……っ」 「あっあっあっあっ……! ふわぁああああああーーーーんくぅっ!」 「ひゃああぁああああああ、……はぁはぁ! わ、私の体、壊れそう……っ」 ヴェンデッタが本格的に腰を動かすようになってから、ペニスへの快感は一気に増していた。〈陰嚢〉《いんのう》の奥で精を濃縮させ、獣のような繁殖欲を際限なく〈昂〉《たか》ぶらせる。 鈴口が潰されてしまうような締めつけられる圧が、俺の意識をぎりぎりのところで〈繋〉《つな》ぎ止めていた。未熟な性器の味が、禁断の背徳感となって脳髄を焼くようだった。 「んんっ、ふわぁ……っ、や、ぁあん……! あん、あんっ……!」 「ゼファー……っ、もっと、もっと……欲しがって、いいのよ――」 彼女が乗れば乗るほど、悦に入るほどに精魂の果てが見えてくる。 「……んくぅううう……〈痺〉《しび》れちゃう! ゼファー、はげし……いっ」 「おま○この奥、きゅうきゅうしてるの……あなたの種が、欲しくてね……ちゅっ」 ときおり意識的に混ぜてくる〈淫靡〉《いんび》な言葉が、互いの意識すらも強引にかき混ぜる。口付けを交わし、軽く舌先でもむつみあってから、少女は〈淫蕩〉《いんとう》に微笑んだ。 「甘ぁいあなたの精液、罪の証……私の膣内で味わわせて……」 「〈痺〉《しび》れるくらい、気持ち良かったのを覚えてるから……っ」 そうして、こちらの果てを見切ったように、ヴェンデッタがひときわ激しく律動した。 あまりに勢いの突き過ぎた抽送のせいで、怒張したペニスは、彼女の子宮を突き破ってしまいそうなほど。 「ひゃぁあああああ――――ッ! ああぁっ、あっあっあっあっあっあっ! はぁあああああああああっ、ふくらんでるっ」 「ゼファーのおちん○ん、びくびくんしてる……ッ!な、膣内に出して……射精して、種付けして、我慢できずに吐き出して!」 「いっぱい、好きなだけ、あの日みたいに出すのよ……っ」 ヴェンデッタの言う意味がよく分からなかった。しかし、そんなことを気にする余裕さえ頭の中で蕩けていく。まともな思考はもう消えた 彼女の淫らな要求や、張り裂けそうになる〈嬌声〉《きょうせい》が、耳穴から脳髄まで突き刺さるように飛び込んでくる。そのたびに生殖本能が〈疼〉《うず》きに〈疼〉《うず》き、種付けを求めて差し出される子宮以外に何も考えられなくなるのだ。 求められるのなら、そうしてやろう。腰を浮かせ、少女の奥へ――ぐりぐりと定めながら。 「あああっ、ひゃああぁああああああぁあああああ――――ッ!」 「イ、イクゥッ……! イッちゃうのぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーー!」 子宮の肉壁へと、ひたすら心地よく解き放った。 「ああ……っ、あっあっあっあっあっ、……はぁああああ!ンくぅううう……!」 「はぁああああああああああああああん――――!」 ビクンビクンッと弓なりなる女の膣内へ、噴射するように吐き出された精液が、際限なく注がれてゆく。 種付けの悦楽、満たされていく生殖本能、何も考えず幼い少女の子宮に〈孕〉《はら》むほど射精する背徳的な充足が……〈痺〉《しび》れるように更なる精液を〈睾丸〉《こうがん》の中で製造していた。 「あっ、あっ……いいわ、種付けて……好きなだけ、身勝手に……」 「好きなだけお腹で育んであげるから……たっぷり、心行くまで……身勝手な繁殖欲を解消しなさい……はぁんっ」 そしてヴェンデッタは両足で、俺の腰へ巻きつくように挟んで身を〈捩〉《よじ》っていた。自ら子宮を明け渡し、夢見るように雄の欲望を吸い上げている。 白濁した欲望を〈零〉《こぼ》すわけにはいかないといった様子に、射精は徐々に収まりながらもペニスは依然〈萎〉《な》えなかった。むしろ更なる行為を求めて、膣壁に白濁した精をびくびく震え塗りつけている。 「はぁはぁ……だらしない顔して……ふふ、そんなに気持ちよかったの? 鬼畜ね、ひどい男だわ」 「女から膣内に出してと求められるの、大好きで……幼い相手に精の味を教え込むのに必死になって、ふふ。育て方を間違ったかしら?」 肩で息をしながらしなだれかかる女の頭を自然に抱き止める。俺の腕と胸の中で、ぽつりとつぶやくように言った。 「……なんて、ね。ゼファーが膣内でイってくれたこと、嬉しかったわよ」 「幸せだった」 頭を撫でてやると、いつもとは違う反応で、素直にこちらへと身を預けてくれる。抱きしめて触れ合う汗ばんだ肌が熱い。 微笑んで見つめ返してくるのも、普段の尊大なところは感じられない。慈愛にさえ満ちていた。 「さあ、もっとしましょう。まだこんなに固いんだもの……あなたが望むまま、好きなだけ、私は付き合うわ」 「求めていいのよ……ね?」 そのとき、不意に脳天から降りてくるような甘ったるい至福が、俺の身体を〈痺〉《しび》れさせた。ペニスが震え、本能が再び牙を取り戻す。 「さぁ、わたしはゼファーのしとねになるから――」 「心ゆくまで、わたしのことを抱きなさい。もう一度……」 そう、もう一度── 「罪を、私に宿すまで」 少女の言葉一つ一つが、まるで意識を解放するように、心の奥底まで響いてきた。 痛みはもはや麻痺していた。抗えないものを感じた俺は、もちろん反抗する気持ちが生まれることもなく…… ヴェンデッタの身体へ、どこまでも耽溺していくのだった。  ……動乱から、過ぎること一夜。  それぞれの勢力が個々の思惑に従い、一斉に動き出した影響は大きな波紋を生み出した。  当人たちは言わずもがな、それは何も知らぬ無関係な市井の民にとってもまた同じ。帝都に散発した銃火を交えた戦闘は、少なくない混乱が生じさせ普段より張りつめた緊張感をもたらしている。  反動勢力が早期鎮圧されたという国営放送が流れたものの、すぐに普段と同じとはいかないのが人心だろう。刃傷沙汰の起きた現場に誰も近づきたくないように、戦火の残り香というものは健常者ならば当然無意識に避けたがる。  これ以上何事もなければ一過性で終わるだろうが、直後というなら活気が翳ってしまうのも無理からぬことであり──  それはここ、歓楽街にも波及していた。  人の往来はまばら。陽が昇っている時間とはいえ、明らかに騒々しさが鳴りを潜めていると言っていい。  ならばこそ、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》は驚くほどスムーズにこの場所へと逃げ込めた。  誰の人目に留まることなく、この娼館まで的確なルートを選出した一匹の機械蜂。まるで千里眼でも搭載されているかのように、傷ついた老人の身体を支えながら一度も部外者と遭遇することなく二人をここへと〈匿〉《かくま》える。  そして── 「峠は越えたわ。このままじっとしていれば、安心していいはずよ」 「よかった……ありがとうございます、イヴさん」  手当を終え、眠るジンを確認しながらミリィはほっと〈安堵〉《あんど》する。  イヴの下に身を寄せてから一晩。彼女はやっと、目まぐるしい渦中において小さな余裕を取り戻していた。  アスラに痛めつけられたジンだが、その容体は徐々に快方へと向かい始めている。  〈鋼の左腕〉《オリハルコン》があればこそという例外的なものではあるが、彼もまた〈星辰奏者〉《スペラント》へ限定的に分類される存在だ。生命体としての頑強さは一般人とは比較にならず、内臓が破れている状態でも何とかこうして生き延びていた。  だがそれでも、あのまま放置していれば間違いなく今頃彼は墓の下だ。〈色即絶空〉《ストレイド》の魔拳を喰らってこの程度で済んでいたのは奇跡と呼んでいいだろう。  同位体ゆえアスラの星光が通じにくいという背景も絡んだ結果であるのだが……ともあれ今は、それよりも。 「お礼なんて言わないで、私にはそれを受け取る資格がないもの。〈同〉《 、》〈胞〉《 、》の不手際に巻き込んじゃったわけだしね……  ただ、これは紛れもなくとばっちりよ。魔星にも、彼らの親子喧嘩にしても、ミリィちゃんが本来関わる話じゃないわ」 「私が教えたこと、ちゃんと飲み込めた?」 「はい……全部納得できているかは、自分自身あやしいですけど」  ジンを看病する間にミリィはイヴへと尋ねていた。すなわち何故、今回の悲劇が起こったのかということを。  切に訴え、そして知った真実はどれもにわかに信じられないことばかり。  アスラとイヴが、かつて大虐殺を生んだ二体の魔星と同種であると明かされて。ジンが過去、どのような所業に手を染めていたかを聞かされて。  先の一戦が、それを原因に起きた〈存在意義〉《アイデンティティ》を問う暴力的なコミュニケーションであったということ、驚愕と共に理解した。  感情で否定しようにも、鮮烈に焼き付いた記憶がそれを決して許さない。  部外者である自分がどれほど凄まじい業と因果を〈垣間〉《かいま》見てしまったか……理解が及べば及ぶほど、ミリィの背を形容しがたい怖気が走る。今になって、崩れるような恐ろしさを感じていた。  当然だろう、彼女はまだ年若い少女なのだ。血縁が嬉々と殺し合あう光景を見て、変わらず気丈でいられる方が壊れているというものである。  善良で、真っ当で、けれど事態を受け入れようと努力する健気さがあるからこそ、心をひどく傷ませていた。  そして──現実に惑い苦しむミリィを見て、彼女が手を差し伸べないはずがない。  その傷が深いほど、癒したくなる母性の衝動。  庇護欲をそそる少女のことをイヴはとても気に入っている。 「十分よ、少しでも状況を分かってくれたならそれだけでも。   大丈夫、後は私に任せてちょうだい──あなたのことを絶対守ってあげるから。 〈殺塵鬼〉《カーネイジ》……いいえ、マルスやウラヌスと違って私たちは〈人造惑星〉《プラネテス》でも表の顔を持っているわ。その目的は統治と監視。歓楽街やスラムのように帝都を織りなす重要地区をそれぞれ担当しているの。  そしてその役割ゆえに、これから起こる運命にも参戦するのは〈後〉《 、》でいいのよ。一番槍は彼ら二体」 「さすがに戦況が膠着すれば加勢せざるを得なくなるけど……それも〈杞憂〉《きゆう》ね、きっとそんな状況なら入る余地すらないはずだわ。   聖戦が発動すれば魔星さえ単なる端役。主役は彼ら雄々しき二人。   むしろ水を差すんじゃないって、怒鳴られるんじゃないかしら? ふふ」 「えっと、強いんですよね? イヴさんも」 「……そうね。あくまで〈普〉《 、》〈通〉《 、》と比べたら」  苦笑したイヴの口調には、多分に呆れと自嘲の念が含まれていた。  まあ確かに、ミリィの知る〈星辰奏者〉《エスペラント》の基準を見れば強者と呼んで差支えないのだろうが、しかしこの場合、比較対象が悪すぎる。  いずれ訪れる戦闘の規模を予測すれば、〈露蜂房〉《ハイブ》の力などいったい何になるというのか。  断言しよう、アレらは別格だ。  英雄と星神の一騎打ち──彼女は当然、カグツチ側として参戦するのが使命だが、能力を考えれば光の刃で何もできずに一刀両断されるという結末だって十分ある。というより、恐らくそうなるだろう。  〈機蟲〉《きちゅう》の波を光刃は容易に貫く。  そしてそのまま一撃死。ヴァルゼライドなら成し遂げかねない。  何より彼女の〈星辰光〉《アステリズム》、その真価は諜報にこそ発揮される。  大量の〈僕〉《しもべ》を広範囲に、〈且〉《か》つ同時並行して使役しうるその星辰特性は情報収集に最適だ。ゆえにイヴは帝都中の情報が〈集〉《つど》う歓楽街を任されたという面があり、自身を頂点とした巣を形成できたと言っていい。  よって反面、それが力を発揮するのは簡単にあしらえる者たちだけ。  膨大な物量による圧殺は確かに脅威だが、それを覆せる個人と遭遇した瞬間、優勢はあっという間に瓦解する。つまり同格の存在を相手にした〈途端〉《とたん》、その脅威度は大きく減じてしまうのだった。  結果として、イヴは魔星の中でも戦闘能力は下位に属している。とりわけ一対一の戦闘に限っては明らかに劣っていた。  そう、どこまでいっても彼女は戦闘者ではない。  ならばどうして、わざわざ即死しかねない聖戦に馳せ参じたいなど思うだろう。  アスラやマルスと違い闘争や戦火を欲する暴力性など宿していない。ウラヌスのように強烈な使命感や、〈敵愾〉《てきがい》心も同様だ。  〈大和〉《カミ》を心酔しているわけでも、英雄を呪うわけでも、まして運命を切り開くなど高尚な信念さえも持ってはおらず。だからこそ命じられれば別だとしても、運命に対する気概を問われたら察してくれというもので。  少なくとも、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》にとっては対岸の火事。  できるだけ飛び火しないのを願いながら、舞台にわざわざ上がらないようじっと息を潜めている。 「力不足や性格的な面もあって、私と〈彼〉《 、》は運命にあまり積極的じゃないのよ。今の立場も気に入っているしね。   それに、後の統治を考えれば公の身分を持つ〈人造惑星〉《プラネテス》は生きていると都合がいいわ。どちらが勝っても、立場はさほど変わらない」  帝国の掲げる覇道が〈盤石〉《ばんじゃく》な形に成ろうと、日本の復活と支配が成ろうと、どちらにしても同じこと。与えられるはずの役目はきっと似たようなものだろう。  何せ今の立場が本領を発揮できる地位なのだから、わざわざそれ以外の役に就かせるはずがない。  この歓楽街か、別の場所か、とにかくおまえは巣を築け──市井を探り情報を収集して目ぼしいものなら伝えろと。命じられるのが目に見えていた。 「だから、それでいいのよ。正しいことは痛いもの──ならば私は蜜でいい。   事が収束するまでこの場所に居るといいわ。迷惑なんて思わないから、ミリィちゃんはいっぱい甘えていいのよ。ね?」 「……イヴさん」  そう告げながら、イヴはミリィを優しく胸に抱きしめた。  母親が愛しい我が子を慈しむかのように。頭を撫でて、自らの温もりを惑う少女に惜しむことなく与えている。  それは紛れもない彼女の根幹に根付く母性愛。素体から継承した抗えない奉仕と庇護の衝動であり、ならばこそ相手の安全を第一に考えての判断だった。  そう、イヴは自身をとりまく運命についてすべてを明かしたわけじゃない。  自分やアスラの正体、ジンの来歴についてなどは確かに語った。しかし、首謀者であるカグツチやヴァルゼライドに関しては危険すぎるので触れていないし、ゼファーとヴェンデッタの因果、野望の到達点についても口を閉ざしたままである。  特にヴェンデッタ──いいや、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の真実に関してだけは秘めていた。  聞けばきっと、この愛らしい少女はすぐさま彼らの下まで飛び出すだろうと思うから。  どんな激しい嵐が待っていると分かっても、ミリィは〈躊躇〉《ちゅうちょ》せず、その愛情と優しさをもって寄り添おうとするはずだ。  そしてそうなった場合、末路は既に見えていた。英雄魔人は理想のためなら如何なる者をも打倒するという、不屈の意志に燃えている。これ以上巻き込まれたら問答無用で散るだろう。  後で恨まれてもいい。誹られてもいい。ただ現実的に考えて、ミリィの安全を第一に考えた場合、このまま抱きしめるのが最善。  イヴの選択は何も間違ってはいなかった──けれど。 「すみません、やっぱりわたし、行かないと。  だって、二人の家族ですから。留まったままでいると後悔しちゃうと思うんです」  ああ……けれど〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈ぱ〉《 、》〈り〉《 、》、この子はとても聡いから。  そして、とても純朴だから。隠していた本心に気づいた上で、微笑みながらその抱擁をすり抜けた。  そこには迷いなんて見られない。  小さな身体の奥底には、確かな勇気が宿っている。 「正しいことが痛いというのは分かります。気を遣ってもらったことも、ありがたいって感じています。ここで師匠を看病するのが一番安全だということも…… けれど、代わりに二人を無くしてしまえば何の意味もありません。だからわたしは行きたいんです」 「……その先に、どんな結果が待っていても?」 「はい」  肯定の返事はイヴが〈怯〉《ひる》んでしまうほど飾り気がなく、真っ直ぐだった。  それは凪いだ湖面のように、激しくなくとも想いは何より澄み渡っている。 「兄さんがいつか、自分を好きになってくれるまで。  ヴェティちゃんがいつか、心から笑顔を浮かべてくれるまで。   二人の間を〈繋〉《つな》ぐのが、家族として大事なわたしの役目です。これは誰にも譲れません……どんな運命が相手でも」  その結果、想像を絶する苦難が待っていたとしても構わない。一度家族を失っているミリィだからこそ、目を逸らすわけにはいかなかった。  すべてが終わってしまった後で泣くなんて、五年前でもう沢山。  今度はどんな結末でも最後までちゃんと関わりたい。何も知らずに取り残されてしまう方が、今では死よりも恐かった。  ぎり、とイヴの奥歯が小さく不快な音を鳴らした。  先ほどまでの母性愛はどこにいったか、表情を苦々しく歪めながらミリィを静かに〈睨〉《にら》んでいる……何かを焦っているように。 「呆れたわね、なんて無知なの。〈自惚〉《うぬぼ》れるのは止しなさい。  現実が見えていないというのなら……ええ、はっきりと言ってあげるわ。あなたが出来ることなんて、これから先には欠片もないのよ。  待っているのは傷と涙と苦しみだけ。無意味に死ぬのが関の山。〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》の卵が一人、迷い込んだところで何も……そう何も変わらない」 「今すぐ考え直すといいわ、〈人〉《 、》〈間〉《 、》。わざわざ自殺を選ぶほど壊れたわけじゃないでしょう?   悲しみなんて後で幾らでも乾いていく。だからもう、潔く──」 「イヴさん」  ……そっと、微笑みながらの一言で、彼女の言葉はぴたりと止まった。  吸いつけられたようにその笑顔から目が離せず、そして。 「ありがとうございます、こんなわたしを助けようとしてくれて。本当に嬉しかったです」  相手の本心を正しく汲み取り、頭を下げたその瞬間──イヴは静かに悟ったのだ。今のミリィを心変わりさせることなど、誰にもできないということに。  すべて、何もかもを覚悟の上。そんな相手にこれ以上いったい何が通じるのか。 「師匠のこと、よろしくお願いします。  そして、信じていてください。必ず皆でここに帰って来ますから」 「や、ぁ──」  身を翻した少女の背へ、追いすがるように手が伸びた。 「駄目──お願い、待って行かないで。  ねえ、今からでも遅くないから。ここに居てよミリィちゃん……っ」  自分を頼らなかったこと。未来を向いて走っていくこと。それが何故か、どうしようもなくイヴの心中を〈掻〉《か》き乱すのだ。  だってこんなの、初めてだから。  自分の癒しを手に取ろうとしないなんて、ああ──いったいどうしてと。  去っていく少女に身を切るような孤独を感じて、ゆえに思わず。 「────、ぁ」  ……使役した機蜂の針が、一瞬でミリィの意識を奪い取った。  あまりに呆気なく、力によって少女を留めてしまったのだ。  それは無意識下の判断であったらしく、イヴ自身も己が所業に束の間呆然としてしまう。  はっと気づいた瞬間、急いで駆け寄り崩れ落ちる身体を支えた。気を失った相手を抱き寄せ、震える両手で大切な宝物を扱うように抱擁する。誰にも渡さないというかの如く──溢れんばかりの愛おしさを籠めて。 「私、は……」  そして、だからこそ分からない。悦楽の女王蜂は自分自身に困惑する。どうして自分は、ミリィに対してこれほど執着しているのかと。  大切だと思っていたが、これほどまでとはついぞ自覚していなかった。  辛い過去を癒してあげたい。子犬のような愛らしさとひたむきさが好ましい。だから可愛がっていたのは本当だが、だからといって他と一線を画するほどではなかったはず。  ゼファーを諦めろと言った手前、彼に対して起因する感情でもない。  ならば今まで蜜を恵んできた者たちといったい何が違うのだろう? ミリィのどこに自分は惹かれて、そして同時に手を離れていくことをこれほどまでに恐れたのか。  考えて、考えて、考えて考えて考えて── 「間違っていないさ、あなたの判断は」  袋小路に陥りかけた思考を、入室してきた人物の声が断ち切った。 「……ルシード君」  先ほどまでずっと、〈扉〉《 、》〈の〉《 、》〈外〉《 、》で待機していた同属の友人。  自分と同じく聖戦に乗り気ではない彼は、屋敷での一件を隠れ〈蓑〉《みの》にして密かに娼館へと身を寄せていた。そしてそのまま、命令が下らない限りこうして無気力に沈んでいる。  そんな自分と比べてか、眠るミリィを眺める目は優しくも痛ましい。  イヴはその心境が今は痛いほどよく分かった。〈眩〉《まぶ》しく〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》この子のことを、とても直視してられない。  だから、問いかけるのは別のこと。互いの傷を突きはせず、舐め合うことさえ二人はしない──情けなくてとても出来はしなかった。 「あなたは、これからどうするつもり?」 「〈酷〉《ひど》い質問をするねぇ、そちらも」  分かっているのに言わせないでほしいと、ルシードは視線を逸らして苦笑した。ああ、口にするのも恥ずかしい。自己嫌悪で死にたくなる。  なにせ彼は逃亡者であり、さらに今や傍観者だ。  ゼファーとヴェンデッタの同調はついにヴァルゼライドが求めるレベルへ到達した。ゆえにもう〈手〉《 、》〈遅〉《 、》〈れ〉《 、》だと悟ってしまい、彼は利口に愛も友も諦める。  〈星辰奏者〉《エスペラント》を凌駕する〈人造惑星〉《プラネテス》でありながら、この娼館で世界を呪っていただけ。立ち向かおうなど考えもしなかったのだ。  ミリィの勇気、強さ、その何分の一すら持っていない。  少女とは違い、凄まじい戦う力を宿しているはずなのに……  何もかもから目を逸らして、生前の臆病さをなぞるばかり……  ルシードも、イヴも、ただ運命の車輪が回り終わるのを待っている。  それを自覚できたから、二人は共に今の自分を〈嗤〉《わら》うのだった。 「中途半端ね、私たちは……見かけだけ善人ぶって、取り繕って、その実こうして逃げるだけ。 中身はずっと熟さぬ果実、何も選べずこんな様……」 「そりゃそうだとも、死人が成長するはずない。〈動く死体〉《リビングデッド》に出来ることは起き上がって、生者に〈呪詛〉《じゅそ》を吐くだけさ。  どこまでいこうが僕らはずっと、間違え続けた〈生前〉《かつて》のままだ。  それでも──」  願わくば、と……続けようとした言葉は形にならず空へと消えた。  それは叶わぬ虚しい願い、〈人造惑星〉《プラネテス》は永遠である。  死後硬直した骸のように〈素体〉《かこ》の想いに囚われ続ける。  心は閉じたメビウスの輪。未来をどれだけ目指そうとも、〈螺旋〉《らせん》にねじれた円環から抜けられずに舞い戻る。  二人は久しく、変化できない心を呪う。  生者の光に憧れながら、イヴはずっとミリィを胸に抱きしめ続けた。  どうかこの子が目を覚ます前に、すべてが終わっていることを切に切にと願いながら……  政府中央棟──セントラルは、今日も鋼の威容と共に在った。  軍事帝国を象徴する厳めしい〈佇〉《たたず》まいは城壁内外の空気を綺麗に二分しており、〈近衛白羊〉《アリエス》による反動勢力の鎮圧があった後であろうと委細変わらず。  浮つくことなく、過剰に反応することもなく、敷かれた鉄の規律に従い兵は平素と違わず動いていた。  揺るがない巨大な組織というものは、見る者らに畏敬の念を植え付ける。  ただ普段と同じ光景を展開しているというだけで、アドラーの中枢は帝国の象徴として有り余る機能を発揮するのだ。  しかして、いいやこれは必然としてだろう。  揺るがない巨大な組織というものは、確かに見る者へ畏敬の念を植え付けるものの現実では総体が大きいほど、多くの要素が内包されるのは当然の事実であり、ならばこそ内側は一枚岩ではいられない。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》の離反がそうであるように、とりわけ派閥や〈貴種〉《アマツ》など、集団や人の数だけ幾多の願いと思惑が混在している。  それに、セントラルそのものがモン・サン=ミシェルと日本軍の軍事施設、二つが融合した果てに出来上がった〈混合物〉《モザイク》なのだ。深奥にカグツチを坐したまま誕生している時点で、既にアドラーとは異なる意志と使命を宿している。  よって皮肉にも、先に語った通りセントラルにただ頼もしさを感じるのは何も知らぬ一般兵……  すなわち、運命から遠い人間ほど素直に誇りを感じている。真実を知る者、掴もうとする者たちにとってみればここは魔窟に他ならず、今この時も人知れず陰謀は静かに〈蠢〉《うごめ》いていた。  そう、今も──それは二人だけが対峙する会議室でさえ。 「──以上だ、アル。俺の真意は理解できたか?」 「ああ、おまえの馬鹿が行き着くとこまで行き着いたってことがな」  総統と捕縛された反逆者は、向き合いながら言葉を交わす。  かつて、何度も理想を語り合った時のように。分かたれた道は再び静かに交差していた。  かつての親友、かつての同士。そして元改革派の筆頭と、〈諜報部隊〉《ジェミニ》の長であった二人。  それが今や、帝国の頂点と国を脅かす国賊の首魁という関係性だ。運命とは皮肉なもので、少なくとも五年前はこんな心境で相対することになろうとは、ついぞ思っていなかった。  さらにもう一つ、関係を付け加えるなら勝者と敗者というのもある。  手に錠の鎖さえ付けられてはいないものの、アルバートはこの部屋において身動きが取れる状況ではない。この距離、この部屋、同じ閉鎖空間でヴァルゼライドと共にいる限り彼はもはや詰んでいる。  ゆえに、その状態で聞いていたのだ──英雄の明かした彼の目指すべき到達地点と真実を。  カグツチ、〈人造惑星〉《プラネテス》、〈第二太陽〉《アマテラス》……挙句の果てには特異点化した日本と来た。しかもそれを物理的に復活させると? 正気の沙汰とは思えない。  事が大きすぎる。まるで御伽噺だ。とても信じられる内容じゃないのに、あろうことかそれを語った張本人こそ玉座に座るヴァルゼライド。  この男は誇大妄想に憑りつかれるような人間じゃない。まして、この局面で嘘偽りを告げるような男でもなかった。  ──だからこそ、今になってはタチが悪い。  それらは紛れもない真実であり、だからこそアルバートは腹が立たずにはいられないのだ。  そんな大それたことを、顔色一つ変えぬまま吐いて見せたこの〈親友〉《バカ》に拳を叩き込んでやりたくなる。  そして何より、それを察してやることの出来なかった自分自身の間抜けに対して……歯噛みしながら後悔していた。  真実をようやく知れた。だからひたすら、やるせない。 「なあ、クリス。どうしておまえは、そいつを独りでやろうとしたんだ?」  内心に湧き上がる〈慙愧〉《ざんき》ゆえか、ようやく搾り出した声は善悪や正誤を問うものではなかった。すべてを聞いた今でも、アルバートはヴァルゼライドの選択そのものを否定しようとは思っていない。  彼だとて、かつては軍内部の高官なのだ。地位を高める過程で当然、灰色の手段に手を染めたことも何度かあった。  邪魔な血統派をいったい何度、謀略で追いやったか。  スラムの〈屑〉《くず》が成り上がるには、真っ当な道ばかり選んでいては至れないのが切ない現実。  よって、秘密裏に実行することの意義と、手を汚してでも事を成し遂げる覚悟についても十分理解できていた。その上で、しかしこれはと言わざるを得ないのはあまりにそれが空前絶後であったからだ。  いいや、それはきっと、ただ〈悲〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》なのだろう。  共に育った親友として、同じ理想を目指した仲間として、自分を外側に置かれた事実がアルバートには辛かった。 「そりゃ別の奴に明かしたなら賛否両論あったろう。だがな、俺はおまえを否定しねえよ。むしろ逆に手を貸そうと思ったはずだ。  結局のところ、やろうとしてることは富国強兵の一環だしな」  天津の降誕?  旧暦への環境回帰?  〈星辰体〉《アストラル》の開発元を復活させ技術掌握を目論むために──日本国の造り出した決戦兵器と事を構える、などということ。  一見無謀で、壮大な国を巻き込む自滅に見えるがしかし違う。それはまさしく一つの論だ。ああ、ゆえに── 「結構じゃねえか、望むところだ。面白え」  天への〈不遜〉《ふそん》がどうこうと、阿呆なことを抜かすのは聖教国の連中だけだ。  二人にとって日本への畏敬がどうのと、なんら考慮に値しない。  何より、アルバートにとってそんなことは怖くなかった。  ああそうだとも、魔星の祖がいったい何だというのだろうか。 「こっちにはおまえがいるんだ。負けるはずがあるものかよ」  人間の強さとは才能でも、血の優劣でもない。それを信じさせてくれた体現者がいる限りどんな覇業であったとしても、自分は付き合うつもりだった。  そもそも、駆け上るヴァルゼライドを裏方で支えるために、アルバートはかつて〈深謀双児〉《ジェミニ》の席に就いたのだ。  だからもし、〈袂〉《たもと》を分かつ前にそれを一言明かしてくれていたならばきっと二人は今も変わらず、同じ夢を目指しながら時を刻めていただろうと、感じる思いはとても正しい。 「知っていたとも、おまえがそう言ってくれるだろうことは」  ──〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》。 「ゆえに、尚更なのだ。俺たちの互いへ向ける信頼こそ大願成就の毒になる」  ヴァルゼライドは孤高の英雄──たった一人、聖戦へ挑む〈勇者〉《ニンゲン》だった。  男の意志は揺らがない。互いに友誼を抱いているのは同じでも、決定的に違っているのは心の強度。いいやこの場合、頑なさと呼ぶべきだろうか……  胸の奥を〈軋〉《きし》ませるアルバートとは対称的に、まるで時の止まった合金であるかの如くヴァルゼライドの精神は徹底して〈永劫〉《えいごう》不変。  永遠に劣化しない決意の前では、親友との友情など赤子の息吹かそよ風に等しかった。  一度決めた、ゆえに成す──胸にあるのは真実それだけ。  正しいことは痛いのだ。この場合は、彼の生き方を憂う者にとってだが。  そして無論、そういったヴァルゼライドの〈美徳〉《いじょう》以外にも彼を止められない理由はある。  アルバートもそちら側の理屈については分かっていた。なにせそれは、かつて二人で階級の上がる際に言語化した事実なのだから── 「因は三つ、どう〈掻〉《あが》こうと組織は歪む」 「数の肥大化、上部の腐敗、そして優しい正義によって……か」  友人がこうも独力に〈拘〉《こだわ》るのは、とりわけ最後のものが大きく絡む。  膿の有る無しなどではない。時には〈労〉《いたわ》りや親切心、忠誠、何も間違ってはいない人としての正しさが徐々に〈軋轢〉《あつれき》を生んでいくのだ。 「例えば、魔星へ対抗するための再星辰強化措置……俺がかつて挑んだものだが、知ればおまえはどう思った?」  それは机上の空論、〈貴種〉《アマツ》でさえ死亡しかねない〈星辰奏者〉《エスペラント》の再強化手術。  生存しても後遺症ありき。大成功でも寿命は大きく削られる。  まともな者なら、知れば当然こう言うはず。 「止めるに決まってるだろうが、この馬鹿。つうかその口ぶりだとマジで何度かやりやがったな……ありえねえ」 「必要経費だ、そうでもせねば奴には勝てん。  そしてつまるところ、おまえが俺を案じる分だけ勝利は彼方に遠ざかるというわけだ。正気で相対できるほど原初の魔星は甘くない」  ヴァルゼライドという友の息災を願う限り、カグツチへ対抗できる確率は当然下がる──そう、情とは時に〈暴〉《 、》〈挙〉《 、》〈の〉《 、》〈停〉《 、》〈止〉《 、》〈装〉《 、》〈置〉《 、》となってしまうから。  狂わなければ成せないものを成し遂げたいという場合、それは紛うことなき〈枷〉《かせ》と化す。 「だから、容認しろっていうのかよ?」  けれど、だからといって認められるだろうか? 親友が自分自身を使い潰す選択を、彼の望みだから逝けなどと口にできるはずがない。  少なくともアルバートには絶対無理だ。その葛藤を理解できるからこそ、英雄は鷹揚に首肯した。 「そうだ。認めさせるか、否か、その判断を問う時点で足を取られるのは明白だろう」 「何よりこれは、俺の選んだ俺の道だ。   味わう苦難に〈慟哭〉《どうこく》、涙……友にこそ背負わせたくはないのだよ」 「馬鹿野郎、いきなりお涙ちょうだい垂れんじゃねえ。誰がそんなこと頼んだよ、ええ?   いつもいつも、一人で何でも出来やがって。最善手ばかり、すまし顔であっさり選びやがってよぉ……」 「背負ってくれと、誰が言った」  〈共〉《 、》〈に〉《 、》成し遂げたかったから、〈一〉《 、》〈方〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》託したりはしたくなかった。  ああ、まったくだ──正義によって組織は歪む。  現実は物語とまるで違う。正しければ円満で、正しければ最適解で、登場した者の心が正しく通じていたならばするりと解決してしまうほど、単純には出来ていない。  絆に背を向けなければならなくなる瞬間が、必ずどこかで訪れる。  相手を傷つけたとしても、選んだ道を踏破するため走らなければならない時と、向き合う覚悟が常にいるのだ。  その不条理をヴァルゼライドは嫌っている。いや、憎悪しているというべきだろう。  無理もない。“悪の敵”と成った男にとって、間違いがないというのに他者へ傷を強いることなど我慢ならないことだった。  ゆえにそれは歪みであり、自覚しており、されど譲るつもりはなく。  付ける薬はどこにもない。だからこそ彼らはこうして道を違え、運命を共に知った今になっても一枚岩になれぬまま……  正しく燃える義の心、相互理解をしていながら認められない最後の一線。  それを先に踏み越えたのは、やはり英雄の方だった。 「アル、おまえは生きろ──そして〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈も〉《 、》の時を頼む」  立ち上がり、友へ歩み寄っての一言は真っ直ぐゆえに重かった。  肩を掴む手は何より熱く、初めて彼は他者に対して頼み事を口にした。 「聖戦が済むまで拘留するが、万が一、俺が敗北した場合は帝国軍に戻ってくれ。予想される混乱に対し軍部をまとめてもらいたいのだ。  副官には事前に話を通しておこう。なに、いずれ経歴を暴かれるにしても、名前と顔を変えた後なら時間稼ぎも幾らかできる。  おまえならその間に兵の信頼を勝ち取ることも、十分可能だ」 「……身内〈贔屓〉《びいき》じゃねえか」 「正当な能力評価の結果だとも。それに、裏を知った今となっては〈叛意〉《はんい》も残っていないだろう? 後は信じて託すとも。   奴が勝てば日本の支配下に置かれるはずだが、その国難にも対処できると信じている」  命の使用方法を彼は既に決めている。だからこそ次善を託すのに〈躊躇〉《ちゅうちょ》がなく、これがヴァルゼライドなりの友情の証というものだった。  必勝を誓っているが、失敗に対して無頓着であっていいはずなどない。  己が潰えた後も想定するのは指導者として当然の行動だ。  彼の精神、在り方を考慮した場合、これほど相手への信頼を示した言葉はないのだろうが。 「うるせえよ、勝手なことばかり言いやがって……ッ」  自らがいない世界を〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》と告げられて、しかしアルバートは目を伏せながら憤慨していた。  こいつは、なんてどうしようもない馬鹿なんだ。  結局彼は、一人で生きて、一人死ぬと宣言している。  欲しかった言葉はそうじゃない。適材適所? 知ったことか。  〈行〉《 、》〈く〉《 、》〈ぞ〉《 、》という、簡単な一言だけでよかったのに。  今まで交わしたどの言葉よりふざけるなと思ったからこそ、アルバートは〈睨〉《にら》みつけた。拳を固く握りしめる。  そうだ、自分はまだ何も成していない。こんなところで、なぜ終われるというのだろう。 「いいか、クリス──俺は必ずおまえを止めるぞ。その石頭をぶん殴って、完璧マニアの悪癖ごと根性叩き直してやる。  たった一人で背負うだとか、〈戯〉《たわ》けた寝言は二度と口にさせねえよ」  ゆえに、それが宣戦布告。理解も恭順もかなぐり捨てて、昔日のように本音を相手へ叩き付けた。  浴びせる怒気にヴァルゼライドは一切、その表情を鉄のように変えなかったが、しかし。 「──すまんな、親友。“勝つ”のは俺だ」  苦笑するかのように、一瞬だけ口角を〈僅〉《わず》かに上げた。  そしてすぐさま、〈外套〉《がいとう》を翻して〈踵〉《きびす》を返す。一瞬見えた横顔は既に普段の鉄面皮。 「連れて行け。残党や背後関係など、情報を吐き出すまで自死させぬよう配慮せよ……厳重にな」  扉を開けると同時、控えていた近衛兵へ通達しながら英雄は退室した。  入れ替わりに入って来た者たちの手で再び錠をかけられる間、アルバートは従順だったがそれはあくまで表層の顔に過ぎない。面を張りつけたような無表情の下では、激情が沸々と爆発しかねないほど煮え〈滾〉《たぎ》っている。  離反した五年前だとてこれほど怒りはしなかった。永遠に孤軍奮闘し続けることを正解など言わせない。  まして、その結果を英雄だの光だのと名付けさせることもまた……決してさせてはならないことだと今になって痛感できた。  これから先、ヴァルゼライドは勝ったとしてもやはりその後も一切変わらず、あらゆるもの勝手に背負って突き進むだろう。頼んですらいないのにだ。  他者の苦難を引き受ける救済装置、そんなものは人間じゃない。  そして、アルバートは今も彼を対等の親友だと思うからこそ、腹は決まった。やるしかない。 「舐めんじゃねえぞ、親友」  これ以上、友人を〈英雄〉《バケモノ》にさせるものか。傷ついても、弱くなっても、矛盾だらけの無様な姿になっても、彼を〈人間〉《ヒト》へと連れ戻す。  それが誰より長い時間を共に過ごした自分の役目であるのだと、彼は静かに強く誓った。  そして── 「さて、ここが恐らく勝負の要。  私もそろそろ命を賭ける頃合いですかね、ああやれやれ……」  高潔な意志の裏で俗欲にまみれた者も動き出す。  ヴァルゼライドやアルバートが目的へ向け飛翔する猛禽なら、彼はまさしく利に〈纏〉《まと》わりつく〈蝙蝠〉《こうもり》だ。鳥と獣のどっちつかず、厚顔ゆえに恥もなくランスローは機を〈伺〉《うかが》う。  英雄が携えた意志力など欠片も持たず、ふらふらと複数陣営の間を行き来するその浅薄さ。  それは確かに聖戦の内実、主要人物の純粋さと比較すれば〈唾棄〉《だき》すべき猥雑さといえるだろうが、しかしそれゆえの強みもあった。  信条なり誇りなり、己に課した誓約がほとんど存在しないため薄汚い手段であろうが遠慮なく行使できるという身軽さがある。  現世利益、何が悪い? 己を肥やすためならばランスローは〈逡巡〉《しゅんじゅん》しない。  帝国の力を削ぎ、〈聖教国〉《そこく》において己の地位と権力を〈盤石〉《ばんじゃく》にするためなら、彼は何でもするだろう。  そしてもし、帝国民としての方が甘い蜜を吸えるなら……その時はその時でどちらが得かを基準としながら〈粛々〉《しゅくしゅく》と行動するはず。  智謀に長けつつ無節操に。〈大和〉《カミ》への畏敬もないのだから、何もその手を止めるものなし。有効な手段だと感じたのならランスローは動き出す。  舞台に起きた変化の流れを、その嗅覚で嗅ぎつけていた。 「〈檻〉《おり》に入れられた先代〈深謀双児〉《ジェミニ》へ、密かに一報を入れてください。あなた達なら話も通しやすいでしょうし……   勘ですが、まだ心情的には降りていない気がするんですよ。ひとまず〈仕〉《 、》〈込〉《 、》〈み〉《 、》をしておきましょう。口説き方は任せます」 「了解しました」 「命令のままに」  反動勢力の壊滅に伴い、手元へ舞い戻った手駒に向けて指示を出す。  勝負と豪語したようにこの瞬間で動くことは、本来目を付けられれば命とりであったものの……それは奇跡か、あるいは狙いが当たったからか。  ランスローが取りうる選択肢の中で間違いなく最善として機能した。  間諜であり、セントラルに身を置いている彼が得られる情報は〈然程〉《さほど》多くない。立場上、現場に出張ることが不自然であるからだ。  よってヴェンデッタの完成という最重要事項を知らず、ゆえに魔星から〈睨〉《にら》まれることがなかった。  チトセと密かに〈接触〉《コンタクト》を取る、というのも居場所が掴めていないので除外。連鎖的にアスラ経由で真相を知るという事態も、偶然ながら回避している。  その上で、アルバートとの接触を優先したのはヴァルゼライドとの個人的な関係性を考慮しての選択だったが…… 「ではいざ、吉凶いかに出ますやら……我が御許に〈大和〉《カミ》のご加護があらんことを」  ランスローは本人すら意識しないまま、運命の網をすり抜ける。  低俗さ、真実を知らぬがゆえの〈無警戒〉《ノーマーク》が、ここに来て冗談のように噛み合いながら男の動きをそっと素通りさせていく。  シン・ランスローは〈星辰奏者〉《エスペラント》ではない。  戦闘力など持ってはいない。  もはや目と鼻の先に迫る聖戦の規模を思えば、吹けば飛ぶような命であるのは間違いなく──  それでも、異物は確かに混じり込んだ意味を成す。  運命の車輪に空いた小さな隙間へ、〈微〉《かす》かな〈埃〉《ほこり》が滑り落ちた瞬間だった。 〈倦怠〉《けんたい》感──いいや、襲い掛かるのは激痛の〈筵〉《むしろ》。 身体のあちこちを襲う針のような痛みによって、俺は自然と目を覚ました。 「あっ、ぅ…………」 「おはよう、目は覚めたかしら? 寝坊助さん」 隣には既に起きていたヴェンデッタが、俺を支えるように手を添えた。その助けを借りて上体をベッドからようやく離す。 昨日に身体を交わしたことや、求めたことに色々と聞きたいことはあったものの……全身を〈蝕〉《むしば》む違和感がそんな疑問を問わせない。 じくじくと、ぐずぐずと、切り裂かれた傷口から身を〈蝕〉《むしば》む光の〈焼鏝〉《やきごて》。それだけでも意識を削って来るというのに、ああちくしょう…… 〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「頭が、痛ぇ──」 イメージは破裂手前の水風船だ。ぶっ壊れた蛇口を後頭部から差し込まれ、限界一杯まで水を流して込まれているような圧迫感が、俺を痛めつける違和感だった。 こっちは傷などないのに痛い。しかも、変化はそれだけじゃなかった。 「……はは、しかもコレかよ」 力などこれっぽっちも込めてないのに、常態で粒子の流れまで見えるようになってやがる。 なるほどね、了解。〈ヴ〉《 、》〈ェ〉《 、》〈ン〉《 、》〈デ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈タ〉《 、》〈と〉《 、》〈繋〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈わ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》。 恐らく昨夜、〈行〉《 、》〈為〉《 、》に及んだのが最後のきっかけだったんだろう。それによりこいつ側と俺が近しくなった影響で、互いの境がどこまでも薄くなったのか。 ……なんとなくだがそう分かってしまう。頭もどうかしたのかねぇ。痛みに囚われながらも妙な爽快さがあり、変に知識が溜まっている、というか。 知らないことをもう知っているような感覚、まったく不思議だらけだよ。 「そうね、私とあなたは二人で一つ。これでついに〈完〉《 、》〈成〉《 、》したわ」 「もっとも、悲しいことにそれを歓迎するのは彼らだけ。運命の車輪を回す最後の欠片が出揃った、聖戦は恐らく成ってしまうでしょうね」 「……そうだな」 そりゃどういう、とか──心を読むなよ、とか。言ったり問いたりする前になぜか納得が心へ走る。 なぜか……いいや、自明の理か。〈繋〉《つな》がっているわけなのだから、ヴェンデッタの感情もまたよく分かるという訳だ。 そして当然、俺の考えも既に筒抜け。これもまた、〈繋〉《つな》がっているということを示している。 「あら、ご不満?」 「まさか、ここまで来ると便利で楽だわ」 なんせ、安易に言葉を発するだけで滅茶苦茶痛い。黙っていても読み取ってくれるなら、それに越したことはない。 いま俺は、破裂寸前で安定している。そのバランスを欠くことは出来れば避けたいことだった。 「……外には、三人か」 そして、苦も無く部屋の外にいる人数を言い当てる。視認したアストラルの波長と流れを感知して、物理的な壁を越え相手の抱える星そのものを捉えたのだった。 こんなことさえ〈容易〉《たやす》くなるとは……って。 「というか、おい……」 ヴェンデッタに手を借りながら、よろけつつも扉を開ける。そこには捕捉した通り、二人の人間と一人の〈魔〉《 、》〈星〉《 、》が存在していた。 「なんだ、起きたのかゼファー。とりあえず、腹上死してないようで結構だとも。ああ結構さ、この色情魔め」 「助けたはいいが、おまえの情事を聞かされたこっちとしてはたまらんぞというわけで。妬ましいというか、けしからんというか、巨乳好きではなかったのかと──まあ、ともあれ」 「寛大な私としてはそれを水に流してやろう。ゆえにまず聞け、いま我々が置かれている予断を許さぬ状況は──」 「──チトセ、〈そ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》からどこまで聞いた?」 口を開いた瞬間、〈喉〉《のど》が激しく痛むもののそれを無視して相手を見つめる。チトセはその指摘に思わず目を見開いて、若干の疑念を灯す。 なぜ知っているのかと言いたげだな、分かるかよ。そんなこと。 分からないのに──たった今、それが分かってしまうんだからさ。 「クロノス-No.η──〈色即絶空〉《ストレイド》。ジン・ヘイゼルの左腕を素体として誕生した異例の〈人造惑星〉《プラネテス》。星の詳細は衝撃操作」 「帝都担当区域は〈貧民窟〉《スラム》であり、反動勢力を始め、闇市などの非合法な流通をも監視するのが与えらえた役割とのこと、だっけか?」 「手を組んでも信用しない方がいいぞ。そいつは絶対、後々勝手に動き始めるだろうしな」 「おまえ……」 そんな目で見るなよと、珍しいチトセの驚き顔に対して思わず俺は苦笑する。 まあそうだわな。機械が紙を吐き出すようにスラスラと、こんなことが言える方がどうしようもなくおかしいわけで。その困惑は当然だよ。 苦笑いするその横で鷹揚な拍手が送られた。アスラは口笛を吹きながら、俺の変化を如実に察して楽しそうに笑っている。 「なるほどなるほど、こりゃ目出度い。完成したのかお二人さん! 運命もこれでついに動くだろうな、連中もまた喜ぶぜ」 「となれば、さっさと行った方がいい。ここは思い出が詰まってるんだろ?吹き飛ばしてでも手に入れようと来るはずだから、いっそ殴り込んでやれ」 「馬鹿言うな……とは、もう無理か」 「ミリィに怒られちゃうだろうし、いつか帰って来るのだから家のことは守りたいわね」 なんとも勝手な物言いだが、実際その通りなので俺たちは顔を見合わせ肩を〈竦〉《すく》めた。確かにもう、残る猶予はどこにもない。 奴らは必ず、俺とヴェンデッタの状態を知れば風のようにやってくるだろう。そうなれば小さ我が家は木端〈微塵〉《みじん》だ。そんなことはさせやしない。 言われた通り、ここにはたくさんの思い出がある。ミリィと過ごした五年間、そしてこいつが加わった……新しい三ヶ月が。 大切な、大切な、俺たちの愛した日常が…… 瓦礫に変えるわけのは御免なので、〈頷〉《うなず》き合ってそのまま退出しようとする。 運命の元凶、奴らの下まで──しかし。 「すみませんが御二方、少々お待ちを」 「何を言っているのか、おまえの身体にいったい何が起こったのか。明かしてから行くがいい」 「もしくは、私と──」 「いいや、一緒には行かねえよ」 続けようとしたその言葉を、きっぱりと否定する。 嫌いなわけでも、勝利の公算うんぬんでもない。ここから先は俺たちが決着を付けなければならない領分。 おまえは決して連れて行けない──ここから先は敗者の物語なのだから、光り輝く高嶺の花は付き合ったりしちゃいけないのさ。 「悪かったな、チトセ。俺みたいな馬鹿がおまえを散々振り回してさ」 「言えた義理じゃねえけど、これからも胸を張って生きてくれ。俺が憧れたぶっちぎりで格好いい女としてさ」 おまえにはおまえにしか出来ないことがあり、そして逆もまた然り。これは負け犬にしか出来ないこと。 じゃあな、チトセ。俺の〈憧れ〉《トラウマ》。生まれ変わったら今度はそんな風に真っ直ぐ生きられる形がいいと願っているよ。 「待て、この馬鹿者──、ッ!?」 そして──隣をすり抜ける瞬間、とても〈静謐〉《せいひつ》にここ一帯の〈星辰体〉《アストラル》を〈取〉《 、》〈り〉《 、》〈払〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 ヴェンデッタと手を〈繋〉《つな》いではいるものの星は起動していない。ただただ呼吸するように、ふっと息を吹きかけるような容易さで俺は〈星屑〉《ほしくず》たる素粒子へと干渉する。 体内にまで訴えたその魔手は、〈星辰光〉《アステリズム》どころか〈星辰奏者〉《エスペラント》の体内にある粒子さえ掴み取りその身体を麻痺させたのだ。 抗えるのは、せいぜい〈神星鉄〉《オリハルコン》の骨格を携えた魔星だけ。 チトセが人類最良の〈星辰奏者〉《エスペラント》であったとしても、この縛りは突破できない。サヤ共々驚愕しつつその場で膝をついている。 「こんな、ありえません……星光そのものがッ」 「〈星辰体〉《アストラル》へ常態で干渉するだと? そのようなこと、人間業では──」 はっと、そこで一度俺を見て。 「まさか……おまえ、もうとっくに」 ……本当に勘が鋭いなと苦笑して、そのまま俺は扉を開けた。 そして同時──異常な域で星の力を起動する。 噴出する粒子は、恐らく一般人さえ蒸気のように見えるほど濃密だろう。ヴェンデッタはともかく、こんなものを人間が用いてただで済むはずがない。 だから紛れもなく、これが最後。 恐らく今日できっと自分は壊れてしまうと確信したから……さあ。 「行くぞ」 逆襲の女神を横抱きに抱えたまま、帝都を一気に走り出す。 恐るべき速度により目指す場所はセントラル。奴らを擁する居城へ向けて疾風のように駆けていく。 痛みで頭も麻痺しているせいか、流れていく景色がとても幻想的に見えた。 何度も見たことある風景の〈筈〉《はず》がとても新鮮で、同時に何故か懐かしく、何か温かい気分が胸に満ちてくる。 それは、速度によって切り離された別世界。抱き締めたヴェンデッタと俺だけが存在する、二人だけの世界だった。 「おっ、見ろよ……あそこ新しくパン屋始めたんだぜ。評判いいし、結構繁盛してるじゃん」 「あら、知らなかったの? 私はあそこ、ミリィと一緒に行ったわよ。焼きたてのクロワッサンがとてもサクサクで美味しかったわ」 「んなっ、マジかよ。つうか誘えよ、どうしてなんだよ。仲間外れにしてんじゃねえよ。泣くぞこら」 「だってあなた、その時は珍しく仕事だったもの。確か……ルシードの付き添いで会食の護衛だったでしょう?」 「美味しいものを食べてくる、どうだ見たかこの野郎、って私に自慢してたじゃない。だからミリィが、こっそり連れて行ってくれたのよ」 「本当に優しいわね、あの子は。誰かさんと違って」 「あー……まぁ、そりゃすまん」 「ただその代わり、ほれ、そこの通りにあるパスタ屋には連れて行ったはずだよな? な?」 「確か、新装開店の時だっけか、うん。ちょうど人づてに聞いて、いい機会だとおまえのことも──」 「アルバートのところより安かったから、適当に飛びついたのよね。味はもちろん、値段相応だったけど」 「そして、帰ってきたら〈自棄酒〉《やけざけ》ね。そして馴染みの二日酔い。学習しないとはこのことだわ」 「……なんか、これまたその、すまん」 ダメダメすぎてぐうの音も出ないな、おい。改めて客観的に素行を聞くと酷過ぎないか、俺? そういや日がな一日そんなので、こいつにも情けないところ多く見せてきたっけか。その度に呆れられ、駄犬と呼ばれ、ミリィに〈窘〉《なだ》められたりしつつ……けれどそれでもまた馬鹿やって。 毎日毎日そんな風に、あぁ…… 「ふふっ」 「ははっ」 思い返して、その暖かさに見つめ合って思わず笑った。本当に、なんとも自由に生きてきたよと、おかしくなる。 「あーぁ、だっさい思い出だらけでやんの」 「けれど、とても素敵な思い出よ」 「私とゼファーと、そしてミリィ……家族三人の、大切な記憶たち」 「ああ、そうだな。悪くなかった」 思い返すだけで、涙さえ流れそうだ。そう、こんなにも優しい時間が俺たちにはあったのだ。 それは家族だけじゃない。ルシード、イヴ、ジン爺さんにおっちゃんや、毒舌双子ウェイトレスも…… この街で過ごした記憶をたどる度に胸へ満ちるのは喜びしかない。救われていた、幸福だった、俺たちは確かに分かり合えていた。 最初に拒絶があったとしても、相手のことを大切だと思えるようになったこと。それを素晴らしいと思えたから、ここに感謝を伝えよう。 「おまえに会えて、良かったよ」 「嬉しいわ。同じ気持ちよ、ゼファー」 心の底から、互いに互いを必要とする。 だからもう一度、会えて良かった──ありがとう。 たとえ過酷な運命がおまけで付いて来たとしても、それをチャラにしてしまうほど大きな救いを貰ったような気がしたんだ。 「いたぞ、奴だ──!」 「総員、取り囲めッ。確保せよ!」 ──そして、既に通達があったのだろう。程なく気づかれた兵たちをごぼう抜きして飛び越えた。 そのまま屋上を足場に変えて跳躍、空を跳ねるようにセントラルの外壁へとひたすら一気に加速していく。高速で駆ける俺の身体は、もはやどんな兵の捕捉も振り切って〈星辰奏者〉《エスペラント》も追いつけない。 助走による加速、加速、加速、加速── 迫り来る壁に対し、いざ。 一息に飛び越えた瞬間、待ち構えていた百を超える帝国兵に囲まれた。 油断なくそれらが銃を向ける中、やがて静かにその人波がモーセのように真っ二つへ分かれ始める。 出てきた人物は予想通りにして、狙い通りのもの。 鷹のような眼光と視線が合う。震えが走り、刻まれた傷が痛むが、堪えられないほどじゃない。抗えないというほどでもない。 ヴェンデッタを抱きしめながらその温もりを支えとしつつ、強い意志を宿して〈睨〉《にら》む。俺の覚悟を察したのか、奴は静かに問いかけてきた。 「──用向きを聞こうか、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。死地と知りつつ何故ここへ?」 何故? 理由なんて、決まっている。 「運命を、そして──真実を知るために」 負け犬の意地を果たすため来たのだと、俺は静かに告げたのだった。 運命の車輪が回るその音を、確かに耳へ聞きながら…… そして── セントラル内部、その深淵へと続く通路を俺たちは進んでいく。 英雄に〈表〉《 、》〈向〉《 、》〈き〉《 、》は拘束されたという筋書きで、奴を案内人として真実への一方通行へついに足を踏み入れたのだ。 暗闇は深い。無明に包まれている。それは光が射さないというだけではなく、この空間そのものが滅びの気配を多分に含んでいるからだろう。 端的に述べるならここは既に〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。高度に発展した文明の残骸はどれだけ優れていたとしても、強く過去を連想させる。栄光の抜け殻を踏みしめて歩む実感は、栄枯盛衰の〈儚〉《はかな》さを強烈に印象付けてきた。 更に今、秒単位で死に近づく己の身体を〈鑑〉《かんが》みれば…… まさに〈黄泉平坂〉《よもつひらさか》、ここは冥府へ〈降〉《くだ》る死想の道か。英雄という〈眩〉《まばゆ》い光に先導されて、小さな死女と手を〈繋〉《つな》ぎ地獄の底へと進んでいる。 視界を侵食するアストラルの奔流。それはもはや、俺にとって生の息吹などではなく、〈積尸気〉《せきしき》の燐光に他ならない。 感じるのは、それら〈星屑〉《ほしくず》の力を放つ発生源がこの先に鎮座しているということ。今まで〈邂逅〉《かいこう》した魔星すら軽く凌駕する怪物が、この先で待っているのを予感した。 ……そして、ついに。 「行くがいい、後はおまえ達次第だ」 開けた空間に入った〈途端〉《とたん》、一変する〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈観〉《 、》。 感じる、〈星辰体〉《アストラル》との膨大な感応深度を。この部屋に存在する機械類そのすべてが、オリハルコンで建造されている途方もない事実を悟り…… 「──やあ、ようやく会えたな〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 「その選択を我々は歓迎しよう。聖戦は達成される。ああ、待っていたのだよこの時を」 旧暦最大にして最悪の遺産と、俺たちはついに〈邂逅〉《かいこう》を果たした。 それは、半壊した男性型の影……半身を根こそぎ喪失したその姿は触れれば崩れてしまうほどひたすら〈儚〉《はかな》く、一見〈脆〉《もろ》く映るだろう。 巨大な〈硝子〉《ガラス》瓶に頼らなければ生きいけない瀕死の様から、脅威性は〈伺〉《うかが》えない。傍で〈佇〉《たたず》むヴァルゼライドと比較すれば、どう見ても劣っていると言わざるを得ず…… しかしその印象も視線が交差した〈途端〉《とたん》、霞のように消え去った。瞳の奥で〈煌〉《きら》めく野望にすかさず悟る──これは明らかに魔星の頂点、英雄と比肩する同種の異形であるのだと。 覇気が違う。意気が違う。目標に対して飛翔する精神の激しい鼓動が、今にも聞こえてくるようだった。 ……その本質は、鋼の英雄とまったく同じなのだろう。こいつもまた属性はあくまで“光”、突き抜けた輝きゆえに他を圧倒する怪物なのだ。 そんな相手の姿を見るたび、意識を〈掻〉《か》き乱す頭痛は過去最高に膨れ上がっていく。ヴェンデッタを経由して否応なく進行する身体の変調、改革、まともに立っていられない。 〈同調〉《リンク》、〈同調〉《ブースト》、〈同調〉《オーバー》、〈同調〉《ブレイク》──眼前の存在がきっかけとなり俺という矮小な器は更にその存在を圧迫される。 「安心なさい、この手は決して離さないから……」 けれど、この優しい温もり……力のこもった指先が自壊寸前の意識を〈繋〉《つな》ぐ。私はここにいるのだと。 感謝の代わりに〈頷〉《うなず》いてその手を俺も握り返した。信じているとも、この土壇場で疑いなんてあるはずない。 意志を強く持ち、相手の眼差しを正面から見返す。 さあ、意志を強く持て──これが俺にとって最後の戦いとなるのだから。 「待っていた、か。俺はあんたに、必要とされたくなんてなかったよ……」 「そうだろ、〈迦具土神〉《カグツチ》壱型。おまえら二人の死闘なんて勝手にやってりゃよかったんだよ」 吐き捨てたのは、頭に浮かび上がった相手の名前。流れ込んでくる知識を〈威嚇〉《いかく》代わりに叩き付ける。 眷星神、原初の魔星、日本製の人造兵器、〈星辰奏者〉《エスペラント》に通じる技術はこれを〈太源〉《モデル》に開発された──あらゆる情報が脳の中を爆走して、思わず眉間に〈皺〉《しわ》を刻んだ。痛くて痛くて堪らない。 その様を、こいつは興味深そうに〈睥睨〉《へいげい》しながら含み笑った。俺の拙い虚勢など芯まで見通し意に介さず、熱を〈孕〉《はら》んだ視線で射抜く。 「なるほど、〈星辰体〉《アストラル》のみならず記憶の流入まで生じているか。確かにこれは想定外だ」 「宿敵が慎重論を選んだのもよく分かるというものだよ。なあ英雄、我らはどこまで間抜けかな。理論も理屈も総じて〈躱〉《かわ》され、今もそれが見えてはおらん……散々たる有様だ」 「恐らくこういう類の事象を〈愛〉《 、》〈の〉《 、》〈奇〉《 、》〈跡〉《 、》と呼ぶのだろう? おまえ以外の人類も、中々これは、侮りがたいな」 「帝国支配を行う際には常に頭へ留めておこうか」 「ぬかせ、そんな機会が来ると思うな。貴様の未来は確定している」 「そちらこそと言っておこう。いやはや、おまえの〈啖呵〉《たんか》もいずれ懐かしくなるかと思えば……忍びない」 くつくつと、魔星は笑み──〈粛々〉《しゅくしゅく》と、英雄は揶揄を切り捨てた。 そのやり取りは傍から見れば奇妙の一言に尽きるだろう。言葉と共に透徹な殺意を向け合いながら、しかし確かな相互理解も〈垣間〉《かいま》見える。 敵でありつつ以心伝心……そのおかしさをヴェンデッタも感じてたせいか、呆れたように嘆息していた。 「仲がいいわね、お二人さん。ねじ伏せるべき相手に対して友誼や情を浴びせているの? それはそれは奇特なことね」 「まさか」 共に同じく鼻で笑い、そして同時に噴出したのは──烈火の如き闘志の奔流。 「俺は勝つ。必ずこいつを斬滅する。我が身に替えても成し遂げよう」 「滅却するさ。天津の光で討つのみよ。我らは等しく〈不倶戴天〉《ふぐたいてん》の〈宿敵〉《てき》なのだから、髪の毛一本この世に残すつもりはない」 「しかし、ならばこそ認めているのは真実だ。こいつは並の〈英雄〉《かいぶつ》ではなく、それゆえ己はヴァルゼライドを代行者とした──すべては悲願成就のために」 共に不退転。共に宿敵。利用し合い、協力しつつ、されど最後は〈灰燼〉《はいじん》と化すためならば文字通り何でもすると語る二人は、紛うことなき同種だった。 突き進むという前進に懸けた想いにおいて、彼らは非常に似通っている。ならばこそいがみ合い、同時に深くその情熱を理解し合うというのだろうか。 似た者同士は反応が両極端に分かれるというが、これはまさにその両立だ。 目的を一致させながら滅殺を心から誓っているその矛盾……余人には理解できない関係性に、俺は〈眩暈〉《めまい》がしそうだった。 ──こいつらは〈頭〉《 、》〈が〉《 、》〈お〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。 物語の登場人物みたいに、突き抜けすぎて、破綻している。 「分かってくれたかな? 我々が未来に懸ける、想いの多寡が」 「よって感謝しているのだよ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。無能な我らが何も出来ずにいたことをおまえは実現してくれた。大義であるという他ない」 「〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の目を覚まし、完成させ、ここまで連れて来てくれたこと。その運命に感動さえ覚えているよ」 「すべては、そう──」 「〈第二太陽〉《アマテラス》こと、特異点と化した日本の復活…そのために」 「そんな馬鹿げたことのために、どうでもいい理想のために、おまえ達はヴェンデッタを造ったんだろう?」 そしてすべてを巻き込んだ。俺に、ミリィに、チトセに、他にも──あらゆる者へと消えない傷を刻む込むきっかけとして。 実行者はそれぞれ違っていたし、俺自身の過ちが大きく作用しているものも当然多い。だがしかし、演者がこちらであったとしても舞台そのものを作ったのは紛れもなくこいつらだった。 自分の罪は知っている。苦しむことも自業自得だ。そこには覚悟も出来たから償う意志も持っている──極論、〈俺〉《ゼファー》は死んでいい。 けれど、それでも……〈屑〉《くず》でなければ塵でもなかった俺以外の連中は、どうしてこいつらの運命に翻弄されねばならなかった? 奴らの掲げる目論見、野望の最終到達地点を知った今でも許せないのはその点だ。 壮大ならば命を賭ける価値があると? 大のために小を切るという、その利口さを容認しろ? まっぴら御免だ。 弱者である俺だけは、そんな〈英雄〉《ヒカリ》の選択なんて認めないと決めているんだ。 「吐いてみろよ、御大層な運命とやらを。その上で心の底から馬鹿にしてやる」 頭の中へ雪崩れ込む知識の〈波濤〉《はとう》、その影響により事の大よそは知っていたが……それでもこれは、元凶の口からこそ語らなければならないことだ。 大言壮語を語るならその責任と過程も背負いやがれ。 突きつけた宣告に対して、カグツチは薄く笑みを浮かべながら己が所業を明かし始めた。 「第五次世界大戦末期、全世界に対して覇権を唱えようとした日本軍の一派は当時の最先端技術を用いることで、新型の決戦兵器を製造しようと画策した。〈日緋色金〉《ヒヒイロカネ》……いや、オリハルコンを材質に用いることでな」 「膨大な〈星辰体〉《アストラル》と単独で感応し、次元間相転移エネルギーを抽出可能な人造体を生み出そうとしたのだよ。無論、極秘であったがね。何より世論が許さない」 「軍事目的での生命体創造は二十四世紀半ばから既に法的、倫理的に厳しく規制されていたからな。だがしかし、戦争とはその規模に比例して人から理性を剥奪していく代物だ。軍人であったおまえなら十分理解できるだろう?」 「勝てば官軍、負ければ賊軍、勝利の魔力に憑りつかれたなら後は語るに及ばない」 「試行錯誤の果て、ついに己は誕生したが……そこから先が実に〈滑稽〉《こっけい》な〈顛末〉《てんまつ》でな。時同じく、世界のすべてが吹き飛んだのだよ」 「〈大破壊〉《カタストロフ》の発生か……」 〈情報流入〉《ダウンロード》── 完了、理解も出来た。すなわちそれは、地球全土を巻き込んだ極大規模の次元震災。原因は、アストラル式の次元エネルギー式核融合炉に搭載された制御装置の破壊工作によるものだ。 米合衆国、並びに大中華連合の息がかかった工作員が炉心に細工をしたらしい。その結果、試作型の核融合炉は激しく暴走。 しかも停止や爆発ならいざ知らず……事態は予想外の方向へと発展した。 「少し考えれば予測出来たはずであろうに。高位次元へ干渉しているのだぞ? そこを突けばどうなるか……」 「結末だけを述べるなら、炉心の発する熱量はすべてが〈次元間断層〉《かなた》へ流れ込んだ」 「向こう側の〈理〉《ことわり》が如何なるものか、未だ解明できてはいないものの、当然〈ま〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》に済むはずがない」 「爆発的に続く連鎖反応。理解不能な異界情報の炸裂。それは細菌のように増殖を繰り返し、そして程なく地球上の三次元空間を残らず大震させたのだ」 「空間は〈出鱈目〉《でたらめ》に〈掻〉《か》き混ぜられ、〈星辰体〉《アストラル》は地表を覆い、日本全土は特異点へと変貌した。遺された文明の構造物はその大半が転移、融合、分解により原型を失いながら〈歪〉《いびつ》に各地へ散らばっていく」 「旧暦の終焉、〈大破壊〉《カタストロフ》──新西暦の誕生だ」 その時生じた混乱はまさに想像を絶するだろう。人類が初めて直面する未曽有の危機というやつだ。 物理法則そのものがアストラルの影響で変わり、半導体は全滅。空気抵抗の増大に航空機類も淘汰されたとあれば……これで世が荒れないはずもない。 読み取った情報の記録からも〈大破壊〉《カタストロフ》の直後がどれだけ荒廃していたが分かる。人心を失った難民による略奪と〈鏖殺〉《おうさつ》の宴、今の時代が天国に見えるほど世界は地獄に近しかった。 ありのままに残ったものなど何もない。だというのに──クソッ。 「最悪だ。爆心地にいたんだから、そのまま死んでりゃ良かったのによ」 日本と運命を共にしていれば良かったものを……世界崩壊の最中で運を味方につけたのか、カグツチは生き残った。 恐らく次元震災が起こったまさに瞬間、この地に流れてきたのだろう。それが瀬戸際で明暗を分けた。 「施設ごと西欧圏まで〈転移〉《とば》されたのは不幸中の幸いだったな。機能不全に陥った展開を差し引いても奇跡と呼ぶべき確率だろう」 「そして人間ならばいざ知らず己の意志は劣化しない。誕生した〈第二太陽〉《アマテラス》こそ故郷であると見抜けたならば、やるべきことはただ一つ。〈大和〉《あるじ》を地表へ呼ばねばならん」 「全世界を日本国の支配下へ置くために、己は生み出されたのだから」 機械は目的を違えない、存在意義に対してはこの世の何より純粋だ。 創造主の願いを叶えるために回る歯車。跡形もなく砕け散ってしまわぬ限り、奴は決して諦めない。どれほど精巧であったとしてもその縛りは絶対である。 そして人外であるゆえに、半壊した状態でもカグツチは不眠不休で進み続けた。時間、情報、さらに施設、条件は揃っている。 「後はありきたりな機械の仕事だ。黙々と人工頭脳で〈仮想演算〉《シミュレーション》を重ね続けて策を練り、理論を固めて機を待った」 「そして最後の一欠片……〈協力者〉《ヴァルゼライド》と結託し、〈現在〉《いま》に続くというわけだな。それが今から約十年前」 〈星辰奏者〉《エスペラント》──強化兵という新たな兵種の誕生により改革派が急速に力をつけ始めた時期と、それはほとんど一致している。 魔星から英雄へ、英雄から帝国軍へという経路でアストラルの人体適用技術は表側に流れたらしい。 「契約への対価ってわけだ……それなら、逆におまえが求めたものは?」 「素体だよ、〈人造惑星〉《プラネテス》を生み出すためのな。旧暦の技術で我が眷属を造るためには、どうしても人の〈骸〉《からだ》が必要だった」 「〈星辰奏者〉《エスペラント》のように適性のある者へ強化措置を施すだけでは到底足りん。該当者の死後、遺体を基に構成されたオリハルコンで骨格を形成、〈芯〉《 、》を成す。そこから更に、皮膚や肉を付けるのだよ」 「その際、目的と用途に従い大幅に原型へと手を加えた個体もある。そう、おまえにとっても因縁深い〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈二〉《 、》〈体〉《 、》さ」 戦闘用に調整された災禍の個体、つまりマルスとウラヌスか。 「だが元々、〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈み〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈り〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 「なぜなら、我らが運命を交わし合ったその直後……〈然程〉《さほど》の時を置かずして求めた素体が現れたのだ」 「まさに〈僥倖〉《ぎょうこう》、経過も実に順調だった。〈月天女〉《アルテミス》はめでたく完成。さあ、聖戦を発動しようと──意気込んだその矢先」 「決定的に歯車が狂ったのはそこからだったな。そうだろう、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》」 「ええ、私は夢見る眠り姫。あなた達は好みじゃないの」 軽蔑すると言わんばかりの眼光は、ナイフのように冷たく鋭い。その態度から分かることは簡単だ。俺以上に、ヴェンデッタはこいつらを心の底から嫌っている。 それは先ほどの話を〈鑑〉《かんが》みれば無理からぬことだろう。元は人間でありながら勝手な野望で素体にされたというのなら、怒る理由には十分だが…… 他にも何か、〈睨〉《にら》みつける別の理由があるような……? 対峙する月と太陽──その内面は、まだ読み取れない。 「万全であり、完璧だった。理論に不備は一切なく──今も真実は掴めぬまま」 「おまえがどうして目覚めたのか、ついぞ我らは解せずにいる。なぜ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》との接触が鍵であったか、そこについても含めてな」 「果たして何が悪かったのか、完成したのにどういうことだと、まったく理解ができぬまま時間だけが過ぎていった。共に首を捻りながら、しかしこのまま足を止めるわけにもいかず」 「兎にも角にも、動き出すと決めてからは早かったな。我々は不測の事態に対し、〈比較対象〉《サンプル》の少なさから解決しようと試みた」 「〈死想恋歌〉《β》の誕生以降、眷星神の創造を続けたのはつまるところそういうことだ」 「実験し、検証し、解明し、改善し、そして再び実験する……それが科学の基本的な〈実験手順〉《サイクル》である。〈月天女〉《アルテミス》という一例だけでは求めた結果へ漕ぎつけない」 「少なくとも、当時の我らはそう考えた。ああ無論、おまえ達〈星辰奏者〉《エスペラント》の臨床〈結果〉《データ》も参考にさせてもらったぞ。数は多くて何も困らん。面白い副産物もそれで幾つか創造できたよ」 「〈色即絶空〉《ストレイド》などがまさにそれだな。奴は一種の異端児だ。人体の一部のみを素体として、被験者の若年時を基準としながら生み落とされた経緯を持つ」 「そんなものを狙って造り出せた以上、研究分野全体も幾らか進歩したはずなのだが……」 「本命だけは、ずっと足踏みするだけか」 「その通り。おまえの〈星辰光〉《アステリズム》もまた、入力しているはずだというのに」 俺のみならず、軍内で生まれた〈星辰奏者〉《エスペラント》は一人残らず臨床結果を利用されていたのだろう。すべてはヴェンデッタ覚醒のために。 そして、だからこそカグツチらの困惑もよく分かった。確かにそれは理解不能だ。少なくとも今までの状況を考えれば、俺自身の特性を用いた限り反応くらいはあってもいい。 直接出会うということが原因の一つであっても、まだ他にいったい何が? ともかく──ああ、今はそれよりもだ。 「そしてあんたは、敵を増やすと分かっていながら、魔星を造り続けたんだな……総統閣下」 「そうだ。聖戦が発動するまで、連中の指揮権を手にするという盟のもと」 「マルスとウラヌス、大虐殺の〈顛末〉《てんまつ》も……?」 「俺の不徳だ、受け止めよう。言い訳など既に吐ける資格もない」 だから? なんだというのだろうか、この英雄は。鉄のように揺るがぬ顔で堂々といったい何を……ッ。 つまりアレだろう? ちょっとしたマッチポンプをしかけるはずが、予定より大きくなったと言いたいわけだ。 ああすまない、反省している、犠牲は背負うさ、次に生かす── 俺は決して諦めないと、未来を真っ直ぐ見つめながらの馬鹿げた宣言。そんな事をどうして口に出来るんだよ。 崩壊寸前の身体が怒りのあまり熱くなる。視線には殺意が宿り、自然とヴァルゼライドの姿を射抜くように尖り始めて止まらない。 「はは、まったくこの背負いたがりめ。どれもこぞって自分のせいとは少々自虐が過ぎるだろうに」 「そう責めてやるなよ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》、あれは奴らの〈お〉《 、》〈ふ〉《 、》〈ざ〉《 、》〈け〉《 、》こそが原因だ。恨むべきは連中の稚気であり、そいつは火消しに回った側だよ」 「とはいえ、それでも試験評価を兼ねていたのは本当だがね」 「手綱一つ握れなかった男だ。所詮、俺などその程度ということだろう」 許しは請わず、憎悪も矛盾も受け止めるというヴァルゼライド。それを指して真面目な奴だと笑うカグツチ。気が変になりそうなほど、互いに平素のままだった。 その精神強度は何なのか。無感な訳ではないというのに、大虐殺の遺族すべてに糾弾されても傷一つ付かないだろう意志力は、いったいどこから来ているのか──分からない。 ただ、ひたすらに〈気〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈が〉《 、》〈悪〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。極限まで鍛えられた鋼の感情、それに対して俺は問う。 「罪を犯しても、止まるつもりはないって?」 「──無論。踏み〈躙〉《にじ》ってしまった者へ報いるためにも」 英雄は彼らの犠牲を裏切らない──〈血と屍〉《なみだ》を〈栄光〉《えがお》へ変えるために。 「千年前の、〈黴〉《かび》臭い命令がそれほどまでに大切か?」 「──当然。次元の果てから〈大和〉《カミ》を救う」 〈煌〉《きら》めく星は永久不変──天を巡り、星座を描き、万年経とうと〈執着〉《ちかい》を燃やす。 「そうまでして、がむしゃらに突っ走って……何が欲しいというんだよ?顔も知らない誰かのために、予測もつかない未来のためにと、そればかり」 「押し付けてきた痛みを、傷を、過去を、嘆きを、いったいどうやって埋めるつもりでいるんだよ……ッ」 問いかけに、彼らは再び間髪入れず…… 「無論、“勝利”をもって──」 「我らではなく、愛するものへと捧げたい」 〈逡巡〉《しゅんじゅん》無し──告げた言葉は光のようにひたすら雄々しく、二の句を許さぬものだった。 ゆえに悟る。この二人は真実、自己の幸福など欠片も追い求めてはいない。いいや恐らく頭の中にそれらの欲が像を紡ぎもしないのだろう。 それは一切の不純を排した恐るべき高潔さだ。目玉が焼かれる、皮膚が燃える、〈眩〉《まぶ》しすぎる輝きに……しかし対する俺の心は乾燥していくようだった。 なぜならこいつら、〈敗〉《 、》〈者〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈み〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》だから。当たり前に突き進むだけが、あらゆる者を蹴散らしながら〈蹂躙〉《じゅうりん》する大進撃へと変わってしまう。 たった一つ、至高の勝利を得るために……百の、千の、万の、億の、〈理〉《 、》〈想〉《 、》〈に〉《 、》〈比〉《 、》〈す〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈取〉《 、》〈る〉《 、》〈に〉《 、》〈足〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈無〉《 、》〈数〉《 、》〈の〉《 、》〈敗〉《 、》〈北〉《 、》を量産する悲劇喜劇の製造装置。 まさに、物語の英雄が如く── 覚醒も、勝利も、すべての〈英雄譚〉《ドラマ》は彼らのためだけにある。勝利に対する反作用、意図しなくとも強すぎるからそうなってしまう。 〈英雄〉《バケモノ》め、〈主役〉《バケモノ》共め──ああ、とても見てはいられない。 「……こういうことよ、ゼファー。私の心が分かったでしょう?」 ああ、理解できたさ。そして心から感謝しよう……おまえは正しかったよヴェンデッタ。 こんな奴らの呼びかけでよく目覚めずにいてくれた。他の誰が何と言っても、俺はそれを英断だと信じられる。 「おまえ達は、〈駄〉《 、》〈目〉《 、》だ」 間違っているわけではない。邪悪なわけでもない。 けれど、〈駄〉《 、》〈目〉《 、》だ──この世のすべてがおまえ達二人の舞台に変わってしまう。 俺はみっともなく踏み潰された敗北者として、それだけは認められない。負けたから、逃げたからこそ、手に入るものもあるんだよ。 傷を癒そうとする優しさや、身を寄せ合って分け合う温もり……それが英雄以外の者にはとても大切だと分かっている。 死に方は決まった──おまえ達だけは、必ず地獄へ道連れにしてやる。 「……最後だ。〈執拗〉《しつよう》にヴェンデッタを求めたわけは?」 「〈星辰体〉《アストラル》への直接干渉を目的とした〈人造惑星〉《プラネテス》、それが〈第二太陽〉《アマテラス》降誕に必要不可欠な要素だからに他ならん」 「本来、〈星辰体〉《アストラル》とは廃棄物に等しいものでな。次元の隙間に渦巻く力が三次元上に流出した〈途端〉《とたん》、その性質を変異させながら瞬く間に粒子化するのだ」 「こうなった後でも利用法はあるものの、本質はやはり〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈根〉《 、》〈底〉《 、》……次元間から抽出できる無尽蔵のエネルギーにある」 「もはや文献には残っていないが、これを求めた結果として大戦勃発に〈繋〉《つな》がったのだよ」 そして、その集大成が炸裂した結果、西暦自体が幕を閉じる羽目になり…… 地球全土を巻き込んだ恐るべき次元震災が発生。そのせいで、日本という国が特異点化したというのなら…… 導き出される答えは、馬鹿げているがそれこそ一つしかないだろう。 「──アストラルを極限まで感応させて、〈制〉《 、》〈御〉《 、》された〈大破壊〉《カタストロフ》を起こすつもりか」 「ご名答。空間へと訴えるなら、それ以外に手はあるまい。〈第二太陽〉《アマテラス》のみを極小の次元震動により狙い撃つ」 「この〈帝国政府中央棟〉《セントラル》と同じだよ。次元の揺れを前にすれば距離、質量は関係ない。彼らを再び地球へ〈誘〉《いざな》い、そして〈三次元〉《こちら》へ呼び戻そう」 「そのためなら、世界をもう一度ぶっ壊しても構わないって?」 「勘違いをするな、〈大破壊〉《カタストロフ》ほどの規模は必要ないのだ。おまえ自身、〈制〉《 、》〈御〉《 、》すると言ったろう?」 「〈星辰体〉《アストラル》を支配、掌握して指向性を与えればいい。そのための〈死想恋歌〉《エウリュディケ》だ。無作為に放たれた以前とは規模も違えば性質も違う」 「安全に管理された破壊現象は、その時点で兵器と呼ぶのだからな」 台風、雷、地震など……それらを人の手で起こせるようになったなら、それはもはや手段になるのとまったく同じ。〈大破壊〉《カタストロフ》にしてもそうだと奴は語った。 そして、その中核こそヴェンデッタ。なるほどな、こいつらが目の色変えるわけだよまったく…… その常軌を逸した計画を止めろなどとは、もう言わない。言っても意味のないことだから、静かに心へ刃を結ぶ。 得物をゆっくりと構えながら化物共の姿を見据えた。 ヴァルゼライドにカグツチ、どちらも戦意を〈纏〉《まと》っていないが俺の心に油断はなかった。連中にとっては雑魚が何を粋がっているというところか、こちらの様子を観察しつつもそこに緊張は見られない。 それどころか、魔星は小さく口端を歪ませる。 「では、そちらの質問も終わったろう──ゆえに今度はこちらから」 「先ほど恥を明かしたように、我らも知らぬことが残っているのだ。ただ一つでいい、答えてくれよ花婿殿」 もしかしたら、恐らくはという不思議な期待を籠めながら……そして。 「──“マイナ”という名に、何か聞き覚えはあるだろうか?」 ──過去最大の爆弾を、奴は何気なく投下した。 マイナ? マイナと? その響きは、知っているさ。ああだって── だって、それは── 「マイナ── 姉、ちゃん?」 たった一人、血の〈繋〉《つな》がった姉弟の名前であり…… それが何故、どうしてこいつの口から出ると…… 〈考えて〉《考えるな》、〈考えて〉《考えるな》、〈考えて〉《考えるな》、〈考えて〉《考えるな》…… それしかないと、真実に気づいてしまう。 「────まさか」 ……銀の映える冥府の死女を、視界に映した。 ゆえに終わりだ、もう逃げられない──〈絶望〉《しんじつ》の底へと向かい、声を張り上げ墜ちて逝く。 「がッ、ァァアぐぅ……あ、──」 刹那、頭蓋を内から貫いたのは喩えられない激痛の渦。心を残らず押し潰す、暴力的な情報の大爆発だ。 視神経が切れては〈繋〉《つな》がり、自分自身の記憶までひっくり返してあらゆる景色を投射した。 見える、視える、〈怒涛〉《どとう》となって積み重なる数多の過去が……俺がもうとっくに忘れてしまったものまで含めて、すべてが一気に氾濫する。〈現在〉《いま》が上書きされては消され、次から次へと痛めつける。 同時に、意識を破壊し尽くすのはあまりに巨大な後悔の念だった。ごめんなさい、ごめんなさい──俺はあなたに謝らなければいけないからッ。 「てめえら、あの人に──俺の家族に何しやがったァァッ」 狂いつつある世界の中で〈睥睨〉《へいげい》する焔と眼が合う。痛みと苦痛と嘆きの波が、理解と共に恒星へ向け噴出した。 「ほう、やはり血縁か。ならば尚のこと解せんなこれは。同調など双子ですら起こりえない現象なのだぞ?」 「そして何をと尋ねられても……済まんがその辺り、どうも自信がないのでな。果たして我々は彼女を他と同じように製造できたか、今となっては疑問だよ」 「その様子だと、おまえにも心当たりはないらしい。やれやれまったく……」 真相は闇の中かと、肩を〈竦〉《すく》めて嘆息するようなその仕草を前にして……頭の中で何かが砕けた。 もう、どうでもいい。何も考えられない。 こいつらだけは── 「──殺してやる」 低く〈呻〉《うめ》き、獣の如く地を〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》って疾駆した。 牙を〈剥〉《む》き出しに、目を血走らせ、涙と〈涎〉《よだれ》を垂れ流しながら挑みかかり…… 「もういい、休め。ゼファー・コールレイン」 振るった刃は事もなく弾かれた。凡夫の捨て身は傑物の影さえ一度も、踏めやしない。 「おまえにとって、現実は傷しか生まん。そろそろ楽になるがいい」 ──返しの一閃が、右腕を肘の先から断ち切った。 そして、さらにもう一刀……左右対称というかのように、左の腕も斬り飛ばされる。 断面から激しく噴き出す血の噴水。両腕の切除はいとも呆気なく行われ、俺の意識を暗闇へと落とした。 ああ、これでもはや戦うことなど出来るはずもなく……誰かを抱きしめられることだって、もう二度と叶わない。 現実はどうしていつも、こんなに辛くて痛いんだろう? どうして何も、俺は出来ないままなんだ。 「そうね──だから、今は少しだけ夢を見ましょう」 「あなたと私の、切なく優しいあの日の〈過去〉《ゆめ》を……」 絶望に沈んでいく〈瞼〉《まぶた》にそっと触れた、小さな温もり。 血に涙、喪失と敗北……あらゆる苦しみを味わいながら、俺は一気に冥府の底へと墜ちて逝く。 墜ちて、逝く──  〈遺伝子〉《アンテナ》を起動します。  〈接続先〉《チャンネル》を調整します。  〈同調元〉《ヴェンデッタ》が見つかりました。〈情報通信〉《ダウンロード》を開始します。  〈受信中〉《ローディング》、 〈受信中〉《ローディング》、 〈受信中〉《ローディング》、 〈受信中〉《ローディング》……  冥府を〈降〉《くだ》れ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。〈絶望〉《しんじつ》の底へと向かい、声を張り上げ墜ちて行け。  さすれば、その〈暁〉《あかつき》には── 「〈高天原〉《タカマガハラ》より天下りて、〈火之迦具土神〉《ヒノカグツチ》の星へと集わん。  さあ──今こそ、運命の車輪を回せ」  すべては、この瞬間へと至るために。  千年の時を超え、再び星の運命は激震を開始した。 「あなたが迎えに来ない日に、私は醜く〈穢〉《けが》れてしまった。  ああ、悲しい。〈蒼褪〉《あおざ》めて血の通わぬ死人の躯よ、あなたに抱きしめられたとしても二度と熱は灯らぬでしょう。  だから朽ち果てぬ思い出にせめて真実をくべるのです。  私たちは、私たちに、言い残した未練があるから」  上位種の呼びかけに呼応して紡がれ始めた、死女の〈呪詛〉《のりと》。生きた装置と化した男女は天へ向かって訴える。  光を羨め、勝者を憎め。妬ましいゆえ手を伸ばせと。  本来、愛の求めであったはずの祈りと恋歌は、鋼鉄に歪められて遥かな星へと奏でられる。  〈神隕鉄〉《オリハルコン》による接合はもはや二人を切り離しはしないだろう。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》と〈悲想恋歌〉《エウリュディケ》、その伝承は悲恋に終わる。募る胸の痛みと嘆きが、この結末に深度を増して闇の涙を塗らすのだった。  ああ、それさえも彼ら自身のためではない 「振り向いて、振り向いて。冥府を抜け出すその前に。  物言わぬ私の〈骸〉《むくろ》を連れ出して──〈眩〉《まばゆ》い星の輝きへと。  他ならぬ愛しいあなたの〈慟哭〉《どうこく》で、嘆きの琴に触れていたい」  呪え、呪え、敗者という生贄よ。それがすなわち、おまえ達の意義ならば。  王道を歩む光を照らせ、その〈慟哭〉《どうこく》を積み上げろ。痛い痛いと啼くがいい。降り注ぐ悲しみの雨を呼ぶのだ。  それを超えて進むことこそ、鋼の王道──英雄譚。  あらゆる涙を雄雄しく背負い、明日への希望へ変えるためにいざ運命を産み落とせ。  英雄も、神星も、掴み取るべき“勝利”を想い彼らはそれを待っている。  彼らだけが待っている。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈冥界へ、響けよ我らの死想恋歌〉《Silver Lobo Vendetta》」  ゆえにもはや、〈逆襲劇〉《ヴェンデッタ》など必要ない。  発動した物悲しき〈星辰光〉《アステリズム》──〈前〉《 、》〈提〉《 、》〈条〉《 、》〈件〉《 、》〈の〉《 、》〈達〉《 、》〈成〉《 、》を遂げて、真の本命が訪れた。 「〈高天原〉《たかまがはら》に〈神留〉《かむづまり》〈坐〉《ま》す、御身に乞わん」 「〈地祇〉《ちぎ》へと〈降〉《くだ》れ、〈天神〉《あまつかみ》──再び人へと墜ちるがいい」  片側は拝謁し、片側は真逆に不敬。祈りはまさに正反対で、されど同じ願いを目指して団結しながら捧げられた。  祈るとは、大和言葉で〈意〉《 、》〈乗〉《 、》〈る〉《 、》というものから来ている。その本質は文字通り、想いを乗せるということだ。  言霊という概念があるように、曇りなき宣誓は力を持つ。ならばここで嘘偽りを〈騙〉《かた》ることこそ最大の〈冒涜〉《ぼうとく》に他ならない。  共に真実、正真正銘、胸に燃える野望のまま掲げた誓いが呼応する。 「汝、〈邇邇藝命〉《ニニギノミコト》たれ──天孫降臨」  瞬間、超反応する〈日本軍施設遺跡〉《オリハルコン》。  セントラルという巨大な構造物を媒介に、ゼファーとヴェンデッタの接合面壁面へと伝導する星辰光は、常軌を逸した規模となるまで加速しながら膨れ上がった。  その理論は、旧暦に存在していた粒子加速器を〈参考〉《モデル》にカグツチの造り上げた新機構だ。千年の時によって生み出された次代の技術が、悪魔的な精密さで星の力を膨張させる。  それはまさしく、制御された〈大破壊〉《カタストロフ》。  反転した文明崩壊の引き金は、今ここに文明復活の福音として次元震を発生する。  ゆっくりと、少しずつ……しかし何より確実に増幅していく空間の揺れ。世界そのものが軋んで〈撓〉《たわ》む。  三次元が異界の法に侵食され、距離という概念が徐々に消滅し始めた。  彼方は此処に──此処は彼方に。  もはや聖戦は止められない。天降りの起点たるカグツチが滅ばぬ限り、五年前など比較にならない空前絶後の聖戦が吹き荒れるだろう。 「星を仰げ、取り残された国津の子孫よ。〈拝跪〉《はいき》をもって迎えるがいい」  これより世界は再生する。  十世紀の時間を越え、断絶された歴史が再び〈宇宙〉《そら》からこの地へ降りるのだ。  二人の男女を、運命の礎として……  奈落の底へと墜としたままに……  愛する女に抱かれながら、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》は夢を見る。  ──これは取るに足らない、ごくつまらない男の話だ。  軍事国家アドラー。そしてカンタベリー聖教皇国。  新暦の世界において旧ヨーロッパ圏に君臨する二大国家、それと比肩する勢力として、アンタルヤ商業連合国家は存在する。  大小様々な国が寄り添い構成された〈国家連合〉《コンフェデレーション》、そしてその中心である十氏族は目も〈眩〉《くら》まんばかりの財を有する世界経済の中枢と表しても何ら差し支えない存在だった。  ルシード・グランセニックは、その十ある名家の一つの生まれである。  グランセニック家の三男であった彼はいわゆる御曹司という立場であり、幼いころから何不自由なく育ってきた。  背負わなければならない家督もなく、恵まれた環境に対する責任というものも存在しないそれは、勝ち組と称されるに〈相応〉《ふさわ》しい毎日だったろう。  両親から施される英才教育は社会に於ける立ち回りの機微と、最低限の礼節を学ばせる。  気楽、気儘、順風満帆……置かれた環境から金の流れを見抜く目は自然に養われて、それさえ身に着けてしまえば、後はさほどの苦労をしてこない人生であった。  無論、金のあるところ〈諍〉《いさか》いは絶えないのが世の常だ。十氏族の間は常に殺伐とした空気が漂っており、経済が戦争の必要性を生み出すとはよく言ったもので、金を儲けたい者同士は実によく〈諍〉《いさか》いを起こす。  利こそがすべてに於いて優先されるという観念が、交渉事に一切の妥協を挟むことを許さないのが商国だ。  利益を生み出せ、さもなくば野垂れ死ね。世を動かすのが経済の流通であるのだから、と。  自身の富を肥やすためには文字通り何でもやる国柄であり、だからこそだろう。〈若輩時〉《せいぜん》のルシードも多分にその例から漏れなかった。  家から与えられた財を富ませるために、危ない橋を渡りつつもグランセニックの一員としてその振興に尽力する。  人は利で動く生き物。立場も、意見も、全ては金貨や餌で覆る……そう信じていたし実際そうだ。  高尚な理念とやらを持っている人間こそ〈稀〉《まれ》である。社会の大半を構成するのは常に凡人、つまりは俗さ。主人公や英雄、勇者、そんな輩はそうそういない。  少なくともルシードがこれまでに見てきたものはすべて〈そ〉《、》〈う〉《、》であり、ならばこそある一定の期間までそれは非常にうまく回っていた。  ゆえに商国で培われた価値観を、絶対であると勘違いしたまま──  彼はある日唐突に、その生涯に幕を下ろすことになる。  一族の主である父が異国の軍事技術に商業的な利を見出し、〈些〉《いささ》かの〈深〉《、》〈入〉《、》〈り〉《、》をしてしまったがために発生した粛清劇。それに付き合わされてしまったがため、呆気なくルシードの命は散華した。  保身のため賄賂も欠かさずにいたのだが……しかし、彼を断罪した者はその影響下に置かれてはいなかった。なにせ此度は相手が悪い。  クリストファー・ヴァルゼライド。一切の裏取引を拒み、民の繁栄がため奉仕する英雄を前にしては金銀財宝の数々など、何の意味も持たなかった。  よって彼の死因は総じてそこに集約される。信念によって生き、理想に死ぬという御伽噺じみた〈傑物〉《かいぶつ》がいるとついぞ見抜けなかったがゆえである。  実質的な実行犯が父であり、火の粉が飛んできたという意味だとルシードは不運であったが、危機を察知できなかった彼自身に落ち度であったことは変わりはない。  この世界はいつだって不条理に満ちており、弱者は常に災厄に巻き込まれる側である。  グランセニックという一氏族そのものは他の親類も多く存在し、未だ途絶えてこそいないものの、中核であった彼の家族は残らずそれで死に絶える。  つまり、これはたったそれだけ。  よくある話、そのはずだった。  しかし──運命は時に気紛れを起こす。  彼の人体構造がアドラーの人造惑星を生み出す条件に適合していたのは、〈偏〉《ひとえ》に天文学的確率の偶然であった。  加えて、手を下したのが帝国の〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》であったことも、素体の発見を可能にした要因として機能する。  ルシード・グランセニックは死したことで、最高の研究素材として見出されたのだ。  ヘルメス-〈No.δ〉《デルタ》──〈錬金術師〉《アルケミスト》という魔星として。  新たなる生。そして、与えられた次なる使命。死の記憶とその瞬間に刻み込まれた情動は彼の中で今も色濃く残っているため、逆らえるはずもない。  ウラヌスの中でヴァルゼライドへの憎悪が一際大きな衝動として残留していたように、ルシードに残ったのは〈諦〉《 、》〈観〉《 、》だった。  金? 立場? それが絶対──馬鹿を言え。  すべてを捻り潰す圧倒的な暴力の前では権威に金銭、〈遍〉《あまね》く無意味。  すべてを焼き尽くす炎の前では、札束など燃料以外の何物でもない。  よって、己に何ができるわけでもなし。  死を目の前にして破壊の恐ろしさ、その何たるかをようやく悟った若き道化は何もかもを早々に諦めて白旗を振ったのだ。  自分が置かれている状況、立場。そして背後に在る彼の英雄閣下。  確かに自分も強くなったね、ああそれで? こんな程度で太刀打ちできるなどとはとても思えないし、助けを求める相手もいない。何もかもが詰んでいるなら後は従うだけだろう?  けれどそれが、心のどこかで逃避であるとも分かっていた。  日々は灰色のまま、ふとした時に我へ返り恥と絶望で消えたくなる。  それを誤魔化すようにおどけて、笑って、現実から目を逸らして……いつだって、いつだって、いつだって同じことの繰り返し。  仕方がないじゃないか。己は既に死者であり、ゆえに成長など望めはしないとルシードは強く痛感している。  どうにもできない、出来っこない。  この世のすべては生者のためのものだから、自分が関わろうとすればそれは仮初になるのは自明の理だろう。  けれど、ああだからこそ──  そんな日常の中、唯一と定められる存在が目の前に現われたとしたならば。  拘泥し、〈縋〉《すが》り付く。生者など及びもつかないほど盲目的に一直線。  なぜなら死者は呪うばかり。地獄の底で世界を照らす輝きへ、涙を流して焦がれることこそ彼らにとっての道理であるのだ。  ゆえに激しく執着する。  何を犠牲にしても、何を捨てることになったとしても。  冥府に差し込んだ光のためなら、死者は安息の墓場から蘇る。  そう、端的に言うならば──  彼はついに、〈愛情〉《ヴェンデッタ》の死で〈キ〉《 、》〈レ〉《 、》〈た〉《 、》のだった。  瞬間、周囲の時空が歪みを見せる。 「な、────」  眼前の光景にチトセは思わず言葉を失った。  〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》最強を自負する精鋭揃いである〈裁剣天秤〉《ライブラ》──その屈強な兵士たちが、まるで暴走特急に〈撥〉《は》ねられでもしたかのように弾き飛ばされていく光景に瞠目した。  しかも現象の主はルシード・グランセニック。周囲の兵士に敵意を向けた次の瞬間、彼の発する異常な星が〈煌〉《きら》めき渦巻き発動する。  ジン・ヘイゼルは告げた。その正体はヘルメス-〈No.δ〉《デルタ》であると。  すなわち、このグランセニックの御曹司こそアドラーが秘密裏に製造した特級の災禍であることを指し示していた。  大虐殺の日に姿を表わした二つの魔星──製造番号から別に何体か存在すると知っていはいたが、いいやだからこそと思わずにはいられない。  そう、読めるはずがないだろう。この帝国領土内に商人……他国の人間を装いながら何食わぬ顔をしていたなど、チトセも〈流石〉《さすが》に予想できうるはずがなかった。  配下の〈星辰奏者〉《エスペラント》たちは各々の星光を起動させ、今や謀反人と化したルシードを鎮圧しようと試みる。  剣を構え、容赦仮借のない実力行使に踏み込むが──しかし。 「ごちゃごちゃ〈煩〉《うるさ》いと言っているんだよ、軍人どもが──」  彼の〈纏〉《まと》った衣服にすら触れることは叶わない。  ルシードの周囲に星辰光が激しく輝き、次の瞬間再び異常が顕現した。  それは〈同〉《、》〈士〉《、》〈討〉《、》〈ち〉《、》。天秤部隊の兵士が互いに統制を乱し、自らの仲間へと斬り掛かる。銃を構えていた一般兵すら照準を大きく逸らして明後日の方向へと発砲した。  操作──相手の精神に作用する能力か? 否、それは有り得ない。  アストラルの詳細は未だ解明されてはおらずとも、この世の摂理に〈則〉《のっと》った素粒子であることは間違いない。  薬効創造による幻覚ならともかく、他人の心に影響を及ぼすなどという魔力のような存在は未だ確認されておらず……さらに彼のソレは物理的な衝撃力を有している。  だとしたら、この男の悪魔めいた星をどう説明すればいいというのだ?  包囲しているにも関わらず、〈裁剣天秤〉《ライブラ》側に全く有利は感じられない。どころか追い詰められている感すらもある。  兵士たちが刀を振るう──傍にいた味方を斬りつける。  のみならず、呆気に取られている本人たちの身体にも続けて〈異〉《、》〈変〉《、》が起こり始めた。 「あ、ガァッ……! ぎィ、ゥ…… ──〈怯〉《ひる》むな、構えろォッ」  誰にも、何にも触れられていないというのに自壊していく兵の肉体。  まるで見えざる巨人の手に握り潰されているかのように〈軋〉《きし》みを上げ、次から次へと圧壊していく。関節は逆に捻じ曲がり、バキバキと嫌な音を立てながら身体の至る箇所が落ち窪んだ。  有する武装にしても例外はない。金属硬度としては最上位であるはずのアダマンタイトには幾つもの〈罅〉《ひび》が入り、形を保てず無惨に砕け散っていく。  群がる〈星辰奏者〉《エスペラント》を〈屠〉《ほふ》りながらも、ルシードの様子は変わらない。戦闘の高揚に身を任せることなく、ただ淡々と不可視の力を指揮者のように行使していた。  彼の視線は冷たく鋭く、もはや〈商業組合〉《ギルド》の長たる優男の面影を欠片も残してはいなかった。  まるで冥府より訪れし幽鬼の如く、〈昏〉《くら》い怒りを宿した眼光。  それはどこか、慟哭めいた哀切すらも感じさせて──〈錬金術師〉《アルケミスト》は複雑怪奇な理解不能の〈方程式〉《アステリズム》を〈迸〉《ほとばし》らせて、死を〈撒〉《ま》き散らす。  統制の取れないままに散らされていく兵士たち。他の部隊であればいざ知らず、チトセの〈裁剣天秤〉《ライブラ》はいずれも一騎当千であるはずだったが敵わない。  出力以上に、異能の本質が謎すぎる。見えざる〈相〉《 、》〈性〉《 、》が良すぎるのだ。 「──総員、陣形を再編。包囲、捕縛は後で結構。  この暴威を〈凌〉《しの》ぐことに重きを置くべし。天秤の意地をいざ見せよッ」  そして、理解不能な脅威と対面すれば混乱に落とされるのが人間である。  如何に〈星辰奏者〉《エスペラント》であれどもそれは同じ。彼らは生半な相手に戸惑うことなどないが、己の常識を超えた怪物を前にしてならばどうしても、その本能的反応が重ねた修練を鈍らせる。  結果、〈蹂躙〉《じゅうりん》劇は止まらない。迫り来る兵を〈操り人形〉《マリオネット》のように操りながらルシードは〈湛〉《たた》えた怒りを滲むように吐き出していた。 「何時になく猛っているじゃないか。ルシード・グランセニック。   らしくもないな。風見鶏でいるのには、もう飽きてしまったか? どうも地金が透けて見えるぞ」 「ええ、貴女の仰る通り。もうこれ以上は隠し切れないし、隠す理由も消えてしまった。 戦いを尊ぶ人には分からないかもしれないですがね、こっちは悲しんでいるんですよ。今すぐに、自分自身を引き裂きたいほど。   そして、同時に怒っている。最後まで、彼女の力になれなかった自分自身が腹立たしくてしかたがない……!」 「く、ッ──これはッ。 あ、ガァァッ……」  さらに向上する出力、謎の力場に居合わせた兵士たちの異変が倍加する。  それは一体如何なる魔技か。ある者は地に捻じ伏せられ、ある者は全く見当違いの方向へと飛ばされていく。  大気が歪み、建物が〈軋〉《きし》む……地球の重力を無視したかのような物理法則が、ルシードの周囲へと現われ始めた。  堅牢なはずの建物が、不可視の力場で〈飴〉《あめ》細工か何かのように破壊されていく。ゆえに当然、〈星辰奏者〉《エスペラント》をもってしても無力、まるで虎を前にした鼠の如く蹴散らされる。  現在のルシードは理解不能な暴威そのもの。攻撃の手段、星辰の特性、いずれもまったく見通せないが圧倒的なその力は天頂の証に偽りない。  だからこそ、チトセは解せない。  彼にかつて本気の〈怯懦〉《きょうだ》を見たからこそ、今とかつてで態度の差異に思わず顔を〈顰〉《しか》めてしまう。 「これだけの星を有していながら、どうして臆病者を気取っていられた? ああ、笑えんな。よく〈抑〉《、》〈え〉《、》〈込〉《、》〈ん〉《、》〈で〉《、》〈い〉《、》〈た〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》」 「自分を偽るのは、昔から得意でね。   だが、それも止めだ。一人残らず付き合ってもらうぞ、〈裁剣天秤〉《ライブラ》」  八つ当たり──自身の怒りを鎮めるのに貢献しろ、〈人〉《 、》〈間〉《 、》よと。  豹変し放たれた戦意に対抗すべくチトセの刃へ星辰が収束していく。周囲の気圧が急激に変化し始めた。  暴風が唸り、牙を〈剥〉《む》く。〈裁剣〉《アストレア》の名の下に外敵を撃ち滅ぼさんと猛り狂う超新星。  主の覇気に応えるように、創造された極大の竜巻が牙を〈剥〉《む》いて襲い掛かった。 「────」  建造物の内部にはとても収まり切らない風刃乱舞。  瞬きすらも許されぬ〈怒濤〉《どとう》が襲来し、猛る〈暴撃〉《かぜ》はルシードのみならず、〈中央棟〉《セントラル》の壁をも破壊していく。  無論、抵抗など適うはずもない。身一つ動かすにも風圧がそれを抑えつけ、〈捩〉《よじ》り殺さんとする以上、逃げ場はどこにも存在しない。  圧倒的な破壊力を顕現したチトセはまさに〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》最強。誰も、何も敵わない。  さらに暴風を媒介として積乱雲が誘われ、周囲一帯を覆っていく。  そして刹那、蒼白い電光が炸裂してルシードの頭上へ降り注いだ。  数億ボルト相当の極大電圧──たとえ見かけに依存しない常識外の耐久性により耐えられたとしても発狂せずにはいられないはず。  なのだが── 「自然災害とは、古来より神のもたらす裁きであり、思い上がった衆愚へと向ける戒めでもあったそうだが──   神にでもなったつもりかい? まあよくそこまで、自己肯定できるものだよ。馬鹿馬鹿しい」  瞬間、気象兵器にも等しい規模たる風雷がすべて、すべて雲散する。  それは、異能に異能を衝突させたがゆえの現象。  不可視であるがために能力の出自は分からないが、しかし眼前の現実は何よりも雄弁に彼の星が謎であり、同時に優性であることを証明していた。  なぜなら、一〈睨〉《にら》みであらゆる暴威を弾いたから。  チトセの放った風雷檻、それをどこまでも〈つ〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈げ〉《 、》に呆気なく消し去っていく。  ほんの少し手をかざしただけで消失、無効化。見えない激流で引き付けられたようにルシードを逸れていく雷鳴の数々。  そしてあろうことか、彼はそのまま何の防御もせずチトセに向かって歩き出す。  淡々と、響き渡るルシードの足音。  それは爆発寸前の不発弾のようでもあり、逆に極寒の奈落を思わせる不気味さを放っていた。 「あまり舐めてくれるなよ、御曹司殿ッ──」  ゆえのその余裕を止めるべく、〈裂帛〉《れっぱく》とともに放たれたのは星光を収束させた暴風の連撃。  迎撃を試みようとも、その瞬間的な破壊力の前では一切の小細工が無為に終わると判断して──果たしてルシードに直撃し爆音が轟いた。  繰り出される風撃はもはや天候などというものではなく、自然界にも存在しない暴虐に他ならない。攻撃範囲、威力、共に極大であり防いだところで意味はなく。  だが、やはり……そう〈や〉《 、》〈は〉《 、》〈り〉《 、》。 「ああ、それで? 済まないが遊びは〈他所〉《よそ》でやってくれ」  ルシード・グランセニックは〈億劫〉《おっくう》そうに、スーツについた〈埃〉《ほこり》を払う。  戦女神の最大出力をもってしても、何も変わらない。歩みはまるで止まることなく彼女の姿を〈睥睨〉《へいげい》している。  ただどうでもよさそうに、チトセを眼中に入れることなく手を広げた。指揮者のように、奏でるように。 「八つ当たりだと分かっているが、もう駄目なんだよ。抑えきれない。この世はとうに色〈褪〉《あ》せた。 彼女の逝ったこの世界で僕の望みは一つだけ。愛を求めるあなたなら、少しは分かってくれるだろうかと思ったけれど……」  などと、その〈微〉《かす》かな感傷を鼻で笑い。 「理解者じゃないのなら〈躊躇〉《ちゅうちょ》などする理由はない」 「邪魔だから、消えてくれ」 「あ、ッ……ガぁっ……!」  そして次の瞬間、全身の骨が粉砕されたような嫌な音が響き――〈裁剣〉《アストレア》は強制的に床へと叩き付けられた。  彼女を襲っているのは、上から下へ一直線に襲い掛かる不可視の重圧。  兵が受けた攻撃と同様、見えない巨人の腕で押さえ付けられたかでもしたように、受け身の余裕すら与えられずチトセは〈容易〉《たやす》く制圧された。  しかも、これは──どういうことか。 「ついでに、星も封じておこう」  指先が鳴ったと同時、ありえないことに〈星辰光〉《アステリズム》の反応までがチトセの総身から〈掻〉《か》き消える。  馬鹿げている、何だこれは? 先程から次々と、多種多様な効果を見せる能力はとても一貫しているように見えない。  何を操ればこのようなことを起こせるのか理解が及ばず、ゆえに勝機は皆無であった。  分かるのは、ルシードの誇る〈錬金術〉《アルケミスト》が〈星辰奏者〉《エスペラント》の天敵であるということ。それだけは間違いないと、彼女はこの結果を前に悟る。 「お姉さま! く、っ──」  サヤが割って入ろうにも、その足は魔星の技により地面へと固く縫い付けられたまま。  まるで呪いだ、冥府の死霊が身体にまとわっているかのような感覚が彼女たちの背を粟立たせる。  かつて交戦した〈赤星〉《マルス》も〈こ〉《、》〈こ〉《、》〈ま〉《、》〈で〉《、》ではなかった。チトセと二人掛かりであったことを差し引いたとしても、少なくとも勝負の態は為していたが……  しかしこれは、ただの〈蹂躙〉《じゅうりん》。力は及ばず、正体は計れず、誰も何も出来はしない。  加えて星辰まで封じられてしまっては、絶望以外の何を抱けというのだろうか。出力さえ〈平均値〉《アベレージ》に固定されている以上、膂力による脱出もまた不可能。  勝敗はついた。激しさはない、ろくに動いてすらない。ただルシードが訥々と歩み寄るだけで悪夢のように勝負は終わる。  そして敗者にこれから起こる惨劇を防ぐ権利は持ち得ない。  愛を喪った〈伝令神〉《ヘルメス》の気が済むまで、〈裁剣天秤〉《ライブラ》は無慈悲に解体されるのが当然であり── 「ルシードさん、ダメっ……!」 「あなたは──」 「……いかん、よせッ」  割って入るのは、一人の少女。  ミリアルテ・ブランシェ。この場で唯一、何の力も持たない傍観者。  生来の優しさがゆえ、その真っ直ぐな心根ゆえに目の前の暴力に反応し、自然と身体が動いていた。  しかしそれは、隕石の前へ身を投げるような無謀に他ならない。  〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》たる彼女にも分かっているのだ、自分の行動が盾どころか何の役にも立たないことを。  事実、身体は強張り脚は小刻みに震えてすらいる。  だが──ミリィはそれでも目を逸らさずに、兄の友人である相手へ向けて凛とした視線をかざした。 「退いてくれないかな、ミリィくん。今の僕は見ての通り不安定だ。  心が熱くて冷たいんだよ。何をしてしまうかわからない。彼女の家族である君に対して暴力なんて御免だからさ……」 「なら、やっぱりやめなきゃいけません。だってこんなの、あなたらしくありませんから。 女性に手を上げるなんて、ヴェティちゃんに見られたら叱られちゃうじゃないですか。あなたもきっと、あの子にとって大切な人なのに」 「それは──」  〈微〉《かす》かにでも少女の想いが届いたか、ルシードは小さく〈呟〉《つぶや》いた。  ミリィは〈怯〉《ひる》まず、ただ見据えている。  彼を止めたいという、その思いがあるから引いてはならないだろう。だってこの男性もまた、自分たちの日常にいた大切な人々の一人なのだから。  目の前の光景が恐い──それは当たり前の感情である。  少女の信じていた世界は、何もかもが変わってしまったのかもしれない。  けれど、それでもすべてが失われる訳じゃないし、仮に喪ったとしても抗うことをやめてはならないと信じている。  だって、確かにあったのだ。兄と、〈家族〉《ヴェンデッタ》と、友人であるこの男性と笑い合ったあの日々は。  それを嘘にしてはならないと思うなら、行動に移す他ないだろう。無理だ嫌だといつまでも泣いたままではいられない。  誰より悲しみに囚われて、泣きそうな顔で〈蹂躙〉《じゅうりん》するこの御曹司を放置なんてしたくないから、必死に想いを尽くすのだ。 「辛い気持ちは分かります……あなたがいま、誰よりも胸を痛めていることも。私だって、とても辛くて悲しいですし。  どうしてこうなってしまったのって。本当に避けられなかったのって、今も悔やんで、痛いです。   ……だけど、だからこそ大切な人との思い出だけはどうか守ってほしいんです。記憶の中くらい、笑顔でいてほしいじゃないですか。ね?」 「────」  忘れられるはずがないのだ。終わりが見えていたとしても、積み重ねてきたあの一瞬は紛れもなく真実だった。  大切だったからこそ輝く。それはルシードにとってもまた同じ。 「そしてそれでも、まだルシードさんが痛いというなら……」  家族が遺してしまった傷があるなら、それを背負いたいと思うからこそ。 「わたしが、あなたの相手になります。   ヴェティちゃんを好きでいてくれた人のために、立ち向かうって決めましたから」  そこにあるのは〈高邁〉《こうまい》な理念ではなく、何を成すという欲望でもない。  真っ直ぐな視線を支えるのは相手のためにという感情のみ。共にヴェンデッタを愛おしく思うからこそ、これ以上もう、この人に似合わない暴虐なんてさせてはならないことだろう。  沈黙が降りる。ミリィの言葉に、ルシードは棒立ちのまま── 「本当に、君は〈眩〉《まぶ》しくて、困るなぁ……」  光から目を背けるように視線を逸らし、苦笑する。  憎悪の渦巻いていた心の内が、今では〈微〉《かす》かに凪いですらいた。  どこまでも健気で、勇気のある少女の姿を目の前にして憑き物が落ちたかのよう。  胸に広がる寂寥感をしばし彼は噛み締めている──その時に。 「ともあれ、運命を再始動させねば始まらん。  ゆえに〈錬金術師〉《アルケミスト》、奮起せよ。ここで日和られては肩透かしだ。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》にその思い、余さず伝えてみるがいい──」 「〈煩〉《うるさ》いな。   〈お〉《、》〈ま〉《、》〈え〉《、》だろうと立ち入ることは許さない。引っ込んでいなよ、主様」  何者かに告げるかのようにルシードは口にする。  怜悧な口調──彼の中にある受信装置へ放たれた意識に対し、憎憎しそうに思惟を返す。  それは魔星としての因縁であるが、この場に察する者はいない。  そして感情の機微を隠すように、ルシードはミリィへと背を向けた。  それはこんな〈魔星〉《じぶん》を想ってくれた少女にこれ以上無様を〈晒〉《さら》さぬためという誠意であり、同時に先ほどまでの謝意を示す。  彼女の顔を視界に入れぬよう努めながら、彼は虚空を眼光で射抜き、口を開いた。  続いて、厳然と掲げる。 「運命を再び回す? いいだろう、それは僕も望むところだ。   半殺しでいいならあいつを連れて来てやるよ。だから貴様ら、手を出すな」  己の決意、そして親友との決別を──  首輪をつけた〈神星〉《かいぬし》へ向け、叩きつけるようにそう宣言するのだった。 〈政府中央棟〉《セントラル》へと向かう途中、背後から爆音が響いてきて足を止める。 発生源は恐らく先ほどの場所……魔星の生存を一瞬疑うも、それはないと否定する。今もまだ、〈止〉《とど》めの感触は確かにこの手に残っているから。 だったら、騒動を聞きつけた軍の鎮圧部隊でも出てきたのか? それで反動勢力の連中とやり合っている── いや、違う。これはきっと。 「っ、ゼファーさん……」 「おい、どうしたんだよそのナリは」 何が起こったか、俺に追いついてくるように駆けてきた双子の足取りはよろめいている。 その様子は、明らかに交戦によるものだった。 「いてて……抜かったですよ、危なかったー。まあどうにか生き残れたのは運が良かっただけかもですが」 「アスラ・ザ・デッドエンドが暴走しました。こちらの勢力、その大半が現在は戦闘不能状態にまで追い込まれています」 あいつが? どうしてと思いつつも、あくまで理屈としてその内実を推測する。 裏切り──腕の立つ傭兵を抱え込んだはいいが、しかし忠誠は持ち合わせてなかったというよくある話になる、のだが。 あいつはそんな〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》か? 少しの間とはいえ行動を共にした奴の〈磊落〉《らいらく》ぶりを思い出すと、どうもありえそうでありえない、という煮え切らない予測になる。 気まぐれに、適当に、殴りつけてきても不思議ではないような……それとも義理を果たそうぜと、何があっても付いて来そうな。 行動が読めないため理由もまた推測不能。だがしかし、奴が離反したとあればそれは紛れもなく脅威以外の何者でもない。 「戦闘の継続は無理な状況……一旦退いて、立て直しをするしかないでしょう」 「甘く見ていたつもりはありませんが、それでも見誤っていましたね。〈あ〉《、》〈れ〉《、》は恐らく、触れてはいけなかったものですから」 「なにせ──」 ──瞬間、〈地〉《、》〈響〉《、》〈き〉《、》〈の〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈な〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》がティナの言葉を遮った。 続け様にこれは、遠くで何かあったか……しかしそんな俺の予想は、簡単に裏切られることとなる。 「ッ、なんだと……?」 その〈事〉《、》〈実〉《、》を理解できた瞬間、底知れない悪寒が腹の底から湧き上がった。 大地を揺るがす震音が鳴り響き──併せてそれが徐々に徐々に近づいてくる。どういうことだ? 分からない。 天変地異にも等しい現象が、〈俺〉《、》〈た〉《、》〈ち〉《、》〈目〉《、》〈掛〉《、》〈け〉《、》〈て〉《、》〈向〉《、》〈か〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈く〉《、》〈る〉《、》。それに対して警戒の構えを取った双子に、俺は事態の意味合いを悟った。 地面には猛烈な勢いで亀裂が入っていき、あろうことか指向性を有している。 これは、いったい……? 「気をつけてくださいゼファーさん、こいつは──」 伝えようとしたティセの言葉が一際大きな地の大震に〈掻〉《か》き消される。ああ分かってる、兎にも角にも桁違いの異常事態ということは否応なく理解した。 揺れる、揺れる、揺れる大地。そして近づく存在感はまさか、と── 「それじゃあ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》──」 震源から一瞬聞こえた〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》の声に、全身が総毛立ち── 「派手に開戦といこうやァッ」 地面の中から一撃が撃ち込まれ──同時に足元が爆発する光景に、思わず目を疑った。 こいつ──〈土〉《、》〈中〉《、》〈を〉《、》〈掘〉《、》〈り〉《、》〈進〉《、》〈ん〉《、》〈で〉《、》〈接〉《、》〈近〉《、》〈し〉《、》〈や〉《、》〈が〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈た〉《、》というのかよ! 〈大〉《、》〈地〉《、》〈を〉《、》〈丸〉《、》〈ご〉《、》〈と〉《、》〈粉〉《、》〈砕〉《、》〈し〉《、》、その下からアスラがまるで迫り上がるようにして歩いてくる。どうだ大したものだろうと、まるでガキが腕っ節を自慢するかのような屈託のない笑みを浮かべている。 振るわれた拳は、軍用兵器をも軽く凌駕する破壊力……拳法だ何だのあいつは言ってたが、ここに来てよく分かった。アレがそんなものであるはずない。 そもそも、人間にこんな荒唐無稽な力は備わっている部分からして大嘘だ。加えて感じるこの圧力、紛れもなく〈星辰奏者〉《エスペラント》の存在感に他ならない。 吹き上がった衝撃を利用して、俺はビル壁面に着地する。アスラはそれを下から眺めながら、まるで魔王のように邪悪な笑みを浮かべて告げた。 「よう、待たせたなゼファー。迎えに来たぜ。さあさあ〈戦〉《や》ろうや食い足りねぇぞッ」 「雑魚じゃ駄目だ満足出来ねえ。ゆえにいざ、苛烈極まる闘争を──」 今にも爆発しそうな危うさを〈孕〉《はら》んだ言葉が終わると同時、今度は俺に向けての追撃が襲い来る。 間一髪で〈躱〉《かわ》せたのはビビっていたから。反撃など考えず全リソースを反応速度に傾けていたからこそ、それが奏功し回避へと〈繋〉《つな》がった。 視界の端に一瞬映った、瓦礫を浴び這々の体で逃げ出すティナとティセには目もくれない。あくまで俺だけを〈遊〉《 、》〈び〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》と認識して嬉々と恐ろしい拳を振るう。 「腹括ったか? いいや、そりゃ愚問だったな。さっきのおまえさんは良かったぜ、おっかなくて実に〈滾〉《たぎ》る」 「次は俺とだ、あぁ今度は断らせねえ──」 粉塵の中で輝く瞳。殴るぞ殴るぞ、やれ殴るぞと予告するかのような殺気に、舌打ちしながら距離を稼ぐべく必死に駆ける。 先程まで俺のいたビルが、アスラの剛撃を受けた〈途端〉《とたん》にまるでダイナマイトでも仕掛けられたかのように爆砕した。 どこもかしこも吹っ飛びながら一瞬で倒壊する建築物。しかしアスラは〈そ〉《、》〈れ〉《、》に対しても不動で── 大量の瓦礫を浴びたと思った瞬間、ビルや地面の様々な箇所が何故か〈逆〉《、》〈に〉《、》吹っ飛んだ。魔拳士はそれを防御すらせず受け止めて、しかも無傷を誇っている。 なんだ、あの堅牢さは? いいやアレを防御力と果たして判断するべきなのか、徹底して意味が分からねえ。 こいつの異様さはその力もだが精神性もまた然り。危機を招く。それを壊す。味方を裏切り孤立無援──なのに呵々大笑と、おまえの頭はどうなってんだッ。 「おいおい、なんだその顔は? 我が拳の神髄に言葉も出ねえか、そりゃ嬉しいねえ」 「これぞ最強。これぞ究極。天上天下に比する者なし、我が星光の〈煌〉《きら》めきなり」 などとと、また嘘っぱちを言うとなれば、〈流石〉《さすが》にこちらも呆れてしまった。 まともに取り合ったのが間違いだ。つける薬がないとはまさにこのことで、こいつは思った以上にイカれた奴だったようだ。 有する能力はもはや人間の域を超越しており、それはまるで…… 「星光、ねえ。それでなおかつ〈星辰奏者〉《エスペラント》でもないというなら──」 魔星、すなわち〈星辰奏者〉《おれたち》の上位種としかもはや思えず…… 「〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》だと俺は思っていいんだな?」 「応とも、そして最も俺の本質は〈人〉《 、》〈に〉《 、》〈近〉《 、》〈い〉《 、》」 己が正体を認めながらその振る舞いは〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》。こちらに〈躙〉《にじ》り寄ってきつつ、まるで俺を試すかのようにふざけた調子で堂々と言い放つ。 「なにせ、これぞ〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈の〉《 、》〈究〉《 、》〈極〉《 、》だからな。さっきからおまえさんは驚いてるようだが、誰にでも出来ることしかやっちゃいねえよ」 「ビルを丸ごと、跡形もなく壊すのがか?」 「そうだとも、修練さえ積んだならこの程度は実に〈容易〉《たやす》い。人間舐めたらいかんぜ、おい」 ──同時、策も裏も感じさせない剛撃で突貫される。 防ぎ〈捌〉《さば》くことは可能だが、いつかのようにこいつの異能に絡め取られてしまうだろう。何よりやばいという悪寒がする。 触れればその時点で負けだという、不思議な予感が背筋を冷やす。 ならばこそ〈躱〉《かわ》す。避ける。当たらせない……全神経を集中して徹底的に、激流に流れる木の葉のように。 見切りにすべてを賭けるのは危険極まるが、取れる手段もそれしかない。まるで死出の舞踏を刻んでいるかのような錯覚に捉われながら〈怒涛〉《どとう》の追撃を必死に避ける。 「俺に言わせりゃ、誰も彼も己の才をまるで極めちゃいないのさ。嗚呼、人類は須く怠慢なり。悲しいことだぜ堕落が趣味かよ」 「だからこれは、あくまで努力の延長線だ。おまえさんだって頑張れば出来ることかもしれないぜ?」 どこがだ、としか思えないが悠長に問答する時間もない。 同感も共感もできやしないしするつもりもないが、幸いアスラは喋りに夢中になっており決定打を〈穿〉《うが》ちにこない。結果、〈僅〉《わず》かながら俺に思考する余裕を与えている……恐らく故意に。 「まあともあれ、だ。それを最初から持っていると、どうもこう万事張り合いがなくってよ」 「勝利には飽きれば自然と過程が恋しくなるのが道理だな。波瀾万丈の生が欲しいのさ。笑い転げて泣き叫び、逆境から再起する、そんな激情の味ってやつを知りたくて仕方がない」 「生きることを愛したいんだ。胸にはいつも、深い風穴が空いているからな」 そんな〈剥〉《む》き出しの情念は、さすがにこっちは御免なんだよ。 こっちが勝利を目指している間、てめえは〈そ〉《、》〈こ〉《、》から始まっただと?しかも挫折に無自覚と来てるくせ、内心それを求めている。 それは強者のままで、一日だけ弱者に身を窶したいと言うのと同じだろうが。そんなタチの悪いごっこ遊びにこちらを巻き込み笑うんじゃねえ。 しかしこいつは〈斟酌〉《しんしゃく》しない、徹頭徹尾自己中心的。 打撃は連続し途切れなかった。予測もしない方向からの放たれる乱撃の嵐。ああ、確かにアスラは拳法技術の粋を極めているんだろう。 だが無論、それだけではないのは明白、数発で廃ビルを倒壊させるような技がこの世のどこにあるというのか。 そして……〈こ〉《、》〈の〉《、》〈星〉《、》〈の〉《、》〈特〉《、》〈性〉《、》〈は〉《、》〈何〉《、》〈だ〉《、》? 先に見せた破壊力からして集束性に長けているのかとも思ったが、それでは破壊の結果と変幻自在に対しての説明がつきやしない。 つまり正体不明であり、逆にこちらは別の意味で〈丸〉《、》〈腰〉《、》だった。あれからヴェンデッタと同調を何度か試みてはみたものの、いずれも失敗に終わっている。 そう、だからあいつの──そしてミリィの安否がこの上なく心配だというのに。 「なあゼファー、教えてくれ。執念ってやつはどんな味がするんだ?」 「おまえはそれで強くなったんだろ? 魔星を喰らい、堕とすほど──」 「だったら俺にも教えてくれよ、なぁなぁなぁなぁ──刻み込めッ!」 アスラ・ザ・デッドエンドは俺を逃がさないと咆えている。 そして、さらなる加速して突撃される……その刹那に。 「兄さんっ……!」 横合いから掛けられた声へ、意識が急速に現実へと立ち返った。 俺がその声を聞き間違えるはずがない。彼女のために蒼星をどうにか退け、今も探し求めている彼女のことを。 「ミリィ──」 予想していなかったタイミングでの妹との再会。どうしてここにと驚き喜ぶも、致命の隙を〈晒〉《さら》したであろうことに次いで思わず〈慄然〉《りつぜん》とする。 まずい、彼女を守らなくてはと──思った瞬間、同時に異変が発生していた。 急襲を仕掛けてくるかと思われたアスラもまた、なぜかその活動を停止する。どうしたと思って奴の視線を追ってみると…… ミリィの傍ら、ジン爺さんの姿が視界に入ってきた。もう一人、知っている顔が無事であったことにほっとする。 そしてアスラは安堵する俺とは逆に、何か面白可笑しいものでも見たかのように唇を歪に吊り上げた。 「ク、ハハッ、ハハハハハッ……!」 「何だおい、どうした爺さん。いきなり出て来やがって、〈接〉《 、》〈触〉《 、》〈禁〉《 、》〈止〉《 、》じゃなかったのかぁ?」 ジン爺に語りかけるその様子は実に楽しそうで、知り合いなのかとも思うが、しかしこの感じは明らかに何かが違う。 ようやく怨敵を見つけたかのような、入り組んだ因縁を強烈に感じさせる歪んだ瞳。先程までの遊び半分といった雰囲気は欠片もなく、追い求めたものを得た悪童のように〈昂〉《たか》ぶっている。 「相も変わらずその〈為体〉《ていたらく》か、〈色即絶空〉《ストレイド》」 一方の爺さんは、さしたる感慨もなさそうにアスラを見遣っていた。それはほとんど路傍の石に対する程度の視線だが、〈僅〉《わず》かな苛立ちを覗き見たのは俺の見間違いだろうか? 「誤解するなよ知恵遅れが。もはや貴様に興味は無いのだ」 「これだけの時間があってなお、〈然〉《さ》したる進歩もないのだろう? ならば今更、会ったところで何とする」 「時間の無駄に他ならん、ゆえに〈去〉《い》ね。それとも〈解体〉《ばら》してほしいのか?この失敗作が」 「ハッ、言ってくれるね老いぼれが」 そう言ったアスラは血の滲まんばかりに拳を握り締め──おい、止めろ何するつもりだ。 強者を求めて呵々大笑、それがこいつの根底じゃなかったのか。思想も理念も何もないはずの快楽主義者は〈剥〉《む》き出しの執着をもう隠さない。 先ほどまで戦っていた俺のことさえ忘却して、爺さんへと猛りながら拳を構え始めていた。 「ここは一つ、あんたの人生ってやつを教えてくれや。〈餓鬼〉《ガキ》だっつうなら尚更だ、指導鞭撻が必要だろう」 「言うからには、それなりのモノを見てきたんだろう?」 「どうせ言っても聞かんか、悪童め。見るに堪えん」 状況が見えているのかいないのか、挑発に転じるジン爺の態度もまた何なのだろうか。元々口が悪くはあるものの、この攻撃性はやはり普段のものではない。 互いが互いを言葉で〈煽〉《あお》り、ゆえに二人の間には一触即発のキナ臭い空気が漂う。 それは不思議と奇妙な一体感を生むものだった。まるで〈鏡〉《 、》が向き合っているような錯覚に陥るほど、多分な類似性を含んでいる。 分からない、分からない、蚊帳の外に置かれたまま俺はただ静かに急転する事態に戸惑いを感じるしかなく── 「そこまでだよ、〈色即絶空〉《ストレイド》。そしてヘイゼル老」 「ッ、あガ──」 唐突に訪れた不可視の衝撃に、俺はその場で膝をついた。まるで全身を地面に縫い込まれるかのような強烈極まる圧を感じる。 間違いない星辰の作用。そんな分析をしながら新手に視線を向けてみれば、ああ──そこには。 「ルシー、ド……?」 「そうだよ親友。どうにかこうにかこの通り、今も醜態を〈晒〉《さら》している」 現われたのは臆病なはずの悪友。魔星の襲来を受けた屋敷で、瓦礫の中にその消息を絶ったはずの友人が生きていたことに〈安堵〉《あんど》の感情を覚えるも…… だがしかし、〈何〉《、》〈か〉《、》がおかしい。 「選択を完全に間違えた結果が、このザマさ。本当ならば今すぐここで死にたいくらいに恥じている」 良く分からないことを口にするのはいつものことだが、表情は見たこともない真剣なもの。シリアスが絶望的に似合っておらず……そういうキャラじゃねえだろうがてめえはと、悪態をつきたいのに つうか──クソ、マジかよ。 〈纏〉《まと》っている〈星辰体〉《アストラル》が示すのは、すなわち何らかの改造を身体に受けていることを意味している。更にこの高出力とアスラへの呼び方を関連付ければ、弾き出される答えは一つだ。 〈お〉《、》〈ま〉《、》〈え〉《、》〈も〉《、》、なのかよ──事ここに至っては、もう〈眩暈〉《めまい》さえ起こらない。 そして、感傷と同じくらいに理解不能なのがこれだ。俺は何に押さえつけされているんだ? しかもこの異変──身動きが取れないのもそうだが、問題は更に根本的なところにある。〈発動体〉《アダマンタイト》を通じての星辰感応が、何故か〈掻〉《か》き乱されているのだ。力が全く集中できない。 すなわち、能力が起動しない。それどころか出力が〈発動値〉《ドライブ》まで上がらないため大した力を捻出できずに、こうして蹲っている。 見ればアスラも俺と同じで、あれほどまでの猛威を振るったのが嘘のように四肢の挙動を封じられていた。狂犬のような形相でルシードの姿を見上げながら〈軋〉《きし》むように犬歯を噛み締め鳴らしている。 邪魔をするなという訴えへ、対して返事はひたすら冷徹。 「わざわざ出張って悪いけど、君の存在もこの場じゃ〈些〉《いささ》か目障りだ。喧嘩がしたいなら〈相〉《、》〈手〉《、》〈は〉《、》〈幾〉《、》〈ら〉《、》〈で〉《、》〈も〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》〈だ〉《、》〈ろ〉《、》〈う〉《、》?」 「だから、少し控えろよ〈色即絶空〉《ストレイド》……束の間〈這〉《は》い〈蹲〉《つくば》ってくれ」 強められた圧がさらに奴の四肢を縫いとめる。あいつの説明不能な異能も完全に抑え込むことが可能ということか。或いは、不意打ちゆえの戦果か……ともあれアスラは動けない。 ルシードの俺を見る目は、酷薄の色を〈湛〉《たた》えていた。生憎、そこにあるものを読み取れないほど鈍くはない。 憎悪──そして、そんな精神的変化をこいつに抱かせる要因はただ一人しかいない。 「レディ・ヴェンデッタはその活動を止めた」 「ろくでなしどもの言うには、〈再〉《、》〈起〉《、》〈動〉《、》には君が必要不可欠だろうと言っている。連れて行った先で何が行われるかは知らないけど、僕としてはそれしかない」 「〈一縷〉《いちる》の望みに賭けるがため、これからおまえを確保しよう──〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 「────」 などと、今にも泣き出しそうなその〈表情〉《かめん》が、俺の心に痛い。無理をさせていることにも、道が別れてしまったことにも、何もかもが辛かった。 ルシードの口から出た再起動という言葉に一縷の望みを感じるものの、首を振る。 もしヴェンデッタに生きている目があるのなら、そうと告げればいいだけのこと。あいつが戻ってくる可能性があるなら従うし、そのくらいルシードも理解してる。 だが、そうしないのは全く違う意味であるためか、あるいは俺の命が保証されないゆえか…… だとしたら、どちらも飲むことは出来ない。俺には簡単に生を諦められない理由があるんだよ──そう。 「──させません、ルシードさん」 彼女がいるから何とかしないといけないのに、ミリィは自ら両手を広げ、遮るように俺の前に出る。 「なにを、駄目だッ──」 思わず呼吸が止まってしまう。今のこいつは悲しいがかつてのルシードじゃないんだよ、どんな危険があるかも分からない。 もう友達だなんて、言えないのかもしれなくて…… だから下がっててくれ、頼む。これ以上はもう絶対に、何があろうとも家族を失いたくないんだ俺は。 しかし、ミリィは一瞬ふわりと笑んで、全く動じずルシードへと向き直る。凛としたその横顔は、退くつもりなどないという決意を感じさせる。 「ッ、おオォォォッ……!」 ゆえに庇おうと全力で身体を動かそうと試みるも、星辰発動はおろか武装の柄すら握れない。網に絡め取られた羽虫の如く、抵抗すらままならなかった。 そしてルシードは俺ではなく、ミリィを〈眩〉《まぶ》しそうに見つめていた。どこか泣きそうな視線に見えたのは、きっと気のせいなんかじゃない。 こいつもまた、俺と同じで痛いんだろう。どれだけ変わっても悪友はどうしようもなく昔のままだと思えてしまった。 「強いね、ミリィくんは。彼女を取り戻したくないのかい?」 「彼がただの〈人間〉《ゼファー》なら〈死想恋歌〉《エウリュディケ》は目覚めない。卑怯な言い方だろうけど、男の方が大切なのかな?」 「どっちもです。だからこそ、わたしは二人が泣かないようにこうして必死に頑張ってます」 「ルシードさんが今も迷って、苦しみながらも強く誓っているように……」 告げるその言葉は、眼前の相手を思いやりながら立ち向かっている。あいつの心にも等しく寄り添いながら、それでもという複雑な決意があった。 彼女を取り戻す……その言葉にどれだけ乗りたいことだろう。しかしそうしないのは、俺と同じ懸念を抱くゆえか。 死者は蘇らない。そのことは、過去に大切な存在を失ったミリィだからこそ誰よりも深く理解している。 そんな彼女の言葉を受けて、ルシードはしばし瞑目した。 噛み締めるように、目を見ていられないという風に。複雑な苦笑を浮かべて空を仰ぐ。 「君を連れて来たのは過ちだったか、それとも救いであったのか……」 そして……指を鳴らしたと同時、ルシードの仕掛けていた縛から解放される。 同時、アスラの身体はまったく逆に遠方へと弾き飛ばされた。横殴りの暴風雨にでもあったかのようにこの場から強制的にこいつの一存で退場させられる。 与えられた自由の真意を確かめるようにその目を見やった。距離は近くて、とても遠い。 「──ミリィくんの勇気に免じて、ここは退こう」 「だが、一度だけだ。次はない」 そして、どこか懐かしそうにもう一度俺を眺めて── 「〈暫〉《しば》しの延命、せいぜい彼女に感謝しておくんだね。ゼファー」 その言葉に胸が〈掻〉《か》き乱されるも、泣き言を口にはしなかった。 見逃すというのなら、こっちも噛みつくつもりはない。そしてこんな精神状態でおまえも、俺も、向き合えないよな……分かっちまうよ。 次から次へと変化する状況はマーブル模様に入り乱れているが、それでも与えられた僅かな猶予に感謝する。 なぜなら、そう── 「会えて、よかった──」 「ああ、本当に」 やっと俺たちはここに再会することができた。ミリィと優しく抱き合い、追い求めた彼女の温もりを強く感じる。 隣の爺は我関せずと背を向けている。そしてこの場の裁量はルシードに委ねられた形となっており、ならばこれで束の間の幕引きということになるだろう。 聞きたいこと。言いたいこと。そして問い詰めたいこと……それらは数多あるけれど、一先ずは預けておこう。 ミリィと顔を見合わせる。まず言わなければならないことは、これだろう。 「待たせたな──ごめん。そしてありがとう」 「さぁ、帰ろうぜ。俺たちの家に」 涙が〈零〉《こぼ》れ落ちないように、出来るだけ優しく家族へ告げるのだった。 そして── 大して空けていないはずなのに、家に戻ると抑えようのない懐かしさが込み上げていた。 もうここに帰って来られないかもと、思ったことさえあったから。何気ないこの小さな家屋が胸に郷愁を呼び起こす。 「今だからこそ、分かるね。あの日々は宝物だったんだなって」 「わたしと兄さんと、ヴェティちゃん……三人で食卓を囲んで、笑い合っている時間は」 ミリィの言葉は過去を懐かしんでこそいるが、嘆きではない。たしかにあった幸せを回顧しながら噛み締めていた。 そうだなと俺は〈頷〉《うなず》く。ヴェンデッタと過ごした日々は振り返ってみれば短く、会ったばかりの頃に至ってはあいつのことを激しく憎み、呪ってすらもいた。 だが、俺たちには確かな〈繋〉《つな》がりが存在したことを改めて感じる他ない。互いが互いを家族だと認め、慈しむようなそんな関係があったのだと今更大切に思ってしまう。 今はもう三人揃わないことだけが寂しく、俺たちは感傷に浸る。 だが……今の状況はそれさえ許さないのも事実。一時的な安寧をもう少し享受していたいものの、するべきことは幾らもあった。 ここまでの道すがら事情は色々と聞かされている。 ジン爺さんの過去。〈人造惑星〉《プラネテス》。そして、アダマンタイトの更に先── 驚いたことばかりだったが今はすべてを受け入れよう。そもそも事の成り立ちは俺にとっての問題じゃない。 差し当たっては、これからだ。 「だいたい見当ついてはいるが、一応最後の確認だ」 「マルスとウラヌス。あの怪物連中だけじゃなくて、ルシードとアスラもまた奴らと同じ……」 「然り、どちらも〈人造惑星〉《プラネテス》よ。前者の二体とは違い、奴ら人型は公に潜り込み、日頃は帝都で活動しておる」 「ゆえに、聖戦へ参化する義務も薄いが〈死想恋歌〉《エウリュディケ》が逝ったとあれば話は別だ。運命を再始動させるがため、躍起になって襲い掛かるぞ」 「面倒極まるわ。何せ、生半な戦力では奴ら魔星に歯が立たん」 爺さんの言うことはその通りで、あいつらの存在が事態をいろいろと〈掻〉《か》き回している節がある。 俺たちだけではなく、軍部の側も思い通りには事を運べていないのだろう。〈裁剣天秤〉《ライブラ》が〈工房〉《アトリエ》に向かったあたりなど、隠密行動を旨とする普段の連中であれば通常避けるべき一手のはずだ。 そして新たな単語……聖戦というのは、恐らく奴らの求める至上の理念なんだと伺える。 これまで出会った〈紅星〉《マルス》や〈蒼星〉《ウラヌス》にしても、ただ無秩序な破壊に興じていた訳でないのは様子からして察せられた。 もちろん、内容知っても納得出来ないものには違いない。〈人間〉《こちら》から見れば、それはただ大切な者を奪っていく災禍だからな。 ゆえに相容れることなどなく、襲来すると言うならば迎え撃つしかないわけだ。これ以上、もう誰だって失うつもりはない。 俺の決意の色を見届け、爺さんは魔星について語り始める。あいつらが持つ詳細な裏の顔を明かし始めた。 「阿呆坊主については見たままよ。あいつの素体となったモノは、商業連合国家、グランセニックの三男坊──」 「すなわち、ルシード・グランセニックは実在している人物だという事になる。〈中〉《 、》〈身〉《 、》が少々、一度目の死で変わっただけよ」 商国を実質的に支配する十氏族──その一つ、グランセニックが御曹司。しかしてその正体は、か。 もっと早くに事情を語ってくれればと、身勝手にも思わずにはいられない。あいつが力を振るっているのは、きっと愛した女の弔いがためというのもよく分かる。 ルシードの目に浮かんでいるのは、話し合いでどうにかなるような決意じゃなかった。自分が同じ立場ならと思わずにはいられないから、責めることなど出来っこないんだ。 「〈星辰体〉《アストラル》の能力は?」 「知らん。儂は奴の開発に一切関与しておらんのだ」 「〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》にも当然、研究者はグループごとに属しておる。どいつもそれぞれ我が強くてな、時に競い合い、時に貶め合いながらというやつよ」 「情報も各自が独立管理しており、常に一致団結という訳ではない」 つまりアドラーの頭脳が集結している部隊とはいえ、そこは人間の集団というわけか。天才の集まりにもそういう俗さはあるらしい。 今回の事態についてもそうだが、何事も思うに任せないというのは〈精鋭〉《エリート》連中も同じだな。 そして今までの語り口と、ルシードの建造に爺さんが関与していないということ、そして先ほどスラムで見た奇妙な因縁から考えれば…… 「つまり、〈あ〉《、》〈っ〉《、》〈ち〉《、》を造ったんだな。あんたは」 「そうだ」 ジン・ヘイゼルは肯定する。一瞬険しい表情を浮かべたのは、自らの開発した〈人造惑星〉《プラネテス》の能力をよく知るがためだろう。 「ゆえにこそ断言してやろう、〈ア〉《、》〈レ〉《、》は手が付けられんぞ」 「当時注ぎ込んだのは、儂の持ち得る知識、経験、加えて軍部の支援体制……いずれも二度と揃わん最高水準だ。付け焼き刃で崩せるほど温くはないぞ」 有り体に言えばすべてを懸けた傑作、ということになるのだろう。俺は〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》のことは然程知らないが、こと技術者としては帝国屈指である爺さんのこと。相当の脅威であるのは違いない。 ただでさえ埋めがたい能力差があるのに加え、今の俺はヴェンデッタの喪失により〈同調〉《リンク》の力をも失っている。不安材料だらけだが、しかし。 「だけどさ、最高って言っても当時のことだろ? なら今だったら、少しくらい付け入る隙も思いついたりしないのか?」 「けっこうな年月も経っているし。それにあんた自身、あの時確か失敗作とか言ってたはずで……なんだよ」 「…………」 貴様如きが、などと言われるかと思っていたが、予想に反して爺さんは黙っている。 ただ〈鬱陶〉《うっとう》しそうに俺を見ているばかりで、むしろこっちの方がやりにくい。 「両親がいつも言ってました。科学には無限の可能性がある、って。それは、常に変化していくことの重要性を指していたと思うんです」 「初めに決めたゴールだけが、たった一つの正解じゃない。数年前は“最高”であったとしても、師匠はきっと今は昔の選択が〈齟齬〉《そご》や過ちに見えてしまうと……そうでしょう?」 「自分の求めた傑作が、今はなぜか失敗に感じてしまう。そういう気持ちじゃないんでしょうか?」 「────はっ、生意気なことを」 苦笑しながら、しかし爺さんはミリィを否定しなかった。 多様な変化、すなわち可能性を肯定する彼女の意見は、自身が様々な出来事を乗り越えてきたから得たもので、重いがために師へ対してもすっと染みる。 行き着いた姿に優劣はない。そこには差異があるだけで、本人が納得できればきっとそれでいいのだと……そんな甘いかもしれない弟子の言葉を、爺さんはしばし吟味して。 「作り手として、己が作品には責任がある。それを改めて自覚したわ」 「まったく儂はまだまだ至らん、究極には程遠い」 いつも通り、腹立たしそうにそう〈愚痴〉《ぐち》るのだった。 「どこに行くんだ?」 「〈工房〉《アトリエ》で対策を練る。〈色即絶空〉《ストレイド》に関してならば、打てる手段もあるのでな」 「あれはどうしようもない失敗作だが、それでも戦闘に於ける能力は群を抜いておる。むざむざ無駄死にする趣味もない」 そう言い残して、頑固爺は出て行った。能力の詳細を問おうと思っていたが、それさえ拒否するのだと背中が物語っている。 俺たちとではなく、あくまで〈工房〉《アトリエ》で独り対策を講じるというのがいかにもあの爺さんらしい。出来るなら勝ち目の多い策を構築してほしいと心から思う。 頼むぜ、爺さん。俺たちはもうこれ以上、顔見知りがいなくなるのも死んでしまうのも御免なんだ。 ともあれ、そうひとしきり心配をしたところで── 「あー、っと……二人きり、だな」 「そう、だね……ふふっ」 何だか改めてお互いを意識してしまい、俺たちは顔を見合わせる。ただ束の間の穏やかな時を過ごす……その尊さを確認し合うかのように。 懐かしい家での語らい。少し前までは三人二人だったけど、もうあの日には戻れない。 俺はミリィの目を見て訊いた。 「やっぱり、ヴェンデッタは──」 「うん、眠っちゃた。腕の中で微笑みながら……」 「兄さんのことをよろしくって、それがヴェティちゃんから託されたわたしにとっての最期の言葉」 涙を浮かべ、声を小さく震わせながらも穏やかに話してくれるミリィ。 ヴェンデッタの命の灯が消えてしまったことはこちらも薄々察していた。あの戦いできっと何かの役目を終えたのだろう、最後の言葉には満足げな響きが宿っていたと今は思う。 〈蒼星〉《ウラヌス》をどうにか〈斃〉《たお》せたのも、あいつが力を貸してくれたからに他ならない。〈暫〉《しば》し、大切だった存在を胸の中でそっと〈悼〉《いた》む。 また一つ、俺たちはそこにあった日常を失って…… 噛み締めながらミリィは俺を見上げた。その瞳は穏やかで迷いなく、微笑みながらも決意の色が窺える。 そう、だからこそ今から本当の気持ちを話そう。お互いに秘めてきた、大切な感情を形にする。 「大虐殺のこと、兄さんが家に来た目的のこと……知ってしまって、分からなくなって、もちろんショックだったし、どうしてなんだと思ったよ。わたしのこと、〈騙〉《だま》してたのかなとも」 「けどね、こうして二人でいる時の気持ちは今も全然変わってない」 「兄さんが大切で、いつだってあなたのことを考えている」 「傷ついて帰ってきたら苦しいし、笑顔が見られたら嬉しいし、身体が触れ合うと顔が赤くなっちゃったり……」 「そして何より、幸せで──」 一つ深呼吸をしつつ、今度は顔を見てはっきりと── 「大好きです、兄さん」 「世界中で一番、兄さんのことが……大好き」 そう言って、優しく微笑む。 ミリィの言葉に、気持ちに、胸が締めつけられる。だって、それは俺も同じだからただ嬉しくてたまらない。 何よりも、誰よりも大切な存在。ああやっと、面と向かって自分の口からすべて伝えられるんだ。 「俺は、君の家族を奪った。最初、傍にいたのは償いだったのかもしれなくて、自分の薄汚さに悩みもして……」 「そりゃ迷ったさ。こんな俺が君と一緒にいてもいいんだろうかと、毎日自分に問い掛けたよ。下らないことも、それこそいろいろ考えた」 「けれど、今は違う。ミリィといたいのは罪を償うためだとか、負い目を隠すためでもない」 「笑顔が好きだ。大切だ。一人の馬鹿な男として、俺はミリィと共に生きてみたい」 「あ──」 そして、強く抱き寄せた。この小さな温もりのためならばどんな苦難も怖くないと、心の底から信じられる。 「俺も、大好きだよ……ミリィ」 「君に会えて、本当によかった」 ミリィの鼓動が洋服越しに聞こえてくる。そして、きっとそれは俺も一緒なんだろう。今にも胸がはち切れそうだ。 「えへ……夢が、叶っちゃった」 「ずっと、ずっと……兄さんとこうしたかったの。だから、本当に嬉しいよ」 「でも不思議だね、少しだけ心が痛いのは」 そう。失ったものはたくさんある。 それはとても大切な宝石のように価値がある輝きたちで、決して二度と取り返しはつかないものだ。 永遠に失われてしまった日常があるという、消えない事実をそのまましっかり胸に受け止めた上で──そうさ。 「だから、忘れずにいてやろう。あいつも確かに俺たちの家族だったと今は強く思うから」 「楽しいことも、悲しいことも。嬉しいことも、泣きたいことも、全部、全部受け止めて──」 「歩いて行こう、二人で」 「──はい」 これは、多くの犠牲の上に成り立った想いの成就。 健全じゃないかもしれないし、傷の舐め合いかもしれない。たった〈一時〉《ひととき》羽を休めたところで、今後も辛いことは襲いかかってくるだろう。 それでも、俺のミリィに対するこの気持ちだけは揺るがない。 行き着いたところは、お互いに一緒で──二人であれば大丈夫、どんな出来事だって乗り越えていける。 生涯をかけて、この想いを本物にしていくんだ。 そして、そのまま俺たちは互いに思いを確かめ合う。 ミリィの身体を抱き上げて、そのまま自室へと足を運んだ。  最初は、己への怒りからだったと覚えている──  若かりし頃のジン・ヘイゼルは偏屈であった。  扱い辛く、自尊心が高く、何物にも媚びることなく……軍の研究機関内に於いても変わり者で通っており、親しき仲の同僚などいなかったと自覚している。  そして、彼には明確に志望する研究があった。  未だ成功例の存在しない〈そ〉《、》〈れ〉《、》へ果敢に挑戦したジンは、ほとんど必然として失敗する。  経験が足りない。思考の柔軟性に欠けていた。そして何よりも、自分の不甲斐なさが許せない。  屈辱は何をしても晴れず、夜も眠ることの出来ない日々。  その頃を境に、彼は変貌を遂げることとなる。  失敗を喫したあの時から、ひたすら自己〈研鑽〉《けんさん》に明け暮れて他には目もくれない。  とにかく己を高めようとした。叡智を求めた。たとえ何を犠牲にしても。 一つの知識を得るために、何を失ったとしても。  何年も、何年も、何年も──ずっとそうして生きてきたから止まらないし、改善しない。  他人がどう生きてどう死のうが関係なく、興味があるのは自分のみ。  そしてこれもまた必然、次第に結果はついてくる。  成功に値する不断の努力を重ねているがゆえの、当然の帰結。  栄誉も得た。富も得た。  勝ち続けて、でもまだ足りない。そうだ、〈己〉《、》〈は〉《、》〈極〉《、》〈点〉《、》〈ま〉《、》〈で〉《、》〈ま〉《、》〈だ〉《、》〈ま〉《、》〈だ〉《、》〈至〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》〈と〉《、》〈も〉《、》。ふざけるな。  彼は信じた、どこまでも。  そして気づけば到達していたのは、研究機関の頂点である〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》が裏の顔。  より専門的、尖鋭的な知識が要される表に出されない軍用研究。智を求め続けていれば光の当たらぬ暗部にまで行き着くのもまた然り、そして上層部に乞われるがまま彼は幾つもの実験を成功させていく。  そして約十年前、ジンはヴァルゼライド主導の下、旧暦の遺産に巡り会った。  大和より世界各地に散逸した科学技術の〈残滓〉《ざんし》にして、結晶。さらにそれを統べているは驚異的な完成度を誇る人造兵器、すなわち〈神星〉《カグツチ》。  素晴らしい──目も〈眩〉《くら》むほどの宝の山だ、失われし秘伝がそこにはあった。  やがてロストテクノロジーの解析は進み、その応用で〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》は〈人造惑星〉《プラネテス》の開発に着手する。  既存の人体兵器、〈星辰奏者〉《エスペラント》をも超えた天頂の輝きを顕現させるべく日夜行われる実験に対して──しかし、ジンはその分野にまったく別の興味を見出す。  この技術さえあればそう、〈己〉《、》〈の〉《、》〈可〉《、》〈能〉《、》〈性〉《、》〈を〉《、》〈突〉《、》〈き〉《、》〈詰〉《、》〈め〉《、》〈た〉《、》〈姿〉《、》というものを、〈漸〉《ようや》く見られるかもしれないと考えた。  すなわち、自己の完成形というものを己を素体とした〈人造惑星〉《プラネテス》の創造に見出したのである。  これまでの人生に於いて大体理解した。〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈欠〉《 、》〈陥〉《 、》〈品〉《 、》〈だ〉《 、》。  〈斯様〉《かよう》に脆弱な素体では、たとえ己の資質をすべて開花させようと器が支え切れないだろう。  ただ自壊していくだけの未来予想図、それは〈滑稽〉《こっけい》の一語に尽きる。  ゆえに〈も〉《、》〈っ〉《、》〈と〉《、》〈優〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》〈身〉《、》〈体〉《、》〈が〉《、》〈必〉《、》〈要〉《、》〈だ〉《、》。  そして、それなら更に限界値は遠ざかるはず。極み、頂点、自己の到達点はより誇らしいものになるという一念の下、来る日も来る日もジンは研究を繰り返した。  そして、〈研鑽〉《けんさん》の果てに行き着くのは己の求める合理性の究極──  己の極点を求めるために、最も適した素体とは?  言うまでもない、それは自身の身体であろう。生体兵器の〈素〉《 、》〈体〉《 、》を一から探すなんて馬鹿げている、何故なら〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》に申し分のないモノがあろうや、と。  これまでの研究過程において、ジンは独自にその可能性へと至っていた。なに、片腕さえ残っていれば日常生活にも支障はあるまいと、思うがために〈怯〉《ひる》まない。  ──こうして、老技師は〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく〈隻腕〉《せきわん》を受け入れた。  血肉を捧げ狂気の実験に手を染めて、その優秀さにより当然の如く成功する。  半生を懸けた妄執の末、生み出された己の到達点……自分自身の究極形。  出来上がったそれを見て、素晴らしいと──そう思えるはずであったが、しかし。  研究所で完成した〈そ〉《、》〈い〉《、》〈つ〉《、》の姿を見た〈途端〉《とたん》、ジン・ヘイゼルの妄執は突如として消え失せる。  研究の一切に興味をなくし、何故かすべてがどうでもよくなってしまったのだ。  理由は不明。構築理論に穴はない。結果も完璧だった。  腕を対価にこそしたものの、オリハルコンは理論を余さず実証した。何一つ不満に感じる道理はないが──しかし、しかし、しかししかししかし。  達成感だけが欠片もない。  どうしようもなく熱意だけが喪失していた。  燃え尽きた灰のように、他の研究者連中の賞賛や嫉妬すらもどうでもよくなった果て、ジンはやがて研究機関を静かに抜けて市井へ降る。  扱っていたのは特級の軍事機密であり、万が一にも流出は許されないため当然それは揉めたものの、しかし彼にはこれまでの多大な研究上の貢献があった。  結果として、生涯口外しない約束と、それに対する監視を付けるという条件で希代の技師は軍部の闇を後にする。  ああ、それさえまったくどうでもいい。  ほぼ同時に数奇な運命から〈監視者〉《ルシード》の〈伝手〉《つて》で弟子を抱えることになり、技術面での面倒を見ることになるものの、彼は独りで何とも関わらずやってきた。  不満も、希望も、飢えた魂さえもない枯れ木。  ジン・ヘイゼルは何かを間違え、そしてとうに終わっている。  ゆえに── 「かつての〈最高〉《きわみ》が、今となっては恥そのものか……〈滑稽〉《こっけい》な」  〈徒〉《いたずら》に大通りを歩いてはみるものの、ジン・ヘイぜルの気持ちは全くもって落ち着かない。  今回、改めて思ったこと──  本当は、自分はアスラに失望していたのではないだろうか?  開発した当時のことを思い出す。確かに数値の上で奴は完璧だったが、言ってしまえばそれだけだ。  生物である以上、核がなくばどうしようもない。今回初めて起動後のアレを見たが、実際目にして感じたのは〈酷〉《ひど》い精神の未熟さだった。  あの程度を到達点と思っていた自分を、当時に戻って殺してやりたいくらいに思う。  ただ、ジンは研究者として、アスラの精神がどこか足りない理由もまた実のところ分かっていた。  〈殺塵鬼〉《カーネイジ》や〈氷河姫〉《ピリオド》を初めとする他の魔星との最大の違い……あれには〈継〉《、》〈承〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》〈衝〉《、》〈動〉《、》〈が〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。  〈人造惑星〉《プラネテス》とは、第一の生における終焉間際の〈慟哭〉《どうこく》なり、抱き続けた本懐なりが色濃く残って根幹となるのが大前提だ。  ヒトが素体となっているゆえ、それは不可避の性質なのだがアスラだけは少々事情が違っている。  アレは単にジンの左腕を素材にしたに過ぎず、ゆえに何の衝動も継承してはいないのだ。  当たり前の話だが、腕は独自に思考しない。脳が無いのだから当然である。  よって奴はジン・ヘイゼルからこれといった精神的方向性を受け継いでいるわけではなく、その空虚からあのような性格に至ったということなのだろう。  刹那的、破滅的な快楽主義──ゆえに〈餓鬼〉《ガキ》とは、救えない。  そうなってしまった性質には呆れる他ないが、ともあれ── 「落とし前はつけるべきなのだろうな」  アレが失敗作ならば、己の手で壊す。  十全の結果以外をジン・ヘイゼルは認めない。  何より、弟子やあの阿呆ではアスラを相手に無駄死にだ。あれはその能力だけを見るならば自身の究極、すなわち人類が〈技〉《 、》〈巧〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》〈到〉《 、》〈達〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈極〉《 、》〈点〉《 、》〈と〉《 、》〈呼〉《 、》〈ぶ〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈星〉《 、》を備えている。  〈殺〉《や》るとするなら──それこそ、自分くらいしか無理であろう。  〈人造惑星〉《プラネテス》、とりわけアスラ限定の切り札を有する自分しか。 「〈手筈〉《てはず》だけは、残してやったものの……」  もしも自分が討ち死んだ時の為に、〈工房〉《アトリエ》には〈人造惑星〉《プラネテス》に関する知識を〈纏〉《まと》めておいたが、果たして。  あれを弟子が見つけ、適切に運用するならば、アスラやルシードに対してどうであろうか。有効に使わねば自身が殺処分してやろうかと、苛立ちと共に嘆息する。  後は奇跡を二つ、三つでも起こせれば、小娘と穀潰しでも勝手に何とかするだろう。  連中の手によってそれが成される事態など本来真っ平なのであるが、己の失敗作をのうのうと生かしておくのは更に御免。  それほどまでにアスラとは、己にとっての恥だからと──  そこで、ジンは違和感にふと気づいた。  果たして自分は、これまで己の死後について思いを巡らすことがあったか?  人類の究極を目指すという目標……それは生きている間だからこそ出来ることで、死んだ後など考えても仕方がない。ゆえ一顧だにしたこともなかったはずが、なのに。  不愉快だ──これでは、まるで。 「よう、親父殿。もういいのかよ、あいつらへの〈挨拶〉《あいさつ》は?」  そう〈微〉《かす》かに悩む〈製造者〉《おや》の前へ、スラムの闇の中から姿を現したのは彼の被造物──アスラ・ザ・デッドエンド。  〈邂逅〉《かいこう》に違和を忘れ、苦々しい苛立ちがジンの胸の内へと蘇ってくる。 「構わん、居るだけ邪魔というものよ」 「なら、そろそろ〈戦〉《や》ろうや。こっちもお預け喰らいまくって、いい加減退屈してんだ」 「あんたならば止める奴もいないだろうし──」  不敵に告げ、地を削る様に足先で円を描いて構えた。 「ならば存分に見せてくれよ。俺の〈素〉《、》〈体〉《、》として、〈相応〉《ふさわ》しい〈贄〉《にえ》と成れ。   我が聖戦を彩るため、さあ振り搾れや創造主──ッ」  語り合いにもならない一方的な押し付けに、ジンは小さく苦笑した。  やはりこれは未完成だ。こんな程度を創造し、勝手に満足していたとは……自分は当時から〈耄碌〉《もうろく》していたのかもしれない。 「来い、未熟者が。 塵も残さず、破壊し尽くしてやるとしよう」  ならば要らんと、ジンは不敵に手招きをする。  邪魔だ、失せろ、醜悪だと、己が研究成果を真っ向から否定した。 「いいぜ、その目。ギラギラ燃えてやがるじゃねえか──   看取ってやるぜ、老害よォッ」  アスラが楽しげに腕を鳴らす。  二人の様子はまるで、〈歪〉《いびつ》な親子の語らいのよう。  人の道を外れた〈創造者〉《おや》と、人の道など端から知らない〈成果物〉《むすこ》。  互いの一切を許容出来ない両者は今ここに相対する。  そして──  避けられない運命として、激突を開始した。  彼らは何も分かっていない。  人間として大切な部分を理解できぬまま、鏡のようにぶつかり合うのだ。  刹那、すべてに先んじてアスラの剛腕がジンの眼前に迫っていた。  同時に挙動を起こしたはずが先制攻撃の態を為す。それは決して不意を突いた訳ではなく、星の力を行使した訳でもない。  両者の速度差は、ただ単純な能力そのものの違いだった。瞬発力、状況判断、万事をアスラが上回っているがゆえそれは状況有利として表われる。  かつてのジンは研究者であると同時に優秀な拳士であったかもしれないが、しかしアスラは現役だ。何よりただ闘争する、そのためだけに造られている。  日々研ぎ澄ませ劣化しないと言う破格の才が、市井に身を窶す元軍属の老骨などに遅れを取るはずなどありえない。  老体の鼻先へと飛来する拳はもはや回避不能──このまま成す術もなく、ジンの頭を〈柘榴〉《ざくろ》の如く弾き飛ばす未来が想起されたその瞬間。  ──空を裂く超高速の迎撃が、アスラの右腕へ突き刺さった。  戦闘者としての能力では敵わない……それを瞬時に悟ったジンは、拳打の破壊力に割いていた力をそのまま迅度へと転換する。  そして放たれた要撃は威力こそ〈些〉《いささ》か劣るものの、アスラが放った拳撃の軌道を変えるには充分すぎる。  両者交錯の結果として生まれたのは、空白の瞬間。  致命の隙を生み出した判断──それはまさに老練であり、戦いの手法とは一つに〈非〉《あら》ずと雄弁に語っていた。 「くたばれ」  まるで散弾銃のように撃ち込まれた鉄拳が、一切の抵抗すらをも許さずアスラを逆に〈蹂躙〉《じゅうりん》していく。信じがたいことに、魔星を人が技巧によって圧していた。  両腕、体躯、胴、脚、顔面。叩き込まれる破壊の嵐──仮借なく。  軍を退役してから何年が経ったであろう。彼は実戦からは離れており、経験の上積みは存在しない。  だが鍛錬を怠ったことなど一日たりとてなく、その成果がこの爆撃じみた〈怒濤〉《どとう》の拳打。  尊大、〈傲岸〉《ごうがん》、偏屈に映るジン・ヘイゼルの我とは、〈弛〉《たゆ》まぬ求道によって構築されたものだ。磨き抜かれた技の冴えが、戦場での圧倒へと結実する。  何よりこの二人は、厳密に言えば〈同〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈物〉《 、》に等しいのだ。それゆえに他の〈星辰奏者〉《エスペラント》や魔星とは事情が若干異なるため、単純な出力差や星の性能で勝負がつきはしなかった。  ジンの腕から生まれたアスラは技巧を継ぎ、若年時の外見を継ぎ、そして持ちえる才能さえも継いでいる。  それが魔星として増大してはいるものの、あくまで骨子に息づくのは老拳士の遺伝子だ。ゆえに判断まで似通っている二者は、出力の差という点より技の冴えという論点こそが勝負の行方を左右する。  何より製造者のすべてを超えたいと願うアスラは、馬鹿正直に相手の土俵へ嬉々と乗っかり続けていた。  そして拮抗し、老練の拳によって打ち据えられる。  才気溢れた息子と、積み上げてきた親。どちらが優れているか何度も議論される題材ではあるが、現状有利であるのはこの光景を見る限りジンという他ないだろう。  しかし── 「年の功って奴か……いいぜ、実際こうして味わうのは初めてだ。  だがな残念、それじゃオレには届かねえ。もっともっとだ、見せてみろッ」  これだけの直撃を受け続ければ、既に全身複雑骨折を被っていてもおかしくない一方的な拳の暴風。  それらすべてを被弾しているはずであるというのに、この男は。  〈俄〉《にわか》には信じ難い光景──連撃を受けながら歩み寄る。  一つ一つが〈渾身〉《こんしん》であるはずの轟打を、さながらまるで豆鉄砲であるかの如くに受け流してジンを見遣る。  外傷もなければ疲労もない。ただ平然と、悠然と、肌を涼風が撫でた程度の感覚だと表現しつつアスラは拳をぼきりと鳴らす。  そして、出し惜しみや躊躇など一切考えることもなく。  技を競い合っていた事実さえ、楽しさの内に忘れた結果──早々と。 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがため」  野獣を思わせる瞳に浮かぶのは反撃の狼煙。  予想外の健闘を見せる老兵を完膚無きまでに屈服させるべく、〈色即絶空〉《ストレイド》の星が駆動する。 「森羅万象、天地を握る老いさらばえた支配者め。古びた玉座がそれほどまでに恋しいか? 何故そうまでしがみ付く。  憤怒に歪み血走る〈眼球〉《まなこ》、皺を刻んだ悪鬼の相貌。見るに耐えない、怖気が走る、なんと貴様は醜悪なのだ」  天に唾するかのような内容の〈詠唱〉《ランゲージ》は、そのままアスラのみならず向き合うジンをも表わしている。  彼には衝動がない。我執がない。一切の寄る辺とやらを有していない。  そう、だからこその〈無頼漢〉《ストレイド》。天の支配者に与することなく何にも頼らず破壊する悪童は、己を生み出す創造主を〈嘲〉《あざけ》り笑い祝福していく。 「その大口で我が子を喰らい飲み下すのが幸福ならば、いずれ破滅は訪れよう。汝を討つは、汝の継嗣。血の連鎖には抗えない。  鎌を振るい暴威をかざした代償が、積もり積もって現れる。かつて御身がそうした如く、他ならぬ血縁に王位は簒奪されるのだ。  産着に包んだ石塊を腹へ収めたその時に、逃れられない運命は約束された未来へ変わる」  親と子は如何なる生物にも存在する。生まれ落ちると同時に成立するその関係は契約にも等しい。  しかしアスラは〈孤児〉《ストレイド》。見捨てられた子に親はいない。  〈煢然〉《けいぜん》も〈寂寞〉《せきばく》も覚えはしないが、心はいつも飢えている。  そして己の前から去った親が、今ここにいるならば。 「活目せよ、これぞ予言の成就なり」  さあ、感動の再会だ──〈支配者〉《クロノス》よ、残さず余さず奪い尽くそう。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈色即絶空空即絶色、撃滅するは血縁鎖〉《    Dead end Strayed    》ッ!」  解放と同時、夥しい量の星光をその身に〈迸〉《ほとばし》らせる。  心の底から嬉しそうな凶笑は、詠唱が示す通り親への叛逆。その喜悦だ。  そして、次の刹那──  豪腕一閃──まるで至近距離で大砲が放たれたかのような衝撃。  辛うじてジンは〈躱〉《かわ》すも、その〈瀑布〉《ばくふ》にも似た一撃は周囲の大気を鳴動させる。  アスラにしてみれば、全力を振るっているつもりなどないだろう。まだまだ序の口、様子見、〈煩〉《うるさ》い羽虫を払い除ける程度の腕打に過ぎない。  だが、それだけで内在する破壊力は如何ばかりか、〈触〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》地面が何故か〈抉〉《えぐ》れ、砕け散って宙を舞う。  続いての二撃目──ビル壁をまるで乾いた紙粘土の如くに吹き飛ばす。 「逃げてばかりじゃ勝てねえぞ、どうした反撃してみろや。  さもなくば、てめえの御命ここで頂戴──思い残さず冥土に逝けやァッ!」  児戯に過ぎない程度の動作が、戦況の圧倒的な傾きを招く。  強化された動きは圧倒的で、速く、強く、適わない……埋めがたい差は〈僅〉《わず》か一目で証明されている。  武芸の型をなぞりながら嵌っていない拳撃は、ゆえに魔拳、自由奔放。肉食獣じみた野生の本能が己の設計者を食い破らんと牙を〈剥〉《む》く。  外した拳打に、しかし数拍遅れて周囲の瓦礫が爆散する。  地を踏んだ〈途端〉《とたん》、あらぬ場所が砕けて散る。  さらに受けた攻撃はどれもこぞって無傷のまま。しかも衝撃を受けるたび、どうしてか周辺の建造物が次々破壊されていく。  理解不能な光景の絡繰りを聞いたならばこの男は答えるだろう。これこそ、我が“拳の極み”であるのだ、と。  そう、それがアスラ・ザ・デッドエンドの〈星辰光〉《アステリズム》。  その本質は極端に特化した操縦性による、〈衝〉《、》〈撃〉《、》〈操〉《、》〈作〉《、》に他ならない。  通常、拳打のみならず破壊の衝撃とは直撃した瞬間、対象へと波紋のように伝達されて然るものだ。  殴れば痛い、さらに砕ける……という至極当然の理をアスラはしかし捩じ曲げる。自由自在に操縦する。  ダメージを自在に対象の一定箇所へと集めることや、或いは受けた衝撃を任意に散らすことも同じく可能。  崩落する瓦礫を肌で受け止めようとも泰然自若を保っていられるのは、〈体〉《 、》〈表〉《 、》〈面〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈大〉《 、》〈地〉《 、》〈へ〉《 、》〈と〉《 、》〈衝〉《 、》〈撃〉《 、》〈を〉《 、》〈操〉《 、》〈縦〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈拡〉《 、》〈散〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》といったように。 これまでの異常現象に通じる種は、つまるところそれによって〈罷〉《まか》り通ったものだった。まさに無敵と言えるだろう。  攻撃を加えたところで負荷をすべて触れた物質に逃がされてしまうがため、事実上アスラは不沈の戦士として戦場に君臨する。  地面や壁面に身体の一部分でも接触していようものならばそれで充分事足りる。接地点から衝撃を逃がせばいいだけで、これといった防御を行う必要性さえ消え去った。  〈斃〉《たお》すためには完全に宙に浮かせるか、足場を消し飛ばした上で着地までの一瞬を狙うしかないものの、アスラほどの実力者に対してそれを遂行できる者はごく限られる。  よってジン・ヘイゼルでは及ばない。何せ互角では駄目なのだ、完全に圧倒して何とか相手に跳ねさなくては〈僅〉《わず》かな勝機も訪れない。  ゆえ、戦況は一方的な状態へと転じていた。すんでのところでジンは〈躱〉《かわ》し続けているものの、被弾は時間の問題。そして一撃でも喰らったのなら、操縦された衝撃が脳天を花火のように散らすだろう。  産毛にさえ〈掠〉《かす》めただけで、自在に操る衝撃が相手の身体を破裂させる。彼にとっては敵手の全身そのものが致死の経絡秘孔であった。  四足獣が如くの低い姿勢で獲物に殺到するアスラ。〈禍々〉《まがまが》しさすら感じさせる〈弩〉《ど》級の打撃がジンに対して殺到する。 「儂の設計ながら、相も変わらず〈戯〉《たわ》けた星よ。攻防一体、死角無し。馬鹿に〈鋏〉《はさみ》とは正にこの事か」  極端に傾いた戦況は、最早挽回など到底不可能……そのはずであったが、しかし。 「だが、言ったはずだぞ? 貴様には一切の進歩が見れんと。  ゆえ教えてやろう、〈色即絶空〉《ストレイド》……〈傲慢〉《ごうまん》はすなわちそのまま死を招くのだ」  創造主の手によって、両者の闘争は再び新たな局面へと移行する。 「ん、あ……?」  前触れもなく起こった異変は……この戦闘で初めて〈眦〉《まなじり》を歪めたアスラの姿こそが体現していた。  何かと強制的に〈同〉《 、》〈調〉《 、》したその感覚を〈訝〉《いぶか》しみ、そして── 「ガ、ふッ……爺、てめぇその〈義手〉《うで》……!」  対応が一手遅れ、愚直とも思える正面からの打撃をまともに直撃させられた。 「分からんか、つくづく頭の巡りが悪い。 ならばもう良い、このまま眠れ」  余裕の笑みを浮かべていたアスラの頬が陥没し、鮮血が舞う。その瞳はまるで信じられないものを見たかの様に大きく開かれていた。  容易に拡散させられるはずであった老兵の拳はしかし、確かな痛覚を伴って魔星の顔面へと突き刺さる。  さらに追撃、本来なら〈触〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》のに。拳撃が、剛脚が、いずれも余さずアスラの肉体を捉えて損壊させる。  死角となる横合いからの殴打が脳を揺らす。  内懐に入られたと知覚した瞬間、膝による一撃が〈鳩尾〉《みぞおち》を深く〈抉〉《えぐ》っていく。  理解の及ばない現状はアスラの判断力を著しく奪い、今やただ痛撃を喰らうだけの木偶人形と化していた。 「粋がるな、未熟者が。その為体での斯様な虚勢は惨めに過ぎる。   安心しろ──すぐに冥府へと送ってやろう」  〈彼我〉《ひが》の戦況が一変したその理由は、これまでアスラが先制して発動していた指向性衝撃干渉――  その絶対的な星光と同調し、〈自〉《 、》〈己〉《 、》〈を〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈の〉《 、》〈星〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈部〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈強〉《 、》〈制〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》〈誤〉《 、》〈認〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》がためだった。  〈斯様〉《かよう》な真似が可能となるのはすなわち星辰光に他ならないが、しかしジンはその実純粋な〈星辰奏者〉《エスペラント》ではないのだ。  強化措置の適性がそもそも基準値まで達していない。  ゆえに本来なら〈無〉《 、》〈理〉《 、》〈に〉《 、》〈少〉《 、》〈々〉《 、》〈強〉《 、》〈化〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》に過ぎないものの、その法則を踏破するのが彼のかざす鋼鉄の左腕である。  己の左腕を媒介として大気中に偏在するアストラルと感応している鋼の拳。  〈仄〉《ほの》かに燐光を放つその鉄腕を組み上げたのはジン・ヘイゼルの叡智と太古の日本、大和が遺した〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》によるものである。  すなわち〈オ〉《 、》〈リ〉《 、》〈ハ〉《 、》〈ル〉《 、》〈コ〉《 、》〈ン〉《 、》〈製〉《 、》〈の〉《 、》〈義〉《 、》〈腕〉《 、》、それがアスラ自身の〈骨格〉《フレーム》と同調して彼自身を相手の星光に同一人物だと見なさせているのだった。  〈土星〉《アスラ》の環境は〈土星〉《ジン》を決して破壊しない。  互いを〈“=”〉《イコール》で結ぶ事により介在する星光の影響を大気のようにすり抜ける。  無論、こんなことは誰が相手にでも出来るものではない。一卵性の双生児さえこのような裏技で他者の星を無効化するのは不可能だろう。  しかし、この二人だけは事情が違う。  なぜなら彼らは、まったく違わぬ因子を有した同位体。  製作者をモデルに生まれた被造物、相手は自分で自分は相手だ。この世で唯一互いの波長を完全一致させられる、そんな関係性を持つのである。  よって、アスラを暴王たらしめてきた星光──それはもはや通じない。  鎧を剥ぎ取られたに等しい魔星へ殺到する容赦ない剛撃。そのいずれもが的確に急所を捉え、貫き、破壊する。  彼の星はそれでも依然反応しない、ただの〈自〉《 、》〈殺〉《 、》だと認識しているその〈滑稽〉《こっけい》さに思わずアスラは笑みを浮かべた。 「ク、ハハァッ……! いいぞ親父、それでこそ。  もっと、もっとだ、骨の髄まで〈痺〉《イカ》れちまう喧嘩をしよう。あんたと会えて心底良かった──ッ」  〈迸〉《ほとばし》る歓喜──己が星を無効化され、綺麗にすり抜けられながらも、荒れ狂う激情は全てを呑み込まんと〈昂〉《たか》ぶっている。  なるほど、馬鹿だ。容赦のない猛撃を叩き込みながら、ジンはただ暴れ狂う被造物を静かに見据えている。 「〈脆〉《もろ》いな、手品が無くてはその程度かよ。  予想外があった程度で殴られる。武技としては劣等よな、欠伸が出るわ。 さらにこの上、喜びだと? 度し難いにも程がある」  己が産み落とした〈人造惑星〉《プラネテス》。〈歪〉《いびつ》で哀れなその在り様に──そう。 「なぁ、おまえ本当に儂の〈作品〉《こ》か?」  思わずにはいられないから、せめてもの慈悲、ここで終わらせる。 「呵々、言うねえ──だからこそ今この時が堪らねえのさ」  応えるように親子だからこそ、殺意が〈滾〉《たぎ》る。  噛み締めるような〈呟〉《つぶや》きと、狂乱に塗り潰された盲目の絶叫。  降り注ぐ破壊の暴風。急所を貫く無数の連撃、しかし苦痛の〈呻〉《うめ》き一つ漏らさぬアスラに、ジンは、ただ低く言い放った。 「もう終われ、粗悪品が」  苛烈極まる拳の〈雨霰〉《あめあられ》にアスラの足は退がらない。  否――それどころか、自身へと襲い来る拳へと〈自〉《、》〈ら〉《、》〈向〉《、》〈か〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈く〉《、》。身の破滅へと至る、されど一切それに構わない無謀な前進。  その〈眦〉《まなじり》には、再び猛々しい闘争の光が宿っている。 「絶体絶命、何するものぞ。これぞ鉄火の醍醐味よ。  勝機〈零〉《ゼロ》のこの窮状、打ち砕くが〈修羅神〉《アスラ》の〈宿命〉《さだめ》──!」  空気が震え、大地が揺れる。衝突の衝撃に戦場は耐えられず崩壊していく。  アスラの放った剛撃は未だ冴えており、直撃すればジンの命を〈容易〉《たやす》く刈り取るだけの威力を有している。  そう、星が消えたとしても技巧そのものが消えたという訳ではない。両者は単純な格闘戦に移行して、さらにさらにとそのボルテージを上昇させた。  そんな未曾有の破壊が吹き荒れる中において……ジンの精神は奇妙な納得に満たされていた。いいぞ貴様、その程度の気概はあったのかと。  依然として乱舞し、激しさを増すばかりの攻防の嵐。そこに似つかわしくない感慨を抱きながら思わず彼は自らの生涯を振り返る。  求道の道を見限り、市井に身を窶して早何年か……その果てに期せず再び巡り合った己が作品。  目の前に立つアスラの姿は、突き進んだ道の終わりに待つ己の写し鏡そのものだった。 「どうだ親父、効くだろう? 諦め悦び逝くがいい」 「騒ぐな阿呆が。手に負えん」 「そらそらそらそら、鈍ってきてんぞ! 気合い入れろや終わっちまうぜ?」 「貴様が死ねよ、出来損いが――」  攻防も、罵倒も、気力さえもまったくの互角。条件互角の一騎打ちはここに至って消耗戦の様相を呈してきた。  武技に勝るジンに対し、若さゆえの力に勝るアスラ。互いの手札は既に見せ尽くしている上、同一であるがために熟知している。こうなると焦点は隙の見せ合い、奪い合いへと移っていた。  どこかで誘い、賭けに出て一撃を打ち込む……どちらがより腹を括っているかで趨勢は如何様にも転ぶだろう。  〈渾身〉《こんしん》の剛撃がジンの〈鳩尾〉《みぞおち》を確と捉える。  同時、神鉄の激拳がアスラの顔面に突き刺さる。  己の被弾すらも攻撃機会と成す、一歩も退かずの〈泥死合〉《ドッグファイト》。それはこのまま終わらない闘争にも思えるが、しかし。 「――ああ、こういうのも悪くねえ」  〈色即絶空〉《ストレイド》は彼に似つかわしい不敵な表情を浮かべ、そして── 「おおおおおおおォォォォォォォォ────ッ!!」  〈裂帛〉《れっぱく》の気合と共に、アスラは砲門から撃ち出されたが如くに猛進する。  技と執念の籠もった右拳――まさに拳の極みにより、ジンもろとも周囲全てを破壊する。 「ッ、…………!」  防御せんとした両腕が、いや身体そのものが〈罅〉《ひび》割れていくのは星などではなくそれを再現した魔拳の絶技によるものだった。  ジン・ヘイゼルの生涯が、人の至る極点により正面から駆逐されていく。  戦況が膠着状態に入ってからの、アスラの特攻……その予測はついていたはずだった。  〈掻〉《か》き消されようが何だろうが構わず、星を起動し殴殺する。これまでの〈色即絶空〉《ストレイド》であればなるほど確かに、そうしていたはずであろうが……  それを砕いたのは、この土壇場で更なる進化を遂げたアスラの一撃。  彼が吐いた大言壮語そのままに、〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈拳〉《 、》〈を〉《 、》〈極〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈色〉《 、》〈即〉《 、》〈絶〉《 、》〈空〉《 、》〈の〉《 、》〈星〉《 、》〈光〉《 、》〈を〉《 、》〈再〉《 、》〈現〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈崩〉《 、》〈拳〉《 、》がすべての計算を覆した。  そう、衝撃操作とは拳法において初歩であり同時に極みだ。本来、何某かの異能によって行使するものではない。  無我の境地か、執念か、あるいは最後にそっと見せた感謝がゆえか。ともあれば戦いの中で成長していったアスラは、ジンの想定外として機能した。  数年の時を経て再会しても何も変わっていなかった、糞餓鬼め、などと読み違えていたそれが敗因。  己の描いた設計図を越えた瞬間を見て、老兵はどこか納得の表情すら浮かべつつ── 「──俺の、勝ちだッ!」  そして、闘争は結末へと至る。  法悦に濡れた喜びと共に、アスラの拳がジンの胴を捻じるようにその真芯を〈穿〉《うが》ち貫いていた。  中に入っていた〈臓腑〉《ぞうふ》ごと腹から背中へ吹き飛ばして、文字通りに〈心臓〉《しょうり》を掴む。  宿願──大業、穢悪親殺しが此処に成り。 「ああ、これでようやく胸に空いた穴が埋まる。  甘美なるかな親殺し──ついに〈滾〉《たぎ》る衝動をこの内へッ」  勝者は敗者を〈睥睨〉《へいげい》しながら、歓喜の相を浮かべている。  本懐が成せなかった屈辱に塗れているジンだが、しかし心のどこかで、その狂喜乱舞する阿呆餓鬼を見ながら〈安堵〉《あんど》にも似た感情を抱いていた。  ああまったく、どういうことだ、己らしくもない。  そんな感情は今までになかったもののはずなのに、と自嘲する。  もはや指先一つ動かすことは能わないが、アスラがそうであるようにジンもまた一つの〈真理〉《きわみ》に〈至〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  狂ったように勝利を噛み締めて笑う〈作品〉《むすこ》を、茫洋な目で苦笑しながら眺めてしまう。  こんな馬鹿でも継嗣として完成した時に、自分はもういいと思えたこと。  燃え尽きた灰になったこと。研究欲を無くしたこと。  それはつまり〈製造者〉《おや》としての感情が、知らず芽生えていたのだと理解したから…… 「──逃げろ、〈最高傑作〉《ばかむすこ》。死神がやって来るぞ」  せめてという風に、ジンは最期にか細く告げた。  もう少し長生きしてから地獄に落ちろと、〈嘲〉《あいす》るように〈呟〉《つぶや》いて彼はそのまま瞳を閉じる。  吐血と同時、〈皺〉《しわ》だらけの表情から命の灯が消える──その直後。 「どういうことだよ、その顔は……ふざけてんじゃねえぞ、てめぇ」  現われたのは、ゼファー・コールレイン。  視線の先にあるのは、笑う悪鬼に血塗れの〈老人〉《したい》。  両者の状況を見てすべてを察したのだろう──全身に〈迸〉《ほとばし》らんばかりの怒気を〈纏〉《まと》っている。  胸騒ぎもありジンの行方を追ってきたゼファーであるが、その予感は最悪の形となってここに現われてしまう。  低く震える声を聞いて、アスラは心躍らせた。彼にとって仇討ちとは歓迎すべき事態であるし、目も〈眩〉《くら》むような怒りに駆られた相手とは、ときに本来有する能力以上の力で己を狩らんと向かってくる最高の獲物だから。  自らの知己を無残に殺されて、その目の前で仇が笑っているのはさぞ〈業腹〉《ごうはら》であることだろう?  いいぞ、いいぞ、来いよ琴弾き──戦場にのみ価値を見出す男は最高の美酒に酔い〈痴〉《し》れるが。  しかし、ああ── 「親父を殺して、泣きながら笑う馬鹿がどこにいやがる──!」  狂笑するアスラは気づく。己の頬に、熱いものが伝っていることに。  泣く? オレが? そりゃおまえ、嬉しくて仕方ないからだろうがと、勘違いをしたままひたすら歪んだ喜びを〈謳〉《うた》い上げる。  芯から満足してる、最高なんだよ堪らないんだ。  この胸を貫く〈絶叫〉《よろこび》こそ追い求めた衝動なのに、見当違いに何を言う。  〈色即絶空〉《ストレイド》は変わらない、どうしようもないろくでなしだ。  今際の瞬間まで自己の人情に気づかなかった彼の父親、ジン・ヘイゼルそっくりに、ただ目指すべき極地を求めて一直線に加速している。  そんな馬鹿を、ゼファーはもはや見ていられない。怒りと悲しみが胸に満ちて止まらなかった。 「───爺さん、待ってろ。今からこいつを送ってやる」  ならば墜とそう──すなわち、光無き地獄の底へと。  銀刃が〈第二太陽〉《アマテラス》と月光に閃き、弔うための闘争が開始された。  色即絶空、空即絶色──死闘第二幕、開演。  轟音、爆砕──建造物を破壊しながら疾走する二つの影。  衝撃伝導により受け流されたゼファーの星が地面を〈抉〉《えぐ》り、瓦礫が二人へ嵐の如く降り注ぐ。  瞬く間に廃墟と化した周辺一帯を、火花と閃光が染め上げていく。  その中で明暗はすぐさま分かたれた。当然の結果が訪れる。 「が、ッ……!」  放たれた拳が〈掠〉《かす》った瞬間、悪寒に従い自らの肉片を切り離す。するとそのまさに直後、切除したはずの血肉が花火のように弾け散った。  捨てたのは〈膵臓〉《すいぞう》近く、そして腎臓が少々と……幸いにも致死のものではなかったが、〈色即絶空〉《ストレイド》の脅威は〈僅〉《わず》か数合にしてゼファーを劣勢に押し込んでいく。  それも然り、魔星の拳打は触れれば終わり。今の一撃にしても〈微〉《 、》〈細〉《 、》〈な〉《 、》〈ブ〉《 、》〈レ〉《 、》が存在しなくば命は潰えていただろう。  アスラの〈昂〉《たか》ぶりはジンを殺してなお、かつてなく最高潮。破壊力と巧みさを兼備した暴威がゼファーの反撃を許さない。  その高揚感がために〈些〉《いささ》か手元が狂ってはいるものの、〈彼我〉《ひが》の力量差を〈鑑〉《かんが》みればさしたる問題にもならないだろう。  今の魔拳士は純粋な〈能力値〉《スペック》で、〈星辰奏者〉《エスペラント》を遥か圧倒した領域に到達して尚もそれは上昇を続けている。  親殺しという悲願成就を遂げたことで暴走する自我が、〈中〉《 、》〈途〉《 、》〈半〉《 、》〈端〉《 、》〈に〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》アスラの有する属性を一気に魔星へ傾けていく。  それが恐ろしい、なにせ──  〈穿〉《うが》ち撃ち砕かんとする連撃が〈怒涛〉《どとう》となって襲い来る。呼吸を読むも〈糞〉《くそ》もなく、隙を強引に踏み〈躙〉《にじ》りながら接近してくる強引な力押しの戦法。  ゼファーが苦手とするのは、そういった優性を自覚しつつ頭ごなしに踏み〈躙〉《にじ》ろうとする輩だ。大きなものとはただそれだけで、精神の支柱を折りに来る。  救いがあるとすれば、その急激な成長にアスラの技が完全に追随しきれていない部分だろう。  剛撃のどれもがこれまでの出力を遙かに凌駕している反面、技と力の完全な一致にはとても至っていなかった。  その〈僅〉《わず》かな隙をか細い希望と手繰りながら、疾走しつつ互いに撃を流星のように放ち合う。  しかし趨勢は取り戻せない。アスラが押し込み、ゼファーが〈凌〉《しの》ぐ。  それがもはや戦闘の始まって以来、覆せない構図になっていた。  衝撃操作の究極と化したアスラは最早圧倒的で、ゼファーはただ避け続けて戦っている。刃を中空でぶつけることさえ、入念に回避していた。  ヴェンデッタとの〈同調〉《リンク》無しでどうにか生き延びていられるのは、〈偏〉《ひとえ》に先ほど上げた理由と環境要因に依るところが大きかった。  ジンとの死闘を経たことで、周囲は相当崩壊が進んでいる。瓦礫と化した建造物も多く、アスラが星辰を伝導させるたびにそれが飛び火を受けるように次から次へと砕けていた。  ……そのせいで比較的早期に、ゼファーは〈色即絶空〉《ストレイド》がどういう星かを看破することに成功する。  衝撃操作の謎を解き、さらに瓦礫へ常に〈反響振〉《ソナー》を用いることで相手の星光を一瞬早く察知した。  衝撃の自在操縦──発勁という戦闘技能の究極的な拡大版だ。  無論、アスラも相手の対抗策をまったく同時に見抜いたがため静を捨てて動を取った。その方が、魔星として完成しつつある自分にとっても合っているという判断だ。  〈人造惑星〉《プラネテス》がゆえの圧倒的な身体能力を駆使した移動攻撃はシンプルであるが効果的で、確実に敵手の体力を削り追い詰めていく。 「──────」  けれど、その大きな戦術変化がゼファーは腹立たしくて仕方ない。  確かに心の〈昂〉《たか》ぶりと同期するかのように、星辰の出力はかつてないほど強いだろう。  だが、そこにかつて存在していた〈外連味〉《けれんみ》は存在しない。ただ〈腕〉《かいな》を振り回し、叩きつけるだけの粗暴な拳。 「馬鹿か、おまえは……」  悪態を吐きながら、放たれた鉄拳を刹那で〈躱〉《かわ》す。  立ち上る煙から視界は阻まれ、そこを貫いて連射砲の如き洗礼が襲い掛かってきた状況に更なる舌打ちを漏らしながらも、しかし言葉は止まらない。 「まるで魔星そのものだ、人に近いんじゃなかったのかよッ」  持ち味の棄却──人間性の放棄、それをふざけるなと心底思う。  拳の極み? これではもはや、ただの〈星辰光〉《アステリズム》だろうに。 「ああそうとも、これにて親父様の悲願は成就よ。  完成した、埋まったのさ。祝杯代わりだ踊れやゼファー、ここにようやく我が〈色即絶空〉《ストレイド》は完成した」 「ほら、どうした? 認められんと言うのなら、敵討ちへと〈滾〉《たぎ》るがいいッ」  自身へ向けられた拳撃は視界を覆わんばかりの大数で、だが舐めるなとゼファーはそれを回避する。回避しながら怒りを抱く。  これだけ愚直ならば星の出力に劣っていようと回避は間に合う。  かつて叩き伏せられたものとは違い、あまりに稚拙なこの軌道……ウラヌスとまったく同じだ。〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈素〉《 、》〈直〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》。 「完成しただ? 馬鹿を言え。おまえは捨てただけだろう。  半端で未熟な化物に、そうまで落ちぶれやがってよ……!」  苦手だったし嫌いだった。認められないのは今も同じ。  けれどそれでも、こいつの強さと在り方には一種の畏敬を抱いていた。やるせない感情が湧き上がるのはそのためだ。  自らの後方で起こった爆発を推進の力として、ゼファーは前へと駆ける。  もはや見てはいられない。  よっていざ、〈色即絶空〉《ストレイド》との決着をという一念に──迷いは心へ一切なかった。 「ならば見せてくれ、人間の強さとやらを。  それが尊く、美しいなら、証明してくれ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」  迫り来る大馬鹿者を仕留めるべく魂を振り搾る。  まるで舞い踊っているかのように、追いかけっこをしているかのように、両者の疾走は止まらない。  破壊を繰り返し、今やこのスラムの全てが戦場と化した。  地を蹴る衝撃の操作により走るだけでアスラの駆けた廃ビルは、次から次へと支柱を砕かれ積み木のように倒壊していく。  足場を変え、舞台を変え、ただひたすらに疾駆しながら──そして。 「ら、あああアアアアァァァァッ!」  刹那……〈躱〉《かわ》した拳が壁面へと突き刺さり、轟音が響き渡って攻防の衝撃に耐え切れなかったビル一棟、またも大きく傾き始めた。  二人は隣のビル壁面に飛び移り、垂直に駆けあがる。屋上へ向かい走るゼファーに追うアスラ、背後から迫る狩人へ決定的な言葉を叫ぶ。 「はっきり言ってやる。おまえは確かに強くなったが、同時に弱さも手に入れたんだよ。人も兵器もそういうものだ」  この世は〈遍〉《あまね》く表裏一体。何かを得れば捨てねばならないものが発生するのが道理だろう。  剛性を増せば、その分柔軟性は失われる。  攻撃性を加速させれば、それだけ冷静さは薄れてしまう。  完全な存在などそれこそ天頂に在る〈大和様〉《カミサマ》くらいだが、きっとそれにしたって本当は完璧には程遠いのだ。  利点あり、欠点あり──だからこそ。 「楽し気に〈勘〉《 、》〈違〉《 、》〈い〉《 、》〈を〉《 、》〈加〉《 、》〈速〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈や〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》。いいかよく聞け、それは本当の望みじゃねえ。 おまえは単に親父に認めてもらいたかった、ただの〈餓鬼〉《ガキ》に過ぎねえんだよ」  心の空白を埋めるように、スラムで喧嘩に明け暮れていたかつてのアスラ。  快楽主義者と表わすことも出来るだろう。しかし、それとて今考えれば何かの反面に他ならなかったのではなかろうか? 〈誰〉《、》〈か〉《、》に自らの証明を成そうとしていたのではないかとゼファーは思わずにはいられない。  この悪童に指向性がないのも、誰とも群れないのも然り。何もかもをただ楽しもうとする感性もそこに起因しているはず。  胸の穴に衝動の有無、虚無感……反動として現れた享楽の〈性〉《さが》。  そういった複雑な内実をゼファーは分からないが、そんな理屈を抜きにしてこれはとても簡単な話だろう。  馬鹿息子は気づかない。〈製造者〉《おや》をずっと求めていたに過ぎないという当然の感情さえ、搭載してはいなかった。 「はははは、そうかいそうかい──分からんなァッ」  そんなゼファーの訴えもアスラにとっては戯れ言だ。知らん知らん、もう喋るなよ。興が削がれる拳で語れ。  親父は弱者で関係ない。これまで積み上げてきた首の一つでしかありえず、だからこそこれで自分は良かったのだと盲目的にひたすら誇る。  これ以上の問答は不要とばかり、〈吼〉《ほ》える〈色即絶空〉《ストレイド》はゼファーを殴滅するべく轟閃をより滾らせる。彼はもはや止まらない。  そして、屋上へ到達したと同時──  流れ星のように上空へ飛び上がり、墜落してくるアスラ。魔星の暴威そのままにゼファーの防御を一直線かつ力任せに撃ち抜こうと飛翔する。  技で劣ろうが生来の圧倒的能力で〈蹂躙〉《じゅうりん》するそれこそ人外の在り様であり、人間如き矮小な存在に抗う術はなく。 「ッ、────」  直撃の寸前、盾にした左腕を自らの手で截断した。  絶命に至るかのような激痛に一瞬意識を喪失しかけ、それはすぐに白熱化して意識の内を埋め尽くす。  〈獰猛〉《どうもう》にもう一撃、振りかぶるアスラと至近距離で眼が合った。 「さあ、これで証明するのかい?」  問いかけに、顔を歪めながら──無論。 「ああ、だからもう──こいつで終わりだ。   おまえはやはり、〈人間〉《いぜん》の方が強かった」  それをはっきりと伝えてから、刃の振動を増幅させビルの一角を切り裂いた。  着地すべき足場の失われた二人はそのまま、揃って地面へ落ちて行く。  自由落下の浮遊感に見舞われながらそこで初めて、暴走するアスラの精神は一つの事実に気づかされた。  周辺に物体が何もない。ビルの壁面すら〈僅〉《わず》かに遠く、つまり彼が攻撃を受けた際それを逃がすための避雷針が何処にもなくなったことを示している。  親殺しにより暴走した精神の弊害──普段なら絶対しなかった不用意な強襲が、ここへ来て決定的な隙を露呈させた。  ゆえにこの刹那、魔拳士はあらゆる攻撃を無効化できず……  それを狙っていたかのように、失った左腕の断面から粘度の高い〈血飛沫〉《ちしぶき》を、ゼファーはアスラに振り向けた。 「はッ。おいおい、舐めんじゃ──」  と──多量の血液が目潰しとなって視界を塞がれたアスラが、続けてさらに言葉へ詰まった。  〈気〉《 、》〈配〉《 、》〈が〉《 、》〈読〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》──いいや、読めはしているが感度が相当に鈍っている。  以前は五指の動きから、髪の一本さえ感覚で察知できていたはずが、今はなぜか相手が何処にいるのかとぼんやり分かるだけなのだ。  それも当然。なぜなら彼は、魔星として向上した出力により荒ぶっているがため、繊細さを著しく欠いた状態にある。  それは普段なら気にも留めない〈僅〉《わず》かな意識の〈齟齬〉《そご》なのだろう。即座に修正可能な隙は、しかしこの時アスラ自身の変貌により大きな意味を持ってしまう。  ほんの一秒にも満たない刹那、視界で相手を追えないことを〈億〉《 、》〈劫〉《 、》だと感じてしまった意識の変化が……技術のすべてを台無しにした。  皮肉にもそれは、技を磨いた〈人〉《 、》〈間〉《 、》としてのアスラなら、笑ってしまう稚拙な策であったろう。  ジンを殺す前ならば、あの絶拳を放てた時の彼ならば、視界がなくともゼファーの呼吸さえ感じ取り〈迎撃〉《カウンター》を成功させていただろう。  しかし、今はもう無理だ──なぜなら彼はクロノス-〈No.η〉《イータ》。  魔拳士、アスラ・ザ・デッドエンドであれば揚々と感知できたはずの小技を、強大凶悪な魔星へ傾いてしまったことにより〈取〉《、》〈る〉《、》〈に〉《、》〈足〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈小〉《、》〈技〉《、》〈だ〉《、》〈と〉《、》〈無〉《、》〈意〉《、》〈識〉《、》〈で〉《、》〈判〉《、》〈断〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈う〉《、》。  人外ゆえの強みもあれば、人外ゆえの弱みもある。  その事実がこの一瞬、すべての明暗を劇的に分けたのだった。  自己の暴走に気づいたところでもはや手遅れ。両眼を拭い、弾かれるように反応するアスラの首筋へ刃の狙いは微塵も違わず── 「あの世で親父に謝ってこい」  ──墜落する闇の中、閃くは銀の死刃。  訪れた決着は無音。断末魔を叫ばせることもなく、引導を渡す瞬間に〈昂〉《たか》ぶることさえ欠片もなく。  ただ〈粛々〉《しゅくしゅく》と、親殺しの罪は裁かれた。  何より家族を愛した者と──家族を捨てて哄笑した者。  恐るべき星の激突は、その激しさとは真逆にどれだけ〈人〉《 、》〈間〉《 、》であれたかを焦点に勝敗を決したのだった。 投げ出されるように露わになった乳房から、鼻腔をくすぐる香りが漂ってくるようだ。 ふわりとした雌の香りが谷間から、そして腋の下からも揺蕩う。 磨かれた筋肉。しなやかな肢体。けれどむせかえるような女の匂いをさせて、今こうして目の前に、誇らしげに〈晒〉《さら》している瑞々しい乳首から目が離せない。 「ふふ。目線で、乳房を触られているようだな」 うまいことを言うものだと思いながら開かれた胸元を、そして先端をどうしても凝視してしまう。これがチトセの肢体だと思うほど興奮が止まらなくなる。 「気にしなくていいぞ。思う存分、見たいだけ見ればいい……っ」 「そうでないと、こうしてはだけている意味もないだろう? ほら、どうだ……私の乳首は」 視姦などという固い表現も、どうやら意図している様子である。むしゃぶりつきたかろう、とでも言うような挑発的な〈台詞〉《せりふ》が耳を撫でながら穴へと入ってくる。 汗の滲む肌は生温かく、本能の源泉から溢れ出す劣情が、互いの体温を上げてゆく。 「谷間が蒸れるな……」 じんわりと、汗ばんだ肌をこれ見よがしにアピールして不敵に微笑んでいる。 その表情にはどことなく恥じらいが見え隠れしていたものの、それがまた魅力的だ。誘惑と呼ぶには暴力的なほど、ぷるんっとした二つの果実は、今にもこぼれそうだ。 「んんっ、ゼファーに見られてるだけで、身体の芯から熱くなってくる」 言う通り、まだ積極的に触れてもいないのに、彼女の肌には後から汗が浮かび上がってきている。 部屋の中に漂う女の匂いは、どんどん濃厚になってゆくようで、呼吸する度にくらっとなった。甘く、それでいて苦みもあるような中毒性。 鼻腔から入り込んだチトセの体臭、芳醇な雌の香りが、眼球の奥をかき混ぜるように刺激する。本能が滾る。 「ふふ、固くなってきているな。まだ触っていないのだぞ」 肉棒を見つめる、女の目力に思わず身を引いてしまいそうになる。まるで視線の応酬だった。 〈怯〉《ひる》んでいても仕方ないので、わずかに腰を突き出して〈晒〉《さら》してみると、彼女はくらっとしたように頭を振った。 「すんすん……はぁっ、一瞬、おまえの匂いで真っ白になった」 「まだ完全じゃないのに、こんなにも太く〈滾〉《たぎ》るのか……、びくんと動くのはわざとじゃないのか?」 「ああ、とても生臭い……それに、どんどん膨らんでる……」 うっとりと語る瞳は熱っぽく、朗々と唇が〈囀〉《さえず》り、今にも吸いついてきそうな距離感だ。 ふう、と悪戯っぽく吹きかけられる吐息が熱い。それだけでも股に痺れが走り、これからの好意に対する期待と予感が掻きたてられて…… 「……ちゅっ。そろそろ、私が我慢できない」 「おまえはそのままでいい。私の身体で奉仕してやる……っ」 しっとりと濡れた乳房の間を、一滴の汗が伝う。ぺろりと舐めたい衝動に駆られたが、加速しかける劣情を制して、動かずに彼女を待った。 いきりたつモノを、チトセは見せ付けるように口を開き、ちろりと舌先をうねらせながら……そして。 「はぁんむ……こうすると、気持ちいいのだろう?」 咥えられた瞬間、快感と視覚効果が下腹部を走った。 ぬめる口内粘膜と、眼前に広がる凶悪なくらい真っ白で目の奥が〈眩〉《くら》むほど存在感を保つ豊満な双丘。 磨かれ鍛え上げられた肉の感触は、淫らにうごめく舌は、暴力的なまでの弾力で、肉棒を圧してきた。 「ただ柔らかいだけのものより、張りがあっていいだろう? 娼婦では得られない快感を与えてやる」 「……もう二度と、私から離れられないようにしてやるからな……んんっ」 ……まあ、その点についてはあえて指摘することはしなかった。ここまできて、別の女と比較するつもりはないがそれは後で告げればいい。 今は彼女が何をして、どういう快楽へ引きずり込んでくれるのか、それを知りたい。果たして、どこまでやってくれるというのだろうか。 あの、高嶺の花であったチトセという女。本来なら会話することさえできなかったはずの、アマツという家柄。そんな女が奉仕してくれようとしている事実に、幸福に浸る。 「ちゅぴ……むっ、ぷぶっ……、ゼファーの気持ちいいところを全て看破してやる……っ」 破顔して宣言する。包み込み形を変える乳房から、ピンク色の乳首がふるふると震えていた。舌なめずりするような彼女の目線さえペニスを這っている。 苛酷な訓練と残酷な戦場を戦い抜いてきたはずなのに、彼女の肌は滑るように滑らかでもちもちした感触だ。 不摂生という言葉からは誰よりも遠いがゆえか、それともチトセが極上だからか、きめ細かな白皙とそれから蛇のような舌が肉棒を包んで癒す。 雄の生殖器を、その可憐な口で味わいながら慈しんでいく。 「ふふふ。暴れるにはまだはやいぞ……ちゅるっ」 「んんっ……ちゅ、くっ、はむんちゅっ……れろれろれろ……っ」 「……ちゅ、ちゅむ……れろれろ……ぺろっ、ちゅぶ」 ぺちゃぴちゅっという水音が部屋へと響く。間に差し込まれる息遣いが、いつもよりもさらに〈淫靡〉《いんび》で、脳内へ〈木霊〉《こだま》する。 「ちゅるるるぅううううぅっ……ちゅびっ、ビクビクしてるな……可愛いぞ」 「口の中も、それから胸の中も、どんどん熱くなってくる……っ」 ペニスで乳首に触れるため動かそうとすると、汗ばんだ乳房で力強く挟み込み、舌先で鈴口の穴さえ丁寧にちろちろと愛されていくのが心地いい。 互いのじんわりと高まる体温によって、谷間がどんどん蒸れていく。チトセの匂いが強くなる。 「はぁああああん……んちゅっ、るりゅ、ちゅぷっ……れろれろ」 「あふわぁああ、んんっ……先から出てきてるの、どんな味か教えてやろうか?」 「きっと……、おまえが思っているよりも、濃厚だぞ……んんっ、じゅる」 ぎちぎちにそそり立った肉棒を乳房の間に沈み込ませ、先走りを嚥下する。 その表情は、まるで極上のアルコールを飲んだときのように頬を染め、打ち震えていた。尿道にたまっている透明な淫液をちゅうちゅうと、陶酔しながら吸ってくれる。 「ちゅぱっ、……じゅるぅううううっ、ちゅっ……れろれろっ、るちゅっ」 「ぷはっ……はぁはぁ、溢れてくるな。素敵だぞゼファー」 「いい子、いい子……ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ」 愛おしげにキスを繰り返す。彼女が言うように、先走りと呼べないくらい濃い先走りの奔流が漏れ出している。 歯の裏にまで絡みつき、舌先でそれを舐め取ると、雄の匂いが鼻に抜けていくのだろう。うっとりとしながら唾液を絡ませ、ぬめりを増やす。 「ちゅぱっ、……じゅぷぅっ! ちゅぅううう~っ、れろれろれろぅっ、るちゅっ、ちゅぶ!」 「はぁはぁ……っ、〈咽〉《のど》が〈灼〉《や》けるようだ。おまえのも、心なしか膨らんできたんじゃないか」 〈淫靡〉《いんび》な笑顔を浮かべ、彼女はペニスをその乳房に鎮めさせて、俺の視界から隠してしまった。 時折、亀頭がひょっこり顔を出し、しとどに濡れている鈴口をちろちろと舐めたりする。どうやら先端を舐めるのが、味がして好きらしい。 身体ごと持っていかれそうだった快楽が弱まり、ほっと息をついたところで、それを見計らったかのように、再び半開きになった口で勢い良く〈咥〉《くわ》えた。 「むふぅ……ちゅぶぅっ! ぐっぽっぐっぽぐっぽぐっぽ……っ、じゅるぅっ!」 「れろれろれろぉっ……ぐぷっ、ぐぽっっ、じゅっぷっじゅっぷっ! ちゅるるるるぅうううっ……っ!」 「ぐぷぷっ……ぷはぁっ、はぁはぁ……はむんちゅっ……っ、ちゅぶ! ちゅうちゅうちゅう……! ちゅぶっ、るちゅっ!」 眼球の奥が真っ白になるかのような快楽の大津波。 唇を狭く開き、わざと歯を当たらせるように勢い良く〈咥〉《くわ》えたのだが、ダラダラ垂れている〈涎〉《よだれ》が、まさに潤滑油の役割を果たした。 ゆえに比べものにならない刺激が、亀頭から根本までに与えられ、意識は危なく飛んでしまいそうになった。 俺の股ぐらを、チトセがむしゃぶりつくしていく。 「ちゅぶぅっ、ぐぷぐぷっ……ちゅるぅっ! ……はぁはぁっ、イキそうになってたな……ふふ」 「いいぞ、その調子だ。もっと感じて欲しい……、さっきから汗と〈涎〉《よだれ》で、おまえのが乳房にうずもれてたまらない。胸はヴァギナじゃないのになぁ」 言わずもがな、双丘を上下に動かすたびに滑り、まるで抽送しているようだ。いよいよ見えてきた快楽の終着点。雁首の溝を甘噛みされるたび、精嚢が甘く疼く。 「ちゅぱっ! るちゅううううっ……ちゅぶ、ちゅぶっ、じゅっぷっ!」 「はむんちゅっ! れろっ、れろれろれろ……、じゅるうぅっ! あつい、血潮が〈滾〉《たぎ》っているようだぞ」 ペニスが脈打ち、彼女はそれを〈咥〉《くわ》えながら、口内でひたすら高まり続ける体温を感じていた。 味はより一層濃くなって、どこか苦みを含み始めるはずだというのにそれさえ好んでいるのだろうか。むしろもっともっとと求めながら、熱心に口中でねぶる。 「唇で擦れて……んんっ、キスにしては濃厚過ぎるぞ」 激しくなる動きが、抽送と変わらない刺激を与えてくれる。 献身的な奉仕でありながら、挑発的なチトセの口淫。まるで全身が性器なのだと言わんばかりの勢いだ。 「はぁはぁ……っ、ちゅるるうぅっ、じゅぷっ……ちゅっちゅっ、ちゅぶっ!」 「れろれろれろ……っ、はむぅ……、ぐっぷぐっぷ……、ちゅば! じゅっぷっ、じゅっぷ……、ぐぽっ!」 「ちゅっ……、ぷっくりしてきた。出そうなのか?」 うなずくと、彼女は不敵に笑って言った。 「ならば、私の顔に出すがいい。おまえのを、一番濃いのを、まず顔面で受け止めてやる」 「顔にかけて……、いっぱい出して、味あわせて、雄の精子でマーキングしていいんだぞ……ちゅっ」 〈台詞〉《せりふ》の終わりに、鈴口へ可憐な口づけ。 少しも遠回しには伝えてこないチトセの物言いに、さすがの自分も苦笑いしながら、しかし首を縦に振った。というか無論、そうしたい。 チトセの顔に吐き出して、自分の匂いをつけたいという下卑た欲望が止まらない。征服欲が加速する。 「はっはっ、んんっ……ちゅっぶ、固いな……最高に吐き出してくれそうだ」 「ちゅるうううぅっ! ぐっぷぐっぷぐっぷ……! じゅぽじゅぽじゅぽ……ちゅぶっ!」 同時にさまざまな形に変える乳房の、尖端に〈雁首〉《かりくび》が引っかかる。 「ふぅわぁあああ、んっ、乳首がびりびりぇって……! くぅうううーーっ」 肉棒の中で〈滾〉《たぎ》るものが、沸騰しながら駆け上がる。身を乗り出して腰を積極的に動かすと、それに合わせるように〈咽〉《のど》の奥へと深く深く〈咥〉《くわ》えてくれた。 俺の身勝手な雄の精処理そのものである腰の動きを、チトセは口の粘膜で受け止めてくれる。すっきり解消していいのだぞと、女神のようにむしゃぶってくれる。 混じり合う粘膜。〈精嚢〉《せいのう》が甘く〈疼〉《うず》き、心地よく蓄えられたスペルマが尿道をせり上がっていく。 「ぐぽぐぽっ、ぐぷぅ……れろれろれろっ! んちゅぅううっ、じゅぷっ……ちゅる、ちゅば……っ!」 「ねっとりしたのを、かけてくれ……ぐぷぐぷっ、じゅっぷ、ちゅぶ……っ! ちゅるぅううううう……るちゅっ!」 〈咽〉《のど》の奥の感触が、亀頭から返ってくる。苦しいはずがそれさえ快感の材料にして、懸命に搾り取るまで口技を止めないというのが伝わる。 汗と先走りでぐっしゅり濡れた肌が、どこまでも、まるでしゃぶりつくしたようにべとべとになってゆく。 「じゅっぷっ、ちゅぶ……ちゅぴ、ちゅぶ……っ、か、感じるよゼファー。おまえのが、もう――」 「私の口の中で、熱い子種が……! ちゅるるるるぅううう! ちゅっ! ちゅっぷ! るちゅ、れろれろっ!」 「は、はぁはぁ……出して。ゼファー、お願い、出してぇええ……っ」 「んん……ちゅぶっ、ぐっぷぐっぷぐっぷっ……るちゅ…、はむんちゅっ! いっぱいかけて……!」 そのまま、堪えることなんて考えず── 果てる寸前、口内からペニスを引っ張りだし、チトセの顔へ吐き出すように射精した。途中、やはり歯があたり、それは最後の大きな刺激になり最高の開放感を遂げていく。 射精の音が盛大に響き、彼女の鼻がしら、頬、眉間、瞳……ありとあらゆる場所を、白濁液で汚していった。 しっかりと挟まれた豊乳が心地よく、それがさらに快感を後押しする。 「……はぁ、ああああ……っ、これがゼファーの――」 雄の獣であるように、愛おしい自分の雌へとマーキングした。 思う様、チトセの顔へ好きなだけ吐き出して…… 「ぺろっ……、濃いよ。これだけ粘ってるなんて、中の精子まで分かってしまいそうだ……」 痺れるような充足と共に、俺はそこで嘆息した。顔についた精液を舐め取りながら、彼女が甘ったるく解説してゆく。 「えぐくて、生臭くて、雄の欲望たっぷりで……こうまでネバネバしていると、舌の上で噛み切れないな」 「濃厚な味は、繁殖欲求そのものか? ふふ、んちゅ……はぁぁ」 満足気な表情で、だらしなく口を半開きにしながら、まるで犬か猫のようにペロペロと拭き取るように舐める。そのたびに胸で挟まれたままのペニスへ、甘い〈痺〉《しび》れが広がった。 唇の周りや、ほっぺについたのや、鼻についた精液。彼女は指ですくいとりながら、ねばねばと伸ばしたりして遊んでいる。 「精液の味……、鼻をつく匂い……、たまらない。おまえのなら、いつまでもペロペロしていたいな……」 髪にかかったのですら、最高に幸せそうであることがクラリと理性を転がしていく。 そして、彼女はにやりと笑い、誘うように告げてきた。 「はぁああ……、まだ出せるよな……? 狼ならば、こんな程度で終わるわけがあるまいよ」 「私といっぱい交尾して、野生の本能そのままに種付けしつつ、生殖欲求を気持ちよぅく解消したくてたまらないんだろう――?」 「ふふふ。いいぞ……これだけ濃いのなら、〈既〉《 、》〈成〉《 、》〈事〉《 、》〈実〉《 、》もお腹で育みやすそうだ」 それはまさかと、男として退路を立たれるような感覚を味わわされつつ…… チトセの勢いは止まらない。果てたはずの肉棒をしきりに弄り、ゆっくりと見せつけるように跨りながら、女性器を露わにした。 嘲弄とまではいかないが、どことなく挑発的な態度や仕草はそのままである。それは彼女なりのポーズなのかもしれなくて、普段のチトセを連想させるだけに外見とのギャップが興奮させる。 「おいおい、すぐに回復しそうじゃないか。脈打ってるのが伝わってくるぞ」 ペニスに対して、くにくにとヴァギナを押しつける。そこはまるで温かいバターのように、蕩けるような具合だった。 女が身体を上下させると、性器同士は密着して擦れ合い、陰唇が亀頭によって開かれる。 むわっと濃厚な雌の匂いは、あたかも目で見える蒸気のように漂っていた。吸い込むたびに脳が痺れ、欲望が止まらない。 「あついな……、部屋中の温度が上がっているみたいだ」 「んん……っ、出したばかりだというのに、こんなにも早く固くなるとは……」 股間にまたがり、ぐりぐりと自らのヴィギナを押しつけてくる。それは乳房で挟まれる圧力にも負けない感触だった。 恥骨の当たる音がわずかに聞こえる。身体中へ〈淫靡〉《いんび》に染み込んでくる。肉のヒダが愛おしそうに亀頭と竿へ絡み付き、愛液を塗りこんでくれる。 ただの素股と呼べないほど、生殖器の擦り合いは気持ちよかった。 「ゼファー、気持ちいいか?」 聞かずとも股間の反応で充分過ぎるほど伝わっているはず。一度出したせいか、今にも果てそうなくらい、肉棒はぎちぎちに張り詰めていた。 より敏感になっている怒張の先へ、とろとろの密液がまぶされてゆく。くぱくぱと、チトセの穴が呼吸するようにほぐれ、開いていく。 「私から漏れ出すのは、もうとっくに止まらなくなっているぞ。自分ではどうしようもないくらい……」 彼女の言動全てが、興奮を呼び起こす方へ、刺激的に響いてくる。 性器を擦り合わせるだけでも、くらっとするような性臭が立ち込めるというのに―― 「にちゃにちゃ音がし始めて……んっ、おまえの生殖器から〈零〉《こぼ》れているものなのか、私から湧き出るものなのか、もはや分からなくなってきたな……」 「見てみろ。びしょびしょのとろとろだ、奥に待つ処女膜だってふやけそうになっていて……」 「ほうら、美味しい〈処女膜〉《ヴァージン》までもう少しだぞぅ? これからたっぷり味わって好きに種付けできるのが、嬉しくてたまらんのだろう? うん?」 誘惑に生唾を飲むと同時──初めての証とペニスが、ゆっくりと口付けした。 あのチトセの、高貴な女の処女を奪えるという事実に対して、興奮してやまない自分がいる。言われた通りに今すぐ突きこみ、粘膜交合の心地よさを味わいたいと、雄の繁殖欲求が叫んでいた。 愛液の混ざり合った匂いが鼻をつく。ぐちゅぐちゅになった性器からほど近い内ももでさえ、汗でじっとりと濡れている。 泥の中で行為をしているような感覚が二人を包み、ぴったりと処女穴へ先端が軽く埋まった。 そのままゆっくり、腰が下がって…… 「はぁああ……、んくぅうううう……! あっ、あっ、あっ、ああああっ」 ぷちぷちと、じゅくじゅくと、未開の秘肉とねっとり結びつきながら…… 誰も味わったことのない膣肉へ、生殖器をうずめていき…… 「くぅうううう、ああああっ! 子宮のところまで、〈辿〉《たど》りついたみたいだ、ゼファーのが……!」 俺たちはついに、雄と雌の交尾を果たした。 ペニスへの締め付けがたまらなく心地いい。熱く〈灼〉《や》けた鉄心が身体の中へ入ったきたかのように、チトセもわななきながら肺腑からどっぷりと息を吐き出している。 苦しそうに喘ぐが、しかし彼女は動きを止めなかった。自ら芯を据えて、めりめりという音が聞こえるくらい、さらに深く腰を落とす。 「す、すごいな……、熱くて固い……、これがゼファーのものなのか……っ」 「……んはぁあああっ! 子宮の、おくまで……っ、深いところ……、お、お腹を突き破りそう……っ」 「処女だった女の戯言だと思うか……?」 ひと呼吸して〈繋〉《つな》がりを実感していると、女は汗を浮かべ、確信のある微笑みでつぶやいている。 「内臓まで動かされるみたいだぞ……、おまえのがどれくらい凶悪なのか、私しか分かるまい」 「ふふふっ。処女だった私しか、な」 「どうだ? 私のヴァージンはおいしいか……?」 なんという問いかけだろう。うまく答えられなかった。あの、チトセの処女の味。 他の男に突き刺されて慣れた女と違い、極上の快感がペニスをやわやわと締め付ける。憧れだった女との交尾に獣としての昂ぶり止らない。 獣欲を刺激されたせいか、わずかにくいっと腰を動かしてみた。 「はぁあああああーーーーッ! い、いきなり、そんな……くぅうっ」 下から軽くだけ突き上げる。 汗が飛び散り、真っ白な乳房を揺らしながら、彼女は弓なりに喘いだ。 「……はぁはぁ、セックスとは、こんなにも痛くて気持ちいいものなのだな」 「そんな顔をするな。堪えられないわけじゃない。痛いことは痛いが、それがまた〈痺〉《しび》れて……っ」 その痛みすら至福の如く、頬を染めている。 こちらの感触と言えば、まさに極上の処女。ほぐれ切れていない肉は、男根の侵入に対してきつく締め上げてくれる。 鍛錬を重ね、磨かれた宝石のような肉体の味わい……どこよりも柔らかな肉壁が、雄の欲望を受け止めて絡みついてきた。 すっぽりと飲み込まれ、やがて息も整ってくると、彼女はうっとりとつぶやく。 「はぁはぁ……、おまえはすっかり、その気のようだな。いきり立つ狼みたいだ。口の中に含むのとは、また違う固さで……」 「こんな凶悪なものに、私の処女肉が〈躾〉《しつけ》けられるわけだ……っ」 ああ、たっぷりと躾けてやりたい。ここを思う様開拓し、自分の味と形を覚えさせ、最高に気持ちよく吐精できる膣穴にしたいと本能が叫んでいる。 今すぐにでも子宮へ種付けたいという獣欲を堪えながら、ゆっくりと快感を味わいながら抽送を開始する。彼女はこちらに合わせて腰を前後させ始め、俺のペニスを締め付ける。 初めての肉穴を、二人で気持ちよくほぐしていく。 「ふわぁああっ、ああっ、あっあっあっ、子宮口でキスしてるぅ……っ」 「突き上げられるたび、先がこつんとあたって――んはぁあ! で、電気が〈奔〉《はし》る……っ」 ぶるんぶるんっと揺れる双丘の迫力は、先ほどまでの口淫を思い出させた。乳首は固く勃起して天井へ向き、むしゃぶりつきたくなってたまらない。 すると彼女は弓なりに喘いでいた背中を丸め、身体を前に倒して〈囁〉《ささや》いてきた。乳首を俺の顔に擦りつけ、誘惑しながら腰を動かす。 「くぅうっ……ひゃぁあああん、はっはっはっ……、お、おまえが我慢できなくなったら、いつでもいいんだぞ」 「口の中へ出したものを、今度はもっと深いところへ、注いでくれ……っ」 「ふふ……っ、さっきよりも……んんっ、濃いのを、ちょうだい?」 心底、たまらなそうに歓喜して、チトセがうっとりと言った。 そして、今までのは前哨戦と言わんばかりに、激しく腰を振り始める。 「ああぁっ、ああっ! 〈繋〉《つな》がってるところ、ジンジンしちゃうぉ……くぅっ!」 「ま、まるで私の〈膣内〉《なか》を、かき混ぜるように暴れて……んはぁあああ!」 パンパンと乾いた音が、粘着質の水音と混じって響き渡る。痛みには慣れてしまったのか、彼女はもう〈躊躇〉《ちゅうちょ》せずに抽送を繰り返していた。 はち切れんばかりの乳房が上下へと揺れ、たぷんという音までもが、こちらの耳へと届いてくる。 「も、もう、なにがどうでも……、よくなってきてしまうな……っ」 「くぅううう! はっはっはっ、はぁあああん! お、おまえのが良すぎて、何にも考えられなくなってくる」 「このまま、死ぬまでゼファーと交じ合うことができたら……ふふ、ふふふふふ……かはぁ」 痴態からは深い情念さえ感じたが、〈淫靡〉《いんび》な雰囲気は圧倒的だった。 「お腹に既成の……んんぁ、事実を作るまでは私が、常に襲ってやるからな? いつでもおまえのスペルマを、子宮に貯めててやるからな?」 「そうなれば、さすがのおまえも二度と逃げられないだろう? ほんのちょっとでもムラッと来たら、〈膣〉《ここ》で出していいんだぞ……んうっ」 精処理用の穴を教えるように、チトセは子宮口を中にあるペニスの先端に押し付ける。いつでもここで果てていいという言葉に、理性がまた一つ削られる。 滾る、滾る、止まらない本能。自分が男どころか人間ですらなく、雄の獣になっていくのが分かる。 「――あはぁ! はぁはぁ……ふわぁあああ、くふぅっ、そ、そこ、いいぞっ、一番感じる……おまえの種を、宿す場所っ」 まさしく泥の中へ溺れるくらいに愛し合う。なにも否定できる言葉などない、最高の生殖交尾。 深く突き刺さっていればいるほどに満たされる快感は、抽送のスピードをさらに高めてゆく。ぱんぱんっと打ち付ける音は、まるで拍手のようだった。 「子宮とペニスがキス、してるな……っ。ちゅっと触れ合うのが、聞こえてくるぞ……」 「あっあっあっあっあっ……、ああ……っ! なんて幸せなんだ」 「くぅふぅっ……ふわぁあああっ! はぁっ! あああっ! あああああっ!」 汗がぽたぽたと、俺の鎖骨へ滴って落ちる。瞬間、どんな訓練でかく汗よりも、濃密な雌の匂いがふわりと立ち込めた。 奥まで飲み込んだ肉棒をむしゃぶりつくして膣内の肉壁が〈蠕動〉《ぜんどう》していた。甘く〈疼〉《うず》くペニス、もう一度の解放は近い―― 「い、いいっ! ひゃぁああああんーーーっ! ……んくぅううううっ、はあああああぁっ!」 「熱いぃいい……! 血がっ、汗が……っ、狂いそうだ……!」 ぷぶっという気泡の混ざった粘着音。膣内から溢れる密液が、精液と混ざり合い、泡立つような音を立ててかき混ぜられる。 結合部から、しとどに溢れる和合水は、ぬっとりとした本能を互いに与えていた。 「ひゃぁああぁっ! きゅふぅうう……っ、あっあっあっあっあっ――」 「ふわああっ……っ! 奥ぅっ、だめ、おりてきてる……っ、おまえのが、欲しくて……はぁああっ! 、も、もぉっ、なにも考えられない……」 「あくぅっ! んんんっ! きゃぁああああああああーーーー!」 子宮の奥に望む証。 彼女は奥へ奥へと深く沈み込み、跳ねるように腰を振って、まるで狂ったようによがり倒して律動していた。 「ひゃああぁああああぁっ! あぁっあぁっあぁっあぁっ……! た、たまらない……っ」 「こ、こんなのぉっ、こんなのぉっ! ふぁわぁあああああああああぁっ!」 そのとき、彼女の膣内が〈痙攣〉《けいれん》してゆくのを感じた。 望むのなら応えよう。角度をつけて、より奥へと亀頭をあてる。後はこのまま、震えるような本能を子宮の壁へたたきつけるだけでいい―― 「はっはっはっはっ……、だ。出してくれ、ゼファー! さっきよりも、濃いのを、どぴゅどぴゅと子宮に……!」 「おまえの、種を……かはぁ! 今度こそ、私の〈膣内〉《なか》へ――んくぅううっ、ひぎぃいいいいっ!」 「〈植〉《 、》〈え〉《 、》〈つ〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈よ〉《 、》、ねぇ……?」 震え声になった女は、ビクビクと絶頂の瞬間を迎えようとしている。 最後まで突き上げるように抽送を止めず、もっとも早いピッチで注ぎ込もうとすると、チトセは歓喜の〈嬌声〉《きょうせい》を上げた。 そして、本能のまま互いに深く腰と腰を、生殖器同士を、奥の奥で繋げあったまま…… 「きゅふぅうううん……っ、ひ、ひやゃあああああぁんっ!」 俺たちは、獣のように歓喜の悲鳴を上げながら達した。 「イッ、イク――あっ、あっ、あっ、あああっ、イク、イクっ、イクぅうううううううぉっ!」 「あっ、アッ、アアッッ、きゃああぁああああああああっ――――!」 果ててしまった後でも、チトセは体を離そうとはしなかった。ペニスを〈挿〉《い》れたままで腰をぐりぐり動かしている。 最後の一滴まで絞り尽くさんとしているのか。それに合わせて俺も、蕩けるような心地いい種付けを堪能する。 子宮口にずっぷりと口付けたまま、脈打って行い続ける最高の繁殖行為……おねだりする膣粘膜が精子をちゅうちゅうと吸い上げて、〈睾丸〉《こうがん》に溜まった雄の欲望を受け止めていた。 「はぁはぁ……はぁあんんっ……! あはァンっ! あつい……っ、どくどくって、してる……っ」 「んんっ……ふわぁあああ、と、とろけてゆく……おまえのが、注がれて……」 重たくなる下腹部を抱えながら、ねっとりじっくりチトセは膣内射精を幸せそうに甘受していく。 互いにじっと、限界まで生殖器を押し付けあったままびくびくと震えた。そのたびに俺という獣の種が、膣肉へと注がれる。 そして……やがて数分にも感じた射精を終えると、ようやく彼女は脱力した。 「……はぁあ。さっき、飲んだよりも、濃いのを出されてしまったな」 「まったく。こんなにも出されては、女として、私はどうなってしまうのか。もちろん分かってやったんだろうな」 うっとりと嬉しそうに下腹部をさする様子は、むせかえるような雌の本能。もはや人間の女ではなく、野生の獣じみた〈淫蕩〉《いんとう》さで意味深に微笑んでいる。 すると彼女は、愛玩動物のようにこちらへと寄り添い、そして耳元でささやいた。 「……今日は大丈夫だろうか、危ない日だろうか。ねぇゼファー、どっちだったと思ってる?」 そんな言葉は、本能へと直撃するようだった。ペニスが思わず甘美な誘惑に震えて跳ねた。 「あんっ……ふふ、元気いっぱいだな」 「本音を言えよ、狼だろう? もっとしたい、交尾したい。無遠慮で無責任な、優秀な雌を相手の種付けに熱中して、ただ腰を振って〈愉〉《たの》しみたい……」 「獣みたいに、なぁんにも考えず〈孕〉《はら》ませたいって……そうだろう? んぅ? い・い・ぞ……んふぅ」 熱に浮かされたように、ねっとり腰を動かしながらそんなことをささやいてくる。 彼女が腰をうならすたびに、再び飲み込まれたペニスと子宮口が何度もキスをする。ちゅっちゅっと粘膜が擦れ、ぐちゅぐちゅと泡立つ膣内の水が、いやに耳元で響いた。 「まだまだ足りない……せっかくおまえと〈繋〉《つな》がることができたのだから」 「好きだぞ……だからもう、観念しろよ? ずっとおまえを見つめていたから、決して逃がさないと思え――」 「変わりに、こうやって……はぁ、あん……いつでも好きに、満足するまで、私が処理してやるからさ……」 くいっと腰を動かすが、それは同時にチトセという女の、不器用でいて直情的な愛を感じてやまない。 交尾などと言い、性的に挑発してくるが、その源泉は常に〈真摯〉《しんし》な愛情にあるのだと思わせてくれる。 「ゼファー……、わたしのゼファー」 すでに二度、最高に〈昂〉《たか》ぶりながら果てたはずだというのに、ペニスは再び硬度を取り戻そうとしている。種付けの許可を得て、現金にも本能が新たな精液を〈睾丸〉《こうがん》の奥にためはじめた。 目敏くも隙のない肉食動物は、頬を染めてうなずいた。 「ふふ。こうなれば一度も二度も同じだ。夜は長い――」 「とことん付き合ってもらうぞ……?」 それはまるで夢に見る、幸せを噛みしめるような男と女の情事である。 睦まじく求め合い、そして俺たちはそれだけ、お互いの隙間にあるものを埋めていったのだった……。  奪いたい訳ではなかった。  勝ち取りたい訳でもなく。  敵を踏みつけることに生き甲斐を感じたことも、またなかった。  そう、〈彼〉《 、》は勝利による自己救済を持たない勝利者。  栄光を手にした者の多くに贈られる“生まれながらの勝者”という賛辞に、最も〈相応〉《ふさわ》しいはずの男であるにも関わらず……  勝ちながら一度も救われようとしなかった〈彼〉《 、》は、その名に決して当てはまらない存在だったのだ。  最底辺の〈貧民窟〉《スラム》という出自も、勝利を目指した動機とはならなかった。なぜなら〈彼〉《 、》は、それを不当に思うことがなく、よって見返したいという妬みや出世欲とも無縁だった背景を持つ。  すなわち、我欲が薄いのだろう。要は達観しており、賢かった。  人に与えられた環境や才能は千差万別であり、確率という概念が存在する限り万人の〈平〉《 、》〈等〉《 、》など初めから存在しないのだと……そうした諦観とも違う分別めいたものを、生まれながらにして持っていたことに起因する。  ただ――  平等ではなくとも、〈公〉《 、》〈平〉《 、》ではあるべきだと〈彼〉《 、》は思い続けていたのだ。  功ある者には信賞を。罪を犯したならば必罰を。才能には然るべき評価が与えられ、無能はそれに〈相応〉《ふさわ》しい扱いを受ければいい。  つまりは因果応報。為したことはすべてあるがままの結果として返ってくる。そんな非情なまでに厳格な〈法則〉《システム》をこそ、クリストファー・ヴァルゼライドはこの世の真理として欲していた。  好きに生き、好きに死ね。選択までは否定しない。  悪を為すことは個人的に許せなくとも、それを成そうとする自由意思は保証しよう。  ただし、それで他者を害したならば無論──然るべき報いは下す。  罪を犯す権利はあれど、罪は罰が訪れる。当然のことだ。厳格な賞罰があれば人の世は然りと成り立つものだから。  それこそが人間の自由であり、救いであると思っていた。  だが、翻って現実の姿はどうか。長ずるにつれ、ヴァルゼライドはこの世に多くの不条理が横行していることを痛感していく。  例えば9歳の頃、スラム街で幼なじみの少女が凌辱され殺されたことがあった。縄を打たれたのは界隈を根城にしていた浮浪者。無実を訴え続けた男が絞首台の露と消えた後、真犯人が世上の噂で明らかになる。  それは富裕階層の子弟だった。  〈咎人〉《とがにん》は、地位で罪を免れたのだ。そんな珍しくもない話。  そしてそれは氷山の一角に過ぎず、世の中において絶対のはずの法が財力や権力で〈容易〉《たやす》く捻じ曲げられる事例に数えきれぬほど遭遇した。  司法のみならず学問という個人の努力が求められる場においても、また同様。帝都における最高学府の難関も、有力者の子弟ならば成績結果によらず阿呆のまま裏口で〈罷〉《まか》り通っている始末。  言うまでもなく、それらはヴァルゼライドがかくあるべきと願う理想からは程遠い。  貧富の差が存在するのは構わないのだ。問題は、それによって公平さが歪められることだろう。  罪と罰は万人に適用されねばならないし、努力を怠った者が優遇されるのは間違っている。至極当然の感情である。  一の努力には一の成果、二の過ちには二の損失。  この世界は平等ではなくとも、そういう風でなくてはならない――固く信じるヴァルゼライドの〈憤懣〉《ふんまん》は日々高まるばかりだった。  軍へ志願し兵役に就いたのも、それは貧民街出身の多数派と同じく貧困からの脱出が最大の動機ではない。  同時に入隊した〈親〉《 、》〈友〉《 、》の方はいざ知らずとしても、厳しく己を律し、規律を奉じ、命を賭けて国家のために闘う大義の下へ。そこならば厳格なものが見れるだろうと考えて……  〈軍隊〉《そこ》に飛び込めば、自分の理想とする世界に出会える確率も高くなろう。正しさも誤ちも、ありのまま等しく評価される世界がと、多少は信じていたのだが……しかし。  そこでもやはり、彼の期待は裏切られる  これもまた当然だ。軍もまた所詮は人間によって形成される集団であり、一つの社会であるという事実がある。  市井や貧民窟と何ら変わることのない……否むしろ、閉鎖環境であるがゆえにより醜悪な腐敗が横行していた。  階級や命令系統の絶対性を濫用した、規律破りや私服肥やし。  不当な〈依怙贔屓〉《えこひいき》と、理不尽な同調圧力の形成。  そして、それらに馴染まぬ者への非人道的なまでの制裁と排斥。  悪徳背徳不道徳──こいつらは馬鹿なのかと、いったい何度思ったろうか。分からない。  しかし、それと自分が楽に流れるのは別のこと。彼は正しく在り続ける。  しかしヴァルゼライドは、腐敗への怒りを抱えながらそれらに屈せず戦場で功を挙げ続けた。命を惜しまぬ神がかった闘いぶりは、しばしば単独で局地戦の戦況すら覆すことになる。  特に白兵戦における強さは絶対的だった。軍刀を手に敵陣深く突入し、そのすべてを折るまで敵兵を斬り伏せた姿は、鬼神として敵味方の畏怖を浴びる。  その戦果は、やがて戦場の英雄として名声を高め現在進行形の伝説を生んでいくことになるのだが……  されど、輝きは憎しみも集めやすい。下士官でありながら兵たちの憧憬と支持を集め続けるヴァルゼライドを危険視したのは、軍の高官たちであった。  長い年月を掛けて育んだ腐敗を共有する軍閥。特権階級である一部のアマツを始め、その出自や血筋に価値を見出す者たち。その目から見たヴァルゼライドとは、貧民窟出身の新星──危険な野心家として映っていた。  とりわけ、彼らが危惧したのは〈反乱〉《クーデター》だった。下層の者はいつも富や権力に〈餓〉《う》えており、常に上位からそれを奪うため寝首を〈掻〉《か》かんと狙っている……と。  自分たちが執着する権力というものを通してしか、人間を見ることができぬ狭量ゆえに戦々恐々としていたのだろう。  級が上がり多くの兵力をヴァルゼライドが指揮下に収める展開を、彼らは嫌った。とうに上級将校への昇進が約束されてしかるべき武勲の数々にも関わらず、下士官止まりで激戦区をたらい回しにされ続ける。  それでもなお勝ち続けたヴァルゼライドは、むしろ伝説を不動の物に高めていく。業を煮やした上層部は逆に帝都中央、すなわちセントラルで飼い殺すという手段を取った。  若き傑物から戦場という活躍の場を取り上げたそれは、今まで血統派の打った手の中で最大効果を発揮した。  結果、遂に道を閉ざされたかに見えたヴァルゼライドだったが、そこで彼にとっての転機が訪れる。  ある日、謎の特命により単身向かった帝都地下。  暗殺の可能性を想定したが、そこに待っていたのは刺客ではなく―― 「そう、己が貴様を呼び寄せたのだよ。クリストファー・ヴァルゼライド」  旧西暦より千年の時を超えてきた、今は亡き〈大和〉《カミ》の亡霊。  知性と人格を備えた人造生命体、〈迦具土神〉《カグツチ》壱型――その残骸との〈邂逅〉《かいこう》であった。 「見ての通りこの場を動けずとも、その程度なら己にとって造作ない。地上の動きを見守り、我が意思を代行しうる候補者を選び出すこともまた。  そして、それは遂に見つかった。おまえはまさしく〈英雄〉《かいぶつ》だ。その傑出した才と力によって一つ手を貸してほしい」 「――候補者? 代行だと?」 「ああ、代行者だ。この壊れた世界を在るべき姿に修復する大業のな」  その言葉がヴァルゼライドの琴線に触れたのは、彼もまた目の前の存在と同種の存在であったからかもしれない。  共に正しさを、未来を追い求めている光の属性。二人は静かに呼応する。 「それは何だ。言ってみろ」 「天を降ろすのだよ。己はそのために生まれ、今もこうして存在するのだ」  鉄のように不動の使命感がまた、この奇怪なる古の肉塊へ共感をヴァルゼライドに覚えさせた。  己はそのために生き、そして死ぬのだという強靱なる貫徹の意志。カグツチからそれを感じた瞬間、その言葉がいかに荒唐無稽であろうと聞くに値すると判断する。 「新暦の人間が〈第二太陽〉《アマテラス》と呼び、次元に〈穿〉《うが》たれた宇宙の孔と認識している、あの光…… あれこそまさに天岩戸でな。彼方、あるいは太陽そのものこそ我が故郷――〈日本〉《やまと》が今も存在するのだ。世界の特異点として。  我が使命は、放逐された〈大和〉《カミ》の帰還。我が創造主たる彼の民を、世界の王とするためにある」 「己ではなく、主のために?」 「そう、信じるべき未来のために」  そして、その使命とは一切の私欲を廃した大義だった。他にも幾つか言葉を交わしたが、印象的だったのはそこだろう。  だからこそ、ヴァルゼライドはカグツチの意思に手を貸すと決めた。  その上で―― 「その〈暁〉《あかつき》には地上にあまねく一切合財、〈大和〉《カミ》の支配へ奉げるのみ。すべてを膝下に組み敷こう。 この〈迦具土神〉《カグツチ》がそれを成す」 「いいや、勝つのは〈人間〉《おれ》だ。そこは譲れん。  復活せし〈大和〉《カミ》の技術的遺産、そのすべては我が帝国アドラーが独占させてもらうとしよう」 「この国、そして民こそが、クリストファー・ヴァルゼライドの血と骨ゆえに。貴様こそ、服従するなら世界に居場所を与えてやるが?」 「──面白い」  地上に落とした〈禁断の果実〉《アマテラス》。その行方を巡っては、譲る意思は〈微塵〉《みじん》もなかった。  互いは相手を雄々しく見つめ、されど同時に一歩も退かない。  そこには奇妙な〈共感〉《シンパシー》がある。  常ならば決裂して然るべき両雄の〈邂逅〉《かいこう》は、しかしそうはならず。むしろ互いの気概を信頼すべき担保として、より強固な結託を呼ぶに至ったのである。  いずれ来たるべき雌雄を決する聖戦の約束──かくて道は開けた。  祖国を背負う宿命が定まり、後は死ぬまで貫くのみ。  明日へ、未来へ、光へと──信じるがため止まらない、停止不能の怪物たちが動き出す。  望んだものは、今も昔も変わらない。ただひたすら、人の行いに正しき報いが訪れる世界。  生きとし生ける者すべてが流す血と涙の量に〈相応〉《ふさわ》しい〈祝福〉《みらい》へと、万人を等しく導くために。  鉄の男は、鋼の英雄として生きて死ぬ。ただその道〈の〉《 、》〈み〉《 、》を己に課した。  程なくして、新西暦の世に〈星辰体感応奏者〉《エスペラント》という未知の兵種が誕生する。  その第一号被験者は、クリストファー・ヴァルゼライド。  直後に改革派の筆頭となり、帝国を軍事力において黄金時代へ導く英雄の生誕である。  その闘いは常に無私。国のために。民のために。明日の光を切り〈拓〉《ひら》く……  彼は今も闘い続けている。  敵対した無数の〈敗北者〉《しかばね》を、その足下へ〈髑髏〉《どくろ》の山と積み上げながら前のみ見据えて駆けるのだ。 あれから、数日後。 その間にミリィとヴェンデッタを連れて、俺は〈反動勢力〉《レジスタンス》の拠点に帰還していた。 無論、隣にチトセを伴ってのことだが―― 「はて、どの面下げて戻ってこれたのでしょうか? この常習犯の〈脱走兵〉《まけいぬ》は」 やはり一度ケツをまくった俺の所業を巡る禍根は、相応に拭いがたく残っていた。……主に約一名においてだが。 俺の後釜たる〈裁剣天秤〉《ライブラ》副隊長殿の風当たりは、事前に覚悟していた通りだったが本気できつい。憎悪と嫉妬と殺意の意志を、まあこれでもかと垂れ流している。 「お姉様の慈悲と尽力が無ければ、今頃とっくに墓の下でありましょうに」 「三顧の礼でようやく腰を上げるなどと、〈古〉《いにしえ》の天才軍師にしか許されぬ〈傲慢〉《ごうまん》な所業……何様ですか? 死にますか? ああむしろ、去勢するのがよいでしょうかね。ふふふふふ」 ……と、自分の手で墓の下に送り込んでやりたいという本音がビシバシ伝わってくる。わぁい、大歓迎だぁ、ごめんなさい。 なんかその指をゴキゴキ鳴らすのやめてくんないかな。隙あらば火の玉とか投げてきそうだし。というか、こいつはマジで出せるし。 「信用されねえなぁ、仕方ないけど」 「崩れるのは一瞬で、築くには手間ですのよ。もっとも、わたくしは認めませんが」 「まあ、そう〈苛〉《いじ》めてやるな。ようやく見違えたのだから」 一部始終を見ていたのか、その後ろから聞こえてきたのは嬉しげな含み笑い。チトセがこちらを意味深に〈一瞥〉《いちべつ》する。 「以前に比べれば少しはマシな顔になっているだろう? これからの働きで見てやるといい」 「確かに、負け犬から負け狼になった程度は認めますが……」 サヤはちらりと、〈傲然〉《ごうぜん》と豊かな胸を反らすチトセと俺の間で視線を行き来させる。まあなんというか、よく分かる。〈真〉《 、》〈正〉《 、》のこいつから見れば、俺の存在は非常に邪魔なんだろう。 よって使えるかどうとか、そんなことじゃなくイラッと来るんだろうな。ガチ百合すぎてむしろ怖えよ。 対してチトセは、まあこの数日上機嫌で、この通り優越感と誇らしさに満ちているものだから―― 「ねえねえ、ヴェティちゃん。あれって、もしかしてそういうこと……?」 「駄犬に組み敷かれた新たな犠牲者の誕生ね。さあミリィ、一緒に不潔と罵る準備をしましょうか」 ……などと、この二人にもひそひそされる始末。肩身が狭くてしょうがない。 おまけに、そんな彼女らへチトセの“そういうことである”と言わんばかりにしっかり向けられていた視線を俺は見逃さなかった。もっとも、牽制といったものでもなく子供の自慢っぽい感じなのが救いだが。 意外とこいつ、口にこそ出さないが浮かれてやがるな。 「なあ、そうだろうゼファー? 遠慮しなくていいのだぞ、もっと普段から素直になれ」 「いやもう、今でも十分自由に生きているんだが……」 「遠慮しているではないか。ほら来い、毛づくろいでもしてやろうか? ん?」 そう言って俺の頭を片手に抱くと、番いの獣がじゃれるように額や頬を擦り付けてくる。おいおい、自分は楽しそうに笑ってるけど視線が痛えよ。 アルバートのおっちゃんは呆れて溜息。部下の兵隊連中やアスラの野郎は笑ってやがるし。顔を赤くしつつ微笑ましそうに見守ってくれるミリィはともかく、こちらに視線を寄越さず思案するヴェンデッタの様子も気になる。 「おのれ淫獣が。よくもお姉様の純潔を……ッ」 何よりサヤが視線に込める嫉妬と怨念の波動は、物理で肌に刺さってきそうなほどだ。 一方……チトセ指揮下の〈裁剣天秤〉《ライブラ》たちは、抑制された敵意と警戒心を維持しながら俺を見守っていた。 互いの生死を共有する軍人にとって、脱走兵とは〈唾棄〉《だき》すべき裏切者であり最悪の〈屑〉《くず》だ。まずは、俺がそうであるのを知っているからこその侮蔑と反発。 そしてもう一つは、俺がその裏切りを犯した時の所業を聞いているゆえの畏怖。 あの当時に所属していた人間は、大半が大虐殺時に戦死しており在籍していない。だが、その〈戦〉《 、》〈死〉《 、》〈者〉《 、》の内の多くを脱走兵――すなわち俺が生み出した事実は、伝聞として部隊に伝わっているとチトセから聞いた。 天秤史上の隠された汚点であると同時に、手練れ揃いの〈星辰奏者〉《エスペラント》を食い散らかした者として。さらについ数ヶ月前に仲間三名が葬られた事実もある。 つまり俺は、現隊員にとっては味方殺し。理解不能な狂気のままに、いつ仲間に牙を〈剥〉《む》くやもしれぬ怪物として見られているということだ。過大評価というか、まあ…… たとえ〈隊長〉《チトセ》の客分であっても、その意識までは如何ともしがたい。 「……その辺の〈過去〉《ツケ》も含めて、出戻りの試練は当然か」 だがチトセと共に行くと決めた以上、そこから逃げるつもりは毛頭ない。背負うとは要するに、そういうことも含めての話だった。 これからの俺の闘いとその姿勢で、あいつらに認めさせていけばいい。いや、そうしなければならない。チトセに並ぶとは単に戦力的な意味ではないんだ。 〈銀の人狼〉《リュカオン》はもう迷わない。女神と共にある限り、何処までも駆け抜けてやる。 「さしずめ針の〈筵〉《むしろ》か。それもいいねぇ、燃えるねぇ。再起した男を待つのは逆境って奴だ」 「に……してもだ、こう暇なのはどうにかならんか?せっかく始まった〈戦争〉《ドンパチ》なんだぜ、モグラをやっててどうするよ」 「後はもう手当たり次第、景気の良いどつき合いのガチンコ勝負と洒落こもうや。こんな穴倉に何日も籠もってるのは性に合わんし、まあ何より……」 「〈魔星〉《れんちゅう》がもう一度投入されればすべては同じ、か?」 「分かってんじゃねえの。ならいっそ、博打ってのも手じゃねえか?」 そんな身勝手な、しかし一概に否定できない意見を〈零〉《こぼ》す間にも虚空に見えない拳の連打を放っている。相変わらず落ち着きがない反面、一利もあるからタチが悪い。 が、さすがにそれは本人が言ったとおり博打がすぎるため。 「却下だ。勝ったとしても犠牲がでけえよ、割に合わん」 「だな、スラムの喧嘩と一緒にするんじゃねえ。〈本物〉《マジ》の戦争ってのは丁半博打は避けるんだよ。必ず勝つためだけにやる」 そのために、戦略なり作戦ってもんがあるんだろう。 チトセやおっちゃん以下、俺たちもただ無為を囲っている訳じゃない。こうしてひたすら待っているのは、〈深謀双児〉《ジェミニ》との連携を発動させるタイミングだ。 向こうのお家芸である諜報工作を駆使した内部〈撹乱〉《かくらん》に乗じ、市内各所に潜伏した〈反動勢力〉《レジスタンス》が一斉蜂起。指揮系統の麻痺と混乱を〈衝〉《つ》いて、〈裁剣天秤〉《ライブラ》を中核とした精鋭を〈政府中央塔〉《セントラル》に突入させる。 それが必勝の絵図である以上、いま闇雲に動くのはただの自滅だ。それは俺たち〈軍人〉《プロ》の考えであって、こいつには知ったこっちゃないのかもしれないが……ともあれ。 「つーか、おまえの立場こそ謎だ。おっちゃんの手勢ってことは分かったが、わざわざ組織に所属するタイプじゃねえだろ?」 しかも聞いたところ、反動勢力側の〈鬼札〉《エース》だとか。スラムの統治者でその選択というのは納得だが、どうも何かがはっきりしない。 あのグランセニック商会のウラヌス戦で乱入してきて以来、ただ暴れることしか考えずここにいるのが原因だろうか? 無軌道にも程があるから、奇妙な噛み合わなさを感じている。 それに、何か……そう。 癖や嗜好に挙動もろもろ、どうも〈誰〉《 、》〈か〉《 、》と似ていような違和感がしてむず痒い。 「そりゃおまえ、弱きを扶け強きを〈挫〉《くじ》く〈流離〉《さすら》いの拳士って奴だからよ。燃えるだろう?」 「是非とも新西暦救世主とでも呼んでくれや。〈呵呵〉《カカ》ッ!」 相変わらずこっちを〈煙〉《けむ》に巻くような与太を吐いては笑っている。ただこいつの場合、完璧に素で言ってるっぽいからより一層頭が痛い。 とにかく戦力して機能してくれることだけを、今は願うとしよう。妙な既視感も今は胸にしまっておいた。 「兄さん。もう一度、例の測定をやってみるからこっちに来て」 そのままアスラと暇潰しに駄弁っていると、調律の用意をしていたミリィに呼ばれる。 「ああ……一応やっておいた方がいいな」 こうして待機中の時間を少しでも有為に使うべく、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》の卵であるミリィと行っているのは〈と〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》検査。 俺が使う得物であるアダマンタイトの短刀。ここ最近の定期的な日課である調律……の他に行うのは、もう一つ俺の能力に関する測定作業だ。 すなわち、ヴェンデッタとの同調による能力発現現象の調査。奴ら〈曰〉《いわ》く──“〈死想恋歌〉《エウリュディケ》”のもたらす反応を知るためだった。 俺とヴェンデッタとの関係を、〈星辰奏者〉《エスペラント》とその専用武器との関係性に当てはめてみてはどうかと提言したのはチトセである。 無論、ここに技術者たるミリィがいるからこそ可能な手段だ。いわばヴェンデッタ自身を〈星辰奏者用特殊合金〉《アダマンタイト》に見立て、その原理の一端なりとも解明できればとの発案だったが―― 「ふぅ……」 結合した俺たちの間に通う、〈粒子〉《ほし》の流れを〈観〉《 、》〈る〉《 、》ことに没入していたミリィ。だがやがて、諦めたような溜息と共に集中を解いた。 「やっぱり何も見えないか?」 「うん。やっぱり普通のやり方じゃ、〈星辰体〉《アストラル》の波長に〈同調〉《シンクロ》自体できないみたい。もちろん、ヴェティちゃんは武器なんかじゃないから当然だけど……」 「うまく表現できないけど、本当に二人の世界……というか〈星辰体〉《アストラル》の流れが、兄さんとヴェティちゃんとの間だけ閉じたまま完結している感じ。私の力だと外部からの観測すら無理みたい」 「軍にある専用の機器や、特定の状況……あるいは通常のアダマンタイト以上となる感応特性を持った合金なら、なんとか出来るかもしれない、かな?」 そんな伝説の金属なんて見たことも聞いたこともなく、この話は観測できないという言葉で終わる。 どうして俺だけがヴェンデッタと同調し、アストラル干渉能力を引き出せるのか。依然として、謎のままということだ。 「気にすることはないわ、ミリィ」 「この力は未来〈永劫〉《えいごう》、ゼファーを裏切ることだけは絶対にない」 消沈気味のミリィを気遣うように、横にいたヴェンデッタが微笑を浮かべて横目で俺の方を〈一瞥〉《いちべつ》した。帰ってきてからここ数日、俺には〈滅多〉《めった》に見せなくなった柔らかい眼差しを向ける。 「――それだけは、今の私でも約束できるから」 何の保証もない言葉だけれど、訳もなくそんな空約束に疑えぬ安らぎを覚えてしまう俺がいた。 「そうだな……仕組みを解き明かすことは出来ずとも、力は力だ。それに相応しい使い手がいればいい」 「その力で、成すべきことを見つけた者がいればよかろう。有効に振るえよ、狼」 「ええ、そういうことね。だから、あなたはきっと大丈夫よ。ゼファー」 短刀の調律も含めて一連の作業を見守っていたチトセも、ヴェンデッタに同意する。〈頷〉《うなず》いたヴェンデッタの返事は、わずかに笑みを含んでいた。 少しだけ寂しげな、けれど優しい瞳は俺の顔だけを映している。 「黄泉から響く歌声は、いつまでも背を引かれ続けていいものじゃないわ。愛想を尽かされないよう、必死になって〈吼〉《ほ》えなさい」 そうして、傍らを通り過ぎざま〈呟〉《つぶや》かれた言葉は……どうしてか、俺の深くて古い場所から聞こえたような気がして。 「なあ、おい――」 郷愁めいた感情と、謎めいた言葉の意味を探しあぐねる。思わず振り向いてしまった俺は…… 「――――」 遠ざかっていく小さな背中に、何故か厳しく〈窘〉《たしな》められたように思えた。 知りたがっているすべてのことは、これからのあなたには取るに足らない無用なもの。だから忘れておしまいなさい――と。 無言のままに、伝えられた気がしたのだった 状況が動いたのは、その日の日没から一時間後。 待ち望んでいた〈深謀双児〉《ジェミニ》が遂に行動を起こした。〈総統〉《ヴァルゼライド》から離反し、〈裁剣天秤〉《ライブラ》を支援する内部〈撹乱〉《かくらん》を発動する準備が整ったのだ。 そしてその一報をもたらした使者は―― 「って、おまえらかよ。よりによって」 「はいはーい、皆さん。お待たせしましたー」 ティナとティセ。あの悪戯好きの双子だったから驚きだ。いや、アルバートのおっちゃんの素性からすれば充分ありえたことなのだが。 「こいつらは元々、裏で俺とは違う命令系統に属していてな。協力関係にはあるが厳密には〈反動勢力〉《レジスタンス》所属じゃないんだ」 「はい。今はランスロー中将の指揮下で働いています」 なるほど、それで〈深謀双児〉《むこう》との連絡役として活躍している訳か。 しかしあのレストラン、今思うと相当キナ臭い人間の巣窟だったんだな。まさに伏魔殿だ。 「よし、ならば行くのみか――アルバート殿、市内各所の同胞に一斉蜂起の連絡を」 腰の太刀帯を締め直し、チトセが椅子から腰を上げた。 「第七特務〈裁剣天秤〉《ライブラ》、総員傾注ッ!」 〈副官〉《サヤ》の号令一下、天秤部隊が一糸乱れぬ動きで隊列を組む。俺もまた、肉体の奥で〈錆〉《さび》びついていた芯に電流が通されたような緊張を感じた。 「我らは今や逆賊だ。この闘いに敗れれば、天下の大罪人として末代までの汚名を着ることになろう」 「にも関わらず、離脱者もなく私に付いてきてくれたこと……改めてここに感謝する」 「目標、〈政府中央塔〉《セントラル》総統府――クリストファー・ヴァルゼライドの首を獲るぞッ!」 今の天秤は、〈裁剣女神〉《アストレア》の下にある完全なる一枚岩。各人のチトセに対する忠誠心は、サヤを代表格に強固なものを誇っている。 また既に、義の下に討つべきものと確信しているのだろう。五年前の大虐殺と、英雄誕生の夜……そこに隠された総統ヴァルゼライドの暗黒面を見据えていた。 「待ってくれ、様子がおかしい」 無電で市内各所へ打診していたおっちゃんが、血相を変えて戻ってきた。 「別働隊の仲間たちに連絡が付かない。何か〈予定外〉《トラブル》が起こったのは間違いないようだが……」 猛烈に嫌な予感が、胃の底を凍らせはじめた。過去、幾度も修羅場を潜ってきた軍人としての俺の直感が警鐘を鳴らす。 そして…… 「おい、ティナとティセは何処へ行った?」 いつの間にか、あの双子の姿が見えない。悪寒は急速に広がっていく。 「この場所は不味い――今すぐに移動するぞ!」 チトセが一喝すると同時に、全員がアジトの外へと素早く動く。俺もミリィとヴェンデッタを誘導しながら、後に続いた。 そして―― 「――ッ!」 視神経に突き刺さったのは、暴力的なほど強烈な白色光。建物を包囲するように設置された投光器が、八方から俺たちを夜の闇に浮かび上がらせた。 そして逆光の中、雲集するのは帝国軍兵士たち。少なく見積もっても五百人以上の大隊規模が、装填済みの小銃を携えスラム街を埋め尽くしている。屋根や廃墟の上には狙撃兵の配置すら完了していた。 その軍装の〈紋章〉《エンブレム》を認めたチトセが、一瞬にして事態を察する。 「第一近衛部隊、〈近衛白羊〉《アリエス》……」 〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》の内、総統直属の近衛部隊……つまりヴァルゼライドを護衛するはずの兵力が、総統府を離れここに詰めかけている。 その事実は――ああ、なるほど。 「ふん、やってくれたな……ランスローめ」 全ては御破算。〈深謀双児〉《ジェミニ》は動かず、ヴァルゼライド陣営に与したということ。〈裁剣天秤〉《ライブラ》は、ここに窮地が確定した。 「市内の別働隊連中の拠点も、この分じゃとっくに制圧済みって所か」 「つまり、味方は何処からも来やしねえって訳だ。孤立無援か、そりゃあいい」 ケタケタと笑う戦闘狂の言葉はともかく、状況は確実に最悪だった。 文字通り、王手寸前の八方手詰まり。事実上壊滅した〈反動勢力〉《レジスタンス》の運命を悟り、おっちゃんが腹を括ったように苦い声を漏らす。 「その通りだ。帝都の夜に、逆徒の狼煙は上がらない」 それを冷厳に遮断するような一喝は、指揮車輌の上に立つ影が発していた。チトセと同じ将官級の階級を持つ、若き女軍人。 総身に〈纏〉《まと》う凛然たる風格もまた、チトセと似ていた。 すなわちそれは、生まれながらの〈貴種〉《アマツ》の威風。血の優性から放たれる存在感が厳しい視線で俺たちを射抜いている。 「降伏しろ、チトセ――おまえを待つのは軍事法廷の裁きだけだ」 アオイ・漣・アマツ──総統直属の副官であり、その名の通りチトセの従姉妹に当たる女傑。 親族へと向けられた視線に温情や仮借などはなく、むしろそれゆえにか激しい敵意に満ちていた。そして糾弾の舌鋒は、チトセのみならずおっちゃんをも突き刺していく。 「貴様もだ。元〈深謀双児〉《ジェミニ》隊長アルバート・ロデオン」 「仮にも〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈方〉《 、》の竹馬の友でありながら……武徳、人倫ともに見下げ果てた逆賊めが」 「友たる身で、なぜ閣下に背き弓を引くか。恥を知れッ!」 火を吐くような駑罵を投げつけ、車上から〈睨〉《にら》み下ろすアオイ。何とも言えぬ表情でそれを受け、おっちゃんは頬を〈掻〉《か》く。 「まぁ……軍人としちゃあ仰る通り落第だわな。ただし、人間としては間違ってると思っちゃいねえぜ」 「俺は奴の〈友〉《ダチ》として、当たり前のことをやっているだけだ。というより、分からねえのかお嬢さん? あいつの光は〈眩〉《まぶ》しいからな」 「……何?」 「寄り添う人間じゃなくて、止めてやれる奴が必要だってことさ。〈英〉《 、》〈雄〉《 、》〈は〉《 、》〈決〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈止〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。ああきっとそうなんだろうよ……馬鹿馬鹿しい」 「そんなものに憧れちまった過去が、まさしく俺の罪なんだよ」 ──だから、おまえも必ず同じ理由で後悔する。 おっちゃんの〈僅〉《わず》かに〈憐〉《あわ》れみを含んだ視線は、同情と、共感と、そして忠告に揺らめいていた。 「だからこそ、〈英雄〉《そんなもの》になっちまう前の〈貧民窟〉《スラム》で共に過ごしていた同郷として止めてやるしかないだろう。あの頃の、薄汚れた拳骨でな」 「昔のあいつを知っているのは、もう俺しかいなくなっちまった。こいつは俺の義務なんだよ」 そう締めて、臆することなくおっちゃんは敢然と言い放った。自分は何としてもこれをやり遂げるという、強い気概がそこには〈漲〉《みなぎ》っている。 「まあ、そのためにも生き延びねえとな」 鉄壁のように展開した敵隊列を前に、しかし続けて苦笑した。まあ格好つけて何だが、確かにそれはそうだろう。 優秀な〈星辰奏者〉《エスペラント》を擁する〈裁剣天秤〉《ライブラ》とは言え、それゆえの少数精鋭。ここまで圧倒的な差のある兵力との遭遇戦で勝利できるかは不明だ。ただし、単騎でそれすら覆し得るのが〈裁剣女神〉《アストレア》の実力ではあるのだが。 「逆賊の世迷い言、敗者の支離滅裂な正当化……所詮そんなものでしかなかろう、貴様らの大義とは。笑わせてくれる」 「〈英雄〉《ヒカリ》を拝して何が悪い」 そんな俺の思考を〈余所〉《よそ》に、〈傲然〉《ごうぜん》と吐き捨てられる。おっちゃんの訴えた論理など文字通り歯牙にもかけておらず、そして冷笑を浮かべながらチトセを静かに見下ろしていた。 「チトセ、大義があるなら吠えてみろ。偉大なる総統閣下に対し、そんなものがあるならば」 「さて……あるのやら、無いのやら」 抜き身のような挑発を、チトセは春風めかして泰然と流した。そして同じ血を引く〈貴種〉《アマツ》に向けて〈飄々〉《ひょうひょう》とした声音で、そう告げる。 慮外な反応に、アオイの〈眦〉《まなじり》がきつく鋭く細められたがそれでもチトセは揺らがない。 「どれだけ声高に訴えた所で、英雄を奉じる者には馬耳東風。彼に伍するだけの義など、欠片も備えぬ悪人としてしか映らない。そうだろう? 信じたいものだけを信じるのが人間だ」 「ならばそれでいいよ、アオイ。〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈構〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。それに囚われて苦しむのは、ついこの前でやめたのさ」 「まあほら、アレだ。私もおまえも男の趣味は等しく悪いのかもしれんが……」 そこで一度、苦笑して── 「想いが成就すると、悪くないぞ? 世界を素直に感じられる」 「それだけで、私はどんな〈正義〉《てき》とも闘えるんだよ。自分より圧倒的に正しい相手を前にしても、意志を貫くことが出来る」 「むしろおまえこそ、いつまで正当性がどうだのと言い訳を重ねているんだ? さっさと女になるがいい」 言い放った中にはあの夜に聞いたのと同じ言葉があった。そして、涼やかな瞳は傍らの俺へと向けられる。 〈頷〉《うなず》いたことで間に流れる、〈盤石〉《ばんじゃく》の絆を感じ取ったか……アマツの名を持つもう一人の女傑は、怒気も露わに俺たちを〈睨〉《ね》めつけた。 「……そこまで堕ちたか恥〈曝〉《さら》しがッ。国家を、法を、栄光を、女の身の丈で計るなど!」 「貴様は、仮にも──」 「忘れてはいないさ。だからこそ〈裁剣女神〉《アストレア》の名に賭けて、英雄の化けの皮を剥がしに行く」 「己が道を誤ったのなら、私がこの手で裁きを下そう――それが、〈奴〉《 、》と交わした約束だからな」 チトセの唇が弧月を描いて吊り上がった。そして英雄を奉ずる〈信者〉《アオイ》に対し、その言葉は宣戦布告そのものを意味する。 ゆえに指揮車輌上で、全軍攻撃を命ずる右手が高々と振り挙げられた―― 瞬間。 「――――ッ!?」 その姿を視認するよりも早く、背骨を撫でたのは濃密でおぞましい負の気配。 振り向いた俺の視界に映るのは、もはや見慣れた暗赤色の〈獰猛〉《どうもう》なシルエット。 揺らめく炎のように赫い蓬髪。鉄面に灯る四つの鬼火。類人猿じみたアンバランスに巨大な双腕を振り上げつつ、奴は意気揚々と〈墜〉《 、》〈落〉《 、》し―― 同時に……今しがたまで俺たちが潜んでいた拠点の建物が、丸ごと〈消〉《 、》〈滅〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。逃げ遅れたレジスタンス兵士ごと、一瞬にしてグズグズの灰以下の塵に分解される。 奴が〈喰〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》のだ。その腕の一振りをもって。人の命も石塊も、等しく無価値と断ずるように。 「マルス……!」 グランセニック邸以来の再会に、血管を〈闘争物質〉《アドレナリン》が駆け巡る。視線の先で、鬼面は〈愉悦〉《ゆえつ》の気配を浮かべていた。そして俺は理解する。 なるほどね……つまり、〈近衛白羊〉《アリエス》やアオイという副官はすなわち見せ札。あくまで総統の本命は俺とヴェンデッタで揺るがない。 よって随伴させたこの悪鬼こそ、差し向けてきた真の試練ということかよ。 「もういいだろう。因縁は熟成し、整理され、後は聖戦へと運ばれるのみ」 「さあ地獄の釜は開いたぞ。皆々様よッ、死ぬる覚悟はよろしいかァッ!」 唐突に喜悦と狂気の〈咆哮〉《ほうこう》を上げて、鋼鉄の巨躯が突進した。進路上に居並ぶ犠牲者が塵と化すよりも早く、俺もまた地を蹴って跳躍する。 そしてすかさず、もはやスムーズに〈死想恋歌〉《ヴェンデッタ》の星と同調。この身に降ろした〈星〉《 、》〈辰〉《 、》〈干〉《 、》〈渉〉《 、》の光を奮い、そのまま右〈拳〉《て》に握りこんで── 「させるかよッ!」 〈渾身〉《こんしん》の力で叩きつければマルスの〈纏〉《まと》う暗黒の瘴気を引き千切って、奴本体を殴り飛ばすことに成功する。 消滅の黒い瘴気へ手を叩き付けたことによる根源的な恐怖……それを噛み殺しながら更なる力を〈滾〉《たぎ》らせる。 そうだ、決意の炎を今こそ燃やせ。変わると俺は決めたんだ。 英雄の何分の一でいい。どうか、鬼と雄々しく相対できる意志力を。 「こいつは俺が片付けるッ――誰も手を出すなァ!」 廃墟の一隅、その外壁をぶち破って内部に消えた鬼面へ追撃して、俺は幾度目かになる奴との死闘へ突入していった。 必ずこれで終わらせる。そう誓いながら、握る刃を〈奔〉《はし》らせた。 そして、攻撃の応酬はすかさず彼我の中点で発生する 死を生む魔爪が唸りを上げ、耳元で〈抉〉《えぐ》り抜かれた大気が渦を巻く。瘴気の末端に触れた毛髪が塵に分解されていく様を、スローモーションのように網膜へと焼き付けた 回避の足は止まらない。いや、止められない。一撃致命の攻撃は、〈捌〉《さば》くだけでも危険を背負ってしまうからこそ駆け抜ける。 振動と〈星辰体〉《アストラル》干渉による複合技を持つ俺と言えど、〈迂闊〉《うかつ》な反撃は即自滅だ。万一にでも、奴の〈星光〉《ほし》が持つ固有振動数に〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈せ〉《 、》損ねたらそこで即終いになってしまう。 ゆえに攻撃も防御も、まずは正確無比な見切りありき。見てからでも触れてからでも遅いのだ。 死角で捉える実像よりも、皮膚で感じる風圧よりも、奴の〈神経〉《のう》から発する殺意の起動。その瞬間に合わせて〈躱〉《かわ》し続ける。 巨体に似合わぬ高速機動へ無理をしながら喰らいつく。 「……ジリ貧だな」 そう、いわゆる防戦一方。おまけに〈戦場〉《ここ》は閉鎖空間。地の利は、逃げる者よりも追う者に対して加護をもたらす。 一撃必殺の機を〈伺〉《うかが》う者と、対して当たり前に強い者。どちらの方が正面から突っ込んで追う側に成るかと言えば……もはや論ずるまでもないだろう。 無論このままでは駄目なのだと、そんなことは判りきっている――のだが。 「どうしたよ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》? いったい何を悩んでいる」 そんな葛藤を見通して、鬼面は試すように誘うように問いかける。 「いざ勇み足を踏んだものの、土壇場じゃどうにも地金が出ちまうようだがそれじゃあ少々いかんだろう。英雄サマも落胆するぞ?」 「出足が鈍い。踏み込みが足りない。大きく賭けを張ってもこない。有り体に言って、強敵相手に勝ちを狙う闘い方じゃあないときた」 「喧嘩を売ったにも関わらず、後はひたすら逃げの一手……援軍待ちならそれも立派な戦術だがどうやらそうでもないようだなぁ」 戦意がないのかと、むしろ闘争相手から心配されてしまう始末。やれやれおまえ、それじゃあ運命を前に木の葉だぞ、と言わんばかりの奇妙忠告。 図星すぎて屈辱さえも感じなかった。言ってくれる、強化しているから死なないだけで、これ以上とはこちとら早々いかないんだよ。 ――なぜなら、これが紛れもない俺自身の限界だから。 敵の意識を徹底して読み、その裏にある隙を〈衝〉《つ》く。または隙が無くとも、手管を尽くして無理矢理にでも発生させる。暗殺や不意討ち向きに特化した、それがこちらの戦法である。 かつてサヤと〈闘〉《や》った時は、それが完璧に〈嵌〉《は》まったがため圧勝できた。何よりあいつ個人が芯とする譲れないもの――〈上官〉《チトセ》への忠誠心を〈衝〉《つ》き、揺さぶったことで隙を生み出せたというのも大きい。 ウラヌスにもまたサヤと同じ匂いを感じる。自分より圧倒的に強い相手であるのは間違いないが、恐れはしても……苦手意識が今となっては不思議とない。 つまりは双方とも、自分で定めた正当性を背景に力を発揮するタイプ。加えて激情の持ち主だ。そういう連中は、俺にとって与し易い相手だった。 なぜなら奴らには、強者としての己を支える上で切り離せぬ精神的支柱がある。 信念であれ特定の人物であれ、それは強みであると同時に絶対の急所だろう。傷ひとつ付かぬはずの超硬度を誇る宝石が、ある角度からの衝撃で呆気なく割れてしまうように。その一点を崩されたら、すべてが駄目になってしまう。 ゆえにその、急所である龍燐を見出して牙を突き立てることこそが、俺という〈人狼〉《リュカオン》の牙であると言っていい。 しかし、翻ってこの魔星は―― 「〈嵌〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》だろうな、くそッ」 マルスにはそうした核がない。実のところあるのかもしれないが、ウラヌスやサヤのようにあからさまという訳ではなく、ゆえに的を絞れずにいた。狙い撃つことが困難だ。 その上、支離滅裂な人格が強烈な〈撹乱〉《かくらん》装置として機能している。こいつには言動の矛盾を突くことなど端から無意味であり、むしろ意図的にそう演じているような節もあるから始末に悪い。 十八番の闘い方が通じない。実力をうまく出し切れない。その事実が疾走しながら牽制を放ちつつ見に徹する、この無様で消極的な闘いを演じざるをえない理由だった。 しかし―― 「……いい加減、判りきってるよなァッ」 鋼鉄の巨躯に前進だけで追い立てられ、〈一髪〉《いっぱつ》〈千鈞〉《せんきん》を引く思いで死爪の回避を強いられ続け──俺は泣き言混じりに吐き捨てた。 言われるまでもなく理解している。こいつを〈斃〉《たお》すには、今までの負けないことや〈嵌〉《は》め殺すような闘い方じゃ絶対に駄目だ。 手足の二、三本を捨てても敵の〈喉〉《のど》笛に喰らい付く。そんな〈貪欲〉《どんよく》な勝ちへの執念が必要なのだと、理解する。 俺が今まで忌避して背を向け続けてきた……そんな領域に踏み入らなくてはならないのだと思い描いて、手足が思わず震えてしまう。 やるしかないけど、ちくしょう、怖え。 「機械じゃねえんだ。理屈で判ってても、正しくても、いきなりそんな風になれるはずもなく……」 負けて失うのは御免だ。傷つくことは嫌なんだ。 そんな人間としての当たり前を求めて何が悪いと、今でも心の底では何度も何度も叫んでいる。 「けどなァッ――」 次なる攻撃の“意”が鬼眼の奥に起こった刹那――今まではここで踏み切っていた回避行動を、歯を鳴らしながら遅らせる。 「だからって……もう逃げる訳にはいかねえんだよ」 実際の攻撃が発動した――それでもまだ肉体に静止を命じ続ける。 絶叫を上げる生存本能をねじ伏せ、培った反射で暴走しかける臆病な筋肉を抑えつけた。 「俺は……!」 迫る魔爪の風圧が肌を突き刺す――まだ、まだ、まだだッ。 「俺はァァァッッ!!」 そして指呼の間さえも削りきった、回避のための〈余力〉《マージン》すべてを削ぎ落として、ついに── 「――ッ!?」 ここで一気に、攻勢をかける速度へとぶち込んで、俺は初めて自分から前に出たのだった。 飛び込み――死を呼ぶ魔爪に頭から突っ込んで、そして深く斬り裂いた。黒の瘴気を〈共鳴振〉《レゾナンス》で突破、攻撃直後で奴の躯体が硬直する。 刃越しの〈手応〉《てごた》えは十二分。紙一重まで引きつけ放った〈要撃〉《カウンター》は、リスクに見合った戦果を残していた。 「……へえ、なるほどなるほど。〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》」 〈血飛沫〉《ちしぶき》越しの言葉には、俺に対する本音の感慨が含まれていた。魔星はこの程度では止まらない。負傷を受けてなお次撃を放たんとするが――それもさせない。 奴の前進に更にこちらも踏み込みを合わせ、より懐深くへ斬撃を放つ。弾かれた。弾かれた。刃と鉄爪が寒気を呼ぶ激突音を鳴らすが……構うかよ。 こっちは今、自分の起こした行動の結果だからと信じて次へ移していくのに必死なんだ。牽制に対する成果へ一々驚愕してられない。 さあ、行こう──もっと、もっと、もっと、もっとだ。 人間でも琴弾きでもない、餓えた人狼として自分自身を変革しろ。 衝撃で流れた体勢を狙ったフェイント、逆側からの魔爪が襲う。横殴りの重い一撃を、充分に予測した位置に刃を置いて受け止めた。 襲う衝撃――全身が〈軋〉《きし》む。肋骨にヒビが入った激痛を、しかし〈気〉《 、》〈合〉《 、》〈で〉《 、》〈放〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》。 「ウ……オオォォォッッ!!」 逆手に握った刃を捻じり、梃子の原理で押さえ込む。巨大な爪が制圧され静止した一瞬――俺は〈爪〉《そこ》へと足を掛け、瘴気を打ち消しながら奴の長い腕自体を滑走路として飛翔した。 飛び込む先? そんなものは決まっている。この牙を奴の〈喉〉《のど》笛に突き立てるべく、なお懐深くへ俺は翔ぶ。 そして放った、頭上宙返りから背後を取っての空中一閃。 落下しざまの逆手斬りは、マルスの首を超高速の撃震と共に切り裂かんと走ったが――しかし切断するまでには至らず、浅く切り込んだのみの結果に終わった。 賭けに出た行動は、これで空を切ってしまう。ああ、ゆえに── 「しまッ……!」 痛手を負うのも当然のこと。 斬撃に合わせて放たれていた逆腕の死爪もまた、俺の脇腹を〈掠〉《かす》めたことに一瞬遅れて気付いた。そう、この被弾が攻撃重視に振り切ったことで不可避的に負う〈代償〉《リスク》。 ほんの浅手だ。戦闘中ならば、痛みを感じることもないほどのかすり傷は……しかし、この相手に関しては致命傷も同じ。 「──チィッ!」 一瞬の〈躊躇〉《ちゅうちょ》も遅滞もなく、自分の刃で傷口を〈抉〉《えぐ》って捨てる。奴の〈星光〉《ほし》に同期した振動を乗せて切除された肉片が、すかさず塵と化しては消えていく。 俺の体内に入り込もうとしていた“死”は、辛うじて中和され消滅した。身をもって奴の瘴気、その恐ろしさを体感する。 生物であろうが金属であろうが、物質であれば例外なく塵と化す赫黒の霧……マルスの〈纏〉《まと》う煙のような揺らめきは、形ある万物の解体屋だ。 そして、理解する。ヴェンデッタとの同調による影響が高まっているのか、あいつの星光がどんなものかを看破した。 「結合、分解……?」 そう、それがマルスの放つ瘴気──〈殺塵鬼〉《カーネイジ》という力の正体だった。 あの霧それ自体を構成する微粒子が、物質の分子結合を解き崩壊させる能力を有しているのだろう。音も衝撃もなく、ただ触れたというそれだけで、あれは〈細菌〉《ウイルス》のように物体の組成を〈解体〉《バラ》しにかかる。 戦車の砲弾が消えたのも、兵の死体が消えたのも、あらゆる瓦礫が消失したのも……すべれはその原理からだ。 〈分〉《 、》〈解〉《 、》〈が〉《 、》〈早〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈て〉《 、》〈消〉《 、》〈滅〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈錯〉《 、》〈覚〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 そんなものを常時我が身に〈纏〉《まと》わせる付属性と維持性、攻防一体の鎧によって紅蓮の魔星はその戦闘力を支えているのか。 当たれば死ぬ。当たれば死ぬ。思い知らされた、しかし――だが。 「ほう。恐怖の正体を知り、あえて来るのか」 その通り。前へ、前へ、前へ前へと――俺の追撃は止まらない。 唸り来る死爪の軌道を読んで〈躱〉《かわ》せるのは、冷静な予測と視認が出来ているから。 鋼の剛力に打ち負けないだけの一撃を放てるのは、怖れず前に踏み込めているから。 防御も回避も、すべては生存ではなく前進と攻撃のために。思考は〈死神〉《タナトス》を〈克〉《こ》えて冴え渡り、肉体は精密機械よりも正確無比に駆動していた。 俺は今、俺自身を掌握しながら動かしている。運命にも恐怖にも、俺は決して動かされてはいない。 自己の全霊に決断を下し、力を駆使してひたすら前にだけ進む――そんな、〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈で〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》在り方を体現している。 「いやはや何とも恐れいったよ。まるで英雄のようだ、見惚れてしまう」 「初心者みたいなものではあるがこれで中々、堂に入っているじゃあないか」 鬼面の下から〈嗤〉《わら》う声。奴もまた気付いている。今の俺が誰に似ているのかを。 そう、これは―― この迷いなく力強い闘い方こそは、俺が〈五年前〉《あのひ》見た〈悪夢〉《りそう》の生き写しそのものだから。 「立派だな。しかし気付いているか? 今のお前さんは、自分自身で否定した〈虚飾〉《もの》になりかけてるっていうことを」 確かに──もはや急所狙いに死角狙いではなく、それ一本槍の暗殺剣ではない。これではまるで、たとえ相性最悪の敵であろうと、正面から己の技量を頼み実力行使で突破する王道の正剣だ。 確かにそんなものは、〈一点特化型〉《できそこない》の俺にとっては絵に描いた理想でしかない夢物語だよ。 以前ならば自殺と同義の決して有りえぬ選択だったろうし、それを遂げた今これを成長と多くの者は語るだろうが……しかし鬼にとっては違うのか。 奴はどこか痛ましげに、こちらを指して嘆息している。 「そうさ。負け犬である本質を置き去りに、強者という虚飾になろうと必死に〈掻〉《あが》いて無理をしている……」 「いや、それ自体は素晴らしいことだ。俺の持論通りでありそこについては何もねえよ。個人的には褒めもしたい」 「だがしかし、お前の宿命的にはどうなんだ? 俺の後には、そいつの本家本元と必ずやり合う羽目になる」 「熟練と付け焼刃、どちらに軍配が上がるというなら、それは──」 「──黙れ」 そんな〈鬱陶〉《うっとう》しい口舌を遮った。同時に浴びせた一刀は、これまでのどの斬撃よりも即死点たる首へと肉迫する。 シビアな回避を押しつけ余裕を奪ったことで、物理的にも奴の言葉を断ち切る。そしてなお俺は止まらない。 「虚飾だなんだと〈煽〉《あお》るほど、その実おまえが〈強者〉《それ》を嫌がってるのが見えてくるんだよ」 「おまえの苦手は、何せ〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈奴〉《 、》なんだからな」 剣風の唸りと剣戟の残響が絶え間なく狂奏曲を奏で続けるその中で、俺は真実を看破しつつあった。 堅牢な装甲をも打ち砕く剛直の攻撃力。幻惑を物ともせずに跳ね返す、迷いとは無縁の精神強度。こいつにとっての天敵とは、正にそういうものを兼ね備えた人間に他ならない。 つまりは英雄の同類──揺さぶり崩す手管が通じない相手には、その本領を発揮できない。 クソが、騙されていたし間違えていた。マルスは悪鬼でも賢者でも戦闘狂でも、自信家でも戦士でも殉教者でも何でもない。 ──こいつは、〈狂言回し〉《トリックスター》だ。嘘と偽りで獲物を嬉々と揺さぶり尽くす言葉の奇術師。剛毅でも実直でも何でもない。 だから、ペラペラと喋る〈嘘八百〉《こうげき》が通じない相手のことを、実は密かに毛嫌いしている。 「俺に〈そ〉《 、》〈う〉《 、》なってもらっちゃ都合が悪いんだろう。だから言葉巧みに刺激して、俺を本来の〈殺し方〉《スタイル》に戻そうとしているんじゃねえか?」 だからそれを見抜いたことで、マルスの得手とする心理戦の揺さぶりは通じない。もはや、かつての流儀に戻るつもりは〈微塵〉《みじん》もなかった。 だがそれは、勘違いするなよ。おまえに対して有効だからこうなったという訳じゃないんだ。 「関係あるか――俺が、ただそうしたいからやっているだけだ」 あいつに、チトセに恥じない自分であるために。胸を焦がす愚直なその一念が最も〈相応〉《ふさわ》しい己の在りようを選択したその結果。 傷や痛みから逃げるのではなく、挑んで破って超えるために。その発生源たる敵の攻撃に自ら肉迫していく戦闘形態になることは、いわば必然だとも言えた。 「もういい、判った。おまえはとにかく、邪魔なんだよ」 「うだうだと〈御託〉《ごたく》を並べて結局最後は俺を惑わし傷つける。そんな奴に付きまとわれるのは〈鬱陶〉《うっとう》しくて、腹立たしい」 「いい加減に蹴りを付けるぜ。ここで必ず死んでもらう」 叩きつけたのは処刑宣告。それを受け、鬼面はいつの間にか沈黙していた。 いや、静かに〈喉〉《のど》から漏らすのは寂びた苦笑だろうか?じわりじわりと、何かをそっと滲ませていく。 「やはり、お前とは徹底して相性が悪いな……どうにも可愛げが無さすぎる」 「だがまあ、これですっきりしたよ。ここからは、俺もやりたいようにやらせてもらおう」 距離を開けた空間越しに伝わったのは、気配の変動。 異形の肉体に眠る異形の精神が、邪悪でおぞましい〈欠伸〉《あくび》を漏らしたかのように……それはゆっくりと、だが確実な胎動を見せた。 そして──ああ、再び。 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがためッ」 次の瞬間、爆発したかのようにそれは激しく噴火した。 「死が満ちる、死を満たせ、死を〈杯〉《さかずき》へと注ぐのだ。狂乱と破壊と炎と災いで、見渡す荒野を深紅に染める」 「青銅の鎧を纏え。両手は槍を携えよ。戦車へ騎乗し突撃すれば、敵兵はものみな等しく髑髏の山と成り果てようぞ」 本気の開帳、それを証明するのは紡がれ出した〈火星〉《マルス》固有の〈詠唱〉《ランゲージ》。 破壊と殺戮を神格化した軍神、赤き凶星を象徴する〈星辰〉《ほし》が奴の身体に降臨する。ただひたすらに〈禍々〉《まがまが》しい、喜悦と狂気を〈迸〉《ほとばし》らせる。 「おお、芳しきかな、人肉の脂が燃える。打ち震えるかな、無意味で無情な流血よ。ただ理不尽に散りゆく〈獲物〉《いのち》、これぞ戦の誉れなり」 「野獣の如き蹂躙だけがこの身を至福へ誘うのだ。城壁の破壊者は、泰平をこそ打ち砕く」 冥府の底から響き渡るかのごとく、それは低く滅滅と〈木霊〉《こだま》する〈呪詛〉《じゅそ》の羅列。真実の暴露。 奴の本性を起動させる凶の呪言には、〈滾〉《たぎ》る溶岩めいた狂熱が宿っていた。それが狂おしい一つの感情をぶちまけて、呆れるほど無作為に周囲へ向けて〈撒〉《ま》かれ始める。 宿っているそれは、まさに殺意一色の波。 殺したい、 殺したい、 殺したい殺したい 殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい 殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい、と────馬鹿みたいな願望が際限なく噴出していく。 「永遠たれ、凶兆たる災禍の紅よ。神々の弾劾さえ我が悦びを裁くに能わず」 そう、あるのは本当にたった〈殺人欲求〉《それ》だけ。 運命がどうとか、聖戦が何だとか、そんな事実の何もかもを実は心底どうでもいいと言わんばかりに嘲笑して── 「〈超新星〉《Metalnova》──〈義なく仁なく偽りなく、死虐に殉じる戦神〉《     Disaster Carnage     》ッ!」 ここに魔星の本領、虐殺の〈殺塵鬼〉《カーネイジ》が顕現した。 高まる激情の内圧が鬼面の眼光を深紅に染める。四眼は凝縮された殺意に燃え、殺意を〈滾〉《たぎ》らせ、喜びという名の殺意を殺意と殺意と殺意と殺意へ混ぜ合わせながら爆発する。 嘘だろ? 信じられない。こいつ、まさかこんな── 「ああそうだとも――俺はただひたすらに、実直に、ただ純粋に」 「殺して、〈殺〉《バラ》して、〈殺〉《コワ》してやりたいだけなんだからなァァッ!!」 そしてこの上なく〈愉〉《たの》し気に、鬼面は〈鏖殺〉《おうさつ》に躍り出た。今までとは比較にならない悪魔の瘴気を轟かせ、狂笑を振りまきながら初めて本性を見せたのだった。 〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈人〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈が〉《 、》〈大〉《 、》〈好〉《 、》〈き〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》、あまりにも単調な願望へ向けて超疾した。  そして、鬼面と人狼の死闘が佳境を迎えようという頃。  決戦の〈火蓋〉《ひぶた》はこちらでも切って落とされていた。  銃火と星辰光が狂い咲き、帝都の夜を極彩色の戦場へと染め上げていく。 「お姉様に仇なす者、すべて根絶やしにしてくれましょう――羽虫のように死んでいくのがよろしいかと。  では皆様方、御機嫌よう。燃え尽き消し飛んでしまいなさいッ」  前線を〈蹂躙〉《じゅうりん》するのは、荒れ狂う〈爆熱火球〉《プラズマ》。数に任せて押し寄せる装甲と砲身の隊列を、その爆撃で次々粉砕蹴散らしていく。  サヤ・キリガクレは猛威を奮う。精鋭無比たる第七特務〈裁剣天秤〉《ライブラ》副長、帝国屈指の〈星辰奏者〉《エスペラント》に敵する豪の者はそういない。  そう、彼女は優秀だ。少なくともゼファーではこんな戦果を起こせないだろう、どうしても火力の面で劣ってしまう。  複数の戦車や大軍を相手取る場合、サヤはまるで水を得た魚のよう。鈍重な的を撃つように熱弾の雨を降り注がせる。  飛び散る焼けた鉄片と焦げた肉片。凄惨で無慈悲な焦熱地獄の中、しかし健在を保ち高速で翔ぶ影が二つ。 「偉大なる神の国、〈大和〉《ヤマト》こそ我らが全て」 「畏れを忘れた新暦の民よ、〈大和〉《ヤマト》の遺した御心に従うべし」  ティナ・クジョウとティセ・クジョウ。  シン・ランスローによって放たれた聖教皇国の刺客たちは、サヤの猛爆を〈躱〉《かわ》し続ける。  〈星辰奏者〉《エスペラント》としての性能ではなく、常人の成しうる体技と術理の極限を疾走することで立ちはだかった。 「おや、聖教国の犬まで紛れ込んでいましたか。ならば遠慮は無用のこと。  滅び去った亡国の元へ、送り届けて差し上げましょうか」  嗜虐的に〈嗤〉《わら》いつつ、帯電した火球の猛爆連打を叩き込むサヤ。それらを巧みに〈躱〉《かわ》しきり、双生児ならではの絶妙な連携で接近戦を仕掛けていく。  ……恐らく、強烈な催眠と薬物による強化だろうか。  宗教家が実に好みそうな人体増強術により、二人は恐るべき暗殺者へと変貌していた。 「悔い改めよ、歪んだ世界の罪人よ」 「祈りが足りぬ。信仰が足りぬ。〈大和〉《カミ》と皇国を畏れるべし」 「これだから狂信者というのは……困りますわね、言葉が通じないのは」  やれやれと嘆息しながら、双子との巧緻を尽くした乱戦を継続するサヤ。  その一方で―― 「風と散るか、雷撃により昇天するか──さあ選べ」  〈漆黒〉《ぬばたま》の髪が舞い上がり、怒髪天を〈衝〉《つ》くかのように逆巻き躍った。  帯電した皮膚が白金の燐光を放ち、軍服の総身を輝く神威で彩っている。 瞳の中には小さな雷が走っていた。  その姿は、まさに風雷神を従える猛々しくも美々しい女神そのもの。  チトセ・朧・アマツは、圧倒的な威風を〈纏〉《まと》いながら大軍の前に単騎立つ。 「我が武名を畏れるならば、直ちに武装を解いて帰順せよ。   畏れぬならば来るがいい。大将首はここにある そして――」  一斉に放たれた銃撃、砲撃、〈星辰光〉《アステリズム》の殺到を、荒れ狂う風神の息吹が押し潰し──さらに。 「英雄だけを盲目的に仰ぐのならば、我が敵として死ぬがいいッ!!」  次いで、十文字に街路を駆け抜けた轟雷の一撃。  その猛威は、小隊単位の戦闘車輌群を兵員もろとも呑み込み撃砕。人鉄等しく消し炭に変えた。 「阿修羅地獄で待っていろ。いずれ〈そ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》で、もう一度殺してやる」  〈獰猛〉《どうもう》に白い歯を〈剥〉《む》いて笑ったチトセの姿に、遠目にもアオイは戦慄した。  眼鏡の下の〈双眸〉《そうぼう》は警戒と畏怖にきつく細まり、噛み締めた唇は〈微〉《かす》かに震えている。  分かっていたことではあるが、これは…… 「……化け物め」  アオイもまたアマツの血を引く〈星辰奏者〉《エスペラント》ではあるが、彼女の才は元々采配を振るう指揮官としての能力にある。そもそも、漣の家系は文官だ。  戦闘向きではないことを自認してもいたし、ましてや総統の域にも迫らんとするこの猛威に対抗などするべくもない。  すなわち一騎当千。銃火器の登場によって化石となったはずのその言葉は、〈星辰奏者〉《エスペラント》という兵種に限っては現在進行形であることを思い知らされた。  総統より与えられたはずのマルスは独断専行、現状チトセに打つ手がない。 「各自散兵、遊撃戦展開! 建物間を移動しながら榴弾、並びに火炎瓶を敵陣から敵車輌へ逐次投擲ッ。  〈反乱軍〉《おれたち》の装備は弱い。無理はせずに、味方の〈強化兵〉《エスペラント》を支援しつつ〈撹乱〉《かくらん》に徹しろッ」  アルバート・ロデオンもまた、乱戦の中で〈反動勢力〉《レジスタンス》の陣頭指揮に当っていた。  旧式装備、加えて重火器を持たぬ民兵たちは、装甲を誇る戦闘車両の前進には為す術もなく駆逐されるしかない。よってアルバートの采配通りのゲリラ戦術を順守して、その効果を上げていく。  にも関わらず、単身敵の射線上に躍り出た孤影が誰であるのかを認め。アルバートは〈放〉《 、》〈置〉《 、》を決め込んだ。  なぜならそれは、制御不能の人間爆弾。一度火が入ったならば何人だろうと止めようがない。 「カカカカカカ――――ッッ!!」  アスラ・ザ・デッドエンドの闘いぶりは、この戦場において最大の奇異を現出させていた。  その武器は己の五体のみ。寸鉄帯びぬ掛け値なしの無手から繰り出す拳打に蹴撃、ただそれを撃ち込まれただけで鋼鉄の戦車がなぜか次々と〈擱座〉《かくざ》していく。  次いで雨霞と襲う弾幕が、回し受けの一閃で払い落とされた。直撃を受けた榴弾を手で受け止めて、爆発前に投げ返すに至ってはもはや喜劇の領分だ。  のみならず、帝国最強の兵種たる〈星辰奏者〉《エスペラント》でさえ木端と散らす。 「星の前に、五体極めて出直せやァッ」  その不条理なる暴力を阻止することは、ついぞ誰にも能わない。  決死の一撃を流麗に流し、返しの掌打を撃ち込むだけで五体が内から爆散した。  そう、明らかに人間技ではない。  修練で到達できる域を超えている。  だというのに、紛れもなく彼はこれを拳の極みと公言してはばからない。そしてそこに〈嘘〉《 、》はなく、ゆえに猛威を激しく振るう。  いざやいざ、この血なまぐさい状況を楽しもうかと、他のすべてを頭から追い出してひたすら火遊びに勤しむのだった。  ゆえに、もはや流れは止まらず── 「大勢は決した。降伏しろ、アオイ」  開戦前とは双方逆になった、降伏勧告。不敵なまでの〈隻眼〉《せきがん》は、同じ血を引く帝国総統副官を真っ直ぐに指していた。  チトセの宣言通り、既にアオイ指揮下の〈近衛白羊〉《アリエス》は総戦力の半数近くを失っている。戦闘においては全滅に等しく、もはや部隊としてこれ以上は機能しえない損失だ。 「なるほど……」  眼前に立つ従姉妹に対し、彼女はしばし理解したように苦笑した。  これではまるで話にならない。マルスを貸し与えられたとしても、あれが指揮下になく、勝手に暴れたことも含めてその〈筋〉《 、》〈書〉《 、》を〈朧気〉《おぼろげ》ながら悟っていく。 「もはやここまで……いいや、最初からこの結末は恐らく決まっていたのだろう。我々が敗北することは〈口〉《 、》〈減〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》であったのかもな。   これもまた何かの〈一〉《 、》〈手〉《 、》ということならば、ああ、ならばこそ〈業腹〉《ごうはら》だとも。   閣下の見ているものを、おまえが理解しているということが……」  追い詰められたアオイは、ゆっくりと護身用の短刀を抜く。才媛の瞳に挑むような〈焔〉《ほむら》が灯るが、しかしそれも一瞬で消えた。  そして口元が寂しげな、しかし決意を固めた微笑を浮かべる。  最後まで拝する方の見ている景色は分からなかったが、それでも一助として尽くせたのならば悔いはないと、彼女は静かに納得した。 「――総統閣下、ご武運を」  次の瞬間、己が胸へと振り下ろしたのは、自決の刃。  覚悟の鋼が過たず、アオイ自身の心臓を貫かんとする刹那――  鳴り渡ったのは、鈴鳴りの残響がただ一度。  音速を越えて鞘走ったチトセの太刀が、刃を弾き飛ばしていた。衝撃にアオイの手首、骨へ皹が入るものの痛みより烈火の憤怒を露わに〈剥〉《む》き出す。 「貴様……〈嬲〉《なぶ》るなチトセ、虜囚の辱めに甘んじる私と思うかッ!」 「思わんよ。〈嬲〉《なぶ》る気もない。 ただ――」  〈労〉《いたわ》るように、膝を折ったアオイの肩を抱くチトセ。いま〈隻眼〉《せきがん》に宿るのは、苛烈無比なる〈裁剣女神〉《アストレア》の眼光ではない。  その感情、誓いが分かるからこそ相手を止めた。 「あの男の真実を知らぬまま、忠義を抱いて殉じていくのが……本当におまえの望んだことなのか?」  それは、一人の乙女としての〈真摯〉《しんし》な温情だった。かつての己と同じ迷路で苦しむ従姉妹への。  アオイの精神に張り詰めていたものが、急速にその結合力を失い解けてゆく。ひび割れた鋼の軍律の下から、アオイ・漣・アマツの秘めた〈生〉《き》の感情が滲み出す。 「総統ヴァルゼライドには秘密がある。我々に、帝国人民に、長きに渡って隠し続けた重大な真実がな」 「…………」 「いつものように〈反芻〉《はんすう》はしない、か。やはり薄々とは感じていたわけだ」  そしてチトセは立ち上がり、もはや完全に抗戦意志を放棄した敗軍の将を〈一瞥〉《いちべつ》する。 「ならば、それを明らかにしようじゃないか。〈私〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》がやるべきことは、その一つだけだ。私の単なる勘違いなら首でも何でも好きに持っていくがいい。  何より、おまえが死ねば国のためにならん。これでも故国のために動いているのは、決して嘘じゃないのだからな」 「知っているとも――だから尚更、気に入らんのだ」  総統閣下とは別の道を行きながら、同じ地平を見捨てている貴様のことが気に入らない、と──続きかけた言葉をアオイはそっと飲み込んだ。 「はは、なるほどそれは悪かった」  苦々しい〈呟〉《つぶや》きに対する返答は、対して笑みだ。そしてそれは事実上の決着ともいえるやり取りだろう。  二人が争う理由はここに一端、終わりを見せる。  青臭かろうが何だろうが、負けた側に文句を言える権利はない。贔屓で且つ感情に実直、敗軍の将に対してなんと甘いと思うのだが……  仕方ないという風に、アオイが俯いた顔を上げた――その時。 「いいぞ、いいぞ──より取り見取りだ。素晴らしいッ」  廃墟を内から突き崩して、暗赤色の鉄鬼が躍り出た。  そのまま〈箍〉《タガ》が外れたような暴走を見せ、終息に向かっていた戦線へと突入する。  そして対峙する帝国軍〈近衛白羊〉《アリエス》と、〈裁剣天秤〉《ライブラ》及び〈反動勢力〉《レジスタンス》の渦中へとまず身を投げいれ……完全無差別の大殺戮を演じ始めた。  殺意、殺意、喜悦、狂乱──とにもかくにも殺しつくす。  まるで童が花畑で戯れるように、塵と化す〈骸〉《むくろ》を浴びて狂笑する紅蓮の異貌。  それはまさしく、〈殺塵鬼〉《カーネイジ》の名に〈相応〉《ふさわ》しい真正の怪物だった。その降臨は、一つの戦場そのものを壊乱させる。 「やめろォォォ――ッ!!」  ゆえに、その後を追うように月下へ跳んだ影は、〈咆哮〉《ほうこう》する銀の人狼。  殺意と決意を等しく乗せた男の牙が……今度こそはと、決着へ向けて輝いた。  〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》が生を享けたのは、カンタベリー聖教皇国の一地方。  裕福な資産階級の子弟として教養を授かり、両親の愛情を受けて成人した。  健康にも恵まれたため大病を患うこともなく、容姿や知能も人並以上。それもあってか友人や恋人といった交友関係にも恵まれ、社会的に孤立したことは一度もない。  そう……だから彼には、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》に至った理由と呼ぶべきものが無かったと言えるだろう。  生まれの因果も育った境遇も、真実何一つ〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈感〉《 、》〈情〉《 、》へ影響を及ぼした痕跡はない。  物事には必ず原因があると信じたい者にとっては、男が後に為したさる衝動が何処から生じたのかは永遠の謎であるのに違いなかった。  暗闇の底ではなく、明るい太陽の下で育まれた男は、しかしある自覚症状を抱えていた。  彼が他者との明白な違いを感じる、たった一点にして決定的な違和感。そしてそれは誰とも共有することが不可能で、ゆえにただ自分の中で育っていく推移を観察することしか出来ない性癖。  何せこれは、少々まずい。  親兄弟や友人にも相談など叶うはずがない類の感情だったため、持て余す他どうもできない。どうしよう?  自分がその願望を感じながら日々生きているなどと、誰にも知られてはならなかった。暴かれたら間違いなく鉄格子の〈嵌〉《は》められた部屋で一生を送ることになってしまう。  そう判断できるだけの常識がある。教養がある。正気がある。理性がある。  ごく普通に育ったがゆえに男はそれら倫理に対する知識も当然、持ち合わせていた。だから彼は、決して誰にもコレを言えない。  ――特に理由もなく、人間を殺したくて堪らなくなるなどとは。  ああ、神様。とてもとても言えません。  その衝動が病気であり欠陥であるとするならば、それは間違いなく先天性。そうなるに至った理由も意味も、誓って自分の生涯には欠片も存在してはいなかった。  〈生まれながらの殺人鬼〉《ナチュラル・ボーン・キラー》……己がそうであることを悟った彼は、社会生活を営むためにその欲望を飼い慣らそうと試みる。  殺しても罪に問われない生き物。まず犬や猫、鳥などを代替に少しずつ衝動を解消しようと手を染める。  結果として、その試みは失敗に終った。男が理由なき殺意の衝動に駆られるのは、動物ではなく人間だけ。人以外の内臓や脳を見ても、何やらまったく満たされない。  対して、人間とはどうも、こう……〈そ〉《 、》〈そ〉《 、》〈る〉《 、》形をしているのか。  仲睦まじい母子連れが通り過ぎれば、顔面をトマトのように潰したくなる。  老人を見れば、枯木みたいに乾いた骨が折れる音を聴きたくて我慢ならない。  老若男女の別もなく、人格を有した人間であればとにかくその場で殺してしまいたくなる。  重ねて言うが、理由はそこに何もない。  あえて言うなら……なんとなく?  したいからそうする。だからとにかく、殺したい。  殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい────  ひぃ、い、ああぁぁどうか神様、お願いです。一人でも多く殺人の快楽を僕に許してくださいな、と。  衝動は日々強まっていく一方だった。いずれは他人に隠し通すことが不可能になるのは間違いなく、今は辛うじて働いている自制心が決壊するのも時間の問題だと言えた。  そうなれば、人間社会は彼の存在を許さない。  ここで男がもう少し内罰的な性格であったなら、自殺という幕引きを選んだことだろう。  誰にも迷惑をかけることなく、罪深い衝動ごとこの世から消え去ってしまおう。生まれてきてごめんなさい、という奴だ。  しかし、男はその方向には向かわなかった。むしろ自殺とは正逆の思考に至ったのである。  つまり、〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》自分を受け入れて、明るく前向きに生きようと決意した。  自分自身を肯定し能動的に生きる――ごく普通にして理想の姿である。  それが殺人という罪業である一点を除けば、だが。  ならばさあ、どうしよう? 明るく生きるためには、生を〈愉〉《たの》しまなければならない。前向きに生きるためには目標が必要だった。  よって、男はなるべく面白可笑しく趣向を凝らし、かつ一人でも多くを殺そすため、とある発想へと至る。  そうだ──〈人〉《、》〈気〉《、》〈者〉《、》〈に〉《、》〈な〉《、》〈れ〉《、》〈ば〉《、》〈い〉《、》〈い〉《、》。  殺人鬼がカルトの象徴となるように、千人殺せば英雄となるように、それらしい味付けで殺していけばより長く殺人を謳歌できると考えた。  衆目の前で縁もゆかりもない人間を殺した後で、親友や恋人をやむなく手にかけてしまったかのように抱きしめ号泣する──  すまない、すまない。アレを防ぐためには、仕方のない犠牲なんだ。  高利貸しや悪徳官吏を狙って殺し、弱者の恨みを晴らす正義の殺し屋であるかのような血判を残して立ち去る──  これであなたは救われる。どうか幸せになりなさい。  かと思えば戦場という究極の殺し合いに飛び入り参加し、劣勢の側に付いて暴れながら戦の信念を説いて回る──  命とは輝くこと。俺が皆を守ってみせる、と。  そして、そのどれもが上辺だけを取り繕った嘘偽りの物語。  目撃者を、噂する者を、そして自分を追う官憲を〈煙〉《けむ》に巻いて〈騙〉《だま》すための大仰な〈動機の偽装〉《カモフラージュ》に過ぎなかった。  けれど……ああ、ああ、いい、いい。これはいい。  なんて〈効〉《 、》〈果〉《 、》〈的〉《 、》なんだろう。  誰も彼もが虚飾の〈物語〉《うわべ》に振り回され、怒り涙し憧れさえする。勝手な妄想を押し付けて自分のことを許してくれる、あんな凄い殺人鬼ならば仕方がないぞという風に。  誰もこの、とりあえず殺したいという身も蓋もない衝動を抱えているとは気づかない。だってそんなことで殺しているなど、誰も信じたくないからだ。  人間はなんと、他者へ神性や伝説を付属したがる生き物であるのやら。  そしてそんなことを幾度となく繰り返していけば、世に誕生するのは血塗れで同時に魅力的な、〈連続殺人鬼〉《シリアルキラー》伝説である。  男の存在は闇に憧憬を抱く者たちの〈教祖〉《カリスマ》となり、陰ながら逃亡を支える支援者さえ現れた。捕吏の手を〈嘲笑〉《あざわら》うように逃れ続け、国境をも越えてアドラーの帝都へと流れつく。  そこで伝説を次々に更新して行き……帝国軍〈深謀双児〉《ジェミニ》に所属していたアルバート・ロデオンとの、知謀を尽くした追跡劇の末、遂に捕縛されたのだ。  裁判の判決を受け、当然のように男の運命は潰えた。  かくして数奇な生涯は、死刑台をその終点として完結を見たのだが…… 「それがどうだ。目覚めてみれば素晴らしい〈肉体〉《カラダ》になっているじゃないか!」 人生の回顧録を開陳しながら、マルスは殺戮の手を止めようとはしなかった。まるで一秒一瞬たりとも無駄にするのが惜しいとばかりに。 そこには確かに、単なる残虐性や悪意といったものを超えた熱意が感じられる。よりもっとおぞましい衝動、いわゆる純粋な殺意というやつで満ちている。 「こいつ……!」 歯噛みしつつ、俺は奴との〈戦〉《 、》〈闘〉《 、》に臨むべく疾走する。 が、その距離は一向に縮まらず―― 「運命とやらを信じてみてもいいとさえ思ったぜ? 大いなる思し召しという奴をな」 紅蓮の悪鬼は、そのペースを落とすことなく〈死体〉《ちり》の山を築いていた。俺との決着など委細構わず、無差別に敵味方の将兵を殺戮し続ける。 延々と噛み合わぬ、〈戦闘〉《おれ》と〈殺戮〉《やつ》の歯車。互いの〈目的〉《ベクトル》は肉体面から精神面に至るまでこの場において大きな擦れ違いを見せていた。 奴は闘いたいんじゃなく、とにかく人を殺したいのだ。そこに理由は何もなく、人間がいるというそれだけで殺戮衝動を感じてしまう。 そして個人よりは多数の方が当然、魅力的らしい。 つまり俺から逃げている訳ではなく、優先順位が違うということ。現に奴は、追ってくる俺の存在を戦力的に無視しながら語りかけを続けていた。 「なあ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》、おまえの目には俺がどう映っている?」 愉快そうに。挑発するように。入り乱れる血と塵と人間の向こうから鬼面が四眼を光らせる。 「最初はこうだったろう。聖教国が送り込んだ最新鋭の人間兵器。帝国を滅ぼす恐るべき無機質な破滅の使徒──おお、なんと恐ろしや!」 「その次は、恐らくこうだ。破壊と力に酔い〈痴〉《し》れた戦闘狂。残忍で好戦的で、しかし闘争の美学を有し一本筋の通った硬骨漢……」 「そして次には、運命に対する忠実な使徒。悪鬼に見せかけ、聖戦の露払いを務める試金石……そんな所じゃなったかい?」 確かに、当たらずとも遠からずかもしれない。こいつが求めているのは俺の覚醒で、こちらを〈執拗〉《しつよう》に狙うのも運命とやらを重んじるからそうしていたのではないかと……そんな風に感じた部分は勿論ある。 「まあ当然だな。つまりはその錯誤こそが物語という虚飾……人間が信じたがり、見たがるものの正体だ」 「経験上から断言するが、〈物語〉《これ》を嫌う人間はそういない。誰も彼もが求めているんだ……より劇的で、より意味ありげで、より何処かで見たような安心できる〈表層〉《うそっぱち》をよ」 ならばこそ、それを利用して一切の理由もなく殺人鬼と化した男は、〈嗤〉《わら》いを滲ませそう語る。 「人間というのは、物事に意味や理由がないと不安になるのさ。突き詰めていけば、それは何故自分が生まれ生きているのかということにも〈繋〉《つな》がるからな」 「だから求める。不安から目を逸らすため“きっとそうだろう”という憶測や裏付けを。もはやそれは絶対の願望と言っていい」 「よって俺は〈願望〉《それ》を、期待に応えて供給し続ける〈娯楽提供者〉《エンターテイナー》なのさッ」 装甲を引き裂かれた戦車が、中に覗いた搭乗兵もろとも〈灰塵〉《かいじん》に帰した。同じ〈星辰光〉《アステリズム》による応戦さえ、馬鹿げた桁の出力で蹴散らされる。 殺したい、殺したい、殺したいと全身で訴えながら〈大いなる犠牲〉《ただの犠牲者》を増やし続ける。 「これは何だ? 暴力だ。本質を〈剥〉《む》き出せばそれだけのものでしかない。しかし人は、そこに虚飾を乗せるのが好きで好きでたまらないんだよ」 「〈贅肉〉《ぜいにく》だらけの〈醜男〉《ぶおとこ》に殴られたら怒るくせに、見目麗しい少女に蹴られたら〈満更〉《まんざら》でもないんだろう? どちらも暴力には変わらんのになァ」 爆走する機関車のごとく、殺戮の数を積み上げる〈殺塵鬼〉《カーネイジ》。まだ敵味方合わせて数百を下らぬ軍勢の森を、戯れながら駆け抜けていく。後には無数の塵の柱だけが残った。 俺はそれに追いつけない。混乱の〈波濤〉《はとう》を避けて乗り越えるだけで、追走の足は取られてしまう。 「ところで、俺がここで『実は語るも辛い過去があってな……』とか告白しだしたらどうする?」 「あるいは『死んだあいつと約束したんだッ』とかそれっぽい決意を示したら?」 「『本当はやりたくない』『仕方なかった』とか、不可抗力に訴えるパターンもあったかね」 「皆のために? あいつは守る? 報いるために? 慈悲の死を?なぁなぁなぁなぁ──どれがいい?」 嘲笑を含んだ鬼面の語りは、死体の数と比例して熱を帯びていく。奴は今、間違いなくこの行為に激しい達成感を覚えている。 「そういう意味や理由があれば、殺人もまたやむ無しと……程度の差こそあれ思う輩は多いだろうよ。間違いなく、〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》は心を揺さぶり共感を呼ぶ」 「重ねて言うが本質は同じだ、〈結〉《 、》〈局〉《 、》〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈は〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》。だが〈人間〉《おまえら》は、物語の有無で差別もすれば〈贔屓〉《ひいき》もするのさ。不幸な過去や切実な理由……そういう虚飾が乗るならば、心の中で殺人許可証を発行しているんだよォ」 「情状酌量? 殺された人間に訊いてみるんだな。相手は哀しい生い立ちだから仕方ないんです、〈無垢〉《むく》な少女だから許してくださいってなァ!」 鬼面の〈哄笑〉《こうしょう》は止まらない。死という空気を〈満喫〉《まんきつ》しながら、殺しの美酒に酔い痴れている。そして指摘しているそれは、恐らく拭いがたい人類の悪癖だ。 伝説の殺人鬼とやらへ対する憧れ。絶世の美少女ならば殺人を犯しても許すという風潮。辛い過去があればやり返してもいいというお目こぼし……すなわち〈好〉《 、》〈き〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈肯〉《 、》〈定〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》という感情論。 逆にすべてが正しい判決でも、納得できないなら必死に否定するのと同じ。愛しているか否かは事実関係や真実をいとも〈容易〉《たやす》く踏みにじる。 物語において、美形なら何をしても許されるというように…… それをマルスは現実でやりやがったんだろう。肯定されたなら認められるという理論の下、劇的な展開を提供して人気取りを続けてきたんだ。 目的は無論、一人でも多く殺すために。 「なぁこの俺はどうだ? 強いか? 格好いいか? 揺るがぬ不動の信念とやらを、それっぽい口調の何処かで勝手に描いて妄想してたか? あるわけねえだろ、そんなものッ」 「〈人々〉《おまえら》の大好きな物語の英雄と、何も変わらんよ。〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈は〉《 、》〈結〉《 、》〈局〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。その時に神妙な顔をしていればいいんだろう? 大きな何かに巻き込まれて、死んだということにすればいい」 「だからそら、俺にもくれよ愛しい殺人許可証を! 強くて格好よくて信念があればいいんだろォ? 大義のためなら大量殺戮も正当化されるんだろうがッ」 「ハッハッハッハッ、アァァハハハハハハハァッ――!!」 マルスはなおも俺ではなく、群がる軍兵へ向けて死の魔爪を振るっている。 奴が執着しているのは何より“数”だ。多数の人間の息吹と鼓動を刈り取ることに、最大の喜悦を感じている。 ゆえに部隊の大多数が死に絶えるまで、奴が俺に食指を向けることはないだろう。俺自身が奴に追いつくためにも、この群衆の数は障害でしかない。 だからこそ―― ここで動いたのは、犠牲となるべきそんな群像以外。マルスの進路上に割り込んだ一陣の〈颶風〉《ぐふう》が、魔星の突進を撃ち返す。 「チトセ!」 ならばと進路を変えた紅蓮の前に、今度は三つの〈球雷〉《プラズマ》が同時炸裂。その機動のための足を止めた。 「おおっと――ッ」 更に別方向から来襲したのは貧民窟の蛮王。飛び込みざま地面に打ち込んだ一打によって、瓦礫を上手く分断するように〈撒〉《ま》き散らす。 「それじゃあ、気張れよ兄ちゃん。男の決着しかと見せてもらおうか」 そして一瞬、進路を封じられた鬼面の背後に俺はようやく到達した。 「誰も手を出さないでくれ」 殺意の波動に共鳴する銀刃を〈翳〉《かざ》し、俺は決着を宣言する。そう── 「こいつは、俺が片付ける」 その言葉に、チトセたちが三者三様の反応で肯定を返した。 「〈法螺〉《ほら》吹きのおまえが並べた〈御託〉《ごたく》も、どれかはきっと真実なんだろうが……どうだろうと構わない」 「俺が明日を生きるため、邪魔なおまえは殺して捨てると決めている。ただそれだけだ」 マルスが〈嗤〉《わら》う。鬼面の下で苦笑を漏らし、死を生む魔爪を持ち上げた。 「飽くまで虚飾なし、身も蓋もない本音の一本槍か……裏表逆の道を歩いてきた癖に、奇妙な程にそっくりなんだな」 「おまえは、ここに来て〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》に似てきたんじゃない……実は元から同じようなモノだったんじゃないのか?」 何かを悟ったように謎めいた独言。それが、俺たちの最終最後の戦端を切って落とした。 「いざ照覧あれ、高天原の星王よッ――天昇するは〈火之迦具土神〉《ヒノカグツチ》ッ!!」 ああ、だから──この糞詐欺師が。 「それっぽい大嘘は、もう十分なんだよォッ──!」 雄叫びを上げながら前に出るマルス――俺もまた同時に踏み込む。 剛撃と銀閃が交錯した。何処までも真正面から、小細工抜きの全開で。 〈彼我〉《ひが》の性能差から来る戦力格差を、同等の攻防を演じるまでに引き上げるのは〈気〉《 、》〈合〉《 、》〈と〉《 、》〈根〉《 、》〈性〉《 、》。恐るべき男を手本に練り上げる。 弱者が振り絞れるたった一つの代価を、俺は生命そのものを死の前に〈曝〉《さら》すことで限界まで引き出していった。 風切音が乱舞する。魔爪の連撃を跳ねるように〈躱〉《かわ》しながら、飛び込みざまに牙を〈穿〉《うが》つ。俺が浴びせた斬撃は、既に五十を数えていた。 だがこれは、灰色熊と狼の闘いだ。ただ一撃で〈斃〉《たお》せる者と、〈斃〉《たお》すために多撃を必要とする者。どちらが不利で消耗が激しいかは自明と言える。 しかし――勝つための道は、〈手数〉《そこ》しかないのもまた絶対の真理。 かつてのような死角の闇から狙う逆襲の一手は、この相手にだけは通じない。心理の裏を〈掻〉《か》く卑劣外道の戦術に通暁した、いわば俺の同族でもあるマルスには搦め手の効果が薄かった。 ゆえに俺は……愚直かつ危険な死線回避と地道な一撃の積み重ねに、こうしてひたすら徹し続ける。 目指す結末へ、半歩ずつでも確実に近づくため―― 破れてしまいそうな薄皮を、一枚一枚貼り付けるように―― 突破口と〈陥穽〉《わな》とを忍耐強く見極めながら―― 一撃必殺の“〈逆襲〉《ゆめ》”を捨て、ただ〈切実〉《リアル》な“勝利”を渇望する。 「オオオォォォォッッ!!」 〈穿〉《うが》つ、〈穿〉《うが》つ、〈穿〉《うが》つ――勝利という塑像の完成を目指し、寡黙に〈鑿〉《のみ》を振るうように。 勝利の像は、簡単にその輪郭を〈顕〉《あら》わさない。ゆえに不安という毒が心を侵す。けれど焦ってはならないし、逸ってもならない。 闘争とは一種の信仰だ。不可視の〈勝利〉《かみ》が己を祝福することを前提に、ただ己を律し、最善手という祈りを供物として積み上げる。 その果てに、信じた報いが訪れることだけを願い続けて。 「おいおい――軽いぞ、いったいどうした〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 「さっきまでの方がマシだったのはどういう訳だ。やはり、英雄の太刀筋など柄ではないと背を向けたか?」 〈怪訝〉《けげん》そうに四つの鬼眼が瞬き、闘いへの違和感を口にした。実際、指摘は至極真っ当だろう。暗赤色の装甲に刻まれた、刃による傷や皹は微々たるものに過ぎない。 俺の刃は的確に敵の一撃をいなし、〈掻〉《か》い潜って命中までは果たすものの……巨体を〈擱座〉《かくざ》させるはおろか、前進を止める用すら為していない。威力が落ちている、そう見られても当然だ。 だが―― 「心配するなよ。すぐに〈聞〉《 、》〈こ〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》くるさ」 そうだ、耳を澄ませ。決して聞き逃すんじゃねえ。 「聞こえる……だと?」 勝利の密やかな〈跫〉《あしおと》を。 「……ッ――」 振動とは波だ。ゆえに時間と共に拡散し分裂、エネルギーが劣化し、やがて消える。空に煙が溶けるように、熱い料理が冷めるように。 だがしかし、永久に分裂することもエネルギーを失うこともなく一定のまま残り続ける“振動”が自然界にたった一つだけ存在する――その名は。 「――〈孤響振〉《ソリトン》」 もはや破滅の振動は誰の耳にも届いていた。マルスの〈体〉《 、》〈内〉《 、》から轟々と響き続けるのは、音叉のような共鳴音。 それと共に、鬼面の巨躯が〈瘧〉《おこり》に罹ったように震え出す。奴にはもはや、自身の肉体を制御することさえ不可能だ。 正確に、神妙に打ち込んだ周波数がここで一気に花開く。 「オ――オ、オオォォォッ……!?」 斬撃は、堅固な外殻を打ち破るために放ってきたのではない。この〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈振〉《 、》〈動〉《 、》を、奴の体内に少しずつ撃ち込み蓄えるために。一発一発は微弱でも、内部で共振を繰り返す毎にそれは相乗作用で〈破壊力〉《エネルギー》を高めていく。 攻撃の軽さは、威力ではなく狙い通りの〈振動数〉《なみ》を生み出す精度重視ゆえ。命懸けで稼いできたのは、積み重ねた布石が必殺に育ち切るまでの時間だ。 そのすべてが、赤の魔星を葬るための〈殺戮技芸〉《キリングアーツ》。無駄な動きは何一つとてない。 「聞けよ、破滅の呼び声を」 今、マルスの肉体は例えるならば激震する水面だ。無数の波紋同士がぶつかり合って消えもせず、行き場を無くして加速度的に水面そのものを破壊しながら共振を繰り返している。 「ガアアアアアアァァァッ!! こ、れ、は――」 物質としての限界強度を超えた鬼面の五体が、〈内〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈罅〉《ひび》割れ自壊する。脳が、臓器が、骨格が、鉄の皮膚下で砕け潰れて〈拉〉《ひしゃ》げていく。 もはやマルスは苦悶の中で動けない。そして如何に強大な獲物であろうと、狼の前に〈喉〉《のど》笛を〈曝〉《さら》したならば運命は一つ。 研ぎ澄まされた銀の牙で、ただその首を刈り〈屠〉《ほふ》られるのみ。 「あァ――」 胴から離れて宙を舞う鬼面が、玩具を取り上げられた子供のように嘆息する。 「〈大和〉《カミ》よ、感謝を──素晴らしき殺生でした」 叩き込んだ〈増幅振〉《ハーモニクス》に、花火と化した鬼の頭蓋。 最後まで殺したい、殺してよかったと言いながら…… 虚飾だらけの〈殺塵鬼〉《カーネイジ》はへ落ちる前に砕け散り、血肉と鉄を混ぜ合わせて消えるのだった。 「――っ、ゲハァッ」 同時に〈発動値〉《ドライブ》を解除した俺を襲うのは、馴染みの反動たる激痛と内傷。過去最大時間となるヴェンデッタとの同調による大きな苦痛が、その内側で暴れ狂う。 盛大に吐血をまき散らし、崩れた俺は…… 「魅せてもらったよ、ゼファー」 俺の闘いを見守っていてくれた、女神の腕に抱き止められた。 「勇壮で、冷静で、何よりも傷つくことを怖れない……明らかに昔以上だ。おまえはやはり怖い怖い人狼なのだな」 その言葉が面映い。自分がそんな、絵に描いたような男になったとは我が事ながら未だ実感がなく。 「気が付いたら、全部夢だった……ってことじゃなければいいわな」 誇らしいやら気恥ずかしいやら、身体が浮き上がるような気分を最後に俺の意識は暗闇の中に溶けていく。 何か大切なものを掴み取った、確かな充足を噛み締めながら眠りに落ちて行くのだった。 ――目が覚めたのは、翌日の午後遅く。見慣れた空間で目を覚ます。 西陽はすでに地平線の向こう側、日没してすぐということを〈報〉《しら》せていた。 「やっと気が付いたか、ゼファー。丸半日ぐっすり眠っていたよ」 静まった部屋の中には、チトセがいた。ベッドの傍に椅子を置いて、そこで俺が目覚めるのを待っていたらしい。 「身体は大丈夫? 兄さん」 キッチンから笑顔を覗かせたのはミリィ。その奥にはヴェンデッタの姿も見えた。 「ああ。ダメージってよりは、普通に疲れが出たって感じだから。もうすっきりだ」 「ならお腹空いたでしょ。〈火鍋〉《ポトフ》を仕込んであるから、温めて食べて」 相も変わらず我が妹は天使と言う他にない。煮こまれた野菜と肉と香辛料の匂いが台所から漂い、目覚めの胃袋を刺激する。 しかし、不思議なのは既に回復している身体のこと。無事というのは本当だが何かが強靭……というより変質しているような感覚がする。 ヴェンデッタとの同調も苦ではあるが、入りも抜きもこのところはスムーズだ。痛みは反動となって走るが、堪えられるようになってきている。 まるで器へ限界まで、常に〈星辰体〉《どうりょく》を流し込まれているような…… 若干の不安を感じるものの言及はしない。この力は手放せず、何より本番がまだ残っている。 問い詰めるのは勝利の後にしよう。 「それじゃ行きましょ、ヴェティちゃん」 「今から? 何処行くんだ?」 「んと。お師匠の所へ〈挨拶〉《あいさつ》とお詫びに」 「ほら……何せ急な話で、不義理をして出ていくことになっちゃったでしょ?再入門を許してくれるかどうかは判らないけど、一応ね」 確かに……あの時とは違って俺はもう帝都から逃げるつもりはないから、今後の事情が変わったのは事実だ。しかし。 「もうすぐ暗くなるぜ? 外を出歩いて大丈夫か?」 「戦闘はもう昨夜から発生していない。交通封鎖などは各所であるだろうが、それ以外の影響は市民生活に出ていないはずだ」 「つまり我々と表向き縁を切れば大丈夫ということになる」 なら、ひとまず平常時とそうは変わらないと信じよう。そういや、情勢はあれからどうなったんだか。 「それじゃミリィ、行きましょう」 傍らに控えていたヴェンデッタが、頃合いを見たように口を開き。 「チトセ──ゼファーをよろしくね」 ミリィと何やら目配せを交わした後、二人揃って出ていく……ミリィはともかく、あいつまで? 二人が出かけると、急に部屋の空気が静かで落ち着いたものに変わった。その中で、チトセがほろりと苦笑を〈零〉《こぼ》した。 「すっかり気を使われてしまったか、あの二人には」 「あぁ……そういうこと」 わざわざ俺が目覚めるまで待っていたってことは、きっとそうなんだろう。後はお熱い二人で水入らずってか。 まったく、近所の世話焼きおばさんでもあるまいし……まぁでも、色々ありがとう。 「しかし……これはあれか、可愛くて気の利く〈義妹〉《いもうと》が一度に二人も出来るたということに? 悪くないが、どうしたものか」 そう言って嬉しげに含み笑いしたチトセが、ふと考え事をしていた俺に気付く。 「……ゼファー?」 「あ、あぁ……何でもない。ちょいと寝ぼけてたわ」 〈妹〉《 、》が二人。そう言ったチトセの言葉に、つい考えこんでしまったのだ。 それは当然ミリィのことではない。やはり、ヴェンデッタについて意識が〈割〉《さ》かれる。 外見の年齢は明らかにミリィより年下で、相手のことも妹のように可愛がっている節がある。だからチトセの感想は、他人から見た視点として何も間違ってはいないはずなのだが…… 俺にとっては、とてもそんな風には思えない。人の内面を見透かしたように大人びた、けれど何処か苛立ちや安心感を感じさせるヴェンデッタの言動について、今でも分かっていることが少ないのを自覚する。 何故ならその感覚は、妹というよりはまるで…… まるで…… 「では、そろそろ状況を簡潔に報告しておこう」 束の間の思惟は、軍人としての凛とした声に遮られ消えた。 「昨夜の戦闘で〈近衛白羊〉《アリエス》は降伏、指揮官であるアオイ・漣・アマツの身柄も確保した」 「とはいっても、拘束するつもりはない。あれは恐らく最後まで私に付き合うつもりだろうからな。奴の下まで連れていく」 「英雄の真贋、か……」 「結果がどうあれ向き合わせはするべきだ。私がそれを望むというのに、あいつだけ機会を取り上げるのはどうもな」 チトセはそう苦笑しながら告げた。どうやら総統副官個人をかなり信頼しているらしい。 「何だかんだ言っても従姉妹だから、血の〈繋〉《つな》がりは信用できるってか?」 「いや……どちらかと言うと、同じ女としての信用かな」 「もちろん、能力それ自体も信頼しているが。〈星辰奏者〉《エスペラント》としてのあいつの真価は、そういうものだ」 そう言って、自分にだけ判る感じの微笑を浮かべた。なんかやらしいぞ。 「とりあえず、帝都防衛軍である所の第一近衛は頭を欠いた状態で、〈政府中央塔〉《セントラル》までの道を塞ぐ大きな障害はないってことだな」 「魔星の一体は〈斃〉《たお》され戦力比も傾いた。まあ、イヴの例があるし他にも人型の個体がいる可能性は十分あるが……だとすれば、なお敵が陣容を整え直す猶予を与える訳にはいくまい」 「何より〈深謀双児〉《ジェミニ》が総統側に付いている以上、何らかの〈撹乱〉《かくらん》工作を用意してくる可能性が高い。基本的に、時間は敵へ味方するだろう」 「なるほど。じゃあ今夜すぐにでも仕掛けるか?」 「そう言いたい所だが、〈流石〉《さすが》に部隊の再編が間に合わない。決戦は、最短で明日の日没後になるな」 確かに激戦で死者が続出したし、何よりマルスの大暴れで出た被害は甚大だろう。 それらの一般部隊は戦闘力と言うよりも、帝都各所の統制に必要となる人員だ。俺たちは蜂起によって、帝国そのものを揺るがす訳にはいかない。 よって目標のヴァルゼライド打倒だけではなく、それによって生じる混乱を最小限に抑える準備が必要になる。 具体的には、まず重要機密を持つ政府高官たちの亡命を防ぐべく速やかに自宅や会議室にて身体拘束。放送局を制圧し、内外への情報統制を行うことも必要だ。市民を戦火に巻き込まぬための、要所道路の封鎖にも多数の人員は要る。 つまりはクーデターの定石ということになるのだが……それとは別に、俺たちには個人としての闘争が待っている。 「了解。じゃあ今の内に、お互いの本命を決めておくか」 込み上げてくる決意と恐れの武者震いを感じつつ、俺はチトセに提案した。 「未確認の魔星はともかく、確定している残りの強敵はウラヌス――そして、〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》だな」 「つまり、俺とおまえのどっちがヴァルゼライドを獲るかって話になる」 この一戦で全てが決まると思うと、恐怖と同時に〈昂〉《たか》ぶりが湧く。闘いに臨むに当って、これほど能動的な感情が人間には起こるのだと……俺は生まれて初めて知った気がする。 「……ふ、ふふ。そうか、どちらが獲る、ときたか」 一方で、そう言われたチトセは〈唖然〉《あぜん》とした後嬉しそうに含み笑った。 「ああ、いや……すまん。あまりに単刀直入だったもので」 「あ、うん。判る判る。俺ってそういうキャラじゃなかったもんな」 この五年間は言うまでもなく無気力で逃げの人生だったし、軍属の頃でさえ任務には決して意欲的ではなかった。ただ生き残るために必死だったから、真剣であったのは確かだけど。 そんな男の口から前向きな発言が出るって時点で、かなりのサプライズだったんだろう。自分で言うのも何だが、俺がチトセでもそう思う。 「けど、ようやく実感してきてな。自虐癖、ちょっとどうにかなるかもしれないぜ」 そう言って笑ってみせるが、少しだけ頬をあおぎながら慌てたようにチトセは視線を逸らした。 何やら少し落ち着きがないというか、普段の様子からすると弱々しくさえ見える。急に一体どうしちまったんだろう。 「んんっ……まあそれよりもだ。奴ら魔星というものについて、どうも解せないことがあるとは思わないか?」 「あれらが帝国製だと言うのはいいとしよう。恐らくそこに、ヴァルゼライドが関わっているのもそうだ。しかし技術それ自体、根幹は何処から来たのだ?」 「そりゃあ……〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》じゃねえのか」 帝国の最先端軍事技術を支える研究機関。それ以外にないと思ったのだが、チトセは一種の禁忌とも言える領域へと更に切り込む。 「では〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》は、どうやって……あるいは〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》それを得た?」 その経緯は帝国史においても、一切が明らかにされていない。というよりも、誰も知る〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》こと。 有用な技術があり、それを運用可能な体制がある。そうした現世利益が機能している以上、大元を知るという発想は生まれる余地があまりない……というか功績で〈は〉《 、》〈ぐ〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈や〉《 、》〈す〉《 、》〈い〉《 、》。 今まではそれでよかったし、根源には第一号〈星辰奏者〉《エスペラント》としてのヴァルゼライド総統が存在している。製造保証としては十二分すぎるだろうという見解だったが…… そのヴァルゼライド自身に裏があると確信した今……チトセはそこに、アドラー帝国最大の謎を見出している。 誰が、いつ、どのように――という、物事の最たる根本でさえ既に不明であると、チトセはそう指摘しているのだ。 「魔星が登場する前の、〈星辰奏者〉《エスペラント》の出現にしてもそうだ。〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》が解析した技術を、ヴァルゼライドが我が身をもって被験し体現した……この前提自体が、そもそも信用できなくなっている」 「仮に全ての順番が逆であったとしても、何もおかしくないほど信憑性が脆弱だろう」 「逆ねえ……」 「そう。例えば最初から逆に、ヴァルゼライドが手に入れた技術遺産を解析するため〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の暗部を立ち上げたとか」 「あるいは〈星辰奏者〉《エスペラント》が登場するより早く、既に魔星が存在していたのだとか、な」 「そんな突拍子もない憶測でさえ、有りえないと否定できる根拠が何もない。いやむしろ、そう考えた方が辻褄が合う……だが、そうだとすれば更に解せないことが出てくるわけだ」 「やはり、〈最〉《 、》〈初〉《 、》が最大の謎なんだよ。ヴァルゼライドが〈星辰奏者〉《エスペラント》なり魔星なりの技術を見出したということ、それ自体がな。奴は軍人であって研究者じゃない」 「けどそれが、誰が見ても将来素晴らしいものを生み出せそうな技術だったとしたら? そこに出自は関係ないんじゃないのか」 「アレが、そういう夢を得ようとする類の男か?」 確かに……そう言われて俺は得心する。ヴァルゼライドはそうじゃない。 あるかどうか判然としないものを当てにするという思考からは、基本的に縁遠い人種だ。今あるものを駆使して可能性を切り〈拓〉《ひら》くということと、未知なるものの可能性に賭けるということは、全く別種の価値観だろう。 「となると……英雄の先に、まだ何かがあるってことになるな」 「私はそう見ている。それに魔星を製造可能な技術があるなら、ヴェンデッタも奴によって造られたということだ。これもおかしい」 「造れるのならば、替わりも用意できるということじゃないのか? 何せ、また造ればいいだけの話なのだから。なのに何故、奴は目覚めなかった一個体に執着する?」 試作体であるから、たまたま製造に成功したから……なんてもう楽観視はできんわな。 間違いなくヴェンデッタという個体に関しては、替えが効かない理由がある。 俺たち〈星辰奏者〉《エスペラント》にも適合条件というものは存在し、万人がそうなれる訳ではない。ならば、〈星辰奏者〉《おれたち》の上位種に等しいあいつらには、よりシビアな適合条件が存在するとしてもおかしくない。 だが…… 「まあ、その件を考えるのはチトセに一任するよ。俺にはどうも、深慮遠謀の世界は向いてない」 何事にも適材適所というものは存在する。大事なのは、全てをこなそうとすることではなく…… 「その代わり、俺がおまえの牙になる。何が来ようと、女神の敵なら咬み砕く」 「誓うよ。俺はもう逃げない」 こうと決めた一つのことを、やり抜き貫き通すという決意。ただそれだけだ。 「そ、そうか……うん。嬉しいぞ、ゼファー」 そう言いつつもチトセがまた頬を染め、俺から〈眩〉《まぶ》しげに目を逸らす。そんな新鮮すぎる反応を前に、俺はもう何もかもぶちまけた。 「そういや、はっきり言ってなかったかもな……俺もおまえのことが好きだよ、チトセ」 「もう二度と、失わねえし離さない。全部責任取ってみせる」 そう告げて、背中ごと包みこむように抱擁した。 心臓を刺されたかのように、柔らかな身体が小さく弾む。すぐ近くから見上げてくる瞳は〈微〉《かす》かに潤んでいた。 「そんなに好きな女の目を〈抉〉《えぐ》るか? 普通……」 「ちょ、おま……それここで言うなよ、凹むわ」 すみません、本当に……いやもうマジで。 呆れたように、ふてくされたように吐き捨てた言葉が胸をぶすっと貫通した。子供が駄々をこねているような反応に愛しさは増すが、それを言われると非常に痛い。 「根に持ってないんじゃなかったっけ?」 「も、〈勿論〉《もちろん》、恨んでなんかはいないぞ。ただ納得がいかんというか、遠回りしたというか、そうは言われても目を失った女はどうとか……綺麗じゃないと思われたら、というか。ええいッ」 「ああもう分からん、なんだこの感覚は。どうしてくれるんだこのゼファーめ、おまえはどこまでゼファーなんだ! このゼファー、ゼファー」 うがー、と照れはじめるチトセだが……何こいつ超可愛いんだけど。 そういえば、これでこのバトルお嬢様って恋愛初心者なんだよな。そのせいか複雑な乙女心を持て余して、甘酸っぱさに理解不能という感じだろうか……うわぁ何それ、このチトセめ。チトセめ。 よし、たまらんので悶絶させてやろう──ずい、と顔を近づければ猫のように身体が跳ねた。 「昔も今も、おまえは綺麗だ。俺の気持ちを疑いたくなったら、この先何度でも同じことを訊いてくれ。答えは何も変わらねえよ」 「俺が付けたその傷も、二人の歩んできた歴史だろ? どれだけ辛く痛ましかろうが、否定なんか出来るかよ。まして、醜いはずあるか」 「強さ、凛々しさ、格好よさ。隠した弱さに、その初心さ……」 「全部まとめて大好きだ」 「――――っ」 今度こそ、チトセは完全に言葉を失った。紅潮した目元は潤み、吐息は湯気が立ちそうなほど熱かった。 よし、いいこと分かった。こいつ明らかに責めるのは強い反面、責められるのに慣れていないなと確信しながら手を伸ばす。肩に触れると、それだけでまたびくりと跳ねた。 「まあそんな訳で、もう焦らすのは止めてくれよな」 「――あっ」 そのまま、俺の体臭が染みついたベッドの上に押し倒した。細腕から伝わる抵抗は、哀れなほどに弱々しい。 とにかくこれは、辛抱たまらんというわけで。 「頑張ったご褒美ってことで、いいよな?」 「……お、おおぅ。いいぞ、〈貪〉《むさぼ》るがいい狼よッ」 などと、目を回しながら強がるチトセの額に口付けを落として…… きゅっと閉じられた黒い瞳を、そっと抱きしめるのだった。 そして、互いに服を脱ぎ捨てた後──  瞬き始めた星の下、帝都の一隅――  人通りも〈疎〉《まば》らな通りをそぞろ歩くのは、石畳に月影を落とす少女二人。 「いつになく口数が少ないわね、ミリィ」 「……ヴェティちゃんこそ」  交わす声には、お互い何処か秋風めいた〈寂寥〉《せきりょう》が忍び込んでいた。  その理由について自覚しているのもまた、お互い様というものだろうか。 「ちょっと駄目だね、わたし。家族なんだから、手放しで祝福してあげるのが一番なのに…… 兄さんには、今まで貰ったものが返しきれないほどあるんだから……こんな時こそ、なんだけど」  微笑を浮かべつつ口にした言葉に、自分を鼓舞するような響きを感じたか……ヴェンデッタの視線が横を向く。 「と……言うのは建前、もしくは強がりとして。今だけは本音を口にしてみてもいいんじゃないかしら?   ここは女の楽屋裏。聞いているのは、お月様と〈第二太陽〉《アマテラス》だけよ」  ミリィもまた横を見た。浮かんだ微笑は優しく、そして少しだけほろ苦い。 「ううん、本音だよ? 本当だよ? だってこの先もずっと、兄さんとは家族でいられることには変わりないから。それ以上は、ねだるつもりもなかったの。   兄さんを大事に思うわたしの気持ちと、兄さんがチトセさんを大事に思う気持ち…… その二つが喧嘩をしたら、きっと何もかもが駄目になっちゃう。それだけは、絶対に嫌だもん」  だから、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈先〉《 、》に踏み込まないのは我慢ではなく本望なのだと。  夜の暗さに勇気付けられながら、ミリィは力強くそう告げた。そして自分の言葉を心に落とし、本音として芯に据える。 「本当に強い子ね、ミリィは」 「ふふ……そういうヴェティちゃんも、わたしと似たような気持ちなんじゃないのかなー?」  ここは女の楽屋裏。そう言ったのはヴェンデッタの方だったからこそ、本音を隠してはいないとミリィは思った。 「ええ、とても嬉しいわ。ゼファーがやっと自分の道を定めてくれた。   彼はもう立ち止まらないし、迷わない。そして私も必要ない。  それは祝福されるべき、とても素晴らしいことよ。だから──」  願わくば、彼の歩むその道が――と続くその先にある〈微〉《かす》かな〈疼〉《うず》きを、言葉にも〈態度〉《かお》にも出さず胸に沈めた。  〈紫水晶〉《アメジスト》の瞳は、不意に歩いてきた背後を振り返った。 「それで――〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》の本音はどうなのかしら?」  向けられた声の先には、帝都の夜陰だけがある。不思議そうなミリィの視線の先で……〈忽然〉《こつぜん》と、〈朧〉《おぼろ》な月影が少女の輪郭を形取った。 「あ、えっと……サヤ、さん?」  現れたサヤ・キリガクレの表情には不興が浮かんでいた。  それは隠形を看破されたがゆえにか、それとも内心を表すがゆえなのか。 「あなた方を護衛するよう、お姉様直々の密命を受けていますので……それよりも。 本音とは、はて何のことでしょう? わたくしには皆目さっぱり分かりませんが、ええ何も」  見透かすような微笑から目を逸らし、サヤは不機嫌そうに告げる。  ただまあ、本心は見るからに明らかだった。 「ふふ。あなた、自分で思うよりもだいぶ素直な性格ね。〈お〉《 、》〈姉〉《 、》〈様〉《 、》を取られて傷心だと、思いきり顔に書いてあるわよ?   ふられ同盟同士、そのへん遠慮なく話してみてちょうだい」 「そんなものに加入した覚えはありませんので。それと、護衛中の隠密に声を掛けないでくださいまし。 ただ、〈五臓六腑〉《ごぞうろっぷ》が煮えますものの……」  職務を盾に同盟締結を拒否したサヤだが、期待するような視線の〈圧力〉《プレッシャー》を受けて諦めたように口を開く。 「お姉様が幸せそうなのは、悔しい反面嬉しいですわ。相手がよりにもよってあの男かということが、実に殺意を〈滾〉《たぎ》らせますけど。   こんなことなら、もう少しわたくしも積極的になるべきでしたわ」 「えっと、もしかしてそれって……」  女同士のあれやこれやか、とさすがに聞けずミリィは思わず口ごもる。  〈流石〉《さすが》にそれを聞く勇気はない。もし本当にそうであった場合、なんというか居心地が悪くなるのは確実だった。  あたりに微妙な雰囲気が広がるが、しかし── 「どうやら、先に声を掛けておいて正解だったようね」  瞬間、ヴェンデッタの呟きにサヤはすぐ表情を一変させた。  傍らに立つ銀髪がその気配を完全に変えている、どころか闇の彼方を凝視して向けている思惟を悟った。 「でなければ、あなたも〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》の後を追っていたでしょうから」 「――――ッ!」  瞬間、〈硝子〉《ガラス》細工の触れ合う鈴鳴りの音が一帯に響く。そして地上の星〈屑〉《くず》めいた〈煌〉《きら》めきを空気自体が帯び始めた。  〈一〉《 、》〈瞬〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》零下数十度を振り切った外気温、一帯の水分すべてが氷の微粒子と化す。  そして、その後からやって来るものに対し――間髪入れず、迎撃戦の構えに移行したのは早業だったが、しかし。 「駄目よ――退きなさい」  それを〈諌〉《いさ》めるように静止の声を上げたのは、銀髪の少女であり。 「遅い――」  そして――凛然たる死の宣告を告げたのは、降臨した天王星。  氷杭の〈槍衾〉《やりぶすま》が天を埋め尽くし、〈怒涛〉《どとう》の飽和攻撃となって街路に降り注いだ。  のみならず着弾点から爆発的に拡散する樹氷の森、逃れる隙さえ与えずにウラヌスは獲物を結晶で飲み込んでいく 「ッぐ――うあああァァッ!」  五年前この帝都を襲った氷点下の地獄が、〈裁剣天秤〉《ライブラ》副隊長を〈蹂躙〉《じゅうりん》した。〈爆雷火球〉《プラズマ》による迎撃さえ問題にせぬほど、暴力的なまでの拡散性に物を言わせた〈絨毯〉《じゅうたん》爆撃。  加えて〈発動値〉《ドライブ》の出力自体も文字通りの桁違い。帝国軍〈星辰奏者〉《エスペラント》上位クラスのサヤでさえ、正面から相対すれば魔星の歯牙にも掛からない。  氷の杭に引き裂かれ、細胞ごと瞬間的に凍結され、瀕死の冷凍肉として路傍に墜ちる。  その向こうの闇には、全員が氷の塑像と化した部下たちが音もなく死に絶えていた。 「あ――――ぁ」  一瞬にして叩きこまれた非日常。それに対して抗すべき備えも精神も、今のミリィは持ち合わせていない。  姿を現した蒼の鉄姫もまた、〈怯〉《おび》える小動物を〈斟酌〉《しんしゃく》する感情など端から有していなかった。  ただ氷華に覆われ沈黙すべき万象の一環、ただそれとしての関心をミリィに対し割いているため。 「さあ、静かに〈永眠〉《ねむ》りなさい」  ウラヌスはついでという風に、〈翳〉《かざ》した手による照準を完了した。  そして事もなく、少女の命を適当に奪おうとした刹那──次いで放たれた氷華の〈波濤〉《はとう》は淡雪の如く霧散した。  ミリィを庇うように立ちはだかったのは、黄泉の柩より起き上がった〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。銀雪の髪を吹雪の〈残滓〉《ざんし》に遊ばせながら、蒼の魔星と対峙する。 「それが貴様の――直に触れてみるならば、なるほど忌まわしき力だ」  仮面の下で不興を〈呟〉《つぶや》き、ウラヌスはしかし更なる追撃を下そうとはしない。ただ冷徹な観察眼で相手の星を確認する。 「なるほど、成長も頃合い。〈殺塵鬼〉《カーネイジ》のことは残念だったが、これによって我らの悲願は成就する。 主の所望だ、来るがいい」  飽くまで伝令の役に徹し、己が服すべき大いなる存在の意思を伝えた。  そうすれば、必死に庇ったその小娘は捨て置くと暗に言っている。  どうでもいい人類種一匹、見逃すのもやぶさかではないという〈傲慢〉《ごうまん》な宣言。対するヴェンデッタは脅されたからではなく、それを自然と受けいれた。  元より、彼女はそうするつもり……時が来たと確信している。 「ええ、逃げも隠れもしないわ。これは私たちの問題だから。  〈魔星〉《ほし》の決着は、〈人間〉《ひと》とは別に付けましょう。彼らを邪魔するべきじゃない」  征くべき道はここに決したとばかり、〈月天女〉《アルテミス》は怖じることなく言い放つ――そして。 「ありがとう、ミリィ。あなたに会えてよかったわ。  願わくば、いつまでもあの子の家族でいてあげて……」  分かたれゆく道を悟らせるべく、自分の手を握りしめていた優しい少女に微笑みを返す。 「……ヴェティちゃん」  すり抜けていく指先と共に遠ざかる、自分よりも小さな背中。  ミリィはそれを、ただ見送ることしか出来はしない。人でありながら〈魔星〉《ほし》の物語に入っていけるのは、その資格を宿していなければならないことを告げられた。  〈彼〉《 、》と、その片翼となった〈彼〉《 、》〈女〉《 、》のように。  そしてだからこそ、今はこれが自分の役目と噛み締めて……ヴェンデッタが示した運命への決意を必ず二人に伝えるのだと独り誓う。  かくて帝都の闇へ、二つの魔星はその姿を消した。  夜は静寂を取り戻し、運命の車輪は加速する。  そして時は、万人を等しく運び去ろうと終章へ向けて駆動するのだ。  ――ただ、決着という因果の終点へと。  ──その瞬間、星の粒子が氾濫した。  大気に存在している〈星辰体〉《アストラル》が脈打つように鳴動し、渦を描いてセントラルへと〈集〉《つど》い始める。  まず、〈空〉《 、》〈の〉《 、》〈色〉《 、》〈が〉《 、》〈変〉《 、》〈化〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。次元の組成まで干渉が届いたせいか、可視域の光が歪み虹のような色彩から一気に夜の深蒼へとその風景を変えていく。  加えて直後、出現したのは銀河のような〈天の割れ目〉《オーロラ》だった。  天の川を連想させる星〈屑〉《くず》を散りばめながら、天女の如き輝く帯が荘厳に帝都上空を包んでいく。  ありえない──時刻は真昼、そしてここは西欧である。  北極でも南極でもないというのに、それこそ何の前触れもなく幻想的な光景がセントラルを中心に世界を覆い始めていた。  まるで終末、空を見上げて大混乱に陥り始める帝都の民。戦慄と共に恐慌と狂騒に駆られる様は人として当然の反応であり、無理からぬ行動だろう。  なにせ世界の変容だ。知識にない、体験もない。よってどうすれば正解であり、何をすれば助かるのかさえ不明瞭な現状に彼らは等しく〈怯〉《おび》え〈竦〉《すく》み、惑うしかないという有様だった。  原因不明の災禍とはそれほどまでに恐ろしいのだ。  帝国の守護神たる英雄に祈りを捧げても、ならばどう救ってくれという言葉さえ考え付かない。ただ必死に、兎にも角にもただ願う。  ……その祈願を捧げる相手こそ、この光景を将来した〈張本人〉《かたわれ》なのだと気づかぬままに。  そして──大衆とは異なり軍人、とりわけ強化兵たる〈星辰奏者〉《エスペラント》もまた世界の変化に驚愕していたた。  星辰体感応措置、強化施術を受けた存在だからこそより精細な形で、世界の変化を感じ取る。 「なんだ、これは──」  結果、アオイの瞳に映る光景はさらに常識外れの現象を捕捉させる。  大気中に〈煌〉《きら》めく〈星辰体〉《アストラル》……それがなんと、所々だが視えるのだ。ヴェンデッタと同調さえすることなく、朧気ながら視認可能となるほどに驚異的な密度を伴いセントラルへと集束していく。  頂上から〈螺旋〉《らせん》を描いて天へ昇る光輝の柱は、まさしく星の回廊だ。  宇宙から何者かが降り立つ〈梯子〉《はしご》であると同時に、地を〈這〉《は》う国津が遥か彼方へ登りつめるための〈階〉《きざはし》としても機能している。  オーロラと共に、星雲の隙間から差し込む〈第二太陽〉《アマテラス》の光。  その先に何があるのか……想像できてしまうがために、アオイの顔から血の気が引いた。  すかさず指示を仰がねばと、動揺する兵らを尻目にヴァルゼライドへ星光を〈繋〉《つな》ぎ通信する。 「閣下、こちら漣──承知のこととは思いますが、現在セントラル上空を中心に謎の怪奇現象が発生しております。  帝都全域を覆う大規模な異変に対して兵も動揺、民なら言わずもがなでしょう。皆著しく平静を欠いた状態です。  よって、どうかご指示をッ。その決断に我らは身命賭しますゆえ」  彼女もまた傑物だが、未曽有の国難を前に普段の冷静さを完全に保てるほど並外れて豪胆というわけではない。  精神力が並より上で非常に優れていようとも、しかし違わず〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》だ。アオイが仰ぐ主ほど隔絶しているわけではなかった。  だからこそ英雄の導きあればと、進むべき道を〈希〉《こいねが》い── 「分かった。ならば漣──セントラルに残った全兵士の指揮権を、今からおまえに移譲しよう。 一人でも多くまとめ上げ、今すぐ此処から退避せよ。部下の命を守るのだ。  この地はまもなく、空前絶後の戦場と化す」  放った念波に返って来たのは、死線へ赴く男の声。  己は此処に残り戦うべき者が在る──そう言外に宣誓したヴァルゼライドの雄々しき意志が、対称的にここから去れと告げていた。  身震いするような覇気はまるで殉教者を思わせるほど澄んでいる。顔も見えず、言葉だけでも秘めた想いは十分相手へ伝わった。  ましてアオイは、彼を激しく信奉する者。その裏に、ありえないことなのだが……〈決〉《 、》〈死〉《 、》を感じ取らずにはいられない。  何か、違和感がする──ような。 「閣下……それは、どういう」  問いかけに対して返答はしばしの沈黙。〈僅〉《わず》かな間を置いたあと、ヴァルゼライドは副官を諭すようにそっと告げた。 「俺はこれより、運命と矛を交える。聖戦を求めた元凶の一人として責任は必ず果たそう──勝利をもって償いたい。  この混乱を、必要な対価と定めた罪があるのだ。以後の繁栄を目指してな」  よって挑み、賭けたがために勝ち取ると──その意志だけを一方的に部下へと明かした。  同時にどこか詫びるように、〈真摯〉《しんし》な感情を覗かせて英雄はこう続ける。 「それを信じろなどとはもう言わん。願う資格もありはしない。見限ってくれて構わないが……その前に、この〈命〉《めい》だけは果たしてほしいと身勝手に俺は願うのだ。 ──漣、軍人として兵や民をその手で守れ。それに見合う力と地位がおまえには備わっている」  自分のような落伍者とは違い、と……続けて苦笑したのは聞き間違いだっただろうか?  アオイは静かに息を飲んだ。嫌な汗がじわりと背を濡らしていく。  嘘だ、ありえん、これではまるで〈遺〉《 、》〈言〉《 、》のようではないかと懸念せずにはいられなくて。 「最後に、個人的な礼を送ろう。 我が誇るべき優秀な副官よ。こんな愚者に今まで尽力してくれたこと、感謝が絶えんと思っているよ」  直後、〈通信〉《ほし》は切断された。  アストラルの乱気流が起こす影響か、真意を彼女が問う前に二人の会話は終わってしまう。  その命令ならぬ命令と謝意に対してアオイは激しく混乱していた。人生最大ともいえる感情の波が〈怒涛〉《どとう》となって内面へと押し寄せながら、思考と意識を〈掻〉《か》き乱す。 「私は……」  これは、何なのだ? どうすればいいという?  あの口ぶり、閣下はこの事態を予見していた? ならばなぜ、それを一人で秘めていたのか。信用されていないから話さなかったというのなら、最後になぜ感謝などを伝えるのかと──ああ、いったい。  今まで秘めてきた〈微〉《かす》かな疑念と、男へ奉げた忠誠心。その二つが〈軋轢〉《あつれき》を起こし彼女の心を圧していく。  信じたい、信じたい。信じているとも──だがしかし、と。 「敵襲、敵襲ッ──!」  混乱する最中へ、暴力的に飛び込んできたのは戦車に咲いた爆炎の華。  煙を上げて〈擱座〉《かくざ》した戦闘車輌を踏み台に、複数の影が疾風のように次々とセントラルへ向け疾駆していた。  その先陣を切る影はアオイが誰より見知っている女の姿だ。  天秤残党を引き連れて、気炎〈迸〉《ほとばし》らせながらチトセ・朧・アマツが走る。 「そこを退け、アオイ──私は奴らを止めねばならんッ。  聖戦を知らぬというなら兵と共にこの場を離れろ。英雄がおまえにならと残した〈人間性〉《じひ》、無駄にはするなよこの馬鹿が!」 「貴様が、なにを語るか……ッ」  視線が交錯し、放たれた言葉にアオイは奥歯を噛み鳴らした。  敬愛するヴァルゼライドが隠していた真実。悲壮ですらある彼の決意。対してチトセの存在に自分の気持ち、世界の変貌……  湧き上がって止まらない感情が彼女を激しく追い詰めた。  ああ何故、チトセは自分も知らぬ事の裏を知っているというその一点が、アオイの心を傷つけていく。〈妬〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈た〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  己が真の感情と総統から託された命令、脳内を駆け巡る情報に葛藤したのは実際の時間だと〈僅〉《わず》か一瞬。 「第三、第四、第七小隊──前へ出よ、逆賊どもを迎え撃て。  〈近衛白羊〉《アリエス》は総統閣下を守護する盾、その本分をまっとうせよ!」  ──鉄の才女は決断した。奉じた男の命令ではなく、己が心に従ってチトセの前へ立ちはだかる。 「──この、分からず屋がッ」  何故こんな時だけそうも素直になるのかと、チトセが歯噛みをした瞬間──二つの部隊は激突した。  銃奏爆華が乱れ舞う中、それごと打ち砕くように続けて飛来した剛拳。  〈景〉《 、》〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈け〉《 、》に兵や戦車を木端のように砕き飛ばし、アスラ・ザ・デッドエンドは笑う。 「さあ、開戦といこうや者どもォッ!」  最終章、“聖戦”──その先駆けが開幕する。  英雄と神星の死闘を目指し、誰も彼もが運命に翻弄されつつ己が命を燃やすのだった。  その中で──  生贄は冥府の底で眠り続ける。  二人きりの過去に包まれ、その目は未だ目覚めない。  敗北者は、優しい闇に包まれながら地獄の過去を謳歌するのだ。  ハンプティ・ダンプティ、塀の上。  ハンプティ・ダンプティ、落っこちた。  王様の馬と、王様の家来。  みんな揃っても戻せないもの、なぁんだ? 「答えは──」  答えは、もう知っている。  だから口に出来ぬまま、ずっと心に沈めてきた。  破滅の封が解かれていく。  我らは再び〈繋〉《つな》がった。 「“勝利”からは逃げられない」  それは人が、どこまでいっても付き〈纏〉《まと》う概念だから。 「さあ──思い出して、あなたにとっての〈逆襲〉《ヴェンデッタ》を」  ええ、だから〈私〉《 、》は思い出す。  あの日に犯した罪のすべてを。  家族を傷つけ、あらゆる運命を狂わせた始まりを……  ──思えば、それは単純な話に終始するのだろう。  正直になればよかった。素直になればよかった。  打ち明けるだけで解決したかもしれないことに、一人勝手に悩んでいただけ。抱えていたから壊れて果てたと、すべてはそれだけの話に過ぎない。  紐解けば、勇気のない女がいたというオチになるだけなのだろう。  膨れ上がった負債は溜め込んだ分だけ弾け飛び、家族にまで累を及ぼす雨と化して降り注いだ。  そう、私は、何も救えはしない。  いずれ訪れる破滅へ向けて、優しい夢を守ったまま進行していく疲弊と病理。静かに転がり落ちていく。  だから── 「大丈夫、明日はきっとよくなるわ」  いったい何度、その〈台詞〉《せりふ》を口にしたことだろうか。  そして何度、心中で自嘲を吐いたことだろうか。  嘆き、眠り、無理に笑って明日を待つ……  それだけで状況が改善するはずなんて、どこにもありはしないというのに。  けれど、仕方がないだろう。〈貧民窟〉《スラム》は最初から行き詰まり。成人できる子供が三割を切るという劣悪な環境で、希望を騙る以外に出来ることはほとんどなかった。  〈餓〉《う》えは耐えるものであり、我慢を強いるものであり、満たされることだけはどう転んでもありえない。  なにせ当時の私たちがいたのは、子供たちだけで構成された矮小なグループだ。ゆえにここから抜け出すだけの器量もなければ、大した力も機転もない。  武力については言わずもがな、気まぐれに殴られては奪われるのが日常茶飯事という有様だった。  それを〈咎〉《とが》める良識的な大人など周囲に存在するはずもなく、必然としてスラムにおける最下層の扱いを受け続ける。  やがて消耗品として食い物にされる運命にありながらも、日々の糧食を得るためだけに掃き溜めの中を駆けずり回って……  だからせめて、精神的な意味合いでの〈無〉《 、》〈理〉《 、》は必要だったのだ──そして私は〈粛々〉《しゅくしゅく》とその選択を行使する。  いいわ、せめて現実を遮断しよう。  優しい〈希望〉《まぼろし》を追いましょう。  身を削らなければ生きていけない以上、痩せ細る身体を支えて生きるには精神的な〈芯〉《しん》がいる。  心じゃお腹は膨れない。けれど絶望に沈んだまま生きることが出来るほど、人間はそもそも強く出来ていないから。 「そう、辛いのはきっと今だけよ。だって覚めない悪夢はないでしょう?  誰の上にも朝日は必ず昇ってくるのよ。希望が見えずにいるからって、遠くにあるとは限らない。  信じましょう、世界はそんなに残酷でも無慈悲でもないはずだと」  なんて、嘘を── 嘘、嘘、嘘、嘘、嘘を重ねる。  馬鹿、最低。現実が何も見えていない。  そんなことはあり得ない。  ならば何故、毎日こんなに苦しいの? そんな弱音を胸に秘め、食い〈繋〉《つな》いでいくために真逆の行動へと手を染める。  物乞いはまだいい方で、〈酷〉《ひど》いものになれば身売りに密告、軍の備蓄を横流しするという犯罪さえも行った。  実際に〈動〉《 、》〈く〉《 、》〈的〉《 、》で試し撃ちをしたいと、新規格の兵器を手渡されたことさえある。  帝国軍のどこと〈繋〉《つな》がっているのだろうか。小競り合いに見せかけた抗争の下、二束三文で引き金を絞らされた経験だってさして珍しいものではない。  表にできない仕事を重ねて、危ない橋を渡り続けて、それでも得るのは数日分のパンと水。  それでも、私はすまし顔。  泣けば〈孤児〉《みんな》も泣いちゃうから。  にこにこ、笑顔──大丈夫。  見えない〈鉋〉《かんな》で心を摩耗させられながら、それでも耐えて〈孤児〉《かぞく》たちへと尽くしていく。  なぜなら自分は年長者で、彼らはみんな愛すべき愛し子たち。守るのは当然であると同時、何よりそこには理不尽な現実への子供じみた反発もあった。  〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈大〉《 、》〈人〉《 、》〈に〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。不幸や貧しさに負けてやるものかと息巻いて、誰にも弱みを見せないよう厳重に本音を封じる。  笑顔、笑顔、笑顔、そう──必要なのは慈愛の仮面。 「もう……そんな顔しないの、ゼファー。お姉ちゃんに任せない。  私を心配しようだなんて、それこそ十年早いんだからね」  ただ、血の〈繋〉《つな》がった弟は……複雑そうな目をしていたけど。  その優しさがあるからこそ、弱音を飲み込めたのは事実だった。心配されているというのが不謹慎だが、とても嬉しい。 「ほら、お姉ちゃんはへっちゃらだよ。みんながいるから頑張れるの」  だから負けてはならない、くじけない。  自分は彼らの光である。  この〈家族〉《グループ》は私がいないと瓦解するのを知っている分、気概を奮って前を向くのだ。  頑張れ、マイナ・コールレイン。あなたは何も間違っていない。  それはやせ我慢、穴だらけの〈芯〉《うそ》であったけど。子供には子供なりの誓いがあって、必死に正しくあろうとしたのは真実だった。  他の誰より、実は私自身こそ〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》の救いを信じているのにそっと目を逸らしたまま、歪で甘い自己犠牲をふんばりながら続行していく。  ……今にして思えば、それは共依存だったのだろう。  大切にする。守りたい。みんなのためにという母性。それは庇護であると同時に、相手へ自分の重要性を刻み込む烙印でもあったのだ。  身も蓋もなく言ってしまえば、私は必要とされたかっただけに過ぎない。  大切だからこそ、大切なものに愛されたい。それは本来、人として何も不思議じゃない感情だけどこの場合は他に何もなかったことが、破滅への予兆となって舞い降りた。  何せ、〈貧民窟〉《ここ》は最低だ。  希望がない。安全がない。明日がない。光がない。  ないないづくしの最底辺。改善しない暗闇の中、拠り所は私だけ。  どの角度から検証しても〈歪〉《いびつ》な状況に対し、心は静かに確実に、そして当然のように軋んでいく。 「……あ、ゴメンね。少しぼんやりしてたかな」  それは水面下で、ゆっくりと。 「私は幸せ、笑顔だから。ゼファーが傍にいるだけで、どんなことでもへっちゃら平気」  丁寧に、鉛筆をそっと削っていくかのように。 「違う──嘘、嘘、辛くない。本当のホント。ほら笑顔」  摩耗していく精神。どれだけ大人びていようとも、所詮二十も生きていない小娘の浅知恵なのだ。 「大好き。大丈夫、大丈夫だよ、平気平気平気平気。  だって、私はみんなの母親代わりで。ゼファーのお姉ちゃんなんだから」  抱き締めて、言い聞かせても心の穴は埋められない。正確には埋まる前に新たな傷で〈抉〉《こ》じ開けられる。  少女を襲う、恒常的な〈心因性圧迫〉《ストレス》の連続……限界は当たり前に訪れた。  そして何より、その〈壊〉《 》〈れ〉《 》〈方〉《 》もまた拙かった。  心が崩壊する過程とは大別して二種あるだろう。  すなわち樹木のように少しずつ壊れていくのか。それとも金属疲労のように限界点を超えた瞬間、一気に折れてしまうかだ。  そして自分の場合、それは明らかに後者として現れる。  笑顔で隠した優しい仮面──誰も〈本音〉《わたし》に気づかない。  それが寂しい、ねえどうして? 今もこんなに悲しいの?  これほどみんなが、弟が大好きなのに、それを分かってくれないの? 「無理しているのよ、本当は辛いの。家族ならそれぐらい見抜いてちょうだい、こんなに愛しているんだから。 どうして、どうして──ねえねえどうして。  どうして──」  一人だけ、馬鹿みたいに、笑い続けていなきゃ駄目?  自問自答した瞬間、心へ亀裂が刻まれた。  ……本当に、なんて醜い逆恨み。  自分が必死に隠したものを、暴かない相手が悪いとなじるだなんて愚かしいにも程がある。  ゆえにそれは約束された終焉だった。甘えたいという感情を誰より分かるということは、何よりそれを見つめ続けた裏返しに他ならない。  暴露するなら、私こそ誰かに甘えて寄りかかっていたかったのだ。  だから、崩壊はまさに一瞬……母親の仮面は跡形もなく砕け散る。  同時に間欠泉の如く溢れ出す、抑圧した負の衝動。  マイナ・コールレインという少女は、何の前触れもなくある日その精神に変調をきたしてしまう。  〈強〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》〈が〉《 、》〈上〉《 、》〈手〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈に〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》のを、たった一つの過ちとして。  甘えたくて、愛されたくて、欲しくて欲しくて堪らない。  その想いに任せて、誰も起こさぬようそっと深夜に身を寄せた相手こそ…… 「──ねえ、ゼファーはお姉ちゃんのこと好き?」 「なら、いいよね。お姉ちゃんをいっぱいいっぱい抱きしめて。 とろとろに、融けちゃうくらい……ん、っ──」  ……その日、私たちは甘く切ない“禁忌”を犯した。  一夜限りの耽美な過ち。初めて同士の拙い愛欲。  壊れた心を癒すために、姉弟でありながら〈淫蕩〉《いんとう》な交合に溺れていく。  いいやこの場合、一方的に〈貪〉《むさぼ》っていただけだろうか?  思いのたけを吐き出しながら口付けて、身体を激しく密着させた。強く抱きしめ離さない…… 「逃げようとしないで、お願いゼファー。一人にしないで。大好きなのよ」  ほら、気持ちよくしてあげるから。あなた楽なことが好きでしょう?  じっとしててよ、受け入れてよ。でないと私、苦しいの。  破瓜よりもっと熱い〈痛み〉《ねつ》を、身体の奥まで注いでちょうだい。 「────あは。 あはっ、あはははは、ははははははははは」  幸せ。幸せ。幸せ幸せ幸せ幸せ──  ああ── 私、ほんと、最低。  そして、想いを遂げた後……私はそのまま逃げだした。  疲れ果てて気絶した弟を残し、〈嗚咽〉《おえつ》を闇に響かせながら廃墟の間を縫って走る。  冷たい夜気はなんの慰めにもならない。行き先なんてどこでもいいから、どう謝ればいいのかも分からなぬまま、何もかもへ背を向けた。  走っては息を切らして、また走って……  もう足が上がらないほど駆けた後、静かに私は夜空を仰いだ。  見上げた視界に悠然と映る輝く月と〈第二太陽〉《アマテラス》。その光景は自分がおかしくなっても不変で、思わずそこへと手を伸ばした。 「このまま、月になれたらいいのに……」  私は結局、太陽には成れなかったから。  無理をしたあげく、守り抜いた日向の居場所を自分自身で壊してしまった。あげく弟を巻き込んで、その心まで〈穢〉《けが》してしまうという有様。止め処なく涙が溢れて止まらない。  もう、家族の資格なんてないだろう。  どんな顔すればいいかも分からない、けれど── 「嫌だよ、ゼファー……」  離れたくない。愛すべき家族、彼の傍にいたいのだ。  自分で台無しにしておきながら、なんて〈我儘〉《わがまま》なんだろうと思っていても、これが私の本心だった。  〈縋〉《すが》り付いたのもそういう理由だ。支えていた〈孤児たち〉《かぞく》に順列をつけては決してないが、血の〈繋〉《つな》がった弟はその中でも群を抜いて大切だという当然のこと。  だからこそ、身体を交えてしまう程にあの子の心を求めてしまった。  一番甘えたくて、甘えてはいけなかった彼にこそ、大切だと言って欲しかったのだと自覚する。  罪を犯した今になって、もう一度ただの肉親に戻りたいという願いもまた際限なく湧きあがるのだ。汲めども汲めども、汲めども汲めども……  そして── 「────、ぁ」  その気持ちを自覚した瞬間、凶弾が私の意識を断ち切った。  仰いだ夜空に咲く血の華。  〈ず〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈狙〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》ことに気づかぬまま、マイナ・コールレインは人形のようにスラムの片隅へ倒れ込み……  呆気なく、そう実に呆気なく──無意味に命を散らすのだった。 「──信じられん、なんという確率か。第一候補でよもやこれとは」  〈胡乱〉《うろん》な意識の中、聞こえたのは水泡混じりの奇妙な声。  燃え盛る炎のような〈呟〉《つぶや》きは、喜色一面に彩られていた。 「喜べ、宿敵よ。〈月天女〉《アルテミス》は滞りなく完成するだろう。 我らが悲願はここに成る」 「〈無辜〉《むこ》の少女と引き換えにな。忘れるな、俺たちが共に犯したこの罪を」  と、そんな誰かと誰かの不思議な会話を……凪いだ水面に浮かびながらぼんやりと耳を傾ける。  どうやら彼らは、〈彼女〉《わたし》の完成を喜んでいるらしい。何かを成そうとするあまり、命を奪ったあげくこうまで〈蹂躙〉《かいぞう》したのだとか。  ──悪趣味だなぁ、この人たち。  素体としての才能? 〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の手によって?  次から次へと聞こえる知識は声だけで姿はなぜか見えないけれど、何かがとてもズレている。  普通じゃないから特別で、特別だけじゃ満足できない。  自分たちだけが掴み取れる唯一無二へと一直線。  敗者を生み出し続ける覇者は、いつもここじゃない〈未来〉《なにか》ばかりを仰いだまま綺麗な誓いを口にしていた。 「これ以上は容認できん。我らの生贄は彼女で最後にするべきだ」 「そうさな、恩義には報いるものがあるべきだ。 無為にも無駄にもしてはならん」  そんなことを言われても、少し勝手が過ぎるんだけど……  というより、この人たちなんなのだろう?  ちょっと頭のおかしい、あるいは足りないお馬鹿さん?  罪や生贄がどうだこうだと、訳わからないし気持ちが悪い。  その決断を結局実行したというのに。殺した後で過ちはもう犯さないと格好つけて宣言されても、ならば私はどうすればいいのかな?  可哀想な犠牲者として彼らを恨むばいいのだろうか。やめてほしい。  誰かを憎むだけで、人はとても胸が苦しくなるものなのに……  それを彼らは本当に理解しているのだろうか? 死者になったのならせめて安息を寄こしてほしい。綺麗な葬花で飾りたてられるよりも、そっと土に返る方がどれほど静かに眠れるだろう、と。  思うのだけど、本当に…… 「涙を明日の光へ変えよう」  まあ、きっと分からないんでしょうね。  なんせこの通り、どうしようもなく馬鹿だから。  前しか見ていないから。後ろを振り向く暇なんて、欠片もないと勘違いしたままだから。  過去を見向きもしないんでしょう? それでは〈弱者〉《だれ》も救えない。  背負っているから振り向かない。重さを感じて進むだけ。  ちっとも目線は重ならないまま天空ばかりを見られても、〈生贄〉《わたし》はあんまり嬉しくないなぁ、なんて──  〈愚痴〉《ぐち》と文句を思ったところでふと気づいた。  はて、どうして私はさっきから意識が残っているのだろうか?  身体はもう冷たくなったし、魂もとっくに消えているはずだろう。  確かに未練はまだあるけれど、化けて出るつもりはない。弟に迷惑かけるくらいならこのまま迷わず、闇に消えたいと思うのだけど。  どうしてなのかと、思った私に── 「それは、あなたが〈逆襲〉《わたし》になったから」  唇が意図せず動き、自分の〈死骸〉《うつわ》が疑問に答えた。  ああ、分かるわ──だってあなたは、もう一人の私自身。  マイナを材料として生まれた影。運命の車輪を回す最後の鍵が、静かに優しく語り掛けてくる。  同時に、知識を〈自動受信〉《ダウンロード》。刷り込まれた真実を端から端まで即座に読む込む。  〈星辰体〉《アストラル》、〈人造惑星〉《プラネテス》、日本復活そのために──  ……なるほど。  全部、理解できたわ。  あまり頭はよくないけれど、つまりはそういうことなのね。 「そう、だから〈私〉《あなた》は選ばれた。そして共に目覚めない。  私の〈瞼〉《まぶた》はあなたのものよ。彼らの願いを成就させるか、それとも否か。決定権はマイナ・コールレインにある。  答えは……なんて、聞くまでもないでしょうけど」  ええ、それは〈勿論〉《もちろん》──こんな祈りには付き合えない。  聖戦? 運命? そんなものに自分をわざわざ巻き込まないで。  彼らも〈貧民窟〉《スラム》の大人と同じ、子供を歯牙にもかけていないから。  強者だけに限定された未曽有の戦争、私はそれを拒絶する。  だからゴメンね、〈月天女〉《アルテミス》。〈貴女〉《わたし》はこのまま眠りにつくわ。  何より、死者は去っていくものでしょう? 納得出来ない最期でも、あれがマイナの人生ならばその侘しさに従いたいの。  あの子に合わせる顔もないし……  それなら、いっそ── 「いいわ、〈私〉《あなた》がそれを願うなら。冥府の底で〈微睡〉《まどろ》みましょう。  〈月天女〉《アルテミス》ではなく〈死想恋歌〉《エウリュディケ》のように、愛する人を想いながら眠ればいい。私たちにはその救済が許されている」  そうね、なぜなら私たちは彼らの知らない〈仕様外〉《イレギュラー》。  あなたの〈素体〉《うつわ》、〈死骸〉《マイナ》の意識はまだこうして生きている。その在りえない不条理がある限り、何人たりとも私たちを目覚めさせるのは不可能だもの。  想いと衝動だけを遺して消えてしまう私が、どうしてまだ〈月天女〉《アルテミス》の内で融けることなく残留しているままなのか……  理由はとても簡単なこと。  彼らは気づかない。男である傑物二人は、製造過程において紛れ込んだ〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》の存在にどうしても思い当たることが出来ないのだ。  すなわち── 「感じるでしょう? 確かな違和を、子宮の奥に……  ここに芽生えた禁忌の証。命にもなれなかった、種子の悲哀と切なさを」  ……それは、幼い姉弟の〈受〉《 、》〈精〉《 、》〈卵〉《 、》。  胎児の形を取るどころか、細胞分裂すら〈碌〉《ろく》に行えなかった命の雛型。  下腹部に灯る〈仄〉《ほの》かな熱は紛れもなく、種と卵が結びついたことで生じた温もり。近親が共に犯した愛しい罪の〈焼鏝〉《ふくいん》だった。 「そう、あなたは〈妊〉《 、》〈娠〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》。 私を生み出す器と成る、まさにその直前で……」  〈自分〉《マイナ》であり、〈弟〉《ゼファー》であり、そしてそのどちらもでないという混ざり合った新たな遺伝子。  それはか弱く、活動どころか意思さえ持たない蛋白質の二重〈螺旋〉《らせん》だ。しかしその小さな異物が、運命の車輪を劇的に狂わせた。  精密細緻なものであるほど〈僅〉《わず》かな差異で破綻する。  壊れるまで耐え続けた少女の悲劇と過ちが……元凶から研究者まで、誰一人気づかなかった最大の〈過失〉《エラー》と化して月の女神へ刻まれる。 「ゆえに〈月天女〉《わたし》は目覚めないわ。〈死想恋歌〉《あなた》の罪を、嘆きを、傷を、内に宿している限り……そう決して。 愛しい〈吟遊詩人〉《かれ》の歌声が、闇の底にも届くまで」  それが現状、外部入力による唯一の〈覚醒鍵〉《キーコード》。  誰も、誰一人として〈私〉《マイナ》たちを起こせない。  英雄も、神星も、〈大和〉《カミ》であっても不可能なこと。  混じった〈遺伝子〉《いぶつ》の片割れであるゼファー・コールレインの存在だけが、黄泉を降り〈逆襲〉《ヴェンデッタ》の手を引けるのだ。  ──光の当たる〈眩〉《まぶ》しく綺麗な〈現世〉《うつしよ》まで。  だから静かに、安らかに──私たちは血の海へ浮かびながら優しく〈謳〉《うた》う。  茫洋と、戻らない過去を眺めながら〈希〉《こいねが》う。  〈無意識〉《ゆめ》で逢瀬を交わしつつ、愛した家族を待ち続ける。  ハンプティ・ダンプティ、塀の上。  ハンプティ・ダンプティ、落っこちた。  王様の馬と、王様の家来。  みんな揃っても戻せないもの、なぁんだ? 「答えは──卵。殻さえ持たない〈揺籃〉《エンブリオ》」  過去の過ち、拭えぬ後悔──  そして、生まれることなく死んでしまった、私と彼の愛しい子供。  墜ちて割れた卵のように、それは二度と戻らない。  どんな王様であったとしても、どんな神様であったとしても、もはや一体化して取り出せぬまま冥府の底で漂い続ける。 「ゴメンね、ゼファー。全部、私が悪かったの……  本当はお姉ちゃんが弱いことを、ずっと隠して、強がって……あげくにあなたを傷つけた。  運命に巻き込んだのは、この私。だから自分を責めないで。  どれだけ謝っても足りないけれど、それでも私は……  あなたのことを──」 「────、違うッ!」 ──瞬間、〈俺〉《ぼく》は薄汚れた毛布を跳ね除けた。 目を覚ましたのは、かつて寝起きしていた廃墟の屋上。〈少年〉《かこ》から〈青年〉《いま》へ、時間を超えて覚醒した俺はそのまま一気に飛び起きる。 たったいま〈垣間〉《かいま》見た風景、心情、そして過去…… あれがいったいどういうことか、理解したことで心が激しく軋んでいる。ついにすべてを知ったことで、己の罪を自覚した。 「違う、違う。そうじゃないんだ、悪いのは──」 ヴェンデッタの正体、姉の犠牲、そして自分が〈吟遊詩人〉《オルフェウス》などと呼ばれることになった〈真実〉《わけ》…… それを受け止めた刹那、俺はただ一心に走り出した。 「はぁ、はぁ……ッ、──」 脇目もふらず、無様なほど息を切らし、目から涙を流しながら……無人の街を必死に走り抜けていく。 無意識下において共有している〈夢〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈の〉《 、》〈風〉《 、》〈景〉《 、》には、自分を除いて誰もいない。 現実の俺は英雄の手で意識を断たれたままなのだろう。装置に〈繋〉《つな》がれ二人で共に見ている夢がこれだから、この世界には人に限らず鳥や虫といった生命体さえ、どこにも存在していない。 ここはまさに、優しい優しい冥界だ。 だから、この領域にいるのは自分と同じくもう一人だけ。 人っ子一人いない帝都の中、対である彼女を求めて俺はひたすら駆けずり回る。〈縋〉《すが》るように、許しを乞う傷だらけの童であるかのように。 そして、思い出が詰まった景色を抜けて── 俺は程なく、終点まで〈辿〉《たど》り着き── 「おかえりなさい、ゼファー」 「──ヴェンデッタ!」 ……彼女の姿を目にした〈途端〉《とたん》、あらゆる想いが堰を切った。 衝動のままに小さな身体をかき抱く。もう離さないという意思表示を示して、その肩へみっともない泣き顔を埋めた。 そっと頭を撫でてくる指先は、暖かくも、懐かしい。 当たり前だ。この優しさに包まれて、俺は何度も冷たい夜を超えてきたんだ。家族の愛情に抱かれながら、貧しくとも笑いあってその日の終わりを迎えていたことを確かに強く思い出す。 忘れない、忘れない。もう二度と忘れるものかと──〈嗚咽〉《おえつ》を漏らして心に誓った。 「情熱的ね……嬉しいけれど、ちょっと痛いわ」 「もう少し、優しく抱きしめてちょうだい。昔あなたに〈彼女〉《わたし》がしてあげたのと同じくらいの温もりで」 「………ッ、ああ」 訴えに力を緩めて、こちらからもそっとヴェンデッタの頭を撫でた。 抱きしめながら何度も、何度も……かつて自分がしてもらった記憶を頼りに、無骨な手のひらであの優しさを再現する。 きめ細かな銀が光を静かに反射した。それは淡い月光の輝きで、素直に美しいと感じながら少女の髪を梳いていく。 「ふふ、本当に身体ばかり大きくなって……この体勢だと時間の流れがよく分かるわ」 「そりゃそうだよ。あれからもう十年以上たっているんだ。手の付けられない悪ガキだってそれなりに成長するさ」 「昔の馬鹿を、ちゃんと受け止められるくらいには……な」 〈反芻〉《はんすう》して、後悔だけが今は心へ募っていく。初めて〈邂逅〉《かいこう》した時にヴェンデッタへ恐怖を感じたのも今なら分かる。当然だった。 なぜならこの少女こそ、俺が背を向けてきた忘れられない〈過去〉《きず》の具現なのだから。 見たくない、知りたくない。真実なんて、そう決してと── 心の奥底で察知していたからひたすらに再開を呪っていた。過去と向き合うことからずっと、逃げ続けてしまったんだ。 あの日、姉がいなくなって程なく、俺たち孤児はバラバラになってしまったのを覚えている。それぞれがくだらない他者の欲望で磨り潰され、やがて俺はその貧困から逃れるべく軍へと入隊したものの…… しかし、そこにさえ安寧はなかった。それどころか権力を求めた意味──いずれ偉くなったら消えた姉を探すという、ささやか志さえ辛い辛いと忘却した。 過酷な暗殺や激務の日々によって、心は確かに削れていったよ。忘れるほどに忙しくて苦しかったのは本当だ。 けれど、ああそれでも…… 「ゴメンな、ヴェンデッタ……ゴメンよ、姉ちゃん……」 「悪いのも、馬鹿なのも、勇気がないのもこの俺だ。二人が謝る理由なんて、これっぽっちもなかったんだよ」 その弱さが、今は恥ずかしくてたまらない── 当たり前の人間らしい〈脆〉《もろ》さであっても、愛した家族に対してだけは雄々しい英雄で在りたかった。俺が臆病者だから目を逸らしてしまったことを、心の底から嘆き続ける。 俺は塵だ。〈屑〉《くず》野郎だ。自覚はあったが、これでよくよく思い知った。 あの夜は確かに過ちだったけど、そんなことはもういいんだ。拒絶も出来ず、慰めも言えず、救うことさえ願えなかった幼い自分が悪いのだから。 だからもう、これだけは間違わないと、堅く堅く胸に誓う。 「傍にいるさ、何があっても。俺はもう家族だけは裏切らない」 「おまえに、あなたに、すべてを懸けて償いたいんだ……ッ」 それは考え付く限り最低な愛の告白。責任を取るという言葉さえ心を〈蝕〉《むしば》む罪悪にどうしようもなく侵されていた……けれど。 彼女は優しく、母親のように微笑んで。俺の頬に手を添えながらそっと静かに背伸びした。 「……もう。やっぱり、あなたはお馬鹿さんね」 たしなめながら、額に落ちた口付けは〈家族愛〉《マイナ》からのもの。 そして、続き唇に触れた想いは〈恋愛〉《ヴェンデッタ》からだと言外に告げながら── 「そんな野暮を言う前に送る言葉があるでしょう?」 「心は通じているけれど、それでも尚更形が欲しいわ。その一言をずっと求めてきたんだから」 ……そう言ってはにかむ少女を、綺麗だと心底思った。 一人の男として、その感情に応えたい。だから今は他のすべてを頭の中から追いやって、自分をここまで導いた運命の女神に向け俺は真っ直ぐに想いを告げる。 「──おまえが好きだ、ヴェンデッタ」 これにて、黄泉降りはおしまい。 死に連れ去れた愛は再び、この手へ還り……冥府の底という終焉で俺たちは心から愛を交わし、結ばれた。 そして、心と身体を求め合う逢瀬も終わり── 倦怠感と充実感に包まれながら、俺たちはベッドに腰掛けて互いに身を寄せ合っていた。 染みるように胸を潤すのは心が通じている喜び。無言であっても暖かさがある。差し込む日差しさえ優しく見えたのは、その心境ゆえなのだろう。 〈紆余曲折〉《うよきょくせつ》した。悲しみがあった、涙もあった。 絶望は数え切れず、敗北した結果堕ちた牢獄がこの夢であったとしても…… 悪くないと、今は確かに思えるのだった。 「静かね、ここは……あなたと私の二人きり。小鳥の鳴き声一つない」 肩に体重を寄せながらヴェンデッタは〈呟〉《つぶや》いた。その言葉通り、この世界に生命の息吹は存在しない。 いるのは俺たち二人だけ。接続された意識が生む閉じた〈終着点〉《らくえん》は、まるで真空管や宇宙みたいに〈澱〉《よど》み一つなく澄んでいる。そして時間の変化さえ何も起こりはしないのだろう。 公転しない星々。昇ったままの太陽。回らない時計の針……帝都の街並みは風化さえ起こさない。 そして……ミリィに、チトセに、ルシードに。イヴや、アルバートのおっちゃん、ジン爺。ティナにティセや他にも、他にも…… 俺たちの大切な人々と触れ合える機会だけは、これから先、絶対に存在することはない。底の底まで墜落した俺たちは、幻の世界に瓶詰めされて標本のように運命の手で保管される。 「だからこれが、永久不変の罰なんでしょうね」 皆の笑顔を思いだすたび、胸へ切なさの棘が刺さっていく。 戻りたいと、そう感じる気持ちは本物だけど。それでもすべては終わった後だ。聖戦は確定して……俺たちは共に奴らへ敗北した。 それが、それだけが、もはや覆せない真実として心を傷つけるけれど。 「……その分、俺はおまえの傍にいるよ」 「誰になじられても構わない。今までそうしてくれたように、今度は俺がおまえの地獄に付き合うとも」 傷の舐め合いであったとしても、二度と悲しませはしないと口にしながら背後から抱きしめる。頼りがいのない男の腕と分かっているが、これが俺のできる最大の意思表示だった。 「そう──」 その抱擁を、なぜか堪えるようにほどいて── 「なら、一つだけ願いがあるの。あなたにしか頼めない、他の誰にも渡したくない……とてもとても大切なこと」 髪をなびかせながら、振り返り── 「さあ──その手で私を殺しなさい、ゼファー」 「そして、もう一度立ち上がるの。大切なものを守るために、ここで朽ちるのはよしなさい」 優しく──そう、残酷なほど優しく。ヴェンデッタは聖女のように微笑みながらそう告げた。 ゆえに俺は絶句する。慈しむ眼差しには〈諧謔〉《かいぎゃく》など〈微塵〉《みじん》も含まれてはいない。少女は真実心の底から、自分の手で死を迎えたいと告げていた。 そのおぞましい願望こそ、紛れもない自身にとっての“勝利”なのだと…… 「おまえ、何を……」 分からない。どうしてそんなことを口にするのか、どうしてそんなに穏やかで慈愛に満ちた目をしているのか。 何も理解できず、馬鹿みたいに漏れた〈呟〉《つぶや》きに月の女神は小さくその目じりを垂らした。──そこには変わらず、愛だけがある。 「何って、もう分かっているんでしょう?」 「ここで、私たちに償い続ける意味なんて、本当はどこにもないことを……」 ──そして、輪唱のように響く声がそのまま景色を融解させた。 ぶれる、別れる、〈二〉《 、》〈つ〉《 、》の影。同一でありながら分離した二重の思惟は、まさしく〈月天女〉《ヴェンデッタ》と〈死想恋歌〉《マイナ》のもの。 上下左右の消えた空間、地平線さえ消失した世界の中で彼女たちは俺の返事を待っている。 それは切に、切に、悲しく歌う〈死霊〉《バンシー》のように。水底へと妖しく誘う〈人魚〉《セイレーン》のように。 「そう、ここは優しい〈冥府〉《ゆめ》の底。過酷な〈現実〉《そと》へ帰るには、死者に別れを告げねばならない」 「幸福であったとしても、生者にとっては監獄なのよ。そしてゼファーはまだ生きている」 「腕を失い、敗北を突きつけられて、何もかもを奪われて……それでもまだあなたの命は終わっていない」 「だから、行きなさい。罪を重ねることになったとしても、尽きるまで走り続けることだけが、命にとっての義務なんだから」 たとえ、結果が見えていたとしても。死を上回る苦難があったとしても、自壊だけは選んではならないと死者は淡々と告げている。 他の誰が死に救いを語っても、既に未来を失った自分たちだけはそれを否定する権利があると、ただ厳かに訴えていた。 「深く〈繋〉《つな》がった弊害ね。あなたは〈死想恋歌〉《わたし》に囚われすぎた。こちらから覚めさせてはあげられないの」 「何より、いずれこの世界は崩壊するわ。私たちの意識で構成されている領域は、役目を終えれば、そのまま自然と消えてしまう」 「猶予は、彼らの聖戦が発動するまで」 「それを過ぎれば私たちはそのまま機能を停止する。今度こそ物言わぬ、本当の骸になってね」 「な、──」 待て──待て、何だそれは。ふざけているにも程がある。 そんなことは許容できない。やっと罪を自覚して過去と向き合えたはずなのに、その責任さえ彼女に返すことが出来ないなんて再び死んでも御免だった。 想像し、身を切るような恐怖が総身を駆け抜けていく。自分が消えるのは今更何も怖くない。けれど今は、償いも出来ず二人が消えてしまうことがどうしても認められなかった。 「ッ、────対抗策は!」 「ないわ。だって、そのために造られたもの」 「彼らの願いが成就すれば、延命させる理由がないわ」 道具の悲哀、存在意義の証明、何かのために生まれた者は唯一無二ゆえ後がない。 歯車や車輪のように、定められた意義を果たすことがすべて。精神が目的に反していようがお構いなし。一度その用途に沿えば正しく効果を発揮する。 太陽を降ろす使い捨ての人造兵器……運命が回った時点で、ヴェンデッタはもう助からないと明かしている。 「伝承において〈吟遊詩人〉《オルフェウス》は失敗した。帰る途中で振り返り、〈愛しい妻〉《エウリュディケ》は再び冥府へ真っ逆さま……」 「けれど、ねえ……最後まで黄泉をぬければどうなったの? 彼は本当に妻を蘇らせることが出来たのかしら? 私はそう思わない」 「理由は簡単、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》はもうとっくに死んでいるんだもの。それがすべて、だから絶対、生き返るはずがないでしょう?」 「当たり前ね、連れ戻すだけでは生き返らない。地上に出た〈途端〉《とたん》、突然鼓動が鳴りだすの? まあステキ、とても都合がいい〈妄想〉《ゆめ》ね」 「なんて甘い、生と死の境界線」 「〈死神〉《タナトス》や〈冥王〉《ハデス》が聞けば、きっと呆れてしまうかも」 死者は骸、墓の下。ひとたび死んだ者にとって浴びる光はもう毒なのだ。 生者の国に死者のまま帰り着いたとしても、冷たい身体は変わらず骸。顔は〈髑髏〉《どくろ》で、四肢は腐肉に堕ちている。安々と奇跡を払い寄こすほど地獄の〈穢〉《けが》れは甘くない。 ……だから、理解してしまうしかない。二人を救う手段など、既に最初からこの世のどこにも在りはしないのだ。 いまだ半死半生ながら装置として存命している〈自分〉《ゼファー》だけが、この暖かい死界を脱する権利を持つ。 けれど、そのためには──ああ。 分かってしまう。嫌だ、嫌だ──正しいことが痛すぎる。 はずなのに…… 「というより、どうでもいいでしょう。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》」 「重要なのは、ゼファー……あなたが残っていることよ。そして戦えるということも」 愛しい少女も、大切な姉も、俺の未来だけは導こうと〈囁〉《ささや》いていた。 他には何も望んでいない。願うのは真実たったそれだけなのが心の内へ突き刺さり、俺をひたすら苦しめる。 「こうしている今も、〈現実〉《そと》では〈第二太陽〉《アマテラス》が降誕しようとしているわ。その瞬間、英雄と神星はかつてない規模でぶつかり合う」 「そうなれば、何もかもただでは済まない。彼らは戦いの中で、〈限〉《 、》〈界〉《 、》〈く〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈何〉《 、》〈度〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈超〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」 「英雄は諦めない。星は不変と輝き続ける。壁と呼ばれるものを幾つも幾つも破りながら、奇跡を起こし続けるはずよ」 「今の力でも、かつての大虐殺を凌駕させる規模なのに。〈不撓〉《ふとう》不屈の英雄魔人……ひとたび戦闘が始まれば、連鎖的に進化と覚醒を繰り返すわ」 「それが聖戦の真実、英雄譚に出てくるような冗談極まる破滅の死闘。際限なく膨れ上がる〈闘志〉《ちから》、〈決意〉《ちから》、〈宣誓〉《ちから》、〈野望〉《ちから》……あらゆる者を焼き尽くす〈終末と創生の炎〉《ソドムとゴモラ》の再現ね」 「どちらが勝っても、光の下に死が満ちるわ。一人の勝者と、一人の敗者を決めるために、何万の〈犠牲者〉《いしずえ》を彼らは毅然と生み出すの」 「古来より、〈英雄譚〉《サーガ》とはそういうものでしょう? 王道ね」 「だから──」 それに巻き込まれて、何もかもが消えてしまわないように。 奴らの身勝手な夢と希望に、俺たちが拙く生きた現実を奪われないためにも。 「俺に、行けって……?」 〈生者〉《ゼファー》を冥府に縛り付ける死の番人、愛する楔、あなた達を抹殺して先に進めというのだろうか……? その問いを言葉にはできなかった。しかし無言でも、彼女たちはそれが正解だと鏡のように頷いてくる。 「最後の〈軛〉《くびき》を解き放ち──」 「まだ現実で、守りたいものが残っているなら──」 死者となった自分たちのためではなく。まだ生きている大切な人々を守るために、さあ──今こそ。 「──私を殺して、往きなさい」 放たれた審判に、俺はもう耐えられなかった。ああ、そうだとも、こんなこと── 「──ふざけんな! 出来るわけねえだろうがッ」 〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》るように頭を抱えて、みっともなく絶叫する。それだけは、彼女たちから頼まれても叶えられない選択だった。 傷つけて、あげく見捨てた〈死者〉《かぞく》に再び〈葬送〉《さよなら》を? どうして口に出来るというのか。しかもその手段として相手を殺せ? 冗談じゃないッ。 「言ったろ、傍にいるって。一緒に死んでも構わない。今の俺に辛いことがあるのなら離ればなれになることだけだ……!」 俺がやるべきは望まれた願いの真逆だ。今度こそ少女を、家族を、偽りでもなんでもいいから償って幸せにすること。 これが泡沫の夢ならば、せめて最後まで安らかに寄り添ってやる。 「出来る出来ない、勝てる勝てない……そんなことさえどうでもいい。たとえあいつらを〈縊〉《くび》り殺せる力があっても、俺は二人のことを選ぶ」 「好きなんだ。大切なんだ。やっと思い出せたんだよ、だから未練を遂げさせてくれ」 「今度こそ、家族と一緒に生きて死ぬ。あいつらみたいに諦めないのが“勝利”なら──そんなものは〈糞〉《くそ》くらえだッ」 愛を犠牲に黄泉返れ? その手を血で〈穢〉《けが》しても、正しい道を突き進め? 馬鹿を言うな──それこそまさに、英雄や魔星の理屈と何も変わりがないじゃないか。 心はとうに救われた。後悔は消えて、罪に対する誠意だけが残っている。他者を蹴散らしてまで成す野望もないならば、これでいいと思ったのに…… 「──ああ、 やはりあなたは偽るのね」 「どうして、ねえどうして、本当の気持ちをくれないの?」 ……瞬間。その発言と同時に、世界がどろりと溶け落ちた。 空間が激しく歪む。仮想の生が剥離する。残ったのは、白磁のような〈髑髏〉《どくろ》が二つ。 溢れんばかりの慈愛が反転して裏返った。それはまさしく死者の妄執そのままに、生者を呪い〈蝕〉《むしば》む〈慟哭〉《こえ》が五体に向かって絡みついた。 「これで〈ま〉《 、》〈た〉《 、》、もう一度、黄泉へと墜ちる〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 「ゼファーが真実をくれないなんて。悲しいわ、切ないわ……いつもそんな、嘘ばかり」 「正しいことは一度も言わない。苦しそうには見えないもの」 「添い遂げるのが楽なんでしょう? 償うことが救いでしょう? 今も自分を守ってばかり」 「傷つけられても、構わないから」 「傷つけるだけで、十分なのに」 「ねえ、どうして殺してくれないの……?」 「──────」 童女のように〈無垢〉《むく》な問い、〈昏〉《くら》い眼光が覗きこむ。 侵食していく絶望が四肢を闇へと〈磔〉《はりつけ》にした。もう逃れられなくなり、逃れる自由も放棄する。彼女たちに拒絶されてしまった俺は、この死界に留まることがどう足掻いても出来ないのだ。 そして、同時に頭を駆ける負の天啓── 〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈何〉《 、》〈度〉《 、》〈目〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》? この光景を以前も見て、体感し、〈抉〉《えぐ》るように思い出した過ちの記憶。この瞬間とまったく同じ排斥された結末が、何度も何度も脳を毒して再生する。 ゼファー・コールレインは夢を見ない。なぜなら、覚醒と共に夢見たことを忘れるから。 無意識に存在していたヴェンデッタとの〈繋〉《つな》がり、眠る度に行われていた会話を俺は毎日のように封印していた。それと同質の現象が、またも今回の失敗を無地の白紙に戻していく。 記憶の底へ封じていく…… 「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき……」 「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき……」 ドロドロに溶け落ちてゆく視界の中、響くのは悲しげな非難の声。哀切の歌。 与えられるその辛さが大きいほど、俺は厳重に一連の流れを忘却するのだ。 繰り返す、繰り返す、繰り返す、繰り返す。〈姉〉《マイナ》の悲劇に涙して、逢瀬に〈僅〉《わず》かな救いを見て、償いを誓ったあげくにまた、〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈間〉《 、》〈違〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。 傍にいると口にして、楽に流され……ああ、もう一度。 「理解なさい。“勝利”からは逃げられない──どれだけ〈掻〉《あが》き、惑っても」 「その運命から、逃れることは出来ないのよ、」 その訴えに、何が過ちだったかさえ、見つけることが出来ないまま…… 泥沼へ沈むような感覚と共に、再び意識が〈地獄〉《かこ》の始まりへと逆行の渦に飲まれて消えた。  〈遺伝子〉《アンテナ》を起動します。  〈接続先〉《チャンネル》を調整します。  〈同調元〉《ヴェンデッタ》が見つかりました。〈情報通信〉《ダウンロード》を開始します。  〈受信中〉《ローディング》、〈受信中〉《ローディング》、〈受信中〉《ローディング》、〈受信中〉《ローディング》……  冥府を降れ、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。〈絶望〉《しんじつ》の底へと向かい、声を張り上げ墜ちて行け。  そう、何度でも。何度でも……  “勝利”とは何なのか。その答えを知り、彼女を殺せる瞬間まで。  ゼファー・コールレインは、終わらない悪夢と〈贖罪〉《しょくざい》を繰り返す。  彼の魂は未だ現世に戻らない。  大気を満たす〈星辰体〉《アストラル》、地表へ近づく特異点。  〈第二太陽〉《アマテラス》降誕が成されるたびに〈煌〉《きら》めきを増すオーロラが、星〈屑〉《くず》の銀河を描き力を支える触媒として大地へ向かい降り注ぐ。  銃撃砲弾飛び交う中、〈死相恋歌〉《エウリュディケ》の歌が轟き渡ることで、外の戦場には多大な変化が否応なく生じて始めているのだった。  すなわち── 「──〈星光附属〉《エンチャント》。 総員抜刀、解き放てぃッ」 「総員、感覚〈繋〉《つな》げよ──〈星光附属〉《エンチャント》。 砲撃掃射。後退、回避、左翼展開、装備交換迫撃砲へ──ッ」  高位次元の素粒子は両軍を平等に高めた結果、総力戦をより苛烈にする触媒として作用していた。  激突するは嵐迅と、完璧な連携布陣。質を向上させた量による飽和攻撃が中空で爆発し、互いの部下を巻き込みながら恐るべき効果を発揮する。  〈貴種〉《アマツ》の二人が共に用いた技は〈星辰光〉《アステリズム》の附属性によるものだ。物体を破壊せずに星の力と性質を特製として付加するそれを、自己のみならず己が率いる部隊員へともたらしての攻防だった。  チトセは、配下の〈星辰奏者〉《エスペラント》が握る太刀へ嵐を〈纏〉《まと》わせ。  アオイは、配下の兵士団を超精密な思念伝播で手足のように動かした。  それは個人ではなく指揮官としての戦闘法。自己の戦闘力よりも全体を重視した複数対複数の〈戦〉《 、》〈争〉《 、》は、掛け算のように双方の火力、連携を驚異的なまでに向上させる。 「ありえん……!」 「なんという、〈出鱈目〉《でたらめ》なッ」  ──そう、驚異的なまでに戦いの規模は膨れ上がっていた。  当の本人たちさえ、訪れた結果を前に思わず戦慄してしまうほど、激しく戦火を広げていく。  相手の力も何よりだが、自身が先ほど放った星光こそが彼女たちには誤算だった。〈明〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈威〉《 、》〈力〉《 、》〈が〉《 、》〈大〉《 、》〈き〉《 、》〈い〉《 、》、いいや〈大〉《 、》〈き〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  普段は出せない出力で星を振るえたその事実についてだが、原因は既に明白である。  今この時も急上昇する大気中の〈星辰体〉《アストラル》濃度が、戦場を駆ける〈星辰奏者〉《エスペラント》へ絶大な後押しを行っていた。  考えてみればそれも当然の話なのだ。恩恵を得ている異能の源、その発生源が降りてきているのだからこれで強くならないはずがない。  そして、何も強化されるのは〈貴種〉《アマツ》の女傑二人だけに限定されてはいない以上、この場にいる〈星辰奏者〉《エスペラント》は大なり小なり戦闘力を増大させ、水を得た魚のように星光を煌めかせる。  圧倒的に数で劣る〈裁剣天秤〉《ライブラ》の残党が未だ正規軍に対抗できている最大の理由はそれだったが、しかし…… 「共倒れにもならんぞ、これでは」  懸念すべきはそこだった。求めているのはあくまで突破であるはずなのに、激しい火力の増大がまるで殲滅戦の様相を呈し始めて止まらない。  アオイの指揮により恐ろしいほど的確な冴えを見せる銃火、砲火の雨に対して、天秤の〈星辰奏者〉《エスペラント》は向上した星光を余すことなく叩き込む。  そして、何度も巻き起こる大破壊と大爆発の結果がこれだ。  このまま総力戦を続ければ泥沼のまま、やがて敵味方合わせて八割以上が逝くだろうとチトセは感じた。確信に近い予感がある。  ならば、何か手を打つ必要があるのだが──その〈鬼札〉《なにか》であるはずのアスラは大軍を相手にするには向いていない存在だった。  単騎では無敵を誇り、今も戦車や兵を枯れ木か何かのように蹴散らしてはいるものの、戦場そのものを一気に覆すような星は持っていない。  何よりこの無頼漢はチトセに付き合う義理自体を、大して持ってはいないのだ。各々の目的を目指して組んだ以上、彼は彼なりの思惑に向けて時が来れば動くだろう。  ゆえ戦力換算して考えることはできず、あくまで己が部隊によってチトセはこの場を超えなければならなくなっていた。  時間がない──手をこまねていれば、〈第二太陽〉《アマテラス》が降誕する。  すなわち聖戦が発動し、ゼファーを救い出すどころかヴァルゼライドを止めることさえ手遅れになってしまうから。 「──聞け、アオイ。ヴァルゼライドの目的をッ」  急がねばならないという一念の下、組織戦を続けながら彼女はアオイへ言葉を放った。  アスラから聞き明かした真実を伝えるべく、従姉妹へ向けて喝破する。 「此度の天変地異、引き起こしたのは奴の野望だ。 〈第二太陽〉《アマテラス》を降ろすがために魔星と手を組み、水面下で事を密かに進行していた……その結果がこれなのだよ。 〈遡〉《さかのぼ》れば、世に〈星辰奏者〉《エスペラント》が生まれたことさえその結託が始まりだったというらしい。 最初から順番が逆なのさ、まったく何とも馬鹿馬鹿しいとは思わんか?」  〈人造惑星〉《プラネテス》の技術へカグツチが手を加え、人間用に幅広く適応させたことにより生まれたのが、星辰体強化措置──〈星辰奏者〉《エスペラント》への人体改造術式である。  つまりその由来を考えれば、魔星との接触以外で技術を得るための入手経路は存在しない。  英雄が第一号の被験者であったことを絡めて思えば、なんとも笑いがこみ上げてきそうな構図だ。なにせこれほどあからさまに、状況証拠は提示されていたのだから。 「原初の魔星、カグツチ。そしてヴァルゼライド──  彼ら二人は〈第二太陽〉《アマテラス》降誕がため協力し、目的が達成すればその所有権を互いに巡って、激しく雌雄を決するそうだ」 「カグツチは〈第二太陽〉《アマテラス》を特異点化する以前、すなわち日本を復活させて世界を掌握するために……  ヴァルゼライドは復活した日本の支配、あるいは特異点のまま制御することで〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》を独占するのが目的だ。  それが聖戦──連中が築き上げた、運命の最終戦争。  奴が逃げろと言ったのはまさにそういうわけなのだよ。新暦に名を残す大破壊がセントラルに吹き荒れるぞ!」  しかも決戦の場は、否応なく降りてきた〈第二太陽〉《アマテラス》の真下で行われるということなる。  つまり今以上に〈星辰体〉《アストラル》が充満した濃度の高い空間で彼らは本気を出すわけだ。それがいったいどれほどの超新星を二つこの世に生み出すか、想像するだけで恐ろしいだろう。  カグツチがどれほどの存在かチトセは預かり知らないが、英雄に勝るとも劣らない怪物なのだとそれは容易に想像がつく。  〈ヴ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈同〉《 、》〈士〉《 、》〈が〉《 、》〈さ〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈出〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈高〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》、〈一〉《 、》〈歩〉《 、》〈も〉《 、》〈退〉《 、》〈か〉《 、》〈ず〉《 、》〈本〉《 、》〈気〉《 、》〈で〉《 、》〈ぶ〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》〈り〉《 、》〈合〉《 、》〈う〉《 、》〈光〉《 、》〈景〉《 、》だと軽く仮定してみれば……それがどれほどの悪夢なのか、よく分かるというものだった。  間違いなく、セントラルは消し飛ぶだろう。  いいや、帝都が半分消滅したとてそこには何の不思議もない。  それは十分ありうる未来で、すぐ目の前まで迫っていて、ああふざけるなとチトセは強く思うがために── 「だからこそ私はそれが見過ごせん。理解したならそこを退けッ」 「ならば尚更、退けはしない── ああ、感謝するぞチトセ。やはりあの御方は間違ってなどいなかった!」  〈吼〉《ほ》えながら部下と共に一斉射した風槌を爆薬の壁で防がれる。  超高速の並列思考を駆使しながら、部下を手足と動かしながらアオイは相手へ真っ向から言葉を返した。  我が疑心、すべて晴れたと迷いなき眼差しがチトセを射抜く。  この戦闘が始まる前にあった動揺は、もはやどこにも見られない。 「つまり、勝てば官軍ということだろう? そうなれば帝国は〈星辰体〉《アストラル》の発生源、及び〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》の独占という凄まじい快挙を達成することになるだろう」 「国のために尽力する閣下の奮闘、知ったことで湧き上がるのは尊敬だけだ。止める方こそ道理が合わん」  ヴァルゼライドは民へ滅私奉公しているだけ。それが分かっただけでも、彼女にとっては十分だった。  鋼の忠誠を取り戻し、逆に相手を諭しにかかる。 「チトセ、まさかおまえはそのカグツチに総統閣下が敗れるとでも?  あるいは痛手を払うだけ、だから自分が今すぐ止める? 見くびるな。   私は信じているのだよ、どんなものが相手であろうと英雄は必ず勝つと。クリストファー・ヴァルゼライドはアドラーの誇る至宝であろう!  勝利を必ず掴む以上、その凱旋を迎えるだけよ」 「疑うことこそ恥と知れ──!」  そしてここに、アオイの指揮がより高速でより巧みへと変わっていく。  前中後衛の連携から装備の交換、負傷した兵の把握と適切な対処、抜けた陣形の穴埋めなどなど……通常では考えられない脳に火がつくスピードで思念の波を伝送していた。  まさしくそれは、英雄のような進化法。  意志力によって限界を毅然と超えるその姿に、しかし。 「──ふざけるなよ、この馬鹿者が! それほど〈英雄〉《ヒカリ》が恋しいか。  そちらの方こそ恥を知れ、ッ」  頑固者が、この乙女がと、頭の中で散々罵倒を重ねつつ真っ向から一糸乱れぬ連携技へと対抗する。  魅了され今も夢見る従姉妹の姿に、腹が煮えくり仕方がないのだ。 「奴にすべてを背負わせて? 何もかもを明け渡し? つまるところ、役立たずだと言われているのにそれすら光栄? 〈戯〉《ふざ》けたことを抜かすなよ。  たった一人の男に対してすべてを賭けた丁半博打……そんなものに傾倒したまま、いったい何が成せるという。  必ず勝つ、勝つ勝つ勝つと、理想論で〈盲目〉《めくら》になるな。崇拝と言う感情で、何もかもを肯定するな。  軍属たる意義と意味を、再び胸へと思い起こせ……!」 「理想論はそちらだろう! 勝つと信じて何が悪いッ」  英雄は必ず勝つという理想論に対して、英雄に負けぬような軍属たれという理想論──二つの意志が〈鬩〉《せめ》ぎ合う。  両者の焦点はたった一つ、ヴァルゼライドが替えの利かない男であること。  だからこそどうするかという点に対して、彼女たちの掲げる理念は真っ二つに分かれていた。 「おまえは卑怯だよ、チトセ。あの方を孤独だと貶しながら、自分たちは複数で、努力も当然しているからと、正当性を盾にしつつ理論武装をしているだけだ。 どれほど〈雁首〉《がんくび》揃えようと衆愚ならば有象無象、烏合の衆。 そういった民主主義的思考はな、最良の統治者が出ない場合においてこそ力を発揮するものだろう。  しかし、総統閣下は絶対である。完全な超越者がいた場合は君主制こそ最大効果を発揮する。 そしてそれは、同時に我ら軍人の存在意義から目を背けるというものではない」 「至らぬ我々は、至らぬなりに、身を〈弁〉《わきま》えて主君を支えることこそ〈宿命〉《さだめ》。  それが今のアドラーにおける最善の構図であろうが」  優秀な統治者への一点集権……それもまた、一代限りなら有効な手段であるだろう。  アオイの言葉は常に正しく、良く言うならば機械的で合理的だ。 「……そのせいで、奴が数年以内に死ぬとしてもか?」  ならばこそ決定的な部分を見落としていると、チトセは〈囁〉《ささや》くように口にした。  ここへ来て初めて、アオイのことを労わるようにそっと伝えたのだった。 「──────、え?」  死ぬ? 誰が、と──彼女はそれを束の間飲み込むことが出来ず戸惑い。  忘我によって思考が止まり、連携が〈途端〉《とたん》に〈澱〉《よど》む。  〈真摯〉《しんし》な眼差しのまま、チトセは静かに真実の続きを明かしていく。 「聞こえなかったか? 〈ヴ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈は〉《 、》〈数〉《 、》〈年〉《 、》〈以〉《 、》〈内〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈亡〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。聖戦の勝敗に関係なく、あいつに寿命はもはやほとんど残っていないのさ……  再星辰強化措置、〈星辰奏者〉《エスペラント》の再改造という馬鹿げた机上の空論さ。九割強の確率で死ぬそれを、奴はなんと最低三回、我が身で試しているそうだ。  凄まじいな、とても真似できんよ。私であっても不可能だ。  そんな無謀に手を出して生き延びられる人類など、まさしく地球にヴァルゼライドしか存在しない」 「だがな、当然その代償はしかと払っていたんだよ。 肉体の組成に関して、意志力ではどうにもならない部分がある。当たり前のことだろう?」  極論、気合や根性がどれほどあっても、原子核そのものが高次のものへ入れ替わったりしないのだ。  強くなった。生き延びた。そしてこの世は原則、等価交換である。  〈寿〉《 、》〈命〉《 、》〈が〉《 、》〈縮〉《 、》〈む〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈で〉《 、》〈済〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》事実こそ、まさにヴァルゼライドが怪物であることを証明しているのだが……だからといって無賃で奇跡は買い込めない。  得るために、捧げる。とても当たり前の道理であった。 「分かるか? 奴が強いから、素晴らしいから、背負わせ続けた結果がこれだ。当たり前だが人は弱い、一人じゃとても生きていけん。  だから、その前提を覆せば当然どこかでガタが来る。  これからもあいつは、仮に生存できたとしても構わず無謀に手を染めるだろう……己が身体を常に奇跡の対価としてな」  〈英雄譚〉《それ》を止められなかったのがアオイのような信奉者であると、チトセは〈静謐〉《せいひつ》に詰問した。  知れば止められるからと言わなかったことは、確かにヴァルゼライドなりの思いやりかもしれない。だがそれは、肯定や配慮という名の無自覚な失望と何も変わりがないのでは?  総統閣下に過ち無し──そう誇らしく信じた果てに、疑うことを放棄して輝きを願った結果がそれならば。  自分は果たしてどうなのだと、アオイの顔から血の気が引いた。もはや星を用いるどころの状態ではなく、崩れ落ちそうな身体を支えて思わずチトセから目を逸らす。  心はぐちゃぐちゃ。胸が痛い。  あの人の輝きに畏敬を抱き、その一助となりたくて。  しかしそれに追随した結果が、英雄の喪失だと? ならば自分は──と。 「違う、私は……そんなつもりじゃ、決して──」 「ならば何だ、胸を張って言ってみろッ!」  そして彼女は容赦しない。なぜなら〈裁剣〉《アストレア》は一度失い、その果てに本心を悟った女だ。  いい加減に本音を悟れ、その戸惑いこそ奴へ向ける感情だろうと胸を張って教えられる権利があった。 「いつまでもこじらせて、忠誠忠誠ぐだぐだと……」  爆炎を突っ切り、下がるアオイへ肉薄しながら。 「死なせたくないのなら、憧れているのなら、傍にいてほしいのならば」  相手へ掴みかかるべく、勢いのまま手を伸ばして。 「それこそ他の何者でもない、アオイ・漣・アマツとして──秘めた想いを伝えんかァァッ!」  胸ぐらを引き寄せた瞬間、豪快な〈額の一撃〉《ヘッドバット》を叩き込んだ。  ……それが彼女たち二人の決着。  まだ戦闘続行が可能だとか、大した傷になっていないとか。  炸裂したその一撃はそういった野暮な意見を障子のように貫いた。  チトセとアオイのいったいどちらが、より〈純粋〉《すなお》な想いを抱いていたのか。この一合で明らかにしたことにより女と女の、意地と見栄の張り合いはここへ確かな区切りを見せた。 「──茶番ね、凍てつきなさい劣等種」  そう、あくまで〈二〉《 、》〈人〉《 、》の戦いは──  確かな格付けが済んだとしても、組織戦そのものが収束したわけではない。  乱入、不意打ち──すなわち〈狙〉《 、》〈撃〉《 、》。  人類種の都合など歯牙にもかけない傲慢のもと、まさしく飽きたと言わんばかりに魔星の光が参戦する。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈美醜の憂鬱、気紛れなるは天空神〉《Glacial Period》ッ」  ──瞬間、音速を超えて襲来するは氷華凍結をもたらす魔弾。  〈躊躇〉《ちゅうちょ》を見せるそぶりすらなく、絶氷の力を宿した星光が今まさに〈攻撃〉《ことば》を交えた司令官たる二人へ向かい解き放たれた。  当然ながら、それをもはや回避するのはチトセとアオイのどちらにも不可能な状況に陥っている。  二人が死ねば戦況は両勢力ともに瓦解するだろう、その刹那に。 「おい兄弟、そいつは野暮ってもんだろう──よッ!」  斜線上に飛び出したアスラが、迫る魔弾を高速の踵落としで撃墜した。  その直後、激突と同時に爆発するかの如く萌芽する大輪の氷華。〈色即絶空〉《ストレイド》の体表面を滑るように伝播して、衝撃ごと拡散しながら広範囲を結晶が覆い尽くしていく。 「ガッ、アアアァァッ──」  アスラの迎撃によってチトセとアオイは離脱に成功したものの、しかし通常の兵はそういかない。  〈星辰奏者〉《エスペラント》ではない歩兵は、戦車は、逃れる間もなく次々と蒼星の光に飲まれて無惨な標本と化していく。  圧巻ともいえる出力は、やはり〈星辰体〉《アストラル》の影響か極限まで増大されたものだった。  ゆえに── 「〈超新星〉《Metalnova》──〈義なく仁なく偽りなく、死虐に殉じる戦神〉《Disaster Carnage》」  もう一体もまた同様、以前とは比較にならない瘴気を〈纏〉《まと》い、赫黒の彗星と化して戦場へと突撃してきた。  狙いは〈氷河姫〉《ピリオド》の難を逃れた兵溜まり。こちらもまた〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく、それどころか嬉々としながら邪悪な魔爪を轟かせる。 「狙えよ、サヤッ」 「仰せのままに──!」  それをさせじと、〈裁剣天秤〉《ライブラ》の主従が瞬間的に合わせ技を叩き込む。  極大の〈爆熱火球〉《プラズマ》と、それを高速で推進する集束した大旋風。竜巻と化した風の渦が激しく酸素を送り込み、爆発を増大させてマルスの体躯を押し返すのに成功した。 「はは、惜しい惜しい」  しかし、それでも鋼の鬼は未だ無傷。  紛れもなく二人の全力だったはずが、装甲には擦過一つ存在しない。  チトセたち〈星辰奏者〉《エスペラント》以上に〈人造惑星〉《プラネテス》は大気中の〈星辰体〉《アストラル》増大による恩恵を、オリハルコンから受けているいうことなのだろう。  並び立つ紅蒼の魔星は明らかに以前より、出力を増していた。  〈裁剣天秤〉《ライブラ》と〈近衛白羊〉《アリエス》を筆頭にしていた正規軍は先程まで銃火を交わしていたにも関わらず、示し合わせることさえないまま目標をスイッチする。  それだけの脅威度、それほどまでの存在感。もはやこの戦場にいるどの兵士も二体の異形から目を逸らせずに息を飲む。 「不可解だな、〈色即絶空〉《ストレイド》。人類種の小競り合いにそこまで手を貸す理由は何だ?  聖戦の発動はもはや確実、今までのようにその奔放さが許されると思っているなら、私としては呆れたものだが……」 「いいや、俺は真面目だぜ。〈忠〉《 、》〈実〉《 、》〈に〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈意〉《 、》〈義〉《 、》〈を〉《 、》〈果〉《 、》〈た〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈最〉《 、》〈中〉《 、》〈さ〉《 、》。分かるだろう?」 「ほう、なるほど」  浴びせられる敵意の中でもウラヌスは平素の体だ。アスラと会話を交わしながら、その内容が愉快だと含み笑いを浮かべている。  対して── 「貴様はまだヴァルゼライドの支配下か、マルス。随分と仕事に熱をあげるじゃないか……」 「最後の奉公ってやつだよ。それに、ここを通すわけにはいかんのさ」 「オレを超えられない存在など聖戦へ参する資格なし。運命を切り〈拓〉《ひら》かんと願うなら、勝ってみせなよ〈裁剣〉《アストレア》」 「はっ、私以外にまで殺気を〈撒〉《ま》いて言うことか?」  応とも、誰しも挑戦権はあるのだと。マルスはあくまで殺意をチトセに絞ることなく、平等に周囲へ向けて放射している。  確かにそれは、今までならば〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈思〉《 、》〈わ〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》仕草だったろう。  だが、今は── 「理解したぞ、この〈嘘〉《 、》〈吐〉《 、》〈き〉《 、》め。貴様、実は殺したいだけだな」 「さあて、何のことやら」  〈飄々〉《ひょうひょう》とうそぶきながら、しかしマルスはもう隠さない。  魔星は最大性能を発揮する場合、自己の衝動に対して純粋とならざるをえないという、仕様上の制約がある。  ゆえ逆説的に、大気に満ちた〈星辰体〉《アストラル》の影響で出力が上昇しているこの状況……非常に本音が露呈しやすい状態へと移行していた。  それは本音が読みやすくなったということであり、マルスの本性を見抜くに対してチトセの利として作用したが……そんなメリットもここまでだ。  本音を〈晒〉《さら》し、偽りを用いず、出力の向上したこの悪鬼らが今からどれほどの大破壊をもたらすのか。 「では──」 「そろそろ」 「開幕といこう」  身も凍るようなその想像は、すぐにでも現実となるだろう。  あまりの圧力に地鳴りさえ起こしながら戦意高揚する三つの魔星。  これが聖戦の序章だと言わんばかりに〈滾〉《たぎ》りを見せる、彼らに対して── 「──アオイ、兵を守れ。貴様の職務を果たすんだ。  それがおまえに託された、力と地位なのだから」 「チトセ……」  強い意志を〈孕〉《はら》んだ口調、魔星を前にチトセは背中を見せはしない。後のことをアオイに託し決死の覚悟で前に出た。  意図せず口にした言葉は、奇しくも英雄が副官に宛てたものとまったく同じものだった。  おまえならば大丈夫だと太鼓判を一つ押し、この場における人類側最高の戦力として責任をまっとうすべく立ち向かう──その寸前に。 「聞こえるか、英雄を仰ぐ者たちよ──私の言葉を聞くがいい!」 「目の前で起こる現実を見て、何を思い、何を信じ、何のために力を振るうか……その意味をいま一度、自分の意志でよく考てくれ。  英雄の礎ではなく、彼に守られるべき〈庇護対称〉《だれか》でもなく。  誇りある帝国軍人として、己が道を選んでほしいと私は願う」  軍人として、人として、英雄がそうだからとかそういう理由からどうか解き放たれてくれ。  理不尽に立ち向かうという当たり前の感情のもと、意志を喚起してほしいのだとチトセは凛と周囲へ覇気を轟かせた。  ざわめきと困惑が敵対していたはずの正規軍へさえも浸透していく。  投げかけられた言葉の意味、願い──〈正義の女神〉《アストレア》が訴えかけた切なる声が戦場へ響き渡った、その直後に。  四重の超新星が中空にて激突し、世界を激しく大震させた。  打ち消し合いながら反発する星と星が、盛大な余波を周囲へ向けて飛沫のように拡散させる。  運悪く巻き込まれた兵が数十、消滅するか凍結するか、あるいは粉砕されるかのどれかによって欠片も残らず吹き飛んだ。  被害が出ないよう精密に調整されていたのは、チトセの放った雷鳴と嵐撃だけだ。  まさしく彼女の予想通り、聖戦の序章として数多の命を巻き込みながら星の物語が駆動し始める。 「ハッハァァ──ッ」  ──その中で、飛び散った氷の破片を踏み台に魔拳士は疾走していた。  口角を野獣のように吊り上げ、〈哄笑〉《こうしょう》も高らかにアスラは戦場を離脱する。  チトセとの契約はここで破棄、定めていた〈本〉《 、》〈来〉《 、》〈の〉《 、》〈獲〉《 、》〈物〉《 、》へ向け喜悦の情を〈迸〉《ほとばし》らせつつ狂ったように空を駆けた。 「──いいぞ、一番槍は譲ってやろう。  〈魔星〉《われら》が宿命、存分に刻み込んでやるがいい」  そうとも、己が狙いは鉄姫と同じ。〈奴〉《 、》こそまさに我が魔拳の完成に〈相応〉《ふさわ》しいと、アスラは狙いを定めていたのだ。  よって、訪れた絶好の機会に対してひたすら〈貪欲〉《どんよく》。そして正直。  振りかぶった拳を鳴らし、砲弾のように迫るセントラル壁面へと号砲代わりに叩き込み── 「よう、〈天霆〉《ケラウノス》──会いたかったぜ。探してたんだ」  壁を一直線にぶち抜いた先、悪童は英雄と〈邂逅〉《かいこう》を果たす。  動乱の間隙を見極め、文字通り障害物を〈突〉《 、》〈破〉《 、》することにより誰より早く本丸へと切り込む偉業を成し遂げた。  玉座に腰掛けるヴァルゼライドは対して無言、無反応だ。  暴風じみた乱入者に鋭い視線を向けながら、しかし一言も発さない。口を真一文字に〈噤〉《つぐ》んだまま、眼光のみで相手に真意を尋ねていた。  名乗り、宣誓しろ──それが戦鐘になるのだと。  王者として格下からの挑戦を待つ威風を決して崩さない。それがまた、アスラの食指を絶妙にくすぐるのだった。  ──おお、なんという極上の獲物であろうか。この男は。 「聖戦を前に瞑想中、悪いことをしたと思うがこちらも伊達ではなくってね。生まれた意義を果たしに来た。  ──その首、俺が貰い受ける。異論はあるかい? 我らが星の宿敵殿よ」  大仰に語られた真意は愚直で、在り来たりで、両者の関係性を〈鑑〉《かんが》みれば実に理にかなっている選択だった。  なにせ、アスラも魔星の一員だ。カグツチの統べる眷星神として、ヴァルゼライドを殺害しようとする行動は何らおかしなものではない。  平時は終わり、運命の車輪は回った。  暫定的な命令権はとうに失効、消滅している。ならばこれは重ねて言うが、何らおかしなものではないのだがしかし、アスラの瞳を覗いた者ならそれが建前であることはすぐに察してしまうだろう。  欲求不満の溶鉱炉。破裂寸前まで煮詰められた闘争への渇望が、地核のように高温高圧を維持している。敵が欲しい、死闘が欲しい、欲しい欲しいと〈喧〉《やかま》しいほど喚くのだ。  なぜなら彼は、未だ満足していない。運命から袖にされた埋め合わせを見つけなければ、生きるも死ぬもないのだから。  チトセに協力したが駄目だった。彼女は根が〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈当〉《 、》だ。  強くもあれば凛々しくもあるが、人間を凌駕してはいるものの超越までには至っていない。  何より所詮、女の輩。相手をしても今一つ乗れはしないだろうと思い、手を貸すだけに留まった。  マルスやウラヌスも気乗りがしない。連中がしたいのは決闘ではなく、〈殺〉《 、》〈戮〉《 、》である。殺し合いは出来るだろうが、鎬を削る瀬戸際の死合を演じる手合いじゃないのはゆえの明白。これも除外。  そしてアスラ自身、代償行為に雑魚を蹴散らす趣味も無し。  よって消去法による結果でもあるが、残ったのはヴァルゼライドだったというわけだ。  無論、別にカグツチでもよかったが完全復活まで時間がある以上、まずはこちらを喰らうべきだろう。  既に己が闘争本能は放し飼いにした狂犬と化していた。そうとも、もはや我慢など出来るものか──  〈製造者〉《ジン》との一戦で残留した〈燻〉《くすぶ》る闘志、叩き付ける〈捌〉《は》け口を前に〈禍々〉《まがまが》しく餓獣のようにアスラは犬歯を〈剥〉《む》き出しにした。 「そうか。ならばやってみろ、俺のやることは何も変わらん」  だが──殺気の〈坩堝〉《るつぼ》を浴びながら、ヴァルゼライドは不気味なほど〈静謐〉《せいひつ》だった。  身に〈纏〉《まと》う覇気は普段と同じく勇壮健在。されど行動は、曇りなき鏡のように相手の戦意をそのまま反射しているだけだ。  必滅の意志が容易に見えない。むしろ悟りに至った賢者のよう。  アスラがここに到達するまで、戯れに部下の命を散らされてもいるというのに、その落ち着きは何であるか。  内面を一切明かさず、玉座から腰を上げて二刀を鞘から引き抜いた。触れ得ざる荘厳さすら滲ませながら、英雄は討つべき敵を見定める。 「ただ、挑むのならば本音で来い。虚偽に〈諧謔〉《かいぎゃく》、誇張に装飾、張りぼての信念で相対するなら片腹痛いというものだ」 「おお、よく言うわ」  その的外れにも程がある忠告に、アスラは思わず苦笑した。  何を馬鹿な、どうでもいいと思っているのはそちらだろうに、と。 「そもそも、〈人造惑星〉《おれら》を舐めているのはあんた達の方だろう? 管理が〈杜撰〉《ずさん》だ。首輪もない。普通ならこんな措置はありえねえ。  どうしようが、誰につこうが問題無し。大した手間にはならないと、どちらも高を括っている。  まあ、内実は舐めているというよりも、宿敵に熱を上げてる感じだがなぁ……どちらにしても評価が低い」 「で、本当のところはどうなんだよ?」 「〈両〉《 、》〈方〉《 、》だ。躍起になる手間さえ惜しい」  〈貴様〉《アスラ》など、取るに足らないという判断──  加えて、より優先する宿敵がいるという運命──  それらの理由を総合した上で、すなわち結論──“勝つ”のは、俺だ。 「恐るべきはカグツチのみ。これが、純然たる事実だろう」 「呵々、なるほど。最初から眼中にはございませんと……」  あまりに率直にこき下ろされたせいか、むしろその解答はアスラの中で爽快感さえ生み出した。  これは参った、どうしたものかと〈喉〉《のど》を鳴らして含み笑う。  これではまるで、相思相愛の恋人同士だ。英雄と神星は今や互いの存在しか同格の障害と想定していなかったとは。  奇妙なほどの落ち着きもつまりそういうことなのだろう。放し飼いの結果として、〈叛意〉《はんい》を抱こうが実に結構。好きにしろという有様。  完全なる〈星辰奏者〉《エスペラント》の上位種族を前にしてそんな馬鹿を露わにしながら、しかしその感性が何より似合っているのだから、まったくもってたまらない。  ゆえにアスラも納得した。なるほど、これは中々、実に〈嵌〉《 、》〈ま〉《 、》〈る〉《 、》。  滅ぼすべきでありながら敬意を呼び起こす雄雄しい存在。長らく会話していたカグツチも、恐らくこんな気分を味わっていたのではなかろうか。 「──善いぞ。その自尊、参じて挑む価値があるッ」  ならばいざ、思うが儘にただ〈吼〉《ほ》えよう。  その〈眼〉《まなこ》を〈抉〉《えぐ》り出し、己が武勇を刻んでくれる。満たしてくれよと、〈色即是空〉《ストレイド》の〈魔拳〉《ほし》が輝く。 「老骨なんぞに拘泥するは、とんだ時間の無駄だった。〈脆〉《もろ》いわ、柔いわ、まるで〈手弱女〉《たおやめ》。何の足しにもなりゃしねえ。  対してあんたは〈流石〉《さすが》の英雄。瞬きの間に即死しかねんこの闘志……粟立つ肌の心地よさよ、やはり死合はこうでなければッ!」  そして、今度こそ。そう今度こそ──  命と命がぶつかり合う生死の狭間に、どうか高みに至れるようにと。  この空虚に開いた胸の穴が埋まることを願いながら、過去最大の死闘へと狂喜しながらアスラは挑む。 「所詮、悪童か」  迎え撃つ男の言葉は、反比例するかのように冷めていた。互いの悲願がまるで別の場所を向いているから、想いは欠片も交わらない。  どこまでいっても彼ら二人は他人のまま──しかし、激突は何より苛烈に。  〈天霆〉《ケラウノス》と〈色即絶空〉《ストレイド》、近接戦闘に長けた魔性の星は惹かれあうように破壊の波を放射した。  そして──発生した光景は、異常〈且〉《か》つ恐るべき結果として顕現する。  両者、放つ攻撃は〈怒涛〉《どとう》にして間断なく。  距離、〈僅〉《わず》か1メートル圏内という超至近距離において。  それは驚くべきことに……〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈も〉《 、》〈被〉《 、》〈弾〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》、彼らは殺戮舞踏を演じていた。  ──光刃が空を断つ。  ──絶拳が虚を〈穿〉《うが》つ。  斬撃──砕撃──刺突──烈蹴──されど、それでも当たらない。  当たらない、当たらない、当たらない、当たらない。息が触れ合うほど近いのに、空振りし続ける刃と拳。死を搭載した二つの絶技が、重なることなく乱れ舞う。  まるで、予め決められていた殺陣のように。  ただの一度も防御を選択することなく、彼らは大気を破壊しながら更に更にと加速していた。  このような拮抗状態になったのは、互いの能力が〈絶〉《 、》〈妙〉《 、》〈に〉《 、》〈噛〉《 、》〈み〉《 、》〈あ〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》結果である。どちらも近接戦闘を得意としていながら、しかし両者の誇る〈星辰光〉《きりふだ》が攻撃への接触を頑なに封じていた。  核分裂反応にも似た、死の極光を放つ閃刃──〈天霆〉《ケラウノス》。  衝撃操作により、破壊力の内部伝播を行う魔拳──〈色即絶空〉《ストレイド》。  そう……ヴァルゼライド、そしてアスラ。彼ら二人の攻撃は一撃必殺の特性をどちらも多分に帯びているのだ。  過程や性質はまったく違えど、喰らってしまえばどちらも同じ。容赦なく一方的に、掠っただけでも即死する。  特にヴァルゼライドは刀身の変化からも、それが分かりやすいだろう。  その光刃に触れれば最後、傷口から浸透した〈煌〉《きら》めきは弾けながら対象を貫き蝕み抹殺する。 放射能に毒されて、激痛に喘ぎながら地獄へ落ちつつ消えるのだ。  そんなものには触れられない──受ける、いなすも言語道断。  よって、アスラは相手の攻撃を躱さなければならなかった。  刀身には決して触れず、身を襲う刃の嵐を見切りながら戦い続ける。それは彼の短い〈稼働期間〉《じんせい》において尚、紛れもなく初めての経験だった。  本来、魔拳の星光──衝撃操作は他の〈星辰奏者〉《エスペラント》が発現した特性さえ、ある程度はその〈範疇〉《はんちゅう》に捉えている。  風であろうが、雷であろうが、振動であれ氷であれ、出力による力押しを用いることで〈掴〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈捌〉《 、》〈く〉《 、》防御法も一応備えているのだが……  しかし、ヴァルゼライド相手にだけは話が別だ。  常軌を逸する集束性一点特化の〈爆裂斬光〉《ガンマ・レイ》、本人の気質を反映した“貫く”ことにすべてを懸ける〈星辰光〉《アステリズム》を瞬時に操作しきるなど何があっても絶対不可能。  ──元より、それが光の特性。どこまでもどこまでも、一瞬で突き抜けてしまうのが光子の〈煌〉《きら》めきというものである。  アスラのみならず、これを他者が掌握するには文字通り光速に至る反応速度が最低限の条件として、厳しく要求されるだろう。  ならば、劣勢なのは若き魔拳士であるかというと……それも否。  ヴァルゼライドもまた、相手とまったく同様に〈色即絶空〉《ストレイド》には触れられない理由がある。  そう、アスラの拳もまた恐るべき一撃必殺──衝撃の自在操作を可能とした悪夢のような絶拳だ。  刀身で防御でもすれば、それこそ一巻の終わりというもの。  得物から腕へ、腕から脳へと伝播される破壊力。受ければ〈途端〉《とたん》に花火のごとく、頭蓋が内から弾けるだろう。  冗談のような話だが……アスラは相手の表面を己が指先で突きさえすれば、体内の重要器官に穴を開けることさえ可能なのだ。  ゆえに、彼の魔拳は防御不可能。〈躱〉《かわ》す以外に処置はなし。  経絡秘孔、人技の極みと〈嘯〉《うそぶ》いた内部破壊の真実は、より〈悪辣〉《あくらつ》なタチの悪さを露呈してここにその脅威性を〈晒〉《さら》している。  ──だからこそ、二人は絶妙に〈噛〉《 、》〈み〉《 、》〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  何百と放たれながら、掠りもせずすれ違う刃と拳。  この内の一発でもぶつかり合えば、光はすかさずアスラを滅して、同時に伝う衝撃がヴァルゼライドを必ず殺す。  勝敗という概念は消え共倒れに終わるだけ。そんな結果は互いに望むところじゃなかった。  よってどちらも選択肢から衝突──ないし、防御を捨てる。  舞踏のような武闘に興じ、変則的で自由自在な身も凍る死線を描いて戦闘行為を続行していた。  共に、技巧を重んじながら──共に、近距離を真価としながら。  共に、勝利を願いながら──共に、相手を殺すと誓いながら。  しかし、なのに──両者は決してぶつかり合わない。  〈静謐〉《せいひつ》なヴァルゼライドと、荒ぶるアスラ。その情動を反映しているかのように、互いの運命は交差しながら、どこか致命的にズレていた。  だが、魔拳士にとってそんな事実はどうでもよかった。何も男らしく打撃を浴びせあうだけが死闘にあらずと感じているため、その〈滑稽〉《こっけい》さすら〈愉〉《たの》し悦び受け止める。  噛み締めた歯から漏れるのは、〈哄笑〉《こうしょう》になれなかった歓喜の雫。  吊り上がる口角は〈獰猛〉《どうもう》な野獣の如く。彼は今、紛れもない充足に浸りながら虚空を幾度も穿っていた。 「く、カカッ……おいおいまったく、冗談きついぞ!」  乱撃、裏拳、貫手に崩脚──信じられない、当たらない。  まるで奇跡のように。運命に決定づけられているかのように〈躱〉《かわ》される。それは自分も同様だが、ならばこそ驚嘆すべき光景だった。  身に宿す星光の特性上、牽制だろうが何だろうが直撃することを目的とした体術を、アスラはその身に刻んでいる。  軽く頬を撫でるだけでも〈内臓〉《なかみ》を潰せるのだから、利を最大限に生かすため、命中率を上げるという方向性を磨いたのは当然というものだろう。  ゆえにこそ繰り出す魔拳……どれを取っても、見切ることなど容易ならざる一撃なのだ。  まして初見で対応できるほど、生半な練り上げ方はしてこなかったはずの、それが──こうまで。 「──どうした、何を驚く。  まさかこの程度で俺の首を取ると言ったか? 笑わせる」  それがたった今──眼前で、現在進行形のもと攻略されつつある事実。  馬鹿げたことに、その原動力は〈気〉《 、》〈合〉《 、》〈と〉《 、》〈根〉《 、》〈性〉《 、》。  積み上げた修練の賜物により、ヴァルゼライドはアスラの魔拳を正面から潜り抜け、さらに動きの精度を上げつつあった。  懸けるべき〈野望〉《いのり》の差というべきか、英雄は内に抱える熱が違う。  いずれ来たるべき聖戦に備え、磨き抜いた意志と身体。討ち果たすべき宿敵に比べれば、貴様程度、何の障害になるであろうかと〈一瞥〉《いちべつ》さえして渡り合う。  それはあくまで心構えの問題に過ぎず……しかし、それだけで彼にとっては十分だった。  なにせこの男は、〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈が〉《 、》〈滾〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》〈進〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》という異常者なのだ。立ち止まることの出来ない、人間として致命的な欠陥があらゆる不条理を薙ぎ倒して〈英雄譚〉《いじょうじたい》を生み出し続ける。  そう、そもそも前提条件が違いすぎる。ヴァルゼライドの想定していた展開とは、すなわち聖戦において〈す〉《 、》〈べ〉《 、》〈て〉《 、》〈の〉《 、》〈魔〉《 、》〈星〉《 、》〈を〉《 、》〈同〉《 、》〈時〉《 、》〈に〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈取〉《 、》〈る〉《 、》という信じ難い難易度なのだ。  そして無論、それでも勝つのを想定して己を痛め続けてきた。馬鹿正直に、ただ愚直に、勝たねばならぬと心に決めて……  そんな男にとってみれば、アスラ一体相手取るこの状況はなんと優しい構図であろうか。  油断など無縁。精神を緩めたことなど、一度もない。  魔拳の嵐を初手から今まで回避できていたのはそういうこと。  暴走する決意は今や、その先を求めて、静かに熱量を増していた。 「まさか、これで勝てるとでも? 己は魔星、対して俺は〈星辰奏者〉《エスペラント》であるからと……潜在能力の差を根拠に、無意識で思い上がっていたのか貴様。  なるほど、〈餓鬼〉《ガキ》だな。事の本質が見えていない」  〈呟〉《つぶや》く声量は小さかったが、それは斬撃に劣らない鋭さを備えた言葉の刃だ。患部を〈抉〉《えぐ》る〈執刀〉《メス》のように、相手の犯した罪を裁く。  この場合、それはアスラの無頼さだろう。  過剰ともいえる向こう見ず、そして無秩序な在り方をヴァルゼライドは許容しない。  彼の本質は悪の敵──闇を滅ぼす、鏖殺の勇者  法に背を向け我欲に従う獣など無論処罰の対象である。さらに理由が稚拙とあれば情状酌量の余地はない。 「それほどまでに、おまえは衝動が欲しいのか?  自分自身を振り回す、死者の残留思念がなぜ恋しいか。俺にはとんと理解できんよ」 「なぜだって? 当たり前だ、どうにもこうにも立ち行かねえッ──!」  詰問に呼応し、跳ね上がるアスラの〈駆動率〉《ギア》。  上昇する出力の影響か、はたまた精神の昂揚ゆえか。体術の速度が天井知らずに上がっていき、踏み込む震脚に部屋そのものが大きく揺れた。  繰り出す魔拳は巧みに、鋭利に、強靭に──  なっていくが、しかしその瞳に宿る、〈慟哭〉《どうこく》にも似た渇きは── 「俺は半端な未熟児だ。胸の中は空っぽで、常に穴が空いてやがる。何をしても埋まらない。 〈製造者〉《おや》を超えても、手に入れたのは落胆だった。ふざけやがって……冗談じゃねえッ」  〈彷徨〉《さまよ》う迷子のような叫びは、果たして誰に対してだろう?  世を呪う声は、ヴァルゼライドに向けられたものではなかった。アスラはもっと別の、自分でも掴み切れていない何かに向けて、怒っている。 「だから──」  そして一転、破顔した。ああ、そうとも──塞ぎ込むのは趣味じゃない。  埋まらない胸の〈疼〉《うず》きを止めるために、ならば目指して動き出そう。  万事享楽、狂いて〈嗤〉《わら》え。この世が諸行無常なら、出来る限り〈凄〉《 、》〈ま〉《 、》〈じ〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》に倣おうかと、勝手に結論付けたがため。  アスラは〈吼〉《ほ》える。  〈吼〉《ほ》えて、挑む。  それ以外の生き方など、知りもしなくば御免蒙るものだから。 「あんたみたいになりたいのさ。鋼の英雄、アドラー総統、クリトファー・ヴァルゼライド!  その比類なき意志力で、星を討つ過酷な〈宿命〉《さだめ》を得たように──俺は、俺自身になる。 意味もなく生まれ、理由もなく生きて、適当に野垂れ死ぬなど……  そんな無様は、天に願われようとも御免だァッ!」  喝破して、同時に放った虚飾のない絶拳がヴァルゼライドの残像を砲弾のように撃ち抜いた。  紙一重で〈躱〉《かわ》されたが、しかしそれは相手を捕捉してきた証。  高速で舞うアスラの四肢が、徐々に英雄の残光へ食らいつき始めたのだ。 「ゆえに散れや、〈天霆〉《ケラウノス》。俺の心を、いざ満たしてくれ──ッ!」  追撃に、求心に、描いた未来に迷いはなく。  余さず正真、本心だった。だからこそ── 「馬鹿めが、それこそ当たり前のことであろうが」  呆れさえ滲ませて、英雄は魔星の願いを切り捨てた。  貴様、どこまで頭が足りないのか……と。 「人間ならそれは当然の葛藤なのだ。貴様だけが、特に何かを欠落しているわけではない。  おまえは単に、親心を踏みにじった因果として星にも人にも成れなかった……ゆえに八つ当たりしているだけの、〈憐〉《あわ》れな男に過ぎんのだよ。  これは、それだけの話だろう」  何も特別なことではないと、ヴァルゼライドは〈静謐〉《せいひつ》に、しかし投げつけるような辛辣さと共にそう語った。  意味もなく生まれて、理由もなく生きて、適当に野垂れ死ぬ……  何のことはない、〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈ふ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈生〉《 、》〈だ〉《 、》。  それがそもそも人間という生き物の軌跡ではないかと告げ、アスラの軽挙妄動を腹の底から侮蔑する。  ──まったく、なんて知恵遅れ。  〈存在意義〉《アイデンティティ》を求めることなど、何も珍しいものではないのに。  命とは死へ到達するまでの猶予期間だ。ゆえに己が世界に生まれた意味や、その過程を歩むだけの〈燃料〉《ねがい》を求める感情は、誰もが一度は通るもの。  要は、精神が成長を迎えるための新たな期間へ差し掛かっただけに過ぎず、それにアスラは自己の定義が〈覚束〉《おぼつか》ないから気づかない。  人として? 魔星として? 〈人造惑星〉《プラネテス》の中でも特殊な生い立ちが、彼をいったいどう進ませるべきなのかと、〈ほ〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈少〉《 、》〈し〉《 、》〈攪乱〉《かくらん》してるというだけだ。  そう、ほんの少しだけ……  仮にこの場へ人徳者がいたならばアスラにそれを説いたろうが、相対するのはヴァルゼライドだ。親切心など、討つべき者に持ちようがない。  〈些細〉《ささい》な問題であるからこそ、かかずらってはいられなかった。聞き分けの悪い悪童などいっそ滅ぼすに限るというもの。  よって一言、突き放す。 「俺を殺して成れるものなど、神話に出てくる怪物程度だ」 「いいぞ、いいねえ、それでいいッ。異形ならば上等よォォッ」  英雄を喰い殺す邪龍になりたい──  そんな愚かを宣し続ける男に対して、英雄が送る言葉も決まっていた。 「悔やみ、嘆き、死ぬがいい」  酷薄に告げ、迫る悪童へ踏み込んだ。 「────、ッ!」  そして──再開した超至近距離で演じられる死闘は、趨勢を激変させた。  ヴァルゼライドの一足、振るわれる刃嵐が〈捻〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》ように軌道を変える。  回避──しつつも、放たれた剣戟にアスラは思わず瞠目した。  先ほど髪先を切り裂いて通り過ぎた閃光。速度自体は以前と変わらず、しかし不規則に折れ曲がる独特の奇怪さを有したそれを、彼はとてもよく知っていたのだ。  いいや、見間違えるはずもない。なぜなら、それは…… 「そいつは、俺の……ッ」  紛れもなく、アスラ・ザ・デッドエンドの繰る〈魔〉《 、》〈拳〉《 、》〈と〉《 、》〈同〉《 、》〈じ〉《 、》。  極限まで磨き抜いた技巧がもたらす不規則な斬撃乱舞、刃の檻は網へと転じて敵手の影へと追いすがる。 「一つだけ、素直に賞賛してやろう。心とはともかく、おまえの〈技体〉《ぎたい》は見事だった。 ──ならばこそ、負けられん」  ……この時、アスラは確かに震撼した。  ヴァルゼライドという男に対して、初めて真に恐怖を抱いたと言っていい。戦闘技能の幅以前に、相手の執念へ圧倒される。  英雄のやっていることは簡単だった。すなわちそれは模倣と再現、アスラの動きを読み解いて己なりの練度により実践しているに他ならない。  相対している敵の挙動を参考に、自らの体〈捌〉《さば》きをより高める……  なるほど、確かにそれは在り来たりな考えだろう。  妙手などでは断じてなく、誰でも思いつくはずの一手。戦いなどしたこともない素人でさえ、頭をひねれば出てくるような当たり前の戦闘論だ。  再現精度、出来る出来ないを度外視すれば、どの分野においても熟練者に倣うのは有効な手段である。  師や同輩、対戦相手の卓越した技術を盗む。何も珍しいことではない。  ゆえに、この状況でヴァルゼライドがその選択をしたことは、アスラの幾つかある予想と見事に合致した行動に過ぎなかった。  ──ならばこそ、浮き上がるのは動きの完成度。  魔星随一の戦闘巧者であるからこそ、分かる、否──ありえない。 「マジかよ、なんだこの練度は……」  努力、 努力、 努力努力努力努力────振るう刀身から伝わる〈研鑽〉《けんさん》の密度、その膨大さに〈眩暈〉《めまい》がする。  理解せざるを得ない、ヴァルゼライドはアスラを甘く見てなどいなかった。  むしろ〈斃〉《たお》すべき障害だと認識していたがために、〈事〉《 、》〈前〉《 、》から身に付けていた〈攻略〉《さつりく》法をここにきて開帳している。  それは本来、成り立たないはずの現象だろう。なにせヴァルゼライドは、独特極まる魔拳士の戦いを他で経験した機会がないはずなのだ。  マルスやウラヌスのような大量破壊を目指した星光ならともかく、四肢五体の利用による奇奇怪怪な魔拳の演武は、彼の長い軍属経歴をとっても相対するはずがない類の闘法。  どの時代であろうと、銃器の存在する戦場では徒手空拳など所詮は〈徒花〉《あだばな》。よって本来、それに対してここまで本格的な対策と再現を講じれる機械など、本来持ち得ないはずだというのに。  どんな努力家も〈参考書〉《サンプルパターン》が少なければ、学習のしようがない。  よって、ヴァルゼライドがどれほど勤勉であったとしても、これは起こりえない反撃だった。  何より戦闘開始から今までの短時間で、アスラの動きを演じれるほど魔拳の業は甘くない。一朝一夕で〈辿〉《たど》り着ける域ではなく、それを証明するように英雄の挙動にもまたぞっとするほど、鍛錬の跡が〈伺〉《うかが》える  血と汗の結晶、圧倒的ゆえ〈美〉《おぞま》しい。 「訳が、分からねえ……ッ」  だから、アスラは混乱する。  自分と同等……いいや、下手をすれば上回る、狂ったような努力の痕跡に対して後手を踏み続けるしかない。  己が物であるはずの戦闘術をどこで知り、体得したのかについて理解及ばず、この差は何だと驚愕する無頼漢へ徐々に、しかし確実に相手の回避すべき軌道を削ぎ落としつつ追い込んでいきながら英雄は雄雄しく語った。 「生とはすなわち、先人の模倣から始まる。いわゆる〈守破離〉《しゅはり》というやつだ。 倣いて守り、磨いて破り、目覚めて師から離れゆく……  その点に関して言うなら、おまえは何も間違っていない。」  まずは一度、相手の練度を認めた上で…… 「だから、〈俺〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈ら〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。 貴様の拳は初見であっても、〈太源〉《おや》の拳を一度この目で見ているからな」 「な─────」  無慈悲に告げられた言葉は、簡潔に事のからくりを述べていた。  なぜ、一朝一夕では身に付けられない魔拳の妙を、敵も体得していたか。言葉にすればそれは、なんと単純な種だろう。  そう、ヴァルゼライドは仮にすべての魔星を同時に相手取ったとしても、勝利を掴むと誓っている。  それゆえ当然、対策は綿密に立てていた。努力を惜しんだことはなく、ならばこそ彼は予め頼み込んで、見ていたのだ。  ──アスラの太源、ジン・ヘイゼルの繰る体〈捌〉《さば》きというものを。 「模擬戦闘を俺と交わす……それが、市井へ下る手切れ金だ」  その一度、たった一合の経験を記憶に深く焼き付けて。何度も何度も思い返し、何度も何度も再現すべく、封殺する技を得るため血と汗をつぎ込んだ。  いずれ来たる聖戦にて〈本命〉《カグツチ》の前座に討ち獲られるなど、言語道断。許しがたい。 その一念を貫くために、命さえ自己練磨に費やして磨き抜いた業の冴え。それは今やアスラに迫る領域まで到達し、戦闘の潮を強引に引き寄せていく。  才において圧倒するのは〈色即絶空〉《ストレイド》だが、ヴァルゼライドはそこに執念だけで迫っていた。  狂気にすら至った野望という名の燃料が、泥臭く積み重ね飲み下した血反吐と痛みが、苦闘に身を置き続けた闘争に対する経験の厚みが。  複雑に影響し合い総合的に二人の均衡を崩していく。  光刃は鋭さを増し続け、直角に、鋭角に、不規則に〈煌〉《きら》びやかな残像を描いて敵手の身体へ食らいついた。  そのたびに、掠りつつあるアスラの手足は回転率を減退させる。 「く、ふふ、ははははは──」  常勝無敗。勝利を〈貪〉《むさぼ》り喰らってきたからこそ、これがまさしく初の逆境。  ゆえに、巻き返すための経験値が圧倒的にアスラには足りておらず。 「カハハハハハハァァッ、いいぞ──応よそれでこそッ。  あんたを超えれば、きっと必ず、我が天頂に至れることを確信したぞ!」  悲しいかな、事の重大さを正しく理解できていない。  いや、あるいは、理解できた上で〈こ〉《 、》〈う〉《 、》なのだろうか。  楽しそうにアスラは笑う。勝つぞ、成るぞと、真実ただの悪童がごとく。  計画性など聞こえぬ知らぬ。刹那的な快楽と展望こそすべてであり、小細工抜きで魂を燃やすのだと──馬鹿みたいに猛っていた。  裂傷が刻まれ始めていようとも、頓着などまったくしない。  傷口を破壊光が貫通したが、〈呻〉《うめ》き声の一つも漏らさず。  ヴァルゼライドが吐き捨てたように獲物を求めて拳を振るい、〈餓鬼〉《ガキ》はひたすら前へと往く。  結果、傾いていく勝敗の天秤。  決壊した均衡は、既に逆転不能の状態まで到達していた。  敗北必至の満身創痍。笑顔のまま、次々と刃傷を全身に刻まれるアスラ。  体躯を〈蝕〉《むしば》む〈放射線の爆裂光〉《ガンマレイ》。地獄の坂を凄まじい速さで転げ落ちているというのに、まだ加速して前進しようとする様は……まるで遊具に向かう子供のよう。  ただただ、無邪気。 「ゆえに、貴様は死なねばならん」  英雄は彼を処断する──力を持った子供ほど、秩序を乱す者はないのだから。  問答無用の縦一文字。振り下ろされた閃光が、ついに敵手を真芯で捉えた。  噴き出る鮮血に対して、ようやくアスラがその動きを停止させる。  それは失血と損傷による性能の劣化。未だ意気揚々であったとしても、刻まれた痛みが彼の自由を奪い取るが…… 「まだ、俺はァァア……!」  されど堪える、踏ん張る、〈呵々〉《かか》と笑って地を蹴った。  理由は一つ、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  精神の力などとはとても言えない、子供じみた〈我儘〉《わがまま》を糧にしながらアスラは嬉々と再突撃へと転じた。  その様、まさしく道理を解さぬ野良の獣。  どこまでも救えんなと、ため息をこぼしてから、ヴァルゼライドは切っ先を再度振り上げる。 「親より授かった能力を振りかざし、真似事に終始して、無関係な者にさえ誰彼かまわず答えをくれと突っかかる……  これを指して、〈餓鬼〉《ガキ》以外にどう表せというのだ」  手向けに、そのような餞別を送りながらの一閃。  〈煌〉《きら》めく刃。交錯する二つの影。  息を飲むような一瞬の後、刹那── 「──が、あああああぁぁぁァァァァァァァッ!」  〈敗者〉《アスラ》の胸から咲き誇る、真紅の大輪。  呆気なく……そして、どこまでも無慈悲に。  決着は、〈静謐〉《せいひつ》に成った。始まりは苛烈ながら、終わってしまえばそれはまるで予定調和の如く幕を閉じる。  未来を見据えた英雄の前に、無秩序と無軌道は正当に調伏されたのだった。 「終わりだ、〈色即絶空〉《ストレイド》。先に地獄へ逝くがいい。  他の連中も立ちはだかるなら、すぐにそこへと送ってやろう」  ──あの世への一番槍、その先陣を切れと告げながらヴァルゼライドが歩み寄る。  こつこつと、鳴り響く足音は死神の音色。  刃に籠められた〈煌〉《きら》めきは刻一刻と高められ、大気を歪めながら見るもおぞましい領域まで、静かに集束されていく。  あと一撃──振ればそれだけで終わるだろう。恐らく英雄は肉の欠片さえ残るのを許してはくれまい。  その破滅を回避しようにも、アスラの動きを封じるのは傷口から体内を今も〈蹂躙〉《じゅうりん》する殲滅光。細胞を片端から破壊していく〈放射能光〉《アステリズム》を完全に喰らったせいか、身体の大半が麻痺している。  ……もはや、機動性は完全に殺されていた。  よって、下された判決は覆らない。アスラは負けだ、ゆえに死ぬ。とてもシンプルな結論が勝負の後には残るのみ。 「冗談、じゃねえ……、ッ」  吐血しながら、自らの胸を鷲掴みにして〈掻〉《か》き〈毟〉《むし》る。 「痛いんだよ……空っぽなんだ、この奥が」  血肉を〈抉〉《えぐ》った傷よりも、その〈向〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈側〉《 、》が今も〈痒〉《かゆ》くて仕方ない。  それが、それだけが嫌なのだ。  ああ──敗北なんて、〈別〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  そんなことより、埋まらない心の穴がもどかしい。 「血沸き、肉躍る死闘だろうが……  最強の〈星辰奏者〉《エスペラント》と、心ゆくまでヤれたろうが……  なのに──なのに、なのになのになのにどうしてッ」  充実感はあった。勝利の先を目指した。結果はご覧の通りでも、何か残るべき衝動はあっていいはずだろうに。  精神は未だ空虚な伽藍堂──己を突き動かすに足る芯は、戦い終われば灯火のようにふっと何処かに消えてしまった。  自分がこのために生きるという、確信にまで至らない。  楽しむなんてもう出来るか。それが虚しく、だからこそ天を仰ぐ。  振りかぶられた、断罪の刃を見つめながら──ああ、どうして。 「──いつまでたっても、俺は俺に成れねえんだ!」  墜落して来た死に向かい、怒りと悔しさを籠めて〈吼〉《ほ》えた。  叫び声は、〈慟哭〉《どうこく》のように反響する。  その問いかけごとアスラの生を断ち切るべく、光刃が唸りを上げて放たれたまさに刹那── 「──〈喚〉《わめ》くなよ、〈馬鹿息子〉《しっぱいさく》が。  この不出来さで継嗣とは……やれやれ、歳はとりたくないものだ」  苦笑するような、〈辟易〉《へきえき》しているような……  不思議な感情を乗せた言葉と共に、襲来した鋼の拳が迫る刃を弾き落とした。 「あ…………」 「──、なに?」  それは〈神星鉄〉《オリハルコン》の義手──輝く刀身の側面を射抜き、ヴァルゼライドの断罪刃さえ容易に捌く“拳の極み”だ。  これぞ、四肢五体の挙動を合理にて制御したその結果。  徹底して機能性を追求した戦闘技巧を駆使することで、乱入者は英雄と悪童の間に降り立ち、その姿を悠然と〈晒〉《さら》す。  鋭利な眼差しは、傷つき伏す前と〈些〉《いささ》かの変化もなく。  護するようにアスラに対して背を向けながら、ジン・ヘイゼルは流麗な戦いの型を取っていた。  そして……死の瀬戸際へ割って入った瞬間、彼の肩から離れたのは一匹の機械蜂。  〈道〉《 、》〈案〉《 、》〈内〉《 、》〈は〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》だと、静かに飛び立っていくそれにジンをもはや視線を向けない。助力を乞い、応えただけの関係はそこでぷつりと〈容易〉《たやす》く切れた。  頼みを断れない女の〈衝動〉《さが》を利用して、戦場に〈辿〉《たど》り着くまでという契約はこれにて完了。  ゆえに、そう──ここから先は彼自身の挑むべき難題である。  眼前に立つヴァルゼライドを〈睨〉《にら》みつつ、しかし言葉は背後で呆けるアスラに対してジンは語った。〈訥々〉《とつとつ》と。 「おまえが何故、どれほど〈掻〉《あが》き〈流離〉《さすら》おうとも、未だ己に至れぬのか……  どれほど嘆き荒ぶろうとも、答えをその手に掴めぬのか……  何のことはない。大元たるこの儂が、〈斯様〉《かよう》な様であるからよ。  そう、おまえのせいではない。  断じて──おまえのせいではなかったのだ、アスラ」  すなわち、製造者である自分の不徳。それを因果として欠陥を継承させてしまったとジンは真摯に告白した。  恐らく初めて、他者に対し素直に謝罪をしたのだろう。感情の宿っていない淡々とした響きは当たり前の事実を読み上げているような、ひどく味気ないものとして空気を揺らしたものだった。 「あんた、いったい……」  ゆえに当然、〈伝〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。同位体である〈被造物〉《むすこ》ならば尚のこと。  共にろくでなし。仁だの義だの情だのには、まったくどちらも疎いのだ。どれだけ殊勝に訴えてもそれが正の想いである限り互いに早々理解ができない。  そのどうしようもなさを自覚した上で、ジンは傷ついた身体で再起し、この決断を選び取った。  ほんの少しだけ、この至らない〈糞〉《くそ》〈餓鬼〉《ガキ》よりは心という余分なものを分かることが出来たために。  伝えなければならない──先に生まれた者として。  どうしようもない、大馬鹿者の製作者として。これだけは。 「〈け〉《 、》〈じ〉《 、》〈め〉《 、》だ。その責任を、今こそ取ろう。  付き合ってもらうぞ、英雄よ──聖戦の前に我が作品の糧となれ」  造り出した者として、最後まで〈被造物〉《アスラ》に付き合うと彼は決めた。  その果てに死を迎えても構わない。運命が狂おうとも知らぬ存ぜぬ、どうでもいいのだ。勝手にやれ。  優先すべきは若く、愚かで憐れな我が〈同位体〉《うつしみ》。  その未来と結末がいかなる身を結ぶのか。その目で、然りと見届けるがため彼は英雄にさえ怯まない。  その感情こそ、“親心”という想いであると知らぬまま……  先程の焼き直しとなる光景が、演者を加えて再臨する。  末路の見えた死闘へ向かい、老拳士は一直線に己が魂を燃やすのだった。  それと同刻。  聖戦の主役が命を燃やすのと時同じくして、セントラルの外で起こる戦闘もまた一つの佳境を迎えていた。 「ぐ、ぅぅッ……!」  星と星の衝突により生じた余波が戦車を爆発、炎上させた。  装甲版を〈撒〉《ま》き散らし、まるで打ち上げ花火にように残骸を巻き上げながら四散する。生じた熱波はチトセを近距離で受けた焦がし、風の防御をいとも〈容易〉《たやす》く突き破った。 「ああ、いいぞ。此の世に死が満ちていく」 「他愛ない、〈案山子〉《かかし》の群れとはこの事か」  そして無論、一秒後の間も置かず超新星は止まらない。上昇し続ける魔星の圧力、瞬きする暇さえなく次撃の波動が襲来する。  標的は最大戦力たる〈裁剣〉《アストレア》ではなく、それこそ無作為に周辺の獲物へ向けて盛大に解き放たれた。  ──なにせ、彼らは〈誰〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  命は命。人は人。差別を一切することなく平等に殺意を燃やす。 「各員、散開──死んでも〈躱〉《かわ》せぇッ!」  呼びかけ虚しく、結果として数十近い兵の命がまたも散った。瘴気の魔爪が薙ぎ払われるたび死骸が消え去り、氷の園が広がる度に天王星の支配圏が拡大していく。  加えてまずいのが、騒ぎが大きくなればなるほどそれは兵を誘引する、流血の狼煙として機能することにある。  セントラルの別区画へ配置された兵たちは異常を察知し、此処に参じようと来るのだがそれこそまさに悪循環。  怪物の皿に向け、次々と肉を補充していることと変わらない。犠牲の〈顎門〉《あぎと》はもはや〈裁剣天秤〉《ライブラ》や〈近衛白羊〉《アリエス》のみならず、この地に残るすべての帝国兵を〈咀嚼〉《そしゃく》しながら味わっていた。  まさに大虐殺の再来──五年前の悪夢が、かつてを上回る暴虐と化してここに悲劇を呼び寄せる。  対抗馬たる英雄はやって来ない。オリハルコンにより〈星辰奏者〉《エスペラント》を超える出力強化を果たしたことで、ゆえに誰も二体の破壊を止められず、彼らの餌食となっていく。  至近距離で渡り合えている者は、この場で唯一チトセだけだ。  配下の天秤兵を〈星辰附属〉《エンチャント》で強化しつつ、何とか猛攻を耐え〈凌〉《しの》ぐのはまさに見事と言うべきだろうが、しかしそれでも決定打には成りえない。  悲しいかな、被害を減らすだけで精一杯。  消耗と焦燥に駆られながら、最後の破滅を食い止めるべく星の相殺に終始している。 「裁断者が消えた〈途端〉《とたん》にこうくるか、なんと〈凶悪〉《すなお》な……!」  今までどれだけヴァルゼライドに手綱を握られているのが不満だったか、よく分かるというものだとチトセは思わず毒づいた。  紅蒼の魔星がアスラを先に行かせたのも、恐らくこのためなのだろう。  〈英雄〉《てんてき》の横槍を防ぎ、好きに暴れられる環境を手に入れるという公算。その目論見は結実していた。  血の雨を降らせながら終わらない殺戮を演じ続ける二体の鬼の何と楽しげなことであろうか。光の刃が〈色即絶空〉《ストレイド》を滅ぼすまで、鋼の悪魔を止められる者は恐らく誰もいなかった。  だが、それでも── 「生まれ変わった自己を見せつけ、虐殺に浸ることがなぜ楽しい? 貴様ら程度が低すぎるわ」  止めねばならないという一念のもと、チトセは真っ向から立ち向かう。  雷鳴付きの刃風を飛ばし、氷嵐と瘴気を切り伏せながら果敢に敵手を攻めたてる。  その抵抗さえ、二体の魔星は無為と嘲笑う。傷ついたとしても即座に回復、戦闘用に調整された鋼の悪鬼は、多少の撃では〈怯〉《ひる》みもしない。 「使命ゆえに汚名を被ろう──いいや、ただただ〈愉〉《たの》しいねぇ。  どっちがいい? どちらがいい? 虚飾であろうと大仰なのがお好みなら、そいつは少々済まなかったなぁ。〈全力〉《いま》のオレは嘘がつけん」 「ゆえに、偽りなく明かしてやろう。〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈か〉《 、》、好きに論じろ」 「義の〈恒星〉《かがやき》は我らに有り。卑賤な血筋に〈穢〉《けが》れた者ども、天を仰いで拝跪せよ。標本として凍てつくがいい」  ならばこそ、我が手で死ねと共に宣する〈魔の惑星〉《プラネテス》。  〈愉悦〉《ゆえつ》か、侮蔑か、どちらの理由も結果は同じ。変わらない。  ひたすら殺すと宣誓し、嘲笑するその姿こそ本性ならばこれほど醜穢な本性もないだろう。恥も悔いも変化もない、そんな姿はチトセの美観に激しく反するものだった。 「小者が、他者を破壊しなければ自己肯定すら覚束んとは。 いや、それこそ拭えぬ人の業か……」  正義に寄ってきた人間ほど、悪の否定に心血を注ぐ傾向がある。誠実な市民ほど指導者の疵を許せないように、正当性を掲げ〈破〉《 、》〈壊〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈目〉《 、》〈標〉《 、》を誰もが密かに求めている。  間違った者、他者に迷惑をかけた者は踏み〈躙〉《にじ》っても構わないから。  かつての〈自分〉《チトセ》が、その潔癖さへ憑かれたように……  だが、マルスとウラヌスの掲げる正しさは明らかに己だけの妄執だった。継承した遺志衝動に対して従順、他には何も見なければ考慮に入れようともしていない単純な幼稚さから生まれている。  それは人間的に卑小であるが、同時に方向性が堅固であるともいうことだ。  悪意に対して素直で愚直。  いかな説法、馬耳東風。  ならばこそ──物理的に討たれなければ止まらない。愚かさゆえの恐ろしさ、その危険性を感じ取る者はチトセだけではなかった。  そう、このような暴挙を前に立ち上がらねば、軍人どころか人でさえもないだろう。 「下がれ、魔星ども。これ以上の勝手は許さん。  貴様らの指揮権は閣下から私へ委任されているのだ」  されど、何を言われようとも魔星は不変。  都合四門からなる戦車砲、衝撃と共に叩き込まれたアオイの覚悟に対しても、彼らはそれを〈嗤〉《わら》い飛ばす。  だから何だ? のこのこ出てきて、おまえは何になるのかと。 「悪いな、副官殿。その盟約は期限切れだ」 「それは無知か? それとも奴への義理立てか? どちらにしても無様で〈憐〉《あわ》れで愉快なことを」  鬼面も鉄姫も、共に帝国軍の備品などではない。むしろヴァルゼライドに従わざるを得なかったことの方が、本来ならば過ちなのだ。 「よっていざや、死んでくれ。兎にも角にも死んでくれッ」 「濁った〈貴種〉《アマツ》など不要だろう。真なる〈天津〉《アマツ》の手にかかり、誇りに思って散るがいい」  すべてはカグツチのためにと、自由を都合よく解釈しながら暴れ狂う。  その在り方にアオイもまた〈眩暈〉《めまい》がした。こいつらは、ああどこまで── 「どこまで救えんのだ、貴様らは……ッ」  真実や運命以前の問題だ。〈最〉《 、》〈低〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈程〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。  〈矜持〉《きょうじ》がない、配慮がない、他を慈しむ気が欠片もない。  高度な精神性を備える生命としてどこまでいっても落第点……ゆえに今、兵団に対しても〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく星光を解き放つ。  飛び散る臓〈腑〉《ふ》を浴びながら陶酔する鋼鉄の悪魔。  手が付けられない災禍の根源に、アオイは屈辱と怒りを宿して〈睨〉《にら》みつけた。隣で手傷を浴びたチトセが、その横顔を眺めながらよろめきつつも苦笑していた。 「こんな連中を英雄一人に任せていたんだ。うまくいくはずないよなぁ、まったく……」 「悔しいが、本当によくやっていたよ。ヴァルゼライドは」  盟約あれども彼らを御し、首輪を付けて飼い慣らした。  いつ寝首をかかれてもおかしくないのに、力と意志で従えたこと。やはり見事という他ないが。 「それでも、一人では破綻した。その結果が今であり大虐殺ということだ」  人間である以上、目も腕も二つだけなのだ。英雄から少し離れる機会が出来れば当然このようになってしまう。  完璧な男でも個人である限り手の届かない場面は多く、それを憧れや崇拝で見誤ってならないと言いながら── 「──だから、おまえが隣にいてやればいい。   好きなんだろう、あいつのことが。いつまでも後姿を眺めるだけでどうするのだ、この〈乙女〉《あほう》め。こっちが照れるわ」  〈真摯〉《しんし》に、あるいはどこか揶揄するようにチトセはアオイへそう告げた。  先ほどの続き、一発の頭突きだけでは伝えきれずにいた言葉を、従姉妹に対して教授する。 「何をこんな時に──」 「こんな時だからこそだよ。言っておくが、私は奴など御免だからな? 〈眩〉《まぶ》しすぎて〈鬱陶〉《うっとう》しい。嫉妬されても迷惑だから、この際はっきり言っておこう。  ま、焦れる気持ちも多少は分かるが……こういうのは惚れた方が負けなんだよなぁ、ああ、儘ならん」  頬を〈掻〉《か》き、苦笑しながらチトセは肩を〈竦〉《すく》めてみせた。  死が〈横溢〉《おういつ》する戦場において、とても不似合いな感覚が二人の間に流れている。 「……そういった低俗な感情ではない」  それが経験者からの忠告めいていたからこそ、アオイは彼女を肯定できずに顔を〈顰〉《しか》めて視線を逸らす。  嫉妬? 惚れた? 何を馬鹿なと、兵へ命令を送信しながら切り捨てたが、しかし。 「馬鹿者、何が低俗か。よく聞けアオイ、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》」 「正義は悪を裁いて減らすが、愛は世界を増やすのだ。その感情を基にして人は歴史は紡ぐのだから」  それこそ誇れと、チトセは逆に堂々と返した。  信念、野望、忠誠、決意──確かにそれもいいだろう。強く〈煌〉《きら》めき美しく、見ている者を魅了する。  だが当たり前の事象として、男と女がいなければ命は数を増やさない。  善や悪の垣根を越えて、愛という感情なくばこの世は〈僅〉《わず》かも続かないのだ。それもまた真理の一つなのだった。 「正しさで悪の切除を目指す前に、そちらを努力するといい。先人からのアドバイスさ」  伝えきったことで、チトセは再び己が力を再燃させる。  回復の小休憩は終わり、毅然とした眼光で狂騒する魔星を射抜いて静かに構えた。  その横へ舌打ちしながらアオイもまた並び立つ。わだかまりは残っていようと軍人としてこの場でやるべきことは同じ。ゆえに今は個人的感情を飲み下し、歩調を合わせて敵手を見据える。  二人が共に、討つべき敵を── 「余計な世話を言うものだ。的外れな指摘の数々、呆れしかもはや感じん。   しかし──奴らを見過ごせんのは肯定しよう。そして私は、総統閣下の副官である。支えることこそ我が使命。  あの方が今、聖戦に挑むがためその手が足りんと言うなら……」  そう、このような犠牲と惨劇──ヴァルゼライドは決して望んだりはしないだろうから。 「私が代わりに暴走した奴らを討とう。そうでなければ顔向けできん」  愛する者のために、ではなく……あくまで捧げた忠誠として。  朧と漣、アマツの女傑はここへ志を同じくした。  すれ違っていたはずの女たちは、ようやく真にその本音を交わし合うに至るのだった。 「──その通り、我らは我ら。ゆえに雄々しく挑みましょう!」 「今だ! 全砲門、放て──ッ」  そして──彼女らの心境へ応えるように、響き渡る鉄風雷火の多重奏。  魔星を中心に〈絨毯〉《じゅうたん》爆撃を敢行し、火薬の臭いがむせ返るほど大気を満たすその中で足音が高らかに響き渡った。  現れるは第三諜報部隊〈深謀双児〉《ジェミニ》、そして〈掻〉《か》き集めたセントラル警備兵団を従えた二人の男が前に立つ。  新旧の長、ランスローとアルバート。  逆賊として護送される隙を狙って合流した彼らは、各々の理由を胸に此処へ参戦を果たすのだった。 「兵たちよ、今こそ前を向くのです! そして見なさい、大虐殺を起こした悪魔……〈蛇遣い座〉《アスクレピオス》の亡霊たちを。  この恐ろしい存在が何なのか、真実を問う前に我らはまず恥じねばならない。かつて五年前、総統閣下は単独でこれら二体を討ち獲りました。  すなわち、たった一人にこれほどの怪物を押し付けてしまったということではないでしょうかッ」 「ゆえに今こそ、我々は並び立たねばならない! ヴァルゼライド総統閣下にすべての重荷を背負わせぬよう……  そして、閣下が誇りに思えるような帝国軍の一員として、奴らをここに下すのです! 他ならぬ、我らの手で──!」  一拍置き、次の瞬間轟いたのは大地を揺るがす〈鬨〉《とき》の声。  善意と〈矜持〉《きょうじ》そのものに〈聞〉《 、》〈こ〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》ランスローの発言を受け、兵は一気に沸き立った。  多少の〈水増し〉《サクラ》は仕込んであるものの、大きなうねりとなった流れは兵士から恐怖や〈竦〉《すく》みを取り払う。  何より一面として彼の言葉はとても正しく、チトセが既に先ほど土台を築き上げていた概念のため効果も覿面。魔星が訪れる前に彼女が声を張り上げて訴えていた指摘の数々、それが今ここで静かに生きてくる。  つまり協力作業を起こした形になったことで、説得力は増大していた。  今この場にいる兵は、所属の垣根を越えて目的を同じくすることに戸惑いをもはや持たない。英雄に頼らないマルスとウラヌスの打倒へ向けて、一致団結を決めたのだった。  されど、アルバートは発言の〈意図〉《うら》を察しているため、思わず…… 「要はおまえさん、クリスがいると邪魔なんだろ?」 「ええ、完璧な指導者のせいでどうも脇を突きにくい。   彼がいない今、絶好の好機なのですよ。ほら、あそこに景品も二つ存在していますし……ね」  さらりと、悪びれることなくランスローはその真意を肯定した。  英雄一強という状態を防ぎたいため、伝説の絶対性を崩したい。その方が自分の〈仕〉《 、》〈事〉《 、》も捗るとあっさり明かして悪びれず、さらに魔星の残骸こそ目当てであると付け加えた。  〈垂涎〉《すいぜん》たる〈大和の遺産技術〉《ロストテクノロジー》の塊、必ず〈掠〉《かす》め取ってみせよう。  どっちつかずの蝙蝠であるからこそ、味わえる旨みというものがある。  ならばこそ、ここから先はランスローにも〈諧謔〉《かいぎゃく》はない。目標の達成がどれほど困難か分かるため、手は抜かず〈帝〉《 、》〈国〉《 、》〈軍〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈員〉《 、》として事へと当たる。 「漣殿、これより〈深謀双児〉《ジェミニ》は貴官の指揮下へ入りましょう! 漏れた分はこちらが支えて指示します」 「負傷した者は下がれ、軽傷ならば後方支援に徹するんだ! どいつもこいつも無理はするなよ……命は一つきりなんだからなッ」 「ティナ、ティセ!」 「では、最後の〈契約〉《ほうこう》ということで」 「命がけの〈陽動〉《おしごと》へと参りましょうか……!」  ──援軍が、正規軍が、この場にいる帝国軍人そのすべてが。  勇敢さと共に〈怯〉《おび》えをねじ伏せ突撃するその光景は、圧巻の一言だった。  兵が、戦車が、〈星辰奏者〉《エスペラント》が。果ては他国の間諜までが己にできる手段を用いて、すべてを懸け二体の魔星へ激しく銃火を放っている。 「お姉様、ご覧下さい」 「ああ、何とも壮観な光景じゃないか」  それを見て、こみ上げてくる想いはなんだろうか。  チトセは知らず、自然と口端がほころんでいた。国の威信をかけて立ち向かう軍人の姿、責務に対してあるべき姿へ静かな喜びが胸の奥へと染み渡る。  この場にいる全員が、何も完璧に意志統一が成されているわけじゃない。  演説に感じ入った者もいれば、俗に手柄を求めている者もいるだろうし、自分のように英雄へ背を向けるべく銃を取った者もいるだろう。  各々それぞれが異なる理念のもとに動いているのは言うまでもなく……しかし、今少なくとも、この場にヴァルゼライドの到来を宛てにしている者だけはただの一人もいなかった。  戦力的に、これだけ数を揃えながら英雄単体に遠く及ばない始末だが、彼らはそれを戦うたびに理解しながら諦めずに戦っている。  何故か? 決まっている。  彼らが一人一人が、まさしくアドラーを支えている帝国軍人であるからだ。  ならば、それでいいだろう。  同じ志がなくとも、心が完全に重ならなくとも、たとえ相互理解ができなくとも……同じ目的のために手を組めるのが人間というものなのだから。 「なぁ、見ているか? ヴァルゼライド。おまえは一つ間違えてたぞ」  純粋な個の理念を保つがために、己一人に〈拘〉《こだわ》ったのだろう?  だがな、バラバラでも人はこうして一つに成れると見るがいい。  たとえ一瞬であろうとも、同じ地平を目指すことができるのだよと、チトセはそっと胸中で〈囁〉《ささや》いた。  ああ、そして──ゆえにこそ自分もまた立ち止まってはいられない。 「さあ、行こうか──勇猛なる帝国兵士よ。  英雄に頼るのではなく、我らの手で五年前の悪夢を超えるぞッ!」  刃をかざし、覇気轟かせて高らかに〈咆哮〉《ほうこう》する。  限界まで〈星辰体〉《アストラル》と感応しながら、誇るべき同胞と〈轡〉《くつわ》を並べて突撃する。 「おお、いいぞ──〈獲物〉《かず》が増えるのは大歓迎だッ」 「決意、信念、すなわち気力。そんなもので立ち向かうと? 愚かしい」  しかし、魔星は揺るがない。〈第二太陽〉《アマテラス》の恩恵を一身に受けながら嵐となって降りかかる砲火の雨を突っ切っていく。  〈星辰奏者〉《エスペラント》の星光でも足止めがせいぜいだ。瘴気どころか、氷の盾さえ突破できずに防がれる。 「想いを力に変えられるのは、〈英雄〉《かいぶつ》だけの特権だろうに」  凡夫がどれほど怒ろうと、世界は〈微塵〉《みじん》も揺らがない。  どれほど天に祈っても、救いは決して降りてこない。  感情を実行力に変えられるのは傑物だけだ。それは実際、とても正しい。  だからこそ── 「そのために、私が想いを担うのだッ」  この場で唯一、魔星を破壊しうる者として。  装甲を突破しうる最大火力を捻出しなから、チトセは風雷をその身に〈纏〉《まと》った一発の弾丸と化した。  後先など考えない──牽制、小技、意味がない。  強化されたマルスとウラヌスを〈斃〉《たお》すために求められるのは、問答無用で焼き尽くす絶対の炎なのだと理解したため迷いは捨てた。  狙うは一つ。防御を貫き、回復を許さず、機能停止させる破壊力を持った技を密着しながら叩き込む。  そしてその条件を満たすためには、〈近〉《 、》〈づ〉《 、》〈け〉《 、》〈ば〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈魔〉《 、》〈星〉《 、》〈の〉《 、》〈光〉《 、》〈へ〉《 、》〈息〉《 、》〈が〉《 、》〈触〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈程〉《 、》〈近〉《 、》〈づ〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  ……交戦後、比較的早い段階からチトセはそれを察知している。捨て身でなければ勝利は絶対不可能であり、サヤと〈裁剣天秤〉《ライブラ》だけの援護では決して成功しないことも看破したゆえ詰んでいた。  奴らの気を逸らした上で星光を削ぐ力が足らない。勝利の道筋は見えていても、それを成す条件がどうしても不足していたのだが──しかし。 「全軍、火力を集中。〈裁剣〉《アストレア》の援護を!」 「さあ、どうぞ」 「お膳立ては我々が」 「よく狙え、巻き込むんじゃねえぞッ」 「視界同調、照準補正、一斉掃射だ、とにかく削れ。あいつの刃を届かせろ!」  しかし、今は違う。  そう──今は決して、違うから。 「──行ってください、お姉様ッ」 「オオオオオオオォォォォッ────!」  統率された帝国兵士の正確無比な砲撃支援。  そしてサヤを筆頭にした、〈星辰奏者〉《エスペラント》の星光掃射。  砲火と星は折り重なって流星群のように輝き、赫黒の〈殺塵鬼〉《カーネイジ》と絶対零度の〈氷河姫〉《ピリオド》を一瞬確かに減退させた。  だがそれでも、不足しているのが後一歩。支援火力は総合的に満たしていたが、魔星の意識がチトセから逸れていなかった。  数の不足は確かに補えたとしても、〈裁剣〉《アストレア》の刃以外に同等の危機が存在しないがゆえの判断。マルスとウラヌスは本能的に、死神から目を離さない。 「あと、一歩が……ッ」  よって彼女に匹敵する何か、敵手へ死を予感させる別の存在こそが必要になっていた。  それが無ければ敗北する。全力の突撃は、もう〈幾許〉《いくばく》も維持できない。 「ゼファー……」  強者を噛み殺す〈銀狼〉《リュカオン》の牙……それを自然と求めて、しかし。 「いいや、違う。〈誰〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  どうか頼む、この一時──私へ力を貸してくれッ」  この時初めて、チトセは何者かへと心の底から懇願した。  誰かという、名もなき存在に救いを求めて必死に声をあげたのだ。 「ええ、任せなさい。 求められたら応えることこそ私のすべてなのだから」  ──刹那、聞き届けられた祈りに従い襲来したのは機蜂の軍団。無数ともいえる鋼の〈蟲〉《むし》がどこからともなく飛翔して、魔星の身体へ群がった。  その瞬間、完全に二体の意識はその攻撃へと向けられる。  なぜならこの星光がいったい〈誰〉《 、》によるものなのか。知っているから驚愕して、ここに致命の隙をさらす。 「そう来るかよ、〈露蜂房〉《ハイブ》!」 「おのれ、尻軽な〈裏切り者〉《ばいた》がァッ──」  そして、訪れた無防備に開帳される女神の魔眼。  警戒されぬよう温存していた切り札を、この一撃にて解き放つ。 「消し飛べぇぇッ──!!」  〈級長津祀雷命〉《シナツノミカヅチ》──炸裂。  天空の大気はおろか、〈彼我〉《ひが》の間で巻き起こっていた爆風にまで干渉して創造したのだろう。出力の向上も伴い、凄まじい破壊現象としてここに神威を顕現する。  雷光の〈波濤〉《はとう》と龍のような竜巻が絡み合いつつ鉄鬼を飲み込み、世界を揺らして雄々しく〈吼〉《ほ》えた。  それはまさしく勝利の〈咆哮〉《ほうこう》。全身の神経回路を瞬く間に焼き尽くし、吹き飛ばしたその瞬間……  決着は爆音として轟くのだった。  ──他者に助けを求めるという、チトセの確かな勝因と共に。  そう、人間には限界など超えられない。  定められた上限を超えることが出来ないからこそ、力を貸し合い支え合い、寄り添いあって生きている。  すなわち、英雄とは人間ではなく。独力での強大さこそ人外の特権だというならば、逆に人の強さとは〈誠〉《 、》〈意〉《 、》〈と〉《 、》〈共〉《 、》〈に〉《 、》〈助〉《 、》〈け〉《 、》〈を〉《 、》〈求〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》だろう。  そして、それに応えてくれる者がいたということこそ、すなわち人の輪の中で生きていけるか否かという分水嶺ではなかろうか。  少なくとも、チトセはこれほどまでに他人の力を〈希〉《こいねが》ったことはなかった。  ならばこそ、彼女にとって不断の努力を続けるよりも、助力を乞う先のたった一言こそ何より意味のある選択だったのは間違いない。  勇気とは、常に立ち向かうという選択だけでは手に入らないもなのだから。  これはその、強者という殻を打ち破ったことで手にした勝利。  自覚の有無に関わらず、自分に足らなかった手段への理解と行使に至れたこと。  それが不変であった魔星を下せた、最大の因果。変われたがゆえの勝利だった。  次の瞬間、兵の間で歓声が沸き立った。  互いに肩を叩き合い、勝利と生存を喜び合う帝国軍人たち。今までの奮闘が実を結んだこと、そして五年前の悲劇を英雄の手を借りず払拭したことに対して破顔しながらその功を労っていた。  原型を残しつつも、マルスとウラヌスは全身を焦がした状態で完全な機能停止に陥っている。  あまりの光熱により、融解しながらセントラルの外壁にぶつかったのだろう。瓦礫や兵器と溶接された状態として、まるで奇怪な壁画のように朽ちた躯を衆目へさらしていた。 「それではお二人とも、〈手筈〉《てはず》通りに」 「了解しました、〈破〉《 、》〈片〉《 、》の回収に移ります」 「本国で解析できればいいんですけどねー」  動く気配がないのを確認し、喜びの喧噪に紛れてランスローは指示を出した。これで骨を折った甲斐があると首を回して〈安堵〉《あんど》する。  そうして密かに動き出す者。快挙をそのまま受け取る者。それぞれ分かれている中で、チトセは膝をついていた。  最大の功労者として、全力行使の反動を抱えながら荒い息を整えている。口端は満足げに弧を描いていた。 「はぁ、はぁっ……ふうぅぅ」 「お疲れ様です、お姉様。見事な勝利でございました」  よろめく上体を傍へ来たサヤが支えた。倦怠感に身を任せつつ、副官の賞賛に思わず苦笑いを浮かべる。  見事と言うが、いやいや果たして。 「これだけ揃ってようやくだがな……まったく、英雄はこれだから困る」  結果を見れば、嫌でもそう感じずにはいられない。  ここまで苦労してようやく得た成果というのに、ヴァルゼライドたった一人をぶつければ解決できるというのだから、笑い話にもならないだろう。  用いた弾薬、失った〈星辰奏者〉《エスペラント》を含む多数の兵、戦車に装備に周囲の被害……冷静に考えれば頭が痛くなる損害だった。  仮に自分が指揮官なら、当然これではヴァルゼライドをぶつけるなとチトセは素直に戦略的観点からもそう思った。やれやれまったく割に合わない。不条理なほど、やはりあの男は別格であるらしい。  ……英雄万歳という思想にも、悔しいが素晴らしい部分は存在している。  たった一人の超越者へ委ねる選択、そのすべてを否定することは誰にもできない話であった。  けれどしかし、サヤは主へ微笑みかけた。  それはそれで、これはこれ。答えの出ない問いそのものをあっけらかんと切り捨てる。 「よいではありませんか。我々は、我々のやり方で行きましょう。  少なくともわたくしはお姉様の力となれて、とても幸福に感じていますわ。こうして堂々と触れ合う機会も訪れましたし、それだけで命を懸けた甲斐があるというものです」 「まさに、今のような……はぅん」  言いながら、もうたまらないという風に動けないチトセの身体を抱きしめて、サヤは首筋へと鼻先を埋めた。  うっとりと表情を蕩けさせつつすんすんと鼻を鳴らす。  戦闘後である愛しい主君の体臭を間近で嗅ぎ、股をしきりに擦り合わせて、支えるという名目の下この世の極楽を味わっていた。 「あぁ、まさに役得。かぐわしゅうございますぅ」  その態度は、まったく芯がブレていないと言えるだろう。ある意味畏敬の念さえ湧いてくるほどである。  すりすりと首元へ頬ずりするサヤの頭をご褒美代わりに撫でながら、変わらない部下のスタンスにチトセは思わず苦笑した。 「まあ、良くも悪くも私は〈英雄〉《ひとり》になれないらしい」  どこまでいこうが優秀な人間止まり──ああ充分だ、悪くない。  〈微〉《かす》かな充足を抱きながら、チトセはしばし〈雌猫〉《ふくかん》に餌を与えつつ満足げな微笑を浮かべていた。  そして、背後に立った相手を悟り……水音を立て恍惚と鎖骨へ舌を〈這〉《は》わせていたサヤの身体を引き剥がす。  振り向いたそこに居たのは、案の定アオイの姿。  見本そのものという敬礼を見せ、真っ直ぐに背筋を伸ばす。 「チトセ・朧・アマツ……貴官の奮闘、見事であった。魔星を〈斃〉《たお》したその功は讃えられるべきものだろう。  しかし生憎、総統閣下にかざした〈叛意〉《はんい》を見過ごすわけには到底いかん。よって今から身柄を拘束させてもらうが、よろしいか?」 「ああ、丁重な扱いを所望するよ。従姉妹殿」  偉業を打ち立てようが、今はあくまで反逆者。ならばアオイの言葉は正しいためにその掟へも従おう。  ゼファーのことは今も変わらず気がかりで、このままだと聖戦が発動するかもしれないのだと分かっていたがもはや余力は残っていない。  運命という舞台における自分にとっての聖戦は、先ほどの戦いであったのだと納得してチトセは処遇を受け入れた。 「それと、これは一人言なのだが……」  そこでふいに、アオイはそっぽ向くようにチトセから顔を背けて── 「どれほど真実を知ろうとも、私の答えは変わらない。あの人は英雄であり、必ず勝利を手にするのだと今も強く信じているよ。  だからこそ、私は隣を選ばない。背中を眺め、追いかけて、彼の両手が届かぬ場所を拾い上げて光へ尽くす……  それが、アオイ・漣・アマツの答えだ。文句は一切言わせんからな」  などと、拗ねたような照れ隠しそのものである答えを聞けば、苦笑するしかないだろう。  ああ本当に、我が従姉妹はどれほど不器用なのであるかと。 「一途なやつめ」 「おまえこそだろう? 逃した男へ、未だに熱を上げているという有様だ」 「ははっ。つまり私たちは、共に手の付けられない純情娘か」  男については互いにこの様、傑作だと肩を〈竦〉《すく》めて笑うしかない。  ただそれでも、チトセは今のアオイのことを前より身近に感じていた。  いつか暇があれば恋愛論を交わし合うのもいいだろう。そんな充足と共にふと、彼女が寄こした視線の先では── 「………………」  知っている少女と、知っている女の影を〈垣間〉《かいま》見て。  人目を避けながらセントラルへ向かったその二人を思い、〈助〉《 、》〈力〉《 、》の感謝を籠めながら、呼び止めはせず見送った。  まあ、いいだろう。あの少女ならきっと自分が、伝えられなかったあらゆる想いも伝えてくれるはずだから。 「そうだな、ならば後は人間らしく頼るとしようか」  自分にとっての勇気や強さは、彼女たちに頼ること。  だから彼女たちにとっての勇気や強さも、チトセ・朧・アマツとはまた別のものであるのだろう。  ゆえにその決断を、決して咎めはしなかった。  今でも彼が大切で、だからこそ此処から先へ行きはしない。  代わりに送るは確かな信頼。黄泉から抜け出てどんな運命も食い破ると、信じるているから焦りは消えた。  まあともあれ、女として勝負を懸けるのはその時にでもするとしよう。  狼め、帰って来たら見ていろよ。必ず犯して既成事実を作ってやるぞと、そんな決意を抱きながら含み笑って…… 「頑張れよ、ゼファー。私はここでおまえの生きた〈日常〉《せかい》を守るよ」  軍人として、誰かを信じる者として、チトセはそっと英雄譚から己の足で降りたのだった。  諦めた訳ではなく託したのだという実感と共に、誇りを抱いてすべてを見届けることを誓った。  そして──帝国軍と〈裁剣〉《アストレア》が、輝く勝利を収めた頃に。  激突するは、二人の拳士と一人の英雄。  セントラル内部、会議室にて闘争の嵐が人知れず巻き起こっていた。 「オオオオオオオォォォッ──!」  ──爆砕しながら吹き荒ぶは、三者の怒号。破壊の熱波。  ジンという老拳士を混入させた結果、彼らの死闘はさらに激しさを増して常識外の様相を呈し始めていた。  人は誰も砕けていない。砕けていくのは、舞台となる会議室そのものだけだが、それもある意味当然だろう。  男たちが繰り出すのは、噛み合わない光刃と拳戟の暴風雨だ。一度足りとも中空で激突しない必殺撃……その破壊力が生み出す余波は容赦なく周辺へと〈撒〉《ま》き散らされ、セントラルの一室に暴虐の渦を生み出している。  そこまでは、おおまかな部分において以前と同じ。  英雄と魔拳士との戦いが、英雄と二人の拳士に変わっただけだ。  言ってしまえば規模が上がっただけに過ぎず、ならば〈辿〉《たど》るべき筋書きもこのままでは恐らく以前をなぞるだろうと、戦術眼による確信をこの場の誰もが奇妙なことに共有していた。  なにせ、ヴァルゼライドは〈ま〉《 、》〈た〉《 、》必ず強くなる。  大虐殺の時と同じく、先ほどの一戦と同様に、気合と根性などという訳の分からない理屈によって限界など粉〈微塵〉《みじん》に吹き飛ばす化物なのだ。  その不条理、呆れるほどの精神論──  伝説や物語でならともかく、現実でやられたのならこれ以上馬鹿げた強化方法は恐らく存在しないだろう。何もかもが別格だった。  傷を負っているとはいえアスラとジンの両雄を相手取り拮抗しているこの状態、もはや呆れて声も出ない。  追い詰められ、しかし再起し──覚醒しながら闇を討つ。  それこそ英雄譚の本懐であり、その体現者であるヴァルゼライドを前にして拳士らは既に敗者の型へ〈嵌〉《は》まっていると言ってよかった。  御伽話か何かのように、〈討〉《 、》〈ち〉《 、》〈獲〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈者〉《 、》の〈道筋〉《セオリー》を従順になぞりつつある。  いい勝負をすればするほどに、その苦難を未来の糧にされているのが二人は今もよく分かった。  ゆえに、アスラとジンの間に希望はない。  このまま滅ぼされていくだけの敵役であるはずが──しかし。 「脇が甘い──腕を使うな、骨を用いろッ。  己が技など頼るにあらず。相手の虚をこそ重んじるのだ!」  老拳士に……少なくともジンの胸には、絶望など欠片もありはしなかった。  いいやそもそも、彼はもはや〈英〉《 、》〈雄〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  勝敗などとはまったく別の、違う何かへ訴えるべく、命を懸けて戦ってる。 「阿呆が! 闇雲に地を蹴るからそうなる、さっさと引けいッ。  肉を切らせて骨を断つ? 未熟者が、生半可に手を出す報いよ。まずは〈怯〉《おび》えを飼い慣らさんか」 「ち、ィィ──ッ」  叱責、指摘──いいや、拳と共に放たれるのは〈説〉《 、》〈教〉《 、》だ。  膠着した戦況にじれて突撃したアスラへ、その愚を厳しく罵倒しながら、しかし支え守護するように鋭く速い掌打を繰り出す。  その結果、代償に肩口を浅く光刃が切り裂いた。傷口から襲い掛かる激痛は守勢を選んだジン一人なら負わなくていい損傷なのは、間違いなく。  殲滅の英雄を相手取るに当たり、星の性質を〈鑑〉《かんが》みても〈僅〉《わず》かな痛手が命取りとなるはずだろうし、そのことを老拳士も分かっていないわけではない。  だがそれでも、勝率とはまったく関係ない見地において、彼はアスラの軽挙を庇った。  ……ジンの動きは、すべて自分自分のためではない。  戦いながら、死線の中で、声をかけるのも重んじるのも──万事が〈作品〉《アスラ》のためだった。 「有効ならばと捨て身を選ぶな。 一矢よりもその次を、二矢より三矢を、四矢を活かせ。  撃ち砕くは敵手の未来よ。見えてしまえば後は〈容易〉《たやす》い……このように」  告げ、踏み込んだ一足にて──潜り抜けるは極光の刃。  舞うように放たれた閃光の乱舞を、卓越した観察眼で読み切った。  震脚と同時に、霞の如くジンの姿が何度も何度も〈掻〉《か》き消える。  どのような理合の下、編み出された歩法なのか。一歩踏むたびに地を縮めたかの如く、ゆらゆらと木の葉のように……右へ左へ、変幻自在に。  動きながら、絶拳が空に走って轟き唸る。それは人が磨いた業の頂き、〈弟子〉《ミリィ》の存在に気を取られていた時とは違う、完全に体得した性能を発揮していたがゆえの強さだ。  その完成度を、演じられる雄々しさを前に── 「く、はは……」  思わずアスラは微笑していた。  何故か、ああまったく何故かは分からないが……糞、しかし。  したり顔による説教が、どうしようもなく愉快に感じるものだったから。 「なぁ、親父……〈こ〉《 、》〈う〉《 、》か?」  さて見ろよ──その程度、己もできると模倣して。 「〈戯〉《たわ》け、練りが足らんわ」  鼻で〈嗤〉《わら》われ、馬鹿にされ……  それが頭にきたからこそ、より繊細に。より巧みに。 「じゃあ、〈こ〉《 、》〈う〉《 、》か──ッ」  体得した縮地の業にて──光の刃を潜り抜け、更なる死線へ踏み込んだ。  傷つく以前よりも、〈容易〉《たやす》く英雄の懐へと到達する。  その結果を示して、思わず、老いた製造者に視線を寄こせば。 「……ふん、先ほどよりは幾分マシか」  辛口な及第点が苦笑と共にもたらされた。  やれやれと、仕方ないと、おまえならばその程度かと渋々嫌々、大甘で認めてやると言わんばかりに大上段からジンは呟く。  〈仄〉《ほの》かに喜色を滲ませて、なのに激しくこき下ろす。  その強がり、磨いた技法を盗まれた〈滑稽〉《こっけい》さを指してアスラは笑った。この偏屈めが、石頭がと勝ち誇るように同じく口角を歪に上げる。  ──英雄と戦いながら、しかし敵手は限りなく意識の外へと追いやられていた。何故かもはや、アスラは〈ヴ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ル〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ド〉《 、》〈が〉《 、》〈気〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  死闘だというのに何故か、ああ……それよりも。  それよりも…… 「カッ、抜かせや爺が。また一つ、これであんたは用済みだ。  俺を完成させる肥やしとして、いつまで役に立つかねぇ……搾り滓までもう少しだぜ? そら、震えろよ。  望み通り、成ってやるさ──完全無欠の俺自身に。  あんたが思い描き、ついぞ成れなかった幻想にまで至ってやるとも。咽び泣いて感激しろや、〈糞〉《くそ》親父ィィッ」  そのために生みだされた者として、望まれた存在として。  かつてないほど強く思った。アスラは今、この理解不能な喜びのために己を得たいと願っている。  埋まらない苦しみではなく、未来への希求が熱く〈滾〉《たぎ》り燃えていた。叫びたいほどの大狂喜が胸の穴を貫いている。 「〈呵々〉《カカ》──小五月蠅いわ、この〈餓鬼〉《ガキ》めが」  だからこそ、アスラの変化に彼は小さく鼻を鳴らした。  そんな〈妄執〉《ゆめ》は、どうでもいい。  ああ……もはや、どうでもいいのだと。 「余計な世話だ。儂はもはや、おまえに何も大した期待を持っておらん。  存在意義の不足など、生命ならばあって当然。自己の達する極点をと、夢見た己が馬鹿だったのだ。  理論は端から破綻していた……ゆえに今更、蒸し返すな。  捨てた過去を見せつけられても、在るのはつまらん痛痒だけだ。〈鬱陶〉《うっとう》しいから、もう止めろ」 「おまえは所詮、ただの〈馬鹿息子〉《しっぱいさく》なのだから。  大したことなど出来はしまい。好きに生き、無様に何処かで野垂れ死ね。それが儂のような〈落伍者〉《けつぶつ》ではない──」  ──完全という名の欠落を追い求めた、自分とは違う。 「ありふれた、〈人間〉《ぼんぶ》の生き様というものよ」 「〈可能性〉《ふかんぜん》と共に這え。おまえには、それがお似合いだ」 「はッ、冗談ぬかせや──〈頑固親父〉《ロートル》が!」  拳を放ちながら、光刃を〈躱〉《かわ》しながら、否、否──否とアスラは〈吼〉《ほ》えた。  これだから年寄りは困ると、小馬鹿にしつつ技を練る。自壊さえ〈厭〉《いと》わないほど彼は今、己が鼓動を高めながら魔拳の冴えを追及していく。  〈星辰光〉《アステリズム》などもはや二の次、それよりも拳の極みを得たいのだ。 「諦観なんぞ押し付けるなよ。見てな、俺はあんたの先を行く。  失敗作でも構いやしねえ。欠陥持ちでも知ったことか。過ちから生まれただって……? 知ってるさ、だからいつも乾いていたッ。  命令を寄こせ。衝動をくれ。命の意味を張り合いを──無色の己がもどかしいと何度も感じた。それは今も変わっちゃいねえ」 「なんせ、失敗作なんだからな。そりゃ道理だわ、救われねえよ……」  最初の一手から終わっている、文字通りの〈袋小路〉《デッドエンド》。  生まれつき機能の欠損した生命や、用途不明の道具と同じ。場に適応できない存在には行き場も需要も生まれない。  よしんばそれがあったとしても、ひどく限定されている。  そう、〈駄〉《 、》〈目〉《 、》〈な〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈は〉《 、》〈駄〉《 、》〈目〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  生まれつき、全方位に優れたものこそ素晴らしい。ゆえに過ちから誕生したアスラという存在は、魔星としても人としても不完全なのは言うまでもないことだった。 「──ああ、だからこそ燃えてきた。  あんたの〈夢想〉《ばか》を、俺が必ず形にしてやる……ってなァ」  そうとも、〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》……アスラはその愚者そのものである無謀を遂げると心に決めた。  おまえには不可能だと、〈製造者〉《おや》から烙印を押されたことが何の妨げになるというのか。むしろ凡愚と呼ばれた瞬間、使命感はより大火と化して燃え上がった。  胸にあいた穴を必ず埋める。空虚を満たして己という可能性の極点へと、何が何でも至ってやろう。  ジン・ヘイゼルが夢見た、ろくでもない理想の化身になってやるのだ。 「その〈暁〉《あかつき》には、枯れるほど悔し涙を流しやがれ」  そして──自分の祖であるどうしようもない老人に、突きつけてやらねばなるまい。  ご覧の通り、〈製造者〉《おや》の思惑など〈被造物〉《こども》は軽く超えられるのだと。  そういった自然の道理を証明すると心に誓い、〈獰猛〉《どうもう》な笑みを覗かせた。  それはまるで、幼い子供が親のいいつけを自信満々に破ったような、どこか楽しげにも見えるおかしな表情でもあったから。 「…………どこまでも、救えん〈餓鬼〉《ガキ》よ」  勝手にしろと、ジンは小さく苦笑した。  それは紛れもなく、相手の愚考を見下す嘲笑であると同時に何故かその選択をじっと噛み締める、受け止める者としての顔だった。  結局、二人の結論はそんなものだ。大した部分は以前と同じ、さして変わったことはない。  アスラは自己の完成を変わらず目指し、ジンはそんな失敗作をこれで完全に見限った。  後には残るのは一人の馬鹿だけ。出来ないことをそうと知りつつ自分勝手に突き進む、修羅のやる気が満ちたというただそれだけの結果に過ぎない。  ……だが、それこそが何より重要であったのだと〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》は同時に、等しく思った。  そう、このやり取りへ三者の誰もが感じ入る。  英雄もまた、感じ入る。 「心の在り様こそ、覚醒へ至る第一歩……その通りだ。  認めよう、〈色即絶空〉《ストレイド》。そしてジン・ヘイゼル。おまえ達は紛れもなく、いま一つの真理に至ったのだと。」  他の魔星には訪れなかった、精神の改革。成長と呼ぶに〈相応〉《ふさわ》しい新たな息吹を感じたことで、ヴァルゼライドはアスラのことを過去最大限に評価した。  目に見える出力の変化こそないが、もはや欠片も侮っていい相手ではない。内面において紛れもなく、この無頼漢こそ最強の〈人造惑星〉《プラネテス》になったのだと確信する。  ゆえに── 「ならば俺も、同じ場所で立ち止まってはいられないと痛感した。  更なる領域へ至るとしよう。さもなくば、おまえ達の敵に値する資格なしと断言する──!」  覚醒、覚醒、限界突破──不条理が巻き起こる。  道理も理屈も地球上の法則さえも踏み〈躙〉《にじ》り、再びその動きが遥かに研ぎ澄まされていった。  無論、代償に支払うのは自らを編む血肉。内部崩壊を起こすほど引き上げた出力によって、刻一刻と削れる寿命。  技巧で圧倒できないなら次は力押しで勝機を掴むと、〈漲〉《みなぎ》る心の暴走はまさに奇跡の反作用。  あらゆるものを質に入れ、この一戦を勝ち抜くために灰と化すまで命を燃やす。恐らく、このまま数分も戦えば彼の余命は一年を切るだろう。  この時点で、長く生きることはもう出来ない。  それらの自覚は、当のヴァルゼライドにもあるはずだが、それがどうした。構いやしない。  ──すべては“勝利”を得るために。 「“勝つ”のは、俺だ──ッ」 「──やってみろッ!」  喝破と共に、乱れ舞う轟砕の多重奏。  三者はそれぞれ心と身体を覚醒させて最後の激突を開始した。  どの一撃を取っても必殺、どの挙動を取ろうと絶技。  意志力による〈研鑽〉《けんさん》の結晶をぶつけながら、決死の覚悟で男たちは神業を組み上げ続ける。 「違う、もっと、鋭く、速く──」  ……その中で、アスラは徐々に星の力を鎮めていた。  感応する〈星辰体〉《アストラル》の量を減らし、あろうことか出力さえも無視して動きの精度を重視していく。  それは〈魔星〉《クロノス》として著しく存在意義を欠く行動であり、この局面ではとても考えられない行動だった。  それはまさしく、〈第二太陽〉《アマテラス》降誕による恩恵をかなぐり捨てるという意思表示に他ならない。  肉体の制御と掌握──〈人間〉《アスラ》としての強みだけを追い求めるという、何よりの表明だった。  もはや勝算を度外視したとしかとても思えず、されどそれさえ思考の外。 「骨を用いて、虚を目指せ……〈怯〉《おび》えを支配し、予測しろ」  ヴァルゼライドの描く軌道、未来を〈穿〉《うが》つとそれだけを願い目指して四肢を繰る。  一矢はすなわち、二矢のために。やがて訪れる刹那のために。  放射される死の閃光を潜りながら、少しずつ、少しずつ……一挙一動にて相手の軌道を限定していく。  今までならば〈捨て身〉《スリル》に身を任せていた局面で、歯を食いしばりひたすら耐えて隙を伺う。  緻密な工芸品を作り上げていくかのように、勝利の階段を組みあげるのだ。  〈抉〉《えぐ》り獲られた上腕の肉。  貫通して、穴の空いた脇腹。  四肢に刻まれる切創、失われていく血の雫。  それらに耐えつつ、千に及ぶ斬撃を視て視て視て視て視て視て視て──  ジンと交錯した瞬間、英雄の身体が〈僅〉《わず》かに傾いだ。  勝機到来──その間隙にアスラが捻じ込む。 「木端と散れや、英雄よォォ──ッ」  コンマ一秒にさえ満たないヴァルゼライドの〈暇〉《いとま》、意識の狭間へ魔拳が〈奔〉《はし》った。  あまりに強くなりすぎた〈光刃〉《ケラウノス》の反動か。腕の返しが鋭くなろうと、輝きすぎる閃光が単純に視界を乱して虚を生むのだ。  それは意志力では補えない、限界を突破するゆえの反作用。  本来、ヴァルゼライドにとって隙にもならない隙であるが、人間である以上はどうしても生物的な反応が微細な硬直を生んでしまう。  それは、意志力ではどうにもならない人類種としての反応だった。  超越した理性でも、対処は必ず遅れを見せる。  ヴァルゼライドアスラの拳を補足も認識も行なえているというのに、しかし身体はそこに決してついぞ追随できぬまま…… 「────いいや、否ッ」  英雄が絶殺の魔拳を喰らうその刹那、彼もまたあろうことか〈得〉《 、》〈物〉《 、》〈を〉《 、》〈捨〉《 、》〈て〉《 、》〈て〉《 、》運命を覆した。  すなわち、それはアスラと同じ手段。瞬間的な〈星辰光〉《アステリズム》の放棄である。  光が邪魔で出力の上昇に身体が〈竦〉《すく》むというのなら、この一時だけ〈刀〉《おもり》ごと捨てればいいと豪胆な賭けに出た──そして。 「がふ、ッ……ァ、ァァ────」  ヴァルゼライドはまたも、紙一重で勝利を手にする。  選んだのは無手──すなわち、貫手。魔拳士の予測を上回った執念の指先が、敵手の心臓を一直線に貫いていた。  その結果を見て、吐血しながらアスラは〈微〉《かす》かに苦笑をこぼす。ああこれで、本当に胸へ穴が空いてしまった。  敗北により広がっていく心の空虚さ。結局、それを埋めることは叶わぬまま、〈出鱈目〉《でたらめ》な〈英雄〉《かいぶつ》の手で勝負の無情を味わわされる。  情けない──悔しい、痛い、すまないと。  泣きたくなるほど〈誰〉《 、》〈か〉《 、》に悔いた、その時に。 「〈戯〉《たわ》け── それはな、こう打つのだ」  穏やかな声が、彼の後を引き継いで鮮やかに拳を放った。 「ぬ、ぐぅッ──」  そして……この戦いが始まって以来、初の痛手がヴァルゼライドの肉体へ刻まれた。  それは、アスラの殺害により生じた第二の間隙。  命を対価に顕現した隙へ向かって、厳かにジンの絶拳が叩き込まれた。 「ああ…………」  その一撃は、なんて、見本のような流麗だったのだろう。  始動から残心まで、無骨ながらまさに完璧。自分という犠牲があれども英雄の〈意識〉《センサー》を初めて抜いた、見惚れるような拳だった。  気配隠滅からの縮地、アスラが死のうと一切ぶれず自己を保持する、揺れず砕けず折れない胆力。  それでこそ……ああそれでこそ、俺の〈製造者〉《おやじ》だと消滅していく意識の中で彼は思わざるを得なかった。  そして死にゆく作品へと、父は静かに視線を寄こす。  吹き飛ばされながら、再び刀を抜いたヴァルゼライドを見もしない。  この一撃、この動き。どうだ見たかよ、凄かろうがと……  そんな見栄を誇るために、ゆっくりと振り返って……  ただ真っ直ぐ、息子へ告げた。 「理解したか、小僧。まだまだおまえは未熟者よ。  儂の影を踏めるよう、励み、精進するがいい……」  ───そんな言葉を、どこか満足そうに告げながら。  次の瞬間、放射された極光へとジンの身体は飲まれて消えた。  後には痕跡一つ残らない。  〈僅〉《わず》かに残響する声だけが、彼の生きた証となった。  その死に様があまりに〈潔〉《いさぎよ》かったからか。なぜかアスラは親の満足そうな最期の言葉に不可思議極まる可笑しさと、多大な共感を抱いてしまった。  気儘に、最後まで、自分が上だと見せつけて。  死ぬときは花火のように、綺羅一瞬と派手に散る。  まったく、なんて身勝手な男なのやら。〈流石〉《さすが》は自分の父親だなと血を吐きながら苦笑して…… 「……しゃあねえな。それじゃあ、いつか超えてやらねえと」  地獄で誓いの続きを成しますかと、心に決めて瞳を閉じた。  なぜなら、親を超えるのが子の宿命というものだから。  生まれも育ちも最悪で、胸の穴は空いたまま。使命もなく、導もなく、流されるまま生きたり死んだり……  まあ、それが人間という、どうしようもない生き物なのだということを彼は確かに納得できた。  ……最期に納得できたのだ。  そして、久しく感じていなかった安堵と共にアスラもまた、光の〈波濤〉《はとう》に飲みこまれて消滅する。  さあ、いいぞ──地獄巡りを始めよう。  極点まで〈辿〉《たど》り着き、この虚しさを埋めるために。  あの〈糞〉《くそ》親父を超えるべく、〈遍〉《あまね》く苦界を巡ろうかと。  夢見るように想像しながら、ろくでなしの悪童は無明の闇へと落ちていった。 「……見事だ」  納刀すると同時、口端の血を拭ってヴァルゼライドはそう〈呟〉《つぶや》く。  そこには敵意や殺意はなく、純粋な賞賛のみが宿っていた。  まさかこうも膠着するなどとは、彼をして想像できない結末であったのだ。  本来なら〈色即絶空〉《ストレイド》──クロノス-No.ηは、手古摺るような相手ではない。  対抗用の戦法も予め確立しており、討ち獲るための〈研鑽〉《けんさん》も人知れず幾度となく詰んできた。  ゆえに準備は万全で、後は実戦の最中に動きを擦り合わせさえすれば容易く討てると踏んでいたが結果はこれだ。  無理をして出力の限界突破をしたあげく、さらに一撃もらう始末。  予想外の〈重〉《 、》〈傷〉《 、》に陥ったと、どうしても言わざるをえない。 「死は近い、か……」  〈喉〉《のど》から今も止め処なく湧き上がる吐血を、溢れる分だけ外へと吐き出す。  ジンによる損傷は肋骨が三本、並びに周辺の肉が勁打によって潰されていた。内部伝播したその衝撃に加えて、星光の反動が非常に大きい。  打点から内臓が軒並み驚かされたせいか、まるで煮崩れしたじゃがいものように腹の中身は〈ぐ〉《 、》〈ず〉《 、》〈ぐ〉《 、》〈ず〉《 、》と形を失い崩れつつある。  限界を超えたところへ攻撃を受けるとはそういうことだ。  破裂寸前の風船に針を刺されたかの如く、外見は無傷に見えてもヴァルゼライドは紛うことなく瀕死だった。両の足で立っていることが信じらないほど、実は激しく消耗している。  骨も、血も、肉も、腑も──彼の暴走する理性と意志について来れない。当たり前だ、彼は人間なのだから。  人類の上限値を超えた対価を払えと、精神力では成敗できない常識という小さな悪魔が耳元で笑っているのがよく分かる。 「あと〈幾許〉《いくばく》か……俺の〈身体〉《うつわ》よ、保ってくれ」  加えて、今この瞬間も〈第二太陽〉《アマテラス》に呼応している肉体は彼に多大な〈強化〉《ふか》をもたらしていた。  再星辰強化措置により体内に埋め込んだオリハルコンの鳴動を感じながら、最強の〈星辰奏者〉《エスペラント》は己が末路を噛み締めながら受け止める。  終わりは近い……運命も、そして自分自身の魂も。  最終章に突入した英雄譚に、しばしの間、思いを馳せて。 「ゆえに──何の用だ、ミリアルテ・ブランシェ。 俺の咎を裁くというなら、聖戦の後に幾らでも甘受しよう。君にはその権利がある」  会議室の外に呼びかけ……破壊された扉から、少女の影が歩み出る。 「──知っているんですね、わたしなんかのことを」  動乱の中、場違いであるという自覚と共にミリィはここへと〈辿〉《たど》り着いた。  出奔した師の後を追い、五年間の時を経て英雄へと対峙する。 「当然だ。我らの悲願で傷ついた〈無辜〉《むこ》の民、一人残らず記憶している。  背負うというのは、そういうことだ」 「だから、あなたは許せと言うのですか?」  返答に対し、真っ直ぐ見つめる彼女の視線。そこに含まれる感情は、決意に恐怖、勇気に〈怯〉《おび》え……あらゆる想いが入り混じり複雑なマーブル模様を描いていた。  胸に奇妙な使命感が渦巻いており、そうせずにはいられないから、ここまで必死にミリィは走りやって来たのだ。  〈師匠〉《ジン》が恐らく死んだこと。その執行者が、目の前の偉丈夫であること。それら事実を恐れと共に受け止めて、震える身体をこらえながら相手の瞳を見返している。  彼女は今、殉教者のような感情を抱いてヴァルゼライドに向き合っていた。  次の瞬間、切り伏せられるのも覚悟の上で、ミリィは彼女の〈問答〉《たたかい》を始める。  相手をねじ伏せる力なんて欠片も持っていないから、想いと心を尽くして止めよう。偽善でも絵空事でも、それが人間の強さだと彼女は強く信じているから迷わない。 「失ったものより大きくして返すから、光を皆にもたらすからって、そんな言葉をどうして真顔で語るんですか。はっきり言って、迷惑です。  少なくとも、わたしはここまでしてくれなんて頼んだ覚えはありません。仮に知っていたのなら、絶対あなたを止めています。  そして……そう思う人たちは、決して少なくないでしょう」  誰もが皆、英雄にすべてを背負わせたがるわけじゃない。  勝ってくれ、光をくれ、富と名誉をただただもっとと……そんなことを願う存在ばかりでは絶対ないのだ。 「そんな悲願なんかより、あなた自身を案じた人もいたはずです」  アルバートやアオイがそうであるように。大義や理想よりも、明日に向かって〈邁進〉《まいしん》する人間こそを素晴らしいと感じる者は確かにいた。  未来、光、そんな者より彼が愛しい──大事なんだという人々。  彼らにとってはヴァルゼライドの強固な意志こそ、裏切りや疑心の元凶と成ってしまったのはもはや語るまでもないだろう。  一人で進み続けることの弊害。だからこそ、ミリィは問う。 「教えてください、ヴァルゼライド総統閣下。 誰かのためにと仰る言葉は、いったい“誰”のためなんですか……?」  顔も見えない帝国民? 皆という名の、不特定多数の弱者? そんなものは、頭の中に存在する都合のいい不幸ではないだろうか。  救済を求めて喘ぐ〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈誰〉《 、》〈か〉《 、》……そんなものを掬い上げるべく掲げた理想は巨大で、清く尊く純粋だけど。 「“誰”が、あなたの勝利を心待ちにしていますか? 誰にも明かしていないような、あなただけが目指した未来を」  〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈者〉《 、》〈は〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》──そう、彼はそれをずっと胸に秘めていながら此処まで歩いてしまったから。  説明すれば賛同は幾つか得られるだろう。ヴァルゼライドを犠牲にしても繁栄が欲しいと思う者もまた、先の逆だが当然いる。  しかし、それを口にしてすらいない以上、問題は賛否を問う以前なのだ。彼のやっている事は所詮一方的な奉仕に過ぎず、知らない者を欲しがったりねだったりすることなんて、誰にもできるはずはない。  そう指摘するミリィに対して英雄は…… 「……まったくだ。ぐうの音も出ない」  苦笑、だったのだろうか。  真一文字の唇をほんの〈僅〉《わず》かに歪めた後──ああ、まったくその通り。君の言葉は何も間違ってはいないのだと、彼は少女を肯定した。 「〈戦場〉《じごく》を作るのは簡単だ。正義が二つ、この世に存在すればいい。  それが清廉で、尊く大きくあればあるほど……なぜか多大な血が流れる。  なぜなら、守るべき誰かのために人は決して諦めないから。どれほど苦難が待ち構えていようとも、何度となく立ち上がってしまうからだ」 「結局、邪悪が一掃されようとも世界は勝手に滅ぶのだろう……他ならぬ、俺たちみたいな大馬鹿者の手によって」  正義の敵は、確かに別の正義かもしれない。だがそれを悪と名付けることこそが、人類には極々自然の営みなのだ。  敵の敵は、何処まで行こうと敵である。ゆえにどちらも光を求めれば求めるほどその正しさで、世界は自然と擦り減っていく。  善悪、陰陽、正誤など、そんなものは関係ない。  何某かの方向へ突出した〈精神力〉《ベクトル》こそ、強大な戦乱を招く最高の燃料だ。 「それほど理解しているのに……」  自分がそういった、〈世界〉《あく》を削る〈光の英雄〉《さつりくしゃ》だと知りながら。 「あなたは、戦うことを止めないのですね」  彼の強さが、彼に停止を選ばせない。  ヴァルゼライドは首肯する。 「ああ、俺は間違いを許せない。悪を看過することができない。それすなわち、人間のあるがままを許容できずにいるのだと……自覚があるゆえ止まらない。  人は善を形にしながら、悪を備える生き物だが、その猥雑さを認められずに今もこうして〈掻〉《あが》いている。  諦め? 〈逡巡〉《しゅんじゅん》? 何だそれは、まったく女々しい。光を仰いでいったい何が悪いのだ、と。  往くことだけしか、生憎知らん」 「そしてそれこそは、俺の抱える闇なのだろう」  後ろを振り返ったことなどない。迷ったことなど一度もない。諦めたことも、手を抜いたことも、誓って今まで彼にはないのだ。  よって、それこそが破綻者の証明。ありとあらゆるマイナスが欠落しているから、ただどこまでも歩み続ける。  ……実際、今もヴァルゼライドはミリィの悲しみなど、本当のところは欠片も分かっていなかった。言葉そのものをあくまで教科書や公式のように受け止めているだけに過ぎない。  弱さとは〈唾棄〉《だき》すべきもの、憎み乗り越えるものである。  だから、いわゆる〈普〉《 、》〈通〉《 、》が共感不能。理屈による額面通りの推測しか選ぶことが彼にはできず──だからこそ。 「総統閣下……わたしは、あなたが、大嫌いです。  わたしの家族を、あなたなんかに渡したくはありません」  この啖呵を吐くために、少女は英雄を〈睨〉《にら》むのだ。  力では敵わない。言葉もまた届かない。そうと理解している上でもしかし、譲れないもののためにミリィは勇気を振り絞る。 「──理解した。すべて等しく受け止めよう。  君の選択と行動に、最大の敬意を。今から俺は、対等の人間としてミリアルテ・ブランシェに相対する」  その想いを前に、彼は一人の人間として本気で対峙すると宣誓した。ミリィの選択を、勇気を、尊敬するからこそ何も手加減しないと言っている。  ゆえに彼女の未来は無情にもそれで決まった。男は決して容赦しない。 「ならばこそ、理解できんのがもう一つ。 おまえは何のために来たのだ、〈露蜂房〉《ハイブ》。少女を盾に見物するのが趣味だとでも?」 「………………」  姿を見せろと、〈一瞥〉《いちべつ》したミリィの背後からイヴの姿が現れる。  ヴァルゼライドの声に宿っているのは一転して侮蔑の情だ。少女の強さを認めるからこそ、比較して女の〈曖昧〉《あいまい》さが許せない。 「彼女は恐らくおまえに〈縋〉《すが》りはしなかったはず。勇敢さに惹かれた結果、羽虫のように迷い込んだか?  惑いに揺れるその瞳……〈色即絶空〉《ストレイド》と違い、俺に挑む気概もあるまい」 「……そうね、私は受動的だもの」  指摘はまさしく、言葉通り。〈正鵠〉《せいこく》を突いている。  イヴはこの場にいながらまだ、これといった信念もなく、舞台に足を運んでいたのだ。  衝動に突き動かされ、庇護対称である少女の背中をふらふらと望まれないまま追ってきただけ……  信者から退廃と欲望の発散を望まれてきた、邪教の巫女。素体から継承した死者の〈理念〉《ノロイ》に従って、ミリィに惹かれこの有様。  自由意思の希薄な人として見せかけの行動基準は〈人造惑星〉《プラネテス》として非常に正しく、ならばこそヴァルゼライドから見ればイヴという女の動きは軽蔑すべき風見鶏に他ならない。  力を貸せと、ジンはイヴに言い放った。  ──だから彼女はそれに応えて、彼をここまで〈辿〉《たど》り着かせた。  力を貸せと、チトセも確かに言い放った。  ──だからイヴはそれに応えて、魔星に打ち勝つ手助けをした。  願われた。求められた。だから応えた、それがすべて。  必要とされたから応じるという、とてもシンプルな思考回路。悲しいかな、それがイヴ・アガペーを構成する衝動であり、製造されて以後の生涯はその想いを機械的になぞっていたに過ぎなかったが。 「けれど──」  彼女は出会った、ミリアルテ・ブランシェという小さな少女と。  弱く、〈脆〉《もろ》く、家族を失い傷だらけの可愛い小鳥。  自分の〈庇護欲〉《しょうどう》が何より〈疼〉《うず》いてたまらない、助けを求めて然るべきはずのミリィはしかし、イヴを求めはしなかった。  目を覚ましてから、セントラルに行くと言った時もそうだ。選んだ道の危うさを理解して、それでもこれは自分がやらなければならないと、ミリィは真っ直ぐ言い放った。  甘えてもいいのだと、どれだけ〈囁〉《ささや》いても首は横に振られたまま。それどころか、気持ちは嬉しいありがとうと、逆に微笑まれてしまう。  そしてそれは、ヴァルゼライドのような独力による解決を望んだからでは断じてない。 「あなたは、こんなに弱いのに。私がいてもいなくても、ちゃんと生きて、死ねるのね」  〈イ〉《 、》〈ヴ〉《 、》〈に〉《 、》〈反〉《 、》〈逆〉《 、》〈を〉《 、》〈選〉《 、》〈ば〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》、助力は決して乞わなかった。  自分の気持ち。相手の気持ち。成功確率。求める未来……それらが複雑に混じり合い、効率一辺倒では語れない矛盾を〈孕〉《はら》みながら葛藤の果てに下した判断がそれである。  ミリィはイヴの力を借りない。大切だからこそ、求めない。  生きていてほしいから、ここでただ庇護を乞うのは恐らく違うと思うから。そして彼女も時分の大切な人間として、いつかこんな行動からでも何かを学び継承した死者の呪縛を超えてほしいと願っている。 「ああ、だから──」  その語りつくせない想いをまとめて、一つの答えに託すこと。  それを勇気と呼ぶのだと、イヴはようやく理解した。  〈強者〉《チトセ》にとっての成長が他者の力を願うことなら、ミリィや自分たちといった弱者にとっての成長はそれの当然、逆なのだろう。  ゆえに── 「ふふ……そろそろ私も、一人立ちする時かしら」  〈呟〉《つぶや》いた言葉はイヴ自身、驚くほど澄み渡っているように感じた。  成すべきことを見つけて微笑む。衝動による強制力は消えないが彼女はもはや、それを破ることに〈躊躇〉《ためら》いは欠片もない。  そう、かつての衝動がいったいどうした。 「イヴさん……」  この子を守りたいと願うなら勝手にそうすればいいのだと、慣れない行動に震えながら、同じく〈怯〉《おび》えるミリィの身体をイヴはそっと抱きしめた。  ただ甘やかすだけではない……真実、慈しみに満ちた母親のように。 「一緒に戦わせて、ミリィちゃん。あなたのように私も生きてみたいから」 「はい、心強いです」  優しく手を握りながら、二人は柔らかく微笑む。  ここで散った拳士たちのように、イヴもまた彼女なりの真理へと心静かに至ったのだろう。  魔星としての宿命を超えて、運命のためではなく愛しい小さな少女のために戦うことを固く誓った。  だからこそ── 「──ならば良し、その決断を尊重する」  この男は止まらない。〈露蜂房〉《ハイブ》の評価を内心で著しく上げながら、恐るべき信念で何もかもを蹴散らし進む。 「力、言葉、どちらであろうと好きに尽くせ。されど止まらん、俺は勝つ」  ひとたび戦うとあれば、相手が女子供であろうと油断はしない。  敬意は払おう──だが、〈殺〉《 、》〈す〉《 、》。  対等の敵手として扱うからこそ、ヴァルゼライドは全力を尽くすだけ。両手に刃を携えながら、一歩ずつ〈弱〉《つよ》い二人の女へ向けて戦意を〈滾〉《たぎ》らせ前進していた。  圧力は絶大であり、〈睨〉《にら》まれているだけで意識ごと消し飛びかねないほど強大無比。勝てっこない。  けれど、それでも、負けられないと思うから…… 「兄さん、ヴェティちゃん……わたしに、ほんの少しの勇気を」 「守ってみせるわ。あなただけは……!」  決意と共に、ヴァルゼライドが地を蹴った。  ──両断される、その刹那。  飛来したのは巨大な鉄塊……瓦礫となったセントラルの一角が、砲弾へと変わり英雄を横合いから殴りつける。  激突する瞬間、ミリィたちを切り裂く刃はそちらへ向かい、振るわれた。  真っ二つになった鋼の先で、視界に映るのは一人の影。  白い燕尾服をたなびかせ、男が戦場へと到着する。 「──退けよ、英雄。おまえは邪魔だ。 二人のことを、返してもらう」  ヘルメス-No.δ──ルシード・グランセニック、参戦。  運命から目を背けていた〈錬金術師〉《アルケミスト》が、確固たる決意と共に英雄へ宣戦布告を告げたのだった。 ベッドへ横たわる妹の身体が、脳髄に〈疼〉《うず》いて胸を高鳴らせる。 綺麗だ、そう言葉をかけようとして、思わず唾を飲み込んでしまった。 「いいよ、兄さん……」 ミリィの問いに、言葉ではなくボディランゲージで返す。 「はむぅ……んっ、全部、何でも受け止めるから……」 こうして結ばれようとしていると痛感する。今まで意識しないよう、心のどこかでミリィのことを逆に意識し続けていた。 家族であろう。兄であろう。彼女は妹なのだと、常に自分へ言い聞かしてきた時間が一気に取り戻されてゆく感覚。 焦燥にかられて〈貪〉《むさぼ》るのではなくて、前から求めてやまないものだったのだ―― 「はぁああっ……、手がいやらしい感じで、んっ……」 興奮せずにこんなことはできない。 服を脱がし、その下から手を入れて指でまさぐっている。 「なんだか、嬉しい……興奮、してくれてるんだよね?」 〈頷〉《うなづ》くことなく、まさぐる手をより深く、さらに奥へと彼女の身体へ沈ませてゆく。 柔らかい肌へ指が食い込むたびに、鼻をかすめる女の匂い。雌の香り。 「なに……、何か思い出してるの……?」 第二次性徴を迎えてから、時折感じていた妹の変化。女と暮らしていたのだと改めて気づく。女は見た目よりも、まず先に“匂い”が変わるのだ。 フェロモンは人間の嗅覚で認識できるわけではない。しかし、はっきりと信号は届いている。 隣に立ったとき、すれ違ったとき、〈巫山戯〉《ふざけ》て触れ合ったとき。濃い匂いにくらっとくることがあったのだ。 「ふふ……もうっ。兄さんってば、何も言ってくれないんだ」 こういうときベラベラ喋る男は好きではない。 「ちょっぴり恐くて、期待もあって。でも、そういう部分が見られたのは、やっぱりとても幸せかな」 妹らしい、と表現するべき機微なのか。 「妹としては、ちょっぴり寂しくなったりするんだよ?優しくても同じ面しか見えないと……」 「……ふふ。昔は、そういう瞬間が多かったかな。けどヴェティちゃんと出会ってから、本当の兄さんにも出会えた気がする」 「それまでたまに無理をしているように見えたけど、本当はこういう男性なんだって、今はすごく感じてるの」 ひとり語りが、まるで優しい室内音楽のようだ。 調べに乗せるような手つきで、ゆっくりとしかしメロディックに指を肌へと〈這〉《は》わせてゆく。女の汗で指の腹が湿り、それはまるで性器を触っているようでもあった。 「兄さんの優しい手……どこか恐いところもある腕に、真剣な眼差し……すごくカッコイイよ」 「兄さんにとって、私、ようやく〈女〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》になれたんだ……」 買いかぶりすぎだとも思ったが、感無量である様子なので、余計な突っ込みをしない。 熱っぽくしゃべっているせいか、彼女の乳房の裏や、脇の下、それから下腹部にはじんわりと汗が滲んでいる。 「あぁ、男の人の匂い、強く感じちゃう……んんっ」 これから全裸にさせてゆくと思うと、わずかに落ち着かない気持ちにもさせられたが…… 目の前にさらされたミリィの乳房に、息を飲む。 「い、いいよ、好きなだけ確かめて……」 真っ白で張りのある双丘は、服を捲り上げただけで勢いよく〈零〉《こぼ》れる。尖端には健気な〈佇〉《たたず》まいで、桃色の乳首がぷっくりとついていた。 「なんでも大丈夫だよ。乱暴にされても、いいから……」 いじらしい口調だった。そんなことを言われたら、冗談抜きで身体がおかしくなるくらい、乱暴にしてしまうかもしれない。 一瞬、それもいいかもと思ってしまったが、頭を振りつつ、胸を柔らかく揉み始めた。 「……けど、兄さんなら優しくされ過ぎて、わたしの身体おかしくなっちゃうかもね」 頬を染めながらも、言葉はどこか挑発的に響く。ぷるんと露わになった乳房は、〈淫靡〉《いんび》な瑞々しさではちきれんばかりだ。 汗で湿り気を帯びた真っ白い双丘の弾力が、指を爪を跳ね返してくる。乳首はまだ半勃起状態で愛撫されるのを待っていた。 「んっ……はぁ、ああん。そ、そこ、びりって反応しちゃう……っ」 下の方から乳房を揉み上げるようにして、指先をわざと沈めさせてゆく。揉むのと圧迫するのを同時に行う。 彼女は腹に力を入れているようだ。身体をまるめてしまいわぬよう、なんとか胸を張りながら、身体を〈晒〉《さら》してくれていた。 「乳首が、ぁ……力が、抜けちゃう……っ」 頃合いだ。胸への愛撫を続け、身体はいい具合に温まってきている。 脇腹を伝い、下腹部よりも下へ指を〈這〉《は》わせていく。あどけのない肌は少しのひっかかりもなく、滑るようにして秘所へと導いてくれた。 「ああっ。兄さんの指、とうとう、そこまできちゃった……」 まとわりつく蜜のような潤い。匂いはさらに濃厚だった。 すくい取って舐めたい衝動に駆られたが、まずはゆっくりと擦って、陰唇の奥へと分け入る必要がある。 「いいよ、弄って……わたしでも、どうなってるか知らないところ……」 「ん……っ、ふわぁっ、胸と違うビリビリが来るの……なんだか、目の前がときどき真っ白になるような、んぅっ」 水音を立てて肉が絡みついてくる。ただ指を置いているだけなのに、少しずつ膣内へと誘導されるような潤滑油。 後から漏れ出してくる愛液の粘度は、羞恥心に染まった表情に比べて、雌の情念を感じさせるようだ。 「ぐちゅぐちゅになってきちゃったね……、兄さんの指、すごくあったかい」 「このままじゃ、指だけじゃなくて手がびしょびしょになっちゃう……」 口にしている通り、身体は乱れに乱れていたが、それでもこちらを包み込もうという母性があった。 それがまた〈淫蕩〉《いんとう》さと背徳感を醸し出し、雄の欲望を〈滾〉《たぎ》らせていくのだが……。 「はぁはぁ……、こんないやらしいことしてるの、普通の恋人でもないかもしれないねっ」 そう。彼女の何気ないような、ありふれた言葉が、兄の煩悩をこれ以上ないくらいに刺激する。 普通の恋人という〈台詞〉《せりふ》は、妹にとって至福の如き響く言葉なのだ。 「や、ぁ……さっきから、わたしの一番気持ちいいところばっかり――探り当てられて、んひゅぅ」 「ど、どうしてバレちゃうんだろっ、兄さんの手が触れるところ、電気が流れるみたいになっちゃうの」 腰の動きはねだるような感じになっていたが、たしかに彼女はあからさまな要求をすることをしない。 されど指が触れるたび、愛蜜はとめどもなく溢れ、それをまた性器にまぶされるように撫でられて溺れてゆくのだ。 「あついよ……っ、お腹の奥から、汗が出てるみたい」 本当にそれは汗なのかどうか、彼女にも分からなかった。ただひたすら熱が尽きることなく、自らの身体を劣情ごと焼き尽くしてゆく。 肌へ舌を〈這〉《は》わすと、さっきまでよりも、はっきりと女の味がした。 「はぁはぁっ……ごめんね、勝手に動いちゃって。けど、身体がとても、熱くて……はぁぁ」 「我慢するのも、ちょっと無理になってきたから……っ」 ヴァギナをぐいぐいと押しつけられる。 陰唇に埋もれるようになっている人差し指と中指は、まるで頬張って食べられているようだ。 挟み込むなどというゆるい表現はもはや当てはまらないのかもしれない。 「はぁあああ、んん……っ。わたしの、すごく……ピクピクして、やだぁ」 「はぁ……んくぅっ。あううっ、ひゃああんんっ……あっあっあっあっ」 やがて、まもなくたどり着いたのは処女膜らしき壁だった。 くにくにと触って確かめると、そこはまさに最後の侵入を拒もうとして、立ちふさがっていた。 みっちりという感じで、女の奥へ続くところを塞いでいる純血の証。ミリィを乙女たらしめている柔らかい肉壁を、丹念に指先で押し、なぞり、ねぶっていく。 「も、もうっ。わざと、でしょ。奥じゃなくて、周りを撫でるの、ずるいよ……はぁはぁ」 「そんな、わたしの初めてを確認するように……っ、あぁ」 少しくらいの悪戯も、今の状態では意地悪なおあずけに感じられてしまうのだろう。 ただ責めるような口調ではなく、純粋に切ない様子で懇願しているのは間違いない。 「ああっ、ひゃん……! くりって、〈掻〉《か》かないでぇ……っ」 しきりに腰を突き出してくるので、奥にまで指を入れてクイッと第一間接を曲げてみた。そのまま肉芽の包皮を優しく〈剥〉《む》き、敏感なそこを指の腹でさすっていく。 「あはぁ……あっあっあっ、やぁん……っ」 「でも、い、いいからぁ……はぁはぁ。ホントは、気持ち良すぎて、おかしくなっちゃいそうなの」 「兄さんが悪戯すると、わたしの身体が、すぐにビリビリって……!」 甘やかな声が、耳から入り脳へと駆け抜けてゆく。 事実、それはされるがままであるはずの女から、逆に愛撫されているようだった。 「ふわぁあああ……っ、あ、あああっ、んん……!」 「あっ、やん……! ああっ、あっあっあっあっ、兄さんわざとあてて――!」 いよいよ本格的にほぐれてきたようだ。悪戯のような動きを変えて、ようやく本格的に手を震動させて液を〈掻〉《か》き出してゆく。 しかし、さらに溢れるような蜜液が湧き出て、指はびしょびしょに濡れ始めていた。 「はぁんっ、あぁあぁっ……に、兄さん、わたしの、すっかり溢れ、ちゃって……んんっ」 「ぬ、ぬるぬるして、ごめんなさい……くぅう」 そろそろ頃合い。陰核だけでなく、陰唇までもが赤く腫れるように突起している。ビラを左右にゆっくり開いていくと、彼女の反応は明らかに違うのだ。 「はうっ、ひゃああああ、ふわぁああああっ! あっ、あっ、あっ、ひあっ!」 「ああうぁっ……! 兄さん、い、いきなり――ッ」 それまでよりも深くビラをめくりあげるようにして擦りつけた。 「……あぁっ、あああっ、はあぁあああぁんっ……!」 「はふぅううっ……ンくぅううっ、ああっ、あっあっあっあっひゃああァンっ!」 ひとしきり〈嬌声〉《きょうせい》を上げた妹の身体は、だらりと弛緩して軽い絶頂に導かれた。 秘所も愛撫でほぐれたところ。いよいよ本番を迎えるべく、ミリィの身体を抱き抱えて座らせる―― さっきまでと違い、今度は委ね委ねられる形ではない。彼女もようやく動けることを喜ぶように、まだ息も上がっている状態で抱きつく格好で見つめてきた。 取り出したペニスとミリィの秘所が水音を立てて触れ合う。愛液にまみれながら、粘膜同士がじゅくりとなめくじのように混じり合った。 「えへへ……っ。嬉しい。今度は兄さんのこと、わたしも気持ちよくさせてあげられるんだね」 まるで玩具を与えられた子どものような笑顔を浮かべている。 だが、その姿はあられもない肌を惜しげもなく露出していた。 「兄さん、告白大会しちゃおうか……?」 言葉の意味がよく分からないので首をかしげると、妹はぺろっと舌を出してから、こっそりと伝えてきた。 「わたしね、兄さんの鎖骨が大好きなの。だからいつも、襟元をこっそり見たりして……」 「そんな風にどきどきしていると、今度は兄さんのシャツまで、なんだか特別に思えてね。わたし洗っておくよって言いながら、洗濯前に抱きしめて寝たりしちゃってたんだよ」 性器を擦り合わせて、熱っぽく密着している互いの体温が、野暮な反応を許さない。ずっと異性と意識していたと、頬を染めながらミリィは明かす。 それが、どれほど愛おしいのだろうとさえ思わせる。震える身体から伝わるのは、思春期の少女が見せる健気さと、〈仄〉《ほの》かな性の香りだった。 「……ふふ、やっぱり今がチャンスだったね。怒られなかった。ずるい妹でごめんなさい」 なんだかんだ言っても最後はそんな風に謝っている様子だが、少々思い違いをしているのかもしれない。 彼女のこういう想いがなければ、きっと俺たちはいつまでも兄妹でしかなかったのだから。 悪戯っぽく再び舌を出し、それから同じことを考えていた様子でぽろりと〈零〉《こぼ》した。 「……けれど、兄妹じゃなかったら、わたしたちってこんな風になれてなかったかもしれないね」 「えっちな言い方だけど――妹だから、兄さんだから、ちょっと興奮しちゃってる」 「わたし達は兄妹で、大切な家族で……なのにわたしの膣内へ入ってきて、種を植え付けられちゃうんだね……っ」 鈴のなるような声で、さえずって歌うように言う。 幼気な物言いが、兄妹という関係をより刺激してくるようだ。身体を弄っている間は、男と女だったのに、ふとした瞬間にこうして兄妹っぽい雰囲気になったりする。 そういうところが、より妖しくさらに〈淫靡〉《いんび》である。 「いくつになっても、妹は妹で、兄さんは兄さんなのに……」 それが興奮を〈煽〉《あお》り、同時に不安も増やすのだろう。純粋に楽しいからしゃべっているのかと思いきやそうではない。 ひたすら愛おしいけれど、今まで禁忌であった一線を乗り越えることに対する〈躊躇〉《ちゅうちょ》と期待。願った関係だとしても、果たして自分が踏み出せるのか。 一つ屋根の下に暮らし、慕情が過ぎるゆえに尻込みしてしまう。 「に、兄さん……?」 だから抱き締め、頭を撫でながら、しっとりと汗ばんだ肌と肌を触れ合わせて伝える。 不安は口にできないからといって、わざわざ軽口を叩く必要もない。下腹部の奥から体全体を温めてゆくように肌と肌で体温を共有する。 性器へ指を回すと、ぬかるんだ感触に沈み込んでしまいそうになった。 図らずとも汚され、ぐっちょりとした泥のような愛液に第二関節までもが汚されてゆく。それが最後の確認。 「やん……っ。こ、こんなに濡れちゃってたんだ。ぐしょぐしょになってる」 「恥ずかしいけど……うん、逃げないよ。ずっとこうなりたかったんだもん」 「好きです。兄さんのを奥まで〈挿〉《い》れて、ください――」 「くぅっ……ひあああああああぁっ!」 瞬間、雌の悲鳴が〈耳朶〉《みみたぶ》の奥へ飛び込んできた。 ペニスの先が、さっき触れたばかりの処女膜へ、くちゅりとキスをする。 そのままの熱で、張り詰めた膜をぷちぷちと破り、心地よく処女の粘膜を食い荒らしていく。深く〈繋〉《つな》がった接合部からは、まるでパチンと何かが破裂したような〈手応〉《てごた》えが返ってきて雄の本能を刺激した。 ああ、これで自分たちは本当の意味で男と女…… 大切に育ててきたミリィのバージンを、自らの手で奪ってしまったことで、ペニスが肉〈襞〉《ひだ》に包まれながら喜びに震えていた。 「……はぁはぁ、す、すごいね。〈挿〉《い》れちゃうと、こんな感じに〈痺〉《しび》れちゃうんだ」 間違いなく膜の破けた感触。懇願通り奥まで〈挿〉《い》れたことによって、鈴口には子宮がぶちあたっている。 濃厚過ぎる粘膜同士のキスは、まるで不慣れな恋人であるかのよう。女になったばかりの未熟な子宮口が鈴口を必死に受け止めている。 顔を見合わせると、彼女はうっすらと涙を浮かべていた。 「だ、大丈夫……だよ。思ったよりも痛くなかったもん」 「それより、痛いけど気持ちいいっていうか、わたしの、あそこ、じんじんって〈火傷〉《やけど》しそうになってる感じ。何より……」 「これでわたしも、兄さんの……パートナーなんだね」 その発言が健気で、興奮を〈煽〉《あお》る。処女を捧げてくれた優しさに答えるべく、埋没した肉棒をゆっくりと前後へ出し入れするように動かした。 「はぁはぁ……、はうっ! ああっ……、こ、こんなに、ふかぁいんだ……っ」 「兄さんの、ぎちぎち……だねっ、それが、つき刺さってるみたい――」 繁みの中にある泥のような、ぬかるんだヴァギナの中がたまらく心地いい。背徳感の味が加わり、えも言わぬ快楽がペニスから流れ込む。 しとどに濡れているおかげで、膜を破った感触以外は溢れる愛蜜によって滑り、奥まで導かれていくようだった。 挿入そのものがひと段落すると、膣壁はみっちりと絡みついていた。鈴口が子宮の壁へタッチしている。たまらない。 「す、すごいぃ……、ここまで挿いっちゃうんだね……っ」 「ねぇ、わたしの膣内って気持ちいい……?」 恐る恐る上目遣いで訊ねる女の瞳は、不安や葛藤が入り混じるものだ。経験のない自分への不安、初めてを捧げて失ったものと得たものへの葛藤。 奥へ差し込めば差し込むほど、生温かい吐息が深く〈零〉《こぼ》れる。犯されているかのような呼吸音は、直情的にこちらの加虐心を刺激してくる。 「ああっ、ちょっと、うごいてくれた、ね……んんっ。はぁあああ、お腹の中で、こんな感じなんだ」 「ぐりっぐりって、お腹の……、中身までっ、引っ張られるみたい」 全身が半ば硬直したような姿勢でわずかに震えながら、妹が抱きついてくる。甘酸っぱい少女の汗と体臭が鼻腔をくすぐり、しっとりと濡れた肌が官能をそそっていく。 無意識だろうか。髪を梳くように、すりすりと頭を擦り付けていた。子犬のようなその仕草に思わず欲望が……雄の本能が刺激される。 「はぁああああんっ……いいぃ、兄さんとぴったり、くっついてる……アソコの奥まで、ぴちぴち……だよっ」 グイグイと締め付ける膣肉が、ゆっくり〈蠕動〉《ぜんどう》し始めている。雌としての本能が精を搾ろうと〈蠢〉《うごめ》いていた。 〈雁首〉《かりくび》で感じる肉壁に合わせて、わずかにだが少しずつ、さざ波のような抽送を始めてゆく。 「うあぁっ……はぁはぁっ……大丈夫、なんだか、たまんなくなってきたの」 「ちょっとずつね、気持ち良くなってきた、かも……痛いけど、気持ちよくて……子宮が持ち上げられるたび、ぃっ」 「ふわぁあああっ、あっあっあっあっ……、んんっ」 引き戻すと全身でもたれかかり、突き上げてると弓なりに喘ぐ。 一つの動作はかなり遅いものだ。その代わり、処女肉を味わうように腰をくねらすことができる。新鮮な蜜〈壺〉《つぼ》に男の欲望を教え込んでいく。 ペニスが子宮の壁にまでズッポリと到達する度、身体を支えられながら、女性器の隅から隅までミリィは刺し貫かれる。 徐々に桃色の吐息をもらしながら、恍惚とした表情で受け入れ始めていた。 「くぅううう……っ、これ……いいよぅ、兄さんのって、こんな……長くて固くて……、先っぽ太いよぅ」 「かたち、覚えちゃう……覚えたまま、戻らなくなっちゃう……ひゃぁぁ」 震える彼女の手が、こちらの背中を撫でまわし、荒ぶるように頭を抱いてよがる。 決して手を離そうとはしない。快楽のせいだろうか、手加減などできなくなっている様子だった。 「汗、びっしょりだね……つらくなったら、言ってね。わたしが動くから」 際限なく高まってゆく体温と、びっしょりと汗に濡れている肌の感触。そんなものに、ほっとした〈安堵〉《あんど》を得ていた。 ときに乳房へ顔を埋め、すると妹の優しい手が抱きとめてくれる。自分の方が兄であるはずなのに、不思議な落ち着きが広がってゆくのである。 そして……それが下衆なことに繁殖欲求を〈滾〉《たぎ》らせた。快楽への渇望に任せ、膣の奥まで差し込まれた肉棒をただ律動させたい。ミリィの子宮へ種を打ち込み、獣欲を満たしたいという考えがよぎる。 欲望は高まるばかりで、そのたびに肉が膣の中で跳ねる。先走りが〈襞〉《ひだ》を濡らし愛液と絡み合って証を刻みたいと訴えていた。 「えへへ……、うん。もう大丈夫だと思う」 「いいよ、兄さん。いっぱい動いて、わたしの〈膣内〉《なか》へたくさん出して……っ」 「兄さんの精子、ミリィの〈膣内〉《なか》で全部受け止めさせてほしいの……ね」 そんな健気で淫らなおねだりを聞いた〈途端〉《とたん》――理性が削れる、深く息を吐き出しながら、大きなグラインドで妹の膣を犯していった。 その度に〈陰嚢〉《いんのう》からせり上がって来る欲望の波、快感。肉壁がぎゅっと締まる。竿の脈動と、柔毛の圧迫がせめぎ合ってゆく。 「ひゃああああぁぁっ……ああっ! あああああああああぁっ!」 電気が〈奔〉《はし》ったように反り返り、身体を揺する。自重が思いきりかかるので、先ほどまでとは比べものにならない衝撃だった。亀頭が子宮の壁をこね回し、自らの味を教えていく。 「こ、こえ……っ、我慢できない――、叫んじゃう……よぉっ!」 水音もひたすら大きくなる。付き上げるたびに空気の混じる愛液が、ぐぷりと音を立ててミキサーされ、官能が〈煽〉《あお》られた。 先走り汁と、〈壺〉《つぼ》から〈零〉《こぼ》れる蜜液が混合され、気泡が混じったように泡さえ立つような音が辺りに響く。 「きゅぅっ……! ふあぁっ……あっ、あっあっあっあっあっ……!」 「はぁはぁ……くぅううううう! んんっ……、かはぁ」 髪を振り乱して、ねじ込まれる肉棒の刺激と快感を堪えようとしている。 だが、津波が打ち寄せてさざ波を消してしまうように、快楽のうねりが彼女を飲み込もうとしていた。 「膣内……っ、ぐちゅぐちゅ、〈痺〉《しび》れてるよぅ……んはぁ!」 「あっ! ああっ! だ、だめっ! まだイっちゃ、兄さんが……!んんっ、一緒に、一緒……」 「兄さんがまだなのに……はぁはぁ、わたしだけ、イッちゃだめなのっ」 突き〈挿〉《い》れた腰をぐるりと回すと、ぶるんっと乳房が投げ出されるように揺れる。谷間や双丘の裏にかいた汗が飛び散り、その性臭がまた生殖欲求を〈疼〉《うず》かせた。 〈灼〉《や》け〈爛〉《ただ》れる肉〈襞〉《ひだ》が締めつけて、ペニスは溶けてしまいそうである。甘い〈痺〉《しび》れがせり上がり、種付けを求めて尿道を徐々に精液が登りつめていく。 「ふあぁあ……ああああ……! ち、力が抜けちゃう……っ」 脱力しながらガクガクと震える腰の動きとは裏腹に、性器の中では〈蠢〉《うごめ》く雌の本能が、陰茎を食いちぎらんとばかりに締め上げていた。出して、注いでと訴えているようだ。 ギチギチといっぱいになった状態で、尻を抱きながら強く揉んでみると、彼女は声にならない〈嬌声〉《きょうせい》を上げた。 腸壁までも届きそうな刺激で責めると、〈途端〉《とたん》に奥から大量の蜜液が溢れでて、互いの内股を濡らしながら結合部を泡立たせる。 「はわぁあああああぁっ……い、いやらしいのが、いっぱい……っ」 「エッチなおつゆが止まらないよぅ……、〈痺〉《しび》れちゃって、自分じゃどうにもできなくて」 「ああっ、そ、そんな風に突き上げられると……またっ!兄さんの先っぽが、くりって引っかかっ……ああっ!」 子宮口へ亀頭が触れ、引き戻すと雁が周りの肉壁を引っ〈掻〉《か》く。そのたびに彼女は舌をだらしなく出しながら、〈涎〉《よだれ》を垂らしてガクガクと震えた。 とめどもない愛液を受け止め、さらに抽挿を深めようとすると、膀胱へ重みがかかり、竿の尖端から根本まで、あますところなく圧がかかってくる。 がっちりと、ねっとりと、深く交わり合う雌雄の性器。結び付こうと誘っている。 「んくぅううううう……ふわぁっ……あああっ! あああああっ!」 「あつぅい……あつすぎるよ、アソコぉ、が……溶けちゃう……っ」 「お、おねっ、お願い……もぉっ、もぉっ出して……、兄さんの、えっちな子種が、欲しいのぉおおッ!」 結合部からは、ぽたぽたと和合水がこぼれ出し、シーツに水滴の跡をつけてゆく。 律動を一気に加速させると、乱暴なまでの擦過音が響いた。ミリィの味、ミリィの臭い、処女肉をかき混ぜるたびに暴走していく繁殖欲が抜こうなどとは一切頭に考えさせない。 このまま奥で、ひたすら心地よく果てたい。甘く〈疼〉《うず》く〈睾丸〉《こうがん》から種を注ぎ込み、その胎内へ…… 「くぅっ……くぅふううっ……はぁあああっ! あっ……、あっあっあっあっ」 「ああっ! ああああああっ! ら、らめぇっ、らめなのぉっ……い、イッちゃうぅっ! イッちゃうよぉっ!」 そして絶頂寸前の〈嬌声〉《きょうせい》が、二人の興奮を最後までせり上げたとき―― 「あ、ああああぁあっ!い、い、イクうううううううううううううううううううっ!」 「かはぁっ……んくぅううううううううっ……ひゃあああああああぁっ!」 ミリィの中にうずめたまま、最高の絶頂を味わった。 ガクガクと震える身体が、全体重をのしかけてくる。そのたびに押し付けられる肉壁と子宮がペニスをねだるように締め上げて、精液を搾り上げていた。 射精が続いている間、ミリィはぎゅっと内股を閉じて雄の欲望を受け止める。それどころかより腰を深く密着させ、自ら射精へ自分の身体を捧げていた。 「で、出てるぅよぉおおお……! 兄さんのが、いっぱい……っ」 「……ひあぁっ! はぁはぁ……はぁああああああん――」 嬉しそうだ。至福の如く表情をしてぎゅと抱きしめてくる。しかし行為中のときと比べると、ずっと柔らかい。 弛緩した肉にお互い包まれて、俺たちは優しく抱き合っていた。抱き合ったまま下半身で深く結合し、粘膜と粘膜をまぐわいながら生殖行為を味わい尽くす。 妹に種付けした最高の背徳感……それを堪能しながら、ミリィの臭いを〈痺〉《しび》れるように吸い込んで。 「はぁ……はぁ……、ふぅ……んんっ……兄さん……っ」 「ありがと……、膣内にいっぱい出してくれた――すごく幸せだったよぉ」 蕩けるような射精を味わい尽くした後、ようやく射精の勢いが止まり始めた。 歓喜の言葉と共に、膣の中では一斉に肉壁が収斂している。それでもなお、やわやわとペニスを刺激して種をちゅうと吸い上げていた。 どこまでも純化された生殖行為。一番深いところまで刺し貫くことができる座位で、彼女は処女を失って、吐精を味わい“女”となった。 〈蠕動〉《ぜんどう》する肉が、最後の最後まで絞り取ろうと、鈴口を次々と舐めてゆく。〈痺〉《しび》れるような刺激は、にわかに肉棒をまた固くしようとしていた。 「えへへ……、こんなに出されちゃったら、できちゃうかもしれないね」 その〈呟〉《つぶや》きに思わず唾を飲む。うっとり語る妹の膣内に入れたままでいるためか、すぐにまた硬度を取り戻して、吐き出したはずの劣情が復活していくのを感じた。 さすがに相手の身体を〈慮〉《おもんぱか》ってペニスを引く抜こうとするが、なぜだかミリィは許してくれなかった。内股をきゅっと閉じたまま、逆に足を絡めてくる。 「あはっ……気づいてるよ、兄さん。また固くなりそうになってるでしょ?」 「いいよ、遠慮なんかしなくて……兄さんが幸せだと、わたしも幸せなんだから」 そうして見透かしたようにしゃべる彼女は、妖しく腰をくねらせて言った。疲れているはずが、身体を自ら動かして俺を誘う。相手へ尽くすために。 「わたしと比べたら、兄さんは物足りなかったんじゃないのかな……って思うから、さ」 「このまま、もっとしちゃってもいいよ?わたしも、気が済むまで求められると嬉しいし……」 「これからも、兄さんが好きな時に、好きなだけ抱いてくれるような身体に……早くなってあげたいもん。ふふ」 先ほどまで気を失うほど喘いでいたのに、こちらを優先する健気さが欲望を静かに再燃させていく。 その想いに応えるべく、誘われるまま俺たちは……より密着して抱きしめ合った。 後ろから包み込むように抱きしめていると、チトセらしからぬ無防備さに笑みがこぼれた。 戦いの度に鋭く、まるで刃を薄く磨ぐようにして、その身を削ってきた彼女が―― こうして全てを任せるように、男へ身体を預けている。どんな表情をしているのか見えないが、それがより高揚とさせてくる。 「ま、前よりも……そんな、強く抱きしめおって」 声がどこか震えている。はっきりと分かる程ではないが、見えないところからまさぐられることに、チトセも緊張してしまっているようだ。 「おい、聞いているのか……?」 女の言葉を聞いてやるのもケースバイケースだ。むしろ相手が〈躊躇〉《ちゅうちょ》してしまうのなら、こちらが主導権を握り導いてやった方がいい。 それは無理をするというわけではなく、互いに滑らかな〈閨房〉《けいぼう》の作法というものだ。 ……彼女にそういった意識が強くあるかどうかは分からないが。 「はっ……ん。身体の前が空いているのに、妙に熱く感じてしまうな」 「くっ……、ああ! は、激しいが……嫌いではないぞ? 求めてくれるのは、素直に嬉しいよ」 〈蠱惑〉《こわく》〈的〉《てき》な声をこぼすものだ。しゃべり方とは裏腹に、普段の高圧的な迫力など〈微塵〉《みじん》も感じられない。 〈貪〉《むさぼ》るようにして乳房をこねくりまわすと、乳首がときに手の平にあたる。それは思ったよりも固く勃起している。 柔らかな肉の中に、固い芽があるようだ。 「はぁはぁ……んぁ、そこ、さっきから〈疼〉《うず》いてしかたなく、って……」 「ふふ、いいんだぞ。好きにしてくれて。私はおまえの……、おまえだけの〈番〉《メス》なのだから。ゼファーのことを、心ゆくまで感じたい」 「獣のように、求めて……な」 言葉にははっきりとした決意があり、淫らにすら感じる懇願があった。 彼女は決して、俺のためにとか、男を喜ばしたいからなどという薄っぺらな想いで口にしているのではない。 豊かな双丘。揉みし抱くたびに、形を変えて揺れる乳房へ、劣情をぶつけてゆく。 「はぁああああ……んっ、あっあっあっ……ひゃぁっ」 少女のような甘やかな声を漏らし、白い胸元できゅうきゅうとなった乳房を揺らす。こつんっと手にあたる感覚がいやらしくも可愛い。 無防備な首筋へ接吻を幾度か繰り返し、舐るように舌を〈這〉《は》わすと、びくんっと跳ねるような反応を見せた。 ただ汗の味などというつまらぬものではない。もっと濃くて、舌の上で転がすと、くらっとする雌の匂いが鼻へと抜けてゆく。 その間、いくら弄っていても飽きることのない胸の谷間へ、深く指を差し込んだ。 そこはじっとりと汗ばんでいる。 「ふわぁっ……ぁ、んっ……ふふ。ま、まるで宝探しでもしているようだな」 うまいことを言う。確かに男は女の身体で、宝探しをするものなのだが…… 「ば、ばか者。脇の下になど、手を差し込んでくるんじゃ……んんっ」 谷間の底から胸腺に沿って指を〈這〉《は》わし、乳首をかすめ、脇の下へ。肩を上げて開かせると、そこからは女の濃い匂いが漂ってくる。 こちらの方が愛撫しやすいのだと告げると、彼女は視線を落として諦めたように〈呟〉《つぶや》く。 「手つきがいやらしい……っ。も、もう少しスマートに……、そんなとこを触られてるのは……うぅ、その、屈辱的というか、なんだ」 恥ずかしいと言わずに屈辱などという言葉を使う女。しとねにうずもれながら交わろうというのに、らしいと言えばらしい反応である。 「……んんっ……、ああっ、そ、そこ……さっきから、ずっと固くなっている」 淡く色づいた尖端を弾くと、チトセは身体をびくんっと震わせる。以前に交わったときよりも、さらに敏感になっているようだった。 〈淫蕩〉《いんとう》にふけ揉みし抱く。顔が見えないのが、いささか残念ではあるが、それでも背中から伝わってくる反応は、まるで少女のボディランゲージそのもの。 「お、おまえの好きにしてくれ。本当は、その……、めちゃくちゃにして欲しい、くらいだから……」 チトセは俺の言葉をさえぎって続ける。 「おまえとこうなれたのが、どれほど幸せなことだったのか。分かるか?この馬鹿……、馬鹿者……っ。大好きだぞ」 「あまり、女に寂しい思いをさせるなよ……」 心の底から申し訳なさそうに語る彼女を見ていると、考えすぎじゃないのかと思う。 だが、それらを言葉で返しても意味は薄い。今は肌と肌で伝え合うしかないのだ。 「なぁ、おまえは私の何が欲しい? 知りたいな、教えてくれよ」 「この体も、この腕も……髪の毛1本に至るまで、全部おまえのものなんだぞ……?」 ならば存分に味見をさせてもらおう。俺のものだというのなら、まずはすべてを吟味して望むものを見極める。 「おまえが幸せならそれでいいが、責められたままは性に合わん」 「だからおまえの幸せも、私にいっぱい〈貪〉《むさぼ》らせて……はぁ」 彼女は決して興奮を得るために、こんなことを言っているのではないだろう。 本心からの願い。祈り。そして、秘めてきた想いと隠された劣情。その全てが今こそ開放されるかのように、堰を切って溢れ出していた。 「んっ……乳房が好きなのか? 優しく触るだけでは物足りんだろう。思う存分、欲をぶつけていいんだぞ」 こぼれるように揺れる胸は、さらに〈淫猥〉《いんわい》さを増し、汗でテカっている。だらしなくさらけ出され、吸われ揉みし抱かれることを期待しているかのようだ。 汗を舐めてみると、わずかにしょっぱい味がした。 「はぁはぁ……っ、んんっ。上だけじゃなくて、下もっ。好きなだけ爪を立てて、いいから……はぁ、んぅ」 「吸うだけじゃなくて、歯を立てて噛んだりしてもいい。跡もたくさん身体につけて? おまえのやりたいことを全部、私に何でもぶつけてくれよ」 膣壁の感触は、〈蠕動〉《ぜんどう》となって妖しく〈蠢〉《うごめ》くようになってゆく。まるで俺の指を舐り、しゃぶっているかのように。 かき混ぜるよりも、反応の差を感じながら、とんとんと肉壁を叩く。 「ふわぁああ、ひゃあああん、ゆ、指で、そんな〈膣内〉《なか》を……っ」 「あっ、ああっ、んくぅうう……! あぁあああっ、感じる。ゼファーの手、ゼファーの指……っ」 「はぁあぁあああ……っ。いい、満たされて、埋まっていく感じ……」 こちらからの刺激は、膣壁を伝わり、もしかしたら腸壁にまで届いているのかもしれない。彼女はときおり尻を浮かせながら喘いだ。 陰核を撫でてやると、肉の花が咲くような〈嬌声〉《きょうせい》で、体全体へ〈痺〉《しび》れが伝わっていく。 「体の奥から、抜け、て……ひぅん……!」 「頭の芯から響いてくる。子宮の奥が、おまえのことを――ふわぁああああ!」 粘ついた水音が、じゅぷじゅぷと軽く耳を舐った。 その先を言わせるわけにはいかない。まだ早い。〈淫蕩〉《いんとう》さに溺れてから、欲望を溢れさせたい。淫らな要求は、安っぽくするものではない。 「はぁはぁ……んんっ、た、たまらない」 「あっあっあっあっ、また、しつこく、そんな……固くなってるところを――ッ」 擦り合わせようとする内ももを許さない。しとどに溢れ始めている愛液は絶えず指を濡らし、滑りを良くしてくれる。 蜜のような匂いがむわっとあたりを包み、くらっとするような興奮が体温を高めてゆく。 「はわぁああああ……、はぁはぁ、ど、どうしても、びくんっと動いてしまうな」 匂いにつられて、まるで誘蛾灯のようにふらふらと呼び込まれる俺が、チトセのふとももの間に体を入れてゆく。 下着のクロッチを見せつけるように、彼女も足を開き、腰を浮かしてくれた。 「見てくれ……んっ。こんなにも濡れて染みている。びしょびしょだ……っ」 挑発するような物言いだが、悪い気はしない。自分の劣情なのに、そこから飛び降りるような背徳感がある。 「ああ……! おまえの、いやらしい視線を感じて……っ」 陰部をめくると、女はひゃんと小さな声を上げた。 気持ちよさそうに濡れた陰毛が、外気に触れ、濃厚な性臭に目がくらみそうになる。 「こんなにも、はしたない格好をさせて……ふわぁあああ、んんっ」 陰唇をめくり上げたり、また指を離したり。そのたびに身をよじらす女の姿。 だが、決して太ももを閉じようとはしない。 「ひぃいやあああああ……! くぅうううう……、そんな、触り方……っ」 そして、勃起して腫れたような陰核の皮を優しく〈剥〉《む》き……愛液をまぶして弾く。 「はぁはぁ……、はぁああああああん……っ、あっ、あっ、あっ、あっ……!」 「ふわぁああ、んん……っ、あっ! ああ! あああ!」 クリトリスを撫でながら、また別の指で、つつくように膣へと入れたり出したり、浅めに震動を加える。 第1関節を差し込み、小刻みにふるわせると、弓なりに背中をのけぞらせながら〈嬌声〉《きょうせい》をあげた。 「くぅぅうううう……、はぁああん! ひゃっ、あああっ! くうううぅ!」 「……はぁはぁ、ふわぁ! んはぁ! あぁああああ……ッ!」 指についた透明色の液体。顔の前に持っていかずとも、雌の匂いが鼻をつき脳をどこまでも〈痺〉《しび》れさせる。指がふやけてしまいそうだ。 見せつけるように、てらてらと光る糸が伸ばしてみた。 「す、すごい……、こんな、私の〈膣内〉《なか》から溢れて……っ」 「んはぁああっ! くぅ……っ、はぁはぁ……」 その痴態を見せつけられ、男根ははち切れんばかりに隆起している。 いよいよ愛撫の終わりの終わりを感じて、膣内へ入れる指を2本へ増やした。 「ああ、濡れて……こんな……二本挿いっても、痛くない」 「それどころか、おまえの指を食いちぎろうとしているみたいで……ひぃうっ」 浅く入り口を弄とうとしても、脈動する膣肉は、深く奥へとくわえ込んでいく。欲しいと逃さぬように。 「くうぅ、んぐうぅ! ひゃあああぁ……!」 「ふわぁ、ああっ、あああうっ! ひぐぅ……んんっ!」 「〈膣内〉《なか》を引っかかれるのも、さっきまでと、違って……はぁ、だめ、飛びそう……っ」 反り返る反応を〈伺〉《うかが》いつつも、指を素早く律動させていった。 「んんっ、あっあっあっ……は、はぁああああああんっ……!」 「あああぅううう! うううっ、くぅううっっ!」 「はぁはぁ……、あっ、あっ、あっ、あっ、ひゃあああああああん!」 びちゃびちゃという〈淫靡〉《いんび》な音が響く。 〈嬌声〉《きょうせい》と粘性のある音が混じり入り、こちらの耳穴を逆に犯されているようだった。 「ふわぁあっ、ああっ! だめ、そこっ、はぁああああああっ……!ひゃああぁああああああ……っ」 「ああぁああああああ―――っ、目の、前が……ああっ、くぅううううう!」 絶叫。そして、思いがけず膣からは噴水のように液が飛び散った。 「はぁあああっ、あああ! い、いくぅ……っ!」 「はぁああああっ――くっ! ひゃあぁあぁあ! はぁ、んん、あはあぁっ!」 噴出する愛液による潮は、女自身を白く汚してゆく。 〈痙攣〉《けいれん》しながら太ももだけでなく、腹やつま先にまで染め上げてゆく。それは今までに嗅いだことのない匂いで、チトセを包み込んだ。 「こんな、やだ、まだ、とまらな……いっ」 「ゼファー……、もう我慢できないから。このまま、私のすべてを犯してくれ」 完全に脱力してしまった身体を起こそうとすると、少しよろける形でしなだれかかってきた。 心の鎧はすべてもう脱ぎ捨てさせた。俺がより深く、あられもない態勢にして後ろから抱き抱えると、チトセは歓喜した様子で絡みついてきたのである。 「んあぁぁ……おっきぃ……」 そして──ペニスがゆっくりと、濃密な媚肉に包まれた。 「どうだ? おまえが味わい、乙女から女に〈躾〉《しつけ》けた……ヴァギナの味は」 美しさを感じさせる尻の形。彼女の肉体には一部の隙もない。しかし、今やその肉がこれ以上ないというくらいに緩んでたわみ、男のものを受け入れている。 子宮の肉が、ぐいぐいと亀頭を押し返すように絡みついてきた。ペニスが喜びに打ち震え、先走りを最奥へと口付けながら塗りつけている。 「まったく……おまえが丹念に責め過ぎるから、いまいち力が入らないぞ」 「最後の最後まで念入りに責めおって。昔のままだ……変なところで、雑なことはしないやつ」 ふとした瞬間、さえずるように昔を思い出すして語るときがある。互いに知らない密な時間を過ごしてきた仲なのだ。 だが、それでも――心根に張ったものは変わらない。 「……んんっ。はぁああ、腰がいやらしい動き……っ」 「子宮口をほぐすような、繁殖欲求まる出しの……雄の動き、んうぅ」 本能のまま膣内を〈執拗〉《しつよう》に〈掻〉《か》き回してゆく。後からとめどめもなく愛液が〈零〉《こぼ》れてきて、女の内股に触れると、そこは汗と粘り気のある水が混じっていた。 「あは、前とは違ってこんなにも積極的に……〈滾〉《たぎ》っている」 「これなら、もうどこにも行かれることはないな。おまえはずっと私のものだぞ……? この子宮が、おまえを処理する蜜〈壺〉《つぼ》だからな?」 それは願望だ。覚悟や決意の感じられる口調は変わらないが、その中には、俺の知らなかったチトセが見え隠れする。 だからこそ、彼女の気持ちに応えたいと思った。 「はぁあああ、〈膣内〉《なか》で膨らんでる……っ」 軽い抽送で身体を揺すりながら、乳房を揉みし抱くと、女の身体はたゆんと遅れてゆれる。まるで波が立つようだ。 弾力の豊かな、心地好くも反発する肉の感触は、身体の外も内も変わらない。 「はぁはぁ……んくぅうう、つき上げられると、息が止まる……っ」 「だ、大丈夫。そのっ、すごく……いいから」 初めて交わったときとは、種類の違う征服心が身体中を満たしてゆく。 それは、とみに肉棒の尖端へ集まってゆくようで、まだ〈挿〉《い》れたばかりだというのに、早くも奥へと射精したい欲求がペニスの奥からこみ上げていた。雄として何も考えず、ただ最高の雌に対して種付けしたい。 だがもちろん情動に流されるわけにはいかない。まだ味見しただけ、彼女をしゃぶりつくすほど愛していない。 もっと濃密に、限界まで濃縮した遺伝子を、彼女の子宮へ打ち込みたいから。 「ふぁああっ……! 奥に……、壁になってるような子宮に、おまえのが当たるんだ」 「い、いいんだぞ。出したかったら、好きなときでいい。〈精嚢〉《せいのう》が空になるまで自由気ままに、中出ししていいんだからな」 「私はゼファーの好きなようにされたいんから。それだけが、欲しいからぁ……っ」 隆起した乳首を軽く押し込んでみると、のけぞって反応した。 それは連鎖的に下腹部へと伝わり、射精を促すように膣壁が締めつけてくる。ただ胸を刺激しただけのに、女の身体は間違いなく、白濁した液を望んでいるのだ。 「くふぅうう……っ、んっんっんっ、少しずつ早くなってくる……っ」 「乳首に触れられるだけで……ああっ! あっあっあっあっ、……つ、つねるなぁ……なぞるな〈掻〉《か》くなひっぱるなぁっ」 乳首をいぢめつつ律動のリズムを変えると、反応がつぶさに変化してゆく。 早くすればタイトに反応し、ゆっくり大きくグラインドすると、彼女は絡みついてくるように喘いだ。 「はは……っ、ま、まるで動物の〈躾〉《しつけ》みたいで……だというのに、ひぅ」 「嫌というわけではないから、不思議だな……ふふ、はは」 まるで自分に暗示するような物言いである。ただひたすら〈貪〉《むさぼ》り、喘ぐだけにならない。改めてチトセという女に感心してしまう。 口から紡ぐ内容はされど、むしろ俺にそうされたがっているようにも見えるのだ。 「あっ、そんな〈捏〉《こ》ねるように……はぁああああっ、んんっ……ふわぁ」 「ゆっくりになっても……んくぅうう、と、止まらないんだな……」 ここで抽送を止めたら、全てにリセットがかかってしまうだろう。 断続的にペースを変えているとはいえ、膣肉をペニスで耕しているようなものだ。掘れば掘るほど、柔らかくなってゆく。この間まで処女だった秘肉を、自分専用の種受け皿へと変えていく。 雄の繁殖欲求を咽び泣いて甘受する子宮に変える。その一心で突きこめば、泉が湧くように、じゅぷじゅぷという水音も泡立って聞こえてくる。 「……くああ……、はあぁっ……んんっ、ひゃああう!」 「おまえのかたちが、はっきり伝わって……はぁ、覚える、ゼファーの形……おなかの奥で覚えていくっ」 叫びながら体全体で巻きついてくる肢体。しっとり汗ばんだ身体が、より深く蛇のように絡みつく。 「この……、体勢っ、好きだ。たまらないな」 すりすりと尻をくねらせ、腰を動かして、膣の奥を自らちゅぷりとあててくる。種付けを今か今かと待ち焦がれるように。 「密着できて、いい……抱えてもらって、身動きできないのが、いいんだ……はぁっ」 後ろから〈挿〉《い》れられるのが好きなのだろうか。 耕せば耕すほど、こねればこねるほど、開発される極上の女。子宮口が徐々に緩み広がって来た。 「そ、そろそろ……、身体が勝手に、なってゆく。私の言うことを、聞いてくれない感じなんだ」 「お願い、ゼファー……陥落させて、トドメをさしてっ」 「おまえの種を子宮で媚びる雌だって、身体の奥に思い知らせて……?」 そのおねだりに理性が次々切れていく、我慢できなくなっていたのは同じだ。膣内で絡み合い、性器同士が擦れ合う。 最後のスパートをかけるべく、女の腰を浮かすように抱え、今までは比べものにならないほど突き上げた。 「あひゃあああ、はぁあああんっ……! ふわぁあああ! ああっ」 「い、いいのっ、そうして、めちゃくちゃに犯して……もっと!」 ぎちぎちにそそり立ったそれの尖端を、子宮へあてるように突き入れる。そのたびに膣壁は激しくうねり締め上げて、〈雁首〉《かりくび》を圧迫してきた。 「ふわぁああああ、あっあっあっあっ、んくぅうううう……!」 「やんっ……はぁはぁ、かたいっ、奥でぶつかると、どうにかなりそう……っ」 剛直が激しく出し入れすると、女は突っ張ったように反り返った。鍛え抜かれた下腹部の筋肉が、コルセットのように彼女を固くさせた。 収縮する動きはあまりに強く、緩みきった弾力が一気に固く反発してくるようだった。 「ああぁああああ、た、たまらない。こんなに、熱くて、〈逞〉《たくま》しい……獣の交尾、はぁあっ!」 残った片目を見開き、できうる限りの息を吐いて叫ぶ。 「きつ過ぎる……けど、ひゃああぁああああ……、それだけじゃなくて……んん!」 「〈膣内〉《なか》に、どこにも隙間がなくて、ぴったり……っ、埋まっちゃう……っ」 微動だにできないような締め付け。みちみちという音まで聞こえてきそうな、肉の脈動はペニスを食いちぎろうとせんばかりである。 それはまさに彼女の欲望、そのものと言えるかもしれなかった。 「はぁん……っ、はぁはぁ、う、動かさないのか……?」 当然、動かす。しかし、その前にこうして女の温かさを感じていたくなった。 きっとスパートをかければ、俺も真っ白になるくらい意識が飛び始めるだろう。だからこそ、はっきりと感じられる体温を……。 「ふふ。感じるよ……。ゼファーの温かさ……っ」 「今日は〈火傷〉《やけど》しそうなくらい熱いけど……、それでもおまえの温かさが、私を満たしてくれるから」 鍛えているはずの彼女が肩で息をしている。脇をぺろりと舐めてみると、挿入する前よりもずっと濃厚な汗の味がした。フェロモンの直接接種にまた生殖本能が〈痺〉《しび》れて〈疼〉《うず》く。 少しずつ、ゆっくりと――円を描き引っかけるようにして、腰を動かし始めた。チトセの味と匂いに埋没しながら、〈貪〉《むさぼ》るように結合部を泡立てる。 「はぁああうっ、んんっ……ああッ! あぁああっ、あっあっあっ……!」 「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、すごい、とうとう……っ、はぁああ!」 蕩けるような吐息と共に、今までは違う〈嬌声〉《きょうせい》が部屋に〈木霊〉《こだま》する。 先走りしている精液は、彼女の密と混ざり合い、空気の混じる水音も激しさをましている。まるでシェイクしているかのようだ。 淫らな音は、壁に反射して二人の耳から脳髄へ響き、それはまるで溺れてゆくような深みと、そこ知れぬほの暗さを感じさせた。 隆起するペニスは、さながらこの瞬間へ〈楔〉《くさび》を打つように。 「ひゃぁあああっ、熱いぃ、熱いよ、こんな、燃え尽きるような……っ」 「あっ、ふわぁ、ああっ、はぁああっ……んんっ……奥が溶けてゆく……受精の準備が、完了しそうでっ……」 〈蠕動〉《ぜんどう》する腸壁の動きが、薄い肉壁を通して伝わってくる。背後から挿入している分、角度が上擦ってゆくのだ。 きつい刺激に、もちろん彼女は抵抗など見せない。よがり狂う声をメロディックに朗々と聞かせてくれる。 「私たち、こ、こんなに……深く〈繋〉《つな》がって……っ、んくぅうううっ」 途切れ途切れだが、彼女の想いは伝わってくる。なぜなら、俺にとってもそれは同じことであったからだ。 何度、死地へと共に向かっただろう。背中合わせで互いに生を委ねる。それはただ性行為に及ぶよりも、深淵を覗くような交わり方をすることであり―― 「たまらないっ。かたくて熱いのが、暴れてる……っ」 薄い唇から、〈淫靡〉《いんび》な〈台詞〉《せりふ》だけでなく、純化された想いまでもが混ぜ合わされて吐き出される。 〈淫猥〉《いんわい》な〈台詞〉《せりふ》を交わし、二人は殺し合うほどに愛し合い、そして生きようとしている。 「はぁあああん! あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……んくぅううぅっ!」 「ひぃいい……、はぁはぁ……っ。突かれるたびに、おかしくなるくらい、〈掻〉《か》き回されて……っ、かはあぁ……!」 互いに動きを合わせ、本格的にピストンを早めていく。 舌を絡めるよりも淫らに、膣の中で吸いつき合う。唾液は口の中で混ざるものだが、それよりも濃厚な蜜の組み合わせ。 密着させた身体の中心から、粘膜の〈灼〉《や》けるような匂いが〈燻〉《くすぶ》っている。性器を擦らせ〈繋〉《つな》げたまま尿道を徐々に駆けあがっていく精子、いよいよ絶頂が見えてきていた。 「いいっ、ゼファー。前も言ったろ? 迷わなくて、全然いいから」 「たっぷり……好きなだけ交尾を〈愉〉《たの》しみ、このまま〈膣内〉《なか》で出してくれ」 俺の思考を先取りしたように、彼女は優しく身をあずけ激しく喘ぎ続けた。 なればこそ、思いきり果ててやろうと律動して腰を深くうずめていった。 「ああ……っ! 嬉しい……、おまえのありったけを注いでくれ――」 子宮の入り口を押し付けるかの如く、ぐいぐいとあててくる。 膣の中で周りの肉は一斉に〈蠢〉《うごめ》き、潤滑液がしとどに濡らし、ペニスを滑らすようだ。 「おまえの種を、スペルマを――ゼファーという雄の証を、私の〈膣内〉《なか》へ……はぁああああぁっ!」 もはや最後が見えている。一心不乱に腰を突き上げ、激しい抽送による刺激に、身の毛もよだつほどだった。 打ち付けられるたび、〈臀部〉《でんぶ》の肉とぶつかる音が渇いて響く。 「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あァンっ! くぅううううう!」 「欲しい……! ひとしずくも溢れさせないで……っ」 気泡が混じり泡さえ立っている。ぬめり気のある密液が、〈壺〉《つぼ》から溢れてできてた。 〈滾〉《たぎ》る生殖欲求。甘く広がるペニスの〈痺〉《しび》れ。粘膜は限界まで擦れ合う。大粒の汗がしたたると、その熱量に匂いまでもが蒸発しているようである。 ふわぁっと〈淫靡〉《いんび》に散る、さながら熱い塊が下腹部へ堕ちてくると、彼女の雌の本能は、果実が破裂するかのように際限なく膨らんだ。 「かはぁああ、あっ、あああっ、あっあっあっあっあっあっ――!」 「ひゃあああっ……い、イクッ、イクぅうう!」 「はぁあぁンっっ! 出してぇえ――ッ!」 そして……彼女は俺に抱えられながら、ビクビクと意識が飛んだように体を震わせた。 「はぁ、あぁあああああ、ひゃあああぁ……はぁああああああんんっ!」 「ああぁあああぁぁあああんっ、イクぅううううううう――ッ!」 長丁場の愛撫のせいか、チトセは意識が飛んだように叫び声を上げる。同時に一気に収斂してゆく膣周りの血管。 〈嬌声〉《きょうせい》に塗り潰されまいとするように、射精は信じられないくらい長い。快楽の限界で意識は遠くなりかけたが、同時に噴射音が聞こえる気がした。 一度、二度と……ペニスをしゃくり上げながら種付けを堪能する。自分より強く美しい女を〈孕〉《はら》ませる背徳的な悦びが〈陰嚢〉《いんのう》から駆け上がり、チトセの子宮へ自身の種を泳がせていく。 「はぁはぁ……っ、ま、まだ、でてる……っ!」 本能が導くまま、できる限り〈孕〉《はら》ませるような勢いで、精液が噴出してゆくのだ。 じっとりと汗をかいた太ももが、俺の腰へうっとりと絡みつく。自ら子宮を雄へと捧げ、ぐりぐりと押し付けながら法悦の吐息を漏らしていた。 そのままじっくり、最後の一滴まで…… 最高の肉交合を、互いに蕩けながら堪能した…… 「ふふ、こんな無遠慮に撃ちこんで……お腹の中でおまえの精子が、元気よく泳いでるぞ」 「卵はどこだろうな? パパ」 胸にどきりとする発言をしながら、自ら下腹部をすりすりとさすっている。 それはプレッシャーをかけようとか既成事実を被せるような悪意ではなく、無邪気な少女が幸せのあまり悪戯っぽくしゃべっているようだった。 「ほら、舌出して……んっ、ちゅっ……はむっ」 未だ〈繋〉《つな》がったまま、ディープキスをねだってくる。 おかげで膣内のペニスがぴくんぴくんと反応し、尖端からは残りの汁がとろとろと垂れていってしまった。 「あんっ……、まだ、ちょっと出てる」 「ぐちゅぐちゅで、どろどろで……、ぬるぬるの〈膣内〉《なか》がたまらなくなるな」 こりこりの乳首を軽くつつき、後戯がてら、いちゃついているとチトセも嬉しそうに腰をくねらせて反応した。 「これからも好きなだけ抱いていいから……私ですぐにスッキリしろよ」 「……避妊なんて気にするな。いつもゼファーので、子宮をたぷたぷにしてやるから」 甘く〈痺〉《しび》れているのは腰だけでない。脳天まで、それから耳も。数分間という、気の遠くなるような間、脈打つ射精の音だけが脳内に響いていた。 今までに聞いた音の中で何よりも〈淫猥〉《いんわい》で、俺たちは熱にうなされたように身体の力をゆっくりと抜いてゆく。 やがて〈朦朧〉《もうろう》とした瞳から微笑んだ顔を見せてくれる。笑ってうなずくと、倒れかかるようにして俺と身体を重ね合わせて、〈呟〉《つぶや》いた。 「……ゼファー。私の命は、おまえのものだよ」 「二人で生きて、共に死のう――」 そんな言葉を聞いたとき、何も答えることができなかった。 いや、違う。チトセの言ったことは、俺たちにとって、どんなものよりも真実だ。 二人で抱き合いながら、もしかしたら同じ夢の中へ堕ちることさえできるかもしれないと思った……。  〈政府中央塔〉《セントラル》。アドラー帝国の政治と軍事の両面を司る中枢施設の集合体。  すなわち、頭脳にして心臓とも言うべき帝都の最重要拠点である。  文字通り、この場所こそが帝国を動かす始点にして極点。それゆえに、その守りは堅牢の一語に尽きると言えるだろう。  その母体となった建造物は旧暦においてモン・サン=ミシェルと呼ばれ、修道院でありながら中世においては軍事要塞として難攻不落を誇った歴史を持つ。  上に上にと増築を重ねた独特の威容は外部からの侵入に対して強固な構造を誇り、新西暦の現在においては旧日本軍施設と融合した歴史的背景により、更に分厚い鋼鉄の隔壁が幾重にも張り巡らされている。  その上、複雑な発展を経て入り組んだ内部区画と回廊は、さながら寄せ手を惑わす迷宮にも等しい。その構造は〈政府中央塔〉《セントラル》として生まれ変わった今も健在であり、いかな大軍であっても力押しで中心部を目指すことは決して出来ない。  外部からのあらゆる侵入をも退ける〈鉄〉《くろがね》の城。  それこそが〈政府中央塔〉《セントラル》の本質なのである。  ゆえに――  この日〈政府中央塔〉《セントラル》の一角に上がった突然の戦火は、外部からではなく〈内〉《 、》〈部〉《 、》〈で〉《 、》発生したものであったのだ。実にもって有りえぬことに。  そして入り乱れるのは、敵味方両軍により奏でられる軍靴と銃声の響き。  帝都の聖域は今、その歴史上初めての侵略にその身を震わせている。  不落の城塞に〈忽然〉《こつぜん》と出現した奇襲劇……その不条理は、血塗られた権謀術数の歴史が成し遂げたものだった。  賊軍の侵入経路の先は、帝都内のグランセニック商会邸近郊に通じていた。すなわちこれこそは、帝国に対する諜報活動の数々により処断された先代グランセニックの命により、密かに設営された秘密の軍事通路。  彼がこれをどう使用するつもりだったのかは、今とはなっては判らない。ただ、帝都の心臓に突き付けられた短剣とも言えるこの通路の“価値”はそれこそ天文学的な額に上るだろう。帝国にとっても、その敵国にとっても。  闇から闇に隠された危険な遺産は、処刑された先代の息子たるルシード・グランセニックが受け継いでいた。  そして、ルシードはその“価値”を初めて行使したのだ。友のため、そして彼と共に闘う者たちのために。  〈反動勢力〉《レジスタンス》と〈裁剣天秤〉《ライブラ》から成る合同戦力は、それを利用しての侵入を果たしたのである。  されど混戦の中、神の視点で事態を〈俯瞰〉《ふかん》する者がいたならば気付くだろう。  この襲撃は決して〈侵〉《 、》〈略〉《 、》を目的とした攻勢ではないと。  何故ならば、侵入者たちは中枢の攻略など目指してはいなかったから。戦略の類は端から欠如、無軌道なまま手当たり次第に、なるべく大きな守備兵力や破壊目標のみを優先して火の手を上げる。まるで〈殊更〉《ことさら》目立とうとするように。  つまり、絵に描いたような陽動作戦。兵法に通じた者でなくとも気付いてしまうような、あからさま過ぎる暴れ方。  策として比較的拙劣なものではあったが、しかしこの場に限りそれは有効に機能していた。  寄せ手の先頭に立つのは、アスラ・ザ・デッドエンド。  先に〈近衛白羊〉《アリエス》が敗北した市街戦でも猛威を振るった、恐るべき破格の〈単体戦力〉《ワンマンアーミー》である。  そんな〈戦力〉《もの》が前面に押し出されてくる以上、防衛側は陽動と判っていても無視などは出来ない。  理由はまずアスラの戦闘力自体がもたらす損害である。  ありえぬレベルで拡大する被害を阻止するためには、戦力の集中がどうしても不可欠になる。  そして、もう一つの理由もあった。  陽動に戦力を〈割〉《さ》き、本丸たる総統府の防衛を空けても問題ない確たる理由が。  それこそは言うまでもなく……この〈政府中央棟〉《セントラル》〈最〉《 、》〈大〉《 、》〈の〉《 、》〈防〉《 、》〈衛〉《 、》〈戦〉《 、》〈力〉《 、》が、そこに存在するからに他ならない。  クリストファー・ヴァルゼライド。アドラー帝国最高指導者にして最大戦力。  〈政府中央塔〉《セントラル》に拡大する混乱は、彼がいるここ総統府議事堂にも伝わってきていた。  純粋な侵入者の戦力的脅威だけではなく……何よりも、この場所だけは軍勢をもって攻められることなどあるまいという予断が守備軍にはあったと言える。 「〈狼狽〉《うろた》えるな」  しかし、その混乱も只一言で霧消した。絶対的な信頼と畏敬が、男の言葉に超重の質量を与えていたから。  そう、彼さえいれば――と、その存在を仰ぎ見た誰もが一瞬にして思い出すのだ。英雄ある限り、我が帝国は不滅だと。 「〈政府中央塔〉《セントラル》内の全将兵に命ず。全力をもって賊軍の排除に当たれ。俺の護衛などは無用だ」  その命令により、居並ぶ将官たちへ鋼の闘志が装填された。そして戦意は伝播する。将校から下士官へ。下士官から兵卒へと。  ヴァルゼライド総統さえ健在であるならば、祖国の敗北だけは絶対にない。ならば、後顧の憂いなく闘って散ろうではないか――とさえ一瞬にして覚悟させるほどに。  影響力による感化という、優れた指導者の持つ恐ろしさが最大限に機能する。共にあることを、そして同じような存在であることを〈望〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》魔力は、臆病者さえ勇者に変える。  〈怯懦〉《きょうだ》を焼き尽くす熱狂に駆られた兵たちは、指揮官たちに率いられ続々と総統府を出撃していった。  ゆえに、これで―― 「お膳立ては整えた」  孤影のみを残した議事堂に、英雄の〈寂声〉《さびごえ》が重々しく響いた。 「出てくるがいい」  静寂に向けられた呼びかけに応え……別間に続く扉が開く。  そして、その奥から靴音と共に一人の男を吐き出した。 「ああ―― 久しぶりだな、クリス」  アルバート・ロデオン──ヴァルゼライドと向かい合ったその眼差しは、国家指導者に対する〈反動勢力〉《レジスタンス》首魁のものではなかった。  そこに漂うのは、共有した時の永さと、もはや壊れて戻らぬ絆の〈残滓〉《ざんし》。 「再会の〈挨拶〉《あいさつ》は無用だ。〈久闊〉《きゅうかつ》を〈叙〉《じょ》するつもりはない」 「奇遇だな、俺もさ。   俺はおまえに、どうしても言いたかったことがあるんだよ」  裏街の吹き溜まりから始まった宿縁が今、ここに二人の男を〈邂逅〉《かいこう》させた。  ただ彼らを、〈相応〉《ふさわ》しき決着へと導くためだけに。  長年の腐れ縁と友情に、決着を付けさせるために。  出逢いは、ほんのつまらない〈諍〉《いさか》いだった。  と言うよりも、一方的にこちらが巻き込んだだけだったのだが。  何せ〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》は、相当な変わり者だったから。自分のように生まれ育った〈貧民街〉《スラム》の流儀にも染まらず、ただ独り超然と己自身を貫いていた。  不良少年たちの長である自分の権力に媚びず、集団に属さぬことを卑下もしない……そんな孤高の〈佇〉《たたず》まいがどうしてか妬ましくて苛立ちを呼び、当時対立していた集団同士の喧嘩に巻き込んだ。  俺の子分になるか敵になるか決めろ。日和見は卑怯者と皆で呼んでやる。そんな一方的な通告を投げつけ、果たして決闘の当日……双方の集団が向かい合う中、あいつはふらりと現れた。  そして現れるなり、なんと〈両〉《 、》〈方〉《 、》ともを敵に回して闘い始めたのだ。こちらの仲間を一人殴り倒したと思えば、すかさず敵の手勢を一人叩きのめし。  十対十の決闘は、二十対一の大乱闘へと様変わりした。何もかもが規格外で滅茶苦茶な大暴れの末……最後には遂に力尽きて倒れたあいつと、自分だけを残して壊滅した双方グループの姿だけが残された。  そしてあいつは、涼しい顔で自分に言ってのけた。子分にも敵にもなるつもりはない。卑怯者にされるのも真っ平だ。  もとい、両グループの対立自体が自分にとって過ちに見える。ならばどちらも、自らの意思で叩き伏せなければならない。  そう──“おまえ達は間違いだ”なんて、堂々と。  馬鹿みたいに真っ直ぐな眼差しで、言い放ちやがった。  格の違いをこれ以上もなく見せつけられ、兜を脱いで素直になった。ずっとこの凄い奴と〈友達〉《ダチ》になりたかったのだと、自分の気持ちに気付いたから。  それからは気が付けばいつも一緒にいて、軍に入隊したのも同時だった。  けれど……ここままずっと続いていくと思っていた二人の道は、いつの間にか行き違っていた。  あいつは自分を置き去りに独りだけで進んでいき、終いには英雄なんて訳のわからないものになってしまう。  だから―― 「皮肉なもんだな。今度は逆に、おまえが俺を巻き込んだ」  友情も絆も遥か〈過去〉《とおく》に離れていった〈現在〉《いま》。  アルバートは、かつて友と呼び合った男にそう〈言〉《ご》ちる。 「巻き込んだ、か……慮外なことを」 「判っているさ。俺が勝手に首を突っ込んだだけなんだと、おまえはそう言うんだろう?   だが、あえてこう言わせてもらうぜ。この国に生きている以上、おまえのやろうとしていることに無関係でいられる人間なんて、ただの一人もいないんだってな」 「今のクリストファー・ヴァルゼライドは、それだけの〈巨大〉《でか》さを持っているってことだ……分かるか? もうあの頃のままじゃいられねえ。   帝国に生きる人間全ての運命を、貴賎問わず平等に一つの未来絵図に運び去るだけの引力。それがたとえ、破滅の地獄であったとしてもおまえは諸共引き摺っちまう」  自分がそうであったように、と続けてアルバートは〈呟〉《つぶや》いた。  引力は質量に比例する。英雄ヴァルゼライドという巨星は今、その存在が生む途方もなく膨大なカリスマを発しているのだと。  そして巨大になり過ぎた星はやがて自壊し、全ての光を呑み込み自らも消え去るだろう。 「戦勝に次ぐ戦勝、拡大し続ける領土、天井知らずの経済需要……急速すぎる繁栄の光、その影でおまえは何をやろうとしている?」  そんな不吉な連想もまた、時代の光に隠された暗黒面の存在を感じさせてやまない。だからこそ、アルバートはそう問わずにいられなかった。 「匂うんだよ。〈深謀双児〉《ジェミニ》で培った俺の〈嗅覚〉《はな》にな。   この急激な〈国外〉《そと》への膨張政策は、〈国内〉《うちがわ》で企む何かを隠蔽するためのものだと」  ランスローの例を見るまでもなく、帝国内には他国が送り込んだ多数の密偵や間諜が〈跋扈〉《ばっこ》している。  それらの目を欺き逸らすための、過激なまでの対外侵略に次ぐ侵略なのではないのかと問いかけ──果たして。 「その通りだ」  ヴァルゼライドは、指摘を否定することなく首肯した。 「裏を見通すおまえの才は、俺が誰よりも良く知っている。ゆえこの期に及んで誤魔化しなど一切せんよ」  そして――と付け加えるように。 「ただし、決して止まりもせんがな。俺は〈第二太陽〉《アマテラス》を地に降ろし、この手に掴むと決めている」  遂に、あからさまに言い放った。世人に秘めたるその真意……英雄の〈裏側〉《はらわた》を。 「〈第二太陽〉《アマテラス》を……降ろす?   おいおい、大言壮語が過ぎるだろ。おまえは何を言っているんだ……?」  全く要領を得ないというアルバートの反応は、ごく当然のものではあったろう。〈第二太陽〉《アマテラス》とは天空の擬似恒星とも言われているが、次元の穴から注ぐ光の点でしかないという言説も根強いのだから。  その真偽がいずれにしろ、飛行手段も持たぬ現人類の手が届くような存在ではない。 「あの光の奥には千年前に地上から消えた神国、大和が今も栄えている。  高位次元、別の世界、向こう側と言うべきか……そのようなこの世の果てで技術遺産の根源と共に存在しているというわけだ」  絶句するアルバートを置いて、ヴァルゼライドはなお平然と言を継いだ。 「俺はそれを〈簒奪〉《さんだつ》し、〈星辰体〉《アストラル》の制御技術を手に入れ独占する。  全ては我らが帝国のために。 然る後、千年の繁栄を全ての〈臣民〉《たみ》に約束しよう」  クリストファー・ヴァルゼライド以外の口から発せられたならば、虚妄の戯言でしかない天上へと挑む宣言。  その内容はアルバートの理解を遥かに絶していたが……〈英雄〉《かれ》ならぬ常人としての本能は、そこに横たわる不穏な気配を敏感に感じ取っていた。 「なんつうか、まったく…… 一体全体どうやってとか、手段についてはもう問わねえよ。おまえに限って、確証もなく動くはずがないからな。   だが、どうしてそうまで大きな野望に手を出した? 今の技術で十分とは言わないが、それでもおまえは黄金時代を築き上げて──」 「ならば逆に問おう。おまえはいつまで、〈星辰体〉《アストラル》が存在すると思っている?  発生源たる〈第二太陽〉《アマテラス》には〈大和〉《カミ》の意志が宿っている。ならつまり、新西暦の今後とは連中の胸先三寸ということだ」 「変わらぬ明日が訪れると、ならばどうして信じられる? 今のこの瞬間にも、あの穴は閉塞するかもしれんというのに」  かつての旧暦には影も形も存在しなかったという偏在物質、世界を変えた未知の粒子──〈星辰体〉《アストラル》。  〈星辰奏者〉《エスペラント》という形でそれを軍事技術に応用したことが、帝国今日の躍進となり得たのは確かな事実だが、もしも化石燃料のように採取限界が存在したのなら。  あるいは前触れもなく存在自体が消え去ってしまったとしたなら……人類が今生きているこの新世界は、そんな何もかもが危うい砂上の楼閣に過ぎないのかもしれないと、ヴァルゼライドは語っていた。  その可能性を否定することはきっと誰にもできない。この新西暦は千年ほど続いているが、それでも未来がどうなるか……それを予言することだけはどこの誰にもできないのだ。  英雄の危惧通り、〈第二太陽〉《アマテラス》が何かのきっかけ一つで消えてしまっても不思議ではなく、そうなれば帝国のみならず〈星辰体〉《アストラル》ありきの環境で繁栄してきたこの世界は再び崩壊してしまうだろう。  もし仮に、日本という国が明日にも地力で帰って来たら?  第二の太陽などを止め、この地球上に復活したら?  それだけで新西暦という世界は致命的な亀裂を刻むことになる。  輝かしい未来を得るためには、確固たる保証が必要だ。  ではもはや、太陽そのものを手に入れるしかないだろう。無茶でも何でもやるしかないとヴァルゼライドは雄々しく宣する。 「ならば是非はなく、誰かがやらねばならんことだ。ゆえに俺は〈奴〉《 、》へと挑む。  軍事帝国アドラーとは、〈政府中央塔〉《セントラル》という胎内に悪魔を〈孕〉《はら》んで誕生した国家なのだよ。旧暦の存在に、始まりから掌握されているわけだ。  仮に俺が実行しなくとも、アレの眼に適う資格者が現れたなら別の代行が立つだけだ。 そのため更に何十年、何百年を費やそうが、奴は決して諦めたりはしないだろう」  〈粛々〉《しゅくしゅく》と語る宿命という言葉に、アルバートの秘めた本音が刺激される。  奴──というのが元凶だということしか分からないが、ともかく。 「待てよ……それなら、今おまえ個人がやる理由だってないはずだろう。  どうしてわざわざ、好き好んでそんな役回りを引き受けなきゃならねえんだよ?」  そして何故俺に一言でも――という〈忸怩〉《じくじ》たる思いを辛うじて噛み殺し、〈袂〉《たもと》を分かった旧友に〈吼〉《ほ》えた。 「その俺ではない〈誰〉《 、》〈か〉《 、》が、奴に屈して国を売り渡したとしたら?  帝国に眠る〈大和〉《カミ》の遺産――魔星の祖たるカグツチにとって、眼中にあるのは宗主の命令ただ一つ。それ以外の命運などアレは決して〈斟酌〉《しんしゃく》しない。  帝国民の安寧など、端から慮外の事項であろうよ。ゆえに目的を達した後、〈神星〉《カグツチ》と矛を交え、打ち破り、〈民の安寧〉《それ》を勝ち取る存在が絶対的に必要なのだ」  言い放たれたのは、〈眩〉《まばゆ》いまでに雄々しい決意と自己犠牲を惜しまぬ高潔。  それは余りに英雄的であり、傑物で無ければ選べない道であったから…… 「それが……そんなものが、おまえの宿命だとでも言うのかよッ!」  アルバートは、憤りよりも悲しみが勝る怒号を言い放っていた。 「――その通りだ。   なぁ、アル。おまえはそれが、俺以外の人間に可能と思うか?  俺たちが生まれ育った故国を守り、魔星どもから勝ち取り未来へ〈繋〉《つな》ぐことが。〈自惚〉《うぬぼ》れではなく、俺以外の誰なら託せる?」  しかし叩きつけた激情も、鋼と化した精神を揺るがすことは一切叶わず……行き場を失くした悲痛の念は、アルバートの胸中をなお〈掻〉《か》きむしる。 「……いるかよ。そんな化け物じみた“勝利”を背負える奴は、おまえの他に一人だって知りやしねえ」  だが〈滾〉《たぎ》る憤激を抑えつけ、静かにヴァルゼライドの顔を見据えて。 「だがそれを、なぜ自分だけでやることを選んだ。答えろ、クリス。  おまえにとって他人は……俺はッ、志を共にする価値さえもない奴だったと言うのかよ?」  あらゆる説得を諦めて、だがこれだけはという譲れぬ意思を込めてそう問うた。  事の善悪や是非ではなく、一人の友としての裸の言葉で。  答えの〈如何〉《いかん》によっては許さないと、静かな声に込められた無言の気迫が告げている。 「仕方なかろう、集団や組織というものに純粋さを期待できん」  告げられたのは、一国の指導者として限りなく矛盾するような言葉。 「多勢で目的を共有化することにより生まれる利点もあるだろう。ただしそれは責任者が他の誰かとの替えが利く場合、試行錯誤による失敗が許される場合だけだ。 この戦いには、ただの一度の敗北も許されない」 「ゆえに俺は他力を断った。人間が集まれば、その数だけの誤差が生まれる。それこそ、集団というものが内包した決して避けられぬ宿命であるのだから」  集団の規模が大きくなるほど、初期の目的や理念は様々な要素によって歪められていく。それは怠惰や腐敗といった悪意だけでなく、情熱や善意に端を発するものも少なくない。  そう、正義でさえ肥大化した組織は狂う。善意でさえ、歯車はやがて噛みあわなくなってしまうのだ。  優秀な人材が〈集〉《つど》う組織ほど積極的な意見交換や意思疎通が活発となり、その分だけ“誤差”も大きくなる――つまり。 「目的の純粋性を最大限に保つならば、単独でいることこそ最適となる。何とも虚しい真実だがな」  帝国を繁栄に導くために悪魔と契約し、民の安寧を勝ち取るためにその悪魔との対決に臨む。それは正しく誰にも替えの利かない、ただ一度の敗北さえ許されぬ大業であるのに違いない。  現実に当てはめてみて、そんな重圧を組織の頭割りで引き受けるなど不可能だろう。責任を分散したとしても、それゆえに土壇場の押し付け合いで意思の統一さえ困難になる。  ゆえに単独。ヴァルゼライド個人がその肩に帝国の未来そのものを背負うしかない。  その覚悟はあまりに悲壮で……そして、憧れるほどに〈眩〉《まぶ》しかったがために痛い。 「この馬鹿野郎……おまえは、なんで、そんなに」  拳を固く握っていた。すべての想いをそこへ込めるように。  込み上げる熱で滲む視界。英雄の姿が、かつての薄汚れた少年の像と重なった。 「〈餓鬼〉《ガキ》の頃のまんまなんだよ……」  純粋さを貫くために孤立を選ぶ生き方は、まるで子供の頃と変わらない。  ゆえに言葉ではもうこの男を動かせないのだと、心の底から思ったのあd。 「ああ、もう何も言わねえよ。 その代わり、叩きのめしてでも止めてやる」  よってアルバートはかつての友へ向け、大股で近づき歩を詰めていく。 「やめろ、アル。〈星辰奏者〉《エスペラント》としての戦闘能力は、過去に奪ってあるはずだ。  その身体で〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》俺の〈星光〉《ほし》をその身に受ければどうなるか──」  鬼気迫るアルバートの姿に、鋼鉄の男は表情を変えずに警告する。 「上等だ、クリス。馬鹿をやらかすダチ一人、止められねえ命なら……   今すぐてめえにくれてやらぁッ!」  しかし、激情の足は止まらない。軍服の襟首を掴み上げに腕を伸ばす。  そこには死をも恐れぬ決意が確かにあり、それと相対するヴァルゼライド自身こそが最大の敬意を表したからこそ。 「――――カ、ッ……」  彼はその決意を、全力をもって打ち砕いた。  鳴り響く音と共に鞘の内へ帰還したのは、その役目を終えた音速の一刀。  ヴァルゼライドは斬り捨てた。ただ一人の親友を。  過去数多、己の前に立ち塞がってきた敵と何一つ区別を付けることなく。 「さらばだ、〈親友〉《アル》。 俺は、おまえの屍を越えていく」  あらゆる力感を失い崩れ落ちる耳元で、〈箴言〉《しんげん》のように重々しい手向けが響く。  同時に英雄の過去が一つ、音を立てて地に伏していた。  ――よって、アルバートの物語はここで終わり。 「後は……頼んだぞ」  消え入るように〈呟〉《つぶや》かれた最後の言葉。それと同時に、反対側の扉が彼の後を引き継ぐように開かれる。  そこに立つのは、〈貴種〉《アマツ》の血を継ぐ二人の帝国軍人。 「その頼み、しかと聞いた――アルバート殿」  チトセ・朧・アマツは、〈粛〉《しず》かな怒りを〈隻眼〉《せきがん》に宿し。 「――閣下。今のお話は、事実なのですか……?」  アオイ・漣・アマツは、呆然と〈佇〉《たたず》むがまま英雄に問う。  二人の問いかけに、やはり男は〈怯〉《ひる》まないまま〈頷〉《うなず》きを一つ返すだけ。 「全て事実だ。友との決別に誓い、虚偽ではないと断言しよう。   〈遡〉《さかのぼ》れば五年前、大虐殺の〈引鉄〉《ひきがね》を引いた元凶も、この俺だ。権力層を刷新せんがため、二体の魔星を解き放った結果があれだ。  被害の規模こそ不本意だが、あれは紛れもなく俺の過失。拭えぬ罪業として引き受けよう。 その上で、俺は止まらん。〈第二太陽〉《アマテラス》をこの地へ降ろし、来たる聖戦に勝利する」  〈傲然〉《ごうぜん》とヴァルゼライドは言い放った。  〈糊塗〉《こと》、懐柔、自己正当化など、それら一切の不純物とは何処までも無縁。  友を手にかけた無道さえ、決意の焔にくべる燃料へと変えたかのごとく揺るがない。  クリストファー・ヴァルゼライドは自らの行為を決して恥じない。たとえ何万、何億もの犠牲者を出そうとも。否むしろ、その死の数だけ〈理想〉《じごく》への歩みは加速する。成さねばならぬと誓いは高まる。  もはや善悪の秤で測れぬ未踏の荒野に、英雄の行軍は至っていた。  だからこそ、自らが放った問いに追い詰められるのはアオイ自身だ。〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》、という正誤を超えた判断が厳然と突きつけられる。  〈硝子〉《ガラス》の奥でさまよう瞳は、伏しながら辛く苦しげに揺れ続ける。  チトセとヴァルゼライドの間を、何度も何度も視線が行き交う。  忠と義。情と理。恐らくは、彼女の人生における最大の葛藤に〈懊悩〉《おうのう》しること、しばし。 「――お供いたします、閣下」  傍らのチトセを背中に置き去り、英雄の元へと歩みを進めた。  その瞳は罪に震え、唇は背徳に〈戦慄〉《わなな》いている。けれど、後ろだけはただの一度も振り返らない。  それを見送る〈裁剣女神〉《アストレア》の頬に浮かんだものは……しかし、憤慨でも侮蔑でもなかった。 「それでいい。胸を張れ、アオイ」  どうしてか満足気な微笑が浮かぶ。  義のために英雄さえも討つと定めた女傑は、私情に走った従姉妹を認めたのだ。  何故ならそこに、五年前の自分が奮えなかった勇気をこそ〈垣間〉《かいま》見たから。 一人の女として彼女だけはその決断を容認する。 「それが〈本〉《 、》〈当〉《 、》の望みであるなら止めはしない。なんせ男の趣味に関しては、同じ穴の〈狢〉《むじな》だからなぁ……私たちは。   ただし――」  だが一瞬にして気配は豹変。  言葉を放った刹那、その眼が怨敵を射るのと同じ苛烈さを帯びた。 「済まんが、私はその男を討つためにここに来たのだ。そこについては真実を知った今でも委細何の変わりもない。   ゆえに――邪魔をするなら、何人だろうが、諸共斬り捨てるのみと知れッ!」  宣誓と共に抜き放たれたのは、森羅万象に裁きを下す星女神の宝刀。 「来るがいい、〈裁剣〉《アストレア》。その挑戦を受諾しよう。  だがこれも言っておこう―─“勝つ”のは、俺だと」  かくて、女傑と英雄は激突する。  共に人の身に留まりながら、いずれも星の域へと迫る力を秘めた傑物。  〈星辰奏者〉《エスペラント》最高峰を決する闘いが、今ここに始まろうとしていた。 〈政府中央塔〉《セントラル》の深奥を目指して、ひた走る。 かつて知ったる内部構造に関する知識を総動員しながら、目指す彼方から届く気配だけを頼りに駆ける。 伝説の〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の黄泉下りが如く、引き裂かれた相手の呼び声が俺を招く。ゆえにヴェンデッタは、間違いなくこの先にいると確信できた。 そして、脳裏を絶え間なく過ぎるのは別の女の面影。 「チトセは今頃……」 俺は〈政府中央塔〉《セントラル》侵入後、ヴァルゼライドのいる総統府を目指したチトセとは別れて行動していた。 その理由は、言うまでもなくヴェンデッタの奪回。蒼の魔星に連れられ何処へともなく消えたという、俺の切札にして家族の一人を探し出すためだ。 ミリィから伝えられたその事態により、結果として当面の〈対〉《 、》〈戦〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》は自動的に決まったと言える。つまり俺がウラヌス、チトセがヴァルゼライドという具合に。 より強敵を押し付けるような形になってしまったが、それはチトセ自身の強い希望でもあった。〈逸〉《はや》る心を抑えるように、両足へ更なる力を送り出す。 壁越しに遠くから伝わるのは、アスラらが起こした陽動の混乱。その裏を〈衝〉《つ》き、鋼の回廊を深く深くと駆け抜ける。だが…… 「なんだ、ここは……?」 一帯の景観は、いつの間にか異質な様相へと変化していた。 明らかに人跡の気配が無く、寒々しいまでの静寂と虚無が支配している。その空気は正しくこの世ならぬ黄泉の異界、そして墓地をも思わせ…… 「そうか……ここが、あいつの元〈根倉〉《ねぐら》かよ」 鋼鉄の柩に眠りし〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。あいつの生まれた場所がこの先にあると、否応もなく予感してしまう。 早鳴る鼓動に導かれるように、更に薄闇の奥へと踏み出す俺の前に―― 「ようこそ、ゼファー・コールレイン。お待ちしておりました」 〈忽然〉《こつぜん》と現れ……いや、そこに待ち構えていたのは軍服姿の帝国軍人だった。 それも、中将の階級章を付けた上級将校。そんなお偉いさんが、こんな場所で俺を名指しで呼んでいる。 「私はシン・ランスロー、〈元〉《 、》第三諜報〈深謀双児〉《ジェミニ》の長です。どうぞ、以後お見知りおきを」 すると、この怪しげな優男がおっちゃんの後釜。そして同時に、俺たちを裏切った敵ということになる……が、だ。 「元、ねえ……えらく代替わりが早いじゃねえか、諜報機関の重役は」 俺が引っかかった一点の疑問。それに答えたのは、この男ランスローではなかった。 「その真のお姿こそは、カンタベリー聖教皇国のランスロー枢機卿。祖国のため、敵国内にて尽力されてきた信仰篤きお方」 「そして、我ら二人が〈大和〉《カミ》と共にお仕えする主です」 その背後から影のように進み出た双子の姉妹、ティナとティセの二人だった。改めて対峙するとその雰囲気は、あのレストランで俺が知っているのとは完全な別人だ。 「つまり、聖教国の間者って訳か」 しかし、その行動理由は想像が付かなかった。あの国と五年前の魔星による虐殺は一切の関係がないのは、俺も既に知っているというのに。 「そいつが、この俺に何の用があると?」 いずれにしろ、この男には決して油断はできない。 軍部に潜り込むだけでなく、国政を左右する位置にまで台頭するなど工作員として並大抵の手腕じゃないだろう。何を企んでいるかは計り知れなかった。 「この先は少々入り組んでいて、迷いやすくなっていましてね。あなたを我らが主の御許へ……そして、あなたの伴侶たる〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の元へ導く道案内という所です」 「まあ、ただの使い走りですよ。ご覧の通り我々は〈星辰奏者〉《エスペラント》ですらない。警戒されても困ります」 「は、戦闘力と危険性はイコールじゃねえだろうが」 ともあれ、断ったとしても闇雲に〈彷徨〉《さまよ》う公算が高い。柔和な紳士面のまま抜け抜けとそう言う辺りこいつは油断ならないが……仕方ない。 「判った。なら、案内してもらおうか」 今は相手の出方を〈伺〉《うかが》うしかない。俺は〈頷〉《うなず》き、三人に先導され更なる奥へと進んでいく。 そして―――― 俺は、〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》へ到達したのだ。 熱のない蒼光が〈仄〉《ほの》かに照らす、〈硝子〉《ガラス》と鋼鉄で組み上げられた大伽藍に。 見たこともない巨大機械が唸りを上げて稼働を続け、これが旧暦に葬られた遺跡でないことを黙示している。 「主よ、客人をお連れいたしました」 ランスローが慇懃に一礼を向けた相手。それは……中央に望む、巨大な円筒形の〈硝子〉《ガラス》槽。 淡く光る液体で満たされたその中に漂う〈も〉《 、》〈の〉《 、》が、強烈な意思を〈湛〉《たた》えた瞳で俺を見据える。 「ああ──よく来たな、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」 「完成とまではいかないが、相応の仕上がりではあるか。ならば〈寿〉《ことほ》ぐとしよう、運命に紛れ込んだおまえという琴弾きを」 そして、悠然と口を開いた。 そいつは、どう見ても死骸としか思えぬ外見をしていた。四肢に五臓、生存のために必要な身体部位を〈悉〉《ことごと》く欠損し……だが信じがたいことに、圧倒的な生命力と共に健在している。 「おまえが、魔星たちの……」 この異様なまでに巨大な気配は、紛れもなく〈人造惑星〉《プラネテス》が放つ特有のものだ。 そして、この男こそが地上の〈惑星〉《ほし》たちの王であることを示す理由は、すぐ傍にいた。 「そうだ。この方こそが我らの王、天津の使徒。〈大和〉《カミ》が唯一その手で組んだ始源至高の〈人造惑星〉《プラネテス》」 その〈膝下〉《しっか》に騎士のごとく侍る、蒼の鉄姫の〈恭〉《うやうや》しい態度が証明していた。 「その名を〈迦具土神〉《カグツチ》壱型。ヴァルゼライドの宿敵にして彼を動かした張本人よ」 「〈第二太陽〉《アマテラス》を地上に降ろすため、全ての計画を遂行する代行者として──あの英雄を選出したの」 そして、この場の魔星はもう一体。しかし、こちらは恭順ではなく明確に対立を示した形で〈硝子〉《ガラス》の中の魔星――カグツチと向き合っている。 言い放ったヴェンデッタの言葉の意味を、俺は理解しかねていた。そんな〈常人〉《おれ》の反応も想定していたのか、カグツチがそれを継いで語り始める。 「なに、簡単なことだ。〈第二太陽〉《アマテラス》とは次元の彼方に封印された、我が故郷の在り処でもあるのだよ」 そして奴が〈滔々〉《とうとう》と開陳していったのは、正に想像を絶した世界の真実に他ならなかった。 「千年の昔、世界の命運を決する大いなる戦があった。第五次世界大戦の最終面において引き起こされた〈大破壊〉《カタストロフ》により、己を創造した日本は国土ごと地上から消滅したのだ」 「――ということになっているが、真実は少々異なっている。彼らは次元間上の特異点となり、別位相の高次元空間にて物理から解き放たれた現象と化したのだ」 「世界の覇者たる力を誇りながら、歯がゆくも姿形を失って異界に飛んだその辛酸……拭わねばならんだろう。この地に残された己の使命は、ならばそれこそ一つのみ」 「次元という天の岩戸を開き〈第二太陽〉《アマテラス》を再びこの地に降誕させる。すなわち、我が創造主たる神国日本をこの世に召喚せしめるのだよ。新たな世界の統治者として、な」 「元より己は、そのためにこそ造られたゆえ」 創造時に与えられたその使命を完遂することこそが、生きる理由の真実すべて。そのために必要となる手段を培養液の中で演算し、計画を熟考し、代行者たるべき資質を有した傑物の出現を監視していた。 傷つき砕けたその身を癒やす揺籃たるこの〈政府中央塔〉《セントラル》の誕生以来、幾星霜……地上から遠く、この鋼と〈硝子〉《ガラス》の伽藍から虎視眈々と。 「それなら、ヴァルゼライドは単なる走狗。真の黒幕は最初からおまえということになるわけか?」 当然そうと考えた俺の言葉に……カグツチは何故か愉快げに口の端を歪め、ウラヌスは仮面の下で憤怒を燃やした。 「……否だ。そう甘んじておれば良いものを」 「そう甘く見てやるな。あれはまさしく破格だぞ?奴は己の宿敵であり、〈不遜〉《ふそん》にも〈第二太陽〉《アマテラス》を勝ち取るとさえ公言している」 「我ら総員を、どうやら単騎で滅ぼすらしい。どうだ? 実に英雄らしいと思わんか?」 怒気も露わな〈氷河姫〉《ピリオド》に対して、羊水の中で気泡と共に声を発する〈躰〉《からだ》なき星の王。その声はなぜか、確かな喜悦に満ちていた 自分の宿敵と言いながら、まるでその在り方を素晴らしいと褒め称えているかのようだ。少なくとも〈嘲〉《あざけ》りは髪の毛一本ほども見られない、カグツチはヴァルゼライドを評価している。 「あの男こそ待ち望んだ合わせ鏡よ。その気概、その大望、揺るがぬ個我、すべてが己に勝るとも劣らない」 「立場が逆なら、我らは互いに同じことをやっていただろう。ゆえに奴が自国の民に向けている救済への猛き熱情、大いに理解できるのだよ」 「まあ、ならばこそ負ける訳には行かぬのだがな。己にも成し遂げたい〈大望〉《ゆめ》がある」 「奴が背負う〈帝国〉《アドラー》を、帰還せし〈日本〉《やまと》に捧げる第一の供物としよう。それが己なりの、奴に対する敬意である」 そう言い放った語気には、走狗に対する侮りも怨敵に対する憎悪も〈微塵〉《みじん》とてない。正しく好敵手という言葉こそが〈相応〉《ふさわ》しい、苛烈ではあるが純粋な闘志だけが感じられた。 「そして舞台は整い、役者も揃った。この〈死想恋歌〉《エウリュディケ》――〈月天女〉《アルテミス》-〈No.β〉《ベータ》を手始めとして」 「……何だと?」 不意に呼ばれたヴェンデッタの別名に心が跳ねる。あいつが何のために創造されたのか、今こそ黒幕は語ろうとしている。 「この〈月天女〉《アルテミス》こそ、我らが擁する〈天宇受売命〉《アメノウズメ》。天岩戸から〈第二太陽〉《アマテラス》を導き降ろす力を有する星の巫女に他ならん」 〈星辰体〉《アストラル》そのものへの直接干渉力――ヴェンデッタが持つ〈人造惑星〉《プラネテス》としての固有能力は、最初から〈堕天〉《それ》を目的として備わっていた、と? 「永き眠りから目覚めずにいたその存在も、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の登場で無事起動を果たした」 「そして万端整えられたこの空間と自動的に同調し、堕天の力はとうに発動しているはずだったが――」 「どうやら彼女、自身の意思で〈堕天〉《それ》を妨げている様子なのですよ。というより、あと一押しの何かが足らない」 「困ったことです。これでは主の願いが成就されない」 「と言うと、あんたはそれを望んでいるのか?」 俺の問いに対し、知れたことをとばかりに笑みを浮かべるランスロー。なんともまぁ、胡散臭い笑みである。 「ええ、いかにもその通りですが?」 「その結果、どれだけの地獄が誕生するか判っているの?」 「はい。それはもう、五年前の比ではない魔星と英雄の激突が演じられることでしょう。あの大虐殺が霞むほど膨大に増加する犠牲者、崩壊する街並……帝都そのものすら消し飛ぶかもしれない」 「この国を襲う未曾有の危難、想像するだに心が痛みますとも。ええ、〈他〉《 、》〈国〉《 、》〈民〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》」 ヴェンデッタの冷たい視線を物ともせずに、皇国の使徒はそう告げた。 そう、帝国が壊滅しようが対岸の火事。むしろ好都合でさえあるのだろう身も蓋もない〈自国〉《みうち》中心の思考だが、責める気は特に起きない。この男は自らの立場に忠実であるだけだ。 「同じ〈大和〉《カミ》を奉ずるとは言え反吐が出る。自ら勝ち取りもせず栄光に集るというか、蛆虫が」 「はい。我々は〈残〉《 、》〈り〉《 、》〈物〉《 、》を授かるだけで結構です。偉大なる神の国への忠誠の証として、ね」 「という訳でゼファーさん。あなたから彼女を説得してくれませんかね、あるいは共に天津へ〈希〉《こいねが》うのも構わない。なにより聖戦が発動すれば、主がヴァルゼライド総統をそのまま〈斃〉《たお》してくれますよ?」 「あなたも〈裁剣女神〉《アストレア》殿も、あの英雄閣下が邪魔なのでしょう? 渡りに船ではありませんか」 一切の私欲を隠しもしない提案に、不思議と嫌悪は感じなかった。むしろ、奇妙な馴染みやすささえ込み上げてくる。 迷う必要などあるまいと、心から熱く説いてくるランスロー。利害得失で言うならば、なるほど理に反してはいない。 そして恐らく、両者の勝敗が逆であったとしてもこの男には構わないのだろう。その時は、何事も無かったかのようにヴァルゼライドに接近し、同じく勝者の栄光に浴するだけの話。 それは一つの完成された処世術であり、安寧を求めずにいられぬ誰もが持つ心理への模範解答だ。この俺もまた、そんなものを目指していたからよく判る。 だからこそ、まあここはコレだな。 「話はよーく理解した。でまぁ、真っ平御免だ」 俺はそう答えていた。掴み取りにいったのは、明らかに〈し〉《 、》〈ん〉《 、》〈ど〉《 、》〈い〉《 、》方の選択肢。 あの襲撃の夜、根性なしの〈悪友〉《ルシード》が選んでみせたそのように巨大な者の手を振り払う。それにそもそも、ここまで来て恭順の意志を見せるつもりもない。 悪いね、相方が凄い女なんだ。あいつに俺はぞっこんでね、恥じないためにも〈頷〉《うなず》くことは決してない。 〈お〉《 、》〈や〉《 、》〈お〉《 、》〈や〉《 、》という感じで、ランスローが肩を〈竦〉《すく》めた―― 瞬間。 「あぐぅッ」 「ぎぁ――ッ」 主の仕草に気配を溶かし、〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく発動したのは双子の奇襲。それを共に一太刀で撃墜した。 殺してはいないが、肉筋はきっちり断ってある。こいつらは〈星辰奏者〉《エスペラント》じゃないから、この場において余計な戦闘力はほぼ奪ったと見ていいだろう。 交渉決裂と見るや〈無呼吸〉《ノータイム》で仕掛けてきたのは見事だったが、この空間に存在する人物の挙動は全て、張り巡らせた〈反響振〉《ソナー》で五感以上に掌握している。 「相棒に顔向け出来なくなっちまうんでな。そうなるのが、今は死ぬより怖いんだ」 「それに、ヴァルゼライドなら今頃あいつが片を付けているだろうさ。それ位は平気でやってのける奴だと信じている」 口にしたのは決定的な宣戦布告だった。ランスローは興味を失ったように〈頭〉《かぶり》を振り、ウラヌスは鉄仮面に殺気を〈漲〉《みなぎ》らせている。 けれど総じて知ったことか。呆れているのはこっちもなんだよ。 「どいつもこいつも、千年前の滅んだ国にいつまで振り回されてやがる……」 使命だ信仰だ利益だと、運命、聖戦──揃いも揃って血迷いやがって。 そんなことが、おまえらの本当にやりたいことか? いよいよもって救えないし、時代遅れで邪魔過ぎる。裏を知ってまず感じたのは“呆れ”だよ。 だから── 「おまえは潰す」 こいつは要らない。そう冷徹に排除対象へと確定した、カグツチに向けて宣誓する。 「旧世界の遺物が……〈人間〉《おれたち》の生きる〈新世界〉《いま》に、しゃしゃり出てくるんじゃねえッ」 「下郎がッ──」 刃を〈翳〉《かざ》して〈吼〉《ほ》えたと同時、真っ先に動いたのは、予測通りウラヌスだった。 だが次の瞬間、予測外から俺の視線上に割り込んだのは―― 「ここは任せて。あなたは行きなさい、彼女の元へ」 「ヴェンデッタ――」 〈華奢〉《きゃしゃ》な肢体は、しかい存在自体が魔星に対する絶対の守り。事実ウラヌスは、そこに鉄壁の長城が出現したかのように足を止めていた。 「友達を、家族を大事になさい」 「それから、いつまでも笑顔でいてくれたら嬉しいわ」 そして、振り向いた笑顔と共に向けられたのは……この状況にはあまりに不似合いな、〈日常〉《くらし》の香り漂う言葉。 まるで晴れた日の午後、陽だまりの下で―― 俺よりも背の高い誰かに、いつか言われたような―― 「〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》、は――」 「振り返らないで。黄泉から聴こえる歌声に、背を引かれず走りなさい」 「あなたは、過去を振り切る〈銀狼〉《リュカオン》でしょう? もう決して、悲しく謳う吟遊詩人じゃないのだから……」 不意に気配を変えた厳しい声で、過去へと錯綜した意識が完全に切り替わった。 「――ああッ!」 ──そして、魔星の聖域へと背を向けて走り出した。 あいつを一人残すことに対して、不思議と不安は欠片もなかった。 信じられる、任せられる、自分でも驚くほどの〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈大〉《 、》〈丈〉《 、》〈夫〉《 、》〈だ〉《 、》という確信が胸に湧き上がっている。だからこそ、ありがとうと思いながら俺はチトセのもとへ駆けていく。 愛する者と〈斃〉《たお》すべき者が共に待つ、俺たち人間の世界へと走るのだ。  そして、〈銀狼〉《リュカオン》が去った星の伽藍。  中央にて向かい合うのは、半壊した神星と冥府に残りし〈死想恋歌〉《エウリュディケ》。  蒼の鉄姫と皇国の使者たちは、それぞれ従者と端役としての立場をわきまえ声もなく〈佇立〉《ちょりつ》している。 「奇妙なものだ。運命の渦中にいるはずが、どうも未だ実感が薄い。  まるで、ここならぬ何処かで行く末が決まったかのように。この浮ついた感覚は何なのだろうな、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》」  そう感慨を漏らしたのは、培養液に漂うカグツチだった。 「それは不思議なことじゃないわ。事実、運命はこの場所以外で決まっていたもの。未来は生者が作る絵図……   私たちは所詮、空に輝くだけの星座。世の行く末を決めるのは、いつだって現実に血を流す地上の星……人の業であるはずよ。   あなたがどれだけ強大な存在であろうとも、外の世界の代行者を必要としたように」  ヴェンデッタは、薄く微笑みそう答える。 「なるほど……どうやら、勝負は盤外に委ねられたという訳か」 「ええ。私のゼファーと、あなたの選んだヴァルゼライドとで」 「ならば問題になるまい。勝負など端からとうに見えている。勝つのは奴だ、なぜなら己の宿敵ゆえに」 「身内〈贔屓〉《びいき》はお互い様ね。こちらは無論、ゼファーに賭けるわ」  宿敵と、奇縁の相手。二体の魔星は等しく余裕の笑みと共に、それぞれの半身に行く末を委ねる。  あたかも、人が夜空の星に未来を問うのと同じように。 「そこまでの情を抱くなら、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》が敗北したとて本望だろう。彼が敗れた〈暁〉《あかつき》には、おまえと血肉を〈繋〉《つな》げた上で装置として番わせよう」 「まあ嬉しい――なんてことを言うと思って? 生憎ね、彼の〈比翼〉《あいて》は私じゃないの。 選んだ〈彼女〉《ひと》と幸せになって欲しい、心の底から願っているわ」 「その愛も良し。信頼も良し。ならば後は結末を見届けよう」  そして、賽は投げられた。もはや魔星が運命に介入する余地はない。  世界の行く末を決めるのは人間であり、互いが選んだ相手に対して有り金すべてを賭けたのだった。  勝って、ゼファー。あなたの運命を切り〈拓〉《ひら》くのよ。  お願いね、チトセ。あの子を希望へ導いて。  あの頃の〈私〉《 、》が、いつかはと夢見ていた通りにきっと……  冥界の死女にして月の女神である少女は、その願いを言葉にせず胸の内で独り想った。  剣閃が、音速を超えて唸り飛ぶ。  斬撃が、空を引き裂き〈震撼〉《しんかん》する。  剣理と剣理。戦術と戦術。気迫と気迫。  その全てが三つ巴の車輪となって回転し、交錯と激突を繰り返す。  クリストファー・ヴァルゼライドとチトセ・朧・アマツ。  帝国最高峰の双璧を成す〈星辰奏者〉《エスペラント》が刃を交わし始めてから、わずかに数分。戦場となる議事堂内は、既に爆撃を受けたにも等しい損壊状況を呈している。  刃が激突する毎に生じる衝撃の余波は、大気そのものの安定さえ許さない。死闘の目撃者であるアオイは、同じ〈星辰奏者〉《エスペラント》の身をもってしても安全を確保するので手一杯だった。  介入するなど全くの論外。あれは既に別次元、彼方に仰ぎ見るだけの闘いだ。 「閣下……!」  一合ごとに崩壊していく周囲とは対照的に、両雄の身は全くの健在。共に〈纏〉《まと》う黒の軍装には、かすり傷一つ付いてはいない。  すなわちそれは、必殺の攻撃を繰り出し合いながらも神業に等しい防御を並立させているということ。いかに敵を倒し己のみは生存するかという極限の〈背理〉《パラドックス》を、二人の戦闘者は苦もなく実行していた。  等しく剣を命と頼み、その技量も甲乙付けがたい両者ではある。  だがその闘法には、同じ剣士型の〈星辰奏者〉《エスペラント》であっても明確な差異が存在した。  双方を柔剛に当てはめてみるならば、剛は正しくヴァルゼライド。  〈発動値〉《ドライブ》移行時の出力の高さは〈裁剣女神〉《アストレア》を凌駕し、何者の追随をも許さない。加えて“集束性”に一点特化した〈星辰光〉《アステリズム》の性質は、相手の防御ごと打ち抜く問答無用の貫通性と突破力を誇る。  すなわちヴァルゼライドの繰り出す攻撃とは、そのすべてが一撃必殺として機能する。  かと言って力押しの猪武者では断じてなく、技巧においても隔絶している。  中でも恐るべきは背負った七本の太刀を同時に駆使する、戦場で鍛え上げた変幻自在の抜刀術。立ち合った相手は、まるで七人の敵から切り刻まれるような恐怖さえ錯覚するという。  一人の兵士、一人の人間として積んだ膨大な戦闘経験と戦闘技術。それは一点特化型の非才を補って余りある、どんな局面でも自分を裏切らぬ確かな“強さ”そのものだ。  〈能力〉《ステータス》頼みの〈天〉《 、》〈才〉《 、》〈風〉《 、》〈情〉《 、》など歯牙にも掛けぬ程に。  対するチトセは、比べるならば柔に当たる。  身体能力や攻撃力の上限こそ一歩譲るものの、彼女の真価は六属性のすべてにおいて突出した〈星辰光〉《アステリズム》。  それこそが万能型の強み……一切の弱点がなく、多種多様な闘い方が可能になるということである。  固有能力である限定気象操作、その暴風と迅雷の猛威もさることながら、恐るべきはその応用性だ。  広範囲の自然現象を巻き起こし、天災規模にまで拡大させる“干渉性”と“拡散性”。  達人の域にある剣技と精妙に組み合わせることで、千変万化の戦術展開を生む“操縦性”。そして隙を生まぬ継続発動を支える“維持性”――これら四属性に関しては、軒なみすべて最高級。  のみならず“集束性”と“付属性”も平均値以上であるため、非力さもない。  正に隙なし、総合的な能力値ではヴァルゼライドを遥かに引き離していた。  すなわちそれは、〈星辰体〉《アストラル》への感応性が生来秀でた〈貴種〉《アマツ》の遺伝子が成しうるもの。天与の血統が生み出した至高の〈駿馬〉《サラブレッド》たる証。  チトセ・朧・アマツこそは、〈星辰奏者〉《エスペラント》の歴史が輩出した一つの完成形と言ってもいいだろう。  そうした、溢れんばかりに高い素養を自覚もするがゆえに…… 「これほど、とは――な」  チトセは内心舌を巻き、脅威を感じずにはいられなかった。  ならば、そんな〈才能〉《じぶん》と互角以上に渡り合う、この男は一体何なのか――と。  ヴァルゼライドに貴種の〈天稟〉《てんぴん》はない。ならばこの高みに至った要素とは修練以外に存在せず、それも想像を遥かに絶した密度と量を重ねなければ到達不可能。  そしてそんな行為を可能にした情熱と意志力もまた、常人の域からは隔絶している。  己を高めるという行為は、人間として理屈抜きに正しい。だが正しいがゆえに苦痛を伴う。そして苦痛を忌避することこそ、あらゆる生物が持つ根源的な本能である。  つまり〈限界以上の努力〉《そんなこと》を継続できるのは、人間としては正しくとも異常の極致。魂という人間固有の原動力なくしては不可能な所業だろう。それも、生物としての本能さえ圧殺できる狂気の桁が。  にも関わらず、ヴァルゼライドはそんな道理など知らぬとばかり呼吸同然の常態と化している。まるで、〈努力〉《それ》を止めれば死んでしまうとでも言うように。  太陽のごとく、爆発的に視界を染め上げる黄金光。英雄の放つその一閃が一合ごとに肉迫してくるような感覚は、果たして事実か錯覚か。  どちらにしても、今チトセは精神という局面において紛れもなくヴァルゼライドに押されている。  必要以上に受けてしまう〈重圧〉《プレッシャー》は、皮肉にも自分自身の〈実力〉《つよさ》を知っているからこそ倍増していた。  それは、チトセがごく真っ当な人間であるがゆえに……克己や努力というものに、問答無用の畏敬を感じるからこそ嵌った結果だと言える。  才能という足場があって到達した者より、〈才能〉《それ》無くして昇り詰めた者の方が尊いというのは、誰もが感じる普遍の価値観だろう。  そして、チトセは自分が前者で相手が後者であることを悟って〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  物語において、努力が才能を打ち破る展開は好まれやすい。  つまり光を放つのだ。輝きがあるからこそ、どうしても目を奪われるし敬意を相手の中に生む。他者を賞賛できるまっとうな人間であればあるほど、その〈煌〉《きら》めきに魅了されるだろう。  ゆえに理屈抜きの感動が、攻撃以上にチトセを〈蝕〉《むしば》む。  英雄の雄々しさへ無意識のまま囚われ―― 「く――――ぁッ」  今もまた〈躱〉《かわ》すのが半呼吸遅れ、心臓が凍え〈軋〉《きし》みを上げる。  そう、何よりもこれこそが危うい。  敵の闘いぶりに心掴まれ見惚れかけるなど、戦闘者として断じてあってはならないことだというのに。 「……これこそが、英雄たるゆえんか」  単なる暴力や数値の集合ではない。一挙手一投足に顕在する意思力と存在の強度が、闘う相手の心さえ圧倒しねじ伏せにかかる。  これは如何なる怪物でも持つことは能わぬ、人だけに備わる輝きの強さだ。  英雄が〈傲然〉《ごうぜん》と前進する。完成された理に基づく、流麗かつ豪壮な攻撃が〈波濤〉《はとう》となって襲い来る。光の奔流が視界を染め上げ、その輝きで意識が強奪されていく。  ――正しき者の放つ光に、追い詰められていく。  これほどまでに己を築き貫く者の成すことを、自分は凌駕せねばならないのだ。それには、果たしてどれだけ途方もない覚悟が必要になるというのだろうか。  チトセは今、その覚悟の量こそを試されているのだと実感する。  だから、そう──彼女は束の間思い出す。 「──今から大切なことを伝える。忘れるな、チトセ。  人には必ず、己より正当で、〈且〉《か》つ強大な正義を相手に立ち向かわねばならぬ〈瞬間〉《とき》が訪れる」  記憶の底から、再びチトセに語りかける死者の声。 「おまえがその時、おまえだけの〈正義〉《わがまま》を掴めるよう……地獄の淵で祈っておるぞ」  そう、今が〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》。記憶が力を奮い立たせる。 「はい」  覚悟はとうに出来ていた。愛と右眼を失った〈五年前〉《あのとき》から。  かつて、〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》に〈拘〉《こだわ》ったがゆえに敗北を喫した経験が……そして今〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》望んだものを手にした自信が、女神の剣に力を呼ぶ。 「不出来ゆえに回り道をし、手痛い代償も払うことになりましたが……その言葉、今こそ力と貰い受けます」  そして、己よりも〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》敵に向き直る。 「この一念を、それでも――」  もはや理解は〈了〉《お》えていた。  この世を生きるのに正しい解などはない。何を解とし生きるかなのだと。 「貫くのみとオォッ!!」  一瞬で蘇生した気迫が、光に〈眩〉《くら》み萎縮する神経系を活性化させた。  転じたのは守勢一辺倒からの脱出劇。加速させるのは手数と精度。一撃を〈捌〉《さば》きながらも次撃の芽を確実に摘み取り、生じた間隙に己の逆襲を捩じ込んでいく。  英雄の後光を決意の〈銀閃〉《つるぎ》が切り裂き散らす。直線の剣撃に蛇腹の変幻を織り交ぜ、巧みに攻め手を読ませない。  攻防を占める比率が、〈僅〉《わず》かながらも明確に変わった。攻を支配しつつあった剛を柔が次第次第に相殺し、拮抗に近い水域にまで押し戻していく。 「解せんな」  その逆襲の気迫を受け止め、ヴァルゼライドはこの闘いで初めて声を発した。 「おまえが俺に立ち向かう理由はなんだ、〈裁きの女神〉《アストレア》。そこがどうにも納得できん。 俺はおまえを見込んでいたし、今でもそれはまったく変わらん。その高潔さ、そして軍人としての高い能力、どれも違わず評価している。  目的のために己の手を汚す決意もまた素晴らしい。国を動かす上で避けては通れぬ胆力を、若くしておまえは備えていた。だからこそ五年前、手を組んだのではなかったか?」  拮抗を間に挟んでは幾度も変転する攻守。  流れの中で、互いの刃が再度激突。〈鍔迫〉《つばぜ》り合いのまま噛み合い止まった。 「ゆえに……先ほど語った真実を聞いた上で、共にカグツチを〈斃〉《たお》すとでも言うのだろうと考えていた。帝国を守るため、事実過去ならそうしていたはず」 「なのに何故、こうして貴君と斬り結んでいるのかが……不可解だと? 理解できない?」  ヴァルゼライドの二刀と、チトセの持つ一刀と鞘とが〈軋〉《きし》みを漏らす。  互角の〈鍔迫〉《つばぜ》り合いの中、白刃の向こうに互いの瞳を覗き込む英雄と星女神。 「その通りだ」  だがやはり、〈膂力〉《りょりょく》に勝るのはヴァルゼライド。梃子を利した双刃が、緩慢だが確実な剛力を込めて押し切りに掛かる。  秒刻みに落ちる断頭台の如く、柔肌へ迫る鋼刃は……しかし、より強い圧力によって押し戻されようとしていた。チトセ自身の両腕は封じられたままで。  女神を守るこの不可視の剛力こそは、風神の息吹による盾だった。  高密度の噴射気流が〈彼我〉《ひが》の間に流入し膨張。空間自体の許容量をも超え、万力の〈鍔迫〉《つばぜ》りを物理的に後退させる。  力の拮抗が崩れた瞬間、閃いたのは追撃の一太刀――しかしチトセ必殺の逆襲は、ヴァルゼライドの残像のみを両断した。しかしすかさず、移動地点を予測し狙い撃ったのは何者も逃れえぬ雷神の〈咆哮〉《ほうこう》。  放たれた閃撃の鉄槌は過たず、英雄を影も残さず呑み込む。 「答えよ、朧」  されどそれさえ、この有様。〈両〉《 、》〈断〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈稲〉《 、》〈妻〉《 、》の向こうから鋼鉄の重量で響く声。  超音速の一刀は〈雷霆〉《らいてい》そのものを斬ったのではない。己の周囲の空間に、その剣威で真空の断層を発生させたのだ。 「何故、俺と戦う? おまえが掲げる我が聖戦以上の義とは、いったい何だ?」 「義などではないよ、総統」  その威容こそは、正に雷をも従属させる〈天霆〉《ケラウノス》。全能の〈最高神〉《ゼウス》の生き写しとも見紛う英雄からの糾問に一歩も退かず、〈傲然〉《ごうぜん》とチトセは胸を張った。 「簡単なことさ。すべては、ゼファー・コールレインと共に在るため……それだけだよ」 「――何?」  さしもの不動の英雄が、その瞬間だけは完全に虚を〈衝〉《つ》かれていた。  政治力学的な対抗理念でも人道的な見地からの糾弾でもなく、強敵の口から宣せられたのは人物の名のみであったから。 「貴君は聖戦のために、私からあの男を奪う。運命はヴェンデッタと彼をくっつける……ああ嫌だな、ゆえに敵だよ。我慢できん。  買い被りは申し訳ないが、真実たったのそれだけさ。そして、たったそれだけを奪わせないと決めている」 「ゼファーと共に生きるためなら、私はすべてを敵に回そう。たとえ帝国が、〈一族〉《アマツ》が、英雄が挑む相手であろうとも。   もう二度と心を偽ることはない。正しさに、この〈決意〉《おろかさ》で立ち向かうッ」  敢然と言い放ったチトセの姿に、自らを恥じる所は一厘もない。  だからこそヴァルゼライドも、先の気迫と合わせて侮ることなく吟味している。これは紛れもなく〈裁剣女神〉《アストレア》の本音であり地金。見極めるべき要をそこに見出していたから。 「よもや、男のため――か」  そして厳かに口を開く。 「慮外であったが是非は問うまい。評価すべきは、それをもって己の芯と定めた覚悟の強さにあるだろう。 だがしかし、その上で言おう。俺は負けん。  我が前進を阻むには〈些〉《いささ》かも能わんよ」 「いや、貴君も私と同じだよ。ヴァルゼライド総統」 「貴君らが聖戦と呼ぶ行いも、所詮は己が奉じる概念のためではないか。  貴君は帝国のためと言い、カグツチとやらは〈大和〉《カミ》のためと言う。突き詰めれば、どちらも祖国を栄えさせたいという我欲……つまり何処までも私闘の域に過ぎんだろうよ、笑わせる」 「第一、犠牲となる〈無辜〉《むこ》の民草を、心から悼みながらも死すべき者と切り捨てられるのは何故だ? それが強さ? 馬鹿を言え。  普遍の道義を超えた個人の情熱があるからだろう。悪を為しても叶えたい願いがあるだけ、貴君も私とまったく同じだ。  人が何かを勝ち取るための闘いは、突き詰めればすべてが〈私〉《わたくし》に属する。普遍の大義など、最初から何処にもないのだから」  〈反駁〉《はんばく》の言葉を切ったチトセが、もう一度ヴァルゼライドを見る。  その目には、しかし敵意のみならず不思議な共感の色があった。  だからこそ自分たちは、血涙を流しても闘うべき意味があるのだろうと思う。 「――かもしれぬな」  静かに首肯するヴァルゼライド。その〈双眸〉《そうぼう》にも何かを理解した光が浮かぶ。 「認めよう。事態はもはや動機や道理の〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》を問う局面ではない、か。   競うべきは、もはや覚悟と力量のみ――ならば雄々しく貫こう」  厳かな〈呟〉《つぶや》きの後ヴァルゼライドの気配、否……存在が急速に変革を開始する。 「ならばここに終わらせよう。さらばだ、〈裁剣〉《アストレア》。我が同胞。   創生せよ、天に描いた星辰を──我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」  そして――紡がれゆくのは、最大惑星の光を人の身に降臨させる〈詠唱〉《ランゲージ》。  ついに英雄の全霊が、魔星ではなく人類種へ向け解放される。 「巨神が担う覇者の王冠。太古の秩序が暴虐ならば、その圧制を我らは認めず是正しよう。  勝利の光で天地を照らせ。清浄たる王位と共に、新たな希望が訪れる」  それは、至高。  それは、最強。  それは、究極。  それ以外に、形容すべき言葉無し。 「百の腕持つ番人よ、汝の鎖を解き放とう。鍛冶司る〈独眼〉《ひとつめ》よ、我が手に炎を宿すがいい。 大地を、宇宙を、混沌を──偉大な雷火で焼き尽くさん」  〈謳〉《うた》い上げるは全能の証明。我に能う敵なしと、〈傲岸〉《ごうがん》〈不遜〉《ふそん》にただ〈単騎〉《ひとり》。  全ての〈惑星〉《ほし》を凌駕せんと、王の宿命が発動する。  約束されし〈絶滅闘争〉《ティタノマキア》の覇者が、最後の勝利を掴むため今ここに起ち上がる。 「聖戦は此処に在り。さあ人々よ、この足跡へと続くのだ。約束された繁栄を新世界にて〈齎〉《もたら》そう」  そして男から生まれ出ずるのは、一片の闇をも許さぬ“光”だった。  世の絶望と悪を、己の敵を、余さずすべて焼き払う絶対の焔。  その名は―― 「〈超新星〉《Metalnova》──〈天霆の轟く地平に、闇は無く〉《    Gamma-ray Keraunos    》」  クリストファー・ヴァルゼライドの〈星辰光〉《アステリズム》たる、圧倒的な光子そのものが爆発的に膨れ上がった。  あの大虐殺の夜。絶望の渦中にいた人間たちが仰ぎ見た、救いの御柱たる黄金光。チトセ自身の記憶にも刻まれている伝説の輝きが……今、自らを滅ぼす破滅の魔光となって襲来する。 「来る――〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》が」  この目でしかと憶えている。マルス、ウラヌスの魔星二騎を撃破した極光の斬撃。その圧倒的な威力の程は。  のみならず、幾度、幾十度も残像を〈反芻〉《はんすう》し、〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》を打ち破るための攻略手段を〈研鑽〉《けんさん》してきた。  いつかこの日が……敵として光の英雄の前に立つ瞬間を想い描いてきたゆえに。  そして、今では具体的な勝算を持てるまでに至っていた。  〈星辰奏者〉《エスペラント》としてヴァルゼライドと並び立つ実力者であるがゆえに、斬撃の発動速度や射程距離、破壊力に至るまでも高い精度で解析済み。  無傷の勝利とは行かぬまでも、手負いを覚悟するなら己が一歩上回る自信さえある。  英雄の闇を知り、ヴァルゼライド個人への幻想を持たぬチトセゆえに至ることが出来た境地だと言えた。  そして、全てを呑み込むように極光斬は放たれた。  チトセは気流に乗せた超加速で自らをそこへと射出。こちらも紫電の威力を〈纏〉《まと》わせた一刀にて迎撃する。  極光の軌道を計算された角度と全力をもって受け流し、切り返しの刃で反撃を――と脳裏に閃く、コンマ数秒に圧縮された勝利への〈想定戦術〉《シミュレーション》をしたが、しかし。 「う――くぁぁぁッ!?」  一瞬で何もかもを放棄し、形振り構わず全力回避に移行した。  何故ならば衝突の刹那、〈星辰奏者〉《エスペラント》としての直感で理解してしまった。  〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》は、人が絶対に立ち向かってはならない輝きである。  直進する絶光は射線上から逃れたチトセを〈掠〉《かす》め、戦場を更に壊滅させる。 「ぐ、ゥゥ……ッ――この、苦痛はッ」  ほぼ回避したにも関わらず、恐るべき怪異がチトセの身を〈蹂躙〉《じゅうりん》していた。  ほんの〈僅〉《わず》かに、軍服の下の肉を裂いたに過ぎない刀傷……そこから内へと、〈激〉《 、》〈痛〉《 、》〈の〉《 、》〈光〉《 、》が浸透してくる。  ただ〈掠〉《かす》めただけの〈残滓〉《ざんし》であるのに、それは消えない。光は死なず、チトセの体内で泡のように弾け細胞の一つ一つを破壊していた。まるで全ての敵を滅ぼすまで、正義は不滅だと言うように。  明らかにただの熱エネルギーではない。この不滅の光はそれ自体が生き続け、主から離れても敵の体内で不滅の行軍を継続するのだ。  いわば光の猛毒。この死の輝きを前に、全ての命はその生存を許されない。  ほんの少量ですらこの威力。よってこれは…… 「まずい。もはや一撃たりとて――」  文字通りの必殺そのもの。直撃を喰らえばその時点で終わり、受け止めることも危険だと先の一閃に伴う衝撃波を体感して判った。  もしも受けた刃が破壊されたなら、待っているのは両断の運命とそれより恐ろしい輝きによる激痛死。 「察したか。これは旧世界の文明が生み出した死の光。  かつて破壊兵器として、全人類を七度〈鏖殺〉《おうさつ》し尽くせるだけの量が存在したという浄化の炎だ」  太陽のように〈燦〉《さん》と輝く二刀を携え、ヴァルゼライドが前進する。 「この輝きは、ただ爆発的に衝撃を発し焼き尽くすのみにあらず。残留し続け敵を〈蝕〉《むしば》む、ゆえにその名は〈放射性分裂光〉《ガンマレイ》。  物質を構成する最小の“核”が壊れる際に放出する皆殺しの光……カグツチ〈曰〉《いわ》く、俺の〈星辰光〉《アステリズム》はそれと非常に酷似した性質を備えているらしい。  ゆえに〈天神の雷霆〉《ケラウノス》。我が光は、万象すべてを滅亡させる」  かつて魔星たちを〈屠〉《ほふ》った英雄の極光。その真価を体感したチトセに、今ある確信が生まれていた。 「この力――〈星辰奏者〉《エスペラント》の域を超えている。  ならば貴様も、魔星の眷属とでもいうのか?」  〈星辰奏者〉《エスペラント》が誕生する以前から、魔星は存在していたのでは――ゼファーに漏らした疑念と推測は、もしもそうなら当を得ている。〈第一号〉《ヴァルゼライド》がその力を元に生み出されたとしたのならば。  英雄はチトセの問いかけに対し、首を横へ小さく振る。 「いいや、俺は飽くまで人間。奴らのように一度死んで蘇った身ではない。  ただし魔星に通ずる力のみは、強化措置によりこの身に蔵してはいるがな。然るべき代償と共に。 その意味で、連中の眷属と言う指摘も誤りではない。不完全にして異端の〈人造惑星〉《プラネテス》、ゼウス-〈No.γ〉《ガンマ》……それが俺の異名だ」  〈星辰奏者〉《にんげん》でありながら魔星。そんな規格外の存在であることを明かしつつ、ヴァルゼライドは呼吸を巧みに盗んでの縮地で間合いを踏破していた。  かくて奏でられるは、殲滅へと至る葬送曲。  極光の斬撃が射出され、〈躱〉《かわ》す間もなくチトセを襲う。  宇宙的距離の尾を曳く大彗星……そんなものさえ思わせる、途方もない重質量を〈纏〉《まと》った輝きがチトセの存在へ殺到した。 「ぐゥッ――」  退けば刹那に両断される。ゆえに踏み止まって受けるしか道はなかった。  受けの刃ごと叩き折られかねない、その大威力。閃光はそれ自体が発せられる瞬間、高熱と共に爆発的な衝撃波をも発していた。いわば命中ごとに炸裂する爆轟を至近距離で受けるようなもの。  正に燃え盛る太陽そのものを叩きつけるかの斬撃に、だがチトセの一刀は持ち堪えていた。  それは〈僥倖〉《ぎょうこう》ではなく達人の妙技。斬撃を受け〈捌〉《さば》く瞬間にだけ、絶妙の機で蛇腹の連接を解除し衝撃を分散させたのだ。  だが一撃ならばまだしも、ヴァルゼライドにはその先がある。 「アッ、グ――うぅッ」  抜き放たれるは、二の太刀そして三の太刀。超音速の抜刀術により繰り出される斬撃は、恐るべき変化を〈孕〉《はら》んだ太刀筋でチトセの身を襲い続ける。 「くッ……止められらんッ」  たった二本の腕から放たれるとは思えぬほど、英雄の手数は圧倒的。  毛筋ほどの傷さえ致命に〈繋〉《つな》がる死の極光を、チトセは必死に〈捌〉《さば》き続ける。  だが、頼みの剣に早くも亀裂が生じつつあった。ヴァルゼライドが巧妙に衝突の機をずらし、〈捌〉《さば》きで逃がせる衝撃を奪っているのだ。  変転する七つの太刀筋は止まらない。反撃の機が掴めない。速、速、弱、強、遅、速、強――と、機を読ませぬ幻惑さえ織り交ぜて、チトセを敗死の断崖へと追い詰めていく。 「押し切られ、る――」  遂に〈怒涛〉《どとう》の連撃で〈捌〉《さば》きの軸が崩された。体勢が乱れ、そこを縦横十文字に光斬が襲う。  奇跡に近い神業の〈捌〉《さば》きで二刀ともに受け流したものの、そこまでがチトセの限界だった。詰将棋の如く追い込まれたその先に、三の太刀が襲い来る。 「――――――ッ」  視界を染め上げる極光。チトセは最後まで運命を投げず、唯一反応できる眼球だけで立ち向かい……  〈彼我〉《ひが》の間に飛び込んだ銀の閃光が、死の極光を彼方へ弾き逸らすのを見た。  刃を手にした乱入者を、双剣を構え直したヴァルゼライドが〈傲然〉《ごうぜん》と見下ろす。 「──来たか、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》」  鋼の〈一瞥〉《いちべつ》を真正面から受け止めて、ゼファー・コールレインは一歩も退かず返す。 「──いいや、俺をもうその名で呼ぶな。  俺は〈人狼〉《リュカオン》。〈光〉《おまえ》を喰らう、いと罪深き〈魔獣〉《けだもの》だよ」  そして、雄々しくそう宣言した。  大切な誰かとの約束を果たすかのように、決然と。 そして、駆けつけた俺は英雄の前に立ちはだかった。 五年前のあの夜、鼠のように〈怯〉《おび》え震えながら見上げた輝ける威容……刻み込まれた〈記憶〉《トラウマ》は、覆せない恐怖となって俺を襲う。 だが、俺はもう〈恐怖〉《そいつ》には屈しない。そう固く誓ったんだよ、ここは絶対引きやしないッ。 「ゼファー……!」 俺の名を呼び、すかさず隣に並び立ったチトセのために。そして俺をこの場に送り出してくれたヴェンデッタ、帰る場所を守ってくれているミリィのためにも負けられない。 「なるほど、女神の愛に応えたか。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》に背を向けて」 それはなるほど予定外だったとでも言いたげに、俺を見据えるヴァルゼライド。 「だが、俺の前に現れた以上は同じことだ。おまえを勝ち取り確保して、再び黄泉へと連れ戻そう。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》には琴弾きが必要だからな」 「恨んでいい、ゼファー・コールレイン。〈か〉《 、》〈つ〉《 、》〈て〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈掛〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》〈少〉《 、》〈女〉《 、》と共に無念を背負って俺は征く。そして必ず、犯した犠牲を礎に民へ繁栄をもたらさん」 「涙を明日へ変えるのだ」 ヴァルゼライドは逃げない。かつて一度とて逃亡を選んだことも、これから先もそうすることはないだろう。勝利を手にする苦痛からも、同時に生まれる敗者の遺恨からも、そして手を汚した罪からさえも。 暗がりを逃げ続けた俺とは正反対、光の下を歩き続けた希望を背負う英雄譚の主人公だ。俺のような〈塵屑〉《ごみくず》一人の命さえ、無駄にはしないと誓ってくれる。 だからこそ…… 「黙れよ、〈似非〉《えせ》が」 ふざけるなと込み上げた怒りが、〈反駁〉《はんばく》する気概を俺に注いだ。 「礎だと? 嫌なこった。顔も知らない誰かのために、犠牲になってやる気なんかこれっぽっちもないんだよ」 だから、そんなものを背負うなどと〈宣〉《のたま》えるヴァルゼライドの精神が一切何も理解できず……判らないがゆえに、俺とは無縁と切り捨てる。 「俺はこいつと、過去を振り切り生きていく。その邪魔をする奴は誰だろうと殺すだけだ」 「大義、使命、尊き者の責務なんて、知ったことか。取るに足らんと笑うがいいぜ」 そう言い放った決意の〈啖呵〉《たんか》ではあったのだが、しかし。 「いいや、もはや〈理〉《 、》〈由〉《 、》を否定はしない。貫くならば、叩き付けてくるがいい」 意に反して、認めるような言葉を返すヴァルゼライド。だがその視線はどうしてか、俺ではなくチトセの方へ注がれているような気もした。 「もはや焦点は善悪を超越した、意志の強さを見せてみろ」 「ならばこそ、俺は負けん。〈双肩〉《かた》に負いし重みに賭けて、敗れることは許されんのだ」 そして、聖人めかした厳粛ささえ漂う誓いを口にした。 だが、蒼い鋼の眼光には慈悲も容赦も存在しない。宣言通りこの場でチトセを確実に排し、捕らえた俺をヴェンデッタ共々〈第二太陽〉《アマテラス》降ろしの道具にするつもりなのは明白だ。 させるかよ。それはチトセを守るという決意の他に……自ら黄泉へと残ったヴェンデッタの想いも大切にしたいから。 そして、選んだチトセと添い遂げること。それこそ、気が付けばいつも俺を守ってくれていた〈彼〉《 、》〈女〉《 、》への報いになるような気分が何故か消えず…… 「やるぞ、ゼファー」 しかし、〈胡乱〉《うろん》な感傷は現実を前に霧散する。俺の死角をカバーするように前方へ進み出たチトセは、抜刀の構えで臨戦態勢に移行した。 この位置取りこそは、かつて常勝を築き上げた〈女神〉《チトセ》と〈人狼〉《おれ》の鉄壁の連携。天秤時代必殺を誇ったその陣を、ヴァルゼライドにぶつけるという意図に他ならなかった。 だが、違うぜ相棒。 「チトセ、奴には俺が正面からぶつかる」 更に前へと進み出た俺は、逆にチトセを背後に庇い立つ。そしてヴァルゼライドと向き合った。 「本来その役の方が〈相応〉《ふさわ》しいんだ。一点突破、俺が奴を突き崩す」 そして間違いなく、代償として奴の一撃を喰らうだろう。攻めに集中した上で全てを防御しきれるだけの万能性は、俺にはない。だが上等だと思っていた。 「そこを仕留める手管の数は〈万能型〉《おまえ》が上だからな。任せたぜ」 傷つくことは嫌だという、染みついた性根は変わらない。けれど今の俺は、俺自身が最も嫌がることを実行できる。 おまえのおかげだ、それを今から証明するよ。 「まったく、おまえはこの局面で……」 「下腹をきゅんとさせるなよ。いいぞ、そういう顔が見たかったッ」 横顔に注がれる〈隻眼〉《せきがん》の、〈眩〉《まぶ》しい憧憬を感じ取る。圧倒的な恐怖に立ち向かう気力をそこから受け取り、俺は刃を右手に構えた。 「──行くぞォ、〈相棒〉《アストレア》!」 「──応ともッ、〈相棒〉《リュカオン》!」 向かう先には伝説の英雄。だが二人ならば負けはしないと闘志を奮い、〈詠唱〉《ランゲージ》を起動する。 「創生せよ、天に描いた星辰を――我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」 星の流れが加速する。〈平均値〉《アベレージ》から〈発動値〉《ドライブ》にギアを上げると同時、俺は地を蹴ってヴァルゼライドへ肉迫した。 だが一瞬で間合いに飛び込んできた俺の急加速も、英雄の錯視を奪うには至らない。奴は確実に俺の姿を捉え、強烈な光の斬撃を目標地点に叩き込んでくる。 見てからでは間に合わないその反応回避を、俺は発動前の察知によって実現する。〈反響振〉《ソナー》を極限まで駆使し、ヴァルゼライドの骨格が動く音で斬撃の軌道を予測した。 「〈増幅振〉《ハーモニクス》・〈全力発動〉《フルドライブ》ッ」 そして一刀を見事回避。時間差で迫る二刀の阻止をも、俺は荒業によって成し遂げる。 踏み下ろした震脚によって振動を伝播。いかに無敵を誇ろうとも決して離れられぬ地面という基盤を、奴の足下だけの超局地的地震で物理的に崩壊させる。 崩れた体勢から放たれた斬撃は、俺という的をあえなく外した。のみならず、ヴァルゼライドが依って立つ足場は床ごと宙空に失われている。 必然―― 「今だチトセ――ッ!」 飛翔跳躍によって空中へ自らを〈投〉《 、》〈げ〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》英雄は、回避不能の無防備となる。 そこを容赦なく飽和殲滅するのは、チトセが放つ真空〈鎌鼬〉《かまいたち》と雷撃投射。幾千の刃と化した〈螺旋〉《らせん》気流と万象砕く轟雷の二段構えによる、何者をも逃さぬ必滅の陣だ。 閉鎖空間に凝縮された超自然の暴威は、ヴァルゼライド目がけて直撃。肉片も残さず葬り去ったかに見えたが…… 「……まだだ、ゼファー。もう少しッ」 ああ、どうしようもなく判っている。 〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》一部隊を殲滅可能なこの程度で、〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》をどうにか出来るはずなんてないってことは。勝利の感慨など一瞬もなく、連携を成功させたと同時に俺は絶望していた。 雷撃と空刃に砕け散った膨大な瓦礫……空間を埋め尽くす粉塵の向こう、まず見えたのは〈切〉《 、》〈り〉《 、》〈抜〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈天〉《 、》〈井〉《 、》。 そして、数秒前まで天井だった瓦礫の雨―― 最後に、その上から落下してくるヴァルゼライドの健在な姿。 奴の三太刀目は外したのではない。的は、最初から俺ではなかったのだから。攻防の先を読み、追撃に対する盾とすべく予め天井を切り崩していたのだ。 頭上より天墜するのは死の閃光。大地砕く彗星の如く振り下ろされる剛剣の輝きに、俺は絶望そのものを見せられた。 「オ……オオオオォォッッ!!」 だが。〈絶望〉《それ》を乗り越えても掴みたい未来が、恐怖に硬直した五体を〈衝〉《つ》き動かす。 破滅の光に立ち向かい、浅手を受けながらも反撃を返したが〈掠〉《かす》めただけにも関わらず、燃やし溶かされるような凄まじい苦痛がそこから拡散する。 傷口とは一切関係ない筋肉繊維や神経までも、光輝く激痛が侵蝕してくるのが判った。 だが、それがどうした。〈躰〉《からだ》の芯まで崩れそうな痛みに喰い荒らされながら、それでも俺は止まらない。だって、ほら―― 「我が狼をやらせるか──ッ」 そんな風に自分も命懸けで、動きが落ちた俺の援護に入ってくれるチトセ。こいつに、無様な面など見せられないだろう。 必死の声を聞くだけで胸の中は熱くなり、この訳のわからない激痛さえもその瞬間遠ざかる。 「あいつの背は、俺が守る──ッ」 負けじと必死で叫び上げ、ヴァルゼライドの猛攻に食い下がり劣位のチトセを支援する。筋肉は断裂寸前の酷使に悲鳴を上げ、心臓はいつ破裂してもおかしくなかった。だが、それでも俺は止まらない。 「来るがいい」 「だが――“勝つ”のは俺だッ」 そんな奮戦を天晴見事と称揚しながら、しかし情無用に叩き潰す。全て矮小、脆弱、取るに足らんと〈撥〉《は》ね退けるのは、鉄壁不動の人間城。 ただ十全に能力を駆使するだけで、鋼の英傑は俺たち二人を圧倒する。 そして、そして、そして――そしてッ。 臨界点を超えて駆動する三者の意思と躍動が、歯車の如く噛み合わさった。 奇跡的に発生したのは、激浪の〈最中〉《さなか》に生じる凪にも似た瞬間の拮抗。 至近距離で網膜を〈灼〉《や》くのは黄金の極光。地上に顕現した太陽のように、熱く強く……そして何者の生存をも許さぬ絶滅の光。 俺はそこにこそ、クリストファー・ヴァルゼライドという男の本質を見出したように思えたから…… 「おまえは、異常だ。存在自体が歪んでいる」 闘う度に強くなる不敗の英雄。苦難を背負う完全無私の救世主。そんな、〈常人〉《おれたち》の世界に何かの間違いで入り込んできた異物のような存在を暴こうとする。 「俺たちが使う〈星辰光〉《アステリズム》は、素養の大小によって決まってくるのが常識だろうが」 〈星辰体〉《アストラル》に対する感応性に恵まれた天賦の才を持つ者ほど、〈星〉《 、》〈に〉《 、》〈選〉《 、》〈ば〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。つまりより自分が望む、強力で運用性が高い〈星の異能〉《アステリズム》を引き当てやすくなる。 その反対に、才能や素養から遠い者が掴めるものは望まざる〈屑〉《くず》星だけだ。 それは現実世界の〈諸々〉《もろもろ》と等しく、俺もまた同様。育ちの悪さで捻じ曲がった性格ゆえに、どうにか変則的な使い方を見つけて〈凌〉《しの》げてはいるものの……基本的には役立たずの部類に入る能力だ。 「総統閣下、あんたも俺と同じ才能と無縁の凡人だったはずだろう。努力だけでそこまで昇り詰めたんだろう」 だからこそ――と、俺は眼前で〈睨〉《にら》み合う〈蒼鋼色〉《メタルブルー》の〈双眸〉《そうぼう》を見返し吐き捨てる。 「なのに、おかしいだろうが。何だ、その化け物じみた〈能力〉《ひかり》は……」 全ての敵を絶滅させるまで朽ちぬ輝き―― 凡人が掴む星としては、余りにも巨大すぎるし強力すぎる。そんな現象は条理に外れており、もしもそんな文字通りの〈不〉《 、》〈条〉《 、》〈理〉《 、》を実現させた原動力が存在するのだとしたら…… 「そいつこそ、あんたの本性そのものだ。星に選ばれることなく、自らが望む理想と渇望を能力にまで押し上げた……精神力、意志力、たかがそんな代物で」 「ふざけるんじゃねえぞ怪物がッ、何だそりゃ? おまえは英雄でも希望の担い手なんかでもない」 「人間の中でも一番〈質〉《たち》の悪い、狂人でしかないんだよッ!」 今こそ心底からの畏怖に震え、俺は英雄の闇に潜む〈何〉《 、》〈か〉《 、》を喝破する。 「反論はせん。俺はどうしようもなく歪んでいる」 そして、ヴァルゼライドは〈静謐〉《せいひつ》に……しかし熱情を込めた声で俺に答えを返し始めた。 遂に今こそ明らかになる。不倒の救世主の光に秘められた真の姿が。 「愛、友情、信念、決意……それら善の輝きは尊いものだ。守らなければならないと分かっているし、それを守り抜くために命をかけねばならんことにも、ああまったくもって異論はない」 「だからこそだよ、俺がそれを許せないのは」 溶岩のように重たく沈んだ怒りが、奴の中でゆっくりと胎動を始めていく。 「善は弱い。小賢しい悪を前に容易く蹂躙されてしまう。実際、世の歴史に台頭してきた強者とはその大半が悪党だ。ひとたび歴史を紐解けば、誰でもそう気づくだろう」 「世界は驚くほど正しい者が身を削るように出来ている。納めた税が正しく使われた機会を、おまえ達は見たことがあるか? 施政者の手元を巡り二度と日の目を見ないことが日常茶飯時ではないか?」 「それを悔しいと俺は思う。許せんのだ、そういう塵が己の悪を隠しながらほくそ笑む──その醜さが」 「勝ちを諦めた〈途端〉《とたん》、他者の妨害に嬉々と勤しむ恥知らず。現実から逃避して凶行に走る腰抜けども。声高々に弱者であると吹聴しながら甘い蜜を啜る輩などに至っては、見るに耐えん糞袋だ」 「誰が見ても下劣だと分かるだろうに、しかし世界は奴らの存在を黙認している」 「苦しむのは常に善良な〈無辜〉《むこ》の民たち。明日を夢見る若者幼子、それを愛する父母、家族」 「何故だ? 何なのだ、その不条理は? ふざけるな。死ねよ貴様ら、〈塵屑〉《ごみくず》だろうが。苦悶の喘ぎを漏らしながら地獄の底まで堕ちるがいいッ」 「それが叶わぬというのなら……裁断者が必要とされるならば、いいだろう、俺がやってやる」 「罪には、罰を」 「悪には、裁きを」 「奪われた希望には、〈相応〉《ふさわ》しい闇と嘆きと絶望を」 「そうだ、俺は歪んでいる。光を守る? いいや否。“正義の味方”には程遠く、もはや目指したいとも思っておらん。資格もない」 「俺はその逆、邪悪を滅ぼす死の光に──“悪の敵”に成りたいのだ!」 正義ではなく、悪を滅ぼす何者か――それこそが〈英雄〉《ヴァルゼライド》の本質。 「──なるほどな」 その真実を前に圧倒されつつ、チトセが不意に声を搾り出した。 「クリストファー・ヴァルゼライド……そしてゼファー・コールレイン。なるほど、どちらも〈貧民窟〉《スラム》生まれだよ。本質が似てるじゃないか」 光と影。勝利者と敗残者。勇者と卑怯者。そんな余りに対照的な俺たちを、チトセは今までとは異なる視線で見つめている。 「表層的には全くの正反対だが、自分と相容れぬ外敵を排除するのに全力だ。物事の解決方法が、結局どちらも〈滅〉《 、》〈ぼ〉《 、》〈す〉《 、》なんだよ」 「共に底辺の生まれ育ち、自分より上位の存在を脅かすことに長けている。敵の排除に爆発力を発揮したゼファーの“逆襲”も、上層部を粛清しながら成り上がってきた総統も……」 俺もまた、その指摘に天啓の如く閃く理解があった。 それは、マルスとの最後の立ち合いで奴に投げかけられた言葉……俺は闘法の変化を通してヴァルゼライドに似てきたんじゃなく、最初から似た部分を宿していたのではないかという指摘の意味。 そして……遅すぎたもう一つの気付き。俺がヴァルゼライドに対して投げつけた指弾が、そのまま俺へと跳ね返る。 奴が異常で歪んでいると言うのなら、同属であるこの俺もまた―― 「だとしても、俺はこの道を貫くのみ。些事に過ぎん」 「おまえはどうだ。貫き通す覚悟はあるか。〈吟遊詩人〉《オルフェウス》――いや〈人狼〉《リュカオン》」 一切の動揺もなく低く〈呟〉《つぶや》き、押し切る刃の重圧を増してゆくヴァルゼライド。 「馬鹿野郎――気付けよ、いい加減に」 「貫く? 抜かせ。〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》のこの在り方に、未来はないっていうことを」 何かを排除するということは、人体に対する切除手術のようなものだ。だが中には切り離しては他の部位も死んでしまう患部もあるし、長い時間をかけて婉曲的な治療法や自然治癒を選ばねばならない病巣もある。 けれど俺もヴァルゼライドも、それを〈我〉《 、》〈慢〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。敵と認識したものを今すぐ取り除きたくて、自分の世界から消し去りたくて堪らない。 「駄目なんだよ、それだけじゃ」 あれもこれもと、少しでも病んだ枝を切り捨てて行けば、どんな大木も疲弊する。自由に生きるのは認めているのに、悪に染まった瞬間即座に殺す──無関係な第三者から見れば痛快かもしれないが、それでは常に減っていくのみ。 「〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》のやり方は、世界を狭く小さくしていく。突き進む毎に我慢や許容の量が減っていき……最終的には、正義とか光とか正しさしか許せなくなっちまう」 だから、そんな独りぼっちになりたくないのなら…… 「過去を愛しろ。失敗を許せよ。今は駄目でもいつか良くなる、そんな風に信じて待つことが出来なければ……誰も生きていけないんだ」 昨日を振り切るためにも、ちゃんと認めてやらなきゃならない傷がある。 そう目の前に向け、確信を込めて問いかける。それは机上の理想論なんかじゃなく、俺自身がもうとっくに知っている経験則だから。 「チトセ……おまえのおかげだ。俺の隣にいたのが、おまえで良かった」 「皆まで言うなよ、お互い様だ」 考えたくもない仮定だが……もしも軍属時代の上官がヴァルゼライドであったのなら、俺はこの場所まで〈辿〉《たど》り着けてはいなかっただろう。一切の歪みや弱さを許さぬ鉄の男なんかであったなら。 とっくにその歩みに置き去りにされての野垂れ死にか、それとも見限られての放逐か……あるいは、奴自身によって処断されていたかもしれない。埋もれた未来の可能性と共に。 そして何より―― 「俺は変われた。臆病者をずっと信じてくれていた、相棒がいたからなァッ!」 そう、こうして生まれ変わることなんか出来なかった。今の俺は負け犬じゃないと気概を叫び、英雄の〈鍔迫〉《つばぜ》りを弾き返す。 「だから、見ていてくれ俺の背中を」 「ゼファー・コールレインは、女神を守る狼だ!」 解放される魂。躍動を望む肉体。 俺は〈咆哮〉《さけび》を上げながら、再び離れたヴァルゼライドに向けて突撃した。  剣閃が、音速を超えて唸り飛ぶ。  斬撃が、空を引き裂き〈震撼〉《しんかん》する。  激突ごとに〈震撼〉《しんかん》する大気。崩壊する戦場。一瞬の不覚が即、致死への転落。  命を振り絞って命を〈繋〉《つな》ぐ。未来の希望を勝ち取るために、〈現在〉《いま》この瞬間を危険に投げ込む。  そんな狂気に等しい、矛盾の瀬戸際を駆け抜けながら……  しかし、チトセは紛れもない歓喜を感じていた。  たとえ次の瞬間、人生が終わったとしても悔いはないと思えるほどに。  その理由はただ〈偏〉《ひとえ》に、愛する男と命を共に燃やせているから。  自分はこの瞬間を得るために生きてきたのだと、己自身にチトセは誓える。  ――お祖父様、これが私の掴んだ〈正義〉《わがまま》です。  遂にそれを掴み取った誇らしさで、心は今にもはち切れそう。  あの世でお目見えしたならば、よくぞやったと褒めてください。自分はあの頃、その言葉を聞くために頑張っていたのですから。  ああでも、出来ればそれはこの先の、いつかの日ということでお願いします。  後ほんのもう少し――いやしばらくずっとは、彼と一緒にいたいから……  面影に微笑みかけながら、チトセは死の絶滅光を〈掻〉《か》い潜り続ける。  手繰り寄せるべきは好機。狼の〈逞〉《たくま》しい牙を信じて、チトセは自身の役割を側面支援に徹底する。  幾度も〈半身〉《ゼファー》が死線に〈晒〉《さら》されるたび、前に飛び込みたくなる衝動を堪えながら。  そして――待ち望んだ機が、遂に二人に到来した。 「決戦兵装――解放ォォッ」  満を持して、鋼の魔眼を解放する。  愛の喪失と引き換えに得た対魔星の切札で、愛の成就を導くために。  破壊された〈政府中央塔〉《セントラル》の〈天蓋〉《てんがい》。その上空に巨人の眼の如く集まりゆくのは暴風圏。人為によって引き起こされた神鳴る猛威が、一国を荒野と化す程の規模で結集する。  〈螺旋〉《らせん》を描いて渦巻く、暴風迅雷の巨大球。それを頭上に従えながら。 「風伯、雷公、天〈降〉《くだ》りて罰を成せ―― 〈人狼〉《リュカオン》、離脱せよッ!」  チトセは叫んだ。結んだ信頼と鉄壁の連携により、その意図はゼファーに余さず伝わる。全ては、阿吽の呼吸により導いた目論見通り。  〈執拗〉《しつよう》に食い下がり〈目〉《 、》〈標〉《 、》〈位〉《 、》〈置〉《 、》に導いたヴァルゼライドから、電光石火で遠ざかった。  ゼファーが死力を尽くして相対することで奪い取った、ヴァルゼライドの正面意識。それは確かに、チトセの魔眼発動に気付く〈瞬間〉《タイミング》を〈僅〉《わず》かながらだが遅らせていた。  ゆえに決まった、人狼と女神の連携殺法――ではあったが、唯一の想定外こそがヴァルゼライドの反応だった。  その威風は不動のまま。翼の如く悠然と拡げた双刀の構えは、防御ではなく攻撃による突破の意思を示している。  構え持つ双剣の放つ光芒が、かつてないほど〈眩〉《まばゆ》く膨れ上がった。面から点へと、集束性特化の星辰が更に極限まで凝縮されていく。  損害覚悟で要撃を選ぶという戦術思考は、いかにも道を切り〈拓〉《ひら》く勇者らしい選択だ。だがこの状況に対してだけは、ヴァルゼライドと言えど狂気じみた無謀だと言えよう。  いかに魔星をも〈凌〉《しの》ぐ力を有するとは言え、今から彼を襲うものは〈能力〉《アステリズム》の〈範疇〉《はんちゅう》を超えた自然災害の猛威そのもの。  いわば地球自体のエネルギーを相手取るのにも等しい。 「来るがいい―― 否。征くぞ」  それでも行手に何が待ち受けようが、定めた〈進軍〉《あゆみ》を決して止めないその姿。それは正に、運命の男と呼ぶに〈相応〉《ふさわ》しい威容であったが。 「砕け散れ、ヴァルゼライド。 神威招来――〈級長津祀雷命〉《シナツノミカヅチ》ィィッ!」  〈不遜〉《ふそん》な英雄を誅するように、神罰は委細構わず執行された。  戦場となる議事堂どころか、〈政府中央塔〉《セントラル》そのものさえ揺さぶり破壊するかのような轟音と衝撃、そして閃光。  球状に展開された力場内部に爆縮されてはいるものの、それでも身を伏せ〈凌〉《しの》がざるを得ない猛威だった。  そしてごく当然のように、その〈内〉《 、》〈側〉《 、》から直進する黄金の剣閃。  暴風圏を、稲妻の〈檻〉《おり》を、力場さえも斬り裂いて、万象絶滅の極光が〈迸〉《ほとばし》った。  チトセもゼファーも、限りなく不意打ちに近いその襲来を奇跡的に〈躱〉《かわ》せていた。  それは両者ともに、必殺を信じつつも同時に何処かで予感もしていた。 「くッ――」 「〈出鱈目〉《でたらめ》な――」  ……英雄は不滅である。〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈斃〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》、と。 「オオオオオオォォッッ!!」  ならば――〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。  この機会を仕損じては、この男は本物の不滅をも獲得しかねないと……そう思わせずにおかせぬ英雄伝説の恐怖が、チトセとゼファーを駆り立てていた。  両者共に形振り構わず、刃を〈翳〉《かざ》して斬りかかる。  チトセが仕掛ける。ゼファーが飛び込む。  迎え撃つヴァルゼライドは、双刀を静かに交差させ。 「――――ッ」  気合と共に繰り出された一閃が、チトセの太刀を一撃の下に砕いていた。  刀身の中でも、更に限定された一部分にのみ収束された星辰の光輝。それがもたらす高密度の衝撃が、アダマンタイトの分子結合をも瓦解させる。  言うまでもなく、発動体を失った〈星辰奏者〉《エスペラント》は星の光を〈纏〉《まと》えない。  この最終局面において歴戦の剛勇が選択したのは、〈星辰奏者〉《エスペラント》殺しの武器破壊技。初手から敵の得物一点狙いで計算し尽くした、特異な角度と打巧による一撃だ。  飛び散っていく連接剣の残骸の向こう、チトセは二刀目がゼファーを襲う瞬間を〈隻眼〉《せきがん》に映し……  次いで、世界を揺さぶるような轟音に身を震わせた。  激突したのは二本の鋼。だが先のチトセとの違いは、ゼファーの狙いもまたヴァルゼライドと〈同〉《 、》〈じ〉《 、》だったということである。  すなわちこちらも、〈星辰奏者〉《エスペラント》殺しの武器破壊。刃に乗せた高速振動を〈最大発動〉《フルドライブ》し、ヴァルゼライドの刀身へと響鳴させる。  集束性と干渉性。共に一点特化した〈星辰〉《ほし》同士が破壊の閃光を放ち、絶滅の唸りを上げて震えた。  そして耳をつんざく残響と同時、光剣と銀刃が揃って共に砕け散る。  直接的な出力こそヴァルゼライドが格上だが、その刀身は先立ってチトセの殲滅攻撃を斬り破る際に〈損傷〉《ダメージ》を残していた。ゆえにこそゼファーの非力で持ち込めた、互角の相討ち。  よって結果は痛み分け――否。  ヴァルゼライドには残り六本の太刀がある。たとえ一刀を失っても〈星辰光〉《アステリズム》は健在だ。  ゆえに勝負は、唯一無二の発動体を破壊されたゼファーの敗北――  否、だった。  なぜなら、彼は餓えた狼である。  おぞましき、勝利を喰らう獣である。  刃がたとえ壊れようとも、そう── 「――、ぐ、ォォ……ッ」  ヴァルゼライドの〈喉笛〉《のどぶえ》を文字通りの意味で噛み破ったのは、ゼファーの〈犬歯〉《きば》。  星の異能ではなく、捨て身で飛び込んだ人狼の〈顎〉《あぎと》だった。 「言ったろう、俺はもう〈吟遊詩人〉《オルフェウス》なんかじゃねえ。  ──女神を守る〈銀狼〉《リュカオン》だ、ッ」  噴水じみた〈血飛沫〉《ちしぶき》が激しく噴き上げ、すぐに止んだ。  人体最大級の急所、頸動脈の咬断――出血は瞬間にして致命の量。  野獣のように狂い血走った牙が肉へ食い込み、命を奪う。  勝敗はどこで分かれたか、というのならばそれはやはり一つだろう。  あの刹那、ゼファーが選択した捨て身。これをより正確に言うならば、チトセを守るため武器が破壊されようがどうなろうが、喰らい付くことをとうに決めていたがゆえの特攻である。  つまりは神風。愛する女神を守るための、無為な突貫。その〈生〉《 、》〈死〉《 、》〈や〉《 、》〈正〉《 、》〈誤〉《 、》〈を〉《 、》〈越〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈選〉《 、》〈択〉《 、》こそが、この局面で英雄の意識を不条理により突破できた唯一無二の理由だった。  つまり二対一、男と女……愛する者が隣にいるか。  これはすなわち明日への希望などよりも、守りたい何者かが近くにいたかというだけの話。  たったそれだけの、しかし何にも譲りたくない愛情こそが、英雄という絵物語の主人公をこの一瞬で喰らい尽くした。  それら自分の敗因、すべてが分かったわけではないが彼もまた認めざるを得ないだろう。  ならばこそ、英雄もまたこの顛末を受け止める。 「……見事。 ならばこそ、俺への“勝利”を、その背に負って進むがいい。  いつか、たった一度の敗北で〈微塵〉《みじん》に砕けるその日まで。  それが……〈勝者〉《おまえ》の、宿命だ――」  血泡混じりの〈呻〉《うめ》きを英雄が漏らす。同時に、骨の砕ける異音が響いた。  更に深々と喰い込んだ牙は脛骨をも噛み砕き、無言の決着をここに宣する。  これにて、死闘は終結を見た。  数多繰り返されてきた闘争の数々と何一つ変わることなく、一人の勝者と、一人の敗者がここに厳然と誕生する。  そして、決着の瞬間―― 「賭けは私の勝ちのようね。 ゼファーは勝ったわ。彼の選んだ愛を手に」  そう誇らしげにヴェンデッタは笑った。そして夢見るように〈硝子〉《ガラス》の中の男へ告げる。 「ゆえに私たちの役割も終わりね。そうでしょう、カグツチ?  星はただ見守るもの。人の〈運命〉《さだめ》を見通して、願いを叶えもするけれど、行く末までは支配できない……」  直後、魔星の巫女として託宣を下し、自分自身に宿された最後の力を解き放った。  それは全ての星々へ届く干渉の波。ウラヌスはおろか、創造者であるカグツチでさえも、魔星の縛りある限り逃れえない。 「ほう──機能停止と引き換えに、己を黄泉の道連れとする腹積もりか」 「ええそうよ。私たちはもうこの世界に必要ない。あなたも一緒に、ここで眠りにつきなさい」 「だが人類は既に〈星辰〉《ほし》の力を手にし、その依存からは逃れられぬ。奴らにとってこの場所、そして己が宝であること、そこに変わりは一切ない。   となれば、いつか〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》のように“勝利”に憑かれた者が現れ帝都の〈遺産〉《われら》に手を伸ばし……ふふ、さてどうなるかな」 「そうね。愚か者はいつの世にもいるものだわ。けれど少なくとも〈彼〉《 、》が生きている間は大丈夫。 そして、その時間がより良い未来を築くのを祈っているわ。  だから、ねえ。あなたも――」  〈憐〉《あわ》れむような〈一瞥〉《いちべつ》を向けた相手は、蒼の鉄姫。 「おのれッ……許さんぞ、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》ッ!  貴様ごときが、我々の命運を決するなど──」  魂に秘めた原動力たる憎悪と憤怒が暴走する。それは静止を命じる干渉の波に反逆し、万象全てを凍てつかせる能力を起動させようとするが。  ヴェンデッタの干渉が作用したのは、静止から一転その暴走に対する更なる加速。制御限界を超えて次々生まれいづる大氷河は、ウラヌス自身をも決して溶けぬ氷の柩に封印してゆく。  永遠に咲く氷中花と化す〈氷河姫〉《ピリオド》の断末魔を背に……人間ゆえこの場において星の縛りを受けぬ男は、その保身と生存に特化した本能が命ずるままに脱出しようとしていた。 「な、何をするのですッ――このままでは……ヒィィッ!」  そして、その足を引く者たちもまた。  ランスローの両脚にしがみつくのは、出血多量で虫の息の双子たちだった。 「偉大なる〈大和〉《ヤマト》の遺した御心のままに――」 「我らも殉じ、永遠に復活のためのお供を致しましょう――」  殉死の光栄に揃って幸福な笑顔を浮かべる従卒。  主人たるランスロー共々、増殖する氷河の下に埋葬された。 「さようなら、ゼファー。どうか、幸せに――」  そして〈彼〉《 、》〈女〉《 、》もまた眠りについた。  愛する一人の〈少〉《 、》〈年〉《 、》の未来を、心から祝福しながら瞳を閉じる。  封印はここに──さあ、それでは星よ。長い夢を。  いつかまた、自分たちを起こすものが来るまではと共に思いながら、魔星と呼ばれた存在たちはセントラルの深奥に沈むのだった。 そして、全てが終わった後……俺たちは同時に力尽きて崩れ落ちた。 肩を並べて寄り添い、互いの重みを支え合う。隣で感じる鼓動と息遣いに、この上もない〈安堵〉《あんど》を感じながら。 「勝った、なぁ……」 「ああ……どうにか、だが……」 どうやら結果はそうらしい。髪の毛一筋の勝機を物にした感慨よりも、生を拾った喜びの方が正直遥かに大きいものの。 それでも……この先も胸の鼓動が繰り返す限り、こんな闘いがいつかはまた俺の前に立ちはだかるのかもしれない。 “勝利”とは、その〈未来〉《いつか》が来るまでの猶予でしかないのだとしたら。それは何と、虚しく〈儚〉《はかな》いものなのだろうか。 口中に残る鉄〈錆〉《さび》の味……ヴァルゼライドの血の匂いを〈反芻〉《はんすう》しながら、俺はそんなことを思っていた。 吹き飛んだ〈天蓋〉《てんがい》から射し込むのは、暁の光。いつの間にか長い夜は終わっていた。降り注ぐ朝陽の下、動く物の影は……その中で一つ。 「アオイ……」 アオイ・漣・アマツ。夢遊病者のようによろめく足取りは、横たわる屍の元へと向かっていた。 崩れるように屈みこんだ。震える指先が、血に汚れた英雄の冷たい頬をそっと撫でる。 「クリストファー……総統、閣下」 そして初めて〈呟〉《つぶや》いたのは、男の名。同時に、こぼれ落ちた涙滴が死者の流した血を洗い清めた。 〈嗚咽〉《おえつ》しながら〈縋〉《すが》りつくが、死者は決して答えない。乙女がようやく気付いた衝動は、もはや二度と行き場を見つけることなく葬られてしまった。 「……チトセ、私はおまえを終生恨むぞ」 そして〈啼泣〉《ていきゅう》が止んだ後……〈呻〉《うめ》くように〈呟〉《つぶや》かれたのは同じ血を引く眷属の名。 泣いているとも〈嗤〉《わら》っているとも付かぬ声で、アオイはそう〈呟〉《つぶや》き続ける。 「私自身にこの気持ちを気付かせた、勇気あるおまえのことを……そして私が失ったものを今その手にしている、妬ましいおまえのことも。また」 絶句するように激情を搾り出すと、彼女は二度とチトセを振り返らなかった。ヴァルゼライドの〈亡骸〉《なきがら》を、愛おしむように抱き上げる。 「さあ、参りましょう……」 「愚かで至らぬ女でしたが……あなたの墓を生涯お守りする役は、どうかせめてお与えください」 そして英雄の屍と共に、女は朝〈靄〉《もや》の彼方に消えていった。 「……あいつは、思えば私の鏡像だったな」 苦く長い沈黙の後、チトセがようやく声を漏らす。 「あるいは私もあのように、〈こ〉《 、》〈じ〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》続けていたならば、失ってたかもしれないな……」 その言葉は、彼女なりの過去の清算だったのだろう。 確かにそれは、ありえた未来絵図だったのかもしれないから。もしもチトセが帝国軍人としての、裁きの天秤としての〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》に囚われたままだったのならば。 けれど…… 「ま、悲しい過去はもう終わりということで」 俺たちの掴み取った、この“勝利”によって――そして。 「今日からは、前にも増してしんどい未来が待ってるんだぜ?嫌でも振り返っちゃいられねえだろ」 そう、それもまた因果応報。現実は感傷に浸る間さえも許さない。 「――そうだな」 だから、チトセもまた乾いた笑いで振り切った。 「何せ、帝国の最高指導者が突然死亡したのだからな。それも、ただのトップじゃない。あの英雄ヴァルゼライドがだ」 「となると、あぁ……今から全帝国民の絶望が聞こえるなぁオイ。えらい騒ぎになるんぞこりゃ」 それを想像すると、一気に頭の中が重たくなる。しかも俺たち、クーデターで政権奪った賊軍だし。 「まあ、当面悪者扱いは免れんだろう。しかし、政権〈簒奪〉《さんだつ》者が民に認められる方法は古今一つ。国を富ませ、善政を〈布〉《し》くことだけだ。せいぜい〈掻〉《あが》いてみるしかないよ」 「うわぁ、〈憂鬱〉《ゆううつ》。俺、頭悪いし政治経済とか超苦手だってのに。このまま歴史の闇に消えてもいいっすか?」 「謎の駄犬、英雄を噛み殺して大逃走……とかいう感じで」 冗談めかした俺の溜息に、見透かしたように微笑むチトセ。 「心配するな。適材適所を見極めるのも帝王学の一つだよ。使い処は心得ている。こき使ってやるとも、相棒」 「この帝国の弱り目を、聖教国や商国が見逃すはずはあるまい。今までとは比較にならない攻勢を仕掛けてくるだろうし、帝都は間諜で溢れ返るだろう」 「その時こそが、〈人狼〉《リュカオン》の出番さ」 なるほど、と俺もまた微笑で返し。 「それじゃ、やることは昔と同じか。斬って斬って斬りまくるだけ、と」 「帝国の……いや、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈敵〉《 、》を」 そう、やることはこんなにも明解だ。だから女神の行く末が何処を目指そうと、もはや俺に一切の迷いはない。 「おまえがいれば、私は無敵だ。だから――」 「ああ。守るよ、この先もずっと」 男として、人間として、それだけは絶対だと誓えるから。 地獄のような惨状と、悪夢のような痛みの中で……俺は確かに、心から笑えていたのだった。  巨星、墜つ――稀代の英雄ヴァルゼライドの死はアドラー帝国を揺さぶり、内外に多くの混乱を発生させた。  それにより被った経済および領土的な損失は、それなりの高に計上されたが……英雄なき世を、それでも生きていかねばならぬ人々は、その逆境をどうにか持ち堪えんと日々奮闘努力している。  この困難な時期を乗り切るため、各国との不利な講和条約もあえて締結。結果として領土は縮小し国内は不況に呻吟していた。  帝国が苦境にあるのは間違いないが、この歴史の一断面を名も無き人々はしぶとく生きている。その折々の人々たちにと取っては暗黒時代でも何でもない、紛れもない今日という現実の時間を。  アドラー帝国という国家もまた、今を生き延びるために政治体制の変革が必要とされていた。  独裁権力による軍事中心の武断政治はこれからの時代に合わなくなり、総統制はやがて廃止されていくことになる。  そしてその契機となり、当時の象徴でもあった三十七代〈大〉《 、》総統クリストファー・ヴァルゼライドの命日は“総統忌”として、帝国の国家記念日の一つに制定される。  その日は毎年……国民挙げて偉大なる英雄の事績を偲んでの盛大な祭典が行われ、総統の愛したアドラーのためにと国威が大いに発揚するのは、これから約十数年ほど後のこと。  英雄は、死してなお国を護る偉大な英霊として人々に語り継がれることになった。  その英雄を排除した風当たりを緩和すべく担ぎ出されたのは、〈貴種〉《アマツ》の人気と威光。  すなわち、アマツ家を国家の象徴として戴く立憲君主制への転換。もちろん実態は飽くまで〈傀儡〉《かいらい》であり、政治実務は帝国最高評議会の軍人議員たちによる合議制で行われている。  新西暦において〈日本〉《ヤマト》は崇拝の対象であるがゆえに、その純血を象徴とする新体制の内外への効果は決して小さくない。特にカンタベリー聖教皇国の領土的野心に対する牽制としては、かなり有効に働いている。  よって帝国上層部とアマツ家との関係も、以前より緊密さを増しており……  事実上の国家元首、帝国軍元帥にして最高評議会議長たるアルバート・ロデオンは、軍の実務を一手に掌握するアマツの女傑との調整を日々活発に行なっていた。 「そうか……〈聖教国〉《ジャパニスト》ども、相変わらずあの一件以来油断がならんな。帝都内で摘発された工作員の拠点は、これで今月七件目。正直きりがない数だ。   これだけ確信に満ちた探りを入れてくるということは……生前のランスローから、ある程度の情報は本国に渡っていたと見るべきか」  チトセからの報告を受けたアルバートは、思案に表情を曇らせる。 「まあ、それに関してはある程度泳がせても大過は無いだろう。外部の人間が幾らカグツチやら魔星の痕跡を嗅ぎつけた所で、技術的にどう手を出しようもないのだから。 むしろ怖れるべきは〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》からの技術流出だが、抜かりなく内部監査の眼は光らせているよ。  これに関しては、何せ昔からやっている日常業務なんでね」  対照的に、チトセの反応はごく泰然としていた。 「最大の敵は身内……という事態は、〈裁剣〉《アストレア》が健在な限り心配ねえか。   何せ女神の天秤は、偉大なる総統閣下さえ裁いちまったんだからな」  昔ながらの気さくさで冗談を飛ばしたアルバートだったが……自分を見つめるチトセの目に、何とも言えぬ痛ましさを感じて苦笑する。 「はは……俺としたことが、つい気を使わせちまったか。   まあ、後どれだけ生きられるかは判らんが、こうして今日も命があるんだ。なら、笑って生きるが勝ちさ」 「しかし数年前もそうだが、あなたが生きていたのには驚いたよ。ヴァルゼライドの一撃を受けた上で、命があったなんてね」 「備えは一応していたからな。それでも相当な深手だったが……」  アルバートはあの日、ジン・ヘイゼルに特注していたアダマンタイト製の金属繊維を織り込んだ防刃服を肌の上に着込んでいたという。無論それごと骨肉を切断され、アルバートは生死の境を二月ほど〈彷徨〉《さまよ》ったのだが…… 「今にして思うんだ。あいつは、俺をぎりぎり生かしてくれたんじゃないかってな」 「希望的観測では?」  にべもなく切って捨てたチトセの言葉に、気にした様子もなくアルバートは微笑む。 「そうかもしれん。けれど、俺はそういう風に信じたいのさ。   そんな、擦り切れたぎりぎりの……友情とも呼べないような絆の切れ端が、あの日の俺たちにはまだ残っていたんだと」  死者は黙して語らない。ただ生者の記憶の中で生き続けるだけだ。  チトセにとってのヴァルゼライドが恐るべき非情の強敵として刻みつけられているように、友だった男が抱くヴァルゼライド像もまた別にあるのだろう。 「それでは閣下、私はこれで」 「ああ、ゼファーによろしくな」  三十八代目の総統閣下……アルバート・ロデオンに一礼すると、チトセは会議室を後にした。  そして〈政府中央塔〉《セントラル》内を移動した後、自分の執務室の扉を…… 「……またやっているな。サヤの奴め」  開けようとし、その向こうから伝わってくる罵倒の声に苦笑を漏らした。 部屋のドアが開いてチトセの姿が見えるや、夜叉の形相で俺に追い込みを掛けていた〈副隊長殿〉《サヤ》は豹変した。 「はぁぁん、お姉様ぁっ!」 従順な子犬めいた媚びの視線で出迎え、敬礼する百合少女。 だが俺は知っている。数秒前まで子犬は人喰い虎であったことを。しかも人の〈喉〉《のど》元でチラつかせていた物騒な暗器も、光の速さで隠してるし。 おら粗末なナニ出せや駄犬、劣等の種でお姉様を孕ます前に去勢してやるなどと……男なら思わず一部が縮み上がるような脅し文句の気配もまた、〈微塵〉《みじん》たりとも〈伺〉《うかが》わせない。 「うむ、ご苦労。ではすまんが、ゼファーと話があるので少し外してくれ」 入室してきたチトセは、何やら見透かしたような冷笑を浮かべてそう促す。 「はい、判りました。では、練兵場で新入隊員の訓練教導を行って参ります」 笑顔で答えたサヤは、執務室を出て行く――チトセの背中越しに、俺をたっぷり五秒間は〈睨〉《にら》みつける。 ……怖え。いつか本気で呪殺されそうだ。 まあ、これでやっと二人きり……ほっと一息。 「やれやれ。サヤにも困ったものだな。慕ってくれるのは構わんが、万事があれではちと面倒だ」 やっぱり、今しがたのやり取りを外で聞いていたらしい。チトセのいない所では、いつもの調子で慣れっこではあるのだが。 「まあ、副隊長として仕事はきっちりやってるようだし」 「ほう、前任者から見てもそう思えるか?」 「つうか、その辺は俺よりうまく出来てるわ。有能すぎるだろアレ」 「それにこの手の作業をやったのは、五年以上前だしなぁ。今も一応表向きには民間人、どうもこう、しっくりこねえ」 そう言いながらも俺は帝国軍の制服を着ている訳だが、これには複雑な事情がある。 俺はチトセを守って闘うと誓い、チトセもそれを求めてくれている。しかし一方、俺は悪名高い裏切りの〈人狼〉《リュカオン》。 軍の記録には戦時行方不明者として残っているし、復帰するに当たっては五年間もの空白期間が問題になる。つまり立派な脱走罪となりうる訳で…… 「もちろん忘れてはいないさ。朧から派遣された専属護衛官である所のゼファー・コールレインくん?」 「大虐殺で戦死した、前〈裁剣天秤〉《ライブラ》副隊長と〈同〉《 、》〈姓〉《 、》〈同〉《 、》〈名〉《 、》の別人なのだろ?そうだな、立派な民間人だ」 「当てつけかよ、それ……」 そう〈悪〉《 、》〈い〉《 、》〈顔〉《 、》で笑うチトセの言う通り、そんな裏業を使いつつ俺はチトセの傍にいる。 帝国が新体制となったお陰で再編時にそう捻じ込んだ。何よりアマツ、それも朧の家の出で、さらに将官クラスともなれば身辺警護の一人程度侍らせても問題はないのである。 ゆえに〈星辰奏者〉《エスペラント》としての登録も護衛官として〈新〉《 、》〈規〉《 、》で済ませ、こうして発動体の所持も許可されている。 そして、そんな立場でやっていることは……昔と変わらず裏の汚れ仕事。国内に暗躍する他国の間諜や帝国内の内通者の探索、監視、時には暗殺など……つまり、〈人狼〉《リュカオン》として昔とった杵柄だ。 あの頃は心が摩耗し、嫌だ嫌だと思ったあげくに我慢して壊れたが…… 今はこいつが傍にいるせいか、心の均衡は保てていた。 そしてもう一つ、引き続きグランセニック商会代表として商国との窓口になっているルシードとの折衝という仕事がある。 今ではあいつは、立派に取り込まれた帝国側の人間だ。数年前の一件以来チトセには頭が上がらないようだし、何より特別な〈理〉《 、》〈由〉《 、》が出来たようだった。 それは……今でも時折り面影を思い出す、あの奇妙な〈異邦人〉《ヴェンデッタ》に関することだ。 あの決戦の後、ヴェンデッタが〈去〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》ことを俺は知った。あいつ自身が言い残したように、黄泉の歌声はもう二度と俺には聴こえない。 そしてあれ以来酒浸りの荒んだ生活を続けていたルシードに、あいつが残した最後の言葉を伝えてやった。 ――友達を、家族を大事になさい。 噛みしめるようにその言葉を〈反芻〉《はんすう》した後、ルシードは淋しげな微笑で俺に言った。 「……僕は、君の友達かい?」 ――当たり前だ。俺とおまえが馬鹿やってないと、あいつ笑ってくれねえぞ。 だから俺はそう答えてやった。ルシードは、ただ〈儚〉《はかな》く笑い。 「それがレディの願いなら、仕方ないな。ではもう少しだけ意地を張ってみるとしますか……」 「はは、柄じゃないけどね」 そう言って、あいつは酒色を断ち廃人一歩手前から復帰した。もしもヴェンデッタの言葉を伝えてなければ、きっと彼女を救えなかった自らを殺すまで自暴自棄を止めていなかったことだろう。 それからは以前のまま……とまでは行かないものの、精神も落ち着きを取り戻したようだ。イヴが消えた歓楽街も受け持ち負担が増えているはずなのに、なぜだか以前より楽々とこなしている印象すらある。 本当のところ……ルシードに何があったのか。 何を糧としてあいつは立ち上がったのか。その心までは判らない。 けれど俺とあいつは、今でも切り離せない悪友同士。そして互いの間には、今でもヴェンデッタの存在が確かに残っているのだ。 友達と家族を大事に。いつまでも笑顔でいて欲しいと俺に願った……あの不思議な少女との思い出が。 ほんの三ヶ月、確かに家族の一員だった少女のことが…… 「ところで、新しい発動体の調子はどうかな? 今では可愛い妹が専属〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》なんだろう?」 「文句なしだぞ。師匠は相変わらず偏屈だけど、何だかんだで認められてるみたいだし」 ミリィは元気だ。ルシード同様、ヴェンデッタがいなくなった後はしばらく泣いていたけれど、今では立派に仕事一筋に打ち込んでいる。 ただまあ兄貴の世話ばかり焼いてないで、そろそろ嫁の貰い手も探さないと不味いんじゃないかとも焦る訳だが……本人に一切気にした様子がないのは、全くもって困ったものだ。 ……まあ実際、そんな悪い虫連れてきたら兄さんちょぉっとブチ切れちゃうけど。噛み砕く。 「そうか。師ともども、いつまでも在野に置いておくのは〈勿体〉《もったい》ないな。その内、正式に軍へ招待するのも視野に入れよう」 「〈勿論〉《もちろん》、自由意思を尊重した上でだがな。ミリィ嬢に恨まれるのはできれば御免だ」 そう言ってから、不意にチトセは気配を変えた。帝国軍の頂点に立つ〈裁剣女神〉《アストレア》から、一人の恋する女へと。 「なあ、ゼファー……来月あたり、二人で旅行に行かないか。お忍びでのんびり、列車に揺られての物見遊山なんかもどうだ?」 蜂蜜のように蕩けた声音は、さっきサヤに飼い主のごとく命令していた口調とは全く違う。 「俺はいいけど、今の立場で休暇なんか取れるのか?」 何せ今ではおっちゃん〈様〉《 、》に次ぐ軍のナンバー2。〈裁剣天秤〉《ライブラ》だけでなく、〈深謀双児〉《ジェミニ》と〈近衛白羊〉《アリエス》の各隊長まで兼任している忙殺ぶりだ。人材は育ってきているが、それでも向こう一年はこの調子だろう。 「なに、どうにでもなる。というか、どうとでもしてみせよう」 「おーおー、ご立派な職権乱用で。正義の天秤が泣きますなぁ」 「何を言う、すべて完璧にこなした上で空いた時間を勝ち取るのだ。正攻法だからこそ有難味もまたひとしおだろう」 「奴を否定した手前、それだけのものはやらねばならん。しかし何もかもを職務職務と捧げていては英雄の二の舞だ。我々はバランスよく歩めばいい」 「だからおまえに甘えるし、可愛がるし、可愛がられるというわけなのだ。そして時たま〈搾〉《 、》〈り〉《 、》〈取〉《 、》〈る〉《 、》、と」 「ふふん、どうだ完璧な〈生活規範〉《ライフワーク》だろう? これぞまさに出来る女というやつだぞ」 「はいはい、惚れ直しましたよっと」 流し目で笑うその姿に思わず降参だと手を上げた。まったく、いつの間にかすっかり甘え上手になってしまったチトセに対し、微笑ましげな苦笑が自然とこぼれる。 「ま、俺のやることは一つだけどな」 「何処へ行こうと何をしようと、おまえの傍で必ず守るよ。チトセのすべてを共に背負う」 そしていつものように、俺は誓う。何年何十年が経とうと、これだけは貫くと決めた人生の目的を。 「うん……ありがとう、ゼファー」 嬉しそうに頬を染めたチトセが、花びらが〈綻〉《ほころ》ぶように微笑んだ。 視線は互いに交わさない。目を見て確かめる必要さえなく、俺たちは同じ彼方を見つめていると判るから。 これが俺たちの〈現在〉《いま》――そして、続いていく〈未来〉《あす》の姿。 女神の隣には、今日も狼が立っている。 望むのなら、いつまでも〈繋〉《つな》がることができる今――それは、まるで俺たちが失ったものを取り返すかのような因果にも思えた。 そっとヴェンデッタの肌に触れると、しっとりとした質感であり、そして少女のように温かい。 なくしたものはあれど、その代わりに得たものもあった。この小さな身体は、まさしくその一つなのだろう。 「うふふ……ある意味、感謝してしまいそうになるわね」 首をかしげると、彼女は満面の笑みで言う。 「だって、あなたの犯した罪によって、今の幸福があるんだもの」 「運命も悪いことばかりじゃない……あなたのことをもう一度、そして私自身として喜ばせることができるもの」 「はぁ……んんっ、ふふ。ゼファーの手、優しいわよ……大好き」 さながら猫のような人懐こい動物のように、こちらの手にまとわりついて、すんすんと匂いを嗅ぎながら、くんくんと可愛く鳴いている。 記憶にある姉はここまで幼い振る舞いをしていない、だからこれはあくまでこいつの、ヴェンデッタ自身の本音なんだろう。 「あら、どうかした? そんなだらしなく笑ったりして」 そう思うと、この〈慇懃無礼〉《いんぎんぶれい》な口調さえ愛おしいと感じられるようになった。惚れた弱みとはよく言ったものである。 そんな感慨を察したのか、彼女はくすくすと笑い、こちらの手を自らの身体へ引き寄せた。互いの肌がより密着し、きめ細かい感触が心地よく伝わって来る。 「あなたに触られると、何処でも気持ちよくなるの」 「だから、もっともっと、触りなさい。まさぐって、思う存分、欲望をぶつけてちょうだい」 「可愛い、可愛いゼファー……」 惜しげもなく身体を広げる彼女から引っ張られるまま、ペニスを擦るようにして、割れ目の愛液を塗り合わせていく。熱っぽい視線は、ひたすら男のものへと注がれていた。 軽く角度をつけて、下から擦り上げる。陰唇は淫らに左右へ開き、生温かい粘膜の感触が甘ったるく腰の裏側まで駆け抜けた。 くちゅりという小さな水音が聞こえた気がして、さらに深めに男根を押し付けた。それもまた、幼い性器は歓迎する。 ほんの僅かに開いた、俺の手で雄の味を知った穴は…… 「ふうぅっ……、ふわぁっ、ああああっ……んくぅうっ」 「あああ……、あっあっあっあっ……んんっ。い、いい……わ、とても……」 挿入する前のささいなじゃれ合い。しかし、それはヴェンデッタが相手がゆえか例えようもない興奮をもたらしてくれる。 幼気な秘裂はほぼ無毛に近い。そこを、比べて凶悪なまでの男性器が擦れていく。あたかも退廃的に、小さな子を犯すように。 「いつの間にか、こんなにもおおきくなっていたのね……ふふ、小生意気なこと」 それは単に隆起したことを指しているだけではないと、今なら分かる。 感慨深そうに、また熱っぽく俺のペニスと身体を見比べてつぶやいた。 前に〈繋〉《つな》がったときよりも、互いの心に立ち込める霧のような疑念や葛藤は晴れている、俺だって感動にも近い感情に包まれていた。愛欲と性欲が同時に胸へ湧いている。 「あ……っ、やん。そこ、わざとあてたでしょう……?」 ぴくんっと震えた理由は、亀頭で狙い澄ましたように擦り上げた陰核である。 前と後ろへ動くたびに皮がめくれ、ぷっくりと膨れるように、それは充血していった。 女の蜜が溜まってゆく中心へ、熱く〈滾〉《たぎ》る男根が照準を合わせる。埋没したい、この奥で吐き出したいと雄の本能がわななく。 あの心地いい、幼くも自分のためにある粘膜同士の結合をもう一度と、想像するだけで我慢ができなかったから。 「いいわよ……私の股へ、ぐちゅぐちゅした一番深いところへ、さぁ――」 「きゅふうううぅ――はぁああああああんんっ」 極自然に――まさにそうあるべきといった様子で、挿入まで流れていく。 亀頭がみっちりと詰まった膣肉を愛おしく割り開き、味わいながら奥を目指すたびに深い吐息が互いに漏れた。 「あ……あああ……は、入ったぁっ……ゼファーのが……入って、きて」 「ふわぁっ、あくうっ……す、凄いっ……凄いのぉっ」 粘液が絡みつく、ぐちゅるという音が、互いの脳髄に響き渡る。彼女の膣内に埋もれる陰茎は、あたかも意志を持って打ち震えているようだった。 睦みあう生殖器にはまったく隙間がない。それはきっと、ヴェンデッタの身体が少女のものであるという理由だけではないだろう。 俺専用に用意された感触であり、これ以上はないとはっきり感じられる衝動があった。この女こそ、自分のためにいるからこその一体感を、理解して味わい尽くす。 ほんの僅かに動かすだけで、脳が蕩けそうなほど心地よく…… ああ、今すぐにでもこの奥で種を放ちたい。未熟な子宮に密着したまま、と。 「ふふっ……んはぁあああっ、や、やっぱり相性は最高ね……」 その通りだ。俺たちは、俺たちのために存在している。 その果てに巡り合って、今まさに股を広げているのだから。 「ずっと……入れたままでいいのよ? ゼファーと〈繋〉《つな》がってると、一つの生き物になったみたい」 「弱い生き物だからこそ、〈繋〉《つな》がって一つになるの。互いを必要として求め合うから……もっともっと欲しくなるし、愛おしく感じるの」 彼女が、どうして今さらこんなことを言う理由は伝わってくるし、容易に理解できた。 なぜなら、まったく同じ感覚を自分も共有していたから―― 「……さぁ、責めてゼファー。かき混ぜて、好きに突いて、私をよがり狂わせて」 「んんっ……、はぁあああああ……っ、あなたのおち○ちん、私の〈膣内〉《なか》で苦しそうよ。身勝手に出して、いいから……」 〈淫蕩〉《いんとう》なおねだりと同時、ペニスが激しく締め上げられる。〈雁首〉《かりくび》の裏にも肉壁の感触があり、蕩けた感触は〈灼〉《や》けつくように生殖本能を甘く刺激した。 おのずと腰をせり出す姿勢になり、奥の壁――子宮口を口付けた亀頭で擦り挙げる。 それでまた腰が浮いてしまう心地よさ。ゆっくりと動き出す、それだけで下半身が融解しそうに気持ちいい。 「はぁはぁ……、くぅううう……んんっ! わ、分かる?」 「ゼファーのが、暴れたがってるわよ。苦しいって、きついって……」 「おかげで……ふぅっ、〈膣内〉《なか》の肉が勝手に動いちゃう――」 結合部から垂れる雫は、自分の先走った汁と泉のように溢れる蜜が、少しずつ混ざったものだ。 肉壁の〈蠕動〉《ぜんどう》が激しくうねり、絡みつく絨毛の感触で、すぐにでも果ててしまいそう。何も考えずに種蒔きし、身勝手にこの膣で性処理できたら……どれだけ心地よいことだろう。 甘えた性根が、このまま絶頂してもいいかと思わせるくらいだが……今はもう子どもではない。ヴェンデッタを〈昂〉《たか》ぶらせて、そして共に果てることが自分の至福なのだと言い聞かせる。 〈掻〉《か》き混ぜて、〈掻〉《か》き乱して……二人で高めあっていく。 「〈嗚呼〉《ああ》、ゼファー……のその眼、好きよ」 「とても強くて、それから〈儚〉《はかな》い眼差し……、幼気で可愛かったあなたが、こんなに立派になるなんて……」 内ももを濡らす愛液の匂いは強烈だ。深く息を吸っただけで、脳内を犯されたような感覚にさえ包まれる。 しゃべりながらもヴェンデッタは腰をくねらせる。だが、それは意図したものや、意識的なものではないのだろう。本能が俺のペニスを、そして吐き出される精を子宮へと求めている。 緩む表情から、彼女の切なる想いのようなものが伝わってきた。 「あっ……ああっ……、そ、そんな、気持ちいいところ……ぐりぐり擦って、いけない子」 「ふぁっ……ふわあぁあああ、んんっ……あなたが動くたびに、腰が勝手に動いちゃう。子宮口も、ゆるんで……開いて……」 ゆっくりではあるが腰が前後するたびに、小ぶりな乳房も揺れる。乳首は固く勃起して、激しく身を〈捩〉《よじ》る彼女に合わせて、勢いよく揺れるのが視覚的に興奮を誘う。 硬度を増した怒張の動きを前後だけでなく、左右や斜めへと変化をつけると、ヴェンデッタは破裂するような声をあげた。 「あうぅっ……んんっ……ひゃあああああぁっ! はぁああああんっ」 「う、動きが、少しずつ……っ、大きくなって……んんっ」 「お股から、どんどん……泡立って、垂れてきちゃう……ふわぁあああああっ」 ぐちゅっといやらしい水音が耳を楽しませてくれる。同時に鼻の前をふわりと通りかかる匂いに、目の奥までくらりと霞むようだった。 とにかく犯したい、突いて突きまくりたい。種付けしたい、吐き出したい……もう一度、彼女の奥に植えつけたいと下衆な欲望が止まらない。 ひたすら前後に律動したいという欲が鎌をもたげるのだが、同時に〈繋〉《つな》がったところから温かいものさえ〈沁〉《し》み出すようだ。 こいつを誰よりも幸せにしたいと、もう何度目になるか分からない誓いを〈反芻〉《はんすう》して、瀬戸際でこらえるがしかし…… 「……もう、好きなだけしていいって言ったでしょう? 遠慮なんて、しなくていいの」 「むしろ、途中でやめちゃダメ……私が狂いそうになっても、あなたがおかしくなりそうでも、〈貪〉《むさぼ》ってほしいんだから」 そう告げてくる彼女の瞳は、いつよりも優しく微笑んでいた。 「深いところへ出しなさい。子宮のさらにもっと奥……」 「そこは、あなたの精子を受け止めるための場所なのよ。何度でも、何度でも、罪の証を刻むための……」 確信的にしゃべる少女に対して、雄の本能で〈頷〉《うなず》いた。 そうまで求められて、こちらも外へ出すなどもう考えられない。この場所に来たときから、源欲求を頭のどこかで感じていたのだ。 ヴェンデッタのお腹の、内蔵に達しようかというくらい、特別な場所へ突き入れたまま――欲望を解き放ちたい。 「欲しい……ゼファーのが、ここに欲しいの……っ。くぅっ……ふぅっ……んはぁっ……あああ……」 下腹部をさすりながら、彼女が〈囁〉《ささや》く。 腰の動きを止めることはないが、その小さな乳房をつまみ甘噛みを加えつつ、奥へと狙いを定めてゆく――欲望のまま果てるために。 「ああっ! な、〈膣内〉《なか》ぁっ、ゴリゴリあたって……気持ちいい……っ」 ふわっと汗の匂いが広がる。俺のものなのか、彼女のものなのか、もはや判然としない。 脇の下からも濃い匂いは〈零〉《こぼ》れていたし、そんな少女の甘い香りでペニスは激しく反応し、怒張が張り裂けんばかりに硬くなる。 指でそっと乳首を摘み、きゅっと力を入れると、彼女の息を深く吐き出した。 「はふぅっ……、ああっ……あふぅんっ……んんっ」 「ゼファーの指で、クリクリされるの、大好きよ。もっと激しくしても……んんくぅっ!」 指の力を強めると、彼女の足がびくんっと震えた。同時に怒張がきゅっと締まり、雄の欲望を高めていく。 「……あ、あそこに、響くわ……っ、まるでえっちなスイッチみたい」 「乳首から、もっと下……んんっ、お、お腹の中が下がってくる感じ……」 そうして乳首をそのまま指ではさみながら、乳房を揺さぶるように愛撫すると、悲鳴のような〈嬌声〉《きょうせい》が部屋に広がった。 「ひゃああああああああああああぁっ! い、いいぃっ……やぁあっ!」 「はぁっ……あああんっ! ああっ、あっあっあっあっあっ、あっ! あっ! あああっ!」 すっかり洪水になってしまった性器。たったこれだけの時間で、蜜の滲みが大きくなっていた。 ぷっくりとした陰裂の充血によって、陰唇はびらびらと半開きになり、早く早くと種付けをせがんでいるよう。 ――望み通り、望むままに律動のペースを上げてゆく。 「あああああんっ! ふああっ! ゼ、ゼファーぉっ……奥へ、こつんって強くあたってる……」 蕩けた内臓の感触は熱く、溢れる密液はヴァギナばかりかお尻の方まで濡らしていく。 声を上げてよがる彼女の膣内をかき回し、膣内の壁をぐるぐる回して擦るように責める。膣肉に自分の味を教え込み、締め付ける少女の膣肉にペニスが悦びの雫を流す。 気泡の交じった密液が、ビチャビチャといやらしい音を立てて滴り落ちていった。 「も、もっとよ! もっと……っ、かき回して……んくぅううううっ! 欲望のままに、かき回して」 「くうぅ……はああああっ! ああっ、ああああ……な、中が、おかしくなっちゃいそぅ……っ」 こりこりと子宮口を重点的に責めて幼い肢体を震わせ、興奮と快楽の虜のように表情を蕩けさせた。両脇に広げた足が、俺の腰へしがみ付きがっちりとホールドした。 抜かないでという意思表示に対して膀胱の裏側をこすると、〈蠢〉《うごめ》く膣内の肉が総毛立つようだった。 「あっ、ああっ! ああああっ……はぁ、んんっ……、ゼファー……っ」 甘い呼び声に硬度は最高まで高っている。〈精嚢〉《せいのう》が〈疼〉《うず》き、雄の本懐を果たせと〈滾〉《たぎ》る。繁殖欲求が止まらない。 「んはぁああああっ、ああああうぅっ! くぅううううううう!」 そして、一気に激しく刺し貫くと、ヴェンデッタは悲鳴のような〈嬌声〉《きょうせい》を上げた。深く深く粘膜が交尾して、そのたびに充足感が背筋を駆ける。 「アソコが……あつっ……、お腹の中……、んんんっ!」 「な、内臓まで……っ、パンパンって、されて……っ」 ピッチを上げ、ストロークも長くしていく。 〈雁首〉《かりくび》ギリギリまで引き出してから、子宮を貫くようにして一気に突く。瞬間、ぐちゅうと愛液が爆ぜた。 べっとりといやらしい粘液の水たまりが出来上がり、抽挿はラストスパートへと向かってゆく。幼い子宮を意識する度、〈眩暈〉《めまい》がしそうな背徳感が埋まったペニスを震えさせた。 「ああぁっ……はあぁっ……んんんんっ! 凄いぃいいい、イイぃっ……いいのぉっ!」 「それ! ゼファーの、長さが、好きなのっ! 硬さも太さも全部、全部……たまらなくて、心地よくて」 「あああっ! あああっ! あっあっあっあっ! 抜き差し、早いのも好きだから……ぁっ!」 未成熟な女性器の中を、長めのストロークで、しかし短いピッチで揺すり堪能する。 さっきまでと比べ物にならない刺激で、ヴェンデッタは本能のまま髪を振り乱して喜んでいた。 「うあぁっ……あああうぅっ! はぁあああああん、そ、それぇっ!」 「そ、そこぉっ、そこがぁっ、いいからっ!」 〈嬌声〉《きょうせい》ごと膣内がうねり、それはまるで別の意志をもった生き物のようだった。性臭を吸うたびに睾丸の奥が疼く。 求められたのは子宮口、精を注ぐ受け皿に鈴口を当てこね回す。 「ううぅっ……あああっ! あくぅっ!」 「ゼファーのぉ、おち○ちん……子宮のところ、擦ってるぅ……っ」 「あああぁァっ! あああああっ……いいぃっ、こね回してっ、子宮のところ柔らかくして……? 種を全部、受け止められるように……っ」 生殖行為本来の目的を遂げるべく、短い律動が、快楽のツボをはっきりと突いてゆく。 膣から愛液が噴き出しては、挿入している場所では肉壁の〈蠕動〉《ぜんどう》により、ペニスが歓喜の悲鳴を上げていた。本能がひたすら〈昂〉《たか》ぶる。 びちゃびちゃ、ぐちゅりといういやらしい粘着音が響き、互いの耳を楽しませる。ああ、もう駄目だ。我慢なんてできない。 このまま、根元まで埋めたまま、ただ心地よく…… 「あああぁぁっ! 精液……を、全て注ぎ込んで……あああああぁっ! もぉ、もぉ……もぉっ、だめぇっ!」 「イッちゃうぅっ! ゼファーっ、イッちゃうぅよぉおおおおおおおおおっっ!」 そして、瞬間、互いが絶頂を目指してストロークを早めて── 「きゃあああああああああああああああぁぁっっ!」 「イ、イクッ! イクゥううううううううううううううううううっ!」 甘い〈疼〉《うず》きを解き放ち……快楽に導かれるまま、彼女の一番深い部分へと白濁液を吐き出した。 捧げられた子宮で雄の本能を遂げる快感。甘美なる背徳感が、どうしようもなく種付けを後押しする。最高の吐精だった。 彼女の足は変わらずがっちりと俺の腰を挟んでいる。離れられない、離れたくない、二人が望むまま隙間もないように生殖器を絡ませあって……精を放つ。 「きゃうううぅぅんんっ! あっ! ああっ! ああっ!」 「あああ……っ、熱いっ、流れこんで……くるわ。凄い、びちゃびちゃになって……んぅぅ」 肩で息をするヴェンデッタが、全身の〈痙攣〉《けいれん》をなんとか堪えるように打ち震え、俺の身体を求めて腕を伸ばしてくる。 そのまま受け止めるように、彼女の身体を抱きしめた。そして更に、深く下半身をぐちゅりと結びつかせ合う。 容赦なく、遠慮なく、互いに生殖行為の最高点を堪能し尽くし…… 「はぁ……あああっ……ゼファー、好きよ……、大好きぃっ……」 「んっ、ちゅ……ちゅっ……」 中に入れたまま、後戯のキスを交わし合った。その度にペニスに走る甘い〈痺〉《しび》れが、残り汁を少女の子宮へ注いでいく。 口付けあいながら、下半身をゆっくりと動かして余韻を互いに味わいあう。それだけでも快感と幸福に溶けそうだった。 「ふぅううぅ……んん、ゼファーとこうやってるの……凄い幸せ……」 「もう二度と、このおち○ちんを抜きたくなくなっちゃうくらい」 見下ろした結合部からは、ふたりの性液がべっとりと広がり、泡立ち、クリームのようにこびりついている。 膣内の奥へ欲情を吐き出し、思うさま種付けしたという事実が、雄の加虐心と征服欲を加速させた。 頭がおかしくなりそうなまま、男性器をヴェンデッタの膣肉からゆっくり引き抜いて…… 「あんっ」 ほかほかと湯気さえ出そうなそこを確認すると、どろりとした白濁液が垂れてきた。 俺が思うまま吐き出した、雄の身勝手な欲望の証が…… 「……うふふ。ちゃんと見てる? あなた、これだけ種付けしたのよ」 幼い女性器はとろとろになり、膣内から溢れてくる精液の匂いは、くらくらとするほどの強烈な匂いがした。 わざと両足を広げ、ぐちゃぐちゃになった粘膜の穴を嬉しそうに見せ付けるヴェンデッタに生唾を飲む。 雌雄が没頭した交尾の証明、頭がおかしくなりそうなほど〈淫蕩〉《いんとう》だった。 「こんなに濃厚なのを出したなんて。量もお腹が破れるかと思ったわ……」 「けど、まだまだ出し足りないでしょう? 生殖本能を心ゆくまで満足させて、抱き締めて、私の子宮を屈服させたくてたまらないんじゃないかしら……?」 「いいわよ、始める前に言ったでしょう。今はひたすら、ゼファーのことを感じたいって……」 「だから――最後の一滴まで注いでちょうだい」 その一言で、呆れるほど射精したというのに、ペニスは理性というタガを外してしまったようだった。 怒張していたものは、再びすぐ硬度を取り戻して反応していく。胸の鼓動が早くなり、血流が勢いよく流れ。期待にうねる膣内は視界の内で、淫らに収縮を繰り返していた。 子宮の奥から吐き出される欲情の蜜は、そのまま彼女の渇望だろう。 だからそのまま…… ひと休みするつもりもなく、立て続けに行為へ勤しむ。時間も空間も確保された世界だが、そうあっても惜しいくらいに、ようやく手に入れたヴェンデッタだから。 一度出したことで潤滑油は万全、挿入の準備をするまでもない。交わったまま態勢を変えて、俺たちは再び動き出す。 「あんっ、や……、ゼファーから丸見えね」 羞恥に震えるようだが、表情はそればかりではない。むしろ、性器を見せつけるように足を開いて〈淫蕩〉《いんとう》に微笑んでいる。 あられもなく開かれた秘所からは、濃密なまでの交尾臭が立ち込めていた。 激しく抽送を繰り返し、ぐしょぐしょに濡れ、無毛の幼子のような筋がてらてらと光る様から目を離せない。動く前だと言うのに、それだけでまた注いでしまいそう。 この奥に、もっと出したい。粘膜に包まれたまま、何度でも果てたい。 「恥ずかしいけど……、こういうのも、興奮して悪くないわね」 「ああっ、出したばかりなのに、また膨らんで……っ、亀頭がパンパンになってる」 接合部は、充分に馴染んでいる。肉の割れ目から、どろりとした密液が〈零〉《こぼ》れ、互いの内ももに垂れていた。 糸を引くほど濃い和合水は、肌が〈灼〉《や》けるかと思えるほど熱い。 「はぁ……ああ……、あついぃ……、あつくて……、さっき出したのが、お腹の中でたぷたぷしているわ……」 「激しく突かれると、こぼれちゃいそう……っ、もったいなくて、それから、いやらしい……」 赤く腫れ上がるような肌色が、さらにどろどろと蕩けていくイメージ。それくらい熱い精液で子宮の中が満たされている。 生殖行為で溶け合い混じり、ディープキスかの如く絡み合う粘膜は、今までどれだけこの奥へ種付けしたのか……情熱的につたえ合っていた。 「はぁはぁ……、あそこがちゅぱちゅぱ吸い合ってる、くぅうん……ぐちゅぐちゅのどろどろになりながら……」 「子宮って、こんなにも深く、キスするところだったのね……っ」 その言葉を機に加速する獣欲のような行為と背徳感。甘噛みどころではない、鈍痛を抱えながら、〈貪〉《むさぼ》り合う律動は際限なく加速していった。 グチュグチュという水音が再び広がるのを聞いて、俺たちは熱っぽくも新しい興奮に包まれ始めていた。 割れ目を上に向かって、擦り上げる。陰核からこりっとした反応が返ってくるたび、ペニスの裏筋から電気のような刺激が〈奔〉《はし》った。 弓なりに喘ぐ彼女の美しい銀髪は、べっとりと汗で頬へ張り付き、〈淫靡〉《いんび》な表情を見せてくれる。 「い、いいぃっ! いいわぁ……そ、そこ! いちばん……気持ちいいところぉっ」 クリトリスをしきりに擦過するペニス。 開ききった陰唇の奥からは、先ほどまでよりも多い蜜液が、後から後からどろりと溢れている。 「ふあぁっ……あああっ……、い、いっぱいよぉおっ……、内臓までせりあがってくるっ」 「つ、突いてぇっ、突き刺して犯して……っ。わたしの、こと……くぅうう、めちゃくちゃにして欲しいの……!」 たぷたぷといった感触は、ヴェンデッタのみならず俺にも伝わってきていた。吐き出したばかりの精液で膣の中は溢れるくらい、いっぱいになっている。 それを〈掻〉《か》き出し泡立てながら、一気にペニスを抽送させた。 「はぁはぁ……くぅううう……んはぁああ! 子宮にごりごりあたってる……、先っぽが思いっきりぶつかって、るぅ」 変化をつけられるほどの余裕はこちらにもない。まったくない。あらゆる刺激によって、身体は自分の意識から離れてしまったようだ。 腰のあたりが〈疼〉《うず》いて重く、〈精嚢〉《せいのう》がこの奥に注ぐ新しい精子を止め処なく製造していく。 遠くなる意識の向こうからは、ただ種付けしたいという欲求だけが〈怒涛〉《どとう》のように押し寄せてきた。腰を動かす、止まらない。 「こ、これ……ひぃぐうううう、……ね、狙ってる、のね? 私のこと、孕まそうって、ゼファーのおち○ちんが狙ってる――」 注がれる精液を今か今かと待ち望むように、泡立つ粘液が奏でる水音の調べ。子宮口がくぱりと吸い付きながら、もう一度の射精をこれでもかとねだっていた。 「い、いいわぁ、きて……っ、ゼファーの子種で、もっとお腹が裂けちゃうくらい……注いでぇえええ!」 ペニスを膣内から逃すまいというような、身を〈捩〉《よじ》る動き。もちろん俺だとて腰を引くつもりなんて一切ない。出すのなら、今突き入れているこの柔らかい膣肉に包まれてだ。 〈蠢〉《うごめ》く肉壁と亀頭の擦過が、いよいよ二人の快感へ終わりを差し伸べようとする。雄と雌の欲望が合致して、最果てへ向け駆けていく。 「くふぅっ……んんっ……んはあぁぁっ! だ、だめぇっ!」 「せ、せっかく、気持ちいいのにっ……、頭が、とんじゃいそう……と、とろけちゃうぅっ!」 「ああっ! ああ……、ひゃああああん、あっあっあっあっあっ――」 膣内は本人の意識すら置いてけぼりするように、びくんびくんとうねっては〈痙攣〉《けいれん》を繰り返している。その〈蠢〉《うごめ》きさえも、すさまじい加速度で変化していくようでペニスから伝わる快感。 ぐちゅぐちゅと混ざり合う愛液と精液は、さらに濃厚な音を立てて内股へと垂れてゆく。 「うぁ……ああ……〈膣内〉《なか》でぇっ、ゼファーが、ゼファーのが、ぐりぐりしてる……のっ!」 「はぁはぁ……、分かるかしら? 全部、分かるの……ゼファーの想いも、欲も、すべてが」 「ふぁああっ……ああああっ! お姉ちゃんをめちゃくちゃに、したいんだよね、わたしのことぉっ……あああんっ!」 その時──ふいに混じった〈意〉《 、》〈識〉《 、》が、歓びを〈掻〉《か》き立ててくる。 ぽたぽたと垂れる汗が、少女の肌を一つまた一つと妖しく染め上げてゆく。 〈揮発〉《きはつ》する匂いは、かいだことのない匂いをして、それは汗というよりも、体の奥底から湧き出る快楽の蜜のように思えた。 そんな欲望からにじみ出る液体に、白皙の肌が汚されてゆく。 「もぉっ。が、我慢、できないわ……ああああああっ! ああっ!で、でる、出ちゃう……!」 小刻みに震えたかと思いきや、接合部からびゅっと潮が吹き出てきた。 勢いよく飛び散ったそれは、俺の陰毛や腹にまでかかり、めまいのするような臭気をして雄の獣欲をかきたてる。 甘いとかしょっぱいとか表現できないような濃厚な性臭に、鼻腔が犯されていた。ペニスが疼く。 「あぁ……や、やぁっ、イっちゃた……勝手に、我慢できなくて……っ」 紙一重で変わらないようなものだが、たしかにこちらはまだ果てていない。硬くそそり立ったものは、相変わらず少女の膣内にみっちりと納まったまま、自己主張して跳ねている。それもまた心地いいのだが。 なればこそ、落ち込みそうになるヴェンデッタを無視して、抽送をゆるめることなく続けた。 何度でもイけばいい、こいつが自分へそう言ってくれたように。 「ああっ! ゼ、ゼファー……そんな、今続けられたら、私……ふあぁっ……きゃああああ!」 「ああああ……、目の奥でバチバチって、んんくぅうううう……ああああ! 駄目、またすぐ……はぁあああああああん!」 絶頂直後の敏感になった状態で締め付けてくる感覚に、ペニスは溶かされてしまいそうだった。 戦慄しているような女の悦楽に、こちらの感情までもが、ぐちゃぐちゃに揺らされてしまう。汗ばんだ肌と肌をより触れさせ合う。 「ひ、ひぐぅうううう! す、凄いぃっ! ずるずるってぇっ……内臓が、搔き回されている、ようでっ!」 「こっ、これっ! たまんない! あああああ……っ、ああああああああああ……!」 断続的になった〈痺〉《しび》れる感覚が、興奮の糸さえ千切ったように思える。そんな絶叫。 叫ぶたびに、締まりがよくなる。俺のペニスへ愛おしそうに〈襞〉《ひだ》と粘膜がむしゃぶりつく。 「ああっ、ひゃあっ……、ふわぁあああっ! ゼファーのぉっ、びりびりしちゃううう!」 「うふぁあぁっ……、あああああっ! あくぅんっ……んんっ……ひあああぁっ! い、いっぱい奥から、肉ごと、引っ張りだされちゃうみたい」 敏感な膣内の肉壁だけでなく、内臓器官までもが、悲鳴を上げながら快楽を注ぎ込んでくる。子宮どころか、ヴェンデッタの身体すべてが求めた果てに染め上がっていくのが分かる。 ただの抽送とはまた違う、快楽のための性交よりも深い、魂のまぐわいと言うべき深淵の淵で。 彼女の〈嬌声〉《きょうせい》は、いよいよ終わりのときを伝えていた。 「はぁはぁ……、あああああっ! ああっ! あっあっあっあっ……くぅう!」 「また、イッちゃうぅ! こ、今度は、さっきよりもイッちゃうぅのぉおおお!」 「ゼファーのが、膨らんで……はぁあああああん! ひぎぃいいいっ!」 唇の端からは〈涎〉《よだれ》がとめどもなく垂れている。 意識を塗りつぶすような絶叫を上げ、彼女は爆ぜたように再び達した。 「きゃふぅうううんんっ! んはぁ……っ! あっあっあっあっあっ!」 「好き……っ、好きよ! ああ、幸せ……ずっと、こんなときを、夢見てたの……んんっ」 「お、おかしくなるぅ……っ、頭の中まで、かき混ぜられてみたい……!」 膣で泡立つ和合水が、奥へ突く上げるたびに〈掻〉《か》き出されて漏れてくる。 性臭はどこまでも濃厚で、気泡の混ざる〈淫靡〉《いんび》な水音に、鼻の穴も耳の穴も犯されているようだった。 同時に恥骨と共に、尻のあたる渇いた音を響かせる。柔らかい尻肉がたぷりと歪み、それがまた快感を生んだ。 「んくぅううううう! もっ、もぉっ……もっとぉおおお! 奥まで、パンパンしてぇえええっ!」 言われるままに、ヴェンデッタの中を犯してゆく。ぐちゅぐちゅになった大量の体液が、接合部からぽたぽたと垂れて滲み出し、床までをも汚した。 あられもない女の姿に瞬間、感動も似た思いが駆けめぐったせいか二度目の射精が、すぐそこまで迫っていた。 びっしょりと汗に濡れた身体をぶつけ合い、一瞬たりとも気を抜くことなく、最後まで高め合う。雄の繁殖欲を受け止めてほしいと腰を突きだせば、少女は幼い子宮をこりこりと揺さぶりながら押し付けてくれた。 注ぐ者と、注がれる者……どちらも種付けを求め合う。 抜くことなんて考えない。 「〈彼女〉《わたし》のおま○この中……はぁはぁ、んくぅうううう……昔よりも、狭くて、きつくて、気持ちいい?」 答える余裕なんてなく……抱える不安や疑問にはひたすらの律動で答えてゆく。 男としての本能で、これよりも興奮する瞬間などあるはずがないという確信で、子宮の深いところを〈抉〉《えぐ》るように突きまくった。 「はぁっ……ああああ……っ! う、うん……伝わって、くるから……そんなに気持ちいいのなら、もっと……最後までっ」 結合部から溢れる水音は、もはや泥をこねるようだった。ぬかるみにペニスは溶けて、下半身が一体化したという錯覚が激しい。 子宮口と亀頭が何度もキスをしては離れ、キスをしては離れ……ああ。 「あ、ああううぅっ! いやらしい、音……もっと、響かせて……」 「んんっ! はぁあああああっ! 耳も、気持ちいいから……あああっ、ああっ!」 まとわりつく粘度と量が、亀頭を刺激して止まらない。尿道を上って来る濃厚な精子が、もうすぐに── 「やぁっ……、く、くる! もおっっ、もぉっきちゃうの……っ!だめぇっ、イキそうぅっ! イッちゃうぅっ!」 「い、一緒にっ! ゼファーぁっ……一緒に、おねがい!」 そして──深く、深く、奥の奥まで互いに生殖器を押し付けあって。 「きゃあああああああぁっ! あーーーーーーーーっ!」 二回目だというのに、大量の精液がどくどくとヴェンデッタの中へ吐き出された。 膣の中をたぷたぷにして〈掻〉《か》き出し、再び注ぎ、さらにまた〈掻〉《か》き出しては注ぎ込んで種付けする。 接合部からは泡立ってすえた匂いが立ち込めていた。ペニスが小さな膣の中で、喜びながら打ち震えて暴れるように精を吐く。 間違いなく絶頂を迎えている様子に抱きしめながら心置きなく種を吐き出いsた。満足していく生殖本能、未熟な子宮へ心地よく種付け、雄の味を覚えさせていく感覚がたまらなく脳を焼く。 彼女の髪に鼻をうずめ、その甘い体臭を吸いながらの吐精。腕は自然とがっちり身体を抱き寄せて、密着したまま離さない。 「はぁあああっ……ふわぁっ……、あああ……ふぅうっ!」 ヴェンデッタの全身がガクガクと震え、伸ばした足はピンと引きつっていた。そのたびに膣が愛おし気にペニスを搾り、種をちゅうちゅうと〈貪欲〉《どんよく》に啜っていく。 脈打つたびに注いで、注いで……意味深に下腹部を撫でてやった。 臍の下から子宮を刺激するその仕草にうっとりと、少女の顔が法悦に蕩ける。 「はぁはぁ……、はあっ……あっあっあっあっ……びくびくしてるの、止まらない……っ」 「いっぱい出して……欲望のまま……雄の本能を、受け止めたいから……あぁん」 自分の意志ではどうにも抑えられず、奥へと打ち付けられるように噴射される白濁液にされるがままといった反応が愛おしい。震える身体を後ろから抱きしめながら……射精を最後の一滴まで堪能する。 そのままじっくりと、数分もの時間をかけて、吐精の余韻と充足を互いにたっぷり味わい尽くして…… 「き、気持ち、よすぎて……、おかしくなる――狂うかと思ったわよ……ふふ」 拗ねるような、陶酔するような〈呟〉《つぶや》きと共に脈動はようやく止まった。 ここまで深く激しい精の応酬は、互いに生きてきて初めての経験である。 ヴェンデッタだけでなく、俺もまたここまで繰り返し精魂尽きるといった感覚で果てるのは、今までに感じたことのない充実感をもたらした。 「ゼファー……、大好きよ。愛しているわ」 「だから、強く抱きしめて……私のことを離さないように」 「これがあなたにとって、真実を告げる勇気となるように――」 それはヴェンデッタにとって、どこまでも純化された懇願にも近い言葉だった。 指している意味は分からなかったが、何も答えずにただひたすら強い力と強い気持ちで、小さな身体を俺は抱きしめ続けるのだった。  それはゆっくりと、しかし確実に進行する──降誕の儀式。  歪む空間、移動する座標、次元間で激しく干渉を起こす星の粒子。  地球の大地を目指しながら、〈第二太陽〉《アマテラス》が墜ちてくる。  虚空に空いたはずの大穴は今や物質のような振る舞いを見せ、夕暮れの西日が如く地表へ向かって降下していた。  行く先はアドラーの帝都中央、セントラル。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の哀悼に満ちた歌声に惹かれながら一直線に近づく様はこの世の終わりか、逆に再誕を予兆させる光景だろう。  時間経過と共に上昇し続けるアストラル濃度は、すでに一般人さえ視認可能な領域まで到達している。  総合すれば、説明不要の畏怖と畏敬を感じさせる情景だった。  荘厳で、幻想的で──しかし真実を知らぬものから見た場合、まさしくこれは世界を壊す天変地異に他ならない。  そしてその感想も、さして的外れではないだろう。世を一変させる大変化は紛れもなく既存文明を破壊する絶大な変革因子を備えている。  終末に瀕したかのよう、帝都の市民は〈慄〉《おのの》いていた。家族や知人と抱き合いながら、祈るように太陽の降誕を眺めている。  改善であれ改悪であれ変わることそのものが大半の人々にとっては、身も凍えるような恐怖なのだ。  清廉でも強靭でもない彼らは、数多いる歴史の証人として舞台の推移を見守ることしか出来なかった。  そう、運命は完成する。  聖戦はもはや間違いなく成るだろう。  降誕を止める手立ては既になく、対抗馬も存在しない。  一人の男と一人の女を生贄として、あらゆる命を巻き込みながら英雄譚は成就する。  だが、しかし── 「下がってくれ、二人とも。これでは奴と戦えない」  それを食い止めるべく、運命の渦中へ踏み入ったのは純白の燕尾服。  燃えるような決意も新たに、ルシード・グランセニックは英雄と対峙した。 「ルシードさん……」 「そう……あなたも、私と同じ気持ちなのね」  ああ、その通り。自分の弱さに腹が立つと、彼は静かにイヴの〈呟〉《つぶや》きへ同意していた──情けなくてたまらない。  手をこまねき、英雄や神星が相手だからと逃げていた過去の自分を激しく恥じる。決意するのにこんな瀬戸際までかかってしまったことを悔い、しかしそれを清算するため確かな決意を携えていた。  真っ直ぐな視線に、怖気や〈怯〉《おび》えは欠片もない。 そんなものは吹き飛んだとも。  このような状況に陥って、大切な者たちを犠牲にされ、それでも動けないようならばそんな自分に価値はないとルシードは心を〈滾〉《たぎ》らせる。 「俺の目も節穴だな」  その強い眼差し、英雄を前に一歩も退かぬ眼光に対してヴァルゼライドは嘆息した。  含有されている思いは呆れでも苛立ちでもない。この状況を予見できなかった自分自身と、予想を超えたルシードへの純粋な賛辞から出た〈呟〉《つぶや》きである。 「予想はできるが、その意志を尋ねよう。なぜここへ来た?」 「それこそ答えは一つでしょうよ」  ミリィの勇気、イヴの決意、ジンの覚悟──他にも、他にも。  各々の理想と信念をもってそれぞれの苦難へ立ち向かおうとしていた人々、その姿を眺めながら何も出来ず部屋に縮こまる自分を見て、そう。 「情けないと、素直に思った。それだけさ」  そして何より、ヴェンデッタを生贄に様変わりしていく世界の姿。  こんなものを指を〈咥〉《くわ》えて見ていることの愚かさに、臆病者の〈錬金術師〉《アルケミスト》はようやく目が覚めたのだ。  ああ馬鹿馬鹿しい。こんな運命をなぜ自分は見過ごそうと思ったのか。愛すべき人の死を、友と歩んだ優しい世界を、なぜ守ろうとさえしなかった?  そして力の有無ではなく、それでも立ち向かうと決めた人々の雄々しさに比べれば……翻って今の自分はいったい何だ?  いいはずなんて何処にもない。  だからこそ、決めたのだ。己が命の使い道を。  さあ──行こう、ルシード・グランセニック。  ここから挑む運命に、後悔など欠片もない。  今これからの一戦がために自分は蘇ったのだと、確信しながら光の魔人へ挑戦状を叩きつける。 「よかろう、来い──」  ならばこそ、ヴァルゼライドもまたルシードを最大の障害として認識する。  その目、その覇気。もはや自分が知っている〈錬金術師〉《アルケミスト》ではないのだと、理解したゆえ容赦はしない。  膨れ上がっていく闘志と闘気。〈火蓋〉《ひぶた》はいつ切られてもおかしくない、その時にルシードは…… 「持っていてくれ、ミリィちゃん」  激突が始まる前に取り出した白薔薇を、優しく少女へ投げ渡した。  それは、純白の造花。彼が好む色合いをした飾り付けは、ルシードが誰のため用意していた贈り物であったかを一目で分からせるものだった。  いつか自分の手で渡そうと大切にとっておいたはずの物をミリィに預け、彼は照れくさそうに頬をかいた。 「これから、ちょっと汚れてしまうだろうから。  綺麗なままで彼女に渡したいんだよ……ね?」  はにかんだような笑みに籠められていたのは、気恥しさだけではない。  不退転の覚悟。決死の誓い。英雄を相手取ることに対する内面を〈垣間〉《かいま》見て、ミリィは強く〈頷〉《うなず》いた。  大切な想いを託されたのだと気づいたから、白薔薇を大切に両の手で包み込み兄の友人へ言葉を送る。 「──任されました。ルシードさんの気持ち、絶対に届けましょう」 「ミリィちゃん、こっちよッ」  そして、二人の女は戦場から退避する。  同時──極限まで高まり始める魔星の圧力。木星と水星が空間を〈軋〉《きし》ませながら異星環境を発現していく。  〈睨〉《にら》み合うヴァルゼライドとルシードに言葉はなく、滲み出る殺意の火薬へ個々の星光を一つ一つ必滅の願いを籠めて装填していく。  英雄が、切っ先を揺らし──  貴公子が、掌をかざして──  小さな瓦礫が転がり落ち、音を立てた──その瞬間。  幕は一気に落ちたのだった。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈天霆の轟く地平に、闇は無く〉《Gamma-ray Keraunos》ッ!」 「〈超新星〉《Metalnova》──〈雄弁なる伝令神よ。汝、魂の導者たれ〉《Miserable Alchemist》ッ!」  そして、初撃──同時に放たれた超新星が互いへ向けて炸裂した。  共に全力、様子見不要。加減や〈躊躇〉《ちゅうちょ》は欠片もなく、出し惜しみなど一切ない。恐るべき量のアストラルと感応しながら放出された星光が、地表を照らして爆発する。  〈天霆〉《ケラウノス》が顕現するは、断罪の絶滅光。  極限域の集束性から放出される放射能を模した輝き、その凶悪無比な殲滅力で如何なる守りも突破する。  〈錬金術師〉《アルケミスト》が顕現するは、回避不能たる魔の磁界。  敵対象の体躯、武装、周辺にある干渉可能な鉄鋼類に至るまで……最大限に干渉して己が支配の〈枷〉《かせ》を〈嵌〉《は》める。  破壊力は前者が圧倒しているものの、応用力と手数の面では後者の方が優れているといえるだろう。よって性質の違いはあれど、総合すれば彼らは互角。同じ土俵に立っている。  星の力はさほど隔絶したものではなく、〈性能〉《スペック》だけを考慮に入れれば軍配が上がるのは時の運に違いない。  事実、〈挨拶〉《あいさつ》代わりに放たれた最大火力の衝突は、両雄劣らぬ結果となって訪れた。  ヴァルゼライドは磁力の縛りに抵抗し、動きを減退されながらも襲い掛かる鉄塊、瓦礫を断ち切った。  つまりは無傷。流麗な動きのまま不可視の結界をも抜ける。  対して、ルシードも万物貫く光の刃を同時に苦も無く回避した。己の身体に磁性を付加して、引力と斥力を利用した高速移動による技だ。  こちらも無傷。星光を最大限に駆使することで、死の〈煌〉《きら》めきを後にする。  〈木星〉《ゼウス》と〈水星〉《ヘルメス》……魔星の名を関する者として一見、両者に優劣の差は見られない。 「確かに、貴様は魔星の内では最も優れた個体だろう」  ゆえに、ヴァルゼライドは素直にそれを認めた上でこう繋げるのだ。 「──だが、〈戦〉《 、》〈闘〉《 、》〈者〉《 、》としては三流以下だ」  足らないものが多すぎる、と……指摘しながら〈先〉《 、》〈読〉《 、》〈み〉《 、》していた地点へ向けて、滑るように刃を振った。  まるで吸い込まれるように〈奔〉《はし》った一閃。未来予知じみた小気味の良さで、ルシードの回避地点へ極光が雪崩れ込む。 「ッ、ぐぅぅぅ……!」  刹那、別方向へと磁性反発──強引な二段加速の技を用いることで、自身の身体を他方へ弾き飛ばした。  ゆえに当然、無理な体勢からの急制動に身体が大きく軋みを上げる。鼻先を掠めるほどの瀬戸際で死を遠ざけるのに成功したが、代償は祟るようにじわりとルシードを蝕んでいく。  ──更に。そう、当たり前のように読まれていた回避先へと、再び刃が襲来する。  磨き抜いた戦闘眼、鷹の如き眼光からは逃げられない。  それは〈星辰体〉《アストラル》に関係する〈性能評価〉《スペックデータ》とはまったく別の、闘争感覚による賜物だ。  潜り抜けた修羅場の数が、絶対的に違いすぎる。英雄という殺し滅ぼす者として完成しているヴァルゼライドへ相対するには、優れた〈星辰光〉《アステリズム》を保持するだけでは埋められない差が存在していた。  星の力、並びに鍛えた戦闘力。  これら二つがヴァルゼライドを〈斃〉《たお》すために必要な、最低限の必須条件なのだろう。  少なくともアスラに匹敵する危険察知の感覚程度は備えていなくば、そもそも話にさえならない。  ……よって、勝負を決したのは〈僅〉《わず》か三撃。  防御不可能の光に飲まれ軽々と消滅される──寸前に。 「は、────舐めるなァッ!」  対策を講じていたのは〈英雄〉《おまえ》だけではないのだと。〈迸〉《ほとばし》る叫びと共に、練り上げられた不可視の縛鎖がヴァルゼライドの刀身へと蛇のように絡みついた。 「これは──」  次の瞬間、敵手の振るう破滅の光は幻のように消えさった。  ルシードへ直撃する刹那、空中分解した殲滅の輝き。ヴァルゼライドを最強たらしめる〈星辰光〉《アステリズム》が端からほどけていくように、その存在を失っていく。  彼の振るう刀状の〈発動体〉《アダマンタイト》は〈煌〉《きら》めきを霧消させ、もはや単なる磁石と化し鞘その内へと接合される。 「その星、封じさせてもらう……!」  そう、これがルシードの選んだ秘策。  掟破りの星光封じ、英雄の象徴たる〈天霆〉《ケラウノス》の封殺だった。  ヴェンデッタとは異なるものの、磁界操作という支配の力は〈星辰奏者〉《エスペラント》という存在にとって本来最大の鬼門である。なぜなら彼らは鋼を頼りにアストラルと感応を行わなければならないのだから。  この大前提がある以上、必要媒体に直接訴えるという能力はそれだけで絶大な相性上の優位性を確立できると言っていい。  〈錬金術師〉《アルケミスト》が魔星において最優であり、一種の完成品であり、誰も敵わないと結論付けられた理由こそがこれだった。  回避不能の磁性支配──この視えない絶対圏がある限り、ヘルメスは間違いなく無敵の性能を誇っているのだ。  異常に増大したヴァルゼライドの出力は確かに強大無比だったが、全力を注ぎ込めば封じることも不可能ではない。  その代償に、別の物体への干渉は一握の砂鉄さえ動かす余裕も残っていないがこれで英雄は必殺の矛を失った。  相手は既に〈基準値〉《アベレージ》へ固定された〈優〉《 、》〈秀〉《 、》〈な〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》の〈星辰奏者〉《エスペラント》だ。  ならば、〈発動値〉《ドライブ》を維持した〈人造惑星〉《プラネテス》たるルシードが有利であるのは、明らかな事実であり── 「ご、ぉ……ァ────」 「──手ぬるい」  ……そのような苦肉の策など、この男には通じない。  鉄槌の如き無手の〈戦闘力〉《こぶし》により彼の策は打ち崩された。 「言ったはずだぞ、〈錬金術師〉《アルケミスト》。戦闘者としておまえは三流以下なのだと。  貴様は、俺に、敵わない」 「かはッ、ぐぅぅ……ッ」  言い放ったと同時、更なる追撃がルシードの身体を襲う。  真っ直ぐに放たれた正拳が〈顎〉《あご》をかち上げ、硬直した隙に懐へ潜りこみながらの〈肝臓打ち〉《レバーブロー》。くの字に折れた身体へ向かい、矢のような逆回しの蹴撃が流れるように突き刺さった。  強烈な嘔吐に支配され、思わず逃げようとすれば足の甲を砕く震脚。距離を稼ぐことさえ出来ずに、成す術なく〈滅多〉《めった》打ちにされるまま……  ルシードは今や、英雄のサンドバッグと化していた。  地力では確実にヴァルゼライドを上回っているはずながら、その優位を凌駕する戦闘技巧を前にして、何も対応できていない。  拳の間合いに、歩法、理合、呼吸の妙──何だそれは? 理解不能だ。  今、自分がどのように殴られているのか。理解する余裕さえ与えられず、英雄の手で真っ向から破壊されていく。  それはまさに、積み重ねてきた修練の差による結果である。  聖戦を想定して不断の努力を積み重ねてきたヴァルゼライドの生涯はひたすら重く、そして強い。対してルシードはどうであろうか?  彼はこの日のために向けて何か備えをしてきたか? いいや、否。ただただ怯え、逃げていた。  覚醒はつい先ほどの事であり、ゆえに事前準備という点で相手に大きく水をあけられている状態なのはどうしても否めない。  臆病者がある日突然、何か決意を得たとしよう。今までの己を恥じて悔い改めたと仮定しよう。  それは確かに素晴らしいことだろうが心を変えたその瞬間、素晴らしい人間に生まれ変わるかというのならば答えは否だ。  そんな一朝一夕で、誰しも立派になれはしない。  心の革新は一瞬でも、身体は血と肉で出来ている。  継続とは力なり──鍛え上げるために相応の手間と時間を費やすのは当然のことであり、よってルシードはヴァルゼライドに自明の理として敵わない。  何より、〈錬金術師〉《アルケミスト》の性能は最高の〈星辰光〉《アステリズム》にのみ依存している。  その全能力を〈天霆〉《ケラウノス》の封印にへいる限り、彼に残された攻撃手段は力任せに殴りかかるだけ。  そんな稚拙な突撃ではヴァルゼライドに通じない。  覚悟を決めたばかりのルシードでは、一撃さえ浴びせることが出来ないのだ。 「……大したものだよ、まるで羽化だな」  されど……逆に英雄の口をついて出たのは、紛うことなき賞賛だった。  皮肉なことに、こうして地を〈這〉《は》うルシードの姿をこそ、ヴァルゼライドは評価している。同じ一人の男として今や敬意すら抱いていた。  何度も殴られ痛めつけられながらも、立ち上がることを止めようとしないその姿。まさに戦士だ、目が違う。  自分の知る臆病者と比べれば雲泥の差ではないか。 「おまえを立ち上がらせた動機、革新の切っ掛けについてはもはや問うまい。これ以上の質問は単に無粋というものだ。  何度でも立ち上がるつもりなのだろう? 諦めないと〈吼〉《ほ》えるのだろう? 素晴らしい、尊敬すら覚えるぞ。見違えるとはこのことだ」 「──、…………が、ァッ」  〈真摯〉《しんし》に語りながら──しかし、叩き込むのは破壊の洗礼。  放つ言葉に嘘はなく、抱く想いに偽りなく、だからこそヴァルゼライドは容赦しない。痛みに喘ぐその瞬間さえ、礼儀を尽くして立ちはだかる。 「正直に明かすなら、俺はおまえのことを大したものと見ていなかったよ……〈錬金術師〉《アルケミスト》。  いいや、おまえだけではない。カグツチ以外の魔星はすべて役者不足と断じていた。歪み捻れた骸の惑星、なんの障害になろうかと。  仕様上のこととはいえ、生前の衝動に引きずられる有様は死霊のそれと何も変わらん。つまりは過去の住人だ。その目に未来を映しておらず、眺めているのは常に自分の古傷だった」 「明日のために今を生きる意志がなく、未練を糧に駆動する生体兵器……  端的に言って生者への冒涜だろう。蘇った甲斐がない」  ある者は殺戮に〈拘〉《こだわ》り、ある者は復讐に囚われた。  またある者は歪んだ慈愛に〈縋〉《すが》り付き、ある者は己が空虚さに苦しんだ。  そして大和の使徒たる神星もまた、滅んだ国の命令から解放されてはいないのだ。  〈逆襲〉《ヴェンデッタ》は言わずもがな……生者である〈特別枠〉《ヴァルゼライド》を除外すれば、ルシードに限らず魔星は誰しも内面は散々な有様と言っていい。  ならば負けられない上、負けるような相手でもないだろう。  人の抱く意志の強さ、未来への躍動を前にすれば取るに足らない相手だと彼は断じていたのだが──しかし。 「それがどうだ。蓋を開けてみれば、これほど雄々しく見違えるとは」  連鎖反応でも起こしたかのように、彼らは変わった。少なくとも魔星の内三体は、以前と比較にならぬほど精神面が完成へと至っている。 「〈色即絶空〉《ストレイド》、〈露蜂房〉《ハイブ》、そして〈錬金術師〉《アルケミスト》……おまえ達は紛れもなく、聖戦を前に一つの真理を得たのだろう。  その成長には価値がある。歓迎すべき事態ではないとしても、賛辞くらいは贈らせてくれ」 「ふ、はは……なんだか、気味が悪いな。あなたに褒められるなんて」  それは間違いなく、ルシードにとって初の経験だ。〈血反吐〉《ちへど》をぶちまけ、小鹿のようによろけながら膝をつく彼のことをヴァルゼライドは惜しいとすら感じている。  英雄は〈殺〉《 、》〈戮〉《 、》〈者〉《 、》ではあるが、〈殺〉《 、》〈人〉《 、》〈鬼〉《 、》では決してないのだ。  光以外のあらゆるすべてを憎み、嫌い、鏖殺する苛烈さを持つ反面、だからこそ意志の強さと覚醒を好ましいと尊重する。 「厳然たる評価だ。一度目の死で止まった時計が動き出した、今のおまえ達は〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  人と人が相互に与える影響の強大さ……それは俺が持てなかった強さだが、改めてその尊さを学ばせてもらった」  認め、寿いだ。その上で── 「……なるほど、だから念入りに?」 「ああ、必ずこの手で討ち獲ろう」  敵味方という互いの立場を尊重して……破壊すると、誓うのだ。  歩み寄る足取りに迷いはなく、目も〈眩〉《くら》むような雄々しさに満ちている。  親であろうが、友であろうが、ひとたび夢への障害となったならばヴァルゼライドは戸惑わない。  その比類なき意志力で、あらゆるものを粉砕しながら先に進む。  己の命を燃やしながら……たった一人で、どこまでも。 「分かっていたことだけど、さ……」  その強さを見て、ルシードは小さく苦笑した。小刻みに震える身体が痛くとも、〈喉〉《のど》に笑いがこみあげる。  ああ、まったく本当に── 「こちらも改めて痛感したよ。あなた達は、〈駄〉《 、》〈目〉《 、》だ。  ──どうしようもない」  英雄と神星、お似合い過ぎて反吐が出そうだ。あらゆるものを〈轢殺〉《れきさつ》して回り続ける運命の車輪。  手が付けられないにも程がある。 「だから、どうせ分からないんだろう? 僕がどうして、立ち上がろうと〈掻〉《あが》くのか……」  〈睨〉《にら》みながら、〈罅〉《ひび》だらけの四肢に力を入れた。敗北から逃げ続けてきたからこそ、こんな男に負けてはならないとルシードは命を燃やす。 「覚悟したのは理解できても……それだけだ、本質は何も見えていない。  ああ、そうだ。勝ち続けてきたあんたなんかに、理解されてたまるものかよ。誰のために、何のために、こんな辛い思いをしていると思ってるんだかこの野郎ォ……!」 「自慢じゃないが、僕は臆病なんだからな」  ゆえにこのまま、すぐにでも逃げ出したくて。 「今も滅茶苦茶、怖くて仕方ないんだからな」  こんな怪物と戦うなんて、天地がひっくり返っても御免だけど。 「それでも──」  地を〈掻〉《か》いて、よろける膝を叱責しながら、相手へ向かい駆けるのは。  不格好な握り拳を振り上げて、叩き付けようと挑むのは── 「僕を突き動かすのは、“愛”という想いの力があるからだ。   どうだ、見たかよ〈総統閣下〉《ひとりぼっち》が──〈羨〉《うらや》ましいと言ってみろォッ」  すべては、その感情があるからこそ。  たった一人の少女へ捧げた愛のために。  運命から背を向け続けてきた青年は、小さな覚悟に至ったのだと誇りと共に戦っていた。壊れそうな身体を奮わせ加速をつけて殴りつける。  ……そして無情にも、突撃はヴァルゼライドに届かない。  軽くいなされたあげく、正確無情な〈返しの拳〉《カウンター》がこめかみを鋭く打ち抜いた。  断絶しそうになる意識。頬肉を噛む痛みによって気力〈繋〉《つな》ぎとめるが、暇なく続いた二撃目が彼の脳を前後左右に揺さぶりつくす。  たとえ愛が覚悟になったとしても、力関係は依然として変わらない。  それでも、ルシードは勝ち誇る。  貫くべき彼にとっての意地と想いは、こんな痛みで折れるようなものじゃないと、こうして証明できているから。 「あんたが一生、得られない感情だ」 「いいや、愛情くらいは持っているさ」  民への愛。帝国への愛。正義へ向ける確かな愛情、使命感……  確かにそれは、ヴァルゼライドを構成している大きな感情の一つだろうが、だからこそ。 「不特定多数への、だろう? ほうら、やはり、英雄様には分からない」  この場合、的が外れているという他ない。  つまり、彼の歪みはそこだった。個人よりも全体幸福を念頭に置くためか、あらゆる面で視点の高さが違ってしまう。  ヴァルゼライドには、ルシードを突き動かすものが分かっていない。  言葉として、絶対値として、理解と納得は示せても……共感に至ることは〈永劫〉《えいごう》できはしないのだ。 「誰かのために? 何かのために? それって“誰”だよ……馬ッ鹿じゃないのか?  ちゃんと名前を口にしろよ。大切だって叫んでやれよ。おまえのために頑張ってると、胸を張って自慢してやれ。 ……それだけのことはしてるじゃないか」 「そんなことも出来ないくせに、“他人のために生きてます”とか……訳わかんないことを何故言えるんだ!  たった一人で生きれる奴が、軽々しく使っていい言葉じゃないだろ。誰かのためって心はさぁ……ッ」  ……本当に、なんて〈雄雄〉《かな》しい男なのだろう。クリトファー・ヴァルゼライドは。  大義や正しさしか愛せないその切なさを、〈憐〉《あわ》れみながら糾弾する。  何かを伝えたいわけじゃないし、変わってほしいわけでもないけど。  それでも、これだけは見せつけてやらなければと思うから……  叫んだ。 「僕は違う──愛しているんだ、“誰か”じゃなくて彼女のことを。  この世に生きる誰よりも、比べるものが無いほどに!」  真実は、たったそれだけ……そう、たったそれだけで自分はここまで強くなれた。もう一度、再起を激しく願う程に。  決意がどうだ、覚醒がなんだのと、そんなさも英雄が好みそうな高潔たる概念なんかでは断じてない。  人ならば誰しも抱く、当たり前の感情だ。  近くにいる相手のことを、自分と等しく大切に思うこと。  己を取り巻く周囲に対して、〈真摯〉《しんし》に向き合おうと努力すること。  その果てに、誰かのことを愛おしいと感じること。  生命の本質はそこにある。人の幸福とはまず、そんな他愛ない営みから育まれてゆくものなのだろう。  その意志、信じる心の強固さをヴァルゼライド汲み取った。  世界全体に比べればちっぽけな、主観としての世界をもっと大切に重んじろと青年は訴えている。なるほど、確かにそれも間違いではない。  ゆえに彼はルシードの主張を認めた上で、こう問わずにはいられなかった。 「たとえ、愛する者に振り向いてもらえないとしても……か?」  吐いた言葉は残酷だったがこれもまた真実である。  愛していると叫んでも、愛されるかは分からない。 「〈死相恋歌〉《エウリュディケ》が求めていたのは徹頭徹尾、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》だ。伝承をなぞるが如く、そして実際そうなった。  魂の導者として、冥界を行き来する〈案内人〉《ヘルメス》よ。悲しいかな、おまえの想いは実らない」  ゆえに諦めろ、などとヴァルゼライドは言っていない。  その場合、ならばおまえはどうするのかと純粋な疑問を投げかけている。  横恋慕は趣味じゃなかろう? 少女を愛しているのだろう?  ならばその葛藤、両立しない願いに対して何を感じ、どうするのだと尋ねていた。  愛ゆえの献身は結構だが、遂げられない恋情を良しとするのは果たして自棄や諦めとどういう点で区別されるべきなのか、と。  問いかけた言葉に、ルシードは…… 「──あなたは、やっぱり馬鹿なんだな」  まるで、何も知らない少年へ向けるような、柔らかい微笑をこぼした。  この想いは実らない。そんなことは最初から分かっていたと静かに返す。  彼女は自分に振り向かない。愛しているのは、別の男だ。  己と同じ、過去に挫折した負け犬。逃げ続けている敗残者。そりゃ正直言えば、どうして彼なのだろうかと思ったことも何度かあった。  〈羨〉《うらや》ましいと感じたことも、当然ある。  報われない。重々承知だ──その上で。 「いいに決まっている。だって、僕はゼファーの友達なんだから。   二人の幸せを願うのは、とても当たり前のことじゃないか」  この結末を祝福すると……立ち上がりながらルシードは、心の底から断言するのだ。  親友と愛する人が、共に笑顔であれる未来。胸はちょっぴり痛いけれど、それはほら、とても素敵な明日じゃないか。  誇りを抱いてその光景を思い描き、今この時も目指している感情に嘘はない。  折れた指で拳を固く握りしめる。何度でも、何度でも。 「僕は弱い。臆病者だ。一人ぼっちじゃ寂しくてとても生きてはいられない。  だから助けてと〈縋〉《すが》り付くし、助けられるならそうしたいんだよ。大切な相手なら、それこそ尚更そうするだけさ」  愛情があった──友情があった。  どちらも等しく大切で、だからこそ命を懸ける価値がある。  これはただそれだけのことだ。何も難しいことじゃない。 「世の中はとても残酷で不条理という病巣まみれだ。生きているというそれだけで、不幸は僕らに絶え間なく襲い掛かって途切れない。  その分、少しでも綺麗なものを見たいと思う。それを得た喜びを、分かち合いたいと願っている。ああ、そうさ……一人じゃ意味がないだろう」  報われない? それが何だ。  振られた後で、大げさに泣きながら馬鹿みたいに笑えばいい。  心の痛みと流した涙も、いつかはやがて優しい思い出に変わってくれる。  大切な人々が、そこで生きている限り──  自分は笑えることを知ったから、万感の想いを籠めてすべての動機を宣するのだ。 「僕は彼女を愛している。そして彼は親友だ。どっちがどうとかそんなことは関係ない……!  愛情も、友情も、おまえなんかに渡すものか──二人の笑顔を取り戻すッ」  それが、ルシード・グランセニックの“勝利”だと。ヴァルゼライドに向かい、瀕死の様で見せつけた。  ああやっと、こんな〈些細〉《ささい》な願いを語れるようになったことがとても嬉しく、誇らしい。  去来する思い出を噛み締めて、青年は対峙する英雄を〈睨〉《にら》みつける。敗北必至の状態でも眼光に宿る意志は烈火の如く燃えていた。 「ああ、そもそも……」  ゆえに、身体をたわませて。 「僕が一番、あんたのことで気に入らないのは……」  〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈の〉《 、》〈力〉《 、》を、身体の奥へ凝縮しながら。 「ただの一度も、泣いたことすらない癖に。  涙を明日に変えるとか──矛盾だらけの信念をぺらぺら口にしてんじゃねえぞォォッ!」  かつてないほどに荒々しい〈咆哮〉《ほうこう》と共に、ルシードは全身を一発の砲弾へと変えた。  磁性反発、最大出力──ヴァルゼライドの星光を封じつつ、密かに練り上げていた自身の星を爆発させる。  それは間違いなく、〈錬金術師〉《アルケミスト》の放つ過去最大の突進速度。歩法や技法で回避できる領域をついに突破し、初めて相手の身体へと直撃することに成功する。  ルシードに訪れたこれが最初で、最後の好機。  このまま出力を高め、壁へ向かって押し潰す。 「ごふ、ッ───あぁ、ぁぁぁ……」  ──それを阻んだのは、研ぎ澄まされた貫手の一撃。  ルシードの真芯を捉えた指先が、胸を貫き彼の身体を串刺しにした。 「確かに、俺は矛盾だらけだ。おまえと何も違わない。  条件は互角……ならばこそ、譲らん」  返り血を浴びながら、静かに勝因を告げるヴァルゼライド。  鍛え上げた戦闘眼は健在。たとえ補足できない速度であっても、素人の狙い一つ読めないようでは、そもそも話にならないのだ。  己が闘争感覚を信頼して繰り出した腕の槍は、相対速度も相まってルシードに〈抉〉《えぐ》るような穿孔を刻み付けた。  最強の〈星辰奏者〉《エスペラント》と、最高の〈人造惑星〉《プラネテス》による死闘。  軍配が上がったのはヴァルゼライドであり、そして── 「────〈捕〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈ぞ〉《 、》」  血濡れの三日月に歪む、ルシードの口元。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈瞬〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈待〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》と、彼の両手が英雄の両肩へと万力の強さで喰らいつく。毒蛇のように〈五指〉《きば》を穿ち、磁力を用いて相手の肉と接合させた。 「まさか、貴様──ッ」 「察しの通り、“勝利”なんて糞くらえでね。そんなものに〈拘〉《こだわ》ってるから、土壇場で見誤るのさ。  僕はこの通り生き延びるつもりがないのに……ねぇ?」  ケラケラと、自棄か捨て鉢が極まったように、ルシードは卑しく〈嗤〉《わら》う。  勝者の栄光を踏みにじり、その輝きに泥を塗ってやるという下劣な欲望を〈滾〉《たぎ》らせながら、彼は〈天霆〉《ケラウノス》にかけていた封印を解除した。  同時──驚異的に高まっていく、〈錬金術師〉《アルケミスト》の磁性支配。  封印に割り振っていた〈出力〉《リソース》を本来の正しい用途に用い始めたその瞬間、互いの内に流れる血潮が一気に磁力を帯びていく。  のみならず、セントラル直下にある一室……〈神星の住処〉《オリハルコン》そのものと干渉を開始した。  ルシードとヴァルゼライドには、磁極でいうN極の性質を附属。  そしてカグツチの安置された空間、ゼファーとヴェンデッタの眠る座標をS極に設定したというのなら……  何が起こるかは、もはや論ずるに値しないだろう。 「く、ッ……ぬうぅ!」  次の瞬間、徐々に二人の足が床へとめり込み始めていく。  強烈な引力は元凶の下へ誘う超特急の墜落切符。下方へ相手ごと引き寄せられながら、ルシードはほがらかに笑んでいる。  封縛解除に伴い放射能光の集束が刀身に起こっているが、しかし遅い。もう手遅れだ。  勝ったのは英雄。強かったのも英雄。  正しいのも素晴らしいのも、見習うべきもすべて、すべて、ヴァルゼライドで構いやしない。  だが──いいやならばこそ“逆襲”だけは受けてもらおう。  彼女と彼に倣って今、勝者の栄光を踏み躙る。 「僕はヘルメス、案内人だ。〈幽世〉《あのよ》と〈現世〉《このよ》を行き来する旅路の神、魂の導者……  さあ、逝こうじゃないか〈天頂神〉《ゼウス》様──二人の眠る〈冥府〉《じごく》までッ」  叫んだと同時、陥没した床が木端〈微塵〉《みじん》に砕け散った。  墜落開始──戦車砲もかくやというスピードと質量で、二人は奈落に向かう恐るべき隕石へと変貌する。 「ぐ、うッ──ォォォォォオオオオオオオオッ!!」 「アアアアアアアアアアァァァァァァァッ──!!」  衝突、粉砕、貫通、損傷──  衝突、粉砕、貫通、損傷──  衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷、衝突、粉砕、貫通、損傷──── ぶち壊しながら墜ちていく。  到達点まで何重層も存在する鉄床、隔壁、夥しい数の配管……それらことごとくを力ごなしに、まるで障子紙か何かのように突き破りながら、ルシードは黄泉降りを敢行した。  ヴァルゼライドを道連れに、互いの血肉へ多大な損傷を刻みながら〈彼〉《 、》〈と〉《 、》〈彼〉《 、》〈女〉《 、》へまっしぐら。  音速の突破に伴い、〈大気の壁〉《ソニックブーム》発生する。悪夢のような衝撃の連続が、両者の全身をミキサーのように撹拌しながら砕き尽くす。  壊れて、壊れて……  地へ沈むたびに命を闇へと吸い取られて。  墜ちていく、その先に。  ──宣言通り、冥府の底へと〈辿〉《たど》り着いた。  轟音を響かせながら、弾けるように床へと叩きつけられる。  受身どころか、のたうつことさえもはや出来ない。  粉砕した骨、潰れた臓腑、墜ちてきた瓦礫にまみれて二人は無様に地へ投げ出された。  そして、〈血反吐〉《ちへど》の染みを〈撒〉《ま》き散らす。無茶な自爆技の影響で、ルシードとヴァルゼライドは今や共にひしゃげて破れた肉袋と化していた。  まだどちらも息はあるものの、常識的に考えてそもそも命が残っていることそれ自体、奇跡というべき損傷だろう。率直に言って人間の姿を保持できたという結果さえ、そもそも奇跡に近かった。  戦闘能力は共に消失している。  息をするので精一杯という有様を晒しながら、相討ちという勝者なき結果だけが鋼の地底に横たわっていた。 「まだ、だッ──」  ……それでも呆れたことに、ヴァルゼライドの意志はまるで翳りを見せていない。  立つ、立つのだ、そう決めた──ゆえに〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》と心の力を振り絞る。  四肢へ力を籠めるたびに、折れた骨が棘の如く内から肉を傷つけるが何のことはない。〈気〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈堪〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》と話にならない精神論を糧として、再起を目指し牙を剥く。  それで実際、徐々に功を奏し始めている様は流石どころか、異常だろう。  彼自身の耐久力を考慮すれば即死すべき状態でありながら、なお戦闘続行を選ぼうとするその姿勢は因果律を無視しているとしか思えない。  暴走する意志力、呪縛じみた勝利への渇望がヴァルゼライドを突き動かす。  その光景は、彼の隔絶性を強く想起させるものだったが── 「……ああ、やっと会えたね。二人とも」  そんな意志の輝きとやらを、ルシードは欠片も見てはいなかった。  大切なのは、諦めが欠け落ちた男なんかじゃ断じてない。  ようやく会えた愛と友情の姿を眺めて、優しい微笑を彼は口元へ浮かべていた。  だから、さあ──これから最後の大仕事。  走れ、ヘルメス。二人の奏でる愛のために……  冥界から死者の魂を呼び戻すのは、おまえの役目なのだから。  これだけは、他の誰にも譲れない。 「いま、そこへ……行くよ──」  流血を床へ塗りつけながら、瀕死の身体で〈這〉《は》いずっていく。  両脚はとうに潰れていたから立ち上がれない。右は針金のように折れ曲がり、左は押し花のようにぺしゃんこだ。  とても立てないからゆっくりと、けれど確実に、少しずつ。  指が欠けた手を使い、〈星辰体〉《アストラル》の制御装置と化してしまった二人に向かって……腕を伸ばす。  最期の言葉を、語り掛ける。 「なあ……聞こえているかい、ゼファー。気持ちよく優しい夢でも見ているのかな?  そっちの地獄は快適かい? 〈羨〉《うらや》ましいねぇ、本当に……」  愛しい少女と〈繋〉《つな》がって、抱かれながら二人きり。  知ってはいたが、こうして見ると思わず嫉妬してしまいそうだ。  入り込む余地などないということも含めて、我が身の道化さに苦笑しか湧いてこない。 「〈現実〉《こちら》はほら、ご覧の通り最悪だ。あの世の方がよほど救いに満ちているって有様だよ。間違いないね。  英雄と、ガチンコ勝負しちゃったり……  ふふ、ははは……我が事ながら、何をやっているんだろうなぁ。僕は」  恋敵の踏み台に自ら志願したあげく、こうして命を代償に今や真っ赤なナメクジだ。  ルシードの死はもう目前まで迫っている。か細い声を絞り出しているだけで生存時間を失い続け、死期を急速に早めていた。  もはや、どんな治療を施そうが手遅れだろう。  運命に反旗を翻した、これが結果。  たとえ魔星として優れた力を持っていても、そして覚悟が出来たとしても、参した者をそのまま無事に帰すほど聖戦の業は甘くない。 「だからさ……正直、そのまま寝ていた方がいいぜ? 僕はそれを非難しないし、〈蔑〉《さげす》まない。  こんなの逃げて当然さ。僕らのような負け犬なんかが、やれる限度を超えている」  よって自分は、ルシード・グランセニックだけは、敗北したゼファーの弱さを許容する。  挫折と後悔に苛まされた同胞として、仮に世界中の人間が彼に立ち上がれと非難しても……その痛みと涙を尊重しよう。  ああ別に、挫けたって構わないじゃないか。  ……痛いんだもの。 「けれど、なぁ──」  それでも、これはゼファーだけの問題ではなくて。  この世の何より大切な女性が悲しそうに泣いているなら、話は別だ。 「優しい嘘で彼女を泣かせることだけは、たとえ君でも許せない!  本音でいけよ、素直な気持ちを伝えるんだ。この期に及んで格好つけるな、野暮と分かれよこの馬鹿が……ッ」  砕けた膝で身体を起こし、胸ぐらへと掴みかかって大きく吼えた。  これが友情を傷つける言葉だとしても、伝えなければならない。  そう、これだけを伝えるために……彼は命を捧げてこの場所へ〈辿〉《たど》り着いたのだから。 「そうさ、僕らの本音は情けなくて矮小だ。大切な相手ほど見せたくないから、隠したがってつい誤魔化すけど……  それでも、伝えてほしいんだよ……  自分の命より、ずっともっと、好きな人のことなんだからさ」  共に負け犬、臆病者。そう表した言葉は何も違わず、だからこそ互いの悪癖もよく分かる。  ルシードだけが分かること、ゼファーが今も負い目ゆえに彼女へ対して〈遠〉《 、》〈慮〉《 、》している事実を彼は然りと看破していた。  愛した少女はそれを待っているゆえに、繰り返しては涙している。その悪循環を今こそ断とう。  かけた言葉が正しいかどうか、実際のところ確認する術はないけれど。  彼ら二人の紡ぐ無意識、同調した心象風景で起こっていることの詳細なんて当然知りもしないけれど。  それでも、なぜだろうか。物言わぬ装置となったゼファーの姿を見た瞬間、ルシードは確かに友人が目覚めない理由を悟った。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の煩悶を。〈銀狼〉《リュカオン》の慟哭を。〈凡人〉《ゼファー》としての苦悩を。  複雑に絡み合う友の内奥を見抜いたことで──告げる言葉に迷いはない。 「ゼファー、もう止めよう──〈贖〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈大〉《 、》〈嘘〉《 、》〈は〉《 、》。  似合ってないぜ? 君、ヘタレなんだしさ。もういいから全部丸ごとぶちまけちゃいなよ」  ゆえに、とびきりの〈優〉《きび》しい笑みを浮かべながら、錬金術師は自慢の〈魔術〉《わじゅつ》を披露するのだ。  さあ、気づきたまえ友人よ。その情けなくてちっぽけな〈本心〉《いしころ》こそ、彼女にとっての〈真実〉《おうごん》なのだよ、と。  愛の方程式を持っていない不器用な馬鹿者へと、最高の秘策を彼はそっと授けてみせた。  友誼のこもった言葉は彼が贈る精一杯の切ない真理。  それでゼファーへの言葉は終わりだ。男と男の説法なんてこれだけで十分だから、愛した女を最期に見上げる。 「ああ、レディ……」  可憐な姿は変わらずだが、瞳は堅く閉じられていた。  それでもしかし、やはり貴女は美しい。  悔いも痛みも消えていく──見てください、僕は確かにやりとげたんです。  後悔なんてどこにもない。  ありがとう、ありがとう。あなた達に会えてよかった。 「大丈夫ですよ……きっと最後はうまくいく。  ──だって、彼は僕の親友ですから」  二人なら必ず成せると信じている。  そして──愛と共に、さようならと微笑んで。 「どうかあなたに、幸せな結末を──」  この別れをこそ最高の“勝利”と抱きしめながら、ルシード・グランセニックは〈瞼〉《まぶた》を落とした。  どこまでも安らかに、想いのすべてを託し終えて彼は自らの聖戦を終えたのだった。  死と同時に、〈煌〉《きら》めく〈星辰体〉《アストラル》の残光が彼の肉体から僅かに漏れた。  それは大気中に放たれた後ほどなく〈制御装置〉《エウリュディケ》へと取り込まれていく。  〈第二太陽〉《アマテラス》降誕がための燃料、その一部と化す……刹那に。 「────、ルシードッ」 瞬間──駆け巡ったのは、あいつの遺志。その感情が俺たちの心象世界へ小さく、強く響き渡った。 自分と同じく、あれだけしがらみから逃げたがっていた男が、道化の仮面を脱いだこと。英雄に立ち向かってでも俺たちのために、命を懸けて戦ったこと。 その真実を知って、止め処なく湧き上がる尊敬と感謝が重い。一人の男が描いた人生の軌跡が、罪と救いに揺蕩う俺をどうしようもなく撃ちぬいた。 目の奥が熱い。叫びたいほど喪失感が心を揺さぶり、崩れ落ちそうになる。 馬鹿野郎、馬鹿野郎がッ……いつもみたいに視線を逸らして、おどけてしまえばよかったのに。どうしてこんな、大切な誰かを守ることだけそんな真剣になるんだよ、と。 感情的に問いかけようとしたはずが、そっくりそのまま分かってしまい言葉に詰まる。 「ほんと、似た者同士だよな……俺らって」 自分の価値が低いから、大切な人たち相手には〈途端〉《とたん》に思い切りがよくなるところとか…… 負け犬だからこそ、もう無くしたないと瀬戸際でふっ切れる部分とか。本当に、嫌になるほどよく分かるよ。 おまえがどれだけ俺たちの無事を願い、あの時間を大切に感じていたのか伝わったさ。 だから、ありがとう──〈親〉《 、》〈友〉《 、》。おまえもまた、俺にとっての救いだったよ。 ルシード・グランセニックは、ゼファー・コールレインの恩人だ。その強さも弱さも何もかも、俺は絶対に忘れない。 「──ああ、分かったさ」 ゆえに、今度こそ心は決まった。 償おうとする感情を嘘と言ったおまえの言葉、その通りだと今なら分かる。 俺はまた優しさや愛情を盾にして、みっともなく逃げていたんだと自覚した。それはいつもの常套手段。臆病者がよく使う、光や決意に見せかけただけの逃避だった。 正しいことは、いつも痛い。間違っている方が楽だから…… 明かされた過去の重圧から目を背けるため、俺は〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》〈抱〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈の〉《 、》〈想〉《 、》〈い〉《 、》をずっと心に仕舞っていたんだ。 その残酷な本音こそ、ヴェンデッタとマイナが真に求めている想いだと知りつつも、ここまで誤魔化し続けた過ちに、今こそ終止符を打とう。 「だから姉ちゃん……俺、言うよ」 静かに振り向けば、そこには愛すべき家族の姿がいた。 優しい目で慈しむ、かつて傷つけてしまった唯一の肉親。 秘めていた弱さを見抜いてあげられなかった相手へ向かい、俺は── 「姉ちゃん……」 引きつりそうな〈喉〉《のど》に、必死で力を籠めて。 「姉ちゃん……俺、さ……」 言いたくないという弱さを、全力で留めながら。 「俺……俺、姉ちゃんの……こと──」 〈嗚咽〉《おえつ》のように……いいや正しく、涙と〈懺悔〉《ざんげ》を滲ませながら。 ついに── 「本当はずっと──姉ちゃんのこと、〈怖〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈よ〉《 、》ッ」 子供が泣き叫ぶように、やっと、俺は長年の本音を口にした。 “恐怖”という、家族を相手に向けるべきではない感情を。 優しい数多の嘘を捨て去って、ようやくこの人に……本当の想いを伝えることができたのだった。 「……うん、そっかぁ」 「────そうだよ!」 困ったように微笑む姉へ間髪入れずに断言する。顔を覆った手の隙間から涙がこぼれて、止まらない。 熱い雫を流しながら溜めこんできたあの日の本音を、時を超えて吐き出した。 「だっておかしいだろ? どうしてあんな掃き溜めで、ずっと笑顔でいられるんだよ。きっと明日はよくなるとか、にこにこ笑って言えるんだよッ」 「信じていればいつかは叶う? 希望だけは捨てないように? 何言ってんだ、そんな救いは今まで一度もなかったろうが」 「優しくすれば下に見られる。弱さを見せれば搾取される。信じてみれば裏切られる。ただ気晴らしに殴られ蹴られ……」 「そんな環境だったじゃないか。俺たちが地を這いずっていた場所は」 それが〈貧民窟〉《スラム》の常識で、とても当たり前のこと。幼いころから何も変わらず過ごして来た絶望まみれの日々だった。 美しく尊いものは、どんな瓦礫をひっくり返して探そうとも見つからない。暴力と悪徳が力であったから、弱者である自分たちはずっと体のいい食い物にされ続けていた。 そんな希望の差し込まない負の片隅に、どうして聖者の生まれる余地があるだろうか……ありえない。 大人になると目が濁っていくんだとしか思えなかった幼年時代。そんな暗闇の中で、唯一美しかったこの人は── 聖母になろうと必死に〈掻〉《あが》いていたマイナ・コールレインという少女は、俺にとって信じられない光の塊に見えていたんだ。 ……その輝きを、思わず恐れてしまう程に。 「だからずっと、姉ちゃんのことは大切で……同時にとても怖かったんだ。不満を一つも漏らさないのが、とても信じられなかった」 「俺たち孤児を支えてくれた、その在り方が別の何かに見えてしまって……」 正しくても、素晴らしくても──それが素晴らしいものであっても。 「〈強〉《こわ》いよ、そんなの……同じ人間に思えない」 一度も美しいものを見たことないのに、どうしてこの人は綺麗なの……って。感じてしまっその結果、俺たちは盛大にすれ違ってしまったのだ。 子供だった弟は、無理して明るく振舞う姉をついぞ見抜けはしなかった。 そして姉も同様に、必死で希望を装うあまり弟の秘めた〈怯〉《おび》えを感じることが出来なかった。 それはまさに、ボタンのかけ間違いじみた悲劇なのだろう。どちらも幼く、片側が決定的に悪かったというわけでは決してない。むしろ保護者のいない劣悪な環境を考慮に入れれば、軽々に間違いとも言えないことだ。 見方を変えれば、姉弟は互いに心労をかけないよう本音を我慢したという見方も出来る。 それによって事態が好転していた場合、すべては丸く収まって……こんなことにはならなかったはずなのに。 けれど、もはや過去は変えられない。二人の判断は悪果へ向けて転がり落ちた。思いやりは罪業へと姿を変え心を蝕む呪縛となった。 ──その古傷を清算しよう。姉のために、自分のために。 大切な家族が与えようとしてくれた〈希望〉《うそ》に対して、今からでも本当の答えを返さなければならない。 傷ついても、悲しくても……あの日の真実を伝え合うんだ。 「ごめん……ごめんよ、姉ちゃん。俺が謝るべきは見抜けなかったことじゃない。傍にいられなかったことでもない」 「償わなければならなかったのは、本当の気持ちを言えなかった弱さの方……勝手に一人で〈怯〉《おび》えたまま、家族に本音を隠していた臆病さが悪かったんだ」 「そして私の過ちは、自分一人で弱さを抱えてしまったこと。ゼファーを必ず守るんだって……頑張っている心を全部、ちゃんと明かしていればよかった」 「ふふ……おかしいね。私たち、こんなに相手が大切なのに」 「ああ、大好きなはずなのに」 どちらも、傷つけたくなかったから──傷つきたくなかったから。 大切な家族である分、遠慮した。相手のことを思いやるという綺麗な言葉を免罪符にして、ぶつかり合うのを必死に避けた……その拙い過ちがやっと紐解かれていく。 交わし合った本音によって、互いを縛る呪いは消えた。思い出は浄化されて、後に残るは肉親との温かい記憶だけ。 「よかった。それだけが、心残りだったのよ」 「私は最後に……ああようやく、家族と分かり合えたんだわ」 ……そして、未練が消えれば死者はこの世にいられない。 マイナの姿が〈仄〉《ほの》かな光に包まれ、輝きの海へ消えていく。この瞬間だけを待ち望んでいた魂は、安らぎに満ちた表情で静かに現世を離れ始めた。 だから、涙を流しながらも共に優しく微笑み合う。最期は二人、あの日の笑顔で別れよう。 十年以上の時を経て、最愛の家族へ向かい……俺は葬送の言葉を送った。 「──さよなら、姉さん。ありがとう」 「──ええ。さよなら、ゼファー」 「あなたをずっと、愛しているわ」 そして── 最後にそっと……額に口付けるような淡い〈煌〉《きら》めきを残して、マイナ・コールレインは消えていった。 視線の先には影も残っていない。ようやく死者の安らぎを得た姉を見送り、俺はそこで自分の身体を抱きながら、限界まで堪えていた〈嗚咽〉《おえつ》を漏らす。 「………ッ、うぅ……く、ぁぁ──ッ」 悲しくて、辛くて、どうしようもないほど胸が痛くて……けれど同時に、あの人が救われたことへの喜びも確かに湧き上がっていた。 堰を切ったように溢れる想いのすべてを震えながら受け止める。何度もしゃくりあげているし、心を軋ませる喪失感も本物だ。永遠の別離はいつだって重く、それだけで残った者を傷つけてしまう。 しかし、これは“敗北”による痛みなんかじゃ断じてない。“逃亡”を止めたからこその救いであると、強く感じる。 諦めるのをやめたから、逃げるのをやめたから……だからこそマイナは笑顔で冥府に旅立つことが出来たんだと、分かるがために涙が絶えない。 ああ、そうだとも── 「そうよ──“勝利”からは逃げられない」 眼前に現れたヴェンデッタもまた、その真実を肯定する。逆襲の女神が〈囁〉《ささや》くその声に、俺は泣き崩れながら首肯した。 思えばおまえは、ずっとそう言い続けてくれたよな? その言葉に籠められた意味が俺にもやっとわかったよ。 何度もかけられたそれは罵倒でも、侮蔑でも、まして発破でさえもなかった。 純粋にこれがゼファー・コールレインの救いだと教えてくれる言葉であり……何より俺が気づかなければならなかった、大切なこと。 そう、勝利からは逃げられない。 勝利からは逃げられない。 勝利からは逃げられない。 〈過去〉《うんめい》はどこまでも追って来る── 「だから── 俺がどれだけ惨めに堕ちても、ずっと傍にいてくれたんだ」 やっと分かった。俺にとってのとか、あなたにとってのだとか、そういう個人の主観によって変わってしまう言葉じゃなくて…… 誰にとっても同じ、普遍的な意味合いで“勝利”とはいったい何であるか。極論、人が生きていく上で勝つとはいったいどういうものか。 その答えとは── 「勝利とは“〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈く〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》”だ! 自分が今まで生きた過去を、あるがままに受け止めてやることだった……!」 そう、勝利からは逃げられない── なぜなら、常に消え去らない〈過去〉《おもいで》として、俺の内にずっと存在してくれていた。 どれだけ振り払おうとしても、空っぽになってしまわないよう何処にも行かず共に在ってくれた。 俺が至った真実に、ほころぶような微笑を浮かべてヴェンデッタは頷く。それこそ自分が伝えたかった祝福なのだと、愛おしそうに告げるのだ。 「そうよ、過去は減るものではない。どれだけ振り払おうとしても、降り注ぐ雨のように内へ溜まって増えていく……」 「傷も、痛みも、涙だって……あなたは最初から何も失ってはいなかったのよ」 「それは誰にも奪えない、ゼファーだけの真実でしょう?」 「ああ、ああそうだとも……ッ」 傷があった。痛みもあった。涙も当然、流れていた。 塵のようにのた打ち回って、俺は〈屑〉《くず》だと何度何度も思い知らされ、良いことなんてあまりに少なく、嫌なことはその数倍。 幸福だと思える時より不幸の方が圧倒的に多かったけれど…… 「悲しいなら、虚しいなら、それは受け止められないものなのか?」 「自分はどうしようもない人間だから、身の程を弁えて泣き喚かなければならなかったか? 違うだろう、そんなことを誰が望んだ?」 姉の喪失、チトセとの決別、ミリィの家族を奪ったことに、そして今。どれも苦しみに満ちているが、だからって〈嘆〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈理〉《 、》〈由〉《 、》なんてどこにもない。 目を逸らさなければならない理由も、逆に見つめなければならない義務さえ同時になかった。俺に悲しめとわざわざ命令する奴なんて、そもそも何処にもいやしない。 涙を流しながら笑うことさえ、否定されてはいなかった。 「そう、誰に見〈咎〉《とが》められてもいなかったのよ。自分だけが、自分をずっと許せないと叫んでいただけ。そうした方が楽だから」 「悲観していたのはゼファー・コールレインただ一人。あなただけが、常にゼファーを苦しめていた」 資格がない──罪が、罰が──器がどうだと、口を開けばそんなこと。 常に自分の間違いを責め続けた。満点を出せないから大した奴じゃないのだと、俺が俺を起き上がらせないよう必死に罵倒を繰り返してた。 自虐と分かっていながらそうやって〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈く〉《 、》ことを遠ざけてきた愚かさ、馬鹿さ加減に許すようにヴェンデッタは俺を抱きしめる。 幼子をあやうように頭を撫でて、〈囁〉《ささや》く真理が心の傷へと染みていく。 「あなたはとてもちっぽけで、星から見ればどうでもいい。だから誰も、罪を罰しはしなかったのよ」 「許すも裁くも何もないわ。そんな価値さえ、ゼファーは欠片も持っていない。だって〈ち〉《 、》〈っ〉《 、》〈ぽ〉《 、》〈け〉《 、》なんだもの」 「こんな弱い泣き虫さん、一々構っていられない。でしょう?」 「だから、勘違いはもうよしなさい。あなたは凡夫、敗北者。ひ弱でか細く、〈儚〉《はかな》く無価値で、無意味に世界へ生まれ落ちた──」 「誰かがいないと生きていけない、誰かがいるから生きていける、どこにでもいる人間なのよ」 何者にもならなくていい。生まれて、生きて、無様でいいから駆け抜けて、最後にそっと死になさいと……彼女はそんな優しい言葉を告げていた 生きるとは、それだけで十分なのだと許すように微笑んでいる。 俺自身に意味はないけれど、それは意味がないというだけだ。求めることも探すことも、誰かに意味を与えることさえ、何も〈咎〉《とが》められたりしていない。 そう、俺は──何かをしてよかったんだ。誰かを救って、助けてよかった。愛してくれと子供のように叫んでよかった。世界が好きだと言ってよかった。 だって、そんな感情をぶつける相手もまた同じ……誰かがいないと生きていけない、誰かがいるから生きていけるちっぽけな人間なのだから。 無意味に生まれた俺たちは、無価値であっても生きていく。何の祝福を持たないままでも幸せになれる無常こそ、救いであり罰だった。 だからただ、過去に〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》ほしいだけ。自分が積み重ねてきた人生と、そこに刻まれた傷と恥──その価値をこそ知ってほしい。 どんな辛い記憶でも空っぽじゃない限り、人は気づけば簡単に救われてしまえる生き物なんだということを、ようやく受け止めることが出来た。 「ある日ふと、〈過去〉《うしろ》を向いたその時に……〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》〈ぁ〉《 、》って。それだけで、もう十分」 「微笑みながら、はにかみながら、そんな言葉を口に出来ること。それが命の意味であり──」 「ずっと共にいてくれた、“勝利”を〈得〉《し》るということだから」 己の生きた足跡を受け止める……それはとても簡単で、同時にとても難しいこと。 極論、痛みはどこまでいっても自分の物だ。それを肯定できなければ、他者をどれだけ屈服させて新たな勝利を得ようとも、〈過去〉《きず》は幻肢痛のようにいつまでも疼き続ける。 その錯覚から解き放たれたいならば、たった一つ、気づくしかない。自分の重ねてきた時間が生きてきただけで価値を秘めているものなのだと、思えたその時、人は何処へだって飛び立てる。 古い愚かさを笑って許せるようになれば、それがもはや勝利なのだ。ああ、こんなにも簡単だった。 大きな理想を形にしたり、誰かに対して勝ったり負けなかったり……そんなことをしなければ得られないものでも、重たいものでもなかったのだ。 ──そして、それが分かった今この揺り籠にはいられない。 〈現実〉《そと》では皆が戦っている。俺たちが愛し、守りたいと思う人々がいるからこそ、行きたいんだと強く思う。 痛みを伴う正しさからでも、心地いい間違いからでもない。 〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》という心のままに、俺たちがやっと掴んだ輝きをあいつらにもまた見せてやろう。 ゆえに── 「ゼファー……」 「ああ──」 腕を広げて迎えるヴェンデッタへ、俺は静かに刃を構えた。 確固たる決意に揺らぎはない。こいつが好きだ、大切だ。──だからこそ、運命へと立ち向かおう。 この一振りを反逆の狼煙として、光り輝く英雄譚を粉微塵に砕いてやるべく互いに誓った。 ゆえに、いざ── 「往こう、ヴェンデッタ──俺たちの〈過去〉《すべて》を今度こそ守り抜くために」 「ええ、〈未来〉《じごく》の果てまで──あなたと共に」 ──涙に彩られ、散り逝くは真紅の華。 純白の世界を彩る薔薇のように、色鮮やかに花弁となって命が咲いた。 〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の最期によって黄泉降りは完了する。〈吟遊詩人〉《オルフェウス》が掻き鳴らす〈慟哭〉《うたごえ》はこれでついに完成まで辿り着くのだった。 その痛み、嘆きを胸に抱き──〈遍〉《あまね》く〈勝者〉《ヒカリ》を滅ぼし尽くす憎悪に変える。 ゆえに今こそ、ゼファー・コールレイン自身の意思で── 「天墜せよ、我が守護星──鋼の〈冥星〉《ならく》で終滅させろ」  舞い戻るは死神の咆哮──  ここへ、冥界の闇に〈相応〉《ふさわ》しい最後の魔星が産声をあげた。 「毒蛇に愛を奪われて、悲哀の雫が頬を伝う。眩きかつての幸福は闇の底へと消え去った。  ああ、雄弁なる〈伝令神〉《ヘルメス》よ。彼女の下へどうか我が身を導いてくれ。蒼褪めて血の通わぬ死人の躯であろうとも、想いは何も色あせていないのだ」  それは、奈落の底から響き渡った正の光を呪う〈詠唱〉《こえ》。  極限まで凝縮された怨嗟、憎悪、負の〈慟哭〉《どうこく》。  嚇怒と共に地を〈蝕〉《むしば》んで轟く殺意の奔流が、あらゆる勝者を呪いながら邪悪を氾濫させていく。 「嘆きの琴と、〈慟哭〉《さけび》の詩を、涙と共に奏でよう。死神さえも魅了して吟遊詩人は黄泉を降る」  死に絶えろ、死に絶えろ、すべて残らず塵と化せ。  〈絢爛〉《けんらん》たる輝きなど、一切滅びえてしまえばいいと…… 「だから願う、愛しい人よ──どうか〈過去〉《うしろ》を振り向いて。  光で焼き尽くされぬよう優しく無明へ沈めてほしい。二人の煌く思い出は、決して嘘ではないのだから」  敗亡の淵で増幅する悪意の波濤が、少女の遺骸を己が星へと貪りながら新生を果たしていく。  比翼の翼を喰らいつくし、呼応しながら羽ばたく様はまさしく捕食。 〈逆襲の女神〉《ヴェンデッタ》の肉体は粒子化しながら形を失い、愛する男の力へと一秒ごとにその存在を塗り替えていた。 「ならばこそ、呪えよ冥王。目覚めの時は訪れた。  怨みの叫びよ、天へ轟け。輝く銀河を喰らうのだ」  目覚めるたびに引き千切られ、破壊されていく星辰体制御装置の拘束具。  切断された箇所に取り付けられた冷たい鋼の〈義手〉《オリハルコン》が軋みを上げて、主の憤怒を代弁していた。  接合された新たな〈骨格〉《フレーム》は〈星辰奏者〉《エスペラント》の再強化を促して、英雄と同じ原理のもと彼を恐るべき高みへと導いていく。  それは脱皮、それは変貌。進化、超越──あるいは堕天。  〈守〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈殺〉《 、》〈す〉《 、》という人類最強の〈宿業〉《カルマ》が、英雄譚を陵辱して終末譚へと貶しめていく。 「──これが、我らの〈逆襲劇〉《ヴェンデッタ》」  ゆえに、彼はもはや〈只人〉《ゼファー》ではなく。  同時に、〈銀狼〉《リュカオン》と恐れられた獣でも。  そして既に、嘆きを謳う〈吟遊詩人〉《オルフェウス》ですらなくなった。  そう、彼こそ── 「〈超新星〉《Metalnova》──〈闇の竪琴、謳い上げるは冥界賛歌〉《Howling Sphere razer》ッ!」  創生──〈星を滅ぼす者〉《スフィアレイザー》。  太陽系から放逐された闇の〈冥王星〉《ハデス》が、最悪最後の〈人造惑星〉《プラネテス》として冥府の底から現れた。 「まさか、これは──」 「ありえん。なんという〈仕様外〉《イレギュラー》か……ッ」  迸る暗黒の粒子、絶叫する奈落の使徒を前にして彼らは共に瞠目した。〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈展〉《 、》〈開〉《 、》〈は〉《 、》〈予〉《 、》〈測〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  ゼファー、そしてヴェンデッタ……いいや、既に〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》と言うべきか。  完膚なきまでに道途絶えたはずの敗残者。それが再起動を果たした事実に英雄たちは戦慄する。  当たり前だ……敗北とは、時に勝利でさえ払拭できない致命傷なのだから。事前の備えも考慮もないため、死神の誕生に純粋な驚愕を感じるしかない。  痛みを糧に変えるのさえ素養が必要なのは、言うまでもないこと。聖戦という状況のみならず、どの分野でも〈魂魄〉《こんぱく》が打ち砕かれた者に次はないのだ。  即座に再起できることこそ一流の証明であり、精神の復活が心の価値を分けるならゼファー・コールレインの物語はあの瞬間、すべて終わったはずだというのに……  ありえない結果が眼前へと形をもって具現化する様は、悪夢が結晶化したかのよう。この瞬間に覚醒を果たした〈冥王〉《ハデス》は、彼らにとって最大の不確定要素として機能する。  軋み、削れ──不協和音を奏で始める運命の車輪たち。  聖戦を御破算にする怪物が、墓の下から立ちはだかった。 「ぬ……ぐ、ぅッ!」  討ち獲らんとしたヴァルゼライドは、しかし動けるような状態ではない。  連戦による疲弊と、〈錬金術師〉《アルケミスト》に与えられた特攻。その〈損傷〉《ダメージ》は彼をして戦闘行動に移れないほど深く、回復に今しばらくの時間を要求していた。  潰れた臓〈腑〉《ふ》に、砕けた骨肉。物理的に減った身体は精神的な昂揚などでは、我慢できても補修はできない。  時を稼がなければ、ゆえに── 「〈再起動〉《リブート》ッ──〈殺塵鬼〉《カーネイジ》、〈氷河姫〉《ピリオド》、馳せ参じよ!」 「御心がままに」  眷星への遠隔干渉──並びに強制的な蘇生。  新たなる敵を排除すべく、カグツチは破壊されたはずの魔星を再び御許へ呼び寄せた。  〈中核〉《ヴェンデッタ》が粒子化して喪失しようと、まだ〈星辰体〉《アストラル》制御装置は幾らか機能を残している。  その力を奮い、ありったけの星屑をマルスとウラヌスへ注ぎ込んだ。  機能停止に陥っていた二体は目覚め、すぐさま主の御許へ降り立つ。未だ内部は幾らか壊れているものの、彼らは今紛れもなくこの場における最高戦力に他ならなかった。 「奴を討て、あれは存在してはならぬ星だ」  あの〈冥王星〉《ハデス》を近づけてはならない──  さすれば運命が崩壊するという、確信に満ちた直感がある。  命令を受けた魔星は忠実に眼前のゼファーに対して躍りかかった。  地表に轟く紅蒼の〈星辰光〉《アステリズム》。チトセや帝国軍に与えられたダメージがあったとしても、彼らの発する星の力はほとんど衰えを見せていない。  いや、むしろ出力だけを見れば無傷の状態と同等だろう。〈第二太陽〉《アマテラス》降誕により濃度を増した大気中のアストラル、それらを彼らはカグツチの手で一身に供給された結果により優れた暴威を発揮する。  内装の修復さえ追いついてはいないものの、常に恒星の加護を受けている状態を指して弱いとは誰も言えまい。  まず躍り出たのはマルス。〈主君〉《おや》による外部供給の恩恵を受け、五年前以上の災禍をたった一人へぶちまけた。  まさしく、大虐殺の光景が如く。  かつて英雄が立っていた局面に置かれたゼファーは、ゆっくりと迫り来る脅威を見つめて── 「────邪魔だ」  悠然と五指をかざした瞬間、飛来するすべての星が〈消〉《 、》〈滅〉《 、》する。 「──な、ッ!」  星光が堕ちる──光が消える。  突貫してきた邪悪な瘴気が冷たい闇の輝きへと触れた〈途端〉《とたん》……蝕まれるようにその姿を失った。  〈絢爛〉《けんらん》たる輝きなど、一切認めないというように。  そして異変は連続する。  振り下ろされた鉄爪をあろうことか、ゼファーは片腕で受け止める。鋼同士の甲高い激突音が響き渡り、それが無情にも信じがたい現実を証明していた。  マルスの星は消せたとしても、速度の乗った巨躯から繰り出す衝撃までは殺せないはずだという、その常識までもが踏み躙られる。厳然たる質量差の衝撃さえもなぜか無効化されていた。  さらに、まだ、そうだとも──この程度では終わらない。  〈星辰滅奏者〉《スフィアレイザー》の本領が、ついにその牙を剥く。 「なんだ、これは……俺の星そのものがッ」  反転──いや、〈対〉《 、》〈消〉《 、》〈滅〉《 、》していく〈星辰体〉《アストラル》。  ゼファーの総身から噴出する闇の星光が渦巻くたび、この場に存在する星の粒子が見るも無残に滅ぼされていく。  光など許さない。輝きを喰らいつくせと〈蠢〉《うごめ》くそれは、冥府から漏れだす暗闇だろうか。  天に輝く星々を憎むが如く、〈冥王星〉《ハデス》が繰るおぞましい逆襲の星光──その正体を看破してカグツチは呆然と〈呟〉《つぶや》いた。 「〈星辰体〉《アストラル》の、反粒子だと……?」  それは、正負の属性がまったく逆に位置する粒子。  電子と陽電子、陽子と反陽子、中性子と反中性子という風に。  互いが互いを打ち消し合う宿命を持つ、〈反星辰体〉《アンチアストラル》と呼ぶべき力だった。  それは〈大和〉《カミ》の置き土産をして一度も発見できていない、〈星辰〉《ほし》を滅する未知の〈何〉《 、》〈か〉《 、》。  剛腕を受け止めた瞬間、鋼の義手から流れ込んだ暗い輝きは対象であるマルスの星辰反応を貪るように消滅させた。  今までのように〈星辰体〉《アストラル》へ干渉するのではなく、より直接的に発生する出力そのものを崩壊させて相手の輝きを殺していく。 「ぎィ、ぁ──がァァアアッ」  ……そんなものを間近で浴びて、堪らないのは鬼面である。  その手で爪を掴まれている──たったそれだけだというのに、まだ何の攻撃も加えられていないマルスはのた打つような絶叫を上げてゼファーの傍から離れようと、今も必死にもがいていた。  総身で星光を行使するべく造られた彼にとって、動力源ともいえる〈星辰体〉《アストラル》を消されることはそのまま死に直結している。  生命そのものを滅ぼし尽くす破滅の光輝、これは存在するだけで魔星を喰らう最悪の天敵に他ならない。 「──〈対・星辰体感応型兵器〉《アンチ・アストラルウェポン》」  かつてヴァルゼライドがチトセに語った、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》が持つ兵器としての一面。  その究極にして最悪ともいうべき到達点が、運命を蹂躙すべく死界の法を携えながら審判を開始する。  ──〈冥王〉《ハデス》が動く。 「やめろ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》、おまえはァァ──!」 「言ったろう、邪魔だと──死んでくれよ〈殺塵鬼〉《カーネイジ》。  出来るだけ苦しんで、泣き叫びながら逝くといい」  無情な宣告を砕くため、風前の灯火である〈星辰〉《たましい》をマルスは腕に掻き集めて解き放った。  生が脅かされればされるほど、力を捻り出せるのは生き物の真理だ。  稚気や享楽の混じっていない純粋な殲滅の遺志。放った魔爪に宿る瘴気は凄まじく、皮肉にもその恐怖が過去最大の暴力を今一度彼に与えていた。  濃縮した〈爆薬〉《ニトロ》さえ及びもつかない、虐殺の一撃。  直撃すれば細胞単位まで結合分解を起こす〈殺塵鬼〉《カーネイジ》を前に、しかし──  至近距離……躱すことなど出来ないそれさえ、怯むことは微塵もなく。 「〈謳〉《うた》え、ヴェンデッタ。すべての星が途絶えるように」  ゼファーは愛おしい片割れへと囁いた、愛の歌を聞かせてくれと。  刹那、背後に現出する逆襲の女神。〈冥王〉《ハデス》の求めに呼応して闇夜の音色が奏でられた。 「さあ、柩の底にお眠りなさい。死者の国があなたの帰還を待っているわ」 「うお、お、おおぉぉぉ……ッ」  ……その瞬間、マルスの星が狂いながら弾け飛ぶ。  まるで鬼の内側が丸ごと火薬に入れ替わったかのように、慈しむ〈憐〉《あわ》れみの声と反応して全身から鋼の組成物を〈撒〉《ま》き散らした。  素粒子の対消滅に伴う質量のエネルギー変換が、マルスの内部で炸裂する。  先ほどまでは触れれば消えるだけであった、そのはずが……瞬く間に地球上の物理へ従い〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈反〉《 、》〈応〉《 、》を顕現させて止まらない。  理解不能、解析不能──次元の遥か彼方にある、それは向こう側の法則。  異星ならぬ異界を統べる理が万象を改変しながら、そのおぞましさを見せ付ける。  マルスの突貫は判断的に何も間違っておらず、確かにあの一瞬、彼はゼファーの意識を振り切ったはずだというのに。  彼らは今や、二人で一つ。  〈冥王星〉《ゼファー》の反応速度を凌駕したとて背後に控えた〈死の女神〉《ヴェンデッタ》が彼を愛し、守護しているから届かない。  融合した〈吟遊詩人〉《オルフェウス》と〈死想恋歌〉《エウリュディケ》は、手を取り合って歯向かう星を駆逐する。 「ゆえに、味わうんだな絶望を」  内部破壊により〈麻痺〉《ショート》したマルスの四眼を覗き込む〈冥王〉《ハデス》。  光、ないし星という属性を持つ限り、如何な〈恒星〉《ほのお》であったとして誰も彼らに敵わない。 「おまえが犯した罪の分、正しい罰をくれてやる」  どこまでも冷徹に宣告しながら、ゼファーは獲物を先ほどまで繋がれていた制御装置へ叩き込んだ。  同時に己が星光を用いて干渉──さあ、相応しい冥府の裁きを与えよう。 「なんだと……意識が、どこへ──」  その瞬間、鬼面の内界に奇怪な変化が訪れた。装置を構成する超合金とマルス、両者の間で異常な共鳴が起こり始めて目まぐるしい〈星辰体〉《アストラル》の激流が己を貫き響かせる。  言うまでもなくそれは、〈死想恋歌〉《ヴェンデッタ》により引き起こされた現象である。  反粒子の生成と掌握が出来るようになったからといって、かつての星光が消えたわけでは断じてない。  むしろ〈星辰滅奏者〉《スフィアレイザー》は今まで振るっていた異能の〈果〉《 、》〈て〉《 、》に体得した力であるから始点を再び扱うなど、二人にとっては造作もないこと。  元来の操作対象である星の粒子と感応し、強引にマルスと〈神星鉄〉《オリハルコン》を接続していく。  結果、どうなるかという答えは……虚ろになっていくマルスの意識が証明していた。自意識が急激に彼の身体を離れ始め、激烈な〈星辰体〉《アストラル》の波濤に押し流されていく。 「────、──ッ」  そう、この広間はカグツチの存命と、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》による天降りを達するために用意された特性の〈装置〉《かんおけ》だ。  星屑そのものを支配する彼女だからこそ、繋げられた後であろうと内面世界を保持することができていたが、しかしマルスはそうじゃない。  規格外の部品と無理に接合された結果として、内部機能に多大な異常が生じてしまう。  〈崩壊〉《エラー》、〈希釈〉《エラー》──彼の意識は今や刻一刻と、地下の広間を構成するオリハルコン製の壁や床へと融解しつつあった。  まるで魂そのものを引き剥がされるかのように、粒子の濁流がマルスの自我を物言わぬ鋼の内へと溶かし込む。  それはつまり、二度と彼自身の手で他者を殺害することが出来ないという、鬼にとって最悪の未来を示していた。  殺戮という甘美な生きがいをマルスはもはや味わえない。悦楽に浸れない。  それどころか、帝国の歴史が続く限り鋼鉄へ心を閉じ込められたまま永遠に指を咥えて眺めるだけの、生き地獄が続くのだろう。  いつの日か、軍事帝国アドラーがセントラルと共に跡形もなく消えてしまうまで……  彼の意識は永遠に、そう永遠に、何一つ劣化することなくこの遺跡と共に在り続ける。  それが、鬼に〈相応〉《ふさわ》しい嘆きと苦痛。  耐え難い殺人衝動を持って生まれた男に対する、〈冥王〉《ハデス》の下した罰だった。 「やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろォッ。  この、人でなしがァァァァァァアアアアアッッ──!!」 「お互い様だろ」  そして、〈殺塵鬼〉《カーネイジ》の精神は物言わぬ〈神星鉄〉《オリハルコン》と同化する。  頑強な巨躯は残っているが、それは既に物言わぬ抜け殻。  耳を〈劈〉《つんざ》く怨嗟と共にマルスの魂は、容赦なく絶望の底へと突き落とされたのだった。 「凍て付き、果てろォォ──ッ!」  その間隙──裁きの合間に轟くは、絶対零度の凍結魔弾。  片割れが滅びる時間を代償に極限まで集束したその一発は、紛うことなき全身全霊。出力の限界まで高めに高めた、〈氷河姫〉《ピリオド》の名を冠するに相応しい氷界弾が飛翔する。  大気温度を零下に落としながら音の壁を爆砕して接近する驚異、逃げる余暇はもはやない。  よしんば避けることが出来たとしてもそれは意味を持たないだろう。凝縮した凍気の塊は着弾と同時に全方位へ萌芽、この広間を覆い尽くし大輪の華を咲かせるはずだ。  よって回避は無駄、防御も不可能。  魔星の位階に〈辿〉《たど》り着こうと、人間であるゼファーはこれに耐えうる防御力を持ちえていない。  だからこそ── 「素直すぎるんだよ、おまえの殺意は」  迎撃手段に選んだのは〈切〉《 、》〈り〉《 、》〈払〉《 、》〈い〉《 、》──抜いた刃で風を裂き、超高速の弾頭を中空で両断する。  咲かず散り逝く氷結花。斬撃と同時に叩き込まれた反粒子が、二分されたウラヌスの星光を煌びやかに対消滅させた。  僅かただ一振りで、蒼き魔星の切り札は霞のように消え失せる。  それは続く二射、三射、四射であっても変わらない。  駆ける必要さえないのか、ゆっくりと歩み寄るゼファーは魔弾の洗礼を真っ向からねじ伏せる。  出力差は未だウラヌスが一枚上だが、そんな要素が何になろうか。  番外の魔星? 存在しない〈異物〉《イレギュラー》? ゆえに劣等──度し難い。  〈星辰光〉《アステリズム》に頼る限り、〈星を滅ぼす者〉《スフィアレイザー》の魔手からは決して決して逃げられない。  もはや純粋な数値勝負で優劣を語る次元ではなかった。  よって、〈彼我〉《ひが》の距離が縮まるたびウラヌスは異常な消耗に見舞われながら恐怖と嫌悪に囚われていく。  〈冥王〉《ハデス》が近づく……ただそれだけで、感応している〈星辰体〉《アストラル》が悲鳴を上げて消滅するのだ。  敵手の周囲に渦巻く闇こそ、おぞましき冥界の瘴気。  消えろ、消えろ、消えてしまえ、ああどうして──こんな化物がいるのかと呪いながら星の使徒は魔砲を放つが効果は無い。  すべからく、無意味。  あれほど誇らしかったはずの力が、身体が──どうしてこんな、〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》。 「ふざけるな、こんなところで……私はッ。  聖戦はすぐそこなのだ。その時こそ、必ず奴を下すのだと──」 「嘘をつくなよ。本当は、五年前からとうに諦めているくせに」  そして同時に星だけではなく相手の心もゼファーは切り捨て、踏み〈躙〉《にじ》る。  心の奥底で理解しているはずの敗北感を指摘しながら、たじろぐ鉄姫を心の底から〈嘲笑〉《あざわら》った。  俺より小者でどうするのだと、ケラケラ、ケタケタ、〈嗤〉《わら》って見下し許さない。 「二度も敗けて、実は思い知らされたんだろう? 自分自身の〈星〉《うつわ》では、どう掻いてもヴァルゼライドに敵わないと、真実を。  無意識の〈心的外傷〉《トラウマ》からそんな必死に目を逸らすなよ。身体と違って心の方は、勝手に治りはしないんだからさ」  〈敗北〉《かこ》を恥じて認めなかった者へ、ようやく〈過ち〉《かこ》を受け入れられた者が自分なりの答えを伝える。  別に、救いたいわけでも悔い改めてほしいわけでもない。  ただ気づくことが出来た者として、諭した上で、必ず殺す。  よって、講釈はこれで終わり。  ならば遠慮する理由などなく……電光石火で疾走したゼファーはウラヌスの解体へと着手した。  残影が消えた瞬間、鉄姫の間合いに苦も無く侵入。するりと刃を通らせる。  ──両脚を断った。  ──両腕を断った。  ──乳房を断った。  ──下腹を断った。  出来上がった不格好な〈達磨〉《だるま》の髪を掴み上げ流れるように顔面へ膝を叩き込む。〈血反吐〉《ちへど》を吐いてのけぞる顎へさらに数度、拳を容赦なく打ち付けた。  そのままついでに、切り裂いた腹へ腕を突き入れ鉄の内臓器官を一つ一つ丁寧に潰しながら〈骨格〉《オリハルコン》へ反粒子を流し込む。 「は、ぐぅ……ひ、ぁぁ、ぁ──」  そして何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も……〈痙攣〉《けいれん》した身体に刃を逆手で突き立てる。  どうか少しでも苦しむように、嘆いて壊れて哭くように……  ああ、けれど時間はかけていられないから──手早くいこう、そう確実に。  顔面を念入りに切り刻んで、ついでに舌も取っておく。 恐らく美貌も自慢だろうから耳から〈顎〉《あご》まで皮も剥ぎつつ、口へと足を突き入れながら喉の奥を蹴り上げた。 靴を舐める屈辱を与えたところで傷口に指を差し込み、搔き回す。 狂ったように鳴り響く生きた〈悲鳴〉《がっき》を、まだ足りないなと壊して壊して、 壊して壊して壊して壊して、 壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して─────  何もかもを否定して。  おまえは塵だと、きっちりはっきり教授する。 「……………あ、ぁ……ぅ──」  ひとしきり〈蹂躙〉《じゅうりん》した後、掴んだ髪の下にぶら下がるのは子供が無邪気に潰したトマトだ。  今まで踏み潰してきた命、与えた絶望の万分の一でも味わわせるべくウラヌスという女のすべてをゼファーは徹底的に〈嬲〉《なぶ》りつくす。 「わた、わたしは……〈貴種〉《アマツ》で、〈大和〉《カミ》の血筋に連なって……  愛されるがゆえ、選ばれた──」  虚ろな意識から漏れる言葉は〈存在意義〉《アイデンティティ》の復唱。神へすがりつく信徒ような妄言に、そっと耳元へ口を寄せて囁いた。  やれやれ、なんて〈滑稽〉《こっけい》な……  身の程を教えてやろう──そして、死ね。 「いいや、ただの塵だよ〈氷河姫〉《ピリオド》。血筋も力も運命も、何一つ関係ない。  おまえの魂は最初から腐っていたんだ」  享受した真実に、ウラヌスの中で最後の線がぷっつり切れる。  違う、違う……違うのやめてと言い募ってもそれを否定する要素はなく。 「あ、うっ、あぁぁ……  ああ、あ、アアアアアアアアアアァァァァッッ──」  ──冥府の底へと墜落しながら、そのまま頭蓋を踏み砕かれた。  飛び散った髄液が床の染みに変わり、鉄姫もまた絶望に彩られて鬼面の後を追って逝く。  これにより、五年前に起きた災禍は完全な終焉を迎える。  大虐殺の主犯たちは今度こそ訪れた報いと共に、最果ての闇へ飲み込まれたのだった。 そして── 「────貴様は、〈何〉《 、》だッ」 激痛と損壊にまみれながら、飛び出して来た英雄を〈静謐〉《せいひつ》に迎え撃つ。 ヴァルゼライドから叩き付けられる意志の熱波は、沸騰するほど苛烈だった。たった今殺されたあいつらを擁護するつもりはないのだろうが、俺の起こした悪逆非道に最大の警戒心を見せている。 〈鍔迫〉《つばぜ》り合いの体勢──至近距離から交差する視線は相手が光で、俺が闇。 相容れない対極の輝きを宿しながら、〈放射能光〉《ゼウス》と〈対消滅〉《ハデス》が火花を散らしてぶつかり合う。 「そのおぞましさ、負の歪み、勝者どころか敗者にすらもはや見えん。前例さえ知りはしない」 「〈吟遊詩人〉《オルフェウス》? いいや違う、理解の〈範疇〉《はんちゅう》を超えている……!」 戦って、勝って、全速力で前へ前へと……進み続けた英雄の足はひたすら速く、ゆえにこいつは分からないのだろう。背後から追いすがる敗者の〈呪詛〉《じゅそ》というものを。 怨嗟の嘆きが、ついに疾走するヴァルゼライドへ手をかけた。 「貴様の誕生が、俺たちの運命に起因するというのなら……いったい何を、我々は生み出してしまったというのだッ」 「それこそ、いまさら何を言う」 知っているだろう? それでも分からないと言うのなら、今一度宣してやる。 「俺たちは、運命の車輪に紛れた小さな小さな砂粒だよ」 「おまえ達に比べれば取るに足らない、過ちを犯しただけの幼く惨めな姉弟だ。つまるところ、負け犬だな。さして珍しいものじゃない」 「だが、それがすべてを狂わせた」 本当に〈僅〉《わず》かな誤差が、やがて取り返しのつかない結果を生んだ。 けれど忘れてないか? こっちがしてきたことなんて、本当にちっぽけなんだよ。底辺生まれということも、我慢が祟って壊れたことさえ、人の歴史を紐解けばそこら中に溢れている。 空前絶後なんかじゃない。前人未到さえもない。 光に属する雄雄しさはいつだってそちらの方で……ああ、つまり。 「運命を破綻させたのは、結局のところおまえ達自身の過失だろう。──〈失〉《 、》〈敗〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》ヴァルゼライド」 「未来を愛する余り、あらゆる過去を切り捨てた……その〈正義〉《けつまつ》がこれなんだ」 ゼファーとマイナの関係を、単なる犠牲者と捉えたこと…… そして、踏み躙ってしまったもののためにも、未来という全体幸福を尊び続けてしまったこと…… 間違っていないさ、何もおかしくはない。逃げてきた自分に比べればとても立派な正論だとも。おまえ以外誰も形に出来ないことを含めた上で、それを奇跡というだろう。 ──で、だから? 「〈愚者〉《おれ》は嫌だ。分かるか? そんな強さは、嫌なんだよ」 ゆえに、認められない──それがすべて。 正誤の秤は投げ捨てた。おまえの〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈覇〉《 、》〈道〉《 、》に巻き込まれた砂粒として、その成就を必ず砕く。 ならばこそ──ッ。 「さあ、括目しろ──これが俺たちの〈逆襲劇〉《ヴェンデッタ》」 「勝者の栄光を踏みにじる、敗者の牙と知るがいいッ!」 「ゼファー、コールレイン……!」 ──瞬間、互いに全力の星を放ち合う。 万象〈灰燼〉《はいじん》と化す七閃の〈天霆〉《ケラウノス》と、万象対滅させる〈星辰滅奏者〉《スフィアレイザー》。 光と闇の究極が激突し、〈星辰体〉《アストラル》に満ちた空間が断ち切り、砕き、破壊される。 吹き荒ぶ余波に鋼の広間が激震した。激しく打ち消し合い、喰らいあう星光の勝敗は、そして── 「ごふッ、が……は────」  光の敗北──〈冥王〉《ゼファー》の裁きからは逃げられない。  出力差を凌駕する圧倒的な相性差。  今まで気合と根性ですべてを乗り越えてきた男が、星を滅ぼす者の前に軽々と一蹴される。  アスラやルシードとの戦闘で傷を負ったこともあるだろう。しかしヴァルゼライドが仮に万全な状態であったとしても、競り勝てたかというならば答えは虚しく否だった。  現在痛感させられている敗因と同じ、どこまでも相性が悪すぎる。  光を高めれば高めるほど、敗北が色濃く浮彫りになるなどと馬鹿げているにも程があった。  勝者を滅ぼすためだけの〈闇黒〉《マイナス》、それを前にはどんな光熱でも飲み込まれて失せるのみ。  よって、英雄譚はここに終わる。  聖戦を目前にして生涯唯一、そして最大の敗北に殲滅されて──否。 「否、否だ! こんなところで……俺はッ」  叫び、立ち上がろうとした瞬間……夥しい吐血が〈撒〉《ま》かれる。  限界がついに訪れた。今までならば立ち上がっていたはずの局面で、ヴァルゼライドの〈身体〉《うつわ》が急速に崩壊を始める。  そう、常に彼は限界の瀬戸際で覚醒を果たしていた。このような事態に陥れば陥るほど、絶大な意志力により意地でも奇跡を起こし続けてきた快挙はしかし、それでも人間である以上、壁を越え続ければ待っているのは破滅だろう。  限界突破、限界突破、限界突破、限界突破──  そしてついに、当たり前に、人生の終着点へと辿り着く。  だがそれでも、ヴァルゼライドの辞書に諦めるという言葉はなく……前を目指す意志は今も猛り、それが死へとまた誘う悪循環に陥っている。  まるで尾を噛む蛇のように決意と覚悟で滅びゆく、その刹那に。 「立て、我が宿敵よッ。おまえは、ここで〈斃〉《たお》れるべきではない……!」 「カグ、ツチ──」  ……霞んだ視界に映るのは、〈硝子管〉《フラスコ》越しに叫ぶ宿敵の姿。  吹き飛んだ先、本来戦うはずだった相手と互いに至近距離で向き合った。  何故だろうか……原初の魔星は、それこそ必死の形相でヴァルゼライドに叫んでいる。  まだだ、死ぬな、それは違うぞ英雄と。熱い感情を〈剥〉《む》き出しながら彼へ向かって訴える言葉が止まらない。  それは決して、代行者たる男が死ねば計画が破綻するからなどではない。  使命を果たせなくなるからでもない。  まして自らも冥王の手にかかり滅びるからでも断じてなく──  ならば、何故? 決まっている。 「このようなところで終わってどうする? 貴様こそ紛れもなく史上最強の人類種、天津の使徒と相対できる唯一無二の存在だろう。  同じ一人の男として、己はおまえを尊敬さえしているのだぞ? その気概、その情熱、自らの愚を恥じながら尚進まんとする覚悟──今も諦めぬ眼差しが胸を強く〈疼〉《うず》かせるのだ。  そんな男が、ここで潰れていいはずがない。それも敗者の逆襲などと己は断じて認めはしないッ」  ヴァルゼライドを心から対等と感じるからこそ、カグツチは今本音の檄を飛ばすのだった。  それはまさしく、無機物にはない生命としての自我。  天上から人類を見下ろすだけの恒星が、存在意義さえ振り切って願う未来を紡ぎ出す。  それはとても敵に送るような感情ではなかったが、構わない。  殺し合わねばならないことと、相手の強さを認めることは確かに別物だったのだ。普段の余裕や尊大さなど一片たりとも混じってない表情で、本気の敬意を神星は眼下の男へ叩き付ける。 「ゆえに己は、そうだ──」  ただの兵器には存在しない、使命感以上の感情と共に。 「目指し焦がれた、未来と明日は───」  その〈昂〉《たか》ぶりが雷鳴のように身体の奥を貫いて── 「おまえとの聖戦、それを演じた果てに得なくば意味がなくッ。  “勝利”によって辿り着く、大願成就を求めているのだ──ッ!」  〈大和〉《カミ》の創造物は、ついに己が本心を心の底から自覚した。  自らが何を求め、何に〈拘〉《こだわ》ってきたのか。製造時に刻まれた〈使命〉《コマンド》さえ振り切って超越する自意識のままヴァルゼライドに咆哮する。 「己の敵は、奴ではない。如何に強く恐ろしかろうと、断じて奴ではありえない。 我らの紡ぐ英雄譚は、あくまで我らのものなのだから」  ここに来て譲り渡すことなど否。  否、否、否、否──断じて、否だ。 「それは使命でも同情でもない。己とおまえが共に抱いた、原初の誓いであろうがよォッ」  これは二人で共に築き上げた運命ならば幕を引く権利は無論、当事者以外に持ちえない。死神に〈蹂躙〉《じゅうりん》されるなどもっての外だ、そうだろう。 「ゆえに立て、クリストファー・ヴァルゼライド! 我が宿敵、我が好敵手、尊敬すべき英雄よ。  ──ここで勝たぬというならば、己は貴様を許さんぞ。煌めく真価を見せてくれ!」 「──ならば」  その喝破──確率絶無である求めに応え、鋼の英雄は決断する。  すべては、勝利を得るために。  〈残〉《 、》〈る〉《 、》〈手〉《 、》〈段〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「勝負だ、カグツチ……〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈喰〉《 、》〈ら〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈再〉《 、》〈誕〉《 、》〈し〉《 、》〈ろ〉《 、》。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》らに出来たこと、我らに出来ぬはずがない」  すなわち、〈星辰体〉《アストラル》への粒子化による融合。自らの血肉を取り込めと、大上段から命じるようにヴァルゼライドは宿敵へと言い放った。  爛々と輝く眼光、それはまさに飛翔する鷹の如く。  覇気に満ち、衰え翳りは微塵も無し。  己自身を対価に、〈第二太陽〉《アマテラス》が降り立つより早くカグツチ復活を前倒す。正気の沙汰とは思えない掟破りの提案を彼は毅然と持ち出した。  確かに、もはや英雄は戦えない。常識が淘汰されたこの状況、狂気ともいうべき手段に手を出さねば現状を打破できるに値せず……しかし。 「だが、それをすれば貴様の意識は──」  ……いや、そもそも可能なのか? あれはまさに、ゼファーとヴェンデッタの関係性があったからこそ達成できた現象だった。  観測したのはまさしく一度の融合現象。前例はあれっきり。そして無論、参考すべきデータなど他には何も残ってない。  旧西暦の如何な記録に目を通そうと、類似した事例一つないだろう。  そんなことを、一発勝負で成し遂げられると? 失敗すればそこですべてが終わってしまうに留まらず、ヴァルゼライドは無駄死にだ。  よしんば成功としたとしても、英雄の精神は残らない。  愛で結ばれた〈冥王〉《ハデス》とは違い、宿敵との共生など不可能。  聖戦の約束は結局果たされぬまま終わるのが道理だが、しかしそれを彼はやはり鼻で笑った。 「抜かせ──魔星如きが、見くびるな」  宿敵にかけられる情けを切り捨て、〈矜持〉《きょうじ》と共に言い放つ。 「俺は勝つ、必ず勝つ。たとえ身体を失おうとも、魂までは譲らない。  隙あらば、内から貴様を食い破るだけのこと。  そして必ず民に光をもたらすのだ……!」 「────ああ」  轟く宣言に、思わずカグツチは身震いした。  そうだ、この男はそれを真顔で宣するような超弩級の大馬鹿者。  そしてそんな男だからこそ、自分は彼を選んだのだと改めて思い知ったがために。 「ふ、ふふふふふ──はははははははは、ははははははははッ。  よかろう。その勝負、受けて立つ!」  もはや迷いはない。ああ、気遣いさえも侮辱であった。  二人は共に諦観の欠如した決戦存在。その目に明日を映す限り、どんな苦難も踏破する。  カグツチと共鳴していくヴァルゼライドに埋め込まれた〈神星鉄〉《オリハルコン》。傷ついた英雄の総身が、大気中の〈星辰体〉《アストラル》と呼応して〈煌〉《きら》めく粒子に転じ始めた。 「来たるべき、聖戦の到来を目指し──」 「我ら、今ここに一つとならん──」  そう、すべては。 「すべては、“勝利”をこの手に掴むためッ」  大爆発のように反応した光と光、超新星。  絶大な〈正義〉《プラス》と〈大義〉《プラス》の重ね掛けが、ここに出鱈目な新生を顕現させた。 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがため」  ──では、未来を目指し駆け抜けよう。  大和直系が証明、漆黒の長髪がたなびいた。 「おお、輝かしきかな天孫よ。葦原中国を治めるがため、高天原より邇邇藝命を眼下の星へ遣わせたまえ。  日向の高千穂、久士布流多気へと五伴緒を従えて。禍津に穢れし我らが大地を、どうか光で照らしたまえと恐み恐み申すのだ」  それは、天津の果てから響き渡る光を讃えて祝う〈詠唱〉《こえ》。  極限まで凝縮された歓喜、喝采、正の賛歌。  爽快に地を照らす太陽の輝きが、一つの未来だけを見据えて輝く決意を撒き散らす。 「鏡と剣と勾玉は、三徳示す三種宝物。とりわけ猛き叢雲よ、いざや此の頸刎ねるがよい──天之尾羽張がした如く。  我は火産霊、身を捧げ、天津の血筋を満たそうぞ。国津神より受け継いで焔の系譜が栄華を齎す」  雄々しき再誕に淀みはなく……言わずもがな、本来その覚醒は在りえない。  カグツチを完全修復させるためには、想像を絶する量の〈星辰体〉《アストラル》が必要だ。  しかも求められるのは経年による蓄積ではなく、一瞬の内にどれだけ感応できるかという瞬発力にかかっている。  ゆえにこそ、彼は今まで地底に坐すしかなかった。  〈第二太陽〉《アマテラス》が直上に降りてこない限り再起不可能であったのは、そういう事実が裏にある。  ならば当然、それだけの星辰体濃度、ヴァルゼライドただ一人で賄えるはずがなく── 「天駆けよ、光の翼──炎熱の象徴とは不死なれば。  絢爛たる輝きにて照らし導き慈しもう。 遍く闇を、偉大な雷火で焼き尽くせ」  ならばこそ、英雄はその〈常識〉《セオリー》をねじ伏せる。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈仕〉《 、》〈方〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》という、あまりにも馬鹿らしい理由によって物理法則を超越するのだ。  それを〈流石〉《さすが》と、カグツチは心震わせる。  負けてはならない、ならば己もそうしなければ。相乗効果で彼もまた限界の壁を越えていく。 「ならばこそ、来たれ〈迦具土神〉《カグツチ》。新生の時は訪れた。  煌く誇りよ、天へ轟け。尊き銀河を目指すのだ」  なぜなら彼らの属性は、等しく光に他ならないから。  爆発しながら融合を果たす、恒星の魔人ども。  〈星辰体〉《アストラル》の感応量、同調係数、人と星の関係性……あらゆる前提を〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》と一笑に付し突破して共に伝説を築き上げる。 「──これが、我らの英雄譚」  その覚醒、世界を照らす輝きを止められる者など一人もいない。  運命の車輪が回る。  聖戦が駆動する。  そう、彼こそが── 「〈超新星〉《Metalnova》──〈大和創世、日はまた昇る。希望の光は不滅なり〉《Shining Sphere riser》」  創生──〈星を掲げる者〉《スフィアライザー》。  太陽系の盟主たる〈恒星〉《カグツチ》が、最強最大の〈人造惑星〉《プラネテス》として天津之国から降誕した。 「これだから、〈英雄〉《バケモノ》って奴は……」 「そうね、本当に救えない」  その復活劇を前にして、二人は〈辟易〉《へきえき》した感情を隠しもせず吐き捨てた。  主役に〈お〉《 、》〈約〉《 、》〈束〉《 、》を起こされて逆転される悪役とは、恐らくこんな気分なのだろう。石を飲んだ様に不快だった。  どれだけ打ちのめし、叩き潰しても立ち上がる炎の不死鳥。あらゆる闇を〈祓〉《はら》うために、光は何度でも絶望を覆して世を照らすのだ。 「はは、ははははは──おお、天晴れよ。やはり貴様は英雄だった!」  そしてまず、カグツチは敵ではなく、自らの内に在る確かな〈他〉《 、》〈我〉《 、》を寿いだ。  内界にて激しく鼓動する、もう一つの意志。  ああ、やはり消えてなどいない。それどころか神星を消し去りかねないその熱情を、何より傍で感じている。 「素晴らしい。その強靭な自我、よもや〈僅〉《わず》かも希釈されていないとは。どこまでおまえは己に光を魅せつけるのだ」 「無論、朽ち果てるその時まで」  すなわち、それこそ永遠に。  この想いが消えぬ限り、ヴァルゼライドの伝説は輝きながら続投する。 「忘れたか、貴様を討つのは俺の役目だということを」 「みなまで言うな。一度たりとて、忘れたことなどありはしない。  我らの築いた運命は、我ら二人の手によって幕を下ろすべきなのだから。  ゆえに──」  瞬間、恒星は初めて〈障〉《 、》〈害〉《 、》を視界に映した。  聖戦を打ち崩す、唯一にして最大の否定要素。逆襲の〈冥王星〉《ハデス》に対して完全復元した腕をかざす。  対峙して、高まる両者の〈星辰光〉《アステリズム》。  光と闇の色彩を轟かせ、空間を揺らしながら宿した星を輝照させる。 「加減はない、討たせてもらうぞ〈吟遊詩人〉《オルフェウス》。  ──〈第二太陽〉《アマテラス》は降誕する。天津神々を迎えるために、〈産霊〉《むすび》の焔で焼かれるがいいッ」 「滅亡するのはおまえの方だ。〈閻魔〉《やま》の下まで墜ちやがれぇッ!」  刹那、激突する陰陽の惑星。  光と闇、未来と過去、天界と冥界──猛き友情と、安らかなる愛情。  対極の覚醒を遂げた超重量の〈天体〉《スフィア》が、最後の決戦を開始した。 「あれは──」 「始まったな」  同刻、轟き渡った爆音と共に空へは異常が発生していた。  〈螺旋〉《らせん》を描くかのような雲海と、その中心に輝く光点。  遥かな上空に存在しているはずの特異点──〈第二太陽〉《アマテラス》が燦然とセントラルの上空で星屑を放出しながら大地へ降下し始めている。  おそらく強力な空間歪曲による効果なのだろう。視線の先にある風景は、不出来なレンズを通したようにねじ曲がって見えてしまう。  恐慌とまではいかないものの、兵たちの間に多大な動揺が走るのも無理はない事態だった。まさに終末を連想させる現象である。  そして太陽がゆっくり近づく降下地点……セントラルで現在、いったい何が起こっているのか。  事情を知っている者であればあるほど、これが英雄の目指した聖戦なのかと圧倒されずにはいられない。 「恐ろしいですねぇ、これだから諦めない御仁というのは……」 「馬鹿だからな、クリスは。一度〈こ〉《 、》〈う〉《 、》と決めたら最後、どれだけ言っても勝手に走り続けちまう」  たった一人で、どこまでも。  そしていずれ報いるからと、過程においてあらゆる者を傷つける。  泣かせた上で勝手に背負って、涙を笑顔に変えると言って。昔も今もそんなことしか言えない男。 「馬鹿野郎が……」  結局、本当にとんでもない場所まで行ってしまったと、アルバートは止められなかった己が弱さを苦々しく嘆いていた。  今や傍観者でしかない悲しみを切なさと共に噛み締める。  これでまた、勝ち逃げされたということか…… 「いいのではありませんか? そういうところが、オーナーらしいと言いますか」 「うだつの上がらない人情家なんだから、向いてないと思いますよ? こういう激しい切った張ったは」 「はいはい、そうかもなぁ」  いつの間にか隣に立っていた双子の指摘に苦笑いしつつ、しかしそれを否定はできない。  確かにその通りなのだろう。能力ではなくその精神において、自分は軍人に向いていなかったとアルバートは自覚する。  ならばいっそ、これが終われば本当にただのレストラン経営者として生きようかと思いながら……  今は結末を見届けようと目を凝らした。  帝国、いいや新西暦の行く末をせめて記憶へ刻むために。 「閣下……」  そして、女たちもまた決戦の場で戦っている者を案じて祈る。  どのような状況になり如何な炎が生じているのか、もはやアオイに確かめる術はない。  星光による念送はアストラルの乱流に引き裂かれ、言葉一つ届けられずに〈佇〉《たたず》む以外何も出来はしなかった。  それがひたすらもどかしいのは、ヴァルゼライドへの感情を自覚したからかもしれない。  彼の勝利を信じているが、それだけにアオイの胸は今も〈軋〉《きし》む。  力になりたいという思慕と、邪魔してはならないという忠心。  〈軋轢〉《あつれき》を生むその内心を察するように、チトセは肩を小さく叩いて大丈夫だと頷いた。自分とは別の男を愛した従姉妹へ、励ましながら同時に深く共感する。 「賽は投げられた。やるべきを終えた私たちは、その結果を待つとしよう。  なに、きっとそう悪いことにはならないさ」  不思議と確信しながら、チトセもその光景へと視線を向けた。 「そうだろう? ゼファー……」  太陽の下で今も戦っている男……自分を選ばなかった生意気な狼を思いながら、微笑を浮かべて終戦を待つ。  若干の寂しさを感じながらも、しかしその奮闘を信じて彼女もささやかな祈りを送った。 「……兄さん、ヴェティちゃん」  そして──誰よりも戦場へ近い場所で、ミリィは家族に想いを馳せる。  ルシードが生んだ大穴から反響する、破壊と怒号と星の衝突。  もはや自分の入り込めない領域で戦い続ける二人を信じて、彼らの帰還を待っていた。  勝たなくてもいい。敗北しても構わない。逃げてもいいからどうか無事に帰ってきて。  それだけを願う少女をイヴはそっと後ろから抱きしめた。慈しみに満ちた母親のように、微笑みながら寄り添って頷く。 「行きましょう、ミリィちゃん。その想いが少しでも力となるように」 「はい、あの人の心も届けなければなりませんから」  苦しみ続けた彼らの旅路が、どうか素晴らしいものであるように。  救済を祈りつつ、ミリィは託された白薔薇を握りながら運命の最終章へと踏み出した。 「オオオオオオオオオオォォォォッ──!」 「くはははははは、あははははははははァァァッ──!」 ──そして、激突し合うは憎悪と歓喜の超新星。相反する正反対の感情が爆熱と共に〈彼我〉《ひが》の間で吹き荒れた。 〈天蓋〉《てんがい》は最初の一合で消し飛んだ。〈星辰体〉《アストラル》と〈反星辰体〉《アンチアストラル》が対消滅を繰り返し、莫大なエネルギーを発生しながら弾け合って周囲へ余波を〈撒〉《ま》き散らす。 相性において勝る俺の闇黒に対し、カグツチは純粋に極限まで高めた出力を用いて圧倒しにかかっていた。その比率、ゆうにこちらの数十倍。 奇など一切てらわない。己は王道を歩むものだと、ただただ剛毅に焔を生み出し〈冥王〉《ハデス》を討つべく星を繰る。 その光景はまさに、分かりやすいプラスとマイナスの喰らい合いだろう。 選択した方向性から、過去に現在、目指す未来や精神状態に至るまで。あらゆるものを対極に位置づけながら俺たちは神話に〈綴〉《つづ》られるべき聖戦を、互い全力で演じている。 活性と非活性。創造と消滅。奴が零から一を生み出すという恒星ならば、俺は一を零へと滅する冥府の使徒。 〈星を掲げる者〉《スフィアライザー》と〈星を滅ぼす者〉《スフィアレイザー》──正負の関係が生み出す力は両者の立ち位置を如実に表し、ここへ拮抗状態を生み出していた。 「ああ、認めよう──その星光を。貴様もまた我らに伍する〈天津神々〉《プラネテス》」 「黄泉を降り、今や奈落を統べる〈冥王〉《ハデス》よ。我らの未来は奪わせん!」 雄々しく宣言しながら繰り出された大火球が、〈滾〉《たぎ》る決意に呼応して圧力を増大させる。敵の力を認めたことが、ただそれだけで更にカグツチを高めたのだ。 なぜなら、神星が力とするは限りなき“陽”の感情。誠意に仁義に勇気に愛、すなわち〈勝利〉《せいぎ》への希求こそ奴を輝かせる動力源。 相手の存在を正当に評価するたび、英雄や救世主として正しい感情を抱くたびに、神星の出力は天井知らずに上昇していく。 それが、ああ──ひたすらに目障りで。 「だからどうした、〈疾〉《と》くと死ね」 鬱陶しく、おぞましく、滅ぼしたいと心底願うその度に〈冥王〉《ハデス》もまた出力を上昇させる。放出する暗黒が数億度に達する劫火を霧のように貪り尽くし、光熱を夢幻のように消失させた。 性能を向上させた大火力にこちらもまた殺意によって等しく追いつく。餓えた狼の如く喰らいつき、進化する恒星へ追いすがるのを可能としていた。 なぜなら、俺が力とするのは“陰”の感情。憎悪に怨嗟に〈慟哭〉《どうこく》、悪意、すなわち〈過去〉《せいぎ》への感謝に他ならない。 今まで生きた傷だらけの足跡を愛するからこそ、血を流させてきた運命を蹂躙したいと願うのだ。出会ってきた人々を愛するたび、敗者の味方である限り、俺の発する奈落の星はよりその深度を深めていく。 この因果を、未だカグツチは理解していないからこそ…… 叩き付けてやらねばらない。ゼファー・コールレインが得た、真実を。 「勘違いしているようだから言ってやる。俺はもう“勝利”なんて求めていない」 「どこまで行こうと着いてきてくれるものだから、気づくことが出来たから、わざわざ追いかけるつもりなんてこれっぽっちもないんだよ」 恥と悔恨だらけであったとしても、俺の人生は素晴らしかった。 ミリィにチトセに、ルシード、イヴ……そして何よりヴェンデッタ。 他にも、他にも、大切に思える人たちと出会えたことに感謝している。その幸福を浴びながら、辛い辛いとうそぶくのはもう止めだ。 背中には守り抜きたい過去がある。この宝物を守るために貴様を必ず殺すのだという意思表明を突きつけて──しかし奴は俺の敵意に苦笑を浮かべた。 その想いはどうなのかと、逸らさぬ視線が言っている。 「つまり、気の持ちようで救われろとおまえは言うのか? 何かを進展させはせず、ただそのままに受け止めて?」 「それは〈些〉《いささ》か、情けないと己は思うぞ。なあ〈冥王〉《ハデス》」 五指がわななき、掌に集束していくしていく炎の渦。見つめるだけで眼球が蒸発しかねない熱量を携えながら、カグツチは思惟的に構える俺を流し見た。 「世界とは総じて己と他者で出来ている、要は自分一人のものではないのだ。ならば社会において功を打ち立て、己が存在を歴史にしかと刻まねば〈大衆〉《とうめい》になるが世の〈宿命〉《さだめ》よ」 「それだけの力を得ながら、名もなき民衆になりたいなどと独りよがりは止すがいい。個として生まれた意味がなかろう」 「往けるものは、征くべきなのだ」 運否天賦に、才能、環境……この世は総じて不平等だ。 すべての人間が高みに到達できるわけではない。だからこそ、資格を手にした者たちは報いるためにも前を目指せと奴は俺に語っている。 そうでなければ、優れている甲斐が何処にあるかと。〈為〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》という幸福を軽視するなと熱く熱く諭すのだ。 「覚醒を果たしながら、この程度で十分だったと中途で歩みを止めるのか?己が器に見合っていると慰めて? 納得して? それはただの言い訳といったい何が違うという」 「虚しいだろうよ、そのような都合の良すぎる諦めは。命とは明日へ向かって跳躍するべく生まれるのだ」 「単に遺伝子を繋ぐだけなら心は要らぬ。昆虫程度の思考さえ残っていれば事足りる。自己にしか通じん理論を口にして、報われたつもりになっていったいどうする若人よ」 「そんなものはまさしく自慰だ。誰もが聞き惚れ一目で納得するような、雄々しき大志を胸に描け」 「我らが共に、願い焦がれてそうした如く──ッ」 ──刹那、語りながら生成していた焔の魔球が一際激しく膨張した。 それは起爆装置を必要せず、重水素と三重水素の核融合一段階から生み出された旧暦の戦略兵器。古くは旧暦二十世紀から実用化を目指された、放射能を発生させない〈清潔〉《クリーン》な虐殺の火がそこにある。 大規模な装置など必要せず、カグツチはそれを生み出した。奴の〈星辰光〉《アステリズム》が真骨頂──“核融合”が炸裂する。 「〈創生〉《フュージョン》・〈純粋水爆星辰光〉《ハイドロリアクター》──消し飛べぃッ」 解き放たれた大熱量は絶望的なまでに巨大。この半壊した広間どころか、セントラルそのものを消し飛ばす破壊力を有して轟く。 発動した時点で回避は不能だ。視界全域を埋め尽くす炎の〈波濤〉《はとう》、一秒でも飲み尽くされれば骨まで残らず焼滅すると理解した。 「はっ、御大層なことをつらつらと……」 だからこそ、しかし〈怯〉《ひる》まず── 「──それが〈憐〉《あわ》れなんだよ、てめえらはァッ」 迎撃を選択した瞬間、〈蠢〉《うごめ》き唸る反粒子──対極たる負の波動を掌打と共に打ち込んだ。 対消滅、並びに対振動の二重奏。特殊な周波数を帯びた粒子の揺らぎを伝播させ、核融合反応を片っ端から消滅させる。 どれだけ強力であろうとこれは星光、〈星辰体〉《アストラル》により生み出された異星の法である以上、冥府の闇を前にしては虚しく殲滅されるのみ。 「そう、その顔だ……」 そして、〈凌〉《しの》ぎ切って超えた先……見つめ合う相手の顔に嫌悪を覚えた。 敵が強いということ、超えるべき価値があるという事柄について打ち震えている歓喜の表情。三日月に裂けた口元は無邪気な〈神様〉《あくま》に相応しい。 「間違いを粉砕しなければ、生きる実感がないんだろう? 野望のために、未来のために、口を開けばそんなこと。〈鬱陶〉《うっとう》しくて仕方がねえよ」 「立ち向かう敵がいなければ、満足に輝くこともできないって? 達成感が足りません? ふざけたことを抜かすんじゃねえ」 俺が〈掻〉《あが》くのは、勝利の美酒を芳醇にさせるためでは断じてない。まして劇的に運命を彩るためでも、聖戦の添え物というわけでもないんだ。 「おまえ達は〈迷〉《 、》〈惑〉《 、》なんだよ」 勝つ、強い、正しい、決意……うんざりだ。輝きしか見ていない。 「そんな欠点のない理想論は、物語の中でしか必要とされる場所はない」 「なるほど、ゆえに現実的な弱者として?」 「そうさ、英雄を排除する。俺はどこにでもいる〈臆病者〉《にんげん》として、生きていくから過去を守る」 大切なものは、いつだって積み上げてきた日々にある。未来を向いて歩むのは、愛しく切ない思い出を背中に庇って戦うからだ。 未来しか愛せないおまえ達には分からない感情だろう? 諦めることも出来ない〈憐〉《あわ》れで惨めな欠陥品、その運命を止めてやる。 「それが“逆襲”。自らが栄光を掴むのではなく、勝者の輝きを破壊するため敗残者が振るう牙。生産性を捨てた概念……」 「重んじるのは可能性の明日ではなく、振り返った先にある懐かしい昨日であると。そういうわけか」 〈頷〉《うなず》き、学習した言葉をカグツチは一度吟味した。その上で星を〈滾〉《たぎ》らせる。 「よかろう、理解はしたぞ。納得もした。されど共感だけは皆目湧かん」 「なぜなら過去とは、いつだとて未来のためにあるのだからな」 「その通りだからこそ、おまえは〈蔑〉《ないがし》ろにしているんだろうが」 薪か石炭のようにくべて燃やして費やして、前進するための燃料としか奴らは過去を捉えられず──許せない。 超疾する俺に対して、再度唸りを上げる奴の星光。拡散性と干渉性を主軸に振るい、空間へ満ちる〈星辰体〉《アストラル》を連鎖的に爆発させた。 それは粉塵爆発が如く、しかし比較にならない凶悪性を伴って増殖し続ける小型の焔火。 総数は阿僧祇を軽く突破して、那由他、不可思議の領域へと突入しながら熱した大気に圧を纏わせ〈一点〉《えもの》へ向けて収縮していく。 「潰れるがいい──〈集圧〉《ベクター》・〈流星群爆縮燃焼〉《レーザーインプロージョン》ッ」 瞬間、俺という対象座標へ無数の爆熱が殺到した。 一定方角へ狙い澄ました夥しい数の燃焼反応。それは間接的に大気圧さえ変動させて、こちらの身体を全方位から圧し潰しにかかってくる。 火力は純粋水爆が上だったものの、こちらは押し寄せる範囲が問題だった。前面から迫り来る壁ではなく、球で包み込むようにあらゆる側から熱波の波が雪崩れ込む。 体表面が熱と外圧の檻に〈嬲〉《なぶ》られる中、しかしカグツチは容赦しない。ものみな焼き尽くす恒星として〈昂〉《たか》ぶりながら宣誓する。 「我々を迷惑だとおまえは言ったな。ああ結構、ならばこちらも初志貫徹して自由に希望をもたらそう」 「己も奴も、他者のために全体幸福へ尽くしていること……そこについてはさすがのおまえも否定できまい!」 ……確かに、そこだけは一定の理解を示さざるを得ない事実だ。自分のために戦ってくれる誰かや、苦難を肩代わりしてくれる存在、それを一概に不要だと切り捨てることは決して誰にも出来ないから。 親や保護者の存在が必要な時期は誰しも必ず一度はある。同時に、たとえ勝手な行動だったとしても結果的に得を与えてくれるなら、その決断に感謝する者も当然多い。 名もなき無関係な大衆ほど優秀で慈悲深い独裁者を求めるのは、人類の持つ業病だ。ヴァルゼライドやカグツチの陰謀によって幸せを得た人間は、歯痒いかな、必ずいる。 だがなぁ── 「だから俺たちは、影らしく消えていけって……?」 光以外は絶滅しろ? 罪は即刻、〈贖〉《あがな》い一つ許さず裁け? ──言っただろうが、そんな正しさは御免だと。 確かに俺は無価値で無意味で臆病な、どうしようもない存在なのかもしれないが、貴様にそいつを判断される覚えはない。 「俺を裁くに〈相応〉《ふさわ》しいのは、俺の大切な人々だけだ」 「そうだろう、ヴェンデッタ──!」 「ええ〈勿論〉《もちろん》、彼らにあなたは罰せない」 呼びかけに応じて歌を奏でる〈月乙女〉《アルテミス》。漆黒の月光が、羽衣のように優美な舞を宙に描いた。 煌めくオーロラはしかし、闇を凝縮した禍津の誘いに他ならない。爆縮反応を遮断する〈対消滅粒子〉《アンチカーテン》の絶対防御──ヴェンデッタの銀光が俺を優しく抱きしめて焔の粒を圧力ごと消し去った。 焦熱の牢獄を打ち破り、さらに血の混じった唾を吐いて返しの一撃を叩き込む。二人分の力を乗せた閃光は炎の壁を両断しながら、カグツチへとついに手傷を刻み込んだ。 出力差は互角じゃないとしても一瞬だけ奴を上回った要因は、相性以前にあいつらを構成する精神性の問題だろう。光に満ちた怪物は内界で争いながら高めあうゆえ、〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈が〉《 、》〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈に〉《 、》〈統〉《 、》〈一〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 主人格であるカグツチと内にいるであろうヴァルゼライド。合理の下に意見が一致しようとも、奴らは決して相手に願いを託さない。なぜなら敬する宿敵だからこの局面に至ってなお“己が勝つ”と、どちらも素面で叫んでいるのだ。 その衝突により、確かに力それ自体は今も上昇しているのは間違いない。恒星の進化は止まらないというのも事実。 対して、俺たちは違う。 「私は彼のために在り、彼は私のために在る」 連中なりの覚醒条件があるようにこちらを結びつけるのは愛情による〈罪〉《きずな》の糸だ。好敵手が争いながら高めあうという選択ならば、苦楽を分かち合うことこそが二人の選んだ運命だった。 ゆえに、瞬間的な出力向上では後塵を拝するものの、機転の一致や相互の補助においてなら先を行くのは俺たちだ。 男と男、男と女……その関係は強さや形が違うだけで、どちらが上だと論じるものじゃないんだよ。 お互い様かもしれないが、だからこそ理解しろ。 「おまえ達の野望は、おまえ達しか救わない──ッ」 「おまえ達の愛情は、おまえ達しか癒さない──ッ」 ──ならばこそ相容れず、共に〈誰〉《 、》〈か〉《 、》を想いながら再び激しくぶつかり合った。 どこまでも平行線のまま魂を懸けて衝突の応酬を繰り返す。牽制という概念は彼方へ吹き飛び、どの一撃でも滅ぼすべく超新星を瞬かせる。 そしてもはや時間の猶予もない。 〈第二太陽〉《アマテラス》が降誕すればカグツチは特異点と呼応して更なる領域へ至るだろう。そうなれば逆襲は終わりだ、おそらく一息で焼き尽くされる。 同様に、奴からすれば俺を〈日本〉《アマテラス》に近づけるのは何としても避けたいはず。〈反星辰体〉《アンチアストラル》が〈大和〉《カミ》にどのような反応をもたらすのか、想像するだに危険であるから勝負を急くし加減はしない。 時間をかけられないという条件は互いに同じ。よって攻防は苛烈さを増し、戦況は短期決戦へともつれこんでいく。 さあ、気を引き締めろよゼファー・コールレイン。ここから先は僅かの予断も許されない。 あらゆる魔技が湯水のように開帳されると予感して、それは直後に現実と化す。 「足跡を力に変えるとおまえは言ったな。よいぞ、ならば見るがいい」 「過去という強さを持つのは、我らも等しく平等なのだ!」 カグツチの雰囲気が変わった──来るぞ、欠片も見逃すな。 神の宣告者が如く両腕が高らかに広げられたその瞬間、鳴動する大気が膨大な〈星辰体〉《アストラル》と感応しながら星雲の軌道を描いて銀河のように動き出す。 奴を中心点として旋回する〈星屑〉《ほしくず》はまさに小型の太陽系だ。公転する星の運行をなぞって巡り、惑星の振る舞いを再現して── 「〈再結合〉《ユニオン》・〈惑星間塵〉《コズミックダスト》──── 〈殺塵鬼〉《カーネイジ》、並びに〈氷河姫〉《ピリオド》、我が〈霊〉《ひ》の下へ〈掬〉《むす》ぶがよいッ」 刹那──輝照した〈星辰光〉《アステリズム》は非常に見覚えがありながら、同時に未知の攻撃として雪崩のように襲来した。 見間違えるはずなどない。瘴気を塗り固めたようなそれはまさしくマルスの星であり、凍気に〈煌〉《きら》めく氷結晶はウラヌスの誇る星辰だ。 個別であるはずの紅蒼が、あろうことか融合を果たし再び災禍を撒き散らす。 接触すれば最後、森羅万象、形あるものを原子単位まで分解する赫黒の霧。それが氷結という特性を得たことで、空間の圧迫ではなく〈占〉《 、》〈有〉《 、》を起こしながら世界を〈蝕〉《むしば》み侵食する。 爆炎にはない凍結の利点は〈固〉《 、》〈体〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈残〉《 、》〈留〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》という部分だ。触れれば死ぬ最悪の障害物として、ここに二つの魔星が混合しながら驚異の姿を見せていた。 理解不能な業に対し、けれど困惑するのは僅か一瞬。 呆けていたまま終われないから── 「集束、附属、最大出力────切り裂けぇッ」 極限まで凝縮した反粒子を刃に宿し、閃光の如く解放しながら迫る黒樹を片っ端から〈微塵〉《みじん》切った。連続して飛翔する対消滅の乱剣が魔星の光を消滅させる。 それはヴァルゼライドの真似事だがまさしく効果〈覿面〉《てきめん》だった。英雄に敗北した二体の魔星……奴らの因果関係を考慮に入れたわけではないが、咄嗟に選んだ行動は融合した謎の技にも特効薬として機能する。 されど、危機を切り抜けたことに対する安心はない。というよりも、いったいこれは何だというんだ…… 〈星辰光〉《アステリズム》は個人に一つが原則設定。俺とヴェンデッタのように同調や融合により進化や変化を起こしても、それはあくまで例外中の例外だ。通常それは起こりえない。 だから仮にカグツチが別の星光を用いるなら、可能性としてヴァルゼライドの〈天霆〉《ケラウノス》に限定されるはずだった。一つになった宿敵ならともかく、先ほど俺に殺された奴らの魔星を行使できるはずがない。 まして、それを掛け合わせるなどと…… 動揺を押し殺す俺に対してカグツチはたおやかに薄笑う。そうだ見ろ、これが未来に捧げた〈過去〉《くもつ》であると。 「困惑しているようだな。まあ、無理もない」 「〈星辰光〉《アステリズム》は原則一種、それは己にも当て〈嵌〉《は》まる絶対的な不文律だ。如何な〈人造惑星〉《プラネテス》であろうともその縛りからは逃れられん」 「ならば簡単だ、己の力に出来ぬなら〈命〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》使えば事足りる。どれだけの長い時間、聖戦に備えてきたと思っているのだ」 「ここは己の居城だぞ? そら、〈神星鉄〉《オルハルコン》も唸っておろうが」 鳴動する床に壁、崩れ落ちた瓦礫の〈天蓋〉《てんがい》──いいや〈旧日本軍遺跡〉《セントラル》そのものがカグツチに呼応しながら鼓動のように反応している。 そこに打ち込まれている情報は、間違いなく他の〈人造惑星〉《プラネテス》の生体情報。奴は長くフラスコの中で身動きできない状態だったからこそ、悲願成就のためにやれることをやったのだろう。その執念が牙を〈剥〉《む》く。 そして当然、物言わぬ〈神星鉄〉《オルハルコン》に訴えて星を再現することなどカグツチ以外には不可能だ。俺がどれだけ感応しても冷たい鋼は応えない。眷星神を統べる太陽、恒星にのみその王権は力をもたらす。 なぜなら奴こそ、現代に唯一存在する旧暦の〈生体演算装置〉《バイオ・コンピュータ》。 超高速で回転する〈人工知能〉《AI》が、魔星の宿す輝きを忠実に脳内で再構築して解き放つ。 〈星を掲げる者〉《スフィアライザー》の名は違わず、神星の本質を指し示していた。警戒する俺に対し、カグツチはこちらの焦りも考慮に入れて次撃選択を開始する。 マルス、ウラヌスに続いて加算される奴の選んだ〈星辰光〉《アステリズム》──それは。 「〈産霊〉《むす》べよ、〈露蜂房〉《ハイブ》──堕落の蜜を〈貪〉《むさぼ》るがいい」 宣誓を放った途端、生み出されるは無量大数に達した魔蟲。俺の弱さ、欲望を感知して喜び群がる蜜蜂が魔星の光を運搬しながら飛翔乱舞を描いて迫る。 黒曜石のような外見は、〈瘴気〉《マルス》と〈凍気〉《ウラヌス》の星を下敷きに生まれた事実の証明だろう。触れれば伝わる冷気と共に分解される凶悪さは、先と何も変わらない。 よって、その必殺性を生かすためにもカグツチが選択したのは物量による圧倒だった。生命を模しているためか自由自在に飛ぶ蜂の軌道は複雑怪奇、蛇行と直進を繰り返すそれをとてもすべては追いきれず、近づくものから切り払う。 数の暴威、その究極。〈毒針〉《ほし》を携えた異形の蟲が複眼にて獲物を捉え、羽音を激しく鳴り響かせる。 初見の技だが装置との接続中に情報は持っている。星光越しに伝わる甘ったるい密のような感覚は、まさしくイヴの星光だ。 単独の状態であればなるほど確かに、これは俺の天敵だろうが……しかし今では通じない。 降りかかる魔蟲群を〈鎧袖一触〉《がいしゅういっしょく》すべく、〈冥王〉《ハデス》の暗黒を斬光と共に放射する。今の俺は〈反星辰体〉《アンチアストラル》の発生源だ。一息に削り切れる量ではなくとも〈彼我〉《ひが》の距離が縮まるだけで、敵の力を大きく奪い減退させる。 星を滅ぼす死の輝きは質に劣る攻撃ならば、一〈睨〉《にら》みでさえ消滅可能。よって恐るべきは手数ではなく貫通力に限定される。 生半可な攻撃では俺を傷つけるなど不可能であり、そして無論、奴もそれを分かっていたから── 「孤独で空虚な〈色即絶空〉《ストレイド》──〈餓〉《かつ》える業に傷はなく」 間髪入れず、更なる魔光を〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく加算した。 今までの星光とは違い見た目に劇的な変化は起こっていない。これといって何かが加算されたという気配はなく、速度や動きが向上したという感覚もまた同様に感じない 黒い蜂は先ほどと同じように飛来して、俺の四肢を齧り取ろうと迫り来る。攻撃パターンの変化も同様、まったく無し。 しかし──振るう刃が当たった途端、その凶悪性を露呈する。信じがたい異常事態が発生した。 「なッ……!」 ──反粒子の斬光を受けたはずが、蜂は健在。構わず闇を突き抜けて依然こちらへ猛翔中。 二度、三度と同一の個体を狙っても結果はまったく変わらない。〈星辰滅奏者〉《スフィアレイザー》は太源である〈星辰体〉《アストラル》を対消滅させる異能だが、何故か今はまるでそこに手応えが伝わらくなったのだ。 いや、それどころか……切り付けたことによる衝撃さえこれは一気に消失している。 直撃したというのに、まるで霞か雲を切り裂いたようなこの感触。物理の分野に正面から喧嘩を売っているとしか思えず、既存法に囚われない天衣無縫な在り方へ俺は無頼漢の影を見た。 くそ、何が殺人拳の神髄だよ。なぁアスラ……俺はおまえが嫌いだけど、こんな使われ方が嫌なのは流石に俺もよく分かるさ。 カグツチの超出力で再現された、星光さえ操作できる馬鹿みたいな力押し……これが拳の極みだと? 研鑽なんて何処にある。 「駄目よ、防ぎきれない……!」 「ならば──」 無敵の鏡でコーティングされた魔蟲による〈怒涛〉《どとう》の〈瀑布〉《ばくふ》。そこへ回避から一転、〈颶風〉《ぐふう》と化しつつ突撃を敢行した。 誰が見ても明らかな自殺行為だったが、しかし勝負を投げた訳では断じてなく、自棄でも賭けでも捨て鉢でもない──勝算は確かにあるんだ。 そう、こいつらは不死身になったわけじゃない。受けた衝撃なり星辰なり遠方の個体群へと〈肩〉《 、》〈代〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》だけで、攻撃そのものそれ自体はしっかり役目を果たしている。 切り裂くたび、反粒子を浴びるたびに離れた地点の蜂がばたばたと消えていくのが確かに見えた。〈色即絶空〉《ストレイド》の肝はあくまで〈操〉《 、》〈作〉《 、》、無効化なんかじゃ決してない。 接触している別個体からまた別の個体へと、数珠〈繋〉《つな》ぎに一瞬で伝わるものだから一見無傷に見えるだけ。極めて高い操縦性の素養による現象だ。 全体をまとめて一匹と捉えたのなら、俺たちの攻撃は魔蟲の総体を削ってるんだよヴェンデッタ。 「ええ、それなら──」 勝機はある、ゆえに。 「行くぜ──合わせろォォッ」 魔蟲群の中央に飛び込んだと同時、〈冥王〉《ハデス》と〈月天女〉《アルテミス》の絶唱が轟きながら響き渡った。 〈増幅振〉《ハーモニクス》──改め、〈闇黒星震〉《ダークネビュラ》・〈全力発動〉《フルドライブ》。 〈星辰体〉《アストラル》と〈反星辰体〉《アンチアストラル》、それぞれが両局面を同時に揺さぶり戦域すべてを激震させた。 超高周波の連動は完璧であり、かつ強大。一糸乱れぬ二人の星が次元さえ揺るがしながら、極小規模の〈大破壊〉《カタストロフ》を顕現させて魔蟲の群れを一匹残らず消し飛ばす。 有象無象をまとめて葬るその一撃は広範囲を射程に入れた“面”による殲滅波動。銀河に光を吸奪された星間雲、闇の大震から逃れる術はどこにもない。 〈凌〉《しの》いだ── そう確信したしかし直後、散る星屑が渦を巻く。 集束しつつ拡散しながら操縦される星の残骸。対消滅によって消えるはずの〈煌〉《きら》めきが周囲の鉄に附属され、その干渉を維持し始める。 全方位に万遍なく優れた魔星最優の〈星辰光〉《アステリズム》、果たしてそれは── ああ、それは── 「手を伸ばせ、愛に破れた〈錬金術〉《アルケミスト》よ──焦がれた男女は目前だぞ」 悠然と加算した星光が、魔蜂の死を触媒に磁の〈大渦〉《ヴォルテックス》を発現させた。 その効力と出力は紛れもなく過去最大。具象する磁界の波は血中の鉄分にまで干渉し、全身を四方八方へ引き千切る獄鎖となって猛然と命を分解しにかかる。 言わずもがなこの戦場は鋼鉄だらけで、ゆえにどこにも逃げられない。 建造物然り、義手となった両腕然り、〈錬金術師〉《アルケミスト》の支配を受ける鉱物しか存在せず、それらすべてが〈星辰体〉《アストラル》の一粒一粒と感応しながら相互に引力を高めていた。 細胞同士の結合がぶち切れ始め、毛細血管が次々と破裂していくのが分かる。磁場の狂った環境はそれだけで生存本能を著しく崩壊させて殺すのだ。 ましてこれだけ強力な環境操作であるならば、こちらの集中力を削ぐ意味でも実に適した攻撃であり…… だから、クソが。 「ふざ、けんな……!」 しかし、そんなことよりも── この全身を駆け巡る苦痛と呪縛より、何十倍も許せないのは── 「てめえがそれを、したり顔で使うんじゃ……ねぇッ」 ──この〈廃棄物〉《がらくた》が、ルシードの星を我が物で用いていることが許せない。 まともに攻撃を受けたことさえもはや意に介さなかった。磁性支配を打ち消しながら奈落の〈咢門〉《アギト》を〈滾〉《たぎ》らせ疾走、このまま斬滅してくれる。 そう、〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈せ〉《 、》〈ず〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》……戦術的にも、心情的にも。 全方位へ粒子を放てばこちらには必ず隙ができるだろう。磁界という永続効果を消しきれず、さらに怒りを抑えるつもりもなかった。 よって遺伝子ごと引き千切られるような縛の中、強引にそれを振り切り駆ける以外に選択肢は残っていない。 「安心せよ、これで最後だ。おまえは既に詰んでいる」 それすなわち、追い込まれたということ。未来を見通す明晰な演算結果が長い布石を結実させる。 乱れる磁界。轟く星辰。最後を飾る光の星は奴にとって〈ア〉《 、》〈レ〉《 、》しかない──ッ。 「いざ、鋼の光輝は此処に有り── 浄滅せよ、〈霆光・天御柱神〉《ガンマレイ・ケラウノス》ッ!」 「ぐうぅ、がッ、ァアアア──!」 刹那、吹き荒ぶのは爆光の嵐──〈磁〉《 、》〈性〉《 、》〈引〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈備〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈放〉《 、》〈射〉《 、》〈光〉《 、》という訳の分からない産物が、比類なき暴力をここへ一気に解放する。 その情景は天へ昇る光輝の柱だ。壮大な輝きはある種の神聖さに満ち溢れており、〈冥王〉《ハデス》など一欠片さえ許さないと闇を浄化するべく唸りを上げる。 〈咄嗟〉《とっさ》に体表面へ反粒子を張り巡らせて中和したが、それも焼け石に水だった。必中にして必殺必滅。桁外れた集束性の貫通力があらゆる守りを突き破り、磁力によって絡みついては命のすべてを破壊した。 〈錬金術師〉《アルケミスト》の御業を得た〈天霆〉《ケラウノス》はまさに超高速で浸透する破滅の魔光、反抗しようと猛る意志ごと俺は消し飛ばされていく。 末端が徐々に焼き尽くされて炭化を始め、光の中で速やかな分解が進行していく。 抗えない。まだ終われないのに。ちくしょう、〈抜〉《 、》〈け〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》だろうから動けない。 この輝きを消し飛ばした瞬間、カグツチが狙う駄目押しの第二撃が放たれると予測できる。それだけに──ならばこそ打開策が見いだせず冥府の底へ再び突き落とされていくのが分かった。 念入りに滅ぼすためか、奴の手中で生成されるはさらなる悪夢……人工太陽が揺らめき〈滾〉《たぎ》り存在を練り上げていく。 次の瞬間、躊躇なくこちらに放たれるだろうそれを理解して、しかし俺たちに対処する余力はなく── 「くそッ、たれがァァ──」 頼む誰か助けてくれ。奴を止めてくれないかと、心の底から哀願した。 そして当然、そんな悲鳴は届かない。 ただただ無様を〈晒〉《さら》しながら──俺は、俺たちはッ。 「諦めないで、ゼファー君──!」 しかし、それに応えるべく予想だにしない援軍が舞い降りた。 瘴気とは違う鋼鉄の機蜂が群れとなって降り注ぎ、轟きながら光に次々殺到する。 流れる滝へ砂細工を投げつけるに等しい行為であるためか、爆光の中に入った時から数秒も機蟲は原形を保てない。壁になるわけでも打破するでもなく、その攻撃はほんの僅かカグツチの気を引いただけで終わる。 だが、それだけで十分だった。小さな援護にして、そして何より想いとしても。 遠隔からの操作であろうと、この場に俺たちを救うべく介入してきてくれたこと自体が、何より心を癒すもので── 「イヴ……ミリィ、ッ」 「大丈夫だよ。信じて、兄さん」 助けに来たと言ってくれる、離れていても分かる暖かい存在感。 いま、妹が必死に祈っているのが隣であるかのように伝わった。白薔薇をそっと両手で握りながら捧げる祈りが、花弁に残る〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》の心と呼応して感応現象を起こし始める。 ミリィが行なう〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》としての僅かな後押しに、俺たちの取り込んだ星屑が励起して──ああ。 内に宿っていた残留思念が、少しずつ確かな像を紡ぐのだ。 「力になりたいのは、わたし達だけじゃない」 「弱さを認めて手を取り合って、寄り添うことで形にする。そうだよね──ルシードさんッ」 訴えを受け、消えたはずである〈水星〉《ヘルメス》の残滓が〈煌〉《きら》めき唸り反応した。 〈俺〉《 、》〈と〉《 、》〈ヴ〉《 、》〈ェ〉《 、》〈ン〉《 、》〈デ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈タ〉《 、》〈へ〉《 、》〈取〉《 、》〈り〉《 、》〈込〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈ア〉《 、》〈ス〉《 、》〈ト〉《 、》〈ラ〉《 、》〈ル〉《 、》がミリィと薔薇を増幅装置と中継点に規程して、あいつの星を再燃させる。 「やれやれ……おちおち眠っていられないな」 「負けるなよ、二人とも」 「ああ────勿論だ、行こうぜ親友ッ!」 おまえがいてくれる限り、負けるはずなどあるものか。 信じているとも、そうだろルシード。こんな猿まねの技なんかにやられたりは決してしない。 だから今一度、その力を使わせてくれ。この腕に宿った一度きりの〈錬金術師〉《アルケミスト》を渾身の力で放射する。 「──ぶち抜けぇぇぇッ!」 「ッ、お、おお──ォォオオオオオオオオ」 〈磁〉《 、》〈界〉《 、》〈の〉《 、》〈簒〉《 、》〈奪〉《 、》──託された友の遺産を用いることで磁性支配の権限を丸ごとこちらが乗っ取り返した。 鏡で反射されたように〈天霆〉《ケラウノス》の輝きがカグツチへ向け方向転換、放とうとした太陽球ごと押し返され自身の用いた融合技をその身で浴びる羽目になる。 加え、すかさず放った斬撃が深い裂傷を刻み込んだ。 趨勢が一気にこちらへ傾き始めた。流れを大きく引き込みながらこの機を逃さず肉薄していく。 その最中、幸福に涙が滲む。胸の内を満たすのはやはり感謝しかないだろう。 生き延びれたことよりも、今こうして手を差し伸べてくれた“誰か”がいるという事実に対して俺は震えが止まらない。 助けてほしいと言ったなら、助けてくれる誰かがいること。当たり前というべきそれが最高の力となって身体の中を駆け巡るから。 「ミリィ、イヴ、ルシード、みんな──」 「ありがとう、信じてくれて。ありがとう、傍にいてくれて」 「大好きよ、愛しているわ」 奇跡なんて、幾らだって起こせると知った。 自分以外を頼り、そして頼られるに足る自分であろうと努力すれば、恐れるものは何もない。 “誰か”のためと言い張りながら、誰にも手を差し伸べられないおまえ達とは違うんだよ。 それらすべての感情を矜持、輝き、すべてを籠めてこの一撃に。 さよならを告げるべく、いざ── 「これで終わりだ、カグツチィィィッ──!」 最大出力で奏でられる、〈星を滅ぼす者〉《スフィアレイザー》。 ──ここに俺たちは最後となる、全霊の突撃を開始した。 「ぬ、ぐぅ……オォォ────」  そう──ここにおいて、戦況は一方へ激しい傾きを見せ始めた。  無論それは言わずもがな、カグツチの不利という形を取って現れる。  出力において圧倒的に勝るはずの〈星辰天奏者〉《スフィアライザー》は、開闢以来初となる明確な劣勢に追い込まれているのだった。  核融合反応と対消滅反応による超至近距離の〈鬩〉《せめ》ぎ合いは互角の均衡を見せながら、されど勝負の振り子をゼファーの側へ今も激しく揺り動かす。  趨勢を決定付けているのは単純に“距離”という概念だろう。  マルスやウラヌスが敗れた理由とまったく同じ、〈冥王〉《ハデス》に近づけば自然と反粒子の影響を受けるという因果関係がカグツチを一方的に押し込んでいく。  原理を把握することで、有効な活用法なり発明なりを実現させて人類は歴史を積み重ねてきた。科学が力を発揮するのは常にそういった蓄積によるところが大きい。  叡智こそ物質文明における最大の財産なのは、誰しも理解が及ぶところ。  そしてならばこそゼファーが発現した脅威──〈星辰滅奏者〉《スフィアレイザー》を打ち破れずにもがいている。  初見たる〈反星辰体〉《アンチアストラル》という天敵を前に、有効手段を見出せないのだ。  解析不能。前例皆無──よって現状打つ手なし。  カグツチの出力はゆうにゼファーの数十倍に到達していた。しかしそれは逆説的に考えれば、これほど性能面に開きがないと〈冥王〉《ハデス》の闇には抗うことさえ出来ないという証明でもある。  本質の掌握により素晴らしい恩恵をもたらすものが科学なら、未知の概念に滅法弱い一面もまた科学の有する特徴だろう。  旧西暦の人造兵器もその例から逃げられない。  いいやそもそも、〈第二太陽〉《アマテラス》とは異なる〈向〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈側〉《 、》の法則に理解も何もないのだが……  ゆえに神星は戦闘が始まって以来、常に相手との距離を一定以上保ちながら戦っていた。  理解の鎖を巻けぬなら、接触を回避するのは当然のこと。  近づかれたら恐らくそのまま食い尽くされると予測して、現状、危惧した通りそのままに……目前まで斬首の刃は迫りつつある。  接近を機に反粒子の影響を受け減退していく〈星辰体〉《アストラル》。魂を削られる感触は死神の宣告に等しく、次の瞬間にも冥界へ飲み込まれる未来をカグツチに幻視させて止まらない。  見せかけの均衡は決壊寸前。  紛れもなく、このままだと自身は負ける。  運命は成就しない。聖戦は破綻する。  後は足掻き散るのみかと、聡明な頭脳が未来予測を弾き出し── 「──まだだッ」  刹那、カグツチから湧き上がる光の波動──〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈力〉《 、》〈が〉《 、》〈大〉《 、》〈暴〉《 、》〈走〉《 、》〈を〉《 、》〈開〉《 、》〈始〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。  そう、カグツチは光の属性を有する者だ。どんな時でも諦めないという物語の主役じみた精神が、逆境において勇壮に駆動し始める。  現実? 常識? 言い訳は止すがいい、そんなものはねじ伏せよ。  苦難とはすなわち試練、光にとっては闇を討ち獲る〈起爆剤〉《セオリー》として機能する。  〈追〉《 、》〈い〉《 、》〈詰〉《 、》〈め〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈や〉《 、》〈が〉《 、》〈て〉《 、》〈雄〉《 、》〈々〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈覚〉《 、》〈醒〉《 、》〈し〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈ぞ〉《 、》。  最後は必ず勝つという英雄譚のお約束が、因果さえ殴り飛ばして闇の使徒へと炸裂した。  出力上昇、出力上昇、出力上昇──〈大熱暴走〉《オーバーヒート》。  内臓機関が耐え切れず、幾つか歪み弾け飛んだがなんのその。  これで敵手を上回ったと狂喜しながら恒星を繰り出した。  いざ、光によって滅びよ〈冥王〉《ハデス》──我らの明日は渡さない。 「〈創生〉《フュージョン》、〈収縮〉《フュージョン》、〈融合〉《フュージョン》、〈装填〉《フュージョン》── 灰燼滅却、〈極・超新星〉《ハイパーノヴァ》ッ!」  創造された大爆発があらゆる針を振り切って、敗亡の影を焼き尽くした。  数十倍の出力差だと相性による後れを取る? ならばよかろう、〈数〉《 、》〈百〉《 、》〈倍〉《 、》〈に〉《 、》〈達〉《 、》〈す〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈何〉《 、》〈の〉《 、》〈関〉《 、》〈係〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》。  限界突破による覚醒がもたらしたのは、単純にして絶対な破壊力の天元突破。カグツチはそれこそ真顔で馬鹿正直に、子供のような解決策を力押しで実現させる。  今まで何度か創り上げた超新星とは熱量の桁が違った。  〈気〉《 、》〈合〉《 、》〈と〉《 、》〈根〉《 、》〈性〉《 、》によるシンプルな理屈によって、天敵のかざす相性を真正面から押し返すのだ。  今度は一転、ゼファーがカグツチへと追いすがる構図に変わる。 「────〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈だ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ッ〉《 、》」  ──そして、更なる領域へとすかさず踏み込み手を伸ばす。  掟破りの〈二〉《 、》〈重〉《 、》〈覚〉《 、》〈醒〉《 、》。限界という壁をもう一つ、渾身で打ち破り内部機関を爆走させる。  なぜそんな暴挙が可能であるかというのなら、理由はもちろん〈気〉《 、》〈合〉《 、》〈と〉《 、》〈根〉《 、》〈性〉《 、》。心の力以外にない。  設計外の多大な過負荷で肉体が融解寸前に陥ろうと、構うものか。カグツチは何ら斟酌していない。  まさに真実の恒星が如く、各部から火の粉を散らして炎と成りつつ“圧勝”の二文字を求めて尚も激しく燃え盛った。  ──こんな〈超新星爆発〉《もの》で、ゼファーが敗れるはずなかろう。  油断しない、敵を評価する。とても正しい判断の下……明らかに過剰である殲滅力を渇望する。  圧倒的なその熱情に空間そのものが耐えられない。  中点へ向け圧縮される、高密度にして大出力の核融合エネルギー。  果てに現出するものは恒星の死が穿つ次元孔、突き抜けたプラスが三次元に亀裂を刻みついに虚無へと反転する。 「虚空の彼方へ墜ちるがいい──〈崩界〉《コラプサー》・〈事象暗黒境界面〉《イベントホライズン》ッ!」  ブラックホール、創造──生み出された無明の闇が〈限〉《 、》〈界〉《 、》〈を〉《 、》〈超〉《 、》〈え〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈た〉《 、》証明としてカグツチに滅びの力をもたらした。  収縮と膨張が釣り合った地点で恒星は本来安定するものだが、そのバランスを極端に振り切らせたことによりゼファーのそれとは異なる闇を、神星はついに体得。  彼を〈蝕〉《むしば》む忌まわしい反粒子の輝きが重力崩壊の魔手に囚われ、次元の狭間へ消えていく。  数百倍に隔絶した出力差に加えて、異次元空間への末梢。  いかな〈反星辰体〉《アンチアストラル》であろうとも、相性一つでこの両面を超えることは如何な〈冥王〉《ハデス》でも不可能だった。  ゼファーは今、無理矢理紡ぎだした全力で何とか凌いでいるに過ぎない。  ……勝負の決定打が、ここに成る。 「──────まだ、まだァァッ」  だが、〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈だ〉《 、》──まだ足りない。  〈覚〉《 、》〈醒〉《 、》〈の〉《 、》〈連〉《 、》〈発〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》で、果たして得られる勝利であろうか?  いいや否、驕るなカグツチ──己は勝つ。必ず勝つ。  絶対に、絶対に、絶対絶対何があっても敗けられないという一念が、理性の静止をねじ伏せて明日へ向かい超疾走した。 「が、ァァッ……」  ……そして、至極当然に終焉は訪れた。  復活からこれまで、自己を〈顧〉《かえり》みず繰り返し続けた限界突破の反動だろう。刻まれた斬傷から音を立てて砕けていくカグツチの身体、ある意味当たり前の結末として彼の命が潰えていく。  そもそも冷静に考えれば、これまでの覚醒は奇跡どころか異常なのだ。  機械は製造時の〈性能評価〉《スペック》を超えられない。  出来るのは〈安全弁〉《リミッター》を外して酷使することだけである。それにしたとて、本体にかかる負担は耐久寿命を大きく削る羽目になるのは自明の理。  よって、意志力による快挙などすなわち欠陥……ただの〈幻影〉《エラー》だ。  仕様外の夢に過ぎず、暴挙に相応しい末路が神星へと訪れる。 「──立てぃ、カグツチ! 貴様は、ここで斃れるべきではないッ」  瞬間──機能停止に陥る刹那、熱い叫びが轟いた。  脈打つように疼く〈記憶〉《メモリー》。  ああ、そうだ、この男は…… 「ヴァルゼ、ライド……」  その名を〈呟〉《つぶや》いた〈途端〉《とたん》、意識の崩壊がぴたりと止まった。  内界に響く声が雄々しく宣する──光と共に、輝きと共に。  果て無き明日への希望と共に。 「我が宿敵を名乗るのならば、この程度で終わってどうする? 貴様がそうであるように、如何に強く恐ろしかろうと俺の敵も奴ではないのだ。  我らの紡ぐ英雄譚は、あくまで我らのものなのだから」  そうだ、二人は共に固く誓った。いずれ必ず激突しようと。  聖戦の果てにこそ、輝かしい勝利と明日を掴むのだと。  交わした盟約を覚えている、覚えている──そうだとても決して忘れはするものか!  ならばこそ自分たちはと、思い〈滾〉《たぎ》り狂おしく── 「ゆえに立て、〈迦具土神〉《カグツチ》壱型! 我が宿敵、我が好敵手、打倒すべき魔の恒星よ。 ここで勝たぬというならば、俺は貴様を許しはしない──すべてを超越して魅せろ!」  英雄に認められた栄光が感動となり駆け巡る。  激励ならぬ宣戦布告を聞き届け、再び炎が燃え始めた。 「くは、ははははは── 応とも。誰にモノを言っているッ!」  〈煌〉《きら》めき輝く大喝破に、敵うものなど何もない。  この瞬間、紛れもなくカグツチは兵器どころか“人間”さえも超越する。  死地から舞い戻ったことによる影響か、はたまた意志力によるものか、内臓機関が進化して生物じみた振る舞いを〈神星鉄〉《オリハルコン》が見せつけ始めた。  金属細胞、創造──達成。  星を凌駕する新たな伝説、真実の意味で彼らは奇跡を具象化していく。  同時に、歪み凝縮していく〈暗黒天球〉《ブラックホール》。それを中心核として超高密度の核融合が行われる。  異常な数値の縮退圧と重力の間で釣り合いを見せながら、さらに上昇する質量。天上知らず、止まらない。  どこまでも〈大〉《 、》〈雑〉《 、》〈把〉《 、》に、歓喜の笑顔を浮かべながら、地球の法を軽く突破。  均衡を欠き爆発する臨界点──いわゆるチャンドラセカール限界寸前まで昂ぶりながら、星の爆弾を作り上げる。  生成されたその瞬間、〈星辰体〉《アストラル》の影響からさえ〈何〉《 、》〈故〉《 、》〈か〉《 、》ソレは解き放たれた。  〈反星辰体〉《アンチアストラル》を浴びて尚、小揺るぎすらしていない。  つまりこれは、今までのような擬似ではなく真実の宇宙現象。  何故か、何故か、いいやむしろ当たり前にカグツチは敵手とまったく別ベクトルの異界法を顕現する。  それは核融合の大暴走。  別名、炭素爆燃型超新星。  縮退圧の上限を突破した瞬間、重力崩壊を起こしながら数十光年範囲の生命体を放射線で根絶する……鏖殺の宇宙現象。  すなわち── 「〈縮退星・創造〉《ディジェネレイトスター》──〈大解放〉《バースト》ォォッ!」  人類史上初となる人工の縮退星が、たった今一人の男へ向けて躊躇なく解き放たれた。  その火力は、〈星辰奏者〉《エスペラント》や〈人造惑星〉《プラネテス》という秤にさえ収まらない空前絶後の大衝撃。  指向性は持たせてあるし、狙い撃ったのはゼファーのみ……などという一切は恐らく言い訳にしかならない。  なにせ、余波だけで間違いなくセントラルが消し飛ぶという規模である。オゾン層を貫通した爆光はやがて、斜線上にある月をそのまま苦も無く飲み込みながら〈削〉《 、》〈り〉《 、》〈欠〉《 、》〈け〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》だろう。  それだけでも脅威というのに、コレは今や星光さえ超越した謎の異界現象として森羅万象を焼き尽くす。  反粒子の効果対象から外れたことで爆光は闇を貫き、容赦なく冥府の使者を討ち滅ぼすのだ。  ゆえに、彼はもはや〈星辰天奏者〉《スフィアライザー》ですらない。  よってこの瞬間、〈星辰滅奏者〉《スフィアレイザー》の敗北は決定する。  カグツチを造り出した製作者さえ予想だにしなかった、進化の極点。  誰の目にも明らかな快挙をもって、ここに勝者が誕生した。 「いいや、終わりだよカグツチ。おまえに勝利は訪れない」 「言ったでしょう? 勝つつもりなんて、私たちにはないのだから」 「な────」  そう、勝者はカグツチであった……はずが。  ゼファーはまだ生きていた。  ありえないことに縮退星の直撃を受けてなお、苦悶の声一つ上げず依然突撃を続けている。  異常はそこだけに留まらない。これは幻影か、ゼファーの身体が〈透〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  まるで〈霊魂〉《ゴースト》のように……炎も、熱も、放射線さえすり抜けて。  淡く全身を輝かせながら覚悟を決めた眼差しで少女と共に敵を射抜く。  カグツチへと迫り来る。 「おまえ達の輝きさえ滅ぼせればこっちはそれで十分なんだよ。すべてはもはや、距離を縮めたあの瞬間に決まっていたんだ。  そうでなければ、斃せないと確信していた……」  追い詰めた分だけ際限なく強化されるという光の特性。  明日へ未来へ野望へと……可能性という未知へ奉げる信仰がどれほど凄まじい力を放つか、ゼファーはとてもよく知っている。 「〈敗者〉《おれ》がどれだけ、勝者を眺めてきたと思っているんだ」  だから、こんなものは予想の内にも入らなかったと言えるだろう。どれだけ強くなろうとも、何度覚醒しようとも、〈カ〉《 、》〈グ〉《 、》〈ツ〉《 、》〈チ〉《 、》〈は〉《 、》〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈上〉《 、》〈回〉《 、》〈る〉《 、》という確信があった。  三連発の限界突破が起きたことさえ、ゼファーにとっては驚きに値しない。よって激突する以前から力以外の打倒手段を見つけていなくば話にならず、必ず敗北するだけだ。  そう考えていたがゆえ、二人は静かに決断していた。  大切な人々や愛した過去を守るために、己を犠牲とすることを…… 「まさか──」  ここに至り、〈静謐〉《せいひつ》な眼光にカグツチも相手の意志をようやく悟った。次いで〈愕然〉《がくぜん》とした叫びを放つ。 「〈星辰体〉《アストラル》干渉による自己の特異点化……生身を捨て、〈第二太陽〉《アマテラス》の一部となる腹積もりかッ」  それが、今も実像を失っていく二人の男女が出した答え。  英雄譚を滅ぼすために選択した〈逆襲劇〉《ヴェンデッタ》に他ならなかった。 「正気か? そんなことをすれば、貴様らは──」 「この地上にはいられなくなるでしょうね。原理としては、あなたの放った重力崩壊とほとんど同じ。〈星辰体〉《アストラル》と過剰干渉し続けた私たちは、〈星辰体〉《アストラル》そのものへと変貌して向こう側へと墜ちていく。  オリハルコン、次元間相転移エネルギー、そして私の〈星光〉《うた》があれば……難しいことじゃなかったわ」  条件は揃っている以上、後はタイミングだけだった。星の粒子そのものとなりカグツチの行動すべてを無効化した一瞬に、こちらの刃を叩き込む。  その僅かな間隙のみ、相手が重ねた覚醒はすべて無用の長物と化すだろう。  今こうして、恒星の放つ光さえ何の障害にもならない事実がまさしくそれを証明していた。  実体と粒子の狭間を彷徨いながら、二人の男女はもはや地上を去るしかない。これから彼らが味わうのは地球からの別離だった。  愛する人々と触れ合う権利を対価に捧げた選択は、引裂かれるような痛みを生んで涙が零れそうになるけど…… 「それでも、守りたかった〈過去〉《もの》は残ってくれる」 「孤軍奮闘するあなた達には、理解できない想いでしょうね」 「───己は」  迷いなき捨て身の宣告にカグツチは答える言葉を持っていない。ああ、無理もないだろう。  それは勝利を求める男にとって、決して行使できない手段だった。  なぜなら、英雄と神星は常に〈勝〉《 、》〈た〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》という大前提に縛られている。  彼ら二人の描いた野望は、まさしく彼ら二人のものだ。  選ばれた存在しか背負えない重荷であるのは間違いなく、よって誰も後継者や協力者にはなりえない。  託す、任せる、もっての外──加えて助力も不要とあれば、特別性は更に更にと加速する。  物語において主役が替えなど効かないように……  揺るぎない使命感からの判断とはいえ、互いの死は願いの破滅に直結していた。  彼らは英雄であり、救世主であり、だからこそ一心不乱に未来を目指して。 「〈大和〉《たいよう》はまた昇る。だから〈恒星〉《おまえ》は、沈んでいけ」  ゆえに凡愚であり、負け犬であり、ならばこそ過去を愛した存在からは逃げられない。  光であるがゆえの宿命として王道の礎となった嘆きと傷が、犠牲の代償を収奪するべく彼らに向かって問いかける。  ──誰かのためとは、いったい“誰”だ?  ──涙を明日に変えると言うが、それを望んだ相手はどこに?  ──正論が正義であれば、間違いを犯した者に救いは無いのか?  ──過去は、痛みは、後悔は、光を〈穢〉《けが》す〈傷痕〉《きずあと》にしかならないと?  ──ならば果たして、何故この局面において。  運命に立ちはだかった存在は、常に雄々しい英雄ではなく、敗北者に過ぎないはずのゼファー・コールレインであったのか?  その矛盾が、引導と化して裁きを下す。  運命に紛れた砂粒が、ついに強大な星の車輪を破壊した。 「まだだ、まだだ、まだだ、まだだ──  聖戦を経て“勝つ”のは己なのだからッ」  それでも諦めない魂を燃やす恒星の化身へ対して── 「構わねえよ」 「輝きながら、逝ってくれ……  きっとそれが、おまえ達に相応しい光の最期だろうから」  静かに告げながら死神の刃が通り抜けた。  冷たく、切ない感慨と……ほんの〈僅〉《わず》かな敬意と共に銀の一線が光を断つ。  嫌悪という感情は、いつだって羨望の裏返しだ。  理由なく弱者が生まれてくるように、強者だって理由なくこの世に生まれてしまうだろう。  その寂しさに、今だけは思いを馳せる。  道を変えることが出来なかった対極である男たちへ、哀悼の意を真摯に捧げたその刹那──  立ち向かい続けた強さと共に、首は静かに落ちたのだった。 「あぁ────」  斬首され、胴から別たれていく頭部。  真っ逆さまに落下しながら、カグツチは反転した視界の中で〈下方〉《てん》を仰ぎ〈希〉《こいねが》う。 「〈大和〉《カミ》よ……いざ、この地へッ──」  我が身の不甲斐なさを悔やみながら、ならばこそと残った〈星光〉《ヒカリ》へおこがましくも未練を綴る。  僅かな残り滓に等しい力で、直上まで降誕している〈大和〉《カミ》の在処へ訴えた。  どうかほんの少しでも、無明たる次元の彼方より主君を救いあげるのだと、使命を滾らせ願った──その時。  ──たまさか、謎の思惟が脳裏を走る。 『不要也── 任ヲ解コウ、桃源郷ハ此処ニ有ル』 「───────」  そして……受信した念波を前に、カグツチの意識は完全に漂白された。  自らに割り込んできたそれは、旧日本軍由来である通信用の周波数。  もはや誰も使わず、知りもしないはずのそれが、〈第二太陽〉《アマテラス》から伝わった事実に対してすべての意志を打ち砕かれる。  思いがけない内容に言葉もない。  ああ、もしや、己は何か勘違いをしていたのではなかろうか……?  日本は特異点化して高次の存在となったが、それは悲劇などではなくむしろ救いであったのか?  この世の法から脱却して、実はとうに救われていた?  不滅の現象と化した今こそ幸せで、己の使命は時代遅れ。  向こう側には素晴らしき天上楽土が広がっており、この不完全な〈三次元〉《セカイ》にもはや、何の未練もないならば── 「ならば、己は……」  主のためと願いながら、しかし虚しく踊っただけの憐れな道具。  壊れ果てた兵器が暴走したと、ただそれだけの話に過ぎない。  ……それだけでしか、なくなった。  日本による支配など当の本人たちさえ望んでいない。時間からさえ解き放たれたまさしく神の民族は、それこそ“余計なお世話”だと千年前の決戦兵器へ自由を与え、拒絶する。  〈存在理由〉《アイデンティティ》の根底が音を立て崩れ始めた。  絶望の〈坩堝〉《るつぼ》へと墜落する、寸前に。 「──いいや、〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈だ〉《 、》」  宿敵の意志がそれを横から殴りつけた。何を今更迷うことがあろうかと、〈睥睨〉《へいげい》しながら決意が響く。  雄雄しく、熱く、どこまでも。 「千年も開きがあればこの結末は予想できたことだろう。覚悟くらいしておけ、阿呆が。 むしろ何故戸惑うのか理解できん。〈創〉《 、》〈造〉《 、》〈主〉《 、》〈に〉《 、》〈望〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》でどうして、歩みを止めねばならんという?  決めたからこそ、果てなく征くのだ。それ以上の理由など我らにとっては必要ない」  要か不要か、そんなことさえ極論どうでもいいのだと。  救いたい民があり、描いた理想が胸にある。  ならばその気持ちを不変の星と輝かせながら、後はまっすぐ進むのみ。  それがすなわち“光”であろうとこの馬鹿は──この阿呆は、こうも真顔で堂々と言い放つ。 「──、────は」  男の生き様などそれで十分なのだと。他を考える余裕さえ人生にはないのだと英雄は至極真剣に諭していた。  要は、決意にどれだけ殉じれるかという話。  まるでブレーキを詰んでいない機関車のようなその生き方は、人間として破綻しつつも憧れを禁じ得ない輝きだったから。  尊敬しかない──光が胸を焦がしてくれる。 「ああ……ああ、そうであったなぁ、宿敵よ!」  ──なるほど、負けてはいらない。なぜなら自分は魔星の主、聖戦にて雌雄を決する英雄の好敵手ゆえに。  まったく何を弱気になっていたのやらと、己を見捨てた〈第二太陽〉《かみ》を仰ぐ。  我が畏敬、そのような言葉で〈翳〉《かげ》りはしない。御身らを拝するゆえに、依然変わらず進撃しよう。 「ゆえに〈大和〉《カミ》よ、どうか今しばらく御待ちを。己は必ず、己の意志で、天津を地表へ降ろしましょうぞ。  出来る、出来ないなどではなく……求められるかということでもない」  そうとも、理由さえもはや要らん。  勝利とは“〈進〉《 、》〈み〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》”なのだから──ッ。 「決めたからこそ、果てなく征くのだ──!  己は勝つ、負けんぞ英雄。そうだ決して諦めんッ」 「当然だ。“勝利”をこの手に掴むまで」  前へ、前へ、前へ、前へ──彼らの〈旅路〉《たたかい》は終わらない。  〈今生〉《こんかい》は敗れたが……なに、次は必ず我らが勝とう。  復活、蘇生、あるいは〈輪廻〉《りんね》か、どれでもいい。諦めなければ世の道理など紙屑同然、蹴散らしねじ伏せ突破できると我らは既に知っているのだ。  その時こそ、対峙する相手は冥王ではなくこの英雄であってほしい。  正負に分かれた対極ではなく光と光を競い合う、その凄まじさを脳裏に描いて口元をほころばせた。  では、またいつか。  あの世の果てで奇跡を億ほど起こした先に。 「聖戦の成就を、さあ────」  あらゆる神話を過去にする、たった二人の大戦争を……  夢見るように呟きながら、カグツチは宿敵と共に光の粒子へ分解された。 ──そして、俺たちはその退場を見届ける。 寂静感と達成感を噛み締めながら、星の紡いだ運命はそっと静かに消滅した。 だから、後は…… 「終わったな」 「ええ……やり遂げたわね、私たち」 次は〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈番〉《 、》だと、粒子化して〈特異点〉《アマテラス》と同じ位階になりつつある互いの身体を抱きしめていた。 存在する次元の位相が高次へ上っていくせいか、もう視界は三次元上の風景を碌に映していない。見渡す視界に存在するのは暖かい光の渦だ。その導きを一身に受けながらゆっくりと向こう側に飲み込まれていく。 この輝きの行き着く場所が日本の在る世界というなら……なるほど、確かに天国だよ。 飢えも病も老いもない、意志が透き通るような感覚と、あらゆるものから解き放たれる爽快さに満ちているのは間違いない。 だから、お行儀良すぎて俺にはちょっと合わないかな。胸に伝わる小さな身体の感触でぬくもりとしては十分すぎる。 聖教国の信徒なら泣いて喜んだかもしれないが、そんな〈桃源郷〉《エルドラド》に感心もなければ興味もない。 荒廃してアストラルの満ちた大地こそ……いいや、あの小さな我が家こそ。俺とヴェンデッタにとって、何物にも替えがたい最高の楽園なのだから。 「ミリィは、悲しむだろうな……」 「それが大きな心残りだわ。きっとあの子、隠れて泣いちゃうでしょうから」 ゆえに今、俺たちは一人残してしまった小さな家族のことを想う。この選択に後悔はないがそれでも葛藤しなかったわけではない。 俺たちは英雄なんかじゃないんだ。これが唯一の正解であったとしても、だからといって納得できるかは別のこと。 「未練がましいと言われても、いざとなれば決心が鈍るわね。今こんなにもあの家へ帰りたいと思っている」 「もっと傍にいたかった、もっと笑顔を見たかった、あなたとあの子とみんなと一緒に……そしてたまには二人きりで」 「安らぎの中、ささやかな幸せを感じたい。そんな想いが尽きないの」 柔らかい微笑みは満たされながらも同時に〈儚〉《はかな》い。ああ、俺もだよ。決意したつもりでもいざとなれば震えてしまう。 嫌だ戻せ、行きたくないと、駄々のように叫びたい感情は確かにあった。というか、それが心の大半を占めているあたり、我ながらどうも格好がつかない。 そして今や一心同体。互いの本音は筒抜けで、だからこそ往生際の悪さに思わずしばし共に苦笑する。 「ふふ、いっそ二人で地縛霊になってみる?」 「いいねえ。それでこちらにしがみ付けたら、儲けものだろうしな」 「けれど、諦めるつもりはないんだろう?」 「当然ね。それはもう、あなたと同じよ」 これもまた、一心同体だからこそ伝わる意志。俺たちは安穏と〈大和〉《カミ》の御許で太陽やってくつもりはないんだ。 いつか必ず帰って来ようと互いに堅く誓っている。肉の身体を取り戻して、もう一度守り抜いた〈過去〉《にちじょう》へ何としても辿り着くんだ。 黄泉降りの次は天降り……都合のいい願いを口にしている自覚はあるが、これだけは決して絶対諦めない。 そして自分の流儀じゃないが、頑張れば大抵どうにかなるだろう。 なにせ、ほら、さっきまで根性論の体現者と戦っていたわけだし。あんな〈螺子〉《ねじ》の外れた領域とまではとてもいかんが、今回ばかりは奴らの強さを手本にしてもいいはずだ。 あれだけ散々〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》せいで、〈流石〉《さすが》の俺も頑張れば案外なんとかなるものだなと、少しは信じられるようになったしさ…… 何より、そんな奴らに俺は一杯食わせたのだ。もうここまで来ると、やる前から泣き言なんかは使えない。 カグツチやヴァルゼライドも、すべてがすべて間違いだったのではないのだから。奴らを否定した以上、それなりの責任を俺たちは背負ってしまった。 「彼らはやり過ぎだったけど、目標に向かって努力することそれ自体は決して過ちなんかじゃない。未来を目指す決心だって、当たり前で大切なこと。否定できない真実だわ」 「ただそれが、過程や結果で誰かを傷つけはしないだろうか」 「救われるのは結局、周りに見えて自分だけではないのだろうか」 「行動へ移す前によく考えて、時に悩んで、迷いながらも選択して……」 「誰かに相談したりしつつ、支え合って成功したり失敗したり……」 挫折して立ち止まっても、いつかまた歩き出したり…… 新しい誰かとの出会いによって、衝突したり、救われたり…… それらをまとめれば、いつも簡単な結論に落ち着いてしまう。 「なんつうか、当たり前なんだよな。改めなくてもどこかで聞いたものばかり」 「それだけに、とても難しいことなんだけど、ね」 まったくだ──正しいことはとても痛い。悩みや過去を打ち明けるのだって、俺たちにとってすれば多大な勇気が必要である。 目を見てうまく話せない。身内の前だけ格好つけ。やったことない分野には思わずいつも手が〈竦〉《すく》む……自分の弱さを隠さなければ、まともに他者と向き合えない。 出来る奴には大したことがなかろうとも、小心者にはどれもハードル高いのだ。嘆いて迷って転んで泣いて、逃げて籠もって耳を塞いで、それがとても心地いいから一歩も動けずよく座り込む。 とても、とても楽だったよ。けれど── 「それでも自分だけじゃなかったら、人はそれなりに頑張れるわ。全力じゃなくて、ほんの少し。それが救いで同時に苦しみ」 「だって、一人になるのは簡単でも、一人でずっとい続けるのはとても難しいことだもの」 心配だろうが救済だろうが、侮蔑だろうが攻撃だろうが、人間はあらゆる意味で他者を放っておけない生き物だからどんな出会いであろうとも契機は必ず訪れる。 俺にとってヴェンデッタがそうであったように…… まあ、そこからの健全な一歩というのが存外難しいのであるが。嘘でもいいからそこだけは少し思い上がりつつ進んでいけばいいだろう。 傷だらけで、間違いだらけの自分であっても、その愚かさをありのままに受け入れてくれる存在がどこかにいると信じよう。 なにせ、人は弱くてちっぽけで、自分一人じゃ決して生きていけない──誰かがいるから生きていける、愛しい生き物なのだから。 その真実を胸に、俺たちは互いを強く抱きしめ願う。 今までの気持ちと、これからの未来を二人でしっかりと受け止めた。 「それじゃあ、行こうか……必ず帰ってくるために」 「二人で一緒に、〈天国〉《セカイ》の果てを見てきましょう」 そして、一際強い輝きに包まれながらそっと顔を寄せ合って…… 口付けを交わした瞬間、俺たちは淡い光に姿を変えて浮上する〈第二太陽〉《アマテラス》の向こう側へと旅だった。 ──朝が来て日が昇り、沈んで再び夜になる。 それは周り巡る星の運行。時間はゆっくりと確実に流れていき、誰にもそれは止められない。 記憶は薄れ、思い出は色〈褪〉《あ》せていき、大切だった一瞬は残酷なほど押し流されて過去の一部となっていくけれど…… ちっぽけなわたし、ミリアルテ・ブランシェは今日も精一杯生きています。 家族が遺してくれた、暖かいけれど少しだけ切ない日常の中で。 「よし、今日も完璧」 フライパンから出来上がったばかりのハムエッグをお皿に移し、そのままテーブルの上まで運んだ。 朝の空気は柔らかく、外では今日も小鳥のさえずりが響いている。そんな平和を感じている時にちょうどトーストも焼き上がり。 朝ごはんの準備はこれで完了。 「いただきます」 席に座って一人分の食事を運んでから手を合わせた。 もちろん、声は自分だけ。少し前まであった二人分の言葉はなくて、静かなリビングに食器の音が響いている。 とりあえず、無音というのも寂しいから朝食を味わいつつ傍のラジオへ手を伸ばした。 〈僅〉《わず》かな砂嵐の後、チューニングのあったスピーカーからいつもの国営放送が流れ出す。 「──では、次の放送へと参ります。第三十七代総統、ヴァルゼライド閣下が崩御なされて早一ヶ月。先日の国葬を機に、訪れた未曽有の混乱も収束の兆しを見せ始めました」 「反動勢力が新型のアストラル運用兵器を奪取したことに端を発した暴走事件は、これで一応の決着を見せた形になるものの、我々帝国臣民が失ったものはやはり大きいと言わざるを得ないでしょう」 「ならばこそ、帝国はいま試されているのかもしれません。偉大なる英雄の死に対して一人一人の国民が意識を高め、今後も成長率を維持するべく──」 と、流れている内容に思わずそっと苦笑した。 もやもやするとまではいかないけれど……うん。なんだろう、なんだかちょっと不思議な感覚。 「兄さんもこんな気持ちだったのかな」 真実に関わった者として大衆向けの〈表向きの話〉《カバーストーリー》を聞くというのは、おかしな気分になるものだという言葉が少し分かる。声を荒げることもなく、まあそう言うしかないよね、という変な納得をしてしまうのだ。 ……そう、あの大事件からもう一ヵ月。大々的に公表された情報だと、あれはラジオが流した通りに反動勢力の反逆行為ということになっている。 〈星辰奏者〉《エスペラント》の異能を参考に〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》が開発していた新型のアストラル運用兵器。大気中の〈星辰体〉《アストラル》に感応して展開される大規模な〈幻〉《 、》〈覚〉《 、》〈と〉《 、》〈意〉《 、》〈識〉《 、》〈干〉《 、》〈渉〉《 、》〈効〉《 、》〈果〉《 、》〈を〉《 、》〈起〉《 、》〈こ〉《 、》〈す〉《 、》それが、どこから漏れたか、逆賊の手に渡ったのが事件の発端……という筋書きである。 反動勢力の面々はまず、グランセニック商会の御曹司を人質にして侵入経路を確保。装置の奪取に成功したが、用いられていた〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》を制御できずに結果、暴走を引き起こす。 その際、偶発的に〈第二太陽〉《アマテラス》と干渉を起こして効果範囲が増大。〈帝〉《 、》〈都〉《 、》〈全〉《 、》〈域〉《 、》〈の〉《 、》〈景〉《 、》〈色〉《 、》〈を〉《 、》〈光〉《 、》〈学〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》〈歪〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》、わたし達はみんな起きながら白昼夢を見ているような状態に陥ったという話だが…… それを止めたのが、クリストファー・ヴァルゼライド総統閣下。 渦巻く〈星辰体〉《アストラル》の乱気流へと単身乗り込み、装置を見事に破壊したが……奮闘むなしく崩御なされたのである、と。 あくまでおおまかにだが、そんな話になっている。 〈地〉《 、》〈へ〉《 、》〈降〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈第〉《 、》〈二〉《 、》〈太〉《 、》〈陽〉《 、》もその瞬間、まるでブレるように瞬いたかと思えばいつもの〈上空〉《いち》へとすぐに戻った。 干渉がなくなったことで本来の座標へ正されたということなのだろう。次元や空間が持つ復元力というやつなのかな? まあともかく…… 事が終わってからは、本当に大混乱だったなとしみじみ思う。多くの国民から敬愛されていた光の英雄、その喪失は帝国のみならず近隣諸国にも電撃的なニュースとなって駆け巡った。 「狙い目、なんだろうなぁ……」 救世主に支えられた黄金期へと影が差し、喜んだのは侵攻対象だった小国である。チトセさん曰く、ひっきりなしに〈ち〉《 、》〈ょ〉《 、》〈っ〉《 、》〈か〉《 、》〈い〉《 、》をかけられているようだとか。 奴の存在感を改めて思い知らされたと、この前に聞いた〈愚痴〉《ぐち》を思い出す。確かに、実際ヴァルゼライド総統がいたからこそ豊かだったのは事実なのだ。そこは決して否定できない。 功績はそれこそ山ほど、国益に誰よりも貢献してきた。だからあの人を慕う者は未だに多く、その死をきっかけに幾つか新たな派閥も軍に出来上がってしまったとか。 わたしは嫌いと宣言したし、気持ちは今も変わらなくて、巻き込まれた兄さんたちもきっとそこは同じだろうけど…… 縁もゆかりもない大半の人々にとってみれば、まさしく理想的な指導者であったのは間違いなかった。その部分に関してだけは認めているし、受け止めてもいる反面、やはり複雑な気分にはなってしまう。 遺体が残ってないせいか、今では多種多様な生存説まで叫ばれている人気ぶり。少し前に行われた国葬の際も、あの方が死ぬはずないと暴れ出した人さえいたぐらいだった。 つまりは、それが聖戦の結末── 英雄を失い、国は傷つき、人々には不安と悲しみだけが残った。 〈遺産技術〉《ロストテクノロジー》の中核を担っていた存在も消えてしまい、誰も何も、これといって得たものは特にない。 今までの日常が、血を流しつつ続いていくというだけだった。けれど── 「それでも、時間は流れていくから」 痛みも傷も過去に包んで、今を生きる力になっている。 当然、ふとした時に失ったものを思い涙がこぼれそうになるとしても、わたしはこうして生きているから。 「兄さん、ヴェティちゃん、行って来ます」 だからこそ胸を張って生きていこう。 守り抜いてくれたものを素晴らしいと誇るために、今日もわたしは頑張るのだった。 「──で、だ。三日後、商国側から派遣される氏族なのだが、マドロック金融の息がかかった者らしくてな。強欲爺を選出するとは、もはや連中、意図を隠すそぶりもないわ」 「あらやだ、性急なことね。グランセニック商会を外様へ追いやっただけでは、まだ足りないということかしら?」 「あるいは、英雄さえいなくなればと高を括っているだとか」 「そのどちらもだよ。とりわけ後者の理由についてはどこも同じということさ。よほどヴァルゼライドが怖かったらしい」 「今の帝都は〈間諜〉《スパイ》を呼び寄せる誘蛾灯だな。それが〈蜥蜴〉《とかげ》の〈尻尾〉《しっぽ》ならこっちでシメればよいのだが……」 「公の身分で正式に来られると面倒ね。分かったわ、それじゃあ相手の望み通り歓待してあげましょう?」 「選りすぐりの〈娘〉《こ》を用意して、ねっとりたっぷり、蜜で骨まで浸してあげるわ……何でも言うこと聞くように。うふふふふ」 「ははははは、いやぁ助かるよイヴ。おかげでこちらも仕事がはかどるというものだ」 「持ちつ持たれつよ。こちらにもメリットはあるし、それと──」 「あ、あのぅ、お二方とも……ちょっと」 と、おずおず発言したわたしへ二人の美女が同時に振り向く。 ドレス姿のチトセさんとイヴさんが、なぜか〈工房〉《アトリエ》でにこやかに談笑している光景へと勇気を出してつっこんだ。 さっきの内容を雑談と済ましていいかは少し疑問なのだけど……うん、わたしはなんにも聞いてません。軍事機密的なことは、ええ何も。 思わず手を止めてしまったことで、二人はばつが悪そうに顔を見合わせて苦笑していた。そんな仕草さえ〈煌〉《きら》びやかに見えるのだから、なんというか美人はすごい。 「あー、すまなかったなミリィ嬢。仕事の邪魔になってたとか?」 「ごめんなさいね、私たちのことはマネキンか何かとでも思ってくれるとありがたいわ」 「それが一番、無理難題の気がします」 不可能です、出来っこありません。兄ほどではないけれど、わたしもこれで結構小市民なのですから。 何よりお二人の身分や格好を考えれば恐縮するのも仕方がないと言いますか。機械油の染みたグローブで作業をしている自分と比べてしまい、〈曖昧〉《あいまい》な笑みを返した。 ……まあそれでも、これはあの事件以来よく見る光景の一部。 少なくとも五日に一度、二人はここへ顔を出すのが気づけば普通になっていた。表には出せない密談をしたり、あるいは単に仕事の〈愚痴〉《ぐち》を語り合ったりと、わたしがいてもお構いなしに帝国の裏事情まで交わし合ったりしている。 特に表向き、ルシードさんが反動勢力の手にかかった犠牲者である……ということになっているせいで、一時的に二人は共同で商業ギルド側を取り締まっていた。 まあ、イヴさんにはあの小さな蜂もあることだし。こういうのは天職らしいからこれからもこの関係は続くのだろう。 そしてそれを口実に、人目を忍んで二人はこの〈工房〉《アトリエ》に来るわけだ。表向きは情報交換、けれど本当は……傷心仲間によるちょっとした女子会として。 わたし達三人は〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈性〉《 、》がいなくなったことで、少しだけ宙ぶらりんの想いを抱えたという共通点を持っているから、自然と仲も深まったと思う。 そして、今日はこれから〈貴族〉《アマツ》・朧の〈お〉《 、》〈嬢〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》として会談が有るらしい。ドレス姿なのはそういうことだとか。 で、本日の主役であるはずのチトセさんは── 「そろそろ女として自前の武器を使うべきかも知れないが……膜と操は、あいつのために取っておいてやりたいからな」 「ミリィ嬢、逆レイプについて君はいったいどう思う?」 「双方合意が好ましいかと存じます」 ……などと本気か否か、とてもイイ笑顔と共に言ってのけることが最近多い。ああ兄さん、これ知ったらまた逃げるんじゃないかなぁと苦笑いしたりなんかして。 そんなやり取りもちょっとした〈諧謔〉《かいぎゃく》の一つだった。置いて行かれた者同士、最近は従姉妹殿と息が合う機会が増えた、なんておどけて言うこともあるくらいである。 便乗して暴走した二体の魔星、それを討ち獲ったということで今やチトセさんは英雄の一員だ。本人が喜ばしいと思っているかは、さて置いて。 少なくとも総統の損失を埋め、アドラーは健在であるというアピールのために〈裁剣天秤〉《ライブラ》の名が使われる頻度も増えた。 要は、わたしなんかよりとても忙しく頑張っているということである。 すごいなって思うし、だからこそこの会話が少しでもストレス解消に〈繋〉《つな》がってくれればいいなと感じているし、個人としてもチトセさんとの会話はとても楽しい。 生まれも立場も考え方も違うのに、こうして気が合うのは素直に嬉しいことだった。 兄さんもきっと、こんな気持ちだったんだろう。 「しかしまあ、全体的に人手が足りん。損失した多くの兵に、保障、補填、再編成と……目まぐるしいにも程がある」 「アオイもよくやってはいるが、英雄の死により現役を引いた者まで出ている始末。身内のはずの〈血染処女〉《バルゴ》まで何やら少々きな臭い動きをしているらしくてな。〈野心家〉《ギルベルト》めが、やってくれるよ」 「まったく……こういう時こそ居ろというのに、あの狼は」 「まぁまぁ、いつもちょっとだけやきもきさせる人ですから」 「男の子は少年だもの。そう簡単には縛れないわよ」 同じ人のことを脳裏に描いて少しだけ苦笑してしまったけど、そこに泣き出すような悲しさはない。 ほんの少し寂しいだけ、ほんの少し切ないだけ…… 困ったように顔を見合わせながら、それでもわたし達は前に進むことが出来ている。大切な過去を家族が守ってくれたから。 「それで、物は相談なのだが──〈天秤〉《うち》に来ないかミリィ嬢?」 「君のように優秀な〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》は是非ともスカウトしたくてね。どうだろうか、良い待遇を約束するぞ?」 「申し出は嬉しいですけど、すみません。出来ればわたしはこの〈工房〉《アトリエ》で仕事を詰んでみたいんです」 今は亡き師匠が遺したこの〈工房〉《アトリエ》……それを守りたいと思うのは、弟子として当然のこと。 店の看板を受け継ぎ、背負い、いつか尊敬していたあの背中へ追いつく日のため毎日ここで成長を確かめたい。それが今の、わたしが抱いている夢だった。 「そうよ。あと、この子を引き抜くつもりなら私の許可を得てちょうだい。簡単に〈頷〉《うなず》かないから」 「よれよれの王子様が帰ってくるまで、ミリィちゃんの保護者は私。軍なんて危ない場所へお母さんが行かせません、ね?」 「わぷっ──もう、イヴさんってば」 胸に抱き締められて頭をこれでもかと撫でられる。なんだか子犬になったみたいで、愛されるのが素直にうれしい。 チトセさんはそれを見て仕方なさそうに笑っているし、イヴさんも、そして自分も……それぞれ色は違うけど笑顔を浮かべられている。 だからね、大丈夫だよ二人とも。ミリィは頑張ってるのです。 安心していいからねと、胸中で告げながら微笑んだ。 そして、本日の仕事も終わり── 「おう、いらっしゃい」 「いらっしゃいませ、ミリィちゃん!」 馴染みの店で、わたしは今日も夕飯をいただくことにした。 家に帰っても一人だし、最近はもっぱらアルバートさんのところへ足を運ぶのが通例になっている。 「今日はいつもより少し人が多いみたいですね」 「〈小癪〉《こしゃく》にもオーナーの腕が上がり始めていますから。ええ〈小癪〉《こしゃく》にも、生意気にも、ついでに身の程〈弁〉《わきま》えずにも」 「ああっ、既製品じみた味はどこへやら。外食として少し美味しい部類に入ってしまえば、それこそまさに没個性ではなかろうか……!」 「おまえ達、少しは俺の努力を褒めろよ」 「……まあ、言われたことも一理あるのが悲しいけどよ。売り上げにはさほど貢献できてねえし、黒字が出たのは飲んだくれのおかげだな」 その言葉通り、見渡した店内では食事をつまみにお酒を飲んでいるような人がちらほらと。そういう一部の存在が散財してくれてるせいで、儲けが出たとぼやいていた。 法整備で何かの規制が緩くなったというわけでもないのに、こういった〈だ〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》人の姿はこの一ヵ月で少し増えたように思う。総統閣下が死んだことで、帝都の雰囲気が少し緩んだと感じるのだ。 それは悪く言うなら規律の欠如で、良く言うなら人間らしくなったということだろうか? 一概にどちらが良いとは言えない変化であるものだから、なんとも判断がつきにくい。 「〈貧民窟〉《スラム》側への物流も潤い始めたらしくてよ。横流しが増えたんだと。あいつの威光でよっぽど締め付けられていたんだな」 「今の俺には関係ないが、それを聞くたび複雑な気分になるよ」 顔の見えない〈誰〉《 、》〈か〉《 、》に尽くす、徐々にその功罪が社会へ浮き彫りになっていくことへ対してアルバートさんは深いため息をついていた。 結局、軍に戻ることもなく重いものを脱いだ身として思うところがあるのだろう。詳しくは聞いていないけれど、大きな心境の変化があったのは……なんとなくだが感じていた。 彼はここへ腰を落ち着けるつもりらしく、料理の腕を磨くため本腰を入れ始めているのは本当だった。そのために、チトセさんを始とした軍部交換とちょっとした〈取〉《 、》〈引〉《 、》もしたみたい。 そうまでして選んだ立場が飲食店の店主なら、個人的にもいつか繁盛してほしいなと思っている。 そして、この二人……ティナさんとティセさんは多くを語ろうとはしない。 帝国外の出身者であるのは分かったけど、あれから何事もなかったかのように笑顔で自分を出迎えていた。 変わらずウェイトレスをやっていた時は、こちらの方がびっくりしてしまったくらいで…… 「わたし達は、〈泳〉《 、》〈が〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》いますから」 「主が〈腹黒〉《ゆうのう》な内は、ここで働くつもりなのです」 ……そんなことを言ってたけど、自分にはよく分からない。 ただそれは、今も帝国軍上層部におさまっている〈深謀双児〉《ジェミニ》の隊長さんと、何か関係があるんだろう。 きっと取引とか、約束事とか、色々あったんだと思う。だからわたしもそれ以上踏み込んではならない線を感じたので、問いかけたりはしなかった。 相手のすべてを知らなければ友達になれないわけじゃないし、すべてを知ったからって友達になれるわけじゃない。 アルバートさんとヴァルゼライド総統閣下がそうであったように……互いの本音を知った上で決別することがあるのなら、今の関係を喜びと共に受け入れよう。 そう思っているん、だけど…… 「あ、ですのでゼファーさんが帰って来たら是非ともお教えくださいね。実はあの人、このたび最重要人物としてリスト入りしちゃいましたから」 「なので、前はアウトオブ眼中だったのですが、これからは前向きに籠絡しようと思ってまーす。やぁん、はいとくぅッ」 「とりあえず、オプション無料で生クリームの女体和えはやっちまおうかと画策中だったりしますので」 「肉欲責めして……いいよね、ミリィちゃん?」 「全然よくないですよ!」 などと、まぁ……これも二人なりの探りとか職務とか、もしくは趣味? なのだろうかと勘繰ったり弄られたりしながらも。 「……雇うか、まともな従業員」 アルバートさんの哀愁に満ちた眼差しを感慨深く眺めながら、わたしは騒がしくも楽しいひと時を過ごすのだった。 そんな時間も過ぎ去って、一人、夜道の帰路を歩く。 事件から活気は〈僅〉《わず》かに翳っているけど、それでも人がいなくなるという程でもない。日常の復元力は案外馬鹿に出来ないのだ。 悲しみはあるけれど、時は戻ってこないのだからめそめそしても仕方ない。 そう思っている人たちが率先して、頑張って、なんとか国をもう一度盛り立てようと尽力している。未来はとても不安だけれど、それでも過去は力になるからそれぞれ必死に努めていた。 ──見上げた先には両目のように並んで輝く、満月と〈第二太陽〉《アマテラス》。 〈星辰体〉《アストラル》の発生源は相変わらず、星のような運行と振る舞いをみせながら新暦の世を見下ろしている。 「向こう側はどうなっているのかな……」 〈大和〉《かみさま》は、結局この傷ついた大地に帰ってきたりはしなかった。 単に二人の活躍で聖戦が失敗したのか、それとも別の要因があったからまでは分からない。 世界法則は何も変わらず日本はああして現象のまま、今日も静かに別位相の次元から星屑であるアストラルを恩恵として降りまいている。 ……わたしが最後に見た光景は、家族が特異点に粒子化しながら吸い込まれていく姿だった。 それを思いだすたびに、有るか無いかも分からないあの向こう側を想像して思うのだ。どんな世界が広がってるのか、いいやそもそもわたし達の考えているような“世界”という概念を取っているのだろうかと。 答えの出ないことを思案しながら見上げても、不沈の太陽は何も答えたりはしない。 ただ絶対的に、永久不変に、三次元から解き放たれて〈第二太陽〉《アマテラス》はそこにあった。 物質や三次元の制約からも解き放たれた高次の領域。次元の遥かな彼方にある、選ばれた民族だけの〈桃源郷〉《エルドラド》で……今もずっと。 ずっと…… 「ただいま」 明かりをつけても声は小さく反響するだけ。もう慣れたけど、無言のリビングはやはり少し寂しくなる。 そして、軽く手を洗ってから椅子に座って一息ついた。今日一日、何があったのかを頭の中に〈反芻〉《はんすう》しながらゆっくり小さくまとめていく。 眼の前には誰もいないけど、それでもこうして報告したい時があるから。 日記代わりにわたしは〈訥々〉《とつとつ》と語りだす。彼と彼女へ、大丈夫だよと〈囁〉《ささや》くように。 「今日も無事に一日終わったよ。お仕事も順調で、最近はそれなりにうまくやれている感じかな」 「それでね、なんと〈顧客〉《リピーター》も出来ちゃったんだよ。すごいでしょ。今度、師匠のお墓参りで報告するつもりなの」 「まあ、でも正直追いつけてるとは思えないから。〈自惚〉《うぬぼ》れるなよ馬鹿弟子め、なんて言われそうかな……ふふ、さすがにその時は畏まっちゃうつもりですけど」 「チトセさんやイヴさんも優しくてね。暇があったら様子を見に来てくれるから、いつも周りに誰かがいて……騒がしくて、幸せで」 「そんな明るい毎日だから、わたしは元気。大丈夫だよ」 「楽しいの。ほんとだよ? だから、ね──」 こんな素晴らしい日々は、わたし一人じゃ少し重たすぎるから…… 大切な家族と一緒に分かち合いたいと思うから…… 「兄さんも、ヴェティちゃんも……いつでも帰って来て、いいんだからね」 「わたしはずっとここにいるよ。思い出と一緒に、二人のことを待っているから」 生きているって信じているから──ごめんなさい、今は少しだけ泣かせてほしい。 「また、この家で……三人一緒に、っ」 過ごしたいと願うたびに、積もっていた悲しみがほんの少し溜めた器から〈零〉《こぼ》れだした。広くなったこの家にわたしの〈嗚咽〉《おえつ》が小さく響き、頬を雫が伝っていく。 〈大和様〉《かみさま》、〈大和様〉《かみさま》、どうか一つだけお願いします。 あなたに慈悲があるのならわたしの家族を返してください。どうかあなたの御許まで、二人を連れて行かないで。 それが罪だというのなら幾らだって背負いますから、あなたが見捨てたこの世界に、彼と彼女を戻してほしいと…… 祈りを捧げて泣いた想いに誰も応えはしなかった。 神は誰も救わない。ただ平等に見守るだけで、だからこそ── うん。 わたしは頑張らないといけないんだ。 「…………よしっ」 目元をぬぐい、頬へ両手で気合を入れる。いつまでもめそめそなんてしてられないから、胸を張って今この時を生きていこう。 思いっきり泣いたことで気分も晴れたし、明日も早いぞ、さあ頑張るぞとリビングを後にしようとした。 その時に── 「大丈夫、必ず帰るさ──          あなたの下へ……いつか二人で一緒にね」 「……え?」 聞こえた想いに、はっとして振り向いた。 忘れるはずなんてない、大切な人たちの声。それを証明するかのように、テーブルの上に〈微〉《かす》かな〈星辰体〉《アストラル》の反応が残っている。 いつの間にかそこにあった物。それは、それは── 「あ、あぁ──」 涙が、喜びによって溢れ出た。 銀の刃と、黒いリボン。見間違えるはずなんてない、家族の生きた証がいま、目の前へと帰って来たのだから。 手で触れた懐かしいその感触に、熱い雫が止まらない。 瞳が痛いほど潤んで、胸に刻まれていた傷がゆっくりと癒えていくのが、とても、分かって…… 「兄さん、ヴェティちゃん……っ」 〈零〉《こぼ》れ落ちた涙が、次から次へと〈煌〉《きら》めきながら落ちていく。 絶望なんてもう消えた。必ず帰るという優しい言葉が、希望となって心に染みわたっていく。 だって彼らは、どんな約束でも最後には守ってくれる人たちだから。 〈大和様〉《かみさま》さえも関係ないって、笑い飛ばしてしまえる強さをわたしは知っているんだもの。 恐れることは何もない、救いはある。きっとある。 二人のいた証をそっと胸に抱きしめて── 「うん、信じてる。待っているからね、二人とも」 やがて叶う家族との再会を夢見ながら、わたしは星へと祈りを捧げた。  運命の歯車は止まらない。  様々な思惑が動き、衝突し、そして敢えなく散っていく。  所属する勢力をも超えて交錯する戦火はその結果、計算の外にある事態を招き──そして、最も重要な〈鍵〉《キー》を失った。  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》は盤外に消え、残るはもはや〈吟遊詩人〉《オルフェウス》のみ。  己が片翼を失ってしまえば、彼の奏でる旋律も最早冥府に響くまい。  加えて〈氷河姫〉《ピリオド》、〈色即絶空〉《ストレイド》は堕ち、〈錬金術師〉《アルケミスト》の暴走までもある。  事態はこれにて次の段階へと移行するのか? 本当に?  〈月女神〉《アルテミス》の完成を求めて事の推移を静観してきた二つの星。彼等もまた動き出さねばならないのなら……しかし。 「その後、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の経過は?」 「束の間の生を終え、冥府へ戻ったままであるな。恐らくだが、もはや二度と目覚めんだろう。 いや、そもそも〈此度〉《こたび》の覚醒自体が異例なのだ。理解不能、解析不能、ゆえ如何様にもなるまいよ」  報告は両者にとって事の難航を告げるものでありながら、不思議と焦りは感じられない。  まるでこの現状すらも、彼の手掛けた戯曲の内であるかのように。天上の高みから舞台を見下ろす。 「己はな、どうも違和感を覚えていた。  起動した〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の有り様はまるで単一性を欠いている。〈魂魄〉《こんぱく》は一つであるにも関わらず、その〈生体情報〉《データ》は常にどこか不安定……  まるで〈不〉《 、》〈純〉《 、》〈物〉《 、》が混じっているかのように、計測数値が時に乱れ、時に凪ぐ。一人でありつつ、同時に二人であるように」 「〈複合遺伝子〉《キメラ》であったと、そう言いたいのか?」  ヴァルゼライドは険しい〈眦〉《まなじり》でそう問い〈質〉《ただ》した。  単一の個体でありながら、その遺伝情報には複数の細胞が混じっているという事例。それを示唆しているのかと、カグツチの返答を促す。  〈人造惑星〉《プラネテス》の生成過程を考えるに、それは全く有り得ない話とは言い難い。  人間の死体を基本として生命を再構成していく手法を取っている以上、枝葉の部分はどうしても他の材質を用いざるを得ない。〈神星鉄〉《オリハルコン》などがまさにそれだ。  ゆえに完成し、起動を果たしたとてそこで不具合が生じることも、可能性としては当然色濃く存在している。  そしてこの場合、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の製造には細心の注意を払っていた事実を〈鑑〉《かんが》みれば……先天的な素体そのものに問題があったのではとうい結論に至らざるを得なかった。  異なる遺伝情報を有する細胞が部分的に入り交じったものは、通常モザイクと呼称される。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の場合であるならば、キメラと表わすよりもこちらがより適切であろうか。  由来の異なる複数を構成要素としてしまえば、〈斯様〉《かよう》な現象の可能性はどうやったところで排除する事が適わない。  すなわち双頭種……二つ以上の胚に由来する細胞集団から発生した個体であるがゆえの宿命が生じてしまう。  〈実験〉《フラスコ》で生成された命という事情から、完全な単一である事は有り得ないにしてもそれを見落としていたならばと──思うが、それは。 「おまえも知っているはずだろう。〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》はそのような愚を犯さぬと」  〈黄道十二星座部隊〉《ゾディアック》が一つ、〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》はいずれ劣らぬ傑物揃い。  ヴァルゼライドが信を置いているのも然り。現在議論の俎上にあるそんな事象を彼等が見逃すはずもないのだ。  ゆえ、立てられた仮定はその前提から覆る。 「その通りだ。我らが直接、薫陶を授けたのだから疑っているつもりはない。  しかし、事実として〈死想恋歌〉《エウリュディケ》は眠り姫。ならばいったいどういうことかと、今になっても疑問は尽きん。 そして恐らく、その〈不〉《 、》〈純〉《 、》〈物〉《 、》とやらもまた〈吟遊詩人〉《オルフェウス》と何かしらの因果があると見ているのだが……」  提起されたのは、至極当然の嫌疑だがやはり確かめる〈術〉《すべ》はない。  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》がその星光を起動させる時、傍らには必ずゼファー・コールレインが存在していた。  〈吟遊詩人〉《オルフェウス》がいなくば〈月女神〉《アルテミス》も只の少女である、関わりを考えるのは当然だろう。  よって、一度捕縛した際にヴェンデッタを解析した彼らが最も着目したのは、彼女の中に何某か〈吟遊詩人〉《オルフェウス》の構造因子が内在していないかという点である。  使用した素体はあくまで■■■のものであり、加えてゼファーはまだ生きている。  かつて臓器移植を行なっていたならいざしらず、そのような可能性は有り得ない……はずだったが。  意外にも、そこには一定の成果が上がった。 「素体の少女とも、〈吟遊詩人〉《オルフェウス》とも異なる何かが、〈死想恋歌〉《エウリュディケ》には混じっている」  用心を重ねて解析した結果、ゼファーの因子は存在していなかったというのにまったく異なる不純物が混在しているという始末。謎はさらに深まった。  両者が比翼連理として在る理由は未だ解明されぬまま。〈死想恋歌〉《エウリュディケ》は命を落として運命は遠ざかる。  屍の前に吟遊詩人を添えれば、悲しみの音色が冥界へと届くやも知れないというルシードの提言も確かに一理はあるだろう。しかし、それはあまりに夢想というか、詩的に過ぎる面がある。 「思えば我々は、彼女に〈拘〉《こだわ》り過ぎていたのかもしれん」  よってもはや、〈切〉《 、》〈り〉《 、》〈時〉《 、》なのではないだろうか?  一人の少女にこうまで翻弄された結果を自嘲して、カグツチは方向転換を口にする。 「その完成を待つのに十年。されど結果はこの様で、残された時間にしても有限であり後〈僅〉《わず》か。 ならば、動かぬ〈骸〉《むくろ》に腐心するより専念すべき事象があろう? 版図拡大を速やかに進め、新たに開けた可能性の中で次なる素体を探した方が良かろうよ、と」 「ゆえに諦めると? 〈漸〉《ようや》くにして見つけた〈素体〉《しょうじょ》、その犠牲を無駄にする気か」 「致し方なかろう、何せこのまま〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈困〉《 、》〈る〉《 、》。聖戦を遂げるためなら己は手段を選ばんよ。   おまえは英雄として、こちらを憎んでいればいい。違うか?」 「そのような真似は死んでも御免だ」  〈咎〉《とが》なら背負う、誰かのせいには互いにしない。  されど神星の語る言葉はどれも〈正鵠〉《せいこく》を射ぬいている。感情論で否定しても、恐らく改善は見られない。  そして、刹那の思考の末──この場で導かれし結論は一つ。 「まずは推移を見届けよう。〈錬金術師〉《アルケミスト》の行動次第というやつだ。  さあ、高らかに〈謳〉《うた》えよ〈伝令神〉《ヘルメス》。貴様の掲げしその愛で〈吟遊詩人〉《オルフェウス》を冥府の底まで〈誘〉《いざな》うがいい」  〈抱〉《いだ》きし渇望が真実であるなら、今ここに結実させよと告げるのだった。  〈色即絶空〉《ストレイド》との戦いに勝利を収めたものの、ゼファーは己の左腕を失った。  工房に戻って来た兄の変わり果てた姿を見たミリィは、一瞬息を飲んだものの……すぐに顔を上げる。  心は傷つき、泣き出したいのは真実だがそれは今すべきことではない。  まずは止血と応急処置。このまま放っておけば失血死は免れず、事態は一刻を争っている。冷静に、しかし迅速な手際こそが求められているがため涙も悲鳴も飲み込んだ。  そして── 「師匠……」  師の遺した鋼の義手を手に、悲哀と決意を噛み締めてミリィは小さく〈呟〉《つぶや》いた。  兄を生かすために、師から想いを継ぐために、そして明日を生きるために。  自分にしかできないことがあるのだと、少女は強く決意する。 「兄さん、手短に説明するからよく聞いて。  わたしたちのために、師匠が遺してくれたものがあるの──」  作業台を片付け、簡易な施術台としてゼファーを椅子へと導いていく。  大量の湯を沸かして用意し、普段調律しているようにそっと身体を寄せるミリィ。傷を刺激しないよう体重の負担を心がけて真剣な視線を向けた。 「それじゃあ、これから施術を開始します。   絶対に成功させてみせるから……信じてね、兄さん」  彼女がこれから成すべきことは、ただゼファーの命を救うだけではない。 師匠の思いと技術、それらを自らの手で結実させる。  妹としてだけではない。技師として、〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》として力となる。  ジンの死は今も完全に受け入れることが出来ていない。  お別れも、感謝の言葉すらも伝えられなかったのだから。  幾つもの思い出をなぞるたびに、感情が乱れそうになる。だけど──  きっと、二人の間にあったものはそれだけじゃない。弟子として、ジン・ヘイゼルから引き継ぐものがミリィの手には遺されていた。  弟子がやがてこの〈工房〉《アトリエ》に来た時のことを彼は想定していたのだろう、己が生涯を懸けた研究成果……〈人造惑星〉《プラネテス》を、人間の身の上で制するため一大理論がミリィに対して小さな書記に記されていた。  それは無論のこと、ジンが携えていた〈鋼鉄の左腕〉《オリハルコン》に他ならない。  製造者としての特権を駆使して生身ながらアスラの星を無効化した策と手法。それが〈ゼ〉《 、》〈フ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ー〉《 、》〈向〉《 、》〈き〉《 、》に改良・応用された理念として簡潔にまとめられているそれを、弟子はいま形にしようと挑戦している。  ミリィから事の説明を受けたゼファーは、〈朦朧〉《もうろう》とする意識の中で〈頷〉《うなず》いた。  このままでは失血死するというのもあるが、それ以上に間もなく〈邂逅〉《かいこう》するはずの親友を止めることができないという非情な現実が存在している。  ヴェンデッタとの同調を失ったなら、それを埋めるだけの何かが要るのだ。  ジンが先に戦っていたからこそ勝利したアスラのようには恐らくいかない。命を〈繋〉《つな》ぐ、さらにもう一つ強化する。  そうでなければ未来はない。  そして、超越の異能を一人では手に入れられるはずもなく── 「ッ、く──」  ゆえに、最愛の妹を信じて賭けた。触れられた拍子に全身を駆け巡る痛みにも〈呻〉《うめ》きながらも耐えているのは、その想いがあるからだ。  切り取った左腕の断面がまるで溶けた鉄のように熱を帯び、そこから身体が燃えてしまいそうな錯覚に陥るがミリィを心配させないように悲鳴を噛み殺して笑った。  互いが互いを信じている。ならば、怖いものなど何もない。  顔を見合わせて〈頷〉《うなず》き、ふっと微笑みを交わしてから決意の色をミリィは強く瞳に浮かべて…… 「〈星辰体〉《アストラル》──〈波長〉《ウェイブ》、〈同期〉《シンクロ》。 左腕結合施術──開始します」  ゼファーに内在している星光に共鳴し、〈微〉《かす》かに全身から淡い発光を始めた。  同調し、接合する。それはまるで〈星屑〉《ほしくず》が優しく彼を包み込むかのようだった。 「見ていてください、師匠。  あなたの造り上げたオリハルコン、使わせていただきますから」  そして、文字通りジンの遺体から継承した鋼の左腕へさらに調律の意識を飛ばした。  鈍く輝く鋼鉄を、ゼファーの傷口にそっと添える。  星辰を余さず行使するためにある唯一の媒介、〈人造惑星〉《プラネテス》に伍するための現状唯一とも言える新たな切り札、それをこれより彼へと移植するために。 「────ッ、くぅ……はぁ」  無論、それを成功させるのは至難の技と表現するのも生温い。これまでミリィの手掛けてきた調律作業など比べ物にさえならず、施術の難易度は常識外れに跳ね上がり額には珠の汗が浮きあがる。  〈冶金〉《やきん》の〈範疇〉《はんちゅう》など遙かに凌駕する移植手術。ジンの遺した情報があったとはいえ、それを初見で行わなくてはならない上、〈僅〉《わず》かな失敗すらも許されないという過酷な重圧がミリィの精神力を削っていく。  だからこそ、今は亡き師へ湧き上がるのは尊敬の念だった。  このような難事さえジンであればいとも〈容易〉《たやす》く行うことだろうという偉大さ偉大さに、改めて感服する。難局に立たされた今だからこそ、より一層皮肉にも実感出来た。  ゆえに、決して失敗できない理由がまた一つミリィに増える。あの人に薫陶を受けた者としてこんなところでへこたれてはいられない。 「〈星辰体〉《アストラル》感応係数、修正。疑似神経回路、接合は……いけない、まだっ。   〈骨格〉《フレーム》の接合後に、あと……もう少しッ──」  よって諦めない。食い下がる。情報を見ただけの一朝一夕でどうにかできる領域ではないという事実や、〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》の研究者さえ出来るものは片手で数えられるという事実さえ考慮に入れない。  成し得るは最良の結果だけ、ジンと過ごした日々において徹底的に叩き込まれた技師としての根幹をいま発揮しなくてどうするのか……  絶望的な状況を何度突き付けられようと、気概は〈萎〉《な》えることなく燃え上がる。  たった一瞬だけでもいい、敬愛していた師匠の領域に手を掛けたい。そして兄の力になりたい、助けたい。  その想いが彼女の中に潜在する驚異的な集中力を呼び覚ましていく。  己の極点を見ようとした師の出発点は妄執だったのかもしれないし、きっと間違ってもいただろう。だが、それすらも望んで受け継ぎ命を救う希望として変えていこうと強く願う。  人生を賭して完成させた〈神星鉄〉《オリハルコン》を、正しい力へと結ぶことこそが弟子である自分の使命。  師と過ごしたあの数年間を、意味のあるものとするために。  そう──いつか天国で出会った時に、少しでも認めてもらえるよう。 「力を貸して、ヴェティちゃん」  さらにもう一人、大切な家族の思いも込める。 「〈星光波長〉《パターン》入力──〈死想恋歌〉《エウリュディケ》・〈残影〉《ネクロ》」  オリハルコンと人体を接合させる施術を、星の残影と共にゼファーの身体へ宿していく。  極限状況の中でミリィが模索し行き当たったのは、かつてヴェンデッタと行った〈同調〉《リンク》した経験だった。  あの際に感じた星辰波長を、ゼファーへ残留していたものと深く同期させて疑似的にかつての星を再現していく。  ……懸命に施術を行う妹へ、ゼファーは明滅する意識の中で視線を向けた。  ずっと彼女を守るべきだと思っていたしそして実際そうしてきたが、しかしこの表情を見た今はそんなことを言えはしない。  この子はもう、立派な〈大〉《 、》〈人〉《 、》だ。  そう思うからこそ、被験者として痛みに耐えつつ結果を静かに受け止める。  ──大丈夫だ、信じてる。やれないはずがないだろう。  だってミリィは、俺の自慢の妹なんだから。  守るだけじゃなくて、互いに背中を預けあえる。  兄妹として。そして、〈星辰奏者〉《エスペラント》と〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》として。  彼女を愛する人として、じっとその奮闘を見つめていた。  そして最後に、左腕へ接続された何かが神経を電流のように貫いて。 「施術、完了──〈全行程問題なく〉《コンディション・オールグリーン》。 やった……出来た、よ」  流れる汗を拭いながら、ミリィは言った。  極限までの集中を解き放った瞬間、力が抜けたように寄りかかって来た身体を抱きしめる。 それはそのまま、彼女に掛かっていた大きな負荷を表わしていた。  無理もないだろう。並みの技師では完成し得ない難物であったのだ。要求される知識も、〈冶金〉《やきん》、人体構造、星辰体とそれこそ多岐に渡っている。  帝国全土を見渡しても、これら全てが一線級の者など片手で数えられる程度だろうに。  それでもやり遂げたミリィの強さが、ゼファーは誇らしくてたまらない。 「動かしてみて、兄さん」 「お、ぉ……!」  触覚こそないものの、鋼鉄の腕はゼファーの意のままに動く。  恐らく体内の星辰体との感応によって〈繋〉《つな》がれている義手は、元の左腕と比べても何ら遜色なく力感に溢れている。  つまりは大成功。ミリィは気丈にも微笑みを浮かべ、ゼファーへと凛とした視線を向けた。 「これが、今のわたしに出来る精一杯。  ──託したよ。みんながくれた想いも、全部」  優しさと、そしてどこか寂しそうな影をミリィはその瞳に同居させていた。成功したのは喜ばしいと感じる反面、ジンの姿を思い出すだけでまだ泣いてしまいそうになるのだろう。  もっと一緒の時間を過ごしたかった。たくさん、たくさん学びたかったと。 「本当のこと言うと、やっぱり寂しいんだ。   師匠も、ヴェティちゃんももういないし、これから戦わなきゃいけないのはルシードさんで……」 「──ああ、俺だって怖いさ。   あいつが敵であることも、訪れる未来のことも……」  ゼファーもルシードも生来の臆病者だ。これまで困難に直面した時、抜け道を探すことはしてきたけれど、こうして絶望の道を征くことには慣れていない。  ゆえに激突する瞬間は、それこそ絶対に退かないのだとも分かっている。  唯一以外から逃げ続けてきた二人だからこそ、唯一がかかっていれば〈躊躇〉《ちゅうちょ》しない。凄惨な結果に〈繋〉《つな》がろうとも互いに激しく敵意と殺意をぶつけるだろう。  だが、しかしその切なさを理解した上であっても。 「けれど、戦うことだけは出来ると思う。   これまではずっと逃げてきた。犯した罪から、痛い過去から。そして何より自分自身の気持ちから──  正しいことが痛いとは、まったくよく言ったものだよ」 「あの日、俺たちは失っただけなんだと思い込むのが楽だった。間違いだから優しくて、どうしようもなく救いだったが……」 「生まれたものもあったよね?」 「ああ、逃げた時間で育まれたものがある。手に入った宝物は、確かにたくさん在ったんだ」  うん、と小さく〈頷〉《うなづ》くミリィ。穏やかな視線で見詰めてくる。  そう──彼女から全てを奪っていった災禍であったが、それによって芽生えた想いもこうして同時に存在するのだ。  この男性こそが、自分の生涯の相手であるという喜びが、彼女の心を暖かくする。罪も痛みも丸ごと含めて、ミリィはゼファーを選んだから。  そして、敗北から得た輝きを必ずこの手で守るためにも〈反芻〉《はんすう》する。 「“勝利”からは逃げられない。だからまあ、仕方ないよな」  最後の最後で心から受け入れられた家族の言葉を胸に、ゼファーは静かな決意を燃やした。 「宿命だろうと何だろうと、立ち向かう時が来たんだ。  力及ばなくとも〈怯〉《ひる》まねえよ。また、立ち上がればいいだけなんだから」 「そうやって転んだり起き上がったりしながらも、一生ミリィを支えていくよ。それが俺の精一杯。  だから──俺のことも支えてくれと、願ったりして構わないか?  そうしたらどんな時でも頑張れる。情けないただの〈愚者〉《にんげん》として、君を愛する家族として」  今も、決してゼファーは強くない。  しかし、だからこそ彼はあるがままに言える。  弱者のまま、強がりだけを精一杯に頑張って運命へと立ち向かえるのだ。その不格好でも振りしぼる勇気こそ、人間の真実なのだと思いたい。  そして、真っすぐな兄の言葉にミリィは当然優しく微笑む。 「──そんなの当たり前だよ、兄さん」  だって、そう── 「寄り添って、支え合う、それが家族の生き方だもの」  たくさんの時間を、二人で重ねてきた。これからどんなことがあっても、手を取り合って越えていけると信じている。  そして……もはや言葉は必要なく、二人はじっと見詰め合う。  互いの気持ちをより強く伝え合うために、その身体を重ねるのだった。 そして、夜── ミリィを連れてやって来たのは歓楽街の娼館。 もちろん、これ以上色情に〈耽〉《ふけ》るつもりはない。今後の〈手筈〉《てはず》を相談するためイヴへと会いに来たのだった。 これまで有形無形で俺に協力をしてくれた娼館の主は、何かを察したような微笑みを浮かべて唇を開く。 「そう、行くのね──」 仮初とはいえ情を交わした男に対し、少しでも惜しんでくれているのだろうか。別れの時まで聖母のごとく、イヴは束の間の逢瀬を慈しむ。 恐らくはこれが最後の頼み事だ。多少の感慨も湧かないと言ったら、それは嘘になるだろう。 帝都の様々な方面へパイプを持っているイヴのこと、俺を裏切って軍部に連絡を入れる可能性は存在こそしていたものの……それはないという目に賭けた。 これまでに重ねた時間で、彼女のことも少しは理解しているつもりだ。こいつは歓楽街の仕切りなんてしている切れ者であるくせに、一度救うと決めた相手にはめっぽう甘いと知っている。 「まあ、どうなるかは分からないけどな。お先真っ暗だっつう可能性も、正直言ってなくはない」 「まったくよ。無謀なんてものじゃないわ。ゼファー君らしくないって言ったらなんだか今もそうだけど……」 「彼女のため、か──立派になっても、そこは全然変わっていないのね」 ああ、そうだなと照れることもなく肯定する。イヴの言う通り、その気持ちだけは五年前のあの日から〈僅〉《わず》かも忘れたことはない。 イヴには、〈駅舎〉《ターミナル》から深夜の内に国外へと向かう列車の時間を都合してくれるよう頼みに来たのだった。 欲望渦巻く夜の街を統べる女王にして、帝都随一の情報通。多方面に延びる彼女の人脈をもってすれば、軍上層部に悟られることなく発車時間を数分ずらすことも恐らく何とか可能だろう。 たとえこの先生き残ることがあったとしても、もうこの国にはいられない。何せ俺は脱走兵であり、反動勢力に手を貸した〈碌〉《ろく》でなし。 さらに〈魔星〉《ウラヌス》まで潰したとあれば、方々に手配書が回るのも時間の問題と言えるだろう。権力を行使されたら逃げ場なんて何処にもないのだ。 大手を振って外を歩けないような生活は、因果応報でもあり構わないもののだとしても……ミリィまで巻き込むことは当然出来ない。ゆえ、残された選択肢は出奔のみということになる。 誰にでも優しく、そのたおやかな手を差し伸べるイヴがいてくれたおかげで、俺は相当救われた。 ミリィに対してぶつける訳にもいかなかった劣情を、こいつに思うさま吐き出した夜も情けないが、今まで何度かあったわけで…… 女であり、同時に母であった……そんな彼女ともお別れだ。 「ミリィちゃんの決意はもう固まったの?」 「ありがとうございます、イヴさん。心配してくださって」 「けどもう、決めちゃいましたから。自分だけのものじゃないたくさんの想いと共に」 ヴェンデッタ、ジン爺さん、あいつらの命が俺たちの背には掛かっている。 二人が何を思っていたのか、本当のところその真実は今も見えていないかもしれない。それでも間違いなく、未来を与えられたことだけは分かるのだ。だからこそ俺たちの意志は揺らがない。 そして正しく歩もうとするミリィが、イヴには少し切ないのだろう。〈正道〉《それ》は苦難を呼び、試練となって襲い来るのを知っているから苦笑している。 「もちろん分かっているわ、愛する〈男性〉《ひと》の傍こそが、女にとって何よりの幸せであることくらい」 「だけど、それでも別れは辛いのよ。好きな人たちだからこそ、いつ死ぬかも分からない状況へとみすみす行かせてしまうのは……ね」 そう──俺の選ぼうとしているのは、あくまで逃亡。何かを打ち〈斃〉《たお》そうとしている訳でも、自分の立ち位置を認めさせようとしている訳でもない。 後ろ盾はなく、生活基盤も安定なんかとは程遠く、危険につきまとわれる生涯だろう。 軍部に投降して恭順の意を示した方が、まだマシなのかもしれない……そう思った瞬間もあったが、しかし。 「そうですね……わたしも本当は、恐くないなんて言えません。辛いことや悲しいことも、きっとたくさんあるんだろうなと思います」 「だけど、そんなことよりってやつですよ。一番の大切にはせめて本気でありたいから」 「だから──わたしたちは、行きます。イヴさんとの思い出も抱えてこれから生きていくために」 そう言って、ミリィは変わらない笑顔で微笑んだ。 大切なものを選ぶのは痛みが伴うことをイヴも俺も知っている。だからこそミリィの姿は貴く、〈眩〉《まぶ》しく映るのだ。 そして── 「……ふふ、〈羨〉《うらや》ましいわ。貴女はもうそれをとっくに見つけたのね」 「本当に〈眩〉《まぶ》しいものこそ、なかなか手には入らない……たとえ他の何があっても、大切な人がいなくちゃ衝動は満たされない」 「求められたら応えるのが私のすべて。だから……うん、これは仕方のないことね」 などと独りごちるそれは、どこか〈諧謔〉《かいぎゃく》の香りを感じさせて。 「おめでとう、ミリィちゃん。〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈私〉《 、》〈に〉《 、》〈縋〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 「いつか私も、そんな強さを手に入れたいと思っているわ」 それはどこか晴れやかな、憧れと尊敬の混じった〈呟〉《つぶや》きだった。秘められた意味は深くて、とても全部は分からないけどイヴの想いは決して悪いものじゃない。 ミリィへ向けている視線は慈愛に満ちた母親のよう。〈真摯〉《しんし》に少女の勇気を肯定して、俺へ微笑み向き直る。 「行きなさい、ゼファー君。何があろうと、掴んだその手を離さないで」 「ミリィちゃんを幸せにね。破ったら、私は容赦しないんだから」 「ああ」 ──別れの言葉を交わし合い、俺たちは娼館を後にする。 向かうのは、悲劇の始まりである場所だ。五年前に端を発した因縁を清算するのであれば、そこ以外俺たちには考えられない。 さあ、行こう──あいつが墓場で待っている。 俺の大切な、肩を組んで馬鹿やれていた悪友が──  同刻、ルシード・グランセニックもまた決戦の地へと向かう。  これより〈火蓋〉《ひぶた》が切られるのは、仮借のない命の奪い合い。その相手は無二の親友であった存在なれど、彼の心に惑いはなかった。  あいつをこの手にかけられるかと心に問い掛けてみても、不思議とその精神は凪いでいる。  このまま今までと変わりなく友として過ごすことは、最早有り得ない。  何より、始まりの〈人造惑星〉《プラネテス》が盤面へと介入してきた以上、状況は移ろい激しく流されゆくだろう。  あの二人が積極的に介入を始めたのなら、状況はやはり予断を許さない。  そして、何よりも……  愛しき〈月天女〉《アルテミス》の命を取り戻さなければ、自分自身がこのままではいられないと彼自身分かっているのだ。  ゼファーが手を下した訳ではない──〈勿論〉《もちろん》そこは分かっている。  ヴェンデッタの死に際して最善を尽くさなかった──そんなはずはないだろう。大切な友人である、ああ理解しているさ。  だが結果として彼女は冥府へと還ってしまった。  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》の宿業に対して、何よりも己自身が無力であった厳然たる事実に苛立ち、悲しみ、絶望し……  この臆病な大馬鹿者はようやく悟った。もう、静観することなど許されない。 「──すみません、レディ。僕もやっと決めたのです。  たとえ可能性が零だとしても、見当違いの闘争でも…… 最後まで醜く〈掻〉《あが》き勝利をこの手に取り戻すと」  すなわち、ヴェンデッタを再び現世へ呼び戻す。 「〈怯〉《おび》えたままで後悔するのはもうこれ以上、御免だから」  そのためなら如何なる手段も選ばない。  〈英雄〉《あくま》と取り引きしたとしても、友と敵対しようとも、ルシードの歩む道は既に一つきりだった。  そして、一歩踏み出す。  かつて共に過ごした美しい記憶も、交わし合った感情すらも足を止めることは出来ない。  幻視していたはずのヴェンデッタの顔は、今はもう夜の闇に塗り潰されてしまった。何もかもがルシード・グランセニックの現実を切り刻む。 「本当に、早く気付けばよかった……  そうすれば僕は、英雄にだって挑めたのに」  もはやあり得ない、運命から逃避し続けたかつての自分を〈嘲笑〉《あざわら》う。  ならばせめて、すべてを終わらせようと彼は約束された戦場へ到着した。 そして── 男に跨りうっとり見つめる様は、さながら餌を目の前にした動物を思わせる。 小動物が大きな果実を見つけたようであるし、肉の塊を手に入れた肉食獣でもあるようだった。 「こ、この格好、さすがにちょっぴり恥ずかしいね」 姿勢はまるで獣同士だが、ミリィの頬は羞恥心で染まっている。 「でも嬉しいな……。わたしの身体を見るだけで、こんなにおっきくしてくれてるんだもん」 「だから好きなだけ見ていいよ? 兄さんが望むだけ、好きなところを……わたしだって隠さないから」 なればこその口淫し合う、この体勢。目の前にある魅惑の小尻が切なげにふるりと震える。 口調からは、恥ずかしさと共に純粋に嬉しそうな響きも感じられた。 「えへへ。こんなふうにじっくり見られるとは思わなかったよ」 頬を染め、どこか〈淫靡〉《いんび》な視線を注いでくる。見つめられる方としては落ち着かないものだ。 〈陰嚢〉《いんのう》を眺め、竿に沿うようにして鈴口まで目線を上げてくる。 あどけない上目遣いの中に、妖しげな色が見え隠れするのは気のせいではないだろう。お互いにどうしようもなく興奮していた。 「兄さん……」 股間に顔を寄せて〈囁〉《ささや》いてくる。柔らかな頬の側で、男根が硬度を増してゆく。 「奉仕っていうのかな。口でなんて初めてだね……ちゅ」 熱のこもる言葉に気圧されるようだ。ぺろりと竿の先が舐め上げられる。わざと軽く、まるですべてを捧げるキスのように。 「はぁ……っ、すごい。これが、わたしの中に入っていたなんて」 「どんどん、大きくなるね。ちょっとしか触ってないのに……」 舌先が陰茎をつつき、ぞくぞくとしたものが背中を抜ける。 熱さは淫らだ。脈動を早くなり、陰部に血が集まってゆく。〈痙攣〉《けいれん》とともに、固く隆起してしまうのだ。 「はぁ……、んんっ……これが勃起、なんだよね……?」 〈囁〉《ささや》くたびに熱い吐息が鈴口にかかる。意図せずか〈淫猥〉《いんわい》な言葉が吐かれ、ペニスはより敏感に反応して〈昂〉《たか》ぶり始める。 舌先だけでなく、半開きに空いた唇をきゅっと押し付け、それは今までに見たことのない淫らな口づけだった。 「気持ちよさそうな顔、すぐに分かっちゃうよ。今ではわたしの、一番嬉しい顔だもん……ちゅっ、ちゅっ」 竿へ巻き込むようにして、舌を伸ばし、少し強めに舐め上げられる。 最初はおずおずだった愛撫が徐々に大胆となってゆく。まだ〈咥〉《くわ》えることはできないとしても、ペニスを包み込むように、優しく舌を〈這〉《は》わせてくるのだ。 そのたびに、じわりと愛液を滲ませていく目の前の女性器。濃密な香りが鼻腔をくすぐり、それがさらに下半身を〈滾〉《たぎ》らせる。 「ふぁ……ちゅ……、れろっ。ビクビクしてるね……っ」 「うふふ。ここかな……。それとも、先っぽだけじゃなくて、根本の方も舐めた方がいい?」 とはいえ男として、されるがままというわけにもいかない。 彼女の行為を邪魔しないよう、少しずつ陰唇を割って、中をなめ取るように舌を動かしていった。 「ひゃぁぁあん! も、もうっ、じっとしてないんだから」 当然だ。こちらだけがただぼんやりと奉仕するだけでは、この体勢の意味がない。 滲み出る愛液を味わうように口付けを繰り返す。すると与えられる愛撫に対抗して、彼女の口技も激しさを増していった。 「あっ、やん……に、兄さんがそういうつもりなら、負けないもんっ」 そして開き直ったのか、大胆に刺激が陽物を行ったり来たりする。されるがまま、鈴口からは先走りの液が〈零〉《こぼ》れだして止まらない。 「んっ……感じてるんだ。もうちょっと強めに、口の中へ入れたら、嬉しいかな?」 「はぁはぁ……っ、ちゅぴっ……れろ、んんっ。逆にわたしの舌と唇が〈火傷〉《やけど》しちゃいそう」 「はぁむっ、んんっ……れろっ……かたぁい。えっちな液が出てくると味も変わってくるんだね」 〈雁首〉《がりくび》を引っかけるように唇で挟み、舌で激しく舐められる。絶妙な感触に腰のあたりの感覚が敏感になってゆき、ひたすら任せてもいいような気さえしてきた。 ミリィに舐められているという事実が染み渡り、このままだと口に含まなくとも心で絶頂を迎えてしまうかもしれない。すると俺の反応を〈伺〉《うかが》ったように、彼女は緩めて触れてきた。 「まだ駄目だよ。口でするの、初めてだから……もっと時間をかけて楽手したいし」 「今だけじゃなくて、これからも……その方が、兄さんをいっぱい気持ちよくできるもん」 誰よりも大切な妹という存在。心根に張った健気な思いはこれでもかと伝わってくるのだが、それは〈淫猥〉《いんわい》な〈台詞〉《せりふ》となって押し寄せる。 〈儚〉《はかな》くも物欲しげな目が潤み、俺は我慢できずにそっと腰を突き出した。 そんな反応を受けて、彼女は歓喜に震えるようなため息を漏らした。 「うん……任せて。気持ちよくできるよう、頑張るよ」 小さな舌が、亀頭のくびれを舐めまわす。 「えへへ。少し照れちゃうね……っ」 ちろっちろっと陰茎に振れる程度だったのが―― 「はんむっ……ちゅ、ちゅむ……れろ……んんっ、ちゅぷ」 押し寄せるような刺激が、ペニスを包み込んだ。ミリィの口の中で、ビクンビクンと揺れている。甘い〈痺〉《しび》れが腰の奥からじわりじわりと上って来た。 同時にこちらも、彼女の秘所をいじくることも忘れない。顔を近づけて深呼吸し、瑞々しい少女の性臭を肺いっぱいに満たしながら、そっと舌先でなぞり上げた。 塩気のある甘酸っぱい味が口の中へ広がっていく。 「ふわぁああああああっ、やっ、こんな……兄さんに弄られながら、〈咥〉《くわ》えちゃってる――んあぁ」 「ちゅるぅっ……んんっ、に、兄さんのぉ……、すごくビクビクしちゃってるね」 「わたしの舌、そんなに気持ちいいの? それとも、舐めているのが……? んっ、ちゅぷ……はぁっ」 恥ずかしがりながらも蕩けた視線を向けてくる。理性が薄くなり始めているのだろう、どんどん大胆になっていく。 反応を確認しながら口淫は、どちらかというと、こちらの羞恥心を〈煽〉《あお》られるようだった。不思議な快感にペニスがミリィの口の中で、ひくりと震えた。 「嬉しい、いっぱい感じてくれるなんて……」 「そしたら、こういうのは、どう……? ちゅっ……、ちゅっちゅっちゅっ」 竿にも亀頭にも吸いつくようなキスの嵐。負けじとヴァギナへ口付ける。 互いにキスして絡み合っていると、不意に目の奥が真っ白になりかけた。それはあまりに強く、内出血をしてしまうかもと思うほど。 敏感な〈雁首〉《がんくび》に下唇が激しくひっかかり、歯が甘くぶつかると、電気で〈痙攣〉《けいれん》するような刺激が〈奔〉《はし》る。 「あっ、ご、ごめんね……ちょっと激しすぎたかも……」 「んぁ……おわびに、ちゃんと鎮めるから……ちゅぅ、んふぅ」 癒すように唾液がぬめりながら塗りつけられる。亀頭周りに触れる舌が横に広がると、ペニス全体に刺激が伝わってゆく。 血流が上がり、どくどくと震えるように陰茎の隆起が熱をもってきた。それを見つめるうっとりとした視線の奥には、驚きと多幸感溢れる色が見てとれる。 どこまでも熱くなりながら硬度を増す男根を感心しながら、ミリィはそっと〈窺〉《うかが》うように……しかし淫らに頬を染めて〈呟〉《つぶや》いた 「……気持ちいいなら、毎日してあげるから。毎朝、おしゃぶりして起こしてあげるの」 「兄さんが喜ぶようなら、どんなにエッチなことだって……ね」 微笑むミリィを笑顔で見つめ返し、やさしく頭を撫でる。興奮と歓喜で染まる頬が、ひたすら愛しく映った。 「ふふ。わたし達って変態さんなのかな……でも、いいよ。喜んでくれるなら、それが一番大切だもの」 「だから、さっき言った通りに……あむぅ、んちゅうぅ……」 「疲れたときとか、寝起きとか……、お口で幾らでもお掃除してあげるね。兄さんのなら汚くないし、ちゅ、全然嫌じゃないんだから」 髪を振り乱し乳房を激しく揺らして、彼女が口内でしごいてくれる。雄の欲望を〈貪〉《むさぼ》りつくす。 「はぁ……んちゅっ、ちゅるっ、るりゅ、ちゅぷっ……」 「あふぅ、んんっ……兄さんのから、おつゆ出てきた……」 股間に顔をうずめて、舌と唇で激しく責め立ててくる。口内で巻きつくようにして舌を絡めてくるそれに、こちらもミリィの股間へ顔を埋めた。 互いの性器を夢中になって舐め合いながら、高めあう。 「んちゅっ、ちゅぱっ、……じゅるぅんっ、ちゅぅっ、れるぅっ、るちゅるぅっ!」 「ふぁああんっ……、すごい、熱いね……おち○ちん。膨らんできた感じがする」 興奮させようという配慮のもと、わざと半開きにした唇で陰茎をぐっぽぐっぽと音を立てつつゆっくりしごいてくれる。献身的なゆえの〈淫蕩〉《いんとう》。 そのとき、どこがもっとも敏感なのか探りながら責めている様子だった。 「んふむぅ……じゅるぅっ! ぐっぽ……っ、ぐっぽ!じゅるぅっ……れろっ! ぐぽっぐぽっ……ちゅるっ!」 「れろぉっ……ぐぷっ、じゅるっ、れろれろれろっ……じゅっぷっ!ちゅるぅうううっ……るちゅっ!」 「れろれろれろれろれろれろ……ちゅっ!」 大きなグラインドと小さな舌技の組み合わせは、うっかり果ててしまいそうな勢いがあった。 彼女の荒くなっている鼻息が、陰毛にかかるたびに、むわっとした性臭が立ち込める。 「ちゅぱぁっ……、れろれろれろれろ……じゅるぅっ! はぁ……やんっ!ぐじゅぐじゅだよ、兄さん……気持ちいいんだね、嬉しい」 処女を失ってからさほど日も経っていないが、積極的な姿勢に〈眩暈〉《めまい》がしそうだ。 瞬間、このまま射精したいという衝動に駆られたが、それでは彼女の期待に応えることはできないからと我慢する。 最高に高まるところまで溜め、ペニスが破裂するくらいになった時に解放したい。そんな欲望がこみ上げる。 「この傘になってるところ、亀頭って言うのがいいんだよね。わたしだって、いつまでも子どもじゃないんだから」 「……いつまでも兄さんの妹だけどね」 ぺろりと舌を出して、溢れ出る先走りの粘液を丁寧に舐め取ってゆく。 先ほどからとめどもなく漏れ出す汁は、匂いも粘り気も濃厚になってきているがゆえに、そう簡単には飲み込んだりはできない。 しかし、彼女はいとも簡単に、味や匂いを堪能しながら勢いで飲み干してゆく。俺を耳でも、感覚でも、どちらにおいても〈愉〉《たの》しませるべく。 だからそれに応えるべく、こちらも陰核へ口付けした。一気に溢れ出す愛液を〈啜〉《すす》りながら二人で共に駆けあがっていく。 「ひゃぁん……じゅるぅっ、……ちゅぱっ! じゅるぅううううっ……ちゅっ、ちゅっ、ちゅうぅっ! ちゅるうぅううう!」 「はんむっ……んんちゅっ! ちゅぶっ! れろちゅっ! じゅるうぅっ!飲んでも飲んでも、止まらないよ?」 「ここに、兄さんの種がいっぱいつまってるなんて……」 〈陰嚢〉《いんのう》を確かめるように優しく揉み、先走りを残らず舐め取られる感触は背徳的な興奮がせり上あげてくるものだった。 舌がぐるりと俺の亀頭を転がしていく。その際、引っかけるようにして、じゅるりと精液を吸い取ってくる。こちらが責めれば責めるほどに、積極性が増していく。 「はぁああぅ……、じゅるるぅっ! ちゅるぅっ、じゅぷっぅ……ちゅっ! ちゅっ! ちゅぱっ!」 「れろれろれろ……っるちゅっ、はむぅ……、じゅぷっじゅっぷ!じゅるっ、じゅるるうううぅぅ、ちゅぱっ!」 耳を犯すような口淫の音が、雄の理性を焼き切ってくる。 兄らしくあろう男らしくあろうという鉄心が、マグマのような女の情欲によって融解し、いつのまにか、精神まで丸裸にされてしまう。 溶け出すような劣情を堪え、わずかに腰を突き出すと、妹らしい勘の良さですぐに彼女は気がついたようだった。 「うん、いいよ……我慢なんてしなくていいから」 「いっぱいお口の中ですっきりしてね……兄さんの味を、教え込ませて欲しいな」 上気した声色は完全に雌の本能そのものだ。子宮で受け入れなくとも、しっかり口で受け止める態勢はできている。 奥で吐き出せば咽びいてしまうかもしれないのに、全く気後れなど感じられなかった。その証拠に、左右へ広げた秘所からは愛液が泉のように溢れ出す。奉仕によってミリィもまた激しく興奮してるのだった。 「わたしの身体、好きになって……っちゅ」 その言葉を皮切りに、舌と唇の動きは一気に激しさを増し、肉棒へ与えられる刺激はスパートを迎えた。 「……んふぅっ! じゅるぅうううっ!じゅぽっ、じゅぽじゅぽじゅぽ……ぐっぽっ! れろぅっ!」 「ちゅっ、ちゅっちゅぱっ! はぁ……んっ……、ぐっぽっぐっぽっぐっぽっ……るちゅっ、はむんぅ……じゅるじゅるぅぅ!」 血流を〈迸〉《ほとばし》るような精液の感覚。彼女は一心不乱に陰部を愛し続ける。興奮と背徳の間でクラクラしながら、俺は来るべき瞬間を最後まで堪えて高めていった。 〈精嚢〉《せいのう》が〈疼〉《うず》き、ペニスの中で獣欲が根元から先端へとせり上がる。尿道の中を煮詰めた精液が徐々に登りつめていた。 「はぁはぁ……ああっ、……す、凄い、膨らんで、ブルブルしてる……っ」 「イッちゃうんだね、兄さん……っ。射精しちゃうんだ」 「出して……わたしの口に、いっぱい……っ、ベトベトになるくらい出してぇ!」 口淫による、最後の激しい責めに真っ白になるような絶頂の快楽が押し寄せる。それが最後のトドメとなった。 心地良い熱病にうなされるかの如く、気を抜くと意識の手綱が離れていってしまう。その瞬間── 「ちゅるぅうっ! ぐっぷっ……、ぐぽぐぽっ、はむぅ……れろっ!……ちゅぅううっ! じゅぷっ……ちゅる、れろれろれろ……っ」 「ちゅぷっ! じゅるるぅうううううううーーーーッ」 ……心地よく、ペニスを震わせながら少女の〈喉〉《のど》奥へ精液を解き放った。 噴き出すような射精音。自らのそれが鼓膜を震わし、脳髄まで甘く〈痺〉《しび》れるように響く。声をあげるわけじゃないが、まるでそれは下半身が上げる〈嬌声〉《きょうせい》のようだった。 「ちゅるぅっ! じゅるるるぅっ……はむぅ、くぷぅっ、るろぉっ、ちゅるっ! ちゅるっ! ちゅぱっ!」 噴出する間、ミリィによる深い口淫は緩むことなく続いた。愛情をこめて、重労働を終えた雄の性器を優しく優しくいたわるように……最後まで気持ちよくなるよう尿道を吸い上げる。 「むふぅっ……ふぅっ……、ちゅるるるるうううっ――」 「ちゅぅぅぅ……っぽん、はぁ、はぁ……」 やがて脱力して腫れ上がったペニスがひと段落すると、ようやく口を離して、指で唇の端を拭いて微笑んだ。 「はぁあああっ……えへへ、ごちそうさま兄さん。いっっぱい出したね」 「んっ、生臭くて、絡みついて……こんな濃いのをたっぷりなんて。気持ちよかった? それなら、わたしも嬉しいよ」 吐き出した精液を舌と指でこねながら、飲み込むためにぺろりと舐め取る。 汚いから、などという制止をするつもりはない。汚濁さえも、妹に飲んでもらえると、それはまるで神聖なものにすら思えた。 「そろそろ、して。あれだけ舐められたから、もう我慢できなくて……」 「兄さんのを、お腹の奥で受け止めて……さっきみたいな濃い精液を、子宮の奥で感じたいの」 うっとりと願い出る妹を優しく寝かせた後、再びせり上がってきた劣情に背中を押されるよう、俺は押し倒していった……。 「ふわぁあぁぁ、んんっ……や……んっ……、これ、やらしいポーズ……っ」 下腹部から女性器へと肉棒を〈這〉《は》わせてゆく。臍の辺りで引っかかるが、それより下は真っ白な肌で亀頭が滑るようだった。 じっとりと汗で濡れた腹部から恥骨、陰毛をペニスで撫でるたび、先走りの汁が彼女の身体へとまぶされてゆく。 妹は腰を引いて反応し、視線をそらせた。 「な、なんだか……さすがにちょっと、恥ずかしい……」 早く〈挿〉《い》れてくれと懇願していたのと対称的な態度。体勢を変える間に少しだけ羞恥心が戻って来たのかもしれない。 だが、ミリィの身体は口淫奉仕の影響でかなり敏感になってしまっている。こちらとしても一度出した後とはいえ、彼女の膣内が極上なのを知っているから、がっつけば果てるまで長くは持たないだろう。 だからこそ、焦らす。陰唇にまでペニスが〈辿〉《たど》り着く、ねとりと開くようにして〈雁首〉《がんくび》を引っかけた。 「はぁあああっ! 先っぽで、大事なところ――くぅう」 「わたし、もう濡れちゃってる……っ。やだ、兄さんのをおしゃぶりしながら、こんなに濡れちゃって……ふわぁ」 羞恥心も限界を突破してしまったのか、言葉を濁すわけではなく、彼女は桃色の吐息を吐き出しながら語った。 鈴口で触れていると、ただされるがままなわけでなく、ぐいとヴァギナで押し返してくる。膣の入り口が辺り、陰核が〈雁首〉《がんくび》の裏を刺激する。 「ああっ、吸いつくみたい。あそこへ、ぐいぐい当たって……、んんっ」 「わたしと兄さんの大事なところが、ちゅうちゅうキスして……吸い合ってる」 妹の声が鈴の音のように、脳髄へ染みこんでくる。早く挿入したくて狂いそうになるが、まだ我慢。 代わりに内ももをさすり、愛撫を重ねていく。 性器同士が擦り合うところからは、むっとした性臭が立ち込めて、汗と愛液の混じる腿は指でさするたびにねっちょりとした感触が絡みついた。 「あ……うぅ……んっ……兄さんの手……気持ち……いい」 「お、おち○ちん、で触ってくれるのも、すごくいいよ……っ。先っぽから溢れてくるのが、とても熱いの……」 股間を上下に擦り上げると、陰毛が絡みつき、濃厚な粘膜の匂いがふわっと立ち込める。 とろりと愛液が〈零〉《こぼ》れ落ち、すくい取ってから、指の腹で擦り合わせて引き伸ばした。 「ふあぁ……んっ、……やだ、糸引いてる……。前はこんなに、ねばねばしてなかったのに」 「擦っちゃうと、いつもよりえっちなおつゆが出てくるのかな……」 陰裂に優しくペニスを置いてみると、そこはヒクヒクと待ち望んでいる。 「きゅんきゅんって、兄さんのこと、欲しがってるのが、伝わってくるね」 「はぁあううぅ……っ、切なくなってきちゃったよ……」 恥ずかしさよりも、いよいよ物欲しげな気持ちが溢れてきているようだ。口調はより〈淫猥〉《いんわい》になり、腰を浮かして身体をあずけてくる。 お腹の辺りを撫でながら、彼女は言った。 「後から後から、いっぱい、溢れてくるよ……、なんだか自分でも止められない感じなの」 「濡れすぎて、お腹の奥が、〈痺〉《しび》れて――はぁくぅううう……!」 今までよりも深く角度をつけて割れ目に肉棒を〈這〉《は》わせた。混ぜ合わされた愛液で、ふやけそうになるくらい、〈精嚢〉《せいのう》までびしょびしょになっている。 それを頃合いと見て……そのままゆっくりと、妹の膣内へ埋没していった。 「くふぅうううう、ふわぁっ、あああっ! はいってくるぅ……!」 そして──蕩けるように熱く緩んだ膣内では、〈蠕動〉《ぜんどう》する肉が、一斉に絡みついてきた。 あたかも今か今かと待ち焦がれていた獲物を見つけた肉食動物のように。荒々しくペニスをこねくり回し、鈴口を柔毛でなぞってくる。それだけでもう、このまま何も考えず解き放ちたいほどの心地よさだった。 「はぁあああん……あくぅっ! ……い、いいぃ……気持ちいいぃ、んんっ……ふあぁっ!」 ぐっぽぐっぽと気泡の混ざった大量の愛液が、粘着音を部屋中に響かせる。後ろから抱きしめてミリィの甘い体臭を吸い込みながら、下半身で生殖行為に没頭する。 彼女の腰はがくがくと小刻みに震え、さながら絶頂を達したかのようだが、意識ははっきりしているようで、熱っぽく口を開く。 「ふくぅうううっ……はぁはぁっ……、兄さん、いいのぉ……これ。わたしの、気持ちいいところに、ずきゅんってきてる」 「身も心も、兄さんのものになってるから……、ここに入ってる方が、触れ合っていることが、いつもよりずっと安心しちゃ……きゃうんっ」 お腹をさする妹の、膣の肉壁を擦り上げる。ざらついた粘膜の壁が、ペニスへ巻きつくように絡みつく。血が集まっているのを感じられるくらいの脈動。 種を搾りとろうと、まるで膣肉そのものが〈蠢〉《うごめ》いてざわめいているようだった。 「はうぅぅっ……あああっ! んくううぅっ……あっ! あっあっあっ……!」 「ふわぁああっ、ああっ……! 奥の、ところ、こんこんって当たってるよぅ……っ」 ねっとりとした濃い蜜が、子宮口に口付けする亀頭を包み込む。〈滾〉《たぎ》る怒張を深く〈挿〉《い》れれば〈挿〉《い》れるほど、泉から漏れ出す愛液は止め処なく溢れだした。 雄の本能がまま犯すのを抑えられるべくもなく、最初から積極的に動いていく。 「んんっ……! はぁくぅ……っ! くはぁっ、かはぁあああぁっ……き、気持ちいぃ……んんっ!」 「ああっ! ああっ! あああっ! あっあっあっあっあっあっ……!」 「先っぽでつっつかれて、……んくぅううう!兄さんの全部、引っかかれちゃう、教えられちゃうっ」 前後するだけでなく右へ左へ、斜めからのの字を描くようにして、かき混ぜる。溢れ出る蜜液がビチャビチャと音を立て、泡立つミックスジュースを作ってゆくようだ。 気泡の混ざる音が、互いの耳穴まで犯し、互いの意識をどこまでも持っていこうとしている。 ぐっぷぐっぷという抽送音は、今までに聞いたことのない情熱の鼓。ペニスに甘い〈痺〉《しび》れが広がり始め、ミリィの中で悦びに打ち震えては先走りを塗りたくり、この肉穴へ教えていく。 〈胎〉《はら》の奥で俺の獣精を受け止めるよう……淫らな雌の肢体へ、愛らしい妹を造り替えていくようだった。そしてミリィ自身もまた、それを願い求めている。 「……に、兄さん、我慢……しなくてっ、いいんだよ……出したいときに、いっぱい出して」 「痛そうなくらい、膨らんで固くなってるの、伝わってきてるから……っ」 「よ、ようやくね、なんとなく……んんっ、分かってきた気がするの」 息苦しいほどの熱量の中で、しかしはっきりと意志の感じられる妹の口調。 ここまできたとことで、果たして何を理解できたというのか、想いを巡らせていると、彼女は汗を浮かべ微笑んで言った。 「んっ……、家族ってこういうことなんだ」 「切ないくらい〈繋〉《つな》がり合って……、死んじゃうくらいまで愛し合って……、だから二人の子どもが生まれてくれるんだね」 「まだ会ったことのない、兄さんとわたし、の――」 そんなミリィの〈台詞〉《せりふ》を聞いたとき、俺の中で何かが焼き切れた音がした。 決して暴力的な音ではなくて、互いを線で分けていた、張り詰めた糸が切れたような……本当の意味で混ざり合った気がしたのだ。 愛情と、本能そのままの繁殖欲求が急速に〈滾〉《たぎ》り合って融合する。 「ああ……っ、兄さん……!」 「ひゃああぁんっ……! ふわっ、はぁあああっ!んんっ、くぅ……ああっ!」 「す、すごいのぉぉ……! こんな、だめっ、たまんな――いッ」 彼女の膣内には、すでに先走った液が溢れるほどに溜まっていた。ぐちゅぐちゅっというリアルな水音。床まで染める粘液が、大量の痕跡。 精液を搾り尽くそうと本能的に身体をねじり、また違う快感を与えてくる。 身体つきだけではない。いやらしい腰の動き、膣内の〈蠕動〉《ぜんどう》、子宮口の全てが、雌の本能に目覚めた様子で、総立ちで責めてくる。ペニスの〈疼〉《うず》きに任せたまま限界まで容赦なく昇っていく。 「かたぁいよぉ……! それに……んんっ、あつくて〈火傷〉《やけど》しちゃう……っ この、おち○ちんでとろけちゃう……っ」 「お……奥まで、ついてっ……、一番深いところに、たっぷりと注いで欲しいのっ……んはぁあああ!」 「そしたら……、きっとわたし、兄さんの赤ちゃんを……新しい家族を作れると思うから……はぁはぁっ」 あまりに強い願望と快感の狭間での葛藤であるせいか、妹は解き放たれたのように声を上げている。〈孕〉《はら》ませてという本能の求め、雄に仕込まれる興奮に自ら〈灼〉《や》かれているようだった。 そして、彼女の望みは自分の求めるものでもあった。家族が欲しい、愛が欲しい、二人を本当にする血の〈繋〉《つな》がりがとても欲しい…… だから互いに蓄念を叶えるべく、ペニスをさらに深いところまで埋没させてゆく。子宮口のざらついた感覚が、鈴口を伝わって脳髄を甘く〈痺〉《しび》れさせた。 もう止まらない。瑞々しい彼女の子宮……そこに種付けすることだけを求めて、刻み込むべく律動する。 「ふくぅうううぅっ……ふわぁああぁっ! ひゃあああっ! んくううぅっ!」 「かはぁああ……っ、ああっ、あっあっあっあっ……あああっ!あああああっ!」 押し寄せる波に従って、ミリィが喘ぎ声をあげた。耳をくりくりと甘噛みされて、甘ったるい〈嬌声〉《きょうせい》を放つ。 しとどに濡れる快感と興奮に任せ、腰をひたすら奥へ打ち込んでいくと、彼女の声色もさらに甘美へ変わっていった。 「はぁっ、あはぁっ、んんっ……に、兄さんっ、好きぃっ……大好きぃっ……」 「たまらないよぉ……っ、パンパンって、すごく、いやらしいの……はぁあああ」 どぷりと〈零〉《こぼ》れ出す愛液はあまりに多量で、後から後から〈掻〉《か》き出しても追いつかない。 高速で摩擦される結合部からは、焦げ立つような粘り気のある匂いが、どこまでも濃くなって漂っていた。 「ふくぅううぅっ……んんっ……んはぁっ! あああああああーーーぁっ!」 更に深く──子宮の奥まで。 ペニスを押し込めんでいくと、恥骨同士がぶつかる音が響き、肉壁にこりっと先端が当たる。瞬間、彼女の身体が大きく跳ねた。 「ひゃあああああああんっ! あああっ!……はぁはぁ、んんっ……くぅっ……ふぅっ……」 雌の敏感な反応は、雄の果てまでも示唆するものだ。絶頂を迎えて欲しいと懇願するのは、つまり妹なのか兄なのか。 射精感を押しとどめるので精一杯であったが、それをもとうとう解放してゆく寸前に――最後の猛攻をかけていく。 「お、おかしく、なりそうだよぅ……、イキたい……、イキたいの……っ」 「きゅんきゅんしてるの、も、もぉ……、止まらないから、……子宮が破裂しちゃいそう……」 彼女の下半身を抱きとめ、そのまま一心不乱に抽送を繰り返す。ただひたすら性処理に没頭しているかのように突き続ける。 じゅっぷじゅぷと耳に絡みつくほど粘着音が響き、際限なく興奮を高めさせた。泡立つ粘液が〈陰嚢〉《いんのう》を伝い、外と内から生殖欲を〈疼〉《うず》かせる。 避妊も、抜いて出すことも、互いにまったく望んでいない。本当の意味での子作りに伴う快感、心地よさが止まらない。 「ふああぁぁっ! かはぁああああっ! た……たまんないよぉっ!に、兄さぁああんっ……!」 身体をびくんびくんっと震わせ、逸脱しそうなほど激しくよじって喘ぎ狂うミリィ。彼女を抱きしめ、首に口付け、腰を限界まで押し付け合う。 「くぅっ……ふあぁぁっ! ああああっ!あっあっあっあっ、はぁあああああ……っ」 「あ……、ああっ! イ……っ、イクゥ、イクの、イッちゃうよぉおおおおおっ!」 そして、堪えきれないように、まず彼女が絶頂を迎えた直後── 「ひゃ、ぁ、ああああああああぁっーーーーー!」 溜まり濃縮していた欲望を、ただ心地よく解放する。 絶頂の共有。性器を限界まで交わらせながら、最奥を染め上げるように種付けして子宮に所有印を刻んでいく。 身もだえる雌を逃がさないと、身体は自然とミリィを強く抱きしめていた。互いにびくびくと震えながら、〈睾丸〉《こうがん》に貯蔵していた雄の精子を可憐な少女へ〈躊躇〉《ちゅうちょ》なく注ぎ込んでいく。 「はぁああああんっ……! ああっ……あああぁっ!い、いっぱい……出されてるぅううううっ」 陰唇がヒクヒクと〈痺〉《しび》れ、和合水が〈零〉《こぼ》れるのと同時に、強烈なオルガスムスによって女は小刻みに震え潮を吹いた。それでもまだ、射精は続いて止まらない。 「んっ、んっ、んっ、んっ、ま、まだ出てるね……っ」 「いいよ、最後まで、兄さんが気のすむまで、注ぎ込んでぇ……」 〈淫靡〉《いんび》な蜜の匂いによって、鼻腔の粘膜までもを犯してゆくよう。ミリィの臭いを感じながら、気持ちよく、気持ちよく…… 「んふぅう……、ああっ、ね、ねぇ、これ、なかなか止まらないね……っ」 気持ちよく注ぎ込み、余韻にまた小さく絶頂して…… 「はぁああああ……、すごく幸せ……兄さんの種が、今もどんどん植え付けられて……」 「あっ、ああ……最後にまた、ビクビクって……んぅ!」 正真正銘、最後の一滴まで堪能し―― 全身で精を搾り取った後、ようやくミリィからペニスを抜き去った。 結合部からこれほど出したのかと驚くほど精液が溢れだす。濃密な性臭が周囲に満ち、思わず二人でそっと顔を見合わせた。 「ふふ、こんなに深いところで出されちゃったら、どうなっちゃうか分からないね……」 「わたし達のおつゆ、絡み合ってるみたい。兄さんのだらんってなってるの、ちょっとくすぐったいな」 余韻を楽しむように、妹はお腹をすりすりとさすって言った。下腹部を労わるような仕草に対して思わずペニスが、少しだけ反応する。 「兄さんは分からないと思うけど……これだけ〈膣内〉《なか》に出されちゃった後って、大変なんだよ?」 「前もそうだったけど、ものすごくたぷんとして、気のせいか重たさだって感じるし……」 そう言われると、たしかに男には未知の世界であり感覚だ。 膨らますだけ膨らませて、一滴残らず搾り出す。そうされた女は果たしてどうなるものなのか。 ミリィの表情を〈伺〉《うかが》うと、そこにはしっとりとした喜びと、どこか〈淫靡〉《いんび》な母性が見え隠れしていた。 「兄さんの証……、お腹に刻まれちゃった――」 するとそこで、ようやく揺蕩う泥の沼から、身体の感覚が戻ってくる。 彼女が見つめる視線の先にはかつての結合部があり、とろりとした白濁液が、膣から〈零〉《こぼ》れていた。異様に長かった射精は、当然の如く、いつもとは比べものにならない量の精液を吐き出させたその結果。 もはや〈痺〉《しび》れているせいか、亀頭の感覚だけはどこかへ飛んでいってしまったようだ。 「なんだか、一気に大人になったみたい……ふふ」 頬を染めて下腹部をさせる仕草が愛おしく感じる。欲望が過ぎた今、ただただミリィのことが大切だった。 「だから、大人として兄さんと生きていくためにも……」 そう、ならばこそ──結ばれた後も二人で未来へ歩むために。 「頑張ろうね、二人で……ずっと」 微笑みながら、共にいようというミリィの言葉を受け止める。 俺たちはそのまま抱き合い、互いの温もりを充足と共に感じ合った。 ──そして俺たちは、ルシード・グランセニックと対峙する。 選んだ場所は共同墓地。ここは数日前の騒動によって現在戒厳令が敷かれているため、周囲一帯には通りかかる人の姿さえない。 静寂が場を支配し、〈炙〉《あぶ》り出されるのは緊張感。魔星の力をその身体に秘めたかつての親友と、しばし無言で向かい合う。 余計な話をするつもりはなどないのは、前と同じという訳だろう。言葉などでは語り尽くせぬ感情が、今もルシードの内には満ちている。 示し合わせたように俺たちが〈集〉《つど》ったのは、ここが過去の大虐殺から始まる過去と未来の分岐点……一つの区切りであるための見解だった。 ここには今も多く、五年前の犠牲者たちがミリィの父母と共に眠っている。俺たち真に家族として過去のすべてを乗り越え、前へと進むためには必然であるのかもしれなかった。 自分で思っていた以上に感情は落ち着いていた。それは、ルシードとの戦いが不可避であることを肌で感じているからだろうか。 これまで飽きるほど馬鹿をやり、笑い合って、時には衝突もした親友の姿……楽しい記憶のまま留めておくことはもう出来ない。 こいつもまた、己の意志で殺し合いを選んでここにやって来ているのだから。 「覚悟を決めたという顔だね、ゼファー」 「引けない想い、譲れぬ誓い。いいだろう、それはこちらも同じことだ」 「星と星が衝突したとき、残るのはどちらか一人に限られる」 星か、と俺は心中〈呟〉《つぶや》く。なるほど、いつのまにか大層な話になってやがる。 初めて俺たちが出会ったのは帝都の酒場で、ああ、今でも覚えているよ。脱走兵だから身分証明できずに〈項垂〉《うなだ》れている俺へ、おまえは何故か〈同種〉《まけいぬ》の臭いを嗅ぎつけて意気揚々と話しかけてきた。 それから下らない馬鹿話から意気投合し、したたかに泥酔して馬鹿やったよな。まったくもうグダグダで、閉店した後で路上に寝転がされ……翌朝、互いに顔見合わせて爆笑したもんだ。 それから早五年。今日までずっとこの男は変わらず、阿呆で、幼女趣味で、情けなくて……だから今こうして〈辿〉《たど》り着いた場所は、きっと予想すらしていなかったものだけど。 分かっている。俺たちの激突は避けられない。大切な者が永遠に失われてしまったことで変わらずにいられる訳がない。 運命はいつだって何かを契機に転がていく。そして一度動いてしまえば人間ごときではどうすることも出来ない。 抗し得ない激流の中で、歯を食い縛って戦うしかないんだ。 だから── 「創生せよ、天に描いた星辰を――我らは〈煌〉《きら》めく流れ星」 ――宣誓し、星光を〈纏〉《まと》う。 これ以上、互いが互いの変わり果ててしまった姿を見ていられない。 「退がっていてくれ、ミリィ」 そして、何よりも大切な女の子にそう告げる。これより始まる戦いは恐らく過去最大の規模になりかねない。 巻き込んでしまう訳にはいかないし、庇いながらやり合える相手であるとも思えないし、あいつもまたそれを望んでいないだろう。 心配なんてすることないさ、必ず戻ってくるという──刹那に。 「これがわたしのわがままで、ひどい矛盾であるというのは分かっているけど……どうか、おねがい」 「兄さんも、ルシードさんも、悲しい涙が止まるように祈っているから」 そう口にしたミリィは、俺たちから離れた場所へと向かいながら切なそうにこちらを振り返った。 信じてくれているその表情に、戦意を新たに奮い立たせてルシードと対峙した。そして共に苦笑する。 「……たまらないね。目が潰れそうだ」 「ああ、だから〈相応〉《ふさわ》しくなりたいのさ」 彼女に似合う自分として、せめてこの気持ちだけは曲げられない。 そして、大切な家族を守る──それがおまえのことを、たとえ今から殺すこととなろうとも。 「ただまあ、表面上でも余裕こいたりするんだな。似合ってねえぞルシード、荒事なんだし〈怯〉《おび》えろよ」 「どうかな? 実のところ、さして冷静でもないんだけどね。腹の中は溶鉱炉、〈昂〉《たか》ぶりすら覚えていると言っていい」 「僕はずっと――ずっとずっと長い間、レディに焦がれ続けてきた」 「振り向いてもらいたかったんだよ。たとえ、立ちはだかるのが君であってもその感情は変わらない」 言葉に込められた感情は、疑うまでもなく真実のものだろう。それでいいと同時に思う。 俺たちのやらかす喧嘩なんだ、その動機なんざ大それた理由が用意されているはずがない。俺にしても、ヴェンデッタを失ってしまった負い目は未だ生々しく残っているからこそ受けない訳にはいかないしな。 たとえそれが、あいつに望まれていないものであったとしても…… そして……その想いが本物だと感じるからこそ、一つだけ気になってることがあった。 「ならどうして、今まで戦おうとしなかった? 〈人造惑星〉《プラネテス》の一員で、しかも軍部と通じていたなら、出来ることは幾らでもあっただろうが」 「しかもおまえ、ずいぶんと強いらしいじゃねえかよ。正直驚いたわ、爺さんにいろいろ聞かされたが半信半疑の部分も多い」 だから告げるのは、俺たちにもっと早く味方してくれても良かったじゃないかという〈愚痴〉《ぐち》とも悔恨とも取れない言葉。 こんな状況にまでなって言うべき〈台詞〉《せりふ》ではないかもしれないが、どうしても口にせずにはいられない。 「俺たちはどうせ負け犬なんだから、それらしく身を寄せ合えばよかったろうに」 「何もかもを一人で抱えてひたすらだんまり……そんなことをする必要はなかったんだよ、この馬鹿野郎」 情けない弱者の吐露に対し、返ってきたのは一瞬の静寂。 そして〈眦〉《まなじり》を歪めながら、ルシードは口にする。 「まあ、確かにその通り。もっと上手い立ち回りは探せばあったのかもしれない」 「だが言わせてもらえば、君自身はどうだった?レディとの同調により突然手にした超覚醒。己の分を超え強くなったが、ならそこで状況を打破するために討って出ようと思ったかい?」 「いいや全然。だって怖えし」 「そうだろう? 勇敢に戦ってみようだとか、そんなの思えるはずがない。勝ち目が出来たということと、だから挑戦することはまったく別の概念なんだ」 「神や悪魔に選ばれて、すぐさま活躍できるだって? 馬鹿を言え、それが出来るのは英雄だけだ。小心者はどこまでいっても〈塵屑〉《ごみくず》で、生まれ変わるのは無理なんだよ」 「それこそ、余程のことがない限り……」 誰か自分より大切な者でも出来ない限り──ああ、まったく。同病相憐れむとはこのことか。 ルシードの言う通り、俺もまたヴェンデッタの力があっても立ち向かおうとは思えもしなかった。それどころか覚醒に戸惑って、いくつもの機会を〈徒〉《いたずら》に失ってしまったと苦笑する。 その結果として、ヴェンデッタはもう帰ってこない――俺とこいつが、どちらも臆病だったから。 「相手が本気の殺意を持ってて、血走った目で武器を構えて、自分を今から殺そうとしてる場合……そりゃ怖いよ。身体が〈竦〉《すく》むし逃げ惑う」 「無傷で済むなら銃口の前に立てるかというわけじゃない。いいかいゼファー。僕も君も、そこが等しく負け犬なんだ」 「――違いねえ、な」 反論も何もありゃしない、こいつの言うことは他の誰かには暴論であるかもしれないが、俺からしてみればこの上もなく的確に真理を〈抉〉《えぐ》ってきている。 いじめられっ子が生まれ変わって、たとえ神様から強い力を貰ったとしてもそいつはいじめられっ子のままに過ぎない。人間、長年刷り込まれた習性はどうしても染み付いてしまうもの。 銃やナイフを手にした〈途端〉《とたん》、一朝一夕で勇敢になれるなら訓練さえ必要ない。強力な兵器さえ握らせれば誰もが勇者になれてしまう……そんなものは現実じゃありえないんだ。 負け犬は負け犬。よって互いに有しているのは、弱者であるための共感だった。 「所詮、お互い出来るのは弱い者虐めだけってか……」 「ああ、まったくだ」 ゆえ、行き着くところは自虐にしか過ぎず── 「だから──今から僕は〈弱者〉《きみ》を下す」 「来いよ、今や単なる〈星辰奏者〉《エスペラント》。琴を捨てたその代償、今からしかと払ってもらう」 「言うじゃねえか」 幼稚な〈啖呵〉《たんか》を切り合い、俺たちは互いに構える。 胸が痛むものの──それが恐らくは最後の感傷となるのだろう。向けられるルシードの視線には〈静謐〉《せいひつ》な殺気が宿っており、そこにかつての友情はない。 「容赦はしないぞ」 「やってみろ」 そして一瞬、互いに泣きそうな表情を噛み殺して── 「行くぞォォォ──ッ!!」 タイミングは全く同時、〈裂帛〉《れっぱく》の気迫を〈纏〉《まと》って二つの星が突貫する。 飛び出した瞬間、引力にも似た強烈な重圧を全身で感じた。以前にも見せつけられたルシードの星辰光が俺の挙動、その自由を〈遍〉《あまね》く奪い取る。 しかも、以前より隠匿性を限界まで上げているせいか、今は〈力〉《 、》〈の〉《 、》〈方〉《 、》〈向〉《 、》〈性〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈読〉《 、》〈み〉《 、》〈取〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 不可視の星光──まさに真なる正体不明。朧気ながら感じ取れていた圧力は透明と化し、対応できない俺の四肢をあっさりと絡め取る 攻撃、そして足回り。共に封じられたまま意気込み虚しく支配の一撃で敢えなく終わる……はずであった、その刹那。 「ッ、────」 ──ルシードの〈星辰光〉《アステリズム》に合わせるかのよう、左腕が燐光を放ち星辰を同調させる。 発生するのは共鳴現象。振るわれる異相とまったく同じ波長を瞬時に発生、不可視の異能を相殺する。 〈軛〉《くびき》から放たれ、身体の自由を取り戻す……恐らくは予想外であっただろう展開に、ルシードは眼を細めて俺の左腕を見遣る。 「オリハルコンか。いったい何処で、いやどうやって──」 封殺していたはずの状況から逃れた方法が読めない、といった様子だ。ヴェンデッタは既にいないのに、如何にして、と言いたげなその表情。 「爺さんからの遺産だよ。生涯懸けた研究を、俺たちに託してくれた」 ただ一つの武器、その〈絡繰〉《からく》りを告げてやる。 〈死想恋歌〉《エウリュディケ》・〈残影〉《ネクロ》──この左腕に宿ったヴェンデッタの残光を静かに掲げた。 〈工房〉《アトリエ》に遺された置き手紙に記されていたジン・ヘイゼルの遺産。そこにミリィの、さらにあいつの遺志さえも詰まっている。 細かな理屈は俺なんかに理解できないものだとしても、こうして体感しているものはヴェンデッタの〈同調〉《リンク》とまったく同じだ。オリハルコンに刻み込まれたあいつの宿す魔星の〈残滓〉《ざんし》が、こうして再び宿っている。 帝国軍さえ確立していない技術を、爺さんは恐らく何年も前から対アスラ用の対策として密かに練り上げていたのだろう。 その応用は弟子に継がれ、ミリィの手で新たな結果を出していた。 「大したものだな、ヘイゼル老は……いや、この場合はミリィくんこそ称賛に値するか」 「最高位の〈奏鋼調律師〉《ハーモナイザー》、まさしく彼女は天才だよ。もはや並の〈叡智宝瓶〉《アクエリアス》では及びもつかない腕前だ」 そう。ルシードの星光を一、二度感じただけで、それを感覚下に記憶させて調律にまで反映させたのは他ならぬミリィだ。そんな超級の天才が俺の後ろにはついているんだよ。 言うまでもなく難事であり、誰にでも出来る技じゃない。普通は何度か〈傍目〉《はため》から見た程度で分析なんて不可能だろうし、超えるべき障害もまた多すぎる。 しかし、あの子は成し遂げた。俺の腕が欠損しているという状況下で、治療と接続の二つの施術を平行させながら。 ジン爺さんの見出した才能が、極限状況で〈眩〉《まばゆ》い光を放ち開花する。ここまでお膳立てを整えてくれれば後は俺の〈範疇〉《はんちゅう》だろう。 オリハルコンを行使するのなんざ当然初めてではあるものの、ヴェンデッタと同調していた経験により、星辰の波長さえ分かったら逆にこっちから微調整してぶつけられる。 残影になり劣化した能力として、〈粒〉《 、》〈子〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈も〉《 、》〈は〉《 、》〈や〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》……だが。 疑似程度であれば星辰光の消滅すらも可能だ。今までの経験と勘を総動員してルシードの〈纏〉《まと》う謎の星へと対の波長を合わせて消し去る。 「気持ちは決めて来たものの──ああ、まったくやりにくい」 よってルシードは切り札を無効化されている以上、大雑把には戦えなくなる。突撃する俺に対して効きが薄くなりながらも、不可視の結界で的確に絡めとる方向性へと戦い方をシフトした。 展開されるのは数多の駆け引き。互いが繰り出す攻撃はいずれもフェイクが掛かっており、釣られてしまえばその場で謎の圧力により痛撃を貰うこととなる。 見切り、〈躱〉《かわ》す。掴ませない──それと同時に反撃を繰り出し、相手をこちらの型に〈嵌〉《は》めようとするも、敵もまた然る者で指揮者のように手を振るうたび見えない力が俺を押し付けようと動いた。 そのため膠着状態に陥るのは自然な結果なのだろう。追い込めば必殺が待っているがために〈迂闊〉《うかつ》な接近も許されないという状況の中、疾走しながら何とかあいつの懐へ飛び込めないかと探り続ける。 相手の能力が不明であるがゆえ、接触は極力避けなくてはならないのは確実。思惑はルシードも同じであり、俺の銀刃に警戒を払っているのが見て取れる。 一撃必殺の形しか有していない自分の星を恨めしく思いながらも、めくれ上がり飛んでくる石畳を〈捌〉《さば》きながら渡り合う。 「臆病だな、ゼファー。相も変わらず」 「ならば、こちらもやり方を変えるとしよう──」 そう口にするルシードは墓地の地面に手をかざした。同時、地面から〈黒〉《、》〈い〉《、》〈塊〉《、》が渦を巻き、鋭い穂先の形状へと凝固する。 襲来するのは、地面から奴の星辰を介して放たれる槍撃。こちらの斬刃が届かない距離から放たれる〈鏃〉《やじり》の連続は一変の容赦もなく俺の急所を狙ってくる。 今までとはまったく異なる攻撃にどういうことだと毒突くも、反応と同時に回避するが、しかし数が多すぎる。 〈喉〉《のど》笛、眼球、〈鳩尾〉《みぞおち》……あらゆる箇所に殺到する致死の黒槍。迅雷の速度で〈迸〉《ほとばし》るそれをすべて〈躱〉《かわ》すには限度がある。 さらには形状が変化し、飛来する最中に軌道を急激に変えて俺を貫かんと殺到する始末。 数にはおよそ限度がなく、殺傷能力、機動力共にこの場を制圧するに〈相応〉《ふさわ》しい域にまで達していたから逃げ惑う。 身体を〈膾〉《なます》にされながら、その切れ味と変幻自在の動きに対して俺はようやく正体に気づく。裂傷を負う度、その傷口には黒い砂のようなものが散っていることに。 そう、これは── 「砂鉄か──ッ」 墓地のそこら中にある砂の中から、鉄分のみを収束させ己の僕として操っているのか? つまり、それはルシードの攻撃射程が無限であることを表わしている。この墓地全てが奴の掌中ということに他ならない。 「ガ、ァッ……!」 星辰の力を付与された黒槍はもはや純粋な金属よりも鋭利な刃となって、俺の命の鼓動を止めんと飛来した。避けたと思った砂刃がその直前、まるで散弾の如くに爆裂して俺の身体を〈蹂躙〉《じゅうりん》する。 それは集束と逆ベクトルの斥力を急激に与えたかのような軌道で、さらに。 「ぎィ、あァッ──」 連続した攻防に気を取られていれば、ルシードの本領とも言える不可視の圧に支配され〈途端〉《とたん》に片腕が〈捩〉《よじ》り上げられた。 常にオリハルコンで無効化を狙っていないとすぐに遣り込められてしまうということなのだろう。黒槍を弾いたと思ったら、次は俺を囲むように散った砂鉄が互いに激しく反応し合って嵐にも似た暴風で呑み込まんとする。 そちらに意識を持って行かれると同時、身体が四方からまるでミキサーにでも掛けたかのような乱雑さで猛烈に引き裂かれかかった。 それは見えない暴力で、生体の何処に作用しているのか、とても予見できないほどの多様な破砕法則。俺を死へと至らしめんと猛威を振るう。 同時──何かがカタカタと鳴っているのに気づいた。その異変はボタン、ベルト、ブーツなど、周囲の〈遍〉《あまね》く金属製の製品が反応している。 まさか──いいや、間違いない。見えない圧力、砂鉄、金属への干渉など。総合すれば正体は明白だ。 ルシードの有する星光は──ッ。 「気づいたか、だがもう遅い」 「それがルシード・グランセニック──〈錬金術師〉《アルケミスト》に輝く星だッ!」 ──〈磁〉《 、》〈力〉《 、》を操る錬金術師が、異名と共に本領を発露する。 「天昇せよ、我が守護星──鋼の〈恒星〉《ほむら》を掲げるがため」 そして、〈詠唱〉《ランゲージ》により現れるのは魔星の真価。 かつて〈親友〉《とも》であったルシード・グランセニックが、正真正銘の怪物へと変容する。 「有翼の帽子と靴を身に纏い、双蛇巻かれた杖を手に、主神の言葉を伝令すべく地表を流離う旅人よ」 「盗賊が、羊飼いが、詐欺師と医者と商人が。汝の授ける多様な叡智を今かと望み待ち焦がれている」 「幽世さえも旅する人、どうか話を聞かせておくれ。石を金へと変えるが如く、豊かな智慧と神秘の欠片で賢者の宇宙を見せてほしい」 流れるように言葉は紡がれ、純白の燕尾服へと〈星辰体〉《アストラル》が〈集〉《つど》っていく。 文言が示すのは守護星の有する様々な顔であり、それはまるでルシードそのものを表現しているかのようだ。 商人、親友、そして魔星……いずれもこの男の一面に過ぎず、されどすべてが彼自身を構成する紛うことなき真実の顔。多面性を有するその特性は、確たる智により遂行される。 「願うならば導こう──吟遊詩人よ、この手を掴め。愛を迎えに墜ちるのだ」 「太陽へかつて譲った竪琴の音を聞きながら、黄泉を降りていざ往かん。それこそおまえの真実である」 〈謳〉《うた》いながら冥府へと落ちていくという二律背反。それはこいつ自身の怨嗟であり渇望の声で──俺という存在に対する願いと未練、あいつへ奉げた真の愛情。すべての象徴が詰まっている。 ルシード・グランセニックという〈人造惑星〉《プラネテス》が求めて止まない〈希望〉《ヒカリ》、その裏返しがまさにいま顕在化した。 「〈超新星〉《Metalnova》──〈雄弁なる伝令神よ。汝、魂の導者たれ〉《     Miserable Alchemist     》!」 瞬間、己が星を宣し終えたと同時に地面が一際大きく波打ち──周囲全方向から暴力の津波が襲いかかった。 〈躱〉《かわ》したと思った〈途端〉《とたん》、身体に〈纏〉《まと》った金属すらも〈出鱈目〉《でたらめ》な軌道を刻む。のみならず、いずれも意志を持ったと凶刃と化して殺到した。 闇夜に光る流星にも似た魔弾の完全回避は不可能で、結果衝撃を殺しきれない。砂鉄が、不可視の捕縛結界が、引力と斥力を織り交ぜてありとあらゆる方向から俺を潰しに襲来する。 一撃死にこそ追いやられてはないが、それはルシードにとってさしたる問題とはならないだろう。死ぬまで何度だろうと撃てばいい──それだけの星が奴にはあるのだから。 何より、これはまずすぎる。出力以上に〈磁〉《 、》〈力〉《 、》〈操〉《 、》〈作〉《 、》という特性そのものが最悪だった。 身体の挙動を封じられたと思っていたのは、血中の鉄分がルシードの異能によって引き摺られたため。砂鉄の槍に、その集束爆散、汎用性が高すぎる。 磁力というものは、何せほとんどの物質に影響を及ぼす。ゆえにその効果範囲はほとんど無限、どこまで逃げてもその先で新たな依代を操るだけで、加えて人体にすら影響を及ぼすほどの強さなら、接近戦とて奴の間合いだ。 ヴェンデッタの残影による振動消滅が可能とはいえ……それも多面的に攻められてしまえば処理が追いつかなくなるのは自明の理。戦いが長引けば追い詰められていく一方だろう。 そして極めつけなのが、〈星辰奏者〉《エスペラント》や魔星に対する相性の良さだ。アダマンタイトなりオリハルオンなり、金属を媒介に異能を発現している以上、奴の放つ星光から決して逃れはできなかった。 異能を振るう必須条件そのものへ訴えられるというのなら、相手の星を封じることさえ自由自在。 ヴェンデッタとはまた別手段での星光殺し──いや、星光封印。 理論上、ルシード・グランセニックに勝利することが可能なのは出力で奴を遥か圧倒している存在か、俺のように〈星辰体〉《アストラル》へ訴えるなどといった対抗手段を持つ手合いに限られるのだろう。 しかしそのような分析を行っている間にも、ルシードは己が星を駆動させ── 「その体勢から牙を〈剥〉《む》くか、味な真似をするものだ」 「あ、グゥッ……」 黒槍の猛弾幕をようやくにして〈掻〉《か》い潜り、懐に入り込みざまの一撃を放ったが武装を持つ手に走ったのは相手を捉えた〈手応〉《てごた》えではない。攻撃軌道を急激に変えた砂刃に切り裂かれた鋭い激痛が走る。 折れるな、と自らに言い聞かせるが──状況は相手の圧倒的有利であり、こちらは反撃の糸口すらも未だ見出せていない体たらくのまま。 虎の子のオリハルコンですら延命程度にしかなっておらず、他の切り札なんざ最初から持ち合わせていない。戦いつつ〈綻〉《ほころ》びを突こうにも、隙すら見せないルシードの立ち回りに徐々に精神力が削られていく。 しかし── 「やるじゃねえかよ〈御曹司〉《ボンボン》が、これほどとはなァッ」 この期に及んで虚勢を張るのは、己を鼓舞せんがため。 ゆえにこそ与し難く、そして…… 「忠告だよ、親友。抵抗は既に無意味だ」 「何も僕は、君を〈徒〉《いたずら》に苦しませたい訳じゃない」 「だからもう――あまり動かない方がいい」 静かに告げると同時、周囲の墓標がガタガタと〈軋〉《きし》むように揺れ始めた。 まるでポルターガイストを思わせる現象を前に、俺は理解する。ルシードの星辰が土の中にまでその感応範囲を広げているということを。 「さあ、死者が目覚めるぞ?」 「――――」 ──そう、墓の下には金属など幾らでも存在する。 例えば、戦死者たちの身体に埋まっていた補強用のボルト。命を失った原因である銃の弾丸。或いは銀歯なども含まれている。 砂鉄のみならず、様々なものが〈髑髏〉《どくろ》と共に眠っているのだ。 渦巻く星に反応するその脅威、破壊力は、前後左右から同時に襲う超高速の金属片が証明した。 「グゥ、ゥッ――――」 全身が砕け散るほどの激痛と衝撃。乱舞する鋭撃が俺を次々に〈蹂躙〉《じゅうりん》していく。 続け様に逃れようもない黒槍の牙が、貫き〈抉〉《えぐ》り砕りぬく。 「やれやれ〈掻〉《あが》くね。回避に関して読みが抜群、負け犬ゆえの生存技能か」 「ただそれでも、君は必ず連れて行こう――すべては愛する彼女のためにッ」 全ての物質が敵手と化して襲い来るという、悪夢じみた現実。 逃れるべき空間にもすでにルシードの星は行き渡り、もはや詰まされるのは時間の問題。全方位から飛来する無数の撃にただ〈嬲〉《なぶ》られ、翻弄される。 やがて肉は裂け、全身を鮮血が染め上げていくものの―― だが──けどよ、黙って殺られてはいられないんだ。 おまえもそうだろうが、こっちも譲れぬ不倒の意志があるから。 「──なら、俺もおまえと同じだよ」 そうだろ、親友。負けられないんだ絶対に。 俺の勝利を信じて見守ってくれているミリィのためにも──そして、受け入れた過去のためにも。 「う、お、おおおおおおォォォォォォォォォォッ!!」 〈乾坤一擲〉《けんこんいってき》、戦況を引っ繰り返さんと、残された力を振り絞って突進する。 強引極まる一手であるし、当然迎撃されるだろう。振り〈翳〉《かざ》した銀刃は恐らくルシードを〈掠〉《かす》めることすら望めない。 しかし、それでも構わない。黙っていても後悔するだけだと俺はとっくに知ってる。 強引だろうと何だろうと、絶望の色に塗り潰された局面を変えていくんだ――  ルシード・グランセニックは憶えている――己の命が潰える直前、その記憶を。  アドラーよりの奇襲を受けて、グランセニック家は一族郎党滅ぼされた。  〈何〉《いず》れ漏らさず、死出の旅路へ向かうが良い……まるでそう言わんばかりの徹底した駆逐は、すなわち軍事帝国に於いてその技術がどれほどの重要性を有しているかの証左と言える。  グランセニック家の当主は〈些〉《いささ》か〈手〉《 、》〈広〉《 、》〈く〉《 、》〈や〉《 、》〈り〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈た〉《 、》。  ゆえの粛正であり、これは事実上の口封じ。  商人と軍人は最初から合わなかったと、ただそれだけの話である。  一家の三男たるルシードの遺体は、さしたる注意を払われることもなく打ち棄てられるはずであった。  しかし、運命はいつだって予告なくその筋書きが改変されるもの。彼は再び蘇り、不条理の世界で運命を押し付けられることになる。  ……そちらの方が死よりも余程の絶望だった。  ああ、いったい誰が蘇生されたその後で〈英雄〉《バケモノ》や〈神星〉《カイブツ》の手先にならねばならないという?  どうしてだと、そう叫びたい夜は何度も訪れた。己の意志の介在しない理不尽に身を焼かれながらも……しかしその口を〈噤〉《つぐ》む。  それは、新西暦の暗闘に敗れ破滅した敗残者であるから。下手を打った者が文句を言う資格などないことを彼は明確に悟っていた。  加えて何より、生きていた頃と比べ、すでに彼の世界は色〈褪〉《あ》せていたのが大きい。残る衝動は諦観のみ、牙を〈剥〉《む》くことすら出来ずに、彼は宿命を絶望と共に受け入れた。  憎むべき相手もいなければ、守るべき者もいない。  漫然と不条理を憂いながらも、心の棘は静かに彼を〈苛〉《さいな》んでいく。  無為にただ過ぎていく日々の中でルシードは探し続けた。少しでもいい、この絶望を霧消してくれるような光明を。  愛しさでも、疎ましさであろうとも構わない。頼む、どうか運命よと……  そんな中、彼は膿んだ情熱を次第に一点へと集中させていくこととなる。  ルシードの目に留まったのは、エウリュディケ-〈No.β〉《ベータ》──すなわち目覚めぬ〈月女神〉《アルテミス》。  彼女こそが運命の起点であると知り、そして──  少女に対して最初に抱いたのは、紛うことなき“憎悪”であった。  迫り来るのは〈雨霰〉《あめあられ》と化した黒槍。  可視化された破壊の凶撃、その殺到を前に――ゼファーの精神はこの危地に不釣り合いなほどの平静を保っていた。  己が信じる友に貫かれるからか? ――違う。  〈彼我〉《ひが》の隔絶を前に心が折れてしまったか? ――無論違う。  その答えとは、相手と自分とは同じであるという確信を得たことによるものであった。  随分と罵られたものだ。馬鹿だ、無能だ、弱者だと。  いかにも、〈馬鹿〉《ルシード》の言うとおり。そんな事は言われるまでもなく理解している。  ああ、理解していたんだよ。 「グ、ァッ――――」  標的目がけて降り注いだ、砂槍と瓦礫の剣林弾雨。その全てが直撃し、束の間訪れた静寂の中で……ゼファーの苦笑が小さく響いた。  なりたかったのは、如何なる相手にも揺るがぬ強者だった。どんな戦闘をも圧倒し、大切な者を守り抜く。遅れを取ることなどありはしない、なんという雄々しい幻想。  しかし、現実はそう上手くいくはずもない。  弱者なんだ。地に〈這〉《は》い〈蹲〉《つくば》り、惨めな思いを味わって――それでも諦められない思いがあるから。 「さっさと倒れろ! らしくないぞ、臆病者め……ッ  いつものように諦めちまえよ。良い格好をするのはもう、僕だけでいいんだからさ――」  本当に――分かってしまって、どうしようもない。  〈親友〉《あいつ》もまた同じなんだ、と。 「彼女に惚れてた愚かな男は、しかしこの位の骨はあると面子くらいは立てたいんだッ。 最後まで見くびられたままでは、二度も生まれた甲斐がないというものだろうが……!」  断鉄と磁極の星辰が交錯し、大気を〈劈〉《つんざ》く轟音が響いた。骨まで〈抉〉《えぐ》り込まれた激痛にゼファーはしかし、どこかおかしくて笑みを浮かべる。  〈左腕〉《オリハルコン》の星光同調によって、磁力の結界を打ち消しながら突進する。戦闘者としての理屈と感覚を頼りにして、徐々にルシードの星光をパターン化することに成功していた。  激突を重ねていく二人の男は、傷つきながらも退くことを知らない。  それは共に、自分よりも大切な存在のために刃を振るっているがためでありならばこそ──悲しく、切なく。 「――――兄さん、ルシードさん」  手を伸ばせば届きそうなほどに近い場所。  そこで二つの星光が何度も衝突を繰り返している様に対して、ミリィは小さく唇を噛む。  あの二人が演じる殺し合い。分かっていたし、覚悟もしてきたつもりだったけどそれでもやっぱり胸は痛む。  彼らと過ごした日々が、今もこの胸で暖かいのに。  運命の歯車、その避け難い〈齟齬〉《そご》が二人をこうさせた。互いに譲れないのもそこに起因しているのだろうから決して決して止まらない。  こうなってしまえば、もう自分に出来ることはないと分かっている、けれどそれでも。 「ヴェティちゃん――」  大切な家族の名を〈呟〉《つぶや》きながら、祈りを捧げる。  やっぱり、わたしは二人を止めたいよ。  男の人の意地や誓いも大切だけれど、それよりも、兄さんに無事で帰ってきてほしい。家族を好きと言った人に心はせめて救われてほしい。  守りたい、力になりたい。そのためならと思わずにはいられなかった。  そして――兄を想うミリィの感情に呼応するかのように、結んだ彼女の指先へ淡い燐光が小さく灯った。  それは確かな星辰の〈同〉《 、》〈調〉《 、》〈現〉《 、》〈象〉《 、》であるのだが、しかし本人は気づかない。  気づかないからこそ、他のいかなる意識も介在させることなく星は静かにその総量を増していく。まるで〈家族〉《ヴェンデッタ》の遺したもう一つの置き土産であるかのように。  瞳を閉じてかつて過ごした日々に願う。  叶わないと知っていても、〈希〉《こいねが》わずにはいられない。  そして、彼女の視線の先……男たちの戦いは更にその熱を増していくのだった。 ……現在に至るまで、もう何合打ち合ったことだろう。 かたや磁性支配の極大による物量と空間支配。俺の生を終わらせんとする相手に対し、しかし限界を超えた集中力による回避の連続によって、致命の傷は負っていない。 かたや必殺の〈増幅振〉《ハーモニクス》を銀刃に行き渡らせ、ルシードの首を刈り取らんと対消滅で生き延びる俺だったが、しかし接近することが未だ適わず隙も同様、見出せていない。 多撃と一撃、近づかせない者と近づきたい者、対象的でありながら極限状態の攻防は今や、退けないという意地によってのみ応酬されていた。 「本当に、どこまでも〈鬱陶〉《うっとう》しい。いつものように〈這〉《は》い〈蹲〉《つくば》れよ……この負け犬が!」 「いつもいつも君って奴は、僕を煩わせてばかりじゃないか。ミスって、ヘタレて、〈愚痴〉《ぐち》ばかり……尻拭いをするこっちがいつも、どれだけ大変な想いをしたか」 「足りない頭で、少しは考えてみればいい……ッ!」 「おまえが言うかよ、そういうことを――」 呆れて吐き捨てる。弾丸と化して殺到する金属片を空中で斬り落とし、さらに勢いそのままに間合いを詰める。 自分だけが被害者だとでも言うつもりかよ? 馬鹿げてるにも程がある。ならばこっちも教えてやらねばならないだろう。 「てめえの〈馬鹿〉《ツケ》を払うのに、苦労したのはこちらの方だッ」 「はっ、だから? その程度はいいだろう。道化になれねば気が狂う」 「いきなり謀殺されたと思えば、人間ではなくなって、あげく恐るべき運命の手先になれとのお達しだ。まともなままでいられるかよ」 「こんな不幸はそうそうない、心が折れて何が悪い!」 最悪の〈啖呵〉《たんか》の応酬と共に何度も何度も斬り結ぶ。しかしそれは、嘘偽りのない心の底からの叫びに他ならない。 だからこそタチが悪いな。覚えがあるよ、その感情。 まったく親友なんて作るものじゃないと、苛立ちとも恥ともつかぬ感情を胸に互いに互いを殺すつもりで切り結ぶ。 何度も、何度も…… 「だから――明かすなら、彼女はかつて僕の絶望そのものだった」 「レディが目覚めないせいで、自分はこうして造られた。しかも次に覚醒したら奴らは聖戦を発動すると? 冗談じゃない、破滅の女神に見えたとも」 「あの英雄と戦わなければならないなんて、考えただけで狂いそうな配役だったさ。けれど、投げ出すことも恐くてできず……」 「〈死想恋歌〉《エウリュディケ》を怨む日がただ漠然と続いていた」 応酬の中、じゃあなんで惚れたんだと、そう視線で問い掛ける。 ルシードは一瞬寂しそうに──悔やむように微笑みながら。 「そして気づいたのさ。彼女も、僕と同じだと」 「続けてさらに〈羨〉《うらや》んだ、永遠に眠り続けられている……その穏やかな〈絶望〉《きぼう》の日々に」 「過酷な運命から逃れられていることと、その幸福に思いを馳せた」 「すると不思議でね、徐々に気になり始めていったんだよ。彼女は生前どんな日々を歩んでいたのか? どんな生き方をしていたら、奴らにこうも穏やかな手段によって泡を食わせてやれるのかと……」 「いつも、考えているうちに……」 「隣で見てて惚れましたって? どういう思考回路だよそりゃ。いくらなんでもチョロ過ぎだろうが」 「生まれたばかりの雛かよ、てめえはッ」 「はッ、妹に手をつけた男が言うか!」 激痛の言葉で逆襲される。それについてはぐうの音も出ないが、恋愛脳が偉そうに講釈垂れることじゃねえぞ――馬鹿が。馬鹿が。この大馬鹿。 太い笑みを互いに浮かべ、いい度胸だと〈睨〉《にら》み合う。 「ただ、愛しただけだろう。自分以外の誰かのことを、尊いと思うことのいったい何が悪いと言うんだ!」 「ああその通りだ、たまにゃいいこと言うじゃねえか」 「惚れたおまえは馬鹿だとしても、想い自体は何も悪くなんてない――」 だってそうだろ? 「俺たちは臆病者だ。負け犬だ。誰かがいないと生きていけない、弱っちい男なんだ」 「英雄なんかになれっこない……愛してる女のためにしか、勇気を出せない存在なんだよ」 強さ。潔さ。〈不撓〉《ふとう》にして不屈。それらは人生と言う先の見えない道において〈盤石〉《ばんじゃく》の正答に見えるだろう。 だけど、その正しさとは必ずしも必要なのか? その点において、俺たちの返答は等しく否で揺るがない。 「〈英雄〉《つよさ》だけが勝者なのか? いいや違うだろう、なあゼファー」 「そもそも、俺は大した奴じゃねえし。おまえもそうだろう? なあルシード」 詰まらないことでああだこうだと迷ったり、悩んだり、時には足を止めてしまうのが一般人のつまらない俗な性根で。 馬鹿ばかりやって、反省もせず、無茶で無謀で考えなし……だがそういう人間だからこそ俺はおまえを見てると安心したし、おまえだってそうなのだろう。 馬鹿だからこそ譲れないし、殴り合わなきゃ分からない。頭が悪いんだよ、なぁ悪友? だからこそ見せつけてやるんだ。ようやく探し当てた、誰にだって誇れる唯一無二なこの感情を。 結局、こいつと俺は似た者同士。類は友を呼ぶとはよくも言ったものであり。 好きな相手は別だけど、捧げる想いは本物だから。 「──だからこそ、おまえにだけは負けられない」 「俺と同じ、どうしようもない臆病者の、おまえにだけは!」 「〈業腹〉《ごうはら》だが同感だよ。一字一句同じときたか」 もはや戦況すら〈鑑〉《かんが》みない。どっちがどう有利かすらも眼中にない。如何なる状況に置かれようとも、互いに退くつもりなんて消え失せた。 星の能力、相性、力量差……そんなものは俺たちの間でもはや何の関係もなくなっていく。 「ああ、一周回って良い気分だ――いつ以来だかなぁこんなのはッ!」 「馬鹿馬鹿しいねぇ、酔っているのかなぁ。だとしたらどうにもこうにも救えない──!」 互いの未来を賭け、そして〈矜持〉《きょうじ》をも賭けている馬鹿の闘争。なのに心は際限なしに高揚してしまう。 浮かれ気分で臨むというのは、どう考えたって状況に〈相応〉《ふさわ》しいと言えるものではないだろうと、分かっているけど……そうだな、どうにも治まらねえよ。 だから思わず、共に一瞬〈歪〉《いびつ》な笑みを口に浮かべて── 「大概だなゼファー、僕も君も大馬鹿者だッ!」 「どうしようもない、〈人間〉《ばか》なんだ!」 仮借のない剛力を叩きつけ合い、〈睨〉《にら》み合いながらルシードはどこか〈忌々〉《すがすが》しそうに吠えた。そしてまたぶつかり合う。 均衡を崩すべく無数の残撃を放ち、再び火花を散らして鋼刃で磁性支配圏を切り裂いていく。不可視であるはずの星光がまるで暴風の如くに頬を〈嬲〉《なぶ》っていくのを感じる。 「キモい面近づけんなよ、〈鬱陶〉《うっとう》しい」 「君にだけは言われたくないね、貧乏無職がッ」 互いに、とことん後ろ向きで。 「何処まで行っても似た者同士とか、冗談じゃねえぞ」 臆病なくせに向こう見ずで。 「ああ本当にな、勘弁して欲しいよ。いい加減」 どこまでも気が合ってしまうから。 「はっ、こっちの〈台詞〉《せりふ》だ――」 互いが互いを見ていられない──ああ、ちくしょう。やっぱりおまえはどこまでいってもルシードだよ。 俺の知っている、ルシード・グランセニックのままなんだよ。 馬鹿やって笑い合える友人なんだと、こんな罵りあうことでさえ痛感できてしまうから。 「シ、ィィッ────」 涙がこぼれる前に決着を──願い、共に断ち切るべく俺たちはまったく同時に最後の激突を開始した。 この悲しい死闘を終わらせよう。 既に勝負の趨勢を決定づける要因は、技術じゃない。力でもない。 これはもう単なる意地の張り合い、誰かを愛した男と男の単純な喧嘩なのだから最後はまさしくそうなった。 突撃する俺に対し、斥力の嵐が前方から叩き付けられる。襲来する砂鉄の黒槍、周囲の金属片、そして磁力による行動干渉。三位一体の渾身へと魂をこめ突き進んだ。 襲い来る砂刃の軌道を、〈反響振〉《ソナー》で予見しその〈悉〉《ことごと》くを回避。左腕で〈共鳴振〉《レゾナンス》を起こし発動を無効化して。さらに殺到する周囲の金属片を〈増幅振〉《ハーモニクス》で撃ち抜く連続行使。 矢継ぎ早の能力行使が奴のすべてを一瞬だけ上回り、そのまま首筋へ狙いを定めた。 無数にあった撃ち合いの中、ようやく三つの要素が連なり有機的に迎撃できる機会が訪れる。必殺の一瞬、それを見逃さない殺し合いの機微を唯一俺の有利としてあいつの懐へ肉薄する。 束の間の静寂の中、じゃあな親友と心で〈呟〉《つぶや》いた──刹那。 「ま、だ、だああァァァァァァッ!」 「なッ──」 しかし──ルシードは予想外にも〈自〉《、》〈ら〉《、》〈の〉《、》〈身〉《、》〈体〉《、》〈で〉《、》、〈真〉《、》〈正〉《、》〈面〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈致〉《、》〈死〉《、》〈の〉《、》〈斬〉《、》〈撃〉《、》〈を〉《、》〈受〉《、》〈け〉《、》〈止〉《、》〈め〉《、》〈た〉《、》。 〈禍々〉《まがまが》しい紅の鮮血が舞い散るが、一歩前に踏み込んだがために首を狙った刃の軌道は胸へと変わり、深々とアダマンタイトの刃が突き刺さる。 つまり即死は回避されたということで、危険性をも上回る意地をもって、俺の勝負手を封じ込めたことになる。 理屈では選択しえない馬鹿げた挙動。もっとも〈魔星〉《こいつ》らしくなく、何より〈ルシード〉《こいつ》らしい一手で戦況をこじ開ける。勝負勘や戦術勘を執念だけで突破したのだ。 そして──眼前で生じた隙を、今更こいつが見逃すはずもなく。 「──これが、僕の想いだ」 「さようなら、親友。悪くなかったよ、本当は──」 ……寂しそうに口にしながら、星光を発動させる。 オリハルコンの左腕による対消滅も間に合わない。哀れな羽虫のごとくすべての自由を剥奪された俺を目掛けて、全方位から数百数千の暴威が襲い来る── 「それでも──」 死を覚悟した瞬間、そこに響いたのはミリィの声。視線を遣ると、俺たちをじっと見据える彼女の姿が目に入った。 涙と悲しみをこらえながら、死に行く弱者を、英雄でも何でもないただの人間である俺のことを信じているその姿。 それを確認した瞬間、身体の奥底から力が蘇るのを感じた。 このまま負ける? いいや御免だ。ミリィを置いて旅立つなんて、そんな馬鹿げたこと出来ない。 だから、だから──ッ。 「俺は──」 「わたしは──」 「もう二度と、家族を失ったりしない!」 互いの心が重なり合ったその瞬間、〈死相恋歌〉《きせき》は再び訪れた。 「あ……」 「これ、は──」 思わず声を漏らしたのは、危機が迫っているからじゃない。俺の目に映る〈そ〉《、》〈れ〉《、》は、涙の出るような懐かしさで── 期せず発生したのは紛れもない同調現象。〈逆襲〉《ヴェンデッタ》を失って起こるはずのないそれは、しかし現実のものとなり顕現する。 感覚を共有している相手はミリィなのか? 彼女の感情が、俺の中へと流れ込んでくるかのようだ。 この一瞬、身体に宿る力はもはや〈残影〉《ネクロ》などではない。 宙空を舞う粒子の流れがはっきりと見え、まるで星の中を泳いでいるかのように力の軌跡を示してくれた。 そう、本来視認不可能な磁力の流れというものさえ……〈星辰体〉《アストラル》から紡がれている以上、挙動を把握することが出来るから。 ──視える。 「馬鹿な──」  ルシードの驚愕も当然だった。これはまさに奇跡的な現象であり、説明不可能な同調を起こしたのは数多の偶然が重なり合ってようやく起こした結果である。  本来、どれだけ親しかろうともミリィがヴェンデッタの星を一瞬とはいえ肩代わりすることなど、語るまでもなく不可能なのだ。  しかしこの世でたった一人、〈ゼ〉《 、》〈フ〉《 、》〈ァ〉《 、》〈ー〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈調〉《 、》〈律〉《 、》〈を〉《 、》〈行〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈唯〉《 、》〈一〉《 、》〈の〉《 、》〈奏〉《 、》〈鋼〉《 、》〈調〉《 、》〈律〉《 、》〈師〉《 、》である彼女だけは複雑な条件の最大要因を突破した。  一つ、ゼファーの星辰傾向がミリィの内に深く刷り込まれていたこと。〈且〉《か》つそのためだけに特化し始めていたことが、大きな理由として絡んでくる。  常に身近にいたというのもそうであり、身体を重ねているのも同調に大きく貢献した。  ゆえ、技術という枠を超えた域で二人の波長そのものが本人たちの知らない深部で非常に近くなっている。  想い合うことにより昇華させたと、そう言い換えてもいいだろう。  二つ、次に大きいのが……〈ヴ〉《 、》〈ェ〉《 、》〈ン〉《 、》〈デ〉《 、》〈ッ〉《 、》〈タ〉《 、》〈と〉《 、》〈間〉《 、》〈接〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》〈同〉《 、》〈調〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈経〉《 、》〈験〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。  不可視であるはずの〈星辰体〉《アストラル》。その粒子を実際に一度視認するという〈稀有〉《けう》な機会に遭遇し、その感触を天性の才能で余さずミリィは記憶した。  結果、ヴェンデッタへ通じる波長と〈異能法則〉《ノウハウ》の蓄積に成功する。  三つ、ゼファーの左腕が〈神星鉄〉《オリハルコン》という特殊な発動体であったこと。  四つ、残影とはいえ〈死想恋歌〉《エウリュディケ》を技術的に再現した完成度の高さ。  五つ、すべての結果を見届けるべくミリィが決戦の場についてきたこと。  六つ、まったく同時に〈家族〉《ヴェンデッタ》を思い描いたこと。七つ、思わず踏み出した彼女の一歩で両者の物理的距離が近くなったこと。八つ、相対するルシードがゼファーへ向けた本音とさえも呼応して──  などなど他にも、他にも他にも……  数え切れない複数の理由が複雑に影響し合い、擬似的な同調現象は発動した。  遺して来た家族へ贈る最後のプレゼントだというように、〈逆襲〉《ヴェンデッタ》の刃が再び銀に煌めいてゼファーの内へと宿っていく。  〈死想恋歌〉《エウリュディケ》さえ魅了した少女の健気さが、もはや覆せない勝敗を二人の男へ手渡したのだ。  そのすべて、隠された理由が分かったわけじゃない。だがそこに確たるものを察したのか、ルシードは思わず寂しげに苦笑する。 「……ああ、悔しいなぁ。最後まで。 結局、僕では敵わなかったのか」 「違うさ」  これら複数の理由が重なった一瞬の奇跡はゼファーの奮闘でも、ルシードの落ち度が原因なわけでもない。  兄を信じ続け、ヴェンデッタと心を通わせて。  師から受け継いだものがあり、小さな勇気を抱き続けてきた一人の少女がいたからこその輝きであり──ああ、すなわち。 「おまえに勝ったのは、俺なんかじゃない。  断じて、俺なんかじゃないんだよ」  それを成したのはゼファー・コールレインではなかった。  そうだとも──決して、彼の力ではないのだ。  今までずっと耐え、苦しみながら、大切な者を奪われながら。傷つき涙し絶望して。  それでも、ここまで乗り越えてきた優しい強さ。それを持っていたのはゼファー・コールレインでもルシード・グランセニックでもない。 「誰よりも、何よりも、強かったのは……ミリィなんだよ」  ゆえに今、ここへ万感の思いを込めて。  ただの人間に成りたかった二人の男の戦いは、斬首と共に切ない決着を迎えたのだった。 訪れた結末──そのすべてを割り切れた訳じゃない。 もっと上手くやれていたかもしれないし、別の手段だってあったかもしれないだろう。これから先、きっと後悔は何度も何度もすると思う。 しかし、あの瞬間に存在していた感情は紛れもなく真実のものだった。 これまで過ごしたどんな時間よりも、深く深くルシードという友人と最期に分かり合えたことが、嬉しくて……切なくて……誇らしくて……痛い。 ありがとう、こんな結末でも俺はおまえに会えてよかった。 だからいつか、地獄でまた笑おう……そう心で決別しながら背を向ける。 あいつの苦笑が見えた気がして、思わず〈綻〉《ほころ》んだ口元に頬から雫が流れ落ちた。 「兄さん──」 そして──戦いを終え、待っていたのは小さな少女。 まるで祈るように俺を見守り、そして導いてくれたミリィへとよろめきながら一歩近づく。 「終わったよ、全部」 「……うん、そうだね」 俺とルシードが互いを傷つけ合う光景を目の当たりにし続けるのは、きっと辛かったことだろう。 ほんの少し前まで肩を並べて馬鹿やってた同士が繰り広げた、掛け値なしの殺し合い……見ていて酷でなかったはずがない。 しかし、彼女はいつもと同じであるように、俺が傷を少しでも癒すようにそっと寄り添ってくれる。そして二人で、しばしあいつを想いながら悲しみを共有した。 その時、ふいに── 星辰の燐光が、夜の宙空に浮かんで見えた。それはまるで魂が天へ帰っていくかのようだ。 淡く輝く光がなぜか、この左腕に宿っていた〈残影〉《だれか》の微笑みに思えてしまった。まるでルシードの心を迎えに来てくれたかのように、淡い光が昇っていく。 だから今一度、ここに感謝を口にしよう。 「──ありがとうな、ヴェンデッタ」 俺たちは、これからも生きて行くよ。おまえがくれた大切な家族の思い出と共に。 〈煌〉《きら》めきはしばらく周囲を浮遊していたが、やがて見つめる俺たちの視線からそっと薄れて消えていった。 「行っちゃったね、ヴェティちゃん」 「なに、大したことじゃないさ。つうか、いつかまたひょっこり顔見せるんじゃねえのか?」 「そうだね。信じるくらいは、きっと……」 〈頷〉《うなず》くミリィに俺も微笑む。そうさ、きっとあいつはいつだって俺たちの傍にいると信じられる。なにせ家族なのだから。 たった一人の肉親すらも失って、天涯孤独だと思っていた時期もあったが今は違う。誰とだって家族になれる。それは、血が〈繋〉《つな》がってるとかそういうことじゃない。 大事なのは、想い合うこと……だってそうだろう?俺たち三人は元々他人で、それどころか出会う運命ですらなかったのにあの優しい時間は確かに存在してくれていた。 暖かく穏やかなあの家での記憶を、一生忘れるはずがない。 その感慨を抱きながら、顔を見合わせて微笑むその時…… 「──まあ、そう来るか」 などと浸っている間さえ許してくれはしないようで、軍の兵士たちがズラズラとやって来る。 ああ、そっか。一応、所属としては反動勢力側についていたんだったな。表側の理由としても捕縛するには十分か。 んで、そんな奴が街中の共同墓地で大騒ぎとくれば、まあこうなる。 「動くな、逆賊ゼファー・コールレイン!」 「反動勢力の残党としてこれより貴様を捕縛する。抵抗しても為にならんぞ、大人しく投降すれば命だけは──」 「さてさて、これで晴れてのお尋ね者か……ごめんな、ミリィ」 「ううん、いいの。そんなこと、むしろドンと来いなのです」 「兄さんと一緒なら、どこだってわたしは笑顔でいられるから、ね」 そう言ってくれるなら俺はまさに千人力だ。恐いものなどあるものか、というわけで── 「じゃあ、行くか──しっかり掴まっているんだぞッ!」 「うんっ!」 言い放つと同時、俺はミリィを抱えて居並ぶ軍人たちを飛び越えた。 「な、あッ──」 「目標逃走! 追え、逃がすなッ」 耳を貸すことなく、はいジャンプ。戦いの痕跡が残る墓地を抜け、大きな通りに差し掛かり、そしてそれさえ一直線に疾走する。 「うわぁぁ──」 月と、そして〈第二太陽〉《アマテラス》の照らす景色が流れて消えていく。 不謹慎かもしれないが幻想的な光景だった。愛しい少女を抱えての逃避行と合わせれば、なるほど確かにこれは中々…… 「ランデブーと言うには、ちょっとマニアックだがな」 「ううん、すっごく楽しいよ。兄さんとこういうことされるのだって、初めてだし」 まあ、そうだろうな。なかなかお姫様抱っこなんてする機会はなかったし。 どこか期待している様子を抑えきれないでいるミリィに、俺は悪戯っぽく訊いてみる。 「リクエストは、何かあるか?」 「じゃあ、もっと速く!」 年頃の女の子らしいその要求に、少しだけ速度を上げる。嬉しそうに声を上げるミリィには勿論のこと、雑な振動なんて加えない。 跳躍からの急降下に、耳元を風が唸りを上げて通り過ぎる。まるで鳥になったかのような気分で駅舎へ向かい駆け抜けていく。 そうしてしばらく疾走した後、流れる髪を抑えながらミリィが言ってきた。 「少しだけ恥ずかしいね、こんな格好――なんだか、お姫様になったみたい」 「ってことは俺が〈騎士〉《ナイト》か。〈僭越〉《せんえつ》だねえ」 いやはや、まったくガラじゃない。 あれだけの罪を犯し、仲間を失い、〈友人〉《ダチ》も斬って……さらに今もすべてを捨てて国からおさらばという始末だ。 まあそれでも守らせてくれるのならば、何と喜ばしいことだろう。頬を赤らめたミリィを微笑ましく見詰めながら、俺はどこまでも駆けていく。 少し速度を緩めて、建物の明かりが幻想的に浮かぶ帝都の街並みを眺めた。 そして記憶に焼き付ける、ここで生きた二人の時間を決して忘れないように。思うからこそ愛おしくて同時に切ない。 「なんだか、全部が夢みたい。ここに至る思い出とか、道のりとか、出会って別れた人たちとか……」 「初めて会った頃には想像できなかったな、本当に」 それは、今となってはもう大分昔のことにすら感じられる。 出会って、互いにすべてを失って、一緒に暮らすようになって…… 「そう言えば、昔は俺のことお兄ちゃんって呼んでくれてたよな」 「もう……あんまりそういうの、言わないで欲しいなぁ。恥ずかしい」 ふと思い出し、軽くからかうように言ってみれば微笑みを絶やさず少し拗ねたような横顔を見せるミリィ。 軽くその頭を撫でて、街の風景を記憶に残しているうちに騒々しい連中の声は聞こえなくなった。ここまで引き離してしまえば、もう追いつかれることもないだろう。 そして──腕の中で穏やかな表情を浮かべるミリィに告げる。 「もう一度、言わせてくれ。俺はずっとミリィ、君の隣にいる」 「隠していたこともあったし、その優しさが辛い時もあったけど……俺はもうこの手だけは離さない」 「生きていこう、二人で。君を誰より愛している」 それは、幸せを掴むための宣誓。望むなら、騎士にだってなってやろう。実はやれば出来る男なんだと、信じてくれている限り必ずそう在り続けるさ。 ミリィは微笑み〈頷〉《うなず》いた。それは昔から変わらずある、とても優しい感情だった。 「わたしもそうだよ。これから先もずっとずっと、二人で一緒に居続けたい」 「どこか落ち着くところへ〈辿〉《たど》り着いたら、お仕事見つけて、働いて……そしていつか、家族が増えたらいいなって思ってるし願っている」 「幸せに、してくれますか?」 ああ、もちろんだ。三人で一緒に暮らしていた時のような暖かな時間、それこそ俺は大切な君と築いていきたいんだ。 やがて互いに照れてしまい、見詰め合ったまま微笑む。 未来は厳しく険しいが、この子となら何だって大丈夫だ。 この胸にある、小さな温もりだけがきっと──そう。 只人であるゼファー・コールレインにとって、最高の真実なのだから。  生きていく上で、人は傷つくこともある。  理不尽な不幸が訪れ、大切なものを失うこともある。  時にそのまま立ち上がれず、ぽきりと折れてしまうことも。  けれど、それは悪いことばかりじゃない。どれだけ傷ついて明けない夜が訪れても、また笑える日はきっといつか訪れるから。  その時にちょっとだけ勇気を出して立ち上がれれば、それでいい。  御伽話の英雄みたいに負けない人間じゃなくたっていいだろう。わたし達は皆、誰かと手を〈繋〉《つな》いで、明日へと歩いていけると。  ミリアルテ・ブランシェは、今も強くそう感じながら生きている。  アドラー帝国から出奔して、数年の時が過ぎた。  窓の外から差し込む日差しを見て、今日の始まりを甘受しながら訪れた平穏な日々を噛み締める。  ここは商業連合に加盟している小さな帝国から南西にある一国家。わたし達はあれから、元セント・ローマ領を抜けた先……アンタルヤ商業連合国家に亡命していた。  元々、移民の多いお国柄である商国は身を紛れ込ませることも容易で、帝国を後にしてから何事もなく国境を超えられた。  アドラーから当然手配書は回っているはずだったが、それを握り潰してくれたのは生前のルシードさんが最後に行った根回しによるものだったらしい。  保有していた莫大な財産で、他十氏族の息がかかっていない商国政府の有力者を買収してもしもの時、わたし達を受け入れるように厳命したと後で知った時には驚いた。  こうなることを、どこかで予感していたのだろうか? 今となってはもう知る〈術〉《すべ》はないけれど、時々そんなことを思う。  感謝の言葉をもう伝えられないことが、心を締め付ける時もあるけれど……  その痛みと、残してくれた優しさを噛み締めながら、わたし達は毎日生きている。  あの人は間違いなく兄さんの親友であり、自分にとっても、失った家族にとっても、大切な人であったのだ。  だから今は、ただ自然に在るがままに。  当たり前に生きて死のうと口にした、兄の誓いと共に。  新しく生まれた宝物について、今日もお話ししたいことがたくさんあるの。  穏やかな毎日の中にも新たな発見はたくさんあり、そのどれもを最愛の男性と分かち合いたいと思うから。  ──兄さん、と口の中で小さく〈呟〉《つぶや》いた、その時に。 「よっと、ただいま」 帰宅してドアを開いたそこには、愛おしそうに赤ん坊を抱いているミリィの姿があった。 仕事を終えてきた後の疲れがそれだけで消し飛んでいくようだ。暖かい感情が、静かに心を満たしていく。 「お帰りなさい、〈お〉《 、》〈父〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》」 そう、俺たちの新しい家族。商国に転がり込んできて一年、授かった赤ん坊を胸に抱くミリィを俺はそっと抱きよせる。 視線の先にいる我が子はぐっすりと心地よさそうに眠っていた。母親の腕を揺り籠に、きっと幸せな夢を見ているのだろう。 「今、ちょうど寝ついたところ。おっぱい飲んだら、お腹いっぱいになっちゃったみたい」 「さっきまで起きて、パパが帰ってくるのを待ってたのにねー?」 と、まあ食っちゃ寝とはなかなかいいご身分である。 そういうところは俺に似てるのかと不安になるが……いや、赤ん坊だからいいのかねぇ。似るならママに似てほしい。 微笑を浮かべるミリィはすっかり母親の雰囲気を漂わせており、見ているだけでこちらの心まで暖かくなってしまう。 「いやはや毎日お疲れさん。大変だよな、育児って」 「泣くわ、騒ぐわ、喚き散らすわ……こんなの親はいつ休めっつうんだよ。不眠症患うぞマジで」 「しかもなんか、微妙に懐いてくれねえし……」 あれか? 汗臭いのが悪いのだろうか? 身体能力を生かして工事現場なり遺失物の操作なりと、肉体労働が主だからしょうがないことではあるが…… 仕事帰りの袖をくんくんと臭うが、体力は当然一般人より余程あるため特に汗はかいていない。まさか性根を見抜かれたかというのなら、親としては悲しいものだ。とほほである。 「ふふ、そうかなぁ。わたしにはいい子にしてくれてるよ?」 「そりゃな、こんな美人の母親だったら言うことも聞くだろうよ。零歳児にして面食いとか、誰に似たんだよ、なぁおまえ。うりうり」 「もう、そういうことをやってるから懐かれないんじゃないのかなぁ」 赤ん坊に指先でちょっかいを出す俺を見て、言葉とは裏腹にミリィは穏やかな表情を浮かべる。 それが、あんまりにも嬉しそうだったから……俺の頬もつられて緩んだ。 産休で〈鉄機手芸技師〉《エンジニア》の仕事を今は止めているミリィだが、新しい子育てという仕事も満足なようで何よりだ。 「で、何か手伝うことはあるか? あれ取ってとか、これ片付けてとか」 「大丈夫だよ。わたしもだいぶ、動けるようになってきたし。心配してくれてありがとうね」 「兄さんもお仕事から帰ってきたばかりだから、そのままゆっくりしていてちょうだい。ねえ、パパさん」 「了解、ママさん」 ……そんな幸福な光景を眺めながら、俺は赤ん坊がこの世に生を受けた日のことを思い出す。 我が子と初めて対面を果たした時に流れたミリィの涙は、これまで見てきた彼女の中で一番美しいと思わせるものだった。俺もまた同様に、みっともなく彼女の手を握り泣いていた。 親になって、心からの喜びというものを知ったことが本当に嬉しい。だからこそ自分の罪を改めて自覚するが、その想いはこの子を立派に育てることで清算しよう。 彼女と我が子に、いつも笑顔でいて欲しい……そのためならば何だってやってみせと、理屈を超えたところでそう思えた。 あやし、眠り、ミリィと共に成長を見つめる時間。確かに存在している幸福は、いつまででも続いて欲しいと願う、小さな最高の宝物だ。 「……いいよね、こういう時間って」 「暖かくて、穏やかで……この子と兄さんがいてくれるだけで、とても幸せだって感じるの」 愛おしい彼女の言葉に、俺はそっと頭を抱き寄せる。 本当に、本当に、この一秒さえもかけがえのない瞬間だと思うから。想いをこめて、誰より大切な家族へと唇を落とす。 「ん……」 そっと寄り添って、軽く重ね合わせるような口付け。 一瞬の後──ミリィは頬を染めながら、俺を見上げてきた。 母として、女性として、俺を救い上げてくれた希望として。何ものにも代えられない宝物と共に手に入れた今を抱きしめる。 「愛しています、兄さん」 そして瞳を閉じ、再び軽く唇を交わした。 互いにずっと求めていた、家族との暖かく穏やかな時間……それは今、確かにここで小さく優しく輝いていた。 そして〈勿論〉《もちろん》、これが終着点なんかじゃない。赤ん坊は成長して、俺たちも年を取って、日々新しい喜びを育みながら家族の人生は続いていくんだ。 その優しい時間を描きながら……手にした幸せに包まれて、優しく微笑み合うのだった。 俺たちは、ただの人間でいい。 ただの人間であるからこそ、人は幸せになれるのだから。